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説教:木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書3章1~6節 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教:木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書3章1~6節

待降節第2主日(紫)   2018年12月9日(日)

ルカ福音書 3章1~6節

今日は、クリスマスを迎える待降節の礼拝です。

聖書はルカ福音書3章1~3節です。

まず、2節の後半を見ますと「神の言葉が荒野でザカリヤの子、ヨハネに降った。」とあります。

  この祭司ザカリヤと、その子ヨハネの誕生については、ルカは、1章5節から-25節までと、そして57節からー80節にえんえんと、長く、ていねいに、福音書のはじめから、しっかりとしるしているのです。これだけ長く、ていねいに書いていることは、それだけの深い意味を込めているから書いていることでしょう。しかし福音書の主役は、あくまで、救い主である、神の御子の誕生と、その御業の活動にあります。

  

  神の御子が、この世に人の姿をもって生まれ、この世の十字架の死をもって終えられるまで壮大な神の御業を助け、その歩みを整えるために、この祭司ザカリヤの息子、ヨハネはこの世に誕生した。神様は彼を用いていかれたのであります。

  このため、荒野にいたヨハネに神の言葉が臨んだのです。

  マタイ福音書には3章4節で次のように書いています。

  「ヨハネはらくだの毛皮を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物としていた。

  荒野というところがすべて象徴しています。荒野には草も木も生えていない、ごつごつとした石と岩ばかりの不毛の地です。

 

  きれいな花も咲かない、枝にたわわに実る実もない、第一、大地をうるおす水が全くない所です。

 

  現代に生きる私たちは、食べ物もある、住まいや衣服も手に入れられる、物質の面では、満たされているかも知れません。しかし、心の面ではどうでしょうか。

  人と人との関係が必ずしもうまくゆかない。疑いと憎しみ、失望と不安な世の中、まさに荒野のような人間どうしの、どうしようもない状況の只中に、神の言葉は臨んだのであります。

 

  ルカが3章1節で長々と、しかし、しっかりと歴史の事実をしるしています。ユダヤの民、イスラエル全土の神の民は、時のローマ皇帝の厳しい支配の下で、荒野のような、どうしようもない苦難の中にある只中の時代に、神の言葉は臨んだのであります。

  「祭司の子、ヨハネよ、立て!救い主 神の子は人の世に来られた。主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は、みな低くされる。曲がった道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」と。預言者イザヤが叫んだように、ヨハネは、救い主に先立って、

神様からの大役をおおせつかって、立て!主からの役目を受けて、その御業をなしていけ、と、言われている。

 

   3節です。「そこで、ヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」

 

  そうして、7節です。そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。

  「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」

  8節。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

  この後きびしい言葉が続いています。

 

  ヨルダン川で洗礼を授けた、バプテスマのヨハネが、神からの使命を受けて叫んだのは、「悔い改め。」でありました。

  マルコによる福音書は、クリスマスの出来事には一切ふれていません。

  いきなり、「神の子、イエス・キリストの福音の初め。」とあって、この福音書の目的をしるします。

  そして、預言者イザヤの言葉をもってきて、洗礼者ヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

  更に1章14節ー15節を見ます。イエスはガリラヤで神の福音を宣べ伝えて言いました。

  「時は満ち、神の道は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と叫んだのです。

  このヨハネも、イエスも、「悔い改めよ」と叫んでいる。

  悔い改める、と言うことは、どういうことでしょうか。

  この当時、ヨハネのもとに洗礼を授けてもらおうとしてやってきた群衆に対して、「自分たちの父はアブラハムだ」等という考えをすてよ。

 つまり、律法を守ること、「アブラハムこそが信仰の父」と思っている、そのようなことで お前たちの罪は赦されると思ってもみるな、と言うことです。

  罪の中にある人間が、どんなに努力しても自分の罪を自分で消すことはできないのです。

  自分以外の外から新しく変えられなければ、どうすることもできない。

  「悔い改め」とは、恵みに頼りたのむことです。

  いっさいのものを主に献げて、主にゆだねてしまうことであります。

  悔い改めは、自分中心ではなくて、神様を、いつも中心にしていく生涯です。神様が真ん中に立たれるならば、私たちは新しく変えられるのです。

  預言者エゼキエルはイスラエルの民に向かって、主の言葉を伝えました。

  旧約聖書 エゼキエル書 36章26節です。

  「わたしは、新しい心を、あなた方に与える。新しい霊をあなたの内に授ける。あなた方の肉から、石の心を除いて、肉の心を与えます。」

  ここには、主なる神様が、人間の石のような、かたくなな心を取り除いて、新しい霊の、肉の心を

授けて下さる。」というのであります。

  実に悔い改めなければならないのは、石の心、冷たい心、がん固な重い心を除いてしまうことです。

  さて、そこで、わたし達がクリスマスを迎えるにあたって、パプテスマのヨハネが荒野で叫んだ

「悔い改めよ」という言葉を、どう受けとめて、外からの神の恵みによって、新しい霊を与えて下さる

ように祈っていかねばならないということです。

 

  この夏から私はずーっと、詩篇の言葉にゆり動かされています。その詩篇は103篇です。22節までありますが、とてもすばらしい1-5節を見てみたいのです。

  詩篇103篇1~5節「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなる すべてのものよ、その聖なる御名を ほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを、心にとめよ。主は あなたの すべての不義をゆるし、あなたの すべての病をいやし、あなたのいのちを 墓から あがない いだし、いつくしみと、あわれみとを あなたに こうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもって、あなたを飽き足らせられる。こうして あなたは若返って、わしのように、新たになる。」

 

  この詩篇103篇の全面に、作者の信仰があふれています。「悔い改める」ということが どういうことかを その真髄をうたい上げているように思います。

  この詩篇の作者は、自分で、自分の魂に向かって、呼びかけているんです。

  わがたましいよ、主をほめよ。と、自分の一切を、神に向けている、信仰という出来事です。どこまでも、どこまでも、わたしと神様とに徹していく時、神様からのいつくしみと あわれみが 満ちあふれる、と 歌っているんです。

 

  人間は、神様をほめたたえるように、そういう場所に、初めから置かれたものなのです。

 

  神様が 世界をつくり、その中に、人間をおかれました。神様は、創造のみわざが全部完了した時、それをご覧になって、満足なさいました。すべては良かった。

  ですから 人間は、そのはじめに、まことに幸せに造られた。本当に喜びの存在として造られましたから、ごく自然に 造り主である主を、喜びたたえたい気持ちで 幸福にみちあふれていました。

  中世の教父と言われる アウグスチヌスは 「告白」という 有名な書の中で 次のように書いています。

  「人間は、あなたの造り給うたものの中で 取るに足らぬものであるが、あなたを讃えようとする。実は、あなたがうながし給うので、はじめて、人間はあなたを讃えて喜ぶのである。」

 

  人間は造られたものの中で、まことに小さいものでありますが しかし、すべての造られたものを動員し、すべての被造物を代表して、神をほめたたえるべく 置かれているものであります。と 言っているんです。そこに、人間の 一切の被造物に勝る位置があるわけです。

  しかし、人間は、その賛美を失ってしまった。いや! 賛美は持っている、けれども、その方向を全く取りちがえてしまった。

  本来、神をほめたたえるべく造られたものである。そのゆえに、その造り主のすばらしい御業を

ほめたたえるべきであるのに、神をほめたたえないで、自らをほめたたえる方向に、まちがえてしまいました。これが人間の罪の方向なんです。

 

  神によって置かれた位置からずれた姿です。

  

  神の御名をほめたたえるはずであるのに、自分の名があがめられることを求め、競い合って、己の名の誉れを求め合うのであります。

  即ち、人間は、神に与えられたあるべき場からはずれ、己が名を賛美する方向に、方向ちがいをしてしまったのであります。

  そうして、エデンの園は楽園ではなくなり、人間の前から消え去ってしまったのであります。

  喜びと賛美は消え失せ、人間は互いに自分の名誉を求め、ぶつかり合っています。

  それなのに この詩篇の作者は「わがたましいよ、主をほめよ。」と、いう。どうして、そう言い得るのでしょうか。

  ここに、何か、大きな出来事がなければならない。

  罪ある人間自身ではどうにもできない。

  この作者自身に、どのような出来事があって、この深い信仰を持つことができたのか、1節から22節までをじっくり読むと、作者の姿が随所に出ています。

  13節には、父がその子を憐れむように、主は、主を恐れる人を、憐れんでくださる。

  17節には、主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にある。と、あります。

  私たちは、この詩篇を「私の歌」として読もうとする時、そこに、どうしても、イエス・キリストの十字架を立てて、それを通して読まざるを得ないのであります。

  その時、たしかに、この歌を、私の歌として、賛美の歌として、読んでゆくことができるでしょう。

  そこには、クリスマスの出来事が必要でありました。

  神が人の姿をもって、人間の世に生まれて下さった。

  神の子としての姿をもって、イエス・キリストは人間の罪を負って十字架に死んで、神の愛を与えて下さったのであります。

  こうして私たちは、罪ゆるされた神の愛を受けて、主をほめたたえたいのであります。この作者のように「わがたましいよ、主をほめたたえよ。」と、よろこびの賛美を上げてクリスマスを迎えましょう。

                                            アーメン ハレルヤ

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