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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の偉大な力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。ところで、クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。日本語では降誕祭と言います。実は復活祭・イースターは、キリスト教会ではクリスマスに劣らず大事なお祝いです。ディズニーランドでもハッピーイースターをやっているそうです。イエス様の復活の何が人をハッピーにさせるのでしょうか?一度死んだ者が復活したというのは、ちょうど暗くて寒い冬が明るい暖かい春にかわる嬉しさに重なるのでハッピーになるのかもしれません。しかし、ここはキリスト教会ですので、イエス様の復活がハッピーなことだということを聖書に照らし合わせて見ていきたく思います。
まず、次のように言ったらどうでしょう?イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが復活したということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。これに付随して、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが復活したイエス様に出会って喜び勇気づけられたということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。こういうふうに言うと、復活祭というのは何だかテレビ・ドラマでも観るように、昔の人たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いになります。しかし、そういう理解ではまだ聖書をちゃんと読んだことにはなりません。というのは、イエス様が死から復活させられたことは実は、当時の人たちの時代の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命や生き方にも関係してくるからです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何なのかを考える必要があります。
そこで、イエス様の復活とは何なのかをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかがわからないといけません。歴史的事件としてみると、ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買い、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書が聖書である所以は、それが天地創造の神の人間に対する思いや計画を知る唯一の手がかりであるということです。聖書をそのような書物と見なせば、見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。
それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?創世記に記されているように、人間は創造主の神に造られた後、神に対して不従順になって罪を犯したために罪が内に入り込んでしまって神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまいました。罪とは、人間が神の意志に反することをするように仕向けたり、また神の意志に沿うことを難しくするようにして、人間を造り主の神から遠ざけようとする悪いものです。そこで神は、人間がこの罪の恐るべき力から解放されて神との結びつきを回復できるようにしよう、そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしよう、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしよう、そういう計画を立てたのです。それでは、この神の人間を救うという壮大な計画とイエス様の十字架と復活はどう関係するのでしょうか?
まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれて、罪の償いを神に対して全部果たして下さいました。それからは罪は、以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超える永遠の命があることが示され、その扉が私たち人間に開かれました。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて整えた罪の償いと赦しをしっかり受け取れて、永遠の命に至る道に置かれて後はその道を歩むことになります。
その人は罪の償いと赦しを受けているので、罪はもうその人を神の前に有罪者にすることは出来ません。それでも罪は、まだ力があるかのように見せかけて信仰者の隙や弱いところをついてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいるかもしれません。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせて下さり、私たちは神の赦しは本当にあるとわかって、これからは罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このように私たちは十字架の下に戻ることをすればするほど、罪に対して強烈なパンチを加えることになります。まさに、罪よ、くたばれ!です。
もし罪が思いや考えの中に留まらず、言葉や行いで出てしまい、誰かを傷つけてしまった場合は、その人に対して謝罪や償いをしなければならないことは言うまでもありません。ここで忘れてはいけないことは、神は隣人愛をせよと言われるので、それを破ったことにもなるということです。それなので、神に対しても赦しを乞わなければなりません。その時も神は、イエス様の十字架の犠牲に免じて赦して下さいます。ところが、隣人が赦してくれない場合もあります。「神は赦せても私は赦せない」などという人もいます。キリスト信仰者はどんなに憤っても絶対にそう言ってはいけません。自分を神よりも高い地位に置いてしまうからです。でも、そう言われる立場になってしまったらどうしてよいかわかりません。しかし、神との関係で見ると、神に赦しを乞えば神はひとり子の犠牲の業に免じて赦して下さいます。人間との関係では行き詰まりかもしれないが、神との関係では大丈夫ですから、それを信じて絶望せずに打開の糸口を見つけていきましょう。神に祈りながらやれば、必ず見つかります。
イエス様を救い主に持って神から罪の赦しと償いを受けた人は、神との結びつきを持って生きる人です。神との結びつきがあると、罪はその人をもう神の前で有罪者に仕立てることは出来ません。イエス様がその人を罪の力から贖い出して下さったからです。
このように、罪が人間に対して持っていた絶大な力は破綻しました。その結果、死も人間に対する力を失いました。本日の使徒書の日課の中で使徒パウロは、死からの復活はイエス様が最初で、その次は彼に結びつく人たちが彼の再臨する日に復活すると言っています(第一コリント15章23節)。また本日の日課の前では「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています(20節)。信仰者にとって死は、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りになったのです。ルターによれば、この「眠り」はこの世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りであると同時に、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの眠りは、ほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きもないし、またこの世で生きている人を見守ったり影響力を及ぼすこともありません。実はずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。これが聖書の観点です。
パウロはまた、本日の日課の後のところで復活の体について述べています。私たちが復活する時、地上の時に着ていた朽ちる肉の体にかわって朽ちない栄光の体を着ることになる、と。そうなるとキリスト信仰者にとって死というのは実に、復活の日までひと眠りして着替えをするということになります。罪と共同して人間を神から切り離して永遠の滅びに陥れようとしていた死でしたが、それも破綻してしまったのです。まさに、死よ、さらば!です。
本日の旧約の日課はモーセが、神の偉大な力でイスラエルの民がエジプトの軍勢から守られたことを賛美するところでした。エジプトの軍勢は海水に巻き込まれて全滅してしまいました。これは一見すると罪や死ということと無関係に見えます。ところが、旧約聖書に記された昔の出来事というのは、将来起こることのミニチュアというか象徴的な先駆けになっているということが多くあります。エジプトの軍勢に起きた出来事が罪と死の破綻の象徴的な先駆けというのは、旧約聖書のミカ書7章19節を見ればわかります。「主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる(後注)」。つまり、神の民イスラエルを襲おうとしたエジプトの軍勢が壊滅したように、イエス様に結びつく者を襲おうとする罪と死も同じ運命にあるというわけです。
このように罪と死の力から人間を救い出そうとする神の計画がイエス様の十字架と復活を通して実現しました。罪の赦しの救いを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。そういうわけで、復活祭とはイエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。さらに、自分自身が復活させられるという希望に加えて復活の日に懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。
さて、本日の福音書の箇所を見てみましょう。復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する復活の体とはどんな体なのか?それについては、パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。
復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活というのは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。
復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。
さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったと考えられます。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはどうだったでしょうか?泣き続けたでしょうか?次のように考えたらどうでしょう?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。
イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。なんだか聖書の訳の中に日米同盟と欧州連合の対決があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?
私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べているからです。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。
このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(後注)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。
神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これを感動的と言わずして何を感動的と言えるでしょうか。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことがよく窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。
ここでイエス様は、弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。
兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活のおかげで私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。
十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様に結びつく者、
神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、
その度に心の目を十字架の主に向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、
神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。
この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
後注(ヘブライ語とギリシャ語がわかる人にです)
エジプトの軍勢に起きた出来事がミカ書7章19節の預言の象徴的な先駆けと言うことに対して、言語的な繋がりが弱いと指摘されるかもしれません。出エジプト記15章で「投げ込む」という動詞はרמה (1節)とירה(4節)を使っているのに対して、ミカ7章19節ではשלךを使っているからです。出エジプトでは投げ込む場所を「海に」ביםと言っていますが、ミカでは「海の深みに」במצלות יםです。他方で「深みに」במצולתは、出エジプト15章5節で海に投げ込まれた軍勢が石のように落ちていく場所を言い表す時に使われています。ミカの預言には出エジプト記の出来事が響いていると考える者です。
ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。
ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。
去年の二月にイスラエルに行っていた時、もちろんエルサレムに行きました。エルサレムは、その時大変寒かった所でしたが、とても、とても面白かったです.聖書の歴史に関係がある建物、にわと道をたくさん見ました。
エルサレムのはイエスが歩いた苦しい道、Via Crux もあります。それを見ると色々な聖書の言葉を考え始めました。
例えば マタイによる福音書/ 27章32節
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
イエスは本当に色々な苦しみを受けました.あなたの為にも、私の為にも.これは神様の人間には理解出来ない、愛でいっぱい計画です。
私達人間の生活の中にも苦しみがあります。多分ほとんど希望を失うほど大変な苦しみです.苦しい日があると希望はどこでしょうか。
苦しみを考えるとは三種類あると思います。
初めに
自分のせいの苦しみです。例えば、歩行者が赤信号であっても賑やかな道をわたると、きっと交通事故になりますよ。そして苦しみにもなる。これは自分のせいの苦しみです。
第二に
5歳の女の子が道を歩いていて、酔っている運転手の車に跳ねられるとします。誰の責任でしょうか。やっぱりその酔っぱらい 運転手の責任だと思います。警察もそう判断します。
第三に
かわいい赤ちゃんが生まれるとします。お母さんもお父さんも喜んでいます。しかし、後一年で赤ちゃんががんで死ぬとわかる。父親と母親にとって大変な苦しみです。けれども、責任が誰にあるのか、分かりません。説明できない苦しみです。
今日の聖書の箇所にも苦しみについて書いてあります。イエスの苦しみについてです。
17−19 大変なでき事でした
ヨハネによる福音書/ 19章 17節
イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
これは大変なできことだと思います。イエスはとても良い方ですから。
どんな方なのでしょうか。イエスの人格というのは。
イエスは父の偉大なる御業を喜び、人類の罪と悩みを見ては、大変苦しみました。
イエスは神が御自身にその使命をお与えになったことを知っていましたので、何も恐れることなく、権威ある者のように教えました。
イエスは御自分の民とその聖なる嗣業とを愛していましたが、同時に彼は人間のあらゆる制約から完全に自由でした。
そして、イエスは良い業を背一杯なさいました。
イエスの御業について
イ エスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同 時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。イエスは良い方だと言われても宜しいでしょうね。
これらのことを読むと、私達の人間の考え方で、イエスの苦しみは説明できません。私の知恵は足りませんと思います。
また、イエスは人々からいじめをうけました。良い業ばかりなさったのに。
ヨハネによる福音書/ 19章 20節
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
良い業ばかりなさっていたイエス様は、今いじめられました。悪口も言われました。着るものもなくしました。全部預言者が語られた通りです。
大変な苦しみがあったのに
ヨハネによる福音書/ 19章 25節
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
イエスはまだまだケアを考えていました。本当に本当に母親の世話をなさいました。これほどの愛は説明できませんね。
次に
イエスの苦しみは人間の考え方では説明できません。しかし、神様は人間と全く違います。神様の考えは私達の考えを明らかに超えます。
イエスの苦しみと言うのは、あなたと私のための苦しみです。
イ エスは苦難と試練と死の危険を忍び、父の御旨に従順でした。父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与 えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、 代わってその身に受け、神の怒りを取り除いたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちを 罪から贖うための犠牲なのです。
イエスの苦しみの結果として、私達は希望を持っています。
キリスト者の希望というのは
時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。
最後に今日の聖書の箇所の終わりを読みましょう。
ヨハネによる福音書/ 19章 28節
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
まとめて、この聖書の箇所を読むとイエスの道は本当に苦しい道でした。
それは、私達の罪人のためでした。これは不思議な愛です。これは、私達の希望の元です。
祈りましょう
天の父なる神様、あなたは御自分の御子を死に渡して、人間を救う計画を作ってくださいました。イエスは私達のために大変な苦しみを受け入れました。今日私達 は特にその苦しみを覚えています。イエスの苦しみも神様の計画の通りです。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行い は必要ではありません。私たち弱い人間には、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たち を助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。 聖書を読むと、贖い主のイエスがあと3日目に復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜びの元です、希望のもとです。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の 赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への 道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。
私たちは信仰によってあなた の子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人 生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招 き、また、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力に よって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を 照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。 アーメン。
少し、例えの話しをしたいと思います。
台所には、ナイフもフォークもあります.値段は大体同じですが、使い方は全く違います。ナイフはナイフとして、フォークはフォークとして使わなければなりません。反対は無理です。
今日の、聖書の箇所を読みましょう。これはとても有名な聖書の教えだと思います。
最初に イエスは小子ロバに乗ってエルサレムに行かれました。
ルカよる福音書/ 19章 28節
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれ
29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとし30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
預言者たちも前から神様の計画を知っていました.そして、人々に語りました。そして、イエスが言われとことも実現になりました。
33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
弟子達はイエスの教えに従って、神様の計画は進歩しました
36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。
皆、イエス様を見ると大喜びしました。踊りました、歌いました。イエスがこの世に来て下さるのは、神様のご計画でした。
時が満ちた、と言ってもいいでしょう。神様の計画が進展(しんてん)しました。
でわ、イエスはいったい、どなたでしょうか。これはとても大切な質問です。
このような教えがあります。 神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えることができるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を 世の救い主としてお送りになりました。聖書にはイエスの人生について、また教えの奇跡についてたくさん書いてあります。
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。
そして、イエスはお生まれになりました。
人間としてイエスは罪を別にして、全ての点において、私たち人間と同様でした。イエスは生まれ、成長し、疲れ、空腹を感じ、また喜びや悲しみを味わいました。
「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:52)。
イエスは御業をどう行われましたか。
イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。
そして、イエスは恵みの主でいらっしゃいます。
イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何らの価値も無いのに与えられる神の愛が「恵み」と呼ばれるのです。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。
イエスは本当に本当私達人間を愛して下さいました.けれども、皆はイエスの教えを聞いてくれませんでした.イエスは泣いていました。
聖書の箇所に戻りましょう。
41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
イエス様はその平和への道でいらっしゃいます.イエスは道であり、心理であり、命であります。どうして人々は聞いてくれませんでしたか。イエスは無泣いてしまいました。
そして、イエスは怒りました。
45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。
どうしてイエスは怒ってしまいましたか。
神の国の教えは商売より最も大切な事だからです。
47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
イエスは良い業ばかりなさったのに、皆は好きではありませんでした.イエスは、苦しみを受けなければなりませんでした。これも神様の計画の部分でした。
まとめて。神様は、このようなイエス様をお送りになりました。
この神様の計画は、私たちの永遠の命の希望の元です。ですから、今日の聖書の箇所の人々と弟子たちがしたように感謝しましょう。 自分の栄光を求めていた ファリサイ派の人々などはイエスのことが好きではありませんでした。イエスがいるとファリサイ派の人々の力は弱くなるという恐れがあったと思います。けれど も、私たちにとって、イエスは素晴らしい方です。
私たちはイエスによる永遠の命の希望のプレゼントを頂きました。このプレゼントを教会として家族や友人たちに分けることは私たちの大きな喜びです。 そして、私達の一番の最大事です。私達は色々な神様に頂いた賜物を持っています。
ナイフでしょうか、フォークでしょうか、主がお入り用なのです。
天の父なる神様、あなたは、人間を救う計画を作ってくださいました。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行いは必要で はありません。私たち弱い人間は、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを 超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。 聖書を読むと、贖い主のイエスが復活されたということが分かります。 これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である 天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えて ください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めます ように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招き、また、復活の喜 びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を 大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができます ように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。 アーメン。
1.本日の旧約の日課イザヤ書の個所の中で神は、「見よ、新しいことをわたしは行う」と言っていました。新しいこととはどんなことでしょうか?ちょうど日本では新しい元号が公表されて、世間は新しいことへの期待が高まった感があります。しかし、聖書のことですので、聖書外のことに結びつけて理解しようとするのではなく、あくまで聖書内で理解しようと思います。そうなるとイザヤ書43章16節から28節をよく読まなければならないのですが、少しわかりにくい個所と思います。イザヤ書全体のことを念頭に置く必要があります。面白いことに、本日の福音書の日課と使徒書の日課を何度も読んでいくうちに、イザヤ書43章で神が行うと言われる「新しいこと」を理解するのに役立つことに気がつきました。福音書の日課は、イエス様がブドウ園のたとえを使って教えを述べる個所でした。使徒書の日課は、パウロがイエス様を救い主と信じることで、それまで勝ち取ったと思っていたことは皆損失になったと言っているところです。そういうわけで本日の説教では、福音書と使徒書の日課と結びつけて神が行う「新しいこと」を明らかにしていきたいと思います。
まず、イザヤ書43章の個所を見てみましょう。分かりにくい個所かもしれませんが、解きほぐすようにしていけば分かってきます。最初の16節と17節で神は海の中に道を与えたとか、戦車や強大な軍隊が倒された状態にあることが言われていますが、これが出エジプト記の出来事を指していることは申し上げる必要はないでしょう。モーセ率いるイスラエルの民のために神は海を開いて通り道を与え、後を追ってきたエジプトの軍勢は海水が戻ったので海底に沈んでしまったという出来事です。そして18節で神は「初めのことを思い出すな、昔のことを思い巡らすな」と言われますが、「初めのこと」、「昔のこと」は何を指すのかはっきりしません。そこで25節を見ると、神は「民の背きの罪をぬぐい、彼らの罪を思い出さないことにする」と言っています。神が過去の罪を思い出さないことにする、忘れてやる、と言っている以上、私たちもそれに倣って、違うことに思いを巡らさなければならない。それが、神が行う「新しいこと」なのです。
それでは、私たちが思い巡らさなければならない神の「新しいこと」とは何か?この個所をまず、書かれている内容に関係する歴史の文脈に置いて考えてみます。そうすると、「新しいこと」とはイスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還させてもらえることを指します。歴史の文脈に置いて見た場合、それが「新しいこと」になります。その背景にあるものが21節から24節に記されています。イスラエルの民は神の意志に背くことばかりし、その結果、罰として国滅ぼされて異国の地バビロンに連行されてしまいました。これは、紀元前6世紀初めに起きた歴史上の出来事です。神としては、民が悔い改めればいつでも罪をぬぐい不問にしてあげる用意があったのに、民の態度と言ったらまるで、自分たちには落ち度はない、神は根拠もないのに民に罰を与えて苦しめている、そんな神を相手に裁判しても構わない、そういう傲慢さがありました(26節、後注)。それは自滅を招いてしまう態度でした(27ー28節)。
しかしながら神は、民の捕囚が70年近くに及ぼうとする段階で、民の罪の償いは果たされたと見なします(イザヤ書40章2節)。それで、祖国帰還を認めるのです。それは、ペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼして、ペルシャの王がイスラエルの民の帰還を認める勅令を出すことで実現します。これも歴史上の出来事です。かつて出エジプトの頃、神が力を発揮してエジプトの軍勢を滅ぼしてイスラエルの民が安全に移動出来るようにしたことや、荒れ野の中で進むべき道を示したり、水や食べ物を与えたこと、それと同じことがバビロンからの祖国帰還にも起きたのです。19節と20節を見ればわかるように、神は祖国帰還するイスラエルの民のために荒れ野に道を敷く、砂漠に大河を流れさせて民に水を飲ませると言われます。これが、民の罪の償いが果たされたことを示す祖国帰還でした。それで、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから、そう神は言われたのでした。罪の償いを果たした者として帰還する祖国で新しくやり直しなさいと言って下さったのでした。
ところがどうでしょう、祖国帰還した民は神の意志に沿う生き方をしていないことが次第に明らかになりました。イザヤ書の終わりの方やマラキ書にそのことが伺えます。他方で、祖国帰還後に再建した神殿には世界の諸国民が天地創造の神を崇拝しにやって来るという預言があって、神の力で帰還できたのだから、その預言も帰還後に実現するという期待がありました。ところが現実には、ユダヤ民族はほんの一時を除いてずっと大国の支配下に置かれ続けていました。祖国帰還はまだ預言の本当の実現ではなかったのか?ならば、それはさらなる将来に実現するものなのか?かつて民を奴隷の国エジプトから解放し、さらには捕囚の地バビロンからも解放した神であれば、それらに並ぶような偉大な解放を実現して下さるのではないだろうか?そんな期待が持たれていた時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。果たして神は、イエス様を通してどんな「新しいこと」を行おうとしたのでしょうか?本日の福音書の個所のイエス様の教えがそれを明らかにしています。以下そのことを見てまいりましょう。
2.イエス様のブドウ園のたとえの内容は以下のものでした。ブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を任せ、収穫の実を持ってこさせるべく僕をつかわすが、これを農夫たちは袋叩きにして手ぶらで帰してしまいます。三人の僕が同じ目にあった後で、所有者は自分の息子なら敬意を払ってちゃんとブドウの実を持たせるだろうと期待して送ります。ところが、農夫たちはこともあろうに、息子を殺害して園を自分たちのものしようと企み、本当にそうしてしまいます。そんなことしたら自分たちのものになるどころか、所有者に報復されてしまうのは目に見えているのに。イエス様はどうしてそんな頭の悪い農夫たちを登場させたのでしょうか?
この問いに答える前に、ブドウ園のたとえに続いてイエス様が語る「隅の親石」の話を見てみます。隅の親石とは、石造りの家を建てる時の大事な基となる石、つまり礎石のことです。イエス様の話は実は、詩篇118篇22節からの引用です。石造りの家を建てる者がこの石は使い物にならないと言って捨てた石が後で本当の礎石になるという預言です。イエス様はこの聖句に対する補足説明として次のように言います。この石につまずく者は深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する、と(ルカ20章18節)。実はこれも、イザヤ書8章14節からの引用です。このようにイエス様はブドウ園のたとえに続けて二つの旧約聖書の個所を結び付けて引用しました。
ところで、イエス様のブドウ園のたとえは、これを初めて聞いた当時の人々にとってわかりそうでわかりにくい話だったと言えます。まず、当時のユダヤ教社会の人たちだったら、ブドウ園と聞くとイザヤ書5章にある「ブドウ園の歌」を思い出します。神が一生懸命に守り育てたブドウ園からはろくな実がならなかった、イスラエルの民の現状もそれと同じだとして、神に背を向けて不正にまみれて生きる民が批判される、そういう内容の歌です。このように、ブドウ園はイスラエルの民を指します。しかしながら、イエス様のたとえでは、ブドウ園自体はこのような悪い存在ではなく、悪いのは雇われ農夫です。イエス様のたとえを聞いた人たちは、イザヤ書をもとに、ブドウ園はイスラエルの民、所有者は神だとは連想はできても、雇われ農夫や所有者が派遣した家来や息子についてはイザヤ書にない要素なので、少し考えてみなければなりません。所有者の息子が殺されてしまうというのも、神のひとり子が殺されるということになりますが、まだイエス様が十字架に架けられる以前の段階では何のことか見当もつかなかったでしょう。
そこで、イエス様のたとえでブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を委ねると旅に出ることに注目します。日本語で「長い旅に出た」と言っているのは、ギリシャ語原文では「外国に旅立った」(απεδημησεν)というのが正確な意味です。どうして外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通でした。「外国に出かけた」というのは、故国に戻ったということでしょう。
このような背景を考えると、14節で雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがわかってきます。普通だったら、そんなことをすれば自分たちのものになるどころか、すぐ処罰されてしまうでしょう。ところが、息子は始末したぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということになるのです。このようにブドウ園のたとえは、当時の人たちにとって、その社会状況から起こり得そうな身近な話に聞こえます。しかし、登場人物全ては誰を指して、一体なんの出来事について教えようとしているのかはわかりません。イザヤ書のことがあるから、何かイスラエルの民に関する教えだろうとはうすうす感じていながらも、現実の身近な世界で起こりうる出来事として理解できるだけです。つまり、遠い国にいるブドウ園の所有者が、邪悪な雇われ農夫に息子まで殺害されて、ブドウ園を乗っ取られてしまう。そして所有者は報復として農夫たちを滅ぼして、ブドウ園を別の者たちに委任するという具合にです。大方の人にとっては、これは当然の報いだと受け取られたでしょう。
ところが、群衆の中にはイエス様のたとえのポイントを理解し始めた人たちがいました。祭司長や律法学者がそれでした。ユダヤ教社会の指導層です。イザヤ書の「ブドウ園の歌」からブドウ園はイスラエルの民、所有者は神と理解できると、雇われ農夫というのは、神から委託されてブドウ園つまりイスラエルの民を世話する役割を与えられた人というイメージが湧きます。つまり、民の指導層です。祭司長や律法学者たちは、雇われ農夫が自分たちをさすのだ思い至ります。彼らは、イエス様が奇跡の業と権威ある教えで多くの人々を引き付けていることをいまいましく思っていました。何とかしないと自分たちの権威が揺らぐと危惧していました。それにも増して、もし群衆があの男をユダヤ民族の王にでも祭り上げたら、占領者のローマ帝国が鎮圧部隊を派遣して国中は大混乱に陥ってしまう、早く手を打たなければならないと危機感を抱いていました。しかし、彼を殺害することは神のひとり子を殺害することになって罰として神に滅ぼされてしまうなどとたとえを用いて語っている。自分を神同等に扱い、民の指導層を侮辱している。「そんなことがあってはならない!」と叫んだのは外ならぬ彼らだったのです。
この指導層のブーイングに対してイエス様は、詩篇118篇22節の「隅の親石」の預言を述べるのです。この預言がブドウ園のたとえと結びつけて言われるとどうなるでしょうか?家を建てる者に捨てられた石というのは農夫たちに殺された所有者の息子、すなわち捨てられた石は指導層に殺される神のひとり子を指すとわかります。その殺されたひとり子が「隅の親石」になると言うのです。これに対する補足説明としてイエス様は、その「隅の親石」が何をするのかということを述べます。これが指導層の堪忍袋が切れるだめ押しとなります。「その石に躓く者は、深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する」(18節)。この言葉は先ほども申しましたように、イザヤ書8章14ー15節の預言の引用でした。旧約聖書を詳しく知っている指導層であれば、ブドウ園のたとえは、指導層に対する痛烈な批判であり、全く不都合な預言であることがわかります。しかも、詩篇の「隅の親石」の預言とイザヤ書の「躓きの石」の預言も自分たちのことを言っていると言われてしまったのです。つまり、指導層は神のひとり子を殺害して神罰として滅ぼさる。さらに、殺害されたひとり子は隅の親石になって、指導層はその石に木端微塵にされてしまうのだ、と。激怒した指導層はイエス様を捕えようとしましたが、周囲はイエス様に付き従う群衆が取り巻いていて果たせませんでした。
3.果たしてイエス様が預言したこと、つまり指導層が神のひとり子を殺害し、その後で滅ぼされてしまうこと、そしてイエス様が「隅の親石」になって指導層を木っ端みじんにするということ、これらの預言は見事に実現します。まず、イエス様は過越し祭の期間に指導層に捕らえられて死刑判決を受けて十字架にかけられました。たとえの中でブドウ園の外に追いやられて殺害されると言われていましたが、十字架が立てられた場所はエルサレムの町の外のゴルゴタという名の処刑場でした。そして、指導層が滅ぼされる出来事も起きます。イエス様の十字架の出来事から約40年程経った西暦70年、エルサレムの町と神殿はローマ帝国の大軍の攻撃にあい灰燼に帰してしまいました。
さらに、もう一つの預言、捨てられた石のように十字架にかけられたイエス様が今度は隅の親石になって宗教指導層を木っ端みじんにするという出来事も起きました。イエス様の死からの復活がそれです。十字架の死を遂げたイエス様は天の父なるみ神の力で三日後に復活させられました。出来事の目撃者となった弟子たちを皮切りとして、イエス様は本当に天地創造の神のひとり子だった、旧約聖書に預言されていたメシア・救世主であったということが理解され出します。イエス様の復活が起きたことで、死を超える永遠の命というものが本当にあってその扉が人間に対して開かれたことがわかりました。その扉は、かつて人間が天地創造の後で神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来閉じられていたのです。それが、イエス様が人間の罪を人間に代わって背負い十字架の上で神罰を人間に代わって受けられたことで開かれました。イエス様が人間の罪の償いを果たして下さったことになり、それで人間が神から罪の赦しを頂けるようになったのです。
このようにイエス様のおかげで神から罪の赦しが頂けるとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しが頂けます。神から罪の赦しを頂くということは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるということであり、同時に復活されたイエス様と同じ永遠の命に与れるということです。万が一この世を去る時が来ても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に永遠に迎え入れてもらえることになります。
そうなると、罪の赦しを頂いて永遠の命に与れるために必要なことというのは、神がイエス様を用いて罪の償いを果たして下さったことをその通り起こったと信じてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることに尽きます。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、罪の赦しも永遠の命も手掛かりはと言えば、律法の掟を守ったり宗教的な儀式を積み重ねることだけでした。それが、先ほども申しましたように、西暦70年にエルサレムの神殿が破壊されてしまうと神から罪の赦しを頂くための儀式を行う場所がなくなってしまいました。その場所は、毎年動物の生贄を犠牲に捧げたり穀物の初穂を捧げたりして罪の償いの更新を繰り返すところでした。ところが、神がご自分のひとり子を犠牲にすることで罪の償いを一回限りで済むように、文字通り未来永劫に果たしてしまいました。あとは神がイエス様を用いて整えて下さったものを受け取るだけで大丈夫になったのです。
神殿の儀式に関する掟以外の掟についても革命的なことが起きました。十戒の掟のことです。イエス様は、それらは見かけ上外面的に守れても十分ではない、心の有り様までも問うていると教えました。そうなると人間は誰も神が義と認めるくらいに十戒を守れる人はいません。ところが、イエス様を救い主と信じて洗礼の時に被せられる、見えない神聖な純白な衣を纏うようになると、それで人間は神の前に義とされるようになったのです。それから後は、神から贈り物として頂いた義はひとり子の尊い犠牲の上に成り立っているとわきまえるので軽々しいことはできなくなります。だからと言って、重苦しくなることもありません。なぜなら、神が贈り物として与えて下さる義は、人間を罪に追いやろうとする力や罪の赦しなんかないと思わせる力など陽炎のように消え去るにしかすぎないと映し出してくれます。ここから何とも言いようのない大きな解放感と安堵感が沸き起こります。心は神への感謝で満たされ、これからは神の意志に沿うように生きていこうと志向する有り様になります。
律法の掟を守って神から義とされることを目指していたが行き詰ってしまった、ところが、イエス様がもたらしてくれた義を受け取ることで解放感を得た、このことはパウロの教えによく出てきます。本日のフィリピ3章の個所も同じ教えです。パウロはまず、自分が律法の掟を遵守することで神から義とされることを目指す筋金入りのファリサイ派であったこと、それゆえにイエス様を救い主と信じる者たちを迫害した過去を持つと明かします。ところが、イエス様が神のひとり子の身分でありながら人間の罪の償いを全部果たしてしまったことを知って以来、自分の力で獲得しようとした義は屑同然になってしまった。償いを果たして下さったイエス様を救い主と信じる信仰を神が見て下さり、また洗礼によってイエス様の死と復活に結びついたことも見て下さり、それで神は自分のことを義と見て下さる。その義が本物の義である、そうパウロは証ししているのです。
4.以上から、イザヤ書の中で神が行おうとする「新しいこと」が明らかになりました。それは、ユダヤ民族という特定の民族を他民族支配という特定の歴史状況での従属状態から解放することではありませんでした。それは、民族に関わらず人間全体を罪と死の支配という普遍的な従属状態から解放するということでした。バビロン捕囚からの解放の時は民が罪の償いをしたと見なされました。つまり、祖国帰還は民が行った償いと結びついていたのです。しかし、それは律法の掟の外面的な遵守と生贄を使う贖罪に戻る運命にありました。「ヘブライ人への手紙」で言われるように、律法の掟の外面的な遵守や生贄を使う贖罪というものは、将来来るべき本物の遵守と贖罪のミニチュアのようなもので、本物が来たら消え去るものだったのです。そして本物が来たのです。十戒を完全に実現している状態の神のひとり子が人間の罪の償いを完全に果たして下さったのです。これが神が行うと言った「新しいこと」だったのです。
かつて民がバビロン捕囚から解放された時、神の御心は、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたたちは罪の償いを果たした者としてこれから帰還する祖国で新しくやり直しなさいというものでした。今、本当の解放、普遍的な解放を得た私たちに対しても神は同じように言われます。あなたはもう過去の罪を思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたは、尊い犠牲を払ってもらって罪の償いを果たしてもらった者として生きていきなさい。そうすれば、罪と死はあなたが永遠の命に至る道を歩むのを邪魔できないのである。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
コリントの信徒への手紙 第18章1~6節 2019年3月31日
私の説教では、コリントの信徒へあてられたパウロの手紙を見てまいりました。今回は8章1~6節まで読んでいただきました。偶像に供えられた肉というタイトルになっています。
前回まで7章は結婚に関する質問でした。
さて、今回は、偶像に供えられた肉を食べてもいいか、ということであります。食べ物のことですが、それが肉であるとか、さかなや野菜をもっと食べた方がいいといった事ではありません。
パウロがここでとり上げた問題は、偶像に供えられた肉によって、影響を受けている教会の中での問題であります。
このことは、当時の人々にとって、決して小さい事ではありませんでした。パウロは、こまごました規則のようなことを語っておりません。その事についての、基本的な事を、明らかにしようとしているのです。
コリントの教会の人々も「わたしたちは皆、知識を持っている」と思っておりました。1節で言っています。「我々は皆、知識を持っている」
大切な事は信仰的な考え方であります。
そうすると、この問題によって、かえって、信仰がはっきりさせられるようになるわけであります。
そこから、どういうことが生まれるでしょうか。偶像に対する言われなき恐れから、解放されることです。その恐れを克服することです。
手で造られ、人々が拝んでいるものの外に、自分の偶像になりやすいものがあるにちがいありません。偶像に打ち勝つということは、そのように広い意味があるのです。
それらの事を考えるのにあたって、まず考えねばならぬことがありました。それは、偶像への供え物について知っているという「その知識はどういうものか」「その知識で大丈夫か」ということであります。そのために、はじめの3節は、知識とはどういうものかという、大変な話になりました。知っているといっても、その知識とはどういうものか、ということであります。
まるで、哲学のような話のようなことであります。
そのことについて、信仰の立場からはっきりさせておかねば、偶像と戦うことができないと思ったのでありましょう。信仰の上で、知るということの意味をはっきりさせなければ、自分たちが接する色々なことについて、それを自由に用いることは難しいであろうと思われます。
コリントの教会の人々が「わたしたちは、みな、知識を持っている。」と言いますと、パウロはすぐに「知識は人を誇らせる」と言いました。これは美しい言葉であります。それと同時に、誰もが、虚をつかれたような思いをするのではないでしょうか。
この地方には、知識がなければ、救いを得ることができない、と言っていた人が多くおりました。パウロが言うことは、そうした人々に対する答えであるとも言えるのであります。そのような人々は別として、神を知るのにやはり知識が必要である、と思っている人も少なくないのではないでしょうか。特に偉い知識人というのではなくても、やはり神について知りたいと思う人は、決して少なくはありません。
信仰と比べてみると、知るということが、どういうことかが、よくわかるのではないでしょうか。大事なことですが、信仰は自分の考えを捨てて、神の仰せになることを受け入れることであります。そのようにして、神に信頼するわけであります。それに対して、知識というものは、いつでも、最後には、自分が中心になります。自分が知るのですから、自分の考えで受けいれるのですから、それは、自分が中心になっても仕方のないことです。そのために、パウロが言いますように、知識
は、人を誇らせるのであります。
ここに書いてある知識というのは、普通の知識ではなく、神を知る知識であります。
それなら、信仰と同じように謙遜であるか、と言えば、そうじゃない、やはり人を誇らせるものである、というのであります。
神を知る知識であっても、それが信仰にとって代わるようであれば、それは結局はやはり、その人を誇らせることになるのではないでしょうか。
人間の小さな器の中に、神を入れなければ承知ができないのでありますから、それはやはり、傲慢になるのであります。
だから、神を知る知識というのは、その傲慢さを捨てたものでなければならないはずであります。そうでなければ、神を知ったつもりでも、ほんとうは、神を知ったのではなく、自分の偉さを知った、ということになるのかも知れません。そういう意味で、知識は人を誇らせるのかもしれません。
それなら、人間を、信仰によって生きさせるものは何でありましょうか。それは信仰である、と言ってしまえば、それまでであります。しかし、その信仰による生活のことを、ここでは愛と言っているのではないでしょうか。
知識が、自分中心になるのに対して、愛は自分を捨てさせ、神によって生きるものにしてくれるのであります。そこで、知識に対して、愛こそは人の徳を高めると言います。
人の徳を高める、という字は、ただ建てる、ということであります。人とは書いてないのでありますが、人であることは分かりきっていることです。
しかし、実際は、愛は建てると書いてあるだけであります。それで、ある訳では、愛は教会を建てる、となっています。
8章の1節には、愛は造り上げる、となっています。人間を傲慢にする知識に対して、人間を信仰によって生きるものにするのは愛であります。神を知ろうとするのと、神を愛しようとするでは、大変にちがうのではないでしょうか。
しかも、神を愛し、神を信頼することがなければ、それは、神を知ったことになりません。もし、知るというのなら、ただ知識のことではなくて、あの人を知っている、というような、その人をほんとうに知ることになるのではないかと思います。
従って、愛はただ、個人を建てるのでなくて教会を建てる、という方が適切かも知れません。
そういうことからすると、人は、もし、愛がなければ「自分が知っていると思うなら、その人は知らなければならないほどの事すらまだ、知っていない」のであります。
例えば何も知らない者ほど、自分の知っているわずかばかりの事を、自慢するでありましょう。しかし、えらい学者なら、自分は何でも知っている等とは言わないでしょう。むしろ、自分は、まだ何も十分には知っていない、と思っているにちがいありません。
今、ここで言っているのは、神のことであります。神による救いのことであります。従って、神について、何もかも知っているというのは、神の救いについて、どんなことでも知っているということになるのではないでしょうか。それは、救いは神にはなくて、自分にある、人間にある、ということになるのであります。
自分が何か知っている、と思うのは、相手が人間である場合と、神である場合は、非常にちがう。神の場合は、神の最も大きな力である救いについて知っている、ということ。更に言えば、自分の方が神より上である、ということになるのです。
多くの人が、神について語ったり、考えたりしてきました。それはみな、結局は、神に依り頼むことはしないで、自分は、神について知っている、神のすくいも分っている、だから、自分は神の救いはいらないのである、ということになるのではないでしょうか。
ここでは、ただ、何でも知っているように思うことは、傲慢である、というようなお説教をしているのではなくて、救いについての人間の愚かなおごりを語っているのです。
神についての知識を誇っている者には、そのことが分っていない、というのであります。従って「その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ、知っていない」と言われるのであります。
「知らなければならない」という、それは神のどこの事でしょうか。
罪人としての我々が、神を神とするのに、他に道はありません。ただ、神に救われて、神を信じるだけであります。
そう考えてみますと、私たちは、いかにも神を知りません。どれくらい知っていると思っていますかネ。知ったと思った時は、神から離れて、やはり自分の力を信じた時だけである。
従って、最後の3節の言葉が、今までのことを逆転する言葉となって、するどく言います。
「しかし、人が神を愛するなら、その人は、神に知られているのである」というのです。
ここでは、知るという言葉が、愛するに変っています。「知る」と言っている限りは、人間として、神を知る事にはならない。人間が神を知るのは、神を愛するということ以外にはありません。なぜなら、愛するという時にこそ、自分を捨てて、神に一切をゆだねる生活が生れてくるからです。
しかし、そこにも、同じような問題があることに、気がつかねばなりません。
それは、愛する、ということも、又、知る、と同じように、自分中心なことが多いからであります。人間の愛は、決して、いつも、完全に、犠牲ではありません。所詮は、自分のしたいことしか考えないものであります。
愛がまことの愛になるためには、自分が愛するより先に、愛せられねばならないのであります。今まで、知る、といっていたのに、ここに至って、愛するになりました。それが、又、神に知られる、というように、知るに変っているのであります。
パウロは、神を知ることは、ほんとうは、神を愛することであり、神を愛することは、神に愛せられることであることをよく知っていました。
ガラテヤ書4章4節には「今では、神を知っているのに、否、むしろ、神に知られているのに・・・」という有名な言葉があります。ガラテヤ地方の人々は、今までは神々の奴隷であったのです。しかし、今は、神を知るようになりました。しかし、それは、実は、神に知られていることである、というのであります。言いかえれば、神を愛するようになった、それは神に愛せられていることが分った、ということなのです。
そのように、私たちが神を知るより先に、神が私たちを知って下さる、ということこそ、神の恵みであります。もしも、その恵みがなかったならば、私たちは、永遠に、神を知ることができなかったでありましょう。
神は、御子イエス・キリストの十字架と復活とによって、御自分が「私たちを知っていてくださる」ことをお示しになりました。私たちは、このキリストの救いのゆえに、神の恵みにより、神に知られ、神に救われることを知り、はじめて、神を知り、愛することができるようになるのであります。思いわずらいのない生活をしたい、と私たちは願います。平安を得たいのであります。しかし、それは、神が自分を知っていて下さる、ということが分かるまでは、得ることができないのであります。神が先に知っていて下さった、それが私たちの救いなのであります。 アーメン
本日の旧約の日課は出エジプト記3章のモーセが天地創造の神と出会うところでした。当時イスラエルの民はエジプトで奴隷扱いを受けていました。神は民の助けを求める声を聞き、以前アブラハム、イサク、ヤコブに約束したことを果たす時が来たと見なしました。約束したこととは、民にカナンの地を定住地として与えるということです。神はモーセに、エジプトの国王ファラオのもとにかけあって民の出国を認めさせて、民を引き連れて約束の地に民族大移動せよと命じます。この出エジプトの出来事は世界の歴史の古代史の出来事の中で最も大きなものの一つです。その中で起こるいろいろな出来事は、人間と天地創造の神との関係はどういうものかをいろいろ考えさせるものです。中でも、神がモーセを通して十戒の掟を与えたことが重要です。確かにこれは、イスラエルの民が守るべきものとして与えられたという面がありますが、人間に対する神の神聖な意志、神が人間に求めていることが凝縮されているという意味で全人類に関わる掟と言えます。
本日の出エジプト記の中で一つ注目すべきことは、神が自分の名前を明らかにしたことです。エジプトを脱出しろと神が命じるなら、その神の名前は何と言うのか、そう民が聞いてきたら何と答えたらいいのか?とモーセは神に聞きま。神はこう言いなさいと言って自分の名前を明かしたのです。ここで少し脇道に逸れますが、「神」という言葉は一般には、超自然的で人格(ないしは人格に近いもの)を持ち崇拝の対象となるものを意味します。世界中にはいろんな神がいて、それぞれに名前がついています。ギリシャやローマの神話の神々、日本の神話に出てくる神々の名前は、ここではいちいちあげませんが、皆さんも聞いたことがあるでしょう。このように世界中にいろんな名前を持つ神がいるのですが、ただ、聖書の立場ではそれらは皆つくられたもの、被造物ということになります。聖書の神が万物の造り主であり、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた、これが聖書の立場だからです。そう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まった、と言われてしまうのですが、聖書の立場はそういうものなので、その立場に立ったらそうとしか言いようがないのです。
そこで、聖書の天地創造の神はどんな名前を持つでしょうか?モーセの問いに対する神の答えは「私は『私はある』である」でした(出エジプト3章14節)。「私はある」エフ イエאהיהというのは、まさに万物の造り主であることを言い表しています。というのは、聖書の神というのは万物の創造に着手された以上は、創造の時にポッと出てきたのではない、創造の前から存在していた永遠の方だからです。それなので、「わたしはある」以外に言い表しようがないと言えるでしょう。
さて、天地創造の神はモーセに、イスラエルの民にはこう言いなさいと命じます。「『私はある』という方が私をあなたたちのもとに遣わした」と(14節)。神はさらに、民にこう付け加えなさいと言います。「お前たちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤハヴェが私をあなたたちのもとに遣わした」と。ここで「私はある」が突然、「ヤハヴェ」יהוהに替わりました。「私はある」אהיהは一人称ですが、ヤハヴェיהוהは三人称に近い形で「彼はある」という意味を連想させます。神は今後この名で自分を呼びなさいと言います(15節)。
ここで皆さんの聖書に関する知識を増やすために一つ申し上げます。ヘブライ語の旧約聖書には、神のことをヤハヴェと記すところが無数にあるのですが、それを読む時はヤハヴェと読まないことが慣例になっています。神聖な神の名を汚れた唇の人間が口にするのは畏れ多いからです。それで文字でヤハヴェと書いてあっても、それを「主」を意味する「アドナーイ」という言葉で読み替えることになっています。それで、日本語やその他の言語の訳もヤハヴェは「主」と訳します。日本語訳の旧約聖書で神のことを「主」と言い表しているところは、ヘブライ語ではほとんど全てがヤハヴェです。出エジプト記3章15節の「ヤコブの神である主が」と言うのも、正体は「ヤコブの神であるヤハヴェが」です。
話が脇道にそれましたが、神の名前に関してもっと大事なことがあります。先ほど、天地創造の神が自分のことを「私はある/彼はある」と名乗った時、それは永遠の存在者を意味していると申しました。これにはもう少し深い意味があります。何かというと、神が14節で自分のことを「私はある」אהיהと名乗る前の12節でも自分のことを「私はある」אהיהと言っているのです。それはモーセが、ファラオに駆けあって民をエジプトから脱出させるなんて自分には無理ですよ、と言った時の神の応答の言葉です。日本語訳では「わたしは必ずあなたと共にいる」となっていますが、ヘブライ語原文の逐語訳は「私はある、お前と共に」エフ イエ インマークאהיה עמךです。見ての通り、これは神の名前の「私はある」エフ イエאהיהに「お前と共に」インマークעמךがくっついた形です。これが意味するのは、神が「私はある」と言う時、それは人間を向いて言っているということです。つまり神は、自分が永遠にある者と言う時、人間と無関係にあるというのではなくて、人間と関係があるように永遠にある者と言っているのです。このことは、神の名前を考える時の大事なポイントになります。こうしたことはヘブライ語の原文を見ないと見えてこないことですが、見えた人は見えない人に伝える責務があります。
それでは、天地創造の神が人間と関係があるように存在していると言う時、それはどんな関係なのか?そのことを本日の福音書の日課の解き明かしを通して見てみたく思います。
本日の福音書の個所のはじめは、ローマ帝国ユダヤ地域の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いて、どんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを総督ピラトが殺害させて、その血を彼らの生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。
この知らせを受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。
さて、イエス様に報告した人たちには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から、彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?
つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのです。
これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない」と強く否定します(ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定)。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかったその他のガリラヤ人よりも罪深かったということはなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。
イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も3節と同じように、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。
ところが、どうしたことでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。これは、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?
実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。
それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?
それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことの反対を意味しています。それでは、「永遠の命を得る」とはどんなことでしょうか?それは、私たちがこの世を去る時、自分を自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日に朽ちない体を着せてもらって創造主の神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、「滅び」は、これとは逆にこの世を去る時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。
このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の次に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、神から罪の赦しを受けていない者としてこの世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、次の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということも同じようにわからなければならないのだ。
このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は、弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むということ、そして、歩みの途上で苦難災難のゆえに万が一命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能でしょうか?
その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天地創造の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。
そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と言ってもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?神に「よし」と言ってもらえる「立ち返り」はどんなものでしょうか?そのことを少し考えてみましょう。
皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。そこまでして神の意思を完全に実現できる人間は存在しないでしょう。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのです。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神にキャッチしてもらえず自分の造り主のもとに戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部ひとり子に背負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、この世を去る時にも、神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。
このように人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認を頂き、再び永遠の命の道を歩み出すことです。
ところで、本日の福音書の個所のもう一つのエピソードはイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。そこを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を前にした私たちをかばって下さるイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠に待ってくれない、期限があるということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて、神に立ち返るようになりますように。
イエス様が意味する「滅び」とは、今の世に関係するものではなく、次に来る新しい世に関係していることが明らかになりました。それで、人間がこの世で遭遇する苦難災難は、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者の命をその手の中にしっかり握っているのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神にしっかり握ってもらっているという気がしなくなるのではないでしょうか?信仰者が苦難災難に遭遇した時、どう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。そこで使徒パウロは、出エジプト記のイスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者の生き方を映し出す鏡になっていると教えます。長い困難な大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話し守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め、神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために起きたのだ、と言います。そこで、信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情があります。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、それは聖書にしっかりある観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を創造され、再び来られるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。そのような時がいつ来るかは神自身しかわかりません。パウロの時代はもうすぐ来るという切迫感がありました。そのような切迫感はパウロの手紙の随所にも見られます。しかし、それから2000年近く立ちましたがまだのようです。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていたので(マタイ24章14節等)、それが目安でしょう。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では「終わりの時代」ということになります。パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐ神の守りを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そして大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、人間の耐久度を超えるような度外れたものはなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方なのだから、君たちの持てる力を超えるような試練に君たちを遭わせたりはしない。君たちを試練に遭わせてるようなことをしても、試練の出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。「試練に耐える」とは具体的には何をすることでしょうか?シナイ半島のイスラエルの民を反面教師にすれば明らかです。それは、神への信頼を失わずに試練がもたらす課題を一つ一つ解決することです。このパウロの教えは、神が出口を用意しているということで励まされる反面、なんだ神は結局は試練を与えるのか、なんで安逸な人生にしてくれないのか、キリスト教は御利益のない宗教だとガッカリされるかもしれません。でも、試練は即、不幸ということでしょうか?そうではないということを実感させるニュースが先週ありました。それは、殺人容疑で逮捕された女性が懲役12年の刑を受け、後になって取調べに誘導があったことが明らかになり最高裁が裁判のやり直しを認めたというニュースです。その女性が記者会見で、自分はえん罪に巻き込まれて不運だったけど不幸ではないと思っている、と述べていました。不幸でなかった理由として支援者に励まされてきたことをあげていました。人によっては、不運だったら即、不幸になる人もいるでしょう。女性の場合はそうならなかった。その理由として、支援者の存在があったからでした。パウロの教えもこれに似たところがあると思います。イエス様を救い主と信じても試練はある。しかし、それで不幸になることはない。なぜなら、天の父なるみ神が支援者のように共にいて下さるから。
神は自分のことを「私はある」と名乗った時、私たちと共にあることを前提して言いました(出エジプト3章)。 天使はヨセフに、生まれてくるイエス様のことをインマヌエルと呼びました。それは「神は我々と共におられる」という意味でした(マタイ1章23節)。 イエス様は聖霊のことを私たちのための「弁護者」であると言いました(ヨハネ14~16章)。
兄弟姉妹の皆さん、これだけ役者が揃っていたら何の不足があるでしょうか?最後に、先ほど第一コリント10章13節には大事なポイントがあると申しましたが、そこには重い内容も含まれていることについて一言。パウロは、信仰者はまだ人間の耐久度を超えるような度外れた試練を受けてはいないと言うのですが、今後そういう試練が来ることに含みを持たせています(後注)。それが何かは明らかにされていませんが、そうではあっても、13節後半部分のポイント、つまり神は試練の出口も用意してくれて、試練を私たちの力を超えないものに留めて下さるということ、このポイントは度外れた試練の時も度外れでない試練の時と同様に有効である。これがパウロの言っていることです。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、神を信頼し、神に立ち返る生き方をしていれば何も心配はいりません。
後注(ギリシャ語が分かる人にです)第一コリント10章13節の後半「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」、「出口を用意して下さる」というのは、両方とも未来形です(εασει、ποιησει)。つまり、将来の試練について言っています。これまでの試練は人間の耐久度を超えるものではなかった、というのは現在完了で言っています(ειληφεν)。それで、将来の試練は耐久度を超えるものがあることに含みを持たせていると考えた次第です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
本日の使徒書の日課の中にあるフィリピ3章20節の聖句は、キリスト教徒のお墓の墓碑銘としてよく見かけるものです。新共同訳では「しかし、わたしたちの本国は天にあります」ですが、文語訳では「されど、我らの国籍は天に在り」です。これを見たことのある人は、ああ、この世を去ったら天国に行くことを言っているんだな、と思うでしょう。しかし、ここは少し注意が必要です。日本ではお寺や神社に行く人でも、誰かが亡くなると「あの人は今天国から私たちを見守ってくれている」などという言い方をよくします。キリスト教も天国、天国と言っているから、人間死んだらみんな同じところに行くというようなイメージがわいてくるかもしれません。ところが、キリスト教の場合は「復活」ということがあるため、少し事情が複雑です。復活と言うのは、かつて天地を創造した神が将来いつか今ある天地を新しく創造し直す時が来て、その時、死者を復活させるというものです。その時、今ある天と地がなくなって新しい天と地に取って代わられるという大変動が起き、そこで唯一なくならないものとして神の国が現れる。イエス・キリストが再臨して、誰が神の国に迎え入れられて誰が入れられないかの審判を下す。そういう最初の天地創造にも劣らない壮大な時です。
それなので、聖書の観点に立てば、人間は死んだらすぐ天国に行くというのはよほどの事情がない限りありえず、大方は「復活の日」までは天地創造の神のみぞ知る場所にて静かに眠っているということになります。それで、このキリスト信仰に特有な「復活」というものを踏まえてみると、「私たちの本国は天にあります」とか「我らの国籍は天に在り」というのは、「あなた先に天国で待っていて下さいね、私も後で行きますから」という意味ではなくなります。そうではなくて、「眠りから目覚めさせられるその日またお会いしましょう。それまでは安らかにお眠り下さい」という、そういう「復活の日の再会の希望」を言い表すものになります。
少し脇道に外れますが、「本国が天にある」と言うのと「国籍が天にある」と言うのは何か違いがあるでしょうか?「本国」と言えば帰属先です。「国籍」と言えば帰属先に伴う資格です。「本国」に属しているからそれに伴う「国籍」があるのだし、また「国籍」があるということは「本国」があるということなので、同じコインの表裏のようなものでしょう。他の国の聖書の訳も分かれています。スウェーデン語訳の聖書では「故国」hemlandと言って帰属先路線です。ドイツ語はルター訳ではBürgerrechteなんて言っていて辞書では「公民権」ですが、ルターの時代ならどこかの自治都市の「市民権」でしょうか。いずれにしても資格路線です。ただ、ドイツ語もEinheitsübersetsung訳を見るとHeimat「故郷」でしょうか、帰属先路線です。英語の訳はcitizenshipで、普通「国籍」、「市民権」と訳されて簡単そうな英単語ですが、「市民の身分」などという意味もあり、本当は日本人には厄介な単語です。しかし、いずれにしても資格路線です。フィンランド語訳を見ると「天の国民/市民」taivaan kansalaisiaとなどと言っていて、これは資格路線と言えるでしょう。
そこで、原文のギリシャ語はどうかと言うと、ポリテウマπολιτευμαという何か共同体を意味する言葉です。帰属先路線です。定冠詞τοがついているので、「帰属先の決定版」ということになります。まさに「本国」です。キリスト信仰者の本国は創造主の神がおられる天にあるというのです。そして、それは先ほども申しましたように、今は私たちの目の届かないところにあるが、復活の日に目の前に現れる国です。「天にある」と言う動詞の「ある」υπαρχειも現在形で、これは普遍的な真理を表しています。つまり、キリスト信仰者はその本国を将来の復活の日だけではなく、今この世を生きている段階でも、いつどこにいても持っているということです。これは一体どういうことでしょうか?
普通は日本とかフィンランドとか、国籍を有している国が「本国」ということになります(二重国籍の人は両方が本国と言うでしょうか?どっちかがより本国に感じられると言うでしょうか?)。そういう地上の本国を持って生きることに加えて天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方でしょうか?フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライターにP.シモヨキという人がいますが、彼の曲の中に「俺は二つの国の国民なのさ」Kahden maan kansalainenという歌があります。「二つの国」というのは、まさしく地上の本国と天の本国ということです。その歌の歌詞をみたら、今の問いの答えになるのではと思いました。それで、それを紹介して本日の説教を終わりにすることも可能なのですが、本日の福音書の個所がまた、解き明かしをするとシモヨキの歌が一層味わいのあるものになると思われたので、やっぱり解き明かしをします。歌は礼拝後のコーヒータイムでユーチューブで皆さんにお聞かせしますのでお楽しみに。
本日の福音書の箇所ですが、二つの異なる出来事が記されています。最初は、イエス様が自分にこれから起きる受難と復活は旧約聖書の預言の実現であると言ったのですが、それを弟子たちが全く理解できなかったという出来事。その次は、イエス様が盲人の目を見えるようにしたという奇跡の出来事です。最初にイエス様が自分の受難と復活を預言の実現と言ったことを見てみます。天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方かという問いを忘れないようにしましょう。
ルカ18章31節でイエス様は、今行こうとしているエルサレムにて、預言書に記されたこと全てが「人の子」に実現すると言います(後注)。実現することとして何があるかと言うと、まず「人の子」が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人に引き渡されて侮辱され辱めを受けて唾を吐きかけられて、むち打ちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。
翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを事後的に確認できるからです。しかし、弟子はまだ十字架と復活が起きていない段階にいますから、確認する術がありません。
それならば、弟子たちには旧約聖書に記された預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っていれば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、というふうに理解できるのではないか、弟子たちは少し勉強不足ではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純ではありませんでした。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに「人の子」が異教徒の手に引き渡されるなどと書いてあったか?どこに「人の子」が侮辱され鞭うちの刑を受けて殺されると書いてあったか?どこに「人の子」が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような仕方で実現するなどと言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。
しかし、これらの出来事は実は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、そういうシンボル的な言い方で預言されていることが、特定の時代のなかで具体的な形をとって実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方の預言がどう具体的に実現するか前もってわかっていたので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方はまだ具体的な形をとって実現することを見聞きも体験もしていません。それでイエス様が予告されたこととシンボル的な預言とがどう結びつくのか、まだわかりません。
それでは、預言されていることと実現したこととの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書7章13節に登場する謎めいた者です。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて神の国が現れる。その時、神から王権を受けて、この神の国に君臨するのがこの「人の子」です。こうして「人の子」というのは、イエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の国の統治者という理解がされていました。加えて「人の子」は、神から王権を受ける前の段階で、迫害を受けるという理解も持たれていました。(そのことは、マタイ16章13ー14節のイエス様と弟子たちのやり取りの背景にダニエル書7章25節があることを考えるとわかります。ここではこれ以上深入りしません。)
さらに「人の子」とは別に、イザヤ書53章に「神の僕」という者が登場します。人間が罪のゆえに神から受けるべき罰を身代わりとなって受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言った時、それは、ダニエル7章の「人の子」が受ける迫害やイザヤ53章で言われる「神の僕」の犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、そう明らかにしたのです。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、そんなこと言われても、あれっ、聖書のどこに書かいてあったっけ?となってしまったのです。
次に、三日後に死から復活するということについて見てみましょう。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書26章19節、エゼキエル書37章1ー10節、ダニエル書12章2ー3節に預言されています。そこで、復活が死の三日後に起きるという、三日目の復活という出来事については、ホセア6章2節(「三日目に立ち上がらせてくださる。」)とヨナ2章が鍵になります。ただ、ヨナ書の場合は、預言者ヨナが大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事についてです。それで、未来を言い表す預言には見えません。しかし、この個所は実はユダヤ人にとって、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言として捉えています(38ー41節、16章4節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になったのです。
しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろんな書物に散らばっています。そのため、それらはこういう具体的な仕方で繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、いくらそう言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解は不可能でした。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全てが見事に繋がって、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、文字通り預言の実現になったのです。弟子たちは、文字通り事後的に全てのことを理解できたのです。
ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、旧約聖書の預言の一つ一つが実際に起きた出来事の各部分にしっかり結びついていることを確認できただけにとどまりませんでした。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのかもわかったのです。実はそちらの方が大事なことでした。このことは、天の本国を持ってこの世を生きるとはどういう生き方かを知る上でも大事です。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味したのでしょうか?
それは、天地創造の神の人間救済計画が実現したことを意味しました。どうして人間は神に救われなければならなかったのか?それは、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことがもとで、人間が神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったからでした。造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持てて造り主である自分のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに基づいてひとり子イエス様をこの世に送り、彼を用いて計画を実行に移しました。神は、イエス様を用いてどのように人間救済計画を実行したのでしょうか?
それは、人間が自分の持っている罪のゆえに受けなければならない神罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、彼の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、これらのこと全ては自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復し、この世の人生の段階で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもいつも神の見守りと導きを受けて歩みます。これが天の本国を持ってこの世を生きるということです。逆境があっても天の本国を持っていることは微動だにしません。このように天の本国を持って生きた人は、この世を去ってひと眠りした後の復活の日に天の本国に迎え入れられます。イザヤ書35章風に言えば、天使たちの歓呼の声をもって迎え入れられます!(そして、そこは懐かしい人との復活の再会が待っているところです!)
そういうわけで、この私がこの世を去ると私の日本国籍は持ち主を失って消滅しますが、天の本国の国籍は持ち主を失わないのでそのままずっと残ることになるというわけです。
以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したということ、そして預言の実現は天の父なるみ神が主導した人間救済計画の実行であったことを見ました。
本日の福音書の個所のもう一つの出来事は、イエス様が盲人の目が見えるようにしたという奇跡の出来事です。この個所を読む人は大抵、おやっと思わされることがあります。それは、イエス様が「お前の信仰がお前を救った」と言った時、それを男の人の目が見えるようになった時に言ったのではなく、見えるようになる前に言ったことです。これは少し変な感じがします。治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われるからです。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ9章22節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?
一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それが実現する前に実現したと先回りして言った、と考えることが出来ます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ17章19節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ7章50節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。どういうことか見ていきましょう。
「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、今申し上げた4つのケース全てそうです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、以前にも申し上げましたが、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、存続しているという意味です。従って「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。
さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか?まだ盲目だったのに、どうして救われていたなどと言えるのか?
その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということです。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間と神との結びつきが回復して、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むようになること。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻れるようになること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。そうすることで人間は、神がひとり子を用いて整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができ、それを自分のものとすることができるのです。盲目の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのです。癒しを受けていなくても、救われていたのです。その後で癒しが起きますが、それは付け足しのようなものでした。
これと同じことがマタイ9章の12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは付け足しのようなものでした。
以上から、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり天地創造の神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世を去った後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世を去る時は、同じくらいに神のもとに永遠に戻れるのです。
逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この人に「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。その期間は病気の時と健康回復の時の双方を含みますが、イエス様を救い主と信じた時点から以後は病気の時も健康回復の時も含めてずっと救われた状態にいたのです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、神から救いを受けて十字架の主のもとに戻る者が救われるということなのです。
ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、女性はイエス様を救い主と信じた日から現時点まで、救われた状態にあり、そのために全身全霊が感謝で一杯になり、神の意志に沿うような生き方をしようという心になりました。
神の意志に沿うような生き方をしようとしても、至らないところはいろいろ出てきます。さすがに行為で神の意志に反することはしないで済んでも、心で思ったり、それが口に出てしまったりします。もちろん、そのためにイエス様の十字架が立てられたので、それが私たちの心の中で立てられている限り、神との結びつきは失われていません。このように、この世での生き方はいつも不完全さを免れません。しかし、パウロが本日のフィリピ3章20ー21節で述べているように、この世の人生の段階で天に本国を持つようになった者は、イエス様が再臨される日にこの不完全な有り様を栄光に満ちた神の有り様に倣う者へと変えられます。
そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、天に本国を持つ者のこの世での生き方は、不完全であることを悲しみもするが、復活の日に完全な者にしてあげるという神自らの約束に安心して、そこに向かって歩み続けるいうことになります。まさに「されど、我らの国籍は天に在り」です!
それでは、最後にシモヨキの「俺は二つの国の国民なのさ」の歌詞を紹介したく思います。訳は神学的な意味を明らかにしなければならないので少し解説的になることをご了承ください。
天高くある御国の壮大さに比べりゃ
足元の国のちっぽけさと言ったらない
この二つの国は俺の人生にいつも連れ添ってきた
俺の周りにあるのは、ちっぽけな国の方
この世にいる限り、それは俺の友だちさ
でも、それは、俺がこの世から永遠の世に向かって足を踏み出すまでのことさ
俺の足はこの世では土にまみれているが
俺の目は天の御国を見据えている
自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ
俺は二つの国の国民なのさ
この世で俺は、風に薫りがあることを知った
海辺で打ち寄せる波に耳を傾けた
雪が降る日にはそれが白く舞うのを見ていた
この世で俺は、時が早く過ぎ去ることに気づいた
すると影が忍び寄り次第に覆うようになった
でも、俺は恐れない。待ち焦がれているものは夢で終わらないとわかっているから。
地上の国で俺は仕事に精を出す 時には笑い、時には泣きもしながら
荒れ地を切り拓いて土を耕し
福音が生み出す平和の種を撒く 不和や争いがあるところに、戦乱の時にも撒くのさ
一度土に鍬を入れて始めれば
植え育てたものが収穫される日は必ず来る
その日俺は自分に言うだろう。「ああ、やっと自分の家に帰り着いたんだ。」
後注(ギリシャ語が分かる人にです)
ルカ18章31節の「人の子」τωυιωτουανθρωπου(単数与格)は、「実現する」τελεσθησεταιにかかると考えればdativus commodi/incommodi、「記された」γεγραμμεναにかかると考えればdativus limitationisということになると思います。
コリント第1、 7章 25-35 2019年3月10日(日)
今日の聖書は、コリント第1、 7章25~35節までです。パウロは、7章からずっと、結婚に関してのべてきました。そして、未婚の人たちについて、パウロは書いています。
ここで言っていることは、一言で「人は現状にとどまっているのがよい」というのです。
7章の結婚についての話が、25節から、又続いています。
25節からは、結婚前のおとめについて言っています。
ここでパウロは今までとは、少しちがった言い方をしています。
今までの言い方は、パウロは、自分がキリストの使徒であるとか、キリストの僕であるといって、福音の宣教者独特の「権威」を示そうとするのでした。
しかし、ここではそうではありません。
パウロは言います。「主のあわれみにより、信任を受けている者として、意見を述べよう。」
それは、これまでとは非常にちがっている。この問題については主のご命令は受けていない、と
いうのです。しかし、自分は主の信任を、そのあわれみのゆえに、いただいている。
これはちょっと注目すべきことでしょう。
主イエス・キリストは、おとめのことについて、なにもご命令を出しておられない、というのです。絶対にこうでなければならない、とは言っておられない、というのです。
しかし、自分は、主のあわれみによって、忠実な者とされている。だから、その立場から、こういうのである、というのです。
自分は忠実な者であるつもりだが、それも、自分がえらいのではなくて、主があわれみをもって、忠実な者にして下さった、というのであります。
だからここに書いてあることは、パウロの意見であるにちがいありません。ここのところを、もう少しくわしく、他の訳でいいますと、「主が、そのあわれみによって、必要な考えをお与え下さった」となっています。
いずれも主ご自身のお言葉ではない。しかし、主の賜ったお考え、主はこう思っておられるであろう、と言うことであります。
これは信仰の生活をしている者が、よく知っていることでしょう。
主は、あらゆることについて、ご命令をお出しになるわけではありません。
しかし私たちは、主のあわれみによって、主に忠実に従うことによって、主のご意見を承ることができるのではないでしょうか。恐らくこうかも知れないといった、あいまいなことでなく、ここにみ心がある、と思えるようになるのであります。
十戒のようないましめや、主ご自身の多くの言葉があります。しかし主は、どんな事についても、ご命令やご意見をお与えになっているわけではありません。それを記した聖書は、六法全書のようなものではありません。何かの時に、ここを見ればわかるというものではありません。しかし、聖書によって神のあわれみを知り、そのあわれみのみ心によって、主にある者として、なすべきことを知ることができるようになるのであります。
それでパウロは、ここに何を示しているのでしょうか。
まず基本的なこととして、「現在、迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい」ということです。
「現在迫っている危機のゆえに」ということはどういうことでしょう。
29章でも書いています。時は「縮まっている」と。
9
パウロがここで述べていることには、こういう考えがその底にあることを、見逃してはなりません。
現在迫っている危機というのが何か具体的なことは何も書いていません。
時が縮まっている、時が迫っている、というように、何か困難なことが目の前にある、ということではないでしょう。
これは信仰の話であります。
教会が出来はじめたころ、人々は、主イエスがもうまもなくやってこられる、終末待望の思いが熱くもえていました。
使徒行伝に書いてあるように、教会の人々は、財産を持ちよって、一種の、素朴な共産生活をした程であります。
パウロはそういうことに現れている信仰生活の意味を、語ろうとしていくのであります。
信仰生活というものは、人間の生き方の表面だけをなでるようなことをするのでなく、その根本にさかのぼって考え、それによって生きようというのです。 それは、例えば、人間の生活が死んで終わることを、ほんとうに知ることであります。
現在迫っている危機というのは、キリスト者であるがゆえに様々に受ける困難ということでもありましょう。信仰者がいつも見つめておらねばならない、人間としての危機ということでありましょう。
しかもそれは、死がある、というような、おどすようなことを言っているのではなく、私たちが、神のごらんになっているところで生きている、ということなのです。
この激しい人間の生活の中にあって、人の目を気にしながら生きるのでなくて、神の目をおそれて、生きるのであります。それであれば、人間の生活は、いつでも危機にさらされているようなものであることが、分かるのであります。
そういう中において生きるのは、現在にとどまっているということです。今、与えられているままを、神から与えられているものとして、生きるように、ということであります。
信仰生活というものは、誰よりも精進して生きる生活であります。それと同時に、今あるこの生活を、神から与えられたものとして、すべてを神に委ねた生活をすることである、ということです。
パウロの時代、もっとちがった問題もあったでしょう。
結婚について語る時も、彼はまずこの事を告げたかったのではないでしょうか。
パウロ自身は、すでに見てきましたように、どちらかと言えば独身でいることの方に関心があるようでありました。しかし、そのことを、しいて勧めようとはしないのでした。
基本的に大切なことは、キリスト者として守っていかねばならない、と思ったでありましょう。
だから、パウロの対する考えと言えば、結婚生活の中で、いかにして信仰を守りつづけるか、ということになるのではないかということです。
パウロはここで、結婚論を語っているわけではありません。教会内からの質問に答えつつ、いろいろな悩みがあるにもかかわらず、よい結婚が大きな祝福である、とまで説明しようとしません。
ただ27節、28節を見ますと、結婚することは罪になるでしょうか、ということが書かれています。恐らく質問者がきいていたからでしょう。それで28節に「おとめが結婚しても罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。」と言っています。これが具体的な意見であります。
結婚ということは私たちの生涯をかけた大きな事であります。だれでもそれによって幸福を得たい
と願うのであります。それなのにパウロは、あっさりと率直に言っています。「結婚したらその身に苦難を受けるであろう。」だから独身がいいよ、と言いたげです。ある人は「結婚は人生の墓場である。」といったりもします。それらはみな、楽しい夢を見て結婚したのに、その楽しさは予想とちがってしまった、ということでしょう。
パウロはそういう意味で言っていません。又、同じようなことでありますが、家庭生活の苦労を考えて、結婚の苦しみを語ろうとします。
楽しい夢だけを追って、結婚しようとする若い人たちに、結婚が容易でないことを告げて、警告する人はいくらもあります。考えてもみて下さい。幼い頃から、全くちがった環境で育った二人が、結婚と同時に共同生活をすることには、困難があることは、誰でも分かるはずのことであります。パウロが特にどういうことを言おうとしたかは分かりません。
パウロは、ここでむしろ先に見ましたように「時が縮まっている」ことを強調しようとしています。
「今からは、妻のあるものは、ない者のように、泣く者は、泣かない者のように、喜ぶ者は、喜ばない者のように、買う者は、持たない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜならこの世の有様は過ぎ去るからである。」と言っております。このことなら誰にも分かることのようでありながら、本当は、よく分からないのではないでしょうか。このことをだれも否定することはできない。そうしたことをしっかりと知っておかねばならない、と言いたいのではないでしょうか。
このように言う事は、悲観的なことを考えなさい、ということではありません。この世のことは、みな去り行く。しかし、去り行かないものがあるのであります。それをもととして、生きなければならないのであります。
それは神によって生きることであります。なぜなら、神によって生きる生活こそは、動くことのない、変ることのない生活だからであります。
パウロは決して、悲観的なことを言おうとするのではなくて、何としてでも、神によって生きて行ってほしい、神を喜び、神を楽しむ生活をしてほしい、と言いたいのであります。
結婚も又その1つの生活である、とパウロはいうのです。
それならば、そういう生活はどのようにして神を喜ばすのか、ということが大切になってきます。信仰生活というのは、神を喜び、神を喜ばせる生活であります。それは、結婚生活においても同様であります。むしろ、結婚生活においてこそ、これが問題になるのであります。
結婚生活において、自分だけの生活を何とか主張しようとすることは、もはや論外です。そういうことができるわけもありません。そうではなくて、いかにして、神をお喜ばせするか、ということこそ、もっとも大事なことであります。
それが又、結婚生活において、もっとも難しいことであることを、パウロはよく知っていました。
32節以下ー35節のところで大事なことは、思いわずらわない、ということです。
独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣う。結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う。心が二つに分かれてしまいます。
今度は女性のことについても同じようなことを言っています。
独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣う。結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
33節で「その心が分かれる」と言っています。心が分かれる、というのは、思いわずらうことです。
思いわずらうことは、最も不幸なことです。
パウロはこのように言ったあとで、35節に「このように私が言うのは、あなた方のためを思ってのことで、決して、あなた方を束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」と書いていますね。
とてもいい事を言っています。主なる神をお喜ばせする生活は、結婚生活をつまらなくするものではありません。神を喜ばせようとする者こそ、夫を喜ばせ、妻を喜ばせすることができるのであります。 アーメン・ハレルヤ
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日はキリスト教会のカレンダーでは、1月に始まった顕現節が終わって、イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたルカ9章の他に、マルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。
少し教会史の話をしますと、かつてキリスト教会ではイースターの前の40日間は断食をするという伝統がありました。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるかのかは調べていないのでわかりません。ことの始まりですが、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだったということが重く受け止められた、それで特にイースターの前は彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間に来る6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がり、イースターの前7週目の水曜日となりました。今度の水曜日です。それで本日は断食前の最後の主日、次主日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」は唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えて、イエス様の受難を身近に感じるようにします。
話が少し脇道にそれますが、この断食の期間は普通、「四旬節」とか「受難節」とか呼ばれます。英語では「レント」です。面白いことにフィンランドやスウェーデンでは今でも文字通り「断食の期間」という言葉を使います。もちろん、両国ともルター派教会が主流の国なので、何か修行や業を積んで神に目をかけてもらうとか救いを頂くというような考えは全くありません。ルター派の基本は、人間の救いとはイエス様を救い主と信じる信仰にのみ基づくというものだからです。カトリック時代の呼び方が修正されずにそのまま今でも続いているということです。それでも、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。例えば牧師の中には、この期間は嗜好物を遠ざけるとか、好きなテレビ番組を見ないようにするとか、何か当たり前の日常から少し自分を切り離すようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。
話が脇道に逸れたついでに、フィンランドやスウェーデンでは、「断食の期間」に入る前1、2カ月位前からでしょうか、ラスキアイスプッラ/セムラと呼ばれる菓子パンが全国どこででも、パン屋でもスーパーでも喫茶店でも売られます。ちょっと鏡餅みたいな形をした焼きパンの間にジャムとこってりした生クリームをたっぷりサンドイッチした伝統的な菓子パンです。当スオミ教会の料理クラブでも作ったことがあるそうですが、これは「断食の期間」の前に少し贅沢に美味しいものを頂いて、あとは厳粛に過ごそうという趣旨のものだそうです。近年フィンランドやスウェーデンは教会離れ・聖書離れが急ピッチで進むご時世ですが、それでも「断食の期間」が始まると、この菓子パンは店頭からパタッと姿を消します。
四旬節の元にある断食の伝統の話から少し脱線してしまいました。早速、本日の御言葉の解き明かしに入りましょう。このイエス様の変容の出来事は幻想的であり劇的でもあります。出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われます。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。
さて、ヘルモン山の上で何が起こったでしょうか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れて、イエス様と話し合う。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。イエスは私が選んだ、私の愛する子である、彼の言うことを聞け、そう神は言います。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられました。周りの様子は、頂上に着いた時と同じに戻りました。
この個所を読まれて、皆さんはどう思われたでしょうか?そんなに難しいことは書いていない、書かれてあることは具体的ですぐ理解できると思われたのではないでしょうか?聖書にはこういう出来事が書かれているんだなとわかって、また一つ知識が増えました。でも、それで書かれていることが分かったことになるでしょうか?もちろん、いつ、どこで、だれが、なにを、どのようにという質問に答えられる位はわかります。しかし、この話は一体なんなのかということはまだわからないのではないでしょうか?モーセとエリアが出てきたのは何なのか?ペトロが言った仮小屋とは何のことか?なぜ三人に仮小屋が必要と考えたのか?さらに、雲が出てきたことや、神がイエスの言うことを聞けと言ったことは何なのか?こうしたことがわからないと、ただ書かれた字面を追うだけで終わってしまいます。
そういうわけで、これからこの謎めいた出来事を本日の聖句の解き明かしを通してわかるようにしていきたいと思います。
最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみましょう。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?モーセとエリアの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかということについて聖書が教えていることをおさらいします。聖書の観点では、人間はこの世を去ると、神の国に迎え入れられるかどうかの決定を受けます。ただし、その決定がなされるのは、イエス様が再臨してこの世が終わりを告げる時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地が新しい天と地にとって替わられるということです。神の国に迎え入れられるかどうかの決定は既に死んでいる者たちにも及ぶので、その時には死者の復活ということが起きます。そのようにして、迎え入れられるかどうかの決定がなされるのです。そうなると、先にこの世を去った人というのは、ルターが教えるように、復活の日が来るまで神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っています(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。
そうかと思えば聖書には、将来の復活の日を待たずして既に神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターも、そのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセは、その例と考えることができます。というのは、エリアは、列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。本日の旧約の日課である申命記34章1ー12節に死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(6節)。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。これはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しなければなりません。
次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を立てましょう、と言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。
あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬことになると言われます(18ー23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだっと言えます。
そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。
「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。
そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったというのが正確な意味です(後注)。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいい、と言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められました。なぜでしょうか?
それは、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。
人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すことになって神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神から切り離された状態で生きることとなり、この世を去った後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間が罪を除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす十戒の掟があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たすものというより、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。
そこで神は、それができない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?
神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が背負うべき罪の罰を全部彼に背負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この犠牲のおかげで、人間が神罰や罪の束縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありませんでした。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が準備した「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。
このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、しっかり携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになれる。全身が輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、「救い」を受け取った段階で心の中が輝き出す、ということを使徒パウロは本日の使徒書の日課の中で言っています(第二コリント4章6節)。それで、この世を去る時が来ても、神に自分を委ねても大丈夫だ、神の方でもしっかり自分を受け取ってくれるのだ、とわかって委ねることができます。そのような確信に満ちた安心を私たちに与えて下さるためにイエス様は受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかかられたのです。
ペトロが建てると言った「仮小屋」と雲の中から轟いた神の声についてもみてみましょう。「仮小屋」とは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言い、それは旧約聖書に出てくる神に礼拝を捧げる「幕屋」と同じ言葉です。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことでした。しかしながら、ペトロの提案には問題がありました。というのは、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。確かにモーセは、十戒をはじめ神の掟を神から人間に受け渡した預言者の筆頭格です。エリアも、迫害に屈せず生きざまを通して神の意志を公に表し続けた偉大な預言者です。しかし、イエス様は神の子そのものであり、神の意思である十戒そのものが完全に実現した状態の方です。また、預言者たちの預言したことが成就した方です。それなので人間と同等に扱ってはいけません。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天地創造の神の一声で一蹴されてしまいました。「これは私が選んだ、私の子である。彼の言うことを聞け」と。
ペトロはどうしてイエス様をモーセとエリアと同格に扱ってしまったのでしょうか?一つ考えられるのは、三人がみな栄光に包まれていたことがあります。31節で、モーセとエリアが「栄光に包まれて現れ」と言われ、32節に「栄光に輝くイエス」と言われています。しかし、これもギリシャ語原文をよく注意してみると、モーセとエリアの場合は、栄光は自分たちから輝き出ているのではなく神からの栄光で輝かせてもらっていると理解できる表現です。イエス様の場合は、輝きが「彼自身の栄光」によるものとはっきり言う表現です。つまり神と同じように自ら輝く栄光を持っているということです(後注)。
弟子たちは、イエス様の変容の出来事を誰にも話しませんでした。マタイとマルコの記述によれば、イエス様が十字架と復活の出来事が起きるまで話してはならないと命じたと言われています。私が思うに、イエス様がかん口令を敷こうが敷くまいが、この出来事について弟子たちの驚きと混乱はかなりのものだったので整理がつくまでは話すことが難しかったのではないかと思われます。どうしてかと言うと、この出来事のおかげで、イエス様が何者であるか全くわからなくなってしまったからです。イエス様に付き従った人々は、直近の弟子たちも含めて、イエス様のことをユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放して、全世界が天地創造の神に立ち返ってエルサレムの神殿にお参りに来るようにしてくれる、そういう民族解放の英雄と考えていました。どうしてそのように考えたかと言うと、旧約聖書の預言を自民族の夢や願望を通して解釈したからです。
ところが、ヘルモン山に登る前にイエス様は弟子たちに突然、自分の受難と復活について預言し、弟子たちはなんのことか理解できず混乱します(マタイ16章21ー23節)。山の上でもモーセとエリアはそのことについて話をしました(ルカ9章31節)。さらに、イエス様のことをモーセとエリアと同格な方と思った瞬間、それは違うと一蹴されてしまいました。これは一体何なのだ?一体これから何が起きるのか?イエス様が殺されてしまったら、民族解放と諸国民のへりくだりという世紀のプロジェクトはどうなってしまうのか?死から復活するなどと言われるが、それがプロジェクトと何の関係があるのか?ところが、天の父なるみ神が計画していた「解放」とは実は、人間の罪と死からの解放であり、それをひとり子を用いて実現したのでした。このことがわかるのは十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。
さて、当時出来事の只中にあった弟子たちとは異なり、私たちはこれらのことを事後的に知っています。兄弟姉妹の皆さん、これから四旬節を迎える私たちは、イエス様の受難と復活をもう分り切ったことと教会の年中行事のように受け止めるのはやめましょう。今一度それを身近なものにしましょう。それを身近にすることで自分の命の立ち位置を確認できます。つまり、今の自分の命は、神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかって、それは尊いもの、大事にしなければならないものとわかります。愚かなこと軽はずみなことは出来なくなります。では、どのようにしてイエス様の受難と復活を身近なものにするか?断食をするか?ここで注意しなければならないことは、私たちには神から与えられた立場やそれに伴う課題があるということです。それらをないがしろにするような「身近さ」の追い求めはいけません。断食をしても、日常の立場と課題をないがしろにしなければ良いのですが、それは実際には難しいのではないでしょうか?日常の立場や課題に取り組む時、今ある命は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていることを普段以上に覚えて取り組めば、どこを目指して行けばよいかわかってきます。その時、立場や課題は神から与えられたものということもはっきりします。このような循環に入れる者はイエス様の受難と復活が身近になったと言うことが出来ます。
兄弟姉妹の皆さん、今の命がイエス様の犠牲の上に成り立っていることをよく覚えて今年の四旬節を迎えましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ルカ9章34節は、εντωεισελθειναυτουςειςτηννεφελενと言っているので、明らかに「雲が彼らを包む」ではなく、「彼らが雲の中に入る」です。
モーセとエリアの栄光については、οφθεντες εν δοξηと言い(31節)、イエス様の栄光については、την δοξαν αυτουと言っています(32節)。εν δοξηですが、イエス様に用いられるとεν τη δοξη αυτουなどとαυτουが付きます(マタイ25章31節)。
説教準備の終わりの段階になって、33節のδιαχωριζεσθαιがなぜ現在形でアオリストでないのかが気になりだしたのですが、時間切れでした。また次回に考えることにします。
主日礼拝説教 2019年2月24日顕現節第八主日
皆さんは、本日の福音書の個所を読まれて、どう思われたでしょうか?百人隊長の部下が重い病気で死にかかっていたのをイエス様が癒す奇跡を行ったことです。百人隊長というのは、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国の軍隊の部隊の隊長です。名の通り百人の兵隊で構成される隊です。出来事の舞台はガリラヤ湖畔の町カファルナウムなので、そこに駐屯していた隊でしょう。日本語訳では「部下」ですが、兵隊ではなく、隊長の僕、召使いです。占領軍の将校である隊長はユダヤ人ではありません。しかし、興味深いことに、彼はユダヤ人に好意的です。礼拝堂を建ててあげるくらいユダヤ人を愛していたというのは、もう旧約聖書の神を信じていると言ってもいいかもしれません。使徒言行録に「神を畏れる人」とか「神をあがめる人」という、割礼を受けて改宗はしていないが天地創造の神を信じる人たちが多く登場します。百人隊長もその一人だったのでしょう。ユダヤ人と近い関係にあるので、ユダヤ人の長老たちをイエス様のもとに送りました。長老たちはイエス様に、百人隊長は助けてあげるのに相応しい人物だと推薦しました。
さらに興味深いことは、百人隊長がイエス様のことをとても畏れ多く感じていて、イエス様が家の近くまで来た時、友人たちを使いに出して自分に代わってイエス様に代弁させます。私の家はあなたをお迎えできるようなところではありません、だからと言って、私から外に出てあなたの面前に立つ資格もありません。どうしてそんなに畏れ多いのでしょうか?旧約聖書ではユダヤ民族が神に選ばれた民、その他の諸国民は「異邦人」という区別がみられます。占領されたとは言え、自分たちは神聖な民という自負があり、他の民族は汚れていると考えます。それで、旧約聖書の神を畏れるようになれば、ユダヤ民族に一目置くようになるだろうし、ましては、今や奇跡の業と権威ある教えで天下に名をとどろかせているイエス様には簡単には近づけないでしょう。
それでは、肝心の部下の癒しはどうなるでしょうか?百人隊長は使いの者たちに言わせます。あなたが今いる場所からひと言おっしゃって下さい。日本語訳では、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」つまり、あなたが今いる場所からひと言おっしゃてください、その場から奇跡の業を起こして下さい、ということになります。
やりとりの続きを見てみます。百人隊長の言葉は次のものでした。自分は上官の権威の下に置かれている者だが、同時に、自分の権威の下にも兵隊や部下がいる。彼らに「行け」と命じれば、言葉通りに行くし、「来い」と命じれば、その通りに来る、「これをしろ」と命じれば、その通りにする。これを聞いたイエス様は驚き感心して、これほどの信仰はイスラエルの中でさえ見たことがないと言われます。そして、使いの者たちが隊長の家に戻ると部下はすっかり元気になっていました。イエス様が特に癒しの言葉を発することなく、奇跡が起こったのです。
皆さんは、このイエス様の感心の言葉を聞いて、どう思われるでしょうか?命令したら有無を言わずに従う、そのように振る舞うことを信仰の見本と言っているのでしょうか?そうだとすると、なんだか教祖や教団指導者の言うことを何の疑いも躊躇もなく実行できることが大事で、出来たらご褒美として癒しや願いも叶えられると言っているみたいではないか?なんだかカルト集団のマインド・コントロールみたいではないか?そう気味悪がる人も出てくるのではないでしょうか?ところが、ここは目をよく見開いて読めば、信仰や宗教の名のもとに人間をロボット化することが言われているのでは全くないことがわかります。それでは、イエス様を感心させた百人隊長のこの言葉は一体何なのか?それを初めに見ていきたいと思います。
ルカ7章7節にある百人隊長の言葉は日本語訳では、「ひと言おっしゃてください。そして、わたしの僕をいやしてください」となっていました。前半の「ひと言おっしゃって下さい」はイエス様に対する命令文でギリシャ語原文もその通りですが、後半部分の「私の僕を癒して下さい」は注意が必要です。ギリシャ語原文では「僕を癒して下さい」などとイエス様に対する命令文ではありません。正確には、「私の僕が癒されんことを」とか「私の僕が癒されますように」という意味です(後注)。少し脇道に逸れますが、スウェーデン語訳の聖書はこれに沿った訳でした。英語とドイツ語とフィンランド語訳の聖書は、「ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、私の僕は癒されるでしょう」でした。これはギリシャ語の文の訳としては正確ではないのですが、イエス様と百人隊長のやり取りにヘブライ語やアラム語の背景があることを考えると、この訳も可能性があります(後注)。ただし、ギリシャ語の文章をアラム語に逆翻訳するのはリスクを伴う解釈方法なので、ここはギリシャ語原文を素直に見ていきます。従って、「ひと言おっしゃってください。それで僕が癒されますように」です。
そうなると日本語訳のような、今いる場所から癒しの奇跡を行って下さい、その場所からなんとかして下さい、というイエス様に対するお願いはなくなります。イエス様に対するお願いは、「ひと言言葉をかけて下さい」に絞られます。言葉をかけた結果、癒しが起きますように、と天のみ神に委ねるのが後半部分の意味です。(マタイ8章8節にも百人隊長の言葉がありますが、ルカと少し違っています。しかし、本説教では違いがどうのこうのという話題に入らず、ルカに専念します。)
その次に百人隊長の命令と服従の話が来ます。これはマインドコントロールの模範例を述べているのではありません。命令に対して服従するのは、服従する者が命令する者の権威の下にあるからだという当たり前のことを言っています。それを言ったのは、イエス様が言葉を発すれば病気が治る、つまり、病気はイエス様の権威の下にあるということを明らかにするためです。このことは、イエス様が他の所でも行った奇跡も当てはまります。病気に治れと言えば治り、悪霊に出て行けと言えば出ていき、嵐に静まれと言えば静まる、こうしたことが起こるのは、あらゆることがイエス様の権威の下にあるということを百人隊長は証言しているのです。自分も軍隊組織の指揮系統の中で上位の権威の下にあるし、同じように自分の部下も自分の権威の下にある。だから、病気も悪も自然現象も含めて全てのものがイエス様の権威の下にあるというのはどういうことか、経験から身に染みてわかる。それで、イエス様が病気に対して何か言えば、その通りになる。イエス様の権威はそういうものだと信じていると述べたのです。
これは、まさに信仰告白です。百人隊長が告白した信仰は、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同一扱いする信仰と言ってよいでしょう。これに対して当時の人たちは、確かにイエス様が癒しの奇跡を行える方だと知っていて癒しを受けるために群がりましたが、彼らの理解はせいぜい、イエスは神から不思議な力を授けられた預言者というものでした。百人隊長は、軍隊での権威関係を比較対象にして、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同等に見なす信仰を言い表したのです。神から力を頂いて何かをするというのではなく、神そのものと見なしたのです。そこが他の人たちとの違いでした。イエス様が、イスラエルの民の間でもこんな信仰は見たことがないと言った意味はこれです。
以上のような次第で、百人隊長の命令と服従の話は、ロボット人間になることが優れた信仰の持ち主になることだとか、その褒美に癒しや奇跡をしてもらえるのだというようなことを述べているのではないことが明らかになったと思います。イエス様が全ての上に立つ権威を持つ方であることを信じて告白したのです。
ここで一つ疑問が起きます。百人隊長の場合は、信仰を告白して癒しの奇跡が起きました。イエス様を救い主と信じる私たちの場合はどうでしょうか?キリスト教の伝統的な信仰告白に従って、イエス様を神の子、メシア救世主であると信じて告白して重い病気が治るでしょうか?もちろん、治る場合もあるでしょう。治ったのが明らかに良い医療と治療が与えられた結果でも、キリスト信仰者は天地創造の神の導きがあったと考えます。信仰者でない人は、良い医療と治療が得られたことを神の導きなど出さないで、運が良かったとか医学の進歩のおかげとか言うでしょう。違う宗教の人ならば、その宗教の神とか教祖のおかげと言うかもしれないし、先祖の霊のおかげと言うかもしれません。キリスト信仰の場合、医学の進歩のおかげを認めても、神の導きのおかげで医学の進歩に与れたと考えます。さらに、良い医療と治療がなかったにもかかわらず、奇跡としかいいようがない仕方で治った例もあります。それらの中には、ひょっとしたら後になって医学的にメカニズムが解明できるものがあるかもしれません。その場合でも、神の導きのおかげと考えます。
そこで難しい問題になるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて祈っているにもかかわらず、願った結果が得られない場合です。そういう時、治った人には神の導きがあったのに、自分にはない、神は自分に背を向けているのか、という気持ちになります。さらには、じゃ、こっちを向いてくれるために何かしなければいけないのかという思いにとらわれることもあります。実はこの問題は本日の使徒書である「ガラテアの信徒の手紙」で扱われる問題に少し関係してきます。パウロが宣べ伝える福音と異なる「ほかの福音」というのは、神の目に義と見てもらえるためにはイエス様を救い主と信じる信仰だけでは不十分だ、律法の規定を守らなければそう見てもらえない、と教えるものでした。パウロはこの手紙の中で、神の目に義とされるのはやはり信仰によるのであると論証していきます。
パウロの教えに基づいて言うならば、キリスト信仰の真髄は次のようなものになります。イエス様の十字架の死によって人間の全ての罪の償いが神に対してなされたということ。それで人間はイエス様を救い主と信じる信仰によってこの罪の償いが生きたものとなり、罪が赦された者となって神の目に義とされるということ。こうして、神との結びつきを壊していた罪の問題が解決し、人間はその結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神への感謝から愛する心を持って生きられるようになるということ。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻ることができるようになるということ。これらに尽きます。罪の赦しの救いを受け取るためには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取りは完了。あとは、聖餐のパンと葡萄酒で受け取りを固めて信仰告白と祈りに生きていけばよいのです。救いは、このように受け取りに徹することで持てるものなので、何かをして褒美にもらえるというものではありません。
ところが、病気が治りますようにと、決して自分勝手なお祈りをしているわけではないのに願い通りにならないと、なぜ?という疑問が出てきます。イエス様を救い主と信じる信仰にいる限り、次の世まで神に守られて進んでいけるとわかっていても、なぜこんなに痛い思いをして苦しまなければいけないのか、なぜそれは延々と続くのだろう?そうことになると、「罪の赦しの救い」という救いは、現実の問題とどんな関連性があるのかと疑わざるを得なくなってきます。
私のある知り合いのキリスト信仰者が人生の大半をそのような苦しみの中で送られているのですが、ある時知り合いのクリスチャンに「あなたの苦しみは神の国に入れるために必要なことだ」と言われて疑問を抱いたとおっしゃっていました。確かにイエス様は各自は自分の十字架を背負いなさいと言ったので、その痛み苦しみがその方の十字架だと意味して言ったのでしょう。しかし、ここは注意が必要なところです。痛み苦しみは神の国に入れるための条件であるとか、そのためにしなければならない修行という意味だったら、それは違うでしょう。神の国に迎え入れられるためには、イエス様を救い主と信じる信仰以外に何の修行も業績もいらないというのがキリスト信仰だからです。そうすると、医療や治療や周りの人に支えられて出来る限り苦痛を取り除いて健康に近づけるように努めることは修行や十字架の否定にはなりません。まさに神の導きの中で行われるものです。苦しみそのものが背負うべき十字架ではなくて、苦しみを取り除くため健康に近づけるようになるための戦いが背負うべき十字架というのが正確でしょう。どんなに小さな助けや改善も神の導きの現れです。さらに、その人のために執り成しの祈りがなされれば、神に対してへりくだる心がこの世に一つ生まれることになります。この世で利己的な心と無関心が一つ減ることになります。これも神の導きです。
全てのことが神の導きの中で行われるということになるためには、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって神との結びつきを保たなければなりません。それを保つことが出来るためには、自分はこの世を突き抜けて次の世まで至る神の導きの中にいるのだ、痛みや苦痛があっても神の導きや結びつきは微動だにせず、痛みや苦しみがあっても自分はそういうものに繋がっているのだ、と覚えることができないといけません。
そういうことを覚えられるためには、神の導きや結びつきは痛みや苦しみがあってもなくてもいつも身近にあるということを知らないといけません。痛みや苦しみが現実のものならば、神の導きと結びつきも同じくらい現実のもの、否、そっちの方が本当の現実と言えるくらいのものである、ということを知ることができないといけません。そういうことがわかるようになるのが信仰生活が目指すことではないかと思います。目には確かなものに見えるこの世の現実と確かなものに見えないが本当はもっと確かなものである神からの現実。この二つの現実の中で生きるのが、イエス様を救い主と信じて神の子とされた者たちの生きることではないかと思います。
そういうわけで私は、説教者の使命とは、神の導きと結びつきは本当の現実なんだということを聖書の御言葉の解き明かしを通して知らせることであると考えます。
神の導きと結びつきは本当の現実であると知らせるのが説教者の使命と申したのですが、本説教では肝心なこの知らせることをまだしていません。最初に百人隊長の信仰告白について述べて、次にこの使命を提起しただけです。それでこの知らせることをしなければいけません。本日の旧約の日課である列王記上8章の解き明かしを通してそれが出来るでしょうか?ちょっとやってみましょう。
列王記上8章はユダヤ民族の三代目の王ソロモンがエルサレムに神殿を建設して、そこで集まった国民の前で神に祈りを捧げる場面です。イエス様の時代からさらに1,000年程遡った昔のことです。22節から53節までが祈りの言葉です。いろいろな祈りがありますが、大まかに言うと、イスラエルの民が何か罪を犯して困難に陥ったら神殿で赦しを乞う祈りをしますので聞いてください、というものです。本日の日課の41ー43節は祈りの内容が他の祈りと違っていて、イスラエルの民でない別民族の者が神殿に来て祈ったら、それも聞き遂げて願いを叶えて下さいという祈りです。
このソロモンの長い祈りの中で興味深いことは、神に祈りを聞き遂げて下さいとお願いする時に、「あなたのお住まいである天にいまして耳を傾けて下さい」と繰り返し言っていることです。中には「あなたのお住まい」が省略されて「天にいまして」だけのものもありますが、全部で8回繰り返されます。本日の日課の中にもあります(43節)。8回のうち、30節にある最初のものが完全な文で、あとは「あなたのお住まい」がなかったり、前置詞が省略されていて完全な文ではありません(ヘブライ語の原文で見ています)。30節にある完全な文を見て、正確な意味をわかるようにしましょう。日本語訳の「あなたのお住まいである天にいまして」は正確な訳ではないと思います。というのは、祈りの初めのほうでソロモンは「天も天の天も神を納めることができない」と述べているからです(27節)。天に納まりきれない方がどうやって天を住まいに出来るのでしょうか?正確な意味は、「天の上にいまして、王座に座っていらして耳を傾けて下さい」です。「天の上」とは文字通り、天の上側です。天を下に見下ろすところです。つまり、神は天を超えたところにおられるのです(後注)。
天を超えたところとは、どこにあるのでしょうか?雲一つない青空を見て、神はあの青い広がりの向こうにおられると考えたとします。しかし、私たちは青い広がりの向こうには宇宙があると知っています。夜になって青い広がりが無数の星が散りばめられた透き通るような黒板に入れ替わります。あの中のどこに神はおられるのかと考えても意味がないでしょう。というのは、神のおられる天を超えたところとは、私たちの目で確認したり、数値・数式をもって計測・測定したりする宇宙空間とは全く別の世界だからです。ハヤブサ2号が3,4億キロ飛んで小惑星リュウグウに到達し、NASAのロケットは太陽系外の惑星を探し求めて飛び続けています。そのように目で確認でき計測や測定できる対象は常に拡大していきます。しかし、神のおられるところには実にあの透き通った黒板世界の上側と言っていいのか、外側と言っていいのか、反対側と言っていいのか、裏側と言っていいのかわかりませんが、超えているのです。
そんなところにおられる神のためになぜソロモンは神殿を建てたのでしょうか?ソロモン自身、神は地上には住めない、神殿など住む場所に値しない、と言ったではありませんか(8章27節)。それは、神に祈りを捧げるための場所であり、祈りを捧げる者が神の目に相応しくなるために罪の償いの儀式をする場所でした。それで神殿には神の像などないのです。像など作って置いたら、拝んでいるうちにその像が祈りを捧げる相手になってしまうでしょう。ところで、神殿の中には、「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、そこは大祭司が年に一度、自分の罪と民全体の罪を償うために動物の生贄の血を携えて入ることが出来ました。「至聖所」はそれくらい神の神聖さに満ちて畏れ多すぎた場所でした。そこは、天を超えた世界と天の中にあるこの世界が遭遇する場所だったと言ってもいいでしょう。
しかしながら、神がこの世に贈られたひとり子イエス様の十字架上の犠牲の業がなされたために、神殿を通しての罪の償いは不用になりました。人間すべての罪の償いを、毎年捧げる動物の生贄の血なんかではなく、神聖な神のひとり子の流した血によって未来永劫に果たしてしまったのです。イエス様自身、御自分の十字架と復活の業の後に神殿ががれきの山になると預言していました。果たしてそれは西暦70年ローマ帝国の大軍がエルサレムを破壊した時にその通りになりました。それならば神はなぜ、不用になる神殿などを長い歴史の間認めていたのでしょうか?それは、「ヘブライ人への手紙」にも記されているように、将来イエス様を通して人間の罪からの贖いが完全に実現することを前もって模倣するものでした。現物に比べたらあまりにも小さな模倣でした。ユダヤ民族がそのようにすることで人間は大切なことを教わりました。それは、天地創造の神と結びつきを持てて見守ってもらうためには、自分の罪を覚えなければならないということと、それを何らかの形で償わなければならないことを教わったのです。人間と天地創造の神との関係はこういうものだということを。しかし、イエス様が完成品を出して下さったので、人間は神との結びつきと見守りを得るために小さな模倣品に頼る必要はなくなりました。
さらにイエス様は死から復活させられました。それで、死を超えた永遠の命に至る道が人間の目の前に切り開かれました。それは天地創造の神の御許に至る道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると早速この道に置かれて、神との結びつきと見守りのうちにこの道を進んでいきます。あの青い空を超えたところ、またはあの透き通る黒板を超えたところにおられる方が、本当なら神聖な御前に立つことなど許されなかった私たちなのに、まさにひとり子の十字架と復活の業おかげで、御前に立つに相応しいものにして下さった。そうなると私たちはもう既に、神のもとに迎え入れられたも同然です。このように私たちは言わば、御許への迎え入れを先取りしたような状態でこの世の道を進んでいます。それなので、神が私たちのことを見守って下さり、祈りを聞いて下さっているというのは本当としか言いようがなく、私たちにとって現実なのです。
後注)(ギリシャ語とヘブライ語とアラム語がわかる方にです) ルカ7章7節「私の僕が癒されんことを」とは、三人称単数の命令形のことです。ヘブライ語とアラム語の背景というのは、ヘブライ語のjussiv+imperfectの連結があると考えると、命令+目的・結果の意味になるということです。アラム語に同じものがあるのか確認したかったですが、手持ちの教科書はF. Rosenthalの薄いもので役に立たず、大学時代に使ったS. Stanislavの参考書は手元になく確認できません。列王記上8章30節は、H.S. Nybergの参考書(北欧で権威あるヘブライ語参考書)によれば、前置詞אלはעלと同じ意味で使われることがあるとのことでした。