説教:田中良浩 牧師

 

聖霊降臨後第6主日(スオミ教会 1)        2019年7月21

申命記30114、コロサイ1114、ルカ102537

説教「心は神に、手は人に

 

                             田中 良浩

 

序 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!

 

1 教会の礼拝では伝統的に詩編を用いている。

 礼拝における賛美のためであり、またその主日の主題を理解するためである。

 ちなみに今日の詩編25編の4節で、イスラエルの王ダビデは「主よ、あなたの道を私に示し、あなたに従う道を教えてください」とある。

 

ちなみに多くの人々が、自動車、飛行機、船等を利用して日本や世界を旅行しているがそれは道路標識、電波標識、あるいは航路標識が設置されていて自動車、飛行機、船がそれに従って、安全に運転、運航されているからある。

 

50年近くも前のことであるがアメリカ留学の帰途、ドイツでの研修の機会が与えられて、ロンドン空港からでドイツのハノーヴァー空港に向かった。

しかし離陸前ハノーヴァー空港の上空が雷雨に覆われているので、もし着陸できなければロンドン空港に引き返すかもしれないと予告のアナウンスを聞いていた。確かにハノーヴァーの上空に来た時飛行機はしばらく旋回を始めた。空港周辺を10数分もぐるぐる回っていたであろうか、突然コックピットから機長の「光が見えた!」(We saw the light!)という喜びの声が聞こえた。飛行機が着陸するための進入路の航空標識が、おぼろげではあっても確かに基調には見えたのであろう。その時、機内からも歓声が上がったのを今でも忘れることはできない。

 

ダビデのように「主よ、<今日>あなたの道を私に示し、<今日>あなたに従う道を教えてください」と祈り求める姿勢を保つのが信仰生活である。

これは私たちが信仰生活を生きる指標、指針を求める祈りである。

また、日々をキリスト者としていきるための祈りでもある。

日々確認する必要がある。また皆様の中には聖書から、既に信仰生活のための特別な指標、指針となる言葉をお持ちの方もあるでしょう!

出来れば、機会を得てお互いに分かち合うことが出来れば、幸いである。

 

                1

2 さて今日の旧約聖書(申命記30章)は、神の民に十戒が与えられた後に

 語られた指導者モーセの勧めの言葉である。繰り返し語られた言葉は:-

 「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、

. あなたは祝福をえることができる、という勧めの言葉である。

 

 そしてさらに、今日の申命記30章14節には、簡潔に語られている。

 「神の言葉は、遥か遠い天にあるのではない、また誰も行くことのできない

 海のかなたにあるのではない」!

 「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それ

を行うことができる。

と。

 こうして神の民は、神の言葉(律法)に聞き従い、それを行いなさい!との

 聖なる言葉を聖会(礼拝)の度毎に聞いていたのである。

 

 

3 さて今日の福音書は有名な「善いサマリア人」の物語である。

 確認のために聖書からもう一度、読んでみよう。

 「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先

生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」

と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思

いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のよう

に愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい。答えだ。それを

実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれです

か」と言った。

 

 ここで考えられる第一のことは:

 律法の専門家は、当然のことながら神の教えをよく知っていたことである。

熟知していた。申命記6章5節には、全く同じ言葉が語られている。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神であ

る主を愛しなさい」。そしてこれは聖なる集い、礼拝の度に「ハッシャマー・

イスラエル!」(イスラエルよ、聞け)と呼びかけられて、神の民、会衆全体

が先ず聞いたのがこの言葉であった。

 

                2

  さらにこの律法の専門家は、「また、隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19章18節)という戒めを付け加えている。完璧である。

   

  さらに第二のことは:

  この律法の専門家の答えに主イエスは「あなたの答えは正しい」と言われ

た。しかし問題は残った。この信仰は知識に留まっていたようである。

イエスは続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と

言われたのである。“信仰は生活のなかでこそ生きるものである”。

  神の言葉を聴き、社会に生きていく信仰者としての倫理的な意識や感覚に

  決定的なずれがあったのであろう。

 

 さらに考えられることはファリサイ派の人々の信仰の実態は、イスラエル

の強い選民意識であり、他の国民、異邦人を蔑む、差別意識である。

「隣人とは誰ですか?」との問いには、実はこの異邦人への差別意識が内包

されていたのである。本当に恐るべきことに、そして留意しなければならな

いことは宗教が差別意識、排他意識を醸成するということである。

  このことは主イエスにとっては、全く容赦ならないことであった。

 

  そして第三のことは:

  主のお教えになった物語によると、強盗に襲われた旅人のそばを通り過ぎ

た人は、祭司、レビ人そしてサマリア人である。

  伝統的に祭司は律法の専門家であり、祭儀を行う責任者であり、レビ人も

律法を聖会において朗読し、また律法を教える役目をもっていた。また預言

者の務めにも関りがあった、と言われる。つまりこれら祭司もレビ人も旧約

聖書では、神の民を代表する宗教的な指導者であった。

 

  こうした宗教的な代表者である祭司やレビ人は、半殺しにされた旅人を見

てもいずれも「道の向こう側」を通って行ってしまった。つまり彼らは

強盗に襲われ、半死半生になった旅人にとっては傍観者でしかなかった。

傷ついた旅人にとって「助けを期待していた人」は予想に反して冷淡な傍観

者、臆病で無関心な祭司、レビ人に過ぎなかった。

 

  ところがここにサマリア人が登場する。先週の礼拝に続き「サマリア

  話題の中心となる。サマリア人とは、聖書によれば

 

                3

  ◎伝統的なユダヤ人はエルサレムではなく、ゲリジム山に神殿でバアル(神

   ならぬ偶像)礼拝をするサマリア人を「愚か者」と呼び、敵対視してい

たのである。歴史的には王下172431参照。

 

  ◎このような歴史的な経過からか、主イエスさえも12弟子たちを派遣す

る時に、「サマリアの町に入ってはならない」とさえお命じになっている。

(マタイ10章5節 参照)

 

  ◎さらにこのようは経緯からか、主イエス・キリストがエルサレムに向か

って旅を続けていた時、サマリアの村を通った時に村人はイエスを歓迎しなかった。それを見て、ヤコブとヨハネは怒って「天からの火で彼らを焼き滅ぼしましょうか」と、進言したほどである。もちろん主イエス・キリストは、彼らを戒められたのである(ルカ95155)。

 

   <しかし一方聖書には、サマリア人の信仰の積極的肯定の物語がある>

  1. かつて、ガリラヤとサマリアの間の村で、主イエスは十人のライ病(ハンセン病)を患っていた人々を癒し、清められたが、そのうち、 

    癒されたことを知って、立ち返ってきて、主イエスの足元にひれ伏したのは一人のサマリア人だけであった(ルカ171119)。

 

  1. 皆様もよくご存じのサマリアの女の信仰である(ヨハネ4章参照)

この女は夫が5人もいるという、倫理的には崩れた生活をしていたが主イエスとの出会いによって、真の礼拝へと招かれたのである。

 

 

4 そしてこのような背景の中で、今日の「サマリア人

が登場する。

実にこの一人のサマリア人が傷ついた旅人を助けたのである!

主なる神は言われる「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と。

<神の聖なる律法、神の言葉を実現したのは、実にサマリア人であった!>

  

  ここで私たちは何を理解すべきであろうか?

  第一は この善きサマリア人とはだれか?ということである。

  Mルターによればそれは、主イエス・キリストご自身である。

               4

ルターは言う、「主イエスこそ、すべての人々のための憐れみ深い神のサマ

リア人である」と!この事実を確認することである!

 

  第二は 主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」とお命じに

なったのである!これは単に、律法の専門家に対してだけではなく、現代に

生きている私たちへの聖なる命令でもある。

 

それは十字架にかかり、復活された主イエス・キリストの愛(アガペー)に

よって生かされている、私たちキリスト者の隣人への奉仕の生活である。

  ルターは言う、「善き業は主イエスに対しては不要である。けれど      も隣人に対しては、不可欠に必要である。神の愛に触れば触れる程、私た

  ちは隣人に対してますます忙しくなる!」と。

 

 

5 私は現在も、週2日、ホスピスのチャプレンとして奉仕している。

 最初は日野原重明先生が設立された、ピースハウス病院で7年間、その後

 そこが閉鎖されてから、現在は救世軍のブース記念病院で働いている。

 現在のブース記念病院での奉仕も4年目になる。

この病院を運営する救世軍のモットーは「心は神に、手は人に」(Heart to God,

Hand to Man! )である。これも信仰の指標となる言葉の一つである。

そういう訳で、今日の説教題を「心は神に、手は人に」とさせていただいた。

 

 けれどもこの間に、同時に私は自ら「病み、傷ついた旅人」であったこと

に気付かされた。私は8年間毎年のように腎臓、膀胱の手術を受け、しばし

ば抗癌剤を受けてきた。その後の検査の結果は、いつもV(最悪)であった。

私は心身ともにかなり疲労し、動揺していた。このような状況にも拘わらず、

 主イエスは「善きサマリア人」として、しばしば私に現れてくださったので

ある。同時に主なる神さまのお導きによって主治医、看護師、チャプレンも

 大きな助けになった。教会につながる同信の友、そして家族も同様である!

感謝の他はない!

 このような恵まれた経験の中で、今でもチャプレンとして奉仕できることは

本当に幸いであり、感謝である。アーメン。

 

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