説教:木村長政 名誉牧師

 

第7回 コリント信徒への手紙 2章1~5節

 今日からコリント信徒への手紙2章に入ります。前回の1章の終わり、31節の言葉でひとつの区切りでした。30~31節を見てみますと〔神によって、あなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは私たちにとって神の知恵となり義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。〕これが1章のこれまでの結論でした。救われた人は自分は何の誇るところもない。一切はキリストの十字架によって成し遂げられているのです。主が全てのことをしてくださったのであります。パウロはこのことを良く知っていました。ですからパウロはそのことだけを告げようと思いました。こうしてパウロはコリントの教会へ行ったときのことを思い出すのであります。そして2章の言葉へと入ってゆきます。2章1~2節〔兄弟たち私たちもそちらに行った時、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら私たちはあなた方の間でイエス・キリストそれも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めていたからです。〕ここに1節の真ん中に新共同訳では「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに」とあります。ここのところは口語訳の聖書では「神の証しを宣べ伝えるのに」となっていました。ここでの神の証しとはどういうものでしょうか。神が何を証しされたのでありましょうか。これはキリストの救いについて語っているに違いありません。キリストの救いは神が証ししておられることである。というのであります。(神が証ししておられるという視点は私にも新たな発見です。)ひとりの人が十字架にかかって死んだことがどうして全ての人の人間の救いになるか、ということは大きな謎であります。私自身もずうっと大きな謎でありました。これはもう教会の教えだからそのまま余り考えなしに、そういうものだ、信じれば良いのだとずうっと心の奥にしまったまま、いつも何か引っ掛かった課題でした。(皆さんの中にもそう思われたことがあるかも知れません)この問題は誰にも説明できないものであるかも知れません。それで新共同訳聖書では「神の秘められたご計画である」と訳しています。

 

パウロ自身は神様のなさるみ業の不思議な神秘に満ちた出来事のことを心の奥にいっぱい展開して心の内にこめてこの言葉を書いていると思います。まさに神の秘められた謎であって説明して納得するようなものではない。ではよくわからないことを何でもかんでも、あーそれは神様の秘められた謎であるといって片付けようとしているのではありません。神の子イエス・キリストの死と復活が私たち信じる者に関わってゆく最も重要な点にさしかかっている謎であるからこのように重視しているわけです。そこでです!・・・・・ただ神が証ししてくださる時にただそれがまことの私と繋がった救いであることが分かるというのであります。(私自身これで少しだけほっとしました。)私たちはキリストの十字架の話を聞かされます。ある時それによって心が動かされ自分の救いをいくらかでも確信するようになる。その聞いたことが事実まことであると神が私たちの心に示してくださった、証ししてくださった。神は聖霊によってそのことを証ししてくださるということであります。(これはすごい事です。)その時です私たちはここに与えられていることが「唯一の救いの道である。」ことを確信するようになるのであります。主イエス・キリストは永遠のいのちに至る道である、この道によらなければ救いに至ることはできない。これがメッセージであります。いまあなたに明らかに示された神からの啓示というものであります。特別の啓示というものです。聖霊なる主が働いてくださって証ししてくださる。この証しという字の中によく似た字で神秘という言葉が含まれていると言われています。それならばこの救いの道が神のみ知っておられる深いご計画であったということになります。まさに神の秘められた計画であります。それで・・・パウロは言います。これが神の救いの道であるから自分はそれを証しするにどんな優れた言葉も知恵も用いなかった!一切を主によって行われるためである。これがパウロの決心でありました。決心と言う字は判断して決めたと言うことです、私たちが知らねばならないことは多くあるでしょう、でもその中で自分の救いに役立つことはそんなに多くあるはずはありません。その救いが大きく確かであればあるほど多くあることはありません。そうすると大事なことをぐうっと絞って行くとその一つのことを知りさえすれば他には何もいらないと言うことになるはずであります。

 

そういう意味からいえば信仰というものは大切な事になります。自分の生き死にに関する問題でしょう、どうでも良いとことではありません。その救いはイエス・キリストから来たのであります。それならば大切な事はイエス・キリストを知ることであります、イエス・キリストだけを知るのであります。しかしイエス・キリストを知るというのはどういうことでしょうか。キリストの生涯はまことに短いものでした。しかもガリラヤに出ていよいよ大事な活動をされたのは僅か3年間です。イエス・キリストが語られた大事な教え又数々の奇跡の出来事などその一つ一つの中には深い真理が示されていました。しかしキリストがこの世に来られたのは唯一つの目的のためでありました。十字架にかかって人間の罪のために死ぬということだけのためであったのです。ですからパウロは言います、イエス・キリストだけを知る決心をした。そのことはつまり十字架につけられたイエス・キリストを知るということだ、と言いたいのであります。自分がこの世で生きるために、ただ十字架につけられたキリストだけが必要である、ということを知ることであります。それは祈りにおいて教会の礼拝において日常の生活のすべてにおいてそのことを知り、そこにだけ力があり望みがあることを確信することであります。

 

さて3節になりますとパウロは自分の弱点を吐いた言い方になってゆきます・パウロはコリントに行く前の自分の気持ちを語っています。「弱く、かつ恐れ、ひどく不安であった」と言っています。普通パウロというと熱狂的な強い伝道者のように想像しがちでありますが意外な面があったと言っています。それは事実であったでしょう、さらに度々パウロをおそって来るひどく苦しい病気がありました。そういう中にあってパウロの教える十字架の苦しみによる信仰が支えになりました。だからパウロはただただ十字架のキリストを語る以外にないのであります。十字架だけが頼みとすることであったでしょう。従ってパウロがこのように弱い状態であったことはかえって彼の十字架の信仰の強さをあらわしているものである、ということができるのであります。使徒言行録18章にコリントへ行った時のことが詳しく記されています。彼はアテネで軽蔑され何の成果もなしにコリントへ行ったのであります。コリントにはプリスカとアクラの夫婦がいてパウロを迎えてくれました。そして一緒に天幕を造りながら伝道していったのであります。しかしユダヤ人たちの反対が強くて伝導も容易なことではありませんでした。ある夜、幻の中に主のみ言葉を聞きました。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」という励ましの声でありました。パウロは押し寄せてくる反対と恐ろしさでだんだん語ることを止め黙っているようになったので神のをみ声を聞いたのでしょう。パウロは言います「わたしの言葉も宣教も巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである」と言っています。伝道は結局人間の力や知恵ではありません。キリストが救い主であることを誰が信じさせることができるかでありましょう。それは人間の説明や業でできることではないのです。ただ霊と力によるだけであります。聖霊と神の力によるということです。パウロは言いました2章11節を見ますと「神のことは神の霊によるほかはない、と堅く信じていました。」人間にできることは、ただ神の力に委ねるだけであります。十字架の力にすべてを託すだけのことであります。

 

それでパウロは2章5節で書いています。「それはあなた方の信仰が人の知恵によらないで神の力によるためであった。」これが目的であったということです。パウロはこの手紙の1章から2章に口を極めて人間の知恵は救いにならないことを語るのであります。人間の知恵と神の知恵とを比べようとしてゆきます。ギリシャ人は知恵を求める優れた哲学や神学の議論が盛んで大好きでありました。それはギリシャ人に限らずどの人間も知恵を求めます、ギリシャ人はその代表であります。知恵を求めるというのは知恵によって救われようよいうことです。知恵によって救われようとするのは要するに自分で納得したいということでしょう。自分が分かり理解し自分が承知するということ、結局は自分なのです。そこにギリシャ人だけでなく全ての人間の問題であります。私もずうっとこの課題がどうしてもあったのです。そうするとこの言葉は信仰が人の知恵によるのでなくというのですから信仰が人の知恵によるものではないんだ、ということがわかる。このことが目的の一つであったことになるでしょう。それなら信仰にとって最も確かなことは何かということになります。それは神の力であるということです。信仰は神の力によるということが明らかとなる。十字架のみを知る、というのもそれが示されるためであります。それなら神の力とは何でしょうか、ある人が言いました、それは神の恵みである。そうです神の恵みです。神の力というものは分かるようで分かり難いものです。多くの人は神の力といえば神の強さを考えます。しかし神の強さによっては人は救われません。神のまことの強さはその恵みなのであります。神の「恵み」であります。愛ということさえ恵みでなければ人に対して力となって働いてはこないのです。「恵み」は赦しであります。神は愛であります。しかし罪人である人間にとっては神は恵みでなければ愛はわかりません。同じように神が恵みをお与えなければ、それは力として働かないのであります。エペソの手紙でパウロはこう言います。1章17節〔どうか私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が知恵と啓示の霊をあなたに賜って神を認めさせ、さらにまた神の力強い活動によって働く力が私たち信じる者にとって、いかに絶大なものであるかをあなた方が知るように、と祈っている。〕神の力を知るとはこういうことであります。

 

旧約聖書 詩篇42篇にあります〔鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいて神を慕いいける神を慕う〕このような神を求める魂に対して神はどのようにお答えになるのでしょう。それは「恵み」であります。恵みが神の力となって与えられたのです。それならその恵みはどこに示されたでしょうか。それは十字架でありました。そこで神は「御子の死」という恵みを全力を注いでお与えになりました。それなら人も全力を持ってその十字架を知れば良いのであります。十字架以外なにも知る必要はないのであります。     アーメン

 

説教:田中良浩 牧師

 

1 7月16日(聖霊降臨後第6主日) 於 スオミ教会

聖書日課 エレミヤ20713、ローマ61~⒒、マタイ101633

田中 良浩

説教  「キリストと共に生きる」

父なる神さまと主イエス・キリストからの恵みと平安あれ!

 

序 マタイによる福音書10章は弟子たち<それは使徒と呼ばれる>を宣教へと派遣するに当たって、主イエス・キリストが弟子たちにその使命と心構えをお語りになった物語である。同時に、私たちも主に召され、この世に派遣されている者であるのでこの宣教への使命と心構えは、同時に私たちにも語られたものである。

主なる神さまは私たちを召して、十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命を約束して、恵みと祝福を日々お与えくださるのであるから、私たちはこの恵みと祝福を、隣人と分かち合い、共有するのが必須である。

 

  1. 今日の福音書から学ぶべき第一のことは:

主イエス・キリストは弟子たちに「わたしはあなたがたを遣わす」と言われた。つまり主イエスは「遣わす者」であり宣教の主である。そして弟子たちは「遣わされた者」、つまり使徒である。

そして同時に私たちも主から「遣わされた者」「派遣された者」なのである。

私たちは、主イエス・キリストによって召されて弟子とされ、そして生かされている。つまり一人、一人の生活の場、また仕事の職場、そして地域社会

に遣わされている、つまり派遣されているのである。

 

ちなみに戦後間もなくのことですが、私が高校生の時に用いた聖書は文語訳の聖書でした。現在の新共同訳によるヨハネ3章16節の「永遠の命」は

「永遠の生命」と記されていました。私は人間の実態を表すこの「生命」と

いう表現に関心があります。有名な漢字の学者、故白川静立命館大学教授は、「漢字百話」で「生命」についてこのように記しています。「生は自然的な生である。生きることの意味は問われていない。(それは草や木が大地から芽生え、成長する姿を表している)。一方、命は始め“令”と書かれた。それはおそらく聖職者が礼冠(式服)を付けてひざまづいて、静かに神の啓示を受けている。つまり神意を求める姿である。また“口”が添えられるが

その祈りに対して与えられる神意が“命”である」と。つまり生命には、

人の自然的な生と、神から与えられる使命的な命が表現されている、と思う。

しかし、ここで主イエスは弟子たちに「迫害を予告」された。同時に私たちも派遣された者として生きいく時に、様々な困難や試練に直面する。

 

何時の時代も社会は、常識、知識的、科学的であろうとする。キリスト教も例外ではない。人の集団や組織の判断は、人間の判断に委ねられる。

つまり宗教や信仰は、この世界では本質的ではなく、第二義的である。

ホスピスのチャプレンとしても、時には「何しに来た?」と言われる。

終末的な患者さんに、医療職、看護職でもない者が「何の役に立つか?」

 

こうして主イエスから派遣された者として生きるには、争いや葛藤がある。

主が言われたように、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と、初めから

困難と試練が予告されているのである。

旧約の日課預言者エレミヤも迫害にあう苦痛の告白をした。(20:7以下)

「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。・・・わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と。

それゆえ、エレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれる。主は「悲しみの人!」

 

主イエスは興味深い教えの言葉を与えるのである。

「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と。この意味は?

この賢くは創世記(3章)のエバを誘惑した最も賢い蛇と同じ言葉である。

賢いとは知恵があること、蛇は知恵を悪用した。狡猾であった。

しかし主イエスは使徒たちに「あなたに与えられた知恵をつくせ

「神の知恵者となれ

と教えたのであろう。

 

また鳩は、旧約聖書では、聖なる鳥とされ犠牲として用いられた。主イエスの洗礼に時にも、聖霊が鳩の姿をとって現われた。また素直で、霊的であると考えられていた。意味としては非常に幅広く用いられた鳩であるが、ここでは、「派遣の主の教えに素直であれ、あとは主に信頼せよ

との意味であろうか。その迫害の中においてさえ、主は「心配するな!

「言うべきことは教えられる」、そして「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と約束される。

 

ご存じの通り、初代教会では各地で迫害が起こった。使徒言行録を読めば

ペンテコステ(聖霊降臨日)、教会誕生間もなくから、迫害は起こった。

異邦人への使徒とよばれた使徒パウロも、最初は迫害者であった。

我が日本の歴史も、キリスト教迫害の歴史を中世から、現代に至るまでもっていることは良く知られている。

迫害の歴史は同時に、キリスト教宣教の歴史でもある。

 

 

  1.  今日の第二のことは:「恐れるな」という、力と希望に満ちた言葉である。

 

ここで「恐れるな」=3回繰り返されている。

26節「人々を恐れてはならない」

28節「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな」

31節「だから恐れるな」

 

これは降誕の喜びの想起でもある!(ルカ2:10~11)

「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。

 

 

「人々を恐れるな!神を恐れよ!」という意味である。

主イエス・キリストは繰り返し言われる。

「二羽の雀が一アサリオンで売られれているではないか。だがその一羽さ

え、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。

「恐れるな、あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている!」。

 

これは、山上の説教の「思い悩むな」(マタイ6:25以下)を想起する。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

<この聖句は、終末的な患者さんに安らぎと希望を与える言葉である>

 

「主イエス・キリストは言われる。わたしが共に生きて、それぞれの生活の場で、あるいは働きの場で、共に生き、共に働くと約束してくださる!」

そして「最終的な責任はわたし(主イエス・キリスト)にある」と。

 

 

  1.  第三のことは:再度の確認の言葉、「わたしたちは主イエスの仲間である」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 

ここで用いられている「仲間」という言葉は、ギリシャ語聖書にはない。

単純に、「わたし(主イエス)を告白する」という言葉が用いられている。

翻訳された「言い表す」とは、「告白する」ことである。

 

第一に、弟子たちにとっても、また私たちにとっても生きる道は、神の愛

によって隣人に仕える生活であり、また告白し、証し、伝道の生活である。

この2000年来、初代教会から不変、また普遍のものである。

 

第二はこの第三の部分には「最後の日」のことが暗示されている。

私たちは、最後の日とは、自分の地上における最後の日を思う。

 

しかし聖書は裁きを伴う救いの完成する日を「最後の日、主の日」と呼ぶ。

それはどのような日であるか、だれにも人間的には理解し、判断できない。

理性的に解らないことを詮索しても、どうにもならない。けれども

聖書はそれを「輝ける神の都、永遠の命の国

として描いている。

 

 

ここで覚えたいことがある。

弟子たちは、他でもない、主イエス・キリストにより召されたのである。

ヨハネ福音書(告別の説教14章16節)(15章16節)

主イエスは言われた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたし があなたがたを選んだ」と。「わたしがあなたがたを任命し、あなたがたを遣わした」と。

 

私は「弟子のペトロ」を想い起す。

主イエスの裁きの時、その最後の時になって、彼は「わたしは彼を知らない」と三度も「知らない」と繰り返した。(マタイ26章69節以下)

 

 

それ「にも拘わらず」、ペトロは繰り返して悔い改め、ペンテコステの日には大胆に、大勢のユダヤ人の前で説教をしたのである!

そして3000人もの人が悔い改めて洗礼を受けたのである。

 

 

「遣わされた者」の生活、(つまりそれは宣教である)には

数々の恵みと喜び、祝福が伴い、人知をはるかに超えた奇跡が起きる!

 

最後に:-

皆様と、主イエス・キリストが共に生き、また働いてくださいます

ように!

皆様の上に、主イエス・キリストのお恵みとお導きをお祈りいたします。

アーメ

 

説教「イエス様の弟子の役割」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書9章35節~10章15節

主日礼拝説教 2017年7月9日(聖霊降臨後第五主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. キリスト信仰者というのは、イエス様の弟子であるとよく言われます。弟子である以上は、先生であるイエス様の教えをよく聞いて、それを守らなければなりません。最初に、イエス様の教えをよく聞いて守るということはどういうことかについて、少し考えてみたいと思います。

二、三年前のことでしたか、キリスト教の別の教派の方からメールを頂きまして、なんでもスオミ教会のホームページを見て、お宅の教会は「新しく生まれ変わる」ことが出来ていないのでは、などと批判的なコメントを受けたことがあります。「新しく生まれ変わる」ということについて、その教派にはきっと自分たちの考え方があるのだろう、それで議論してもかみ合わないだろうと思い、他のコメントにはお答えしたのですが、それについては触れませんでした。それ以後はその方からはメールは頂いていません。

 「新しく生まれ変わる」ということについて、私はすぐヨハネ福音書3章にあるイエス様の言葉を思い出します。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。これらの言葉を総合すれば、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けて神から聖霊を頂ければ、新たに生まれ変わることが起きる、ということは明らかです。人間は、信仰と洗礼によって新しく生まれ変わって神の国に迎え入れられて永遠の命を得ることができる、ということです。

ところが、聖書にはそれでは不十分だと思わせるような教えもあります。「ヤコブの手紙」2章を見ますと、行いが伴わない信仰は役に立たない、死んでいる、と繰り返し言っていて、24節などは「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とまで言っています。これはパウロが、人間は信仰によって義とされる、つまり神の目に適う者とされる、と強調したのと真っ向から対立しているように見えます。こうしたパウロの考え方は「ローマの信徒への手紙」1章から5章にかけてよく表れています。

ただ、ここで注意しなければならないのは、パウロはイエス様を救い主と信じたら、それで全てが解決したとは言いません。もちろん、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から罪の赦しを頂くことができるようになり、最後の審判の時に神の罰を受けないで済むようになったという意味では全ては解決しています。もう、救いを得ているからです。問題は、こうした永遠の安心を神から与えてもらった以上は、この世を生きる際にはその神の御心に沿うように生きていこうと志向するようになるかどうか、ということです。ローマ12章1節でパウロは信徒たちに向かって「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい」と勧めます。生け贄などとは、ちょっとギョッとさせる表現です。どういうことかと言うと、続く2節を見ればわかります。つまり、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって、それで神の罪の赦しの中で生きられるようになったら、あとは何が神の御心か、何が神に喜ばれる善いことで完全なことかよく見極めながら生きていきなさい、たとえ罪に満ちた世の中の考えと相いれないものであっても、そうしなさい、ということです。それが神に喜ばれる聖なる生けにえになるということです。

またガラテア5章6節でパウロは、「イエス・キリストに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と教えます。イエス様を救い主と信じる信仰に生きるならば、モーセ律法の掟の一つである割礼を受けるか受けないかは意味を持たない。持つのは、「愛の実践を伴う信仰」である、と。この最後の部分はギリシャ語原文を忠実に訳すと「愛を通して働く(作動する)信仰」です(注意!日本語訳はενεργομενηをαγαπηςにかけているような訳ですが、かかっているのはあくまでπιστιςです!)。つまり、ここのポイントは、イエス様を救い主と信じる信仰というのは、本質上、働きが伴うものなのだ、ということです。どうして信仰には本質上、働きが伴うのか、と言うと、前にも申しましたが、罪の赦しの中で生きられる、最後の審判の日に神の裁きを免れる、ということから永遠の安心感を持てて、そこから神の御心に適う生き方をしようという心意気になるからです。そこで、神の御心に適う生き方とは何かと言えば、それは、イエス様流に要約すれば、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということです。

こういうふうに見て行けば、ヤコブが、行いが伴わない信仰は役に立たない、とか、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない、などと言ったことも、実はパウロと正反対のことを言っているのではないことがわかります。二人とも、信仰とは心意気を生み出すものだ、心意気を生み出さない信仰は信仰ではない、ということでは同じです。ヤコブの場合は、手紙の受け手側の教会の中で、心意気を生み出さないような信じ方が蔓延していたのでしょう。逆にパウロの場合は、ほとんどいつもそうなのですが、神から罪の赦しを頂けるために人間は何かしなければならないという考え方と対決しなければなりませんでした。そんな考え方は、せっかくイエス様が自分の命を犠牲にして人間の罪を十字架の上で償って下さったのに、それを無意味なものにしてしまいます。このように、基本的には同じ立場に立っていても、教える相手の状況に応じて言い方が異なるということはよくあることです。

宗教改革のルターの言い方はパウロに倣っています。それは宗教改革の状況がパウロにそうさせたからですが、ルターにしてもパウロ同様、人間の善い業というのは、神から救いを頂くためにするというような救いの条件としてするのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで罪の赦しの中で生きられるようになった結果、まさに救われた結果、実のように育ってくるものでした。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。イエス様を救い主と信じる信仰に生き始めて救われた者となったら、その人は100%神の御心に沿って生きるようになるのか、善い業しか行わない完璧な善人になるのか、というとそういうことではありません。ルターは、完璧なキリスト信仰者などこの世にいない、みんな初心者のようなもので、完璧に向かうプロセスにあるのだ、しかも完璧になるのはこの世から死んで肉体が滅びる時だ、などと言っています。その完璧に向かうプロセスには何があるかと言うと、それは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」と、肉体と一緒に以前から存在して罪に結びつく「古い人」との内的な戦いです。この戦いは、先ほどのパウロの勧め「この世ではなく神の御心に倣うようにして自分を聖なる生けにえとせよ」、これを実践しようとすると必ず激しさを増します。しかし、信仰者には、罪と死を十字架の上で滅ぼした永遠の勝利者イエス様がいつもついていて下さるので、たとえ苦戦を強いられても、必ず勝つ戦いを戦っているというわけです。

ここで冒頭に提起した「新しく生まれ変わる」ということについて申し上げると、それは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら、もう100%神の御心に沿って生きるようになるとか、善い業しか行わない完璧な善人になるとか、そういうプロセスの終点に到達することではありません。そうではなくて、そのプロセスに参入すること自体が実は「新しく生まれ変わる」ことであり、そこから離脱することなく内なる戦いを戦い続けることが新しく生まれ変わった命を生きることになるということです。このようにして生きるキリスト信仰者は、まさにイエス様が十字架の上で成し遂げたことを生きる根拠にして、自分や周囲の者をイエス様の教えと神の御心に沿うようにしようとしているので、これは正真正銘の弟子です。

 

2. 本日の福音書の箇所でイエス様は、多くの弟子たちの中から12人を選びました。この12人は「弟子」という言葉ではなく「使徒」という言葉で言い表わされます。ギリシャ語でも別々の言葉です。「使徒」アポストロスというのは、ギリシャ語の「送り出す、派遣する」という動詞アポステッローから来ています。本日の箇所は、イエス様がこの12人を派遣する場面です。12という数字は、ユダヤ民族を構成するヤコブの12支族から来ている象徴的な数です。そこで本日の箇所で興味深いのは、イエス様は派遣先をユダヤ民族に限っていることです。ユダヤ民族以外の民族、つまり異邦人たちのところには行ってはならない、と言うのです。何故でしょうか?皆様もご存知のように、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後まもなくして、キリスト信仰の伝道は急速に周辺民族に及んで行きました。本日の箇所でイエス様が行ってはならないと名指ししたサマリア民族などは、いち早くキリスト信仰を受け入れた民族です。どうして、この時のイエス様は異邦人伝道を禁じたのでしょうか?このことを見てみましょう。

鍵になるのは、イエス様が12人に託した役割の中に「天の御国は近づいた」ということを宣べ伝えることです(7節)。「天の御国」または「天国」とは、マタイ以外の福音書では「神の国」と呼ばれています。マタイの場合は、「神」という言葉は畏れ多いので「天」に言い換えることがほとんどです。そういうわけで「天の御国」、「天国」、「神の国」はみな同じものを指しますが、ここで特に日本人が注意しなければならないことがあります。それは、聖書の「天国」というのは、黙示録や「ヘブライ人への手紙」などから明らかなように、将来、今ある天と地が終わりを告げて神が新しい天と地を創造する時に現れてくるものであるということです。その時、イエス様が再臨し、死者の復活が起こって、イエス様を裁き主とする最後の審判が行われ誰がそこに迎え入れられて誰が入れられないかということが決められるということです。なぜ日本人が注意しなければならないかというと、人間は死んだらどこに行くかということについて、仏教や神道にはちゃんと教えがあると思うのですが、一般の人たちは死んだらすぐ天国に行って、そこから地上にいる友だちを見守ってくれていると思っている人が多いからです。聖書の「天国」は世の終わりに現れて、死から復活させられた者が再会しあうところです。

そう言うと、なるほど天国は世の終わりに現れるのか、それなら、その時までは亡くなった人はどこにいるのか、という質問がおきるでしょう。ルターによれば、復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っている、ということになります。そう言うと、あれっ、カトリックでは聖人というものがあって、もう天国にいる人がいるんじゃなかったっけ、という質問もおきるかもしれません。確かに聖書をよく読むと、エノクやエリヤのようにこの地上から直接神の御許に引き上げられた者がいるので、既に今の段階で天国には神と天使以外にも誰かいるということになります。しかし、それが誰かは私たち人間にはわからないのです。実はルターも聖人の存在を否定はしませんでした。ただ、彼の立場ははっきりしていて、聖人は崇拝の対象ではない、それはあくまで父、御子、御霊の三位一体の神である、ということです。

さて、イエス様が活動を開始した時のメッセージは「悔い改めよ、神の国は近づいた」でした。「神の国」が近づいたことを告げ知らせるのと同時に、イエス様は無数の奇跡の業を行いました。不治の病を治し、悪霊を追い出し、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満たし、自然の猛威を静めたりしました。神の国とは、黙示録を繙くまでもなく、悩みも嘆きも苦しみも死もない至福の国です。神が全ての涙を拭って下さるという、この世での無念が最終的に全て晴らされる国です。本当に天国です。実は、イエス様が起こった奇跡というのは、神の国がどんなところであるかを人々に垣間見せるものでした。病気も飢えも危険もない国。つまり、この世では奇跡なのが奇跡ではなく、当たり前になっている国です。イエス様が12人を派遣した時に奇跡を行える力を与えたというのは、イエス様がしたのと同じように神の国の実在を示すためのものでした。それで、神の国の実在を示す相手が最初ユダヤ民族に限られたことも理解できます。旧約聖書に新しい天と地の創造について預言されているからです。そういうことを全く知らない異民族に奇跡を見せたら、どうなったでしょうか?ギリシャ神話の神々のリストを増やすことになっていたでしょう。実際、癒しの奇跡を行ったパウロは寸でのところでギリシャ神話の神に祭り上げられるところでした。

イエス様の十字架の死は、人間の罪を人間に代わって償うという身代わりの犠牲でした。創世記に記されているように、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は神の国から出て行かなければならなくなりました。しかし、神は、人間が再び神の国に入れるようにと、それでひとり子イエス様をこの世に送って彼に人間の罪の罰を全部受けさせて、それをもって人間の罪を赦すこととしたのです。このように神がひとり子イエス様を用いて完成した罪の赦し、これを受け入れた者は、文字通り罪の赦しの中で生きられるようになり、神の国に至る道に置かれて、それを歩むようになるのです。

こうして、イエス様の十字架の死と死からの復活をもって、人間が神の国に迎え入れられる可能性が開かれました。これが福音です。奇跡の業を行って神の国の実在性を示すよりも、福音を伝えることの方が人々を神の国に至る道に導く手段として主流になっていきました。まさに十字架と復活の出来事を待って異邦人への伝道が解禁されたというのはよく理解できます。もちろん使徒言行録の時代やその後の時代にもいろいろな奇跡が行われましたし、現代でも行われていると聞きます。しかし、仮に奇跡を起こせなくても、がっかりする必要はありません。福音があり、イエス様を救い主と信じているならば、その人の神の国への迎え入れは確固として揺るがないからです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、イエス様の弟子でもあるキリスト信仰者にとって、まだ神の国に至る道に入っていない人たちを福音を持って導いてあげること、そして既にその道にある兄弟姉妹たちがしっかり歩めるように福音を持って支えてあげること、これらは大切な役割であるということを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「人を変える憐れみ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書9章9-13節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. イエス様は、当時のユダヤ教社会の中で罪人の最たる者と見なされた人たちを受け入れて自分のもとに招いたり、果ては自分に弟子にしたりしました。このことが、ファリサイ派と呼ばれる宗教エリートたちのひんしゅくを買いました。本日の福音書の箇所はそうした出来事について述べています。ファリサイ派というのは、ユダヤ民族が神の民として神聖さを保てるように、モーセの律法のみならず、そこから派生して出て来た数多くの戒律をも守るべしと主張したグループです。

 この本日の福音書の箇所を読み返してみて、最近フィンランドで起きた出来事が頭に思い浮かびました。それは、日本でも大きなニュースになりましたが、大量の難民移民がヨーロッパに押し寄せたことに関係します。移民難民はフィンランドにも大勢入り、ピークだった2015年は3万人位に上りました。人口550万程の国に3万人というのはとても大きな数です。1億2500万の日本で考えたら70万近くになります。かつては北欧諸国の中で最も移民難民の受け入れに消極的だったフィンランドですが、時代は本当に変わったと思いました。これらの移民難民は、全国各地に設けられた一時収容施設で過ごした後、各自治体に振り分けられました。それで、難民の地位が認められたり、滞在資格を得ることの出来た人たちの新しい居住地での生活が始まりました。

同国のルター派国教会も大きな課題に直面しました。移民難民の大半はイスラム教徒です。一方で、これをイエス・キリストの福音の伝道のチャンスと見なす人たちがいました。他方で、他の宗教の人たちを改宗する必要はない、自分の宗教を続けられるようにしてあげなければならない、国内にモスクを建ててあげなければならないと言う人もいました。ところが現実に、移民難民の中でキリスト教に関心を持って自分から教会に来る人も出て来ました。そうした人たちの中には洗礼を受けるに至った人もいます。私どものミッション団体SLEY(フィンランド・ルター派福音協会)が毎年夏に開催する全国大会に昨年参加しました時に、会場でそういった移民難民出身の若者を何人も見かけました。SLEYはまた、ヘルシンキの中心部に、もともとは教会だったが売られて30年近くナイトクラブにされてしまっていた建物を買い取って教会に復元することをしました。それを昨年から移民難民向けの伝道センターとして用いています。伝道とはまさに、イエス・キリストの福音を知らない人たちにそれを伝え教えることです。もちろん洗礼に至るのが理想ですが、それを聞いて受け入れるか入れないかはその人の問題になります。そういうわけで伝道は、移民難民の宗教を尊重する人たちが批判するような、宗教強制ではありません。

そのような時、世論の中に別のタイプの疑問の声が聞かれました。それは、移民難民が洗礼を受けてキリスト教徒になったとしても、それはどこまで純粋なものかという疑問でした。ひょっとしたら滞在を有利にするための手段にしているのではないか、と。それに対してSLEYの新聞の編集主幹は次のような見解を表明しました。誰も人の心の奥底はわからない、それは神しかわからない、それゆえ我々としては、イエス様を信じて洗礼を受けた者は皆分け隔てなく兄弟姉妹として接する以外にはないのだ、という見解です。

私は、これはもっともなことだと思いました。あの人のイエス様を救い主と信じる信仰は本物だろうか、などと疑って接したらどうなるでしょうか?その人自身としては他の動機などなく信じているのに、それを疑われるというのはショックではないでしょうか?偉そうなことを言っているが、キリスト教会が唱える愛など偽善にしかすぎない、と思わせてしまう危険があります。

これとは逆のケースとして、何か別の動機があって教会のメンバーになった人がいたとします。しかし、そのようなものは誰も見抜けません。自分はわかるぞ、と思った人も、それは全体像のほんのちっぽけなかけらにしかすぎません。人間の真実はあまりにも深く、一人一人の心の中の全体像を見抜けて把握できるのは人間を造られた神しかいません。神は、私たちが神のようになって見抜けとは命じていません。神が私たちに命じているのは、仮に別の動機があったにせよ、お前が全神経を集中させるのはそこではない。その人もお前と全く同じようにイエス様を救い主と信じる信仰に生きる兄弟姉妹として接するべきである、ということです。そうすることで、その人にあった別の動機なるものは意味を失って押し潰されていき、最後には塵と消えて、信仰だけが残る、そういうことだと思います。実は、イエス様が罪人を受け入れることにもそういう力がある、ということが本日の福音書の箇所から見てとることができます。

 

2. 徴税人というのは、当時のユダヤ教社会のなかで罪人の最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしていたからでした。なぜ、占領された国民から、占領した側に仕えるような仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章で、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけるところがあります。そこで「定められた以上に取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のために仕えるのみならず、自分自身の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれていたことは想像に難くありません。

イエス様は徴税人のマタイに弟子になってついて来るよう命じ、マタイはつき従いました。そして自分の家にイエス様とその弟子たちを招き、加えて他の徴税人その他もろもろの罪人たちも一緒の食事の席につきました。そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されます。当時は、食事に招かれて同席するというのは、とても親しい近い関係になったことを意味しました。

 イエス様は、神由来としか思えないような権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は一体何をしでかすつもりなのか、伝統的な権威を破壊しようとする危険人物なのか、気が気でなりません。このように大勢の人々に偉大な預言者の再来と見なされて支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪人と同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪人とは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格などない、と。

 ファリサイ派の批判に対して、イエス様が返した言葉は次のものでした。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12~13節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と徴税人その他罪人との関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪人の抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書6章6節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪人たちを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪人を招くため」と言われますが、罪人を招くとはどういうことなのか?まさか罪人と一緒にどんちゃん騒ぎをすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを見ていこうと思います。

 

3. 先ほど述べましたように、イエス様の時代のユダヤ教社会では、徴税人は罪人の最たるものと見なされていました。ところが興味深いことに、福音書に登場する徴税人は、少し勝手が違います。例えば、先ほども触れたルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちが悔い改めの洗礼を受けに来ました。その中に徴税人たちの姿も見られました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人の話があります。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人を思い起こせば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は、「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。

 このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。そういうわけで、イエス様と一緒に食卓についた徴税人その他の罪人は実は生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時は元罪人でした。しかしながら宗教エリートは、この変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪人です。どうして受け入れられなかったのでしょうか?

 それは、罪人たちの罪の赦しというものが、宗教エリートが主張する、いろいろな儀式的な手続き手順を踏まえておらず、イエス様という一個人が受け入れて招くことで赦しが与えられてしまったということがありました。そうなると、宗教エリートたちが教えたことや守れと言っていた掟が一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスが行っていることは、神の受け入れでも罪の赦しでもなんでもない、罪人たちの新しい生き方なども新しい生き方に値しない、という見方になってしまうのです。それでは、イエス様の招きや受け入れというのは本当に罪の赦しがあって新しい生き方をもたらすものであるというのは、どうやってわかるでしょうか?

 先ほども申しましたように、イエス様はホセア書6章6節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」

罪人たちが罪の赦しを経た新しい生き方を始めたことを疑う宗教エリートに向かって、イエス様は、この言葉の意味を学びなさい、と叱責します。私たちもわからなければなりません。どんな意味でしょうか?ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『忠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語の「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉は「忠実」です。 

このように原文の言葉が変化したことが何を意味するかを少し考えてみます。ホセアというのは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法の規定に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまって、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになっていました。そのため、律法の規定を与えたのは神ですが、これではいくら生け贄を捧げられても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神に立ち返る生き方をしますと誓うための儀式なのに、心を改めることはなくなって儀式をすることだけで満足するようになってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらない、と言われたのです。

 それでは、神は生け贄に換えて何を求めたかと言うと、「忠実」がそれでした。神に対する民の忠実さ、民が神の意思に沿うように生きる、神に対して忠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されていますが、厳密に言うと「忠実」です。(私が使用する辞書HolladayのConciseには、חסדに「愛」の意味はありませんでした。)ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになったことを、結婚相手が不倫をしたことにたとえることがあります。そういう背景から考えるならば、問題となっている言葉は辞書にある「忠実」をそのまま使って良いと思います。「誠実」とか「相手を裏切らない」と言ってもよいでしょう(フィンランド語訳の聖書は「忠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。

ところが、紀元前200年代に旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳された時、この問題の言葉は「忠実」から「憐れみ」 ελεοςという言葉に訳し替えられました。福音書はギリシャ語で書かれていて、そこではイエス様は「忠実」ではなく「憐れみ」を使ったことになっています。イエス様はほぼ間違いなくアラム語で話していたので、ホセア書の言葉を引用した時にヘブライ語に倣ったか、ギリシャ語に倣ったか、アラム語の記録がないのでわかりません。残された文書はギリシャ語のものしかなく、それを手掛かりにするしかありません。加えて、イエス様がギリシャ語に倣って「憐れみ」を使ったことにした方が、神の人間救済計画がはっきりするということがあります。そういうわけで、イエス様は「憐れみ」を使ったことを前提にして話を進めていきます。

イエス様に受け入れられ招かれて新しい生き方を始めた罪人たちは、神に対して「忠実」に生きるようになった者たちです。つまり、ホセア書の神の言葉が実現したことになります。律法の規定通りに神殿で生け贄を捧げなくとも、神に対して忠実になれるようになったのです。一体、そのような変化はどのようにして生まれるのでしょうか?神に対して忠実になりなさい、と言われて、はい、なります、と言って、すぐなれるでしょうか?そんな力はどこから来るのでしょうか?

 そのような変化をもたらす原動力として「憐れみ」が出てきた、と言うことが出来ます。つまり、ヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時、ヘブライ語の「忠実」にかえてギリシャ語の「憐れみ」という言葉が採用されたのですが、それは、「忠実」ということを捨て去ったのではなく、むしろ、神に対する忠実さを実現するものとして「憐れみ」を出したということです。つまり、イエス様は神が求めるのは「憐れみ」だとおっしゃたが、それは神に対する忠実さを実現するためのものなんだな、と理解するわけです。このように、ギリシャ語訳のホセア6章6節とそれのイエス様の引用の中に「憐れみ」という言葉をみたら、ああ、これはヘブライ語の原文で言っていた「忠実」が元にあって、まさに神に対する忠実さを実現するために「憐れみ」がひっぱり出されたんだな、という具合に二重に理解しないといけないのです。まことに聖書は底が深い、侮れない書物です。

 

4. それでは、「神に対する忠実さ」を実現する「憐れみ」とは、どんな憐れみなのかを見てみましょう?まず「憐れみ」とは、罪人を受け入れて招く心の有り様です。この心の有り様があって、イエス様は罪人を受け入れて招きました。ところが、受け入れられて招かれた罪人たちは、今度は神に対して忠実な者に変わりました。そういうわけで、罪人を受け入れて招く「憐れみ」は、受け入れられて招かれた者の側に、生き方の変化、神に対して忠実になるという変化、そういう変化をもたらす力を持っているのです。ただ罪人を招いて一緒に飲んで食べて、それで罪人が、なんだ罪を犯していても、こんなに気前よくしてくれるんなら、このままでいいや、なんて思ったら、これは「神に対する忠実さ」をもたらすものではありません。それは、神が求める「憐れみ」ではありません。単なる無責任な気前の良さです。イエス様が言われる「憐れみ」とは、受け入れられた者、招かれた者に変化をもたらす力を持つものです。

イエス様が憐れみで受け入れ招いた罪人たちはいい気になることなく、逆に生き方を変えて神に対して忠実になりました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。ところで、イエス様が人の生き方を変えるような憐れみをかけるというのは、当時の罪人だけではありませんでした。神の目から見て罪の汚れを持ってしまっている全ての人間が相手でした。特に何か罪状があるわけではないのですが、私たち人間は神聖な神の目から見たら皆、「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に対して忠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の死を遂げられた時から始まります。このことについて、本日の使徒書「ローマの信徒への手紙」5章でパウロがよく教えています。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬものはほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者はいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(6~8節)。

人というのは、相手が正しい人であったり善い人であったりしても、その人のために命を捨てるということはなかなか出来ないものである。それなのに、イエス様ときたら、我々のような罪の誘惑には弱く、神を顧みようともしない、そういう罪びとにすぎない者のために命を捨てられた。こんなどうしようもない者なのに、神のひとり子の命に値する位の価値がある者として扱って下さった。人が受ける憐れみでこれ以上のものがあるだろうか?

「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(9~10節)。

 我々は、イエス様が十字架で流された尊い血を代償として、罪のもとから神のもとに買い戻されたのである。イエス様が自分を犠牲にしてまで我々の罪を償って下さったので、我々は罪の赦しの中で生きることができるようになった。つまり我々は今、イエス様のおかげで神の目に相応しい者に変えられているのだ。このようにしてイエス様が我々のために神との和解を打ち立てて下さったので、我々は最後の審判を心配しないですむようになり、死を超えた永遠の命に与れることを確信できるのである。

「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」(ローマ5章11節)。

 未来について心配しないですむようになり、希望を持って生きることができるようになった今、我々は神を誇りに思ってこの世を生きる。罪ある我々が神と和解出来るようにと自分を犠牲にするくらいの憐れみをかけて下さったイエス様、この方を送って下さったのは父なる神に他ならない。我々が誇りに思える方で神以上の方はいない。

 兄弟姉妹の皆さん、このパウロの聖句からも、イエス様の憐れみには本当に私たちの生き方を変える力があるとわかります。私たちはこの憐れみを受けて神に対して忠実になるようにと生き方を変えられました。私たちも隣人を受け入れて招かなければなりません。しかも、それは隣人の生き方を変えるようなものでなければなりません。そのような受け入れや招きを私たちは出来るでしょうか?そうなるように神に祈らなければなりません。生き方を変える憐れみが神の御心である以上は、その祈りは必ず聞き遂げられるでしょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「嵐が来ても大丈夫な家のように」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書7章15-29節、申命記11章18-28節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  マタイ福音書の5章から7章にわたるイエス様の長い説教は山の上で群衆に向かって行ったことから「山上の説教」と呼ばれています。それは、本日の箇所の終りのところにある「岩の上に家を建てた人と砂の上に建てた人」のたとえで終わります。そこでイエス様は、私たちをドキリとさせることを言われます。「私のこれらすべての教えの言葉を聞き、かつ実行する者は、岩の上に家を建てた賢い人と同じである。しかし、聞いても実行しない者は、砂の上に家を建てた愚かな人と同じである」。イエス様の言葉を聞くだけでは足りない。それを実行しないと砂の上に建てた家のように嵐が来たら倒壊してしまう。

イエス様の教えを聞いて実行する人は嵐が来ても大丈夫な家を建てる人と同じで、実行しない人は大丈夫でない家を建ててしまう人と同じ、というのですが、それでは、嵐が来て家が大丈夫だったとか大丈夫でなかったというのは何を意味するのでしょうか?本日の箇所の7章21節を見ますと、イエス様は次のことを言われます。イエス様のことを「主よ、主よ」と言って敬って来る人みんなが天の国つまり天国に入れるわけではない。ここで注釈すると、聖書では「天の国」「天国」は「神の国」とも呼ばれます。みな同じものを意味します。つまりイエス様は、天の父なるみ神の意思を行う者が神の国に入れるのだ、と言われるのです。神の意思を行うというのは、その神のひとり子であるイエス様の教えを行うということです。このような人たちが、死を超えた永遠の命に与ることができて天の国、神の国に迎え入れられる、というのです。ということは、嵐が来ても大丈夫な家を建てた人というのは、永遠の命に与って神の国に迎え入れられる人を意味します。そうすると、嵐に遭っても家が大丈夫だったというのは、死の力が襲いかかってきても永遠の命がそれを跳ね除けたということを象徴しています。逆に、嵐に遭って家が倒壊してしまったというのは、死の力に襲われてそのなすがままとなって残骸しか残らないことを象徴しています。

そこで、私たちをドキリとさせることというのは、イエス様の言葉を聞くだけでは足りない、それを実行しないと救いに与れないということです。どうしてそれがドキリとさせるかと言うと、ご存じのように、ルター派の信仰は、イエス様を救い主と信じる信仰によって、私たちの罪の汚れが洗い落されて神の目に相応しい者とされるということを強調します。つまり、「信仰によって」というのがポイントです。神の目に相応しい者にされるというのは、難しい言葉を使うと、「神の義」を持てるようになるということです。信仰によって神から義と認められるということで、信仰義認と呼ばれます。人間は、律法の掟に命じられていることを守ることで神の目に相応しいと認められるのではない、また善い行いを積み重ねて相応しいと認められるのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって神の目に相応しいと認められる、ということです。そうすると、本日の箇所でイエス様は御自分の教えや神の意思の実行を強調しているので、これはもう信仰義認ではなく、律法主義や善行義認なのでしょうか?まず、この問題を考えてみましょう。

 

2. イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに迫る事柄についてですが、ルターによれば、そういったものはまずイエス様を救い主と信じる信仰に入って神の目に相応しいとされた後に関係してくることである、と教えます。つまり、神の目に相応しいとされる前の段階にいて相応しい者にされようと行うものではない、ということです。本日の福音書の箇所の少し前に「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」という教えがあります(1~2節)。それについてルターは、次のように教えます。

「これは、まことに奇妙な教えだ。神は我々に、御自分ではなく隣人に仕えることの方が大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分に関わることでは、我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人に関わることでは、もし我々が隣人に悪く立ち振る舞うなら、神はもう我々と平和な関係にいることを止めて罪の赦しを全て却下されると言われるのだ。

 実は、この『量る、量られる』というのは、我々が(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った後に起こることで、信仰に入る前のことではない。君が(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った時のことを思い出すがよい。神は君のことを何か業績にもとづいて受け入れたのではなかった。神は一方的に御自分の恵みによって君を受け入れて下さったのだ。(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った君に神は今、次のように言う。『私がお前にしたように、お前も他の人たちにせよ。もししないのならば、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも起こる。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げ何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ何も与えないことにする。』

信仰に入った後の『量ること、量られること』は、まさにこのように起こる。神は、我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与えられる。だから、もし我々が隣人に善いことをしなければ、神も我々にお与えになった善いことを却下される。この時、我々は、自分たちに信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。」

厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、私たちは神から計り知れない恵みをいただいたのだから、それがわかるならば、そのような計り知れない善いことをして下さった方を心から愛して、その方の言われることには従うのが当然だという心になるのではないか。またその頂いたものの莫大さを思えば、隣人に出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが取るに足らないものになるのではないか、ということです。私たち人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと、神のひとり子であるイエス様が人間の罪を全部引き受けて十字架の上までそれを運び、そこで私たちの代わりに罰を受けて死なれた。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、私たちは神から罪の赦しを得られて神の子とされて、死を超える永遠の命に至る道に置かれた。このようにして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いを全部整えて下さいました。私たちはイエス様を救い主と信じ洗礼を受けることでこの救いを受け取ることができるのです。そうであるがゆえに、キリスト信仰者にとって善い行いとは、もはや救いを勝ち取るための行うものではなくなりました。救われたことの結果、感謝の念から自然に生じてくる実のようでなければならないのです。

そう言うと、イエス様を救い主として信じることから、そんなに簡単に善行が生まれてくるのか、と疑う向きもでてくるかもしれません。実は、そんな時こそ、救いを受け取ったことがどんなに大きな意味を持つか、一度立ち止まって吟味する必要があります。それがわかるために、マタイ18章にある「仲間を赦さない家来」についてのイエス様のたとえは一ついい材料になります。

それをちょっと見てみますと、ある王の家来が王に1万タラントンの借金があることが判明する。大ざっぱに計算すると大体4800億円位の額です。王は家来に全財産と家族を売り払って返済せよと命じますが、家来が泣き伏して憐れみを乞うのを見て、王はなんと借金を帳消しにしてしまう。ところが、この家来が自分に100デナリオンの借金がある仲間に出会うとこれに返済を要求する。単純に計算して大体80万円位です。この仲間が憐れみを乞うても赦そうとせず、牢屋に入れてしまいます。自分は泣きついて4800億円の借金を帳消しにしてもらったのに、泣きつかれた80万円は赦すことが出来ない。この額差ですが、2000年間のインフレ率を加算するともっと天文学的な数字になるでしょう。いずれにしても、この家来は結局、報告を受けた王の怒りを招いてしまい牢に入れられてしまいます。そういう話です。

このたとえでイエス様が教えたかったことは、これだけの多額の借金を帳消しにしてもらったら、普通なら感謝の気持ちで一杯になり、他人が自分に有している負債など全く取るに足らないものになってしまうのが当たり前だということです。キリスト信仰者というのは、そのような帳消しを受けているというのです。しかも、私たちが受けた帳消しというのは、金銭で計れるものではありません。永遠の炎に焼かれる罪の罰が赦されて、死を超えた永遠の命を持てるようになったということが、私たちの受けた帳消しです。そのために支払われた代価は、神聖な神のひとり子が十字架の上で流した尊い血でした。このことがわかれば、感謝の気持ちで、他人が自分にどんな負債があろうが、また自分に気に食わないことを言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもない恵みを自分に示して下さった神を全身全霊で愛することが当然と思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」もそうするのが当然となります。

 

3.以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と教える時は必ず、「お前は、私が十字架の死と死からの復活をもって整えた救いを受け取ったことを忘れるな」という注意喚起が伴っているとしっかり覚えておかなければなりません。そうすると、イエス様が「山上の説教」を行った時に教えを聞いた人たちはかなりショックを受けたのではないかと思います。というのも、その時はまだイエス様の十字架や復活の出来事が起きていないので、神が整えて下さる救いというものが何もなかったからです。もちろん、その救いについては旧約聖書の中で前もって預言されてはいましたが、誰もそれを正しく理解できていませんでした。多くの人たちにとって、旧約聖書の中で預言されている救いとは、ユダヤ民族が異民族の支配から解放されるという理解が支配的でした。本当は旧約聖書の中で預言されている救いとは、全人類が罪と死の支配から解放されるというものだったにもかかわらず。神の計画を自民族中心に理解してしまったのは、神の言葉が語られたり書き留められたりするのが、いつもユダヤ民族の具体的な歴史の流れの中で起きたので、やむを得なかったかもしれません。それだからこそ、最後には神のひとり子自らが神の計画を正しく教えなければならなかったのでした。しかもそのひとり子は正しく教えるだけでなく、計画自体を実行したのです。自分を犠牲にしてまで実行したのです。

「山上の説教」でイエス様は、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」について、殺人を犯していなくても兄弟を憎んだり罵ったりしたら同罪であると教えました(マタイ5章21~22節)。また第六の掟「汝、姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目でみたら同罪である(同27~28節)と教えました。このように十戒の掟について、外見上守っているだけでは守っていることにならない、言葉や心の中でも守っていなければならないと教えるのです。そこまで言われたら、人間はもう誰も神の前で潔白ですとは言えません。どうしてそこまでしなければならないのでしょうか?本当に天の父なるみ神はそこまで要求しているのでしょうか?そのことを見てみましょう。

本日の旧約の日課は申命記11章の箇所でした。イスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出して、40年に及ぶシナイ半島の荒野での放浪を終えて、もうすぐ約束の地カナンに向かおうとする時に神の言葉がモーセを通して伝えられました。本日の箇所で神は次のように命じます。「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け」なさい(11章18節)。「わたしの言葉」というのは、十戒を頂点とする数多くの掟を指します。それらを心に留め、魂に刻み、しるしとして手に結び、覚えとして額に付けなさい、と。この神の命令は、二つの部分に分けられます。一つは、神の掟を心と魂に留め刻めよ、という内面的な留め刻みです。もう一つは、神の掟を手に結んだり額に付けるという外面的な留め刻みです。

神の掟をしるしとして手に結んだり、覚えとして額に付ける、というのはどういうことでしょうか?この部分のヘブライ語の原文を忠実に訳すと次のようになります。「それら(神の掟)をしるしとして手に結び、それらが額と腕のしるしとなって彼ら(同胞)の目に留まるようにせよ」。今もあるユダヤ教の慣習の一つに、旧約聖書の聖句を羊皮紙に書き記してそれを二つの革製の小箱に入れて、それを額と腕に結びつけて祈りを捧げるというものがあります。その小箱は英語でフィラクテリーと呼ばれます。ちょっと日本のお寺や神社で売っている御守りの感覚に通じるものがあると思います。この申命記11章18節が元になって(他にも出エジプト記13章9節、16節、申命記6章8節)、そういう小箱に入れた聖句を額や腕に結びつけるということが出て来たと考えられます。

この箇所で注意したいことは、そういうことをするのが同胞たちの目に留まるようにするため、ということです。この「目に留まるようにする」というのが、私たちの新共同訳聖書では省略されてしまっています。(英語訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳の聖書も同じです。たった、二語בין עיניכם[והיו לטוטפת]のことなのに!)実はモーセの時代から1300年後にイエス様がこのことを議論に取り上げたのです。イエス様は当時の宗教エリートたちを批判する時に、彼らが聖句の小箱を額などにつけているのは、人に見てもらうためにしているにすぎない、と言って、神の掟が心に根づいていないこと、見かけ上は守っているように見せかけているにすぎないことを批判しました(マタイ23章5節)。申命記11章18節は、神の掟が心と魂に刻まれていることと外見上のしるしが一緒でなければならないことを命じていたのでした。心と魂に刻まれていなければ、外見上のしるしは意味がないのです。

それでは、神の掟を心と魂に刻むとはどういうことなのでしょうか?それはどのようにして出来るのでしょうか?神は、申命記の本日の箇所の終りのところで、もし民が神の掟を守れば祝福を受けるが、守らずに他の神々に従うならば呪いを受けることになると戒めます(28節)。カナンの地に入った後のユダヤ民族の歴史は、旧約聖書を繙けばわかるように、祝福と呪いの繰り返しの歴史です。ダビデの王国が南北に分裂した後は呪いの方が主流になって、紀元前700年代後半に北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、残った南のユダ王国も紀元前500年代前半にバビロン帝国に滅ぼされてしまいました。民の主だった人々はバビロンに連行されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる歴史上の出来事です。イスラエルの民は、神の掟を読んだり聞いたりはしても、また額や腕に結ぶことはあっても、心や魂に刻むことはしなかったのです。

そこで神はこのような運命を辿った民にどう振る舞ったでしょうか?あれほど警告しておいたのに、しょうもない奴らだ、自業自得だ、思い知るがよい、と冷たく突き放してしまったでしょうか?そうではありませんでした。しょうもない奴らだということはよくわかった、だから、しょうもない奴らでなくなるように、こちらから何かしてやろう、と言って、何かをして下さったのです。しかも、その何かとは、一つの民族に対してではなく、全ての民族に対するものだったのです。神は何をして下さったのでしょうか?

エレミア書31章を見ると、神の民の復興についての預言があります。エレミアはユダ王国が滅亡する直前の混乱期に活躍した悲劇の預言者です。神はエレミアに半世紀後に起こる祖国帰還とその後に続く民の復興について告げ知らせます。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」この後に大事な約束が来ます。しょうもない奴らを神の力で変えてやろう、という方針が示されます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミア31章31~34節)。

イスラエルの民は神の掟を心に刻みつけなさいと言われたにもかかわらず出来ませんでした。そこで今度は神自らが人間の心に刻みつけると言われるのです。神の掟が心に刻みつけられたら、もう神を当たり前のように知るようになる。神を当たり前のように知ると、神の意思も当たり前のように知ることになります。それが、神の掟を心に刻みつけるということです。神はどのようにして掟を人の心に刻みつけたのでしょうか?

バビロン捕囚から帰還してエルサレムの町と神殿を再建した人たちは自分たちのことをそのような者と考えました。ところが、実際は神の掟が心に刻みつけられた状態からは程遠かったのです。現実の歴史を見てもユダヤ民族は、ほんの一時期を除いてずっと他民族支配が続き、現行のシステムは神を正しく崇拝するものではないという疑いの声が多く挙がっていました。まさにその時にイエス様が登場したのです。十字架と復活の出来事が起きるとすぐ、あの方こそは旧約聖書に約束されたメシア救世主で、人間を罪と死の支配から解放して下さったのだということがわかりました。神が御自分のひとり子を犠牲に供してまで人間の救いを整えて下さった、どうしてこの救いを受け取らないでいられようか?そして、救いを受け取った者の内に、これほどの愛と恵みを示して下さった神の意思に沿うように生きようという心が生まれました。まさに、神の掟が人間の心に刻みつけられるということが、イエス様を救い主と信じて神の目に相応しい者とされて起こったのです。

 

4.神がイエス様を用いて完成した罪の赦しの救いを受け取った人は、このようにして神の掟が心や魂に刻みつけられます。そうなると、今度はその人は罪に対して敏感になり、罪の意識を持ち続けることになります。神から罪の赦しを得られて罪の汚れが洗い落とされたと言っているのに、罪の意識を持ち続けるとはちょっとへんに聞こえるかもしれません。しかし、ルターも教えるように、キリスト信仰者にとってこの世の人生というのは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」と以前からある肉に結びついた「古い人」の内的な戦いです。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いです。最終的に復活の日にキリスト信仰者は古い人を全部捨て去って、完全なキリスト信仰者になると教えています。

戦いとは言っても、一度、罪の赦しを受け取ってその中で生き始めていれば、勝利は約束されています。もちろん、苦戦を強いられるときが何度も来ます。注意していれば外面的な行為の罪を犯すことはないとは思いますが、もちろんキリスト信仰者も弱さを持つので、隙を突かれることがあります。また外面的な行為には現れなくとも、言葉や思いで罪に染まることはもっとあります。しかし、その度に、神の方に向き直って赦しを祈り願えば、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、そこに罪の赦しがしっかりと打ちてられたままであることを見せて下さいます。そして、次のようにおっしゃって下さいます。「わかった、わたしのひとり子イエスの身代わりの犠牲に免じてお前の罪を赦そう。これからは罪を犯さないように。」そのようにしてキリスト信仰者は新しく出発し、やり直しするのです。

古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てるというのは、こういうことを繰り返して行います。この世を去る段階でどこまで到達できたかは、これは神に判定してもらうしかありません。人間がすることではありません。仮に、あの人の新しい人の到達度は80%、私は40%という結果だったとしても、神にとって重要なのは、その人が罪の赦しのサイクルの中にしっかり留まっていたかどうかということです。留まっていたと神が認めたら、80%の人も40%の人も、復活の日に100%にしてもらえるのです。まさにそれが、嵐のような死が襲ってきても、家が大丈夫ということです。罪の赦しの救いを受け取って、その中で生きることが、家を岩の上に建てることになります。

 そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは罪の赦しの救いを受け取ったので、神の掟が心に刻みつけられています。神の意思に沿うようにしようと思っても、なかなかそうならない自分に気づかされる日々かもしれません。しかし、罪の赦しの中にいることは打ち立てられてしまったので、もう神の意思に沿うように向かうしかないのです。罪の赦しの救いを受け取っていることを思い起こすならば、私たちは、神の意思に沿うようにと後ろから強い力で押されていることに気づくでしょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。         アーメン

 

説教「キリスト信仰者と心配事」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書6章24ー34節

主日礼拝説教 2017年6月18日 聖霊降臨後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所のイエス様の教えはよく知られているところの一つです。特に、思い悩んではいけない、と教えるところでは、空の鳥をよく見なさい。天の父なるみ神が空の鳥と野の花をいかに養い飾って下さっているかを見なさい、と言います。空の鳥は種を蒔かず、刈り入れもせず、刈り入れたものを倉に納めることもしない。それなのに神はちゃんと養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。また、野の草花もあくせく働かず、糸紡ぎもしない。枯れてしまえば炉に投げ込まれて燃やされてしまうだけなのに、それを神はこんなにきれいに装って下さる。あなたがたにはなおさらのことではないか。このイエス様の言葉を聞いてどれだけ多くの人が感動して思い悩むことから解放されたでしょうか?本日の箇所の終りにある言葉野の花も有名です。「だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」この言葉を聞いて、どれだけ多くの人が勇気づけられたでしょうか?

 こういう励ましや力づけの言葉は、もちろんイエス様は沢山語りました。しかし、イエス様以外にも励ましや力づけの言葉を話したり書いたりした人は歴史上、古今東西大勢います。そこで、そういう言葉を沢山知っていれば、悩みから解放され、絶望に陥ることもないかもしれません。キリスト教会の礼拝の説教は、聞く人に励ましや勇気づけを与えることが期待されています。それでか説教者によっては、イエス様の言葉や聖書以外のものを並べて、あの哲学者はこう言った、あの宗教の創始者や実践者はこう言った、とちりばめて、最後に、結局人間の知恵というものは言い方や立場は違っていても深い所では皆共通しているのだ、というような持っていき方をする人もいます。本説教では、話をそういうふうに拡げないで、あくまでイエス様を中心に話を進めて行こうと思います。どうしてかと言うと、「思い悩むな」というイエス様の教えの中には、キリスト信仰に特殊なものがあるからで、それを明らかにしないで、人類皆共通というのはちょっと早急すぎると思います。共通のものがあるかどうかは、その特殊なものを明らかにしてから考えても遅くはないでしょう。

 それでは、そのキリスト信仰に特殊なものとは何かと言うと、イエス様が思い悩むなと教える根拠に、「神の国と神の義を求めよ」という教えが関係していることがあります。ここでのイエス様の教えは一見すると、鳥や花は思い悩むことなく食べていけて着飾っていられる、だから鳥や花より優れた人間はなおさらそうなので思い悩む必要はないという、自分を鳥の立場に置き換えることで思い悩みの観点を無効にする、そういうレトリックの技法があるように見えます。ところが、イエス様の教えをよく注意して読むと、神が鳥を養い花を着飾って下さる、それと同じように神は人間も養って下さる、と言っていて、要するに面倒を見て下さる神が土台にあります。思い悩みをしないですませられるのは、自分を鳥に置き換えるだけでは全く不十分で、神が養って下さるということを信じられないと出来ないのです。神が鳥を養い花を飾って下さるのと同じように自分をも養って下さると信じられれば、思い悩まないですむことになるのです。でも、何をもって神がそこまで面倒見のよい方であると信じられる根拠になるでしょうか?

 さらにイエス様は、何よりもまず、神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはみな加えて与えられる、と教えられます。つまり、私たちが神の国と神の義なるものを求めることがあって、それで神が養って下さるということがある。神が養って下さると信じられるのは、自分たちの方で神の国と神の義を求めることがあって、それで信じられるということです。神が養って下さると信じることができるためには、神の国と神の義を求めなければならない。さあ、大変なことになりました。神の国、神の義とは何なのでしょうか?それを求めるとはどういうことなのでしょうか?それらがわからないと、神が養って下さるということもわからず、心配事から解放されることもないのです。これから、そうしたことを明らかにしていきたく思います。

 

2.まず初めに、本日の福音の箇所の出だしである24節でイエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えられていることを見てみます。「仕える」というのは、ギリシャ語では「奴隷として仕える」という意味の単語です(δουλευειν)。奴隷というのは主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能です。イエス様は、神ないし富に対する人間の関係も同じだと教えるわけです。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるのです。

 もちろん、人間が富の奴隷にではなく、富の主人になることもできます。そのことについて、ルターは次のように教えます。「もし人が財産の主人ならば、財産が人に仕えるのであり、人が財産に仕えることはない。どのようにして財産が人に仕えるかと言うと、こういうことである。君が服の無い人を見つけたとする。すると君はお金にこう命ずる。『親愛なる金貨君、出発しなさい。あそこに服の無い貧しい裸の男がいる。行って彼に仕えなさい。』また次のようにも命ずる。『お前たち価値あるお金よ、あそこに治療を受けられない病人がいる。彼のところに急行し、すぐ助けてあげなさい。』財産をこのように扱える者が、財産の主人なのである。」

 そういうわけで、もし財産が人を束縛して虜にしてしまい、ルターの教えるように財産を扱えない人はもうその奴隷であり、もはや神に従属していないことになります。イエス様の意図ははっきりしています。神と富の双方に仕えることはできない、どっちか一方にしか仕えることができない以上は、あなたたちは神に仕えなさい、神に仕えることで富の主人になりなさい、と教えているのです。それを受けて、25節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか云々と思い悩むな」と続いて行きます。つまり、ここの流れは「お前たちは富にではなく神に仕えなさい。だから、神に仕える者である以上は、お前たちは何を食べようか云々と思い悩んではならない」というふうになります。食べ物や着る物など生活の必要物は、もちろん、なくてはならないものです。しかし、それが心や頭を支配してはいけない、と言うのです。天の父なるみ神こそはお前たちの造り主であり、お前たちが何を必要としているかご存知で、お前たちの生活の必要物を準備して下さる方である。なのに、自分の造り主を忘れる位に心と頭を必要物のことで一杯にしてしまっている。そうであってはならない。また必要物のことを心配しすぎるあまり、神がそれを準備してくれることを忘れたり、疑ったりしてはならない、神を信頼しなければならない、というのがイエス様の教えの主旨です。

 ここのイエス様の教えで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この有名な「空の鳥」「野の花」のたとえは誤解されることがあって、「空の鳥が種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず、それでいて神は養って下さる」と聞くと、人によっては、「ああ、働かなくても神様は養ってくれるのか」と理解する向きがあります。イエス様は、働く必要はないと教えてはいません。イエス様が教えていることは、「種まきもせず、刈り入れもせず、倉にも納めることもしない鳥たちを神は十分に養って下さるのだから、お前たちのように種まきをし、刈り入れをし、倉に納めている者たちは、もっと養って下さるのだ。だから、なおさら心配の必要はないのだ」ということです。同じように、「働きもせず、紡ぎもしない野の花を神はきれいに装って下さるのだから、働いて、紡いでいるお前たちは、もっと素晴らしく装って下さるのだ。だから思い悩む必要は何もないのだ」ということです。つまり、働くことが前提されているのです。もちろん、働きたくても働けない人もいます。その場合は、仕事を探すことが働きになります。また病気が原因で仕事に就けない人は治療や闘病が働きになります。引退した人は、現役の人たちや子供たちを見守ったり励ましたり、祈ったりすることが働きになります。このように人には、置かれた立場に応じて、いろいろな働きがあります。

 もう一つ注釈したいことは、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25節)というところです。ギリシャ語の原文の単語の意味が広いので難しいのですが、直訳すると「命は食べ物以上のものであり、体は衣服以上のものである」で、フィンランド語やスウェーデン語の聖書ではそうなっています。英語、ドイツ語の聖書は日本語と同じで「よりも大切」となっています。いずれにしても、生活の必要物に対する心配が心と魂を支配、コントロールしてはならないということを教えています。余談ですが、今の日本で長時間労働が原因で命を落とす悲劇があるというのは、働くことと神の養いの調和がなくなっている状態です。必要物を得る手段であったはずの仕事が命よりも大切になってしまうのは本末転倒です。

 それでは、富に対しては主人として、神に対しては従属する者として生きる者は、あとは働きさえすれば、必要物は満たされてくるかというと、ここでイエス様はひとつ大事な事柄を付け加えます。神に仕える者には追い求めているものがある。それは生活の必要物ではないが、それを追い求めているからこそ、必要物があとから付いてくるものである。それでは、神に仕える者が追い求めるものは何かというと、それが「神の国と神の義」なのです。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「加えて与えられる」というのは、ギリシャ語の動詞に忠実に訳せば「付け足される」とか「付け加えられる」です。「求めなさい」というのは、ギリシャ語のニュアンスでは「求めることを常としなさい」、「求めることを常態としなさい」です(動詞が現在形のため)。つまり、ここは「富ではなく神に仕える者であるお前たちは、働きつつも、いつも神の国と神の義を求めていなさい。そうすれば、生活の必要物は神の国と神の義の付け足しのようについてくる。だから、必要物のことを心配する必要はない。神に仕える者とは、それくらいに神を信頼する者である。この間、お前たちの心と頭を支配するものは、神の国と神の義でなければならない。」これがイエス様の教えの主旨です。それでは、神に仕える者が心と頭を一杯にし、追い求めなければならない「神の国と神の義」とは何かを見てみましょう。

 

3.イエス様が活動を開始する直前、洗礼者ヨハネが現れて、「神の国が近づいた」と宣べ伝えました。そして実際に神の国は、イエス様と一体となって到来しました。神の国がイエス様と一体となってきたというのは、彼の行った無数の奇跡の業に明らかに示されています。イエス様は、難病や不治の病の人たちを完治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたり、悪霊を追い出したりしました。そうした業を通して神の国が彼と一緒にあるということを示されました。神の国とは、要約すると、あらゆる邪悪なもの危険なものの力が及ばない国、神の意思と力で満たされた、奇跡が奇跡でなく普通になっている空間ないし領域です。今は天の父なるみ神のところにありますが、将来この世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時に、「ヘブライ人への手紙」に記されているように、全ての被造物が崩れ去って、唯一崩れ去らないものとして現れてくるものが神の国です。黙示録によれば、そこに迎え入れられる者は神から目の涙を全て拭ってもらい、死も悲しみも嘆きも労苦もない国です(21章4節)。 

2000年前に神の国がイエス様と共に到来したというのは、彼の奇跡の業を通して人々に前もって神の国を少し身近に体験させる意味がありました。しかしながら、体験させてくれたとは言っても、人間はまだ神の国と繋がっていませんでした。難病や不治の病を治してもらったり、悪霊を追い出してもらったり、自然の猛威から助けられても、助けられた人たちはまだ神の国の外側に留まっていました。なぜなら、神の国に入れるためには、人間が神の目から見てふさわしい者になっていなければならないからです。神の意思を100%実現できる者でなければならないからです。つまり、そういう神の義を持っていなければならないのです。しかし、そんなことは罪の汚れに満ち、神聖な神から切り離された人間には不可能です。

神は、この憐れな人間が神の国に迎え入れられるようにして下さいました。どのようにしてかというと、ひとり子イエス様をこの世に送って、本来なら罪の汚れに満ちた人間が受けるべき罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせました。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。私たち人間は、これらのこと全てが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神から罪の赦しの救いを受け取ることができるようになりました。こうして人間は、イエス様を救い主と信じる信仰によって罪の赦しの中で生きられるようになり、神の国に迎え入れられる資格を得られるのです。神は、私たちに残っている罪の汚れには目を留めず、私たちが洗礼の時に被せられたイエス様の清さを見られるのです。このようにまさにイエス様のおかげで、私たちは神の目に適う者とされて、神の義を持つことができるようになりました。

ここから「神の国と神の義を求める」、それも「常に求める」というのはどういうことかがはっきりします。それは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって罪の赦しを得て、神の目に適う者にされることです。その後はこの罪の赦しの中にしっかり留って神の国の資格を失わないようにすることです。そうすることが神の国と神の義を常に求めることです。万が一神の意思に反するようなことを考えたり行ったりしてしまった場合には、すぐ心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが変わることなく打ち立てられていることを確認します。自分の命が神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかればわかるほど、軽々しいことはどんどん出来なくなります。このようにして、神の与えて下さった罪の赦しから外れないようにしよう、その中にしっかり留まろうとする者は、神の国と神の義を常に求めているのです。

イエス様の純白な衣を離さないようにしっかり纏い、罪の赦しの中に留まるということは、神の一番望まれていることです。神の一番望まれていることですので、神の方からそれを止めさせるようなことは絶対にありません。何か困難や誘惑が起こって、イエス様の衣を手放しそうになったり、罪の赦しの外に出て行ってしまいそうになったら、そうならないようにと神は助けて下さいます。神が助けて下さる方であることは、神が三位一体の方であることを思い出すだけでもわかります。先週の主日は三位一体主日だったので、その時の説教でお教えしました。それを繰り返しますと、神には三つの人格とそれに応じた役割がある。まず、私たちが永遠の命を持てるようにと願って私たちを造られたという、造り主としての人格がある。そして、永遠の命を持てなくなるようにしようとする悪い力から私たちを買い戻して下さったという、贖い主としての人格がある。さらに、私たちがこの贖われた状態にしっかり留まれるようにといつも清めて下さるという、神聖化の人格がある。これら三つの人格は別々のようなものでも全部繋がっていて、一つでも欠けたら全体が成り立たなくなるもので、この全体こそは大いなる愛そのものとしか言いようがないものである。そういったことをお話ししました。

このような大いなる愛の神が私たちの側についていて下さるので、私たちはイエス様の衣をしっかり纏い続け、罪の赦しの中に留まることができます。そのような神がたえず傍にいて下されば、自分を押し潰そうとするかのような心配事や思い悩みはしぼんで影が薄くなります。イエス様が「思い悩むな」と言うのは、自分の力で無理して頑張って心配事を忘れろ、ということではありません。忘れようと頑張っても心配事は消えません。まず、神の愛と恵みを受け取りなさい、そして受け取った愛と恵みがどれほどのものかがわかれば、そっちの方が重みをもって、心配事の方は軽くなって自分を圧倒する力を失うのだ、ということです。心配事が力を失って軽くなったら、解決の大きな第一歩を踏み出したことになります。ほとんど解決したのも同然と言っていいのかもしれません。なんだか信じられない話ですが、それが聖書の神なのです。逆に、罪の赦しの救いを受け取っていない人は、自分を圧倒するような心配事にどう対処できるのでしょうか?圧倒しようとする力はそのままで、その力と格闘することから始めなければなりません。それだからこそ、多くの人が、イエス・キリストの罪の赦しの救いの福音を聞いて、その救いを受け取ることができるようにと願ってやみません。

 

4.ルターは、キリスト信仰者は心配事にどう向き合ったらよいのかについていろいろ教えています。本説教の終りにその一つを紹介したく思います。それは第一ペトロ5章7節の聖句「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」についてのルターの解き明しです。この聖句は日本語では今言った通りの訳なのですが、フィンランド語訳の聖書では、「心配事は全て神に投げつけなさい。なぜなら神があなたがたの面倒を見てくれるからです」になります。そちらの方がギリシャ語の原文のニュアンスがよく出ていると思うので、そちらに基づいてルターの教えを紹介したく思います。

「課題を自分の重荷にするな。なぜなら、君たちはそれを運びきれないからだ。そうしようとするならば、最後には重荷に押し潰されてしまうだろう。そうではなくて、それをかなぐり捨てて、喜んで安心してそれを神の御手に放り投げなさい。その時、次のように言いなさい。『天の父なるみ神よ。あなたは紛れもなく私の主であり神です。あなたは、私がまだ存在しなかった時に私を造って下さり、それだけでなく、御子イエス様を通して私を罪の支配から贖いだして下さいました。そのあなたが私にこの課題を成し遂げるようにとお与えになりました。しかし、それは自分が望んでいたようには成功しませんでした。多くの事柄が私に押しかかり、心配事を生み出しています。どこからも助言や助けを得らなくなってしまいました。それで、全てのことをあなたの御手にお委ねします。あなたが助言と助けを与えて下さい。この課題の中の隅々にあなたがいて、あなたの意志が働かなければ何も動かないようにして下さい。』

 このように言うことは、まことに神の意思に適うものである。神が我々に求めているのは、我々は義務さえ果たせばそれでいいということである。どんな結果が出るかについての心配は神がしてくれることなのである。

 こういうわけで、キリスト信仰者の理解力と巧みさというのは、そうでない者たちのよりも優れたものになる。それは、キリスト信仰者はどのようにして心配事から距離を置くかを知っているからである。他の者たちは、心配事の虜となって、自分を不幸な状態にとどめて、自分を痛めつけるだけである。最後には希望のない状態に陥ってしまう。これとは反対に(イエス様を救い主と信じる)信仰はこの御言葉『神はあなたたちの面倒を見て下さる』を捉えて離さい。離さないばかりか、とことん信頼するのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

説教「三位一体の予感」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書28章16ー20節、 イザヤ書6章1-8節

主日礼拝説教 2017年6月11日(三位一体主日)


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日の福音書の箇所は「イエス様の宣教命令」と呼ばれるところです。ここにはキリスト信仰者にとって大事なことが二つあります。一つは前半の「~しなさい」というイエス様の命令です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」このイエス様の命令がもとで、キリスト信仰者が世界各地に出向いて福音を宣べ伝えて教会を建てる原動力となりました。フィンランドは人口550万程度の小さな国ですが、国教会系のミッション団体と非国教会系のものをあわせて600人近い宣教師を世界各地に派遣しています。近年では福音伝道ということよりも発展途上国に人道支援をするミッションも増えましたが、それでも重点は福音伝道、新たな教会の設立、既にある教会に対する支援ということに置かれていると思います。最近ではインターネットを使って母国にいながらいろんな国の言語を駆使して福音を発信する伝道も行われています。宣教師たちに、どうしてその仕事をするのか、と聞くと、おそらく100%の人がこのマタイ28章のイエス様の宣教命令をあげるでしょう。

本日の福音書の箇所のもう一つの大事なことは、終わりの部分の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の約束です。「いつも」というのは、ギリシャ語の原文では「全ての日々」で、つまりイエス様が毎日共にいてくださるということです。キリスト信仰者に、聖句の中でどの言葉から励ましを受けますか、と聞くと、おそらくこの言葉は筆頭に挙がるものの一つではないかと思います。イエス様とは、私たち人間が天地創造の神から罰を受けないて滅びてしまわないようにと、私たちの罪を全部背負って十字架の上まで運び上げて、そこで私たちにかわって罰を受けて死なれた方です。そして一度死なれて葬られたにもかかわらず、神の計り知れない力で復活させられて死を超えた永遠の命の扉を私たちのために開いて下さった方です。そのイエス様が世の終わりまで毎日私たちと共にいて下さる、とおっしゃられるのです。果たして私たちには、これ以上に勇気づけられる言葉はあるでしょうか?

 ここで一つ疑問が起きるかもしれません。あれ、イエス様って、確か復活された後、40日間地上にいて弟子たちに御自分を現して、その後で天の父なるみ神のもとに上げられたんではなかったっけ?そして、世の終わりの再臨される日までは父なるみ神の右に座しているんではなかったっけ?そうならば、どうやって毎日私たちと共にいることができるのだろうか?天と地上の間をひっきりなしに行ったり来たりするのだろうか?

実を言うと、キリスト信仰者はあまりそういう疑問を抱かないのではないかと思います。天の父なるみ神の右に座すイエス様と毎日私たちと共にいらっしゃるイエス様ということに矛盾を感じていないと思います。どうして矛盾を感じないですむかと言うと、それは聖霊というものがあるからです。イエス様は聖霊について次のように述べています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14章16節)。「(しかし)弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)。この、父なるみ神のもとから遣わされる聖霊がイエス様を救い主と信じる者たちと永遠に一緒にいる、そしてイエス様が教えたことを信仰者たちに思い起こさせてくれる、そういうわけで、一緒にいるのは聖霊なのですが、それはもう、イエス様が一緒にいるのと同じと言ってもいいくらいなのです。

イエス様は次のようにも述べています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである」(ヨハネ15章26節)。聖霊がイエス様について証をするというのは、聖霊が信仰者に対してイエス様が救い主であることをいつもはっきりさせるということです。信仰者が苦難や困難に陥った時、イエス様は天の高い所で傍観しているのではなく本当に助けて導き出してくれる方だと思い出させてくれるということです。それでイエス様は近くにおられることになります。イエス様が父なるみ神のもとから聖霊を遣わされて、その聖霊が私たちと共にいるということが、実はイエス様が共にいるということになっているのです。

そうは言っても、それは、聖霊を介してイエス様が私たちと共にいて下さる、ということだから、やはり共にいるのは聖霊なのではないだろうか?マタイ28章の宣教命令も、イエス様ではなくて聖霊が共にいる、と言った方が正確ではないだろうか?と言われてしまうかもしれません。

 

2.それでも、キリスト信仰者にしてみれば、共にいるのがイエス様であろうが、聖霊であろうが、それは同じことなのだ、ということになるのではないかと思います。どうしてそうなるかと言うと、キリスト信仰者は神を三位一体の神として崇拝しているからです。三位一体とは、一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格の三つです。これらが同時に一つになっているのが私たちの神です。とてもわかりにくいことです。理解しようとすると頭がパンクしてしまいます。

しかしながら、神とはそもそも、イザヤ書45章15節にあるように人間の目や考えから隔てられた「隠された」存在ですので、人間の理性や理解力で把握できたり説明できる筋合いのものではないのです。三位一体も同じで、理に適う説明をつくることは不可能です。聖書にそのように言われたら、そのように受け入れるしかありません。それは誇り高い人間にとって耐えがたいことかもしれません。しかし、信仰とはそもそも、人間には自分の能力の及ばない領域があるのだと観念させてしまうものです。そこから先は全知全能の神に任せよう、神が全部を知っているなら自分は知らなくてもいい、神が自分のかわりに知っていて下さればそれで十分、と神に任せてしまうものです。でも、そのように神に任せられるのは、神が信頼に値する方だとわからないとできません。どうして神がそこまで信頼できる方とわかるかのか?それは、神が三位一体だからということが鍵になります。三つの人格とそれに応じた役割があってなお且つ一人の神でいられるというのは理解不可能なことですが、三つの人格と役割は何なのかということから見ていくと、神が信頼に値する方だとわかり、三位一体は受け入れられ安くなるのではないかと思います。

 

3.最初に私たちが思い起こさなければならないことは、神と人間の間には途方もない溝ができてしまっているということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の出来事の時にできてしまいました。「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは神に禁じられた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知って行えるようになってしまう。そして死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙5章で明らかにしているように、死ぬということが人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれになっています。人によっては、悪い考えは持つが行いに出さない強い人もいるし、また悪いことばかりするが時々良いこともするので憎めないという人もいます。しかし、何を言っても、全ての人間には、神への不従順と罪が脈々と受け継がれているのです。

このように人間を罪の存在とみなすと、神は全く正反対の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という全くかけ離れた二極の存在です。神の神聖さというのは、罪の存在である人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは神を肉眼で見てしまう。その時の反応は次のようなものでした。「私は呪われよ、私は滅びてしまう。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪の存在が神聖を目にした時の反応です。罪の汚れの存在が神聖な神を目の前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。イザヤと言えば、神から預言者として立てられて紀元前700年代の同時代の出来事だけでなく、将来の救世主イエス様のことや、さらなる将来の新しい天地創造のことまでも預言した大預言者です。そのイザヤにしてもこうなのですから、預言者でもない私たちにはなおさらのことです。

自分の罪と自分の属する民の罪を告白したイザヤに対して、神の御使いは燃え盛る炭火をその唇に押し当てます。イザヤは大やけどをして命を落とすことはありませんでした。焼き尽くされたのはイザヤの罪でした。イザヤは罪から清められたのでした。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。その話の内容は、本日の日課の後に続きます(イザヤ書6章9~13節)。

 ところが神は、罪ある私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝をそのままに放置することはしませんでした。溝を超えて私たちに救いの手を差しのばして私たちを罪の支配から解放しようとされたのです。それを、ひとり子イエス様をこの世に送られることで実行されました。最初にも述べましたように、イエス様は私たち人間が神から罰を受けないで済むようにと、私たちの罪を全部背負って十字架の上まで運び上げて、そこで私たちにかわって罰を受けて私たちの罪の償いをして死なれました。それと同時に罪自体もイエス様と抱き合わせに罰を受けて滅ぼされて、人間を永遠の死に至らせる力を失いました。このイエス様の十字架の業によって、人間は罪の支配から解放されるチャンスを与えられたのです。さらに神はイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示されて、その扉を私たちのために開いて下さりました。

私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、神が差し出す手と私たちの手がしっかり結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを御許に迎え入れて下さいます。このような計画を立てて実行された神は、私たち人間を愛するがゆえにそうされたのです。それ以外に何も理由はありません。神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順を受け継ぐようになってしまったために、今度はひとり子を用いて罪と死の支配力を無力にして、私たちをそこから贖い出して下さいました。こうして私たちは神の与えた罪の赦しの中で生きられるようになりました。ところが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しの中で生きていることを見失ってしまうことが起きてきます。しかし、その時は聖霊から導きや指導を受けられます。

 聖霊の導きや指導は、聖書の御言葉や洗礼や聖餐式を介して現れます。イエス様を救い主と信じる信仰をもって聖書を繙き、御言葉に聞くと、イエス様が教えられたことは意外なことに福音書だけではなくて、旧約聖書からも使徒書からも伝わってきます。イエス様が自分の口で教えられたことは福音書に記録されていますが、彼の教えは聖書全体の中でよりはっきりするのです。まさに聖霊が聖書の御言葉を介して働かれるからです。

 洗礼では、イエス様の神聖さ、神の義つまり神の目に相応しい状態、これらが白い純白の衣のように私たちの上に被せられます。ルターの言葉を借りれば、私たちの弱さがイエス様の強さに飲み込まれる瞬間であり、死が命に飲み込まれる瞬間です。もちろん洗礼を受けても、私たちには罪が残存しています。しかし、私たちが白い衣をしっかり纏って離さない限り、神は私たちのことを白い衣を纏った者として見て下さるのです。そこで悪魔が来て、この者は本当はとんでもない罪びとだ、隠し通そうとしても無駄だ、などと告発しても、洗礼の時に注がれた聖霊が反論してくれます。いや、この人はイエス様を救い主と信じる信仰に生き、白い衣をしっかりまとっている。神の罪の赦しの中で生きている者に対してそうでないなどと偽証ははやめなさい、と証人になってくれて弁護してくれます。まさに聖霊が弁護者と言われる所以です。

 キリスト信仰者が聖餐式でイエス様の血と肉を受ける時にも、洗礼の時と同様に、弱さがイエス様の強さに飲み込まれ、死が命に飲み込まれます。聖餐を繰り返すごとに私たちの内にある、罪に結びつく古い人は日々干からびていきます。反対に聖霊に結びつく新しい人は日々強められていきます。このように聖霊は、御言葉と聖礼典を介して新しい人を強めて私たちを日々清めて、いつの日か私たちが神聖な神の前に立っても大丈夫なようにしてくれます。聖霊の役割は私たちを神聖なものにする、神聖化する、ということは真にその通りです。

 そういうわけで、三位一体の神のそれぞれの人格と役割が明らかになりました。私たちが永遠の命を持てるようにと願って私たちを造られた神、つまり造り主としての人格です。その私たちから永遠の命を捨てさせようとする悪い力から私たちを贖いだして下さった神、つまり贖い主としての人格です。そして私たちが贖われた状態にしっかりとどまれるようにといつも清めて下さる神、つまり神聖化の人格です。それらは別々のようなものでも全部繋がっていて、一つでも欠けたら全体が成り立たなくなるものです。この全体こそは大いなる愛そのものです。まことに「神は愛なり」(第一ヨハネ4章8節)という言葉に全てのことが集約されています。

 

4.三位一体のそれぞれの人格と役割については以上述べた通りです。それでは、それらはどこでどう繋がって、どのようにして一つでいられるのか?最初にも申し上げましたように、そうした疑問は人知で解明できたり言葉で説明できるものではありません。それですので、三位一体ということから神は大いなる愛だということが見えてきた、それで十分ではないでしょうか?三つが一つになっているメカニズムを解明しようとするよりも、三位一体から顕わになる神の大いなる愛、その愛を受けた者として、自分はどのように生きていくべきか?そういうことに注意を向ける方が生産的ではないでしょうか?そうだ、私は着せてもらったイエス様の純白な衣を手放さないようにしよう、それをしっかり纏っていこう、そのようにこの世を生きていこう。そういうふうになることを神は望んでおられるのです。

三位一体のメカニズムは私たちが解明しなくても、いずれ私たちに明らかにされる日が来ます。パウロは第一コリント13章の中で次のように述べています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(12節)と述べています。鏡に映るものがおぼろというのは、どういうことかと言うと、それは当時の鏡が今のようにガラス仕様ではなくて銅とか金属製のものなので輪郭がはっきりしないのです。それがはっきり見える時が来るというのです。「そのとき」というのは、世の終わりの日、イエス様が再臨して死者の復活が起きて、新しい天と地が創造される日のことです。その時復活させられた者は神を前にして「顔と顔とを合わせて見ることに」なります。今は一部しか知らなくとも、そのときにははっきり知ることになる。これはまさに三位一体について当てはまります。三つがどうやって一つでいられるのか、どうせ「そのとき」に全てのことはわかるのだから、今はおぼろげながらでもそれで十分ではないでしょうか?把握できていることはおぼろげだが、それは後で必ず的中する予感ということでいいのではないでしょうか?

ルターは、神から与えられた宝物がどんなに途轍もないものであるかを今この世にいる段階では見えなくてもいいのだ、と教えます。もし全部見えてしまったら、私たちはきっと耐えられないだろう、と。三位一体についても同じことが言えると思います。ルターの教えを要約すると次のようになります(ガラテア4章7節「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」のルターの解き明しから)

「イエス様を救い主と信じる者は、善い行いをする前に既に永遠の命に与っているのだ。神に受け入れられて神の子とされているのだ。だから神に認められようと、また受け入れられようとして善い行いをするのではなく、既に受け入れられて必要なものは全て与えられているので、あとは自由な気持ちで、見返りを期待しないで善い行いをするのだ。そうするのは、ただ神の栄光が増し加わるためにするのであり、隣人の役に立つためにするのである。罰を恐れることも、報いを求めることも一切ない。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して全てのものを手にしている。全てのものが一度に与えられたのだ。しかしながら、その与えられたものを目で見ることはできない。この世が罪に満ちて惨めな状態にあるので、イエス様を救い主と信じる信仰にとどまることで手にすることができるというのが精一杯である。考えても見なさい。そのようなとてつもない宝物が目の前に現れたら、この世にいる私たちはきっと耐えられないだろう。」

 神から与えられる大いなる宝物も、三位一体も、私たち人間の側では予感するだけで十分です。詳細は私たちが死から復活させられる日に明らかにされるので、今は予感のする方に向かって進んで行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「誇るものは主を誇れ」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙1章26~31節

第6回

コリントの信徒への手紙1章26~31節

「誇るものは主を誇れ」       

 今日の聖書は1章26節からです。26節を見ますと「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを思い起こして見なさい」とあります。いきなり、ここから読んでも何のことだか分かりづらいと思います。実はこの「兄弟たちよ」とある前に「なぜならば」という字があるのです。ですから前回のところから見ていかないと内容が分からない。前回の20節からのところをまとめてみますと、十字架の言は内容のない空しいものではない。十字架の言は救われる者にとっては神の力です。とこうなります。なぜ神の力となるか、というと罪ある私たちです、その罪ゆえに何もできない者であるのに十字架の救いはそれを生き返らせる力があるからです。 そこで自分が救われたことを考えるとそのことが良く分かります。こうして人間の救いについてより詳しく見ていくことになります。「自分が召された、そのことを考えてごらんなさい」と言うのであります。この手紙はコリントの教会の人々に宛てて書いてありますからコリント教会の仲間たちを眺めて見て特にこれといった取り立てて偉い人もいない、知恵のある者も多くはない、権力ある者も多くなく身分ある者も多くはない、その中には奴隷も居れば町の普通の人々も少なくないのであります。多くないと言うのですから少しはいた、ということでしょう。実はそれは数のことではなくて特別に尊敬されるような人はなかったということでしょう。少しはいたかもしれない、しかしここで語ろうとする神の御業のことを思うと取るに足りない者である。

まことに 貧しい者に過ぎないと言うのであります。なぜかと言えばそれは神の召しであったからです。神のお招きであった。私たちが召された時のこと、どういう身分であったから召されたのでしょうか。私たちが救われたのは神様のお招きによることでありました。私たちが希望したことではない、私たちの力によったことでもない。神様の方から救ってくださったのであります。召しを受けるための条件は何もなかったのです。これは召しと言いますが実は救いであったからであります。この救いは完全な救いでありますから私たちには救われる資格は必要がなかったのであります。救いのためにはこの世における資格は全くいらなかったのであります。ですから今振り返ってみて自分たちの中にはお金持ちも賢い者も権力のある者も身分のある者も少なかったことに気がつく、実はそういう必要もなかったこれが召しであります救いであります。このような救いを神がお与えになったそこには神様のお考えがあったということです。それは「知者を辱めるためにこの世の愚かな者を選び強い者を辱めるためにこの世の弱いものを選び有力な者を無力にするために。この世で身分の低い者、軽んじられている者すなわち無きに等しき者をあえて選ばれたのである」これが神様のお考えでありました。

聖書に言われなくても神というものはそういうことをなさるお方である、ということは特に神を信じない者でも考えることでしょう。なぜなら賢い者とか力ある者は何となく傲慢な人間になって行く。神はそういう者たち、放ってはおかれない、辱めるのは当然であると思われるからです。神はそのようにしてこの世の奢り高ぶる者らを押さえられるのではないか、と考えられているからです。大方の人がそう思うでしょう。ところでここに言われていることはそういうことではありません。ここに「多くは無い」とありますように賢い者や力ある者も救われたはずであります。ただ賢い者が自分の知恵を誇っている限りでは救われることはないのであります。また力ある者が自分の力を頼みとしている限り誰も救われないのであります。誰でも自分の罪を知りその罪から救われるためには自分が全く愚かな者であり無力であることを悟らなければ救われることはないのであります。

21節を見ますと神がお選びになったとあります。「選ぶ」よいうのは自分の考えで神が決められることです。多くのものからこれこそ自分の目的にかなうとして選ぶわけです。ではその神の見業のまことの目的はこの世を良くするということではなくて全ての人間が神の前に誇ることがないようになるためである、ということであります。賢い者はどうかすると神の前においてさえも自分の賢さを誇ろうとする、力ある者も同じです。しかし十字架の救いを知るとそうではなくなる、というのです。いや神の前では誇らないようになるということであります。

30節を見ますといきなり「その神によって」というのです。ここで文章は順序が違っています。「神の前で」と29節で言ったのですからその神によってというのです。その神によってあなた方は今キリストの中にあるのです、といいうことであります。他の訳ではキリストの交わりにお召しになったのであるとなっています。

あなた方はこの世の意味で賢いとか力があるというのでなくて、今はキリストの中に召されたのである。話は一転してキリストによる救いの問題になっていることです。今は賢いのでもなく力があるのでもなくキリストにあるのである、ということになります。私たちは自分の賢さや力を誇るのでなくキリストにあることを誇るのであります。それによって私たち人間としての値打ちを定めてくれるのであります。このようにして十字架の言によって生きることはキリストによって生きることであります。なぜならキリストこそは私たちの知恵となり義となり聖となり購いとなってくださったからであります。キリストが知恵となってくださったということはどういう意味でありましょうか。それはキリストが私たちに完全な知恵を与えてくださったということです。それなら完全な知恵というのは何でしょう、完全な知恵というのは神を知ることのできる知恵であります。それはキリストによって知ることができる。そして神はご自分をキリストの中に現しになったからであります。

コロサイ書2章3節には次のようにあります。「キリストのうちには知恵と知識との宝がいっさい隠されている。」私たちは罪に汚された者であります。私たちには神の前に立つことができるような義しさがありません。ただキリストが罪のために十字架にかかってくださったことによって私たちは神の前に義なるものと認められ救いに入れられるのであります。きりすとによって義とされた私たちはなお罪があるにもかわらず聖なる者として扱われるようになりました。聖なる者ということは神に属する者ということであります。普通の意味から言えば私たちは清い者ではありませんが神が受け入れてくださったという意味で清い者とされたと言っていいのであります。神の国の民とせられた、とも言いえます又教会のものとせられたと言ってもいいでありましょう。このように神を知り義とせられ神のものとなったということは購いを受けたことであります。キリストによって罪から購われたことであります。つまりキリストが私たちの購いになってくださったということであります。こうしてキリストは私たちにとって知恵となり義となり聖となり購いとなってくださった。人々が自分の賢さや力を誇るときに私たちはキリストを誇るのであります。パウロが本当に言いたかったことはこのことでありました。

 

パウロが1章26節で書いていることは旧約聖書エレミヤ書9章23~24節からとった言葉であります。簡単に言えば神が主であることを知れということであります。神様がどういう方であるかを先ず知ること、あらゆることから神を知れば知るほどその深さ、奥深い無限の神秘に触れて行くことになります。今日の中心の方向はキリストを知りキリストを誇ることであります。神の前に自分の立場を主張したい者はキリストを誇りとする者でなけれなならない。なぜならキリストの救いによって始めて神のみ前に立つことができるからであります。このキリストにあって自分にも立場ができるのであります。パウロはガラテヤ書6章14節でこう言っています、「わたし自身にとっては私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものは断じてあってはならない」主を誇るというのはパウロにとっては主の十字架を誇ることでありました。しかもそれ以外のものは断じて誇ってはならない、と厳しく宣言しているのであります。     アーメン

説教「神は大いなる方」フィンランド・ルター派福音協会SLEY会長トム・サイラ牧師、ルカによる福音書24章44~53節

サイラ先生は原稿なしで説教されたので、音声のみでお聞きいただけます。通訳は吉村宣教師。

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説教「創造主に目を向けよ、主は約束を守られる方」 神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録17章22-34節

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日の説教は、使徒言行録17章の出来事、使徒パウロがギリシャのアテナにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したことをもとに解き明しをしようと思います。皆様もお気づきのように、説教題が予告していたものから変わりました。最初の考えでは、哲学者たちからみて福音は愚かな教え、何かずれている馬鹿馬鹿しいものにしか聞こえなかった、それがパウロの弁明を聞いて、ずれているのは福音ではなくて人間の知恵の方であったとわかった人たちも現れた、そのことを中心にお話ししようと思っていました。それで、「ちょっとずれてるキリスト教」という題にしたのですが、説教をまとめているうちに、それまで陰に潜んでいたものが急に明るみに出るようなことが次々とあって、解き明しする聖句は同じなのですが、結局は「創造主に目を向けよ、主は約束を果たされる方」という題に落ち着きました。キリスト教がずれている、などと言うのは説教題として相応しくない、と聖霊の戒めだったのでしょう。もちろん、私の本意は、実はずれていないのだ、ということを言いたかったのですが、それだったらなぜ、「ぜんぜんずれていないキリスト教」にしなかったのか、と言われてしまったでしょう。でも、それも当たり前すぎてあまりいい題に思えません。いずれにしても、「ずれてる」、「ずれていない」など、あまりいい言葉ではなかったと思います。反省しています。

それでは、本題に入ります。パウロは二回目の地中海伝道旅行でギリシャのアテネに到達します。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人たちの妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と少し様子が違っていました。まずユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわり、町中に溢れていたのは、金や銀や石を用いて人間の頭で考え作った神々の像、すなわち偶像でした。いくら異なる宗教の人たちのこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統にしっかり立つ人ですから、心穏やかでなかったことは言うまでもありません(16節)。

パウロはまず、いつものように現地のユダヤ人会堂でイエス・キリストの福音を宣べ伝えます(17節)。その内容は記されていませんが、イエス様は神が約束されたメシア救い主である、そのことは彼の十字架の死と死からの復活で明らかになった、そういう内容だったのは間違いないでしょう。宣べ伝えた相手は、ユダヤ人と「神をあがめる人々」です。「神をあがめる人々」というのは、使徒言行録に何度も出て来るギリシャ語の言葉セボメノスσεβομενοςで、意味は、ユダヤ人以外の人つまり異邦人でユダヤ教に改宗した者を意味します。さらに、まだ改宗はしていないが、旧約聖書の天地創造の神を信じ出し、メシア救世主の到来を信じるようになった異邦人も指します(使徒言行録13章43節、50節、16章14節、17章4節、17節、18章7節)。地中海世界のユダヤ教の会堂には生まれながらのユダヤ人の他にこうした異邦人のシンパもいたのです。パウロは伝道旅行をする時は大抵、まず初めに彼らのところに行って、ナザレのイエスが約束のメシア救世主である、と伝えたのです。ところが、イエス様をメシアと受け入れないユダヤ人たちが追いかけるようにやってきては妨害、迫害する。会堂の人たちの多くは背を向けてしまいますが、会堂の外の人たち、つまり完全な異邦人に宣べ伝えると、そちらの方が受けがいいということが起きてくる。パウロの伝道旅行は大体そういう構図でした。

アテナではユダヤ人からの妨害、迫害はなかったということは驚くべきことでしたが、もっと驚くべきことが待っていました。それは、パウロがまさに旧約聖書の伝統と何の関わりもない人たちとその精神世界とに文字通り火花を散らすようにぶつかり合ったということです。どういうことかと言うと、町にはエピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちが大勢いました。二つとも古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。エピキュロス派というのは簡単に言えば、人間にとって最高の善は幸福である、それはこの世で獲得されなければならない、なぜなら、人間は死ねば魂は分解して原子になってしまうから、そういう唯物的な考え方をしていました。言葉は悪いですが、死んでしまえば元も子もない、だからこの世の中ではとことん幸福を追求しよう、ということでしょう。ストア派というのは、森羅万象を支配するものを「神

とするが、それは人格がなく心のない法則のようなものである。人間はその法則に従って生きることで道徳的になれる。ただ森羅万象には周期があって大きな火で焼かれては繰り返される。魂は死んだ後も残るが、それは人格のない神のところに行って時期が来たら森羅万象と一緒に焼かれてしまう。なんだか想像を絶する話ですが、これだけ大いなるものに支配されていると観念できれば、本能や欲望を抑えてひんやりと平静に生きていけるかもしれません。

さて、パウロはユダヤ人会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで前述したような哲学者たちと議論することになりました。その結果、アレオパゴスというところに連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを監視する役割も果たしていました。

パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。これは実は、世界史上、とても大きな意味を持つ出来事なのです。というのは、まさにこの時、二つの異なる文明が武力的にではなく知性的な衝突をしたからです。一方は、人間の理性の力を信じて万物を理性をもって推し測ったり説明しようとする哲学的なギリシャ・ヘレニズム文明、もう一つは、天地創造の神という万物を司る方自身が人間に対して自分のことや自分の意思・計画を啓示するという信仰のヘブライズム文明です。簡単に言うと、一方は人間の内部に備わる理性に重きを置く文明、もう一つは人間の外部から来る神の啓示に重きを置く文明、この二つがぶつかったのです。この二つは、水と油の関係と言っていいくらい、お互いに相いれないものです。ところが、こうした人間内部の理性を重んじる流れと、人間外部から来る神の啓示を重んじる流れの二つは本質的には対立するものであるはずなのだが、いつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

ところで、ギリシャ文明が理性を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そうすると、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?多神教のギリシャ文明も信仰の文明ではないか?それがどうやって理性を重んじる哲学的な文明と一緒になれるのか?詳しいことは専門家に聞かなければなりませんが、一つはっきりしていることは、これらの神々は、人間の思いや願いや恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それが人間の外部にあるように置かれて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテナで遭遇したものは人間知性の最先端を行く哲学と多神教の神々ではありましたが、実はそれらは皆、人間内部から生み出されたものなので、同じ範疇に入れても良いでしょう。

ところで、私たちの聖書の神ですが、これは人間の思いや願いや感情の結晶、シンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った方で、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。

2. さあ、パウロは人間の理性に重きを置く人たちに、どう神の啓示を伝えたでしょうか?まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりして、どうしようもないやつらだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことを取り上げ、それを取っ掛かりにして、自分はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の多神教信仰ではもちろん、前述したような名前と役割の神々がいろいろいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか、ということですが)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあることが、パウロにとってちょうどよい取っ掛かりとなったのです。

その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りない物があるかのように人間にいろいろ世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて下さるのである。ここで、神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点が逆転します。

次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について話します。神はそれぞれの民族に歴史と居住する地域を決めた。新共同訳では、神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。原文の正確な意味は「前もって定められた歴史上の出来事を与えた」ということで、それぞれの民族の歴史の出来事は前もって定められているということです(英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳は、ずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。)

神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのかと言うと、それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャの人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。新共同訳では、「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」となっていますが、探し求めても実際は見いだすことはできていないのです。そういうわけで、原文は新共同訳のような楽観的な意味はないと思います(動詞のアオリスト・オパティブの意味をよく考えなければなりません)。「もし、手探りをしてでも、見つけることができるのならば」という、見つけるのはちょっと厳しいんじゃないかな、という意味だと思います。(ドイツ語もそういう訳です。英語、スウェーデン語、フィンランド語は「多分、見つけることができるかもしれない」と見つけられる可能性に踏み込んでいます。)

ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられてちゃんと見つけることが出来きる方である、見つけられれば、もう偶像など作る必要もなくなるのだ。神が私たちから遠く離れていないというのは、あなたたちの先人の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)の詩にも歌われているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいました、と指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということですが、これがギリシャ人も神が近くにおられると考えられる根拠として言われています。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に対して、途絶えてしまっていた結びつきを回復してあげようと働きかけて下さっている、そういうふうに、人間界、自然界という大きなことはひとまず脇において、一人一人の小さな人間に神が自分から働きかけている、そういう視点で神は近くにおられると言っているのです。神と人間の途絶えてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。イエス様が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあれば、順境の時も逆境の時も神から絶えず守りと良い導きが得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げてもらえ、永遠に自分の造り主の許にもどることができるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを全ての人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している、それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。ギリシャの詩人の詩の中で歌われる神の近さは、このような神からの人間に対する働きかけとそれを受け取ることから生じる近さではありません。近い、近い、と言っても何を根拠に言っているのかわかりません。

このようにパウロと詩人の考えは根本的に違っているのですが、パウロは見かけ上の共通点を切り口にして教え続けます。神の「子孫」と言っているギリシャの言葉ゲノスγενοςは少しわかりにくい言葉で、英語は日本語訳と同じ「子孫」、フィンランド語は「親族」、ドイツ語、スウェーデン語は「我々は神を起源とする」とまちまちです。要は、人間は神の血筋を引いていると言っておきながら、金や銀や石を使って人間の頭で考えて作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はこんなものの子孫なのか、こんなものに起源を持つのか、つじつまが合わないではないか!君たちは自分で何をしているのかわかっていないのだ、なんと無知なことか!

ここでパウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、大目に見ることは終わってしまったのである。それを知らせる出来事が起きたのである。何かと言うと、死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのである。神は全ての人が「悔い改めるように、と命じておられます」とありますが、この「悔い改める」というのはギリシャ語のメタノエオーですが、これの正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。なぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか、と言うと、ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に誰が迎え入れられて誰が入れられないかの審判が行われる。まさにそのために方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならない。もちろん、パウロはここまで立ち入っていませんが、神がこの世を裁く日を決めたということの詳細は実に旧約聖書の預言に基づいています。預言されたことが本当に起きるということが、一人の者の死からの復活が起きたことで確証が与えられた。そして、その者は最後の審判の日に裁きを司られる方である。

ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員たち、哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?彼らは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神は、全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと常に共にある神である。全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる。これらのことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として与えられたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにも異なっていました。もちろんパウロもそのことを知っています。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスはメシア救世主だったと言って始めなかったのでしょう。それにしても、死者の復活ということが彼らにとって一番の躓きの石になったようです。先にも述べたように、エピキュロス派にすれば人間は死ねば魂は原子に分解してしまうのだし、ストア派にしても魂はいつかは燃やされてしまう。加えて、神が人間を罪の支配から救い出そうという意思を持って計画を立ててひとり子をこの世に送ってそれを実行するというのは、人格を持たない法則のような神からあまりにもかけ離れています。

つまりは、理性の知性を磨きあげた人たちからみて、パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある者たちが嘲笑ったのも無理はありません。別の者は、いずれまた聞かせてもらうことにしよう、と言いますが、哲学者というのは疑問や関心があれば日が暮れるまでとことん議論し合う人たちです。そうしないでこう言ったのは、もうこれで十分、お引き取り下さい、ということを丁寧に述べたのではないかと思われます。人々は席を立ちました。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったかもしれません。

 

3. ところが、そうではなかったのです。何人かの人がパウロの後について行きました。ついて行った人たちの中で信仰に入った者が出たのです。信仰に入るというのは、イエス様を救い主と信じることですから、アレオパゴスを出て行った後で、パウロからさらに教えを聞いて、イエス様のことを聞いたのです。彼らがアレオパゴスでのパウロの話を聞いて、どのようにして、もっと聞いてみようと思うようになったのか、それについては何も記されていません。ただ、背景全体から考えると、次のようなことではないかと思います。

これまでずっと何かおかしいと思いつつも、何がどうおかしいのか、はっきりさせようにも、伝統の重みとか、知識人の言葉の重みとかに遮られて明確にできないでいた。例えば、自分たちが神に起源を持つと言いながら偶像を造って崇拝することの矛盾。そして、死んだら全て消滅してしまうとか、冷徹な法則の一部分のようにしか生きられないのなら、この世で生きる意味と目的は本当にあるのか?それが、パウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を創造した神で、人間に自分を見いだしなさいと働きかける神であるということ、この世を去っても消滅しない命があり、その命を生きられる世が来ること、それが本当に起こることの確証として一人の者が死から復活させられたということを聞かせれる。では、その者とは誰なのか?ここまで来たら、あとはイエス様がメシア救い主であるという福音を聞くことだけです。この福音を聞いた時、天地創造の神は約束されたことを守り、それを必ず実現される方であるとわかったでしょう。不確かさと変転極まりないこの世にあって、信頼して絶対に大丈夫な方がおられるというのは、何と励まされ勇気づけられることでしょうか?

兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じ信頼を持つことができ、同じ励ましと勇気が与えられます。そのことを忘れないようにしましょう!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン