説教「主イエス・キリストは我らの良き羊飼い 我らに不足はなし」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章22-30節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

復活祭後の第一、第二主日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事についての弟子たちの目撃録でした。復活後第三主日である本日の福音書の箇所は、舞台を再び、十字架と復活の前の出来事に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事が起きる前は、聞く人見る人にとってもわかりにくいことが多くありました。また、それらの意味を理解したつもりで実は間違っていたことも多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらはどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の箇所も、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことを知る者として、解き明かしてまいりましょう。

イエス様は、数々の奇跡の業と神の権威を持つ教えで、ガリラヤ地方とユダ地方、さらにヨルダン川東岸を含むローマ帝国シリア州(マタイ4章24-25節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なる神から送られた神の子である、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的存在である「人の子」であると公言していました。これに対して、ユダヤ教社会の宗教指導層は、あの男は神の子でも救世主でもなんでもない、民衆を惑わす危険な存在だと見なしていました。宗教指導層が取り仕切っていた神と人間の関係を、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦以外の何ものでもありません。しかし、本当は、イエス様が取り仕切るやり方が神の意思そのものだったのです。宗教指導層は、自分たちの教えや流儀が神の意思を代弁していると思い込んでいました。

宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて死罪にしようと思っていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にいるイエス様を見つけて取り囲み、群衆の見ているただ中で尋問を始めました。イエス様が何か誤ったことを言えば、大勢の人が証人となる状況です。指導者たちは聞きました。いつまでお前は我々をはぐらかす気か、お前がもしメシアなら(ギリシャ語原文ではヘブライ語のメシアמשיחのギリシャ語訳であるキリストχριστοςが記されています)、我々にそうはっきり言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言っていたのに、君たちが信じようとしないのだ、と。ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことを、メシアであると指導者たちに公言したことは見当たりません。ヨハネ4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では、信奉者に対しても、反対者に対しても、自分は父なる神から送られた神の子であるとか、救世主的存在である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中には、イエス様がメシアであると信じる人も出ましたが(7章31節)。いずれにしても、イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言っていた、というのはどういうことでしょうか?これは、メシアという言葉が当時、神の意図に反して人々に誤って理解されていたという問題があります。

メシアとは、もともとは油を頭に注がれて聖別された者を意味しました。神の特別な使命を果たす者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様と理解されました。ダビデ王朝の王国は、紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにバビロンからユダの地に帰還しますが、民はそれ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間、民の間では、将来ダビデの血筋を引く者が王として現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し、諸国に号令をかけるとの期待がずっと抱かれていました。この王がメシアとして考えられたのです。

その一方で、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民の間で、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目し、今ある天と地はやがて終わりを告げ、新しい天と地にとってかわられる時が来るとわかった人たちがいました。そうした預言を信じる人たちにとって、メシアとは、創造の秩序が一新される時に現れ、創造主である神への信仰をしっかり守った者たちを新しい秩序の世界に迎え入れる、そういう終末的な救世主を指すということがだんだん明らかになってきました。この意味でのメシアは、この世的でユダヤ民族の解放に尽力するダビデ家系の王とは異なり、全人類にかかわる救世主です。そのようなメシアは、旧約聖書ダニエル書に出てくる「人の子」と結びつけて考えられるようにもなりました。

このようにみると、イエス様が尋問を受けた時、なぜずばり自分がメシアであると言わなかったのか、以前はっきり言っていたわけではないのに、どうして、既に言っていたなどと言ったのかがわかってきます。イエス様は、この世的で特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたメシアだったからです。もし、「私はメシアだ」と言えば、聞いた人たちの多くは、イエスが自分はメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えられたでしょう。そうなれば、宗教指導層にとってはしめたもので、この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様は、自分では本当の意味でメシアであるとわかっていましたが、聞く方がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使用するのは控え、かわりに父なる神から送られた神の子であるとか、終末の救世主である「人の子」であると公言していたのであります。しかし、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、これを言うことが、宗教指導者をますます苛立たせました。あの男は神を冒涜している、と。

2.

それでは、ユダヤ教社会の宗教指導層は、なぜイエス様が神の子であること、「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にあったにもかかわらず。イエス様が数々の奇跡の業を行っていることは、広く知れ渡っていました。そうした奇跡の業を自分の父である神の名によって行っている以上、業自体が自分が神の子であることを証しているのだ、それでもお前たちは信じようとはしない、とイエス様は呆れ返ります(10章25-26節)。

指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、自分たちが神の意思だと思ってやっている規則をイエス様が飛び越える仕方で神との関係を取り仕切ろうとしている、これが指導層の権威に対する挑戦と受け止められ、危惧感を抱いたのであります。そうすると、彼らの権力欲が不信仰の原因だったと言えます。確かに4つの福音書の中には、サドカイ派やファリサイ派や律法学者などの宗教指導層が利己主義に陥っていることを批判する箇所が多くあり、ややもすると彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。実は歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それがどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができない不信仰に陥ったのかと言うと、それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思を代弁していると固く信じていたからです。このため、イエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に態度が頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増して、例えば、イエス様が不治の病の人を完治する奇跡を行っても、それが労働を禁じる安息日に行ったという理由で、この男は神の意思に反する者だ、と、奇跡よりも規則違反の方に目が行ってしまう位に本末転倒していたのであります。

ユダヤ教社会の宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因として、旧約聖書に述べられている神の約束というものをユダヤ民族のみに関わると理解していたことが考えられます。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の間の関係の歴史が延々と語り伝えられているので、ユダヤ民族以外の世界の諸民族は、その他多数にしか感じられなくなってしまうかもしれません。しかし、ユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものなのであります。

それは、創世記の出来事から明らかです。神によって造られた最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順となり、罪を犯したことが原因で人間は死ぬ存在となりました。人間は、ユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、罪を言い表すとき、具体的な行為に現れる罪(tekosynti、verksynd)と具体的な行為には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisynti、arvsynd)という二つの言葉があります。

罪のために、人間は神聖な神との関係が壊れてしまい、神から引き裂かれた存在となってしまいました。それに対して神は、人間が再び永遠の命を持って自分のもとに戻れるようにと人間救済計画を立てました。アブラハムが歴史の舞台に登場し、モーセがイスラエルの民を率いて奴隷の地エジプトを脱出するようになって、イスラエルの民、ユダヤ民族というものがはっきりしてきます。神は、この自分が選んだユダヤ民族とのやり取りを通して、自分はどんな存在でどんな意思を持ち、どんな考えを持つかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間救済計画についても預言者を通して明らかにしました。そして、計画実現の時が来た時に、独り子であるイエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様に課した役目は、人間が自分で背負っていては永遠に滅びてしまう罪と不従順をかわりに全部背負わせて、人間にかわって滅ぼさせること、そして、この身代わりの犠牲に免じて神が人間を赦すようにすることでありました。人はただ、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神の赦しがその人に効力を持つようになります。このように赦された人は神との関係が再興された者となり、神との結びつきの中で生きられるようになり、この世の人生を終えた後は、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。イエス様が送られた場所は、まさに神の意思を具現化した十戒と神の御言葉と約束を授かっていたユダヤ民族の真っただ中でした。そこで、神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示すことによって反感を買い、それによって殺されるという形で贖罪の死が実現しました。そして、神はイエス様を死から復活させました。まさに、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、神の意思と約束とは、実はかつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するためのものだった、それゆえ特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだった、ということが謎がとけるように明らかになったのであります。願わくは、この神の愛と恵みが、特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが、多くの人にわかってもらえますように。

3.

本日の福音書の箇所で、イエス様は、自分の羊について語っています。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ10章27-28節)。永遠の命を与えられ、死んでも決して滅ぶことがない者とは誰かというと、それは、死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との関係が再興された者、つまりキリスト信仰者を指します。そういうわけで、この言葉は、十字架と復活の出来事の前に述べられたものですが、それらが起きた後で本当のイエス様のことがわかって信じるようになる者を指しています。

イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の出来事の前にイエス様と接触があって彼の教えを直に聞いたということではありません。もちろん、死から復活して天に上げられたイエス様の声を、私たちは直に耳に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼が選んだ弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主であると信じることなく福音書を読めば、それは古代中近東の人間の空想が混ざった一種の歴史的物語にしかすぎなくなります。しかし、信じる者にとっては、自分を造って命を与えてくれた神と自分との結びつきを取り戻して下さった方の言葉です。その意味で、私たち一人一人に語りかける言葉です。さらに福音書以外の書物についても、使徒が記した書簡は、イエス様の十字架の死と死からの復活があったからこそ生まれ出た信仰の書物です。旧約聖書も、来るべき救世主の受難と復活を通して人間の救いが実現することを示す書物群です。総じて聖書は、イエス・キリストに結びついています。聖書を読むことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができるわけです。

イエス様は、また、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っている、と言われます。10章3節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言い、14節で、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われます。このように、イエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのであります。個人的に知っているのだから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことを全部、祈りをもって打ち明けることを望んでいらっしゃいます。そうすることで、私たちはイエス様にしっかり信頼をおいていることを、イエス様にも示し、自分自身にも言い聞かせることになります。イエス様や父なる神はどうせ全部ご存知だから、あえて祈る必要もない、というのは、信頼をおくことを怠けることになり、やがては別のもの、自分自身とか全く他のものに信頼をおくようになる危険があります。使徒パウロは、「フィリピの信徒への手紙」4章6節にて次のように勧めています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との関係がしっかり築かれた者として、この世の人生を歩むことになる、と先に申しました。人生の歩みでは、たえず私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを受け止めてくれる主がいつもそばにいて下さるということも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との関係はしっかり保たれているのであろうか、と疑問や不信を抱くことに多く遭遇することも事実です。例えば、神への不従順と罪に陥った時とか、また苦難や逆境に陥った時などがそうです。

罪と不従順に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの価値が減じることはありません。救いと恵みに力がなくて、自分が罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの価値と力は、私たちがどんな状況にあるかにかかわらず、不変です。それゆえ、罪と不従順に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、悔いる心を持って神の御前で赦しを願い求めることです。その時、十字架と復活に現れた神の恵みと愛は、私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って、私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者は、いつも戻る場所があります。

私たちは、自分自身の罪が原因ではないのに、苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はどう理解したらよいか、とても難しいのですが、一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような者でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言わず、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは、私たちが自ら捨てない限り、いかなる状況にあってもしっかり保たれているのであります。また、聖餐式でパンとぶどう酒を通して受ける主の血と肉は、私たちの神との結びつきを一層強めるものです。

パンとぶどう酒を受けて、造り主である神との結びつきが強められるなどと言われても、そう見えないし感じることはできません。洗礼の水をかけられて、神との関係が再興されたなどと言われても、そう見えないし感じられもしません。しかし、神の目から見れば、関係は再興され、結びつきは強められているのです。人間は限られた存在ですから、神との結びつきを信じられるために、どうしても見えるものに頼ってしまいます。例えば、病気が治るとか、何か欲しいものが手に入るとか。しかし、たとえ人間が五感と理性を使って見ることも知ることもできなくても、神が、これで再興された、強められた、と言えば、そうとしか言えないのであります。信仰とは、つまるところ、私たちの限りある目から見てどうなんだ、ということではなく、神の目から見てどうなんだ、ということであります。その神の目で見ることができる事柄は、聖書を通して知ることができるのであります。聖書の言葉は、誠に神の御言葉であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

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