説教「福音がもたらす喜びと倫理的課題」神学博士 吉村博明 宣教師、第一コリント9章16-23節

主日礼拝説教 2018年2月4日 顕現節第五主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の説教は、先ほど読んで頂いた第一コリント9章16節か23節までの解き明しに努めてまいりたいと思います。この箇所は、「福音を告げ知らせる」、「福音を伝える」、「福音のために」、「福音と共に」と福音という言葉が何度も出て来る福音尽くしの箇所です。本説教ではまず、福音がそれを聞いて受け入れる人に深い大きな喜びを与えることを見ていきます。次に、そのような福音が私たちに周りの人とどう接すべきかについて指針を示していることを、本日のパウロの教えから見ていきたいと思います。周りの人との関係で福音が示す指針を倫理的な課題と言っておきます。周りの人との関係で自由と責任ということが関わってくるからです。しかも、責任の果たし方として「仕える」ということが出て来ます。ただし、自由とか責任とか「仕える」と言っても、広い意味のものでなく、あくまでキリスト信仰の観点で見たものということをご了承下さい。

2.福音がもたらすもの - 福音の喜び

 この第一コリント9章でパウロは、福音を宣べ伝えるというのは自分にとって何なのか、について述べています。彼にとって福音を宣べ伝えるというのは、したいからする、というような自分の意思で行っていることではなくて、まるでロボットが命令されて行っているようなものであることが読み取れます。実は、そのように宣べ伝えることで福音の本質に迫ることができるのです。それについては後ほど見ていきます。

ここで、パウロが宣べ伝えなければならない福音とは一体何か、ということを見ておきましょう。これは以前の説教でお教えしたことですが、今ここで復習しておきます。「福音」という言葉は、原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言い、もともとは「良い知らせ」という意味です。「福音」というのは、「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせのものを言います。それで、特段の良い知らせである「福音」とはどんな良い知らせなのかと言うと、大体以下のようなものになります。

天地創造の神のひとり子であるイエス様が私たち人間のために十字架の上で犠牲の死を遂げられ、そのおかげで人間は神から罪の罰を受けないで済むようになった。そのイエス様を救い主と受け入れることで人間は神に受け入れてもらえるようになった。神に受け入れてもらえた者として人間は神から守りと導きを得てこの世を生きられるようになった。たとえこの世から死ぬことになっても、イエス様が復活されたように自分も復活して神の御許に引き上げてもらえるようになった。大ざっぱですが、以上が「福音」の内容です。

 福音というものは、深く知れば知るほど、また自分の人生、境遇、課題をよく見つめながら知れば知るほど、福音は大きい深い喜びを与えてくれることがわかってきます。これが福音のもたらす喜びです。実は、この喜びがあることをちゃんとわかっていないと、パウロが強制されたかのように福音の宣べ伝えを行っていることがどんなことか見えなくなります。この喜びを抜きにして、パウロが自分の意思でなくて命令されたロボットのように宣べ伝えをしているなどと言うと、なんだか宗教団体の勧誘じみてきます。何人勧誘しないと、教祖とか何とかの霊かに認められない、序列が上がらない、ひどい場合は罰せられてしまう、だから一生懸命勧誘しなければならない。そこに喜びがあるとすれば、それは目標を達成して教祖や霊に認められたり序列が上がったりした時です。パウロがしなければならないと言って宣べ伝える福音がもたらす喜びは、これは福音自体がもたらす喜びです。何か権威ある者に目をかけられた時に味わえる喜びなど全然意味を持たなくなるくらいの深い大きい真の喜びです。

 福音の喜びを、具体的にこういう喜びです、と言って示すことは難しいです。先にも言ったように、自分の人生、境遇、課題を見つめながら、福音を知れば知るほど、福音の喜びを持てるようになるので、人それぞれという面があります。みんなに共通してこういう喜びだというのは難しいですが、ここでひとつ例を挙げてみようと思います。うまく福音の喜びを言い表せるかどうか自信ありませんが、やってみます。マタイ18章でイエス様は、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の命の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命に与る方がよい」(8節)と教えています。この聖句をもとに二人の説教者AとBがそれぞれ次のような説教をしたとします。

 説教者A「ある所に有名なピアニストがいて、交通事故で片手を失ってしまった。一時は失意のどん底に落ちて、死ぬことさえ考えたが、周りの人たちの励ましや心遣いに支えられて元気を取り戻し、片手でも弾けるだろうかと試したところ、両手の時と異なるニュアンスや曲の解釈が表わせる、そんな弾き方が出来ることを発見した。懸命な練習の結果、以前より観客の賞賛を勝ち得るピアニストとして復活した。まさに片手でも命に与るということが起こったのである。」これは、聞く人に感動と希望を与える説教でしょう。

 説教者Bは次のような説教をしました。「イエス様はここで、人間の本質は天地創造の神の前ではどんなものであるかをはっきり述べられる。神聖な神の前では誰も「私は潔癖で」とは言えない。言える者は、自分自身を神と同じくらい神聖であると言うのに等しいからだ。神の前に出されて大丈夫と言えるためには、自分の罪に染まった部分を切り取るしかない。しかし、そんなことは不可能である。ところが、この教えを述べた本人が、自分を十字架の上で犠牲にして、人間がどこも切り取らないでそのままの姿で神の前に出られるようにして下さったのだ。手に罪の汚れがあっても、イエス様はその上に自分の神聖さをあてがって下さり、汚れが持っている力、人間に神の罰が降りかかるようにする罪の力を消して下さった。人間はイエス様を衣のように纏っている限り、神から何の罰も責めも受けないですむようになり、両腕で抱えられるように神に受け入れてもらえるようになった。」

 さて、どっちが福音の喜びをもたらす説教でしょうか?答えはBです。Aは確かに、聞く人を励まし力づけるものですが、別にキリスト教の説教でなくても話せます。ピアニストがクリスチャンの場合、神様の導きがあったとか、神様にお祈りをしてこうなったと言えば、話はキリスト教的になります。しかし、別の宗教であれば、導きを与えた者やお祈りの対象に聖書の神以外のものを当てはめればいいのだし、無神論者ならば、霊的なことは何も持ち出さずに、ピアニストの不屈の魂や周囲の人たちの支えだけを強調すればよいわけです。

 説教Bは、現実の困難の中にあって、それに関係した具体的な励ましや力づけを必要としている人が見たら、ちょっとかけ離れているものに聞こえるかもしれません。しかし、キリスト信仰者は、具体的な励まし、力づけはこのかけ離れているものと一緒じゃないと、物足りなさを感じるのです。パウロは、あちこちのキリスト信仰者に書き送った手紙の中で「喜んでいなさい!」とよく命じました。信仰者だって、悲しいことがあれば、もちろん悲しみますが、悲しみに全身全霊が覆い尽くされて身動きできなくなるような時、息が出来なくなるような時、そんな時でも、福音を受け取った者の内には、覆い尽くされない難攻不落の砦がしっかりとある。そこで深く深呼吸でき、両手両足を思いきり延ばすことが出来る。この失われることのない砦が福音の喜びです。

3.純粋、無償の福音

 以上、パウロが宣べ伝える福音は、深くて大きい、そして失われることのない喜び、福音の喜びをもたらすことがわかりました。そうすると、第一コリント9章でパウロが、自分は福音の宣べ伝えを自分の意思ではなく強いられて行っていると言っているのを聞くと、喜びを分け与えるようなな宣べ伝えは感じられません。福音のもたらす喜びの素晴らしさをわかっているパウロが、どうしてここではそんな風に感じられないかというと、それはパウロがここで取り上げている問題のためです。その問題とは、福音の宣べ伝えに対して自分は報酬を求めない、と言っているところです。

 第一コリント9章の中で、福音を宣べ伝える使徒たちには権利と呼ばれるものがあることが言われています。それは宣べ伝えた人が宣べ伝えられた人たちから衣食住の提供を受けることでした。この権利は、かつてイエス様が12人の弟子たちや72人の弟子たちを伝道に送った時に認めたことに由来します(例としてマタイ10章10節、ルカ10章7節)。パウロは、他の使徒がこの権利を用いることはよしとしても、自分は用いないことにしている、と言います。なぜでしょうか?

17節で「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」と言っています。少しわかりにくいので、ギリシャ語原文を注意しながらみていきます。「ゆだねられている務め」とは「管理を委ねられている」、「福音の管理を神に委ねられている」ということです。福音の管理とは、福音が神の望む形でしっかり保たれて、かつそのような形の福音が多くの人に受け取られるように宣べ伝えることです。神の望む形の福音とは、人間が神の前に出された時に大丈夫でいられるのは罪の赦しを受けているからですが、罪の赦しがイエス様の十字架の上での犠牲のおかげで与えられている、それ以外のものでは与えられない、これが神の望む形の福音です。もし罪の赦しが、人間が業を行って神に認められようとしたら、それはイエス様の十字架の犠牲を無にすることになってしまいます。父なるみ神としては、せっかくひとり子を送ってやったのに、台無しにするのか、ということになるのです。

このような人間の業や力が入り込む余地のない、まさに純粋な福音の管理を、パウロは委ねられてしまったのです。罪の赦しの救いというものは、全部神がひとり子イエス様を用いて実現してしまったので、人間としてはただただ受け取ることに徹しないと罪の赦しはその人に起こらないのです。受け取る以外には何もする必要はないので、人間にとってはタダの救いということになります。パウロは18節で次のように言います。「では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。」「福音を宣べ伝える私の報酬は何か?」と聞いて、答えが「無報酬で伝えることです」というのは、かみ合っていません。この部分を説明っぽく直訳すると、こうなります。「福音を告げ知らせる時、それを聞く人にとって費用のかからないものとして提供する(αδαπανον θησω το ευαγγελιον)、これが自分にとっての報酬である。その結果、福音に関しては自分は衣食住の提供を受ける権利を用いないのである。」

福音を聞く人にとって費用がかからない、無償のものとして福音を宣べ伝えるということなので、聞く人はパウロに衣食住の提供はしなくてもよいということなのです。これは、罪の赦しの救いは人間にとってタダであるという純粋な福音と見事に重なります。パウロにとって、福音が純粋な形で提供されること以上の報酬はないのです。

パウロは、衣食住の提供を受ける他の使徒たちが間違っているとか、彼らの宣べ伝える福音が純粋でないとかは言っていません。あくまで自分が神から受けた召命はそういうものである、福音が純粋な形で人々に提供されることに心を砕かなければならない、他の使徒は他のやり方があろう、という態度です。パウロの視点も大事ですが、教会の成長ということも考えなければなりません。伝道者がみんなパウロのように教会の人たちから何も支援を受けずに全部自腹を切って活動したら、教会の人たちはずっとお客さんのままで教会は育たない危険があると思います。もちろん、純粋な福音が宣べ伝えられて、教会員に福音の喜びが生まれれば、伝道者を支えるのが当たり前という気持ちになります。また、こんなに素晴らしい福音をどうして独り占めしていいのだろうか、、周りの人にも伝えなければ、そういう機運になります。そういう機運にない教会は、それは伝道者が純粋な福音を伝えきれず、福音の喜びを生み出せていないのか、または集まる人たちの耳と心が塞がれていて、純粋でない福音で良しとしていたり、福音以外のところから喜びを求めているかのどちらかです。両方あるかもしれません。いずれにしても、悪いのはどちらだ、という視点ではなくて、今一度福音とは何か、福音がもたらす喜びとは何か、自分はそれを持てているか、伝えているか、伝道者と教会員がお互いに自問する必要があると思います。

4.福音がもたらす倫理的課題

 パウロが福音を純粋な形、救いは完全に神の業という形で提供しようとして、福音はタダ、それで管理者の自分は誰からも何も受け取らない、という態度を貫きました。ここで、誰からも何も受けないという時、誰とも受ける与えるの関係を持たず、利害関係のない、全く自由な立場を得ます。19節に言われている通りです。ところが、自由だから、自分は何でも好き勝手にやっていくということにならず、「自由な者ですが」と言ったすぐ後で「すべての人の奴隷になりました」と言います。ギリシャ語の動詞は「奴隷」でも「仕える者」でもいいのですが、自分は自由で誰からも拘束を受けないぞ、と言った途端に、自分は全ての人にお仕えする者です、と言うのです。一体どういうことでしょうか?

これは、純粋な福音を人々に伝え、人が福音の喜びを持てるようにする、そのために自分を捧げる、ということです。天の父なるみ神がイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現して、それを全ての人に受け取ってほしいと望んでおられる。そこで、福音の管理を委ねられたパウロとしては、神の意思を実行するために自分を捧げなければならなくなったということです。このようにパウロにあっては、福音を純粋な形で提供しようとすることが自分を誰にも束縛されない自由なものにしました。それと同時に、純粋な福音が求めていること、多くの人に受け取ってもらいたいという神の意思があるために、受け取ってもらう活動をすることになりました。自由に責任が伴ったのです。しかも、その受け取ってもらうための活動は、強引な頭から押し付けるようなものではありませんでした。「仕える」と言っていますが、その中身は、宣べ伝える相手のもとに行き、その人の状況や立場をよく理解して、福音の受け取りの障害になっているものを取り除いてあげる、というものでした。宣べ伝える相手にとことん寄り添う姿勢です。その具体例として20節からユダヤ人云々が出て来るのです。それを少し見てみましょう。

20節「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」「得るため」というのは、ギリシャ語で「勝ち取る」という意味の動詞ですが、福音を受け取って福音の喜びを持てる者にするという意味です。同じ節ですが、ユダヤ人の次に「律法に支配されている人」が来ます。直訳すれば「律法の下に服している人」つまりユダヤ人です。最初の「ユダヤ人」と次の「律法の下に服している人」は同じグループの繰り返しなので、一緒に合わせて見ることにします。

「律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。」人間の救いに関するパウロの立場は、人間が神の前に出されて大丈夫とされるのは、守りきれない律法の掟を守ろうとすることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって大丈夫とされるのだ、というものです。それで、律法の下に服していない、と言うのです。ところがユダヤ人は、守りきれない律法の掟を守ろうとして神の前に大丈夫となろうとしている。それで律法の下に服してしまっている。そこでパウロは、ユダヤ人に対しては、神の前で大丈夫とされるのはイエス様を救い主と信じる信仰で十分なのだ、と呼びかけることに専念するのです。

21節「また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。」「律法を持たない人」というのは、ユダヤ人以外の人全部を指します。いわゆる異邦人です。日本人もアメリカ人もヨーロッパ人もアフリカ人もみんなこのカテゴリーです(もちろんユダヤ教に改宗していない人です)。パウロは「律法を持たない人のようになる」と言う時、但し書きとして「私は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っている」と言っています。これはわかりにくいですが、こういうことです。自分は律法を持っているが、それはユダヤ人が持っている持ち方ではない。イエス様を救い主と信じる信仰によって神の前に出されても大丈夫とされ、神に対してただただ感謝するだけである。感謝の気持ちから神の意思に沿うように生きるのが当たり前という心になった。神の意思は十戒の掟の中にあるが、それは救われるために守らなければならないものではない。イエス様のおかげで既に救われたので、神への感謝の気持ちが神の意思に沿うように生きようと心を持って行くのである。このようにしてパウロは、異邦人に対しては、イエス様を救い主と信じることで律法を持つことが出来るのだ、ただし、律法の持ち方はユダヤ人の場合と逆転するが、と言っているのです。ユダヤ人と違う律法の持ち方を「キリストの律法」と呼んでいるのです(ギリシャ語のεννομος Χριστουは「キリストのおかげで律法が内在化したこと」ということか?)。

22節「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。」「弱い人」というのは、先週の説教で取り上げましたが、異なる宗教の神殿に供えられた肉を食べることや神殿の宴で一緒に食事することを良しとしないキリスト信仰者を指します。コリントの教会にはそれとは反対に、そんなもの食べても痛くもかゆくもないという自信満々な信徒がいて、それに倣えない信徒をパウロは「弱い」と呼び、今後は彼らが躓かないために、自分もそのような肉は食べないことにすると宣言したことは先週見た通りです。彼らには間違いはなく、知識を持った信仰者たちの自信満々な振る舞いで良心が傷つけられるのを見過ごせなかったのです。

以上の具体例の後にパウロはまとめて言います。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」相手がどんな立場の人であれ、その人のもとに行き、寄り添い、その人の内にある、福音の受け取りを妨げている要因、つまり神の前に出されて大丈夫になれるのにそれを妨げている要因を把握し、それを取り除いたり、乗り越えて行けるように手助けする、それがパウロの伝道だったのです。私たちもキリスト信仰者として、福音がもたらす喜びの中で、自由、責任、仕えるということをもっと意識していくべきではないかと思います。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「聖書の頭の重いテーマ」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章 21-28節、第一コリント8章1-13節

主日礼拝説教 2012年1月22日 顕現節第四主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の聖書の日課の中で、特に使徒書の第一コリント8章と福音書のマルコ1章の箇所は頭の痛い箇所です。なぜかというと、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは真面目に取り上げるべきものではないと思う方が多いと思われるからです。じゃ、聖書に書かれていることは何なのか?作り話か、ということになるのですが、聖書の信ぴょう性は譲らない、という立場で見ていきますと、イエス様は悪霊追い出しをやった。これは聖書にある通りです。加えて、イエス様が弟子たちに悪霊追い出しの権限を与えて、弟子たちがそれを行ったことも聖書に記されている。そうすると、悪霊追い出しというのは、聖書に記録される位に明らかな事例ではあるが、関係するのはイエス様と弟子たちだけで、彼らの後の時代にはないと考えることが出来ます。

他方で、キリスト教会の伝統的な信仰告白で唱えられるように、イエス様は今生きておられ天の父なるみ神の右に座して、全てのものを治められている。それなので、かつての弟子に対するのと同じように、自分が良かれと思う者に悪霊追い出しの権限を与える可能性も否定できない。そうなると、自分がその権限を受けている、という人が必ず出て来る。また、キリスト教でなくても、自分は何々神、何々霊からそういう力を与えられた、という人は沢山いると思います。もし、そういう人が現れて、社会の中に共鳴する下地があれば、たちまち多くの人を惹きつけることになると思います。しかし、悪霊追い出しをする人が言うことは本当にその通りなのか、その通りかそうでないか、どうやって判別できるのか、判別できないと、コントロールできなくなってしまい収拾がつかなくなるのではないか?悪霊追い出しのテーマは、そういうやっかいな問題を伴っています。それで頭が重くなるのです。

しかし、本日の説教用に定められた聖句なので避けるわけにはいきません。本説教では、聖書の信ぴょう性は譲らず、かつコントロールが利かなくなるということはないように解き明しをしていこうと思います。

もう一つ頭が重くなるのは、使徒書の日課である第一コリントの8章です。キリスト教徒が偶像に備えられた肉を食べてもいいのかどうか、という問題です。コリントというのは、現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが書いた手紙の部分が本日の日課になっています。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派です。ギリシャ神話の伝統が根強い地域で、神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを神殿の祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。従って、食事に肉料理が出たら、この肉は宗教的儀式を経たものだ、ということは誰でも知っています。さあ、キリスト教徒は違う宗教に供えられて儀式的に扱われた食べ物を食してもよいのでしょうか?似たような問題は、キリスト教が少数派のところではどこでも生じてきます。私たちの住む日本ではどういうことが起こるでしょうか?

同じ第一コリント8章で使徒パウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の創造主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場に立つ人は、またキリスト教の独りよがりが始まった、と嫌な顔をするかもしれません。風変わりな奴だ、くらいで見てもらえれば何のこともないのですが、白い目で見られることもあり、それでこの箇所も頭の重くなるところです。でも、定められた箇所ですので、父なるみ神から知恵を祈り求めながら、解き明しに努めていくしかありません。

そういうわけで、本日の説教では悪霊とか偶像について話をします。説教題も初めは「悪霊と偶像」を考えたのですが、道行く人が掲示板を見てどんな顔をするかを考えたら、ちょっと刺激が強すぎはしないかと思い、それで前に掲げたものにしました。

2.偶像と異教の神々

 最初のテーマとして、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについての使徒パウロの考えを見ます。第一コリント8章です。ここでまず、偶像とはそもそも何かということを考えてみましょう。4節に「世の中に偶像の神などはない」と言っています。でも、世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロもギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っています。どうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?

これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる。神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר~)。立てた誓いが確実に行われることを言うために、神が確実に生きていることを引き合いに出して確実さを高めるのです。神が確実に生きておられることの証明として「~をした」と言う時の「~」とは、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア16章14、15節)。こうした出来事は、神が力を働かせて起こった、まさに神が生きていることの証しだというのです。 

これに対して、聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎず、歴史的事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、と指摘されます(例として詩篇115篇4-8節)。つまり、生きている神から見たら、偶像は死んでいるのです。そうすると偶像は沢山あるのに、パウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。

ところが、何々神の像は、見えないことはない、聞こえないことはない、ちゃんと見ておられる、聞いておられる、と言う人もいるでしょう。自分の能力を超えたものをその像が秘めていると思って、像に畏敬の念を覚えるのです。自分の能力を超えたものを像が秘めていると思えれば、像は見えている、聞こえている、ということになります。しかし、像は自分の何を見て聞いているのか、それを教えてくれません。人はどうやってそれを知ることが出来るでしょうか?潜在意識にインプットすれば、夢に出て来るかもしれません。

聖書の神がこの私をどう思っているかは、まず聖書に記された神の意思を知って、その意思に自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また、神は私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を、私たちの思った仕方でなく、御自分が良かれと思う仕方で、かつ良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように、人が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それは、いつも神の視点で起こります。もちろん人間は自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が神の視点を自分の視点にすることが出来るように絶えず教育する方と言ってよいと思います。本当に聖書の神は、聖書が完成した後もずっと同じように生きておられ、私たちに力を働かせて下さっているのです。

第一コリント8章に戻ります。パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それぞれみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在すると認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書には出だしから万物の創造主が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。

3.偶像に供えられた肉

  前置きが長くなりましたが、本日の最初のテーマに戻ります。キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのか、という第一コリント8章の問題です。この箇所は、一見するとロジックが分かりにくいと思います。というのは、使徒パウロは、強い信仰者は食べる、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。私が一番最初にこれを読んだ時、もう30年以上も前のことですが、これは逆ではないか、と思いました。というのは、異教の神に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ、と頑張るのが強い信仰者、逆に食べたら聖書の神を裏切ってしまうのではないか、かと言って周囲に合わせないと仲間外れにされてしまう、と結局おどおどと食べてしまうのは、弱い信仰者ではないかと思ったからです。ところが、30年前私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学生は、ここはそうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そう信じる者は、偶像に供えられた肉なんかなんとも思わずに食べられる、けれど、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうことを恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので、弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを自分も受け取って、さらには8章10節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などとびっくりしたものでした。

ところが、この説明には私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろう、という気持ちになれませんでした。結局、自分は弱い信仰者止まりか、でも、弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後も、この箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれと言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか。パウロは、偶像や異教の神々をものともしない信仰を強いとは見なしても、それがいいこととか、目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人を「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図はないことは、テキストをよく見ればわかります。

8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言われます。ここで言う「知識」は学問的な知識ではなく、神はどういう方であるか、その神の意思はなんであるかを知ることです。そういう知識を持つことは人を高ぶらせる。ここで言う「愛」は神に対する愛と隣人に対する愛の両方を含みます。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者は各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合い高め合って一つの体として成長することを意味します(第一コリント12章12~31節、エフェソ4章16節参照)。神に対する愛と隣人に対する愛が、そのような成長をもたらします。意外なことですが、神はどういう方か、どんな意思を持たれているか、それを知っている者は高ぶる、というのは、お互いを支え合いかばい合う成長には向かって行けない、ということを暗に言っているのです。

さらに2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、そのひとは、知らねばならないことをまだ知らない」、つまり、知識があるという人もその知識は不十分なのだ、と言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が、異教の神に捧げられた肉を食べます。なぜかというと、彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは天地創造の神から見れば単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言うのです。

ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかを知っている。自分は天地創造の神の前に立たされて、私は何もやましいところはなく潔癖です、と言えるかどうかまだ自信がない。だからこそイエス様に助けてもらわなければならないのだが、神殿の儀式を経由した肉を食べて、神の前でやましいところはありません、と果たして言い切れるのか?あの知識を持つ信仰者はそうした肉を平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事をしている、なんだか食べても問題ないようだ。しかし、このような場合は、食べた後で必ず悔恨が生じるものです。パウロは10節で「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」と言っていますが、「良心は強められて」はギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞οικοδομεωです。つまり「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、パウロは痛烈に皮肉っているのです。

パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べない、理由は「弱い信仰者」がその信仰にとどまれるようにするためです。実は、食べないのが正しいというのは、エルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、さらに二人の同行者が加えられて、先方の教会に対する指示が託されました。まさにその一つが、偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。

それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙からうかがわれます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けないな、神は万物の創造者と本気で思っているのか?そう思えれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者よ、君たちは知識はあるが、それは造り上げていない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大切なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。

4.悪霊追い出し

次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする相手の悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」ακαθαρτον πνευμαと言われるものと、ずばり悪霊と訳されるδαιμονιονの二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く取り上げられるマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書の中で悪霊が言及されている箇所をざっと見渡すと、悪霊は、何か具体的な病気または病的な状態、異常な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、単発で行う時もあれば、いろんな病気を癒す奇跡を行う時に行うことも多いです。いずれにしても、追い出しをすると、病気が治るのと同じように、悪霊がもたらしていた病的な状態、異常な状態もなくなってみんな普通の健康な人になります。ただ、病気の癒しの時と違い、悪霊が口を聞いてくる時がよくあります。本日の箇所がそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、またその力もわかっていて、恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。

こうして見ると、人間が抱えてしまう病気や病的な状態には二つのタイプ、純粋に病気のメカニズムだけで起こる、病気内部の要因によるものと、病気内部を超えた要因として悪霊がもたらすものの二つがあることになります。病気内部の要因で起きるものは、医学の力で解決にあたりますが、病気外部の要因で起きるものにはイエス様の力が必要になるということです。病気内部の要因で起きる病気をすぐ悪霊によるものと考えて、医学以外のものに頼ろうとすると混乱が生じるでしょう。

それでは、病気内部の要因で起きる病気と外部の要因で起きる病気は、どうやって区別できるでしょうか?イエス様の時代の人たちは、この人は悪霊にやられていますと言ってイエス様のところに連れて行ったので、よく区別ができたようです。ただし、医学が発達していない時代ですので、治癒不能な病気はみんな悪霊のせいにして連れて行ったことも多かったと思います。そう勘違いしたままで癒されたら、悪霊が追い出されたと思われたでしょう。本当は病気内部の要因が取り除かれたのに。しかし、本日の箇所のように、口を聞いてくるものがあれば、これは病気外部の要因となります。さて、これは病気内部の要因に拠る病気、あれは外部の要因つまり悪霊に拠る病気、などと私には区別の仕方はわかりません、わからないままで、そういう二つの病気に対してどう対処したらよいかということを聖書に基づいて見ていこうと思います。

その前に一つ注意する必要のあることがあります。それは、これまで話してきた悪霊というのは、悪魔とは別のものということです。悪魔とは、ギリシャ語で書かれた新約聖書ではサタナーσαταναとか、ディアボロスδιαβολοςと言われます。サタナーとは、サタンのことです。ディアボロスというのは、引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。ヘブライ語で書かれた旧約聖書では悪魔はサーターンשטןです。サーターンは、非難する者、告発する者という意味があります。つまり、「神様、この人間は罪深い者で神罰に値しますぜ」と神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエス様を荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので、神の計画をそのまま実行に移すことが出来、最後の十字架と復活の業を通して、神と人間の結びつきを回復する道を開いたのです。悪魔の企みは失敗したのです。

それでは、悪魔と悪霊とは何が違うのか?どんな関係にあるのかを見てみましょう。マルコ3章、マタイ12章、ルカ11章に次のような出来事があります。悪霊追い出しを行うイエス様を人々が中傷しました。あのナザレのイエスが悪霊を追い出すことが出来るのは彼が悪霊の頭ベルゼブルに憑りつかれているからだ、などと言ったのです。ベルゼブルというのは、カナンの地方の異教の神々の一つです。中傷した人たちは、悪霊の頭にその名前を付けたのです。これに対してイエス様は、サタンがサタンを追い出したら、サタンの国は内乱状態になって自滅してしまうだろう、しかしサタンは今もこれからも存在し続けるのだから、内乱などない、自分が悪霊を追い出す力は天地創造の神からのものである、と言って、彼らの中傷が的外れであることを指摘します。ここでイエス様は、悪霊の頭をベルゼブルと言わずサタン・悪魔と言っています。つまり、サタン・悪魔とは悪霊の頭で、悪霊はサタン・悪魔の手下ということになります。悪魔が、人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとする時、悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。

こうして悪魔と悪霊の役割がわかった今こそ、イエス様が成し遂げたことを思い出す絶好の機会となります。悪魔と悪霊は、人間にこれを思い出してほしくないのです。イエス様がゴルゴタの十字架にかかって死なれたのは、それは人間の持っている罪を全部あたかも自分の罪のようにして請け負って、その罰を神から受けるためでした。本当は罪などない神聖な神のひとり子だったにもかかわらず。それだけにイエス様の犠牲というのは、私たち人間のための神聖な犠牲だったのです。しかし、それだけではありませんでした。天地創造の神は一度死なれたイエス様を死から復活させられて、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。こうして、神と人間の結びつきが回復する土台が出来ました。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれを信じ、またそれを成し遂げたイエス様を自分の救い主として受け入れると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しがその人にその通りになって、罪を赦された者として神の前に立たされても大丈夫になり、神との結びつきの中で生きられるようになりました。そして、この世の人生を神から守りと導きを受けて歩めるようになり、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に御許に戻ることができるようになったのです。

まさに十字架と復活の出来事のおかげで、悪魔の企みは破たんし、その力は無になりました。イエス様を救い主と信じる者については、悪魔の企みは本当に破綻し、その力は無になっているのです。そうなると、悪魔よりもランクが低い悪霊どもは、イエス様を信じる者に対してはもっと影響力を持てないと言ってよいでしょう。もちろん、イエス様を信じる者にも病気はあり、苦難はあります。でも、病気は病気内部の要因に拠るものとして、苦難は苦難内部の要因に拠るものとして対処して行くのが混乱が無くてよいと思います。もし万が一、外部の要因に拠るものと明らかになったとしても、忘れてはいけないことがあります。それは絶えず父なるみ神に祈ることです。マルコ9章で、弟子たちが悪霊に取りつかれた子供を助けようとして追い出せなかった出来事があります。結局イエス様が追い出しますが、弟子たちに対して、悪霊追い出しの時に祈りが重要であることを強調します。

そうなると、悪霊追い出しは、むしろイエス様を救い主と信じる人には関係ないもので、信じない人に関係してくるものということになってきます。イエス様や弟子たちの悪霊追い出しもよく見ると、みんな追い出された後にイエス様を信じます。つまり助けられた人たちは、助けられる前はまだ信じていなかった人たちということになります。それでは、イエス様を信じる人は絶対大丈夫と言い切れるのかと聞かれると、100%言い切れる自信はないのですが、そこは、例外はあるかもしれないが、基本はこういうことだということにしたく思います。例外の時、つまり病気外部の要因による病気の時は、先ほども申しましたように祈ることに鍵があることを忘れないようにしましょう。このことは実は、病気内部の要因の時も同じです。その時も祈りは大事です。先にも申しましたように、神は人間が祈り求めたことに答えを与える時、いつも御自分の視点でお与えになります。それなので、例外の時だろうが、通常の時だろうが、神は人間が神の視点を持てるように教育するのは変わりないから、いずれにしても祈りは必須です。

以上、頭の重いテーマでしたが、いろいろ整理できたのではないかと思います。どうでしょうか?詰めの足りないところや、不足のところがいろいろあったと思いますが、それらは後日に譲りたく思います。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「福音、神の国、悔い改め」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書福音書1章14-20節、エレミア16章14-21節、第一コリント7章29-31節

主日礼拝説教 2012年1月22日 顕現節第三主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所は、旧約と使徒書の箇所も併せて、キリスト教の信仰にとって大事なことが一杯詰まっています。それを全部解き明かして皆さんにお届けするのにどれくらいの時間が必要か考えただけで気が遠くなりそうです。しかし、限られた時間の中で説教しなければならないので、今回は「福音」「神の国」「悔い改め」という三つの事柄に焦点を絞って解き明しをしていこうと思います。

本日の箇所の出来事の前にどんなことがあったか覚えていらっしゃいますか?イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けて神からの霊を注がれ、この者は神の子であると神から認証を受けました。その後40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的な活動に乗り出します。そこからが本日の箇所です。折しも、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らわれたとの報が入りました。イエス様は、大胆にもガリラヤに乗り込み、人々に教え始めました。新共同訳の文章では「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と書かれています。「福音」、「神の国」、「悔い改め」と三つの事柄が出て来ます。

2.福音

 ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は、原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。「福音」というのは、「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせのことを言います。それでは、特段の良い知らせである「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?

 「福音」がどんな内容の良い知らせかと言うと、大体以下のようなものになります。イエス様が私たち人間のために十字架の上で犠牲の死を遂げられ、そのおかげで人間は神から罪の罰を受けないで済むようになった、そのイエス様を救い主と受け入れることで人間は神に受け入れてもらえるようになった、神に受け入れてもらえた者として神の守りと導きを受けてこの世を生きられるようになった、たとえこの世から死ぬことになっても、イエス様が復活されたように自分も復活して神の御許に引き上げてもらえるようになった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後、それらにまつわる良い知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。

ところが、本日の箇所ではイエス様はまだ活動を開始したばかりで、十字架も復活もまだ先のことです。それなのに「神の福音」とか「福音を信じなさい」と訳すのは、少し早すぎやしないか?ギリシャ語のエヴァンゲリオンは、「福音」の意味の他に「良い知らせ」もあるのだから、ここは「良い知らせ」と訳した方がいいのではないか?そこで各国の訳を見てみると、英語訳の聖書NIVは、「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelとは訳していません。スウェーデン語の訳は「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」budskapと訳していて、これも福音evangeliumではありません。フィンランド語の訳は、「神の福音」evankeliumi、「良い知らせを信じなさい」hyvä sanomaと二つを使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳されていました。

 それでは、十字架と復活の出来事の前だから、エヴァンゲリオンの訳は「福音」ではなくて「良い知らせ」の方がいいのではと言うことになると、今度は、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせだったか、という問題が起きます。もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発音した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしかないので、それに基づくしかありません。イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容ですが、これは、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。まず最初の52章7節をみると次のように言われます。

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טובמבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」

伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。「平和」ヘブライ語のシャロームשלוםは、意味がとても広く、「救い」を意味することもあります。それで、ここの「良い知らせ」の内容は、「救い」と「神を王に戴く神の国の到来」の二点に絞ってよいと思います。イザヤ書の続きを見ていくと、この「救い」は何を意味し、それが「神を王に戴く国」とどう関係するかが明らかになります。

52章8-12節で、神が廃墟と化したエルサレムに戻り、イスラエルの民に対して捕囚の地バビロニアから帰還せよと呼びかけます。神は、イスラエルの民の祖国帰還を実現し、自分の力を諸国民に示します。つまり、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力でバビロン捕囚から解放され、祖国帰還し、そこで神を王として戴く神の国が実現するということです。

ところが、これに続く52章13節から53章12節までは、「救い」が違う形で展開していきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。それは、目を背けたくなるほど惨めな姿をしているのだが、実はそれは私たちの痛みと病をかわりに背負ったためであり、私たちの罪がもたらす神の罰をかわりに受けてくれたためであった。それによって私たちは神との間に平和を得ることができ、まさに彼の受けた傷によって私たちは癒された。53章11節で神は次のように述べられます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら背負うことによって、人間は神の目に相応しい者になれたのだというのです。ここでの「救い」は、先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が到来するという意味ではなくなっています。むしろ、神の国の中では神の僕の犠牲によって罪が赦され神罰が免れる、ということが「救い」の意味になっています。

このイザヤ書52章7節から53章12節までの箇所で言われる「救い」は、バビロン捕囚がもうすぐ終わるという紀元前500年代終わりにあっては、イスラエルの民の捕囚からの解放と祖国帰還を指すと考えられました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。その場合、身代わりの犠牲で人々を神罰から救う「主の僕」とは、異国の地に連行された捕囚の民と考えられました。イスラエルの民が長い歴史の間に重ねた罪の罰としてバビロン捕囚が起きたのであり、捕囚の民が異国の地で辛酸を舐めるという罰を受けることで、民の罪が赦され、また元に戻れるようになった、と考えられたのです。

ところが、祖国に帰還した後も神の国は実現しませんでした。ということは「救い」も実現しませんでした。確かにエルサレムの神殿と都市は再建されました。しかし、イスラエルの民はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国支配の下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民も恐れおののく神の国からは程遠かったのです。さらに、民の間でも、神殿を拠点とする神崇拝が行えていたとしても、それが果たして救いの実現なのかどうか疑問視する声も強く出てきました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56-65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに次第に、神の国は実は今の世の天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。

そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになりました。それでは、いつどうやってこれらの預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた、まさにその時にイエス様が登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。その約束を信じなさい、とイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその神の約束を果たすことになるからです。十字架と復活の後、神の約束についての「良い知らせ」はまさに「福音」として結晶しました。

3.神の国

 イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉が使われています。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、単に時の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。この「時」が洗礼者ヨハネの投獄と重なったのは、ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」を与えることができなくなった、これからはイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。

 「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけからみると、空高いどこか、ないしは宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいですが、神から見たらこちらの方が裏側でしょう。神は、天と地と人間を造られた後、あちら側に引き籠ってしまうことはしませんでした。あちら側から絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

 ところで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26-29節など)を見ると、今あるこの世は滅びるという終末についての預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造し、そこで唯一残るものとして神の国が現れてくる。そうすると、「神の国」は天国のことだから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行けるんじゃなかったの?という疑問が起きます。ところがキリスト教には「復活」の信仰がある以上、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。教会讃美歌366番「愛の泉」で明確に歌われています。そうなると、じゃ、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。実はこれもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に輝く復活の体と命を与えられて蘇らされるということです。

 それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、彼は終末が近づいたと言っていたのでしょうか?そうだとすれば、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままなので、イエス様の言ったことは当たっていなかったことになります。しかし、イエス様は少し違うことを言っていたのです。

 どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業が、神の国が近づいたことと関係があります。イエス様は無数の奇跡の業を行いました。大勢の難病や不治の病の人を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、枚挙に暇がありません。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげたという人道支援の意味もあったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上にいて困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ったのか、という疑問が起きます。

 イエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せた、味あわせたのです。神の国とは、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、神の国とは、神がそこに迎え入れられた人の目からことごとく涙を拭い取り、悲しみも嘆きも労苦もないところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神の手によって償われ、逆に悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われるところがあるので、キリスト信仰者は、何事かを成そうとする時、神の意思に沿うようにやるのであれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったことは何もない、とわかるのです。

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて、害悪や危険そして死そのものがなく、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されるということもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになって目に前に現れて、「私について来なさい」と言ったら、人間は抵抗できるでしょうか?本日の福音書の箇所の4人の漁師たちの付き従いからわかるように、イエス様の呼びかけの声の中に聞く人を有無を言わさずに従わせる力があったというのは、まさにここにあります。病気が治れと言われて健康に変わったように、悪霊が出て行けと言われて出て行ったように、嵐が静まれと言われて静まりかえったように、「ついて来なさい」と言われたらついていくしかなかったのです。イエス様の呼びかけの声の中には、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いていたのです。

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神との結びつきを失って罪を代々受け継いできました。人間は、そのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。罪の汚れが消えなければ神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしても、宗教的な修行を積んでも、人間は心と体と魂に染みついている罪を消去することはできず、自ら神聖なものに変身することはできません。

 人間が神との結びつきを回復できて神の国に迎えられるように問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して福音として結晶した出来事でした。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の身代わりの犠牲に免じて罪が赦されるということが本当に起こり、神との結びつきが回復して、見事に神の国に迎え入れられるのです。これは全て、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを大切に思って下さっていることの現れなのです。多くの人がこのことに気づきますように。

4.悔い改め

 イエス様は、「良い知らせ」を信じなさい、と勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―ですが、基本的な意味は考えを改める、とか、方向転換するという意味です。信仰の観点で意味を考えれば、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。このように「悔い改め」は、一人で籠って反省しまくっているのではなく、あくまで神を前にしての立ち振る舞いです。

 「悔い改める」についてもっと知ろうとするならば、4人の漁師が召し出された出来事を見るとよいでしょう。「人間を捕る漁師にしよう」などと言われて、ついて行った4人は、なんだか宗教団体の勧誘員になるような感じがします。沢山入信させたら、有能な漁師と言われるような。しかし、イエス様の言葉には勧誘とか人集めの意味は一般に思われるほどはありません。理由は、この言葉の背景にあるエレミア書16章16節「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる」を見ればわかります。イエス様はエレミア書の神の御言葉を引用しているのです。

 さて、エレミア書16章16節に出て来る、神が送る漁師たちが獲る獲物「彼ら」とは誰を指すのでしょうか?17節を見ると、神の目は、彼らの全ての道に注がれている、とあります。「道」というのはどんな生き方をしているかということです。彼らは神に何も隠し立てすることはできず、18節で言われるように、罪の罰を受けることになります。「彼ら」とは、まさに漁師に捕まえられて、神の前に出されて罪や悪行を全て暴露されて裁かれる者たちです。誰のことでしょうか?エレミア書の舞台となっている紀元前500年代初めの文脈で見れば、「彼ら」とは神の意思に背いてばかりいたイスラエルの民と考えられます。彼らは罰を受け、それで国滅びてバビロン捕囚の憂き目にあうのです。あるいは、イスラエルの民を攻撃略奪したバビロン帝国を指すとも考えられます。バビロン帝国も後に罰としてペルシャ帝国に滅ぼされます。

ところが、旧約聖書というのは、書かれている歴史的舞台の中で理解するだけでは不十分なのです。先ほど申し上げましたが、バビロン捕囚からの解放と祖国復帰を預言していると考えられていたことが、実は解放と復帰は実現してもその他のことはまだ実現していない、そういう未完のことが一杯出て来るのです。イエス様もそうした観点に立っています。もし漁師が獲る獲物が紀元前500年代のイスラエルの民ないしはバビロン帝国を指すのなら、彼が4人の男たちを呼び出した時に言った言葉は意味をなしません。イエス様は、漁師が獲る獲物は過去の歴史を越えて今もあるという観点です。つまり人間全てが獲物になります。そして獲物である人間は、エレミア書に即して見れば、神の前に出されて罪と悪行を暴露されて裁きを受けます。漁師はまるで悪人を探し出して捕まえる神の警察官のような者たちです!宗教団体の勧誘どころではありません。

ところが、イエス様の人間を獲る漁師たちにはもう一つ大事な役割がありました。彼らは、十字架と復活の出来事の目撃者になりました。イエス様を救い主と信じれば神から罪の赦しを受けられるという福音を与えられたのです。このように、イエス様が集めて送り出した漁師というのは、人間を神の前に出して自分の本当の姿を知らしめることはしても、それは人を滅ぼすためにするのではない。そうではなくて、人に福音を示して、神の前に出されても大丈夫なのだ、と安心させて、それで人が神の方を向いて生きられるように導く役割を持ったのでした。福音がなくて神の前に出されたら、普通は途方もない絶望に陥るか、または神に背を向けて生き続けるかしかありません。その先には神の裁きしかありません。しかし、福音を示されることで、人は神の前に出されても大丈夫になるとわかり、神の方を向いて生きられるようになって、本当の悔い改めができるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは神の方を向いて生きる勇気をまさに福音から与えられるのです。このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

説教:木村長政 名誉牧師

 

第14回

コリントの信徒への手紙 3章18~23節

『この世の知恵と神の知恵』 2018年1月14日(日)

今年もコリントの信徒への手紙の御言葉と聞いていきたいと思います。今日は、3章18節から23節までです。今日の聖書の中心点は「この世の知恵と神の知恵」ということです。19節を見ますと、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」であると言っています。

その前のところで1章18節では次のように言っています。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である」とあります。十字架の言の力強い事を強調しています。更に1章25節には「神の愚かさは人よりも賢く神の弱さは人よりも強いからである」と言っています。人間というのはいつの間にか、神と人間の賢さとか、愚かさといったことを比べてしまうものです。自分でも気づかないうちに神のことが自分の思うようにならない、合点が行かないと思ったりしています。そうして人間の方が賢いように思ったりしているんです。

詩篇53篇1節に「愚かな者は心のうちに『神などいない』と思っているのではないか、ただ、そういう人は本当は愚かなのである。というわけです。

賢いとか愚かと言っても、普通の知恵や知識での話ではありません。

自分の持っている知識は神の知識に比べれば大海と砂浜に遊ぶ子どもの持っている貝殻の中の水ほどに少ないと言ったものである。

ここでは、そういう事を言っているのではなく、もっともっと神と対面して自分の貧弱さ、貧しさ救われなければならない罪の中にあるみじめな状態を知った者の言うことであります。

そこでパウロは言うのです。18節です。「誰も自分を欺いてはならない。もしあなた方の誰かが自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら本当に知恵のある者となるためには愚かな者になりなさい。」というのであります。

この世の知恵は神の前では愚かなものだからです。ここで「この世」というのは目に見える、この世界のことだけでなく、目に見えないことも含めて、人間が支配者になっているように見える、この世ということであります。

知恵というのは何でしょうか。確かに知恵は人間をまことに生かすべきものであるはずです。しかし、知恵のあるところには誇りがあります。こうすれば自分は生きることができるという自信であります。

しかし自分の生き死について、本当は誇ることができません。なぜなら人間の生き死にについてはどんな人もどうすることもできないからであります。

自分の命を伸ばすことも短くすることもできません。

この手紙は神の愚かさと人間の賢さのことをしばしば取り上げています。そして神の前にまことに愚かになることによって心に賢くなることをすすめるのです。

神の賢さによって救われることを教えようとするのであります。

この世の知恵が神の御前に愚かであるのは、まずこの世の知恵は神の知恵に及ばないからであります。

神は天と地を創造しこれを支配しておられます。それに対して人間はその中に住む小さなものに過ぎません。その人間の知恵はとうてい神に及びません。私たちはこの世に生まれながら、何のために生まれたのかも知りません。この命は絶対に失われてはならないものであると確信しています。しかしなぜこの命がそんなに尊いものであるかは誰にもわかりません。この命は絶対に大切なものであると言いながら、また、その命の危うさを知っています。それはちょっとしたわずかなことに傷つき、心を痛め、悩んでしまうのであります。いろんな思わぬ出来事が起こっています。しかもそれが毎日のように私たちの周りで起こっていることであります。それにもかかわらず、私たちには、その理由がわかりません。生きていても漫然と月日は過ぎています。生きている事についてわからなければ、死についてはなおさらわかりません。死ほど毎日の私たちの周りで繰り返されているものはありません。

例えば、私の住んでいるマンションの前を毎日何回も救急車がピーポーピーポーと走って行きます。それで死についてつぶさに見ることも調べることもできません。

何十年も生きてきた命すらよくはわからないのです。

ここに言われているこの世の知恵が神の前に愚かであると言う事は、その程度のことを言っているのではありません。1章18節の言葉がそれを示しています。「十字架の言葉は滅びる者には愚かであるが救われるものには神の力である。」と言うことであります。私たちは生き死にについてなぜ知りたいのでありましょうか。

それはそのことを知ることによって本当に安心したいからであります。聖書の言葉で言えば、救われたいからであります。安心を得たい。揺らぐことのない幸福を得たい、と願って苦しみ続けるのであります。しかし私たちの考える事は空しくなってしまいます。

それは、生きることについても死ぬことについても最大の問題である罪から逃れることができないからであります。

罪を追い払うすべがないからであります。そういう知恵はどんなに利口そうに見えても愚かしいものであります。

それに対して神がお与えになった知恵は何であったでしょうか。それは神の御子が十字架にかかって人間の罪のために死ぬと言うことであります。

これこそ十字架の言葉であります。

これはまことに愚かしいもの知恵らしからぬことでありました。

多くの人がはじめにはそれを軽蔑いたしました。この単純なことが何の役に立つのかと思うからであります。

しかしこれを信じたものは皆ここにこそ救いがあったことを発見いたしました。それは簡単な話ではなく神が考えに考え抜いた愛の極みであることがわかったからであります。

人間の欲深い知恵と違ってこれは神が人間を愛しその罪を救うためにとられた最後の愛の御業であったからであります。

それは知恵の好きなギリシア人にはわからない神の知恵でありました。神の力でありました。それゆえに人間の知恵は神の前に愚かなものなのであります。それでパウロは19節と20節に旧約聖書からの引用を二つ持ってきています。

19節はヨブ記5章12節です。

「神は知恵のある者たちをその悪賢さによって捕えられる」。

そして20節の方では詩編94編11節であります。「主は知っておられる。知恵のある者たちの論議が空しいことを」と書いてある。

ここで言われている事はそれほどに神の救いの知恵が大きいと言うことなのであります。だから人間は誰も自分を誇ってはならないのであります。

知恵の話がただの知恵や知識のことでなくて救いの話であります。そのことは旧約聖書からの引用を示してパウロは突然に21節に書いています。

「全てはあなた方のものです」あなた方とは誰のことでしょうか。ここではコリントの教会のことです。これは教会を指しているのです。そうであれば全てはあなた方のものと言うのは、すべては教会に属する事と言うことです。つまり教会のことを正しく知ることですべての事は分かると言うのです。

前回3章16~17節で突然に「あなた方は神の宮である」と書いていました。これらを信仰の立場から言えばわかりやすいことです。つまり信仰生活の最後の目的は教会生活であると言うこと。それだからパウロは言ったのです。あなた方は神の宮であると。そして最後に建てられるべきものは神殿であります。

目に見える神殿ではなく、最後の願いは信仰による神殿が建てられ、そこで全ての人間が神を礼拝することを喜びとするようになることです。そうであれば今は惨めなみすぼらしいものかもしれません。しかしそこでは一切のものが神のために自分があるということがわかるでしょう。そうするとすべてのものが自分は何のために生き、何のために死ぬかもわかってくるでしょう。

このように神殿は一切のことを受け入れすべてのものを生かす場所になる。そうしますとパウロが22節で言っていることがじーんと深くわかってくるのです。

22節には「パウロもアポロもケパも世界も生も死も、現在のものも将来のものもことごとくあなた方のものである」。この言葉にダイナミックに深く分かってくるのであります。

信仰を持ったあなたがあったが一人ひとりの役割を十分に活かして互いに協力し合い組み合わさって大きな1つの神殿となることであります。こうした教会が神殿であればそれこそキリストの教会であり、キリストの神殿、教会はキリストのからだであると言われます。これらの全てのものはキリストに受け入れられると言うことになるのであります。ですからパウロは最後のところで23節に「あなた方はキリストのもの」なのだ。そして「キリストは神のものである」と言うのです。

そして信仰生活に入ると言う事は何か特別な人生観を持ったり特別な生活をすることでなくそれはキリストのものになることであります。自分のものであってもはや自分のものでなくなるのであります。誰でも自分こそ自分のものであると思いながらそれが重荷でどうしようもないような気持ちになるのではありませんか。その時自分が自分のものでなくキリストのものであると言われることこそ救いであります。

自分が救われた経過から言えば自分は神のものであるに違いないが、まず、キリストに救われた、キリストのものと言うべきでありましょう。そしてそのキリストこそはまことに神の子であられるのです。

アーメンハレルヤ!

説教「自分を見つめる座標軸」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章1-12節

主日礼拝説教 2018年1月7日(顕現主日)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は、何かおとぎ話めいて本当にこんなことが現実にあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来るとか、王子様の星をみたことが彼らが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。

 本日の箇所に限らず、聖書には、奇跡や超自然的な現象が数多く登場します。イエス様についてみても、おとめからの誕生、難病や不治の病を次々に完治したり自然の猛威を静めたりするなどの数々の奇跡の業、そして死からの復活等々、枚挙にいとまがありません。聖書を読む人のなかには、そのような記述は古代人の創作だと決めてかかる人もいます。そういう人にとって聖書は信仰の書でも神の言葉でもなく、古代オリエント世界の人たちの考えや文化を知るための一つの文化遺産にしかすぎません。他方では、奇跡や超自然的な現象は信じないが、イエス・キリストは「信奉」してもいいという人もいます。イエス・キリストは当時のユダヤ教社会でとても革新的なことを教え、その教えの多くは現代にも通じるものがある、だからその通じるものに注目して(逆に言えば通じないものは排除して)現代社会の諸問題の解決に役立てていこうと。つまり、イエス・キリストを何か一つの主義とか思想を打ち立てた思想家、イデオローグと見なすということです。また、彼がもとでキリスト教が生まれたのだから、仏陀やモハメッドのように一つの宗教の教祖とみなす人もいます。教祖であれば、仏陀やモハメッドが人間だったのと同じように、イエス・キリストも彼ら同様一人の卓越した人間だったとみられていきます。そうなると、イエス様を三位一体の神の一をなす神の子であると信じる信仰となじまなくなります。イエス様が「信仰」の対象というより、「信奉」の対象になります。

 本説教では第一の教えとして、本日の福音書の箇所はおとぎ話と決めつけるには歴史的信ぴょう性が高い記述であるということを述べます。歴史を100パーセント復元してみせることは不可能です。しかし、本日の箇所は100パーセントとはいかなくとも、80パーセント位は歴史的事実と言っていいのではないか、それくらい信ぴょう性が高いということを見ていこうと思います。このことは、実は2年前の当教会の説教でも申し上げました。お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、駆け足でおさらいをしておきます。その次に第二の教えとして、聖書に書いてある出来事が80パーセントくらいは真実とみなせるなら、それなら信じてもいい、ということになるのか?それとも、いや、やはり100パーセント確実でないと信じられない、ということになるのか?そういう疑問にどう答えたらよいかを見ていこうと思います。2年前の説教では、聖書に書いてある出来事が100パーセント真実であると確かめることは信仰の出発点にはならない、信仰の出発点は100パーセントの信ぴょう性とは別のところにある、ということを申し上げました。本日の説教でも同じ答えですが、今回は別の角度から見ていこうと思います。そういうわけで本日の説教は二部構成です。

2.

本日の福音書の箇所に記された出来事の歴史的信ぴょう性についてみてみましょう。出来事の中でも特に思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、本説教はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めていました。他方で、現在のイラクを流れるチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があって、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

そこでイエス様の誕生年についてみると、本日の福音書の箇所に続くマタイ2章13-23節によれば、イエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで、星の動きが緻密に観測されて、それが定期的にどんな動きをするかもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って、占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れでと考えらました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。以上、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

 それでは、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみましょう。イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失わず、イスラエルの伝統を守り続けました。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からもうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても、全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは、旧約聖書のエステル記から伺えます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所は囁いていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで、本日の箇所にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人なので、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景全てに見事に裏付けされることが明らかになったと思います。しかしながら、問題点もいくつかあります。一つ大きなものは、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これなど本日の箇所で一番SFじみていて、まともに信じられないところです。人によっては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。ただし、本説教では、確認できることだけをもとにして記述の信ぴょう性をみていこうという方針なので、彗星説は可能性はあるけれどもちょっと脇においておきます。先に述べたように、木星と土星の重なるような接近は紀元前7年は一回限りでなく、何回も繰り返されました。エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。劇的な出来事をいいあらわす時、立場をいれかえるような表現も起きてくるのです。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。ここでは、ただ確認できることだけに基づいて福音書の記述をみてみるということです。

確認できることはとても限られています。現在の時点で入手可能な資料や天文学や科学の成果をもってしても確認できないことに出会った時は、すぐ「ありえない、存在しない」と決めつけてしまうのではなく、それは、現在の知識の水準を超えたことで肯定も否定もできないのだと、一時保留の態度がよいのではないかと思います。とにかく神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記1章16節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

(ここで、ひとつ余計なことを述べますが、歴史的信ぴょう性ということについて、キリスト教は他の宗教にない負荷を負っていると思います。他の宗教では、教典に書かれていること、創始者の言ったこと行ったことの記述の歴史的信ぴょう性が果たしてキリスト教のようにうるさく問われているでしょうか?皆さん、案外、何の疑問もなくその通りだと素直に信じているのではないでしょうか?キリスト教神学の特に聖書の成立を扱う分野などは、「このイエスの言葉は、実は本人が言ったものではなく、初代のキリスト教徒の考えをイエスが言ったものにして書いた」などという批判的な研究がごまんとあります。もちろん、そういう結論に対する反論もあるのですが、同じような批判的な研究手法を用いて他の宗教の教典を分析したら、どんなことになるでしょうか?)

3.

以上、本日の福音書の箇所の記述は、現時点で確認できる事柄をもってしても、空想の産物として片づけられない真実性がある、主観が混じっているかもしれないが実際に起きたことについての忠実な記録であると言っても大丈夫なことが明らかになりました。それでは、これであなたは聖書に書いてあることが本当であるとわかって、イエス様を救い主と信じますかと聞くと、なかなかそうはならないのではないかと思います。仮に本日の箇所はOKだとしても、他の奇跡や超自然的な出来事の真実性はどう確認できるのか、と問い始めるでしょう。そういう人は、タイムマシンにでも乗って聖書に書かれてある出来事が全て記述のとおりに起きたことを自分の目で見て確認できない限りは信じないと言っているのと同じです。ところが、キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。タイムマシンはいらないのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

 そこでまず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、時には質疑応答をしたりして、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからはイエス様こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならない、と脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから弟子たちとしては伝道を続けるしかありません。

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうちに信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

 では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は後世を生きる自分にも関わっていたのだ、あの出来事は神がこの私のためにイエス様を用いて成し遂げられたのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?皆さんはどのようにしてそうできたか覚えていらっしゃいますか?

 イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分というものを見つめる時に神との関係においてそうするということです。ご存知のように、聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

自分には造り主がいると認めると、造り主は自分に何か考えや目的を託してこの世に送り出したのだ、ということもわかってきます。まさに、この世を生きることには意味があるということが、自分を造り主との関係に置くことでわかってくるのです。

しかしながら、造り主の神は自分にどんな考え、何の目的をもって自分を造ってこの世に送り出したのか、その考え、目的ははっきりわかりません。仮に、自分は自分の持てる能力を駆使して何か大きな事業を起こして名声と財産を得よう、それこそが神が自分を造った目的だと考えて、それを目指すとします。もし、それが達成できたら、自分は神が託した目的を果たしたと考えることになるでしょう。しかし、もし達成できなかったり失敗したりしたら神の目的を果たせなかったということになってしまいますが、果たしてそう言ってよいでしょうか?また仮に成功しても、それが神の意思に反する仕方で行われたものなら、たとえ成功しても神の目的を果たしたと言えるでしょうか?

神の意思というのは、十戒に凝縮した形であります。もし成功や達成が、父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、事実に反することを言ったり行ったりしたり、妬みや嫉妬を原動力にして獲得されたものならば、それは神の目的とは言えません。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り、人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

加えて、十戒の最初は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟です。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、こんな掟があるから宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えていますが、その根拠として「復讐は神のすることである」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは実に仕返しの権利を全部神に譲り渡すということなのです。そんな丸腰では危ないではないか、やられたのにやり返さなかったら相手の言いなりではないかと言われるでしょう。しかしパウロはただ、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つということは、神の正義と人間の正義の緊張関係の中に置かれて、もがかなければならないことを意味します。

さて、造り主である神が自分にどんな目的を託しているのかという問題に戻ります。以上のような神の意思というものを考えると、人間が何かを成し遂げる、その「何か」そのものに神の目的があるのではなく、むしろ、「どのように」成し遂げるか、というところに注意しなければなりません。神の意思に注意しながら「どのように」ということを考えていくと、成し遂げる「何か」も見えてくるのではないかと思います。特に自分が置かれた境遇や状況をよく見て、またそれまで歩んだ道や経験を踏まえて、神の意思に注意していけば何をすべきかは自ずと方向性が決まってくるのではないかと思います。神は拠り頼む者の祈りを必ず聞き遂げて下さるというのが聖書の立場です。神との関係において自分を見つめ捉え直そうとする人の祈りを、神は必ず聞き遂げて、道を示して下さる筈です。

 造り主との関係において自分を見つめるようになると、神の前に立たされた時、自分は神に相応しくない者であることに気づくことも起きてきます。というのは、神は罪を忌み嫌う神聖な方であり、人間の罪を汚れとみなし、それを焼き尽くさずにはいられない方だからです。自分は完璧で、神の前に立たされても何も問題はない、神と対等にやっていける、などという人間はいません。自分は神の意思に沿えない者だと気づかされると、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなってしまうと、自分を見つめたり捉えることを造り主との関係に置かないで、別のものに置いてするようになってしまいます。

まさにそのような時に、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を送られたのかを思い返します。神聖な神のひとり子が人間の罪を自ら被って人間のかわりに神罰を受けて死なれた、そのかわりに彼を救い主と信じて受け入れる者に彼の神聖さを被せて下さった、それでイエス様を信じる者は神の前に立たされても大丈夫とされ、後ろめたさや恐れを拭い去ることができるのです。本日の使徒書であるエフェソ3章の12節で使徒パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べます。これを少し注釈しながら言い換えますと、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついているのであり、その信仰を通して、神の前に立たされても大丈夫という確信がある、それで、神の前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。そのようにしてもらった以上は、これからは神に背を向けるのではなく、逆に、被せてもらった神聖さに恥じない生き方をしよう、それを汚さないようにしよう、という心になります。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、造り主である神との関係の中に自分を置くことは、まさに自分を見つめる座標軸です。今年もその座標軸をしっかり持って歩みましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「あわてるな、落ち着け、イエス様が共におられる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書2章1節-11節

主日礼拝説教 2017年12月31日 降誕後主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。これは福音書の中でよく知られている話の一つです。結婚式の祝宴でお祝いに飲むぶどう酒が底をついてしまった。そこで、イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って、祝宴は無事に続けられたという話です。奇跡と呼ぶには、少し大げさに聞こえるかもしれませんが、結婚式の祝宴はイエス様の時代にも大がかりなものであったことを考えてみるとよいでしょう。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとあります。一つにつき80-120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきますし、大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えたというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

 この福音書の箇所はまた、イエス様が困難に陥った人を助けてくれる心優しい方であることを述べている箇所としても知られ、結婚式に関わる出来事なので、キリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように見守ってくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような優しい方がついておられるんですよ、というメッセージは、新郎新婦のみならず列席者の人たちみんなに微笑ましい雰囲気を与えるものでしょう。

ところが、この箇所はよく読んでみると、わかりにくいことがいろいろあります。それは、ぶどう酒が底をついた時に、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という答えです。「わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文が少しわかりにくいのですが、直訳すると「この件に関して、私とあなたとの間にはどんな関係があるのか」、もう一歩訳し進めると「この件に関して、あなたはわたしに何を求めるのか」という意味になります。そのすぐ後にイエス様は、「わたしの時はまだ来ていないのだ」と続けます。ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、ひと肌脱ぎましょう、とは言いません。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。心優しいどころか、何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは何と他人行儀も甚だしく、思いやりのない言葉に聞こえます。ところが、このような冷たい答えにもかかわらず、マリアは何を思ったのか祝宴の召使いに、イエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。つまりマリアは、イエス様の一見冷たく聞こえる答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。

結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、優しいイエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりはわかりにくいです。イエス様はあまのじゃくで、素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。そのことは、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉を理解できればわかります。以下それを見ていきたいと思います。

2.その前にもう少し出来事の状況を把握してみましょう。テキストはそんなに詳しく記していませんが、手掛かりはいろいろあります。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に招かれていましたが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2‐3節)と言われ、マリア、イエス様、弟子たちが招かれた、とは言われていないことです。マリアは、ただ単に招かれたイエス様と弟子たちと別扱いです。後の方でマリアは召使たちに命じることもして、召使たちは聞き従っていますから(5節)、彼女は単なるお客様でなくて何か役割を持っていたのではないかと思われます。それならば、ぶどう酒がもうすぐ底をつく時の心配は他人事ではなかったでしょう。

そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと思われます。それに対してイエス様は、「婦人よ、この件で私に何を求めるのか、私の時はまだ来ていない」と答えました。さて、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と頼んだのでしょうか?それとも、ぶどう酒がない、ぶどう酒がない、ああ、どうしよう、とおろおろしている様子を示しているだけだったのでしょうか?11節をみると、このぶどう酒の奇跡がイエス様が公けに行った奇跡の最初と言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える力があるとはまだわかりません。お願い、何とかして、と言うのだったら、早く弟子たちと一緒に買い集めてきて、というお願いになったでしょう。でも、13人の男で500リットルのぶどう酒をどうやって大至急で調達と搬送ができるでしょうか?それが不可能であることはマリアにもわかるはずです。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、もう本当におろおろしている状態で言ったのだと思われます。

そうすると、イエス様の言葉は、慌てふためいているマリアを落ち着かせるものであることが見えてきます。お母さん、しっかりして!と言わないで、婦人よ、と少し距離を置いて、この件で私を関与させつつ何をどうしたいのか、言葉に出して言ってみなさい、と促すのです。しかし、マリアとしては、何をどうしたいかはわかりますが、不可能なことなので言葉にしても意味がないと思ってしまいます。そうしたら、何も言えないでしょう。そこでイエス様は言われました。「私の時はまだ来ていない。」いよいよこの言葉の意味を見ていきましょう。

3.「わたしの時」とはどんな時で、その時が来るのはいつなのでしょうか?ヨハネ12章で、次のような出来事があります。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神や神の国について教え、またユダヤ教社会の指導層と激しい論争を行っていた時でした。地中海世界の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらに、ヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。

つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が拷問などの苦しみを受けて十字架にかけられて死を遂げる時、そして十字架の後で神の力で死から復活させられて神の栄光を現わす時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、これは、人間が全ての罪を神から赦していただくための神聖な身代わりの犠牲となるためでしたから、これは神にとっても人間にとっても大事な時だったのです。さらに、イエス様が死から復活させられたことで、死の力が無力にされて死を超える永遠の命の扉が開かれることになりました。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、神との結びつきを持ってこの世を生きて、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性を与える出来事を起こす時、十字架と復活の時を意味したのです。各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きた後でその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

そういうわけで、「わたしの時はまだ来ていない」というのはどんな意味かというと、「まだ、私が十字架の苦しみの道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神の意思と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、それを教えと奇跡の業を通して示していかなければならないのだ。まだ十字架と復活の前の今は、私はお前たちと共にいてこのミッションを行う時なのだ」という意味になります。

 

4.このように「わたしの時はまだ来ていない」というのは、まだ十字架と復活の時ではない、まだおまえたちのもとにいてミッションを行う時だ、という意味だとわかれば、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉は奇跡の業を行うことと関係があるとわかってきます。

イエス様の奇跡の業は枚挙にいとまがありません。大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えた本日の出来事を皮切りに、数多くの難病や不治の病を癒してあげたり、一度息を引き取った人を生き返らせたり、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満腹にしてあげたり、自然の猛威を静めたり、悪霊に憑りつかれている人からそれを追い出したり、と無数にあります。

イエス様がこのように人助けの奇跡の業を数多く行った理由として、イエス様も彼を送った父なるみ神も、優しい愛に満ちた方で困っている人を助けずにはいられない方、というふうに考える向きが多いと思われます。もちろん、イエス様も父なるみ神も優しくて愛に満ちた方というのは否定できないから、そう見ることもできますが、それだけが奇跡の業を行った理由というのは一面的すぎるでしょう。もし、それだけならば、イエス様はなぜもっと地中海の東海岸地方だけでなくてもっと広く世界各地を回って奇跡の業をし続けなかったのか、ということになります。世界各地にはまだまだ病気や飢饉はあちこちにあったのですから。しかし、イエス様は時間一杯とばかり、30歳そこそこでミッションを打ち切ってさっさと十字架の苦しみの道に入られました。しかしそれは、イエス様と父なるみ神にとって、十字架と復活の出来事を起こして、早く神と人間の結びつきを回復して、人間を永遠の命に至る道に置いて歩めるようにすることが何にもましてすべきことだったからです。

イエス様が、十字架と復活の時が来るまで奇跡の業を行った理由として、そのことを通して、人々が彼を神のひとり子であると信じさせるひとつの手段として用いていたことがあります。ヨハネ14章でイエス様は、イエス様がまだ神から送られた方だと実感できないと言う弟子のフィリポに対して、次のように言いました。「フィリポ、こんなに長い間、一緒にいたのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見たものは、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を示してください』と言うのか。わたしが父の内にいて、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におわれる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14章9-11節)。人間は、ただ言葉で聞いても信じられない、それならば、イエス様が行った業をもとに信じなさい、ということです。

しかしながら、こうした信仰の手段として奇跡を用いることはイエス様自身、問題があることをよくご存知でした。ヨハネ6章で、5千人の群衆がわずかな食糧で空腹を満たされた後、イエス様の後を追いかけてきます。その群衆に対してイエス様は次のように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6章26節)。奇跡を経験した人々は、それをイエス様が神から送られたひとり子であることを示すしるしとまでは捉えるには至らなかった。イエス様のことを、ただ人々の欲や必要を満たしてくれるありがたい方、一緒にいればまだまだいいことがある、そういう期待を持って追いかけてきたことをイエス様は見抜いたのです。奇跡を経験した人が、もしイエス様を神のひとり子と本当にわかって信じることができれば、その人の心は、どうやって自分の必要や欲をさらに満たしてくれるかということから離れて、どうやって自分は神の御心に従って生きることができるか、ということに向けられるようになります。それができるというのは、やはり、十字架の死と死からの復活という、奇跡中の奇跡が起きないとなかなか難しいのです。

このようにイエス様は、人間というものは、言葉だけでは信じられない弱さがあると知って、奇跡の業を信仰に至る手段として用いつつも、それが必ずしも正しい信仰をもたらさないリスクを持っていることを知っていました。このように人間とはしょうもない存在なのです。それにもかかわらず神は、そんな私たち人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにと、しかもその生きる道が死を超えた永遠の命に至る道であるようにするために、イエス様をこの世に送られ、彼を犠牲にまで用いて人間の救いを実現して下さったのです。このような神は、永遠にほめたたえられますように。

 

5.イエス様が母マリアに「私の時はまだ来ていない」と言ったのは、彼はまだ人々と共にいてミッションを行う立場にある、ということを意味します。ミッションの中には、人々を信仰に導くための奇跡の業も含まれますから、このぶどう酒が底をついて祝宴が台無しになり出した状況に対しても、何かしなければならないことは、イエス様自身よくわかっていました。そうすると、イエス様の言葉、「この件に関して、あなたはわたしに何を求めるのか。わたしの時はまだ来ていないのだ」というのは、私の知ったことか、という意味では全くなく、慌てふためくマリアに、あわてるな、落ち着きなさい、私が共にいる、という意味なのです。もちろんマリアも弟子たちも十字架と復活の出来事が起きる前は、イエス様の時とはどんな時かまだわかりません。しかし、マリアに関して言えば、かつて赤ちゃんのイエスを抱き上げたシメオンは、この子は将来神と神の民の間を取り持つ何かとてつもないことをすると預言していたので、何か将来重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で生まれたこの方は今私たちと共にいる。そうわかれば、イエス様の答えに拒否の意味は感じられず、言葉では言い表せない形にはならない信頼が彼に対して生まれて、落ち着きを取り戻して、召使たちに待機するよう命じたということになります。

イエス様は大量の水を上等のぶどう酒に変える奇跡を行いましたが、それを行ったのは、自分が神のひとり子であることを示す以外の目的では行うのではない、母親を含めて単に人にお願いされたから自動的にそうしてやるのではない、ということがあることを忘れてはなりません。マリアはイエス様の言葉を聞いて、落ち着きを取り戻し、信頼したのです。

 

6.イエス様とマリアのやりとりは、奇跡が私たちの信仰にとって持つ意味を考えるよい機会かと思います。当時の人たちと違って、私たちの目の前には奇跡の業をそれこそ目の前で行ってくれるイエス様がいらっしゃいません。彼は今、天の御国の父なるみ神の右に座し、再臨の日まではそこから私たち一人一人に対して大抵は見えない形で働きかけられます。もし、イエス様が当時のように私たちの目の前におられ、奇跡の業を行ってくれれば、私たちも信じやすくなるのにな、と私たちは思いがちです。ここで、イエス様の奇跡を受けたり目撃したりした当時の人たちと私たちの間には大きな違いがあることに注意しましょう。当時、奇跡を目のあたりにした人たちは、「イエス様の時」がまだ来ていない時に生きていました。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前に生きて奇跡を目撃した人たちでした。私たちはと言えば、十字架と復活の出来事の後の時代を生きる者です。イエス様の時が来た後の時代を生きる者です。この違いは決定的です。

しかし、ここに大事なポイントがあるのです。どういうことかと言うと、イエス様の同時代の人たちも、やがて十字架と復活の出来事を目撃して、イエス様が神の子であることが、これ以上の証拠はいらないという位にわかって信じることになりました。その結果、自分の必要や欲を満たしてくれるから神の子として認めてやるという考え方は消え去りました。自分を犠牲にしてまで人間と神との結びつきを回復しようとされた救い主として信じるようになったのです。それで、どうしたら神の御心に沿う生き方ができるかを真剣に考えるようになったのです。実は私たちも、このように十字架と復活の出来事の後、つまり「イエス様の時」が来た後に、心が入れ替わった信仰者と同じ立場にあり、同じ信仰を持っているのです。自分の置かれた状況や境遇に振り回されない信仰です。落ち着きを取り戻したマリアが抱いた不思議な信頼、イエス様に全てを任せられる信頼を私たちも持てるのです。この信頼があれば、あとはイエス様が私たちの思いと予想を超えることをして下さいます。マタイ28章20節で死から復活されたイエス様は弟子たち、そしてイエス様を救い主と信じる者たちに言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」皆さん、イエス様が共にいて下さいます。このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

クリスマス・イブ礼拝 説教「クリスマスの平和」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20節、イザヤ9章1-6節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1.
本日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と呼ばれる日です。この日、北欧の国フィンランドのトゥルクという町で1300年代からずっと続いている「クリスマスの平和宣言」(Youtubeで見る)という行事があります。目抜き通りを挟んで大聖堂の反対側にある建物のバルコニーから、トゥルク市の助役が巻物を広げて群衆の前でその「宣言」を声高らかに読み上げます。「平和宣言」などと言うと、世界の平和を祈願する内容かと思いきや、そうではなく、これから救世主イエス・キリストの誕生をお祝いする期間に入るので市民は相応しい仕方でお祝いしなさい、もし、このクリスマスの平和を破る者がいれば関連法令に基づいて厳しく罰せられるから注意するように、という内容で、終わりに、喜びに満ちたクリスマスを市民に祈ります、と言って結びます。要は、救世主の誕生日を敬虔な気持ちでお祝いし、そうしたお祝いの秩序を乱してはならない、という当局からの通達です。世界平和の祈願とは趣旨が異なります。もっとも近年は、「クリスマスの平和宣言」の直前に、通りの反対側の大聖堂にてルター派教会、カトリック教会、ロシア正教会の代表者が集まって、世界の平和を祈る集会が持たれています。それが終わると大聖堂の鐘がなって、伝統的な「平和宣言」が告げられる番になります。(トゥルク市の「クリスマス平和宣言」はテレビで全国中継されるほか、インターネットで世界中に同時配信されています。)

「平和」という言葉は、普通は戦争のない状態を意味すると理解されます。国と国、民族と民族の利害が衝突した時、武力を用いないで解決することを平和的解決と言います。そういう衝突や対立がない状態という意味での平和があります。今日本にいる私たちにとっても重く圧し掛かっている問題です。他方で「クリスマスの平和宣言」に言われるような、イエス様の誕生を感謝の気持ちと喜びをもってお祝いできる状態という意味での平和もあります。もちろん、そういうお祝いが出来るためには国や社会が平和であることが大事です。フィンランドの「クリスマスの平和宣言」も、第二次大戦中の1939年は空襲警報が鳴ったため中止になりました。しかしながら、国や社会が平和ならばいつも感謝の気持ちと喜びをもってイエス様の誕生をお祝い出来るかと言うと、そうとも限りません。というのは、心がイエス様以外のものに向いていたら、それは本当のクリスマスのお祝いではなく、そこにはクリスマスの平和はないからです。裏を返して言うと、国や社会が平和でない時も、心がしっかりイエス様に向いているならば、可能な仕方でお祝いをすることが出来ます。第二次大戦中のフィンランドの「クリスマスの平和宣言」は1939年は中止されましたが、その他の年は戦時中もちゃんと行われていました。

先ほど朗読して頂いたルカ伝福音書2章の中で、イエス様が誕生した夜、天使の大軍が夜空に現れて「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の言葉を述べました。この、イエス様の誕生に結びつく平和、クリスマスの平和とはどんな平和なのか?これから、このことを見ていきたいと思います。

 2.
ここで、イエス様誕生の歴史的背景について触れておきます。これは、出来事がおとぎ話とか空想物語と片づけられてしまわないためにも大事なことです。実を言うと、イエス様がこの世に誕生した年月日というのは、歴史資料に限りがあるため100パーセント正確には確定できません。それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほどのルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデという王様はいましたが、独立国としての地位は失っていて、それはローマ帝国の支配下に置かれる属国でした。ローマ帝国は大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのです。先日、アメリカの教会学校の教材を見ていて、イエス様の誕生の出来事を物語風にアレンジしたテキストを見つけました。そこで、皇帝の勅令を聞いたヨセフが「政府ときたら俺たちにもっと税金を払わせたがってるんだ!The goverment wants us to pay more tax!」と文句を言っていました。小学校低学年の子供にもうガヴァメントか、などと驚いてしまったのですが、ヨセフをはじめ同胞たちの気持ちはそんなものだったでしょう。

さて、ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものは記録がありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前6-7年という数字が有望になります。

イエス様が誕生した日にちについては、西暦400年代にキリスト教会が12月25日に降誕祭をお祝いし始めたことに由来します。他方で、もっと前の西暦100年代に1月6日が顕現日という祝日に定められました。顕現日というのは当初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念することと、イエス様の誕生を記念することの双方が祝われていました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の証言は、まだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。降誕祭が1月6日から12月25日になった経緯は明らかではありませんが、いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。

3.
クリスマスというのはイエス様の誕生をお祝いする日です。それで、イエス様が歴史上、実際に生まれた日が世界最初のクリスマスになります。聖書に従えば、イエス様は神のひとり子です。そして聖書の神とは、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えて下さった父なる創造主です。これに父の子と神の霊である聖霊も併せて、この父、御子、御霊の三つが一つの神を成すというのがキリスト信仰の立場です。この三つを除いた全ての万物は、神に造られたもの、被造物ということになります。私たちの目に見えるもの、また目に見えない霊的なものも全て被造物ということになります。天使たちもそうです。

これから考えると、世界最初のクリスマスの驚くべきことは、造り主に属する神のひとり子が人間として、つまり被造物の形を取って生まれたということです。加えて、天上の神の栄光に包まれていた方が家畜小屋で生まれたということです。皆さんは、家畜小屋がどういうところか想像つくでしょうか?パイヴィの実家が酪農業を営んでいるので、休暇の時はいつも子供たちと一緒に牛を見に行ったものでした。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。数分いるだけで臭いが服にしみつき、後で周りの人に、牛舎に行ってきたなとすぐ気づかれるほどです。

神のひとり子であり人間の救い主となる方が、なぜこのような仕方で地上に送られなければならなかったのか?人間に命と人生を与える造り主の立場にある方が、なぜ自ら被造物の形をとって、しかも家畜小屋で生まれなければならなかったのか?まず、神が人間として生まれたということについて見てみます。ここで大事な視点は、もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っていただけだったろうということです。それでは神と人間の間にある問題を解決することは出来ません。神と人間の間にある問題とは何かと言うと、それは、旧約聖書の創世記にあるように、神に造られた最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったということです。そのために神と人間の結びつきが壊れ、両者はいわば敵対関係に陥ってしまいました。

そこで神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきのなかで生きられるようにしようと考えました。そのためにひとり子をこの世に送り、敵対関係を終わらせるための犠牲の生け贄になってもらったのです。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに、神は、一度死んだイエス様を蘇らせて天に上げられることで、死者の復活が本当に起こるということも示されました。これらのことを実現するためには、被造物はあまりにも無力でした。それを可能にする本物の犠牲が必要でした。それがイエス様だったのです。イエス様が本物の犠牲になれたのは、彼が通常の男女の結びつきから生まれてくる被造物でなかったからでした。聖霊の力が処女マリアに働いて受胎・妊娠が起きて生まれた。そのようにして、イエス様は神としての性質を保ちながら、人間の肉体と魂を得たのでした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、神と人間の間に和解をもたらすために神自らが人間に歩み寄って自分を犠牲に供したということです。

4.
それでは、神のひとり子が人間として生まれるのなら、なぜベツレヘムの家畜小屋での出産というような形をとらなければならなかったのでしょうか?聖書を読むと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、有限な私たち人間に影響力を及ぼす時、大抵は自然界と人間界の諸条件の枠内でそうします。時として、自然界の諸条件の枠を打ち破るような影響力を行使して、自然界の中で起こりえないことを起こすこともあります。それが奇跡と呼ばれるものです。例えばイエス様が医療の技術もなく不治の病を治したとか、湖の水の上を歩いたとか、5切れ程度のパンで5千人以上の人たちの空腹を満たしたとかいうものです。

人間界の諸条件の枠内で影響力を及ぼすというのはどういうことか?イエス様の誕生に即していうと次のようになります。紀元前6年頃、現在パレスチナと呼ばれる地域で、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡のために処女のまま妊娠した。その時、彼らを支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。さて、旧約聖書にはメシア救世主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という預言があります。ローマ皇帝はそんな他の民族の聖典の預言など全く知らずに勅令を出したわけですが、そのおかげで預言が実現することになりました。

出産場所が家畜小屋になったことについても、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、町の郊外にいた羊飼いたちに天使が現れて、今ベツレヘムでメシア救世主が生まれた、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれである、と知らせました。これが重要なヒントになりました。なぜなら、家畜小屋を探せばよいからです。単に救世主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤ちゃんは見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。

イエス様の家畜小屋での出産の出来事から次のことがわかってきます。神はヨセフとマリアを歴史的状況、社会的状況の荒波に揉まれさせてはいるが、決して彼らの運命の手綱を手離すことなく、ずっとしっかり握っていたということです。はじめにマリアの妊娠は、戒律厳しいユダヤ教社会の中では不倫か結婚前の関係かと疑われたでしょう。事は十戒の第六の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。しかしヨセフは、神の計画ならば自分たちには周囲の目など気にせず、この私が育てますと決意します。そう決心するや否や、今度は支配者の命令が下され、身重のマリアを連れて160キロ離れた町に旅をしなければならなくなります。やっと着いても泊まる所がなく、家畜小屋で子供を産むことになってしまいます。ところが、まさにちょうどその時、神は天使を通してイエス様の誕生を羊飼いたちに知らせ、彼らにイエス様を探し当てさせました。本日の福音書の箇所によると、家畜小屋には親子3人と羊飼いたちの他にも人々が集まっています。恐らく羊飼いたちは黙って探したのではなく、今夜この町でメシア救世主がお生まれになりました!今飼い葉桶に寝ておられます!家畜小屋はどこですか?と声に出しながら探し回ったのでしょう。羊飼いたちはヨセフとマリアと集まった人々に天使が告げたことを話しますが、人々は天使など見ていませんから、半信半疑です。しかし、天使が現れなければ羊飼いが飼い葉桶の赤ちゃんを探すこともないわけだから、嘘とも決めつけられない。聖書に書いてあるように、ただただ驚くしかありません。他方マリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを既に知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのです。これも書いてある通りです。

以上、ヨセフとマリアは、ベツレヘムまでの旅を余儀なくされて挙句の果ては家畜小屋においやられてしまいましたが、羊飼いたちがやってきたことで、これは不運でもなんでもない、神は何時いかなる時でも絶えず目を注いで下さっている、ということがはっきりしました。このように神は、神を信頼しより頼む者を状況の荒波に揉まれさせて、何もしてくれない、助けてくれないように見えても、実はその人の運命の手綱をしっかり握っていて離すことはないのです。必ず、その人に対する神の計画が明らかになり、それまでのことは無意味ではなかったとわかるのです。

5.
このように外面的には嵐と荒波があっても、心は落ち着いていられる平和がある。そのような平和についてルターは次のように教えています。今年は宗教改革500年記念の年なのでルターの教えを引用するのは相応しいことでしょう。この教えは、イエス様がヨハネ14章27節で弟子たちに与えると約束した平和、「イエス様の平和」について解き明かすものです。

「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。

 この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏がもたらした害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。

 人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪が残っているところにもあるということは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかということを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」

一体誰がこのような平和を持てるでしょうか?先ほどのルカ伝福音書2章14節の天使たちの賛美を思い出しましょう。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

これは、不思議な文句です。原語のギリシャ語のテキストを見ると、名詞と前置詞と接続詞から成り、動詞がないので正確な文ではなく、何か詩のような形です。もともとは羊飼いたちが理解できる言葉だったので、天使たちは彼らの言葉であるアラム語で賛美したのでしょう。あるいは、天上の言葉を使い、それを羊飼いが心で理解して、アラム語で周りに伝えたのかもしれません。いずれにしても、イエス様に関する記録は全て、最初アラム語で口伝えにされたり書き記されたりしましたが、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にことごとくギリシャ語に翻訳されてしまい、私たちの手元に残っているのはギリシャ語のテキストだけです。これを手掛かりにしてみていくしかありません。

天使たちの賛美の文句は2つの部分からなります。最初は、神の栄光について言い、次は平和についてです。「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神にあるものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは「栄光はいと高き天上の神にある」というのが正確でしょう。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、「神の御心に適う人」です。「平和」は、先ほども申しましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現しました。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちがこの神との平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」です。まさにこの平和は、外的な平和が失われた時であろうが、また人生の中で困難や苦難に遭遇しようが、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和です。使徒パウロが教えるように、そういう平和を持つ人は、ダメもとでも周囲と平和な関係を築こう、少なくとも自分からはそれを壊すことはしないというのが当然になっていきます。そういうわけで、天使たちは、栄光が天上の神にあるのと同じくらい、平和もイエス様を受け入れる者にある、だから、出来るだけ多くの人がこの平和を持てますように、と願っているのです。皆さんも、この平和を持つことができますように。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教:木村長政 名誉牧師

 聖書ヨハネ福音書1章3~5・14節

今日はクリスマス特別礼拝です。聖書はヨハネ福音書1章3~5節と14節であります。クリスマスの出来事をヨハネ福音書の方では1章5節を見ますと「光は暗闇の中で輝いている」そして14節になって「言は肉となって私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」と書いています。「この世の人間の心は暗闇である。その暗闇の中に天からの光輝くまことの救い主イエス・キリストが来られた」とこのように告げています。ルカ福音書の2章ではクリスマスの夜、神の栄光が照り渡ったとあります。そこへ御使いたちがあらわれると、主なる神の栄光が羊の群れ一帯をめぐり照らした。羊飼いたちを包むように闇の中に光の束となって照り輝いた。羊飼いたちは、もうびっくり仰天です。真っ黒な闇が一瞬にして昼のように明るくなったのですから、これはもう何事が起こったのだろうと驚きと恐ろしさのあまりひれ伏してしまったことでしょう。クリスマスの光は神の栄光です、天の御使いたちが一斉に神を賛美します。クリスマスには私たちもまず神を賛美するのです。天使たちは歌います「いと高きところでは神に栄光があるように!」。・・・クリスマスは神の栄光に始まって神の栄光に終わった、と言ってもいいでしょう。クリスマスにあらわれた神の栄光というのはどんな光でしょう。旧約聖書の詩篇には次のようにあります。詩篇19「もろもろの天は神の栄光をあらわし大空は御手の業を示す」。・・・そうすると神の栄光というのは、もろもろの天があらわすものですから光とは限らない。普通には神の栄光があらわれた時には眩しいほどの光に照らし出されたというイメージでしょう。私たちの知っている光にはいろいろな光がありますね。太陽の光、熱いねつがあります、月の光は熱いものではありません。人間が最初に作り出した焚き火の光、ろうそくの光、ランプの光、そして科学が進んで電気によるさまざまな色の光があります。自然の雲の中を走る雷の光など光と言ってもいっぱいあります。羊飼いたちをめぐり照らしたのは太陽の光でもない、月のあかり等でもない、どこから来たのでしょう。天からの光で神からの光であります。

旧約聖書の出エジプト記にはモーセが神様にお願いしました、「どうぞあなたの栄光をわたしにお示しください」。すると神様はそれに答えて「わたしはもろもろの善をあなたの前に通らせ主の名をあなたに述べるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。と言われた。

更に「わたしの顔を見ることはできないだろう」と仰せになりました。どんな人間にとっても恐ろしいことです。罪ある人間には眩しくてとても見られないでしょう。神の栄光というのは神が最も生き生きとしてあらわれたもう、ということです。神の御心がはっきりあらわれて神の恵みが強く感じられる時にわたしたちは神の栄光を仰ぐことができるのであります。神は今もわたしたちのこの世界に生きておられます。しかし信仰によってその御力や御恵みが分からない人には、ここに神の栄光が満ちていることは分からないのです。しかし詩篇19編を書いた人はどこを見ても神の栄光がみえたのでしょう。ですから、もろもろの天が神の栄光をあらわしていると歌っているのです。クリスマスは神が生き生きと生きておられるということをわたしたち人間に示すためにあったということであります。それは御使いが出てきて羊飼いの周りを照らしたからではありません。それは一つの徴でしかないのです。この徴によってこの夜まことに力強く驚くほどの恵みを持って神は生きておられる事を示されたのです。しかもそれだけでなくその栄光がわたしたちの目で見えるようにしてくださったのであります。

コリント信徒への第2の手紙を見ますと4章6節には「闇の中から光が照り出でよ」と仰せになった、「神はキリストの顔に輝く神の栄光を悟る光を明らかにする為にわたしたちの心を照らしてくださった」と言っています。

ここに神の栄光はキリストの顔に輝いている、というのです。キリストの御顔を見て、そしてキリストの生涯を見てキリストのなさったこと、キリストが語られた御言葉を見ると神の栄光が見えるというのであります。こうして今は聖書を通してキリストというお方によって神の栄光をあらわしてくださったのであります。クリスマスの夜にはベツレヘムの馬小屋の中で神の栄光が見られました。だから羊飼いたちもむさくるしい仕事着のままで見に行けたのです。そこで神様が疑いもなく生き生きと生きておられることを知ったのであります。それはこんにちも同じです。クリスマスは神様が一番わたし達の身近に感じられる日なのです、どうでしょうか。神はなぜそんなにはっきりとご自分をお現しになったのでしょうか。それは神が私たちを放っておかれないからであります。人間は勝手な者であります、人間の身勝手さが最もよく現れるのは神のことを考える時であります。少し幸せが続くと神に感謝する気持ちに素直になれます。神様のおかげだと感じます。しかし少しいやなことがあると神に感謝する気持ちなどになれない、どうしてこんなに辛い目にあうのかと落ち込みます。又いろいろな事がうまく行くと今度は自身を持つようになって神なんかもう信じなくても自分だけでやって行けると思うわけです。又少し不幸が続くと神はもう自分を見放してしまわれたのではないかと疑うのです。神がおられることは信じているかも知れませんが実際は神様と言っても天の高いところにおられて自分たちのことは余り親身になって思ってくださらないのではないかと疑ったりもします。ところがクリスマスに神の栄光がこんなに強くあらわれたのはそうしたことではない、ここに神様が生きて働いておられることが事実歴史の只中に現されたのであります。御光となって輝き出るまでにそれが示されたのであります。それはこの時だけでなく、いつでも生きておられるという、しるしであります。生きておられるだけでなく、この世とそこに住む人間を放っておかれるのではない、ということであります。それがクリスマスの時にはっきり出てきたのです。それはクリスマスの時以外でも神は私たちを放っておかれるのではない。ですからクリスマスの恵みを知った人はいつでも神の栄光が私たちの周りを照らしている。私たちはそういう神の恵みの中に生きているので、なんという素晴らしいことでしょうか。

世界中の教会がクリスマスは祝われています、私たちは余り代わり映えのしない毎日の生活であります。しかし時として美しい公園や花園に足を踏み入れたり高い山に登るとき森の中では美しい自然がいっぱいです。自分にホットします、新しい発見をします、小さな恵みをみつけます。そしてそれならそれらしい生活をしようと思うのです。それと同じようにクリスマスに神の栄光を知り神が生きて働いておられることに触れたなら神の不思議な支配の中にいるのを軽んじるでしょう。それならそれらしく生きようとおもうのです。クリスマスはそのための最も確かな恵みの時であります、素晴らしい時です、そんな素晴らしい瞬間に私たちは生きるのです。神が御自分を最も生き生きと現されるというのはどういうことでしょう。それは人間を救おうとして現れる時であります。人と人との間でも人が一番強烈に自分を印象付けられる時というのはどういう時でしょう。それはきっと自分が助けられた時でしょう。あの時あの人に助けてもらった。いま自分がここにあるのはあの人のおかげである。と特別にお世話になった人を自分は生涯忘れられないからであります。あの人のあの親切がなかったら自分はもうダメになっていたかも知れない。今日の自分はなかったと思う、そのような愛、親切、助け、救い、それこそどんな姿よりも忘れられないことになるでしょう。その時その人が一番生き生きとして感じられるのであります。神が直接ふれて働いてくださる、救ってくださっているのであります。

神が人間をおつくりになられた時、神の御計画は完全なものでした。すべてのものは良かったのであります。それを詩篇の19編の作者は「もろもろの天は宇宙のすべてのものが神の栄光をあらわしていた」と神のおつくりになった宇宙を、世界を、神の美しさ自然を賛美したのです。ところが人間はこの自然を破壊し罪の人間が神の御計画の美しさを壊してしまって、神の美しさ、立派さをなくしている。時がたつと共に人間は偉くなったと思い人間の自我が奢り高ぶって人間はみな自分中心に生きるようになってしまった、その本来の美しさを失ってしまった。神本来のつくられた目的にしたがって神の栄光を現そうとしないで、自分の名誉、自分の利益のことしか考えていない。そこに栄光の光と共に救い主がおいでになられたのです。人を救うために来られた。もう一度神の栄光のために生きることのできる人間となるように、つくりかえるためにおいでになった。それがクリスマスであります。救い主が誕生されて私共の中に来てくださったのであります。あなたのためにイエス・キリストは救い主として来られたのであります。クリスマスの栄光がきょう私たちの上にありますように。

                アーメン・ハレルヤ!

 

説教「イエス様を心に迎えて、恐れを捨てよう」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章19-28節、第一テサロニケ5章16-24節、イザヤ61章1-4節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

今年は12月3日が待降節の第一主日となって、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。そういうわけで、本日は教会新年の三回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節や降誕祭・クリスマスは、一見すると過去の出来事の記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、つまり再臨するからです。私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を呼び覚まして、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様の再臨の日とは、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に創造し直される日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。イエス様が教えられたように、その日がいつであるかは、父なるみ神以外には誰にも知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、と。主の再臨を待ち望む心を呼び覚まし、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということです。

 本日の使徒書の日課である第一テサロニケ5章にも、イエス様の再臨の日にどういう状態でいなければならないかについて述べられています。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つかけたところのないものとして、守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものにしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(23ー24節)

「平和の神」というのは、神がひとり子イエス様の犠牲の上に人間との間に平和な関係を打ち立てたということを意味します。イエス様の犠牲とは何か?どうしてそれが神と人間の間に平和を打ち立てたのか?そのことは後ほどみていきます。パウロは、その平和の神が信仰者を頭のてっぺんから足のつま先まで全部を清めて、神聖な神の前に立たされても大丈夫なようにして下さいますように、と祈ります。神が人間を清めて神聖に相応しい者にするのがどうして大事なのかと言うと、次に「主イエス・キリストの来られるとき」と言われるようにイエス様の再臨があるからです。イエス様の再臨の時というのは最後の審判の時であり、そこで誰が神の御国に迎え入れられ、誰が迎え入れられないかという問題が起きてきます。神が人間を清めて神聖に相応しい者にしてくれると、人間は神の前に立たされた時、「この者の霊はパーフェクトで、魂と体も文句のつけようがない」と認めてもらえるのです。人間がそのようになることをパウロはここで祈っていて、神は約束をちゃんと守る忠実な方なので、祈られたことを必ず果たしてくれると言っているのです。どのようにして神は人間を清めて、最後の審判の時に神の前に立たされても大丈夫のようにしてくれるのかについては後ほどみていきます。

ところで、今ある天と地が新しい天と地に取って代わられるとか、最後の審判とか言うと怖くなって、誰もそんな日は待ち望みたくないと思うでしょう。確かに聖書というのは、今ある世は初めがあったように終わりもあるという立場に立っているのはわかるが、そんな世の終わりなどというものを考えていたら、今生きていることが意味のないものに感じられてやる気がなくなってしまうじゃないか、と。しかし、キリスト信仰にあっては、そのような無力感に陥ることはありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものであるという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、そうする。解決が必要な問題は、解決に向けて努力していく。こうした世話や改善や解決をしていく際には、判断の基準として常に、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、神への全身全霊の愛に基づいて、隣人を愛しながらやっているかどうか、ということを考えます。

このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、なおかつ、心の中では主の再臨を待ち望むのです。無力感に浸ってなどいられません。(また、新しい天地創造だとか最後の審判などと言っても、その時まで生きていなければ関係ないだろうと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰というものがありまして、その日まで生きていなくとも、その日目覚めさせられて神の前に立たせられるので、結局は同じことになります。)

さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについてひとつ大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

 2.

 本日の福音書の日課は、洗礼者ヨハネが来るべきメシア救世主のために道を整える役割を果たしたというところです。ヨハネは、人々に「悔い改めよ」と説いて、来るべきメシア救世主を受け入れる準備としての洗礼を施し始めました。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちは、ヨハネのことを、神の裁きが始まる前に神から送られる預言者エリアではないかと心配しました。というのは、旧約聖書のマラキ書3章にそのことについての預言があるからです。エリアというのは、列王記下2章に記録されていますが、生きたまま天に上げられた預言者です。ユダヤ教社会では、マラキ書の預言のゆえに、神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送ると信じられていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではなく、ましてはメシア救世主などでもない、自分は、イザヤ書40章に預言されている「主の道を整えよ」と叫ぶ荒野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日、この世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、本日の旧約の日課イザヤ書61章に預言されている「神の僕」が来なければならない。自分はその方のために道を整えるものだ。そう、ヨハネは自分の役割について証をします。そのために、人々に罪の告白をさせて、身も心も神に立ち返られるようにする手助けとして洗礼を授けたのです。ただ、これはまだイエス様がもたらすことになる、「罪の赦しの救い」そのものを与える洗礼ではありませんでした。ヨハネの洗礼は、人々を「罪の赦しの救い」に導くための出発点だったのです。

「主の道をまっすぐにせよ」とは、ギリシャ語の単語ευθυνατεは「平らにせよ」とも訳せますが、要は道を整えなさいということです。主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。ここで一つ注意しなければならないのは、天の父なるみ神も、また神が送られるメシア救い主も、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは彼らに障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神の方でそのままほっておかれるのです。

 私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを考えてみたく思います。それがわかったら次は、どうやったら私たちはそうした障害物を取り除くことができるかを考えてみます。そもそも、神と救い主が私たちに近づくというのは、どういうことなのでしょうか?私たちは、その近づきが本当に良いものであるとわからなければ、何が障害になっているのか、それはいかにして取り除くことができるのか、そういうことには興味を持たないでしょう。そういうわけで、最初に、神と救い主が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが良いことなのか、ということについて考えてみます。

「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実を言うと神は、もともとは人間から離れた方ではありませんでした。創世記の初めに明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいられたのです。それが、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神が取ってはならないと命じた実を食べてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に、神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死ぬ存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪がもたらす報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。人間は神との結びつきを失ってしまっただけでなく、罪のゆえに神との間に敵対関係が生まれてしまいました。神は、罪を目の前にすると焼き尽くせずにはおられないほどの神聖さを持つ方なのです。

 人間がこうした状態に陥ったことに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実行するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神のこの救済計画は、旧約聖書を通して、その都度その都度預言されてきました。実に旧約聖書というのは、来るべき救世主について証する書物群なのです。

 さて、神が人間の救いのために行ったことは以下のことです。人間は自分の力で罪を心身から除去することができません。それが出来ないと、罪の呪いの力の下に留まるしかありません。そこで神は、人間の全ての罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての責任者であるかのように仕立てて、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせました。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。罪の赦しを受けた者はもう罰を免れるので、罪の支配下にいないことになります。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間に開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、人間を罪の支配下から解放し、死を超える永遠の命の可能性を開いて下さったのです。これが、天地創造の神による人間救済です。

 このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復して、再び永遠の命を持つことができるようにするためでした。このことは、ヨハネ福音書3章16節にイエス様の言葉として凝縮されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 3.

それでは、神がこのように私たちに素晴らしく近づかれた時、私たちの方で神の近づきを妨げるものは何でしょうか?この問いに答える前に、まず逆に、どうやったら神の近づきを受けることができるのかを見てみましょう。

私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪が他の全ての人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩と頭に、私の罪がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまでは歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それはもう、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、自分にも命と人生を与えて下さった造り主である神の計らいだったということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、突然自分の目の前に自分の救い主として立ち現われてきます。

 イエス様が救い主として立ち現われたら、それはもう彼を救い主と受け入れていることになります。人間は、イエス様を自分の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。「お前は私がお前に送ったイエスを救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう。」そう神は言ってくれるのです。私たち人間は肉を纏っている以上は誰もが罪を内に宿しています。それにもかかわらず神は、イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、先ほども申しましたように、神の裁きがなくなったということです。神の裁きがなくなったということは、人間をなんとしてでも裁かれるようにしようと必死だった罪があわれにも、イエス様を信じる者に対してはそうする力を失ってしまったということです。まさに人間は、罪の赦しを受けることで神との結びつきを回復でき、神との敵対関係がなくなって平和な関係になります。イエス様のおかげで罪から解放され、神との平和な関係に入った者は今度は、これからは神から頂いた愛と恵みに相応しい生き方をしよう、自分の命はイエス様の犠牲によって新しくされたのだから、何が神の意思に沿うかよく注意しよう、という心になります。使徒パウロは、本日の使徒書の箇所でも他の箇所でも、命を新しくされた者たちの心得を何度も何度も説いています。「全てを吟味して、良いものにしっかり留まり、悪いものを遠ざけなさい。」(第一テサロニケ5章21ー22節)。

しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ力を持っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び罪の支配下に置いて、神との結びつきや平和を失わせようとします。これが悪魔の仕事です。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で「罪の赦しの救い」を受け取ることができるのですが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。救い主がついていて下さることを忘れさせようとするのは、私たちに残存する罪や悪魔だけではありません。私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も忘れさせようとします。そのような時でも、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり応じられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8章38ー39節)

 4.

 以上から、神とひとり子イエス様の近づきを受けるためには、人間の方で自分には罪がある、たとえ行いに現れなくても心の中に神の意思に反するものがある、と認めなければならないことが明らかになります。そうしてみると、罪を認めることが神とイエス様の近づきの妨げを取り除くことになります。これは少し変な感じがします。というのは、自分には罪がある、神の意思に逆らうものがあると認めたら、かえって神やイエス様は近づいてくれないのではないかと思われるからです。しかし、そうではないのです。これまで見てきたように、本当は罪を認めたら、イエス様が私たちの心に入って来て、私たちは新しく生まれ変わるのです。そうすると、イエス様の近づきを妨げるものは何かと言うと、ずばり、それは罪を認めないことになります。それが、道を整えないことになります。

それでは、どうして自分には罪、神の意思に反するものがある、と認めないということが起こるのでしょうか?キリスト信仰で罪が強調されることが反発を生み出すことが考えられます。「完璧な人間などいないのだから、絶対で神聖な神など持ち出さず、あくまで人間同士の問題にとどめて、事を必要以上に大きくしなくてもいいではないか?全て善い悪いは、人間の考えや感情を基準にして決めて行けばいいのだ。神など持ち出されるといつも後ろめたくなってしまう」と。しかし、逆説的ですが、キリスト信仰では一瞬後ろめたさが起きても、すぐ大きな安心が来てそれを吹き飛ばしてしまうのです。そういう大きな安心がいつも控えているのです。そんな安心感はどこから来るのか?キリスト信仰者は、自分の命はイエス様に支えられていると知っています。そして、このイエス様のおかげでいつか神の前に立たせられても大丈夫でいられるということも知っています。なぜなら、自分を造ってくれた神がこの自分を、神の意思にそぐわなくなってしまったにもかかわらず、ひとり子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということが土台になっているからです。この神の私たちに対する愛は私たちを驚かせ、私たちを謙虚な者に変え、感謝の気持ちで満たします。そこから私たちは、神の意思に沿う生き方をしよう、と志します。しかし、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。告白に続く罪の赦しは、「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」と確証を与えます。

このように、主の道を整えるとは、障害物を取り除き道を整えるとは、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて、神の愛などない、神の意思に沿うように生きるなど無駄なことだと思わせようとするでしょう。本説教の初めに申しましたように、キリスト信仰者とは世話したり改善したり解決したりするものがあれば、忠実に誠実にそうする。しかし、本当は良い結果をもたらしたかったのだが、力不足でできなかったということがあります。あるいは周囲から「クリスチャンのくせに、大したことないな」などと失格者のように言われることもあります。しかし、あなたが世話や改善や解決に努力した時に、忠実に誠実に行ったことは天の父なるみ神はちゃんと見て知っています。真実を知らないでとやかく言う者がいても、それは神でもなんでもありません。そういう人に対して慌てる必要はありません。イエス様が共にいて下さる限り神に対してやましいところは何もないということであれば、何も恐れる必要はないのです。

そういうふうに考えると、上手い言い方ではないかもしれませんが、キリスト信仰者には「ふてぶてしさ」があると思います。本日の旧約の日課イザヤ書61章では、神に遣わされた者が人々に自由と解放をもたらすという預言がありました。神に遣わされた者とは、もちろんイエス様を指します。罪の束縛から解放された者は「神の栄光を現わすために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」とあります(3節)。「樫の木」アイルאילとは、ヘブライ語の辞書では特に何の木か特定されておらず、単に「巨大な木」です。「正義」も、神に相応しいとされるという意味で「義」צדקと訳した方が良いと思います。「罪の赦しの救い」を受けた者は、神が植えられた義の大木である、ということです。どーんと構えている大きな木です。しかも、この世に神の慈愛に満ちた栄光を現すために植えられたというのです。自分の栄光を現わすためではありません。それで、「ふてぶてしさ」とは言っても、とても謙虚なふてぶてしさなのです。不思議なことですが、そうならざるを得ないのです。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは神が植えられた義の大木であることを忘れずに進んで行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「天使の御告げ」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書1章26~38節

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/12/Kimurasensei_2017_12_10.mp3

イエス様の御降誕を祝うクリスマスがもうすぐです。今日の礼拝ではクリスマスの喜ばしい出来事が起こる前に神様がどんな出来事をなさったのか、今日はマリアに起こった出来事を中心に御言葉に聞いてゆきたいと思います。ユダヤのガリラヤの町ナザレと言う村に一人の乙女マリヤがおりました。ガリラヤの町ナザレと言ってもこの当時誰にも知られていない片田舎です。26節によりますと〔6ヶ月目に天使ガブリエルはナザレと言うガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人の許婚である乙女のところに遣わされたのである。その乙女の名はマリアと言った。〕とあります。純粋で清らかな心を持っていたマリアに突然天使ガブリエルが現れたのですから彼女はどんなに驚いたことでしょう。そしてマリアに大変なことを告げたのであります。「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます。」マリアはいきなりこう言われて」驚きと恐れの思いで聞いたでしょう。天使の言葉は祝福の言葉ですが、なぜ祝福されねばならないのか全く分からなかったからであります。マリアは何を考えてよいのか天使に告げられたことが理解できないのです。何が自分の身に起きようとしているのか、天使の言われるままを聞いたいます。聞いていくうちにだんだん分かって来たのです。何が分かったにかと言いますと「主が一緒にいてくださる」ということであります。30節から見ますと天使がマリアに告げました。「マリア恐れることはない。あなたは神からの恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治めその支配は終わることがない」。マリアに対して、恐れなくて良いあなたは身ごもって男の子を産むと言われる。更に天使は告げます。「その子にはダビデ王の座をくださる」と言うのです。天使ガブリエルが告げた言葉は凄いことでした。マリアにはとてもとても考えられないことばかりです。マリアは思い迷って迷って心が乱れたことでしょう。どうしていいか何もかも分からなくなってしまった。マリアが驚いたのは自分にはあり得ないことであるからです。それで34節でマリアは言いました。「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしはまだ夫がありませんのに」。ヨセフとは許婚の仲で結婚はまだしていないのに、どうしてあり得ましょうか、と言うのであります。マリアの言葉はそのとおりに違いありませんが、ただそれだけのことでしょうか、ただ田舎の小娘が慌て恐れてこう言っているだけでしょうか。この前にルカはザカリヤの妻に起こったことを書いています・。

ルカはわざわざ聖書に書き残しておく必要がどこにあるでしょうか。〔実はルカはマリアの話だけでなく、1章5節から25節に至るまで祭司ザカリヤの妻に年老いてから子供が授かっていることを延々と書いているのです。〕年老いたザカリヤの妻に子供が産まれるという、どうしてそんなことがあり得ましょうか。マリアの身に起ころうとしていることが、その6ヶ月前に神様はもう90歳近いこの老夫婦に凄いことをおこされている。「どうしてそんな事があり得ましょうか」人間の目から見ると絶望的なこと、全く無力なことでした。確かにザカリヤ夫婦は子供を望んでいたでしょうが、もうずうっと子度は与えられなかった、それに老人になってしまって子供が出来るなんて考えられないことに絶望していたことでしょう。どう考えても人間の力ではどうにもならないことです。これがクリスマスを迎える全ての人に投げかけられる神からの不思議な神秘であります。そこで35節を見ますと天使

ガブリエルはマリアに答えてあげます。それは壮大な世界しかも深遠な神の霊の世界に触れて、その神秘のベールをあらわにされています。天使は告げます、「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。今や聖霊がマリアをすべて包んでいます。聖霊の出来事です。マリアが乙女であったとか神ご自身がどうして人間の姿をもってみどり子としてお生まれになったのか、そんなことより次元の違う神の霊の次元にマリアはただ恵みを得ているのです。だから生まれる子は聖なる者です、神の子と呼ばれるでしょう。マリアはもう神の霊に満たされて、すべてが神のご計画の中にあってその尊い御業は進められて行きます。マリアは天使の御告げを聞き彼女はそれを正しく受け止めることができました。そこには聖霊の助けとマリア自身の清らかな貧しくしかし純粋な信仰をもっていたからでしょう。カトリック教会の人々はマリアを聖母として特別な人間のようにお祈りをしたりします。しかしマリアが偉いのはそんな事のためではありません、マリアは主なる神が自分に対してなさったことをそのまま信頼をもって受け入れたことであります。そうしてマリアは心のそこから賛美があふれ出て言います。38節にありますように「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身に成りますように」、といっています。天使の言葉からマリアはこのような想像もつかないことが自分の身に起こって行く、それが主のために用いれられ生かされて行くというのです。わたしは、すべてを主に献げて信頼してゆきます、わたしは主のはしためです、と言っています。はしためと言うのは女奴隷のことです、だから、わたしは神様の奴隷でございます、と告白しているのです。奴隷は御主人様の言うままになる者です、その生命もすべて主人のものです。マリアは特別な運命の御業をすべて身に受けて自分を全く神の御手にまかせきったのです。マリアのこれからの身に起こってくる、いろいろな辛い苦難や人々からの非難が襲ってくる、そして家族や許婚のヨセフ、身にも影響して行くすべての事柄を「主のお言葉どおり従って行きます」といっています。それは、計り知れない大きなこと、そして大きな恵みであります、神の子を産むという大きな恵みです。マリアが奴隷と言ったのは少し言いすげでしょうか、神様の思いのまま、そのお考えがどんなものになるのか・・・どこまで思いのままに従うことなのでしょうか。私たちもマリアだけでなく信仰を持つということは神様に委ねて神様に従ってゆく生活です。けれども神の思いのままに従って行きます、とは言っても程度があると言うことになるのでしょうか。毎週の日曜日の朝を神に礼拝しに行くたびに、いろいろと自分の都合を挟み込んで考えてしまいます。自分のうちに口では言えないもろもろの課題が降り注いできます。マリアの思いがどんなに重いものであったか、私たちの神様にお任せする程度などちりのように吹き飛んでしまうほどしかないものでしょうか。

マリアと共にこれから先のことも私たちは一切を神にお任せして従って参ります。神に任せた者の祝福を受けるものがどんなものか、そこには及びもつかない神の祝福がいつもあるということです。マリアは主のはしためです、と言いましたが私たちは神の奴隷としてキリストの奴隷として信頼して主に委ねて行きます、と言うのでしょうか。私たちは神のみ前に罪の奴隷になっていたのにキリストの救いによって購われたのです、キリストに買い取られたのです。そしてキリストのものとなってしまっているのです。今日私たちが信仰生活をするとき少し真剣に考えてみると自分は自分で造ったものでない。両親が造ったものでもない、本当は神様によって造られた自分であることを思えば自分は神様に対して奴隷どころではない、自分は何もせず努力もしないで神様によってだけ造られて今があるのです。それならばマリアと同じように「お言葉どおりにしてください」と言うほかありません。天使は去って行きましたマリアはどうしたでしょうか、ルカは39節以下に一生懸命に書き記しています。マリアはザカリアの家を訪ねエリザベトに会いに行きました。エリザベトは聖霊に満たされてマリアを迎え喜び合います。42節にありますように「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」マリアは感謝と喜びに満たされて彼女の最大の心を込めて主を賛美しました。それが46~55節のマリア賛歌です。「私の魂は主をあがめ私の霊は救い主である神を喜び讃えます。・・・」実はマルチン・ルターはこのマリア賛歌を、分かりやすくドイツ語で請解説教のように書きました。1520~21年に書いてルターの身の危険から保護してくれたマイセンの領主ザクセン公ヨハン・フリードリッヒ殿下に捧げています。〔殿下よわたしは先日お送りくださいました殿下の親愛なるお手紙、恭しく拝受いたしましたその慰めに満ちたお手紙のおもむき全てを喜びを持って拝承しました、しかしながら殿下よ私が長い間お約束してまいりました「マリア賛歌講解」は多くの反対者との不幸な論争にしばしば妨げられていまだにその責任を果たしていません。それで私は同時にこの小冊子をもって殿下のお手紙に対するお返事に代えたいと存じます。〕王や君主は神のみ前にどうあるべきか、マリアの賛歌の51~53節をもって強調して行きます。

ルター自身がこの時カトリックの会議で破門されるかどうか生死との危険の只中で自分の身を重ね合わせている訳です。そして序言の書き出しには次のようにあります、〔この聖なる賛歌を順序正しく理解するには祝福された処女マリアが彼女自身の経験から語っていることを心にとめることが必要である。この経験において彼女は聖霊によって照らされ教えられたのである。というのは何人も直接聖霊から与えられない限り神も神の言葉も正しく理解することはできない。しかし何人もそれを経験し試し体得することなしには聖霊からそれを受けることはできない。かくして聖処女は彼女が価値なく卑しく貧しい、そして軽蔑された者にも関わらず神がかくも大いなる事を彼女のうちになしたもうたことを経験したときに聖霊は彼女に神はかくの如き主にいまし低き者を高うし高き者を低くしたもう、ということ、知恵と知識とを与えた。〕今回はこれまでにしましょう。 アーメン・ハレルヤ!