説教:木村長政 名誉牧師

コリントの信徒への手紙  1117節~22節              202029日(日)

                 「キリストに結ばれて生きる」

 今日の聖書は、前回に続いて、1117節から22節まで。前回までのところで、パウロは男と女のかぶりものや服についてまで、こまかく、うるさく言ってきました。

 さて、今日の17節から見ますと、がらっと、うって変って、教会内の争いについて語っています。教会生活の中心は、礼拝であるべきである、と、前回でもはっきり示しています。礼拝に集まる、と共に、いっしょの礼拝に招かれ参加することは、すばらしいことであります。

 教会のことを「エクレシア」と言います。この字は呼び出すという字からきています。だから、教会は、召し集められた者の群れである、ということですね。*私たちは、教会で礼拝できる事のありがたさ、特に、昨年と今年の今の大きな変化を身にしみて経験してきました。

 礼拝は、ただの集まりではありません。神のみ前に、正しく集まるための心得が必要となってくるでしょう。それでパウロは、礼拝での服装や髪形や、男と女の位置についてまで「礼拝の秩序」というものを深く考えたわけです。

 ところで、あなた方の集まりを伝え聞くと、その礼拝たるや、召し集められても、結果として、役に立たないことになってしまっている、邪魔になるようでは困る、と言っています。集まりが礼拝であれば、なおさらのことです。その礼拝の中心は聖餐であるからです。

 古代教会と言われる教会では、たびたび集まっては一緒に食事をいたしました。それはイエス様と食事をした事に習ったのでありましょう。一緒に食事することによって、かつてイエス様と共に食事をした時のことを思い出したのです。福音書にはパンの奇跡が6回も書いてあります。だから、ただ集まるのではなく、実は、主と共にいたい、ということでありました。主イエスと、共に食事をしたい、ということでありました。普通の食事のようにみえながら、実は主の晩餐でありました。特に思い出されるのは最後の晩餐であります。

 しかし、主イエス様が、私たちのために十字架につき、甦られ甦るとから言えば、ただ主イエスと共に食事をする、ということではなく、そこで何を食べるか、ということが重要になったのです。主イエス様と共に食事をして、主イエスご自身を食べるということが大切になってくるのであります。それが聖餐であります。このように聖餐では、主ご自身の、復活の主のみ体をいただき、御血を飲むことで主イエス様をおぼえる、そういう礼拝をすることになるのであります。

 人は、自分の熱心や誠実だけで、礼拝ができるものではありません。神の恵みを受け、それを感謝することによってのみ、正しい礼拝ができるのであります。そこに、聖餐を中心にする礼拝の意味があります。

 パウロは、今日の聖書の18節以下を見ますと、「まず第1に、あなた方が教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがある、と聞いています。」第1に問題にされたのは、この教会に紛争があった、ということであります。コリントの教会に紛争があったということは、実はこの手紙のはじめから言われていることでありました。この手紙が書かれる理由であったかも知れません。人間の集まるところ、どこにでも、紛争があることがあたり前なことであります。紛争はたしかにありますが仕方がないことであるかもしれません。

 しかし、パウロは紛争のある事だけを責めたわけではありません。3章でもふれていますように、私はペテロにつくとか、私はパウロにつく、アポロにつくと、色々あったようです。ここで、18節以下でパウロが言っているのは、それまでの見方とちがっています。1つの教会の中で、信仰のちがいがあっては困るにちがいありません。しかし、それだけでなく、聖餐を正しく受けるためには、1つの信仰を持っていなければならないのであります。聖餐は信仰によるもので、儀式が中心ではありません。キリストの救いに対する、誤りのない信仰を持っていることが必要なのであります。

 コリントの教会の中に紛争のあった事は不幸なことにちがいありません。しかし、まことの正しい信仰が明らかにされるためには、信仰がためされ、正しい信仰への戦いもやむをえない場合がある、ということでしょう。なぜなら、それによって本当の信仰、本当の聖餐を行うことができるからであります。その時、礼拝は正しい礼拝になり、教会が「集まる所」という意味が生きてくるからであります。しかし、聖餐を守るためにはまだ大事なことがありました。信仰の一致を説いたパウロは、その後、なおもこう言っています。コリントの教会のあからさまな現状です。

 食事の際、各自が自分の晩餐をかってに食べるので、飢えている人があるかと思えば酔っている人がある、と書いています。これはどういうことでしょう。今日の私たちの教会の聖餐式では想像もつかないことであります。これは、もちろん、まだ教会が確立していない頃の話であります。

 はじめの教会の人々は、主イエスとの食事を思い出し、たびたび集まって食事をしていました。そこには二つのことがありました。1つはもちろん聖餐であります。聖餐において主キリストの御体をいただき、主の御血しおを飲み、そうしてキリストとの交わりを新しくしたい、ということです。もう1つの事がありました。それは、とにかく皆んなが集まって食事をするのが楽しい、ということでありました。まだ会堂がなくて、家の教会で、こうした集まりが行われた。そこでは、色んな混乱も起こりやすい状況もあったでしょう。どうかすると、主の晩餐と自分の晩餐とが区別がつかなくなってしまう、という事が起こったりもしたでしょう。

 教会員が一緒に食事をすることは悪いことではありません。しかし、そういう事が教会を造ると考えたら、それはまちがいでありましょう。始めの頃から、教会は、一緒に集って食事をしました。しかしそれは、人々が主イエスとの食事をなつかしんで、主イエス様をおぼえて行なったものでありました。その食事は、やがて、今日のイメージのような聖餐式のようなものとして確立していったのでありました。ともかく「主イエスとの交わりを保つ」ことが唯一の願いでありました。食べることや飲むことが目的ではありませんでした。それなのに、その事が分からないで食事をした人々があった。その人たちは、飢えている人をほおっておいて食べたり酔っぱらってしまったのでした。その事がよほどひどかったと見えて、3334節にもくり返して語られています。食べることや飲むことが私たち人間の生きる基本であれば又、一方、みだらな方向へもおちいりやすいことであります。

 信仰はどこまでも主イエス・キリストと共に生きることであります。主との交わりによってだけ生きることができるのであります。だからこそ聖餐が大切なのであります。では人と人との交わりはそこにはないのかというと、そうではありません。キリストとの交わりがあって、そのほかに、互いの交わりがなくてはならないでしょう。

 コリントの教会の実情は、すさまじいものであったとパウロは言って、聖餐の秩序にふれ、聖餐をおろそかにすることは、神の教会そのものを軽んじることになる、とパウロは言うのです。神の教会を軽んじることは、神ご自身を軽んじることになるのです。教会を建てられたのは、ただ、神を信じる者たちをまとめようというのでなく、この教会に入れられることによって、神と結びつくものとせられているからであります。

 教会の基礎となっているものは、キリストによる救いであります。キリストによる救いは、キリストの十字架と復活によることであります。それが聖餐においてあらわされ、聖餐において信仰者に伝えられるのであります。そういう意味で、聖餐こそは教会の中心であり、基礎であります。教会の者になるということは、キリストと結びつく事、キリストと生きる関係を持つことであります。

 コリントの教会の中には、聖餐を軽んじ、教会を混乱させていった。ここには、貧しい者たちをはずかしめた、と言われています。食物の取り合いをして、弱い者である貧しい者たちをはずかしめることになった、というのであります。それは、この混乱の中の1つの出来事であったに過ぎないのでしょうが、この貧しい者を愛し、救いに召された、主イエス・キリストをはずかしめることになるのであります。主イエスの御体と御血しおをいただいた聖餐にあずかって、生かされている貧しい人々がつらい目にあっていることは、復活の主もつらい目にあわされている、ということです。

 主に生かされているものは、主キリストに愛され、教会にあるのであります。つらい目に会い、苦しみのぶじょくの中にあっても、教会の中で、永遠の命にあずかって生きるのであります。

 私たちも、このパウロにふれて、パウロの言葉を聞いて、今、一度、聖餐にあずかるたびに思いを新たにされていきたいものです。           <アーメン>ハレルヤ!

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