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説教:木村長政 名誉牧師 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教:木村長政 名誉牧師

コリント信徒への手紙 846

「唯一の神と私たち」

 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にありますように。アーメン。

 今回も私の説教では、コリントの信徒への手紙を読んでいます。今日は8章4-6節を見てまいります。

 前回、1節から読んでいただきましたが、主に1節から3節までのところで少々、深い部分にまで入り込んで、大切な真理の道を分け入った形になりました。

 問題は、偶像に供えられた肉を食べてもいいものかどうかという質問からでした。

 さて、4節以下13節までは、読んでいただければ、よく分かることです。

 偶像に供えられた肉がどうしてそんなに気になることなのか、まあ私たち、今の時代の日本の人々には、よく分からない事柄であります。

 パウロも7節で言っています。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのである。」と言っています。

 そのような弱い人のためにもキリストが死んで下さった。

 弱い心を傷つけるとするなら、13節の結論は「兄弟を傷つかせないために、わたしは今後決して、肉を口にしません。」と書いています。

 パウロにとっては、肉を食べても、食べなくてもどうでもいいことでしょう。

 それで今日の聖書の4節ー6節ですが、偶像に供えられた肉であるところに、パウロとして、どうしても、大事なことを示さずにはおれないわけであります。

 それで4節に、どんと、パウロは真実を持ち出しました。

 「世の中に、偶像の神などはない。」と言います。

 偶像に供えられた肉だから、色々とびくびくしたり、心が混乱していると言っている。しかし、まず、偶像があるのかどうかを考えてみる必要がある。それが、この問題の根本的なことである、と言うのです。

 もし、偶像がないのなら、それにささげられたものは、何の意味もない。

 ところが、あなた方の中には、偶像と言いながら、それに頼って崇拝している沢山の偶像と称するものに囲まれている。いたる所に偶像といわれるものがあった時代であります。 

 コリントの教会の人々も、そういう世の中にどっぷりとつかって、みんな知っているわけです。

 そういう中でパウロは「世の中に偶像なる神などない」と言いましたから、これは大変なことであります。多くの人々が、偶像によって生きていたのであります。その時に、「偶像はない。」というのは、容易ならぬ言い方であります。

 つづいて、5節と6節でパウロは、更に力強く確信に満ちた言葉で言っています。5節です。

 「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ、天や地に、神々と呼ばれるものがいても、(6節です)わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちは、この神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」

 とても大事なことを示していますね。

 この事は、この時代の人だけの問題ではありませんでした。今も形こそちがえ、実状は少しも変っていない、と言っていいのではないでしょうか。

 しかも、ただ1人の神を信じる、ということは、やはり偶像はないものである、ということになるのであります。

 今日(こんにち)、私たちはあからさまに「それは偶像である」と言いふらして、キリスト教の唯一の父なる神以外のものを、意味のないものだと、表面だった戦いをしているわけではありません。

 しかし、キリスト教が日本に伝えられたはじめの頃の信者たちは、この問題で苦しみ戦ったのであります。

 問題は、日本においても少しも変ってはいないはずであると思います。

 私たちは、他の人の信仰の悪口を言いたいのではありません。

 自分たちの信仰を明らかにしたいのであります。

  偶像とは何か。 旧約時代のイザヤ書にその性質をよくあらわしています。

 イザヤは偶像がどのようにして造られるかを、あからさまに書きました。

 それは、偶像といっても人が造ったものではないか、というのであります。造る彼も人間ですから、疲れるのであります。そういう人間が造るのであります。

 木の細工人が、線を引いて、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを、人の美しい姿に従って人の形をつくり、家の中に安置する。

 つまり、神と言っても、偶像は人間がつくったもの、しかもその内容から言えば、人間の願いから造り出したものではないか、と言いたいのであります。

 こうすると、どんなものでも、神になってしまいます。

 金や木で偶像をつくるだけでなく、あらゆるところに神をつくります。火の神もあれば、水の神もあります。瀬戸内海には海の神々があります。何でも、どんな人間でも、神にするのであります。偶像を拝むところでは、結局は神と人間との区別がつかなくなってしまいます。

 あらゆるものが偶像になることができるのですから、偶像はないと同じことになってしまうのであります。その中で、人間が自分の願いを満たすために何かをとって神とし、それをどこかに置いて拝むだけであります。

 以上が一般的に言う偶像の考えでしょう。

 それに対して、この手紙でパウロが主張します。

 もしも神を信じるというのであれば、それはただひとりの神であるはずであります。

 人間が、欲しいと思って造り上げる神ではなく、人間を救おうとして、自分をあらわしてくださる神だけであります。

 神はどんな意味でも、造られたものではない、造り主であるはずであります。

 私たちの願いによって生きる神ではなく、私たちを生かしてくださる神でなければなりません。

 ただ1人の神を信じるところでは、神と、神でないものは、はっきりと区別されるのであります。

 物や人間が神になることは、絶対にありません。

 神こそはまことの神であり、そのほかのものは、神ではないのであります。

 従って、人間はどんなに偉くなっても、神になることはあり得ないのであります。

 ただひとりの神のいますことを信じた時に、人間ははじめて人間になるのである、ということができるのであります。

 もろもろの物も、それぞれ正しく、物としての位置がきまるのであります。鳥は鳥、花は花、ということを正しく知ることができるのであります。

 聖書はそれを、造り主である神と言っています。

 人間はもはや神になろうとはしません。神を拝み、神に従う時、はじめて人間らしくなることがわかるからであります。

 つまり、ただひとりの神を信じた時に、人間はこの神のみが自分の守り手であることが分かります。

 神は私たちを造って下さっただけでなく、父として私たちを守って下さる方であることも信じやすくなるのではないでしょうか。

 ただ1人の神は、まことに神らしく、厳かで、神らしく、愛に満ち、造り主として、私たちが いこうことのできるお方であることが分かるのであります。

 神はただ1人であるということは、このように真(まこと)に神を信じる生活を与えてくれるのであります。

 偶像を拝む者の多い中に、パウロはこれを明らかにしようとしたのであります。

 神が唯一でいます、ということを、どのようにして信じることができるか、ということがいつも大切なことであります。

 ここでは、そのことについて、「唯一の主、イエス・キリストのみが います。」と書いてあります。

 神が唯一であるだけでなく、主イエス・キリストも唯一であり、この二つをひとつのこととして信じることが必要である、ということであります。

 神がただひとりであることを信じれば、私たちは本当に人間らしくなるということですが、しかし、不遜な人間は、いつでも神になろうという野心をもつものです。

 自分は、神になろう等とは思ったこともない、と言うかも知れませんが、自分が、いつでも中心でなければならないように思うことは、やはり自分を神にしようという気持と同じではないかと思います。その時に、それを正しく導いて下さるのが主イエス・キリストであります。 

 それは、主イエス・キリストの教えがそうである、というのではなくて、キリストというお方がおられることがそれを示している、ということであります。

 主イエス・キリストは、神が人となられたお方であります。

 神が人となった、それゆえに、神であって人である。と、いうことになります。

 なぜ唯一なのか、それは、ひとつには、神がキリストにおいて人となられたということは、ほかの人にはないことである、という意味もありましょう。しかし、ここには、万物はこの主により、私たちもこの主によっているのである、と書いてあります。

 他の訳では、「彼によって、万物がつくられ、私たちも、新しい命を得たのである。」と書いてあります。

 私たちが彼によって、新しい命を得た。キリストにおいてこそ、新しい命を得た。という、このことこそ、私たちの信仰の根本であります。

 神は、なぜ、キリストにおいて、人となられたのでしょうか。

 それは、意味のない無駄事ではありません。

 それにははっきりした目的がありました。それは、神に造られながら、神に背いて罪を犯した人間を救うためであります。

 神が人となられた、と言ってもいいし、神が、その独り子を世におつかわしになった、と言ってもいいのであります。

 ヨハネ3章16節は、有名な御言葉です。

 すべて、彼を信じる者を救うため、とはっきりあります。

 人間を救うためであります。そのために唯一の救い主として、キリストがおいでになったのであります。

 従って、私たちは、このお方によって新しい生命を得たのであります。私たちが彼によっている、というのは、このことであります。

 私たちは、イエス・キリストによって、救われたのであります。

 そのことによって、実は、神が唯一であるという信仰も、動かないものになったのです。

 唯一の主イエス・キリストがいますことによって、唯一の神を信じることができたと言ってもいいのであります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。        アーメン・ハレルヤ

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このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
  • 7月 21日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教田中良浩牧師「心は神に、手は人に」(ルカ10章25~37),礼拝後交わり。
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