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ルカによる福音書4章1〜13節「誘惑の歩みにある主の助け」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
3章では、福音書記者であるルカが、歴史的事実や系図、そして当時の優れた預言者であった洗礼者ヨハネの証言を通して「イエスは本当の救い主である」と伝えているということを見てきました。今日の箇所はその後、イエス様が荒野へ導かれ受けられた「悪魔の誘惑」の箇所です。
3章ではイエス様が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、御霊が鳩のようにくだり、天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という声があったとありましたが、4章1節は、その下った「御霊に満ちて」という言葉から始まります。
「1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、」
聖霊に満ちたイエス様は、「霊」に引き回され「荒れ野」にいました。「霊に引き回され」とある言葉は新改訳聖書では「御霊に導かれ」とも訳されています。そして、2節ですが、
「2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 」
と続いています。聖霊に満たされたイエス様は霊、あるいは御霊によって「荒れ野」を引き回され、あるいは「導かれて」そして「悪魔の誘惑」に会われたのでした。
2、「荒れ野」
皆さんはこのことをどう思うでしょうか?私たちも同じように、洗礼を受け、聖霊が与えられ、みことばとそこに働く聖霊によって導かれて歩んでいる私たちです。しかしある人にとってはここはこう思うかもしれません。それは、聖霊に満たされているのに、それなのに、聖霊なる神、助け主に満たされ導かれるのが荒れ野なのか?そしてそこに悪魔の誘惑があるのはどういうことか?と。つまり「聖霊に満たされ導かれるのだから、良いことでなければ、神、聖書は、おかしいじゃないか?何で悪いことへ導くのだ」と。
A,「聖徒であり同時に罪人」
しかしこの聖書の箇所は私たちに一つの大事な事実を教えてくれています。それは、私たちはみ言葉の通り、信じて洗礼によって救われました。聖霊が与えられました。新しいいのちを与えられました。しかし、私たちに与えられた信仰の新しい歩みは、苦しみも罪もない天国に来た訳ではなく、「この地上に」尚も生きる信仰の歩みでもあるのです。そして、その地上にある「この世」は、聖書にある通り「罪の世」です。つまり悪魔の誘惑の力がまだ働いている世でもあり、罪の奴隷にある世です。私たちは確かに「神の前」にあっては、イエス様の十字架と復活のゆえ、私たちの義ではなくイエス様の義のゆえに、それを信じ受け入れる私たちの罪は見られません。それは私たちたちの義ではなく、イエス様の義のゆえに信仰によって私たちも義と認められていて、そして聖霊によって新しく生かされている者ではあるのです。しかし「同時に」、まだ尚も、この罪の世に生きる者でもあり、私達自身、一人一人誰も例外なく、つまり私自身も、肉にあっては、尚も同時に罪人でもあるのも事実です。今日、悔い改めても、私たちは罪を全く犯さない完全な人間になったのではなく、直ぐに行いにおいても心においても、罪を犯してしまう者です。キリストにあって信仰が与えられて霊にあって新しくても、同時に肉にあっては尚も、私たちは、もちろん私自身も自分勝手で、むしろ、肉の性質は、神と神のみことばを信じないで退けよう、背を向けようとする、まさに同時に罪人のままの私たちでもあります。それはルターも教える通りです。彼は教えました。私達は、キリストのゆえに霊にあって「神の前にあっては聖徒であっても、同時に罪人である」と。ですから、クリスチャンである私たちのこの罪の世、地上での歩みは、尚もその悪魔、誘惑との戦いに日々、生きる歩みなのです。だからこそ、主イエス様は主の祈りを私たちに与えて下さっているでしょう。「私たちの罪をお赦し下さい〜私たちを試みに会わせず悪より救いたまえ」と祈るのです。
B,「荒れ野のキリスト者は、誘惑との戦い」
もちろん、救いの道は、必ず勝利の道でもあります。聖霊とみことばは私たちを最後には天国、そして新しい天と新しい地へと導く最強の力です。しかしこの罪の世は、まだ過ぎ去っておりません。尚も絶えず強く私たち一人一人を誘惑してくる事実はあるでしょう。私たちはそこで証しと愛に召され生かされている者ではあるのですが、この世にあって肉にあっては本当に罪に対して悪に対して、そして悪魔に対して弱い存在で、尚も罪深い日々です。ですから、聖霊による新しい道、私たちクリスチャンの道は、やはり、今日の箇所のイエス様のように日々、荒野なのです。日々、誘惑との戦いの道なのです。むしろそれは、救われる前より厳しい闘いになるでしょう。なぜなら私たちに与えられている聖霊は聖なる方ですから私たちを増々、罪に敏感にするからです。だからこそ、聖霊の導く道は、ここにあるような荒野、悪魔との戦い、罪との戦いの道なのです。イエス様も「あなたがたは世にあっては艱難があります」(ヨハネ16:33)とも言っているでしょう。日々、誘惑です。その誘惑は、ただ行いの罪を犯させようとするだけでなく、心の中の罪の思いも誘惑です。そして、何よりの誘惑は、イエス様こそが完全な私たちの救い主であるということを、私たちが信じないように、あるいは、洗礼や聖餐の福音の力を疑わせて、信仰の確信、救いの確信を奪い、イエス・キリストの恵みよりも、他の目にみえる目先のことや、他の人の行いや力、あるいは自分や自分の行い、名誉、プライドのほうが、救いのための力、光であるかのように思わせて、イエス様とそのみことばを捨てさせようとすることこそ、最大の誘惑です。そして捨てさせて、悔い改めのない歩みをさせ、ついには私たちを滅ぼすこと、永遠の死に堕とすことが、悪魔の最大の目的です。そのために働いてきます。私たちはイエス様と同じように、その荒野に導かれているのです。イエス様のように、日々、誘惑との戦いなのです。
けれども恐れることはありません。今日のこのイエス様の受ける荒野の誘惑とそれに対するイエス様の姿はそんな私たちに、何のためにキリストは世に来られ、聖霊が私たちにも与えられ、その聖霊が私たちを導いているのかを証しし、そして、いかにしてイエス様は誘惑を退けるのかを私たちに示し教えてくれているのです。その事実が、この誘惑とイエス様にはよく現れているでしょう。まず悪魔はどのように誘惑するでしょうか。三つの誘惑が書かれています。
3、「悪魔の三つの誘惑」
一つ目は、3節
「3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」」
第二の誘惑は、6〜7節。
「6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 」
第三の誘惑は、9〜11節です。
「9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
これが悪魔のイエス様への三つの誘惑でした。この三つの誘惑を見る時に、悪魔の誘惑の一つの特徴が分ると思います。
A,「悪魔の巧妙さ」
それは、私たちが悪の苦しみというとイメージする迫害とか肉体の痛みとか以上に、つまり目に見えて明らかな悪いものではなくて、むしろ、誘惑なのですから、人間の欲求・欲望をかき立て魅了する、魅力的な良いものを餌にしているということがわかると思います。私たちは悪魔の攻撃と言うと、迫害とかを連想するです。もちろん、迫害も妨げなのですが、しかし、ここにあるように、むしろ人が騙されやすい、誘惑に負けやすいのは、あのアダムとエバの罪の初めで、人にとって甘く美味しそうな実にこそ彼らは心奪われたように、まさに、人間のそのような罪の性質の根っこ、罪深く自己中心な願望こそを悪魔はみごとについてきているといえるでしょう。創世記三章のアダムとエバの堕落の所です。創世記の3章5節。そこでエバはサタンの「あなたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪の知識をしるようになることを神は知っているのです」(5節)というその誘惑のことばにこそ魅了されます。そしてエバはその誘惑の言葉を聞き「その木はまことに食べるの良く、目に慕わしく、賢くすると言うその木はいかにも好ましかった」(6節)と彼女の誘われる心を描いているでしょう。そのように彼らはその誘惑に負け神のみことばを退け、食べてはいけないと言われた木の実を食べるのです。今の世の中でも、実に沢山の詐欺事件が伝えられていますが、その手口のどれを見てみても、はじめは「美味い話」あるいは「利益・財産の話」から始まって、騙される人は引き込まれていきます。また多くのカルト信仰も溢れていますね。そのカルトにも多くの人が集まってきますが、そのカルト入信のきっかけも、やはり「美味い話」であったり、その人々の一時の不安解消やご利益をみごと刺激するようにして入信する人を魅了するのです。さらには広告メールや迷惑メールも、そのタイトルは、人々が開きたい、読んでみたいような、まず人の気をひく「美味い話」「利益の話」のタイトルが踊っています。誘惑とはそのようなものです。
1)「石をパンに」
悪魔の誘惑もそうです。一つ目の誘惑を見てください。それは石をパンにするということです。パンは物質的な豊かさを示しています。そしてイエス様は確かに神の子ですから石をパンに変えることは出来るのです。もしその辺りの無数の石をパンに、つまり溢れるばかりの豊かさに変えることが出来るなら、なんと幸いでしょうか。毎日、食べるに困りません。そればかりでなく、有り余るほどのパン、食べ物を、人に配ることができます。そうすると、人からありがたいと賞賛され、尊敬される存在、人気者にもなれます。支配者にもなれるでしょう。これまでの世の統治者は、この力が得られるなら、直ぐにでも飛びついて得たい力と誘惑となるものでしょう。この直ぐにでも見たい手にしたい眼にみえる物質的な豊かさや数の多さ、大きさは、教会にとっても誘惑になります。石を豊かさ、富に変える。それは教会でも、その力があるなら、ぜひ、人を沢山、お金、富を沢山、集めるために、数を伸ばすために、人を惹きつけるためには、魅力的な材料であり、欲しい力であると見る人もいるかもしれません。
2)繁栄を全てあなたに
第二の誘惑はどうでしょうか?悪魔は、世界の国々を全部見せました。ローマ皇帝のもの凄い繁栄と富を見せられただけでなく、悪魔は過去のこれまでの文明の繁栄、そして未来の、現代のこの繁栄や豊かさも見せたのかもしれません。その全て、その権力、栄光、繁栄が全て自分のものとなる。力と誉れが自分のものになる。それはどの国の支配者も、いかなる軍事力を駆使してでも奪い取りたい特権に映るものでしょう。エバを誘惑した「神のようになれる」というサタンの誘惑のまさに最たるものともいえます。教会も例外ではありませんね。世界の福音派のある人々は、まさに繁栄の神学の虜になり、地上の人間的な繁栄を約束し希望とするような都合の良い間違った福音、間違った偽りの光や愛で、人々を律法的に、マンパワーや理性や人間の直感や感情や欲求により頼むように、導いています。その中でもある熱狂的な教会やカリスマ牧師の教会は、教会が人の数やお金の数字の上で大きくならない、成長しないのは、信徒であるあなた方が熱心でないから、一生懸命でないからダメなんだと、教会や宣教や伝道を律法にして脅すように駆り立てますし、逆に信徒がそのような価値観であると、み言葉に誠実に仕え伝えている牧師に対してさえ、牧師が熱心ではないからだ、”営業努力”が足りないからだ(彼らはよくそんな牧師に「もっと「成功したビジネスマンの本」を読め」といいます)、能力、魅力がないからだと責め立てます。そのようなマンパワーで導くことは確かに数的には多くの人を集め、メガチャーチにまでもなります。それは、人の目には成功しているように見え、多くのクリスチャンはこれが成功した宣教・伝道だと決めつけてしまう、そのように更に間違った宣教、教会へと逸れていっているという深刻な現実がありますね。悪魔の誘惑はまさにキリストの姿をしてやってくる偽キリストであり、実に巧妙です。
3、「神を試みる:自分の思いの通りに神はするだろう」
そして三つの誘惑。神を試みること、試すこと。つまり、神を人間の都合の良い解釈や想いのままに試す。これは「神が人を」ではなく、「人が神を」支配する誘惑です。それは先の繁栄の神学やリベラルや現代の流行の神学の共通の傾向ですが、人の思いのままに神を動かしたい、神に働いてほしい、神はそうするに違いないと決めつける、そのような誘惑です。これもまた誰にでも起こりうる誘惑ですね。私達は神の恵み、神のみ言葉や約束をその通りですと信じる信仰なのに、しかし私達の罪の性質は、神中心ではなく、自分中心に、自分の願うまま、思いのまま、期待するように、神がしてくれるだろうと思ってしまいます。そして自分の願う通り、思っていた通りにならないと、今度は、神がおかしい、神が矛盾している、間違っていると、神や神のことばを否定したり、呪ったり、批判したりします。これも、誰でも陥りやすいことで、クリスチャンであっても、もちろん私自身もしてしまいやすいことです。このように、サタンは人にとって「美味そうな人参」をぶら下げて誘惑して来るのです。いや、ひょっとしたら、誘惑されている、あるいは逸れてしまっていることさえも分らないということもあるくらいに、悪魔の誘惑は巧妙である恐ろしいものであるのです。
イエス様ご自身が言っています。「偽預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼である」と(マタイ7:15)。パウロも、第二テモテ4章2節以下で、教会が、自分たちに都合のいい空想話に逸れていき、そのような偽りの説教者を集めるような時代が来ると、預言的に警告しましたが、今まさにそのパウロの警告のようなことが教会では起きています。自分が語ってほしい甘い言葉を語らないと牧師を批判したり、律法を語ると罪や悔い改めを語るなと言い出したりして牧師を退けたり、そして自分に都合のいいことを言ってくれる説教者や牧師やメッセンジャーばかり求めたり集めたりするようなことは、実際に教会で起こっていることです。私たちの歩みは今も荒野です。いつでもサタンの誘惑があります。それは明らかな罪への誘惑もあり、迫害のような誘惑もありますが、まさにこの荒野の誘惑のように、人には気付かないようにして羊のなりをして信仰と言う大事な宝を奪い取っていく内は凶暴は狼の誘惑があり、むしろそのほうは怖いともいえるのです。私たち自身はそれに対して、実に弱く、脆い存在です。私たち自身ではそれを判断することも、勝つこともできないほど、弱く無力だともいえるのです。
B,「聖霊とみ言葉の正しい教えによる誘惑への勝利」
しかし、十字架と復活への道を歩み始め、まず荒野へと導かれているイエス様であり、聖霊によって満たされ導かれたイエス様はどのようにして、この悪魔の誘惑を退けているでしょうか?
イエス様は全て「みことば」をもって退けているでしょう。第一のみことばに対しては、4節
「4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 」
申命記8章3節の引用です。そして二つ目の誘惑に対しても、8節ですが、
「8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」」
申命記6章13節の引用です。そして最後の三つ目の誘惑は非常に面白い所で、サタンもみことばを用いて誘惑しているでしょう。まさに羊のなりをしてやってくる偽預言者の姿で、これは教会に絶えず起こり続けけいることであり、聖書を都合のいいように解釈した間違ったみことばで誘惑して来る姿そのものです。しかしそれに対して対抗しうるのも、聖書のみことばであり、そして大事な点ですが、その聖書のみことばの正しい解釈、正しい教え、つまり、正しい教理、正しい信仰告白こそ、悪魔のこの誘惑さえも退ける力であることが示されています。12節ですが
「12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 」
やはり聖書、申命記6章12節の引用になります。
聖霊に満たされて導かれるイエス様は、このように聖書のみことば、しかもその正しい教え、つまり正しい教理、正しい信仰告白、信条、そのように正しい教えで誘惑を退けました。そしてそこにこそ聖霊は、みことばにおいて、豊かに働いて力を現しているのです。みことばとその正しい教理、教えこそ、誘惑に対して何より強いということを、このところは私たちに伝えているのです。
4、「罪人は誘惑と罪に対して無力」
私たち人間は堕落前の姿にあるように、本来の創造されたままの人間は、神のみことばによって、神の言葉に信頼して、それによって安心して平安に生きるものでした。本来は、そのように作られているのです。神の創造において良いもの、祝福の存在として創造され、いのちを与えられ、神の愛のもと、みことばによって導かれ、みことばを霊の糧として生き存在するものでした。しかし堕落は、サタンの誘惑、肉の欲に見るに麗しい慕わしい「神のようになれる」という美味しそうな実に負けることによって始まりました。罪の世は、そのようにサタンが私たちをキリストとそのことばから背を向けさせよう、自分を神に、中心にさせよう、そして救いから落とそうと、絶え間なく激しく誘惑して来るこの世なのです。私たちはこの世に尚も生きている者です。私たちも荒野を生きるものです。そしてそこでの私たち自身は、自らの力では実に弱く、無力で、罪深く、誘惑に勝つ力のないものです。直ぐに神と神のことば、キリストの十字架、罪の赦しを忘れ、疑い、自分が正しい、罪のない、神のように、生きようとしやすいものです。
5、「結び:だからこそキリストは信仰者に聖霊を与え働き勝利する」
しかし、今日の箇所は教えます。イエス様を信じる信仰のゆえにイエス様の与える洗礼の恵みに与り、イエス様から聖霊が与えられているということ、その聖霊が常に力強く、みことばとその正しい教え、信仰告白、そして、洗礼と聖餐を通して働いてくださるのだということです。そしてその聖霊がみことばと正しい教えをもっていつでもサタンと誘惑を退けてくださり、勝利してくださる、まさに真の「助け主」だということをです。そのように今日もイエス様はこのみ言葉の説教と聖餐を通して私たちを励ましているのです。「あなた方の歩みは荒野の誘惑との戦いの歩みだからこそ、わたしは決してあなた方を一人にはしない、一人にし重荷を負わせ、一人で戦わせたりはしない、むしろ、そんな闘いに弱いあなた方にこそわたしは絶えず伴い、みことばを持って、十字架と復活の福音で、あなたを助けよう」と。だからそのまま福音を受けなさいと。イエス様はその思いで、今日もここにおり、イエス様がこの卑しい者による説教を通してですが、みことばを私たちに語ってくださっています。そして、今日もこのように救いの恵みである聖餐を、つまりみことばの結びついた、真のイエス様ご自身のからだと血、イエス様の救いのいのちをイエス様は私たちに与えてくださるのです。そして今日もイエス様は私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しを受け平安のうちに今週もここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン