説教「神由来の愛、人間由来の愛」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 7章36~50節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

愛とは何か、という問いは、答えるのが簡単なようで適当な言葉を探そうとすると実は難しかったり、また逆に難しそうでいて実は簡単に言葉が見つかったりして、何かつかみどころのないもののようです。身近に感じられそうで、気が付くと遠いものだったりし、また逆に遠いもののように思っていたが実は身近にあることに気づいたりします。

今の世の中では、愛という言葉を聞くと、はやり歌やテレビ番組・映画や雑誌・小説その他諸々のマスメディアが与えるイメージからくるのでしょう、「愛」と聞くと多くの人たちは男女の恋愛に関係するものと考えるのではないかと思います。以前日本に宣教師として来ていたあるフィンランド人の牧師先生が言っていたのですが、日曜学校の中学生クラスで教えていた時、その日の出席者はみな女の子だけだったそうですが、先生が聖書の御言葉に基づいて「みなさん、お互いに愛し合いましょう!」と力をこめて言ったところ、生徒たちはお互い顔を見合わせて、クスクス笑うのをこらえる様子がみてとれたということです。「愛」と聞いて、生徒たちが抱くイメージと牧師先生のイメージにギャップがあったのは明らかです。

それでは、牧師先生が「愛し合いましょう」と言って教えようとした「愛」とは何だったのでしょう?その日の日曜学校で先生が愛のどんな内容について教えたのかはわからないのですが、キリスト教で愛について次のことが公式のように言われます。それは、天と地と人間を造り、かつひとり子をこの世に送られた父なる御神を全身全霊で愛する、そして隣人を自分を愛するが如く愛するということです。父なる御神に対する愛と隣人に対する愛ということですが、これだけでは、まだ抽象的すぎるように思う人もいるでしょう。確かに愛する対象が異性に限られず、父なる御神や隣人になるので、愛が恋愛よりももっと広い意味を持ちます。しかしながら、これだけでは、まだわからないことも多く残ります。例えば、父なる御神を全身全霊で愛する時の愛とは、また隣人を自分を愛するが如く愛する時の愛とは、具体的に何をすることなのか、どんな考えや感情を持つことなのか、言葉だけではまだわかりません。

別にキリスト信仰を持ち出さなくても、人間だったら自然な親子関係を通して愛がわかると言う人もいるでしょう。また、同じ目的を持つ人が連帯して協力し合い、時には共通の目的のため、また同志のために自分を犠牲にすることを厭わないという同志愛もあるでしょう。(ただし、同志愛において、共通の目的がどんなものか、それを共有しない人たちにどんな態度をとるか、しっかり見極める必要があります。グループ内で通用する愛が、グループの外との関係で愛の名に値するとは限らないからです。)

恋愛、親子愛、同志愛、これらは人間の自然な本性に由来する愛と言うならば、キリスト信仰では、人間の外部に由来する愛が中心になってくると言うことができます。外部と言っても、私たちの周囲に見えたり触れることができる具体的な事象ではありません。そうではなくて、全ての見えるものと見えないものを造られた父なる御神に由来する愛です。

この神由来の愛について、「ヨハネの第一の手紙」の4章は次のように教えています。おそらく、先ほど述べたフィンランド人の牧師先生が日曜学校で教えようとした箇所ではないかと思われます。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(7-11節)。

ここでは、神が私たち人間を愛したことが出発点にあって、それを受けて私たちも愛することができるようになる、という神由来の愛が強く示されています。そう言うと、キリスト教は恋愛や親子愛や同士愛のような人間由来の愛は愛ではないと言うのか、と疑う向きも出てくるかもしれません。そうではありません。そうではなくて、恋愛も親子愛も同士愛もその土台に神由来の愛を敷いて、それらを神由来の愛で方向付けていくということであります。キリスト信仰者には、キリスト信仰者の恋愛があり親子愛があり同士愛がある、ということなのであります。

ここまでくると、いよいよ、それではその神由来の愛とは何か、ということになります。今引用したヨハネ第一の中では、罪の償いということが神由来の愛と深く結びついていることが言われています。罪の償いが神由来の愛の中心にあって、それを受け取った私たちが愛することができるようになる、というヨハネの教えは、実は本日の福音書の箇所に具体例として現れています。少し前置きが長くなりましたが、以下にそれを見ていきましょう。

2.

イエス様が、ユダヤ教ファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれました。ファリサイ派と言えば、福音書の中ではイエス様に敵対するグループとして描かれていますが、これは一体どういうことでしょうか?ファリサイ派とは、当時のユダヤ教社会の中の一つの大きな信仰運動で、聖職者がリーダーシップをとるというよりは、信徒が中心の運動でした。旧約聖書モーセ五書の中に書かれた律法の他に、「父祖からの伝統」(マルコ7章5節)と呼ばれる口承伝承の教えをとても大切にしました。それは、主に汚れからの清めに関する規定から成るものですが、要は神聖な神に対して我々人間は罪に汚れた存在だから、それで清めということにこだわったということであります。これに対して、イエス様が、いくら清めの儀式的行為を積んでも人間から罪の汚れをなくすことはできないと批判する論争が、マルコ福音書7章にあります。

イエス様と激しく対立するファリサイ派でしたが、同派の中にはイエス様に一目おく人たちもいました。例えば、ヨハネ福音書に出てくるニコデモというユダヤ教社会の最高法院議員などは、ある夜人目を避けてイエス様に教えを受けに行きます。罪の汚れからの清めということを真剣に考えれば考えるほど、清めの儀式だけでいいのだろうかと疑問を持つ向きがでても不思議はなかったでしょう。ひとつ付け加えれば、使徒パウロは、キリスト信仰に入る前は筋金入りのファリサイ派でした。本日の箇所のファリサイ派シモンもおそらく、イエス様を家に招いていろいろ質問してみよう、ファリサイ派には口うるさいことばかり言っているが、今や奇跡と権威ある教えで一世を風靡しているイエスとやらを呼んで、本当に尊敬と畏敬に値する者かみてみようと考えたのでしょう。

そういうわけで、この会食はイエス様を主賓とするものではなく、大勢を招待した一人の客としてイエス様も招待されたようです。44-46節で、イエス様は、到着時にシモンは歓迎の接吻もせず、イエス様に足を洗う水も用意しなかった、と指摘していますが、そのようにイエス様に特別な敬意を表することはなかったようです。また39節で、シモンは内心呟きますが、この仮定法過去で書かれたギリシャ語文の趣旨は以下のようになります。もしこの男が本当に預言者ならば、今何やらちょっかいをだしている女が罪を犯した者だとわかって、汚れた者はあっちに行けとでも言って、追い出すだろうに。ところが、女にさせるままにしているというのは、わかっていない証拠だ、だから預言者でもなんでもなかったんだ、期待外れだ、という具合です。

3.

以上のような背景の中で、本日の箇所の出来事が起こりました。神由来の愛をわかるために、出来事の流れを一つ一つ注意して見ていく必要があります。45節で、イエス様が、女性は彼が家の中に入った時点から足に接吻をし続けていた、と言っていますが、女性はイエス様が来るのを家の前で待っていて、彼が来るやしがみつくようにして一緒に入ったのでしょう。舗装道路がない昔は、足はすぐ汚くなる部分です。接吻というのは、日本ではなじみがないので多少違和感があるかもしれませんが、敬意や愛情を示す行為として捉えて下さい。体の汚い部分に接吻するというのは、自分をとてつもなく低い者とし相手をとてつもなく高い者として敬意を表しています。とめどなくあふれ出る涙でどの程度足がきれいになるかは疑問ですが、これはむしろ象徴的な行為としてみたほうがいいのかもしれません。水気を含んだ汚れを髪の毛で拭えば、髪の毛はたちまち汚れるでしょう。女性は、そんなことは意に介さず、イエス様のために今出来ることを精一杯するだけです。そして、仕上げに高価な香油を塗りました。これで、家の主人が多少あしらっていたイエス様を自分なりに精一杯主賓の地位にしてあげました。

イエス様は、シモンの心の呟きを見て取りました。預言者でなかったとイエス様をあしらったシモンは、見抜かれたことに気づきません。おめでたい人というのはこのことでしょう。そこで、イエス様は、この女性の行為が何を意味するのかをシモンに教えるために、一つのたとえを話します。500デナリオンの借金を抱えた人と50デナリオンの借金を抱えた人が、二人とも返済に困ってしまった。しかし、貸主は、二人とも帳消しにしてやった。さて、どちらの負債者がより多く貸主を愛することになるだろうか。言葉を換えて言うと、どちらが、沢山の恩恵を受けたという念をもち、より多く感謝の念に満ちて、貸主のために尽くしてもいいとより強く思うのはどちらだろうか、ということです。1デナリオンは、当時の肉体労働者の一日の賃金です。シモンは、大きな借金を帳消しにされた人の方が、小さい借金を見逃してもらった人よりも、より多く貸主を愛することになる、と答えます。

そこで、イエス様は、同じことがこの目の前の女性にも起こったのだ、と明らかにします。この女性は、「過去に罪を犯していた女性(ην αμαρτωλος)」と言われていますが、具体的にどんな罪を犯したのかは述べられていません。これについてよく言われるのは、夫婦関係を壊す不倫を犯したとか、または娼婦そのものであっただろうとか、いずれにしても十戒の第六の掟に関わる罪が考えられています。その可能性が高いと思われつつも、具体的に述べられていないので断定できません。しかし、いずれにしても、神の意思に反することを公然と行っていたか、また隠れてやっていたのが公けに明るみに出てしまった、ということであります。

イエス様は、この女性の献身的な行為というものは、たとえの中に出てきた、沢山の負債を帳消しにされて貸主に一層敬愛の念を抱く人と同じである、と教えるのであります。つまり、イエス様に沢山の罪を赦されたので、イエス様に一層敬愛の念を抱き、それが献身的な行為に現れた、というのであります。

ここで、注意しなければならない大事なことがあります。それは、女性が献身的な行為をしたので、それが受け入れられて赦された、ということではないということです。そうではなくて、女性は初めに赦さて、それで感謝と敬愛の念に満ちて献身的な行為に及んだ、ということであります。47節でイエス様は、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言っていますが、この「赦された」という動詞のギリシャ語は現在完了形(αφεωνται)で、ギリシャ語の現在完了形の意味に従えば、「この人は、ある過去の時点で罪を赦されて、現在に至るまでずっと罪を赦された状態にある」という意味です。過去のある時点で罪を赦されたというのは、以前にイエス様が女性に罪の赦しの宣言を既に行っていた、ということです。「罪を赦す」というのは、人が神聖な神の意思に反する行いをしたり、言葉を発したり、考えを持ったりして、神の怒りを買ってしまったにもかかわらず、その人がそれが神の怒りを買うものであることを認めて、これからはしません、だから怒りを取り下げて下さい、と悔い改めることを、神が受け入れるということであります。そして、悔い改めを神が受け入れるというのは、神がその罪を不問にする、事実としては残るが、あたかもなかったかのように忘れることにする、そして、もうそうしないと言った新しい生き方をあなたはすぐ始めなさい、私はそれを支援するから、ということであります。

これとは逆に、女性の悔い改めを信ぜず、彼女の犯した罪をいつまでも問い続けて、新しい生き方に踏み出すのを妨げようとするのが、周囲の人たちの赦しのないかたくなな態度です。37節で、「この町に一人の罪深い女がいた」というのは、ギリシャ語の原文では過去形(ην αμαρτωλος)なので、「この女は、以前この町で罪を犯していた者であった」という意味です。それなのに、ファリサイ派のシモンは心の中で、この預言者と騒がれているイエスは気が付かないのか、「この女は罪深い女なのに」(39節)、と呟きます。これは、ギリシャ語の原文では現在形(αμαρτωλος εστιν)なので、「この女は現在も罪びとでいるのに」という意味です。このように周囲の人たちは、女性が悔い改め、罪の赦しを得て、新しい生き方を始めようとしていることを信ぜず、赦されてなどいない、まだ同じ罪びとだ、と後ろ指をさして、顔と背を背け続けます。しかし、イエス様は、女性の悔い改めを受け入れ、罪の赦しを宣言して、もう同じ罪を犯さないで生きようという新しい生き方を応援する方に回ります。なぜ、女性が献身的な行為をするのかをシモンに説明した後で、イエス様は女性に言います。「あなたの罪は赦された」(48節)。これもギリシャ語では現在完了形なので、「あの時赦されたあなたの罪は今も赦され続けていて何ら変更はない」という意味で、周囲がなんと言おうが、神の御子イエス様と父なる御神の目から見れば、事実は確定しているから何も心配するな、ということです。さらに、会食の席に同席していた人たちが、イエス様が神にしかできない罪の赦しを公然と行うことに驚き始めた時に、イエス様はさらに太鼓判とも言える言葉を女性に述べます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。ここの「救った」というのも、現在完了形なので、正確には次のような意味になります。「あなたはわたしこそ罪の赦しを与えることができる者であると信じて赦しを得た。そうして、神との関係が回復して救われた者となった。それ以来、あなたは現在に至るまでずっと救われた状態にいる。」

4.

以上、かつて罪を犯していた女性がイエス様を救い主と信じる信仰に入って、罪の赦しを得て、神との関係が回復して、救われた者となったこと。そして、新しい人生を、周囲の赦しのない辛い荒波の中ではあるが、父なる御神と御子の支援と応援を受けて始めることができるようになったこと。そのために心も体も魂も恩恵と感謝の念に満ち溢れて、それが献身的な行為に現れたことを見てきました。実は、この女性に起きたことと同じことが私たちにも起きたのです。どういうことかと言うと、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまい、この世の人生では神との関係が途切れたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに永遠に戻れず滅びるしかなくなってしまいました。それを父なる御神はなんとかしようと独り子をこの世に送り、神と人間を分け隔てていた原因である罪を全て彼に負わせて、罪から来る罰を全てイエス様に受けさせて、十字架の上で死なせました。人は、この神の独り子の身代わりの死が自分のためになされたとわかってイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しの救いを自分のものとして受け取ることができます。こうして人は自分の造り主である神との関係が回復します。

さらに、父なる御神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死の絶対的な力を無力にして、永遠の命、復活の命の扉を人間に開かれました。こうして、イエス様を救い主と信じる者は、造り主である神との関係が回復した者として、永遠の命に至る道に置かれてこの世の人生の歩みを歩み始めることとなります。神との結びつきが回復したのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神の良い導きと助けを得られ、たとえこの世から死ぬことがあっても、神はすぐ手を取ってみもとに引き上げて下さり、永遠に造り主のもとに戻れるようにして下さいます。私たち一人一人を造り、命と人生を与えて下さった方が、このような計り知れない恵みの業を私たちのために成し遂げて下さったのです。私たちの心も体も魂も、本日の福音書の箇所の女性のように、深い恩恵と感謝の念に満たされないでいられましょうか?どうか、神由来の愛がこんこんと尽きることのない泉の水となって、私たちが思う思い、発する言葉、行う行いの全ての隅々にしみわたっていきますように。もちろん、肉を纏って生きる私たちにはまだ罪が宿っているので、いつでも恩恵と感謝の念が弱まり、神の思いよりも自分の思いを先に立てようとすることが起きます。それでも、悔い改めと罪の赦しと再出発の可能性は絶えず開かれています。本日の箇所でイエス様は、一度宣言された罪の赦しは、その後も変更はなくそれは現在も効力を有している、と宣せられました。これは、イエス様を救い主と信じる私たちにもそのままあてはまります。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに勇気を持って歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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