牧師の週報コラム

 私の礼拝説教の作り方

この夏フィンランドのカルックで開催されたSLEYの研修大会でのこと、夕べのサウナの時間、牧師や神学者たちとサウナに入って湖でひと泳ぎしてはまたサウナを繰り返して桟橋で一息ついていた時、一人の神学者が私に聞いた。「君は礼拝説教を作る時、何の注釈書を使うのか?」 「何も使わないよ、原語の聖書(つまりギリシャ語、ヘブライ語、アラム語)で十分だよ」と答えると、周りにいた者がホォという感じでこっちを見たので、発言を少し注釈して聞かせた。

もちろん注釈書は大学の研究員をしていた時は使った。それが仕事だったから。基本中の基本は、英語の Anchor Bible と Word Biblical Commentary、ドイツ語は Herder と Evangelisch-katholischer Kommentar の4つ。それらをもとに他のものへと幅を広げていったわけだが、どれも議論がちゃんと組み立てられているかどうかと懐疑的・批判的な目で見たので、注釈書はどれもケチをつけるためのものになってしまった。それで説教を作る時にはあまり使う気がしなくなってしまった。ならば直接原語の聖書にあたって自分の目で見た方が話が早い。

原語の聖書にあたる際、いつも日本では何が問題かということを意識して、その問題解決を翻訳でなく原語の聖書に見つけるというスタンスを取っていると思っている。例えば、死者にお伺いを立てたりコミュニケーションを取ろうとする日本的霊性には復活の信仰を対峙させる、この世の不条理に対しては人間を相手にした正しさ(正義)と神を相手にした正しさ(神の義)という視点でどう乗り越えられるかを考える等々。日本語の聖書でも解決は見つかると思うが、日本語の感性に流されないためには聖書を何度も何度も読み通す必要がある。私は、原語で一回根気よく読んだら、翻訳の10回分になるのではないかと思っている。(ただし、原語で読むと言っても解説書に頼るのは苦労を他人にさせることになりダメ。あくまで文法書と辞書を使って自分で格闘しないと。ないしは日本語で10回以上読み通さないと。)

忘れてはならないことは、原語で読んでも直ぐ解決を得られないことが多いということだ。一つの単語に沢山の意味がある、どれを選ぶか?この語はどこにかかるか?この形は統語論的にどう説明できるか?等々。一つ違えば意味も大きく違ってくる。そこで、ルター派の私はそういう分岐点に差し掛かった時はルター派の教義を道しるべにしている。信仰義認、律法と福音の関係、信仰と理性の関係等々の争点でルター派の基軸から外れないように歩を進める。そう言うと、なんだ結局は正統主義に流れているだけじゃないかと言われてしまうが、実はそうなのである。使徒的伝統に立つことをモットーとしているのでそれでいいと思っている(※)。ただ私の問題は、「一致信条集」をきちんと学んでいないこと。そこは、ヘルシンキ在住の神学者・高木賢氏がフォローしていて毎週私の説教を見てコメントしてくれる。彼は聖書を原語で何度も読み通す強者で、一致信条集もラテン語とドイツ語で読みこなすまさにウォーキング・ルーセランなのだ。

(※ 使徒的伝統に立つとはどういうことかについては週報コラムの10月4日号を参照のこと。)

 

新規の投稿