牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月7日の日課から)

キリスト信仰は「する」信仰ではなくて「受け取る」信仰であること、「受け取った」後で「する」ことが出来るようになる信仰であると教える説き明かしです。

「主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう」(イザヤ62章2節)

『我々が「キリスト教徒」と呼ばれるのは、良いことを沢山するからではない。キリストから受け取り、キリストから頂くからそう呼ばれるのだ。キリストから受け取ることを止めたら、もうキリスト教徒ではなくなる。「キリスト教徒」という呼び名はひとえに「頂く」ことに基づくのであって、「する」ことに基づくのではない。キリスト以外の何ものからは受け取らないことに基づくのだ。

もちろん、人は良いことをしなければならないし、他者を助けたり、助言を与えたり、与えたりしなければならないというのはその通りである。しかし、そのために人がキリスト教徒と呼ばれるのではない。ものを白さのゆえに白と呼び、黒さのゆえに黒と呼ぶように、また大きさのゆえに大きいと言うように、我々がキリスト教徒と呼ばれるのは、我々と結びつき我々が良きもの全てを頂くお方、すなわちキリストのおかげなのである。

もし私がキリストのおかげでキリスト教徒と呼ばれるのならば、自分が行った良いことのゆえにその名を持つのではない。それゆえ、誰も行いのゆえにキリスト教徒にはならない。行いのゆえにキリスト教徒になると教える者は、はっきり言ってキリスト信仰の裏切り者である。

行いのゆえに、私のことを「断食をする者」とか「祈る者」とか「巡礼をする者」と呼ぶことができよう。しかし、それでキリスト教徒とは言えない。たとえ、私が行った良いこと全てをかき集めて、それに他の人の良い行いをつけ加えても、それでキリスト教徒になるのではない。キリストはそれらとは全く別物であり、神が命じることや人間が作った掟をはるかに超えるものである。そのキリストから受け取ることに徹すれば、私がキリスト教徒と呼ばれるのには正当な理由があるのである。』

イエス様が十字架と復活の業をもって築いて下さった計り知れないものを受け取り続けることがキリスト信仰の真髄です。本気で受け取ろうとすれば、私たちの器はすぐ一杯になります。そこから溢れ出たものが良い業になって出ていきます。十分受け取っていないのに、何かをしようとすると無理強いになって力尽きてしまいます。ここスオミ教会の礼拝でも、皆さんのキリストから受け取るものが最大限になるように努めてまいる所存です。

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