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説教「森羅万象の上に立つ神と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章1-12節、エフェソ3章1-12節 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教「森羅万象の上に立つ神と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章1-12節、エフェソ3章1-12節

主日礼拝説教 2019年1月6日(顕現主日)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.キリスト教は損をしている

本日の福音書の箇所は、何かおとぎ話めいて本当にこんなことが現実に起こったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来るとか、王子様の星をみたことが学者たちの異国訪問の理由であるとか、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか。こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてくると思います。以前この個所をもとに説教した時、そこに記された出来事は歴史的信ぴょう性が高いということを説明しました。歴史を100パーセント復元することは不可能であるが、この個所は80パーセント位は復元できて、もう歴史的事実と言ってもいいのではないかということをお話ししました。それを言った後で今度は、信仰というのは実は歴史を100パーセント復元できて信ぴょう性に問題なしと言って持てるものではない、ということもお話ししました。じゃ、どうやって信仰を持てるかと言うと、2000年前の彼の地で起きた出来事は現代を生きる自分に向けられて起こされたのだとわかった時に持てるのだと述べた次第です。

その後で思ったのですが、ひょっとしたらキリスト教ほど損をしている宗教はないのではないか?というのは、世界中のいろんな宗教の中で歴史的信ぴょう性とか歴史の復元とかうるさく言うのは他にはないのではないか。みんな、教祖が言ったとされること行ったとされることを全て書かれてあるとおりに、(書かれたものがなければ)言い伝えられたとおりに、教祖は本当にそう言った行った、と歴史の検証などしないでそのまま受け入れているのではないか?それならば、キリスト教も他と同じように検証など復元などとうるさいことを言わないで、聖書に書いてあることをそのままこれが歴史的事実だと言って、頭ごなしに受け入れればいいのではないか?

それがそう簡単に行かない事情がキリスト教にはあります。というのは、先ほど申しました、「信仰というのは2000年前に起きた出来事が現代を生きる自分に向けられて起こされたと分かった時に持てる」ということが絡んでくるからです。聖書に記されている出来事が本当は起きていなかったら、この「自分に向けられて起こされた」ということもなくなってしまいます。信仰のために出来事は歴史的に起こったことでなければならないのです。

近代以前ですと、このことは大きな問題ではありませんでした。というのも、大方は聖書に記された出来事は歴史そのものと考えられていたからです。ところが、19世紀のドイツで歴史学の手法が聖書学に適用されるようになると様相は一変します。どんな手法かというと、歴史を復元する際に書かれてあるものを鵜呑みにしない、批判的に見るという手法です。以後これが聖書学の主流になりました。例えば、「何々福音書に書かれているこのイエス様の教えは実はイエス様自身が言ったのではなく、初期のキリスト教徒たちが自分たちの考えをイエス様が言ったことにして福音書に記載した」というような研究結果が山のように出てきました。

さて、このような学術研究を前にして現代のキリスト教徒はどうすればよいのでしょうか?ある人たちは、なんだ聖書なんて神の言葉なんて言いながら実は人造的な書物だったんだと見切りをつけて、もう奇跡など信じない、ただ聖書はさすがに聖書だけあって現代にも通じる斬新な思想や感動的な話で満ちている、それらを自分の行動原理にして世界や自分を良くしよう、そういうふうに考える人たちがいます。そうなると聖書は自己啓発ないし一種のイデオロギーの書になります。これと対極的に、学術的な研究を「悪魔の学問」と言って、それに背を向け、聖書に書かれた出来事が一字一句歴史的事実だと言って譲らない人たちもいます。

私自身はどうかと言えば、国立大学の神学部で神学を学んだので、そこでの聖書学はまさに学術的な歴史研究でした。ただ、学術的な手続きをちゃんと踏まえていれば、聖書に書いてある通りの結論になっても問題なしというところでした。当たり前のようですが、大学によっては、聖書に書いてあるのと違う結論になった方が学術的と見なすようなところもあるのです。それで、私が所属した研究グループは、たとえ世界の研究者の大半が「このイエスの言葉はイエスが言ったのではない、後の創作だ」という学説を支持しても、「否、第二神殿期の歴史的文脈に照らしてイエスが言ったとしてもなんら問題ない」と反論する学派でした。

その意味で私が属した学派は、聖書に対して保守的な態度を取るところでした。ただし、学術的研究の世界ですので、反保守の学派に反対論を打ち立てても、また反論に晒されるのは承知の上です。それに対してまた反論していきます。まさにイタチごっこの世界です。そこで私が気づいたことは、信仰というのは学術的研究の結論に基づかせるのは危ないということでした。現在学会で多数派に支持されている結論でも時がたてば覆されるかもしれません。そんなものに基づいて、これこそがイエス・キリストの実像だなどと思って信じていたら後で取り返しのつかないことになります。じゃ、何に信仰を基づかせたらいいのか?それはもう、使徒たちが後世に遺した証言と信仰しかないと思います。使徒たちが迫害をものともせずに伝えたこと、イエス様はこう教えられた、こういう業を成し遂げられた、十字架にかけられて三日目に蘇られたということ、これらは学術的研究の結論は変転を遂げても変わらないものとしてあります。

学術的研究というのは、森羅万象の中で理性で解明できることを理性で解明するというものです。これに対して信仰は、森羅万象の中には理性で解明できないものがあると見越していることに関係しています。そういう信仰を持つ人は学術的研究に不向きかと言うとそうではないと思います。森羅万象の中に理性で解明できないものがあると観念しつつも、理性で解明できることは何かを明確にしてそれを解明しようとすることは出来るからです。ただし、解明できて暗闇に大きな光を投じたと思っても、実はそれはもっと大きな闇の中の小さな光に過ぎなかったことに気づかされるかもしれません。森羅万象というのはそういうものだと思います。

聖書の観点では森羅万象はどういうものかと言うと、それは全ての造り主である神の意志に従うものです。森羅万象は創造主を超えらず、森羅万象の上に立つ創造主の意志に服するというものです。この観点は、私たちが大いなる暗闇に直面した時に途方にくれないために大切なものです。本日の説教では、森羅万象の上に立つ創造主の神は、私たち人間が大いなる暗闇を前にしても途方にくれないようにしてくれる方であることを証しすることを目指します。

 

2.マタイ2章1ー12節の歴史的信ぴょう性について

 その前に、本日の福音書の個所の歴史的信ぴょう性について先ほど80パーセント位復元出来るのではないかと申しました。そのことについて述べておきます。これは以前の説教でも述べたことです。その時にもお断りしましたが、不思議な星の動きについてはいろいろな説があります。以下に申し上げることは、私がフィンランドで読んだり聞いたりしたことに基づくバージョンであるということをお含みおき下さい。

近代の天文学者として有名なケプラーは1600年代に太陽系の惑星の動きを解明しますが、彼は紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めました。他方で、現在のイラクを流れるチグリス・ユーフラテス川沿いのシッパリという古代の天文学の中心地から当時の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

そこで、イエス様の正確な誕生年についてですが、本日の福音書の箇所に続くマタイ2章13ー23節によれば、イエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年としてひとつ有力候補になります。ここで決め手となるのは、ローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録がありません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上してきます。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た謎の学者グループについて見てみましょう。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、前に述べたように、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学が非常に発達したところで、星の動きが緻密に観測されて、それが定期的にどんな動きをするかもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って、占星術も一緒でした。つまり、星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。従って、もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れであると考えられたのです。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、土曜日はユダヤ民族が安息日として神を崇拝した日と連想できるので、この星はユダヤ民族に関係すると理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。以上から、木星と土星の魚座のなかでの異常接近を目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

 それでは、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみます。イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失わず、イスラエルの伝統を守り続けました。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わってイスラエル帰還が認められても、全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残ったユダヤ人も多くいたことは、旧約聖書のエステル記からも明らかです。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたのではないかと思われます。「あそこの家は安息日を守っているが、かつてのダビデ王を超える王メシアがでて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じ待望しているぞ」という具合に。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた人たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようだったでしょう。

学者のグループがベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書そのものを研究することはしなかったでしょうから、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王と王の取り巻き連中の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人なので、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて驚天動地に陥ったことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。日本語訳では「不安を抱いた」とありますが、ギリシャ語の単語の意味は「驚愕した」です。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に至ったのでした。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景全てに見事に裏付けされることが明らかになったと思います。しかしながら、問題点もあります。2つのことが大きな問題としてあります。せっかく歴史的信ぴょう性が大丈夫そうになったのに、何をまた馬鹿正直に、と思われるかもしれませんが、どうせ損な宗教ですから、お付き合い願います。問題の第一は、昨年12月30日の説教でイエス様親子がどのくらいエジプトに避難していたかということを考えました。もしマリアの出産後の清めの期間が律法の規定通りの3か月だったとすれば、イエス様の誕生は紀元前4、5年になってしまいます。紀元前7年にするとイエス様が清めの儀式のためにエルサレムの神殿に連れて行かれるのが2,3歳くらいになってしまい、少し大きすぎてしまいます。説教でも申し上げたのですが、イエス様の誕生からヨルダン川での洗礼までの出来事の一次資料はヨセフやマリアが周りの人に話したことが伝承されたというものしかありません。それで歴史の復元に空白部分が出るのはやむを得ないのです。

 

3.森羅万象の上に立つ神と私たち

 もう一つの問題点は、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。SFじみていて、まともに信じられないところです。先ほど、木星と土星の重なるような接近は紀元前7年はしつこく何回も繰り返されたと申しましたが、そのことを考えてみましょう。エルサレムからベツレヘムまでの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したというのも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みます。その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。劇的な出来事を言い表す時、立場を入れ替えるような表現も起きてくるのです。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星の可能性も否定できません。

さらなる可能性として、天地創造の神が星に類する現象を起こして、それを見た人間は星としか言いようがなかった、そんな現象の可能性を考えることも出来ます。ただ、これは大方の人は認めがたいかもしれません。というのは、木星と土星の接近とか彗星や流星であれば、自然の法則に従う現象なので理性で受け入れられます。ところが、何者かの意志が働いて超自然現象が起きるというのは理性では受け入れられないからです。しかしながら、聖書の観点では自然の法則というのは、何者の意志も働かない自動機械的な動きではありません。先ほども申しましたように、森羅万象は創造主の神の意志に服するので、自然の法則も神の意志に従って働き、神の意志を超えたりそれに反するような働きは出来ません。惑星の異常接近も彗星や流星も全て神の意志の範囲内のことです。

そうなると人間は神の意志に服する森羅万象の中であまりにもちっぽけで無力な存在です。神の意志が働く自然法則を人間はコントロール出来ないどころか、それにコントロールされるだけです。

ところが神は、そんな無力でちっぽけな人間に森羅万象の上から目を注がれ、人間を森羅万象の中で無防備状態に留めておかないと言われるのです。そのことが詩篇8篇で次のように言われています。

「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」(4ー5節)

天体を配置された創造主の神はまさに森羅万象の上に立つ方です。その方が森羅万象の只中にいる、点にも満たない人間に目を注いで心に留めて下さる、顧みて下さる、と言うのです。どうしてそんなことがありうるでしょうか?宇宙はあまりにも広大です。森羅万象の上に立たれる神はどうやってその宇宙の中のほんの片隅の小さな星にいる小さな人間なんかに目と心を向けられるのでしょうか?たいていの人は、自分はそういう途方もない方が心に留めて下さったとか、顧みて下さったとか、全然感じられないと思うでしょう。しかし、そのような思いにとらわれる時こそ、まさにその神がひとり子イエス様を私たち人間に贈って下さったということを思い出します。これが神の私たち人間に対する顧みであり、心に留めて下さることの証拠であり実例です。

この世に送られたイエス様は、父なるみ神がどんなお方で、何を人間に望んでおられるか、人々に教えられました。それに加えて、神が今おられ、いつの日か新しい天と地が創造される時に現れる神の国がどんなところであるかも教えられ、またそれを奇跡の業を通して人々に垣間見せました。そして、十字架の死を遂げることで、人間を神から切り離す原因となっていた罪、神の意志に反する罪、その償いを人間に代わって神に対して果たされました。さらに死から復活させられることで、死を超えた命の国でもある神の国に至る道を人間のために開いて下さいました。

本日の使徒書の日課エフェソ3章に使徒パウロが神からお恵みとして与えられた任務の一つに、「キリストの途方もない豊かさを異邦人に伝えること」が言われています(8節)。新共同訳では「キリストの計り知れない富」と言って何か財宝みたいですが、「キリストの途方もない豊かさ」の方がいいと思います。どんな「豊かさ」 かと言うと、神と人間の間にあった落差を埋めた豊かさです。その落差は途方もないものだったので、それを埋めた豊かさも途方もないものでした。神の御前であまりにも足りなさすぎ欠けすぎ至らなすぎの人間を満たしてあげて、神の御前で欠けるところがない、至らないところがないようにして下さいました。そのような途方もない豊かさが神のひとり子の十字架の死と死からの復活によって生み出されたのです。あとは人間の方がこのイエス様を救い主とわかって洗礼を受けることでこの豊かさに満たされます。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り満たされ続けます。エフェソ3章12節を見ると、キリスト信仰者というのは神の御前に出ても全く大丈夫という心で御前に出ることができるのだ、そのことはイエス様を救い主と信じる信仰にあって確信できるのだ、と言っていますが、まことにその通りです。

兄弟姉妹の皆さん、現実の生活の中でいろいろな課題に直面して取り組んでいる時、果たして父なるみ神は本当に自分のことを顧みて下さっているのか、心に留めて下さっているのか、信じられなくなる時があるかもしれません。新年の礼拝の説教でも申し上げましたが、そういう時は、神はひとり子イエス様を贈って下さったくらい私のことを心に留めて顧みて下さった方なのだから、その他のことで心に留めないなどということはありえないのだ、だから、どんな結果を見せてくれるかは神にお任せして、自分としては出来るだけのことをしよう、ただし神の意志に反しないように正しく行おう、神が見せてくれるどんな結果にも必ず神の良い導きが続くはずだ。そういう心意気で行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
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    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ5章1~11),礼拝後交わり。
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