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ヨハネによる福音書6章1〜15節(2024年7月28日:スオミ教会説教)
「イエスは僅かなものを感謝し神のわざを行われる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
このヨハネの福音書6章では、イエス様は、パンと魚を通して、肉体の必要を心配し満たしてくださる感謝な恵みとともに、そのことを通し、イエス様に開かれる神の国は、何よりも、私たちの霊的な必要を満たしてくださることを教えてくれています。
イエス様はガリラヤ地方を巡っています。ここで1節「ガリラヤ湖の向こう岸」とあるのは、ガリラヤ湖の北東の岸を意味しています。そこで2節、大勢の群衆がイエスのもとに集まります。そこには「イエスが病人達になさったしるしを見たからである」とあります。これまでのマルコの福音書でも見てきたように、イエス様は、大勢の病人を癒やされ、その中の医者にも見捨てられたような病人さえも癒やされたり、さらには病気で死んでしまった人を生き返らせたりと、人間の力や思いを超えたような出来事もありました。その目撃者、それを聞いた人が群衆となって押し寄せていたのでした。その奇跡はもちろん、身元にやってくる病気に苦しんでいる人々への憐れみと愛の実現であるのですが、同時に、イエス様が真に神の御子救い主であることを示すための証しでもありました。しかし、イエス様が世にこられた目的は、そのしるしを見せるだけでもなければ、病気を治すことだけでもないこともこれまで見てきた通りです。この6章では、後の箇所になりますが、しるしを見て、あるいは今日の出来事のパンを食べて満腹し、満足して、さらにしるしを求める人々へ、イエス様は真の目的である霊的ないのちの糧であるご自身を示していくことになります。
今日の箇所を見ていきますが、3節、
2、「イエスの求め:それに対する弟子たちの現実を見ての戸惑い」
「3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
A,「弟子たちへの教えの時」
先週まで見てきたマルコの福音書の6章30節以下を見ると、今日のいわゆる「5千人の給食」の前に、イエス様は弟子達に権威を与え遣わしており、ちょうど帰ってきて弟子達がイエスへ報告した後になっています。そこでマルコ6章31節を見ると、イエス様は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と弟子達に言っており、それは「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 」(マルコによる福音書 6:31)とあるのです。ですから、当初は弟子達は休むために「人里離れた」山に向かったようです。その後でイエス様が合流されその静かなところで弟子達に教えるために座られたと思われるのです。しかし、5節です。大勢の群衆はそのイエスについてきたのでした。
そこでイエス様は弟子の一人フィリポに尋ねるのです。5節からお読みしますが、
B,「すべてを知った上でのイエスの弟子たちへの質問」
「5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
最初、イエス様は群衆にではなく、弟子達に神の国を伝えていました。そこにしるしを見た群衆が集まってきたのでした。ですからイエス様の目的は群衆に教えることではありませんでした。しかし、イエス様はその集まってくる群衆を見られて、彼らのことも心配され「食べさせるためには、どこでパンを買えば良いだろうか」とその空腹という身体的な必要のことを心に留めてくださっています。他の福音書を見るとその時は、もう時は「日も暮れ始め」とあり、そして「人里離れた」ところでもありました。そんな所にわざわざ見にきた人々を、「空腹にさせないように」心配されるイエス様がわかるのです。
しかし同時に、それは弟子達に教えている時でもあったのですから、このイエス様の問いかけは彼らの教えの一環、あるいは継続としてちょうど良い訓練の始まりでもあったと言えるでしょう。その質問は、弟子の一人フィリポを試すためでした。むしろご自身がこれからしようとすることをイエス様ご自身はすでにわかっていたとあるのです。これはルカの福音書9章の方では、まず弟子達が、この夕暮れ、そして人里離れたところであるからと、イエス様に群衆を解散させて、彼らが各々、近くの村や部落に行き、自分たちで食べるものを得させるようにと提案しています。それに対してイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と弟子達に言っています。それに対して、フィリポはイエス様は答えるのです。7節。
C,「人の目には、理に合わない①:二百デナリオンでは足りない」
「7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
マルコ6章37節では弟子達の「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」との声が記されています。この200デナリオンというのは、一年の半年分の給料以上であり、相当な額になりますが、男性で5000人で、家族で来ている場合には、それ以上の人数になりますので、フィリポはすぐに金額でどれくらいか想定できたのでしょう。200デナリオンでもそれだけの人数が少しずつ食べたとしても足りないと計算できたのでした。しかももし買ってくるとしてもそれはあまりにも現実的なこととはならないのも明らかでした。「イエス様、なんて非現実的で無謀なことをおっしゃるのですか?」とでもフィリポは思ったでしょうか。フィロポの計算では、いや誰の計算であっても、全く理に合わない、合理的ではない、イエス様の提案であったのでした。そのようなイエス様の指示が理にかなっていないと思ったのは、フィリポだけではありません。8−9節。
D,「人の目には、理に合わない②:これだけで何になろうか?役に立たない」
「8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
少年、ギリシャ語では「子供」ですが、その子供が「大麦のパン五つと魚二匹とを持ってい」たのでした。「ここに」とありますから、その子供が弟子達のところに持ってきたのでしょう。しかしアンデレはいうのです。
「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
新改訳聖書では「それが何になりましょう」ともあります。本当にその通りです。たった五つのパンと二匹の魚だけで、5000人以上の人が食べられるわけがありません。物理的に小さく均等に分けられたとしても、もうものすごく小さなものになります。そう、人間の頭、計算、常識では、それだけで5000人以上の人々が食べるなんていうのは不可能なのです。何の役にも立たないのです。私たちも同じ状況であったなら、「それだけで何になろうか」ーそう言うのではないでしょうか?
E,「不可能なことを自分たちの力で果たさせる命令ではない:律法ではない」
私たちは自分たちの計算できる常識の範囲内で、その目にみえる数字や物で、何ができるかできないかを当然のように判断します。そのようにして家計を維持したり、個々人や家族の経済活動、生活などもするものです。それは弟子達も当然、会計係を担っていた弟子などは、きちんと管理をしていたことでしょう。それはそれで正しいことです。しかし、この時、イエス様は弟子達を囲んで教えをしていました。神の国の教えです。そして、フィリポ、おそらく計算がきちんとでき管理できる弟子であったことでしょう。イエスはそんな彼を試すために、そのような提案をしています。ですから、それは何か計算をど返ししたような無謀なことをするように弟子達が促され、それを自分たちで考え、計画提案し、自分たちで実行し、そして、彼らで群衆を食べさせるなければならないという、ことをイエス様は教えたり命令したいのではないのです。つまり、弟子達に何か律法的なことを求め、彼らにそれを果たさせることとか、彼らの頭や能力を振り絞って、何か知恵や方策を答えさせようとしているのでもなければそれを求めているのでもないのです。では、イエス様は彼らに何を示し教えられるのでしょうか。10節以下です。
3、「人の目ではわずかで足りなくてもイエスは感謝し祝福した。」
「 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
A,「すべては十分な神の恵み」
「五つのパンと二匹の魚」ーそれは弟子達にとっては、僅かなもの、なにもできないもの、明らか不足、マイナスです。確かに人の目からみるなら、それはマイナスであり、大問題であり、不平を言うには十分すぎる現実的理由であったでしょう。けれどもここで大事なことをイエスは私たちに教えています。それは主であるイエス様にあっては、神の前では、それは決してわずかではない。むしろ人の目から見れば、5千人に対しては明らかに不足しマイナスであるその5つパンと2匹の魚さえも、イエス様にあっては、それは神から与えられた物であり、十分な神の恵みであると、イエスははっきりと見ているということです。イエスは、その僅かな物を「祝福した」とあるのです。その僅かな物であっても「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」とあります。ルカの福音書9章の方では「天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え」とあります。そしてその箇所は新改訳聖書では、「天を見上げて、それらを祝福して裂き」とあります。それはユダヤ教の家族では家族の長である父が習慣的に食事を祝福することに倣っています。そのようにイエス様は、そのわずかなものを、感謝し、感謝の祈りを神に祈り、そしてそれを祝福の食卓であると感謝したのでした。人の目にはわずかで、足りない、これだけで何になろうかというものであったとしても、神が与えてくださったものは、いつでも十分であり、「乏しいことはなく」(詩篇23篇)、祝福であり感謝であり、神が与えてくださった恵みであったのでした。そしてここには人の目の不足も神は必ず満たしてくださるという約束もああるのです。
B, 「不十分で無力な弟子たちを感謝し祝福し用いようとされる」
確かにイエスにあっては全てのことがそうであったでしょう。何よりも、弟子達一人一人から見れば、人の前では小さな小さな一人一人です。彼らは十分な力と知恵があったでしょうか?彼らはパリサイ人や律法学者達のように、育ちも家柄もよく、財産ももっているうえに、聖書の英才教育を受け、聖書・律法を全て知っていて、守っていて、尊敬されているような、まさに人間の価値観に沿えば「十分に持っている」ような人々であったでしょうか?まさに人間の評価から見て、救い主の弟子にかなうような立派で成熟して出来た立派な人々であったでしょうか?そんなことは全くありません。むしろどの福音書も、どこまでも不完全で罪深い、不足の多い弟子達の姿を最後まで伝えているでしょう。しかしマルコ5−6章で見てきました。イエスはまさにそのような人の目にあっては不十分な弟子達に声をかけ、招き弟子とするでしょう。そんな彼らをまさに祝福し、そして祈ったことでしょう。そしてそのような彼らに、ご自身の名、その名によって悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とを与えて、神の国の福音を伝えるために遣わしているではありませんか。その罪深さや不完全さは、十字架の時だけでなく、復活の日の朝まで、いや教会の時代でさえも、彼らはそう、罪人の一人一人です。しかし、まさにそのような不十分な彼らをイエス様は知って、彼らが十字架でみな裏切って逃げ、ペテロが三度知らないと言うこともみんな知り、復活の日の朝もご自身が現れるまで、約束を忘れて沈んでいることも、教会の時代でさえも聖人ではなく罪人である彼らであることを、みんな知った上で、そんな弟子達を招き、友となり、教え、導いてきたでしょう。権威を与え遣わしたでしょう。それは、イエスがそんな彼らだと知った上で、彼らはまさにこれから神の大きなわざを行うにはほんの僅かな「5つのパン、二匹の魚」以下のようであるにも関わらずに、彼らを神に感謝し、祝福し、そして、そんな彼らに神が与え、神が働いて下さったからこそ、彼らは各地で、悪霊を追い出すことが出来、病気の人を癒すことが出来、神の国の福音を伝えることが出来たのではなかったでしょうか?いやそうだからこそ、彼らは使徒の時代にも死を恐れず教会で宣教していったのです。彼ら自身の力では出来ない一つ一つです。「これだけで何になろうか」の彼らなのです。モーセ風に言えば「他の人を遣わしてください」なのです。しかし、その不十分なモーセにしたのと同じように、不十分な彼らをイエスが祝福し力を与え遣わされたからこそ、彼らを通して主の御業がなされてきたし、なされていくでしょう。いや、まさにそれと同じようにして、私たちにも、今日の今まで教会を通して、私たちを通して、イエス様は同じことをされるという恵みの事実、福音こそを、イエス様は私たちに伝えているのではありませんか?
C,「私たちへの恵みと約束でもある」
まさに、そのことと何ら変わらないのです。彼らは、5つのパンと2匹の魚です。私たちも5つのパンとの2匹の魚です。あるいは、弟子達が、本当に不足ばかり、欠点ばかり、そして不十分さを覚えるようなもの、5つのパンと2匹の魚しかもっていないように、人の目、私たちの目から見るなら、私たちも自分自身にそのように不足しか見えないものかもしれません。けれども、それは、イエスにあっては、神の前、神の目にあっては、すべては十分、全ては恵みであるということです。なぜなら、その僅かなものさえも、神が与えてくださった恵みであるし、その僅かなように見えるすべて、私たち自身、私たちに今あるもの、置かれている状況、それが試練や困難や不足であっても、神がそれら全てを祝福し用いて、すべてのこと、まさに人間の計画、推測、決めつけ、考えを遥かに超えた神のわざを実現してくださるからです。イエス様はまさにそのことを弟子達に、そして私たちに教えようとしておられるのではないでしょうか?どんなに小さくとも少なくとも「これだけで何になろうか」と思えることも、すべてのことは、神の前にあっては、神が与えてくださっている恵みなのです。人の目にあっては、5つのパンであり、2匹の魚、不十分であったとしても、イエス様はそれらを喜び、感謝し、祝福し、イエス様のわざ、不足に見えるものでも満たし、人の思いを遥かに超えたことを実現してくださるのです。
4、「御言葉は人知を超えてすべてを満たし神の御心を実現する力」
事実、感謝と祝福の先に、それだけで終わらずその通りになります。12節から
「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
人々は満腹します。それだけでない。残りを集めたときに、12の籠にパン屑がいっぱいになりました。それは理性では説明できないことです。だからと、この奇跡は弟子達の作り話だとか、奇跡を否定する、のではないのです。そのように「奇跡は理性に合わないから」と奇跡を否定し教えることは人間の理性に神のみ言葉を従わせてている、まさに偶像礼拝です。神の言葉には、不可能なことはありません。まさにほんの僅かなことを用いて、大きなことをなされます。事実、天地創造は、無から天地万物を創造したと聖書にはあります。人間の理性に合わせて奇跡を否定する教えは、天地創造も神話にしてしまうでしょう。しかし、それではそのように言う人は一体何を信じるのですか?人間の理性ですか?聖書は道徳と倫理の教えに過ぎないのですか?それだと、もはや神は不在、神の言葉も不在。神の言葉に私たちを救う力があると言う素晴らしい教えも神話になり、キリスト教はただの道徳と倫理の教え、律法になってしまうでしょう。イエス様は神の御子であり、その言葉に力があるからこそ、僅かなパンで、このことは事実起きたのです。神の言葉が真理で力があるからこそ、神の約束は一貫して変わることなく、まさに、約束の通り、神の御子が、女の子孫として生まれ、私たちの罪の身代わりとしてのその命の犠牲と復活のゆえに、神からの永遠のいのち、新しいいのちが、そしてそれによる平安が私たちに事実として溢れ出て、世に流れていくのです。神の言葉が真実だからこそです。
5、「結びと派遣」
私たちは神の前には、本当に小さな存在です。いや小さい存在だけではない、どこまでも反逆し背を向けていった罪人です。しかしそんな小さな罪深いものを見捨てなかったからこそ神は御子イエス様を人として送ってくださいました。それだけではない、その御子の命をそんな罪人の罪の贖いのために、世に与えるほどに愛してくださいました。だからこそ、滅びに至るはずであった私たち、信じることも悔い改めることもできない私たちに、悔い改めが起こされ、信仰が与えられました。そしてこの御子イエス様の十字架のゆえに、私たちは罪赦されている、救われていると確信できます。安心できます。平安があり、安心して出ていくことができます。私たちは、だからこそ今ある全て、自分自身も含め全て恵みであると感謝し子供のようにイエス様に全てを託しましょう。委ねましょう。子供のように、イエス様に今あるものを恵みであると感謝し全てをイエス様に委ねる時に、イエス様はそれを用いて、私たちを用いて、思いをこえた神のわざと計画を必ず実現してくださるのです。今日も、イエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン