2024年3月17日(日)四旬節第五主日 主日礼拝  説教 木村長政 名誉牧師 

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン                               2024年3月17日(日)

説教題:「人の子が栄光を受ける時が来た」

聖書:ヨハネによる福音書12章20~33節

今日の聖書はヨハネ福音書12章20~33節です。20節を見ますと「さて、祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に何人かのギリシャ人がいた。」彼らはイエス様にお目にかかりたい、まずフイリポに頼んだ、と言うのです。何故フイリポに頼んだのか、フイリポという名は実はギリシャ風の名でありましたから、何となく仲間意識が働いてフイリポを呼んだのでしょう。このギリシャ人たちはどんな人たちだったのか。どうも彼らはギリシャからわざわざエルサレムまでやって来た、という事ではなさそうです。ギリシャからだとすれば、そうとう遠い道のりです。この当時パレスチナで彼方此方にギリシャ風の町があったようで、そこにギリシャ人も住んでいた。彼らは祭りのため、各地から礼拝するためにエレサレムに上っていたであろうと思われます。いわば巡礼して来たのかもしれません。ギリシャ人ではありますが、割礼まで受けた純粋なユダヤ教徒ではなく、しかし神を敬う心があって巡礼して来たのいでしょう。このような割礼を受けない異邦人の巡礼者たちはエレサレム神殿の一番外側の“異邦人の庭”と言われる所で礼拝するようになっていました。その異邦人の庭では両替をする者の台とか生贄をする鳩を売ったりする市場となっていました。マルコ福音書11章15節を見ますと、イエス様はこの庭で商売をしている台をひっくり返し、所謂宮清めをなさった、その時こう言われたのです。「私の家は全ての国の民の祈りの家と呼ばれるべきである。」と書いてあるではないか。ヨハネ福音書ではイエス様のエレサレム入城の直後の宮清めの事は書いていませんが、その代わり“異邦人の庭”で全ての異邦人のための宗教を主張されました。そのイエス様にギリシャ人たちが、是非お目にかかりたい、詳しく教えを聞きたい、という形で書かれているわけです。ですから、ここでは「ギリシャ人」のような異邦人が主イエス・キリストを信じて求めて行くという、象徴的な場面が描かれているのであります。ギリシャ人たちの願いをイエス様がどのように満たされたか、本当に彼らにお会いになったのか、と言うことまではヨハネは書いていません。むしろ、これを一つの象徴的な序文のように紹介して、「人の子が栄光を受ける時が来た」とイエス様が語りだされた事を記すのであります。そこでイエス様は「豊かに実を結ぶようになる時が来た」あるいは23節の表現では「全ての人を私のところへ引き寄せる」時が来た、と言うわけです。

こういうわけで、エレサレム神殿に礼拝に来たギリシャ人たちがイエス様に聞きたいということから始まって「全ての人」イエスのもとに来るようになるにはどういう道筋があるのだろう、また、どういう方法があるのだろうか、という問題が展開されて行きます。まず23節でイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」。と宣言されました。では、どういう方法で栄光をお受けになるのか、と言うと24節で明らかにされるように、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」という形で「豊かに実を結ぶ」のだ。そこに栄光がある。この「一粒の麦が死ぬ」という意味をもう少し詳しく27節から33節までに言われています。次に「豊かに実を結ぶ」と言うのだけれども「豊かな実」ちはどういう「実」なのか、というと、それが25節から26節に教えられています。つまり、自分の命を憎む者、イエス様に仕える者なのだ、と言っておられるのです。更に「光を信じなさい」という招きが続いていくわけです。さて、23節にイエス様が言われました「人の子が栄光をうける時が来た」。これまでにイエス様は何度も「私の時はまだ来ていない」と繰り返し言われてきました。<例えば>2章の始めにカナの婚宴の席で葡萄酒がなくなってきた、それでマリやがイエス様に「もう葡萄酒がなくなりました」となんとかして、といわんばかりに言われた時「私の時はまだ来ていない」とおっしゃいました。それでは、いつその時が来るのか。・・・・

異邦人ギリシャ人たちに向って全ての人々のために、今、その栄光の時は来た。と宣言されています。これまで閉じられていた、その時は今開かれて「人の子が栄光を受ける時」が来たのです。ユダヤの人々が「人の子」と言われるのを聞いた時、「本当に待望の王が現れた。雲に乗って永遠の御国と、主権を確立される、栄光に満ちる王があらわれた」と、すぐ考えたのです。それは旧約聖書で予言されたダニエル書7章13節にあります。当時の人々が「人の子が栄光を受ける時が来た」と聞けば、ではどこから、と言って天を見上げるほど、すぐさま栄光を期待したわけです。ですから、ここでイエス様が宣言されている、「栄光が現れる」と言われたのは、ユダヤの人々が期待しているような栄光ではない。それは「一粒の麦が地に落ちて死んだ時、豊かに実を結ぶ」その実こそ人の子の栄光が現れたことなのだ、この事を聞いた人々は非常にショックを受けたでしょう。思いもかけない教えであったのです。人の子が死ぬのか!その、死によって栄光を受ける時が,今、来た、その今を更にイエス様は27節以下で告白しておられます。「今、私は心が騒いでいる、何と言おうか、父よ、私をこの時から救ってください」と言おうか。ここでの27節から29節までに記されている記事はある意味では、有名なイエス様のゲッセマネの園での祈りの場面を、もう一つの別の物語として描かれている、と言ってもよいほどであります。ヨハネ福音書では「ゲッセマネの園での祈り」を書いていません、ここにもう一つの違った形でヨハネは書いているのです。マルコ福音書によりますと、14:34にゲッセマネで激しい祈りをされています。「私は悲しみのあまり、死ぬほどである」とペテロたちに打ち明けなさったのです。そして更に「アバ、父よあなたには出来ない事はありません、どうか盃を取りのけてください」と祈られたのであります。そのように、ヨハネの書いている、ここでは「父よ、この時から私をお救いください」と祈っておられます。ゲッセマネでイエス様は血の汗滴るような葛藤の末に、ついに「しかし、私の思いではなく御心のままになさって下さい」と結論をご自分に下されたのです。それがヨハネの書いています、ここでは「しかし、私はこのために、この時に至ったのです、父よ御名が崇められますように」と言って結論へと導かれています。それから、またルカ福音書によれば22章43節で「すると、天使が天から現れて、イエスを近づけた。イエスは苦しみ悶え、いよいよ切に祈られた」。とあります。ヨハネ福音書のほうでは28節に「すると、天から声が聞こえた。」29節で、人々はそれを「御使いが彼に話しかけたのだ」と言っております。こうして見ると、いろいろな点から実にゲッセマネの園でイエス様の祈りの姿と、殆ど同じである、と見られます。ここで私たちに三つの事が教えられています

第一は、人の子が十字架の死を遂げる事は避けることの出来ない、神様の御定めである、という事です。

第二は、イエス様が神様の定めに十字架の死を遂げるのは、嫌々ではなく、むしろイエス様の自然的な率先した歩みであり給うた、という事であります。「私は、このために、この時に至ったのだ」とイエスご自身が確認しておられます。

第三は、大切な事は、この十字架の死を私が歩む事によって栄光が来るのだ、というイエスの確信――これを通して「御名が崇められますように」というイエスの祈り――これが独りよがりでなくて確かに天からの御声があった、それは「私は、すでにあなたの働きを通して栄光を表したが、更にあなたの十字架の死において栄光を表すであろう」この事で約束なさった事であります。これはイエス独りの思い込みではなく、確かな神様の御声の裏付けのある事であります。人々はこの天からの声を聞きましたけれども、しかし「雷」だろう、とか「御使い」だろうとか言っておりますとおり内容は理解出来なかったわけであります。それは、ちょうどパウロがダマスコへの途上、復活のイエスの幻に打たれ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と言う御声を聞き分けた時、傍らにいた者たちは声は聞いたけれど言葉は理解出来なかったのと同じであります。<使徒言行録9:7>つまり、普通の人間の声ではない、天来の御声である、ということがよくわかります。イエス様の祈りに即座に天からの答えが返ってきたのであります。“一粒の麦が地に落ちて死んだ時、豊かに実を結ぶのだ”と言われたイエス様が正しいことであった、と人々にこれでよくわかった筈であります。その意味でイエス様は30節で「この声があったのは私のためではなく、あなた方のためである」と言われたのです。一方では、このイエスの言葉を信じない人々、また頑なな人々、これほどの天からの声があっても、主イエス・キリストの御教えを信じないで疑っている,或いは殺そうとしている「この世」は裁かれるのであります。もし、イエス様の言うとおり、信じるならば「私がこの地上から上げられる時には、全ての人々を私のところに引き寄せるであろう」と32節で言われています。一粒の麦が死ぬ事によって豊かな実が結び全世界の人々が主イエス・キリストのもとに来る。主イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたか、をお示しになったのであります。私たちも主に従って自分流の一粒の実となって行ければ、イエス様はどんなにお喜びになさるでありましょうか。あなた方は光の子となるために光のあるうちに光を信じなさい。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

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