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主日礼拝説教2018年9月23日 聖霊降臨後第十八主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っているイエス様の有名な教えです。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8章34ー37節)
これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。そうすると、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、これとどう結びつくでしょうか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?さらに、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?そうすると、最初に言っていること、イエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負え、というのは、殉教の道を進めと言っているように聞こえてきます。一方で、命は地球より重いなどと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのOKというのは矛盾しているのではないか?
聖書を読むと、一つのまとまった個所の中にある個々の教えはそれぞれ理解や納得できるが、その個所全体でみると矛盾だらけでどう繋がるのか?と思わせることがあります。今日の個所の場合、どうしたらよいでしょうか?せっかくイエス様が教えたことだからどれも大事ということで、全体を見ないで個々バラバラで見ることに徹するのが一つのやり方かもしれません。例えば、命の大切さを教える時、イエス様が命は地球より重いとおっしゃていることだけを見て、自分を捨てて十字架を背負えとか福音のために命を失えと言っているところには目をつぶる。また、イエス様が殉教の覚悟を説いておられると言う時は、命の大切さの教えには目をつぶる。必要に応じてある箇所をクローズアップして、それに合わない個所は脇に置いておく。そういうやり方しかないのか?全体を通して意味が通るということはないのか?果たして本日の福音書の個所は、全体を見ると矛盾があるのかどうか、少しじっくり見てみましょう。
本日の福音書の箇所は命についての教えだけではありませんでした。命のことは34節から38節までですが、本日の個所はその前もあって27節から33節はイエス様とは何者かということが述べられています。この両方を合わせて全体を見て、筋が通るかどうか見ようというのですから、大変です。
さて、このマルコ8章27ー38節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でその地方の「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させます。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点です。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。
それでは本日の箇所の前半、8章27節から33節までを見ていきましょう。まずイエス様は、人々は彼のことを何者と考えているか、という質問をします。人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが弟子たちの答えから明らかになりました。それに対して、ペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで注意しなければならないのは、「メシア」とは何者かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。それならイエス様はなぜメシアである自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?また、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてそんなに怒ったのか?以下そうした疑問に答えていきましょう。
まず初めに「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれて聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束に基づき(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を指すようになります。(それ以外の使い方もあります。イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照。)
紀元前6世紀にユダヤ民族の王国は滅びますが、その後、ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王メシアが現れるという期待が高まります。これがイエス様の時代に近づくと、メシアとはこの世の終わりに現れてユダヤ民族の解放だけでなく全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらない、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。
ヘブライ語のメシアという言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとは、これはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名にくっつけたということです。
話が脇道に逸れましたが、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちにそのことを誰にも話すなと命じますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前で無数の奇跡の業も行い、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人たちを運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。
実は、イエス様が「誰にも話さないように」と命じたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるでしょうか?イエス様とは本当は、神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた方です。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人間救済計画の矮小化です。それだけではありません。当時イスラエルの地を占領していたローマ帝国は王国復興を企てる反乱者にはいつも神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたし、福音書に記録されているような出来事は起きなかったでしょう。
それから、ペトロのメシア理解もおそらく、民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。だから、イエス様が迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、ペトロは王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのでしょう。
それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないでしょうか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同じになってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。
ここで、この神の計画というものについて少しおさらいをしましょう。キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯し、罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。
このため神は、人間が神との結びつきを回復してその結びつきの中で生きられるようにしよう、たとえこの世から死ぬことになってもその時は造り主である自分のところに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この救いの計画はいかにして実現されたでしょうか?罪が人間の内に入り込んで、神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪を除去しなければならない。しかし、それは人間の力では不可能なことでした。マルコ7章の初めにイエス様と宗教指導層の間の有名な論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争です。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世で神と結びつきを持って生きることも、神のもとに戻ることもできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、人間が神に対して負っている罪という負債を全部ひとり子に背負わせて、罪の罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせる。まさに、ひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦す、というものでした。その時人間の方が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうすることで人間は神から罪の赦しを受け取ることができるようになりました。神から罪の赦しを得られたということは、神との結びつきが回復したことです。そうして人間は神との結びつきの中でこの世を生きられるようになり、順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られるようになり、万が一この世から死んでも、その時は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのです。
人間は洗礼を受けることで、まだ罪を内に持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。この衣にしっかり包まれて自分から手放さない限り、神は私たちをイエス様の清さを持つ者とみて下さり、内にある罪には目を留められません。このようなやり方で結びつきを回復し保って下さる神に驚きと感謝の気持ちが生まれます。罪が内にあるのにもかかわらず、清いものと見て下さることに気恥ずかしさと畏れ多さを感じます。まさにここから、このような神の意志に沿うように生きなくてはという心が生まれます。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するがごとく愛するという心です。今月の使徒書の日課はヤコブ書ですが、神から罪の赦しを受けた者がすべき隣人愛について教えています。先週は、怒りに身を任せるなとか、舌を制して言葉を選べとかありました。本日の個所では、キリスト信仰者の間では立場や地位で人を区別するなということを教えています。金持ちの信仰者を優遇し、貧しい信仰者を軽く扱うことはしてはいけない、皆同じ扱いにしなければならない、ということです。人間誰でも、貧しい人は自分に何の益ももたらさないが、金持ちや地位ある人はひょっとしたら、という気になります。キリスト信仰にあっては、相手が益をもたらすかもたらさないか一切見ないで同じように親切にしなさいということです。金持ちや地位ある信仰者も、自分になされる親切さが貧しい人に対するものと同じであることを不満に思ってはいけない、それは当たり前のことと思わなければならないということです。
ここで注意しなければならないことは、怒りに身を任せないとか、舌を制するとか、皆同じ扱いであることを受け入れるとか、他の隣人愛の例も含めて、それらは頑張って気合を入れて達成して、神様やりました!と、まるで神に認めてもらうために頑張るものではないということです。そうではなくて、自分には神の意志に反することが沢山あって、それは本当はいつの日か神の御前に立たされて咎められる根拠になる、そういうものがあるにもかかわらず、神はイエス様の犠牲に免じて咎めないと言って下さる。イエス様の白い衣を纏っている者として見て下さる。本当の自分とはかけ離れているが、そのかけ離れた方が本当の自分であるとおっしゃってくれている。それなら、これからはそれに合わせるように生きていかなくては。被さられた白い衣にふさわしい生き方をしなくては。キリスト信仰にあっては、隣人愛とはこのように神の罪の赦しを受けた後に生じてくる実のようなものなのです。赦しを受けるために、神に目をかけてもらうためにする業績ではないのです。赦しは既に受けているのです。
気合を入れて達成するぞ、というものではなく、生じてくる実のようなものですので、一つ一つこなしていくような時間をかけて成長するようなことになります。これは、ルターが言うように、キリスト信仰者のこの世の人生というものは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結び付く古い人を日々死なせていくプロセスであるということです。怒りに身を任せてしまうこと、舌を制することができないこと、地位や立場で人を選別し、自分もそれを期待すること等などを満載している肉に結び付く古い人、これを神から頂いた罪の赦しとイエス様の白い衣を重しにして、押しつぶしていくプロセスです。一回つぶしてもまた出てきたらまたつぶすという繰り返しです。このプロセスは、信仰者がこの世を去って肉の体を脱ぎ捨てて復活の日に復活の体を着せられる時に終わります。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者はその時完全なキリスト信仰者になるのです。
以上、神の救いの計画について述べてまいりました。本日の福音書の個所に戻りましょう。イエス様の弟子たちは、彼にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒し、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する、そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、起きたことは実はユダヤ民族を超えて全人類にとって重大なことだったのだ、旧約聖書にあった一民族の解放を言っているように見えた預言は実は全人類の救いを言っていたのだとわかったのです。
以上がマルコ8章27節から33節の内容でした。神の人間救済計画の全容が明らかになりました。誠に壮大な内容です。神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ8章34節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。
それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみていきましょう。
まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪の負債を全部請け負って、罪の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。
それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど申しました、キリスト信仰者の人生は、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスであるということを思い出しましょう。
「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていく、神の霊に結びついた新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。捨てるのは古い自分です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。プロセスですので、この世を去るまでは捨て続けます。「自分を捨てる」と言うと、なにか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえたり、逆に自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえたりするかもしれません。そのいずれでもありません。そうではなくて、神が与える罪の赦しに包まれて、さらに包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて古い人が衰えて新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てることです。
そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架とは、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違ってくるでしょう。職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが鈍くなるかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点ではみな同じです。
さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(下注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言いました。ここの「命を失ったら」の「失う」と、その前の35節で「命を失う」と二度出てくる「失う」ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う動詞を使っています(35節はαπολλυμι、36節はζημιοω)。36節の動詞(ζημιοω)の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、辞書によっては、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意するものもあるくらいです。「失う」と訳したら、ここのイエス様の教えは、命は地球より重し、になります。「傷がついている、欠陥がある」と訳したら、どうなるでしょうか?
先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら、神との結びつきに生きて神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかということに関係することがわかってきます。以下、35節から先を整理してみます。
35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」解説的に言い換えるとこうなります。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、神のもとに戻る道を歩んでいない。この世の人生が終わったら全て終わりになる。神のもとに戻る道を歩んでいる者は、この世の人生が終わったら新しい人生が待っている。イエス様を救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえ信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいたからだ。」ここで殉教の可能性が出ますが、そんな極限状況に至らなくても、罪の赦しの福音に立って生きていれば、永遠の命を先取りしているわけだから、その意味で今の命は失っていると言ってもよいでしょう。
36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら(傷がついていたら)、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように解説的に言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりに生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手中に収めても何の得があろうか?この世の人生が終わったら全て終わりではないか?死を超えた永遠の命を望んでも、世界中の富を差し出しても永遠の命を買い取ることなどはできないのだ。」
詩篇49篇8ー9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。命は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることもできません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられたのです!神のひとり子イエス・キリストが犠牲の生け贄となって十字架の上で流した血が全世界の総資産をはるかに上回る代価、身代金になったのです。それをもって、人間を罪の支配から解放し、私たちの造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。
それですから、兄弟姉妹の皆さん、神はこれだけのことをして下さった方であることを忘れないようにしましょう。そして、私たちがイエス様により頼みながら古い人を日々死なせ新しい人を日々育てていくとき、神は私たちをいつも守り導き助け出してくださることを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(下注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)
今年の夏フィンランドに滞在していて、日本のニュースが今までになく多かったことに驚かされました。ニュースというのはどれも自然災害に関するもので、西日本を襲った豪雨洪水や台風、酷暑、それに北海道の地震など、これらは皆様に身近なものだったので、ここで改めて話する必要はないでしょう。滞在先で近所の人たちから、テレビのニュース見たけど君には被災地に親せきや友人はいるのか?と心配の声を何度もかけられました。この場にても被害に遭われた方々、被災された方々に心からお見舞いの気持ちでいることをお伝えしたく思います。
7年前の東日本大震災の時もそうでしたが、こういうことがあると、キリスト教の神と結びつけていろんな疑問が起こります。例えば、なぜ神はこのような災害をくい止めなかったのか?全能の神などと言いながら、本当は力がないのではないか?また、神は我々が悪いことをしたことに罰を下したというのか?それでは、我々はどんな悪いことをしたというのか?こんな被害を被るに相応しい悪をしたというのか?神は憐れみ深い方などと言いながら、本当は血も涙もない存在ではないか?大体そういった疑問です。
ここで、人間に起こる不幸について、特に自然災害がもたらす不幸について、それが果たして神が残酷な心で引き起こすものか、それとも力不足で阻止できないのかどうかについて考えてみましょう。不幸には人間の愚かさがもとで起こるものもありますが、ここでは人間の出来、不出来がもとで起こるのではない自然災害について考えます。
聖書によれば、神は天と地とその間にあるものを含めた一切のもの、まさに万物を造られた創造主です。この万物の中には沢山の法則が働いています。例えば、重力や引力が働いているので私たちはみな地上に足をつけて立っていられるし、月も落ちてきません。光は1秒間に30万キロの速さで進みます。水は0度になると凍り、100度で沸騰します。神が創造した万物にはこういう法則が無数に働いているのです。神はまさにこういう法則が働くように万物を造ったと言ってもよく、これらの法則は万物を万物たらしめる法則なのです。そして大事なことですが、これらの法則は人間が頑張って変えようとしても変えられるものではなく、人間はこれらの法則を超えられないように造られているのです。
そういうわけで、もし海底で二つのプレートがぶつかり潜り合って抑えつけられている方が抑えの限界に達すれば、元に戻ろうとする力が働くのは当然で、いつかは地震を引き起こします。重力その他の自然の法則が働く限り、それは必ず起きるのです。そう考えると、地震というのは、神が何か、ちょっとこの国民に痛い目をあわせてやろうかなどと、その時々の気分で引き起こすものではないことがわかります。神が創造した万物には、万物を万物たらしめている法則が働いていて、法則に見合った条件が全てそろうと地震は起きてしまうのです。条件がそろったにもかかわらず起きない場合は、神が自然法則に影響を及ぼしていることになり、奇跡ということになります。奇跡とは、イエス様が水の上を歩いたことからも明らかなように、自然法則を超えたところに起きます。それで、地震を消滅させたければ、重力その他物理的な法則を変えることができなければなりません。しかし、それは新しい自然法則を作るようなことで、神でもない私たち人間には不可能です。地震に絶対に遭遇したくないという人は、日本列島から出ていかなければなりません。
しかし、ここで生活すると決めた以上は、覚悟を決め、被害を最小限に食い止めるために最大限のことをしなければならない。万が一の時はどのように立ち振る舞うべきか学ばなければならない。地震だけでなく火山噴火や台風も同じです。これはこの列島に住む人なら誰でも共有していることでしょう。とは言え、覚悟を決める、とか、いつも備えていなければならない、というのは落ち着かないものです。あまりいい気はしません。でも、多くの人は日々の営みに心を注いで忘れてしまうかもしれません。あるいは忘れるために営みに集中するかもしれません。ところで日本列島は、温帯モンスーン地帯に位置することによる自然の豊かな恵みがあります。四季の移り変わりに色とりどりの花が伴います。これは、神の創造の中で働く自然法則の別の側面です。それを享受できることは人生を豊かにします。しかし、他方で人生を破壊する自然法則の働きもあります。
人生を豊かにするものと破壊するもの、どっちも確実にあるものです。日本列島で生活する限り、この二つを抱えて生きていかなければならない。豊かにするものだけを見て破壊には心を向けまいとすれば、破壊に遭遇したら全てがお終いになってしまいます。逆に破壊の方に心が向いて豊かにするものが見えなくなったら、生きる意味がなくなります。どのようにこの二つの相反するものを抱えて生きていったら良いのか?最近日本列島を襲った自然災害とこれから起こりうる災害のゆえに、そんなことを考えながら、本日の聖書の個所を読み直してみました。これが最適な抱え方だ、という明確な答えは見つからなかったのですが、こういう方向で考えたらいいのでは、というものは見えてきたと思います。以下それについてお話していきたいと思います。
本日の聖句の中で旧約聖書の日課イザヤ書35章3‐10節を中心に見ていきます。3節と4節「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪を報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」。ここで、天地創造の神からの励ましと力づけの言葉が述べられています。さてこの言葉は、人生を破壊するものを恐れる私たちを心を落ち着かせてくれるでしょうか?「敵を打ち、悪を報いる神が来られる」というのが新共同訳の訳ですが、ヘブライ語の原文は「悪に対する報いが来る、被った害に対する償いが来る」意味です。神がやって来て悪を叩き潰すということではなく、神が悪を叩き潰す時がやってくるということです。それがお前たちの救いだ、だからしっかりしろ、と言うわけです。この励ましはどうでしょうか?先ほど申し上げた、人生を豊かにするものと破壊するものを同時に抱えて生きる力を得るには少しかけ離れている感じがします。もう少しイザヤ書35章をみてみましょう。
5節と6節をみると、見えない人の目が開く、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる、口の利けなかった人が喜び歌う、と言っています。これはすぐイエス様が行った奇跡を業を指すとわかります。本日の福音書の個所でイエス様は、耳が聞こえず舌が回らずちゃんと話せない人を癒し、耳が聞こえ話ができるようにしました。目の見えない人が見えるようになる奇跡、歩けなかった人が躍り上がる奇跡は福音書の他の個所に記されています。
6節後半から7節までをみると、乾いた荒れ地が水の潤う大地に変化することが言われています。8節からは、その大地を通る「聖なる道」について言われます。「汚れた者」は入れない道ということですが、誰のことを指すのか?それは、そこを通る人が誰かわかれば、そうでない人のことを言っているのだとわかります。それでは、その道を通る人というのは誰か?9節「解き放たれた人々」、10節「主に贖われた人々」です。ヘブライ語の単語の意味は、両方とも「主に買い戻された人々」です。もちろん「解き放たれた」とか「贖われた」と訳しても同じ意味になります。肝心なことは、主つまり神はその人たちを何から買い戻したのか、何から贖ってくださったのか、何から解き放ってくださったのか、これがわかることです。このことは後に見ていきます。
そうすると道に入れない「汚れた者」とは神に買い戻されていない人を指すとわかります。8節に「愚か者がそこに迷いいることはない」とありますが、ヘブライ語原文を素直に訳すと「愚か者がその道から迷い出ることなない」です(フィンランド語の聖書もそう訳しています)。つまり、神に買い戻されて「聖なる道」を歩く人の中には何か至らない人もいるが、そんな人でも神に買い戻されている以上、その道から外れることはないということです。さらに、その道を通るとき、獅子も獣も襲ってこないというのは、道を通る者は危険から守られているということです。
「聖なる道」を進んだ者たちは、喜びに満ちてシオンに帰り着く、と言われます。シオンとはエルサレムの町を指します。さて、これは一体どういうことか?最初に神は励ましと力づけの言葉を述べ、その根拠に悪に対する報いと被った悪に対する償いの時が来ると言われる。そして、イエス様の行った奇跡の業が述べられ、荒れ地が水の潤う大地に変化し、そこに「聖なる道」が敷かれ、神に買い戻された人たちが危険から守られて、ゴールであるエルサレムに歓呼で迎えられて到着する。なんだか、日本列島にいる私たちにははあまり関係のない話に聞こえます。でも、果たしてそうでしょうか?ここで、このイザヤ書35章の聖句をイザヤ書全体の中でとらえてみます。
イザヤ書はとても重層的な書物です(旧約聖書の書物はみんなそうです)。イザヤ書は大きく分けて三つの部分にわけられ、まず1章から39章までが最初の部分です。ここには、紀元前700年代に活動した預言者イザヤの働きと彼が神から受けた言葉が記されています。イザヤの時代はユダヤ民族にとって一つの激動の時代で、民族は南北二つに分かれていましたが、双方とも天地創造の神の意志に背く生き方をして、その罰としてまず北側のイスラエル王国が大国アッシリアに滅ぼされる。続いて南のユダ王国にもアッシリアは攻撃をしかけますが、イザヤの伝える神の言葉にヒゼキア王が従い、敵の大軍は敗退するという奇跡的な事件が起こります。これが1章から39章までの内容です。本日の35章はここに含まれています。
次に40章から55章が来ます。場面は一変して、イザヤの時代から200年経った後の出来事が出てきます。200年の間に何があったかというと、イザヤの後もユダ王国はしばらく続きますが、やはり神の意志に背く生き方をし、これも罰として大国バビロンによって滅ぼされ、民の主だった者は異国の地に連行されます。「バビロン捕囚」と呼ばれる世界史の教科書にも出てくる事件です。民は半世紀以上バビロンの地で辛苦を味わいますが、そこで神は民の罪の償いは済んだとみなして祖国帰還を約束します。これは、実際にペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼしたことで実現します。イザヤ書40章から55章までは、この民の祖国帰還と希望に満ちた将来についての預言が中心になっています。
ところが最後の部分56章から66章になると、祖国帰還した民はまだ約束された理想の状態になっていないことが明らかになります。そして、理想の状態は、今ある天と地が終わりを告げて神がそれに代わって新しい天と地を創造する時に持ち越されるという考えが出てきます。
こうしたイザヤ書全体からみると、35章で言われていることは一見すると、イスラエルの民がバビロン捕囚を終えて解放されて祖国帰還する預言に見えます。神の報いと償いは、バビロン帝国の滅亡と民の祖国帰還と考えられます。民が喜びに満ちてシオン、つまりエルサレムに到着するというのはまさに帰還です。喜びに満ちて祖国帰還する者たちにとって歩む道のりは周りは荒れ地でも水の潤う大地のイメージがわくかもしれません。旅路の安全も、ペルシャ帝国の王が勅令を出して帰還を認めたのだから大丈夫ということかもしれません。しかし、目の見えない人の目が開き、耳の聞こえない人の耳が聞こえるようになる奇跡の出来事は祖国帰還の時にあったでしょうか?祖国帰還後の民の状態について63章17節は次のように述べています。「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか」という預言者の嘆きの言葉です。祖国帰還した民は実は道を迷い出てしまった状態にあり、目と耳だけでなく心も閉ざされてしまっていたのです。
ところが、イスラエルの民の祖国帰還から500年経った後、このイザヤ書35章の預言が祖国帰還の時とは異なる、真の実現につながる出来事が起こりました。イエス様の登場です。先にも申しましたように、イエス様は数多くの奇跡の業を行いましたが、35章に述べられている癒しの奇跡も行っています。本日の耳が聞こえず舌が回らず話が出来ない人を癒す時も、35章が土台にあることに気づきます。「エッファタ」というのは何か呪文みたいですが、これは呪文なんかではなく、イエス様の時代にイスラエルの地で話されていたアラム語という言語で、「お前は開かれた状態になれ」という意味の普通の命令文です。アラム語で「イップェター」אפתהと言います。これが、新約聖書がギリシャ語で書かれたため「エッファタ」εφφαθαとギリシャ文字で記されました。いずれにしてもイエス様の肉声に触れられる個所です。このイエス様の「開け」という命令文は、イザヤ書35章5節で耳が聞こえるようになることを「耳が開く」と言っていることに対応しています。
そこで、イエス様はその人を癒す時どうして指を耳に入れて、唾のついた指でその舌に触れたのか?これにはいろんな説明があると思いますが、イザヤ書35章に照らし合わせてみるとつながりが見えてくると思います。耳が聞こえないというのは、耳が閉じている状態と考えられたので、指を入れることでその人に開く状態を感じさせる。その後で「開け」と言って聞こえるようになったので、聞こえることはまさに耳の開いた状態だと感じとれます。唾をつけたことについてですが、イザヤ書35章6節のヘブライ語の原文をみると、「口の利けなかった人が喜び歌う。なぜなら荒れ野に水が湧いで荒れ地に川が流れるから」と、新共同訳にはありませんが「なぜなら」(כי-)と言っています。つまり、荒れ地が水で潤うことが口の利ける原因になっています。舌がまわらなかった人の口をイエス様が唾で潤したのだと考えることができます。どうして水を用いないのかという疑問も起きますが、その時の差し迫った状況を思い浮かべれば、それが潤す手っ取り早い手段だったということがわかります。
このようにイエス様の奇跡の業がイザヤ書35章の預言を実現したことがわかりましたが、それでも実現していないこともはっきりあります。それは、イエス様のシオン、つまりエルサレムの入城に関してです。確かにイエス様は弟子たちを大勢従えて、群衆の歓呼の中でエルサレムに到着しました。しかし、そこで待っていたのは十字架刑の受難でした。イザヤ書35章の終わりには、喜びと歓呼の中に到着した民から「嘆きと悲しみは消え去る」と言われています。それと反対のことが起こるのです。イエス様の出来事はまだ預言の一部分の実現にしかすぎず、全部の実現には至らなかったのでしょうか?
いいえ、そうではありません。実はイエス様はある意味で35章の預言を全部実現していたのです。どういうことでしょうか?
イエス様が十字架刑にかけられたのは、天地創造の神の計画に含まれていたものでした。神はひとり子であるイエス様をご自分のもとからこの地上に送られ、乙女マリアを通して人間として誕生させました。神の計画とは、創世記に記されている堕罪の出来事があったために神と人間の結びつきが失われてしまったことを回復させることでした。どうして結びつきが失われてしまったかというと、堕罪の時に人間に入り込んだ罪がそれを壊してしまったのです。神聖な神が罪を滅ぼそうとすると、それを持つ人間も滅ぼすことになります。人間には神との結びつきを回復してほしい、その中で生きてほしい、そう願った神は、人間の罪の問題の解決のために罪の罰をひとり子のイエス様に全部負わせ、彼の身代わりに免じて人間を赦すという挙に打って出たのです。それがイエス様の十字架の死だったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命のあることを示され、そこに至る道を整えて下さいました。
そこで人間は、イエス様の犠牲があったので神から罪を赦されるのだ、とわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じれば、神からの赦しはその人にその通りになります。このようにして神の赦しに包まれた人は、神との結びつきを回復してその中で生きることになります。神との結びつきを回復した人とは、まさに神が買い戻してくださった人です。何から買い戻したか?罪の支配からです。何をもって買い戻したか?神のひとり子が十字架で流した尊い血を代償にしてです。神は、ひとり子を犠牲に供してもいいというくらいに、私たちを大事な者と扱って下さったのです。
神との結びつきの中で生きるようになった人は、この神の愛に対して感謝で満たされ、神の意志に沿うように生きようと志向します。神がこの至らぬ自分にこれだけのことをして下さった以上、自分も隣人に対しては同じようにしようと志向します。本日の使徒書の日課ヤコブ1章では、そうした神への感謝から生じる隣人への立ち振る舞いとして、まず自分をまくしたてないで相手のことを聞いてあげること、怒りをすぐに表さず、舌を制御して言葉に気をつけることをあげています。これらを努力するにあたっては、神が自分にどんな恩恵を与えて下さったかをいつも思い出すようにします。
使徒パウロは、復讐は神に任せよ、悪に対しては悪ではなく善をもって応ぜよ、敵が飢えていたら食べさせよ(ローマ12章)と教えています。これは悪をのさばらせて良いということではありません。復讐は神のすることと言っていることから明らかです。神は最後の審判の時にこの世で起きた正義と不正義の貸し借りを清算して、正義を最終的に実現します。イザヤ書35章4節で言われている、悪に報いを、被った害には償いを、というのはまさに最後の審判を指します。
イザヤ書35章の最後の節で神に買い戻された人たちが歓呼と喜びの中でシオンに到着すると、「嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われます。使徒ヨハネは黙示録の終わりで、今の天と地に代わる新しい天と地が創造されること、その中で神に買い戻された人たちが復活させられ永遠の命を与えられること、そして神が「彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみ嘆きも労苦もない」(黙示録20章4節)ことが起きると予言しています。ここで、イザヤ書35章の民の到着の出来事というのはこの復活の出来事と新しい天と地の創造を指すことが明らかにされています。それではシオン‐エルサレムとは何なのか?それは、この地上にある町を意味しません。黙示録では「天上のエルサレム」と言っていて、新しい天と地の中に現れる神の国、神に買い戻された人たちが到達する国を意味します。そこに到着することを「帰り着く」と言っています。これは、堕罪の起きる前に人間が神のおられるところに一緒にいた、そこに戻ることを意味します。
そうすると、イザヤ書35章の預言は、イエス様が奇跡の業と十字架と復活の業で全て実現したことがわかります。イエス様が、神に買い戻された人たちが進む道、「聖なる道」を敷かれたのです。その道を進むと、せっかく回復した神との結びつきを失わせてやろうと、いろんな試練や反対する力が起こってきます。しかし、使徒パウロが教えるように「どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8章39節)ので、それらにはそんな力はないのです。神の愛にとどまる限り、神の御許に到達できる安全性は保証されているのです。
こうして、イエス様を救い主と信じて、神との結びつきを回復してこの世の人生を歩む者は、イエス様の敷かれた「聖なる道」を進みます。その道は、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと導きを得られる道です。万が一この世から去らなければならない時が来ても、復活の目覚めの時に御許に引き上げてもらえる道です。そこで喜びと歓呼をもって迎えられます。そして、忘れていけないことは、まだこの地上で道を進む時、周囲の素晴らしい自然大地を目にした時は、まさに創造の神の良い業として楽しんでいいということです。そのために神は人生を豊かにするものを造られたのですから。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、神に買い戻されてイエス様の敷かれた「聖なる道」を歩む私たちは、最終目的地までしっかり守られると神から安全を保証されていることを忘れないようにしましょう。そして、道すがら神が造られた人生を豊かにするものを楽しんでよいことも忘れないようにしましょう。
説教聖霊降臨後第16主日『異邦の女性の信仰』 2018年9月9日スオミ教会
マルコによる福音書7章24-30節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さまお一人お一人の上に、豊かにありますように アーメン
本日の聖書の物語は、シリア・フェニキア生まれの女性の訴える願いをイエスが受け入れられた美しいお話です。
群衆と別れてから、主イエスはティルスの地方に行かれました。ティルスはガリラヤの北西、地中海に面したところです。
そして「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれておりますように積極的なことがあって行ったのではないようです。何をしに主イエスがそのような遠方に出かけたのか不思議に思われます。
主イエスが外国に行かれたのは、実は、人々に後を追われることから逃れ、隠れるためだったようです。ふつう、評判がよくなると、自信がついて、色々のところに顔を出そうとしたりするのが世の常なのですが、主イエスは反対に、評判が良くなると、御自分の姿を隠しました。
誰にも知られたくないと思っておりましたのに、主イエスは人々に気づかれてしまいました。それほどに、主イエスの評判が高く、主イエスに癒してもらいたくて、後を追い求めてきた人が多かったのです。
このような人の中に、「7:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女」が、おりました。
主イエスが今までに、まだ一度も行ったことのなかったティルスやシドンの地方で、この病気の娘の母親がイエスに助けを求めて来たということは、すでにイエスの評判が、この地方にも行き渡っていたことを示しております。
「[MAR] 7:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」とありますが、この「すぐに」は、女の苦悩と切なる願いがこめられております。
彼女は、娘から悪霊を出して欲しいと懇願いたします。「足もとにひれ伏した」とありますから、この女は必死の思いでイエスのもとに来たに違いありません。
このように、イエスに癒していただきたいと主イエスに必死にすがりつく人はこれまでも沢山おりました。
しかし、これまでと違いますのは、この女が「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ」であると書かれている点です。彼女はイスラエルの人ではなく、異邦人、よその国の人です。場所も、これまでのようにガリラヤではなく、異邦人の地であるティルスでした。
このティルスの女は、彼女の幼い娘を治して欲しいということのために、ユダヤ人であるイエスの足元にひれ伏しました。異邦人がユダヤ人にひれ伏すということは本来あり得ないことです。カナン人は歴史的にも、ユダヤ人に対して激しい不信感を抱いておりました。そのユダヤ人であるイエスにひれ伏しました。もちろん、幼い娘を治してくれるのであればどのような人でも、という思いがあったからでしょう。
主イエスはこれまでに、多くの人を癒し、悪霊を追放してきました。人々は「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った」のです。すると、「触れた者は皆いやされた。」(6:56)とありますように、癒しを一生懸命求める人は、癒されました。
この母親も、そのような主イエスの評判を聞いて、わらにでもすがる思いで、主イエスのところに来たのに違いありません。
このシリア・フェニキヤの女は、「異邦人が信じた最初の実例」です。この女性はイエスの「足もとにひれ伏し」て、悪霊に取り付かれた娘を癒してくれるようにしきりに願います。
その母親が、主イエスに悪霊を追い出してくださいと頼んだところ、主イエスの返事は私たちが抱いている、主イエスのやさしいイメージとは違って、意外なものでした。
異邦人の女に向かって主イエスが語る言葉は次のような冷たい言葉です。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ここで言われる子供たちとは、ユダヤの人々のことであり、小犬とはユダヤ人以外の人々、つまり異邦人を指しています。これは明らかに拒絶のことばです。また、ここでの比喩では「パン」は救いを意味していることになります。
主イエスのおっしゃる意味は「まずイスラエルの人びとに十分に救いをもたらせるべきで、それを異邦人に与えるべきではない。」ということです。
主イエスは、従って、神の救いはイスラエルの人たちにもたらされるべきであって、異邦人に及ぶことを否定していることを言っているように聞こえます。
同じ話が記されているマタイによる福音書での平行箇所(15:24)をみますと、主イエスはこの女性に対して「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という具合に、もっとはっきりとした拒否の言葉が記されております。
このことは一見したところ、民族・人種の違いを根拠にした「差別」のように思われます。ユダヤ人は、自分たちを「選ばれた民」とし、それ以外のすべての国民・民族を「異邦人」と呼んではっきりと区別しました。いわゆる「選民意識」です。
主イエスの態度は一見しますと、そうした民族差別と似ているように思われます。しかし、実は微妙な違いがあります。
注目すべきことに、ユダヤ人が異邦人を犬とよんだのに対して、イエスは、小犬とよんだ点です。異邦人にくらべられるような、浮浪している野犬ではなく、村の飼い犬を指す小犬と言っております。
そして、小犬、飼い犬が、家の外にではなく、同じ家の中に子供たちと一緒に居るということを、イエスが言っておられる事が大切です。
そしてまた、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」と言っている点です。「まず」という言葉は意味深い言葉です。ここで「まず」と言っている以上、「その次には」という言葉が当然予測されるからです。
そこには、旧約聖書の民、イスラエルは「まず」大切にされるべき民族として、特別に位置づけております。そして、その後に続いて、救いがユダヤ人を越えて異邦人へと及んで行くことが暗示されております。
主イエスはその救いをもたらす働きを、「まず」契約の民であるユダヤ人の間で進めていきます。しかし、それは「やがて」、ユダヤ人の枠を超えて、異邦人世界へと及んでいくことが暗示されております。
主イエスの拒否に対して、このとき、この母親は実に機知に富んだ応答をいたします。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と申します。聞き方によっては差別の言葉として響く「子供たち」と「小犬」という比喩をそのまま使って、「小犬」は「子供たちの」パンを奪い取るのではなく、子供たちがこぼしたパン屑をもらうに過ぎないのだ、と言うのです。
それはこの女性にとって精一杯の嘆願でした。謙虚に、しかしひたむきに主イエスに向かって願います。イエスはその姿に心を動かされていきます。
女性はイエスの拒否にも屈せず、娘を愛し、癒してもらいたい一心から、きわめて機知に富む答えをいたしました。「イスラエル人が救われるのが、主イエスの第一の目的かもしれないが、少しのおこぼれくらい自分たちに与えて下っても良いでしょう、こぼれた分を食するのは、子供のパンを横取りすることにはなりません」、というわけです。女性は、神の救いがイスラエルという制限を越えて異邦にまで及ぶようにと願っております。
実は、主イエスは、異邦人全体に対しては消極的だったようです。それは自分の目の前にいるユダヤ人への働きかけを大切にしたからでしょう。にもかかわらず、主イエスは出会った異邦人の女の叫びにも心を閉ざすことをしませんでした。ここでも、主イエスにとって大切なのは、目の前の一人の人間なのだということです。
この女性は、主イエスが「イスラエルの失われた家の羊」のために「まず」遣わされていることを承認しつつ、それでもなお、その救いが異邦人にも及ぶことを、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」という言葉で言い表しております。ガリラヤにおいて主イエスがなさってきた、ユダヤ人に対する奇蹟が、自分の娘の上にも起こることを望んで、そのように語りました。そこには、謙遜な思いと大胆な期待があります。
主イエスは、この母親の答えの中に信仰を認めました。「それほど言うなら、よろしい。」と言う主イエスの言葉はそのことを示しております。
主イエスが拒否していた態度は、この女性のひたむきな姿(それを信仰といっても良いでしょう)、その姿によって変えられました。
主イエスは異邦人の女の中に、謙遜な、しかし忍耐強い信仰心を見出しました。
(先週の日課)少し前の箇所、7章1節から15節のところで、主イエスは、律法学者やファリサイ派の偽善を問題にされました。そして、それまでに、実は弟子たちの無理解さも強調されておりましたことを考え合わせますと、この異邦人の女性との対比は印象的です。
主イエスは、神の契約の担い手の、その中心である律法学者やファリサイ派の人の中には、信仰よりも偽善を見出しております。弟子たちも主イエスを正しく理解しておりませんでした。
ところが、この異邦の地で、異邦人の、しかも女性(異邦人は低く見られ、女性はまた更に低く見られておりましたから)、この女性の中に、主イエスは深い信仰を見出しました。
救いへの最短距離にいたはずの人々、それは、ファリサイ派の人であり、弟子たちですが、それらの人々の中に本物の信仰が見られず、最も遠いところにいたはずの異邦人の女性の中に信仰を見ました。
すでに6章のところでパンと魚の供食を5000人に行った奇蹟がありました(マルコ6:30以下)が、しかし、イエスの弟子たちの信仰は不徹底であり、その心はにぶいのです。律法主義者たちはイエスを拒絶いたします。
ここでは、ファリサイ派の「不信仰」と、異邦人の女の「信仰」との対比を鮮やかに浮き彫りにしております。
そして、律法学者やファリサイ派の「思い上がり」とこの女性の「謙遜さ」とが、「不信仰」と「信仰」との分かれ道であったことを示しております。この異邦人の女性の信仰はきわだっております
主イエスは母親である女に言われました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」。そこで母親が家に帰ると、子供はベッドに寝ており、霊が出て行ってしまっているのを見出しました。母親の願っていたことが起こったのです。
ここで、イエスの「それほど言うなら」とは、どの言葉、どのような内容だったのでしょうか。
他でもなく、この婦人のあつかましいほどに熱心な、信仰の言葉です。
そうだとすれば、イエス・キリストはこう言っておられるのではないでしょうか。
「私の言葉をもくつがえす、あなたのその信仰深い言葉を、私は聞かざるを得なかった。安心していきなさい。神はあなたの娘をおいやしになります」
女は、どのようにして癒しが起こるのかを問いませんし、また癒しが確実におこることも求めません。しかし、イエスの言葉が確実であると信じて、家に帰ります。そして、女の確信が実証されるのを見るのです。
30節「[MAR] 7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」と記されてあります。
キリスト教会にとって、この物語の意味は明らかです。
主イエスは、ユダヤ人はもちろん、それと併せて異邦人に対しても助け手であり救い主であるということ、また、主イエスは家長としてすべてのものに家を開放し、パンを提供するお方だということです。異邦人は、ユダヤ人と共に神の国の食卓に招かれているのです(マルコ2:15-17、6:30-44)。
ユダヤ教的な狭い範囲の救いということが打ちやぶられて、すべての人々に開かれた救いの普遍主義が、イエスによってもたらされました。
異邦人を含む救いでないなら、それは主イエスの福音ではありません。すでに旧約聖書以降、メシア時代には、異邦人も含む、すべての民族が、ヤーウエの救いにあずかることがイザヤ書などにおいて預言されております。(イザヤ書第2章2節以下、第42章1節、第60章3節以下など。)
主イエスに出会って救われる人々はどういう人でしょうか。
今日のシリア・フェニキヤの女もそうですが、私たちは、ことごとく苦悩する者、重荷を負う者であることを聞いてきております。追いつめられてのがれ場のない人間であることを知らされます。
今日の箇所に出てくるシリア・フェニキアの女は、マタイによる福音書第8章5節以下に出てくる、あの異邦人の百卒長と同様、救いに値しないことをよく自覚しておりました。もし、救いに値すると考えたり、それを強引にせがんだとしましたら、イエスから拒絶されたのではないでしょうか。
イエスは、「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」(マタイ6:7)と言われます。祈りと願いの力と実績をつむことによって、力づくででも聞いてもらおうと祈り倒すことではありません。
そうではなく、不義な者、救いに全く値しない者を義としてくださる主イエスというお方の真実を衷心から信じることが、決定的に重要なことです。
ですから「女は謙虚であった」という言い方も本当は不適切だとも言えます。
不義な者を義とし、無から有を創造する主に対する信仰が、主に対する唯一の通路です。聖書の神は、その愛と全能のゆえに、無から有を生ぜしめ、救いを創造し、死人をよみがえらせ、新天新地を創造する神であります。マルコは、この信仰を強調いたします。
女はイエスからいったんは拒絶されましたが、あきらめませんでした。執拗にイエスに喰いさがります。しかし、先ほども申しましたが、あきらめない態度がすばらしい、と言うことではありません。彼女の絶望状態が、そして主に一切の望みを置く信頼が、このあきらめない態度を生んだとみるべきです。
神様が聞いていないかに見えるのは、私たちが求めないからです。あるいはせいぜい自分の欲のために求めること、それは自我が壊れていないところでの求めですから、益々悪魔のとりこになります。マタイによる福音書7章7節などにありますように「[MAT] 7:7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」の言葉どおり、私たちは、心からひたむきに神様に求めるべきです。
主イエスは別な箇所、マルコによる福音書9章23節で、「[MAR] 9:23イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」」と言われました。神の恵みはあふれております。
聖書が示します神様は、なによりも人の痛みや叫びに心を動かされる神様です。私たちは、苦悩する時、悲嘆に暮れるとき、重荷を負いきれないと感じる時など、特に、主イエスに委ねたいのです。
今日の29節の言葉「それほど言うなら、よろしい」、と神様に言わせるほどに、異邦人の女に習って、私たちはひたむきに、真実なる主イエスに、真心を持って求める信仰を持ちたいものです。
どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。アーメン
第22回 コリント信徒への手紙 6章12~14節 2018年9月2日
パウロが書きました、コリントの信徒への手紙を読んできました。まず前回の6章11節でパウロは力強い神がなさる御業のメッセージを語り上げました。さて、今日の聖書の12節を見ていきますと、何とも奇妙な話に変わっていきます。12節「わたしには、すべての事が許されている。しかし、すべての事が益になるわけではない。わたしには、すべての事が許されている。しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」同じようなことを、10章23節でも言っているのです。313ページ10章23節です。「すべてのことが許されている。」しかし、全てのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。つまり、何をしてもかまわない、と言っているのです。キリスト者は何をしてもかまわない全く自由とされているのである。この言葉はよほど広く用いられていたとも考えられます。この言葉がどこから出たのか分かりません。当時、キリスト教に反対していた一派の人々がよく言ったのではないかとも言われます。しかし、パウロも一応納得していたのでしょう。マルチン・ルターの「キリスト者の自由」ということから見ると、信仰の極意は神の前に全く、自由に生きること。何も妨げられない、こうした徹底した、自由から言えばパウロがここで書いている「すべてのことは許されている」という事がキリスト者の願いであったかも知れません。何をしてもかまわない、から、自分のしたい放題の事をして、他人の迷惑など考えないで、自分のしたいことをするんだ、ということになると、それは、自由に対して「わがまま」というものであります。自由である中にも自分の願望を満たすだけでなく、自分でおさえねばならない面もあるわけでしょう。パウロはガラテヤ書5章1節で言っています。「自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放して下さった」と言っています。問題は何が自由かということです。一切が許されて思うままの生活ができるのか、してもいいのかということが大きな問題になります。そこでパウロは言います。今日の聖書の12節で「すべての事が許されていると言いながら、すべての事が益になるわけではない」と。何をしてもいい、と言われてもそれなら、何をしても何か自分に得るかと言うとそうとは限らないでしょう。好き勝手な生活をすれば人にきらわれるでしょう。自分も傷つくに違いありません。従って自由と言う事は、人間のあこがれでありながら実に難しいのであります。パウロは「すべてのことは許されている」と言いました。しかし、それだけでは本当ではないことを知っていました。許されるとはどういうことかということであります。従って、パウロはすべての事は許されていると言っても、すぐに「すべての事が益になるわけではない」と言って、その上に、又、すべての事は許されていると言って、しかし、私は何ものにも支配されているわけではないと書いています。ですから、コリント教会の人々が、すべての事は許されている、と言っていることに賛成しているように見えながら、それがただでは済まないことをよく知っていました。自由であることに対して自分も異論はない、しかしその真の自由はそんなに簡単に得られるものではないと言いたかったのです。人が自由になりたいのは自由になれば何でも益が得られるからであるということでしょう。しかし自由になってはたして、あらゆる益を得ることができるでしょうか。自由と言うのは自分のしたいとおりにする事でありましょう。しかし、自分のしたいとおりにする事で自分自身は完全でもなければあらゆる事が分かっているわけでもありません。こうすれば自分が得をすると思ってやってみても必ずしも益にはなりません。なぜなら自分が何でも知っているわけではありませんから。これなら益になると思っていた事が必ずしも益にはならないからであります。簡単に言えばしたい通りにした人がいつでも成功するとは限らないのであります。それなら人間は神のような自由を持つ資格もなく力もないということであります。そこに限りない難しさがあります。しかし、もう一つ、自由にとって重大な事があります。それはパウロがその次に言ったことです。「すべての事は許されている。しかし、私は何ものにも支配されることはない」というのであります。自由というのは自由のしたいとおりにするのですから、何ものにも支配されないはずです。しかし、そういかない。したい通りにするのだと言うのは実は自分自身の奴隷になることです。もっと言えばそこに自分の欲望に支配されることになるのではないでしょうか。自由と言っても、何の自由を求めるのでしょう。それはただ心の自由ではありません。その心の自由が体を動かすのです。それなら、自由というのは体を自由に用いるということになります。しかしその体の自由と言う事が又大変難しいのであります。事由がほんものであるのなら、自由であると共に神のみ心にかなったものでなければならないでしょう。その体の自由についてパウロはそれを二つに分けました。一つは食に関する事、もう一つは性に関する事でありました。人間の体がどういう働きをするかパウロは医学者ではありませんから、体の機能を医学的なことからではなく、自由ということから考えたわけです。体の自由な使い方ということから、神との関係を考えようとするのであります。自由は体の用い方に関係があります。それなら、その用い方がどのように神にかかわるかと言う事が大切なことになってくる。神に対する責任の問題となるのであります。」そこでパウロはいきなり「食物は腹のためである」言って続いて「体は不品行のためではなく主のためであり、主は体のためである」と書いています。すると体と言っても腹を用いることと不品行とは別であるとしているのではないでしょうか。腹は食物のためであるとは言っていますが神のためとは言っていません。それに対して不品行の場合には、体は神のためであるというのありましょう。従って体と言っても神との関係 とそうでない部分があることになります。腹も体の一部であるにちがいありません。しかしパウロに言わせると腹は食物をとるだけで他に何の影響も与えるものではない。」腹が食物をとったからと言って主に対してよいとか悪いとかということにならないはずである、と言いたいのであります。体がキリストの体の肢であるのだから、不品行の方は問題になると言うのであります。15節以下にそのことについて書いてあります。腹も食物もキリスト者の生活には関係がなくなる、いずれ人間の自然の生活と共に滅び去ることになる。だから自由の問題では問題にする必要がないのであります。ところが不品行の場合には違います。不品行はただ体の問題であるというわけにいかないのです。不品行によってからだそのものを与えるのであるから、からだが誰のものかと言う事が大事な問題なのです。そこでパウロはそういう説明を省いていきなり「からだは不品行のためではない」からだは元来、主のためにあるばかりでなく、主も又、からだのためにあるのだからであると言うのであります。パウロが言いたいことはからだが主のためにあるという事であります。それゆえに主もからだのために心をお用いになるということであります。からだと主との関係をよく考えねばなりません。しかし、どうしてからだは主のものになったのでしょうか。それだけでなく、そのからだを不品行に用いてはいけないのでしょうか。人間は神によって造られたものである。だから、自分のからだも神のために用いるべきではないか、と。良く分かります。ところが、パウロはもっと厳密に言います。からだは造られたものというのでなくからだは主のものなのであると。主が所有し主のために用いるべきものなのであります。それなら、からだが主のものであるというその根拠はどこにあるか。どういう意味で主のものであるか、と言う事が重要なことです。それをはっきりさせて後のきびしい議論に進んでいくのであります。それについてパウロはこう言います。「神は主をよみがえらせたが、その力で私たちをもよみがえらせて下さるであろう」と言うのであります。これは前の事と結びつきにくいかも知れません。しかし、おそらく一つには腹と食物とはやがて滅びるということに対して神によってからだはよみがえらせられるそういう尊さを持っているのであるとパウロは言いたいのであります。もちろん、腹と体とは普通に考えれば何もちがった事はないに違いありません。しかし、主の復活と言うことから考えればそこに大きなちがいがあるのであります。人間の生活は神によって造られたというだけでなく、その後、罪を犯してしまった人間を救われたものであります。パウロがここによみがえりのことを持ち出したのはそのことのためであります。だからまず、神が主をよみがえらせたということを言うのです。主をよみがえらせたのは罪人を救うため十字架によって人を救うためにキリストを十字架につけてよみがえらせたのであります。だから、よみがえりの力によってとだけしか書いてありませんが、実は十字架と復活によって人を救い、人間をもよみがえらせた、従ってその結果、人間はまことに神のものとせられたのであります。神のもとなるということはキリストの体の一部分つまり肢になるということであります。それゆえに腹の問題とはちがってからだにはキリストの体の肢になるわけであります。だからその用い方が難しいということになるのであります。腹の用い方とはちがうというのはそういうことであります。信仰者の生活を始めてからもまた、肉の奴隷になる機会はいくらでもあるはずであります。それはコリント教会だけの話ではないはずであります。しかし、その事のためにパウロはコリント教会に対して事細かに注意を与えようというのであります。そのようにしてこの教会がまことにキリストのからだである教会になるようにとパウロは祈りつつ熱いメッセージを書いているのであります。<アーメン>
第21回 コリント6章8〜11節 2018年8月26日(日)
パウロが書きました、コリント信徒への手紙を見てきました。
今日の礼拝では6章8〜11節のみことばです。
教会という所は、いろんな人の集まるところです。集まった人、その人、その人の人生のたどって来た道がちがっています。人生の中で経験して分かった事、失敗した事、もう様々な人が神を礼拝しに、集います。不思議な団体です。そこに書かれている教会も不思議な事が起こっています。
この頃になって私も自分のたどって来た人生をふり返ってどうしてこうなって来たのだろうと、不思議なことがいっぱいあります。高校生の頃、電気技術者になろうと、目指して福岡で就職し、そうして東京オリンピックの年昭和39年に東京へ出向し、そうして不思議な事にとうとうルーテル教会の牧師になってしまいました。教会も全くちがったタイプの教会を転々として最後には老人ホームの施設長を10年間勤めて退職でした。
結婚式もやりましたが、教会の葬式もいっぱいやってきました。考えてみると、何と変化に富んだ教会生活だったことか、不思議なことであります。
パウロは、自分が命がけで伝道した教会が教会に集う人々によって、又まわりからの時代の変化によって、自分では想像もしなかった堕落してしまった実状を知らされて、ただがっかりするだけでなく、教会のあるべき神の望まれる、神の御旨を示そうと必死であります。
まず、教会は、いろんな人の集まりで、罪人の集まりである、という事を記しています。それを一般的にふつうに言うなら、罪人の集まるところに誰がわざわざ行くでしょうか。ところが、教会が罪人の集まりである、という言い方には、特別な意味があって、言っていることでしょう。
パウロは、ありのままに、コリントの教会の内部を暴露しています。
6章8節を見ますと、「あなた方は不義を行い、奪い取っています。しかも、教会の兄弟に対してもそうしている。」それに続いて、9節以下では、もっと具体的な事実をいっぱい書いています。
9節「正しくない者が、神の国を継げないことを知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の者を奪うもの決して、神の国を受け継ぐことができません。」
そうした人々が教会にいた、と言うことです。そして、11節で微妙な言い方をしています。「あなた方の中には、「そのような者もいました。・・・
今日の教会ではどうでしょうか。まさか、ここに書いてあるような人々が教会にいるとは考えられませんが、それでも、貪欲な者、そしる者、酒に酔う者等ということになると、全くいない、とは言えない。問題は、教会が罪人の集まり、とは言ってもただ、罪人の集まり、ということとは違うということ。このように書いてあるからと言って、みんながみんなそうである、ということではなくて、そういう者たちかいた、ということであります。信仰上のことは、考えないで具体的にどんな罪人なのかを知らねばならない。私には罪があります、というのではなくて、もしそうなら、どんな罪があるかということです。神の前に正直に言うと、それは数えきれない位でしょう。しかし、何となく罪人である、ことと、実際に罪人である、こととはちがうはずであります。私たちが罪人である、と告白する時には
神の前に全く罪人である、ことを言い表すことであります。が、その反面、自分がどんな意味で罪が有るかを知っていることも必要なのです。
神に対して、懺悔すると共に、実際に、あの罪、この罪をはっきり言い表すことであります。
コリントの教会の中の良くない事が横行している、彼らは「神の国を継ぐ事はない」と言っているのです。これらの人々が神の国を継ぐことはない」と言っているのです。これらの人々が神の国を継ぐことはないことは誰にでも明らかなことであります。
神の国というのは、神が支配されることであります。それならば、この世に神の支配が行われるようになるのは、この教会の人々によるはずであります。しかし、このままでは、できない、と言っているのです。教会は神の国を継ぐことであります。しかし、今、現に、このような悪行をしている人々が神の国を継ぐことはできません。
そこでもう一度、11節を見ますと、「あなた方の中には以前は、そんな人もいた」と書いています。そうすると、今はどうでしょう。今は立派な信者であるが、以前はそういう事をした人もいた、ということになる。
教会は神の国を継ぐものでありましょう。そうであれば、そういう人々の集団である教会が神の国を継ぐことになります。つまり、罪人が神の国を継ぐのです。もっと正しく言えば、罪人こそが神が、この世を支配しておられる事を明らかにすることができる、ということになるのです。これは
まことに奇妙なことであります。
普通には、神の国を継ぐのは正しい人であるはずでしょう。過去にも暗いものを背負っていない人々でありましょう。しかし、はたして、そうでしょうか。
神が支配しておられる事を現すのは、正しい人、正しいと自分から思っている人でありましょうか。そうした常識はまちがっていないでしょうか。自分が正しいと思っている人々は、神の支配を現さないで、かえって、その人の思い、人間の思い、人間の正しさを現そうとするのではないでしょうか。
神のなさることが気にいらなければ、いつでも神を気ぎらいし、神に悪態をつくでしょう。正しいのは自分であって、自分が正しい時に、神はこの世
を支配される、ということに、なるのであります。ところが、ここでは、罪人の集まりである教会が、神の国を継ぐというのであります。なぜそうなのでしょう。それは罪人こそ、神の正しさを現すことができるからであります。罪人は自分の中に、何の「正しさ」をも認めることができません。
ただ、神が自分を正しい者と扱って下さる、ことによって、自分を通して、神の支配を現すことができるのです。イエス様は、罪人らと交わることを喜こばれました。「神の国は来た」と仰せにになったこの方が正しい者を求めないで、むしろ罪人と交わり、罪人を喜び、とされたのであります。
罪人は自分の正しさを知りません。自分がこうして生きていることができるのは、神の正しさのおかげである、という事が分かっているのであります。
それゆえに、です、罪人は神の国を継ぐことができるのであります。そういう罪人の集まりである教会こそは、神の国を継ぐことができるのであります。
なぜなら、教会の中の人は自分が「正しい」とは思っていないのであります。正しい方は、ただ、「神のみ」であることを知っているからであります。自分が罪人であることを知った者のみが、神の国を継ぐことができるのであります。このように言うからといって、罪人そのままの教会が神の国を
継ぐわけではありません。教会が神を表わすことができるのは、その罪人が、神によって今は、正し者にされているからであります。
私たちは、今は、その罪から救われ、なお罪人でありながら、神に赦されているからであります。
そこでパウロは、今日の聖書の最後の11節後半のところで書いています。「しかし、主イエス、キリストの名と私たちの神の霊によって、洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」
この11章にあります、この事がとても大事なことであります。パウロは、力をこめて、彼等が新しくされたことについて、記そうとしているわけです。
まずは、「イエス・キリストの名」によって、であります。つづいて、三つのことがあります。つまり洗う、きよめる、義とされることです。
主イエス、キリストの名と、神の霊によってです。主イエス、キリストの名によって洗われ、きよめられ、義とされる、と、いうことです。そして神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされる、と、いうことになります。主イエス、キリストの名、というのは、何でしょうか。名は権威
をあらわします。主イエス、キリストの権威によるということでしょう。神の霊というのは何でしょう。神の霊は、どのようにして、働くのでしょう。言うまでもなく主イエス、キリストの名によって、神がお働きになる時、神の霊が働くにちがいありません。主イエス、キリストの名と、
神の霊によって「洗われる」というのは、いうまでもなく洗礼のことであります。罪人が救われる道は、洗礼によるのであります。しかし、洗礼はただ水を注がれるという事だけでなく、言葉の通り、心が洗われることであるということです。
罪に汚れた者が丁度水によって洗われるように、汚れを除かれることであります。洗礼は信仰に入る儀式でありますが、ここに、このように書かれているのは、それがただの儀式でなくて、洗い流されることでありましょう。身についた汚れを何とかして、取り除きたい、と思う。それと同じように
魂の汚れをも、洗い落としたい、と願うのであります。 しかし、それは水で流す、というわけにいかない。それは信仰によって、罪が許される、ということがなければできないことです。信仰の上のことで、外側のことではない、心の内側のこと 聖霊の働き、神の働きによることであります。
最後に「義」とされる、となっています。正しい者と認められることです。本来は「正しくない者」が「正しい者」と認められる、ということではないか、と思います。義とされることは、正しい者として、扱って下さることではありますが、そこには、正しくない者が正しい者とされる、という
ことです。洗われた者、と思ったが、やはり汚れが残っていうように思われた時、「義とされる」ということは、大きな助けになったのではないでしょうか。そして、きよめられるということを考えると、罪があり、汚れがある者はきよめられなければなりません。そういう意味から言えば、
「きよめられること」こそ、最後の目的である、ということがきるでしょう。しかも、私たちは、毎日の生活で、いつも汚れ正しくない者になりがちです。ですから、毎日のように、きよめられなければなりません。きよめの方に向かう生活をする、ことであります。
そのためには、洗われ、きよめられ、義とされるという三つのことが大切なのであります。
パウロは、じぶんが伝道した教会がコリントの町中にまんえんしている不道徳に満ちた不品行が教会にさえ平気で横行している。これでも教会なのかと言いたくなる、もう手がつけられないような教会であっても、捨てることはいたしません。まことに、教会であるのには、このような状態からだけ、
判断できるものではない。神がそこで何をなさったか、今、どう生きておられるか、ということであります。
私たちは、義人の教会をつくるのではありません、神が義とされた教会に生きるのであります。私たちは主イエス、キリストの名と、神の霊によって洗われ、きよめられ、義とされていくのであります。 アーメン
2018年8月19日(聖霊降臨後第13主日)礼拝
担当 田中 良浩
聖書日課 エレミヤ23:1~6、エフェソ2:11~22、マルコ6:30~44
説教題 「五つのパンと二匹の魚]
序 今日の主日の「説教題」についても、あれこれ考えた。
けれども以下の三つの理由で私はこの奇跡の物語をそのまま説教題にした。
一つは、パンとは主イエスが祝福され与えられた“命のパン”であること。
二つは、魚(ギリシャ語:イクツゥス)が「イエス・キリスト、神の子、
われらの救い主
という“信仰告白”の意味に、古来使われてきたこと。
三つには、現在奉仕しているホスピスの“食堂の名前”であること。
私は毎週火曜日と木曜日に、杉並区和田にある救世軍の運営するブース記念病院でのホスピスのチャプレンとして働いている。時々、スタッフや
患者さんから、直接、間接に「いくつ(何才)ですか?」と尋ねられる。
先日もある看護師から尋ねられ、「お元気ですね。何か特別なものを召しあがっていますか?」と尋ねられたので、私は真面目な顔で「パンと魚を食べているからです。」と答えた。看護師はキョトンとした表情をしていた。
後日、その看護師に食堂で会った。ニコニコしていたので、私は「この食堂の名前知っていますか?」と尋ねたら、彼女は「勿論ですよ。五つのパンと二匹の魚」と答えて、大きな声で笑った。彼女は私が言わんとしたことを
理解しただろうか?やがて理解してくれることを期待している。
私は勤務の日は、その「五つのパンと二匹の魚」という食堂でスタッフと
一緒に食事をしている。この食堂では、病院のホスピス病棟に入院している患者さんの日々の食事にも責任をもっている。
ご存知のようにターミナルな(人生の最後の時を過ごす)患者さんの多くは、
殆ど私たちが食べる普通食を摂ることができない。そこで食堂の責任をもつ
管理栄養士が一人一人を訪ねて、どのような食事ができるか、食べたいかを
相談する。最後の時の食事は、一人一人にとってかけがえのないものである。
考えてみれば、日常を生きる私たちにとっても同様である。
まさに、『医食同源』は、私たちの命と生活に大切な言葉である。
1
ある日外国の方が食堂に入って来て、暫く入り口の所であちらこちらを
見回している。初めてこの食堂に来て不案内な様子なので、私は近寄って
挨拶をすると、非常に喜んで「私はアメリカ人です。日本人と結婚したが
日本語は殆ど話せない。今朝主人がここに来ると、話が出来て、食事もでき
る、と言ったので来ました」と。私は一瞬そのご主人の意向を図りかねたが、
あまり深く詮索しないで、率直にお迎えすることにした。
私はその方と一緒に食事をした。とても喜んで、帰って行った。こうして、彼女は二度、三度この食堂に来た。彼女はアメリカでも教会の会員であった。
結果的に私は彼女にすぐそばの教会を紹介した。今でも教会の礼拝に連なっていることは感謝である。
ここで私は『信食同源』という表現を提案したい。(愛餐はまさにそれ!)
1 今日の福音書の主題は有名な「五つのパンと二匹の魚」の物語である。
結論をいえば、「主イエス・キリストは、私たちの命の主」である。
これを現代風に言い換えれば、「主イエス・キリストは私たちのQOL(生命・
生活の本質)の中心である」と言えるであろう。
具体的には「5000人もの人に食べ物を与えた」という奇跡物語である。
◎この奇跡の出来事にも、導入の物語がある。(福音書の冒頭の部分)
「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
つまり、宣教に遣わされた使徒たち(弟子たち)が主イエス・キリストの
もとに帰ってきて、それぞれの宣教について報告したのである。
けれどもここには宣教の成否、つまり良い結果があたえられたか、あるい
は思わしくなかったか、成功したか、挫折したかは語られていない。
では主イエス・キリストは宣教がどのようなものであったか?無関心な
のであろうか?決してそうではない。宣教の主はイエス・キリストである。
主イエスにとって宣教は最大の関心事である。主イエスは宣教のすべてを受け入れて下さる。疲れて帰って来た弟子たちに、「人里離れた所へ行って休むように、お命じになったのである。そして一同は、“自分たちだけで”(主イエスと弟子たち)人里離れた所へ行ったのである。
2
教会で用いられてきたリトリート(Retreat)の出発点はここにある。リトリートとは、「後退、退却、また避難」という意味である。同時に、教会では「修養会、研修会、黙想会」として用いられている。
2 このような状況にあるにも拘わらず、群衆は、主イエスを追いかけてきた。
「主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)
この表現の源は、荒れ野でのモーセの祈りである。(民数記27:17)
「彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」
しかし、モーセの祈りにも拘わらずイスラエルの状況は、次第に悪化していった。預言者ゼカリヤは言う。(10:2)
「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい。それゆえ、人々は羊のようにさまよい羊飼いがいないので苦しむ。」と。
<テラフィムとは、イスラエルで用いられた「神の像」、占い師とは
「神のみ心を伺う者」である。背景には、祭司、指導者たちが、真正な神の言葉を語ることがないからである!>
結果的に、神の民は彷徨い歩き、真の羊飼いはいないのである!
聖書にはこの表現が、しばしば語られている!
(エゼキエル34:8、ゼカリヤ10:2、マタイ9:36)
3 それ故に、主イエスは人々を深く憐れみ、教え始められたのである。
そして記されている、「そのうち、時もだいぶたったので・・・」と
弟子たちは、「食事のために群衆を解散させてください」と主に願った。
しかしながら、主イエスは弟子たちに「あなたがたが食事を与えなさい」
と言われた。
弟子たちは答えた、「わたしたちが百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか?」とお聞きした。
弟子たちのこの言葉には、どのような意味、思いが込められているのか?
<こんなに大勢の群衆!そんなお金もパンもない!>
◎弟子たちは、途方に暮れてしまった!これが現実である!
3
4 主イエスの聖なる御業
そこで主イエスは「パンはいくつあるか、見て来なさい」と言われた。
弟子たちは、「パンが五つあります。それに魚が二匹です」と答えた。
(ヨハネによれば(6:9)、パンと魚を持っていたのは少年である!)
このようにして聖なる出来事が起こった。け
第一は(マルコ6:39~40):「主は群衆を整えられた
「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
◎群衆は、まとまりのない、三々、五々集まって来た人間の集団である。
主イエスは、このような群衆を、弟子たちに命じて、基本的に“組に分
て”、50人、100人のグループに分けて座るようにされたのである。
これは無制約、無秩序に集まっている群衆を、この地上にあって一つの「群衆の整えられた姿」を求められたのであろう。
つまり主イエスの近くに集まってきた人々で、主イエスによって
整えられた人々の姿=それは祝福を受ける教会の原型であろう。
第二は(マルコ6:41):「主は讃美の祈りによって、パンを祝福して
配らせた。魚も同様にして与えた
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
◎主はここで讃美の祈り、祝福の祈りをささげた。
これは主イエスの宣教(ミニストリー)の中で行われたものであり、 十字架を前にして行われた最後の晩餐の時に設定された、聖餐の出来事の予表になっている。
ちなみに、ヨハネ福音書6:33~35によれば、「神のパンは、天か
ら降って来て、世に命を与えるのである。・・・イエスは言われた、
『わたしが命のパンである』と。」
主イエス・キリストの「十字架における自己投与」の予告である。
第三は(マルコ6:42~44)「五千人の人々は満足した」
「すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。
4
◎この主イエス・キリストの聖なる御業に与ったすべての人々は、満足し、
大きな恵みと祝福に与ったのである。大いなる喜びであり、感謝である!
◎「12の籠」とは、イスラエルの12部族を意味するものであろう。
けれども12部族留まらないであろう。5000人の群衆の中には、
地中海沿岸諸国、異邦の国からも大勢の人たちが集まって来ていたからである。つまり、恵みと祝福は全世界に及ぶのである。
5 エレミヤが語った預言(エレミヤ23:3~4)の成就
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、
もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。」と。
◎エレミヤは厳しい裁きの言葉を語った。しかし彼は同時に、神の恵みによって、神の民の回復、新しい救い主到来の預言(31:31)を語った。
この預言は、主イエス・キリストの十字架と復活において成就、実現した。
6 フィンランドにおける祝福された交わりの経験
オウルという北の街でセンニ・ラウマさんという老婦人の出迎えを受けた。
教会の修養会に出かけるために、私たちをホームステイさせてくださった。
小さなアパート。センニさんは私たちを“日本からの天使”と言って
温かく迎えてくださった。センニさんは台所に寝て、私たちはセンニさんのベッドで寝たのである。結果的には彼女も二泊三日の修養会に参加して、
祝福された交わりを与えられた。=ここでも『信食同源』を体験した。
毎年のクリスマスカードは「シユウナウスタ!」の一語で十分であった。
最後に今日の詩編は、有名な23編である。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・・」 昔も、今も、後も!
主イエス・キリストは、世界の大牧者として私たちを日々導いてくださる!
2018年8月12日(聖霊降臨後第12主日)礼拝
3 8月12日(聖霊降臨後第12主日)
聖書日課 アモス7:10~15、エフェソ1:3
14、マルコ6;6b~13
説 教 「宣教に遣わされた弟子たち
序 今日の主題:私たちクリスチャンは、弟子たちと同様に、主なる神さまに
召された者であり、そして「この世に遣わされた者、派遣された者」である。いわゆる「キリストの恵みのミッションに与る者
である。
1 私は人生の最終章(アメリカでの牧師の務めが終わった直後)に、ひとりの「命の先覚者」に出会った。日野原重明先生である。私をホスピスの
チャプレンとして働くように、“熱心に”お誘いくださって、私はホスピス、ピースハウス病院に働くことになり、結果的に7年間奉仕した。しばしば、先生と一緒に働き、海外旅行を含めて、共にあるよい機会が与えられた。
そのような中で、私が腎盂癌になり、やがて膀胱癌が発見された時に、
先生は「大丈夫ですよ。治りますよ!」と仰った。しかし私はそれらの癌と戦い、7度の手術を経ても、抗癌剤の苦しみを経ても殆ど10年間、治る希望は見えなかった。病理検査の結果はいつも、ローマ数字のVであった。
日野原先生はお会いする度に「病はあっても、イエスさまがお与え下った使命によって健やかに生きることが出来る。私もです!」と仰った。
最終的に、私は右の腎臓も膀胱も摘除する手術をしたが、今なお、日々を健康を与えられて生きることができて感謝している!
私たちの人生、それは私たち自身のものである。決して、人と取り換えられるものではない。これは当たり前のことである。両親から生まれそして、
それぞれの環境で養われ、遊び、学び、自己に目覚めて人格形成していく。
それは決定的に自己が中心であり、その意味で自己中心で、主体的である!
にも拘らず、私たちは「召され、この世に遣わされた者」である。
何故か?主イエス・キリストが私たちに介在されるからである。
つまり主イエス・キリストが語りかけ、それぞれの生活や職場で私たちを召し、私たちをそれぞれの生活の場へ、職場へと遣わされて行く、派遣されて行くのである!
2 「12人の弟子たちの派遣」は、今日の福音書の中心の物語である。
世界の歴史を見ても、このような出来事は他にない。つまり「主が弟子たちを召し、教え、そして不思議な聖霊の力を与え世界に派遣する」これは言うまでもなく、主イエス・キリストにおいてのみ起こった出来事である。
先ず、今日の福音書の冒頭には、「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。」(マルコ6:6)と記されている。
この言葉は、実に簡単ではあるが、この出来事の重要な原点を示している。言うまでもなく、他の共観福音書(マタイ10:1、5~15、ルカ9:1~6)にもこの「12弟子の派遣」の物語が記さ
れているが、この事実は同じである。
◎マルコ1:39には最も古い形で「(主イエスは)そしてガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とある。
また、マタイ4:23では「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と記されているし、全く同様な言葉が、同じくマタイ9:35にも、繰り返し記されている。
◎つまりこのことは、「教会の働きとしての宣教の主は、イエス・キリストご自身」であるということである。かつて弟子たちの時代、また初代教会の時代と同様、現在においても同様である。
「宣教の主は、イエス・キリスト」なのである。そして弟子たちも、
また、私たちもその宣教に召され、与る者なのである。
マルコ福音書を始め、ルカもマタイも、12弟子の召命と派遣を
「二段構え」に記している。(マタイは連続的に記している)。
特にマルコの12弟子の召命と任命は(3:13~16)によれば
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。」と記されている。ルカも場所を山と記している。
「山」とは、祈りの場、神の顕現の場である。神聖な場である。
(3)派遣についての、いくつかの興味深い内容について:
① (マルコ6:7)「二人ずつ、組にして」
=宣教のためには協働者が必要である。初代教会も同様であった。
具体的には、かつて世界的な流れとして、伝道のために献身した
夫婦は、教会の協働者であった事実を見過ごせない。
<現在、このような姿が消失してしまったことは、残念である>
② (マルコ6:7)「汚れた霊に対する権能」
=神の霊、聖霊に逆らう力に、打ち勝つことができる権能である。
7月8日(聖霊降臨後第7主日)の礼拝において学んだように、
神によって与えられる聖霊こそ、私たちが日常生活を生きる根拠
であり、悪の力、罪に打ち勝つ力なのである。
③ (マルコ6:8)「旅には(杖一本のほかには)何も持たず、パンも、袋も、金ももたず・・・下着も二枚着てはならない」と厳しく戒められた。
<物質的な貧しさにおいて、神の豊かさを伝える!>
=これは神の国の到来を告げ知らせること、宣教がそれほどまでに、
一人ひとりの「現実の生活に緊急的な必要性」をもち、全世界の人々にとって「終末的な、生きる希望の必要性」をもっていたからである。これは、現代社会においても「然り」である。
④ (マルコ6:10)「その家にとどまりなさい。」
=初代教会から、今に至るまで宣教の展開は、家を基盤にしている。
初代教会においても(ペトロの伝道 使徒10章=コルネリウスの家で)、また、(パウロの伝道 使徒16章=紫布の商人 リディアの家で)それぞれ行われた。日本でも「家庭集会」はごく一般的であった。私もどこの教会でも、「家庭集会」を開いてきた。
⑤ (マルコ6:13)「12人は出かけて行って、宣教した」
=そしてマルコは、素晴らしい宣教の結果を報告している。 「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」と。
これはイエスの宣教そのものに与る、祝福された結果である!
これに対して現在の教会の姿はどうであろうか?神は沈黙して
おられるのであろうか?Aトフラーのいう第三の波(情報化の波)
呑まれて、アップアップしているのが現実であろうか?
3 ところで今日の旧約の日課「預言者アモス
について語る必要がある!
アモスは、いわゆる預言者が盛んに活動する初期の預言者である。
その時代は、南王国ユダの王はウジヤ、北王国イスラエルの王はヤロブア
ムであった。この時代はBC8世紀の半ばである。
この時代は、ソロモン王国の再興と思われるほど、政治的には強固となり、
経済的にも繁栄した。その結果、政治的支配階級を始め、宗教的な指導者たちも、倫理的にも、道徳的にも、堕落し、退廃していた。
そのためにアモスは政治的、社会的な堕落に対して、痛烈な批判を加えた。
同時に宗教的な指導者たちにも宗教的な祭儀の堕落を強く非難した。
しかも、アモスは自ら語るように、彼は「テコアの牧者(羊飼い)の
一人であった」時に、預言者としての召命を受けた。
そのような理由からか、アモスの審判の預言は痛烈であった。
そのためにべテルの神殿の祭司、アマツヤは王ヤロブアムにも伝えて、
アモスに「北王国イスラエルを離れ、ユダの地へ逃れて、そこで預言せよ」
と命じている。しかしアモスは答えた。(アモス7:14~15)
「アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」と。
つまりアモスは王の君臨する神殿において、宗教的な祭儀を執り行う一人としての預言者ではなかった。むしろ神殿とは遠く離れた、在野の預言者であった。それゆえに、真のカリスマ性をもった預言者であった。
有名な預言の言葉がある。(アモス8:11~12)
「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない。」と。
アモスは裁きの厳しい預言の言葉は、最終的には、神の国イスラエルの
繁栄回復の預言で閉じているのである。(アモス9:13~15)
<これは現代社会に生きる私たちへの大きな希望である!>
4 今日の福音書の内容は「宣教に遣わされた弟子たち」である。
けれども、同時に私たちも、現在の生活、社会において、弟子たち同様
宣教に遣わされていることを、改めて確認したい。
キリスト者は「神の恵みに生かされる者」である。=<それは受動的生>
今日の使徒書(エフェソ1:6~9)によれば
「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。
ここで使徒パウロの言う、神の「秘められた計画」とは異邦人伝道である。
私たちにとっては、何であろうか?一人びとりに与えられた課題である。
つまり神の十字架と復活の恵みによって生かされて私たちは、同時に
その出来事を証しし、伝える者つまり、この意味で、主イエス・キリスのミッションに与り「この世に派遣された者」でもある。=<それは能動的生>
一人びとりがどのような状況にあっても、このような生き方を自覚することができるのは、本当に幸いである!
最後に、今日の詩編85編から読もう!
「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、
彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし
まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。
主は必ず良いものをお与えになり、
わたしたちの地は実りをもたらします。
正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます。」アーメン!
<主なる神さまの平和と正義に与り、
神さまの平和と正義を宣べ伝えよう!>
5
ヨハネによる福音書 15章9-12節
暑い夏です、特に今年は酷暑の夏です。
さて、8月に入りますと、8月15日の終戦記念日があり、また、8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が落とされ、もう絶対に核戦争などは起こしてはならないことを肝に銘じて、私たちは、この8月には、特に「平和」について考えます。
今日は「平和の日」主日です。
私は、牧師になった初任地の広島教会で2年間を過ごしました。この夏の時期、特に8月6日を中心とした日には、日本人のみならず外国の方々も平和につき、また原爆について考えるためでしょう、広島市にはたくさんの方々が見えました。
神道、仏教、カトリック・プロテスタント教会など、広島の宗教者の会が枠を超えて、一緒に共に祈る集会を平和公園にて早朝行いましたが、8月6日、私も広島におりました時にはそれに参加をいたしました。そして、その集会等を通して、改めて広島市民の核兵器廃絶に対する強い思いを体験いたしました。
今年は、アメリカと北朝鮮のトップ会談が6月12日に行なわれ、トランプ大統領は北朝鮮に対して体制の保証を提供する約束をし、キム委員長は朝鮮半島の完全な非核化について、断固として揺るがない決意を確認した、とされております。これが実現するかは予断を許さないところですが、平和を希求する全世界の願いが成就されることを望みます。
このような時、私たちは、改めて、平和とは何かについて聖書から聞いてまいりたいと思います。
今日の旧約聖書の日課はミカ書です。預言者ミカの活動は、北イスラエルのサマリア陥落の前、紀元前725年頃から、サマリア陥落後の紀元前701年の前ころまでであろうと考えられております。
この時期に、ミカは北のサマリアが偶像礼拝の故に神の裁きによって滅びること、また南のエルサレムも不正義の故に神の審判は逃れられないことを語りました。
この預言が紀元前722年/721年のサマリヤ陥落によって成就した時、更に紀元前587年にエルサレムがバビロンによって陥落させられた時には、ミカの滅亡預言は捕囚の民にとって非常に重い意味を加えたのでした。
徹底的な裁きを告げたミカの預言が、バビロニア軍によるエルサレム崩壊によって遂に成就したと受け止められたとき、ミカは絶望の中にある捕囚民に向かって、紀元前8世紀、既に、慰めと希望のメッセージを語っておりました。
神は将来イスラエルの民を救うであろうとミカは告げます。神がバビロン捕囚の民を連れ帰り、エルサレムでもう一度礼拝をささげられるようにすると申しました。それが今日読まれた旧約の「終わりの日の約束」の日課です(4:1-13)。
ミカ書4章3節にこのようにありました。「4:3主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」。
ミカは、さらに、主が良い羊飼いのように民を養い守る指導者を選び、平和がもたらされる(5:1-5)と申します。すなわち、律法がすべての国々で守られ、剣や槍が鋤と鎌に作り直される日がやがてやって来る(4:1-3、イザ2:2-4)と申します。そのあとの、5章4節で「[MIC] 5:4彼こそ、まさしく平和である。…」とあります。すなわち、主イエスの出現によって「平和」がもたらされるとミカは語っておりました。
また、今日の使徒書の日課、エフェソの信徒への手紙2章からも、教えられます。
エフェソ書2章13節から14節、「2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とあります。
敵意を持っていたイスラエルと異邦人との間のことを「遠く離れていた」と言うのですが、遠く離れていた者が、「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」と記されます。
この「キリスト・イエスにおいて」ということはどういうことでしょうか。
それは「キリストとイスラエル」、「キリストと異邦人」と言うように両者が、それぞれキリストに近いものとなり、そのことによってイスラエルと異邦人の、両者が遠い関係から近い関係になることができたということです。
キリストによって、両者が、それぞれに神と近い関係になり、そのことによって両者が近い関係になって「敵意」という隔ての壁が取り除かれたと申します。
そこに平和があり、これによって平和がもたらされるということが、聖書が伝えている真の平和です。
私たちの日常生活の中で、どうしてもあの人は許せない、という感情を持たざるを得ない人が私たちには居るかもしれません。しかし、「私と神さま」との関係、「許せないと思っている人と神さま」との関係を考えて見ますと、「私」と「赦せないと思っている人」、それぞれが神によって許されている者です。それぞれが神さまによって執りなしをされている者です。
2章13節・14節「2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。」
このように、今日の旧約聖書、使徒書の日課によれば、キリスト・イエスの出現とそのイエスの業によって平和がもたらされることが示されております。
そこで改めて、主イエスが語ったところの福音書によって、今日の主題である「平和」について聞きたいのです。
今日の福音書の日課で、イエスはこのようにおっしゃいました。
「父なる神が私を愛したように、私もあなた方を愛してきた。あなた方を愛してきた私の愛に留まりなさい。私が、父なる神の掟を守り、その愛に留まっているように、あなた方も私の掟を守るならば、私の愛に留まっていることになる。このようなことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。この、互いに愛し合いなさいということ、これが私の掟である。」
ここには、御父のイエスへの愛、イエスが示すイエスにつながれた人々への愛、そして人々の愛が描かれております。これは一つの愛の連動です。
イエスは9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」と述べてから、「わたしの愛にとどまりなさい。」と諭します。弟子に対するイエスの愛は、イエスに対する御父の愛に根ざしておりますから、弟子たちがイエスの愛にとどまるとき、父なる神の愛にとどまることに通じております。
主イエス御自身は神さまに完全に服従なさいました。その服従を通して、弟子たちに模範を示され、人びとが主イエスの愛の中に捕えられるよう願いました。
御子イエスは、御父の戒めを守ってまいりました。主イエスは愛を偽りのないものとして示され、そして、愛からの実りとして、御父の愛の中にとどまり、その愛に生かされ、人々を導かれたのでした。
愛には、つねに喜びが伴います。
11節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあります。
御子イエスは弟子たちを御自身の愛の中に置くことによって弟子たちから不安・心配・苦痛を取り除きました。
こうしてイエスは、弟子たちの中に、イエス御自身のもつ「父なる神への服従の喜び」を呼び起こし、それがイエス御自身から弟子たちの中に照り輝き、何ものにも害されず、曇らされない全くの完全な喜びが満ちるようになさいました。
そして12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と申しました。
「互いに愛し合いなさい。」というイエスの「新しい掟」(13:34)に生きることが求められております。
「互いに愛し合いなさい。」はあまりにも有名な主イエスの言葉です。
ここでイエスは確かに命令法で「愛し合いなさい」と言い、さらに「これがわたしの掟である」と言っております。
しかし、「愛とは命令されたから愛するというようなものか」という疑問を感じる人がいるかもしれません。愛というのは心の中から自然に湧き上がるもので、命令されて義務的に愛するというのは、ほんとうの愛ではない、と言うこともできるでしょう。
そのようなことを考えるとき、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉はとても重要な意味を与えます。
イエスは、愛の掟をただの命令として弟子たちに与えているのではありません。イエスが弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じておられます。
弟子たちの側からすれば、「イエスがわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきだ」ということになりますが、このとき、弟子たちにとってイエスの愛は単なる模範ではなく、弟子たちが愛することの根拠だと言えるのではないでしょうか。
「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができますし、愛さずにはいられなくなります。これは義務や命令の世界ではなく、恵みの世界です。
「掟」や「命令」と言っても実は外面的な規則のようなものではなく、わたしたちの内面に働きかけて、わたしたちの生き方を新たにしていく神の導きによることです。
そのわたしたちの中に「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が実現するならば、イエスは復活して今もわたしたちのうちに生きていてくださると言えます。
愛は決して命令されるものではありません。愛は要求によって得られるものではありません。この「愛するように」との命令は、「父は、神の愛を知る者たちが、互いに自分自身を無償で与えることを望まれる」ということができます。
愛する道は他にはありません。それは無償でなされるのであり、そうでなければそれは愛ではありません。
神さまは、私たちに「互いに愛しなさい」と言われますが、それが簡単にできるとは思っておられないのではないでしょうか。
神は出来上がった信仰や行動を望まれているのではありません。私たちの弱さ、迷い、不安、すべてを知り尽くされてなお、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われ、私たち一人一人を受け入れて下さっております。その上で、「互いに愛しなさい」とおっしゃるのです。
今日は「平和の主日」です。私たちの平和は、「互いに愛し合う」ということの中に見出されることを福音書から聞いてまいりました。
「私があなた方を愛したように」と主イエスはおっしゃいました。主イエスがどのように私たちを愛されたかを、私たちは常に聖書の み言葉によって聞いてきました。
主イエスはどんなに疲れていても、群衆の、癒して欲しい・聞いて欲しい・助けてほしいという願いに応えられました。悲しむ人・苦しむ人・弱い人の友となりました。安息日にも関わらず、奇跡を起こし病む人を助けました。
そして、父なる神の意思に従って、私たち人間の悪を帳消しにするために十字架にかかって私たちの身代わりになられました。言えば、私たちのような、本当に傲慢で罪深く、弱い者に対して、どこまでも仕えてくださったのです。
そのような主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うこと、それを主イエスは望んでおられます。
使徒書のエフェソの信徒への手紙でも、敵対するそれぞれが、神の恵みを信じて、神の執り成しのうちに、隔ての壁が取り去られて、神にある平和が実現することが示されておりました。
私たちは、主イエスが私たちを愛してくださっているように、私たちがお互いに愛し合うことによって神にある平和を実現したいのです。
繰り返しますが、主イエスは「15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とおっしゃっておられます。
私たちは、絶対者なる神がお送りくださった主イエスが私たちを徹底的に愛してくださった、そしてそのイエスが望むように、私たちがお互いに愛し合うことによって神にある、そして神が望む本当の平和を実現したいのです。
いにしえの預言者、イザヤもエゼキエルも、そして今日の旧約聖書の日課のミカも、大国の実力のまえに右顧左眄しなければならなかったイスラエルの民に、絶対者なる神に委ねて、主の み言葉にのみ頼るべきことを繰り返し述べております。
翻って、オウム真理教から名前を変えた「アレフ」が、今年7月6日に死刑が執行された麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚の教えを忠実に守る形で今も教義を広めているそうです。また、中国の膨張主義の不安、IS(イスラミックステイト)のテロの不安など、私たちの現実は、まだまだ多くの緊張の中にあり、わが国の内閣は平和憲法を改正してまで、集団的自衛権をもって、力で対処する用意をしようとしているように見えます。
私たちは、単に平和という理念を旗印として、他を批判・攻撃するというのでなく、共に生きることができる道を、誠実に、粘り強く、訊ねようではありませんか。この道こそは、活きて働きたもう主が私たちに恵みと賜物として許しておられるものであり、私たちをお導きになる道です。そこから、「平和」についても、私たちがなすべきことが導かれてまいります。
現代の世界のこの上なく深刻な問題の中にあっても、主を賛美し、これに感謝することができるとともに、主から与えられている課題を喜びつつ、詩編34編のことばなどに示されるように「[PSA] 34:15 …平和を尋ね求め、追い求めよ」ということを精一杯聴き、追い求めて行くことができます。
「平和を尋ね求め、追い求めよ」ということは、共に生きることを探求しこれを追求することに他なりません。共に生きることの中で、人間は互いに真実に、自由に、大胆に生きることができ、敵対と陰謀から救われるのであり、そこでこそ人間性が真に確立されます。
私たちが腹をくくって神様に委ねることができれば、互いに愛し合うことに導かれ、それが平和につながっていくものとなるのです。
私たちは、憲法がないがしろにされる瀬戸際におります。どのように改正するのかなど課題がありますが、私たちは全てを導いておられる主の御心を問う必要があります。
主イエスは「マタ26:52・・・「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」ともおっしゃいました。
主イエスは愛と平和、非暴力を説かれました。折しも今年は、非暴力主義を貫いた、マーティン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日、テネシー州メンフィスで宿舎の部屋を出たところを狙撃されてから、50年の節目の年です。
私たちは改めて、主にある本当の平和を作り出してゆく者として、主のみ言葉、「互いに愛し合う」ということをまず第一にしてまいりたいのです。
その上で、平和を求めて今、私たちにできることは精いっぱいしつつ、いつも執り成していてくださる主イエスに、全てをゆだねて過ごしてまいりたいと思うのです。
聖霊降臨後第10主日説教『一途な信仰』 2018年7月29日
マルコによる福音書5章21-43節
今日の日課の少し前の、4章35節以下に記されている「イエスが荒れる風と湖を静めた」奇跡の後、一行はゲラサ人の地方に着きました。この「突風を静めた」イエスのことばと行動は何を意味していたのでしょうか。そこでは、これによって「この人はだれか」という問いに対する答えとして、「自然を支配するイエス」が示されております。
その箇所に続く5章1節以下に、「悪霊を支配するイエス」が示されております。イエスはそこでも悪霊にとりかれた人を癒し(5:1-20)、再び舟に乗って向こう岸へ移動いたします。
そして今日の私たちの福音の箇所は「死と病とを支配するイエス」を示しております。
今日の聖書日課には2つのお話が記されております。
一つは、娘のいやしを願う会堂長ヤイロの願いを聞いてイエスはヤイロの家に向かうお話です。もう一つは、その途中で、イエスは十二年間出血の止まらない女性の癒しを行う物語です。
このふたつの奇蹟物語には、共通点が多く、そのために一つの話とされております。
二つの異なった伝承を結びつけることによって、両方のもつ共通の大切な意味が浮き彫りになるからです。
それは、①状況の絶望性、②イエスの前にひれ伏すこと、③ヤイロの娘は十二歳、女の病気の期間も十二年という共通性があります。また、どちらの場合も、特に大切なこととして、信仰を持つことの重要性が強調されております。すなわち、イエスは癒された女に向かって「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と語り、娘の死を知らされたヤイロには「恐れることはない。ただ信じなさい」と語っております。
このように「ただイエスを信じる」ということ、また「一途に主イエスに信頼する」ということの大切さが示されております。
さてイエスはいつものように、ガリラヤの湖のほとりで多くの人々に教えを宣べておられました。そこに会堂長の一人でヤイロという人が来て、イエスの足もとにひれ伏してしきりにお願いいたしました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と、「必死になって」願いました
会堂長と言いますのは、会堂の管理をする人で、人々の信頼が厚く、尊敬され、社会的にも重んじられておりました。自ら祈ったり、聖書を読んだり、解説をすることはなかったのですが、会堂での、それぞれの役割を決め、礼拝の進行を司どります。
その会堂長が、自らイエスのところに出かけ、イエスの足もとにひれ伏しました。当時イエスはすでにユダヤ共同体にとって危険人物であり、異端的な考えをもつ人物、とされておりました。イエスが、律法学者やファリサイ派の人々、また長老たちから、どのような目で見られていたかを考えますと、会堂長がそのようにすることはよほどのことでした。そのような状況下で、会堂長はあえてイエスに「ひれ伏して」願いました。
「マルコ 5:23 ・・・「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」」
今、ヤイロにとって、幼い娘のことで心はいっぱいなのです。人目や外聞なども、気にはなったでしょう。が、しかし、ヤイロは自分をイエスの足もとに投げ出して救いを求め、一切の粉飾や勲章を捨てて裸になります。
一刻を争う「死にそう」な娘の病状に対して、会堂長に出来ましたのは、イエスに願い求めることだけでした。父親の娘を思う気持ちが手に取るように浮かびあがります。
イエスはヤイロの強い願いに心を動かされました。ですから、イエスは会堂長ヤイロと一緒に出かけられました。
ところが、ヤイロの家に向かうその途中で、女の人にイエスはつかまります。ここに出てくる女の人は、「十二年間も出血の止まらない女」でした。「5:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」と記されております。
本当に気の毒なことです。人には言えず、隠れてひとり苦しんでおりました。しかも十二年もの長い期間です。
この女の人はこれまで医者に診てもらうなど、ありとあらゆる手だてを尽くし、またそのために全財産を使い果たしてしまいました。もう何も残っておりません。
そのうえ、旧約聖書レビ記(15章25 節以下)に「15:25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。15:26この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。15:27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。」との規定がありました。
ですから、彼女は汚れた者として、人前に出ることは許されませんでした。
そんな彼女が、イエスのことを聞いたのです。彼女が、一切を失った時、見えてくるものがありました。それは「何が本物か」という洞察です。評判を聞いて、彼女はイエス・キリストに到達いたしました。
それは最後の砦、最後の頼みでした。
27節、28節、女は「マルコ 5:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。5:28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。」とあります。
彼女はイエスの服に触れればいやしてもらえるとの思いで群衆に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れようといたしました。
「イエスさまなら、なおしてくださる。しかし、わたしは汚れた女で、人に近づくことはゆるされない。それは律法が禁じている。そうだ、こっそり群衆にまぎれて、後ろから近づこう。うまくその衣のほんの端っこでもさわれば、きっとイエスさまのことだ、いやしてくださるに違いない」、こういったことを、彼女は毎日のように思い続けたのでしょう。「思い続けた」ことが、大切です。それは具体的な信仰です。しかも、持続的な信仰です。
彼女は「5:27…群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」のです。
29節「5:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」と記されております。
彼女は病苦からいやされたことを身体で感じました。するとただちにイエスもまた、ご自分から力が出てゆくのを感じとり、群衆を振り向いて言われました。
このように記されております。30節「5:30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。」
ここで重要なことは、「主イエスにとっては、か弱い、病弱のやせ衰えた手で、うしろからやっと届いた女性のひと触れが、群衆の押し合いへしあいする力よりも、はるかに大きく感じられた」ことです。十二年の祈りをこめた、病弱の女の、絶望の底からの小さなひと触れ、この力が、この世の大群衆の力よりも、はるかに大きいことを成し遂げたのです。この小さな祈りが、主イエスから大きな力を引き出しました。
たとい私たちに力はなくとも、たゆまない信仰、それがイエスの力を引き出します。もし、からし種一粒の信仰(マタイ17:20)があるならば、そうなるのです。
31節「5:31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
しかし、イエスは、ご自身に触れた者を見つけようと、見回しておられました。女は、自分の身に起こったことを知って、恐れおののき、イエスの前にひれ伏し、本当のことをすっかり申しました。そこでイエスは女に言いました、『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』。(5:34)
イエス・キリストは、この十二年祈り続けた弱い女の信仰を褒め、その信仰があなた自身を救ったと言われたのです。
いやしは、信仰の結果ではありません。むしろ信仰そのものの中にいやしがあります。わたしたちの信仰とは、ただ『信じたことを本当のこととする』ことにとどまりません。むしろ真理なるイエス・キリストに捕らえられることなのです。それはあのヤコブが、天の使いに「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と創世記(32章27節)で申しましたように、しつこく真剣に、この長血の女は、行動し、信じました。イエス・キリストは、この真剣さのところに立ってくださいます。
長血の女の話は、実はヤイロの娘のところに行く途中の出来事でした。イエスは、この長血の女の出来事もおろそかにせず、一生懸命に当たりました。
さて、ヤイロの娘と長血の女の話の両方がここで示されておりますが、病状の重いヤイロの娘は今この一瞬、一刻一秒が問題になっておりました。
他方、長血の女は、十二年という長い時間をかけた後にイエスに接しました。
もう十二年も苦しみ悩まされている彼女ですから、時間的なものはヤイロの娘のように一刻を争うというものではありません。
しかし、イエスはヤイロの娘の病状の時が切迫しているのにもかかわらず、長血の女のために足を止められ、「わたしの服に触れたのはだれか」と振り返られたのでした。この振り返られて言葉をかけられたということは何を示しているのでしょうか。
イエスは正面きって対応できない、後ろからしか救いを求めることしかできない女に、自らが振り向くことにより一人の大切な者として受け入れられたということです。そして、それは、ヤイロの娘の生死をさまようような一刻の猶予もゆるさない緊迫した中でもなされました。
一刻の猶予もないと思われる娘の病状を案じる会堂長ヤイロにとって、長血の女の振る舞いとイエスのなさりようは、いらいらするものだったでしょう、早く早くとあせる気持ちがあったと思われます。
イエスは会堂長とともに家に向かいますが、しかしヤイロの家に行き着く前に、その途上で、ヤイロは娘の死を告げられ、一縷の望みを打ち砕かれます。
会堂長の家の者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と告げます。
案の定、途中でぐずぐずしていたために、遅くなって、間に合わなくなったと思われました。とうとう娘は死んでしまったのです。もっと早く来てくれればよかったのにと、誰しも思うでしょう。
死はいつでもこのようなかたちで私たちを捕らえ、有無を言わせません。しかしここで、イエスがヤイロに言われた言葉が重要です。イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけます。
何を信じれば良いのか、その対象をイエスは述べません。希望がなくなったように見えるその「無」の向こう側に、イエスの力の源泉である父なる神がおられます。
私たちは、どんな時にも望みを捨てないのです。一途にイエスに信頼していくのです。イエスは、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」という人々の言う言葉を無視し、「恐れることはない。ただ信じなさい」と、「ただ信じ」ることを求められます。
ヤイロに「恐れることはない」とまず告げますが、これは、「神がここに臨み、働かれる」という意味合いがあります。この深く嘆き悲しむ場にも神は臨み、働いておられます。ですから次には「ただ信じなさい」と続きます。
娘の死の知らせを聞いて、確かに父親の悲しみはどれほどか大きく、その思いはどん底に落ちこんだことでしょう。
ところが、主にとって遅すぎるものは、何一つありません。遅すぎるということは、人間の時間で考えているからです、神の時間があります。イエス・キリストが来ても駄目だ、という現実、そのような事態の中で、主イエスは答えました、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と。
信仰は、信じえないほどのところで、力を発揮します。どうにもならない現実のところに、主は立っておられます。よみがえりの信仰、それは、死と虚無の墓を空にして、いのちの主が立ちたもうことを信ずるということです。
一行が会堂長の家に着いてみると、「人々が大声で泣きわめいて騒いで」いました。弔いのための泣き女や笛を吹く者の様子のようでもあるのですが、イエスは家の中に入り、徒に泣き騒ぐのをやめさせ、人々に言われます。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」とそのように申しました。
生きる希望を与える神を「無」の向こう側に見るイエスが来るとき、「死」はもはやその力を失って「眠り」となります。なぜなら、イエスは死者を「起こす」、すなわち「復活させる」権能を持つからです。イエスにとって死は眠りであり、イエスはその眠りから私たちを目覚めさせてくださいます。
40節「5:40人々はイエスをあざ笑った」とあります。人々の嘲笑は、そのイエスを認めずに目の前の現象に捕らわれていることから生じます。
イエスを信じない者にとって、イエスの言葉は「たわごと」としてしか聞かれません。人々は嘆いておりますが、イエスを通して現れようとする神の力に気づかなければ、それは「騒ぎ」でしかないのです。しかしイエスを信じる者にとって、イエスの言葉は力であり、喜びです。
イエスは皆を外に出し、子供の両親とペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれ、そして子供の手を取って、「タリタ、クム」(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)と言われます。イエスの癒しは、魔術的な動作によってではなく、「少女よ、起きなさい」と語りかける愛によって引き起こされます。これは当時の日常語アラム語ですが、イエスの言葉のインパクトがよく伝わってまいります。
その声を聞いてすぐに起き上がった少女を見て、人々は我を忘れるほど驚きますが、イエスは彼らにこのことを「だれにも知らせないように」厳しく命じます。
奇跡の目に見える結果だけが吹聴され、もてはやされれば、興味本意の出来事にすぎなくなります。
問題は「メシアの秘密」ということです。イエスが続けて起こした、重なった三つのできごと、①4章35節から41節に示された、波風を鎮めて「自然を支配するイエス」、②5章1節から20節に示された「悪霊を支配するイエス」、そして今日の③「死と病とを支配するイエス」によって示されておりますのは、「この人はだれか」という問いに対する答えです。その答えとは「この方はメシア」である、ということです。これはあらわにされると同時に、まだ隠されている神の真理、神の真実です。ペトロたちは、この答え、今はまだ、この秘密を垣間見たにすぎません。もっと明らかに、もっとその核心に近付いた形で見えてくる時まで、この秘密は、「だれにも知らせないように」と、この秘儀の保持が命じられます。
奇跡は神の愛の力を現わす出来事です。イエスの厳しい沈黙命令は、見える現象の奥深くに息づく神の愛に目を向けるようにという呼びかけです。
さて、今日の福音は、ヤイロの娘の話で始まりました。途中で、長血の女の出来事があり、イエスは少しの間、ヤイロの娘の病から目が離れます。しかし、イエスは、娘へのヤイロの深い愛を知り、またヤイロの厚い信仰をご覧になって、その願いを聞かれました。
イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われます。これは私たちの信仰の立派さや完成度を褒めているのではなく、取るに足らない者の、信仰と呼ぶにはほど遠いものを引き上げ、お聞き上げくださるということです。
ヤイロの娘はイエスの言葉によって、死の眠りから生き返り、起き上がって歩きだしました。これは「恐れずに、ただ信じる」こと、「救われると信じて自分を投げ出す」ことです。それが私たちの思いを超えた、素晴らしい主イエスの恵みと神の愛を捕らえることができます。
私たちの人生というものも、この物語と同じではないでしょうか。
わたしたちは、会堂長ヤイロがイエスの前にひれ伏してお願いしたことを今日の福音として聞きました。つまりその地方で、指導的な地位にいる人が、人前もはばからず、自分を投げ出して、地に伏しました。ここには徹底的に自分を無にする信仰が見られます。
あの長血の女のところで、私たちは熱心に願い、迫る信仰を見ました。ここに今、自分を無にする信仰を見るのです。
「熱意」と「無」とは、正反対のように見えます。しかし、信仰には、この正反対のことが必要です。私たちはとかく、「熱心」になると、自分が出て来ます、また自分が「無になる」と、あまり熱心でなくなります。しかし、本当の信仰は、この二つを一つにします。この一切無になった祈りのゆえに、イエス・キリストは今、十二歳の少女のために、わざわざ自分から出向かれます。いわば小学校六年生の子のために、イエス・キリストは全力をつくされました。また、長年わずらっていた女を癒したのです。
神とは、このように、一人の泣き悲しむ者のために、全力を注がれるお方にほかなりません。わたしたちは、神をただ高いところに求めてはなりません。一人の子供が泣き叫ぶところ、自分を無にして願い求めるところ、そこが、神の場所です。
「マタイ18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と言われた主は、自ら同じように、小さな者を大切にしてくださいます。
私たちは、「ただイエスを信じること」「一途に主イエスに信頼する」所に立ち、メシア、救い主である、主イエスを一途に信じるところから主の慈しみをいただきます。主への一途の信仰のゆえに私たちは全てを主イエスに委ね、そこからもたらされる主にある平安の内に今週も過ごしたいものです。
第20回コリントの信徒への手紙
6章1~7節 2018年7月22日(日)
今日の御言葉は6章1~7節です。これまでの内容と違って、奇妙な事が書いてあります。それは教会の中で争いが起こった時どうしたら良いか、という問題です。その前にもう一度見ておきたいことは、前回の5章のところでパウロはコリントの教会の不品行と堕落に満ちた状況を赤裸々に書いて、どう扱うかを厳しく言ってきました。そして更に4章17節には弟子のテモテを遣わすと言って「キリスト・イエスに於ける私の生活の仕方を、私が至るところの教会で教えた事を思い出すようにと言ってきました。」このようにしてパウロは教会生活というものをはっきりと知らせ教会の権威を教えようとしているように見えるのであります。5章のところで終わりの方に教会の外の人を裁くのは神である。教会の内の者の問題は教会で全責任を負わねばならないと言ってパウロここでも教会の独自の権威というものを示そうとしています。そうしておいて続いて6章の始めで、それなら教会の内に争いが起こった時どうするのか、という事を語りながらここでも教会の権威が多くの人が考えているよりもはるかに力強いものであるのか、という事をはっきり示そうとしているのであります。現にコリントの教会の中に、もう問題がいっぱい起こっている。手が付けられないようなレベルの低い問題があちこちにある。そういう中に教会の聖なる信徒たちはどうしたのか。詳しい事情のことはよく分かりませんがそこには教会内の事件を外の人によって裁かれているらしいが、これは一体どういうことか、パウロはそれに対して厳しく咎めているわけです。6章2節を見ますと「あなた方は知らないのですか聖なる者達が世を裁くのです。この世の方があなた方によって裁かれるはずなのに、あなた方には些細な事件すら裁く力がないのですか。」とかいています。ここで」パウロが言いたいのは教会内の問題をなぜ外の人々に裁いてもらおうとするのか、という事であります。教会の問題は教会自身が解決しなければならない、と言って教会が持つ権威の事を語ろうとするのです。
不品行な者たちとの交わりについても教会は独自の判断を持っていました。教会の生活は教会の外の生活とは違っている思わせる程教会の独自の判断と権威を持っていると言いました。それは教会の事は教会で、と言うだけのことではなくて教会と言うところは他のものと違う立場を持っていると言うことであります。教会はこの世にあるあるに違いありませんがこの世に支配されない、むしろこの世をさえ裁く力を持っているはずである、というのであります。教会がそういうことを言うのは何か一人で力みかえっているように思われるかも知れません。現在においても日本ではキリストの教会は小さな団体であります。コリントの教会の当時、なおさら弱小なものであったと思います。その中にありながら、パウロは教会はこの世のものではない力と権威を持っているはずである、と確信していたのです。それはパウロだけでなく代々の教会がそうであったのです。人の目にはどう映るにせよ教会は神が建てられたもの、キリストによって救われた者の集まりであります。それならそこで行われるべきことは、まさに神の権威を反映させるべきものであります。キリストを信じることの力がどういうものであるか、ということを堅く確信していなければならない、ということであります。そういうことを言ったのちにパウロは教会の問題をなぜ教会外の人によって裁かれようとするのか、と言って今度は教会こそ実に世を裁くべきものではないかと言うのです。教会が本当の意味で世を裁くもの、いや裁いているものである、と言っているのですしかしだからと言って教会はこの世の事件をいちいち裁いたりするものではありません。教会がそこにある、ことが既にこの世に対する裁きではないでしょうか、と言うんです。現在の日本では教会の数はまことに少ない、神のこと等考えようともしない。しかし私たちは神を信じて教会に集います。教会での神様を礼拝すると言うことが大事であるこを知っています。教会の存在の力、神の力がこの世に働いているのです、教会は神によって建てられ、教会の力は世を裁いていることになるのであります。教会が世の中にあって裁いていると言っても教会の信徒がみな裁判官になるのではありません。そうは言ってもまことに神のいますことを証ししキリストの救いこそ真の救いであることを示すことによって、この世を裁くことになるのではないか、ということです。
パウロは3節を見ますとこう言っています。「私たちが天使たちさえも裁く者だ、と言うことを知らないのですか。まして日時生活に関わることは言うまでもありません。」つまり、ここで言われていることはキリスト者が世を裁くだけでなく、御使いをさえ裁く権威を与えられている、ということであります。こうしてパウロの教会の権威についての話は一層進んで御使いの裁きに至って頂点に達した、と言えると思います。私たちは自分が信仰を持っていると言うことをどう考えているでしょうか。キリスト者である事をただ皆と少し違う考えで生きているというだけでしょうか。教会へ来る事も習慣的に集まるというだけの事かも知れません。しかし、そうではなくて今は神のものとせられた者であります。パウロが言うのは私たちは既に神の権威のもとに生きている、と言うことです。それならばこの世の人の知らぬ確信をもって生きてよいのであります。パウロはコリントの教会へ強く迫って言うのです。「それだけの権威を神様から与えられ、そういう生活をしているはずの教会が裁きの事について、間違を犯すはずはないのではないか。」とパウロは言うのです。私たちの教会もコリントの教会とは違う大きな問題を抱えています。神がこの世に建てられた教会に神、また大きな力と権威とをお示しになって神の御業をあらわしていかれるのあります。 アーメン・ハレルヤ!