説教「キリスト信仰者の覚悟と本懐」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書13章1-9節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1. はじめに

 本日の説教題は「キリスト信仰者の覚悟と本懐」です。「覚悟」という言葉の意味は、誰でもわかると思います。一応辞書で確認しますと、「危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること」とありました。「決死の覚悟」とか「危険は覚悟の上だ」とか「覚悟はできている」という用例がありました。ところが「覚悟」には、こういう「対応の心構え」とは逆に、「あきらめる」とか「観念する」の意味もありまして、その場合は「もうだめだ、と覚悟する」などと言います。本説教で言う「覚悟」は、「あきらめ」ではなく、「来るべき試練に対応すべく心構えをする」の意味です。

「本懐」はあまり聞きなれない言葉かもしれません。辞書に載っている意味は、「もとから抱いている願い」、「本来の希望」、「本意」、「本望」などとあり、それで「本懐を遂げる」という用例がありました。「本望を遂げる」と同じでしょう。それならば、どうして「本望」を使わずに「本懐」を選んだかと言いますと、30年程前に出た城山三郎のノンフィクション小説に「男子の本懐」というのがあり、テレビドラマにもなりましたが、主人公の浜口雄幸という1930年代初めの総理大臣がこの言葉を使っていて、それが「覚悟」という言葉とうまくペアを組むと思ったからです。

どういうことか、簡単に説明しますと、当時の日本は天皇主権の大日本帝国憲法のもとで国が統治されていました。それでも、議会は選挙権が拡大して男性の普通選挙が実現して、議会の多数を占めた政党が政府を形成するという議会制民主主義が根付き始めていました。そのような時に首相になった浜口は軍縮を実行します。当時の内閣は今の防衛大臣と違って海軍大臣と陸軍大臣がいて軍の発言力はとても大きかったのですが、浜口は今で言えばそれこそ立憲主義の原則にたって事を進めていきます。しかし当然のことながら軍は反発、浜口のやっていることは軍を議会や政府の意思に従わせるものだ、それは天皇の主権を侵すものだ、と主張しだす。それはまさに立憲主義に関して当時の憲法の限界点を露呈する出来事でした。浜口首相は右翼の青年に銃撃されて重傷を負い、それがもとで命を落としてしまいます。そんなことが戦前の日本にあったのです。

浜口首相が「本懐」という言葉を使ったのは、私のつたない記憶ですが、首相に就任した時に、「自分は決死の覚悟で職務を行うので、道半ばで倒れるようなことがあっても、それは男子の本懐である」という趣旨のことを言っていました。また、銃撃された時も「男子の本懐だ」と言っていたと記憶します。要するに、何か私利私欲を超えた大きなものを目指してそれに向かって進んで行くが、たとえ道半ばで命を落とすことになっても、それは残念無念ではなく、目指す方向を向いて落とせるのであれば何も不足はない、本望である、本懐である、そのように理解してよいと思います。

以上のように「本懐」とは、「何か大きな目指すものをいつも向いて歩んでいるので、人生何があっても不足はないと思える心意気」と理解できることがわかりました。最初に「覚悟」とは、「来るべき試練に対応すべく心構えをすること」であると申しました。実は、本日の福音書の箇所、特に13章の1節から5節までの箇所は何度も何度も読んでいきますと、まさにそのような「覚悟」と「本懐」を与えてくれる御言葉であることがわかってきました。本日は、そのことを皆様にお伝えしたく思います。

 

2.二つのタイプの災難苦難とイエス様の主眼

 ある人たちがイエス様にある出来事について報告しに来ました。それは、ローマ帝国ユダヤ地域総督ピラトが「ガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜた」という事件でした。ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事の時に生け贄を捧げに来た人たちがいて、総督ピラトが何らかの理由で彼らを捕えて殺害させ、その血を彼らが捧げようとした生け贄にかけたか、または生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な出来事です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対するとてつもない冒涜でもあります。(注1)

 この報告を受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池という場所がありますが、もし塔がその近辺にあったものであれば、エルサレムの町の南部で起きた出来事ということになりましょう。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。

ところで、ピラトの事件は人間の残虐行為の犠牲と言うことが出来ます。シロアムの塔の場合は、人間の行為によるものというより、不慮の事故による犠牲と言えます。もちろん手抜き工事による事故なら人災と言うこともできますが、ここではそんな込み入ったことには立ち入らず、一方は人間の意図的な残虐行為による犠牲、他方はそうではない不慮の事故による犠牲ということにしましょう。そうすると、本日の福音書の箇所で言われる苦難災難は、人間がこの世で被る苦難災難の二つの大きな範疇を網羅していると言うことが出来ます。

 さて、イエス様にピラトの事件を報告しに来た人たちは、何が目的で報告しに来たのでしょうか?彼らには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。それが何であるかは直接的には記されていませんが、報告を聞いたイエス様の言葉から、彼らの関心事は明らかです。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇しやすくなるのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪深さの度合いが低ければ、災難に遭遇しにくくなる、ということなのですか?」さらに言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは、「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪が苦難災難を罰としてもたらすという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのであります。

 因果応報の観点の確認を求められたイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキ(ουχι)は通常の否定辞ウー(ου)よりも強い否定の意味を持ちます。イエス様は何を否定して「決してそうではない」と言っているのか?二つのことが考えられます。一つは、この世の苦難災難は因果応報なんかで説明はつかない、と因果応報の観点を否定したことです。もう一つは、災難に遭遇したガリラヤ人も遭遇しなかったその他のガリラヤ人もみな罪深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。その場合、両者ともに同じくらい罪びとであると言っているので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性はあり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、二つ目の意味をとっても、因果応報はあてはまらないと言っていることになります。いずれにしても、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものであることは明らかです。

イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、シロアムの塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も、3節と同じように二つ考えられます。一つ目は、この世の苦難災難は因果応報なんかで説明はつかない、と因果応報の観点を否定すること。二つ目は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということ。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、二つ目の意味でみても、因果応報はあてはまらないと言っていることになります。そういうわけで、「決してそうではない(ουχι)」は3節同様、因果応報の観点を否定するものです。(注2)

 

3.「滅び」はこの世で遭遇する苦難災難ではない

 「決してそうではない」と言うイエス様は因果応報の観点を否定していることが明らかになりました。ところが、どうでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、と言われます。これは、もし悔い改めず罪の中にとどまるのならば、お前たちも同じような人為的な暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?

実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ、お前たちには世で苦難がある、と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。

それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?

 それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、「永遠の命を得る」と反対の事を意味しています。「永遠の命を得る」とはどんなことかと言うと、それは、この世から死ぬ時、自分の全てを自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日が来たら朽ちない復活の体を着せてもらって創造主である神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、永遠の命を得られない「滅び」とは、この世から死ぬ時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の後に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、一様に罪びとである全ガリラヤ人または全エルサレム住民と同様、神から罪の赦しを受けていない者として、死んだら永遠の命を得られなくなってしまう。」

 このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の後に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないということが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得るのであれば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は、愛する弟子たちに、お前たちにはこの世で苦難がある、とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世では永遠の命に至る道を歩むということ、そして、たとえ歩みの途上で苦難災難にあって命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能なのでしょうか?

 

4.神のもとへの立ち返り

 その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔したり恥じたりして相手の人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト教信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天と地と人間を造った神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたということが出てくるからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で、「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。

それでは、この「神のもとへの立ち返り」とは、一体どのようなことなのでしょうか?それがわかるために、まず、人間はどうしたら、この世の人生では永遠の命に至る道を歩めて、この世から死んだ後は神にキャッチしてもらえて永遠の命を得られて神のもとに戻ることができるようになるのか?このことについて見る必要があります。

十字架と復活の出来事が起きる前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく内面的にまで完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しません。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのであります。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部そのひとり子に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。

以上のような次第で、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事の後に、永遠の命を保証する真の「神のもとへの立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に宿る罪に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てながら、また聖餐式で霊的な栄養を摂取しながら、「神のもとに立ち返る」道を歩むこと、それであります。

 

5.キリスト信仰者の覚悟と本懐

 以上からイエス様が教えていることは、本当の「滅び」とは今のこの世の後に来る新しい世に関係した滅びであること、それゆえ、人間がこの世で遭遇する苦難災難というものは、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、ということが明らかになりました。キリスト信仰者はここに覚悟と本懐を見いだすことができると思います。

このことを少し具体的な例にあてはめてみようと思います。もし絶体絶命の時が来たとき、例えば、重い病気でついに最期の時が近づいたとか、また目の前に津波とか雪崩が押し寄せて来たとか、まさにそういう時、キリスト信仰者なら、イエス様の教えに基づいて、瞬間的にでも次のように思い起こすのが適当ではないかと思います。「ああ、私を造られた神が私に与えて下さったこの世での人生の長さはここまでだったのだな。神よ、私をここまで導いて下さってありがとうございました。至らないことだらけでしたが、イエス様の神聖な衣を頭から被せられた者として生きてまいりました。中身は汚れがまだたくさん残っていますが、イエス様という衣を自分から脱ぎ捨てることもせず、引きちぎることもせず、必死にこれしかないというくらいに、すがりつくように纏ってまいりました。あなたに認めてもらうために私が自信をもって示せるのはこの衣しかありません。今、私の全てをあなたの御手に委ねます。どうかイエス様のゆえに私を受け止めて下さい。主の御名は永遠にほめたたえられますように。アーメン。」そのような人は、ルターの言葉を借りれば、「瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、(…)天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられる」のです。

最期の時が果たしてこのように思い起こしたり、祈ったりする猶予を与えてくれるかどうか実際には厳しいのではないかと思います。そうであればこそ、常日頃から、そのような思いが自分の内にしっかり根付くようにする、それが信仰生活というものではないでしょうか?そうすれば、キリスト信仰者はいつも覚悟がある状態にいて、もしもの時は本懐だ、と言うことができるのです。

ところで、いよいよ最期の時に、父なるみ神よ、私をキャッチして下さい、と言って全身全霊を委ねたつもりが、神の御手と思って掴んだものが、実は高い木の枝か何かを掴んでいて助かってしまったとか、そういう予想外のことが起きることもあります。その時は、「ああ、神は何らかの理由で私のこの世での人生の長さを延ばして下さったのだな」と理解して、神に素直に感謝して、再び「神のもとへの立ち返り」の道を歩み始めることになります。ただし、その場合、なぜ神は自分を生きながらえさせて下さったのか、このことをちゃんと考えなければなりません。このように奇跡的に助かった自分がただ自分だけのために生きてよいとそれで神は助けてくれたのだと思うのはちょっと問題でしょう。まだ救い主を知らずにいて、神のもとへの立ち返りの道を歩んでいない人たちに救い主イエス様のことを知らせ、その道を歩めるようにしよう、そうしてその人たちもキリスト信仰者の覚悟と本懐を持てるようにしよう、そういう役割が与えられたのだと自覚すべきではないかと思います。もちろん、奇跡的に助かったというような経験がない信仰者でも、キリスト信仰者の覚悟と本懐が持てれば、同じ役割の自覚は生まれるはずです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 (注1)この事件については、ヨセフスの歴史書やローマ帝国の歴代誌等にも記載がなく、記述はこのルカ福音書のものだけです。しかし、総督ピラトはユダヤ人に対して強圧的かつ残虐な統治を行ったことで知られるので、もし反乱の疑いを持たれれば、このような事件は容易に起きたでしょう。ところで、ピラトが残虐だったというのは、ヨハネ福音書に記されたイエス様の裁判の様子からは想像できないかもしれません。ただ、在任期(A.D.26-36)の終わり頃のピラトはローマ帝国における政治的地位が弱まっていた頃で、ユダヤ人の要求など聞くものかという思いと、言う通りにナザレ人を処刑しないと皇帝に直訴されるかもしれない、という心配の板挟みにあったとも言われています。

 (注2)「罪びと、罪深い者、罪にある者、罪を犯す者」を意味する単語について、2節のガリラヤ人のところではαμαρτωλοςが用いられ、4節のエルサレム住民のところではοφειλετηςが使われていることに注目しましょう。οφειλετηςには、「負債のある者」という意味があります。負債のある者がどうして罪びとの意味になるかというと、神に対する不従順や罪というものは、人間が神に対して負っている負債のようなものと言う考え方が聖書にあるからです。人間は、最初の人間が神に対して不従順に陥り罪を犯したために、死する存在となってしまった。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。不従順と罪を赦されて神に義と認められて永遠の命を持てるために、人間は、負っている負債を支払わなければならない。このことは詩篇49篇8-9節に端的に述べられています。「神に対して、人は兄弟を贖いえない。神に対して身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」

ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死の意味だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血があらゆる財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。マルコ10章45節でイエス様は、自分は多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである、と言いますが、まさにその通りだったのです。

私たち人間は、神がこのようにひとり子を用いて整えられた救いがまさにこの自分のためになされたとわかり、それでイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この整えられた救いを受け取り所有することが出来ます。洗礼を受けることで、私たちはまだ罪と不従順を持っているにもかかわらず、イエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられることになります(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)。

ご参考までに、罪が神に対する人間の負債ということを表す言葉は、またマタイ6章12節にある「主の祈り」のところにも使われています(οφειλετης)。


主日礼拝説教 四旬節第三主日
2016年2月28日の聖書日課 出エジプト3章1-15節、第一コリント10章1-13節、ルカ13章1-9節

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