説教「神に罪を赦された者として生きるということ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 6章37-49節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所の終わりのところで、イエス様は、二人の異なる人を比較します。一人は、イエス様の教えを聞いて、それを実行する人。もう一人は、教えは聞くが、実行しない人です。この二人がどう比較されるかというと、最初の、イエス様の教えを聞いて実行する人は、堅個な地盤を選んでそこにしっかりした基を築いて、その上に家を建てた人。教えを聞いても実行しない人は、地盤を選ばずただの地面に基も築かずに家を建てた人。そして洪水が押し寄せてきたとき、堅個な地盤の基の上に建てられた家は、揺るぎもせず洪水に押し流されることもなく、しっかりとどまったが、ただの地面に基もなく建てられた家は、見るも無残に倒壊してしまった。イエス様の教えを聞いて実行する人は、このしっかり残った家を建てた人で、教えを聞いても実行しない人は、倒壊してしまった家を建てた人と同じである、と言うのであります。

ここでイエス様が言われることは、ルター派のキリスト信仰者である私たちをドキリとさせます。イエス様の教えを聞くだけでは足りない。それを実行しなければならない。そうしないと、基のない家を建てる人と同じように家ともども悲惨な運命を迎えてしまう。つまり救いに与れない、復活の命・永遠の命に入れないということであります。

ご存じのように、ルター派では、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から「お前はふさわしい者だ」みなされる、「よし」とみなされる、つまり信仰によって義と認められるという信仰義認が強調されます。人間は、律法に命じられたことを守ることで神に「よし」と認められるのでなく、また善い行いを積み重ねて神に「よし」と認められるのでない。イエス様を救い主と信じる信仰によって神に「よし」と認められるというのであります。そうすると、本日の箇所で、イエス様は、ご自分の教えを実行することの重要性を説くのでありますが、それは、信仰義認ではなく、律法主義や善行義認を意味するのでしょうか。まず、この問題を考えてみましょう。

2.

確かに、イエス様の教えには、「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに実行や実現を迫る命令が多くあります。ただし、ルターによれば、こうしたイエス様の命令は、人がイエス様を救い主と信じる信仰に入って救われた状態になった時に関係してくるというものです。つまり、これらの命令は、まだ救われていない人がこれから救われることを目的として行うものではない、ということです。

どういうことかもう少し詳しくみてみます。本日の福音書の箇所のはじめで、イエス様は、「あなたがたは、自分の量る秤で量りかえされる」(6章38節)と述べます。つまり、キリスト信仰者は、他人を見下したり侮ったりすれば、自分も神から見下されたり侮られたりしてしまうということです。他人に情けなく振る舞えば、神もその情けない人に対して同じように情けなく振る舞ってしまうということです。ルターは、この箇所について、次のように教えます。

『これは、まことに奇妙な教えだ。神は、我々が神よりも隣人に仕えることの方が大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分に関わることならば、我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人に関わることとなると、そうではない。もし我々が隣人に対して悪く立ち振る舞えば、神はもう我々と平和な関係にはない、以前与えた赦しも全て却下すると言われるのだ。

実は、この「量る、量りかえされる」というのは、我々が信仰に入った後に起こることで、信仰に入る前のことではない。君は、信仰に入った時のことを思い出すがよい。神は、君のことを君の業績や能力にもとづいて受け入れたのではなかった。神は、御自分の一方的な恵みによって君を受け入れて下さったのだ。そして、信仰に入った君に対して、神は今、次のように言う。「私がお前にしたように、お前も他の人たちにせよ。もししないのならば、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも及ぶ。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げるだけで、何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ、何も与えないことにする」と。

信仰に入った後の「量ること、量りかえされること」は、このようにして起きる。神は、信仰者の我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与える。それで、もし我々が隣人に善いことをしようとしなければ、神も我々にお与えになった善いことを却下されるのである。そのようにして我々は、自分に信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。』

実に厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、こういうことです。つまり、私たちは神から計り知れない恵みをいただいているのだから、そのことがわかっているならば、そのような計り知れない善いことを私たちにして下さった神を心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、ということであります。つまり、キリスト信仰者にとって、善い行いとは、神に救われたことの結果として自然に生じてくる果実のようなものでなければならないということです。神から救いを勝ち取るための努力や修行では全くないのです。

そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで救われて、そんなに簡単に善行が生じてくるのか、と訝しがる向きもでてくるかもしれません。実はそんな時こそ、自分が救われたことがどんなに大きなことであるか、一度立ち止まって吟味する必要があります。

3.

何が人間の救いか、何が救われていない状態で、そこからどのようにして救われた状態に入れるのか、ということについて、聖書は明確に知らせています。救いということがわかるために、まず人間には造り主がいるということを認めなければなりません。人間なんか、神の大いなる意志や計画とは無縁に、いろんな化学物質の偶然の合成からできてきて勝手に進化して今ある姿かたちになったのだ、という見方をとれば、救いということはでてきません。聖書は、人間とは創造主の神に造られたものであり、神から命と人生を与えられたという立場に立っています。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、そこにどんな問題があるのか、それはどう解決されるのか、そういうことを明らかにしていきます。救いとは、つまるところ、造り主の神と造られた人間の間の関係にかかわることなのです。

創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。死ねば永遠に造り主から切り離されて滅ぶしかない人間を、神は深く憐れみ、再び関係を回復して神のもとに戻れるようにしようと計画を立てて、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順からくる罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、この身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで、死の持っていた絶大な力を無力にして、永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。
詩篇49編8-9節に次のように言われています。
「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金をはらうことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」。
このように、人間がいくら金銀財宝を積み上げても、造り主である神との関係を立て直して、永遠の命を得ることはできません。ところが、この払いきれない身代金を払って、人間を罪と死の奴隷状態から贖い出して下さった方がいました。それが、イエス様だったのです。イエス様は、十字架に架けられる前から、自分は「多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)のだと、御自分に課せられた任務を明らかにしていました。イエス様が私たちを買い戻すために支払った代金とは、十字架の上で血みどろになって流した血、神聖な神の御子の血がそれだったのです。それが、私たち一人一人の価格だったのです。

こうして、人間は、イエス様の十字架の死と死からの復活が全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は、神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に通じる道に置かれます。神との結びつきができたのでありますから、順境の時にも逆境の時にも絶えず神の守りと導きを受けられます。たとえ、この世から死ぬことになっても、造り主である神の御許に引き上げてもらって永遠にそこに留まることができるようになりました。私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、私たちはこれ以上何を求める必要があるでしょうか?神の私たちに対する愛の深さがわかれば、喜びと感謝のあまり、他人が自分に対してどんな負債があろうが、また自分に気に食わないことを言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもなく大きなことを私のために成し遂げて下さった神を全身全霊で愛するのが当然と思うようになります。そして、そこから出発して、神がしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となっていきます。

4.

以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に命じられる時、それは同時に、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いの所有者であることを忘れるな」という注意喚起が伴っていることが明らかになりました。このことを念頭に入れて、本日の福音書の箇所のイエス様の教えを見てみましょう。

まず、37-38節。裁いてはいけない、有罪としてはいけない、とイエス様は命じられます。ここで注意しなければならないのは、これは、悪や犯罪を放置しろ、悪や犯罪をさせたいままにさせろ、ということでは全くありません。天地創造の神は、罪や不正義や神への不従順を激しく憎む方です。神は神聖な方ですから、汚れた罪を目の前にすれば、即座に焼き払われる方です。従って、私たちは、犯された罪を目の当たりにした時、うやむやにしたり曖昧にしたりすることなく、それは罪であると、神の意思に反するものであると、罪を犯した人に対して態度を明確にしなければなりません。もし罪が他人に危害や損害をもたらす度合いのものであれば、それは社会の法制度が定めている仕方で処罰や償いを実行していかなければなりません(もちろん、その処罰や償いが理に適っているかどうかは、たえず考えていかなければならない問題ですが、ここでは立ち入りません)。

しかしながら、ここで注意しなければならないことは、罪や不従順を断罪せずにはいられない神聖な神の目的は、実は人間が罪と抱きかかえに滅んでしまうことではなく、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係を回復することにあるということです。キリスト信仰者が罪に対して明確な態度をとる時に、罪を犯した人に対して、「こんなことをしたお前は神との関係が断ちきれたままで、関係修復の見込みはない」などと断罪してはならないということです。神の関係が断ちきれたままで関係修復の見込みがないかどうか、それは神が将来最終的に決めることであります。ひょっとしたら、その人は、いつの日かイエス様を自分の救い主と信じるかもしれないのに、今断罪してしまったら、これは呪いをかけるも同然です。神の目的は出来るだけ多くの人が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることなのに、この目的を阻止することになります。神に反対する者になってしまいます。神の反対者であれば、そのような人こそ逆に神から呪われる者になってしまいます。罪を犯した人に対して、キリスト信仰者は、断罪するかどうかは神に任せて、自分自身としては、罪を犯した者がイエス様を救い主として信じ受け入れられるような働きかけをする、ということであります。もちろん、罪を犯した人が異常な位に心が凝固していれば、働きかけは逆効果になる危険があります。その場合は、神に祈って祈ることから始めます。祈ることも大事な働きかけです。とにかく働きかけをするのが、神の目的に仕えるキリスト信仰者の任務であります。罪びとが「罪の赦しの救い」を最後まで拒否し続ければ神の断罪は免れません。しかし、それを受け入れてイエス様を救い主と信じるならば、どんな大きな罪も赦されて神との関係が回復されるのです。社会的な償いが大きくなる犯罪であればあるほど、この「どんな大きな罪も赦される」はなかなか信じられません。しかし、神の目から見て神との関係が修復されたことは揺るがないのであります。

39-40節のイエス様のたとえの教え。盲目の人が盲目の人を道案内しようとすれば、二人とも穴に落ちてしまう。道案内をしようとする盲目の人とは、先に述べた、罪びとに「罪の赦しの救い」を及ぼすのを妨げる者、神の専権事項である断罪を自分の仕事にする者のことです。このような者の断罪を被ってしまう罪びとは、救いを受けることを妨げられ、気の毒です。断罪を行う者は行う者で、そのために神から断罪されかえされてしまい、憐れです。二人とも救いの可能性を失い、穴に落ちてしまう、これは悲劇です。

ここで、イエス様は、弟子は教師に優るものではないが、全ての弟子は、やがて必要な課程を修了した者となって教師のようになる、と言われます。動詞の未来形(εσται)が使われ、将来こうなると約束がなされます。どういうことかと言うと、イエス様が、これらの一連の教えを述べているのは、まだ十字架と復活の出来事の前のことです。まだ、神の御子の神聖で尊い血を身代金とする「罪の赦しの救い」は、まだ実現されていません。そんな時に、罪びとを裁くな、赦せ、などと教えられても、人々にはそれを実行するための土台がないのですから、途方にくれるしかありません。この時、弟子は教師であるイエス様に遠く及ばない存在でしかありません。しかし、イエス様の十字架と復活により「罪の赦しの救い」が実現して以降は、状況が一変します。自分はとてつもない価格をもって神のもとに買い戻されたのだとわかって、この救いを受け取る者がでる。そして、その者が今度はまさにイエス様の真の弟子として、他の人たちもその救いを受け取ることができるようにすることが任務となる。まさに、洗礼と信仰という必要な課程を修了して、救いを拡げていく者として、教師イエスが開始した仕事を受け継ぐ、その意味で教師のようになるのです。この教えを述べられた当時、イエス様は、今はまだ不可能であるが、将来そうなる、と約束しているのです。その約束は実現されたのでした。

こうして、41節から後のイエス様の教えは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者とそれを妨げる者の対比となります。41-42節に出てくる、他人の目にある屑のような小さいゴミに気づいて、自分の目にある大木には気がつかない人とは、まさに断罪して「罪の赦しの救い」を拡げていくことを妨害する盲目の信仰者のことです。43-45節の良い実を実らせる良い木とは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者であり、悪い実を実らせる悪い木とはそれを妨げる者を指します。そして、最後に46-49節で、イエス様の教えを聞いて実行する者とは、まさに「罪の赦しの救い」を自ら受け取ってそれを拡げていく者であり、教えを聞いて実行しない者とは、赦しを受け取ったにもかかわらず、断罪者となってしまい赦しを拡げることを妨害してしまう者のことです。一方は、嵐や洪水が来ても倒れない家を建てる人と比較され、他方は倒壊してしまう家を建てる人と同じになってしまいます。

5.

先に、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に教えられる時、それは、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いの所有者であることを忘れるな」という注意喚起が伴っている、と申しました。そして、もし私たちが、イエス様の十字架と復活を通して神から計り知れない恵みを賜ったことが自覚できているならば、そのような計り知れない善いことをして下さった神を私たちは心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、と申し上げました。まさに、神の私たちに対する愛と恵みのなんたるやを知った時に、私たちの心にも愛が点火される、ということであります。

そうは言っても、現実はなかなかそう甘くはない。隣人を自分を愛するが如く、と言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。そこで、ルターは、キリスト信仰者のこの世の人生は、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。キリスト信仰者は、この世から死ぬ時に古い人は肉と共に滅びて、完全なキリスト信仰者になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いです。しかし、聖書の神の御言葉と聖餐にしっかり繋がり、罪と死と地獄に対して完全勝利を収めたイエス様に結びついている限り、イエス様は私たちを必ず勝利に導いて下さいます。

最後に、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人、つまり「罪の赦しの救い」を受け取って、それを他の人にも拡げていく信仰者の人生について一言。イエス様は、残念ながら、救いを受け取った信仰者に安逸な人生が保障されるとは教えません。しっかりした地盤の基の上に建てられた家も、基がないままに建てられた家となんら変わりなく、嵐や洪水に見舞われると言われます。つまり、人生の歩みの中では、信仰者であるかないかにかかわらず、同じように苦難や災難に遭遇するということです。いくら基の上に建てられたと言っても、家が激しく揺れたら、さすがに恐れや心配を抱いてしまうでしょう。いくら神との関係が回復して、日々守りと導きを受けていると言っても、苦難や災難に遭遇したら、立ち向かっていけるか心配になるでしょう。しかし、イエス様は、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係が回復された者、そしてそこから生じる喜びと感謝から自分の生き方を神の意思に沿うものにしようと志向する者、こういう者は倒壊しない家にいるのと同じなのだ、だから、恐れる必要はないのだ、と教えられるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

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