説教:田中良浩 牧師

2018年7月8日(聖霊降臨後第7主日)礼拝

                       担当 田中 良浩

2 7月 8日(聖霊降臨後第7主日)

聖書日課 創世記3815、Ⅱコリント51115、マルコ32030

説教題 「恵みの力、聖霊によって

 

 

 

序 『イエスとはいったい誰か?』これが今日の主題である!

  今日の福音書の日課は、実に異様な雰囲気に溢れた情景が物語られている。

  その物語の内容は、神の出来事に関しては、一般的人間の理性あるいは

感情の盲目性と無理解である。

 

さらに宗教的な人間(特にここに挙げられているエルサレムから下ってきた律法学者たち)であってさえ、それは反感と拒絶である!

 

 

1 物語には主イエス・キリストについての常套的な導入(マルコ3:31)

がある。つまり

  「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」である。 

  ◎主イエスのおられる所には、いつも「大勢の群衆が集まっていた」という描写はいくつもある。(マルコ2:2、13、3:7、4:1他)。

  ◎それは人々にとっては主イエス・キリストが必要であることをしめしている。

  ◎現代でも同様である。大多数の人々には関心がない。しかし、聖書の語

る本質からいえば、人にとって主イエス・キリストは求めるべきお方で ある。

   主イエス・キリストにこそ、真実、癒し、力、救い、生命、希望があるからである。

 

 

2<人間の盲目性と無理解>=それは家族に現れる。

 そこに家族が来訪する!このように描かれている。(マルコ3:21)

 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変

になっている』と言われていたからである。

 

 こともあろうに、イエスを「取り押さえに来た」のである。

 「取り押さえる」=非常に強い表現である。そこには明確な理由があるから

である。理由は主イエスが「あの男」と呼ばれているほど、「気が変になって

いる」からである。

 

 また、初代教会では有力な指導者であった主の兄弟ヤコブもヨハネによれば  

 「兄弟たちもイエスを信じていなかった」(7:116、5)のである。

 

このような家庭のトラブルは、主イエスが語られた通りである。(マタイ10:35)

「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。

 

<人間的な関係、肉の思いを中心として生きるか?それとも、主イエスの

教えられる霊の導き、福音の教えによって生きるか?>の戦いである。

 後年、主の兄弟ヤコブは、使徒パウロと同様、復活のキリストに出会って

 (Ⅰコリンと15:7)使徒となるのである。

 

 

3<宗教的な指導者、律法学者、ファリサイ派の人びとの主イエスに対する

  反感と拒絶>=それがガリラヤでさえ生起した!

  彼らはわざわざエルサレムからはるばる下って来て、異常な言葉で騒いだ。

  彼らは、『あの男は、ベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、

  『悪霊の頭の力で、悪霊を追い出している』と叫んだのである。

 

  ◎ここで宗教的な指導者たちが使った、「ベルゼブル」とは一体何か?

   この言葉は共観福音書でもしばしば用いられている。(マタイ9:34、

   10:25、マルコ3:22、ルカ11:15=共通の出来事)。

 

   これは当時、昔から伝えられところによると「エクロンの神、バアル・ゼブブ(蠅の神)」である。これは本来は「バアル・ゼブル」(君主)が

   原型である。嘲笑的に、また忌避すべきものとしてこのように表現されたのであろうか?

 

   【列王記下1章参照して頂きたい】

   イスラエルの王、アハズヤは病気になったが、彼は使者を遣わして

   「エクロンの神、バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか、尋ねよ」と2回も、3回も尋ねさせたのである。

その結果預言者エリヤは、「それはイスラエルには、その言葉を求める神はいないとでも言うのか。」と語って、アハズヤに死を宣告するのである。

 

ここで用いられている名が、バアル・ゼブブ(蠅の神)である。

   蠅とは興味深い言葉である。日本では、蠅は病気を伝染させるもので

   不潔な虫として敬遠される。「蠅侍」とは意地汚い侍のことであり、

   また、「胡麻の蠅」といういやな言葉も残っている。

   (※高野山の聖人の格好をして、旅人から金品をかすめ取るもの)

 

   当時の宗教的指導者、律法学者たちは、主イエスを批判、嘲笑して、

「エクロン(異邦)の神、蠅の神、悪霊の頭」と呼んだのである。

 

   これに対して、主イエスは言われた(3:23~26)

「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その  国は成り立たない。家が内輪で争えばその家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」と。

 

 

4 この日課から学ぶべきこと

  (その一)家族(家庭)と信仰について

  (1)この日課に続く箇所に記されている。(マルコ3:31~35)

     特に「イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、

     周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

     神の御心にそうか、どうか、御心を行うかどうか、によるのである!

 

  (2)ヨシュアの言葉(ヨシュア24:15)

      「あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

      家の信仰、同時に「信仰の継承」の必要がある!

 

  (その二)霊の理解について(マルコ1:9~11)

   (1)主イエスは洗礼を受けた。その時、神の霊が鳩のように

主イエスの上に降った。そして声が聞こえた。

      「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

       私たちも洗礼によって、この恵みに与っている。

 

   (2)言い換えれば、聖霊の証印をいただいている。

(Ⅱコリント1:22参照)

      「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたち

の心に“霊”を与えてくださいました。

 

      <イエスにおいて然りとなった、と使徒パウロは言う>

 

   (その三)

 

 

 

 

    ◎今日の旧約聖書の日課が教えている。

   初めの人、アダムとエバは、神のみ心に背き、罪を犯した。

     それにも拘わらず、主なる神は人を、探し続けた。

     「あなたはどこにいるか?」と。

 

     そして救いを約束された(創世記3:15)=原福音

     神は創造の始めから、救い、希望を約束されている!

 

 

 ◎私たちの生活は決して、生ぬるくはない!厳しいものがある。

     戦い、苦難、試練そして病がある。

     教会讃美歌408

     「あてもなくさ迷い 行き悩む時がある・・・」しかし

      私たちは「守りませ わが主よ」と祈る!

   

   私たちは恵みの力、聖霊によって導かれている! 

 

 

 

  • 11月 18日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教マルッティ・ポウッカ牧師(マルコ12章41~44),礼拝後交わり。
  • 11月 18日 2:00 pm
    SUOMI-KAI スオミ会
    Tapaaminen kaikille Tokion seudulla asuville suomalaisille ja heidän perheilleen. Tervetuloa!
クリスマス・マーケット
&コンサート
2018年11月23日
(祝日)13時~16時
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