説教「新年 - イエス様の命名日に思う」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章21~24節、第二ペトロ1章1~11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

西暦2017年の幕が開けました。新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。日本では大勢の人がお寺や神社に行って、そこで崇拝されている霊に向かって、手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。その意味で新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間と言えます。

 キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したたことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後が、このひとり子がイエスの名を付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日と重なります。キリスト教会によっては、この日礼拝を行ってイエス様の命名日を記念するところもありますが、行わないところもあるので、1月1日というのは、毎週必ず礼拝が行われる日曜日と比べて何か特別大きな意味があるというわけではないようです。当スオミ教会では、1月1日の礼拝は2年前から行うようになりました。日曜日の礼拝と同じように、イエス様の命名を記念する日にも、天地創造の神の御言葉を聴き、神を賛美し、神に祈りを捧げて、ちょうど始まった新しい年の歩みの上に神からの祝福をお願いするのは相応しいことと考えたからです。今年の1月1日はたまたま日曜日と重なりましたので、全世界のキリスト教会は今日礼拝を守っていることになります。

2.

 イエス様の命名日は同時に、彼が割礼を受けた日でもあります。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する者の印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の御国の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきたときは、旧約聖書に約束されたメシア救世主として、その旧約聖書の伝統を守るユダヤ民族の只中に乙女マリアの胎内から生まれてきました。人間の救い主となる方がある特定の民族の伝統に従ったのは、その方が歴史的にその民族の一員として生まれてきたことによります。しかし、それだけではありませんでした。後で述べるように、人間を罪の呪縛から救うために一旦、神の定めた戒律に服する必要があったのです。

 神のひとり子が人間としてこの世に生まれてきたことや、彼がイエスの名を付けられて割礼を受けたということは歴史上の出来事です。それは、ローマ帝国が地中海世界に支配を拡大して、現在のパレスチナの地域とその地に住むユダヤ民族を支配下に治めていた時でした。アウグストゥスが帝国の皇帝で(治世は紀元前27年~紀元14年)、プブリウス・スルピキウス・キリニウスという人物が帝国のシリア州の総督に就いていた時代でした。さらに、同州のユダヤ地方を中心とする領域でヘロデ王という、ローマ皇帝に従属する王が一応ユダヤ民族の王としての地位を保っていた時代でした。

 このような場所と時代に、人間として生まれた神のひとり子はイエスという名を付けられ、旧約聖書の律法の戒律に従い、生後8日後に割礼を受けました。ここで一つ注意すべきことは、このイエス様の命名と割礼はどこで起きたかということです。生後8日ということですが、マタイ福音書2章によると、ヘロデ王は、ベツレヘムに「ユダヤ人の王が誕生した」という知らせを聞いて、その命を狙おうとして兵を送り、その地域の幼児を虐殺する暴挙に出ます。生まれたばかりのイエス様と母マリアと育ての父ヨセフは、天使の告げ知らせのおかげで事が起こる前にエジプトに避難します。イエス様の命名と割礼は、ベツレヘムでなされたのか、避難先のエジプトか、避難する途中だったかのどれかが考えられます。旧約聖書レビ記12章を見ると、男子を出産した母親は血を流したことから清められなければならないとして、合計38日間が清めの期間として定められていました。その期間は外出禁止でしたから、その規定通りだったとすると、イエス様の命名と割礼はベツレヘムだった可能性が高くなります。そうなるとヘロデ王の兵隊が押し寄せてくる寸前だったのではないでしょうか。

 さらに、本日の福音書の箇所によると、イエス様は清めの儀式を受けるためにエルサレムの神殿に連れてこられます。この儀式は、今述べたレビ記12章にある律法の戒律によるものです。母親の清めの期間が終わったら、神殿の祭司に鳩などの動物の生け贄を捧げて、祭司が儀式を行って、母親は汚れから解放されるというものです。このエルサレムでの儀式がいつ起きたかということも、歴史的な確定が難しいところです。本日の福音書をみると、生後8日後の命名と割礼のすぐ後にこの儀式が来るので、二つの出来事が連続して起きたような印象を受けます。しかし、先ほども述べましたように、イエス様親子はヘロデ王の虐殺を逃れてエジプトに渡って、王が死ぬまでそこに滞在していたので、命名と割礼のすぐ後に神殿の訪問はありえません。ヘロデ王が死ぬのは紀元前4年です。イエス様の誕生の年は紀元前5年とか6年とか諸説があります。いずれにしても、エルサレムの神殿に連れてこられたイエス様は1歳とか2歳だったことになります。

 以上のように、聖書の中に記録されている出来事は正確な年代を確定することは困難なのですが、それでも、それぞれの記述や流れをよく見て、聖書以外の歴史の記録と突きあわせて見ると、大まかな時期はつかむことができます。

3.

ここで、人間として生まれた神のひとり子に付けられた、「イエス」という名前についてみていきましょう。乙女マリアが神の霊つまり聖霊の力を及ぼされて身ごもる前の段階で、天使から、生まれてくる子には「イエス」の名前を付けなさいとの指示がありました(マタイ1章21節、ルカ1章31節)。これは、ギリシャ語のἸησοῦϛを日本語に訳した名前です。そのἸησοῦϛは、もともとはヘブライ語のיהושעをギリシャ語に訳した名前で、יהושעというのは、日本語では「ヨシュア」、つまりヨシュア記のヨシュアです。יהושעという言葉には「主が救って下さる」という意味があります。יה「主が」יושע「救って下さる」。つまり、「イエス」の名前はヘブライ語のもとをたどれば「主が救って下さる」という意味があります。ヨセフにこの名を付けなさいと命じた天使は、その理由として、「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何かということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。

 「神が民を救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが、ここでは救われるものが国の外敵ではなく、罪であるということに注意する必要があります。「罪から救って下さる」というのは、端的に言えば、罪がもたらす神の罰から救って下さる、神罰がもたらす永遠の滅びから救って下さる、という意味です。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが創造主の神に対して不従順になったことがきっかけで罪が人間の内に入り込み、人間は死する者になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるところですが、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。自分の造り主である神への不従順がそれです。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのです。

 それでは、神は人間をどのようにして罪から救い出すのでしょうか?神はそれをひとり子イエス様を用いて行われました。イエス様は、人間に向けられている罪の罰を全部人間に代わって請け負って、私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれました。神のひとり子として、神の意思を体現する方であったにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者であるかのようにされたのです。誰かが身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにさせられた理由です。私たち人間が罪の呪縛から解放されるために、御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神と、神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様は永遠にほめたたえられますように。

イエス様が十字架の死で成し遂げられたことは、たとえを用いて言うと、次のようになります。私たちが身にまとっている罪の汚れた衣をとって御自分にまとい、御自分の汚れなき白い衣はそれを取って私たちにかぶせてくれたということです。神はその汚れた衣を着たイエス様を神罰の死の苦しみに委ね - これは一人分の苦しみでなく全人類の分です - 白い衣を着せられた私たちの罪は問わないと宣されたのです。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、まさに「罪の赦しの恵み

を意味します。まさに御自分のひとり子が流した尊い血を代価として、私たちを罪に支配された状態から解放して下さったのです。しかし、それだけでは終わりませんでした。神は今度はイエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に導く扉を私たちのために開かれたのです。このようにして神は、イエス様を用いて人間の救いを全部整えてしまいました。救いは神の方で完成させてしまったのです。

 しかしながら、イエス様が十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのです。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えた救いを自分のものとしないと、この完成済みの救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら自分のものにできるのか?それは、まず、「2000年前に神がイエス様を通して行われたことは、実は現代の今を生きる自分のためになされたのだ」と気づき、そのイエス様を真の救い主と信じて洗礼をうけることです。その時、人間はイエス様の白い衣を頭から被せられたことになります。

4.

 洗礼は、天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。実は、キリスト信仰者にとって割礼は必要ないということは、当初は自明のことではありませんでした。イエス様はユダヤ民族の一員としてこの世に来た、旧約聖書に約束された人間の救いをイエス様が実現したわけだが、それを受け取ることができるのは旧約の伝統を受け継ぐユダヤ民族である、だからそれに属さない異邦人は救いを受け取れるためにまずユダヤ民族人ならなければならない、つまり割礼を受けなければならない、そのように考えらえたのでした。

 初期のキリスト教会の中で、この考え方に異議を唱えたのが使徒パウロでした。彼の主張の主旨は、人間が罪の呪縛から救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰によってである、というものでした。彼の主張は、「ガラテアの信徒の手紙」の中に展開されていますが、割礼不要論の中で、このように信仰と律法を対比させる議論はとても有名なものです。

割礼不要論には、もう一つ大事なポイントがあります。これは信仰と律法の対比に比べてあまり目立たたないものかもしれませんが、やはり重要なものです。そのポイントは、使徒パウロの「コロサイ人への手紙」2章11~12節に言い表されています。

「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」

 割礼の儀式の底にある意味は、それを行うことで血が出るわけですが、血を流すことで神の民の一員に迎えられるということ、つまり神に受け入れられるために血を流したという意味がありました。ところが、洗礼では、天地創造の神の民の一員に受け入れられるために、もう血を流すどころか何も犠牲を払う必要はなくなりました。なぜなら、その神のひとり子が私たち人間の代わりに十字架の上で血を流して下さったからです。今引用したパウロの言葉にあるように、洗礼を受けた者には、イエス様に起こった死が起きて、罪に結びつく古い人間が死んだように無力になります。同時にイエス様に起こった復活も起きて、聖霊に結びつく新しい人間が生まれ、その人は文字通り新しい命を持って生き始めます。

洗礼を受けた者は、こうした洗礼の意味を絶えず思い起こすことで、新しい命を与えられていることを確かめることができます。洗礼の意味を思い起こすことは、天地創造の神がひとり子を用いて成し遂げた罪の赦しの救いを思い起こすことです。これは毎日思い起こすべきことですが、今日のような全てを一新したい気持ちに満たされる日には、特に思い起こしてよいことでしょう。

5.

本日の使徒書である「ペトロの第二の手紙」の中に「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」という祈りがありました(1章2節)。これまで申してきたことは、私たちの造り主なる父なるみ神と救い主であるひとり子イエス様を知ることを目指して話したことです。神と主イエス様を知ることによって、本当に罪の赦しの恵みと良心の平安が皆さんにますます豊かに与えられるように、このペトロの祈りに合わせたく思います。

 最後にこの聖句について、ルターが解き明しをしていますので、それを引用して、本説教の締めにしたく思います。

「『恵み』と『平和』という二つの言葉は、キリスト信仰がそもそも何であるかを言い表す言葉である。『恵み』は罪の赦しを与えるものであり、『平和』は安心と喜びを良心に与えるものである。

 それに対して、『罪』と『不安に怯える良心』は、私たちを苦しめる二つの悪い霊を言い表している。しかし、キリストがこれらの恐るべき敵に打ち勝って、今のこの世においても次の世においても完全に滅ぼして下さったのである。罪が赦されないところには、良心の平安はありえない。罪の赦しというものは、人間が律法の戒律を守ることによっては得られない。誰も律法の掟を完全に守れる者はいないからだ。律法というものは、罪を暴露し、良心を不安に怯えさせ、神の怒りを宣言し、人間を絶望に陥らせることをその本分とするものだからだ。

 罪というものは、神が与えた律法の掟を守ることをもってしても除去できない。そうである以上、人間が作りだした営みや業を持ってしても、なおさら除去できるものではない。そうしたものは、すればするほど神に対して罪を増やすことになってしまう。見せかけの聖人たちは、罪を取り除こうと努力して、すればするほど逆効果になってしまっている。罪を除去できるのは、神が与える罪の赦しの恵み以外にはない。このことをしっかり心に留めておかなければならない。多くの人は、たいてい聖書の御言葉を簡単に理解する。しかし、誘惑や試練の時になるとどうか。そのような時、果たして我々は、罪の赦しの恵み以外には何の手段もこの地上にも天にも必要ないということを、本当に神の一方的な恵みのみで、罪の赦しと良心の平安を持つことができるという真理にしっかり踏みとどまれるであろうか。

主にあって兄弟姉妹の皆さん、このように神が与える罪の赦しの恵みを心にしっかり留めていけば、毎日罪の赦しと良心の平安のしっかり持てて、父なるみ神の見守りが日々あることがわかります。この一年も神と主イエス様を知ることを怠らないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「はじめにことばありき」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書のこの出だしの部分は、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを詩的な口調で表現しています。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神、その中の御霊つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに総括・分析した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。そして、この真理は詩的に語られるので、これは「詩的な真理」と言えます。途中の6-7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質をさらに明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。

このヨハネ福音書冒頭のイエス様についての詩的な真理というものは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を大いなるものを受けとめられるくらいに豊かにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を豊かにする力に触れられることを目指していこうと思います。

2.天地創造の前からいた神のひとり子

「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると。しかし、実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」とは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。説教題の「はじめにことばありき」の「はじめ」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると、何かが始まる時の初めというように意味を狭めてしまうのではないか、本当はその前のことなのに。それでひらがなにとどめた次第です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいて、天地創造のあと時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語というのは、ヨハネ福音書をはじめ新約聖書の書物が書かれている元の言語です。ギリシャ語のロゴスという言葉ですが、これはとても幅広い意味を含みます。もちろん、文字にして紙に書き記したり(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ話、スピーチを意味したり、「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」とか、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄がロゴスに収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話で、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出されたものでした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場ですので、生み出す大元にあるのはあくまで神です。哲学では、その大元は人間ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場し、まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。同席だけではありません。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は神の言葉の側面を持つと考えれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

本日の説教題「はじめにことばありき」で「ことば」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると何か話された言葉とか書かれた言葉のように意味を狭めてしまうのではないか、本当は背後にあるもっと壮大なものを意味するのに。それでひらがなにした次第です。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づきます。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。

「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは天地創造がない、時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」があるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」なのであり、生み出した方を「父」と呼ぶ、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節にあるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

3.永遠の命をもたらし導く光

4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。それを再び人間に取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにするために、神のひとり子が父のもとからこの世に送られてきたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」というのは、ギリシャ語の原文では「照らす」とまでは言っておらず、ただの「人間の光」です。もちろん暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示してあげるという意味を持ちます。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯してもらう光も意味します。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。ただ、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、父なるみ神の力で死から復活させられて、死を超える永遠の命の扉を開かれた、このことを思い起こせば、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがよりピッタリではないかと思います。なぜなら、悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で事実上破たんしてしまったのですから。

4.インカーネーションの良い知らせ

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を罪の呪縛から解放して再び永遠の命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。あなたは、もう神から罰を受けないですむようになったんですよ、あの方が全部請け負って下さったんですよ、と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、自分一人の罪さえ背負いきることのできない人間が、全ての人間の罪を背負って神罰を受けることなどは不可能です。父なるみ神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それを父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 イエス様の十字架と復活を目撃した人たちは、イエス様というのは人間が神の罰を受けないで済むように、罪の呪縛から解放されて、永遠の命を持てるようになるためにこの世に送られて、それで十字架と復活の業を成し遂げられた。そのことが、ジグソーパズルが一挙に埋まるようにわかったのです。旧約聖書の趣旨はそうした全人類的な救いにあるとわかったのです。それで、出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらに、天に父のもとに戻られたイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。まさに、本日の旧約の日課の箇所イザヤ書52章で言われるような「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足」になりました。

イザヤ書52章9節に「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」と言われます。「エルサレムの廃墟」というのは直接的には、イエス様の時代から約600年近く前に起きたバビロン捕囚の時代のエルサレムが廃墟だったことを指しています。同時にこれは、打ちひしがれた人、心が打ち砕かれて廃墟のようになってしまった人たち全てを象徴しています。実は「歓声をあげ」という句の前に、ヘブライ語の原文では「心を平安にせよ」という句(פצחו)があるのですが、どういうわけか、日本語、英語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では皆省かれています。恐らく「歓声をあげ」ることからみたら、余分なものとされてしまったのでしょう。(ただし、イザヤ書14章7節では52章9節と同様、この同じ動詞が「歓声をあげる」という動詞と一緒に使われていますが、そちらはちゃんと訳されています。)しかし、これは大事な句です。この「心を平安にせよ」というのは、正確には「嵐が過ぎ去った海や空のように心を静めて穏やかにしなさい」という意味です。つまり、廃墟のようになって悲しんでいる人たちに向かって次のように語っているのです。「嵐は過ぎ去った。もう廃墟のままとどまる時は終わったのだ。なぜなら、天地創造の神から送られたひとり子が、私たちが背負いきれない本当の重荷を背負って下さったからだ。だからそこを出発点にして、それを真の希望の拠りどころとして立ち上がりなさい。この方を救い主と信じていく限り、あなたは他の重荷をきっと背負っていけるでしょう。そのために主は必要に応じてあなたに休息を与えてくれるでしょう。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教:河田 優 牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)

今日の説教は中央線沿線7教会+神学校の講壇交換の日に当たり河田優牧師をお迎えして説教のご奉仕をお願いいたしました。

ルカ1:46-55

 

ルーテル学院大学・神学校チャプレンの河田です。本日はスオミ教会とルーテル学院との講壇交換ということで来させていただきました。お招きをいただいてありがとうございます。

 

待降節第4主日として私たちに与えられる御言葉は、マリアの賛歌と呼ばれる箇所です。今、私たちは主イエス様のお生まれのクリスマスに備えて、心整えて待っています。そして本日は、このマリアの賛歌から聞き取り、私たちはどのようにクリスマスを待ち、主をお迎えするのかを共に分かち合っていきましょう。

日課の47節から55節までのマリアの賛歌は私たちにもよく知られているみ言葉であり、教会では「マグネフィカート」と呼んできました。「マグネフィカート」これは長い間、教会で用いられてきたラテン語であり、「あがめる」という意味です。47節の「わたしの魂は主をあがめ」この言葉から、マリアの賛歌全体をマグネフィカートと呼んできたのです。

そしてまた、この「マグネフィカート」という言葉は、そもそも「拡大する。大きくする。」の意味を持つものなのです。ですからマリアの賛歌を次のように言い返ることもできます。「私の魂は、主を大きくします。」

神様をあがめ、神様を讃美することは、神様を大きくすることです。そして神様を大きくするということは、反対に自分自身を小さくすることになります。

 

毎日の生活の中で神様とこの自分が向かい合うときに、私たちは神様を大きくしているでしょうか。それとも自分自身を大きくしているでしょうか。私たちはやはり自分が大事であり、この世の様々な誘惑にも負けてしまいます。自分自身を大きくしながら、神様を大きくすることはあり得ないでしょう。自分自身を大きくする者は、神様を小さくしているのです。

でもマリアは「神様を大きくします」と主を褒め歌いました。それは神様の前では自分はほんに取るに足りない小さな者である、というマリアの心からの謙遜がそこに告白されているのです。

 

実際に、主なる神様がイエス様のお生まれのために母としてお選びなったマリアは、王家の娘や大祭司の娘ではありません。ナザレという小さな片田舎でひっそりと生活していた娘マリアであったのです。マリアの年齢はおそらく10代半ばもいかない歳であったと思われます。それは48節のマリア自身の言葉にも表わされます。

「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。」

このように人知れず生活してきた小さな娘を神様はイエス様のお母様として選び取りました。

しかし、御言葉を通して思わされることは、ここに主なる神様のご計画が明確にされているのではないかということです。たとえば、名門の家に生まれ、裕福な家庭に育ち、誰からも素晴らしい女性として尊敬されるような女性がイエス様の母として選び取られたならば、おそらくこの女性は、「神様を大きくします」と主を讃美することができなかったかもしれません。それはどうしても自分自身を大きくしてしまうからです。自分自身を大きくする分、神様を小さくしてしまうのです。

ですから主なる神様は、謙遜を知るいと小さき娘マリアを主イエス様の母親としてお選びになったと御言葉は告げているのです。

イザヤ57章にも次のように神様は約束してくださいます。

57章15節「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

主なる神様は、打ち砕かれへりくだる者と共にあることをイザヤは語ります。それは大いなる方として私たちにまことの命を与えてくださるためなのです。

 

さて、まもなくクリスマスを迎えます。教会ではよくクリスマスの礼拝でまた礼拝後の集会で、教会学校の子供たちが中心にクリスマスの聖劇を行ったりします。私の住んでいる三鷹や武蔵野の地域には超教派の市民クリスマス礼拝が毎年開催されていますが、そこで活躍するのも聖劇を行う子供たちです。私たちの通うルーテル三鷹教会でも毎年のようにクリスマス愛餐会でイエス・キリストのお生まれの劇を行ってきました。

 

この聖劇の中での印象的な場面のひとつとして、身重であるマリアと夫ヨセフが、一晩の宿を探してベツレヘムの町をさまよう場面があります。主イエス様が今にも生まれそうである。ところがベツレヘムの町の宿屋は、どこもいっぱいで二人が泊まる場所がないのです。

劇の中では次のような歌をマリアとヨセフを演じる子供たちが歌います。

「泊めてください。トントントン。お部屋は空いていませんか。」

すると宿屋の主人が出てきて、こう歌います。

「だめです。今夜は超満員。となりをあたってごらんなさい。」

マリアとヨセフは仕方がなく、となりの宿屋を訪れます。しかしそこでもやはり超満員。再びマリアはとなりの宿屋へと向かうわけです。

そして最後の宿屋の主人がこう歌うのです。

「馬小屋ならば空いてます。そこでよければ、さあどうぞ。」

マリアとヨセフは、宿屋の主人から馬小屋に案内され、イエス様はこの馬小屋でお生まれになります。

 

宿屋が超満員ということは、私たちの心にも通じることです。神様をお迎えしようにも自分自身があまりにも大きくて神様をお迎えすることができないのです。さらに言うと、自分自身を大きくしてしまう心は、神様が今、私たちのもとに来られていることにさえ気づかないのかもしれません。

主が私たちの心をノックします。トントントン。しかし私たちは歌うのです。

「だめです。今夜は超満員。となりをあたってごらんなさい。」

イエス様が、そのお生まれの場所を小さな馬小屋に選ばれたことは、私たちの小ささや謙遜の中に、お生まれになることを示しています。イエス様は小さな飼い葉桶の中に静かに休まれました。馬小屋の中の小さな飼い葉おけ、私たちのそのような心に主イエス様はお出でになるのです。私たちは子供たちが歌う3番目の宿屋の主人のように、自分たちの心の馬小屋をイエス様に差し出し、「そこでよければ、さあどうぞ。」と歌うのです。

 

マリアは自分に預けられた神の子の命を決して小さなものとはしませんでした。マリアはまだ生まれてもない命も神様から与えられた大切な命として受け止める覚悟をしたのです。それが自らを小さい者として、さらに神様を大きなものとして賛美するマグニフィカートに表されていました。

そして、このマリアが謙遜のうちに受け止めた小さな命が、十字架にお架かりになることによってすべての人を救う命となるのです。小さいけれど大きな大きな命です。生涯を救い主として歩み通された神の子イエス・キリストの命です。

クリスマスを待つ私たちも今、神様の前に自分自身を小さくして、主イエス様のお生まれに備えましょう。いと小さき私に大きなまことの命がもたらされます。これがクリスマスの喜びです。神に感謝します。

 

説教:木村長政 名誉牧師、マタイ1章18~23節

 今日の礼拝はクリスマスを迎え、待ち望む降誕節第三主日です。聖書はマタイ福音書1章18節から23節までです。イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。とクリスマスの出来事を私たちに告げています。

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この福音書を書きましたマタイは新約聖書の冒頭にいきなり、まずイエス・キリストの系図を記しています。なぜでしょうか、ユダヤ人にとって系図はとても大切な事柄でありました。私たち日本人には到底想像もつかない深いものがありました。その上マタイは福音書をユダヤ人のために向けて書いたようであります、ですから系図をきちんと記してイエス・キリストに至るまでのことを記しています。

アブラハムの子・ダビデの子・イエス・キリストの系図。

17節
「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへ移住まで14代、そしてキリストまで14代。」16節を見ますと「ヤコブは、マリアの夫ヨセフを儲けこのマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」とあります。福音を書くのにキリストの系図をドーンと延々とカタカナで書いて人の名ばかり綴られています。そして今日の聖書18節にこれを全部受けてイエス・キリストの誕生の次第は次のようであった、と入って行く。

これは救い主、キリストの降誕に至るまでに、いかに壮大な神の計画がユダヤという民族に向けられて進められて来たか、と言うことを書いている。マタイは自分もユダヤ人の血が流れている者として神様がユダヤという民を特別に選ばれ、長い長い旧約聖書に明らかにされているように長い歴史を貫いて働かされてきた。その神の恵みを万感の思いを込めて綴り始めているのです。

そこには世界中、どこにもない戦いや敗北もあった苦しい苦しい民族の歴史です。そのような民を神は選び神の計画の中にあっては、そこには計り知れない神の恵みがあった、その恵みは何者にも束縛されない全き神の自由であります。その奥には神の「人類を救う」という神秘の計画、隠された神の秘義があって救いの系図の最後の人として今やヨセフがその選びに預かり、重大な課題を託されようとしている。

その内容を次に展開して行く訳です。

大工の倅、貧しくも若きヨセフには結婚の約束をしていたマリアがいた。そのマリアに思いもかけない事態が起こった。結婚前にすでに妊娠している、という課題であった。18節でマタイは絶妙の表現で書き表しています。「マリアとヨセフは婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マリアはまことに清らかな信仰をもっている乙女でありました。普通の人と変わらぬ一人の人間です。罪の根源をみんなその人の本性の中に持っているところの人間の一人にすぎない。その罪に染まった人間の姿を持って誕生されるのです。

マタイは素晴らしい言葉を使って記しています。「聖霊によって身ごもっている」ことがあきらかになった。聖霊によって身ごもる、ということはどういうことでしょう。神の福音は神の霊の世界のことであります。宗教は霊の世界であります。人間には到底わからない。神秘の霊の世界にかかわる、ということです。

神ご自身が人の姿をもって神の子として乙女の胎内を通して人であり又同時に救い主キリストとして生まれられるのであります。聖霊によって身ごもった、ということがそこに秘められている霊の世界の神秘であります。分からない世界であります。それを偉そうな顔をした哲学者や神学者たちがその神秘を何とかして説明しようといろいろ考えている。当時の一番身近な例を持ってきてギリシャ神話の中にある神が人間の女性と交わって神の子を生む、という話が多くあります。プラトンやアレキサンダー大王などの偉い人が父親なしに生まれたと言いまわったのでありました。その伝承や言い回しが用いられるかも知れないそこで、マタイは乙女マリアの胎内に聖霊によって身ごもった生まれる子が自分の民を救うキリストとなられる、ということをはっきり示しています。婚約者のヨセフとしてはもう信じがたい異常な事態でありました彼がどんなに戸惑い悩んだことか。

19節を見ますと「夫ヨセフは正しい人であったのでマリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。当時は婚約者であっても妻と同じように見なされていましたからマリアが身ごもった事が公になった場合、それは大変なことです。

申命記22章22節には「妻たる者の淫行が発覚した場合これを死刑に処すべきである」という規定がありました。夫ヨセフはこうした律法にも正しい人であったでしょう。彼は公になる前にどんなに

愛していても愛するがゆえに秘かに離縁しようと決心したのであります。ヨセフでは到底抱えきれない愛の重さがあります。そのどん底にまで彼は突き落とされたような状態であります。神様はその全てを知り尽くして彼に天の使いをもって救いのみ手を下されるのです。天使が夢に現れて主のみ旨をヨセフに直接伝えたのです。神様はどんな瞬間にも、思いをかけないみ手をもって事を起こされるのであります。

マタイはしっかりと20節から23節まで記しています。主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。

ヨセフはこの天使からの声を聞き夢の中で語っているとはいえ彼を信じ受け入れた、といことです。そしてこれから容易ならぬ試練に立って行くことになります。特にユダヤ教の伝統の中に処女は身ごもって子を産むというようなことなど絶対にないことでしょう。ヨセフはそのような神の選びに預かった、到底信じがたい異常な事態を黙って一心に主のみ旨を負っていたのであります。そうして、こう言われています。「古き自己を死に引き渡す以外に到底不可能な決断であった。」と。つまりこれまでのいっさいの己を捨てて死を覚悟しての「主のみ旨を受け入れてゆく人生」の始まりでありましょう。主のみ旨は何か、と言いますと「恐れを克服し敢てマリアを受け入れよ」と命じるのであります。そしてこの妊婦は不倫の結果ではなく、聖霊による天から与えられる賜物である、とみ使いは言うのでありました。

イエスという名はヘブライ語のもとの意味は「ヤハウェーは救い」というつまり救いであられると言う、やがてイエスは彼の民イスラエルを「罪から救う」という使命を負っていかれるのであります。「イエスこそ救い主キリストであられる」このことを証言することがマタイの主眼でありました。こうして預言の言葉を添えるのであります。イザヤ書7章14節のみ言葉で「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む、その名はインマヌエルと呼ばれる」。その名は「神は我々と共におられる」と言う意味である。

そしてマタイは福音書の最後の言葉を28章20節で「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいる」という同じインマヌエルで結んでおります。救い主として、この世に生まれて来てくださった神の子いえす・キリストはいつもあなた方と共にいてくださるのであります。

                                                                                                                                                                                                                                                                  アーメン・ハレルヤ

説教「良い実を結ぶ木のように」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイ3章1-12節、イザヤ11章1-10節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節とかアドベントなどと呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔、現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた父なるみ神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちは、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあります。その意味で、待降節という期間は、イエス様の最初の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、めでたし、めでたし、で済ませるのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を持つようにして、身も心もそれに備えるようにしなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつなのかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世が終わりを告げる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていないのです。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を持って、身も心もそれに備えるようにする。それが、「目を覚ましている」ということです。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」などと言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は自分の造り主である神から頂いたものだという自覚に立っています。それで、自分が置かれた立場や境遇、直面する課題というものは、各自取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は次の二つの原則に照らし合わせてそうします。まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、次に、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、この二つを基準にして考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っているだけの受け身な姿勢ではありません。

そこで、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

 

2.

 本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章80節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事いうことになります。

 洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、例として「ヘブライ人への手紙」12章に記されています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという終わりの日に、唯一揺り動かされずに現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地にとって替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが記されています。

 本日の旧約の日課イザヤ書11章にも、将来現れる神の国のことが述べられています。「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(9節)ことがどういうことかを分からせるために、野獣猛獣、家畜と幼子が一緒にいても何も危険はないということが言われます。それくらい安心と安全が完璧な夢のような国です。加えて、神の正義が完璧に実現される国でもあります。「エッサイの株から萌え出でる若枝」がそれを実現します。エッサイはダビデの父親の名前ですので、この若枝はダビデ王朝に属する者としてイエス様を指します。再臨するイエス様は最後の審判の時に裁きを司りますが、5節で「正義」と「真実」を帯のように纏っていると言われます(「真実」というのは、ヘブライ語אמונהの正確な意味は「頼り切って大丈夫なこと」です)。彼が裁きを行う時、「目に見えるところによって行わない、耳にするところによって行わない(3節)というのは、人の目には見えないことや、人の言葉では言い尽くせないことまで全て真実を把握して裁きを行うということです。だから、この世でいろんなことを見落とされて不利益を被ったり、真実を見てもらえずに無念の涙を流した人たちにとっては朗報以外の何ものでもないでしょう。しかし同時にイエス様は、不正義を行った者もその犠牲者も等しく、全て心の奥底にある見えない部分もちゃんと見抜いておられる。そうなると一体誰が、この正義と安全と安心しかない国に迎え入れられるのか?この問題は、本説教の後半で明らかされていきます。

さて、そんな夢のような神の国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?そうならば、今ある天と地は当時も今もそのままではないか?新しい天と地はまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。実は2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は、不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたり、悪霊に憑りつかれた人々を救ったり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。黙示録21章4節を思い出しましょう。将来現われる神の国は、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところです。2000年前のイエス様の存在と活動というのは、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせる、そういう意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはりあくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。

それでは、今私たちは神の国とは無関係なのでしょうか?そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、彼こそ救い主と信じる信仰に生きる者は、既にこの神の国と結びつけられています。もし、イエス様の再臨が私たちの生きている時代に起きれば、信仰に生きる者はそのままそこに迎え入れられます。もし再臨の前に死んでいれば、再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられます。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現する方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

 

3.

 さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書24章21~22節、26章20~21節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。それなので人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びつくと考えられたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。(興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζω、βαπτισμοςが使われています[マルコ7章4節])。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものはと言えば、律法の様々な掟や様々な宗教的儀式を守ったり行ったりすることでした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのです。

 人間が自分の力で罪や不従順の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部このひとり子に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができるようになりました。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23~24節とコロサイ3章9~10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限りは、父なるみ神は私たちの罪ある内側には目を留めず、私たちに被せられた神聖な清い純白な衣に目を留めて下さるのです。

 ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものでした。神が人間に贈り与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、今申し上げたイエス様の身代わりの犠牲がもたらしてくれる罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2~3節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限りは、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。このような計り知れない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。

 ヨハネの洗礼は、完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっているのだ、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ起こる罪の支配からの解放を全身全霊で受け取る器になれる、ということでした。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということでした。ところが、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

 

4.

 以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得られるようになりました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして受け取った罪の赦しの救いの中にしっかり留まり、聖書の御言葉と聖餐式のパンとぶどう酒を栄養にすることで、肉に結びつく古い人を日々弱体化させ、聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことです。この道を歩む者から「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」が実ってきます。それはどのような実でしょうか?

一般的に言えば、次のようなことです。罪の赦しの救いを受け取った人は、聖霊と共にいろいろな賜物を神から頂く。その頂いた賜物を今度は神の意思に沿うように用いる。そうすると、イエス様の福音が周りの人々に伝えられたり示されたりし、人々が罪の赦しの救いを受け取ることができるようになって教会が成長する。そして、賜物を用いる人自身も、使徒パウロが教えるような聖霊の結ぶ実を結ぶようになる。これはスオミ教会の今年の年間主題でもありますが、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といったものに満たされるようになる。これら全てのことが、「神への立ち返りに相応しい実」、「良い実」です。

最後に、そのような実について、具体的なことを述べておきます。いろんな具体例が考えられますが、ここでは一例としてあげておきます。キリスト信仰者が、一生懸命の努力と真摯な祈りをもって何か事業に成功してお金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。その人がこの成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することに沿うように用いること、これが「良い実」です。もちろん、みんながみんな、そういう神の意思に沿って用いられる成果を手に入れられるわけではありません。ただその場合でも、もし伴侶がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが溢れるような家庭を築いて行こうと努力すること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうと努力すること。これが「良い実」です。さらに、不運にも病の床についてしまい、成果も得られず家庭もなかなか築いていけないような場合は、このような境遇にあっても、信仰の兄弟姉妹たちの心遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さる、と感謝すること。そして、自分自身のことに加えて、多くの人たちのためにも祈ること。これが「良い実」です。これらはみんな、父なるみ神の目から見て等しく良い実です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「イエス様の大事業と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章1ー11節

待降節第1主日


 

 

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様がロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると一旦朗読を止めます。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。夜のテレビのニュースでも毎年のように「今年も待降節に入りました。画像は何々教会の礼拝での『ホサナ』斉唱の場面です」と言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。

 2.

 ところで、先ほど一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語では「ホサナ」ではなくて、「ホシアンナ」です。福音書の記述も、群衆がイエス様を迎える歓呼は日本語では「ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語は「ホシアンナ」です。昨年もお話ししたのですが、この違いを考えることは聖書をより身近に感じられるきっかけになります。ただ、今回説教を準備している時にまた新しい発見をしましたので、昨年申し上げたことに補足をしなければなりません。このように聖書は読むたびに、それまで気づかなかったことに出くわすことがよくあるので、本当に飽きさせない書物です。

 このホサナ、ホシアンナというのは、もともとは詩篇118篇25節にある言葉から来たものです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。「わたしたちに救いを」をいうのは、原語のヘブライ語を忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい」になります。これが הושיעהנא ホーシィーアーンナァ、つまりホシアンナです。本日の福音書の箇所の群衆の歓呼がある9

10節はこの詩篇の箇所が土台にあります。そういうわけで、ホサナと言わずにホシアンナと言った方が、引用元の聖句の原語に忠実になります。ところで、ホシアンナという言葉は、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳」になるでしょう。

では、どうして日本語の聖書ではホシアンナと言わずにホサナと言うのか?ホサナהישע־נא  というのは、実はヘブライ語のホシアンナをアラム語に訳したものです。正確にはホーシャーナァと発音します。ヘブライ語のホーシィーアーンナァと違います。アラム語という言語ですが、それはイエス様の時代のパレスチナの地域の主要言語でした。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残ってはいましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それで、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語の可能性が高いと考えられるのです。

そこで、肝心のマタイ福音書の原語のギリシャ語のテクストではどうなっているかを見てみると、ホーシィーアーンナァでもホーシャーナァでもなく、ホーサンナωσανναです。英語訳の聖書は、綴りとしてはこのギリシャ語に倣っていて、ホサンナHosannaと書いています。しかし、そのホサンナを英語はホゥザナと発音します。英語は本当に一筋縄ではいかない厄介な言語だと思います。

さて、ヘブライ語のホーシィーアンナ(ホシアンナ)、アラム語のホーシャナ(ホサナ)、ギリシャ語のホーサンナ(ホサンナ/ホゥザナ)の3つが出そろいました。ここで興味深いのは、ギリシャ語は、ヘブライ語やアラム語の言葉を訳さないで、ただ発音をギリシャ文字に置き換えただけということです。皆様もご存知のように「メシア」はヘブライ語のムーシィーアハですが、それがギリシャ語に訳されてクリストス、「キリスト」になりました。ところがホシアンナ、ホサナの場合は、そのような訳がなされず、発音をそのままギリシャ文字に置き換えただけで、さながら日本語が外来語を訳さないでカタカナに置き換えるのと似ています。

 こうしたことをどのように考えたらよいかと言うと、まず、本日の福音書の箇所に出て来る人たちはアラム語を話す人たちなので、叫んだ言葉はアラム語でホサナと言った可能性が高い。しかし、シナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読も聞いていたので、ひょっとしたらホシアンナを覚えていて、それで叫んだ可能性も否定できない。いずれにしても、この出来事も含めたイエス様の言行録は最初、口伝えで伝えられていき、次第に記録として書き記されるようになる。さらにキリスト教がアラム語圏を超えてギリシャ語圏に広まり始めると、アラム語で伝えられたものはどんどんギリシャ語に訳されていく。そこで、この出来事の記録を訳した人は、ホシアンナだったにせよホサナだったにせよ、このエグゾチックな言葉をみて、ギリシャ語の単語に訳さず、ただギリシャ文字を当てはめて書き記したのです。実は、このおかげで聖書を読む人は、この出来事が起きた時その場にいあわせた人々の生の肉声に触れることができるのです。ギリシャ文字を当てはめて書いた人は、その効果を狙ってそうしたのは間違いないでしょう。

 以上のことは、キリスト信仰の観点からみたら瑣末なことですが、知っていれば、聖書を読む時、当時その場にいあわせた人たちの音声の世界に引き戻されます。聖書に書いてある出来事は後に創作された話だ、などという淡い期待を打ち破り、本当にあったという臨場感を与えます。このホサナの他にも新約聖書には、イエス様自身や関係者が述べた言葉や文がギリシャ語に訳されずにアラム語の発音のまま記されて、日本語訳の聖書ではカタカナで表記されているものがいくつもあります。ギリシャ語に訳した人たちは、このようにしてまで現場の生の声をそのまま残そうとしたのです。

3.

 先ほども述べましたように、ホサナないしホシアンナは、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのです。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書やルカ福音書では、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います(マルコ11章2節、ルカ19章30節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 実は、これは何かのパロディーでもなんでもありません。まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事だったのです。以下、そのことを明らかにしてまいりましょう。

 まず、イエス様のこの行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういう途轍もないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、ロバに乗ってやってくるということです。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が、全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという途轍もないことをするにもかかわらず、その実現の仕方は軍事力の行使とは全く正反対な仕方で行うということが、イザヤ書11章1-10節に預言されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界は、聖書の立場からすれば、今のこの世が終わった後に到来する新しい世を意味します。イザヤ書や黙示録に預言されていますが、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがて今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に正義を完全かつ最終的に実現するのがイエス様ということです。

以上のように、今の世が新しい世にとってかわるという、預言書に預言された大事業は、イエス様が担っていくことになりました。ロバにまたがってエルサレムに入城するというのは、まさに預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという、とてつもない大事業はイエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?

4.

 この大事業は、当時のイスラエルの人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の方向に展開しました。というのは、彼らは、ダビデ王の末裔が来て新しい世を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエル王国を再興することを意味すると理解していたからでした。人によっては、この来るべき王国のことを、天と地が新しくされて死者の復活が起きる時に(イザヤ66章22節、ゼカリヤ14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1-3節)現れると考えていた者もありました。ただ、その場合でも、ユダヤ民族の国が再興されるということが中心でした。先ほど読んで頂いたイザヤ書2章1ー5節では、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言がありました。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、旧約聖書の預言のもっと別の面も含まれていたのです。どんな面か、以下にみてまいりましょう。

 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。まず、エルサレムの神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。それから、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのにローマ帝国の軍事介入を招いてしまうということが危惧されました。三つ目として、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に預言されている終末の日に到来するメシア「人の子」であると公言していることも問題視されました。特に、自分を神に並ぶ者としていることや、さらにもっと直接的に自分を神の子と見なしていることも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言を一面的にしか捉えられていなかったことによる理解不足でした。そこで、イエス様が十字架にかけられた後、旧約の預言が全て理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間が死ぬ存在になってから閉ざされていた扉が開かれたのです。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命につながることが出来るようになりました。人間が死を超えられなくなってしまったそもそもの原因は、人間が罪を持つようになって神の罰に服するようになってしまったからでした。それが、「お前の罪は赦された、だから神の罰は受けなくてもよくなった」ということが起きたのです。どこでどうやって罪が赦されたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の罪に対する神の罰を全部引き受けて下さったことによります。その時、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。イエス様が自分の命を身代金として支払って、人間を罪の支配下から解放して下さったのです。これにあわせて旧約聖書の預言が次々に明らかになりました。例えば、イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことを指すものでした。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節) 

 イエス様の十字架の死と死からの復活というのは、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、私たち人間すべての罪の償いを神に対して成し遂げたという、犠牲の業でした。加えて、罪の償いをしてもらった私たち人間が、この世のあらゆる悪と誘惑を踏み越えて常に神のもとに向かって進んでいけるようになれるための贖いの業だったのです。実にイエス様の神聖なエルサレム入城は、この犠牲と贖いの上に成り立つ人間の救いが真の目的だったのです。この世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことだったのです。まず、神がイエス様を用いて実現した救いに出来るだけ多くの人が与れるようにしなければならない。しかし、それはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出す。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進み、最終的にはこの世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が生じて今見えるものは全て崩れ落ちて、唯一崩れ落ちないものとして神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まる(ヘブライ12章26-29節)。このように神の国の構成員となるのは、もはやユダヤ民族というより、イエス様を救い主と信じた人たちということになります。イザヤ書2章にあるような、諸国民が天地創造の神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるというのは、もはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムを意味します。このように、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものだったのです。それが神の意図でした。これを明らかにしたのがイエス様でした。神のひとり子であるがゆえに、神の意図を明らかにすることができたのです。

5.

 以上から、天地創造の神の意志と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様がロバにまたがってエルサレムに入城したことが明らかになりました。そしてその大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約聖書の理解を超えた形で展開しました。しかし、旧約を全体的に理解すれば、イエス様の十字架と復活こそ、大事業が計画通りに進んでいることを示す出来事であったとわかるのです。

さて、今私たちが生きているこの時代、イエス様の最初の降臨と次の再臨の間の時代は、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを、一方では受け入れて自分のものにした人たち、他方ではまだ受け取っていない人たちに二分する時代であります。しかし、罪の赦しの救いは全ての人間のために実現されたものである以上、全ての人がその所有者になってほしいというのが神の御心です。それゆえ、兄弟姉妹の皆さん、それを先に受け取った私たちキリスト信仰者は、まだ受け取ってない人たちが受け取ることが出来るよう、絶えず祈り、機会を見いだしては働きかけていかなければなりません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「終わりの時を知り、今を豊かに生きる者」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書21章5-19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。

ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス様が再び、ただ今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来て、使徒信条や二ケア信条にあるように、「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時に、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。主の再臨の日つまりこの世の終わりの日、最後の審判と死者の復活が起こる日、これがいつであるかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないので、誰もわかりません。そのため、イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚まして祈りなさいと教えられるのです(34~38節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分はその時、神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の信仰生活を振り返る趣旨の日です。本説教も、そうした趣旨で行っていこうと思います。

 

2.

 本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。この預言の内容は少々複雑です。というのも、イエス様の十字架と復活の後に今のパレスチナの地を中心にして起きる直近の出来事の預言と、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事の預言の二つの異なる預言が入り交ざっているからです。つまり、一方では、私たちから見たらもう既に過去のことになった出来事が起きる前に預言されている。他方で、私たちから見たらこれから起きる出来事の預言が入っています。

 この複雑なイエス様の預言を解きほぐしていきましょう。まず、イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れ、人々を誤った道に導くことが起きるので、彼らに惑わされてはならない、つき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように、人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異(ακαταστασιας)を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。そういうわけで偽救世主は、8節で言われるように、世の終わりの「時」(ο καιρος)が近づいたなどと不安を煽る。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかということを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こることではあるけれども、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わり(το τελος)になるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に不安に陥る必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。

その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、王国と王国つまり国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。これは彗星や隕石の落下を意味するのでしょうか?イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者はおびえる必要はない、そう言われるのです。

ここまで見ると、イエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、このように答えたので、こうした偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が破壊の前兆のように聞こえます。ところが、12節を見ると、「これらのことが起きる前に(προ τουτων παντων)」迫害が起きるということを述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害について言うと、権力者によって信仰者が連行されて、自分の信仰について申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者からくるものならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は救い主です」と、その名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、お前たちの髪の毛一本たりとも神の手から失われることはないということ。信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている。神はお前たちから一寸たりとも目を離すことはなく、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりなのだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。まさに試練の中での忍耐を通して、お前たちは神の御許で過ごせる永遠の命を勝ち取ることができるのだ(19節)。

順番から言うと、迫害が起こって、偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。20節からは、質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここで注意しなければならないことがあります。迫害が起きて、混乱と天変地異があって、エルサレムと神殿破壊が起こって、これで全てが完結したわけではありません。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起きると言っています。イエス様の主眼は、質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。つまり、これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起きるが、その後にも起きるということです。

そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく悩み苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨するのです。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言を念頭に置いています。天体の大変動が起きる時、今ある天と地が新しいものにとってかわります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の御国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」12章26~28節に預言されています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

 ルカ21章28節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言っています。それは、イエス様を救い主と信じる者からすれば、この世の終わりというのは、迫害や苦難・困難に満ちた今の世から、「死も嘆きも悲しみも労苦もない、全ての涙を拭われる」(黙示録21章4節)、そういう神の御国へ移行する段階にすぎないからです。

 

3.

 さて、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊からもう1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽救世主は歴史上枚挙にいとまがありません。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。もちろん、現代の世界でも国や地域によっては続いています。歴史上、そういうことが多く起きたり、また重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということがたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。皆さんもご存知のように、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、膨張を少しでも始めたら、地球への影響は甚大です。それが何年後かはわかりませんが、ここで仮に10億年後とします。それ以外に地球に甚大な影響を及ぼす天体の異変がないと仮定すると、地球は10億年は大丈夫ということになります。これは本当に仮定の仮定の話ですが、何故こんなことを言うのかというと、天の父なるみ神がせっかく10億年大丈夫なようにしてくれているのに、人間の方で自分たちをもっと早く破滅させてしまう可能性があるからです。核兵器やいろんな環境破壊それに原子力や遺伝子操作やクローン技術とか、しっかりコントロールできるのでしょうか?せっかく神から可能性を与えられているのに、もったいないと言うか愚かと言うか、人間は天地創造の神の御心をもっと知るべきだと思います。

話しが横道に逸れてしまいましたが、今ある天と地が永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるかというと、それは万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。

聖書の立場をもう少し詳しく言うと、今ある天と地はいつか新しいものにとってかわられる、その時、死者の復活や最後の審判が起こって、創造主の神に義(よし)と認められた者は新しい天と地に現れる神の御国に迎え入れられる、というものです。それがいつ起こるかについては、もし太陽の寿命が関係することだったら10億年とかそんな後になりますが、もし、その前にまだ解明されていない天体の大変動があれば、もっと早まることになります。そんな気の遠くなるような話をされたら、そうしたことは、まず自分の存命中には起こらないだろう、という気持ちになります。そうなると、自分はこうしたことが起こる前にこの世を去ることになる。その場合は、復活の日まではどこか神のみぞ知る場所で安らかに眠り、その日が来たら目覚めさせられて、神の御国に迎え入れられるかどうか判断を仰ぐことになります。

 そのように、聖書の立場に立ちますと、世の終わりというものがたとえ遠い将来のことで、この私がこの世を去ったずっと後に起きることであっても、それはどっちみち私に関係してくる、私はそれから逃げられないということになります。

 そこで、聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるでしょうか?少し考えてみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなる、と思われるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないと、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもないので全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活というのも、せっかく復活しても居場所がないわけですから、起こらないことになります。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになってしまいます。

ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので(第一コリント15章35~49節)、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分がずっと続いていくことがわかります。

 

4.

 ここで問題になってくるのは、この世の終わりの日、死者の復活と最後の審判が起こる日、自分は果たしてそのような復活の体を着せられて、新しい天と地のもとに現れる神の御国に迎え入れられるかどうか、そのような者としてこの自分は続いていけるのかどうか、ということです。結論から言えば、神は人間が誰でも御国に迎え入れられるようにしてあげようと、いろいろ手筈を整えてくれました。そこで神は、人間の方でそのことをわかってくれて、整えてあげたことを受け入れてほしい、そう望んでいるのです。この、神が望まれていることをすれば、人間は神の御国に迎え入れられる。それでは、神に手筈を整えてもらわないと人間は御国に迎え入れられないというのは、何か人間に不備があるということなのか?その、神が整えた手筈とは何か?それを人間が受け入れるとはどんなことか?聖書に従えば以下のようなことです。

人間はもともと造られた当初は神のもとで何も問題なく暮らしていました。ところが創世記3章の堕罪の出来事に示されるように、最初の人間が神ではなく悪魔の言うことを聞いてしまい、神に対して不従順になって罪に陥ったために神との関係が壊れてしまいました。人間は神のもとで暮らすことができなくなり、死ぬ存在となって、神のもとから離れなければならなくなってしまいました。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできてしまったのです。しかし、神の方では、人間との関係を回復させて、人間がまた自分のもとで暮らせるようにしてあげようとして、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神はイエス様にゴルゴタの丘の十字架で全ての人間の罪の罰を受けさせて、人間にかわって罪の償いをさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間に開かれました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様の犠牲の上に成り立つ罪の赦しが名実と共にその人の赦しになるのです。

このようにして神から罪を赦された者は、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、その道を歩み始めることとなります。万が一、この世から死ぬことになっても、罪の赦しに基づく神との結びつきがあるので、御手を差し出して御許に引き上げて下さる神に信頼して全身全霊を委ねることができます。また万が一、罪に陥ることがあっても、心の目をゴルゴタの十字架に向けて、神さま、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と赦しを乞えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す、もう罪を犯してはならない、と言って赦して下さるのです。その時、自分の命が尊い犠牲の上にあることが改めてわかり、軽々しいことはできなくなります。本日の旧約の日課イザヤ書52章の3節で「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」という神の言葉がありました。「ただ同然で売られたあなたたち」というのは、原文のヘブライ語(נמכרתם)では「あなたたちは自分自身を売り渡した」という意味も持ちます。人間が最初の人間の堕罪以来、悪魔に売り渡されて罪の支配下にあることを意味します。「銀によらず買い戻される」は直訳すると「あなたたちは銀(すなわち金銭)によっては買い戻されない」です。それでは、何によって誰に買い戻されるのか、というと、それは、神のひとり子の尊い血によって神に買い戻される、ということです。人間は、それ位自分の命が尊い犠牲の上に成り立っていることに気づくべきなのです。

 この世の終りとか、死のことを考えるのは、気持ちを暗くしてしまうもので、あまりいいことではないと思われるかもしれません。キリスト教の説教だから、もっと希望を与えるような明るい話を盛りだくさんにすべきだと言われてしまうかもしれません。果たしてそうでしょうか?エンディングノートを書いた人が、毎日をそれこそ与えられた貴重な時間と捉えるようになって、自覚的に生きるようになった、ということを聞いたことがあります。また、延命治療や高額医療の是非をめぐる議論で、あるホスピスケア専門家が、「人生の終りを見定めてから逆算して考えることも大切です。死を考えることは、生きる感覚を高めることにつながる」とおっしゃっていました(朝日新聞9月10日「耕論-命の値段」での田村恵子京都大学大学院教授の発言から)。聖書というのは、読めば読むほど同じような視点に人を導いていくと私は思います。しかし、聖書の場合は、エンディングノートや延命治療の議論とは違って、死んだ後どうなるかということにも立ち入るので、「生きる感覚の高まり」方が別次元のものになっていくのではないかと思います。例として、ルターのリンゴの木の話をあげることができます。これはルター本人が言ったかどうか確定していないということなのですが、でもルターらしい発言だというのは誰しもが認めることです。ある人がルターに「先生、明日、世界の滅亡がやってくるとしたら今日何をしますか?」と聞きました。ルターの答えは「リンゴの木を植えて育て始める」というものでした。

天地創造の神が私たちのためにひとり子を送って下さった。そのイエス様がこの私のために十字架の死を遂げられ、神の力で死から復活させられた。- このことを知り、イエス様を救い主と信じる者は、自分の行うことはどんな小さなものでも神の栄光を周りに伝える役割を果たすものという自覚があります。だから、行うことが終わりによって中断されても、中断されるまで行っていることは神の栄光を伝える役割を果たしているので、神から見て意味のあることをしているとわかるのであります。本日の使徒書の日課第一コリント15章の58節で聖霊がパウロに働いて語らせる言葉は真理です。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨最終主日の聖書日課、ルカ21章5-19節、 イザヤ52章1-6節、Iコリント15章54-58節

説教「ののしられる者は幸いである」木村長政 名誉牧師、マタイ5章11~12節

山上の説教の中の「あなた方は、幸いである」という形で語られる最後です。ここで一区切りにしたいと思っています。

11~12節を見ますと

11節「わたしのために、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口をあびせさせられる時、あなた方は幸いである」

12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである。」

今日の聖書の11~12節を読んで皆さんもお気づきの事と思いますが、12節では「義のために迫害される人々は幸いである。」短く簡潔な言葉です。そして迫害されて来た人と言っても第三者のことのように言っている表現です。それに対して11節ではあなた方と言っています。直接にこの人々に対して語っていることで言っています。ここで語られているのが主の弟子たちであったことはすぐ想像できます。10節までは一般の人について語っていたが、ここからは弟子たちに対して言っているということでしょう。これまでにも言ってきましたが祝福の説教は信仰のある人に与えられているのです。その中には弟子たちも入っているはずだと思います。

 従って、ここでは一般の信者に対して語った後に特に弟子たちのことを思って語ったということでなくて、義のため、ということから、それの本当の意味であるキリストのため、ということを言っていますから、言い方が変わったのであります。11節のところで「わたしのために」と言っています、この私のため、はキリストのためです。次にすでに10節のところで義のためにと言っています、それは単に正しいということではなくて、信仰による正しさであります。それなら、ここではそれを更に一歩進めた話、ということになるのであります。あなた方、と言っていることから考えられることは面と向かって話していることであります。人ごとのように聞いたのでは主が言われたことが生きていないことは、わかり切ったことです。

 ここで聞いていた人たちは、まさに自分に対して言われたこととして聞いたにちがいありません。義のため、と言われるところにはキリストとの直接の関係において受け取るのでなければ正しくないと言うことです。実はキリストのためと言うことに至るのでなければ本当には儀のためということさえならないということなのです。ただ義のためと言うことだけでなくキリストとの関係が正しくされて始めてそれができる、ということを忘れてはなりません。私たちは義のために生きることを願って来たのであります。それが人間のための生活であると言うことも知っています。しかしキリストに救われるまではなぜ義のために生きるのか、ということも分からなかった。また実際、義のために生きる力もなかったのであります。そういうことに自信がなかったでしょう、特にそう考えていなかったとしても、それは何となくそれが分からなかったのであります。ところが、キリストはそれを悟らせてくださいました。そして、それから救ってくださったのであります。従って、どのこともキリストのため、ということになるのであります。信仰生活というものはキリストとの関係で生きることです。

 パウロは「キリストにあって」と言う言葉を口癖のようにたびたび用いました。自分の信仰生活はどんな意味でもキリストと結びついたものである、と確信しておりました。信仰生活というのはキリストに愛されキリストを愛する生活であります。一つの例として申しますと、クリスチャンの家庭でよく知られた壁掛けがあります。そこには、こういう言葉がかかれています。

キリストはこの家の主人

食卓ごとの見えざる客

どの会話をも黙って聞いておられる。

あるクリスチャンは食卓ごとに一つの席をもうけ、キリストがそこにおいでになることを信じようとしました。私のことを申しますと老人ホームの礼拝で中心席にはイエス様の席を用意します。信仰とは一つのものの考えではなく、キリストのよって生きることであります。イエス様を身近に感ずることでしょう。ですから「わたしのため」というのであります。

 迫害されるものはキリストのためなのであります。キリストのために迫害されることを11節ではいろいろな具体的な様子が記されています。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられる」というのであります。このように多くのことが言われるのはイエス様の生涯の始めにすでに多くの悪口や迫害があったということ、或いはイエス様は予測しておられたことでしょう。その後古代の教会に対してなされた非難や迫害は非常なものでありましあt。教会の歴史には迫害はつきものでありました。信仰生活もまた戦いを忘れることの出来ない、この世との対決がありました。この世がそれほど神にそむいている、ということであります。しかし主イエス様は祝福の最後の説教に繰り返すように「信仰者は迫害を受ける」と言われそれが「さいわい」である、と言われます。そればかりではなく、そのことを喜びなさい、と言われるのであります。

 主は喜び喜べ!と言われます。12節です。喜ぶだろう、と言うのでなく「喜びなさい」と言う命令であります。主からの命令ですョ、しかもただ喜ぶのでなく、おどり上がって喜べ、と言うことであります。皆さんどうですか迫害の苦しみに会っているキリスト者に喜べと言うすすめであります。迫害に会って嬉しい人は誰もいません。それは自然なことであります。それならば、このように喜べというのは余程の理由があるはずであります。信仰は喜びの生活である、と言われますがそれは救われて信仰を得た者が自然に喜ぶことであります。しかし、また信仰生活の困難に耐えて主の励ましを受け喜ぶことなのであります。

ヨハネ黙示録19章5~7節には。また玉座から声がしてこう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者もわたしたちの神を讃えよ。」わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び大いに喜び神の栄光をたたえよう」。さて、それならその喜びはどういう根拠があるのでしょう。信仰には迫害はつきものである、信仰を持つがゆえにいろいろな不都合や苦しみがある。それならば主の弟子たちや、その後の教会だけでなく、弟子たちよりも前にいた預言者たちも同じであった、ということであります。その預言者たちも同じように迫害を受けたのであります。預言者たちと主の弟子たちは同じ道を歩んでいる者であります。12節の終わりのところでちゃんと記されています。「あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである」しかも預言者たちは主の弟子たちが見ていることも見ることが出来なかったのであります。マタイ福音書10章41節には「預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は正しい者と同じ報いを受ける。」ここにはっきりと主イエス様が言っておられるのです。同じように主のために苦しみを受けた者は主から報いを受けるのであります。

 私たちはただ主の恵みによって救われたのであります。もしも迫害に耐えることが出来たとしたらその恵みに答えることが出来たにすぎないのではないでしょうか。そのことによって十分に喜ぶことができるはずではなかったでしょうか。それなのにマタイ10章41節で言われたように迫害のゆえに喜ぶことが出来たことに対して報酬が与えられる、というのはおかしなことではないでしょうか。ことに主が報酬があるから喜べ、と言われることは納得できないことだ、と言わねばならないに違いありません。しかし此処に使われている報いというのは私たちの努力によって与えられる報酬ということではなくて、何の努力もしないのに価なしに与えられるものということでります。しかも主が与えてくださるその報いというのは、ひたすらにそれを与える人の自由であり、その寛大さによることなのであります。それはただその仕事に見合う、ということではなく、ひたすら神の権威によるものであります。

 それをよく説明しているのは、皆さんもご存知のマタイ20章1~16節に記されている「ぶどう園の労働者のたとえ話」であります。朝9時から働いた者と、夕方5時頃から来て働いた者が同じ1デナリの報酬を受けるのです。それに対して不平を言う者があらわれ、ぶどう園の主人はその者たちに言うのであります。「自分のものを自分のしたいようにするのは当たりまえではないか」このことが

神の報いの本当の意味であります。神は報いを与えるとしても、それは全くご自分で正しいと思われるようになさるのであります。それが「神の恵み」を表すものであります。それゆえに、それは報酬でありながら「神の恵み」を表すものであります。そして、やがてこの報いが天において与えられる、ということです。この地上ではなく天において、あのヨハネ黙示録19章で見ましたように天の玉座の前で示されているのであります。私たちは天のみ国において約束されている喜びに希望を持って信仰生活を共にしてまいりましょう。
アーメン・ハレルヤ!

説教「死を踏み越える祈り」神学博士 吉村博明 宣教師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.全聖徒主日とは?

 本日はキリスト教会のカレンダーでは聖霊降臨後第21主日と定められていますが、同時に日本のルター派教会のカレンダーでは「全聖徒主日」という名称も付されています。

キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人と称して覚える日としてきました。加えて翌11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。殉教者を覚える日はラテン語でFestum omnium sanctorum、亡くなったキリスト信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドのルター派教会では11月最初の主日の前日の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者両方を覚える日となっています。今年は昨日の11月5日でした。スウェーデンのルター派教会では、この同じ土曜日は「全聖徒の日」という同じ名称ですが、これは殉教者だけを覚える日です。翌日の日曜日、つまり今日ですが、これは「全ての魂の日」という名称で、亡くなった信仰者を覚える日とされています。フィンランドの方は、この日曜日には特別な名称はなく、通常の「聖霊降臨後第何々主日」です。このようにルター派と言っても、国によって扱い方が異なっています。他の国々はどうでしょうか?ひとつ付け加えると、スウェーデンとフィンランドでは「全聖徒の日」の土曜日は国の祝日になっています。この週末は両国では全国各地の教会の墓地の墓の前に一斉にロウソクの灯がともされます。白夜の季節の終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に出て来る、天地創造の神の御許に迎え入れられる「白い衣を身に着けた大群衆」を思い起こさせます。

日本のルター派教会のカレンダーでは、11月1日が「全聖徒の日」、それに近い主日が「全聖徒主日」と定められています。今日のことです。11月1日が中心なのを見ると、先ほどのラテン語の伝統からすれば殉教者中心のようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った教会関係者の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われていますので、フィンランドと同じように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。

 

2.亡くなった人を覚えるとは?

 本説教ではまず、亡くなった人を「覚える」とはどういうことかを見ていきます。いろいろ注意しなければならないことがあります。こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと共にいて一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方が出るかもしれません。しかし、ルターが教えているように、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活と最後の審判が起こる日までは、神のみぞ知る場所にいて眠るのであります。この世を去る時にあった痛み苦しみから解放されて、全く安らかに心地よい眠りを眠るのであります。そして、終末と復活の日に目覚めさせられて、最後の審判で神の目に適うとされた者は、輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられるのであります。本日の使徒書の日課である第一コリント15章で言われている通りです。安らかに眠り続けているのではなく、復活の日が来ると、朽ちるものが朽ちないものを着せられ、死ぬものが死なないものを着せられて有様が一変するのであります(51~53節)。

 復活の日まで安らかに眠っているのですから、亡くなった方が私たちを見守るとか、導くとか、助言するとかいうことはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、私たちを造り、私たちに命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神なのです。

 このように言うと、いろんな疑問が出てきます。まず、死んだ人はどこで眠っているのかという疑問が出るでしょう。これは、もう神のみぞ知る場所としかいいようがありません。聖書では死んだ者が安置される場所を陰府(シェオールשאול、ハーデスαδες)と言っています。他に見当たりません。言葉の意味やニュアンスからして、なんだか暗い不気味な世界に思えます。しかし、本人は安らかに眠っているだけなので暗かろうが明るかろうが問題はないでしょう。ルターは、この眠りの期間は、あらゆる労苦や痛みや苦しみから解放された心地よい時間であると同時に、眠っている本人からしたらほんの一瞬にしか感じられない時間であると言っています。この世の時間の概念では何百年経っていても、本人にしてみれば、あたかも全身麻酔の手術を受けた人のように、目を閉じて眠ったかなと思った瞬間に目の前で復活の壮大なドラマが始まっているというわけです。

 次の疑問は、復活の日ないしは最後の審判の日に神の御国つまり天国に行けるかいけないかが決せられると言うのなら、今は天国には誰もいないのか?これも難しい問題です。実は聖書には、将来の復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられた者がいることが述べられています。神のひとり子イエス様はもともとおられた所に戻ったので含めませんが、単なる人間のエノク(創世記5章24節)やエリア(列王記下2章11節)がそうです。モーセも神に葬られて誰もその場所を知らないという謎めいた最後を遂げています(申命記34章6節)。イエス様がヘルモン山の頂上で白く輝いた時、モーセとエリアが現れますが、本当に神の御許から遣わされたとしか言いようがありません(マルコ9章2~8節その他)。ヘブライ12章23節を見ると、天のみ神の御許には既に聖徒、聖人の群れがあることが窺われます。こういう将来の復活の日を待たないで天国に行けるのは誰なのか?カトリック教会では教会がそれを決めることができるようですが、私たちとしては神に任せるしかないと思います。ルターは天の聖人の群れの存在は認めましたが、カトリック教会のように崇拝の対象にはしませんでした。崇拝の対象はあくまで父、御子、御霊の三位一体の神だからです。

 次の疑問は、聖人以外の人たちは復活の日までどこか神の知る場所で安らかに眠るとすると、その人たちのことを「天に召された」とか「召天した」と言っていいのか?キリスト信仰では復活というのは中心的な事柄の一つなので、それがある限りは、もう天国に行きましたというのは早急でしょう。でも、キリスト教会の最も重要な仕事は何かと言えば、それは人間を天国に送り出すことです。陰府に送り出すことではありません。それで、復活の日まで時差があるということを関係者みんながしっかりわきまえていれば、「天に召された」と言っても大丈夫でしょう。わきまえてなければ誤解を生まないためにも何か別の言い方を考えた方が良いと思います。

 次の疑問は、亡くなった人は眠ってしまい、神だけが祈り、悩みを打ち明け、喜びや感謝を報告する相手だと言ったら、亡くなった方とは何も関係がなくなってしまうのか?それでは自分だけではなく、亡くなった方の霊も寂しくなってしまうのではないか?思いやりに欠けるのではないか?

聖書では神は、人間が死者の霊にお伺いをたてたり、霊媒のもとに行くことを固く禁止しています(レビ記19章31節、申命記18章11~12節)。死者の霊と関係を持ったり、コミュニケーションを持つことは神の意思に反するのです。イスラエル初代の王サウルはこれを行ったために(サムエル上28章)、神に見捨てられてしまいました。天地創造の神からすれば、人間が助けを求めたり、祈ったり、どんな選択肢を選んでいいのかお伺いを立てる相手は、あらゆるものの造り主である神だけです。二ケア信条で唱えられるように、父、御子、御霊の三位一体の神以外のものは全て、見えるものも見えないものも全て被造物です。被造物である人間が拝むべきものは被造物ではなく、造り主の神でなければならないというのが神の意思です。人間は自分の造り主である神を拝み、神に祈り求め感謝を捧げなければならないということです。

亡くなった人を自分の運命を左右するもののように祈ったり拝んだりしてはいけない、眠っているのを起こしてコミュニケーションを持ってはいけない、と言うと、亡くなった人と無関係になれと言うのか?キリスト教は亡くなった方に思いやりがないのではないか?それは違うと思います。まず、亡くなった人の霊を拝まないからと言って、亡くなった人の思い出を抹消するということではありません。その方と共に過ごした日々とその方そのものを与えて下さったのは神ですから、そのことを神に感謝しなければなりません。神に感謝する位にその方やその方との思い出は大事なのです。加えて、キリスト信仰には復活信仰があります。それで、復活の日に再会できるという希望を持つことになります。再会させてくれるのは他ならぬ神なのだから、その神への信仰をしっかり守ってこの世を生きよう、ということになります。このように天地創造の神を介して、亡くなった方との思い出を宝物のように大切にし、復活の日にその方と再会できるという希望を持って生きる、ということです。亡くなった人を思いやらないとかないがしろにしている、ということはないと思います。生きている時と同じくらいに愛していると思います。

ところで、もし万が一、眠っているはずの方が目の前に現れるようなことが起きたらどうしたらよいか?その場合は天のみ神の方を向いて、その方が安らかに眠れるようにして下さい、眠れない原因があれば、あなたが解決して下さい、と神にお願いするだけです。天地創造の神をしらないと、亡くなった方とコミュニケーションを始めてしまう危険があります。それは、その方を眠らせないことにもなってしまい、双方にとってよくないと思います。

 もっと難しい疑問も出て来ます。亡くなった人がイエス様を救い主と信じないで亡くなってしまったら?その方と復活の日に再会したいと思っても、イエス様を信じなかったので再会できないのか?ここで一つ思い出してよいことは、イエス様と一緒に十字架にかけられた強盗が最後の一瞬にイエス様に信仰を告白して天国に入れたということです(ルカ23章40~43節)。私たちは、亡くなった方が生前イエス様をどう思っていたか、何も聞いていなくても、神が聞いたことがあるかもしれないからです。だから、周りの人にイエス様のことを伝えることは大事です。いずれにしても、この問題はもう全知全能の神に全てを委ねて、全てをご存知である神が下される決定は正しいものとして受け入れるしかないと思います。再会できなかったら、それも受け入れなければならないのか、と不満になる向きもあるかもしれません。しかし、今の段階ではどうなるかわからないのですから、ぐずぐず言っても始まらないと思います。「御心に適いましたら再会できるようにして下さい」と父なるみ神に毎日お祈りします。

他にも難しい疑問がいろいろあるのですが、今回はここまでにします。ただ他の疑問と言っても、基本は同じです。キリスト信仰では亡くなった方を覚えるというのは、天地創造の神を介して行うということ。神を介して覚えると、一方では亡くなった方との思い出を宝物のように大切にし、他方では復活の日の再会の希望を神に祈り願いながらこの世を生きることになるということ。亡くなった方とコミュニケーションは取らないということ。つらい寂しい日々になるかもしれませんが、父なるみ神と向き合って、神とコミュニケーションを取りながらこの世を生きていくということです。本日の聖書の日課は、神と向き合うことと、神とのコミュニケーションについて教えています。それを見ていきましょう。

 

3.死に対する勝利

 本日の福音書の日課にあるイエス様の言葉は、彼が十字架にかけられる前日に弟子たちに対して述べた長い教えの一部です。これから十字架の受難を受けるが、三日後に死から復活させられるということを間接的に話します。直接的に言っても出来事の意味は理解されないだろうから、イエス様はそういう話し方をしました。イエス様が死に引き渡されて皆が悲しむ時が来るが、それは母親が赤ちゃんを産む時の最初の不安や痛みと同じである。しかし、赤ちゃんが生まれたら全てが喜びに変わる。それと同じことが起こると言って、受難の後に必ず復活の喜びが来るということを述べます。しかも、その日からは弟子たちはもう、イエス様の名前を引き合いに出して神に直接お願いしてもいいことになる(ヨハネ16章26節)。これらを聞いた弟子たちは、何か大きなことが起こることだけはわかり、イエス様が父なるみ神から送られた方であるのは間違いない、それを信じます、というところまで来る。しかし、なぜイエス様が父なるみ神のもとからこの世に送られてきたか、その目的まではまだわかりませんでした。

このことがわかるようになるのは、十字架と復活の出来事が起きた後でした。弟子たちは、イエス様が人間の罪を全部十字架に背負って運び上げ、そこで罪の罰を受けて身代わりの死を遂げたことを理解しました。それだけではありません。本日の旧約の日課にあるヨナの祈りで言われるように、イエス様は死んでから3日後に陰府の中から引き上げられて、死から復活させられます。ここで死を超える永遠の命があることが示され、その扉が人間のために開かれました。人間は、これらのことは全て自分が罪の呪いから救い出されるために神がひとり子を用いて行ったのだと分かって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪の罰を受けなくてすむようになったのです。万が一罪を犯すことがあっても、その時はイエス様の十字架のもとに立ち返って、父なるみ神よ、イエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さい、と祈れば、神の方で、我が子イエスの犠牲に免じて赦す、もう罪を犯してはいけない、と言って赦して下さるのです。このように人間は、イエス様を介して天地創造の神に向き合うことができるようになったのです。

イエス様を救い主と信じる信仰にとどまり、罪の赦しの恵みにとどまる限り、人間を復活の命に入らせないようにしようとする罪の力は力を失っています。本日の使徒書の日課である第一コリント15章55節で、死はその勝利ととげを失ったことが言われています。死の勝利とは、人間を復活の命に入らせないことです。死のとげですが、とげというのは原語のギリシャ語(κεντρον)では剣先も意味します。死の剣先とは、死が勝利を収めるために必要な武器です。つまり、死は勝利を得させる剣先も失っているのですが、その剣先とは罪であると言われています(56節)。罪とは、死が人間に対して勝利して人間を復活の命に入らせないようにするための武器なのです。そして、その罪は律法の掟があるゆえに罪として明るみに出て力を発揮します。使徒パウロがローマ7章で述べるように、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかった」のですが、「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こし」た、ということが起こります。これが、律法は罪の力と言われる所以です(56節)。

ところが、律法を通して明らかにされる罪は全部、イエス様の十字架と復活のゆえに神の赦しの対象となってしまいました。それで罪は、イエス様を救い主と信じる者に対してはもう人間を復活の命に入らせないようにする力を失っているのです。本当にイエス様の十字架と復活は、罪と死に対する大勝利を人間にもたらして下さったのです。イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、私たちはイエス様のもたらした勝利に与ることができ、また父なるみ神に向き合うことができ、イエス様の名前を通して祈り願うことを全て神に聞いてもらえるのです。

 4.死を踏み越える祈り

 旧約聖書の日課はヨナの祈りです。海に放り投げられたヨナは、三日三晩、大魚の腹の中に閉じ込められます。そこでのヨナの祈りは、死を目前にした者が最後まで神を信頼して助けを求める祈りです。まさに極限的な状況の中での神とのコミュニケーションです。どんなコミュニケーションかみていきましょう。

祈りの冒頭をみると、「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えて下さった」と過去形になっています。まだ助かる前の段階なのに、もう「答えて下さった」と言うのは少し変な気がします。大魚の腹から吐き出された後に言えば、すっきりするのに。これは、原文のヘブライ語の動詞が完了形をとっているからですが、文法書によりますと、こういう散文体の文章では完了形は現在の意味や習慣的な意味に訳してもよく、ここは「主は答えて下さる」とか「答えて下さる方」というふうに、神は普段からそういう方なのだ、と神に対する不断の信頼を表明していると理解してよいです。フィンランド語の聖書もここは現在の意味で訳しています。

この後も現在の意味で訳していいのか過去の意味で訳していいのか、やっかいなのですが、ここでは訳し方の基準として、この祈りがどんな構成で出来ているか、それをもとにして決めていこうと思います。どんな構成かというと、出だしで、神は答えて下さる方、声を聞いて下さる方です、と信頼を表明する。その後は、刻々と死が迫ってくる絶望的な状況が描かれて行きますが、途中それを遮るように神への信頼が何度も表明され、絶体絶命の描写と神への信頼の表明が交互に繰り返されて、最後に「救いは、主にこそある」と信頼の表明で結ばれる、そういう構成です。 

ここで一つ注釈しなければならないことがあります。それは、5節「わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと」とありますが、最後の文「生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと」というのは、絶望状態を表わしています。ところが、ヘブライ語の原文の権威ある読み方をみると、ここは全く逆の意味で「しかし、私は聖なる神殿を再び見ることになる」と未来の確信を表わしています。どうしてこんな正反対の訳が出て来るかと言うと、ヘブライ語のテキストの欄外に「このような読み方もできる」とあって、日本語訳はそちらを採用したからです。スウェーデン語の聖書もそうでした。私は欄外の文ではなく、本文のテキストに基づこうと思います。フィンランド語と英語の聖書も本文のテキストに基づいて未来の確信を表わす訳です。

そこで、この祈りを概観すると、次のようになります。

- (神への信頼の表明、3節)神は、私が苦難の中にある時、私の叫びに答え、私の声を聞いて下さる方である。

- (絶望的状況、4~5節前半)神は私を海に投げ込まれた。私は沈んでいく。私は神の御前から追放されたのだ。

- (希望の表明、5節後半)しかし、私は再び聖なる神殿を見ることになろう。

- (絶望的状況、6~7節前半)大水が喉に達しようとする。深淵に飲み込まれ、水草が頭に絡みついた。私は地の底まで沈んでしまった。

- (信頼の表明、7節後半)しかし、あなたは私を陰府から引き上げて下さる。- (絶体絶命の状況の中での信頼の表明、8節)息絶えようとする時、私は主の御名を唱えた(זכר主のことを考えた、思い出した)。私の祈りはあなたに届く。

- (信頼の表明、9~10節)偶像崇拝する者たちが神への忠誠を捨て去ろうとも、自分は神に誓ったことを果たし忠誠を貫くことに何の変更もない。この絶体絶命の状況にいてもそうである。なぜなら、救いは、主にこそあるからだ!

この後、神は大魚に命じてヨナを陸地に吐き出し、ヨナは助かります。私たちも、危機的な状況、絶体絶命の状況に陥ったら、このように祈りましょう。神に対して、自分がどんな苦しい状況に置かれているか報告すると同時に、神を信頼していることも表明します。ところで、ヨナの場合は奇跡的に助かりましたが、もし奇跡が起きず助からなかったら、祈りは無駄になるのでしょうか?そうではありません。実はこの祈りは、死からの復活の祈りでもあることに注意しましょう。7節で神は滅びの穴から引き上げて下さる、と言われますが、「滅びの穴」(שחת)は陰府と同義語です。ヨナは死ななかったので陰府には行きませんでしたが、イエス様は十字架の死の後、復活されるまで陰府に下りました。本当に死なれたのです。そして本当に死から復活されたのです。イエス様はこのことを「ヨナの印」と言っていました(マタイ16章4節)。

このように、ヨナの祈りは、生きて助かる場合もあれば、この世から死んでも復活して助かる場合もあります。だから、ヨナのように祈ること、つまり苦しい状況を神に報告しつつ信頼も表明する祈り、これをすれば、場合によってはヨナのように生還するかもしれないし、場合によっては死から復活して神の御許に引き上げてもらえるかもしれないが、どちらかが必ず起こるのです。

 最後に、ヨナのような祈りをする時、「救いは、主にこそある」と言ったら、「イエス様の御名を通して祈ります。アーメン」で結ぶべきと考えます。ヨナの時は、まだイエス様が来られる前の時代なので御名に依拠することはないですが、十字架と復活の出来事の後は、人間はイエス様を通して天地創造の神と向き合えるようになったのですから、御名を付け加えるべきでしょう。このような祈りは、祈る人が死を踏み越えて行ける祈りになるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン


主日礼拝説教 2016年11月6日(全聖徒主日)

 ヨナ2章1~10節、第一コリント15章50~58節、ヨハネ16章25~33節

説教「『信仰浄化』としての宗教改革」神学博士 吉村博明 宣教師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.宗教改革をどのように考えたらよいか?

 本日はキリスト教会のカレンダーでは聖霊降臨後第24主日と定められている日ですが、ルター派教会のなかでは宗教改革主日とも定められています。今から499年前の1517年、ドイツ東部の地方都市ヴィッテンベルグの大学の神学教授であったM.ルターが当時のカトリック教会のあり方に疑問を呈して公開討論を求めて95箇条の論点を公表、これがきっかけとなって、その後「宗教改革」と呼ばれる世界史的な出来事に発展していきました。論点を公表した日がその年の10月31日だったため、その日に近い主日が宗教改革主日に定められているわけです。よく言われるようにルターが95箇条の論点の紙を本当にヴィッテンベルグの教会の扉にくぎ打ちしたのかどうかは、歴史的事実として確定されていないようです。ルターの肖像画を描いたことで有名なルーカス・クラナハという画家がおりますが、今ちょうど上野の国立美術館で展覧会をやっております。彼のルターの肖像画はどれをみても自信満々というか、ふてぶてしい顔つきをしていて、この男ならくぎ打ちくらいやったのではないかと思わせます。今手元にフィンランドの聖書日課がありますが、その表紙はクラナハが描いたルターの肖像画です。こんな顔です。いずれにしても、少なくとも10月31日の日付で95箇条を大司教宛てに送付していますので、この日が宗教改革の発端というのは間違いないでしょう。来年は500年を迎えることになります。

ルターが問題として提起したことは、世界史の教科書にも出て来るのでよく知られていますが、当時のカトリック教会が実施していた、いわゆる免罪符、難しい言葉で言えば贖宥状の制度でした。お金を出してこれを購入すれば犯した罪に対する神の罰を免れるというものです。しかし、問題は免罪符という一つの制度の是非にとどまりませんでした。論争は、そのようなものを生み出した教会の聖書の理解とか罪や救いについての考え方、教会や教皇の権威についての考え方、さらにはそうしたもの全ての土台にある神学や哲学という根本的なところにまで広がりました。さらに、ルターを支持するか反対するかということが単なる神学的な意見の相違に留まらず、当時のドイツやヨーロッパの社会や政治状況とも絡み合って、ヨーロッパ全体を揺るがす宗教、思想、政治、社会に及ぶ大変動が起こったのであります。

その結果、ヨーロッパのキリスト教世界がカトリック教会の一枚岩ではなくなり分裂していきました。ヨーロッパのキリスト教世界は既に11世紀までに、西方教会と呼ばれるカトリック教会と、東方教会と呼ばれ後のギリシャ正教、ロシア正教になっていく教会が東西二つに分裂していました。それが今度は西のカトリック教会内部で分裂が起こったのです。ルターが95箇条の論点を掲げてから100年以内には、地域的に大ざっぱにみて北部ヨーロッパはルター派、中南部はカトリック、イングランドは英国国教会、オランダや中部ヨーロッパの一部はカルヴァンの宗教改革に由来する改革派教会に色分けされ、その他に再洗礼派と呼ばれる教会が各地に点在するという状況になりました。

ヨーロッパ全体を揺るがす宗教、思想、政治、社会に及ぶ大変動が起きたと言う時、それぞれの領域でどんな変動が起こったかを話すことは西洋史の専門家に任せなければなりません。ここでは一つだけ、宗教改革の後世に対する影響の中で洋の東西を問わず重要な意味を持つものについて述べてみたいと思います。ルターは、当時の神聖ローマ帝国の帝国議会に召喚され、居並ぶ権力者たちの前で自説を撤回するように求められました。その時ルターは、自分の良心は神の御言葉に結びつけられている、神の御言葉に照らして明らかに間違っているのならば話はわかるが、そうでない以上は撤回などできない、と言って拒否しました。その結果、ルターは国内での法律上の一切の権利や保護を失います。このように、人間には権力者が曲げようとしても曲げられないものがある、それがたとえ命を失う危険を伴ってもやはり曲げられない、そういう崇高なものがある、ということをルターは身をもって示しました。この事件がもととなって後に「良心の自由」と呼ばれる人権の一つの要が出てくるのです。

 このように「宗教改革」と呼ばれる出来事は、宗教以外の領域にも大変動をもたらしたのですが、宗教の領域に限ってみて、どんな改革だったかを考えてみます。「宗教改革」は英語、ドイツ語、スカンジナヴィアの言語ではみな同じ言い方をします。Reformationです。フィンランド語では一風変わっていてuskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方がされます。Reformationという言葉をみてみますと、formation「形作ること、形成すること」に「し直す」の意味を持つreがつきます。「形作り直すこと、形成し直すこと」です。

それではキリスト教の何をどう形作り直す、形成し直すのかというと、以下のようなことです。カトリック教会はもともとは使徒的な信仰を守り受け継ぐ教会として出発しました。ところが時代の変遷と共に聖書に基づくとは言えない制度や慣行も生み出されて伝統化していき、免罪符はその最たるものでした。ルターが行おうとした改革運動は、そういう聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てて、ただ神の御言葉である聖書のみに権威を認めて、その下に教会を成り立たせようとするものでした。これがキリスト教とその教会を形作り直す、形成し直す、ということです。フィンランド語で宗教改革を「信仰浄化」というのは、まさに神の御言葉にのみ権威を認めて、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていくという面を前面に出していると言えます。

一般には「改革」という言葉は、過去の古いものをやめて新しいものにとって替えて時代の要請に応えられるようにするという理解がされると思います。日本語で行政「改革」とか教育制度「改革」という時、それを英語に直すとreformを使います。そういう政治的社会的な「改革」は、reformationを使わずにreformを使うのです。ところが宗教「改革」はreformではなく、reformationです。注意が必要です。日本語で同じ「改革」という言葉を使うからと言って、政治的社会的な改革と同じように考えてはいけません。ルターの行った宗教改革とは、ただ単に過去の古いものをやめて新しくして時代の要請に応えたというような改革ではなかったのです。前にもみましたように、ルターの場合は、まず聖書という過去に成立した根源的な権威に立ち返り、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていく、そのようにして聖書の権威に立ち返ろうとする時にそれを邪魔するものを打ち破っていく、その結果として時代の行き詰まり状況を打ち破って新しい地平線が開けた、これがルターの改革の本質ではないかと思います。このように宗教改革は「改革」とは言いつつも、根源的な権威に立ち返るという方向性があります。ルターは聖書を研究する際には新約聖書はギリシャ語、旧約聖書はヘブライ語の旧約聖書を用いましたが、根源的な権威に立ち返ろうとすれば原語にあたろうとするのは当然のことでしょう。そういうわけで、もしキリスト教会が人間の編み出したものに縛られ出した時には、使徒的な信仰を守りギリシャ語とヘブライ語の聖書に依拠する者は宗教改革を起こせる可能性を持っていると言うことができます。

 

2.ヨシア王の「信仰浄化」

 以上、少し長くなりましたが、宗教改革というものをどのように考えたらよいかということを述べました。本日の聖句の解き明しに入ろうと思います。本日の旧約聖書と福音書の日課をみますと、双方ともそれぞれの仕方で「信仰浄化」が面がみられ、ある意味で宗教改革的な出来事と言えます。

まず、旧約聖書の日課はユダ王国のヨシア王の時代の出来事です。イエス様の時代より約650年前、私たちの時代から約2650年前のことです。ちなみに宗教改革は、イエス様の時代から約1500年くらい後に起きました。ダビデ王、ソロモン王のイスラエル王国が南北に分裂して出来た北王国がアッシリア帝国に滅ばされて100年位たっていました。南のユダ王国は信仰ある王ヒゼキヤのもとでアッシリア帝国の攻撃を防ぎましたが、その次のマナセ王が天地創造の神を離れて異教の神々を崇拝し出し、国は宗教的にも政治的社会的にも神の意思に反することばかりとなってしまいました。このマナセ王の大罪のゆえに神はユダ王国も見捨てると決定しました(列王記下23章26節、24章3節)。どのように見捨てるかと言うと、アッシリア帝国の後に興ったバビロン帝国を罰を下す手段にして、これにユダ王国を滅ぼさせるというものでした。この罰はマナセ王の100年程あとに実現します。ユダ王国は滅ぼされ、その主だった人たちは捕虜としてバビロンに連行されました。これは歴史上、実際に起きた事件です。

さてマナセ王の大罪ですが、その次のアモン王も偶像崇拝をやめませんでした。ところが、その次に王位を継いだヨシアは祖父と父親の偶像崇拝に倣おうとせず、天地創造の神に立ち返ろうとしました。ある日、エルサレムの神殿の改修工事に携わる者たちの給与問題を解決するために書記官シャファンが神殿に派遣されました。神殿の大祭司ヒルキヤが神の律法の書物を発見したと言って、それをシャファンに渡します。律法の書物とは、モーセ五書の原型のようなものだったと考えられます。シャファンはそれを持ち帰って、ヨシア王に読み聞かせました。王は大変な衝撃を受けました。そこに書いてあったのは、天地創造の時から最初の人間の堕罪、そこからアブラハムをはじめとする家父長たちの出来事、さらにイスラエルの民のエジプト脱出からカナンの地への移住の出来事ですが、それはただ単に歴史の流れの記録ではなく、いたるところに神の意思と掟が詳しく記されていました。ヨシア王は、神に選ばれた筈のイスラエルの民がどれだけ神の意思に反してきたか思い知らされました。しかも書物には、神の意思や掟に反すれば何が起きるかについてもちゃんと記されていました。神の罰としてイスラエルの民が他国に滅ぼされて強制連行されてしまうということです(申命記28章)。

 ヨシア王は家臣を女預言者フルダのもとに送って、神の罰を避けるために何をなすべきか、ということについて神の意思を尋ねさせます。残念ながらユダ王国に降りかかる災難は変更されないことが明らかになってしまいました。ただヨシア王が神に立ち返る心を持ったことは受け入れられて、災難はヨシア王の時代には起こらないことになった。これが、ヨシア王が神からかけてもらった憐れみでした。

ヨシア王は、ユダ王国の運命はもう変えられないとは知りつつも、それはそれとして、やらねばならないことは結末がどうであれやらねばならないこととして、偶像廃棄の大改革を始めます。それは本日の日課の後の23章に記されています。そこを読んで驚かされるのは、ユダ王国全土にはいかに異教の神を祀ったり生け贄を捧げる場所が沢山あったかということです。そればかりではありません。エルサレムの神殿にも異教の神々の偶像が設置されていたのです。アシェラ像というのが何回も出て来ますが、これはカナンの地の神バールの妻の女神で農作物に豊作をもたらす神として信仰されていました。イスラエルの民がカナンの地に入った時は牛や羊を引き連れる牧畜の民でしたが、定住が進んで農耕を始めると、このカナンの豊穣の神が身近に感じられるようになったと思われます。列王記下23章にもあるように、アシェラ女神崇拝には神殿男娼もつきものだったというから、おぞましい限りです。そのようなものが国中に蔓延していたのです。ヨシア王はこれらを次々と破壊し、ユダ王国を天地創造の神に立ち返らせようとしました。しかしながら、このヨシア王の宗教改革は一代限りでした。ヨシア王の後を継いだ王たちは皆また偶像崇拝に戻ってしまいます。

このようにヨシア王は、根源的な律法に立ち返って国や社会を天地創造の神の意思に沿うものに戻そうとして、偶像という人間が編み出した被造物の崇拝対象を廃棄しようとしました。この意味でヨシア王は信仰の浄化に努めたということができます。しかし、それでも神が既に定めた国や民族の運命を変えることはできませんでした。神が王に憐れみをかけたのは、せいぜい王が自分の国の滅亡を目にしないで、それが起きるのは王がこの世を立ち去った後になるということでした。それでは、なぜ神はかける憐れみをもう少し大きくして民全体に対する罰を撤回するところまで行かなかったのでしょうか?神は、マナセ王の大罪がイスラエルの民の運命を決した、ということに固執するかのようです。ヨシア王のように律法に徹底して立ち返るということをしても、せいぜい災難の時期を後ろにずらすだけでした。一度燃え上がった神の怒りは、律法の掟を一生懸命守っても静められないのです。これは、人間は律法の掟を守ることによって神に「よし(義)」と認められないし、救いも受けられないということを示しています。人間が神に「よし(義)」と認められて救いを受けられるためには、神のひとり子イエス様がこの世に送られるのを待たなければなりませんでした。

ところで、イスラエルの民は罰が確定されてしまい、バビロン捕囚に陥りますが、まさにその捕囚の時に人間の救いの道筋が示されるということが起こりました。ダニエルの出来事と預言がそれです。バビロン捕囚が起きたからこそ、ダニエルが登場して、彼が異教の王たちの前で行った力強い信仰告白を私たちは聞くことができます。また「人の子」と呼ばれる救世主の到来や死からの復活が起きるという預言もダニエルを通して聞くことができます。神の罰としてのバビロン捕囚が起きなかったならば、ダニエルの信仰告白も預言も生まれなかったのです。

そういうわけで、神はダニエルを通して救世主の到来や死からの復活について人間に伝えさせるために、バビロン捕囚を実行したとさえ言えます。このように神の歴史運営というのは、一見して人間の救いにとって無意味に見える出来事を用いて意味あるものに変えるということもされるのです。本当に人智を超えた全知全能の神ならではの業です。ダニエルの他にも、神は自分が罰したイスラエルの民を見捨ててはいないことを示すために、今度はペルシア帝国にバビロン帝国を滅ぼさせて民がユダの地に帰還できるようにする憐れみを示します。これは出来事が起きる前にイザヤ書などの預言書にて預言され、実際に実現したのです。

 

3.イエス様の「信仰浄化」

 次に福音書の日課は、エルサレムに乗り込んだイエス様が神殿で商売をしていた者たちを荒々しく追い出すという出来事です。これは一見すると、イエス様は神殿から商売とか金銭のようなものを排除して、神の崇拝を清らかなものにしようとしているように見えます。しかし、実はそうではありません。神殿での崇拝を清めようとしているのではなく、神殿での神の崇拝自体を止めさせようとしているのです。それがわかるために、神殿で行われていた商売は、実は神殿での崇拝をスムーズにするためのものだったことに注意しましょう。商売人たちは、ただ単に金儲けのために売っていたのではないのです。エルサレムの神殿にお参りに来る人たちは、地中海世界各地のユダヤ人であったり、多神教的なギリシャ人、ローマ人だったりしました。彼らのお参りの便宜を図るために、両替をしたり、神殿に捧げる犠牲の生け贄の動物を売っていたのです。まさに神殿での崇拝の運営をスムーズにさせるものでした。

神殿から商売人を追い出したイエス様の意図は、神殿で動物の生け贄を捧げて罪を赦されるという崇拝の形式はもう歴史的使命を果たしたということを表明する行為だったのです。神から罪を赦されるためには神殿で生け贄を捧げることを毎年繰り返さなければなりませんでした。もうすぐ罪の赦しのために一回限りですむ犠牲の生け贄が供される。神と人間の間に何か決定的なことが起きる。その一回限りの犠牲の生け贄がイエス様だったのです。これから罪の赦しのために捧げられる生け贄は、毎年繰り返して捧げるような効力が一時的なものではない。一回限りの犠牲で十分というくらい永久保証が効いています。それくらい神によしと認められる神聖な犠牲が捧げられる。捧げられた後は、今やっている神殿での崇拝はもう用を足さなくなるというくらい神聖な犠牲が。

そもそも神殿で罪の赦しを得る崇拝が行われてきたのは、将来の本番に備える予行練習のようなもので、本番とはイエス様がゴルゴタの丘の十字架にかけられて自分を犠牲に捧げた時のことでした。本番が成し遂げられて、もう予行練習は必要なくなりました。それでイエス様は、今ある神殿を壊してみよ、自分は三日後にそれを立て直す、と言われたのです。壊してみよ、というのは、もう動物の生け贄のような身代わりになるものを捧げて自分の罪の赦しを得ようとするやり方は終わったのだ、神殿は歴史的使命を果たしたのだ、ということです。三日後に立て直す、というのは、十字架の上で死んだイエス様が今度は神の力で三日後に復活させられることを指します。ユダヤ人たちは、このメタファーを理解せず、文字通りに受け取って少し滑稽ですが、復活させられたイエス様が私たちを罪の支配状態から解放して下さる、その意味でイエス様がまことにもって神殿の機能を果たすのです。

神から罪の赦しを得られて、罪の支配状態から解放されるには、神のひとり子の神聖な犠牲で十分でした。そのひとり子を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それで神から受ける罪の赦しは効力を持ち、その人は罪の支配状態から解放され、堕罪の時以来失われていた神との結びつきを回復させることができます。これらのことは、本当に神のひとり子の犠牲で十分なのです。あとのことは罪の赦しに関係のない余計なことです。神に認められようとして人間が自分で何かをしようとするのは余計なことです。何度でも申しますが、イエス様が全部して下さったので、人間が神との結びつきを持って生きられるためには、イエス様の犠牲を受け入れて、彼を救い主と信じれば、それで十分なのです。その他のことは余計なことですので、排除されるべきものです。ここに文字通り信仰浄化があります。

イエス様の十字架での死とは人間の罪をすべて償うために捧げられた犠牲なのだ、とわかり、それでイエス様は私が神の罰を受けないですむようにして下さったのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、本当にその人にとって罪の償いがその通りになります。それでその人は神の罰を免れるようになり、永遠の滅びに陥らないようになって永遠の命を持てるようになり、罪と死の支配状態から解放されます。イエス様が十字架の上で流した血を代償にして、私たち信仰者は罪と死の支配状態から買い戻されて自由の身にされました。もう何も恐れるものはありません。確かに、周囲には怖いものがあるかもしれませんが、神にこれだけ目をかけられ愛されていることがわかれば、その怖いものは一体何であろう。そうしたものはあなたにとって神でもなんでもありません。あなたの神は、ひとり子イエス様をあなたに贈られた方以外にはいません。それをいつも自分に言い聞かせるべきです。

ところで、洗礼を受けて罪と死の支配状態から解放されたと言っても、罪の思いを持ってしまうことはあるし、場合によっては罪が行為にまで現れてしまうこともあるかもしれません。しかし、その時はすぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けるべきです。あなたの罪はあのお方の肩の上に重々しく圧し掛かっている。あなたの肩には圧し掛かっていない。そのように神は罪を移動させて下さった。神に赦しを乞えば、神は、ひとり子の犠牲の死に免じて赦してあげよう、と言ってすぐ赦して下さり、もう罪を犯さないように、と優しく言って下さる。このようにイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、罪の力、永遠の命に入らせないようにする死の力は無力化しているのです。

 こうして神の愛がどのようなものかがわかって神への感謝の気持ちに満たされたあなたは、神がおっしゃられるように、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、という心になっていきます。それが、本日の使徒書の日課にある「愛の実践を伴う信仰」(ガラテア5章6節)ということです。ギリシャ語の原文では「愛を通じて作用する信仰」、少し言い過ぎになるかもしれませんが、「愛を通して生きたものになる信仰」です。イエス様を救い主と信じる信仰から愛が始まって、その愛が信仰を生きたものにします。このように信仰と愛はしっかり結びついています。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2016年10月30日の聖書日課
列王記下22章8-20節、ガラテア5章1-6節、ヨハネ2章13-22節