聖金曜日礼拝の説教「我らが立ち返るべき原点」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書 19章17-30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑法でした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に高々と晒すというものでした。イエス様は、十字架に打ち付けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が打ち付けられることになる十字架の材木を処刑場まで自ら担いで歩かされました。これは途中で通りがかりの人が手伝わされることになりましたが、イエス様の体力は本当に限界だったでしょう。そして、やっとたどり着いたところで痛ましい釘打ちが始まりました。数多くの宗教画に描かれた十字架のイエス様は、釘を打ちつけられた手足から血を流し、血の気を失った体は全体的に色白な感じのものが多かったように思われます。しかし、兵隊たちから暴行を受けた後ですので、本当は全身血まみれだったのでしょう。2004年に公開されたアメリカの映画で「キリストの受難Passion of the Christ」というのがあって、残酷なシーンが多くて世界中で話題になりました。実際はあれくらいのことが起こったのでしょう。とにかく、一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に打ち付けられていました。何も罪を犯していないイエス様は、極悪人の扱いを受けたのです。十字架の近くでは、人間の痛みや苦しみに全く無関心な兵隊たちが手持ちぶさたそうにして、処刑者たちが息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。十字架の周りを大勢の群衆が見守っています。近くの街道を通る人たちも立ち止って様子を窺います。そのほとんどの者は、イエス様に嘲笑を浴びせかけました。ユダヤ民族の解放者のように振る舞いながら、なんだ、あのざまは、なんと期待外れな男だったか、と。もちろん群衆の中には、イエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛とかすれていく意識の中でイエス様が目にした光景でした。

そのような苦痛と激痛の中にありながらイエス様は、自分にこのような仕打ちをする者たちにも赦しが与えられるようにと神に祈りました(ルカ23章34節)。また、隣の十字架にかけられた犯罪人がイエス様に罪を告白して自分の全てを委ねた時、イエス様はその人に永遠の命を与えました(ルカ23章43節)。そして最後に、愛する弟子の一人に母マリアを引き取って世話をするように命じました。このようにイエス様は力尽きる最後の最後まで愛を実践することを怠りませんでした。

さて、このイエス様の悲惨な十字架の死は、一体何だったのでしょうか?言うまでもなく、十字架はキリスト信仰のシンボルになっています。キリスト教会に掲げられた十字架、礼拝堂の正面に飾られた十字架、そういうシンボルとしての十字架はただ単に、イエス様が十字架にかけられて死んだという見かけの出来事を伝えるだけのものではありません。シンボルとしての十字架は、見かけの出来事の背後にそびえる大いなる真実を象徴しています。その大いなる真実とは何か?それは、イエス様が十字架の上で死なれたことで逆に人間が救われる道が開かれたということです。この人間の救いを十字架は象徴しているのです。「人間が救われる」と言う時の「人間」とは、欧米人だろうがアジア人だろうがアフリカ人だろうが、とにかく人間なら誰でも救われる道が開かれたということです。

それでは、どうしてイエス様が十字架で死なれたことが、人間が救われる道を開くことになったのでしょうか?そもそも、「救い」とは何から救われることを意味するのでしょうか?そうした疑問を明らかにする最初の手掛かりとして、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所がちょうどよいでしょう。

イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所は、明らかにイエス様の受難と死の出来事を指しているとわかります。そこでは、彼の受難と死の目的について詳しく述べられています。(ところで、この預言の言葉が紀元前700年代に由来すると見てよいのか、それとも紀元前500年代に由来するかについては、キリスト信仰者の間でも議論されるところではあります。しかし、いずれにしてもイエス様が歴史の舞台に登場する数百年前に由来することは否定できないのです。)それでは、イザヤ書53章から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした(53章4節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした(同5節)。なぜこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした(同5節)。神は、私たち人間の罪をすべてイエス様に負わせたのであり(同6節)、神に対する人間の背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのです(同8節)。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた(同9節)。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした(同10節)。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった(同12節)。

以上から、イエス様が罪ある私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのでしょうか?私たち人間の一体何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った、と言われるが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申しますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえないこと、落ち度だらけの者であることを明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があることも明らかにしています。どういうことか、さらに見ていきましょう。

人間は、もともとは神聖な神の意思に適う良いものとして、神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように、自分の造り主である神と張り合いたいという傲慢な心を持ったことが原因で、人間は神に対して不従順になり、人間の内に罪が入り込んでしまうことになったのです。この結果、人間と造り主である神との結びつきが壊れ、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、神との平和な関係が失われてしまいました。

しかしながら、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはしませんでした。正反対に、なんとか人間との結びつきを回復しようと考えたのです。ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にしなければならない。まさに人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力でそれを除去することはできず、罪の支配力を無力にする力もない。そこで、神が編み出した解決方法は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらおう。つまり、その誰かを全ての悪の犯人のように仕立てあげて呪われた状態にして、人間の全ての罪の罰を全部その者に受けさせるのだ。それこそ、罪の償いは全部済んだと言える位の罰をその者に下し尽くすのだ。人間は、このなされた償いを自分のものとして受け取ることで罪を赦された者となって、神との結びつきを回復させることができる。このような解決方法を神は考案したのです。

それでは、一体誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるのに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに人類の罪全部を請け負わせることは不可能である。自分の分さえ背負いきれずに滅んでしまうだけなのだから。そうなれば、罪の重荷も汚れも持たない、純白で神聖な神のひとり子しか背負いきれる者はいない。それで、この重い役目を引き受ける者として神のひとり子イエス様に白羽の矢が当たったのでした。

さて、神のひとり子は歴史を超えた天の御国という無限が支配するところにおられます。その方が有限な人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が神の形を捨てて、人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみもそれこそ人並みに感じられるようになります。まことに先ほど読んでいただいたヘブライ書の聖句にあるように、イエス様は「罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われた」。それで「わたしたちの弱さに同情できる方」なのです(ヘブライ4章15節)。しかも、自分のあずかりしらない、自分以外の全ての人間の罪を請け負い、その罰がもたらす痛みと苦しみを受けなければならないのです。それをしなければ、人間は神との結びつきを回復するきっかけを持てないのです。

そうして、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。このようにイエス様の身代わりの犠牲の役目が、人間の具体的な歴史状況の中で実施されたということはとても大事です。なぜなら、そうしないと、目撃者も証言者も生まれず、彼らが残すことになる記録も生まれません。ちゃんと証言や記録がなければ、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりがなくなってしまいます。天地創造の神がひとり子の身代わりの犠牲を歴史上の出来事として起こしたのには、ちゃんと理由があるのです。

ところで、ユダヤ民族というのは、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていた民族でした。この神聖な書物の本当の趣旨は全人類の救いということでした。ところが、ユダヤ民族は自分たちの長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という自分たちの利害関心に結びつけて考えていました。これは旧約聖書の一面的な解釈でした。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世が終わりを告げた時に出現する神の国とはどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。こうしたイエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発と憎悪を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、皮肉にもまさにそれが起きたおかげで、神のひとり子が人類の罪を請け負ってその罰を全部身代わりに引き受けるという、人間の罪の償いが具体的な形を取ることができたのでした。

このようなわけで、イエス様の十字架上の死というのは、人間の救いが完成したことを現しています。本来ならば、私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。さらに、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、神がイエス様と一緒に十字架の上で刺し貫いてしまったので、その人間を牛耳っていた力は粉砕されてしまいました。このようにして、神は人間救済計画をひとり子イエス様を用いて実現したのです。神はこの実現済みの救いを全ての人間に向けて、さぁ、受け取りなさい、と提供してくれているのです。そこで人間が、ああ、そうだったのか、イエス様の十字架の死は実は2000年後の今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を受け取れて自分のものにすることができるのです。こうして神から罪の赦しを得た人は、神との結びつきが回復して、永遠の命に至る道の上に置かれて、その道を歩み始めるようになります。順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死んでも、その時は救い主が御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

「罪の赦しの救い」を受け取った人は、心に大きな安心と平安を持つことができ、神にこれだけ愛を頂いたからには、自分もイエス様が教えられたように、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、と志向し始めます。ところが、生きていくうちにそれはそう簡単なことではないと気づかされることがいろいろ出て来ます。この世というものは、神の意思に沿う生き方をできなくしてやろうという力に満ちているからです。とにかく現実の世界で生きていると、そういう力に絶えず直面します。特にあらゆることが混とんとしてしまったような現代では、そうでしょう。ですから、神の意思に沿う生き方に反対する力に遭遇したら、兎にも角にも聖書の御言葉に聞き、神に助けと導きを祈り求めなければなりません。私たちが、イエス様のゆえに、つまりイエス様の身代わりの死に免じて、罪を赦して下さい、と祈ると、神の方で、お前はわが子イエスを救い主として信じているな、と確認できます。そしてすかさず、「この罪はもう取沙汰しないから、心配しないで前に向かって進みなさい」と言って、私たちをまた祝福してこの世に送り出して下さいます。これが、先ほど読んでいただいたヘブライ書4章16節で言うところの、大胆に恵みの座に近づいて、時宜に適った助けを頂くことです。

キリスト信仰者は、もし神の前にへりくだって罪を告白すれば、神はイエス様の身代わりの死に免じて必ず赦して下さる、と知っています。しかしながら、それでも、赦しが得られるかどうか、確信が持てない時も出て来ます。祈っても祈っても苦難や困難から脱せられない時とか、また死が間近に迫った時、信仰者といえでも、果たして神は自分を御許に引き上るのに相応しいと見てくれているのだろうか、自分はまだ罪の汚れが残っているから見捨てられるのではないだろうか、と心配することがあります。そのような時は、ルターにならって、ゴルゴタの丘の十字架に心の目を向けるとよいでしょう。あそこに、首を垂れたイエス様がかかっている。あの方の肩には全世界の人々の罪が重くのしかかっている。私の罪もああして全部、あのお方の肩に貼りつけられている。このことを心の目で目撃できれば、罪の赦しは間違いなくある、どんな境遇にあっても神との結びつきはしっかり保たれている、と確信できるはずです。

十字架上のイエス様というのは、イエス様を救い主と信じて救いを既に受け取った者にとっては、絶えず立ち返るべき原点です。その人にとっては、残存する罪は、もはや死と罰に追いやる力はありません。逆に罪は、その人を絶えず十字架のもとに立ち返らせる契機に変わったのです。まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、十字架は言うまでもなく目指すべき目的地です。目的地に到達するや否や、今度はそれは立ち返るべき原点にかわる、それが十字架上のイエス様であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 聖金曜日
2016年3月25日 聖書日課 イザヤ52章13節-53章12節、ヘブライ4章14節-5章10節、ヨハネ19章17-30節

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