説教「神がそうなると言われたことは必ずそうなる」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章26ー38節

主日礼拝説教 2018年12月16日待降節第三主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.今年の待降節ももう第三主日を迎えました。待降節の期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のイスラエルの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を贈られた父なるみ神に感謝して、降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節は、ややもすると、過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。待降節には未来に結びつく意味があるというのは、イエス様が御自分で約束されたように再び降臨する、つまり再臨するということがあるからです。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は本当は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心も活性化させるよい期間なのです。待降節やクリスマスを過ごして「今年もこれで終わった、めでたし、めでたし

ですますのではなく、主の最初の降臨からまた1年遠ざかったということは、逆に言うと再臨にまた1年近づいたのだと思い起こして、毎年過ごすたびに身も心も主の再臨に備えるようにしていくのです。イエス様が再臨する日とは、同時にこの世の終わりの日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる日、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。ただ、その日がいつであるかは、父なるみ神以外は誰も知ることができない、とイエス様は教えました。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とも教えました。主の再臨を待ち望む心をしっかり持って身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということです。

 それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのか?「待ち望む」などと言うと、なんだか座して待っているだけのような受け身のイメージがわきますが、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものであるとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものも、実は、取り組むために神が与えたものという認識があります。神由来ならばこそ、世話したり守るべきものがあれば忠実に誠実に世話し守り、改善が必要なものがあれば改善し、また解決が必要な問題はしっかり解決にあたる。それがキリスト信仰者というものです。そうした世話、改善、解決をする際に、いつも判断の基準にあるのが、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかということ。加えて、隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているか、ということです。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら心の中では主の再臨を待ち望むのです。ただ座して待っているだけのおめでたい存在ではありません。

さて、主の再臨を待ち望む者が肝に銘じておくべき大事なことが二つあります。一つは、先週の福音書の箇所で洗礼者ヨハネが人々に父なるみ神に立ち返れと教えていたことに関係します。その箇所が私たちに教えているのは、キリスト信仰者といえども、自分には神への不従順と罪が宿っているという事実から目を背けずに、たえず神のもとに立ち返る生き方をしなさい、ということでした。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することです。

もう一つ大事なことは、本日の箇所で天使ガブリエルがマリアに、お前は救い主の母となる、と告げていることに関係します。この箇所が教えていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、だから、それを信じ受け入れなさい、ということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていてまともに受け入れられないものでも、神がそう言われる以上はそうなる、だから、それを受け入れて、それを全てに優先させなさい、ということです。人間の本心としては、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置きやるというのは抵抗があるものです。ましてや、そうすることでいらぬ困難や試練を招いてしまってはなおさらです。しかし、神はまさに自分の都合よりも神の意志を優先させる人と共に一緒におられるのです。この真理を本日の福音書の箇所をもとにみていきましょう。

2.神から遣わされた天使ガブリエルがマリアのもとにやってきて、神が計画していることを告げます。ガブリエルという名の天使は旧約聖書のダニエル書にも登場し(8章と9章)、神に敵対する者が跋扈する時代が来る、でもそれはやがて終焉を迎える、ということをダニエルに告げ知らせます。ガブリエルはまた、マリアのもとに来る6か月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。

ガブリエルがマリアに告げたことは、マリアがまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊の働きで男の子を身ごもる、ということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続く、ということも告げました。そして、その子の名前は、「主が救って下さる」ということを意味する「イエス」と名づけよ、と命じました。

ダビデ家系の王が君臨する王国が永遠に続くという思想は、本日の旧約の日課サムエル記下7章のところで、預言者ナタンがダビデ王に伝えた神の言葉の中に見られます。歴史的には、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいます。捕囚が終わってイスラエルの民がユダの地に帰還した後は、もうダビデ家系の王国は実現しませんでした。しかし、旧約聖書に永遠に続くダビデの王国という神の約束があるので、ユダヤ人の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつもありました。

しかしながら、神がダビデの家系に属する者に与えると約束した永遠の王国とは実は、地上に建国される国家ではなく、天の御国のことだったのです。今の世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時に、唯一揺るぎないものとして立ち現われる神の国のことだったのです(ヘブライ12章26ー28節)。私たちが「主の祈り」を祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことです。そこで王として君臨するのは、あの、死から復活した後に天に上げられて、今父なるみ神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主イエス・キリストなのです。イエス様は、人間としてみてどこの家系に属するかをみれば、ダビデの子孫であるヨセフを育ての父親として持ちましたので、ダビデの家系に属する者です。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物である人間ではありませんでした。天使ガブリエルの預言はよく見ると一方で、マリアから生まれる子供は「神の子」であるということがあります。他方で、ダビデに約束された永遠の王座はダビデの末裔に与えられるということがあります。この二つは見事に合致して預言の成就をみることが出来たのです。

マリアが処女のまま妊娠するということがどのようにして起きたのか、それは私たちの理解と想像を超えることです。天使ガブリエルは、聖霊がマリアの上に降り、神の力が彼女を覆う、と言いますが(35節)、それだけでは身ごもるに至った生物学的な過程は全くわかりません。マタイ1章20節で天使はヨセフに、マリアの中で受胎したものは聖霊に由来する、とだけ述べます。このように聖書の記述には、処女受胎の科学的説明に資する手がかりは何もないので、それがどのようにして起きたかは知ることも理解することもできません。しかし、聖書の観点というのは、「どのようにして起きたか」ではなくて、「なぜ起きたか」ということについて焦点をあてるものです。「なぜ起きたか」は聖書をもとにして理解することができます。聖書の中に記されている神の人間救済計画がカギになります。

創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順になって罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神から切り離されて生きなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と述べている通り(ローマ6章23節)、人間は罪と不従順がもたらす死に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできません。そこで、父なる神は、人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにと計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済計画です。

人間が神聖な神のもとに戻れるようにするためには、なによりも人間を罪と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には自分に宿る罪を除去することは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の罪からくる罰を全て負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしました。この、神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が、私たちを罪と死の力から解放する身代金となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペテロ1章18ー19節)。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命が存在することを示され、そこに至る扉を人間のために開かれました。人間は、神がひとり子を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け入れることで、この救いに与ることができます。つまり、救われるのです。「罪の赦しの救い」を受け入れることとは、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして人間は、この世の人生の段階で、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることができるようになります。順境の時にも逆境の時にも常に神の御手に守られて生きられるようになり、この世を去った後は自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになります。

それでは、罪の赦しの救いを実現するために、なぜ、聖霊による受胎が必要だったのか?なぜ、神と同質である神のひとり子がこのようにしてまで人間として生まれてこなければならなかったのか?それは、罪の赦しの救いを実現するためには、誰かが犠牲になって罪の償いをしなければならなかったからです。それを神自らが引き受けたのでした。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。人間の罪の罰を全て受ける以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。罰を受けられなければ罪の償いもありません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。まさに使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったということが起こったのです(ガラテア3章13節)。「フィリピの信徒への手紙」2章6ー8節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子をも惜しまなかった父なるみ神と、その救いの実現のために御自身を捧げられた御子イエス様、そして、私たちが信仰を持って生きられるよう日々、支えて下さる聖霊はとこしえにほめたたえられますように。

3.天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初はそれを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)がそれです。ただ、新共同訳のこの訳文は少々味気ない訳です。ギリシャ語原文の趣旨を活かした訳は本説教題に掲げたように、「神がそうなると言われたことは(ρημα)、必ずそうなる」ということです。(もちろん、「神にとって不可能なことは何もない」と訳すことも可能ですが、すぐ後の1章45節との関係をみれば、説教題の訳が良いでしょう。)それに対するマリアの答えは、(これはなかなか良い訳でして)「わたしは主のはしためです。お言葉(ρημα)通り、この身に成りますように」でした(37節)。これは、神の意思を受け入れるということです。この受け入れは、天地創造の神の子の母親になれるという意味では大変名誉なことではありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものでもありました。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは婚約破棄を考えたのでした(マタイ1章19節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を伝えられて、神の計画の実現のために言われた通りにすることを決めました。神の人間救済計画の実現のために特別な役割を与えられるというのは、最高な栄誉である反面、人間の目からすれば、最悪な恥となることもあるという一例になったのです。イエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で三人はナザレの町に戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に、「この子は神の子です、天使がそう告げたんです」と弁明したところで、人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも、何も言わずにいた方が賢明、ということになったのではないでしょうか。いずれにしても、社会的に大変微妙な、辛い立場に置かれたわけです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から目を注がれて一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも人間的におめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神は共におられるのです。神がそうなると言われたことは、必ずそうなる、と信じて、それに従う時、人間的には辛い状況が生じても、実は、そういう状況そのものが、神が共におられることを示しているのです。マリアは、それを受け入れました。この受け入れは、順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいる、という生き方をすることを意味しました。「たとえ神様が一緒にいて下さっても逆境になるのは嫌」とか、「神様が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい」などという生き方は選びませんでした。たとえ逆境を伴うことになっても、神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって学ぶべきことがあります。

本説教の初めにキリスト信仰者というのは、世話したり守るべきものがあれば忠実に誠実にそうする、改善が必要なものは改善し、解決が必要な問題はしっかり解決にあたる者である、これら全てのことをする際の判断基準として、神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかという唯一神への愛、そして隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかという隣人愛の二つの基準がある、と申し上げました。こういうキリスト信仰者の生き方は、ある場合には、利他的な隣人愛のゆえに評価されたり賞賛されたりするでしょう。しかし、いつもほめられっぱなしではないと思います。隣人愛の基礎にある、唯一神への愛のために、偏狭なやつだと言われたり、忌み嫌われたり、ひどい場合は憎悪の対象になることもあるでしょう。キリスト信仰者の信仰人生とは実は、この相反する反応にたえず遭遇するものではないかと思います。もちろん、これらは人間が示す反応なので、いちいち振り回される必要は全くありません。それでも、もし、耳に入ってくるのが評価や賞賛など聞き心地のよいものだけになってしまったら、その時は、唯一神への愛は大丈夫かどうか、立ち止まって考えてみるべきと思います。

最後に、神が常に共におられるという生き方をする者がそのために困難や試練に直面した時、試練をまさに神由来のものとしてしっかり受け止めることが大事だとルターが教えています。その教えを引用して本説教の締めにしたいと思います。

「信仰は、試練や困難を全て軽微なものに、はては甘美なものにさえする。そのことは殉教者の生き方に見られる。信仰がなければ、たとえ全世界の安楽を手中に収めたところで、全ては重荷になり、苦々しい気持ちを掻き立てるだけになる。そのことは、無数の金持ちたちの惨めな人生が示している。

こんなことを言う者がいる。『今の自分の困難な状況は自分の愚かさや悪魔のせいで陥ったのではなくて、神がそのようになさったからだ、と納得させてくれる者がいればいいのだが。納得出来れば、この状況を受け入れてやってもいいのだが。』その者に対して我々はこう答える。『なんという愚かな考えだ。信仰の欠如以外の何ものでもない。キリスト自身がおっしゃったではないか、父なるみ神の意思が働かなければ鳥さえも空から落ちることはない、私たちの髪の毛も一本残らず数えられている、と。』

 もし君が、罪と何の関係もなくて困難な状況に陥ったとしよう。もちろん、同じ困難な状況は罪や愚かさが原因で起こる場合もあるが、ここでは、罪とは無関係にそういう状況に陥ったとしよう。そのような状況に陥るというのは実は、神の御心に適うことなのである。神にとって、罪以外のものならばなんでも御心に適うのである。君が何か困難な問題に取り組んでいるとしよう。その問題が罪と無関係ならば、君が取り組むことになったのは、神がそれをお許しになったからである。君はあとは、正しく考え正しく行動することに注意して、その問題に取り組みなさい。取り組む際にどうしても気が進まなかったり、なぜ自分がこんなことを、などと思う時、そう思うこと自体がまさに神の御心に適うことに取り組んでいることの表れなのである。まさにその時、神は、君の信仰が揺らぐかどうか、信仰にしっかり踏みとどまるかどうか、それを見るために、悪魔が君を試すのを許可しているのである。神は、君が信仰にとどまって戦い、成長する機会を与えて下さっているのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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