2023年8月6日(日)聖霊降臨後第10主日 主日礼拝

2023年8月6日スオミ教会礼拝説教
マタイ14章13−21節

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「『それをここに持ってきなさい』に現されている『宣教は福音』の恵み」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
先週まではマタイの福音書の13章からイエス・キリストの福音と神の国について学んできました。そこで語られるイエス様の神の国は、群衆には例えのみで語り、その意味を、弟子達に解き明かすという形で繰り返し語られており、メッセージは主に、弟子達、つまり、クリスチャンと教会へ向けられたものでした。そこでイエス様が伝える、その神の国の先取りである教会の働きは、人間の価値観で期待するようないつでも右肩上がりで成功していくようなものではありませんでした。福音の種を蒔いても全ての人がすぐ受け入れるわけではなく、多くの人は、世の中の目に見える事柄や、自分の思い優先に流されていき、神の言葉を聞かなかったり、聞いてもすぐ忘れ聞かなくなり、受け入れても、すぐに捨ててしまうなどが、普通に起こるのであり、そのように罪深い人間の心はどこまでも頑なであり、私たち人の力では、その福音を芽吹かせ成長させることはできないという現実をまず伝えていました。しかし、そのような涙を持って種を蒔くような教会の歩みであっても、「私たちが」ではなく「イエス様が」、その福音の種を芽吹かせ、実らせてくださり、収穫のために私たちを用いてくださる、そんな恵みに私たちはあるのだということを教えてくれました。さらには、先週の箇所では、そのように与えられている福音とそこに働くイエス様の力を、私たち人間の方がそれを小さなものとしてしまうけれども、それでも福音は私たちの思いをはるかに超えて豊かに働くし、そのために召された私たち一人一人も、どんなに小さな存在のように思えても、しかし、小さなからし種が大きな木になり、わずかなパン種がパンを膨らますように、イエス様がそんな小さな私たちを用いて大きなことをしてくださるのだ、ということも思い起こさせてくださいました。実は、今日のこの有名な、5つのパンと二匹の魚の奇跡も、これまでと同様の神の国の恵みを私たちに教えてくださっているのです。13節から見ていきますが、

2、「見て深く憐れみ」
「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。

「イエスはこれを聞くと」と始まっています。「これ」というのはこの前のところ1〜12節までに書かれているように、バプテスマのヨハネが捕らえられ、ヘロデに処刑される出来事を指しています。その知らせを聞いて、船に乗って人里離れたところに退かれたのですが、それは自分も捕らえられることがないようにではあるのですが、十字架にかけられるために世に来られ、十字架に向かって歩んでいたイエス様なのですから、退かれたのは恐怖とかではなく、その時は、まだその十字架の時ではないために退かれたと言えるでしょう。ルカ9章にあるように、イエスは弟子達と共にガリラヤ湖を船で渡り、湖の北東の湖岸のベツサイダの人里離れたところへ移動したのでした。しかし、そのような人里離れたところでも、群衆はイエスのことを聞きつけて、町々から追いかけてきたのでした。そのように追ってきた群衆を見てですが、14節
「14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

ここでは、イエス様は、決して、人々を避けて、人々が嫌で、そんな否定的な理由で、船に乗ってこの所へ来たのではないことがわかります。なぜなら、そのようにわざわざ歩いて追いかけてきた大勢の群衆を見て「深く憐れみ」とあります。それは、「内臓が揺り動かされるように」という意味がありますが、私たちが悲しみや苦難の時に心動かされる時の感情を表しています。そのように、イエス様は、ご自身を求めて、中には癒しを求めてやってきた人もいます。そのようにやってきた人の苦しみや悲しみと、そこにある憐れみを求める思いを、イエス様は、見て、知られ、そして、内臓が揺り動かされるほどに深く、同情し、憐れまれたことがこの言葉から教えられます。そして、その求めてきた人々に癒しを与えてくださったのでした。みなさん、この言葉の通りに、イエス様は必ずいつでも私たちをも見てくださっています。そして、それが、人には理解されない、言うことも相談することもできない、どんな思いであっても、イエス様はそれを見て、その心のうちを全て知ってくださって、同じように、深く、同情し、憐れんでくださる方であることを今日も教え、思い起こさせてくださること、そしてそんなイエス様にいつでもすがり、祈り求めることができる幸いをまずは、ぜひ感謝したいのです。

3、「不可能な命令」
そのようなイエス様の深い憐れみは、それに留まりません。時は夕暮れになります。15節からですが、
「15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

A, 「弟子たちの当たり前の判断」
人里離れたところです。夕暮れですから、弟子達はその5000人上の大勢の群衆のことを心配したのでしょう。特に、食事のことです。この人里離れた場所では、食事を買う場所もないので、弟子達は、解散を提案したのでした。それは、人間の常識や想定できる状況や理解では当然のことであり、人の前では正しい提案であったことでしょう。しかしここでイエス様は弟子達に言うのです。
B,「あなたが食べさせなさい」
「16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

なんとイエス様は、弟子達のその常識的、かつ現実的な提案に同意しません。むしろいうのです。「あなた方で彼らに食べ物を与えなさい」と。繰り返しますが弟子達の提案は、常識的でした。ここでは、人間の常識や能力から見れば、食べ物を用意することはどう考えても、不可能なのです。ではイエス様は弟子達に意地悪を言った、命じたのでしょうか。そうではありません。できるかどうか試そうとしたレッスン、あるいはどうすれば準備できそれが果たせるのかの試験なのでしょうか?そうでもありません。これは人間の力では、弟子達には、全く不可能なのです。イエス様もそれが全く不可能なことを知っているのです。不可能なことを知った上で、イエス様は、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われたのです。

4、「「あなた方が食べさせなさい」の意味」
ではその意図、意味、目的は何でしょうか?この出来事は、この後、有名な5千人以上の人々が五つのパンと二匹の魚で養われる奇跡が描かれていますが、群衆の反応は書かれていません。むしろ、群衆は、奇跡が行われたことさえ知らず食べた人が大勢いたとも言えることでしょう。つまり、ここでもやはり群衆というよりは、弟子達、つまりクリスチャンと教会へのメッセージが込められています。そして、何より、これまで見てきた13章でイエス様が教えてきたことと一貫していて、「あなたがたが果たしなさい。達成しなさい」という律法のメッセージではなく、どこまでも、イエス様が「あなた方ではなく、わたしが行う」と、弟子達に向けられた、福音の素晴らしさ、完全さ、その力を伝える、イエス様の神の国の恵みのメッセージであることがわかってくるのです。弟子達はイエス様のそんな無理難題に対してこう答えます。
A, 「神の使命の前に人間は無力であることを知らせるために」
「17弟子たちは言います。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」

弟子達のこの言葉には、期待とか希望ではなく、悲壮感と不可能さしか漂っていません。「ここにはパン五つと魚二匹『しか』ありません。」と言っています。当時、パンと魚というのは、非常に貧しい食事であったと言われています。それがたったこれだけです。弟子達の言葉には、これだけで一体何ができようか、不可能であるという、思いが溢れているでしょう。そう、人間の目から、あるいは、人の基準や常識、科学的な合理的な視点から見ても、もちろん一つ一つ、人数分にとても小さくちぎれば、理論上は分けることができますが、食べさせ満足させるという意味では、これだけでこの大群衆に食べさせ、養うなど、全く不可能なのです。
しかし、ある意味、その人間の不可能であり無力であるという現実にぶつからせることこそがイエス様の目的の第一歩、第一段階なのです。その不可能さに直面した弟子達に今度は、イエス様は、その僅かばかりの食べ物を持ってくるように言います。
B,「それをここに持ってきなさい」
「18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、 19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

イエス様が解散させず、弟子達に不可能な命令をしたのは、このことのためでした。もちろん、5000人以上を食べさせ養うためではあります。しかしそれ以上に、それは、弟子達ではなく、イエス様こそが、その人間の目には不可能に見えるほんの僅かな食べ物で、5000人以上の人々を満腹にさせるという、その「主にとっては不可能なことはない」(創世記18章14節)という、ご自身の言葉の力と真実さを弟子達に、つまりクリスチャンである私たちと教会に表すためであったのです。
そう、これはまさに13章で見てきたイエス様のメッセージと一貫しているでしょう。弟子達の声は、当たり前の常識的な人間の声です。これだけで何ができようか。その通りなのです。人間の力では、「あなた方で食べさせなさい」という神様の与えた命令や使命を果たすことができません。神の命令、神の言葉、神の国、救いを前にして、私たちが自分達の現実を見るなら、あるいは、ただ自分の能力だけを見るなら、なんとちっぽけでしょうか。なんと僅かでしょうか。なんと弱々しく、なんと貧しいでしょうか。しかし、イエス様の「あなた方で食べさせなさい」と与えたイエス様の使命は、実際は、あなた方が自分のその力で、努力、工夫、等々で、果たしなさいという使命ではないことがここにわかるでしょう。何よりイエス様は、この与えている使命で、弟子達に自分にはできない。不可能であるとあえて知ることに直面させようとしているでしょう。「わずかこれだけしかありません。」そうその叫びです。その現実です。しかし、そこでイエス様がまず何より弟子たち、私たちに望んでいるのは、それを自分達で果たすことではありません。そのイエス様が与えてくださった使命の前に、そのように「自分にはわずかこれだけしかない。何もありません。何もできません。」そのように認め、イエス様に告白し答えることなのです。そして、そのように認め告白するからこそ、そんな私たちに、イエス様は、何と言っていますか?イエス様は
「それをここに持って来なさい」
と言われるのです。そのほんの僅かな、人間の目には、一体これだけで何になろう、不可能ですというそれだけのものを、そのままを、イエス様は、「ここに」、つまり、イエス様のところにそのまま持ってきなさいと言っているでしょう。その通りに、弟子達が、それだけのものを、イエス様が言われ通りに、イエス様のところに持ってきた時に、何が起こっていますか?19節以下

5,「イエスが持ってこられた僅かなものでも感謝し祝福される」
「19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。

ここに私たちへの福音があります。イエス様は、人の目には、ほんの僅かで、何ができようかと見える、その僅かなものを、イエス様は、天に感謝と賛美の祈りをしています。どうでしょう。イエス様は、天に向かって「こんな僅かなものしかありません、弟子達はこれしか用意できません。何もできません、命令を果たせません。彼らはダメです、だから、彼を罰して裁いてください、祝福しないでください」等々と、天に嘆いてはいないではありませんか? そうではなく、イエス様はむしろその僅かなものを、天に感謝と賛美の祈りをするのです。人間の世界では、そのように、それはクリスチャン同士や教会内でさえも見られるのですが、人間の目に見える、自分や他人の行いや、能力や、持てるものを見て、そんなふうに、嘆いたり、自分や相手をさばいたりすることがあるかもしれませんね。より多くを持っていればより多くを出来たり達成できれば、賛美賞賛し、できなければ軽蔑し裁く、それが、教会やクリスチャン同士にさえある人間の罪深い社会の現実です。しかし、イエス様のしていることは全く逆ですね。人間にとってはわずかで、こんなものがなんになろう、不可能だと思えるようなものを、そのまま受け取り、天に感謝しています。賛美しています。祝福を祈っています。その時に、そのイエス様が祝福したパンと魚が、群衆へと与えられるときに、弟子達の思いを遥かに超えた、すばらしい出来事が現されているではありませんか。それは、弟子達が何かをしたからではありません。弟子達がその力と知恵で、使命を果たしたのではありません。イエス様が与えた使命に、弟子達は「これしかない、これだけで何ができようか」と差し出した僅かなものを、イエス様が受け取り、そして、祝福したものによって、イエス様が、ご自身の使命を果たしたことが、わかるではありませんか。弟子達は、自らではできないことを知り、そしてイエス様に持ってくるように言われたその僅かなものを持っていき、手渡し、そしてイエス様が祝福したその僅かなものを、イエス様が言われる通りに配っただけです。しかし、それがイエス様が意図したこと、目的であり、それが、教会であり宣教だということなのです。どうですか?教会も宣教も、決して律法ではないでしょう?どこまでも福音であることがここにもわかるでしょう?
このように、13章からのイエス様の教えてきたことが、どこまでも一貫して弟子達に教えられており、まさに具体的なレッスンとしてここに現されているのです。種を芽吹かせ、成長させ、実を結ぶのは、人間である弟子達ではない。彼らには不可能であり、できない。しかし、イエス様がそれをなされことをここに明らかにされたのです。13章で見てきたように、小さなからし種や僅かなパン種を神の国のようだとイエス様は言われました。人間は、福音とその力を小さなものにしてしまいます。しかし、人の目には小さく見える、そのからし種が、大きな木になり、実を結ぶように、あるいは、僅かなパン種がパンを大きく膨らませるように、神の国は、その人の目には、小さなように見える福音から生まれ、芽吹き、大きくなる。そればかりではない、小さな存在を用いて、人の思いをはるかに超えた大きなことを、イエス様が福音でなさる、それがイエス様が伝える神の国でした。まさに、そのようにこの所で、このたった五つのパンと二匹の魚を通して、イエス様は、その神の国の事実を、なおも現し教えてくださっているのです。

6, 「宣教は律法ではない、宣教は福音である」
宣教は、私たちの大事な使命です。イエス様が私たちに与えてくださった使命であり、教会はそのためにあります。しかし、イエス様はそれが私たちの力や努力では決して実現できないし果たすことができないこと、私たちの力や説得では人を信じさせること、信仰を与えることもできないこと、そしてそのような私たちの力で、教会を大きくするとか、日本のクリスチャン人口を1%以上超えさせるとか、あるいは、福音をまだ完成していないもの、あるいは、不完全なものと決めつけ、だからその未完成な福音を私たちが完成させなければならないのだとか、等々、そんなことはよく聞きますし、実際に、教えられ奨励されるのですが、しかし、それらのことは罪深い人間にはできない不可能なことです。そして、何よりそのことをイエス様が誰よりも知っていますし、人間が自分の力で果たして欲しいなど思っていません。ところが、むしろ人間の方が、クリスチャンでさえも、それを認められず、自分たちにはできる、協力できる、達成できる、力がある、などなどと言い、奨励し、説教し、教えて、福音を律法にしてしまったり、律法を福音ぽく語って混同してしまいます。しかし、イエス様は、神の前にあって、その出来ない不可能な現実、無力さこそを弟子達に、そして私たちに常に分からせたい、人間は神の前に、神の使命の前にどこまでも無力であることを気づかせたいのです。なぜなら、イエス様は、私たちがその無力な存在のままでご自身のところに来て、ご自身にのみ問題を持ってくる、求めすがる、祈り求める、そのような信仰こそを求めているからです。しかし、私たちは逆をしていることがあるのではないでしょうか。イエス様が「あなた方で食べさせなさい」という命令を、何か、自分達だけで、その力や努力で、果たさなければいけない、実現させなければならない、自分達にはその能力があるかのように思って躍起になり、そのような思いや行いやわざが、立派な信仰であるかのように何か持て囃され、敬虔であるかのようにされる、熱心だと賞賛される、そして、自尊心、プライドを満たす、ある程度の達成感で自分が果たしたかのように自らを誇ってしまう。逆にできないと裁き合いが当たり前になる。そんな姿は、伝道熱心だと言われる教団、教派、教会では、よく見られることですが、しかし、イエス様はそんなことは望んでいないでしょう。むしろ、それではイエス様ご自身が果たそうとしていることが、その熱心で妨げられていますし、自分はできませんと神の前に謙り、神に全てを持っていくことが神の御心なのに、自分はできる、みんなもできなければならないと、自分を誇り、恵みはそっちのけになり、福音ではなく律法が中心になってしまっています。そうではない。イエス様は、どこまでも罪深く、今日も悔い改めを持って、主よ憐れんでくださいとしか言えない、そんな私たちこそを、今日もここに招き、十字架と復活の恵みにあって祝福してくださっています。そして、本当に大事な、本当に力があり、本当に全てをなすことができる、イエス様の完全で完成した、十字架と復活の福音による、罪の赦し、復活の新しいいのちを与え、「安心して行きなさい」と平安のうちに派遣してくださる。そのように、福音のゆえに安心した自由な信仰で行っていく私たちに、思い超えた実を結んでくださるのです。イエス様は今日も宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、そのまま受け取り、安心して行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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