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アウグスブルグ信仰告白16条のキリスト信仰者が「正しい戦争に従事することは正当である」を考える(フィンランドの視点を交えて)
昨年末から礼拝後のコーヒータイムの終わりに「一回一条15分のアウグスブルグ信仰告白の学び」を不定期でしたが行ってきました。今日は16条です。その中にキリスト信仰者が「正しい戦争に従事することは正当である」という下りがあり、読む人聞く人に様々な思いを抱かせる個所ではないかと思います。これをどう理解するか、少しでも秩序だって考える一助になればと思い、私なりにまとめたものを学びの時に配布します。それに沿って学びを進めて行こうと思います。
アウグスブルグ信仰告白はキリスト教ルター派の教義にとって最も重要な信条の一つで1530年に起草されました。同信仰告白は古代のキリスト教信条(古典信条)とアウグスブルグ以後の教義文書も併せて「一致信条書」という名で1580年に出版されました。ルター派の教義の集大成です。日本ではその全部の翻訳が1982年に日本福音ルーテル教会によって出版されました。
ところが、出版後に誤訳や訳語の不統一が指摘され、翻訳は批判に晒されるようになり、正誤表を作らなければならない事態となりました。そこで教会は、後に日本ルーテル神学校の教授を務めることになる鈴木浩牧師に正誤表作成のため翻訳の見直しを委嘱、アウグスブルグ信仰告白は彼が見直しを担当した文書の一つでした。鈴木牧師が特に関心を持ったのがこの16条で、その”正確な理解に資するために”として論文 ― 「正しい戦争」と「法に従って戦う」『一致信条書』CA16条の“iure”の訳語の問題 ― を発表しました(日本での翻訳出版にまつわる上記の出来事も同論文の記述に基づいています。CAとはアウグスブルグ信仰告白Confessio Augustanaのこと)。
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以下は吉村がまとめて「学び」の時に配布したもの。その後で、「学び」の時の質疑応答の一部を紹介します。質疑応答を踏まえ配布したものを少し修正しました。
1.鈴木論文 「正しい戦争に従事する」iure bellareの意味
1)鈴木論文では、ラテン語版の緻密な歴史言語学的分析に加えて、アウグスブルグ信仰告白の弁証の16条および双方のドイツ語版の16条と比較しながら考察されてている。
iureの意味は「法に従って(よって、基づいて)」(iusの奪格)、bellareは動詞「戦う」である。
2)そうすると、iure bellareは「法に従って(よって、基づいて)戦う」と訳すべきであるが、鈴木氏によれば、「法に従って」の「法」は、実定法のことではなっく、もっと広い意味の法であり、「正義に従って」とも訳しえる。当時の人々はこれを具体的な「国際法」とか「戦時法」に従うというような法律論の問題として考えなかった。彼らは、戦争を行うことが「信仰的に見て」正当かどうかという神学的な問題で考えた。従って、ここの背景にあるのは戦争の神学的正当性を論じた「正戦論」である。
3)「正しい戦争」という観念を神学的に正当化し、後世に影響力を与える仕方で定式化したのはアウグスティヌス。それを更に体系化し、ほとんど自明のものとしたのは、トマス・アクィナス。宗教改革者たちも基本的にはその線に立っていた。
4)従って、「正しい戦争に従事する」は適切な訳語である。
5)同論文を読んで吉村が考えたことは、iure bellareを「法に従って/によって/に基づいて/正義に従って戦争に従事する」と訳すべきと言いながら、「正しい戦争に従事する」でよいとするのは、「法に従って戦う」も「正しい戦争に従事する」も同義だということになる。果たしてそうだろうか?ここで、参考までにフィンランド語訳を見ると、「正当な(oikeutettu)戦争に従事する」と言っていて、「正しい(oikea)戦争」とは言っていない。oikeutettuは「正当防衛」oikeutettu puolustusの「正当な」である。吉村の印象では、「正当な」と言ったら、限定的・条件付き「正しさ」となるが、ただ「正しい」と言ったら、何かタガが外れた感じにならないだろうか?
2.アウグスブルグ信仰告白16条のフィンランド語訳
そこで、参考までに16条全文のフィンランド語訳の和訳(吉村)を以下に掲げる。
16条 社会的生活について
※「帝国レベルの法律」とは、ルターの時代の神聖ローマ帝国レベルの法律のこと
3.アウグスブルグ信仰告白16条の構成(訳はフィンランド語に倣う)
1)iure bellareの意味を考える時、鈴木論文のようにその言葉に特化して、言語学的、神学的背景を明らかにして意味を確定することも大事だが、この言葉が16条のコンテクストの中でどんな位置づけにあるのかを明らかにして確定することも大事だと考える。16条のコンテクストを明らかにするために、その構成を見ると以下のようになる。
① 合法的な社会的秩序は神のよいみわざである(上記1)。
② キリスト信仰者が(上記2で言われている10項目の社会的事柄と務めを)することは許される(ラテン語スウェーデン語の辞書によれば「ふわわしいことである」)。
③ 社会的な務めを禁じる諸派を拒否する(上記3、4)。
④ それらの諸派を否定する根拠として、
2)この構成からわかること
・「合法的な社会秩序は神のみわざ」なので、権力に従わなければならない。しかし、権力が罪を犯すことを命じた場合は従わなくてもよい。つまり、そのような社会秩序は合法的でも神のみわざでもない。
・キリスト信仰者が正当な戦争に従事することは、他の社会的事柄・務めと同様に、それを命じる権力が合法的で神のみわざである場合になる。
・パウロはローマ13章で権力に従うように命じた。権力は神によってたてられたものと言っている。当時その権力はキリスト教ではない。しかし、パウロがそう言うのは、権力がキリスト教徒が信仰の実践と礼拝を公けに行うことを一応認めているから。それでパウロの権力服従論は、消極的な服従であると言える。しかし、信仰の実践と礼拝が禁じられれば、信仰者は人よりも神に従うこととなる。その時の権威は合法的でも神のみわざでもなくなる。
・パウロの時代のキリスト教は、公認宗教religio licitaであったユダヤ教の一部と見なされていた(使徒言行録を参照)。ところが、成長を遂げるにつれ当局に警戒され、やがて迫害される。
・その後キリスト教は迫害時代の後、313年に公認され、信仰の実践と礼拝を公けに行っても権力との関係で問題がなくなった。ところが380年に国教になり、他の宗教は禁止されるというくらいの支配的な宗教となった。こうなると権力服従論は消極的なものから積極的なものに変るのではないだろうか。なぜなら、権力そのものがキリスト教だから。
・2で挙げられている社会的な事柄と務めは16世紀のものである。21世紀は内容が異なるであろう。例えば、「帝国レベルの法律」は現代では憲法と言い換えてもよいだろう。「合法的な社会の秩序」も現代では民主主義と基本的人権を実効的なものにする秩序と言い換えてよいだろう。しかし、内容が現代化したとは言っても、重要なことは次の三つの原則は変わらないということ、①キリスト信仰者にとって「合法的な社会の秩序
は神のよいみわざであること、②信仰者はそのような社会において社会的な事柄と務めに就くことは当然であること、③権力が罪を犯すこと、つまり神の意思に反することを命じる場合はキリスト信仰者は人ではなく神に従うこと。
・現代において「正当な戦争に従事する」ことは当時ほど自明なことではなくなって、大いに議論をしなければならないことになったのではないだろうか?というのは、1928年のパリ不戦条約は国の政策としての戦争を禁じた。つまり、それ以前は戦争は国の政策の一つとして考えられていたのが、それが当たり前ではなくなった。しかし、自衛のための戦争は認められるというのが国際法の現実である。現代では戦争をする国は、常識や良識からそう見えなくても、みな自衛だと主張する。
・アウグスブルグ信仰告白16条の「正当な戦争に従事する」は現代では、①命じる権力が神のみわざと言える位の「合法的な社会の秩序
の実現者であるかどうか、②その戦争がそうした社会の秩序を守る自衛のものかどうか、この二つを明確にすることを求めているのではないだろうか?
4.質疑応答から
(吉村)フィンランドで何人かの牧師に「正当な戦争に従事する」について質したところ、答えは一様に「権力esivaltaが命じることだから従う」であった。フィンランドで牧師に限らずキリスト信仰者は皆同じ答えをすると思う。
(質問者)フィンランドの軍隊は国防の軍隊で他国を侵略することはないと思うが※、それでも軍隊が国民に何か特定の信条を押し付ける力の象徴のようになる危険はないのか。
(吉村)確かにフィンランドには国教会があるが、実はここ30年位、国民の聖書離れ教会離れが急速に進み、1980年代までは国民の90%以上が国教会に所属していたのが、現在は60%すれすれである。国教会とは言っても、別に所属していなくても国民の法律上の地位や権利義務には何の影響もない(近年では国教会に所属しない人も大統領になったことがある)※※。軍隊がキリスト教を押し付ける力の組織とはとても考えにくい。ところで、はっきりした信仰を持つ国民は、ルター派の信仰から正当な戦争に従事するのは当然と考えるが、キリスト教をやめた国民は違う考えを持つかもしれない。その点をフィンランド人はどう思うか。(学びの会には3人の日本語を解するフィンランド人が参加、質問を彼らに向けたところ)
(3人のフィンランド人、声をあわせて日本語で)(戦争に)行きますよ。だって、義務ですから。
(吉村)ルター派の信仰がなくても戦争に従事するのは当然と考えるのは、どうしてだろうか?やはり国が民主主義や人権や社会福祉の指標で世界のトップレベルにあることと無縁ではないということなのか?他に何か考えられるだろうか?