「テキスト」6月21日(日)説教「神は信仰を告白する者の魂を守りとおす」吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2020年6月21日(聖霊降臨後第三主日)

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エレミア20章7-13節、ローマ6章1b-11節、マタイ10章24-39節

説教題 「神は信仰を告白する者の魂を守りとおす」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思から外れた生き方をし、内憂外患に陥って最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされる、その直前の紀元前7世紀から6世紀にかけての頃のことです。神はエレミアに国に迫っている危機について宣べ伝えて国民が神に立ち返るようにしろと命じ、エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。

福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けることになると預言しています。エレミアの場合もイエス様の教えも、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわるような大変な目に遭うということについて述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うということも言われます。

そこで本日の説教では最初に、この神が守ってくれる「魂」とは一体何なのかということをみてみようと思います。魂と似た言葉に「霊」もありますが、両方ともわかりそうでわかりにくい言葉です。それらについて、旧約聖書と新約聖書ではどのような意味で使われているかを考えながら、その意味を明らかにしていこうと思います。その次に、エレミア書の本日の個所に復活の信仰が見られるのでそれを見ていきます。キリスト信仰では「魂の救済」ということを復活の信仰に結びつけて考えることは大事です。復活なくして魂の救済なし、魂の救済なくして復活なし、と言ってもいい位です。そのことを説教の第二部で見ていきます。最後の第三部では、マタイの個所が提起している問題についてです。それは、人前で自分はイエス様に繋がる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に繋がる者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということです。このことに関連して、実はこのほど帚木蓬生の長編小説「守教」を読みました。隠れキリシタンと呼ばれる潜伏キリスト教徒を題材にした歴史小説です。そこで、いくつか視点を得られたのでそれについてお話ししようと思います。(「このほど読みました」というのは正確でなく、下巻に入ってあと200ページ残すところで、もうこの先どうなるか気になって仕方なくなり、つまみ食いするように終わりまで一気に行って、今じわりじわりと残りを読んでいます。)

2.聖書の「魂」について

まず、「魂」についてみてみます。いろいろな定義があると思いますが、それを聖書に出てくる言葉に頭から当てはめるのではなく、聖書の中でその言葉が出てきたら、ここではこういう意味だろうか、別の所ではこうだったのではなどと考えながら、あくまで聖書の中での使われ方を意識しながら理解していこうと思います。「魂」と日本語に訳されるもとの語は、旧約聖書のヘブライ語ではネフェシュנפשと言い、新約聖書のギリシャ語ではプシュケーψυχηと言います。

本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10章28節)と言われています。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまうが、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来るのです。しかし人間には出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分までで、神に守られている者は体は滅びても魂は滅ばないということです。

魂は目で見えない部分です。体は目で見える部分です。手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。魂はできません。そうした体の部分は死んで腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。ただし、神に守られていればの話です。そこで、目で見えない魂は本当に存在すると言えるのか?手足や骨肉内臓であれば働きも機能もあるが、魂はどんな働きをするのか?詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(2~3節)とあります。ヘブライ語の動詞ישוביבは、「生き返らせて下さる」と訳すと死者の復活を連想させてしまいますが、基本的には萎えた状態から立ち直らせるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた体全体です。ここでは「魂」が体全体を代表しているという使われ方です。それで、「人そのもの」を意味するように使われていると言ってもいいでしょう。

また詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は「心」と同じと言ってもよいでしょう。

さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を魂という言葉で言い表して人そのものを意味しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化してその見守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は「命」と同じ意味になると言えます。実は、本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているところで、「命」と言っているもとの語はプシュケー魂です。それなので、ここの意味を魂にこだわって考えたら次のようになるのではと思います。「魂を守ったり滅ぼしたり出来るのは神である。それなので、人間が神抜きでそれを自分で支配しようとしても出来ない。逆にイエス様を救い主と信じる信仰にあれば、それは魂の支配権が神にあることを認めることになる。それでそれを守り通してもらえるのである。」

さて、魂は、肉体と魂の双方を持つ「人間そのもの」を言い表す言葉にもなり、「命」や「心」にも言い換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、これ位でも多くのことは網羅できるのではないかと思います。そこで、魂は肉体が滅びた後も残るということですが、そうなると肉体が滅びた後も、肉体のような形は持たないがその人自身が残っていることになります。ここでキリスト信仰で大事な事柄、「復活の信仰」が重要な意味を持ってきます。復活とは、死の眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に迎え入れられる、ということです。使徒パウロが第一コリント15章で教えるように、肉体の体は失われるが、それに代わって新しい、もう朽ちることのない復活の体が与えられるのです。体は異なっても魂は滅びず守られていたので同じ人です。それなので、「私は吉村博明である」という自分が続きます。この世で纏っていた弱い朽ちる体にかわって神の栄光を映し出す輝く体を纏っているという自分に気がつくのです。

ここで「魂」と並んでよく使われるが、同じようにわかりやすそうでわかりにくい言葉、「霊」を見ていきます。ヘブライ語でルーァハרוח、ギリシャ語でプネウマπνευμαと言います。両方とも「風」という意味も含んでいます。聖書の中では、霊とは肉体と魂を持った人間が息をする生き物になるために吹き込まれるものということがあります。さらに、人間がただ単に生き物として生きるだけでなく、神から罪を赦されて神との結びつきを持って生きるようになる時に、さらに神からの霊、聖霊が注がれるということがあります。

それでは、霊と魂はどう違うのでしょうか?復活信仰の観点に立てば、魂は復活の日まで安らかに眠っていることになります。霊はちょっと違います。旧約聖書では死者の霊や霊媒と関りを持つことが禁じられています(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。ということは、霊は眠っていないようです。さて魂と霊は、どちらが亡くなった人を代表しているでしょうか?私自身は、復活の日までは安らかに眠っていたいと思う者です。

3.エレミアの復活の信仰

エレミアという預言者は、初めにも申し上げましたように、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。しかし、国は滅亡し人々は占領国に連行されてしまうが、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現されるという希望の預言も残します。つまり、神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さるという方でもある。だから国滅亡しても自暴自棄になるのではなく、神を信頼して時を待てというメッセージです。

加えてエレミアのメッセージには、神の御言葉を宣べ伝えたり信仰を人々に証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものもあります。今日のところがそうです。神は必ず、その者に報い、補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。本日の個所にも出てきます。

7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」

ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」ですが、「見させてください」はヘブライ語の動詞の形をすると、「私は見ることになる」というふうに将来のこと、起きてしかるべきことを意味すると思います(どうしてそうなのか、後注に記します)。それから「復讐」という語ですが、標準的な辞書(HolladyのConciseです)によれば、人間がするものなら「復讐」、神がするものならば「報い」とか「補償」と出ていました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義の大清算です。神に立ち返る生き方をした者たちがしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われて、この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っていているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとって益になります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。

エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳では「なぜなら」と言っていませんが、ヘブライ語にはあります。「なぜなら(כי)、自分の訴えをあなたに委ねたからです。」訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということで、パウロの復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。

13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアの状況がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では「救い出して下さった」と過去の意味です。これは興味深いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに、自分の魂は既に神の手中にあるのだ、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然なのだと言うのです。

このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことなのですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生まれた。あとはその状況にのめりこむようにして生きるだけである。それが「神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴んでいることになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から与えられた使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。

4.潜伏キリスト教徒と信仰の告白

本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様に繋がる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に繋がる者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?帚木蓬生の「守教」に登場する「今村信徒」たちは踏み絵を踏み檀家制度にも組み込まれ、人前ではイエス様に繋がる者と公表しませんでした。しかし、その傍ら代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました(あれっ、どうして復活祭はないのかな?当時のカトリックないしイエズス会の考え方?でも、高山右近は高槻城下で復活祭を盛大に祝ったと何かの歴史書に書いてあったではないか)。教会など公けに礼拝する場所がない状況で、これらのことを250年近く代々守り受け継ぎました。公には仏教徒を装い、隠れた所ではキリスト信仰の伝統を守り伝えたわけですが、これは、イエス様が明言されたことに照らしてどうなのか?

小説は歴史上実在した人物が大勢登場しますが、あくまで小説ですのでなされた会話が全て史実ではありません。しかし、それでもこの問題を考える上で良い視点がいくつかあります。一つには、中浦ジュリアン神父、彼は天正少年使節の一人でした、彼が信徒である大庄屋に宣べた言葉ににこういうのがあります。「あなたたちは殉教しないで下さい。殉教は聖職者がすることです。あなたたちは信仰を守り続けて下さい。聖職者は必ず来ます。たとえ200年後になっても。それまでは信仰を守り続けて下さい。」同じ言葉はペドロ岐部神父も述べます。彼は単身でローマに行き、途中日本人で初めてエルサレムも訪問した人です。二人の神父は後に拷問にかけられて棄教せずに殉教します。将来聖職者が訪れる日が必ず来る、それまで隠れてでも信仰の共同体を維持することが大切な使命になったのです。

もう一つは、隠れても身の保全そのものが目的ではなく、場合によっては申し開きをしなければならない日が来ると覚悟と準備が出来ていました。権力側の執拗で緻密な捜査体制や多額の報奨金による密告制度が張り巡らされていて、隠れて洗礼や祈りを行っているとは言え、いつ発覚してもおかしくないという状況でした。それを当人たちは薄氷の上を歩いている、もし氷の割れ目に落ちたら水底が天国になるとさえ言っていました。その意味で、最初の頃に信仰を公けにして殉教してしまった人たちは一足早く氷の割れ目に落ちてしまったということになるのでしょう。

そこで、出来るだけ長く薄氷の上を歩き続ける者たちがやがて発覚したらどうなるのか?取り調べの時に拷問を避けてさっさと棄教するということはありえませんでした。実際、明治維新の1年前の1867年、今村信徒の存在が発覚して久留米城下で取り調べが行われた時、まさにそうだったのです。彼らは、ついに来るべきものが来たと覚悟を決めました。どうせ殉教が待っているのだから思うことは全部言った方が清々するという態度でした。それで役人たちから、お前たちが信奉している教えは何だ、と聞かれて、デウスは全ての創造主だから拝まなければならない、百姓も侍も皆デウスに造られたのだから、お役人様あななたちも拝まなければいけないのです、とまで言ってのけます。使徒信条通りです。

結果は、今村の信徒たちの処罰は戊辰戦争や明治の政変のどさくさでうやむやになったのでした。それとは対照的だったのは、浦上の信徒たちでした。彼らは明治6年に切支丹禁令の高札が撤去されるまで迫害を受けてしまいます。多くの殉教者を出してしまいました。今村ではかつて信徒たちを守るために自らを犠牲にした庄屋の平田道蔵の墓があったところに教会が明治14年に建てられます。小説ではペドロ岐部神父が250年近く前にそれを預言したことになっています。

以上のように潜伏キリスト教徒の場合、将来の教会の再建の種を残すという使命を託されたことや、それは命がけのことで発覚した時は信仰を公表することになるとわかっていたし実際そうしたということは考慮に入れるべきことと思います。

ところで、今村の信徒たちが取り調べの時に、あなたたちも創造主の神を拝むべきです、と言った時の役人たちの答えは「日本には神仏がある。日本人はそれを拝めばよいのだ」というものでしたが、これは実にありうる考えです。今でもこの考えは変わっていないと思います。日本人にはキリスト教は合わないという考えはかなり根深いものがあると思います。室町時代末期、安土桃山時代、江戸時代初期にかけて日本人の間にかなり浸透したにもかかわらずです。キリスト教が壊滅してしまったのは、日本人に合わなかったからではなかったのです。暴力と武力で壊滅させられたのです。遠藤周作の有名な「沈黙」の終わりで、棄教しして仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。その言い方はいかがなものか。暴力と武力で壊滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは問題のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。日本人がキリスト信仰者になると日本人でなくなったように見なされることはよくあることではないでしょうか?果たしてキリシタンの時代の信仰者は自分たちは何か日本人に合わないことをしていると思って信仰していたでしょうか?

5.おわりに

最後に、現代日本の私たちの場合は、潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。もちろん、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、いろいろ気を使わなければならないことはあります。特に、キリスト教は日本人にあわないという禁教以来のイメージが根強いので肩身が狭く感じられます。でもそれは、人間が作って維持し維持されているイデオロギーのようなものです。かつての東西イデオロギー対立時のベルリンの壁のようなものです。

何よりも大事なことは、もし私たちが父なるみ神から素晴らしいもの、何ものにも代えがたいものを頂いているとわかっているのなら、ペトロの次の言葉を胸に刻んでその通りにすべきです。

「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生き方をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(第一ペトロ3章15~17節)

キリスト信仰で「希望」と言ったら、それは復活を見据えています。キリスト信仰の希望は復活に収れんしていきます。そういうキリスト信仰の希望については、本説教でもお話ししたところです。もしこの辺のところがまだ弱く感じられる方がいらっしゃれれば、本説教のテキストが教会ホームページに掲載されるのでそれをお読み下さい。動画も残りますので再生して視聴して下さっても結構です。同じことは毎週説教で繰り返し教えています。扱う聖句は異なっても中心にあることはいつも同じだからです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


(後注)新共同訳はאראהをcohortativeに取っている訳です。でも、אראהはcohortativeならば、二つ目のאの母音は「エ」ではなく「アー」になるのではないでしょうか?ここはimperfectではないか?この点に関しては、LamdinのIntroductionは、cohortativeにする時はנהを付けるとだけあります。それだけでは足りないので、北欧の権威的参考書NybergのHebreisk gramatikを見たら、נהを付けるのはליהのタイプを除くとありました。例文が一つありますが、どう見ても訳が間違っているとしか思えず(スウェーデン語の世界になるのでここでは詳細に立ち入りません)、完全に解決できません。困りました。それなので、ここではimperfectで考えた次第です。

 

 

 

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