説教「聖霊の働き」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書7章37-39節、使徒言行録2章1-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれますが、それはギリシャ語の50番目を意味するペンテーコステーπεντηκοστήという語に由来し、復活祭から(それを含めて)50日目に天の父なるみ神から聖霊がイエス様の弟子たちに下ったのであります。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとって、クリスマスや復活祭に並ぶ大事な祝日です。クリスマスに、私たちは、私たちの救い主が乙女マリアから生まれ、私たちの救いのために神が人間となって来られたことを喜び祝います。復活祭には、イエス様が私たちを罪の奴隷状態から救い出すために、十字架の上で御自分を犠牲の生け贄として捧げて死なれるも、三日後に父なるみ神の力によって復活させられて、私たちのために永遠の命への扉を開いて下さったことを祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が約束されていた聖霊が、彼の昇天後に天のみ神のもとから送られたことを喜び祝います。聖霊は、ルターの小教理問答にもあるように、私たちがイエス・キリストの福音を読んだり聞いたりする時に、私たちの内に信仰を生み出す力を持つ方です。そして、私たちが神の御言葉に拠って立つ正しい信仰にとどまれるように私たちを日々守り導いて下さる方です。

 聖霊降臨祭は、またキリスト教会の誕生日と言われます。そのことは、先ほど朗読されました使徒言行録の2章を続けて読んでいきますとわかります。聖霊を注がれたイエス様直近の弟子たち、すなわち使徒たちの一人であるペトロが群衆の前で、イエス様の十字架の死と死からの復活について堂々と証しを行い、神のもとに立ち返る生き方をするように勧めます。これらの言葉を聞いて心を突き刺された(2章37節)群衆は、すぐさま洗礼を受け、その数は3千人にのぼりました(41節)。これらの人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」(42節)な集団を形成したのです。これがキリスト教会の始まりとなりました。全ては、聖霊が使徒たちに注がれたことから始まったのです。

それにしても、聖霊が使徒たちに注がれた時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」(3節)た、というのは、本当に不可思議な現象です。このことについては、かつて洗礼者ヨハネが、自分の後に来る救世主は聖霊と火によって洗礼を授ける、と預言していましたが(マタイ3章11節、ルカ3章16節)、その通りになったのであります。マラキ書3章では、将来到来する救世主のことを、金や銀から汚れを除去する精錬の火である、とたとえられています(2~3節)。聖霊を受けるというのは、罪の汚れた力を除去することが一緒になっているので、それで汚れを除去する炎を浴びせることと同じと見なされます。

ところで、私たちが洗礼を受ける時にも聖霊を授かりますが、その時私たちは、洗礼を受ける者が炎をあてられるような現象は普通目にしません。しかしながら、洗礼が授けられる時、私たち人間の目にはそう見えなくとも、父なるみ神の目からは、まさに炎で精錬をするようなことが起きていると見えるのでしょう。罪の汚れた力が焼き尽くされると見えるのでしょう。それでは、そうした神の目ではなく、私たち人間の目から見た場合、聖霊を授かった者にはどんな変化が起きたと見えるでしょうか?それについては、イエス様の次の言葉があります。

「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3章8節)。

ここでは、風の作用と聖霊の働きが似ているということが言われています。(興味深いことに、ギリシャ語でもヘブライ語でも、風を意味する単語と霊を意味する単語は同じです。)私たちの目には空気は見えません。しかし、空気が移動して風となって、木々を吹き抜けていくと、枝がしなり、葉がざわめいて、ああ、風が吹いたんだな、と空気が移動したことがわかります。聖霊を授けられた人も同じで、それまではイエス・キリストとか天のみ神とか、口にもしなかったり考えもしなかった人がある日突然、考えたり話題にするようになる。また、それまではイエス・キリストと聞いても、世界史の授業や教科書から、ああ、そういう人物が歴史上存在していたんだな、と知識として知っていた人が、ある日突然、実はイエス様は自分の救い主だったのだ、とわかるようになる。そのようにして、イエス様が現代を生きる自分と直接関係のある存在になる。そういう時、その人に聖霊が働いたことがわかるのです。人間は誰も、聖霊が働くことなくしてはイエス様を自分の救い主とわかることはできないのです。聖霊が働かなければ、単なる知識に留まるのです。

さらに、「ヨハネの第一の手紙」4章で、何が天のみ神に由来する霊で何がそうではない霊であるかを判別する決め手になるかというと、それは、イエス様のことを正確に教えているかどうかにかかっている、と教えています。例えば、イエス様は、もともとは天の父なるみ神のもとにいて神と同質であったひとり子で、それが人間と同じ肉をまとってこの世に来た、この真理を公けに言い表す霊が神に由来する霊であります(2節)。

 以上のように、聖霊とは、私たちを罪の汚れから洗い清めてくれたり、神の意思やイエス様のことについて、正確な知識を与えて下さる方であります。本日の福音書の箇所では、こうした聖霊の働きについて、別の視点から教えていますので、それを見ていきたいと思います。

 

2.本日の福音書の箇所で、イエス様は、「生きた水」について語ります。ギリシャ語の言葉を直訳すると「生きている水」です。生きている水とはどんな水でしょうか?何か不思議な水です。その意味を明らかにしましょう。

 まず、「渇いている人」はイエス様のところに来て彼から飲むことができる、と言われる。つまり、イエス様が渇きを癒して下さるということです。「渇いている」と言うのは、霊的に何かを熱望しているということ、つまり救いを求めているということです。それでは、救いとは何かと言うと、端的に言えば、天の父なるみ神としっかり結びついて生きられるということです。天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた、まさに自分の造り主としっかり結びついていることで、この世の人生の歩みで神から守りと良い導きを与えられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神のもとに永遠に戻ることができる、これが救いです。

イエス様が渇きを癒して下さるというのは、彼がそうした霊的な熱望である救いを叶えてくれるということであります。救いが叶えられるというのは、まさにイエス様の十字架の死と死からの復活によって実現しました。イエス様は、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪を全部自分一人で請け負って、十字架の上でその罰を全て受けて、人間の身代わりとなって死なれたのです。さらに、死から復活させられたことによって、永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。こうして人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神からはイエス様の犠牲に免じて罪を赦しを得られ、こうして神との結びつきを取り戻すことができるようになったのであります。

本日の福音書の箇所はまた、このようにしてイエス様によって渇きを癒され救いが叶えられた人は、今度はその人自身から「生きた水」の急流がほとばしるようになると言います。それでは、その「生きた水」とは何か?これについては、ヨハネ福音書の4章に理解の鍵があります。イエス様とサマリア人の女性が水について問答するところです。イエス様が自分は「生きた水」を与えることが出来ると言うと、女性はそれを井戸から汲める水と勘違いしている。そこでイエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「私が与える水はその人の内で、永遠の命を目指して流れ続ける水の水源となる」です。つまり、人がイエス様から「生きた水」を受けると、今度は、その「生きた水」がその人のなかで水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命に向かって流れゆくというのであります。そういうわけで、「生きた水」、「生きている水」というのは、人を「永遠の命に向かわせる水」であり、その意味で「永遠の命を与える水」であります。

本日の福音書の箇所によれば、このイエス様が与える「生きた水」は、イエス様を救い主と信じる人たちに与えられる聖霊を意味するということでした。そこで、「生ける水」と聖霊を結びつけて考えると、イエス様の教えは次のように要約することができます。人がイエス様から「生ける水」を受けて霊的な渇きを癒される。つまり、イエス様によって救いを叶えられて、イエス様を救い主と信じるようになり、聖霊を受けることになる。すると今度は、聖霊がその人の中で水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命を目指して流れ続ける。つまり、聖霊は、信じる者を霊的に潤しながら、渇きそうになったらすぐ癒してくれて、まるで信じる者を永遠の命まで押し流してくれる。以上がイエス様の教えの主旨です。まさに、イエス様を救い主と信じる者においては、聖霊は、その人の核心ないし要のようなものとなって、その人を内側から永遠の命という目標に向かわせようとする働きをしている、ということであります。それはそれで素晴らしいことではあります。しかし、キリスト信仰者の人生はそんな結構な水の流れに乗って、この世をすいすいと渡って永遠の命に向かって進んでいくものでしょうか?どうもそうとも思えません。しかし、天の父なるみ神の目から見れば、一度聖霊を受け取って信仰を持って生きる者は、外面上はどんなことが起きても、聖霊を水源としてその人の内面から湧き出る水は、永遠の命を目指して絶えることなく流れていくのであります。そうしたことが、どうして可能なのか、以下に見てみましょう。

 

3.人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を授かっても、まだ肉を纏って生きています。そうである以上、実はまだ神への不従順と罪を内にもったままです。それでは、洗礼を受ける前と何も変わってはいないではないか、キリスト教では「あなたの罪は赦された」とか「罪は帳消しにされた」などと言うが、それは一体何なのか?そういう疑問を抱かれると思います。罪と不従順を相変らず抱えているのに何が決定的に変わったかというと、それは次のようなことです。人が父なるみ神の御前で、「はい、あなたの御ひとり子イエス様は私の罪を請け負って私が受けるべき罰を受けられて私の身代わりとなって死なれました。彼の身代わりの死の上に私の今の命があります。だから彼こそ真に私の救い主です。」こう信じて告白すれば、神はその人に、「よくぞ、私がイエスを用いて整えた救いを信じて受け入れてくれた。お前は罪びとだが、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦そう」と言って、その人を永遠の命に至る道に置いて下さります。そして、それからは神から良い導きと助けを得られながら、この世の人生を歩んでいくこととなります。罪というものを人間が神に対して抱えていた借金や負債のように考えると、神はそれを一方的に、イエスの犠牲に免じてなかったことにしてやる、と言って帳消しにして下さったのです。私たちの神に対する負債は、言わばイエス様の流した血が代償となって帳消しにされたのですから、私たちの新しい命はとても高い値がつけられているのです。

こうして、神と人間との結びつきが回復することになりました。罪と不従順は残っているにもかかわらず、罪を赦されて神との結びつきができた以上、罪にはもはや人間を最終的に牛耳る力はないのです。私たちを最終的に牛耳る方は、本来は私たちの造り主である神なのです。イエス様を救い主と信じることで、人間は罪の支配下から神の庇護下に戻させられるのです。

ここで、この世に働くいろいろな力とその背後にある悪魔は、このような神と人間の麗しい関係を壊さないではいられません。これは、堕罪の時からそうでした。悪魔のやり口として、まずキリスト信仰者をやっぱり救いようのない罪びとであることを思い知らせようとします。信仰者は、自分と神との結びつきは大丈夫かどうかということを気にして生きますから、結びつきを危うくする罪の問題には敏感です。そこを付け狙ってくるのです。もし悪魔が、「ほれ見ろ、お前はやっぱり罪びとだったのだ。神はお前に呆れ返っているぞ」と暴露戦術で攻撃をしかけてきた時は、ルターは次のように答えなさいと言っています。「そう、確かに私は罪びとだ。だが、まさにこのような私が神と結びつきを持てるようになるために、あの方は十字架の上で死なれたのだ。だからあの方は私の真の救い主であり、あの方を送られた神は私の愛すべき父なのだ。」これこそ、天の父なるみ神が私たちから一番聞きたい言葉なのです。

ところで、この世に働く力が、罪とは別の問題で、信仰者を惑わして神への疑念を抱かせることもあります。それは、信仰者が自分の罪が原因でないのに大きな苦難に陥ってしまった場合がそうです。その時、「これこそ、お前が神に見捨てられた証拠だ」とか、「神はお前に背を向けている。いつまで神に対して無垢を気取っているんだ。そんな神などお前もさっさと袂を別てば良いではないか」というようなこちらの痛みと弱みに付け込む攻撃が仕掛けられます。

確かに、神としっかり結びついて生きるなどというと、順風満帆の人生が保証された感じがします。なにしろ、全知全能で天地を創造した神が味方についていると言うのですから。そうなれば、こわいものなしです。しかし現実は、キリスト信仰者と言えども、不幸や苦難に陥ることにかけては、信仰者でない人たちとあまり大差はありません。それにもかかわらず、信仰者はどうして、苦難困難の時でも神との結びつきを信じられるのでしょうか?それは、キリスト信仰者は、命や人生というものを、今生きているこの世の人生とこの後に来る天の御国の人生の二つをセットにした大きな人生を生きているという自覚があるからです。この世では絶体絶命の状態になっても、それで全てが終わってしまうということにはならない、とわかっているのです。イエス様を救い主と信じ、彼の十字架の死と死からの復活のおかげで大きな人生を歩めているとわかれば、神は苦難困難の時にも目を離さずに見守っていて下さるということが当たり前になるのです。そして、神は時宜にかなった助けを与え下さる、と心静かに忍耐して待てるようになるのです。

以上のように、イエス様を救い主と信じる信仰によって回復した神との結びつきは、信仰人生の途上で、小さくなったり弱まったり感じてしまうことがありますが、それは人間の目から見て勝手に感じられることであって、神の目から見れば何にもかわっていないのです。イエス様を自分の救い主と信じる信仰に立ち続ける限り、周りでどんなに嵐が吹き荒れようと、神との結びつきには何の変更もありません。人間は、目で見たこと耳で聞いたこと肌で感じたことが判断の元になりがちです。しかしながら、こと救いとか罪の赦しとか神との関係のような事柄に関しては、目や耳で捉えたり感じたりしたことを超える把握ができないといけません。しかし、それは人間の力ではできないことです。それを可能にしてくれるのが聖霊の働きなのです。最初にも申し上げましたように、知識として知っていた歴史上の人物のイエス・キリストが、突然今を生きる自分の人生をつかさどる救い主になったというのは、これは聖霊の働きによるのです。ところで聖霊は、聖書の御言葉と密着して私たちに働きかけますから、兄弟姉妹の皆さん、聖霊の働きかけをこれからもしっかり受けることが出来るために、聖書はしっかり読んでまいりましょう。

 

4.ルターは、イエス様の言葉「わたしはあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11章28節)の解き明しで、聖霊の働きを受けた者は重荷が軽くされるということを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「イエス様は、『わたしはあなたがたを休ませてあげよう』と言われた。これは、まさにあらゆるものの上に君臨する方が口にすることができる言葉である。いかなる天使も、この言葉で言われていることは自分には果たせないと認めざるを得ないであろう。人間は言うに及ばず、である。この言葉をもって、イエス様は、自分が罪も死も律法も義も命も至福も全てを支配していることを宣言しているのである。そのようなことが可能なのは、まさに神だけである。神は、我々の罪という重荷を、赦しを与えることで取り除いて下さる。さらに、我々の抱えるその他の労苦をも軽くして、我々に喜びと安心を与えて下さる。

我々の良心が罪のために苦しめられる時、神から罪の赦しを与えられて天の御国を継ぐ者にしていただいと告げ知らされること以上に、我々の魂が平安を得ることはない。さらに、神が我々に平安を与えて下さるのは、罪が我々を重苦しくしたり我々の心を引き裂こうとする時だけに限らない。神は、我々が陥る他のあらゆる苦難困難の時にも、我々の傍から離れるつもりはないと言われるのである。神は、飢饉の時も、戦争の時も、絶体絶命の時も、その他我々が直面するであろうありとあらゆる過酷な試練においても、我々を見捨てることはないと言われるのである。

罪が人間を天の御国と正反対の方向に沈めようとする力は、人間が背負う重荷の中で最も重いものである。もし神の御子イエス・キリストが聖霊の働きをもって助けて下さらなければ、誰もこの重荷から解放されることはない。聖霊は、イエス様が父なるみ神にお願いして私たちに送っていただいた方である。聖霊が我々に働く時、我々の心は喜びに溢れ、罪が我々の心を引き裂こうとした事柄はどうでもよいこととなり、また、神が我々にしなさいと言われることをしっかり行わなくてはという気持ちにしてくれるのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように       アーメン

 

2014年6月8日 聖霊降臨祭の聖書日課 ヨハネ7章37-39節、ヨエル3章1-5節、使徒言行録2章1-21節

説教「天の御国からこの世への働きかけ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書24章44-53節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.十字架の死から復活したイエス様が40日間、弟子たちをはじめとする大勢の人たちの前に姿を現した後で、天の父なるみ神のもとに上げられた。これがイエス様の昇天と言われる出来事です。私たちが用いる新共同訳の使徒言行録では、イエス様は弟子たちが見ている前で、みるみると天高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに理解できます(1章9節)。ところがギリシャ語の原文をよくみると、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという表現です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を下から支えるようにして一緒に上がっていった。地面にいる者から見れば、下から見上げるのですから、見えるのは雲の底だけで、その上にいる筈のイエス様は見えません「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを指します。各国の訳も今申し上げたことに沿っています。フィンランド語では、雲がイエス様を運び去って弟子たちの視野から消えた、という訳です。スウェーデン語の訳は、雲がイエス様を取ったので視野から消えた、です。ルター版のドイツ語訳も、雲がイエス様を拾い上げるように弟子たちの目の前から運び去った、という表現です。英語訳のNIVを見ると、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて、雲が隠してしまった、という訳です。雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていないので、上げられ始めた段階で雲が出現したのでしょう。新共同訳では、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず、スーパーマンのように空高く天に上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような理解が生まれてしまいます。正確な訳とは言えません。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、イエス様を下から支えるように運び去ったのが通常の雲であるにせよ、雲と表現されるような現象であったにせよ、昇天とは真に奇想天外な出来事です。ただ、大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れられることでしょう。しかし、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画に出てくるようなSFX特殊視覚効果技術による撮影を現実のものと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。もっとも、最近のキリスト教徒も、同じように考える人が多いかもしれません。

天に上げられたイエス様は今、天のみ国の父なるみ神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられますが、それじゃ、どうやってそんな天空の国の存在が確認できるのか、と問われるでしょう。地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以後、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われているような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるのでしょうか?それとも見つからないと結論づけられるのでしょうか?

ここで立ち止まって考えなければならないことがあります。それは、これまで述べてきたロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰とは全く別の世界の話であるということです。成層圏とか大気圏というようなものは、人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり、重さを量ったり、計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして築かれるものです。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超える事柄に関係しています。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関わりを持っています。天の御国も、この確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書によれば、天のみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたのですから、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

他方で、目や耳などで確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てで、それ以外に世界などない、と考える人たちもいます。そのような人たちにとって、天と地と人間を造られた創造主などは存在しません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くなどということも全く考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理的現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人も、亡くなった人が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それは亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の心の有り様だと言うでしょう。

信仰に生きる者にとっては、人間を含めてこの現実の世界にあるもの全て、現実の世界そのものは全て創造主に造られものになります。それで、自然界や人間界に起きることには、神の意思が働いていると考えます。もし起きた出来事が大災害のように大きな不幸をもたらす場合、神の意思は人間の思いと理解をあまりにも超えすぎてとてもついて行けない、ということが起こります。しかし、このような場合でも、人間の命と人生というのは、本当はこの現実の世界と神のいる天の御国の二つにまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだと思い返す時、神に対する反発や疑いは静まり始めます。さらに、人間の命と人生から天の御国が欠け落ちてしまわないために、また、人間が今の現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を形作れるようになるために、まさにそのために父なるみ神は御子イエス様を私たちに送って下さったのだ、このことを思い返す時、神を愛し慕う心も戻ってきます。

 イエス様の昇天の出来事とは、まさに、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を持てるようにするという、神の意思が働いている出来事なのです。以下、このことを見てまいりましょう。

 

2.イエス様が天に上げられなければならなかったのは、一つの理由として、死から復活したイエス様は復活の体を持っており、それは神の栄光を体現する神聖な体でもあるので、存在するには、この罪深い世よりも、神のいる天の御国のほうが相応しいと言えます。復活の体の神聖さについては、復活祭の礼拝の説教でもお教えしたことですので、ここでは振り返らずに先に進みましょう。

 ここで少し脱線しますが、神のいる天の御国が存在するのに相応しい場所だったら、なぜ復活後すぐ天に上げられず、40日間も留まっていたのか、と疑問を抱かれるかもしれません。この短い期間の地上の滞在には重要な意味があります。まず、この期間にイエス様は弟子たちに、十字架の死と復活の出来事をもって旧約聖書の預言が実現したということ、旧約聖書はそもそも自分について予告する書物であることを明らかにしました。本日の福音書の箇所であるルカ24章45節「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」、これをギリシャ語原文に密着して理解すると、「イエス様は、弟子たちが旧約聖書をこのように理解できるようにと、彼らの理解力を曇らせていたものを取り除いた」という意味です。イエス様の十字架の死と復活がなかったならば、誰も旧約聖書の意味も目的もわからなかったでしょう。それが、死も復活も両方行った方が、まさに身をもって、旧約聖書の意味と目的を明らかにしたのです。

イエス様が地上に留まることは、また、大勢の人たちに復活というものがあるということをわからせる意味がありました。「コリントの信徒への第一の手紙」の中で使徒パウロは、どれくらいの人たちが復活した主を目撃したかを記しています。直近の弟子たちの次には、500人以上の人たちの前に現れた、そのうちの大部分は今なお生き残っている、と述べています(15章6節)。つまり、目撃者の多くはまだ生き残っているのだから、疑う者は彼らのところに行って直に聞くがよい、ということであります。もし、復活したイエス様が即、天に上げられてしまっていたら、弟子たちは旧約聖書の意味も目的もわからないままで、復活はあると言ってもなかなか信じられなかったでしょう。

 こうして、弟子たちに旧約聖書の意味と目的を理解させ、大勢の人に復活があることをわからせた後で、イエス様は復活した者に相応しい場所である天のみ神のもとへ上げられました。イエス様の昇天から10日して、今度は彼が送ると約束されていた聖霊が天から地上に送られることになります。これが聖霊降臨と呼ばれるもので、次主日は世界中のキリスト教会でこのことがお祝いされます。

さて、イエス様が天に上げられた理由を考える時、一つにはそれが復活の体を持つ者にとって相応しい場所だからだと申し上げました。それだけではありません。イエス様が天に上げられることで、人間の歴史は新しい局面を迎えることとなったのです。イエス様の昇天とは、実は、人間の歴史にとって一つの大きな分水嶺なのです。どういうことかと言うと、天に上げられる前の人間の歴史とは大体次のようなものでした。堕罪の時に壊れてしまっていた神と人間の結びつきを神が回復しようとして、相応しい時が来るまで歴史を進めさせ、その都度その都度、自分の意思と計画を人間に知らしめた。この知らしめたことが旧約聖書になりました。やがて相応しい時が来た時、神はひとり子をこの世に送って、彼を用いて神と人間の結びつきを回復させる可能性を打ち立てた。それは、人間と神の結びつきを壊していた原因であった人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、罪の罰を全部彼に受けさせて、彼を十字架の上で死なせて、彼の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたということです。神から罪の赦しを受けた人間は神との結びつきを回復することとなります。神との結びつきを回復した人間は、天の御国に至る道に置かれてその道を歩むようになり、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを得られて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手によって引き上げられて、神のもとに永遠に戻れるようになります。このように、神は、イエス様を用いて人間の救いを準備完了にしたのであります。あとは人間の方がそれを受け取ればよい、という状態にしたのであります。この状態をもたらしたところまでが、イエス様の昇天までの人間の歴史でした。

イエス様の昇天後は、今度はこの神の準備した救いを人間が実際に受け取っていく時代となりました。ここでは、イエス様はこの現実の世界から天の御国に移られてしまったのですが、かわりに天の御国から聖霊が送られて、これ聖霊を洗礼を通して注がれた者たちが重要な役割を担うようになりました。彼らの働きを通して、多くの人たちがイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けて、神の準備した救いを受け取っていくこととなったのです。救いを受け取った者たちが、今度は他の人たちが救いを受け取ることができるように働いていくことになりますが、この時、無理解や反対にも多く遭遇します。ひどい時には迫害も起こります。しかし、多くのキリスト信仰者たちは、この現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を歩んでいることを思い出して、迫害の最中にあっても、また現実の世界の最後の瞬間にも神への感謝と賛美を絶やさなかったのであります。

この信仰者の働きの時代は、イエス様が再び来ると約束された再臨の日まで続きます。イザヤ書65章17節や66章22節(60章19~20節も)それに黙示録21章1節に、神は終わりの日に今ある天と地に変わって新しい天と地を造られると預言されています。これは、今のこの現実の世界が崩れ去って、天の御国が目に見える形で現れる日です。その時にイエス様が再臨されるのです。

3.そういうわけで、イエス様の昇天から再臨までの間の時代を生きる私たちは、信仰者の働きの時代を生きているのです。その時代の始まりの部分は、新約聖書の使徒言行録によく描かれています。実に私たちは、使徒言行録の続編の時代を生きているのです。無理解や反対や迫害に遭遇しても、イエス様を救い主と信じて大きな命と人生を獲得する人たちは増えていきました。しかし、信仰者の群れが躍進しようが停滞ないしは沈滞しようが、無理解、反対、迫害は決してなくなることがありません。どうして、イエス様の福音に対して無理解、反対、迫害が生じてくるのでしょうか?

それは、この現実の世界の中には、どうしても、人間がこの現実の世界の命と人生しか持てないようにしてやろうという力が堕罪の時から働いているのです。大きな人生など持てないようにしてやろう、とか、人間が自分の真の造り主に目と心を向けられないようにしてやろう、とか、そのようにして人間が自分の造り主である神と結びつきが持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いているからなのです。この力は、堕罪の時からずっと今もこれからも、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされるまでは働き続けるのです。しかし、この現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を歩んでいる者にとっては、絶えず天のみ神からの助けと良い導きを得られるので、心配は無用です。悪い力は、神との結びつきを壊そうとして私たちの人生を引っ掻き回そうとするでしょうが、引っ掻き回せるのはせいぜいこの現実の世界の人生だけです。イエス様を救い主と信じる限り、大きな人生そのものには何の影響も害もありません。

 最後に、キリスト信仰者の人生には悪魔の引っ掻き回しはつきものであるが、信仰者はその引っ掻き回しを受けても大丈夫なくらい強い守りの中にいるということを、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。それは、マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」のルターの解き明しです。

 「『全てのもの』とは文字通りに全てのものである。全てのものが、我々の主イエス・キリストの手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。何ものも、このことの例外になりえないのである。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、キリストの御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我々に真の知識と真の光が与えられる。もし、キリストが全てのものを手中に収め、また父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自身述べているように(ヨハネ10章28~29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ないのである。確かに悪魔は、機会を見つけては、キリスト信仰者をありとあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。結婚を壊して不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬むことや憎むことに心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと悪魔は仕向けてくるであろう。しかし、悪魔の攻撃に遭遇しても、キリスト信仰者はたじろぐ理由も必要もない。なぜなら、我々には、悪魔をも足蹴にしている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我々を真にお守り下さる方なのだ。

もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも身の毛がよだつ恐ろしいことだ。だからこそ、君は祈らなければならないのだ。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならないのだ。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。キリストは、必ず君を苦境から救って下さる。そうである以上、君の方から簡単に神の御国を離脱するようなことはあってはならないのだ。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように     アーメン

 

 2014年6月1日 昇天主日の聖書日課 ルカ24章44-53節、使徒言行録1章1~11節、エフェソ1章15-23節

説教「キリスト信仰者の希望」、神学博士 吉村博明 宣教師、第一ペトロ3章8-17節、ヨハネによる福音書14章15-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の使徒書である「ペトロの第一の手紙」3章15節に、「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」とありました。「あなたがたの抱いている希望」というのは、ギリシャ語の原文に忠実にみると「あなたがたの間に存在している希望」で、要はキリスト信仰者がひとつの同じ希望に与っているという意味です。「あなた方が共有している希望」と言ってもよいでしょう。キリスト信仰者たるものはそうした共有する希望を他の人たちに説明できなければならない、もし誤解されたり疑問を抱かれたりしたら弁明できなければならない、と使徒ペトロは勧めます。私たちは、キリスト信仰者の共有する希望を他の人たちに説明したり弁明したりすることができるでしょうか?そもそもキリスト信仰者の希望とは何なのでしょうか?本日は、このキリスト信仰者の希望について、本日の日課の箇所に基づいて明らかにしたいと思います。希望とは、一般的には、こうなったらいいな、とか、こうなってほしいとか、何か願ったり望んだりする事柄です。似ている言葉に「期待」があります。しかし、「希望」は「期待」より、ずっと深くて広い事柄です。期待していたことが叶うと、「期待通りになった」と言います。叶わなければ、「期待外れだった」です。希望についても、「希望通りになった」とは言いますが、「希望外れだった」とはあまり聞きません。希望していた事柄がその通りにならなかったり、そうならないことがもう火を見るよりも明らかになると、希望が失われ、「絶望」になります。この場合、事態は「期待外れ」よりも重大かつ深刻です。そのような時、「生きる希望を失った」という言葉さえ口にしたりします。例えば、大切な人、愛する人に先立たれた時の気持ちは、この言葉の通りだと多くの人が感じるでしょう。大切なものを失ったという喪失感が大きいと、生きる意味自体がなくなってしまった感じがするのです。しかし、喪失感をあくまで感情の問題と捉えて、周りの人がしっかり支援すれば、感情は大きくなったり小さくなったりするものですから、支援を通して感情を落ち着かせることは可能です。これが出来れば、たとえ喪失の事実は消えなくとも、生きる新しい意味を見いだすことも可能です。

キリスト教では、葬儀や墓地で行う礼拝で、「復活の日における再会の希望」を強調します。どういう希望かというと、人間は死ぬと外見は肉体が滅びて朽ち果てた状態になるが、人間の造り主である神のみぞ知る場所に安置されて安らかに眠る。そして、復活の日が来ると目覚めさせられて、朽ちない復活の体を与えられて永遠に生き始める。そこで懐かしい人たちと再会する。そういう希望です。キリスト信仰では、この「復活の日における再会の希望」が喪失感の感情を肥大化させない抑止力になっていると言えます。ただし、キリスト信仰者といえども、喪失感に陥っている人に対して、いきなりこの希望を説くことは禁物です。まず、その人の喪失感をしっかり受け止めてあげなければいけません。そうでないと、いくら希望を説かれても空虚な言葉にしか聞こえなくなってしまうでしょう。また逆に、感情を無理やり押し殺すようなことをすると、問題の先送りのようなことになって後でいろいろな弊害が出てくる危険があります。過酷な現実のために信仰が揺らいでしまった時、それを再び確固とした基盤にのせられるためには、それなりの時間と多くの祈りが必要なのです。

いずれにしても、キリスト信仰者の希望は、「死からの復活」ということに結びついています。「ペトロの第一の手紙」のはじめをみると、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」て下さったと記されています(1章3節)。「生き生きとした希望」というのは、ギリシャ語の原文に忠実にみると、「生きている希望」です。つまり、「死なない希望」とか「潰えることのない希望」とか「朽ち果てない希望」ということです。そのような希望が、イエス様の死からの復活を通して私たちに与えられたと言うのであります。

このようにキリスト信仰者は、「死からの復活」に結びついた、潰えることのない希望を持っている。そのような希望を持つと一体どうなるかということが、「ペトロの第一の手紙」の本日の箇所に明確に述べられています。その部分を今一度引用します。

「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさあい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(3章13~17節)。

ここで言われていることは、善いことを一生懸命しても、ほめられたり評価されるどころが、逆に自分たちがキリスト信仰者であるということのために、危害を加えられることがある。一生懸命善いことをしても、平穏無事な生活をもたらすことに全く役に立たないことがある。しかし、キリスト信仰者にとって、善いことはするのは、自分の何かの役に立つとか立たないとかいうことに全く関係がない。なぜなら、善いことをするのは、自分が救い主と信じてやまないイエス様の意思だからである。それで、自分が善いことをするのは、周りの人たちが自分にどんな態度を示すかということと全く関係がないのである。本日のペトロの教えの初めにはこうありました。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)。使徒パウロも同じように、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ12章17節)と勧めます。善を行うことが、自分に害を及ぼす者に対してもそうだと言うのは、納得しがたいものがあるかもしれません。しかし、どんな状況に置かれても、心が神のみに向けられていれば、神の意思と自分に及ぼされる害の二つの天秤皿は、すぐ神の意思の皿がストンと落ち、自分に及ぼされる害の皿はふわっと上昇します。それ位、キリスト信仰者にとっては、神の意思は重く、自分に及ぼされる害は軽いのです。

そこで、自分に害を及ぼす者が、おかしいなあ、これだけ害を及ぼしても、平気で善いことを続けられるのは一体どうしてなのだろう、普通だったら動揺して善いことをするどころではなくなるのに、と不思議がり始める。キリスト信仰者は感覚がずれているのか鈍感なのか?それとも、及ぼされる害を痛くも痒くもないように感じさせる、何か大きなものを心に持っているのだろうか?そうだとしたら、それは一体何なのだ?もしそのように聞いてきたら、信仰者はただ、信仰者が共通して持っている希望について、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」弁明しなければならない。つまり、害を及ぼす者に対して、害が自分を委縮させたとか恨み憎しみを抱かせとか、自分の心を引っ掻き回すことは全くなかった、それ位、自分の心は神に向けられていたことを示す。「正しい良心」というのは、自分はただ神の意思に沿おうとしているだけで他に動機はないので神に対してなんのやましいところはない、という心の平安です。これがあると、害を及ぼす者が騒ぎ立てても、心は平安のまま保たれます。

周囲の者がどんな態度で来ようとも、自分の心は神の意思に向けられているので、周囲の者の態度と無関係に善を行うことができる、それがキリスト信仰者の心意気だ、とペトロは教えるわけです。害を及ぼされるのは残念で嫌なことだが、まあ、それはそれとして、神は、そんなことにいちいち注意を逸らされていてはいけない、お前はただ私の命ずることに聞き従っていればよいのだ、すなわち、全ての人に善を行いなさい、と命じられる。このような神の意思にキリスト信仰者の心がしっかり向けられているのは、信仰者が「死からの復活」に結びついた、潰えることのない希望を持っているからに他なりません。以下、その希望をもう少し具体的に見ていくことにします。そのためには、本日の福音書の箇所が役立ちます。

 

2.本日の福音書の箇所の初めは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる」というイエス様の言葉です。「掟をまもる」という動詞は、ギリシャ語の原文では、「わたしを愛しているのならば、わたしの掟を守らねばならない」という命令文にもなるし、または、「わたしを愛しているのであれば、私の掟を守ることになる」という未来の意味にもなります(ギリシャ語の未来形)。いずれにしても、私たちがイエス様の掟を守るということは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。掟を守るというと、なにか強制されているような感じがします。果たして私たちは、強制を強いる者を愛することができるでしょうか?しかし、ここで言われていることは、掟を守れ、そして掟を与えた者を愛せ、ということではありません。そうではなくて、イエス様を愛するならば掟を守るのが当然になるということです。ルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになれるか」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなものなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがなければ、人間は愛することなどできない」というものです。それでは、外部からくる素晴らしいものとは何なのでしょうか?

 それを知るために、キリスト信仰者は、どうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返る必要があります。

 イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで、私たちが天と地と人間の造り主である神と結びつきを回復できて、この結びつきを持ってこの世を生きることができるようになったためです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩むことになると、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分の造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになります。

イエス様はどのようにして私たちが神との結びつきを持てるようにして下さったかと言うと、それは、その結びつきを持てなくなるようにしていた原因であった、人間に内在する罪と神への不従順を無力化したのです。罪や不従順が無力化されたというのは、それらが力を持っていたからですが、どんな力を持っていたかと言うと、人間が神と結びつきを持てないようにする力、この世の人生の歩みでは神との結びつきがない状態にとどめて、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに戻れなくするような力です。

それでは、罪と不従順のそうした力が、どのように無力化されたかと言うと、神はイエス様に人間の全ての罪を請け負わせて、本来人間が受けるべき罪の罰を全部イエス様に受けさせて十字架の上で死なせられたのです。そこで神は、イエス様の犠牲の死に免じて人間を赦すこととしました。人間は、このことが真に自分のために行われたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の罪の赦しがその通りになります。神から罪の赦しを受けるということは、神との結びつきができたということになります。こうしたことが、神のひとり子の犠牲の死によって実現したのです。

そればかりではありません。神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命、復活の命に至る扉を人間に開かれたのです。こうして神との結びつきを持つことになった者は、永遠の命に至る道に置かれることにもなり、今の世の命と次の世の命を両方合わせた一つの大きな命を生き始めることになるのです。私たちがこのような新しい命を生きられるようになったのは、自分のひとり子を犠牲にしてまでも人間を救おうと決心された神の愛と、その神の決心を受け入れて実行されたイエス様の愛があったからでした。

このような神とイエス様の愛を知った時、人間の心はどう変わっていくかということについて、ルターが次のように明らかにします。「こうして、イエス様をこの世に送り、彼を用いて罪の赦しによる人間の救いを実現した神は、我々にとって愛すべき父親となった。御子を犠牲に供しなければならなかったのは、我々が罪の支配から抜け出すことができないでいる弱さのためであった。しかし神は、弱さの塊にしかすぎない我々を受け入れて下さり、死に至る病から癒して下さった。この父なるみ神に対して今度は、我々の方が心の底から愛を注ぐようになるのは当然のことである。加えて、このような神の愛を受けた以上は、我々もまた、神が我々にして下さったのと同じように隣人に対しても振る舞うようになるのは当然なことである。このようにして、我々は神と御子の意思とその掟を守るのが当然という心意気になっていくのである。そうなると我々はもはや、他に仕える神々などを持たなくなる。こうして、十戒の第一の掟は当然のこととなる。また、神の御名にのみ祈りを捧げ、神の御名のみを賛美するようになり、こうして第二の掟も当然になる。さらに、我々は、神が自ら決定し実行することを認め受け入れようという心になっていく。神よ、あなたが善かれと思われることを成し遂げ給え。それに対して我々は騒ぎ立てず異議も唱えず、ただ、あなたに信頼して静かにしています。だから安息日はしっかり守ろう。これで第三の掟も当然のこととなる。十戒の残りの掟についても同様である。全ての人に対して、気遣いとへりくだりの心を持って接しよう。父母を敬おう。隣人を愛し仕えよう。なぜなら、神が私にして下さったように、私も隣人にするのが当然という心意気になっていくからだ。」

 このように、神がイエス様を用いて私たちのために成し遂げて下さったことが、本当に素晴らしいことだとわかれば、私たちは神を全身全霊で愛することが当然であると思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となるのです。神の愛と恵みのなんたるやを知った時、私たちの心に神への愛、隣人への愛が点火されるのです。人間が正しく愛することができるためには、全てに先だって神の人間に対する愛があることを知ることが大切なのです。このことは、「ヨハネによる第一の手紙」の中で強調されています。

「神は、ひとり子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(4章9~12節)。

 

3.以上みてきたように、キリスト信仰者は、天の父なるみ神と御子イエス様の取り計らいによって、神との結びつきが回復できて、今は永遠の命に至る道に置かれてそこを歩んでいます。この新しい命を生きられるようにして下さったみ神とイエス様への感謝と賛美が、信仰者をして神への愛と隣人愛に駆り立てていくことも明らかになりました。敵対する者に害を及ぼされても、心はしっかりと神の意思に向けられています。使徒パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント4章17節)と述べましたが、これは神の約束です。今この世で艱難を受けても、それは次の世で永遠の栄光をもたらす。だから、キリスト信仰者にとって艱難とは永遠の栄光をもたらす貴重な材料のようなものでさえあるのです。復活の日に、朽ち果て腐る今の肉体にかわって、神の栄光を体現する復活の体を与えられて永遠に生きるようになる。これがキリスト信仰者の希望の中心にあるのです。このような希望があるから、周囲の者がどんな態度を取って来ようとも、自分の心は神の意思に向けられているので、周囲の者の態度と無関係に善を行うことができるのであります。

 周囲の者の態度と無関係に善が行えるというのは、ペトロやパウロが勧めるような何か害を及ぼされた時だけに限りません。例えば、そんなことやって一文の得にもならないじゃないか、とか、あんな人にはそこまでしてあげなくてもいいんじゃないの、とか、ちょっとお人好しすぎるんじゃないの、とか言われてしまう位に公平無私を貫く時もそうです。しかしながら、キリスト信仰の場合は、それが倫理的道徳的に立派だから頑張ってやる、ということではありません。キリスト信仰者が最初に注目することは、何が倫理的道徳的に立派なことかということではありません。そうではなくて、ああ、私は自分の造り主である神とちゃんと結びつきがあるのだろうか?ああ、イエス様の十字架と復活のおかげでちゃんと結びついているのだ。よかった、安心した。これが、キリスト信仰者が最初に注目する事柄です。この安心感のゆえに、キリスト信仰者は、その他のことで自分が損をしたとか、悪口を言われたとかいうようなことはそんなに重要なことではなくなり、結果として公平無私の状態になっていくのです。立派な倫理道徳実践者とは、目のつけどころが違うのです。キリスト信仰者は、今のこの世の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、とか、この朽ち果てる体が神の栄光を体現する体に変えられるとか、そういうことばかり言っているので、目のつけどころが違うと言うよりは、視点がずれていると笑われてしまうかもしれません。でも、まさにここのところが、キリスト信仰者が公平無私になっていく時の鍵なのです。

日本人なら誰でも知っている宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」は、公平無私の思想の結晶として日本人の心を強く惹きつけてきました。しかし、その詩の終わりで「そういう者に私はなりたい」と言っているように、公平無私を希求する心がその思想の根底にあります。キリスト信仰の場合は、そういう希求とは無縁なところから始まります。それは、自分と造り主である神との関係は大丈夫だろうか、というある意味で自己中心的なところから始まります。しかし、それが結果として、自分でも気づかないうちに公平無私の大海に向かって流れていくのです。それはまた、可憐な花が、自分は可憐かどうか全然気にすることもなく、自分が可憐だと全く気づかないでそのように咲いているようなものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように       アーメン

復活後第五主日の聖書日課 使徒言行録17章22-34節、第一ペトロ3章8-17節、ヨハネによる福音書14章15-21節 

説教「主イエスは心を落ち着かせる道」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章1~14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架刑に処せられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時のイエス様の教えです。初めにイエス様は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが大きな不安を抱き始めたために、イエス様が述べられた言葉です。それがどんな不安であったか、少し考えてみましょう。

例えば、私たちは、言葉の通じない外国で単身で生活しなければならなくなったとしたら、いろいろ心配になり不安を抱くでしょう。ただ、冒険やかけ離れたことが好きな人だったら、むしろ心配になるどころかウキウキしてしまうかもしれません。いずれにしても、新しい土地で何かをしようという目的心があるならば、不安や心配を超える希望を持っているので、不安や心配はあってもそれらに心が圧倒されることはありません。それでは、別に外国に行かなくても、長く住み続けた場所にいて、何かの原因で周囲の人たちが自分のことをよく思っておらず敬遠している環境の中にいるとします。その中である人だけは自分のことを分け隔てなく付きあってくれて、困ったことがあればいつも相談に乗ってくれたり手助けをしてくれるので、その場所に住むことは平気だった。ところがある日、その人は遠くに引っ越さなければならなくなってしまった。さあ、頼りにしていた人がいなくなってしまった今、自分はこの場所で一人でやっていけるだろうか。この場合は、不安や心配を上回る希望自体がなくなってしまうので、それらに心が圧倒されてしまい、心が騒ぐことになるでしょう。

本日の福音書の箇所でイエス様が「心を騒がせるな」と言った時の弟子たちの状況は、今申し上げたことに似ています。弟子たちにとって、イエス様は頼れる最高の人でした。イエス様は、無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、またわずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど、無数の奇跡の業を行いました。同時に、天と地と人間を造られた神の意思について人々に正しく教え、それまで神の意思を代弁していると自負していた宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそ、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する本当のユダヤの王と信じていました。そして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現の日が近づいたと期待に胸を膨らませました。ところが、イエス様は突然、弟子たちに対して、自分はお前たちのところを去っていく、自分が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めます(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも驚きます。イエス様が王座につけば、自分たちは直近の弟子ですから何がしかの高い位につけると思っていたのに、主は突然、自分は誰もついて来ることができない所に行く、などと言われる。それではダビデの王国はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえ、イエス様は支配者やエリート層の反感を買っているのに、力ある彼がいなくなってしまったら、取り残された自分たちは迫害されてしまうではないか?こうして弟子たちは、希望が失われ、不安と心配で心が圧倒された状態に陥ったのでした。心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれるように取り残された弟子たちが、心を騒がせないで済む希望について、イエス様は教えていきます。それを以下に見てまいりましょう。

 

2.イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて、弟子たちを自分のところに迎える、と言われます。「あなたがたをわたしのもとに迎える」というのは、ギリシャ語の原文では、イエス様が弟子たちを御自分と父なるみ神のいるところに、それこそ手で引っ張るようにして(引き上げ)連れて行く(παραλημψομαι)、という意味です。このイエス様の言葉には、十字架と復活の出来事から始まってこの世の終わりの日に至るまでの人類の歴史の期間が凝縮されています。

まず、イエス様が十字架に掛けられて死んだことによって、罪の力、つまり人間と神との結びつきを破壊する力が消えました。どのようにして消えたかと言うと、人間が本来神から受けるべき罪の罰を、イエス様が代わりに受けました。そこで今度は、人間の方が、イエス様は本当に自分の身代わりになって死なれたのだとわかって、彼を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神は、それならばイエスの犠牲の死に免じてお前を赦そう、と言って、その人の罪を赦す。そのようにして、堕罪以来失われていた神と人間の結びつきが回復するのです。もちろんキリスト信仰者になっても、人間はまだ肉をまとって生き続けますから、罪の思いは持ち続けてしまいます。しかし、今の自分の人生は神のひとり子イエス様の犠牲の上に成り立っている、それに相応しい生き方をしなければ、と絶えず言い聞かせていけば、神はイエス様の犠牲に免じて絶えず罪を赦して下さり、またその人に絶えず良い導きと助けを与えてくれるのです。

イエス様の十字架での犠牲の死に加えて、父なるみ神はイエス様を死から蘇らせました。これによって、死を超える永遠の命、復活の命に至る扉が人間に開かれました。こうしてイエス様を救い主と信じて、神から日々罪の赦しを得て人生の道を歩む者には、罪はもはやその人を神から引き離す力を失っており、その人が永遠の命、復活の命に至る道を歩むことを邪魔できないのです。このように、ひとり子イエス様を用いて私たちを罪の支配下から解放して下さり、永遠の命、復活の命に至る道に置いて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

さて、イエス様がまた戻ってくるというのは、今は父なるみ神の右に座しているイエス様がこの世の終わりの日に再臨することを意味しています。この時、大々的な死者の復活が起こり、最初の弟子たちをはじめイエス様の群れに繋がる者たちが父なるみ神のもとに引き上げられることになります。

これらのことを言われた後でイエス様は、「わたしがこれから行こうとしている所に至る道をお前たちは知っているのだ(新共同訳では「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」)と言われます(4節)。つまり、イエス様が行こうとしている場所とそこに至る道の両方を、弟子たちは知っていて当然という口調です。それに対してトマスが当惑した様子で言います。あなたがどこへ行くのかわからない以上、そこに至る道というのもわからないのです、つまり、両方わからないのです、と。これに対してイエス様は次の有名な言葉を述べられます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。これで、イエス様がこれから行こうとしている場所は、天の父なるみ神のいるところである、すなわち天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主のいるところであることが明らかになりました。そして、イエス様自身がその父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。その道を通らなければ、だれもそのもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道なのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉に定冠詞がついています(η οδος, η αληθεια, η ζωη 英語やドイツ語の訳も同様で、the way, the truth, the life、der Weg, die Wahrheit, das Lebenと言っています)。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味を持ちます。いくつかある道の中の一つということでなく、この道を通らないと創造主のもとに行けないという唯一の道なのであります。

こういうことを言うと、現代の宗教界の中では煙たがれるでしょう。ああ、キリスト教はやっぱり独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だな、と。最近よく聞かれる考え方にこういうのがあります。つまり、人間がこの世の人生を終えた後、天国でも極楽浄土でもなんでもいい、何か至福の状態があるとすれば、そこに至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが、到達点はみな同じなのだ、という考え方です。キリスト教界の中にもそのように考える人がいます。しかしながら、神の言葉とされる聖書に主イエス様の言葉としてある以上は、煙たがれようがなんだろうが、やはり御言葉を水で薄めるようなことはしないで、そのままの濃度で保つべきではないかと思います。それに、同じ到達点と言っているものは本当に同じなのかどうか考えてみなければならないと思います。つまり、諸宗教が目指す至福というものは果たしてみんな同じものなのかどうか。キリスト教で至福とは、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられた創造主との結びつきがそのひとり子の働きのおかげで回復して、それで人間は造り主のもとに戻れるようになったこと、これが至福ということになります。他の宗教でも同じなのでしょうか?

 イエス様は道以外にも、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのは、次のようなことです。人間と造り主との結びつきが失われた原因は罪にある。造り主の神としてはただ、人間のために結びつきを回復したい。そのためには罪を無力にしなければならない。こうした人間の惨めな有様とそのような人間に対する神の愛は打ち消せない真理としてある。それゆえに、この神の愛の実現のためにこの世に送られたイエス様は、真理そのものなのです。

命の決定版ということについて。イエス様が、「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは、今のこの世の人生だけでなく、次の来るべき世の人生と一緒にあわせた、とても長い時間枠の「命」、「生きる」を意味します。死から復活させられたイエス様は、まさにそのような長い「命」を「生きる」方です。加えて、彼を救い主と信じる者たちに、同じ長い「命」を「生き」られるようにされます。それで、イエス様は命の決定版なのです。

 

3.7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい、御子と父は一緒の存在であるということが、7節から11節まで強調されます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は考えました。つまり、イエス様と父なるみ神は一緒の存在であるということがまだ信じられないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったかもしれません。十字架と復活の後になって、弟子たちは、イエス様は真に天の父なるみ神から送られた神のひとり子であることがわかりました。さらに、イエス様は父の人間に対する愛のために自分を犠牲にするのも厭わずに父の計画を忠実に実行したということもわかりました。それくらい、御子は父に従順だったのであり、彼が教え行ったことは全て、父が教え行ったことであり、彼が自分から好き勝手に教えたり行ったのではないということもわかったのであります。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくい言葉です。というのは、イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様の父なるみ神のもとへ行くこととどう関係があるのか、すぐ見えないからです。

弟子たちがイエス様の行う業を行うという時、まっさきに考えなければならないことは次のことです。つまり、イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられる可能性を開きました。これに対して、弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで、人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していきました。しかし、双方とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに、弟子たちの場合は、イエス様が活動したユダヤ・ガリラヤの地方をはるかに遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで、救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。この意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになると言えるのです。また、この弟子たちによる福音伝道と救いの群れを拡大する宣教活動は、イエス様が天に上げられた後で本格化しました。どういうことかと言うと、イエス様は父なるみ神のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束されていました(ヨハネ14~16章)。聖霊は、福音が宣べ伝えられる場所ならどこでも、人々が人間の惨めな有様やそれに対する神の愛をわかるように働きかけます。このように、イエス様が天の父なるみ神のもとに戻って、聖霊が送られたからこそ、救われた者の群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければならない、あまりにも利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまう、とわかるからです。神との結びつきが回復して永遠の命に至る道を歩む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは、この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように、ということに行きつくのではないかと思います。同時に、まだ結びつきが回復しておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない隣人のために、結びつきの回復と道の歩みが始まりますように、という願いも切実なものになると思います。イエス様がその通りにしてあげよう、と約束された以上は、たとえ何年、何十年かかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の重要な任務です。

 

4.以上、本日の福音書の箇所を駆け足で見てきました。最初に述べた問題に戻ってみましょう。それは、イエス様が天の父なるみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになるが、それでも彼らが心を騒がせないで済む希望を持つことができるとイエス様は教えられました。それはどんな希望だったでしょうか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰によって、自分は父なるみ神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて今その道を歩んでいるという救いの確信があるということです。その道が間違いのない正しい道であることは、それがイエス様自身が切り開かれた道だからでした。そして、自分がこの道を歩めるために、また他人が歩めるようになるために、願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたことも、大きな希望を与えるものです。

最後に、御子と父が一緒の存在だとわかると、我々の心は平安になり、全てのことは神の御心のままに起こってよいという心意気になるものだ、とルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、自分の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた任務を果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、任務を果たされた御子を通して、それを与えた父へと高められる。こうして君の心は父に対する信頼で溢れて、父を愛するようになる。

父なるみ神をこのように知ることができれば、君は、全てのことは神の御心のままに起こってよい、と言って、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は、君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は、神の住む場所として全てのことを静かに受け入れられる、へりくだったものに変わる。まさに、主イエスが、父と共に自分を愛する者のところに行って、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。

我々は、神の栄光、力そして知恵をしっかり知りうる地点に到達しなければならない。その地点に立つ時、我々は、我々に関する全てのことを神が決定するのを受け入れられるようになる。また、全てのことには神の意図と影響力が働いているということもわかる。その時、我々はもはや何ものに対しても恐れを抱かなくなる。寒さや空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものは恐れる必要がなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄に存在する力の総量よりも勝っているからである。このようにして、我々の内で、この世的なことの全てに反対する勇気が成長していくのである。我々には神がおられ、また神の栄光と力と知恵も我々に与えられている。それだからこそ、あとは、我々は何をも恐れずに、我々に課せられた義務をしっかり遂行するだけなのである。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように     アーメン

 

 主日礼拝説教 2014年5月18日 復活後第四主日の聖書日課 使徒言行録17章1~15節、第一ペトロ2章4~10節、ヨハネ14章1~14節

説教「主イエスは良い羊飼い。我らを守り導き給う。」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章1-16節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所でイエス様はたとえを話されます。イエス様は自分のことを、命を賭けて羊を守る良い羊飼いである、とか、また羊が盗まれたり危害を加えられないように見張る門であるともおっしゃります。ああ、イエス様はそういう良いお方なんだな、と理解できるのでありますが、それでは、羊とは誰のことを指しているのか?羊飼いとしてまた門としてイエス様は、誰を守られると言っているのか?そして、羊を盗んだり危害を加えようとする盗人、強盗とは何を指しているのか?狼が来たら、イエス様は、命を捨ててまで羊を守ると言われますが、その狼とは何を意味するのか?そして、羊が守られている囲いとかそこにある門とは、また羊飼いが羊を連れて行く牧草とは何を意味するのか?こう言ったことまでわからないと、イエス様のたとえの意味は理解できたことにはなりません。

 イエス様はこのたとえを、彼に敵対するファリサイ派の人たちに話しました。自分がどのような方で、何のためにこの世に送られてきたかを教えるためでした。しかし、ファリサイ派の人たちはたとえの意味を理解できませんでした(6節)。私たちとしては、本日の説教を通して、当時のユダヤ教社会の宗教エリートであったファリサイ派の人たちよりも賢くなってお家に帰るようにしましょう。

 

2.イエス様はまず、1節から5節まで、ごく一般的なこと、常識的なことを話します。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

羊の飼育が大事な産業になっているところでは、塀のような囲いをつくって、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材で造られるものばかりかと思っていましたら、石で造られるものもあったようです。泥棒が「乗り越える」(ギリシャ語で「上る」)というのだから、決して垣根のような低いものではなく、それなりの高さがあったと言えます。イエス様の話し方から判断すると、囲いの中には、一人のだけでなく複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こうとするか、とやってきて、門番に間違いなく所有者であると本人確認をしてもらって門を開けてもらい、自分の所有する羊を呼び集める。生まれた時から同じ羊飼いに飼われている羊は、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられたのでしょう。他の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったのでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して、囲いの外に出て行きます。囲いの門についてですが、門番が開け閉めをすることから、扉付きの門と言った方が正確でしょう。

以上の話は、当時の社会の人が聞いたら、ごく身近なあたりまえな出来事の描写でした。イエス様がこの話をした時というのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間で、イエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだとか、あるいは逆に安息日についての律法を破ったのだから神の意思に逆らう者であるとか、賛否両論の議論が沸き起こりました。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちは、イエス様が天の父なるみ神から送られた方であることを、どうしても信じようとしない。それで、イエス様は、彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(9章39~41節)。これの続きとしてイエス様は、本日の羊飼いと囲いの話をされたのです。

その内容は、先ほど申し上げましたように、当時の人なら誰にでも頭に思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様はこの話を単なる写実的な話をするためでなく、別の目的をもって話したのです。それは、自分がどんな方で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにするためのたとえとして、この話をしたのです。従って、この話を聞いて、そう、確かに羊は扉付きの囲いの中で守られるし、自分の羊飼いを間違えないでついて行って牧草地に連れて行ってもらうものだ、その通りだ、と納得してしまっては、この話をたとえとして理解したことにはなりません。この話から、イエス様本人のことやその使命についてわからなければ、理解したことにはならないのです。このたとえを理解できるためには、そのなかにある二つのことに注目する必要があります。まず、羊が無事に生活できるためには、しっかりした門ないし扉がついた囲いが必要であること、そして、羊が無事に牧草地に到着できるためには、良い羊飼いが必要であること、この二つです。誰もが日常的に当たり前のことだとわかることを引き合いに出して、イエス様がどんな方でどんな使命を託されて送られてきたかということを、同じように身近で当たり前のこととして理解させようとする狙いがたとえにはあるのです。

 

3.たとえを話した後で、イエス様はまず、自分は羊の囲いの門ないし扉である、と解き明しをします。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なことに即して見れば、確かに、門や扉を通って囲いの中に入る羊は危険から免れます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。しかし、ここの霊的な意味は絶大です。ギリシャ語に即してみると、こうなります。「わたしを通って中に入る者は救われることになる。中に入り、そして外へ出て牧草地を見いだすことになる。」イエス様という門・扉を通って中に入った者というのは、将来救われることが確約された者です。「中に入る」とは、救いが確約された者たちの群れの中に連なることを意味します。そしてその守られた群れの中に連なって、今度は、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことになります。「外へ出る」というのは、救いの群れから出ていってしまうということではなく、救いの群れ自体がこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは、最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に迎え入れられます。荒涼とした渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

ここで、イエス様が自分のことを羊飼いと言わず、門ないし扉であると言われるのは、どうしてでしょうか?それは、救いが確約された者たちの群れの中に加わるためには自分という門・扉を通らなければならないと強調しているからです。イエス様という門・扉を通るということは、どういうことでしょうか?それは、天の父なるみ神が計画しかつ実行した人間救済ということに関係があります。

天の父なるみ神は、人間の中に神に対する不従順と罪が入り込んでしまって、人間との結びつきが失われてしまった堕罪の出来事をとても悲しみました。なんとか、人間が自分の造り主である神との結びつきを取り戻して、その神から絶えず助けと導きを得てこの世の人生を歩めるようにしてあげよう、万が一この世から死んだ時は、永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と計画しそれを実行しました。ひとり子のイエス様をこの世に送ったのは、まさにそのためでした。人間と神との結びつきを壊している原因である罪の破壊力を無力にしなければならない。そのために神がやったことは、全ての人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、罪から生じる罰も全て彼に十字架の上で受けさせて死なせたということでした。そのようにして、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、イエス様の十字架の死と死からの復活が自分のために起きたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この罪の赦しはその人にその通りになります。このようにして罪の赦しを受けた人は、神との結びつきを回復することになるのです。そのような人は、人間を永遠の死に陥れる罪の呪いが一掃されています。

以上から明らかなように、私たちが自分たちの造り主である神との結びつきを回復して、その結びつきの中でこの世の人生を歩むことができるためには、さらに次の世で造り主のもとに戻ることができるようになるためには、まさにイエス様を自分の救い主と信じるかどうかにかかっています。ヨハネ14章6節でイエス様自らが次のように述べています。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞がついていますので、イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということになります。それは、数多くある道、真理、命の一つではなく、まさにこれこそ、という決定版なのであります。そういうわけで、救いが確約された者たちの群れの中に加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門ないし扉なのであります。「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)というのは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって永遠の救いを打ち立てる以前は、天の父なるみ神のもとに戻ることができる救いは存在しなかったということであります。誰かが、自分こそが人間を造り主のもとに導けるなどと言っても、それは真理でも真実でもなく、人間を別のところへ導く誤った道でしかなかったのであります。

 ここで、羊を盗んだり危害を加えたりする盗人とか強盗について考えてみましょう。今見たように、人間を救いの群れから連れ出して、父なるみ神ではなくどこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい、滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」(απολεση)というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が、救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世には、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、そうした罪の赦しを薄めたり弱めたりするものがいろいろあります。

もし人が、自分の造り主である神を全身全霊で愛せないとか、隣人を自分を愛するが如く愛せないとか、そういう神の意思になかなか忠実になれない自分の真実の姿に気づいて悲しむうちはまだ霊的に健康な証拠です。しかし、この世は、そんなことはいちいち悲しんだりこだわったりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、とか、君の言っている神はちょっと違うんじゃないか、というような惑わしと誘惑の声で満ちています。惑わしと誘惑に乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気がつかなければ、赦しの必要性も感じられなくなってしまいます。赦しの必要性が感じられなくなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、そこでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまうのです。

盗人、盗賊とは、このような惑わしと誘惑の声と態度をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けるべきではなく、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の教えがあります。それから直接イエス様によって世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。さらに加えて、イエス様をこの世に送られた父なるみ神の意思が記されている律法や預言であります。すなわち、イエス様の声は、全聖書のなかに聞きとることができるのです。

 

3.次に、イエス様が自分のことを「良い羊飼い」と言ったことについて見てみましょう。良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないというのであります。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために、人間の全ての罪を請け負い、それから生じる全ての罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は、十字架に掛けられる前の晩、この犠牲の死を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けますと言ったのであります。

ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに陥れるものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。

次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価として、人間を罪の奴隷状態から解放された状態に買い戻した、贖い出したのであります。偽りの羊飼いである雇い人には、同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には既に具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者が羊の群れを飼うことをやめさせて、神の意向に沿った真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル34章10、23節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現でもあったのです。

終わりに、イエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われていることを見てみます。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いてい、霊的な表現で言い換えれば、イエス様は双方を、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということになります。それでは、この囲いに入っている羊と入っていないほかの羊とは何を指すのでしょうか?

この囲いに入っている羊と言うのは、端的に言えば、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、ユダヤ人キリスト教徒です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていないほかの羊とは、ユダヤ人以外の諸民族でイエス様を自分の救い主と信じた人たち、異邦人キリスト教徒です。初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていったキリスト教徒です。イエス様は、この二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。

意外なことに思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分しているもっとも主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ教徒かまたは「その他大勢」のいずれかなのであります。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架での贖いの業をもって二つのグループを一つの体として神と和解させたのであります。最後に、エフェソ2章18

22節を引用して、本説教の締めとしたく思います。キリスト信仰者がイエス様という良い羊飼いに従って歩むということを考える時、この箇所は大事な視点を教えてくれます。というのは、キリスト信仰者は、ややもすると、今の世と次の世にまたがる自分の人生行路というのは一人で歩く孤独な歩みのように感じてしまいますが、それは本当は、とてつもない無数の見えない横の繋がりをもっているということ、それゆえこれはまさしく見えない大きな羊の群れなのだ、ということ教えてくれます。

「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように      アーメン

 

主日礼拝説教 2014年5月11日 復活後第三主日の聖書日課 使徒言行録6章1~10節、第一ペトロ2章19~25節、ヨハネによる福音書10章1-16節

説教「見ないで信ずる者になりなさい」木村長政 名誉牧師、ヨハネによる福音書20章24節~29節

今日の御言葉は、復活後のイエス様とトマスの話です。

24節を見ますとトマスは、12弟子の一人でデイデイモと呼ばれるトマスとあります。12弟子の中で、そう目立ったこともしていないトマスですが、今日の場面で登場します。 よみがえられたイエス様が、弟子たちが集まっているところに現れた。 19節~23節のところでヨハネはそう記しています。 その時トマスだけがいなかった、というのです。 トマスは復活の日、なぜ弟子たちと一緒にいなかったのでしょうか。

ウィリアム・バークレーという聖書学者が、トマスのことについて次のように言っています。 トマスは決して勇気のない人ではなかったが、トマスは生まれつき悲観的な人間であった。トマスがイエス様を愛していたことは、なんの疑いもない。他の弟子たちがしりごみして恐れていたのに、彼だけはエルサレムへ行って、先生と一緒に死のうと考えていた。彼はそれほど先生であるイエス様を愛していた。 そして、トマスが予期していたことが起こった。つまり、イエス様が十字架の処刑によって死なれた。トマスはショックを受けました。 あれ程、おどろくべき奇跡を起こすことのできるイエス様が、死んでしまわれるなんて!。 トマスの傷心ぶりはひどかった。傷心のあまり人々と会う気になれない。トマスはただ一人悲嘆にくれることを願った。 だから、他の弟子たちとは一緒にいなかった、ということでしょう。

そこで、他の弟子たちが「わたしたちは、主を見た」というと、トマスは言った。「あの方の手に釘のあとを見、その指を釘跡に入れてみなければ、又、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 ここでトマスが言っている、「わたしは決して信じない」という言葉が印象的です。このトマスの言葉に対して、この物語の最後にイエス様がトマスに向かって、「見ないで信じる者になりなさい!」と言っておられる。

復活された日、弟子たちの間では、主が墓からよみがえられた、という話で大さわぎでした。そうして、その一週間後、更に弟子たちが集まって、まわりの戸を全部しめている中に、よみがえった姿のイエス様が現れたのでした。 トマスは、マリヤたちが知らせた墓が空であったことも聞いたけれども、確信がもてなかった。他のすべての弟子たちが、「よみがえりの主が現れた。この目で私たちは見た。」ということを話されても、話だけではどうしても、トマスは確信できなかったのです。私たちも恐らくそうでしょう。

こうして、弟子たちの間に「イエス様はよみがえられた」と信じる者たちと、信じられない者が浮き彫りにされます。

ここには、トマスを浮き彫りにして、復活の主が彼に何をなさったのか、著者ヨハネはこのことを記すことによって、「ナザレのイエスは、十字架で死んで、よみがえられた」という復活の信仰が、いかに確かなものであったかを、完全に明らかにしたのであります。弟子たちにとって、愛する主の復活を疑うことなど、不可能なことであったのです。 ただ、トマスだけは弟子たちから離れていたので、復活の主の御姿を見ていないのです。イエス様は、トマスの心を知っておられるのです。 イエス様はトマスのため、もう一度、弟子たちの中に現れるという、特別のことが起こっていきます。

26節で、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

20世紀最大の神学者といわれる、カール・バルトが1937年の復活後主日に、ベルンの聖霊教会で、ここと同じ聖書について説教しています。その一部だけ、バルトは次のように表現しているのです。 使徒として選ばれた、全く特定の人間が集まっている、その人々の真ん中にイエスは入られたのである。更にこの箇所では、二度までも「戸は閉ざされていたが」、イエスはその真ん中に入られた、と記してある。 したがってイエスは、一人の人間が他の人間のところに来るような仕方で、彼らのところに来られたわけではない。 彼は、神が人間のところに来るような仕方で、彼らのところに来たのである。 しかしながらイエスは、神の全能、偉大、尊厳において、時間空間を超える、主として、あらゆる被造物の生命とは違った新しい生命と存在において、彼らのところに現れたのである。 私たちはふつう、この箇所を読む時、イエス様のよみがえり体は肉体をもった体ではなく、壁と戸を突き抜けてスーっと現れた、とイメージします。 ところがバルトは、深い意味を含めて、難しい表現であらわしています。

次にイエス様は、彼らの真ん中に立ち「あなた方に平和がるように」と言われた。この一行の言葉を、バルトは次のように説明しています。 「あなた方に平和があるように」という美しい挨拶は、当時のユダヤ人の日常のきまった挨拶の言葉であって、いわばイエス様が弟子たちに、私たちが互いに「今日は」というのと少しも変わらない。このような挨拶をされたのは、この人間の集いの中に、神のからだを持った存在があることのしるし、現実を望まれたのである。 それは、弟子たちの心や頭にある人間の思想ではなく、又彼らの出会った空想、幻想、妄想の存在でもないことを表している。彼らは幻を持ったのでも、幽霊を見たのでもない。一人の人間、彼らのよく知っているナザレのイエス、という人間がはいって来たのである。バルトのするどい、奥深い言葉です。

さて、イエス様はトマスに向かって、大事なことを語っておられます。 トマスがあんなに、実際に、よみがえられたイエス様の体を見ただけでは済まない、自分の指でさわってみなければ信じないと言った、同じトマスの言葉を、イエス様は言われます。 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。又、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

21世紀に生きている私たちは、よみがえりの姿のイエス様を見ることはできません。そかし、トマスに言われた「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、私たちにも言われていることでしょう。

イエス様が死からよみがえって、現にあらわれたという神からの啓示は、この世の人々にとっては、ふさわしいものではなかった。 特にユダヤ教の最高幹部の人々にとっては、たしかに十字架の死によって葬ったのに、イエス様が復活したとなれば、もう大変なことである。今日もなお、この戦いはあっているでしょう。 しかし、イエスを信じる者にとっては、主がよみがえって、あらわれたことが、どんなに喜びであったことか。又ふさわしいことであったことか。 これまで、トマスの心は動転していた。信仰へ導かれるか、不信仰に導かれるか、彼の魂はゆり動かされていた。 イエス様はこれらの弟子を、いつまでも疑いと不信仰の中に残しておられなかった。そうして、イエス様の親しみのこもった言葉、又、厳しい処罰の言葉をもって、「信じない者にではなく、信じる者になりなさい」。 トマスは答えて言います。「わたしの主よ、わたしの神よ」。

トマスは今、すべての弟子たちの心の中に、明るい確かな信頼として立っている。今、弟子たちは、よみがえられたイエスにおいて、永遠の命を目のあたりに見て、新しい段階に立っているのです。 新たな、よみがえりの栄光の光りに満たされて、新しい力を与えられて、「私の主よ、私の神よ」と答えているのです。 復活の主イエスは、彼らに言われた「あなたは、私を見たので信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」。 単なるすすめではない。それこそ、力ある言葉であります。 これは、イエス様の御姿を見ることからくる信仰ではなく、私たちがイエス様を見ないのに、イエス様と私たちとを結ぶところの、信仰であります。その信仰は、私たちに復活の主を宣べ伝える、御言葉から来るものです。更にその御言葉は、私たちをイエスのもとに導いてくれる、御霊によって起こされるものであります。

この聖霊の導きによって、私たちは今日教会において、復活の主であるイエス・キリストを礼拝し、祈り、讃美するのであります。そこに、生ける復活のイエス様と出会えるのであります。 どうか望みの神が、信仰からくる、あらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。アーメン。

 復活後第二主日  2014年5月4(日)

説教「神との平和があなたがにあるように」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章19~23節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が復活した日の夜のこと、弟子たちはある家に集まっていました。ペトロとヨハネは、その日の朝早くマグダラのマリアからイエス様の葬られた墓が空であったという知らせを聞きました。そして、すぐ自分たちも確認に行ったところ、確かに墓は空でした。この出来事が先週の福音書の箇所の内容でした。今、家の中でペトロとヨハネは、空の墓のことを他の弟子たちに話したところでした。さらに、墓に残ったマリアが復活したイエス様に会ったということも知らされました。さあ、どうしたものか。主は本当に復活したのだろうか?みんなで出かけて行って会うことができるだろうか?しかし、外はイエス様を十字架刑に処することに賛同した者たちで溢れかえっている。うかつに出て行ったら、自分たちにも危害が及んでしまう。それで成す術もなく家の中で過ごすうちに夜になってしまったのでした。ヨハネ福音書には記述がありませんが、ルカ福音書によれば、この時点でエマオの村から息を切らして二人の弟子が駆け込んできて言いました。自分たちは復活した主に出会った、と。弟子たちの驚きが頂点に達しているちょうどその時、なんとイエス様本人がそこに立っていたのです。迫害を恐れて扉という扉にはしっかり鍵が掛けてあったにもかかわらず(ギリシャ語原文で扉は複数形になっています)。

ルカ24章によると、弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。本日の福音書の箇所にもあるように、イエス様は、弟子たちに自分の手とわき腹の傷跡を見せて本人確認をさせます。先週の説教でもお話ししましたように、復活されたイエス様は人間がこの世で有している体とは全く異なる復活の体を有していました。それは、亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それはあたかも天使のような体でした。こうして、復活したイエス様は、この世の我々の肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ存在となったのであります。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な天の御国です。罪の汚れに満ちたこの世ではありません。本来は、復活した時点で天のみ神のもとに引き上げられるべきだったのですが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間、この地上にいることとなったのであります。

 

2.弟子たちの前に現れたイエス様は、「あなたがたに平和があるように」と繰り返して言います。要するに、弟子たちに「平和」を祈願したのであります。「平和を祈願する」などと言うと、日本の政治家が神社にお参りした後の記者会見で言う言葉みたいですが、本説教では、イエス様が「あるように」と願われた「平和」について、見ていきたいと思います。

ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、この「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉ですが、イエス様はほぼ間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使われたでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉として、これも間違いなく、ヘブライ語のシャーロームשלןמという言葉が考えられます。このシャーロームשלןמという言葉はとても幅広い意味を持ちます。国と国が戦争をしないで仲よくするという意味の平和もありますが、その他に、繁栄とか、成功とか、損なわれていない状態とか、健康な状態とかいうように、国のような集団に関わるのみならず、人間個人にとって望ましい、何か理想な状態を意味しています。ずばり、神が人間にもたらす救いを意味することもあります(1列王記2章33節、イザヤ54章10節「平和の契約」と訳すことも可)。

ところで、イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。十字架に掛けられる前日、イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス様特製の平和である。しかも、それを、この世が与えるような仕方では与えない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャロームなのでしょうか?まず、「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、その場合の平和シャロームとは何かを考えてみます。先ほどシャロームは幅広い意味があると申しました。国と国の平和のみならず、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生が含まれます。こうしたもの全てが「この世が与えるような仕方で」与えられると言う時、「この世」がこれらのものを与える主体です。つまり、これらの望ましいものは、「この世」から得られるものとなり、別の言い方をすれば、人間が自分の力で獲得するものです。

他方でイエス様は、「わたしの/イエス様の平和」を与えるが、それを「この世が与えるように」は与えないと言われます。つまり、イエス様が与える彼特製の平和シャロームがある。しかも、それを「この世があたえるように」は与えない。つまり、イエス様の平和シャロームは、人間の力によって獲得されるものではない。あくまでも、イエス様が与えるものです。そうなると、イエス様が与える平和シャロームとは、国と国との平和とか、人間個人の望ましい理想的な状態とは異なるものなのでしょうか?結論から申し上げますと、イエス様が与える平和シャロームとは、こうした理想的な状態の土台にあるようなもっと根源的な「平和」を指しています。そのような平和があってはじめて、シャロームが普通意味している理想的な状態が成り立つと言えるような根源的な平和です。さらに踏み込んで言えば、そのような平和がなければ、どんなに理想的な状態を獲得していてもたいして意味がないとさえ言えるような、そんな根源的な平和です。一体それはどんな平和なのでしょうか?

イエス様が与える平和を理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和なのです。そうすると、イエス様のおかげで神との間に平和が得られているということは、イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は平和がない、言わば敵対関係だったのか、という疑問が起きます。、実はそうだったのであります。そのことは、「コロサイの信徒への手紙」1章21~22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対していた私たち人間が、イエス様の死によって神と和解することができ、神の前に神聖なる者として立つことができるようになった、と言うのであります。神との敵対、そしてイエス様の死による和解と平和、これらは一体どういうことでしょうか?

これらがわかるためには、まず、私たち人間には造り主がいて、その造り主が私たちに命と人生を与えられたということに立ち返って考える必要があります。そして、このことを出発点とした時、今度は、その造り主と私たち人間との関係は、また私個人との関係はどうなのか、ということを考えなければなりません。

創世記によれば、人間はもともとは天地創造の神に似せて造られたくらい、神に近い存在でした。それが最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、神との結びつきが失われてしまいました。その経緯は創世記の3章に記されています。不従順と罪が原因で神との結びつきが失われたのに伴って、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

罪が内部に入り込んでしまった人間は、神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。神は御自分の神聖な意思に反するものを、汚れたものとして忌み嫌われ、激しく憎むからです。こうして罪のゆえに神と人間の間に敵対関係が生じてしまいました。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と人間を見捨てることはしませんでした。神としては、人間を支配している罪の力を無力にして、人間をその呪縛から解放し、人間が再び神との結びつきの中で生きられるようにしようと決めたのです。しかし、どうすれば、そのようなことが出来るのか?そのためには、人間から罪を取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を全部受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すこととしました。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は人間に永遠の命、復活の命に至る扉を開きました。こうしたことの後で人間の側ですることと言えば、あとは、これらのことが本当に自分のために行われたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうすれば、この神が整えた罪の赦しの救いを全部受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神と和解し、神との結びつきが回復した者となります。そして、神と平和な関係を持って、この世の人生を歩むことになります。この和解と平和は、まさにイエス様の身代わりの犠牲の死によってもたらされたのであります。

神との結びつきが回復した者はまた、永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、今後は神と平和な関係を持ってその道を歩んでいく者となります。歩んでいく過程では、成功、繁栄、健康などこの世的な平和シャロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあるでしょう。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を自分の救い主と信じる信仰に生きる人は、神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係はしっかり保たれているのであります。人間的な目から見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか神と平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者というものは、罪の告白を行って罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与っていれば、神の目から見れば、神との結びつきも平和な関係もしっかり保たれているのです。たとえ人間的な目にはどう見えようとも。そして万が一、この世から死ぬことになっても、その時は、主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げてくれる。そうして永遠に自分の造り主である神のもとにいることができる。キリスト信仰者はまさにこの世から次の世に移行する時、父なるみ神の御許に引き上げられる瞬間に、ああ、本当に順境の時も逆境の時もかわらず神はいつも見守っていて下さっていたんだ、私は本当は沢山の良い導きと助けを頂いていたんだ、全然気がつかなかった、恥ずかしい、主よ、これまでのご高配に心から感謝します、と思うのであります。

 

3.本日の福音書の箇所でイエス様は、弟子たちに大事な任務を与えます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。ここで次のような疑問が生じます。キリスト教では、十字架の出来事で全ての罪が赦されたと言っているではないか。それなのになぜ、まだ赦されるとか赦されないとか言い続けるのか?また、人がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神との結びつきが回復して神と平和な関係を持つことになると言うんだったら、その人はもう罪が取り除かれてなくなっているはずではないか?それでもなお、赦されるだの赦されないだのと言っているのはどういうことか?以下、こうした疑問について答えを見いだしていきましょう。

天の父なるみ神はイエス様を用いて罪の赦しの救いを確立したわけでありますが、人間の方がこの確立した救いを受け取らないと、この罪の赦しはその人に効力を持たないのであります。救いは確立された。しかし、それを受け取らないと、その外側にとどまることになってしまうのです。せっかく神が全ての人間に対して、どうぞ受け取って下さい、と言って差し出して下さっているのにもかかわらず。そこで、もし救いを受け取れば、神がイエス様の十字架上の身代わりの死に免じて赦すと言っていることが、その人にとってその通りになるのです。

次に、イエス様を自分の救い主と信じる信仰に生きる者は罪が除去された者ではないか、だから赦されるだの赦されないだのは関係ないのではないか、という疑問です。確かにキリスト教では、十字架の出来事で全ての罪は赦されたと言いますが、全ての罪が赦されたというのは、これで信仰者がもう罪を犯さなくなるということを意味しません。

人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になっても、まだ肉の体を纏っているので罪を内在させています。いつでも、神の意思に反する考えを抱き、言葉を発し、行いを行ってしまう可能性を持っています。その点は、信仰者でない人と何の変わりはありません。ただ、何が違うかというと、キリスト信仰者の場合、イエス様を自分の救い主と信じている信仰のゆえに、罪の赦しの救いを自分のものとして所有していて、神もそのような人としてその人を見てくれている。それでその人がたとえ思いとか言葉とか行いとかによって罪を犯しても、それを認めて、自分は間違っていました罪を犯しましたと正直に認めて、イエス様を自分の救い主と信じていますから、彼の身代わりの死に免じて赦して下さい、と言えば、神は罪に対する怒りや憎しみをその人にぶつけることはせず、すぐ赦して下さるのです。

このように信仰者は、罪を犯さなくなった者ではなく、罪を犯しても、イエス様を自分の救い主と信じる信仰のゆえに神の怒りや罰が下されることから免れている者であります。イエス様を救い主と信じる信仰は、まさに神との平和を保証するものです。それなので、人が信仰に留まる限りは、罪が本来持っている力、人間を永遠の滅びと死に定める力はその人に対して無力化しているのであります。私たちの礼拝の最初に唱えられる罪の告白と赦しの祈り、それに続く赦しの宣言というものは、罪の無力化を確認するものです。そういうわけで、罪の告白を行い赦しの宣言を受けるということは、洗礼の時点に戻ることを意味します。罪の告白と赦しの宣言は、礼拝の時にみんなで一緒にする場合もあれば、個人的に牧師先生や信頼できる信仰の兄弟姉妹を相手にすることもあります。いずれにしても、キリスト信仰者にとって洗礼はいつでも立ち返ってまたそこから出発する原点であります。

ここで、洗礼と並ぶもうひとつの聖礼典である聖餐式について一言。聖餐は、私たちがかつて洗礼の時に受け取った、神の確立した罪の赦しの救いを私たちの体の中で強めていく栄養です。また罪がもたらす苦しみを癒す薬です。私たちの目には単なるパンのひとかけら、ぶどう酒にすぎないものが、イエス様を自分の救い主と信じて摂取すると、神はこの人との結びつきは強められたと認めるのです。

最後に、弟子たちに与えられた任務について一言。イエス様の直近の弟子たちは、福音を宣べ伝えなさい、と彼によって世界に送り出された者たちです。この弟子たちは「送り出す」という意味が添えられて、「使徒」と呼ばれます。彼らに罪の赦しの権限が主から委任されました。使徒の後は、使徒の教えをしっかり守る者がこの委任された権限を受け継いでいきました。そしてこれは今日、教会の聖職者へと受け継がれていきました。

イエス様が使徒たちに命じたことで、一つ気になる言葉があります。「あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」が それです。使徒や使徒の伝統の上にたつ者が赦さない罪とはどんなものだろうか?一つには、罪を犯したにもかかわらず、自分は犯していないと言い張る人の場合が考えられます。自分は罪を犯していないと言う以上、罪の告白をすることもなく、告白がなければ赦しの宣言も起こりえず、要するに赦しを与えようにも与えられない状態にある者です。赦されない罪のもう一つのタイプは、何か罪を犯した時に、神はその行為はやってはいけないとはっきり禁止していないので、自分は神の意思に反したことにならない、ということが考えられます。これも罪の告白が生まれないケースになり、赦しの宣言を与えようにも与えられない状態です。さらにもう一つのタイプとして、罪を罪と認めても、今度はイエス様の十字架での贖いの業を忘れて、自分の力で神との和解を勝ち取ろうとすることがあります。このような人は、なぜ神はイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという方法を取ったのかということを理解していません。人間が自分の力で罪を除去できないからでした。

これらとは反対に、イエス様を救い主と信じる信仰をもって、罪の告白をし、罪の赦しの宣言を受ければ、罪は必ず赦されます。赦されないということはありません。大丈夫です。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、罪の告白と赦しの宣言で始まる私たちの礼拝はとても大切だということを心に覚えておきましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

復活後第一主日の聖書日課 使徒言行録2章22~32節、第一ペトロ1章3~9節、ヨハネ20章19~23節

 

説教「主イエス・キリストは我らの良き羊飼い 我らに不足はなし」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章22-30節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

復活祭後の第一、第二主日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事についての弟子たちの目撃録でした。復活後第三主日である本日の福音書の箇所は、舞台を再び、十字架と復活の前の出来事に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事が起きる前は、聞く人見る人にとってもわかりにくいことが多くありました。また、それらの意味を理解したつもりで実は間違っていたことも多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらはどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の箇所も、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことを知る者として、解き明かしてまいりましょう。

イエス様は、数々の奇跡の業と神の権威を持つ教えで、ガリラヤ地方とユダ地方、さらにヨルダン川東岸を含むローマ帝国シリア州(マタイ4章24-25節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なる神から送られた神の子である、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的存在である「人の子」であると公言していました。これに対して、ユダヤ教社会の宗教指導層は、あの男は神の子でも救世主でもなんでもない、民衆を惑わす危険な存在だと見なしていました。宗教指導層が取り仕切っていた神と人間の関係を、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦以外の何ものでもありません。しかし、本当は、イエス様が取り仕切るやり方が神の意思そのものだったのです。宗教指導層は、自分たちの教えや流儀が神の意思を代弁していると思い込んでいました。

宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて死罪にしようと思っていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にいるイエス様を見つけて取り囲み、群衆の見ているただ中で尋問を始めました。イエス様が何か誤ったことを言えば、大勢の人が証人となる状況です。指導者たちは聞きました。いつまでお前は我々をはぐらかす気か、お前がもしメシアなら(ギリシャ語原文ではヘブライ語のメシアמשיחのギリシャ語訳であるキリストχριστοςが記されています)、我々にそうはっきり言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言っていたのに、君たちが信じようとしないのだ、と。ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことを、メシアであると指導者たちに公言したことは見当たりません。ヨハネ4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では、信奉者に対しても、反対者に対しても、自分は父なる神から送られた神の子であるとか、救世主的存在である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中には、イエス様がメシアであると信じる人も出ましたが(7章31節)。いずれにしても、イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言っていた、というのはどういうことでしょうか?これは、メシアという言葉が当時、神の意図に反して人々に誤って理解されていたという問題があります。

メシアとは、もともとは油を頭に注がれて聖別された者を意味しました。神の特別な使命を果たす者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様と理解されました。ダビデ王朝の王国は、紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにバビロンからユダの地に帰還しますが、民はそれ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間、民の間では、将来ダビデの血筋を引く者が王として現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し、諸国に号令をかけるとの期待がずっと抱かれていました。この王がメシアとして考えられたのです。

その一方で、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民の間で、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目し、今ある天と地はやがて終わりを告げ、新しい天と地にとってかわられる時が来るとわかった人たちがいました。そうした預言を信じる人たちにとって、メシアとは、創造の秩序が一新される時に現れ、創造主である神への信仰をしっかり守った者たちを新しい秩序の世界に迎え入れる、そういう終末的な救世主を指すということがだんだん明らかになってきました。この意味でのメシアは、この世的でユダヤ民族の解放に尽力するダビデ家系の王とは異なり、全人類にかかわる救世主です。そのようなメシアは、旧約聖書ダニエル書に出てくる「人の子」と結びつけて考えられるようにもなりました。

このようにみると、イエス様が尋問を受けた時、なぜずばり自分がメシアであると言わなかったのか、以前はっきり言っていたわけではないのに、どうして、既に言っていたなどと言ったのかがわかってきます。イエス様は、この世的で特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたメシアだったからです。もし、「私はメシアだ」と言えば、聞いた人たちの多くは、イエスが自分はメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えられたでしょう。そうなれば、宗教指導層にとってはしめたもので、この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様は、自分では本当の意味でメシアであるとわかっていましたが、聞く方がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使用するのは控え、かわりに父なる神から送られた神の子であるとか、終末の救世主である「人の子」であると公言していたのであります。しかし、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、これを言うことが、宗教指導者をますます苛立たせました。あの男は神を冒涜している、と。

2.

それでは、ユダヤ教社会の宗教指導層は、なぜイエス様が神の子であること、「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にあったにもかかわらず。イエス様が数々の奇跡の業を行っていることは、広く知れ渡っていました。そうした奇跡の業を自分の父である神の名によって行っている以上、業自体が自分が神の子であることを証しているのだ、それでもお前たちは信じようとはしない、とイエス様は呆れ返ります(10章25-26節)。

指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、自分たちが神の意思だと思ってやっている規則をイエス様が飛び越える仕方で神との関係を取り仕切ろうとしている、これが指導層の権威に対する挑戦と受け止められ、危惧感を抱いたのであります。そうすると、彼らの権力欲が不信仰の原因だったと言えます。確かに4つの福音書の中には、サドカイ派やファリサイ派や律法学者などの宗教指導層が利己主義に陥っていることを批判する箇所が多くあり、ややもすると彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。実は歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それがどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができない不信仰に陥ったのかと言うと、それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思を代弁していると固く信じていたからです。このため、イエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に態度が頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増して、例えば、イエス様が不治の病の人を完治する奇跡を行っても、それが労働を禁じる安息日に行ったという理由で、この男は神の意思に反する者だ、と、奇跡よりも規則違反の方に目が行ってしまう位に本末転倒していたのであります。

ユダヤ教社会の宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因として、旧約聖書に述べられている神の約束というものをユダヤ民族のみに関わると理解していたことが考えられます。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の間の関係の歴史が延々と語り伝えられているので、ユダヤ民族以外の世界の諸民族は、その他多数にしか感じられなくなってしまうかもしれません。しかし、ユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものなのであります。

それは、創世記の出来事から明らかです。神によって造られた最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順となり、罪を犯したことが原因で人間は死ぬ存在となりました。人間は、ユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、罪を言い表すとき、具体的な行為に現れる罪(tekosynti、verksynd)と具体的な行為には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisynti、arvsynd)という二つの言葉があります。

罪のために、人間は神聖な神との関係が壊れてしまい、神から引き裂かれた存在となってしまいました。それに対して神は、人間が再び永遠の命を持って自分のもとに戻れるようにと人間救済計画を立てました。アブラハムが歴史の舞台に登場し、モーセがイスラエルの民を率いて奴隷の地エジプトを脱出するようになって、イスラエルの民、ユダヤ民族というものがはっきりしてきます。神は、この自分が選んだユダヤ民族とのやり取りを通して、自分はどんな存在でどんな意思を持ち、どんな考えを持つかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間救済計画についても預言者を通して明らかにしました。そして、計画実現の時が来た時に、独り子であるイエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様に課した役目は、人間が自分で背負っていては永遠に滅びてしまう罪と不従順をかわりに全部背負わせて、人間にかわって滅ぼさせること、そして、この身代わりの犠牲に免じて神が人間を赦すようにすることでありました。人はただ、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神の赦しがその人に効力を持つようになります。このように赦された人は神との関係が再興された者となり、神との結びつきの中で生きられるようになり、この世の人生を終えた後は、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。イエス様が送られた場所は、まさに神の意思を具現化した十戒と神の御言葉と約束を授かっていたユダヤ民族の真っただ中でした。そこで、神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示すことによって反感を買い、それによって殺されるという形で贖罪の死が実現しました。そして、神はイエス様を死から復活させました。まさに、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、神の意思と約束とは、実はかつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するためのものだった、それゆえ特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだった、ということが謎がとけるように明らかになったのであります。願わくは、この神の愛と恵みが、特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが、多くの人にわかってもらえますように。

3.

本日の福音書の箇所で、イエス様は、自分の羊について語っています。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ10章27-28節)。永遠の命を与えられ、死んでも決して滅ぶことがない者とは誰かというと、それは、死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との関係が再興された者、つまりキリスト信仰者を指します。そういうわけで、この言葉は、十字架と復活の出来事の前に述べられたものですが、それらが起きた後で本当のイエス様のことがわかって信じるようになる者を指しています。

イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の出来事の前にイエス様と接触があって彼の教えを直に聞いたということではありません。もちろん、死から復活して天に上げられたイエス様の声を、私たちは直に耳に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼が選んだ弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主であると信じることなく福音書を読めば、それは古代中近東の人間の空想が混ざった一種の歴史的物語にしかすぎなくなります。しかし、信じる者にとっては、自分を造って命を与えてくれた神と自分との結びつきを取り戻して下さった方の言葉です。その意味で、私たち一人一人に語りかける言葉です。さらに福音書以外の書物についても、使徒が記した書簡は、イエス様の十字架の死と死からの復活があったからこそ生まれ出た信仰の書物です。旧約聖書も、来るべき救世主の受難と復活を通して人間の救いが実現することを示す書物群です。総じて聖書は、イエス・キリストに結びついています。聖書を読むことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができるわけです。

イエス様は、また、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っている、と言われます。10章3節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言い、14節で、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われます。このように、イエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのであります。個人的に知っているのだから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことを全部、祈りをもって打ち明けることを望んでいらっしゃいます。そうすることで、私たちはイエス様にしっかり信頼をおいていることを、イエス様にも示し、自分自身にも言い聞かせることになります。イエス様や父なる神はどうせ全部ご存知だから、あえて祈る必要もない、というのは、信頼をおくことを怠けることになり、やがては別のもの、自分自身とか全く他のものに信頼をおくようになる危険があります。使徒パウロは、「フィリピの信徒への手紙」4章6節にて次のように勧めています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との関係がしっかり築かれた者として、この世の人生を歩むことになる、と先に申しました。人生の歩みでは、たえず私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを受け止めてくれる主がいつもそばにいて下さるということも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との関係はしっかり保たれているのであろうか、と疑問や不信を抱くことに多く遭遇することも事実です。例えば、神への不従順と罪に陥った時とか、また苦難や逆境に陥った時などがそうです。

罪と不従順に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの価値が減じることはありません。救いと恵みに力がなくて、自分が罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの価値と力は、私たちがどんな状況にあるかにかかわらず、不変です。それゆえ、罪と不従順に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、悔いる心を持って神の御前で赦しを願い求めることです。その時、十字架と復活に現れた神の恵みと愛は、私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って、私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者は、いつも戻る場所があります。

私たちは、自分自身の罪が原因ではないのに、苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はどう理解したらよいか、とても難しいのですが、一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような者でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言わず、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは、私たちが自ら捨てない限り、いかなる状況にあってもしっかり保たれているのであります。また、聖餐式でパンとぶどう酒を通して受ける主の血と肉は、私たちの神との結びつきを一層強めるものです。

パンとぶどう酒を受けて、造り主である神との結びつきが強められるなどと言われても、そう見えないし感じることはできません。洗礼の水をかけられて、神との関係が再興されたなどと言われても、そう見えないし感じられもしません。しかし、神の目から見れば、関係は再興され、結びつきは強められているのです。人間は限られた存在ですから、神との結びつきを信じられるために、どうしても見えるものに頼ってしまいます。例えば、病気が治るとか、何か欲しいものが手に入るとか。しかし、たとえ人間が五感と理性を使って見ることも知ることもできなくても、神が、これで再興された、強められた、と言えば、そうとしか言えないのであります。信仰とは、つまるところ、私たちの限りある目から見てどうなんだ、ということではなく、神の目から見てどうなんだ、ということであります。その神の目で見ることができる事柄は、聖書を通して知ることができるのであります。聖書の言葉は、誠に神の御言葉であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

説教「復活の体」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.十字架に掛けられて苦痛と激痛の中で息を引き取られたイエス様は、三日目に死者の中から復活されました。復活とは何なのでしょうか?それは、単に息を引き取った人が息を吹き返すということなのでしょうか?一度死んだと見なされた人が生き返ると、その時までの状態は仮死状態と見なされます。実用日本語表現辞典によりますと、仮死状態とは「呼吸や心拍の一方または両方が停止し、意識もなく、外見死んだかのように見えるが、自然にまたは適切な処置により蘇生する余地のある状態」とありました。キリスト信仰の復活とは、仮死状態から生き返ることとは全く違います。仮死状態からの生き返りでは、肉体がまだちゃんと残っていることが前提となります。肉体が腐敗してしまったり燃やされて灰になってしまったら、蘇生などもう不可能です。しかし、キリスト信仰の復活とは、蘇生が完全に不可能になった時とか、さらには肉体自体が消滅してしまった後に起きる生き返りなのです。つまり、復活した者は、今この世で持っているのとは全く別の体を持って生きることになるのです。この復活の体について、使徒パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」の中で次のように詩的に表現しています。

「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(15章42~43節)。

今この世で私たちが有しているこの体は朽ちるもの、それゆえ卑しく弱いものであるが、復活すると朽ちない体、輝かしく力強い体を持つことになる、とパウロは教えます。本日の使徒書簡である「コロサイの信徒への手紙」の箇所でパウロが「あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と言っているのは、復活して神の国に迎えられる者は神の栄光を体現するような体を持っているということです。イエス様自身もかつて、復活について教えられました。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と述べています(マルコ12章25節)。

キリスト信仰の復活という信仰の形はとても特殊なもので、なかなか理解されにくいものです。本教会の説教や聖書の学びでも、その都度教えてきたところですが、理解を助ける上で重要な点をいくつかまとめておきますと、まず、復活とは将来のいつの日にか起きる出来事であるということ。復活の日というのは、聖書によれば、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる天変地異の大変動の日であること。今ある天と地がなくなってしまうので、今のこの世の終わりの日でもあるということ。その時、神の国が目に見える形で現れ、創造主である神の意思に適う者がそこに迎え入れられる。その関係で最後の審判というものが起こる。その時点で生きている人たちは復活の体と命に変えられるが、既に死んでいて跡形もなくなっている人たちは復活の体と命を与えられる。大体以上のようなものです。

これらから明らかなことは、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず広く共有されている考えですが、人は死んだらすぐ羽が生えて天使のようになって天国に行って、そこから地上にいる私たちを見守っているということはないということであります。キリスト信仰にあっては、人は死んだら、ルターも教えているように、また教会讃美歌366番「愛の泉」の4節と5節でも歌われているように、将来の復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているのであります。眠っているだけだから、お腹が空いたり喉が渇くこともないし見守りもしません。こう言うと、大抵の日本人はギョッとしてしまうでしょう。というのは、亡くなった人の霊とか魂が見守ってくれているから今の自分があると考える人が多いからです。しかし、キリスト信仰では、私たちを見守るのは、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える創造主の神しかいないのです。この父と子と聖霊の三位一体の神以外のものは全て、見えるものも見えないものも全て造られたものにしかすぎず、神は、造り主こそが見守り主であることを忘れるなと言っているのであります。

 
2.以上、復活というキリスト信仰の特殊な信仰の形について駆け足で見てみました。本日の福音書の箇所に戻りましょう。イエス様は死から三日目に復活されましたが、この場合、まだ肉体はちゃんと残っており、復活というよりは、仮死状態からの生き返りではないかという疑いが出るかもしれません。そうなると、イエス様は、神の栄光を体現する朽ちない復活の体を持っていなかったことになります。三日ではまだ日が浅すぎるでしょうか?

イエス様は仮死状態と言うには程遠い位に本当に死んでいました。ヨハネ福音書19章に記されていますが、まず兵隊たちが、イエス様が死んでいるのを確認しました(33節)。さらに、それでも不足と言わんばかりにイエス様のわき腹を槍で貫き刺しました(34節)。このことを書き記したヨハネ自身が、自分は目撃した通りのことを書いている、これはこの通り真実であると強調します(35節)。肉体は腐敗したり灰にされなかったけれども、イエス様の肉体は蘇生の可能性がないくらい完膚なきまで死んでいたのでした。

 それでは復活したイエス様は、私たちがこの世で有する体と異なる体を持っていたのでしょうか?ルカ24章やヨハネ20章を見ると、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それで、その体はもう今私たちが有している体とは全く異なるものです。本当に天使のような存在です。

復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象があります。それは、復活したイエス様は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か特別なことがある。死ぬ前のイエス様と何かが違うが、何がどう違うかということについては、自由な空間移動ができるようになったことと、一目ではすぐ確認できないということ以外は、聖書には具体的に記されていません。それなので、ここではこれ以上のことは言えません。いずれにしても、復活後のイエス様の体は死ぬ前の体とは全く異なるものであるということは明らかでしょう。

 

3.復活したイエス様の体がどのようなものであったかについて、本日の福音書の箇所にはもう一つ興味深い出来事が記されています。それは、イエス様がマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われたことです。後ろに立っていた人がイエス様だと分かった時、マリアはイエス様にすがりつきました。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。それに対してイエス様が「すがりつくな」と言ったことになっています。ところが、この「私にすがりつくな」と言っているギリシャ語の元の文μη μου απτουは、「私に触れるな」と訳すことも可能なのです。実際に、ドイツ語のルター訳の聖書を見ると、「私に触れるな!

Rühre mich nicht an!と訳されています。スウェーデンのルター派教会が用いている聖書も同じです(Rör inte vid mig)。フィンランドのルター派国教会が用いている聖書も「私に触れるな」です(Älä koske minuun)。それでは、私たちの新共同訳が間違っているかと言うと、そうでもなく、英語のNIV訳をみると、Do not hold on to meなので、「私にすがりつくな」です。ドイツ語のルター訳とは別のEinheitsübersetzung訳をみると、Halte mich nicht fest「私にすがりつくな」です。さて、足にしがみついているマリアに対してイエス様は、「私にすがりつくな」と言っているのでしょうか?「私に触れるな」と言っているのでしょうか?

この問題の解決には、イエス様の次の言葉が鍵となります。「まだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、マリアに対して、自分にすがりつくな、ないしは、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。父なるみ神のもとに上げられていないことが、どうしてすがりつくこと、ないし触れることの禁止の理由になるのか、わかりにくく感じられますが、次のように考えればよいでしょう。復活したイエス様は、この世の我々が有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ存在となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。しかし、自分は存在的には天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

神の神聖さを欠いた被造物である人間が神聖さそのものである神と接触するということは危険なことであるということが、聖書には記されています。例えば、出エジプト記2章で、モーセが燃える柴に近づこうとした時、神は、近づくな、お前の立っている所は神聖な土地だから汚い履物は脱いであがれ、と命じます(5節)。イザヤ書6章で、預言者イザヤがエルサレムの神殿で神を目にしてしまい絶望の声をあげます。ああ、この目で神を見てしまった自分は呪われてしまえ!なぜなら、自分は汚れた唇を持つ者であり、汚れた唇を持つ民の中で暮らす者だからだ。そのような汚れた存在である自分が神聖な神を目にしてしまったのだ。その直後に神の御使いが神殿の祭壇から燃え盛る炭火を取って、イザヤの唇に塗りつけます。イザヤは火傷一つ負わず、お前は罪の汚れから清められたと宣言されます。このように神聖さというものはそうでないものを焼き尽くす力を持っているのであります。罪の汚れを持つ人間が不用心にも神聖な神の前に立つならば、焼き尽くされてしまう危険があるのです。十戒をはじめとする掟を直接神から授かったモーセは、近くに来てもよいと神に認められた稀なケースです。しかし、彼が神と対峙したシナイ山の山頂から降りてくると、彼の顔の肌は光を放っていて覆いをかけなければならなかったほどでした(出エジプト34章29~35節)。これなど、神聖な神がどれだけ栄光を放っていたかを示すものでしょう。

神の神聖さというものがこのようなものだとすると、神のもとにいて当然な復活の体というものも、同じ神聖さを備えていると言うことができます。そうなると、イエス様がマリアに言った言葉は「すがりつくな」ではなく、「触れるな」が正しい、ということになります。ここで、ルターの訳やスウェーデンやフィンランドの訳に軍配があがるかと思いきや、実はこれもそう単純ではないのです。他の訳が「触れるな」ではなく、「すがりつくな」と訳しているのには理由があります。ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と命じます(39節)。また、再来週の福音書の箇所であるヨハネ20章27節で、目で見ないと主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスに対して、イエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。そうなると、なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになってしまい、本日の箇所を「触れるな」と訳したら矛盾が生じてしまいます。それで、「すがりつくな」という訳にしたのだと考えられます。しかし、ここは福音書の原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」とイエス様が命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατε、βαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου 現在形の命令)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶が原因の接触禁止ということなのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。もちろん、このことをしっかり踏まえていれば「すがりつくな」と訳してもいいのですが、ただそれでは、うっとうしいからすがりつくな、とか、もういい加減早く歩き出したいから、すがりつきをやめろ、と言っているように受け取られてしまいます。そういうことではないのです。

 
4.復活したイエス様は神聖な復活の体をもって、もうすぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない。罪の汚れを持つがゆえに神聖さを欠いている人間は、イエス様に触れることも許されず、彼が天に上げられてこの地上から去って行くことを見守るしかない。それで全ては終わりなのでしょうか?復活とは、もともと神のもとにいて神聖な存在であったイエス様が、わざわざこの世に人間の体を持ってやって来て、十字架の上で完膚なきまで死んで、復活してまたもとの神聖さを回復して天の父なるみ神のもとに戻る、そういうサイクルの一循環なのでしょうか?復活とは、イエス様がもとに戻ってめでたし、めでたし、というハッピーエンドなのでしょうか?

いいえ、復活はイエス様自身のためのハッピーエンドでは全くありません。復活とは実は、私たち人間がハッピーエンドを持てるために起きた出来事なのです。このことがわかるためには、復活の前に起きた十字架の出来事をふり返ってみなければなりません。十字架の出来事があったがために復活の出来事も起きた以上、十字架の出来事がなければ復活の出来事もなかった以上、両者はあわせてみなければなりません。別々にしてはいけません。

先週の主日礼拝でも、この間の聖金曜日礼拝の説教でもことさら強調しましたが、十字架に掛けられたイエス様というのは、神の人間救済計画が実現したことを示しています。神の人間救済計画とは、かつて失われてしまった神と人間の結びつきを今一度回復させようとする神の計画です。人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られたものですが、それが堕罪の出来事のゆえに死ぬ存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で教えているように、死とは罪の報酬であります(6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

さて、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死すべき存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようにしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしたのであります。人間は、このことがまさに自分のために行われたのだと分かって、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いをそのまま受け取ることが出来るのです。この時、神の罪の赦しがその人に対して効力を発揮し始めます。こうしてイエス様の犠牲の死に免じて罪を赦された人は、神との結びつきが回復した者となって、この世の人生を歩み始めることとなります。神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むとは具体的にはどういうことか?それに答えを与えるのが、イエス様の死からの復活でありました。

一度死んだイエス様を復活させることで神は、旧約聖書に預言されている復活の命が実在することを、まだ復活の日が来ていない段階で、示したのであります。従って、イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むようになるというのは、復活の命に至る道に置かれて歩むようになったということであります。これが、神はイエス様の復活によって人間に復活の命への扉を開かれた、と言われるゆえんです。こうして神との結びつきの中で生きることとなった者は、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得てこの世の人生を歩むようになります。万が一この世から死ぬことになっても、まず復活の日までは、神の知る所にて安らかに眠り、復活の日が来ると、神の御許に引き上げられて、復活の命と体を与えられて、永遠に自分の造り主のもとにいることができるのであります。

以上、イエス様の十字架の死と死からの復活というものは、イエス様自身の体験のために起きたのではなく、私たちが生まれ変わって新しい命を持てるために起きたということが明らかになったと思います。そういうわけで、兄弟姉妹の皆様、私たちのためにイエス様を送られてこのような計り知れないことをして下さった天の父なるみ神は、誉め讃えても誉め讃えし尽くすことはなく、感謝しても感謝し尽くすことはない方であるということを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

復活祭の聖書日課 使徒言行録10章39~43節、コロサイ3章1~4節、ヨハネによる福音書20章1~18節

聖金曜日礼拝 説教「イエス様が十字架で成し遂げたこと」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書19章17-30節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の木材を自ら運ばされることになり、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで無残な釘打ちが始ったのでした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられました。人間の痛み苦しみに全く無関心な兵隊たちは、処刑された者が息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。イスラエルの解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、かつて付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。

息を引き取る寸前、イエス様は「成し遂げられた」と一言を述べます。そして、息を引き取りました。とても象徴的な言葉です。もともとはアラム語で述べられた言葉だったでしょうが、ヨハネ福音書が書かれたギリシャ語では、テテレスタイτετελεσθαι、「完了した」とか「完結した」とか終わりを告げるという意味です。これまでプロセスにあったことが完了、完結したということなので、「成し遂げられた」と訳しても問題ないでしょう。それでは、イエス様が十字架で死ぬということは、何が「成し遂げられた」ことになるのでしょうか?

この福音書を書いたヨハネはイエス様の母マリアとともに十字架の近くに立って一部始終を目撃した人です(21章24節)。彼はこの時のイエス様の気持ちを読み取って、こう書いています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」(28節)。ヨハネは、イエス様がすべてのことが成し遂げられのを知ったのだ、と書きました。ところで、イエス様が「渇く」と言われたことが旧約聖書の預言が実現するというのは、詩篇69篇22節に次にように記されていることによります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇く私に酢を飲ませようとします」(他に63篇2節も)。しかしながら、イエス様の受難と死によって実現した旧約聖書の言葉とは、このことだけに限りません。本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所は、イエス様の受難と死の出来事だけでなく、その目的についてもかなり詳しく預言しています。この預言の言葉が紀元前700年代に由来するのか500年代に由来するかについては、聖書の専門家の間で議論がされるところではありますが、いずれにしてもイエス様の時代の数百年前に彼の受難と死について見事に言い表していることは否定できないのであります。以下、イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。どうしてこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わたのであり、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのであります。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった。

以上から、イエス様が私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たちに人間に一体、何が神に対して落ち度があったというのか?「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申し上げますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、以下に見ていきましょう。

人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていた行為をしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいと傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのであります。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。

ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦された者となれる。そのようにして、神との結びつきを回復することが出来る。このような解決策を神は立てたのです。

それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷を持たない、神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてイエス様に白羽の矢が当たったのでした。

ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければならない。そうしないと、目撃者も証言者も記録も生まれず、同時代の人々も後世の人々も神の救いの業を信じる手がかりがなくなってしまうからです。

さて、神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じることになります。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのであります。

以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、世の終わりに出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。

このようなわけで、十字架に掛けられたイエス様というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力も粉砕されてしまったのです。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。あと、人間の方ですることと言えば、この救いの実現が、起きた時から2000年たった現代を生きる自分のためになされたのだとわかり、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けた者は、この救いを所有する者となります。こうしてその人は、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、すぐ御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにいることができるようになります。神がイエス様を用いて整えた救いは、全ての人間にどうぞと提供されていますが、救いはこれを受け取った者に効力を発するのであります。

2.終わりに、このイエス様が最後に述べた言葉「成し遂げられた」について、一つ不思議なことをお話しします。初めにも申しましたように、ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσθαιと書かれています。イエス様はこの言葉を口にした時はもちろんギリシャ語のではなく、アラム語の言葉でした。それがどんな言葉なのかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の言行録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのであります。このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も効力を持っている、現在も成し遂げられた状態にある」という意味です(ギリシャ語の現在完了形による)。つまり、「成し遂げられた」とは、神の救いの計画がイエス様の十字架の時に完了してそれで全てが終わったと言うだけでなく、ヨハネが何十年後にこれを書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いている、さらに彼の書物を手にして読む者にとっても、「成し遂げられた状態」が続いている、という意味であります。この翻訳は、真に的確であり、父なるみ神の意思に適うものです。なぜなら、神の意思は、彼の手で造られた人間の誰もが、御自分の完成した救いを受け取ってほしいというものであり、これは2000年前も今も変わらないからであります。神の救いは、現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮そのものなのであります。従って、ゴルガタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、目指すべき目的地であります。また、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取っている者にとっては、それは、絶えず立ち返るべき原点なのであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ4章14節~5章10節、ヨハネによる福音書19章17-30節