説教:木村長政 名誉牧師

 

第14回

コリントの信徒への手紙 3章18~23節

『この世の知恵と神の知恵』 2018年1月14日(日)

今年もコリントの信徒への手紙の御言葉と聞いていきたいと思います。今日は、3章18節から23節までです。今日の聖書の中心点は「この世の知恵と神の知恵」ということです。19節を見ますと、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」であると言っています。

その前のところで1章18節では次のように言っています。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である」とあります。十字架の言の力強い事を強調しています。更に1章25節には「神の愚かさは人よりも賢く神の弱さは人よりも強いからである」と言っています。人間というのはいつの間にか、神と人間の賢さとか、愚かさといったことを比べてしまうものです。自分でも気づかないうちに神のことが自分の思うようにならない、合点が行かないと思ったりしています。そうして人間の方が賢いように思ったりしているんです。

詩篇53篇1節に「愚かな者は心のうちに『神などいない』と思っているのではないか、ただ、そういう人は本当は愚かなのである。というわけです。

賢いとか愚かと言っても、普通の知恵や知識での話ではありません。

自分の持っている知識は神の知識に比べれば大海と砂浜に遊ぶ子どもの持っている貝殻の中の水ほどに少ないと言ったものである。

ここでは、そういう事を言っているのではなく、もっともっと神と対面して自分の貧弱さ、貧しさ救われなければならない罪の中にあるみじめな状態を知った者の言うことであります。

そこでパウロは言うのです。18節です。「誰も自分を欺いてはならない。もしあなた方の誰かが自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら本当に知恵のある者となるためには愚かな者になりなさい。」というのであります。

この世の知恵は神の前では愚かなものだからです。ここで「この世」というのは目に見える、この世界のことだけでなく、目に見えないことも含めて、人間が支配者になっているように見える、この世ということであります。

知恵というのは何でしょうか。確かに知恵は人間をまことに生かすべきものであるはずです。しかし、知恵のあるところには誇りがあります。こうすれば自分は生きることができるという自信であります。

しかし自分の生き死について、本当は誇ることができません。なぜなら人間の生き死にについてはどんな人もどうすることもできないからであります。

自分の命を伸ばすことも短くすることもできません。

この手紙は神の愚かさと人間の賢さのことをしばしば取り上げています。そして神の前にまことに愚かになることによって心に賢くなることをすすめるのです。

神の賢さによって救われることを教えようとするのであります。

この世の知恵が神の御前に愚かであるのは、まずこの世の知恵は神の知恵に及ばないからであります。

神は天と地を創造しこれを支配しておられます。それに対して人間はその中に住む小さなものに過ぎません。その人間の知恵はとうてい神に及びません。私たちはこの世に生まれながら、何のために生まれたのかも知りません。この命は絶対に失われてはならないものであると確信しています。しかしなぜこの命がそんなに尊いものであるかは誰にもわかりません。この命は絶対に大切なものであると言いながら、また、その命の危うさを知っています。それはちょっとしたわずかなことに傷つき、心を痛め、悩んでしまうのであります。いろんな思わぬ出来事が起こっています。しかもそれが毎日のように私たちの周りで起こっていることであります。それにもかかわらず、私たちには、その理由がわかりません。生きていても漫然と月日は過ぎています。生きている事についてわからなければ、死についてはなおさらわかりません。死ほど毎日の私たちの周りで繰り返されているものはありません。

例えば、私の住んでいるマンションの前を毎日何回も救急車がピーポーピーポーと走って行きます。それで死についてつぶさに見ることも調べることもできません。

何十年も生きてきた命すらよくはわからないのです。

ここに言われているこの世の知恵が神の前に愚かであると言う事は、その程度のことを言っているのではありません。1章18節の言葉がそれを示しています。「十字架の言葉は滅びる者には愚かであるが救われるものには神の力である。」と言うことであります。私たちは生き死にについてなぜ知りたいのでありましょうか。

それはそのことを知ることによって本当に安心したいからであります。聖書の言葉で言えば、救われたいからであります。安心を得たい。揺らぐことのない幸福を得たい、と願って苦しみ続けるのであります。しかし私たちの考える事は空しくなってしまいます。

それは、生きることについても死ぬことについても最大の問題である罪から逃れることができないからであります。

罪を追い払うすべがないからであります。そういう知恵はどんなに利口そうに見えても愚かしいものであります。

それに対して神がお与えになった知恵は何であったでしょうか。それは神の御子が十字架にかかって人間の罪のために死ぬと言うことであります。

これこそ十字架の言葉であります。

これはまことに愚かしいもの知恵らしからぬことでありました。

多くの人がはじめにはそれを軽蔑いたしました。この単純なことが何の役に立つのかと思うからであります。

しかしこれを信じたものは皆ここにこそ救いがあったことを発見いたしました。それは簡単な話ではなく神が考えに考え抜いた愛の極みであることがわかったからであります。

人間の欲深い知恵と違ってこれは神が人間を愛しその罪を救うためにとられた最後の愛の御業であったからであります。

それは知恵の好きなギリシア人にはわからない神の知恵でありました。神の力でありました。それゆえに人間の知恵は神の前に愚かなものなのであります。それでパウロは19節と20節に旧約聖書からの引用を二つ持ってきています。

19節はヨブ記512節です。

「神は知恵のある者たちをその悪賢さによって捕えられる」。

そして20節の方では詩編9411節であります。「主は知っておられる。知恵のある者たちの論議が空しいことを」と書いてある。

ここで言われている事はそれほどに神の救いの知恵が大きいと言うことなのであります。だから人間は誰も自分を誇ってはならないのであります。

知恵の話がただの知恵や知識のことでなくて救いの話であります。そのことは旧約聖書からの引用を示してパウロは突然に21節に書いています。

「全てはあなた方のものです」あなた方とは誰のことでしょうか。ここではコリントの教会のことです。これは教会を指しているのです。そうであれば全てはあなた方のものと言うのは、すべては教会に属する事と言うことです。つまり教会のことを正しく知ることですべての事は分かると言うのです。

前回3章1617節で突然に「あなた方は神の宮である」と書いていました。これらを信仰の立場から言えばわかりやすいことです。つまり信仰生活の最後の目的は教会生活であると言うこと。それだからパウロは言ったのです。あなた方は神の宮であると。そして最後に建てられるべきものは神殿であります。

目に見える神殿ではなく、最後の願いは信仰による神殿が建てられ、そこで全ての人間が神を礼拝することを喜びとするようになることです。そうであれば今は惨めなみすぼらしいものかもしれません。しかしそこでは一切のものが神のために自分があるということがわかるでしょう。そうするとすべてのものが自分は何のために生き、何のために死ぬかもわかってくるでしょう。

このように神殿は一切のことを受け入れすべてのものを生かす場所になる。そうしますとパウロが22節で言っていることがじーんと深くわかってくるのです。

22節には「パウロもアポロもケパも世界も生も死も、現在のものも将来のものもことごとくあなた方のものである」。この言葉にダイナミックに深く分かってくるのであります。

信仰を持ったあなたがあったが一人ひとりの役割を十分に活かして互いに協力し合い組み合わさって大きな1つの神殿となることであります。こうした教会が神殿であればそれこそキリストの教会であり、キリストの神殿、教会はキリストのからだであると言われます。これらの全てのものはキリストに受け入れられると言うことになるのであります。ですからパウロは最後のところで23節に「あなた方はキリストのもの」なのだ。そして「キリストは神のものである」と言うのです。

そして信仰生活に入ると言う事は何か特別な人生観を持ったり特別な生活をすることでなくそれはキリストのものになることであります。自分のものであってもはや自分のものでなくなるのであります。誰でも自分こそ自分のものであると思いながらそれが重荷でどうしようもないような気持ちになるのではありませんか。その時自分が自分のものでなくキリストのものであると言われることこそ救いであります。

自分が救われた経過から言えば自分は神のものであるに違いないが、まず、キリストに救われた、キリストのものと言うべきでありましょう。そしてそのキリストこそはまことに神の子であられるのです。

アーメンハレルヤ!

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