2026年6月14日(日)10時半 聖霊降臨後第三主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年6月14日スオミ教会礼拝説教
マタイによる福音書9章35ー10章8節
「弱り果て打ちひしがれる私たちへの神の国の福音」

田口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。ア
ーメン。
1、「全ての人々へ御国の福音を宣べ伝えるため」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
このマタイによる福音書の9章では、イエス様が、ガリラヤの町々を巡り、イエスに
助けを求めて訪れる病の人々を癒し、悪霊に憑かれている人々を救ったことが書かれて
います。それはガリラヤをくまなく回り行われたのでした。35節、こう始まっていま
す。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆ
る病気や患いをいやされた。 」35節
イエス様は、ガリラヤの町や村を「残らず」回られます。それは行ってない町や村が
ないように、つまり助けを求めている人々がいる町や村を見落とすことがないようにと
、イエス様はすべての人々を心に留めておられることが伝わってきます。しかし何より
そのように町や村をくまなく回られる目的はここにある通り、「会堂で教え、御国の福
音を宣べ伝え」るためでした。「神の国の福音」、それこそまさに全ての人々への神の
国、救いのメッセージでした。確かにイエス様はご自身に癒して欲しいとやってくる人
々の病を癒し、悪霊につかれている人々から悪霊を追い出したりされたことは福音書の
最初の方、ガリラヤ地方を回っているところでは多く記されています。しかし、この後
、見ていくとわかる通り、イエス様の十字架が近くなるにつれてその記述は少なくなり
ます。なぜならしるしを示すことそれだけがイエス様の目的ではなく、十字架と復活こ
そイエス様が人となられた目的の中心です。ですからもちろん、奇跡はイエス様が真の
神の子、真の救い主であることを示すための証しとしてご自身の御心のままに現されて
きたのですが、全ての人々にそれが現されたのではありませんでした。もちろん、この
後、12の弟子たちにその権威が与えられて弟子たちも癒しの奇跡を行います。そして
、使徒の時代も、しるしはありました。もちろん今も奇跡はあります。しかしそれは全
ての人々へではありません。それは神が御心に従って定めて行われることです。しかし
、まさに「全ての人々のために」イエス様が止めることなく行い続けてきたのは、神の
国の福音を宣教することでした。それはまさしく全ての人々のための救いの良き知らせ
であり、恵みです。何より、そのために世にこられ人となられたという十字架の死は、
全ての人々の罪のための十字架でありその死であったでしょう。そして、そこに現され
た救いのための「キリストの義」は、それは誰でも差し出されたままそのまま受けとる
時に、誰でも義と認められる「全ての人々への救いの恵み」でしょう。使徒達もそうで
す。しるしも行いました。しかし何よりもイエス様が彼らに託された使命は、福音を宣

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教し、洗礼を授けることであったでしょう。このマタイの福音書の最後の宣教の恵みの
命令でこうあるからです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべ
ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あな
たがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたと共にいる。」
その約束の通りに、弟子たちは約束の聖霊を受けて、全ての人々をイエス様の弟子と
するように父と子と聖霊の名によって洗礼を授けていきました。地の果てまで福音を伝
え、福音を与えていったのです。ですから、10章の初め、5、6節で、12人の弟子たち
を召し権能を与え遣わすときに「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の
町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい
。」とあるのですが、ある人々は「イエス様は異邦人を除外しているではないか、サマ
リヤ人を除外しているではないか、ユダヤ人だけではないか」と、言うのです。しかし
、そんなことはないでしょう。これはこの時の弟子たちの役割を述べているのであり、
異邦人やサマリヤ人の救いのためには神様の計画がしっかりとあるのです。事実、イエ
ス様は、ヨハネの福音書では、あえてサマリヤの道を通り、ヤコブの井戸のところでサ
マリヤの女に素晴らしい神の国の福音を宣教しているでしょう。そして何より先ほども
触れた宣教の命令にあるでしょう。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。そし
てその通り、使徒行伝にある通り、異邦人についての計画を持ってイエス様はローマの
隊長コルネリオにペテロを遣わし、そしてパウロに現れ、異邦人へイエスを伝えるため
に召命を与え遣わすでしょう。そのようにパウロは、地中海地方のユダヤ人だけではな
くむしろ異邦人の民へ向かって神の国の福音を宣教していきました。そして聖書には書
かれていませんが、外典や歴史の書では、他の使徒達も、東の方の異邦人たちへ宣教を
していったとも言い伝えられています。イエス様が世にこられ人となられ十字架にかか
って死なれたその目的は全ての人々の罪からの救いです。神の国の福音こそ全ての人々
のために与えられている神の義であり救いであり、平安です。私たちの罪の赦しと新し
いいのちと真の平安は、しるしや経験にあるのではない、私たちの何か行いや律法にあ
るのでもありません。イエス様が残すことなく伝えられた神の国の福音、このイエス・
キリストの十字架と復活の福音にこそあるのです。
2、「飼い主のいない羊のように」
次に、その神の福音を伝えているとき、36節以下、こう続いています。
「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深
く憐れまれた。」36節
イエス様は群衆を見てですが、彼らが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひ
しがれている」と見たのでした。深い憐みの心で、です。ただ、これまで群衆に霊的な
指導者がいなかったわけではありませんでした。35節でわかる通り、イエス様は「会
堂に入り」、神の国の福音を伝えています。ユダヤ人の会堂で旧約の律法と詩篇と預言
書の巻物を開いて福音を説教したのでした。つまり普段はそこで同じように聖書から教
える人々がいたのでした。それは教師たち、つまり律法学者たちやパリサイ人たちでし

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た。しかし、9章を見ていただくとわかる通り、彼らはことあるごとに感情のまま、あ
るいはユダヤ社会でこれまで守られてきた慣習や規則に基づいてイエスに反発していま
す。9章2節でイエス様が中風の人に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と
いった時に、3節、ある律法学者達が「この男は神を冒涜している」と思っているのを
イエス様は見抜いています。また、9節以下、徴税人のマタイを召し出しマタイがイエ
ス様を招いて食事をしているのを見てファリサイ派の人々は11節で「なぜ、あなたの
先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。それに対して語った有名
な福音の言葉は12節以下、
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れ
みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来
たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9章12−13節)
でした。そして今日の箇所の直前では、悪霊に取り憑かれていた人々をイエス様が救っ
た時も、ファリサイ派の人々はイエスを指差し「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出
している」と言いました。このように、羊である群衆に飼い主、霊的な指導者がいなか
ったわけではありません。会堂で教える教師達がいました。しかし彼らは律法や預言書
から福音を語るのではなく、どこまでも律法、というよりはむしろ、彼らの習慣や規則
に基づいて律法を解釈した行いによる義の教えを語っていました。そして、その彼らの
解釈する律法の要求を行なっているかどうかが彼らの教えの基準であり、人々やイエス
や弟子達を評価する基準でもあったのでした。さらに言えば彼らがイエスへ反対するの
は「妬み」からくるものでもありました。イエス様は聖書から神の国の福音を説教しま
した。それは羊を神の国へと導く羊飼いは、律法だけではなく何よりも福音によって導
くと言う大事な真理とその使命に従っているでしょう。事実、私たちは律法の言葉だけ
ではなく、その先に「あなたの罪は赦されています」という福音の言葉を聞くからこそ
、神の国、救いを確信し「平安のうちに」ここから行くことができるでしょう。そのこ
とを考えてみてください。群衆は、福音ではなく律法だけで教えられていました。しか
しそれは弱り果てるのです。ただ打ちひしがれるのです。事実どうでしょうか。もし教
会が律法だけの説教、あるいは、福音が先にあっても結局は私たちの律法のわざや行い
に救いや信仰生活がかかっているような説教をされるなら、それによって強められるで
しょうか?何より平安があるでしょうか?確かに律法は一時の促しとなり、駆り立てる
ことがあるかもしれません。「ああ頑張らなければ」と立ち上がらせることがあるかも
しれません。しかし私たちの行いに神の前での全てのふさわしさや祝福や成功が、神の
国がかかっている、とか、あるいは、まず私たちが完全に律法を実現すれば教会に、私
に祝福がある、救いが確かになる、イエス様に愛される、等々、と教えられて、そこに
喜びがありますか?救いの確信がありますか?救いを喜べますか?平安がありますか?
それでもイエス様は愛だと信じられますか?そもそも私たちがそのようにまず行いが求
められるとするなら、それを完全に果たすことができますか?完全に答えることができ
ますか?律法学者達やファリサイ派の人々は「自分たちはそれが完全にできている」と
言う自負はあったでしょう。しかし自負でしかありません。神の前では皆不可能でしょ
う?不完全で罪深い現実だけが突きつけられます。そう、結局は、律法によって遣わさ
れる歩み、まず私たちの行いが先になければならないと、律法で促され強いられ遣わさ

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れる教会もクリスチャンの歩みも、結局は弱り果てるのです。律法は罪を気づかせるた
めに必要ですが、救うことはありません。責めるだけです。だから打ちひしがれるので
す。そのように律法によって遣わされる歩みは、信仰も礼拝の出席も奉仕も皆、ただ重
荷になる。疲れ果てます。どんなに外面は立派で、どんなに功績を残し、多くの大きな
教会へと成長させ、多くの人々を導いたと自負する教師であっても、律法で導く会堂、
教会は、あるいは、会衆は、飼い主のいない羊達と同じことなのです。律法学者たちや
ファリサイ派の人々は表向きは立派な人々だったことでしょう。しかし、イエス様はそ
のような教師たちの律法の教えで導かれる会衆を見て会衆が弱りはて打ちひしがれるの
を見て深く憐れまれたのでした。律法の教えに弱り果て打ちひしがれた羊たちに必要な
のは神の国の福音、罪の赦しの福音であったのでした。それこそ人々に本当に必要なこ
とでした。中風の人にもイエス様は「病が去り良くなれ」と言うのではなく、「あなた
の罪は赦される」と言っているでしょう。中風の人に癒しも必要でしたが、それよりも
何よりも必要なのは全ての人々が弱りはて打ちひしがれる罪の苦しみからの解放、神の
前での罪の赦しとそれによる平安なのです。それは全ての人々に必要なことです。だか
らこそイエス様は全ての人々のために十字架にかかって死なれるではありませんか?
3、「収穫、そして、働き手とは?」
そのことが、37節以下につながっています。
「そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫の
ために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」」37−38節
A,「収穫とは?」
収穫とは、全ての人々が罪の赦しを受けることです。そして全ての人々に罪の赦しの
福音と平安がイエス様によって差し出され、多くの人々がそれをそのまま受け取り救わ
れ平安になることです。それがご自身の十字架によって実現することを指し示していま
す。その収穫のことです。しかもその収穫は多いとイエス様は言います。それは全世界
を指しています。しかしその働き手、伝えるものは少ない。その通りです。弟子たちが
選ばれ遣わされていきますが訓練中です。そして、そこから使徒達が選ばれやがて聖霊
を受けて教会の時代が始まり福音は全世界へと広がっていくでしょう。そのために働き
手は最初は少ないのですから、世界に広がっていくためにさらに必要だとイエス様は言
うのです。
B,「どんな働き人か?」
ではそれはどんな働き人でしょうか?私たちはこの所をどう教えられるでしょう。確
かに「み言葉の」説教者、教会の牧会者、献身者が与えられるように祈りなさい、そう
教えられているのだと思うかもしれません。その通りです。それは間違いありません。
しかし、さらに踏み込んで言うなら、どんな説教者、牧会者でしょうか?ただ「み言葉
」を伝えればそれでいいのでしょうか?律法も神のみ言葉です。つまり、律法もみ言葉
だから、律法で私たちを派遣する説教者、牧会者でも良いということでもあるのでしょ
うか? 教会の歴史においていつの時代も、そして今でも、律法で教え、律法で教会を
建てあげ、律法を説教の「最後の言葉」「派遣の言葉」として、会衆を遣わす教会は存
在します。福音を語っているようであっても、福音は最初の言葉であり、最後の派遣の

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言葉は律法で終わり遣わす説教は実は少なくありません。もちろん、律法も大事な神の
言葉です。しかし律法は福音への道標、案内係であり、決して救いの言葉ではありませ
ん。律法は私たちに罪を示し、私たちが律法によって罪が示され刺し通され、自分では
どうすることもできない、神よ憐んでください、兄弟よどうしたら良いでしょうか、と
叫ぶしかないところに、絶望と悔い改めに導く言葉です。しかしその罪を認め悔い改め
る時にこそ、十字架の福音が明らかになります。そこにこそイエス様は福音を語ってく
ださり、「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。まさ
に福音こそ、神の国の門を開き、救いの道を通らせてくださるいのちの言葉です。弱り
果てたものに命を与え、打ちのめされたものに罪の赦しを宣言し立ち上がらせます。そ
して平安のうちに「行きなさい」と遣わすのはこの福音の言葉でしょう。そう律法と福
音の言葉、しかも律法が最後ではなく福音こそ最後の言葉、派遣の言葉として説教し教
えるようにとイエス様は「働き人」を求めておられるのではないでしょうか?律法で派
遣する働き人の群れは、まさに飼い主がいない羊のようなのです。イエス様はただみ言
葉を伝える働き人ではない、律法と福音の言葉で、福音を最後の言葉、派遣の言葉とし
て説教する働き人をみているのです。そのために「祈りなさい」なのです。
4、「働き人も収穫も律法ではない」
最後に、イエス様はその「働き人が必要だ」ということさえも教会の律法にしてない
のは幸いです。とかくあるところでは「牧師がいない、献身者がいない」、だからと主
に求め期待する希望を告白し祈るのではなく、ただ目に見える現象だけで「いない、い
ない」「組織が危ない」などなど、危機感と強迫観念に駆られ、何とか教会があるいは
牧師が、誰かが牧師になるように献身者を起こさなければダメなんだ、と律法的に駆り
立てるような教団や教会の声を聞くことがあります。しかしそうではありません。イエ
ス様ははっきりと言っているでしょう。
「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
と。つまり「働き手」を送ってくださるのは、教会や牧師や、その努力や力や説得力
のわざではなく、あるいは誰かが力や意志を振り絞って律法的に立ち上がることでもあ
りません。送ってくださる、建ててくださる、与えてくださるのは、どこまでも主イエ
ス様です。み言葉と聖霊です。しかも「収穫の主」とあるように収穫をするのも人では
なく主です。つまりみ言葉と福音のわざとして、働き人を主が起こしてくださり送って
くださるのです。そして収穫、人の救いも人ができるのではなく、救うのも信仰を与え
るのも、どこまでも収穫の主のみです。だからこそ律法の心ではなく福音を信じ、私た
ちが希望と信頼を持って主に祈り求め、主にのみすがることが何よりも神の前に価値が
あり、ふさわしいことなのです。ぜひ福音を信じ祈っていきましょう。今日のイエス様
は私たちに福音の言葉を宣言をして使わしてくださいます。「あなたの罪は赦されてい
ます。安心していきなさい」と。平安のうちに遣わされていきましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリス
ト・イエスにあって守るように。アーメン。

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