説教『互いに愛し合いなさい』鷲見達也 牧師

平和の日主日説教 2018年8月5日


ヨハネによる福音書 159-12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さまお一人お一人の上に、豊かにありますように    アーメン

暑い夏です、特に今年は酷暑の夏です。

さて、8月に入りますと、8月15日の終戦記念日があり、また、8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が落とされ、もう絶対に核戦争などは起こしてはならないことを肝に銘じて、私たちは、この8月には、特に「平和」について考えます。

今日は「平和の日」主日です。

私は、牧師になった初任地の広島教会で2年間を過ごしました。この夏の時期、特に8月6日を中心とした日には、日本人のみならず外国の方々も平和につき、また原爆について考えるためでしょう、広島市にはたくさんの方々が見えました。

神道、仏教、カトリック・プロテスタント教会など、広島の宗教者の会が枠を超えて、一緒に共に祈る集会を平和公園にて早朝行いましたが、8月6日、私も広島におりました時にはそれに参加をいたしました。そして、その集会等を通して、改めて広島市民の核兵器廃絶に対する強い思いを体験いたしました。

 

今年は、アメリカと北朝鮮のトップ会談が6月12日に行なわれ、トランプ大統領は北朝鮮に対して体制の保証を提供する約束をし、キム委員長は朝鮮半島の完全な非核化について、断固として揺るがない決意を確認した、とされております。これが実現するかは予断を許さないところですが、平和を希求する全世界の願いが成就されることを望みます。

このような時、私たちは、改めて、平和とは何かについて聖書から聞いてまいりたいと思います。

 今日の旧約聖書の日課はミカ書です。預言者ミカの活動は、北イスラエルのサマリア陥落の前、紀元前725年頃から、サマリア陥落後の紀元前701年の前ころまでであろうと考えられております。

この時期に、ミカは北のサマリアが偶像礼拝の故に神の裁きによって滅びること、また南のエルサレムも不正義の故に神の審判は逃れられないことを語りました。

この預言が紀元前722年/721年のサマリヤ陥落によって成就した時、更に紀元前587年にエルサレムがバビロンによって陥落させられた時には、ミカの滅亡預言は捕囚の民にとって非常に重い意味を加えたのでした。

 徹底的な裁きを告げたミカの預言が、バビロニア軍によるエルサレム崩壊によって遂に成就したと受け止められたとき、ミカは絶望の中にある捕囚民に向かって、紀元前8世紀、既に、慰めと希望のメッセージを語っておりました。

神は将来イスラエルの民を救うであろうとミカは告げます。神がバビロン捕囚の民を連れ帰り、エルサレムでもう一度礼拝をささげられるようにすると申しました。それが今日読まれた旧約の「終わりの日の約束」の日課です(4:1-13)。

ミカ書4章3節にこのようにありました。「4:3主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」。

ミカは、さらに、主が良い羊飼いのように民を養い守る指導者を選び、平和がもたらされる(5:1-5)と申します。すなわち、律法がすべての国々で守られ、剣や槍が鋤と鎌に作り直される日がやがてやって来る(4:1-3、イザ2:2-4)と申します。そのあとの、5章4節で「[MIC] 5:4彼こそ、まさしく平和である。…」とあります。すなわち、主イエスの出現によって「平和」がもたらされるとミカは語っておりました。

また、今日の使徒書の日課、エフェソの信徒への手紙2章からも、教えられます。

エフェソ書2章13節から14節、「2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とあります。

敵意を持っていたイスラエルと異邦人との間のことを「遠く離れていた」と言うのですが、遠く離れていた者が、「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」と記されます。

この「キリスト・イエスにおいて」ということはどういうことでしょうか。

それは「キリストとイスラエル」、「キリストと異邦人」と言うように両者が、それぞれキリストに近いものとなり、そのことによってイスラエルと異邦人の、両者が遠い関係から近い関係になることができたということです。

キリストによって、両者が、それぞれに神と近い関係になり、そのことによって両者が近い関係になって「敵意」という隔ての壁が取り除かれたと申します。

そこに平和があり、これによって平和がもたらされるということが、聖書が伝えている真の平和です。

私たちの日常生活の中で、どうしてもあの人は許せない、という感情を持たざるを得ない人が私たちには居るかもしれません。しかし、「私と神さま」との関係、「許せないと思っている人と神さま」との関係を考えて見ますと、「私」と「赦せないと思っている人」、それぞれが神によって許されている者です。それぞれが神さまによって執りなしをされている者です。

2章13節・14節「2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。」

 このように、今日の旧約聖書、使徒書の日課によれば、キリスト・イエスの出現とそのイエスの業によって平和がもたらされることが示されております。

そこで改めて、主イエスが語ったところの福音書によって、今日の主題である「平和」について聞きたいのです。

今日の福音書の日課で、イエスはこのようにおっしゃいました。

「父なる神が私を愛したように、私もあなた方を愛してきた。あなた方を愛してきた私の愛に留まりなさい。私が、父なる神の掟を守り、その愛に留まっているように、あなた方も私の掟を守るならば、私の愛に留まっていることになる。このようなことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。この、互いに愛し合いなさいということ、これが私の掟である。」

ここには、御父のイエスへの愛、イエスが示すイエスにつながれた人々への愛、そして人々の愛が描かれております。これは一つの愛の連動です。

 イエスは9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」と述べてから、「わたしの愛にとどまりなさい。」と諭します。弟子に対するイエスの愛は、イエスに対する御父の愛に根ざしておりますから、弟子たちがイエスの愛にとどまるとき、父なる神の愛にとどまることに通じております。

主イエス御自身は神さまに完全に服従なさいました。その服従を通して、弟子たちに模範を示され、人びとが主イエスの愛の中に捕えられるよう願いました。

御子イエスは、御父の戒めを守ってまいりました。主イエスは愛を偽りのないものとして示され、そして、愛からの実りとして、御父の愛の中にとどまり、その愛に生かされ、人々を導かれたのでした。

 愛には、つねに喜びが伴います。

 11節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあります。

御子イエスは弟子たちを御自身の愛の中に置くことによって弟子たちから不安・心配・苦痛を取り除きました。

こうしてイエスは、弟子たちの中に、イエス御自身のもつ「父なる神への服従の喜び」を呼び起こし、それがイエス御自身から弟子たちの中に照り輝き、何ものにも害されず、曇らされない全くの完全な喜びが満ちるようになさいました。

そして12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と申しました。

「互いに愛し合いなさい。」というイエスの「新しい掟」(13:34)に生きることが求められております。

「互いに愛し合いなさい。」はあまりにも有名な主イエスの言葉です。

ここでイエスは確かに命令法で「愛し合いなさい」と言い、さらに「これがわたしの掟である」と言っております。

しかし、「愛とは命令されたから愛するというようなものか」という疑問を感じる人がいるかもしれません。愛というのは心の中から自然に湧き上がるもので、命令されて義務的に愛するというのは、ほんとうの愛ではない、と言うこともできるでしょう。

そのようなことを考えるとき、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉はとても重要な意味を与えます。

イエスは、愛の掟をただの命令として弟子たちに与えているのではありません。イエスが弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じておられます。

弟子たちの側からすれば、「イエスがわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきだ」ということになりますが、このとき、弟子たちにとってイエスの愛は単なる模範ではなく、弟子たちが愛することの根拠だと言えるのではないでしょうか。

「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができますし、愛さずにはいられなくなります。これは義務や命令の世界ではなく、恵みの世界です。

「掟」や「命令」と言っても実は外面的な規則のようなものではなく、わたしたちの内面に働きかけて、わたしたちの生き方を新たにしていく神の導きによることです。

そのわたしたちの中に「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が実現するならば、イエスは復活して今もわたしたちのうちに生きていてくださると言えます。

愛は決して命令されるものではありません。愛は要求によって得られるものではありません。この「愛するように」との命令は、「父は、神の愛を知る者たちが、互いに自分自身を無償で与えることを望まれる」ということができます。

愛する道は他にはありません。それは無償でなされるのであり、そうでなければそれは愛ではありません。

  神さまは、私たちに「互いに愛しなさい」と言われますが、それが簡単にできるとは思っておられないのではないでしょうか。

神は出来上がった信仰や行動を望まれているのではありません。私たちの弱さ、迷い、不安、すべてを知り尽くされてなお、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われ、私たち一人一人を受け入れて下さっております。その上で、「互いに愛しなさい」とおっしゃるのです。

  今日は「平和の主日」です。私たちの平和は、「互いに愛し合う」ということの中に見出されることを福音書から聞いてまいりました。

 「私があなた方を愛したように」と主イエスはおっしゃいました。主イエスがどのように私たちを愛されたかを、私たちは常に聖書の み言葉によって聞いてきました。

 主イエスはどんなに疲れていても、群衆の、癒して欲しい・聞いて欲しい・助けてほしいという願いに応えられました。悲しむ人・苦しむ人・弱い人の友となりました。安息日にも関わらず、奇跡を起こし病む人を助けました。

そして、父なる神の意思に従って、私たち人間の悪を帳消しにするために十字架にかかって私たちの身代わりになられました。言えば、私たちのような、本当に傲慢で罪深く、弱い者に対して、どこまでも仕えてくださったのです。

そのような主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うこと、それを主イエスは望んでおられます。

使徒書のエフェソの信徒への手紙でも、敵対するそれぞれが、神の恵みを信じて、神の執り成しのうちに、隔ての壁が取り去られて、神にある平和が実現することが示されておりました。

私たちは、主イエスが私たちを愛してくださっているように、私たちがお互いに愛し合うことによって神にある平和を実現したいのです。

繰り返しますが、主イエスは「15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とおっしゃっておられます。

 私たちは、絶対者なる神がお送りくださった主イエスが私たちを徹底的に愛してくださった、そしてそのイエスが望むように、私たちがお互いに愛し合うことによって神にある、そして神が望む本当の平和を実現したいのです。

 いにしえの預言者、イザヤもエゼキエルも、そして今日の旧約聖書の日課のミカも、大国の実力のまえに右顧左眄しなければならなかったイスラエルの民に、絶対者なる神に委ねて、主の み言葉にのみ頼るべきことを繰り返し述べております。

 翻って、オウム真理教から名前を変えた「アレフ」が、今年7月6日に死刑が執行された麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚の教えを忠実に守る形で今も教義を広めているそうです。また、中国の膨張主義の不安、IS(イスラミックステイト)のテロの不安など、私たちの現実は、まだまだ多くの緊張の中にあり、わが国の内閣は平和憲法を改正してまで、集団的自衛権をもって、力で対処する用意をしようとしているように見えます。

  私たちは、単に平和という理念を旗印として、他を批判・攻撃するというのでなく、共に生きることができる道を、誠実に、粘り強く、訊ねようではありませんか。この道こそは、活きて働きたもう主が私たちに恵みと賜物として許しておられるものであり、私たちをお導きになる道です。そこから、「平和」についても、私たちがなすべきことが導かれてまいります。

 現代の世界のこの上なく深刻な問題の中にあっても、主を賛美し、これに感謝することができるとともに、主から与えられている課題を喜びつつ、詩編34編のことばなどに示されるように「[PSA] 34:15 …平和を尋ね求め、追い求めよ」ということを精一杯聴き、追い求めて行くことができます。

「平和を尋ね求め、追い求めよ」ということは、共に生きることを探求しこれを追求することに他なりません。共に生きることの中で、人間は互いに真実に、自由に、大胆に生きることができ、敵対と陰謀から救われるのであり、そこでこそ人間性が真に確立されます。

私たちが腹をくくって神様に委ねることができれば、互いに愛し合うことに導かれ、それが平和につながっていくものとなるのです。

 私たちは、憲法がないがしろにされる瀬戸際におります。どのように改正するのかなど課題がありますが、私たちは全てを導いておられる主の御心を問う必要があります。

主イエスは「マタ26:52・・・「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」ともおっしゃいました。

主イエスは愛と平和、非暴力を説かれました。折しも今年は、非暴力主義を貫いた、マーティン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日、テネシー州メンフィスで宿舎の部屋を出たところを狙撃されてから、50年の節目の年です。

私たちは改めて、主にある本当の平和を作り出してゆく者として、主のみ言葉、「互いに愛し合う」ということをまず第一にしてまいりたいのです。

その上で、平和を求めて今、私たちにできることは精いっぱいしつつ、いつも執り成していてくださる主イエスに、全てをゆだねて過ごしてまいりたいと思うのです。

 どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。アーメン

 

 

 

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