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聖書日課 使徒言行録3章12~19節、第一ヨハネ3章1~7節、ルカ24章36b~48節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
先週申し上げましたように、日本のルター派教会の聖書日課は復活祭から聖霊降臨祭までは第一の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録からです。フィンランドでは通常通り旧約聖書からです。どうして違いがあるのかわかりませんが、日本にいるので日本のやり方に従って説き明かしをしていきます。とは言っても、説教の中で旧約聖書に立ち戻ることはいつもあります。新約聖書は旧約聖書を土台にしているので、旧約に立ち返らずに新約を教えることは不可能です。
本日の3つの日課はどれもイエス様の復活が中心にあります。使徒言行録の個所では、ペトロが足の不自由な人を癒した後で驚く群衆に向かってどうして癒しが起こったのか説明します。そこでイエス様の復活を信じることが決め手になっていることを話します。第一ヨハネの個所では、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は神の子とされており、将来復活の日にはイエス様と同じようになるのだと言います。そして福音書のルカの個所は、ずばり復活したイエス様が弟子たちの目の前に現れた時の出来事です。このように本日の日課は、というか本日の日課も、イエス様の復活はキリスト信仰にとって大事なことなのだと私たちに言い聞かせています。そういうわけで本日の説教でもイエス様の復活と私たちの将来の復活について深めていこうと思います。本説教では、3つの異なるテーマについてお話しようと思います。一つ目は、イエス様の復活によって旧約聖書がユダヤ民族にとっての神聖な書物から全世界の民族にとって神聖な書物になったということ。二つ目は復活の体について。三つ目は復活したイエス様の名前が持つ力についてです。
復活祭から聖霊降臨祭までは復活節と呼ばれる期間です。約2000年前のその時は復活したイエス様が昇天するまで40日間地上にいて弟子たちを初め大勢の人たちに姿を現し、弟子たちに旧約聖書を正確に教えた期間でした。本日のルカ24章44節でイエス様は次のように言われます。モーセ五書と預言書と詩篇の中で自分について書いてある事柄は全て実現されなければならないということ、これこそが十字架の出来事の前にお前たちに言っていたことなのだ。その次の45節を直訳するとこうです。イエスはこれを言って弟子たちの閉じていた理解を開いてあげて聖書がわかるようにしてあげた。つまり、弟子たちは旧約聖書の随所にイエス様のことが書かれていることがわからず、その意味で旧約聖書がわかっていなかった。それをわかるようにしたということです。
そうしたイエス様について書かれていながら、そうと理解されていなかった事柄の例として、次のことを述べます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」これは旧約聖書のいろんな個所をまとめてくっつけたようなものです。分解すると、まず神から遣わされた神聖な方が人間の罪の償いのために身代わりとなって神から罰を受け苦しみを受けて死なれたということ。これはイザヤ書52~53章にかけてあります。また、ダビデの子孫の死の苦しみについては詩篇22篇にあります。イエス様が3日間葬られた状態でいた後に復活されたことは、預言者ヨナが大魚の腹の中に3日間閉じ込められた後で脱出できたことが暗示していました(マタイ12章39~40節)。ホセア書6章2節では、3日後の復活が暗示されています。またイザヤ書49章6節を見ると、神に遣わされた神聖な方が諸国民の光となって神の救いが世界の果てにまで及ぶようにすることが述べられています。
弟子たちの旧約無理解の是正はエマオの道の出来事にも起きます。これは今日のルカの個所の直前にある出来事です。二人の弟子が沈鬱な表情でエマオに向かっていました。そこに復活したイエス様が合流しますが、なぜか二人はイエス様とはわからない。彼らは困惑した様子で話します。民族の解放者と期待されていたイエス様が死刑にされてしまった上に彼の遺体が墓になかった。墓に行った女性たちが天使からイエス様は生きておられると告げられた。これらは一体何なのだ、全くわけがわからない。そこでイエス様はいかにも呆れたという様子で返します。お前たちは旧約聖書を全く知らないからそうなってしまうのだ、メシアが苦しみを受けた後で神から栄光を受けると書いてあるではないかと。そして弟子たちに旧約聖書について講義を始めるのです。旧約聖書にはイエス様に起こったことを言い当てた御言葉が沢山あることが教えられます。このようにイエス様の十字架と復活の後で旧約聖書はイエス様を知るための書物として立ち現われたのです。
弟子たちが旧約聖書をそのように理解していなかったのは、当時「メシア」の理解の仕方がユダヤ民族を異民族支配から解放してくれる王様というものが一般的だったからでした。確かに旧約聖書のメシアに関係する個所はそのように理解できました。しかも、バビロン捕囚後のユダヤ民族がずっと大国の支配に置かれ続けたという歴史状況の中ではそういう救国の王様への期待が強まるのはやむを得ないことでした。しかし、聖書にはそのような理解では意味不明になる個所が多くありました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみのうちに死ぬ「神の僕」とは一体誰か?「衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇22篇19節)とはなんのことか?「渇くわたしに酢を飲ませようとする」(詩篇69篇22節)とはなんのことか?
ところが天地創造の神の最大の関心事は、ユダヤ民族を他民族の虐げや支配から解放することではなく、民族に関係なく人間全てを支配している罪と死から解放することだったのです。
どうして神はそんな解放を目指したのでしょうか?それは、もともと人間は神に造られた当初は罪と死の支配下になかったからでした。それが、創世記の最初に記されているように、人間が神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持ってしまったために神聖な神との結びつきが切れてしまい、人間は死ぬ存在になってしまったのでした。人間を造られた神としては、なんとか結びつきを回復してあげようと計画を立てそれを実行に移したのでした。まず、ひとり子をこの世に贈って人間として生まれさせて人間の痛みや苦しみがわかるようにしました。次に、ひとり子を通して人間に神の意思を正確に教え、また今の世が終わった後に到来する神の国についても教えました。そして解放の業を成す時が来ました。神のひとり子は人間と神の結びつきを断ち切ってしまった原因である罪を全部自分で引き受け、ゴルゴタの十字架の上でその神罰を全て受けて死なれました。イエス様の十字架の死はまさに人間に代わって罪の償いを神に対して果たして下さったことだったのです。
実に復活されたイエス様が旧約聖書とはそうした神の人間救済計画について教える書物であることを明らかにしたのでした。これで弟子たちにも合点がいきました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみ死ぬ「神の僕」とはまさにイエス様のことであり、「衣を取ろうとしてくじを引く」も「渇くわたしに酢を飲ませようとする」もみな、イエス様が十字架にかけられたことについて言っていることが明らかになったのです。こんなのは序の口と言えるくらい数多くの聖句がイエス様の活動や彼に起こった出来事について言っていることが明らかになりました。これでメシアの意味が民族の解放者から人間を罪と死の支配から救う救い主に結晶化したのです。 このようにイエス様の復活によって旧約聖書は人間に救いをもたらそうとする神の意思を表す書物であることが明らかになりました。それなので救いの実現のために大きな役割を果たす神のひとり子について述べるのは当然なのです。
イエス様の復活は旧約聖書の性格を大きく変えただけではありません。彼の復活により死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、また永遠の命が待つ神の御国に至る道が人間に開かれたのです。人間はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものに出来れば罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者として見てもらえ、罪を赦されたら、もう神との結びつきを切り裂くものはなくなってその結びつきの中で生きられます。万物の創造主の神と結びついて生きていければ神以外に何も恐れるものはなくなります。万が一この世から別れることになっても恐れなく神に全てを委ねて眠りにつき、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられ永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。本当にイエス様の復活のおかげで私たちにこのように永遠の命に至る道が開かれました。
そこで、どうすればその道に入れてそこを進めるようになれるかと聞かれるでしょう。それにはイエス様の果たされた罪の償いを自分のものにすることがないといけません。それでは、どのようにして自分のものにすることが出来るのでしょうか?それは、イエス様が私の身代わりになって罪の償いを果たして下さった、だから彼は私の救い主ですと信仰告白して洗礼を受けることによってです。そうすると罪の償いがその人の内に入って、その人は永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。
本日の使徒書の日課、第一ヨハネ3章でキリスト信仰者は復活の日にイエス様と同じようになると言われています。イエス様と同じようになるとはどうなるのでしょうか?それを知る手掛かりとして復活されたイエス様がどのようであったかを見てみます。イエス様の復活については、2週間前の復活祭の説教で詳しくお教えしましたが、今日は少し違った角度から見ていきます。
本日の福音書のルカ24章で復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちの驚きようから察するに本当に突然彼らの間に立っていました。ヨハネ20章ではさらに詳しく、扉には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様が弟子たちの間に立っていました。弟子たちが、幽霊が出たとパニックに陥ったのは当然です。しかし、イエス様は、幽霊ではないと否定し、その証拠に手と足を見て触ってみよ、幽霊には肉と骨はないが自分にはちゃんとある、確認しなさいと命じます。このようにイエス様には一応体があります。ただ自由に空間移動をするので私たちの体とは異なっています。しかし、幽霊のように体があるのかないのか不確かな存在ではありません。さらに、食べ物はないかなどと聞いて、みんなの見ている前で食事もする。ここまでくると、復活したイエス様は少なくとも私たちと同じ食欲を持つ存在です。しかし、それでも私たちと異なり自由な空間移動が出来るので、今ある天と地の中で働いている重力Gのような自然法則に支配されていません。
使徒パウロは、第一コリント15章で、体には今のこの世での体と将来の新しい世での「復活の体」の二つがあることについて詳しく教えています。復活の日が来ると、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(52-53節)。また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)と言います。イエス様はズバリ、死者の中から復活する者は天使のようになるのだと言っています(マルコ12章25節)。
またイエス様は十字架刑の時に被った手足の傷を見せます。これは復活後のイエス様は死ぬ前のイエス様と同一人物であることを如実に示します。イエス様は、体の有り様はこの世的なものから「復活の体」へと全く異なるものにはなったけれども、復活後も同じイエスとしての自我を持ち、死ぬ前の出来事を完全に過去のものとして、今は全く新しい現実に生きる者となっている。このように、神から復活させられる者は死ぬ前と同じ人格と自我を持ち、他方で体は全く新しい「復活の体」という存在になるのです。
このことは実は、日本の仏教の間でごく一般に抱かれている死生観と大きく異なる点ではないかと思います。そこでは、人は死ぬと成仏に至る何十年かの修行の道への歩みを始めるとされます。キリスト信仰では復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠り、復活の日に目覚めさせられます。また、仏教で修行の道を歩む者は住職から戒名という新しい名をもらいます。
聖書の観点では、「名前」というのは単なる名称にとどまりません。人の名前はその名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味します。それなので「神の名により頼む」とは「神により頼む」の意味で、「神の名を侮辱する」とは「神を侮辱する」です。またよく使われる「父と子と聖霊の御名によって」というのも、考えるとわからなくなってきますが、要は「父と子と聖霊と繋がって、結ばれて」です。または、「父と子と聖霊の影響下に服して」と言ってもいいと思います。そういうわけで「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を受けると、それは三位一体の神に本気で結びつけられてしまうことになります。洗礼とは本当に大変なことなのです。
話が少しそれましたが、キリスト信仰では亡くなった方がこの世の体から離れて復活の日の体を待っている状態においても、同じ人、同じ人格なので新しい名前を付ける必要はありません。
このようにキリスト信仰では、死からの復活とは新しい体を伴う復活であり、死ぬ前と復活後の人格は同一で復活後も自我を持つということがはっきりあります。そのように復活した者が自分の造り主、自分に命を与え罪と死の支配から解放してくれた神のもとに迎え入れられる。これがキリスト信仰者の死生観です。
ところで、2000年前のイエス様の復活と将来の私たちの復活の間には大きな違いがあります。イエス様の復活は、今あるこの世の中で起きました。つまり、私たちが今生きている天と地の下で起きました。私たちの将来の復活は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節)、そして、造られたものは全て揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが現れる時(ヘブライ12章26-28節)に起こります。その時がいつであるかは、神以外に知ることは許されていません(マルコ13章32節)。その時、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨し、この世の人生で彼を救い主と信じる信仰にしっかり留まった者たちを神の国に迎え入れます。その時、既に死んでいて眠りについていた人たちは復活させられてから、御国に迎え入れられます。
こうして復活の体と命を得た者たちが一堂に会する神の国は、大がかりな結婚式の祝宴にもたとえられます(黙示録19章7、9節)。それは、この世の人生に起きたあらゆることについての完全かつ最終的なねぎらいを受ける時です。先ほど見たように復活の体は食欲を持つので、祝宴ではこの世離れした最上級のものが供されるでしょう。どんなメニューか考えただけでもワクワクしてしまいそうです。こんなことを考えるのは不謹慎でしょうか?
先ほど聖書の観点では名前は単なる名称に留まらず、名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味すると申しました。この観点は、本日の使徒言行録の個所の理解にとって大事です。ペトロが足の不自由な人を癒す時、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言います。「イエス・キリストの名によって」というのは、「イエス・キリストと繋がって、結びついて、その影響下に服して」ということです。足の不自由な人は歩けるようになりました。イエス・キリストと繋がる、結びつく、影響下に服するとはどういうことか考えてみましょう。その前に、イエス・キリストという名前ですが、キリストは新約聖書が書かれているギリシャ語のクリストスです。クリストスは旧約聖書が書かれているヘブライ語ではムシィーアハ、メシアです。つまるところイエス・キリストというのは、メシアのイエスという意味です。メシアの意味は、先ほど見たように人間を罪と死の支配から解放する救い主です。
「イエス・キリスト」、「メシアのイエス」と繋がる、結びつく、影響下に服するというのはどういうことか?それがわかる手がかりが本日の使徒言行録の中にあります。ペトロが群衆に対してどうしてこの人の足が治ったかについて説明しているところです。16節でペトロはこう言います。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」
名前が強くしたり癒したりするというのは分かりにくいですが、先ほど見たようにイエス様そのものイエス様の本質が強くした癒したという意味です。ここで思い出さなければならないことはイエス様そのものとか彼の本質とは言うまでもなく、彼が神のひとり子であること、十字架の上で人間の罪を償い罪の人間を死に陥れる力を殺いだこと、そして死から復活されて死を超えた永遠の命を持って生きておられること、これらがイエス様そのもの、彼が彼である本質です。そのような本質を備えた方がこの足の悪い人を強める力があったのです。
しかしながら、イエス様そのものにそのような力があるとしても、それだけでは不十分であることをペトロは同じところで言っています。「それは、その名を信じる信仰によるものです。」「その名を信じる信仰」とはずばり、その名前を持つ方、イエス様を信じる信仰のことです。つまり、癒しは二つの条件が重なって起こったのです。まず、イエス様は今は天の父なるみ神の右に座してはいても地上で癒しを行う力を持っているという条件。それと、イエス様を救い主と信じる信仰があり、その信仰がイエス様の力を受け取る受け皿になっているという受け手側の条件。この二つの条件は人間の救いにもあてはまります。イエス様は十字架と復活の業で人間の救いを実現されたのではありましたが、人間の側で信仰の受け皿でそれを受け取らないとダメなのです。受け取らないでいたら実現した救いは人間の外側によそよそしく留まってしまいます。だから、福音の伝道と洗礼は大事なのです。
ペトロの言葉の後半ではこう言われていました。「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」「イエスによる信仰」とはわかりにくいと思います。各国語の訳も苦労しています。それらについてはここでは立ち入りません(後注)。ここは直訳すると「イエスを経由してある信仰」とか「イエスを手段にしてある信仰」です。つまり、「他の者を経由しない信仰」、「他の者を手段にしない信仰」です。そうすると、やはりイエス様を唯一の救い主と信じる信仰ということになります。ペトロは、イエス様が持つ力と彼を唯一の救い主と信じる信仰がその力の受け皿になっているということ、この、力と受け皿が一緒に働いて癒しが起きたと言っているのです。
それでは、イエス様に癒しを与える力があり、私たちの方でイエス様を救い主と信じる信仰があって、イエス様の力を受け取る受け皿を持っていたら、同じような癒しは必ず起こるのか?これはとても気になるところです。イエス様には力があり、こちらもイエス様を救い主と信じて力を受け取る受け皿はある、それなのに力が来ないで癒しが起きなかったらどうしようと心配もします。その時は次のように考えたらよいでしょう。確かにイエス様には癒しを与える力があり、私も彼を救い主と信じて癒しを受け取る態勢はできている。もし癒しがすぐ起きなくても、それは直ぐには起こさないから引き続き祈りなさいと時間をかけさせようというお考えなのでしょう。あるいは、神は目前の癒しではなく別のことで力を与えたのであり、その別のことで神の栄光を現わしなさいということでしょう。いずれにしても、力ある方と信仰という受け皿の両方がそろっていれば、病気をはじめ他のあらゆる事柄に神の栄光が増し加わる何かが必ず起きます。それなので力ある方が私たちの一番期待していることに働いてくれなくとも、別のことで働かれるので大丈夫です。それで大丈夫と言うのが、復活の希望を持って生きるキリスト信仰者です
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(後注)使徒言行録3章16節のペトロの言葉の後半にある、足の不自由な人を人々の前で完全に癒したものを「イエスによる信仰」と言っていることについて。ギリシャ語原文はη πιστις η δι’ αυτουで、直訳すれば「彼を通してある信仰」、「彼を手段にしてある信仰」。「彼」でなくて「彼の名前」の可能性もありますが、名前はその人そのものと考えれば「彼」でもいいことになります。それに「彼の名前」だったら、前半にある言い方に倣ってη πιστις του ονοματος αυτοςないしη πιστις αυτουになるのでは? 参考までに他の国の言葉ではどう訳しているか見てみますと、 英語NIVは、Jesus’ name and the faith that comes through him。 ドイツ語(ルター訳1912年版)は、den Glaube durch ihn。 スウェーデン語は、den tro som kommer genom detta namn。 フィンランド語は、usko, jonka Jeesus antaa。 英語は「名前」にこだわったので原文にないJesus’ nameをつけたのでしょう。つけないでthe faith that comes through himだけだったら原文通りになると思います。ドイツ語のihnは恐らく「名前」でしょうね。スウェーデン語はドイツ語と大体同じです。フィンランド語「イエスが与える信仰」は上手に逃げた訳ということでしょうか。考え方は間違ってはいませんが。それにしても新共同訳の「イエスによる信仰」とはどういう意味でしょうか?
全知全能の父なるみ神よ。
イエス様が十字架の死に至るまであなたに従順だったおかげで、この世界に死と絶望を超える復活の希望が打ち立てられました。どうか、この希望を持って生きる私たちがいつも主にある喜びに満たされるように、私たちを日々見守り支え導いて下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン
2012年4月11日 復活節第二主日 主日礼拝説教 聖書日課 ヨハネによる福音書20章19-31節、使徒言行録4章32-35節、第一ヨハネ1章1節-2章2節
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本日の福音書の個所には、二つの大きなテーマがあります。一つは、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったことです。イエス様の言われる平和とは何かということが一つ。もう一つのテーマは、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになったという出来事です。その時イエス様は言いました、「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである」と。イエス様は、見て信じるのではなく見ないでも信じられることが大切だと言います。イエス様の言われる平和、それと見ないでも信じられる幸い。この二つは実は関連しあっています。というのは、イエス様の言われる平和も目には見えないもので信じるものだからです。
見ないでも信じられるということはキリスト信仰にとって大事なポイントです。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。
このようにキリスト信仰では目で見ないで信じられるということがポイントになっています。そのことを本日の聖書の御言葉をもとに見ていきましょう。
まず、この目で見ない限り信じないと言ったトマスのことについて。彼の言ったことはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教ならどこでも考えられることでしょう。何か不思議な業を行う、医療手段を講じなくて不治の病が治るという奇跡、そういうことを行った者に対して私たちはこの人には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれるかもしれません。
ところが、イエス様がここで教えていることは、「信じる」とは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じることが本当の信じることだということです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を「信じます」とは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。
イエス様の弟子たちは主の復活の目撃者です。彼らの場合は信じるも何も目で見てしまったのでそうとしか言いようがありません。本日の使徒書の日課の第一ヨハネの個所も、私たちはこの目で見た、この耳で聞いた、この手で触れた、だから宣べ伝えているのだと言います。使徒たちの場合は、目で見たことを証言します。これが目で見なくても証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?一つには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭してまで宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあります。ところが、見ないで信じるようになった人たちも次第に最初の目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていきます。彼らも使徒たちと同じように、神のひとり子が十字架にかけられ、3日後に死から復活された、それは旧約聖書に預言されていたことの実現であったのだ、と宣べ伝え出したのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?
ところで昨年も申し上げたことですが、もしタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行くことが出来たら、ビデオ撮影をして、それをSNSで拡散することが出来ます。世界中の人が目撃できます。あっ、イエスは生き返っているぞ!壁をすり抜けたぞ、すごい、すごい、という具合に瞬く間に5,000万回、5億回と再生されて、いいね!や驚き顔の絵文字で溢れかえるでしょう。世界中の人がイエス様の復活はあったと言うでしょう。しかしながら、それは「信じる」ことではありません。使徒パウロはローマ10章9節で「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言います。「心で信じる」というのは、復活は頭では理解できないことだが心でその通りだと受け取るということです。SNSだと頭で理解する必要もないし心で受け取る必要もありません。瞬間的な反応だけです。イエス様の復活の動画を見てすごいと感じても、「心で信じる」がなければ、すぐ次に投稿されるもっと凄いものを待ち始めています。イエス様の復活はギガバイトの堆積物の中に埋もれていくだけです。こういうことを考えると、SNSというのは人間の頭と心のために本当に役立っているのか立ち止まって考えてみることも必要なのではないかと思う者ですが、どうでしょうか?
話が少し横道にそれましたが、パウロの言葉は、イエス様の復活というのは頭で一生懸命理解しようとしても受け取り不可だが、心は受け取り可ということを意味します。心で受け取ることが出来るから目撃しなくても信じることができるのです。それでは、イエス様の復活を心で受け取るとはどういうことでしょうか?
本日の使徒書の日課「第一ヨハネの手紙」の個所にその鍵があるので、それを見てみます。ヨハネは、目撃者である使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは伝えられた者が伝える者と一体性を持つためであると言います(1章3節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っています。交流関係を持つみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteys、gemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です。ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です。どの訳語も重なる部分はありますが、微妙に違っていると思います。どちらかと言うと日本語の「交わり」と英語のフェローシップは少し浅い狭い感じがします。そう言うとまた先週に続いて聖書の翻訳の日米同盟と欧州連合の対決を持ち出してしまうのですが、私としては「一体性」とか「共同体」の方があっているのかなと思います。その理由として、本日の使徒言行録の日課で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここでコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。
私たちが礼拝の中で唱える「使徒信条」は2000年近い伝統を持つキリスト教信仰告白の基本中の基本ですが、その終わり部分で信じる事柄の一つに「聖徒の交わり」というのがあります。これもギリシャ語原文を見るとコイノニアで、信仰者が一体であること、共同体を形成していることを意味します。「交わり」と言うと、スオミ教会では礼拝後にコーヒータイムを持ちますが(今はコロナで控えています)、そういう交流や歓談のひと時を連想してしまうかもしれません。しかし、コイノニアは交流や歓談を超えた、それこそ場合によっては財産の共有に至るくらいの一体性、共同性を意味するのです。
さて、ヨハネは、自分たち使徒が見聞きしたことを宣べ伝えるのは、宣べ伝えられた人たちが伝えた人たちと一体性を持つためと言います。しかし話はそこにとどまりません。そのすぐ後でとても本質的なことを言います。それは、宣べ伝える自分たちは父なるみ神とそのひとり子イエス様と「一体性・コイノニア」を持っていると言うのです(1章3節、日本語では「交わり」、英語ではフェローシップ、ドイツ語ではゲマインシャフト、スウェーデン語・フィンランド語も「一体性」を意味する言葉)。つまり、自分たちが見聞きしたことを宣べ伝えるのは、伝えられた人たちが伝えた自分たちと一体性を持てて、今度はその一体性を通して伝えられた人たちも自分たちが持っている神・御子との一体性に与れるようになるためだと言うのです。つまり伝える人たちと伝えられた人たちが共に神・御子と一体性を持つことが目指されているのです。両者が共に神・御子と一体性を持つので、両者は互いに一体ということになります。
このようにヨハネをはじめ使徒たちが目で見たことを証言するのは、それを聞いたりまたは読んだりした人たちが神・御子と一体性を持てるようになって、それを通してお互いに一体となるためでした。これが意味することは、神と御子と一体性を持てれば、別にイエス様の復活を目で見たか見なかったかはそんなに大した問題ではなくなるということです。逆に復活の主を目で見たとしても、神と御子との一体性を持てなければ、その見たことは先ほど見たようなSNSのニュース拡散と同じことになります。
ここで、神と御子と一体の関係を持つことが、復活を自分の目で目撃していなくても心で信じられるようになる条件であることが見えてきました。それでは神と御子との一体の関係はどうやって持てるようになるのでしょうか?
イエス様の復活について聞いた人たちが、どのようにして神と御子との一体の関係を持てるようになって、復活を心で信じられるようになったか?答えは、聞いた人たちがユダヤ人が非ユダヤ人かによって多少異なってきます。
まずユダヤ人の場合。彼らには旧約聖書があったので、イエス様の十字架の死と死からの復活を知らされた時、預言が実現したことがわかりました。十字架の出来事は神が遣わした神聖な方が人間の罪を償うために犠牲の死を引き受けるというイザヤ書53章の預言が実現したのだと。3日後に死から復活されることはヨナ書2章に暗示されていたと。そして、復活された主はこの世の肉の体とは異なる体を纏っていたことはダニエル書12章の預言の実現だと。イエス様の十字架と復活の出来事の前はメシアとはユダヤ民族を異民族の支配から解放する地上の王様と考えられていました。しかし、そのような理解だと旧約聖書の中に解明できないことが多く残りました。イエス様の十字架と復活の後、メシアとはユダヤ民族か非ユダヤ民族かに関係なく人間を罪と死の支配から救い出して、天地創造の神との結びつきを回復させてくれる方。人間がこの世を去った後も復活の日に目覚めさせて神の御許に迎え入れられるようにしてくれる、そういう永遠の命の救い主、それがメシアだという理解になりました。それで旧約聖書の不可解だったことが次々とわかるようになったのでした。それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになったのです。その時はもう、イエス様の復活を心で信じています。
ただし、ユダヤ人はイエス様に対する姿勢で二分してしまいます。イエス様を救い主メシアと信じるようになった人たちと、信じない人たちとにです。
非ユダヤ人の場合は少し勝手が違いました。彼らは、旧約聖書を持っていないので預言を知りません。また地中海世界の東部はギリシャ文明が浸透している地域なので、人々は多神教の考え方に慣れています。彼らは使徒たちの宣べ伝えを聞いて、どうやって神・御子との一体性を持てるようになって復活を心で信じられるようになったのでしょうか?
ユダヤ教とキリスト教では言うまでもなく、万物の創造主の神、天と地と人間を造られ人間に命と人生を与えた神が全ての中心にあります。使徒パウロがアテネのアレオパゴスにて居並ぶギリシャの哲学者・知識人を前にキリスト信仰を弁明したことがあります。使徒言行録の17章です。そこでパウロは、万物の創造主、人間一人一人の造り主である神は将来この世を正当に裁くことになると述べました。そういう裁きの日が将来起こることがイエス様の復活によってはっきりしたと言うのです。どういうことかと言うと、人間が天地を創造し自分をも造られた神を知らずに好き勝手にやる時代はもういい加減終わりにしなければならないということをはっきり示したのがイエス様の復活であった。死んだ者を新しく復活させる神は、心を改める者に同じように復活に与らせて下さるが、改めない者はこの世から死んだ後、復活に与れず滅びに落ちてしまう。そういう審判の日が来るのであると。
これを聞いたギリシャの知識人たちは、死者の復活など馬鹿々々しいと取り合いませんでした。ところが、この後で何人かの人たちがパウロを訪ねてきたのです。彼らに何が起こったのでしょうか?彼らの心が多くの神々や霊々にではなく唯一の万物の創造主に向けられるようになったのです。創造主の神に心が向くと、神が人間に対して造り主である自分に立ち返りなさいと呼びかけていることがわかります。そこでその神と自分の関係を考えると、自分には神の神聖さにそぐわない汚れがあることに気づきます。その時、神のひとり子イエス様が十字架で死なれたのは自分の汚れを引き取って下さったことで、そのおかげで自分は神の目に相応しいものになれるということがわかったのです。イエス様が私の救い主である限り、私は創造主の神と結びつきを持って生きられる、この世においても、次に到来する世においても。そういうことが彼らの心の中に起こったのでした。
このように非ユダヤ人に対しては、天地創造の神、自分自身の造り主がおられることがわかり、次にその神と自分自身の関係がどうなっているかを考えることが出発点になりました。神との関係が問題ないものになるように、そのひとり子のイエス様が十字架で自分を犠牲にされた、だから彼を救い主と信じて洗礼を受ければ神との結びつきの中で生きられることになります。今のこの世でも、次に到来する世でも、です。このようにイエス様を救い主と信じている時は既に彼の復活を心で信じています。この非ユダヤ人の事例は私たち日本人にも当てはまるのではないかと思います。
イエス様が弟子たちにあるようにと言った「平和」についてみてみます。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、この「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使われたでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומという言葉です。シャーロームという言葉はとても幅広い意味を持っていて、国と国が戦争をしないという意味の平和もありますが、その他に、繁栄とか、成功とか、健康とかいうように人間個人にとって望ましい、何か理想な状態を意味しています。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。
どういう意味かわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違っているくるでしょうか?
イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和なのです。つまり、イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげでなくなったという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は平和がない敵対関係だったということは「コロサイの信徒への手紙」1章21ー22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間が、イエス様の犠牲によって和解できる道が開かれ、イエス様を救い主と持つことで神のみ前に立たされても問題ない者とされたということです。
こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが回復した者は神と神と一体になっていて神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康などこの世的な目に見える平和シャロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は変更なく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪からの贖いを強めていけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を研ぎ澄ませていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れる時、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛え上げていれば行く先を安心して神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さいます。
それなので、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、この復活の希望はいつも心の中で研ぎ澄まされた状態にあり、それで私たちの魂は復活の日に障害物なく直結しています。パウロが目で見なくても希望している状態でもう救われているというのは真理です!
イエス様は、私たちが永遠の滅びに陥らないようにと、大いなる愛をもって十字架の上で私たちにかわって死の苦しみを受けられ、最後は復活によって死に勝利しました。洗礼を通してその勝利に与れる私たちが何も恐れることなくイエス様の愛を持って生きられるように、御言葉と聖餐を通して私たちを強めて下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
聖書日課 ヨハネによる福音書20章1-18節、イザヤ25章6節-9節、第一コリント15章1節-11節
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目にします。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事でした。
復活祭は、キリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。イースターをお祝いする時、英語では「ハッピー・イースター」と言います。クリスマスは「メリー・クリスマス」ですが、イースターは「メリー」ではなく「ハッピー」です。復活祭の何が私たちをハッピーにさせるのでしょうか?昔々イエス・キリストという偉い人が十字架刑という惨い殺され方をしてしまったが、三日後に見事に蘇ってみんながハッピーになったということでしょうか?マジックショーじゃあるまいし、そんな理解で済むのなら聖書なんか要らなくなります。
イエス様の十字架と復活の出来事はなぜ起きたのか、それらは一体何だったのかということは聖書全体を通してみないとわからないようになっています。聖書全体を踏まえて、それらがなぜ起きたかがわかると、たちまちそれは私たち人間のため、時代と国を超えて全ての人のために起きたということがわかり、イースターは本当にハッピー・イースターだとわかります。そういうわけでイエス様の復活は今を生きる私たちに大いに関係があるハッピーな出来事なのだ、ということを今年の説教でもお話ししていこうと思います。
まず、イエス様の十字架と復活の出来事を純粋に歴史上の事件としてみるとこうなります。現在のイスラエル国の北部ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに批判的な教えを説き多くの支持者を獲得した、そのため指導層の反感を買って当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書という書物は万物の創造主であり人間の造り主でもある神が人間にどのような思いを持ちどんな計画を持っているかを知る唯一の手がかりです。聖書をそのような書物であるとの立場に立ってみると、歴史の見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。
それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?本教会の説教でいつもお教えしていることですが、ここでも振り返ってみます。
まず、イエス様の十字架の死について。それは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしたということでした。罪と聞くと一般には何か犯罪行為とかそこまでいかなくても何か悪い行いとかを考える人が多いと思います。聖書ではそれは、人間に備わってしまっている、神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。この罪は創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。そこで神は、人間をこの罪の引き離しの力から解放して自分との結びつきを回復してあげよう、人間がその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことを実現する計画を立てたのです。
それでは、この人間を救うという神の壮大な計画とイエス様の十字架と復活とはどう関係するのでしょうか?イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになり、そのようにして彼が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さいました。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いがあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。
加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。そこで人間が、これらのことは全部自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いが自分の中に入ってきて自分のものなります。自分ではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であれば人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方がそのひとり子ということであれば、この償いはかけがえのないもの決して軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。
神から罪を赦されたのあれば神との結びつきは回復しています。そうなると神が立てた計画に従って人生を生きることが始まります。神の計画とは先ほど申しましたように、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるという人生です。キリスト信仰者は人生にこのような大きな方向性が与えられ、順境の時だろうが逆境の時だろうが全く変わらない神との結びつきの中でこの世を生きていきます。進んで行く先は永遠の命が待っている神の御許です。これが、罪と死の支配から解放されて生きるということです。
罪と死の支配から人間を解放するという神の計画がイエス様の十字架と復活をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしたのです。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わり新しい世が始まる時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭とは、イエス様が復活させられたことで実は私たちの将来の復活の可能性が生まれたことを喜び祝う日です。さらに自分自身の復活に加えて、復活の日にやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つの希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身だけのためでもなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちをハッピーにさせるのです。
次に、復活というのはどういう状態のことなのかをみてみます。これも毎年お話ししていることですが振り返ってみます。復活は超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることだけを手掛かりにするしかありません。本日の福音書の箇所で復活したイエス様とマグダラのマリアの再会の出来事がありました。毎年お話ししていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが「復活の体」を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する「復活の体」とはどんな体か?それについては使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われました(マルコ12章25節)。
復活とは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではないことに注意します。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。復活というのは肉体が消滅しても復活の日に新しい「復活の体」を着せられて復活することです。その体はもう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる完全に清い体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。その意味でイエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかったのですが、40日間も地上にとどまりました。なぜか?その期間があったおかげで弟子たちをはじめ大勢の人たちに自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。
復活したイエス様が、私たちの今の体と異なる体を持っていたことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事があります。二人がイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。このことについては、説教の終わりでもう一度お話しします。
さて、天の御国の神聖な神に相応しい「復活の体」を持つイエス様と、それにすがりつく地上の体のマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。マリアがイエス様にすがりついたのは、突然本人が生きて目の前に現れたので感極まって抱きしめたのでしょう。相手が崇拝の対象である場合は「すがりつく」というのはひれ伏して相手の両足を抱きしめることだったかもしれません。
イエス様が「すがりつくな」と言ったことについて。これもこの福音書の個所が当たる年に毎回お話ししていますが、ギリシャ語原文では「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)みな「私に触れてはならない」と訳しています。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。どっちが正しい訳でしょうか?話が少し脇道にそれますが、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書(一部アラム語もあります)が現代語でどう訳されているか比べると、ドイツ語・スウェーデン語・フィンランド語が同じ訳をして日本語・英語が別の訳をしているということがしばしばあります。何だか聖書の翻訳に欧州連合と日米同盟の対決があるみたいですが、今日の個所について言えば欧州連合に軍配が上がると思います。というのは、イエス様が復活の体という、まさに天のみ神のもとにいることができる体でいることを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思われます。
さらにイエス様は「私はまだ父のもとに上がっていないのだから」(17節)と言って、触れてはならない理由も述べていることに注目します。自分に触れるなと言って、その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本来なら自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上の存在なので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。これで全てつじつまが合います。
しかし、ここで疑問も生じます。それは、ルカ24章で復活したイエス様が疑う弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているからです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろと命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここはギリシャ語原文の動詞の使い方によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです(後注)。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。
神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこには、かつてモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。何だか思い浮かべただけでこちらまで泣けてしまいそうな感動的な場面です。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。そのことは、イエス様の次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。
ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」
先ほど、旧約聖書の復活の預言がイエス様の復活が起きたことで現実味を帯びたと申しました。旧約中の復活の預言としてダニエル書12章をあげました。本日の旧約の日課イザヤ書25章の個所も復活の預言です。神が死を滅ぼしたり、全ての涙を拭ったり、神に属する民が受けた恥辱を地上から抹消するということは大体、黙示録20章と21章に出てきます。黙示録を記したヨハネはイザヤ書25章が最後の審判と死者の復活についての預言だとわかったのでした。
イザヤ書25章の今日の個所の中で分かりにくいことは、神が全ての民の顔を包んでいた布と国々を覆っていた布を滅ぼすと言っていることです。これはヘブライ語原文を直訳すると、神が滅ぼすものは「全ての民に被さっている目に見える覆い」、「全ての民に被さっている織りなされた覆い」です。少し難しいですが何か外面的なものです。「織りなされた覆い」ですが、詩篇139篇15節を見ると人間が神に造られる時「織りなされる」と言って同じ動詞נסךが使われています。またパウロは、第二コリント5章で肉の体を天幕つまり布切れにたとえています。そういうわけでイザヤ25章で滅ぼされる布というのは私たち人間のこの地上の肉の体のことです。イザヤ書の個所はまさにパウロが第一コリント15章で言っていること、すなわち肉の体は朽ち果てて復活の日に復活の体を着せられることを意味しているのです。
さらに、イザヤ書25章で神が盛大な祝宴を開くことが言われていますが、これも黙示録19章にあります。復活に与った者たちが席につくことになる天の御国の祝宴です。イザヤ書を見ると、脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒と言いますが、本当にその通りのメニューになるかどうかは不明です。実はこれは、祝宴で最上のものが振る舞われることを表現するために、当時の人たちの感覚で最上のものが引き合いに出されたということです。それなので、脂っこい料理が苦手な人も自分は天国に入れないどと心配するには及びません。それから「えり抜きの酒」ですが、この訳はいただけません。ヘブライ語の単語シェメルשמרは辞書を見るとぶどう酒に関係する意味です。「酒」は訳しすぎです。焼酎やウイスキーやビール等も入ってしまいます。フィンランド語訳の聖書も「ぶどう酒」です。日本語の翻訳者はお酒が好きでそう訳してしまったのでしょうか?
最後に、先ほども触れましたが、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐ本人と気がつかないことがあるということについて私の思うところを申し上げて今年の復活祭の礼拝説教を締めようと思います。
復活の再会の時、再会の相手はどんな容姿をしているのでしょうか?例えば、高齢でこの世を去ったら、天の御国で再会する時もこの世を去った最後の瞬間の容姿、高齢の容姿なのでしょうか?そうだとすると亡くなる人は高齢の方が多いから天の御国は圧倒的に高齢者が多い超高齢者化社会ということになります。逆に、もし小さな子供や赤ちゃんの時にこの世を去ったのであれば、復活の再会の時も子供のまま赤ちゃんのままなのでしょうか?さらに、もし大きな怪我や病気のために容姿が大きく変容してしまったら、再会の時その人はその痛々しい姿で現れるのでしょうか?しかし、イエス様の事例を見ると、復活の再会の時の容姿は必ずしもこの世を去る瞬間の容姿と同じではないことが見えてきます。
復活したイエス様は確かに傷は残っていたが、それは何の痛みも持たない、ただ単に過去にこんなことがあったと示すだけの干からびた痕跡にしかすぎませんでした。そうすると、復活の再会の時に目にするのは、この世を去る瞬間の容姿ではなく、その方の何かベストな状態の容姿ということになるのでしょうか?もし、それがこの世を去る時の直近のベストな状態だとしたら、それは一目でその人だと分かってしまいます。一目見てもわからないというのは、その人が辿ってきたいろんな年齢・段階の面影が一つに重なり合っている、ないしは混ざり合っているからではないかと考えるようになりました。そのような重層的な面影を一目見た時どうなるか?見た人はまだその方がこの世を去る時の容姿が頭にあるから、すぐにはわからない。ところが、何かがかみ合うとその人だと納得できる。そういうことなのではないかと考えるようになりました。
過去のいろんな面影と言ったら、苦しい時、辛い時の面影もあるでしょう。しかし、黙示録21章を見ると、復活後は涙もなく死もなく悲しみも嘆きもないと言っています。それで、復活の体が映し出す面影は全てベストなものではないかと思います。イエス様が「天使のようになる」と言うのは、こうことではないかと思います。
ベストな面影とは言っても、受けた傷、心の傷、体の傷は消えずに残っているかもしれません。復活のイエス様にも十字架の時に受けた傷が残っていました。しかし、それはもう痛くも痒くもない干からびた痕跡のようなものでした。私たちの心の傷や体の傷も復活の日にそういうものになっているのでしょう。
赤ちゃんや小さな子供の場合ですが、遡れる年数が少ない分、面影も少なくなり一目見たらすぐ分かってしまうかもしれません。しかし、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐには誰かわからないということにこだわったら、こういうことになるのではないかと考えます。すなわち、その子は、もし死なずにそのまま順調に育っていたらこういう面影を持つようになっただろう、つまり復活の再会は面影の先取りのようなこともあるのではないか。もちろん、そうなると親としては子供が死んだ後の成長を見ていないのでベストの面影を映し出す子供を見てもなかなか誰かわからないかもしれません。しかし、心配には及びません。親のことを短い生涯でも精一杯見続けた子供の方から、お母さん!お父さん!と声をかけてくれるでしょう。
主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、どうです、復活の日の再会が待ち遠しくなってきたでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注) ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。
ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。
特別の祈り
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
もし、あなたが誰かのおかげで命にかかわる危険から助けられたとしたら、その命の恩人に対しては感謝以外のなにものでもないでしょう。例えば、道路を渡っている時、よく見なかった反対側から急に車が出てきて、しまったと思った瞬間、素早く走り寄ってきた誰かがドンと跳ねのけてくれたので車に引かれないで済んだら、その方に本当に大きな感謝でしょう。
ところが、もし跳ね除けてくれたその人が車に引かれて死んでしまったら、助かった人は感謝もあるかもしれないが自分の不注意のせいでこんなことになってしまったと申し訳ない気持ちで一杯になってしまうでしょう。自分が生きていられるのはその人の犠牲の上に立っていると思っただけで、それからの人生はもう軽々しい生き方はできなくなるでしょう。
イエス様の十字架の死は犠牲の死でした。そのことは本日の旧約の日課イザヤ書の個所からも明らかです。その個所はイエス様の受難を預言しています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53章4節)と言われていました。また、「彼が受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」(同)とも言われていました。さらに、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(11節)とはっきり述べられていました。
しかしながら、イエス様の犠牲の死は、先ほどの交通事故で誰かが自分を犠牲にしたおかげで自分が助かるという出来事に比べたら、あまり身近な出来事に感じられないかもしれません。交通事故の事例では、今自分が生きていられるのは、あの人が身を投げ出してくれたからだとはっきりわかります。それに対して、今自分が生きていられるのはイエス様が自分を犠牲にしたからだとわかることが出来るでしょうか?
イエス様が自分を犠牲にしたのは、人間が内に持ってしまっている罪すなわち創造主の神の意思に反しようとする性向、その罪のせいで人間が造り主との結びつきを失っている、それを取り戻してあげようとしたからでした。人間が罪の罰を受けて滅びてしまわないように、それで神罰を人間に代わって受けて罪の償いを代わりに神に対して果たして下さったのでした。これがゴルゴタの十字架の出来事の真相だったのです。
「今自分が生きていられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と言うと、それは交通事故の事例に比べて遠い感じがします。そこで、視野を拡大してこう言い換えます。「今自分が神との結びつきを持って生きられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と。さらに続けて、「この結びつきがあるおかげで私には順境の時も逆境の時も常に変わらぬ神の守りと導きがあり、万が一この世を去らねばならない時が来ても復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになった。これらのことは全てイエス様が自分を犠牲にしたから可能になったのだ。」こうすると遠い感じがしなくなり、イエス様も身近な「命の恩人」になります。正確には「『永遠の命』の恩人」です。
このように、命というものを今のこの世での命に留めず、この世が終わった後に到来する次の世にまでまたがるものと考えると、イエス様が「永遠の命の恩人」であることがはっきりします。
加えてイエス様は、受難を受けることは大きな苦痛を伴うものと知りつつ、敢えて受難の道に入って行かれました。ゲッセマネの園で、これから受けることになる痛みと苦しみを何か飲み干すべき杯に例え、出来ることなら飲まないで済ませたいと祈るくらいでした(マタイ26章39節)。結局は杯を受けることにしますと父なるみ神に打ち明けますが、その時のイエス様は苦しみもだえ汗を血が滴り落ちるように地面に落としていたと伝えられています(ルカ22章44節)。これから起こることは、神と人間の間を引き裂いている罪を全て人間に代わって償い、そのために罪の罰を全て受けることであると自分でわかっていたのです。全知全能の神のひとり子である方がこれほどまでの苦悩と葛藤を通り抜けなければならない位に人間の罪の償い、罪からの贖いというのは途方もないことなのです。そのことを私たちはイエス様の苦悩からわからなければなりません。これは本当に神と同質である方の純粋な苦悩です。本当なら私たちが苦悩しなければならなかったことを神がひとり子にさせたのです。イエス様はそれを全部引き受けて下さいました。だから「永遠の命の恩人」なのです。
イエス様が受けた苦しみについてルターが次のように教えているので、最後にそれを引用して本説教の締めといたします。
「イエス様はなぜこのような苦しみを受けなければならないのか?彼は、神の意思に反する罪を持たない、まさに神聖で神の義を持つお方ではないか。しかし、全てはこの世の罪のために起こらなければならなかったのだ!父なるみ神は、この世の罪を全て彼の両肩に押し付けて彼を圧し潰されたのだ。この事実を前にして私たちはどうすればよいのだろうか?次のことを本当のことと信じて受け入れるしかない。すなわち、神が私の罪を私から取り去ってイエス様に押し付けた、それで私は罪から自由な身にされた、ということだ。どうかこのことが、主の受難を聞く私たちにとって深い慰めとなるように。なにしろ、イエス様が私たちの罪を代わりに引き受けて下さって、私たちに代わってそれを背負って神に対して償って下さったからだ。このことは彼の十字架を心の目で見つめる時にはっきりとわかる。イエス様自身、この世の全ての罪を背負うことがどんな痛みと苦しみをもたらすかを前もって全てご存じだったのだ。
そこで、もし君の罪がイエス様の両肩に圧し掛かっているのなら、君は本当は安心してよいのだ。なぜなら、その時、罪は正しい場所に置かれているからだ。君の両肩は正しい場所ではない。なぜなら、君も他の全ての人もそれらを背負う力はないからだ。もしひとかけらの罪でも背負ったら、その重みで永遠の滅びに落ちてしまうだろう。だから、君の罪々は全部イエス様の両肩に圧し掛かっていていいのだ。そして、見よ、彼が全力を尽くしてそれらをどこに運び上げたかを。十字架の上にだ。そこで我々の罪の罰を受けられたのだ。
しかし、イエス様は三日後に罪と死と悪魔を凌駕する者として、それらに対する完全な勝利者として立ち現われた。それらのものが主を滅ぼそうと力を奮ったが、全ては無駄に終わった。この事実は君を慰め勇気づけてくれる。ここに言葉では言い尽くせない神の恵みがある。だから神に感謝するのだ!君を地獄の深みに落そうとした罪という重荷を君から取り去って、御自分のひとり子に背負わせて下さった神を。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2021年3月14日 四旬節第四主日
礼拝は機器の不具合により動画配信が行えませんでした。ご了承下さい。礼拝説教のテキストは本ホームページに掲載します。それをご覧下さい。
東日本大震災から10年が経ちました。死者・行栄不明者合わせて2万2千人の大惨事でした。避難生活を送られている方も未だ4万人を超えるそうです。心に深い傷を負いながらも前に進んでいる人たちもいれば、なかなか進めない人たちもおられます。それなので、被災された方たちがみな前に進めるように必要な支援を受けられ力を得ることができるように、後ほどみんなで一緒に祈る時に父なるみ神に祈り願いしましょう。
東日本大震災はまた地震と津波の災害の他に原発や放射能汚染の問題もあります。この問題は、この日本でどのように生きていくかという問いを被災したかどうかにかかわらず全ての人に突き付けています。
そこで本日の礼拝の説教ですが、私たちは一時の間、この世界のことから身を引いて聖書にある神の御言葉に耳を傾けて父なるみ神は私たちに何を求めているのか、それに対して私たちはどう応えていくのかということを明らかにしていきたいと思います。明らかになったことを心に留めて、また明日から始まる平日の日常に戻って、私たちを取り巻く世界のいろんな問いかけに向き合いながら、自分自身の課題に取り組んでいきたいと思います。
そういうわけで本日の説教は、本日の福音書の箇所、ヨハネ福音書3章14-21節にあるイエス様の言葉を中心に解き明かしをしていきます。この個所は実は本日の旧約の日課、民数記21章4-9節と使徒書の日課、エフェソ2章1-10節とも密接に結びついています。これら3つの聖句を互いに突きあわせることで、ヨハネ福音書のイエス様の言葉の意味がよくわかってきます。どんなことがわかってくるかと言うと、イエス様がかけられたゴルゴタの十字架を心の目で見つめることが出来るかどうか、このことが死を超えた命、永遠の命に至るかどうかの決め手になるということです。以下それを見ていきましょう。
本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1-21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛とはどういうものか、また人間の救いとは何か、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについても教えを受けます。
本日の箇所でイエス様はニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にあります。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は、「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では「炎の蛇」を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥהביתプラス前置詞エルאלは辞書によると英語のlook at、gaze atです。それで、「見上げる」、「仰ぐ」のような「見やる」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。
イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたということにとどまらない深い意味が含まれています。
民数記21章の出来事に出て来る「炎の蛇」サーラーフשרףですが、興味深いことに各国の聖書では「猛毒の蛇」と訳されています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。しかし、ヘブライ語の辞書を見ると「炎の蛇」はありますが、「猛毒の蛇」はありません。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて「猛毒の蛇」という辞書にはない言葉で訳したんではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、出来るだけ合理的な訳をしようとしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、せっかく彼らが作った辞書に「炎の蛇」とあるのだから、ここでは少し踏みとどまって、「炎の蛇」で通すことにします。モーセが神から「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりますが、これは一体どういうことでしょうか?以下のように考えたらよいでしょう。
神から「炎の蛇」を造りなさいと言われたモーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを神に言われたように旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが悪魔にそそのかされて、造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。これが堕罪と言われる出来事です。
イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うということについて、これはまさに神の意思に反する罪を犯すと、その罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いということを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、そこで表わされていることがその通りになって死を免れたのです。
これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。神の意思に反しようとする罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを修復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。つまり、イエス様は全ての人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。加えて、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力であり、人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありませんでした。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。
このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部して下さり、また罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。イスラエルの民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた毒消しがその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それゆえ、私たちは心の目で見つめなければなりません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を償われ罪から贖われた者はイエス様の十字架を心の目で見つめたのです。
イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に一回だけあったのではありません。心の目で見つめることは洗礼の後も何度も何度も繰り返されます。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったとは言っても、神の意思に反する性向つまり罪はまだ残っているからです。イエス様は有名な山上の説教で、たとえ人殺しをしていなくても兄弟を罵ったり憎んだりしたら同罪、たとえ不倫を犯していなくても女性を淫らな目で見たら同罪と言う具合に、神は罪のない潔白さを心の中まで問うていると教えたのです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも心の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない不注意があって罪を言葉や行いで犯してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?せっかくイエス様が果たしてくれた罪の償いと罪からの贖いを台無しにしてしまったことになり、もう神罰を受けるしかないと観念するしかないのでしょうか?
いいえ、そうではない、ということを先週の説教でも先々週の説教でも申しました。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で素直に認めて次のように赦しを願い祈ります。「どうかイエス様を救い主と信じますので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられて今も微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦すのだから、お前もこれからは罪を犯さないようにしなさい。」
こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待っている神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることをしたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と神への告白と罪の赦しの繰り返しですので、十字架を見つめることは何度でもします。そうやって何度でも再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が死を超えた永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛ということです。そのことをヨハネ3章14~16節はよく言い表しているので、もう一度拝読します。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネ福音書3章の本日の箇所の後半(18-21節)で、イエス様は自分のことを信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。
3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」などと言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたらあまりいい顔しないでしょう。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されます。信じなければ状況は何も変わらず、堕罪の時以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。
3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と彼を用いて救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。
3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るところだと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教が本当は独善的でも何でもないことがわかるために、まず、キリスト信仰者とそうでない者の違いを見てみます。そうでない者の場合は、造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。
キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。
このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。
翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないように働きかけたり支えたりするというのは、詰まるところ心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超えた永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。
あなたは、罪の汚れを持つ私たちを罰するかわりに、赦すことで私たちを癒(いや)して下さいました。どうか、あなたに癒された私たちが、あなたを全身全霊で愛し、また隣人を自分を愛するがごとく愛せるようにして下さい。
主日礼拝説教 (2021年3月7日 四旬節第三主日)
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本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名を引き合いに出して誤った誓いを立ててはいけない、また神の名を不正や偽りにかこつけて唱えて神聖なその名を汚してはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。
第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。そして、第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。
十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。ところがイエス様は十戒について、それを与えた神の本当の意図について教えました。有名な山上の説教のところです。たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21ー22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27ー30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。天地創造の神は人間に内面の潔白性までも要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいないでしょう。このことは使徒パウロも深刻に受け止めました。ローマ7章です。十戒の掟があることで自分にはそれに反するものがあると気づかされると言うのです。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は守れない自分を気づかせるという、人間の真実の姿を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。
そうすると、神は一体私たち人間に何を求めているのか疑わしくなります。まさか私たちが守れない自分に気づいてがっかりするのを期待する意地悪な方なのか?それとも本当は私たちが守れるようになることを望んでいるのか?でもどうしたら守れるようになれるのでしょうか?
その点に関してイエス様は次のようにも教えています。マルコ12章28ー31節です。十戒のうち神と人間の関係を律する最初の3つの掟について、その趣旨は全身全霊で神を愛することに尽きると教えました。それで3つの掟はこの趣旨に沿って理解し守らなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することに尽きると教えました。それで7つの掟についてもその趣旨に沿って理解し守らなければならなくなりました。まさにこのことがあるので宗教改革のルターは第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入るのだと教えたのです。さらにイエス様は、神に対する愛の掟と隣人愛の掟がどうお互い結びついているかも教えました。彼によれば、神に対する愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えました。
それらからすると、守れない自分に気づいてがっかりして終わることが神の目的ではないことがわかります。それは守らなければならないのです。しかし、外面上は守れていても、内面ではイエス様が言うように守れていないことがあります。例えば、本心では気乗りしないのだが、神に義と見てもらうためとか、周りの人に義人に見てもらえるようになるためとか、そういう自分の利益で掟を守るということがあります。ここでイエス様が、神と人間の関係についての掟は神を愛することで守る、また人間同士の関係の掟は隣人を愛することで守る、そのように言われる時、まさにそういう自分の利益のために守るということを吹き飛ばしているのです。それでは、自分の利益を全く顧みないで掟を守ることが愛と言うのなら、私たちはそのような愛をどうしたら持てるでしょうか?本日の福音書の個所でイエス様が自分のことを神殿と言っていることに、その鍵があります。今日の説教ではそのことを見ていきましょう。
本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、モーセを指導者とするイスラエルの民が神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたというのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿への納めのために通貨を替える必要がありました。
このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、また罪の赦しを与える方はまさに創造主の神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような傲慢な態度も生まれてきます。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11ー17節、エレミア書6章20節、7章21ー23節、アモス書4章4節、5章21ー27節など及びイザヤ29章13節も)。
イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。彼がどうしてそこまで憤ったかと言うと、本当ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。興味深いことに、この「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。三日で建て直すことと三日で復活することが掛け合わされています。
神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?
復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って神の意思に反する性向を持つようになってしまいました。その性向を聖書では罪と呼びますが、それを持つようになってしまったために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になりました(第一コリント5章7節、ヘブライ9ー10章)。
イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24ー28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。
イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりません。イエス様は全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。イエス様が人間の罪の償いを人間に代わってして下さったので、罪は人間を縛り付ける力を失いました。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。ここまでお膳立てされたのですから、あとは人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の償いが洗礼を受けた人にその通りになり、そうしてその人は罪の支配下から脱せて神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、難しい言葉で贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子が十字架で流した血でした。
そういうわけで、キリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした人ということになります。ただ、そうは言っても、キリスト信仰者が罪、神の意思に反することを行ったり言葉に出したり心で思ってしまう可能性は残ります。そうなってしまったら、どうなるのでしょうか?イエス様の身代わりの犠牲を台無しにしてしまうことになるのか?それでその人はまた罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?そうではない、ということを先週も先々週もお教えしました。そのような時、その人はすぐ我に返って父なるみ神に「私の身代わりとなって死なれたイエス様は真に私の救い主です。彼の神聖な犠牲に免じて私を赦して下さい」と願い祈れば、神は本当にイエス様の犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいにイエス様の犠牲は完全なものなのです。その人はまた復活と永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻ることができ、歩み続けることが出来ます。
このようにキリスト信仰者が罪にはまることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いにしっかりとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。そういうわけで、イエス様はエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことを果たして下さったのです。十字架の死を遂げて復活させられたイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。
イエス様という神殿を持ちその中で生きるキリスト信仰者は、自分の内にはまだ神の意思に反しようとする性向、罪を持ってはいるが、イエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを持つ者です。それはパウロがガラテア3章27節で言うように、キリストという罪の汚れのない純白な衣を着せられるということです。神聖な神は罪を忌み嫌い、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、信仰者がこの衣を手放さないでしっかり纏っていることを見て義とされるのです。キリストを着せられる前は、自分には罪があるから神に相応しくないということでした。ところが着せられた今は、イエス様のおかげで神に相応しい者に変えてもらいました。それで、罪の方こそ自分には相応しくないのだ、という自覚が生じて罪を足蹴にします。
キリスト信仰者がイエス様という衣を手放さないでしっかり纏うというのはどういうことでしょうか?キリスト信仰者は十戒を持っており、しかもイエス様が教えた神の意図を知っているので、それに照らせば自分には神の意思に反するものがあるとすぐ気づきます。その時は、先ほども申しましたように、罪の告白をして罪の赦しを頂きます。それで、自分にはこんな罪があるのにイエス様のおかげで神に受け入れられていることに再び感謝します。その時また、罪は私には相応しくないのだ、という自覚が戻り、罪を足蹴にします。しかし、一時するとまた守れないで自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで罪の告白をし、赦しを受ける。そして神に受け入れられていることを確認し、罪を足蹴にする。こうしたことがこの世を去る時までずっと繰り返されます。パウロはローマ8章13節で、キリスト信仰者が聖霊の導きを受けながら罪の業を死なせていくのならば、復活と永遠の命に与れると言っている通りです。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」と訳していて、「絶つならば」とはまるでエイ、ヤーと一回で断ち切ってしまう感じですが、ギリシャ語の動詞は「死なせる」で、その時制は毎日毎日死なせていくという日常的な営みです。ルターは、キリスト信仰者が完全になるのは、まさにこの世を去って罪を宿す肉が朽ち果てる時と言っていますが、同じことです。
そもそもキリスト信仰者が被せられているイエス様というのは十戒が完全に実現されている方です。罪の自覚、神への告白そしてイエス様の犠牲に免じた赦し、これを繰り返すことで自分を十戒が完全に実現された状態にあわせていくことになります。それで、自分が着せられている衣に自分を合わせていくのがキリスト信仰者の生き方です。それにそぐわない余計なものは削ぎ落されていきます。自分の利害をもとにして神に対する掟を守るとか隣人に対する掟を守るとかがなくなっていきます。そうなっていくのはまさに、父なるみ神が、私たちの側で神に対して何か顧みられるようなことをしたわけではないのに、神の方から一方的にひとり子を私たちに贈られて罪の償いと罪からの贖いを実現して下さったこと、これによるのです。これがあったので私たちは神のこの一方的な愛に心を動かされて神を愛するようになり、また神が私たちにしたように私たちも隣人に対して一方的に善いことをしようとする心を持てるようになるのです。ヨハネが第一の手紙4章で言っていることはまさにこのことです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(7~11節)
あなたはみ子の生涯、十字架の死そして死からの復活によって、この世に天のみ国の希望をもたらされました。 どうか私たちがその希望に満たされて、あなたのみ言葉に聞き従い罪から離れて、この世であなたの愛を現す生き方ができるようにして下さい。
主日礼拝説教 (2021年2月23日 四旬節第二主日)
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本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っている有名なイエス様の教えです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ8章34ー37節)。」
これを読んだ人はたいてい、ああ、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているんだな、と理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値あるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。誰にでもわかる一般常識をイエス様は教えているのだと。そうするとこれは同じ個所で言っていること、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とどう結びつくでしょうか?「自分の命を救いたいと思う者はそれを失う」とは、人間、どうせいつか死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?
それと、「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」とはどういうことか?大方の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだなと理解するのではないでしょうか。そうすると、最初に言っていること、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というのは、殉教の道を進めと言っているように聞こえてきます。そうなると一方で、命は地球より重いのだ、などと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのOKというのは矛盾しているのではないかと思えてきます。どうでしょうか?
実はイエス様は矛盾したことは何も言っていません。では、どうしてそう聞こえるかと言うと、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」この部分を先ほど見た一般常識、「命は地球より重い」で理解してしまうからです。この部分を新約聖書が書かれたギリシャ語原文に遡って、かつルター派の視点で見ていくと、そこは一般常識とは違うことを言っていることが見えてきます。ここには一般常識ではなくてキリスト信仰の常識があるのであり、それで見ていくとイエス様が言っていることは矛盾なく筋の通ったものになります。そういうわけで本日の説教では皆さんを一般常識からキリスト信仰の常識に駆けのぼっていけるようにしていこうと思います。
まず、本日の福音書の日課ですが、ここは一括りになっている8章27~38節の中の中盤から終わりの部分です。8章27~38節という個所はマルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで8章27~38節の出来事があり、その後でその地方の「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させます。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、8章27~38節はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい出す出発点です。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて自分の受難と復活について預言します。
そこで、8章27~33節を見ると、まずイエス様が人々は自分のことを何者と言っているかと質問をします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになります。それに対してペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることを明らかにします。そこでイエス様は自分の受難と死からの復活について預言します。それを聞いたペトロは敬愛するイエス様が殺されることなどあってはならないと思って否定します。それに対してイエス様はペトロのことをサタン、悪魔と言って叱責します。「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」大抵の人はイエス様の強い語調に驚くでしょう。しかし、神による人間救済を全世界の人々に及ぼすべくこれから十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのはまさしく神の計画を邪魔することになります。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないというのは悪魔に加担することと同じになってしまいます。それでイエス様は強く叱責したのです。ペトロが思わない「神のこと」とは、まさしく神の人間救済のことです。
それでは神の人間救済の計画とは何か?毎回説教でお教えしていることですが、それがわかると本日の日課でイエス様が言われていることを一般常識を超えてキリスト信仰の常識で理解することが出来まるようになります。それなので少しおさらいをしておきましょう。
キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまったという大問題が立ちはだかります。どうして壊れてしまったかと言うと、創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、それを聖書では罪と言いますが、それを持つようになってしまったからでした。人間は神聖な神のもとにいられなくなって死ぬ存在となりました。使徒パウロがローマ6章23節で言うように、死ぬというのはまさに罪の報酬なのです。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできてしまったのです。
これに対して神は、人間がそうなってしまったのは自業自得だと冷たく突き放すことはしませんでした。人間が再び自分との結びつきを持ててその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても復活の日に目覚めさせて復活の体と永遠の命を付与して造り主である自分のところに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この計画はどのように実現したでしょうか?罪が人間の内に入り込んで神との結びつきが失われてしまったのだから、それを人間から除去しなければならない。しかしそれは、イエス様がマルコ7章で当時の宗教指導者たちと論争した時に明らかにしたように人間の力では不可能です。人間が自分の力で罪を除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世で神と結びつきを持って生きることも神のもとに戻ることもできません。
この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送って、人間の罪を全て彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運び上げさせ、そこで罪の神罰を受けさせて死なせたのです。つまり、ひとり子イエス様に私たち人間の罪の償いを果たさせたのです。そこで私たち人間がこのことは歴史上、本当に起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを回復できて、この世を順境だろうが逆境だろうがいつも変わらない神との結びつきの中で歩むことができるようになりました。
イエス様が果たしたことは罪の償いだけではありませんでした。十字架の死から3日後、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちのために開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進んでいるのです。神との結びつきを持ちながら進んでいくのです。
ところで、神から罪を赦されたと見なされるようになったとは言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。確かに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた以上は注意深くなって罪を行為や言葉で表に出してしまうことはなくなるかもしれませんが、心の中で持ってしまいます。イエス様は、神は心の中まで潔白さを問うと教えたのです。それにどんなに注意していても、人間的な弱さのためにまた隙をつかれてしまって罪が行為や言葉で出てしまうこともあります。そのような時はどうなるのでしょうか?イエス様が果たして下さった罪の償いを台無しにしたことになり神から赦しをキャンセルされてしまうのでしょうか?神から赦してもらえない者になって神との結びつきは失われてしまうでしょうか?
そうではない、というのがキリスト信仰であると先週申し上げました。パウロがガラテア3章27節で言うように(ローマ13章14節も)、洗礼を受けた者はイエス様を汚れのない純白な衣のように被せられます。神はその人を見る時、その人の内にある罪よりもその人が纏っている衣の方に目を向けます。それなので、自分に罪があるとわかったら、すぐそれを神の御前で認めて、イエス様を救い主と信じますから赦して下さいと祈ります。そうすると神も、「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあのゴルゴタの丘の十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられ微動だにしていない。わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、これからは罪を犯さないようにしなさい」と応じて下さいます。そうしてキリスト信仰者は再出発のスタートを切ることができるのです。
この世でキリスト信仰者は、肉を持って生きるので神の意思に反する罪を内に抱えたままです。それで自然、罪の告白と赦しを繰り返すことになります。毎週日曜日の礼拝の初めで司式者と会衆が一緒に神のみ前で行っていることがそれです。もちろん、他にも信徒が牧会者や他の信徒と一緒にもっと具体的に個別に行うものもあります。罪の告白と赦しを繰り返すというのは、洗礼の時に被せられたイエス様の衣を手放さずにしっかり纏うことです。繰り返せば繰り返すほど、内に宿る罪はイエス様の衣の神聖さの重みで圧し潰されていきます。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者のこの世の人生というのは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスです。例えば、怒りや憎しみとか、舌を制御することができないとか、地位や立場で人を選別したり自分も選別されることを期待するとか、そういう愛のなさが染みついている古い人、これを神から頂く罪の赦しとイエス様の神聖な衣を重石にして圧し潰していくプロセスです。
そして、このプロセスが終わる日がきます。その時点で生きている者も既に死んでいた者も全ての者が創造主の前に立たされる日です。その時、各自に審判が下されます。これは最後の審判なので申し開きや弁明する機会はなく判決だけが言い渡されます(マタイ25章を見ると判決の理由は聞くことが出来るようです)。その時、「お前は罪を圧し潰す側に立って生きていた」と認められればよいのです。そう認められた者は、もう自分には圧し潰すものがなく、自分自身の体が神の栄光を映し出して輝いていることに気づきます。これが復活の体です。ルターが言うように、キリスト信仰者が本当に完全な信仰者になるのはこの世を去って肉の体を脱ぎ捨てた時なのです。
以上、神の人間救済の計画とそれがどのように実現したかについて述べてきました。本日の課題に戻りましょう。イエス様がつき従う者、つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?
まず、キリスト信仰者が背負う十字架について。これは、イエス様が背負った十字架と同じでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって人間の罪を全部引き受けてその神罰を全て受けて人間の救いを実現したのです。私たち人間が同じような十字架を背負うことは出来ないし、そもそも救いの十字架は一度打ち立てられて完結したのです。
それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど、キリスト信仰者の人生は洗礼の時にイエス様を衣のように被せられて罪を圧し潰していくプロセス、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスだと申しました。
それで、「自分を捨てる」というのは、まさに肉に結びついた古い人を死なせ、神の霊に結びついた新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。つまり捨てるのは肉に結びつく古い自分です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。ただこれはプロセスですので、この世を去るまでは捨て続けます。「自分を捨てる」と言うと、何だか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえます。また逆に、自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえるかもしれません。一般常識の耳で聞くとそういうふうに聞こえるのです。しかし、そういうことではありません。罪の告白と赦しを繰り返すことで古い人が圧し潰されて衰えて代わりに新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てること、これがキリスト信仰の常識から見た「自分を捨てる」の意味です。
そういうわけで、私たちが十字架を背負うというのは、洗礼を受けた時に始まる、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いを戦うということになります。戦いの具体的な形は、それぞれ人が置かれた状況によって異なってきます。具体的な人間関係の中で死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるでしょう。自分より良い境遇にある人を妬むことで古い人が強まります。あるいは自分はキリスト信仰者であると公けにすることで仲間外れになったりすると、イエス様を救い主と信じることが揺らいで新しい人が育たなくなってしまうことも起こります。このように背負う十字架は形は違っても、新しい人を育て古い人を死なせるという点ではみな同じです。そういうわけで、「十字架を背負う」とか「自分を捨てる」というのは殉教そのものではありません。今見た通り、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあるからです。
このように、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入ることだとわかると、続く35節と36節で「命」(後注)を救うとか失うとか言っていることもわかってきます。以下、それを見ていきましょう。
35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
これは前の節の繋がりで見ると、自分の命を救いたいと思う者とは、自分を捨てることもせず自分の十字架を背負うこともせず、従って罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入らなかった人のことです。それなので、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩んでおらず、この世での命が全てになってしまう人です。そのような人にとって新しい世での新しい命などありえないことですから、この世での命にしがみつくしかありません。しかし、この世での命は永遠に続きません。これが「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」の意味です。
次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」先ほど、自分の十字架を背負い自分を捨てるというのは殉教そのものではないと申しました。罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあるからです。ところが、信仰を捨てるか命を捨てるかのどちらかにせよ、という権力者からお達しが来たらどうするかという問題は歴史上あちこちでありましたし今日でもあります。信仰を捨てずに命を落とした人もいれば、逆に信仰を捨てて命を保全した人もいました。たとえ罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いが殉教で中断させられてしまっても、命落す日まで戦いを続けたことは父なるみ神の「命の書」に記されます。最後の審判で、お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと必ず認められるでしょう。
そして36~37節です。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」ここの「命を失ったら」の「失う」ですが、前の35節の「命を失う」に二度出てくる「失う」とは原語のギリシャ語では動詞が異なります。35節はアポリュミαπολλυμιという動詞で、それは文字通り「失う」という意味があり、35節の訳はそれの通りです。36節はツェーミオオーζημιοωという動詞で、その正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため辞書によっては、イエス様のここの言葉を「命を失う」と訳してはいけないと注意するものもある位です。新共同訳ではそう訳してしまっていますが。ここは「命に傷がついている、ダメージを受けている」という意味です。そうなると、イエス様は「命は地球より重し」という一般常識を教えていないことになります。一体イエス様は何を教えたかったのでしょうか?
36~37節を少し解説的に訳すと「人はたとえ全世界を手に入れても、命が傷つきダメージを受けていたら、そんなものは何の役にも立たない。なぜなら、どんなにこの世で永らえようとしてもいつかは時が来るのだし、その時、手に入れた全世界をもって命を買い戻そうとしても無駄である」ということになります。ここでの問題は「命に傷がついている、ダメージを受けている」とはどういうことかということです。
それは、ここで言われている「代価」に注目します。人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。それによって人間は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩みだします。このようにイエス様は私たち人間を罪と死の支配下から神のもとに買い戻して下さったのです。神聖な神のひとり子が十字架で流された血を代価として私たち人間を神のもとに買い戻されたのです。買い戻されたというのは難しい言葉で「贖われた」とも言います。「代価」と訳されるギリシャ語の言葉アンタラグマανταλλαγμαは「身代金」の意味を持ちます。人間は罪と死に売り渡されたも同然だったが、神が痛い身代金を払って買い戻して下さった、人間を罪と死の支配から御自分のもとに贖い出して下さったのです。
それで、傷ついている、ダメージを受けている命というのは、贖われていない、買い戻されていない状態を意味します。そのような状態の人が死を間近にして慌てて自分が手に入れた全世界を代価にして死を免れようとしても、そんなものは神のひとり子の犠牲に比べたら何の力にもならないのです。そういうわけで、ここは、一般常識では命が大事と言っているように見えていたのが、実はイエス様の犠牲、彼が十字架で流した血が大事と暗に言っているのです。それがなぜそんなに大事かというと、それは言うまでもなく、私たち人間を罪と死の支配から解放して、復活の日に復活を遂げられて死を超えた永遠の命に与ることが出来るようにするからです。これがキリスト信仰の常識です。
(後注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)
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あなたはかつて、あなたの民を荒野(あれの)の中を通って約束の地へ導かれました。今、この世の荒野で救い主に従って歩む民を、栄光のみ国へ導いてください。この歩みの中で辛いことがあっても、あなたへの信頼を失わず、主にある喜びを常に喜ぶことができ、あなたに感謝することを忘れない心をお与えください。
主日礼拝説教 (2021年2月21日 四旬節第一主日)
今年も四旬節/受難節の季節になりました。今年の復活祭/イースターは4月4日に定められています。その日まで主日を除いて数えた40日間が四旬節です。この間の水曜日2月17日がその始まりの日でした。そういうわけで本日は四旬節最初の主日となります。四旬節の背景ですが、古いキリスト教会の伝統として西暦300年頃から復活祭の前に主日を除く40日間に断食することが行われるようになったことがあります。どうして40日間の断食かというと、イエス様が荒野で悪魔から誘惑の試練を受けた時40日間何も食べなかったということに由来します。そもそもイエス様の生涯は人間の救いのためにゴルゴタの十字架にかけられる犠牲の死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのです。
四旬節は英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉に由来するそうです。フィンランドやスウェーデンではカトリックの時代の伝統を受け継いで「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国なので外面的な規則の順守が救いを左右するという考え「断食」と言っても名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師にもそのようなことを勧める人もいます。ただし皆さん、そういうことをして神に認められるとか、救いを確実にするとか、そんなことは全く関係ないとわかっています。好物を食べなくても食事はちゃんととるので断食には程遠いです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングのようなものです。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくても注意が向くのならしなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、いつもよりもイエス様のことに心が向くようになるということです。
本日の説教の聖書日課ですが福音書を中心に説き明かしをします。使徒書の第一ペトロの個所は死んで陰府に下ったイエス様が死者の霊に福音を宣べ伝えたという難しいところです。これについては3年前の四旬節第一主日の説教で「死者のための祈り」という題で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は少なくとも4章6節まで見ないと説教は不可能です。今回3年前の説教を読み返してみて考え方は基本的に変更はなく、もう少し洗礼の重要性を出した方が良かったかなと思ったくらいでした。それで今回は第一ペトロを取り上げず、福音書の日課の説き明かしに専念することにしました。(3年前の説教にご関心ある方は、ここをクリック! )
本日の福音書の箇所の中にイエス様の荒野の試練があります。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がなく、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが記載されたと言えます。たった2節をもとに説教をするというのは簡単なことではありません。しかし、ルターだったら1節だけでも1時間位は説教できたでしょう。しかも彼の場合は、聖書外のことには言及せず聖書だけで話が出来ました。私も彼を見習って説き明かしをしていこうと思います。
本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでもマタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。
「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいて、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在しています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。
この順番を踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」
新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができます。それで、荒野で野獣のただ中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書では「野獣のただ中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)
さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。荒野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。
マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、それにどう打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の守りについては触れられていません。ここでイエス様の天使の守りということについてよく考えてみると、悪魔の誘惑の時にはそれはなく、それに打ち勝った後にありました。そして最後にイエス様が逮捕されて十字架にかけられる時はありませんでした。十字架の時に天使の守りがなかったということは後で見ます。このようにイエス様に天使の守りがあったりなかったりしたというのは、どういうことか見ていこうと思います。というのは、そのことが私たちキリスト信仰者にとって大きな意味を持っているからです。どんな意味かと言うと、キリスト信仰者には鉄壁の防御があるということです。
マタイとルカの記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ4章2節)、最後に三つの誘惑を受けます。最初の二つは「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」
というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神のみ子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?
それは、もしそうしていれば確かに神のみ子の力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ?お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、と巧みに追い詰めていったのです。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはしないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。
三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとって決定的な意味を持ちました。というのは、イエス様は荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりでした。その時、神の聖霊が降り、また神のみ子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10ー11節)。それで、もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔の下になったのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなります。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。実に際どい瞬間でした。
それでは次にイエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをマタイとルカの記述に即してみていくことにします。結論から言うと、誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのにイエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。
まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の御言葉ではねつけます。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きるための本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。それなので、もし悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちもこの申命記の言葉を突き出して悪魔に対して次のように言い返すことができます。「悪魔よ、私の命はパンがある時もない時も常に神の御言葉を拠りどころとして立つのだ。パンがあっても御言葉がなくなってしまったら、それはもう私の命ではない。このことをお前はこの御言葉から思い知るがよい。」
次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇91篇11ー12節です。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。神の御言葉にそうあるのだからその通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。
それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑をはねつけます。それはこういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実に荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけました。彼らは神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、「言うことを聞いてくれないなら、もうエジプトに帰ってやるから」と、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章というのは、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時、神が40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるところです。
それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?希望した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じること。たとえ祈って与えられたものが自分の意にそぐわないものでも、それを神の導きとして受け取る、それくらいに神を信頼するということです。この申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示しています。
実を言うと、イエス様の神への深い信頼は、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように言われています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2ー3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要はなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。まさしくコピー・アンド・ペーストです。しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは愚の骨頂です。それにしてもコピペというのは真実のかけらを大いなるウソの塗り固めに用いてしまうものです。悪魔的な業と言ってもいいかもしれません。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちがウソを見破ることができて真理にどまることができるように日々の聖書の繙きを怠らないようにしましょう。
さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑をはねつけます。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた造り主として仰ぎ、天においても地においても神より力ある者は存在しないと畏れ敬うことです。たとえ神の力が働いていないように見える時でも、目に見えて働いている時と同じくらいに神は全てに優る力を持つ方であると畏れることです。神より力ある者は存在しないというのは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神と平和な関係にある者からみれば、神よりも力あるものはいないのだから、神以外に何も恐れるものはなく、神のもとにいて大きな安心を得ることが出来ます。
悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できても、神に敵対していれば、この世から死んだ後は最後の審判の日に、永遠に止まない滅びの中に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神と平和な関係にある者はこの世にいる時は順境の時も逆境の時もいつも大きな安心が伴っています。この世を去った後はそれこそ手ぶらで大きな安心の源である神のもとに永遠に迎え入れられます。それがわかれば、悪魔がやると言った権力や富はなんと頼りない儚いものであるかがわかります。そんなもののために神との平和な関係を捨ててみろなどとは、悪魔はなんと情けないことを聞くのでしょうか?
以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて悪魔の誘惑をはねつけました。これからもわかるように、神の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っています。私たちも聖書の御言葉をよく学び、その力に服するようにしましょう。
さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入りました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況だけでなく、その時から始まって十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を含むと考えてよいでしょう。どうしてかと言うと、この「野獣の危険と天使の守り」というのはよく見ると、先ほど見た詩篇91篇で言われていることの実現だからです。つまり、神は天使を通して守ってくれるということの実現です。このことを少し詳しくみてみます。悪魔が愚かなコピペをした11ー12節の中で天使の守りについて言われていました。それに続く13節には野獣の危険から守られることが言われているのです。11節から13節まで全部見てみましょう。
「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」
悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。
ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?
それは彼自身が言った通り、聖書の預言が実現するためでした。それは、創造主である神が計画した人間救済計画を実現することでした。罪がもたらす永遠の滅びから人間を救い出すことでした。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって神罰を受けられて十字架の上で死なれました。まさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのです。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じです。
以上から、イエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたことが明らかになりました。このことが私たちキリスト信仰者にとってどんなに大きな意味を持つことかを見てみましょう。
荒野で悪魔の誘惑をはねつけた時、イエス様は天使の守りを求めず、聖書の御言葉をもってはねつけました。このように聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っているのです。ただし、御言葉がコピペのような使われ方、つまみ食いのような使われ方をしないで、御言葉をそれがある文脈に沿って正しく理解した時に撃退力は発揮されます。それなので、聖書を日々繙いて主日は説教を聞き、他の日は自分で少しずつでも聖書に習熟するようにすることが肝要です。キリスト信仰者は聖書の御言葉という強力な守り手を持っているのです。
次に、イエス様は天使の守りを求めないで、十字架の受難の道に入られました。そのおかげで神に対する私たちの罪の償いが果たされて、神罰が私たち人間に下されないですむ道が開けました。これで、神と人間の間を引き裂いて敵対関係に追い込もうとする悪魔の目論見は破綻してしまったのです。人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。それと同時に悪魔の目論見の破綻もその人にその通りになります。
このようにキリスト信仰者は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちた御言葉を持っています。また洗礼を通して罪の償いと悪魔の破綻が身に備わっているのです。主にあって兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。キリスト信仰者というのは洗礼を通して、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそこを進む者です。そこで何者かがその歩みを妨げようとしても、私たちには御言葉と罪の赦しと悪魔の破綻があるのでそれらを撃退できるのです。しかも、キリスト信仰者には守りの天使も付いています。ヘブライ1章14節で言われるように、天使というのは、神の国への迎え入れに向かって進む者たちに仕える霊だからです。
しかし、次のように言う人もいるかも知れません。何者かが神の国への歩みを妨げようとしたら、それを撃退するものが自分に備わっていることはわかった。しかし、信仰者の内に神の意思に反しようとする罪がある。自分の内にあるものが歩みを妨げる時はどうすればよいのか?それへの答えはいつも説教でお教えしていますが、いつも神のもとに立ち返って罪の告白をして赦しを頂くことを繰り返すことです。それを繰り返せば繰り返すほど、内に留まる罪は日々圧し潰されていきます。次のルターの教えを聞けば、キリスト信仰者は外側も内側も鉄壁の防御で守られていることがわかるでしょう。
「罪、高慢、利己心、憎むことその他これらに類することが我々の内にぶら下がっている。しかし、そうしたものは我々を信仰の中で成長させるためにあるのだ。我々の信仰が日に日に前に進み、最後に完全なキリスト信仰者になれるためにあるのだ。その時我々はキリストの懐に飛び込んで御国の祝宴の席につくことができる。
海の荒波を思い浮かべるがよい。大きな波が次から次へと岩に打ちつける。それはさながら、力づくで岩を打ち砕こうとするかのようだ。しかし、打ち砕かれるのは波の方で、岩に当たった後は退いて消えてなくなってしまう。罪もこれと同じだ。罪が我々の頭上から襲い掛かり、我々を絶望へと追いやろうとする。しかし、退散しなければならないのは罪の方であって、それは最後には消散してしまうのである。」
どうか、私たちが聖書を繙(ひもと)く時、御言葉を通してあなたの私たちに対する御心をお示しください。聖書の中であなたが約束されていることを私たちが信じて、アブラハムのようにあなたから義と認められ、あなたと平和な関係のうちに生きられるようにして下さい。
主日礼拝説教 (2021年2月14日 変容主日)
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1. 本日は教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節の前の節目の日です。毎年この日に定められた福音書の日課はイエス様が高い山の上で「姿が変わった」(9章2節)という出来事についての個所なので、「姿が変わった」、「変容した」ということで変容主日とも呼ばれます。イエス様の「変容」は、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと万物の造り主である神によってです。新約聖書のギリシャ語では受動態の形で「誰によって」がない時は大抵の場合は神を指します。神を名指しすることは畏れ多いのであえて言わないのです。そういうわけで、イエス様は父なるみ神の力で変容させられたのです。これと同じことはイエス様の死からの復活にも当てはまります。普通は「復活した」と言いますが、原文では受動態なので「復活させられた」、つまり神の想像を絶する力で復活させられたのです(後注)。しかも、復活した後の体はそれまでの肉の体と異なっていました。どんなふうに異なっていたかはイースターの時にお話しすることになるでしょう。
イエス様の変容はどのようなものであったかと言うと、衣服が非常に白く輝いたことが言われています。マタイ福音書の同じ出来事を扱った個所を見ると(17章2節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めたとあります。ルカ福音書では(9章29節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書で言われているのは衣服だけですが、最初に「変容させられた」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので衣服以外の部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、マルコはそれを特筆したのでしょう。
この高い山の上での出来事はマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に取り上げられていて大筋は同じです。細部は異なっていますが、それは、福音書記者それぞれの視点があって、これを強調したい、これはしなくてもいい、ということがあるからです。そういうわけでこの出来事の本日の説き明かしは、マルコの視点に立ったものになります。
ここで言われる「高い山」について。毎年お話ししていますが、ヘルモン山という現在のシリアとレバノンの国境にある2,814メートルの山であるのは間違いないでしょう。どうして特定できるかと言うと、マルコ8章27節にイエス様と弟子たちの一行がフィリポ・カイサリア近郊まで来たとあります。そこから本日の個所まで地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北に聳えるヘルモン山の可能性が大です。
ここのギリシャ語原文を見るといろいろ面白いことに気づきます。例えば、新共同訳では「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と訳していますが、「登る」という動詞は使われていません。正確には「イエス様は3人を運び上げた」です。イエス様が3人をおんぶしたみたいですが、実際は疲れた3人を励まし続けたか、なんで俺たちにこんなきついことをさせるのか不平不満があって叱咤し続けたのか、とにかく足取り重い弟子たちをなんとか頂上まで引き連れたのが「運び上げた」ということだったのでしょう。
ここでヘルモン山の登山がどれだけ大変なものか思い巡らしてみましょう。フィリポ・カイサリアは海抜300メートル位のところなので、頂上まで標高差は2,500メートル位あります。登山する人ならどれ位の時間とエネルギーを使うかすぐわかるでしょう。私の家族はしょっちゅうと言っていいほど高尾山に登ります。麓の高尾山口から標高599メートルの頂上まで標高差は400メートル位で、それを1時間のペースで登るとかなり汗だくになります。ヘルモン山はそれを6回繰り返さなければならないので本当に大変です。ちなみに私は高校時代によく山登りしたのですが、北アルプスの剣岳を早月尾根という尾根から登ったことがあります。標高差2,200メートルです。若かった当時は休憩含めて10時間かからなかったと思います。しかも連続する岩場のスリルと目を奪う壮大な眺めのおかげで文字通り登山の醍醐味を堪能でき、それで疲れたという記憶もありません。
ところが3人の弟子たちの場合は別に登山が趣味でもなく、しかも目的も告げられていないので、何でこんな疲れることをしなければならないのかという雰囲気になったことは容易に想像できます。イエス様はこれから山の上で起こることを後々のために見届けさせようとしたのでした。何を見届けさせようとしたのか?それは一言でいうと、復活とは変容であるということです。高い山でのイエス様の変容の出来事はこのことを私たちに教えているのです。今日はそのことをマルコの視点で明らかにしていきましょう。 2.山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の着ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?それは続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(9章3節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人です。今で言えば、漂白ということでしょう。当時はどのように漂泊したのか特に調べませんでしたが、いずれにしても古代世界においても衣服や布を純白にする専門家がいたということです。ここで重要なのは「この世のどんなさらし職人」もできないくらいに白く輝いたということです。イエス様が放った白い輝きはこの世的でない白さ、天上の白さだったということです。イエス様は乙女マリアから肉体を伴って人間として生まれたけれども、この時は神の力で神聖な神のひとり子としての神聖な姿形に変えられていたのです。神の御許にいるのに相応しい姿形です。
イエス様がこの世的でない天上の白さで輝いた時、それは私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在であるかを如実に示した瞬間でもありました。私たち人間は神の御許にいるのに相応しくない存在であるということです。どうしてそうなのかと言うと、創世記の最初に記されているように最初の人間が神の意思に反しようとする性向、それを聖書では罪と呼びますが、それを持ってしまったために神聖な神の御許にいられなくなって神との結びつきを失ってしまったのです。もちろん、この世には悪い人だけでなく良い人も沢山います。しかし、創世記2章17節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が罪を持つようになったことが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々みんな罪を汚れのように受け継いできたのです。
人間が罪の汚れから洗い清められ、神の目に相応しいものとなって最終的に復活の日に復活を遂げて神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、神の神聖な意思に完全に沿うようになっていなければなりません。しかし、それは不可能なことです。どうしてかと言うと、神の神聖な意思を表しているものとして十戒の掟があります。しかし、それは、使徒パウロがローマ7章で明らかにしているように、人間が神の目に相応しいと認めてもらうために実行していくものではありません。そもそも完全に守り切ることなど人間には出来ません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡なのです。詩篇のなかでダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51章4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように人間の罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。
それでは神は人間を洗い清めて下さるのでしょうか?もちろん、洗い清めて下さいます。どのようにしてでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の神罰を全てイエス様に負わせてゴルゴタの十字架の上で受けさせて死なせました。イエス様が罪の償いを私たち人間に代わって神に対して果たして下さったのです。そこで人間はこのことが本当に起こったのだとわかってイエス様を自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者として見なされるようになります。パウロがガラテア3章27節とローマ13章14節で言うように、洗礼を受けた者はイエス様を衣のように頭から被せられるのです。父なるみ神は私たちを見る時、私たちの内に残っている神の意思に反しようとする罪よりも、私たちに纏われたイエス様という純白な衣の方に目を向けようとされるのです。
イエス様は十字架の上で私たちの罪を償う身代わりの死を遂げただけではありませんでした。3日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る門を私たちに開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれて、イエス様の純白な衣を着せられて歩み出すこととなったのです。
3.イエス様という純白な衣を頭から被せられたと言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。イエス様の犠牲のおかげで罪を赦された者と見てもらえ、神の目に相応しい者にしてもらったとは言っても、それに相応しくないことが自分に沢山あることに気づかされます。人を傷つける行いや言葉は出さないようには出来ても、心の中で思ったりしてしまいます。神の意思についてイエス様は心の中まで問われると指摘しました。また、どんなに注意しても、人間的な弱さがあったり隙をつかれたりして罪が言葉や行いになって出てしまうこともあります。そのような時はイエス様の衣を汚したとして取り去られてしまうのでしょうか?もう神の目から見て一生失格者なのでしょうか?
そうではないのがキリスト信仰なのです。罪の思いを持ってしまった時、罪の言葉や行いを出してしまった時、その事実から目を背けずにそれを神の意思に反する罪と認めて次のように神に祈ります。「父なる神さま、せっかくイエス様が罪を償って下さったのにそれを台無しにするようなことをしてしまいました。イエス様を救い主と信じますので、どうか赦して下さい。」さあ、神はどう出るでしょうか?神は次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前の心の目をゴルゴタの丘の上に立つ十字架に向けよ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられてそれは今も微動だにしない。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい。」そう言って私たちを新しく送り出して下さるのです。その時私たちは復活された主が墓を後にして出て行ったように私たちも新しい歩みを始めるのです。
キリスト信仰者の人生はこのような罪の告白と赦しの繰り返しです。それを断ち切らないで続けることがイエス様の純白の衣を纏い続けることになります。たとえ罪が内に残っていても、神の方を向いて罪の告白と赦しを繰り返すことでイエス様の衣を手放さなずにしっかり纏い続けていくと、罪は衣の神聖な重みで日々圧し潰されていきます。そして、いつの日か神の御前に立たされる時、自分の人生は罪が内に残っていた人生だったかもしれないが、イエス様の衣を最後まで手放さなかったことで罪を圧し潰す側に立って生きていたことが明らかになります。神はこれをよしと認めて下さるのです。これがキリスト信仰者に下される審判です。この世で罪を圧し潰す側に立って生きると、馬鹿にされたり爪はじきされたりすることが多くなります。でも、それは間違いではなかったと復活の日にはっきりします。その時、信仰者にはもう圧し潰す罪がなくなっています。外側だけでなく内側も純白になって変容を遂げているのです。
4.ここでイエス様が3人の弟子たちに山の上で見たことを自分が復活する時まで人に話してはいけないと命じたことについて考えてみます。これは実は本日のテーマである、復活と変容の関係に関わります。なぜイエス様はそのようなことを命じたのでしょうか?
先週の説教でも触れたことですが、イエス様が自分は何者であるかとか、自分が奇跡の業を行った時とか、そういうことを他の人に知らしてはいけないと命じたことが沢山あります。これについて、W.ヴレーデというドイツの歴史聖書学者が120年前に発表した学説が今でも影響力を持っているということをお話ししました。ヴレーデの説は、マルコは福音書を書いた時、イエス様は自分の正体を復活の日まで秘密にするように命じ、その日に全てが明らかになるような仕掛けで福音書を書き上げたというものでした。彼の学説には沢山の反論もあり、私も与しない立場ですが、それならばイエス様のかん口令はどのように説明できるのか、これを説明できなければなりません。先週は悪霊に対するかん口令を説明しました。今日は3人の弟子たちに対するかん口令です。今日のは特にイエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと言うので、ヴレーデの説明が一番響くところです。この個所をマルコの創作ではなく、イエス様が実際に話された言葉としてみたら、どのように説明できるでしょうか?
イエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと命じた時、弟子たちは復活とは一体何なのかわからなかったとあります(10節)。弟子たちがわからなければ他の人たちもわからなかったでしょう。復活というものがわからない段階で山の上の出来事を知らせるのは時期尚早、イエス様が復活を遂げて復活というものが起こるのだとわかった段階で知らせたら復活がわかるようになるということです。つまり、イエス様の復活の後ならこの出来事は復活の理解に資するが、復活の前では資さないということです。さあ、どういうことでしょうか?
この問いに答えられるためにモーセとエリアの出現について考えることが役立ちます。遥か昔の時代の預言者が突然現れたというのは、これは幽霊でしょうか?そうではありません。二人は神の御許から送られてきたのです。ここは少し複雑なところなので、よく注意して聞いて下さい。聖書の観点では人間がこの世を去った後に神の国に迎え入れられるというのは、今の世が終わって神が新しい天と地を創造される時になってからのことです。その時までは亡くなった人たちは神のみぞ知る場所にて安らかに眠っています。その眠りから目覚めさせられるのが復活です。
ところが聖書には、そういう将来の復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた人たちがいることが言われているのです。本日の旧約の日課に出てくるエリアがその一人です。モーセの場合は少し微妙で、申命記34章では「死んだ」と言われていますが、彼を葬ったのは神自身で、その葬られた場所は誰にもわからないという謎めいた最後の遂げ方です。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしないで、復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられたと考えられます。その証拠に彼はエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきました。これは、もう幽霊などという代物ではありません。このように、聖書の観点ではこの世を去った人は原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。ただ、例外的に復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた者もいるということです。
さて3人の弟子たちは目の前に現れたエリアとモーセを見てどう思ったでしょうか?イエス様が復活された時、突然弟子たちの前に現れて弟子たちは幽霊だと思って大騒ぎになりました。イエス様は自分は幽霊ではないと言って、新しい復活の命を持つ自分を示して弟子たちを納得させました。しかし、イエス様の復活が起きる前のヘルモン山の上で弟子たちはまだ復活について何も知りません。彼らにとってエリアとモーセはやはり幽霊だったのではないかと思います。しかし、この二人は本当は既に神の御許に迎え入れられた者として現れたのです。その証拠に、ルカ9章31節を見ると、二人は「神の栄光に包まれて現れた」と言われています。幽霊にはそんな神の栄光などありません。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からではないので、私たちは一切関りを持たないように注意しなければなりません。それは万物の造り主である神の意思でもあります。なぜかと言うと、旧約聖書の多くの個所で神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているからです(レビ19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。日本人には痛いところかもしれませんが、これが聖書の立場なのです。
さあ、3人の弟子たちの驚きと恐れはいかほどのものだったでしょうか?神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているのに、なんとイエス様はエリアとモーセと話をしているではないか!しかし、イエス様は天上の純白さで輝き、エリアとモーセも神の栄光に包まれている。これは幽霊ではない。じゃ、一体何なんだ!という具合にです。でもこれは、私たちも復活を遂げたらエリアとモーセのように神の栄光に包まれた者に変容させられて、天上の純白さに輝くイエス様とお話ができるという、自分たちの未来像が示されていたのです。これは本当に、死からの復活、死を超えた永遠の命があることがわからないと未来像として受け取ることは不可能です。だからイエス様の復活の後でなければわからないことであり、人々に正しく伝えられるためには主の復活を待たねばならなかったのです。
5.最後に山上に現れた雲についてひと言述べておきます。登山する人は高い山では天候があっと言う間に急変すること、例えば、ちょっと前まで晴れていたのが冷たい空気が流れ始めるといつの間にか周囲は霧で真っ白になることを知っています。登山用語でガスと言いますが、それは麓から見たら山にかかる雲ということになります。それなので、ヘルモン山上で急に雲が覆ったというのは普通の自然現象としてもあり得ます。普通の自然現象を超えるような雲については出エジプト記の中で述べられています。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を受け取った時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死んでしまうと言われました(18~23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをわきまえていなければなりません。
そういうわけでシナイ山の雲は、生身の人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山上でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、雲は同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。そして、私たちが復活を遂げて肉の体にかわる、神の栄光を映し出す復活の体を着せられる時、私たちも変容させられたのであり、その時はもう防護壁はいりません。パウロが第一コリント13章12節で言うように、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」からです。まさに復活とは変容のことなのです。
(後注)復活を意味する動詞はεγειρωとανιστημιがあり、受動態で使われるのは前者です。
あなたはあの高い山でイエス様が変容(へんよう)した時、彼に聞き従え、とお命じになりました。どうか私たちが、イエス様のおかげで天のみ国を受け継ぐことが出来るようになったことを常に覚えて感謝し、彼の教えられたことを喜んで行えるようにして下さい。
主日礼拝説教 (2021年1月31日 顕現節第5主日)
今日の福音書の個所を読んだ皆さんは、ここにある出来事は先週の出来事の続きで全部が一日の内に起こったことと分かったでしょうか?実にたくさんのことが一日の内に起こりました。少し遡ってみてみますと、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、その後で荒野で悪魔から試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられたという知らせを聞き、イエス様はガリラヤに乗り込んで行きます。そこでまずペトロとアンドレの二兄弟とヤコブとヨハネの二兄弟を弟子にして付き従わせます。そして、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。この安息日に沢山のことが起こったのです。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ恐れ入ります。丁度その時、会堂にいた悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々はイエス様の教えにはそのような力が伴っていることも思い知ります。この会堂の出来事が先週の福音書の個所でした。この出来事はその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきます。
今日の個所はその続きです。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいます。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。
イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂に行って教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い安息日になりました。本当にお疲れ様でした。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いた途中だったのか、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。
これを読むと、あれっ、イエス様は少し冷たいな、もう少しペトロの家の所で癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったようです。ところで、新共同訳では「教えを宣べ伝える」と言わないで「宣教する」と訳しています。もとにはκηρυσσωというギリシャ語の単語がありますが、それは「教えを宣べ伝える」という意味です。「宣教する」も同じではないかと思われるかもしれませんが、実はそうとも言えないのです。こんなことがありまして、日本福音ルーテル教会の東教区の中央線沿線の7教会が毎年「一日教会祭」という、各教会がそれぞれのタレントをお互いに披露しあうというイベント行事を市ヶ谷教会を会場にして行っています。昨年はコロナで中止でしたが、2年前の一日教会祭である教会が教会外部のベリーダンス・グループを招いて自分の教会の出し物としてダンスを披露させました。その後で牧師と役員の会合があったのですが、私が、あの出し物は一日教会祭の趣旨に合わないのではと疑問を呈したところ、あれは立派な「宣教」なのだ、そんなこともわからないのか、と呆れかえられてしまいました。私が神学を学んだフィンランドでそういう「宣教」に類する言葉はあるかどうか考えてみたのですが思い当たらず言葉に詰まってしまいました。それ以来、私は「宣教」という言葉を使うのをやめることにしました。「福音の伝道」と言うことにしています。
話が横道に逸れましたが、イエス様が重視した「教えの宣べ伝え」を今日の説教で見ていこうと思います。イエス様が癒しや悪霊の追い出しを軽視したということではないのですが、ただそれらが「教えの宣べ伝え」とどういう関係にあるのかを明らかにする必要があります。
イエス様が宣べ伝えた「教え」とはどんな教えだったでしょうか?イエス様はガリラヤ地方で伝道活動を開始した時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べました。2週間前の説教でお教えしたことですが、「時は満ちた」というのは「神の人間救済の計画が実行に移される時が来た」という意味です。「神の国は近づいた」というのは、「神の国がイエス様と一緒にすぐそばに来ている」という意味です。「悔い改めよ」とは、「神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きよ」と言う意味、「福音を信じなさい」は「旧約聖書にある神の約束がいよいよ実現するという良い知らせを信じなさい」ということです。イエス様の教えの中心にあるものは「神の国」です。人間が「神の国」に迎え入れられるようにするためにはどうしたらよいか?これがイエス様の教えと業の双方を理解する鍵であると言っても過言ではありません。
「神の国」については本教会の説教でも何度もお話ししましたが、ここでも振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。
そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言うと、「神の国」すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教は死んだらすぐ天国に行けないの?という疑問が起きます。実はキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。
そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。
さて、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論と違った意味で言っていたのです。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
しかしながら、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできません。自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架の上で果たしてくれた人間の罪の償いがそのまま自分にその通りになります。罪を償ってもらった者になったら今度は神から罪を赦された者と見なされて、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。イエス様の死からの復活のおかげで永遠の命への扉が人間に開かれました。キリスト信仰者はそこに至る道を順境の時も逆境の時もいつも変わらず神に守られ導かれて進みます。たとえこの世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになったのです。
以上、イエス様は教えを宣べ伝えることをとても大事にしたということと、彼の教えの主眼は人間を神の国に迎え入れられる者にすることであったことを見てきました。イエス様の教えには癒しや悪霊追い出しの力が伴っていましたが、それは神の国が彼と共にあったからということも見ました。
本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節にあります。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」
これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?悪霊がイエス様のことを知っていて、イエス様が話をすることを許さないというのは既に先週の個所にありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」ここで「神の聖者」という訳についてひと言申し上げます。「聖者」と言うと「聖者の行進」という有名なゴスペル・ジャズの歌があるので何だか死んだ人みたいに聞こえてきます。それではイエス様が可哀そうです。ギリシャ語原文を見ると「神の神聖な方」です。定冠詞がついているので「神の神聖な方の決定版」です。英語で言えばThe holy one of Godです。「聖者」ではありません。悪霊はイエス様が神の神聖なお方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にしてはいけないと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。これは一体どういうことでしょうか?
福音書を見ると悪霊の追い出し以外にも、イエス様が癒しの業を行った時に誰にも言ってはならないとか、自分が行ったこと自分が神のもとから来た者であることを口外してはならないという場面が多くあります。イエス様のこうしたかん口令について、ドイツの歴史聖書学者のW.ヴレーデという人が1901年という昔に「メシアの秘密」という有名な研究書を出しました。彼によると、マルコ福音書を書いた人は、イエス様が自分の正体を人々に隠し続け、復活の時になって全てが明らかになるという仕掛けで福音書を書き上げたと言うのです。これからわかるように、福音書というのは歴史的事実を伝えるものではなく福音書作者の文学作品という立場です。ヴレーデの学説は長く影響力を持って、学会だけでなく礼拝の説教でもイエス様のかん口令を説明する際によく使われたのではないかと思います。ただし、ヴレーデの説に対する反論も沢山あります。私も賛成しません。それでは、悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊が話をすることを認めなかったということは、どうやって説明できるでしょうか?
先週の説教で、悪霊と悪魔の区別についてお話ししました。悪魔・サタンは悪霊の頭、悪霊は悪魔・サタンの手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。ところが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神から罪の赦しを受けられる可能性が打ち立てられました。さらに、永遠の命に至る扉も人間に開かれ神の国に迎え入れられる可能性が打ち立てられました。まさにそのために悪魔と悪霊の企ては破たんしてしまいました。それにもかかわらず両者は機会を捉えては、人間が罪の赦しがあることも神の国への迎え入れの可能性も知らないようにしようとします。仮に知ることになっても忘れるようにしようします。
さて、悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方の決定版」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。ただそれは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、人間の神の国への迎え入れということが全然出てこないからです。イエス様が自分は神の神聖な者、神の子であるということを悪霊に話させないようにしたのは、信仰告白と無関係に正体の暴露はするなということです。イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、それらの言うことに耳を貸してはならないということも意味しています。ここでもイエス様が人間の神の国への迎え入れを大事に考えておられることが見えてきます。
先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むことはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。ヘブライ語原文をもう少ししっかり見ると、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。父なるみ神に見放されたと思って嘆いているのです。ところが神は、そうではないと、28~31節で言います。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。」
「主に望みをおく人」というのは、これも原文に忠実に見ると「主を待ち望む人」です。「主」というのはヤハヴェと書いてあるので、聖書の神のことです。それで「主を待ち望む」と言うのは、「神が救ってくれるの待ち望む」ことです。「神の救いを待ち望む」とは言うまでもなく、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、その時を待ち望むことです。その時を待ち望む者は、神の国に向かう道を進んでいる時に疲労しても必ず回復が与えられるということを、このイザヤ書40章の終わりで約束しているのです。主にある兄弟姉妹の皆さん、疲労回復のカギは何と言っても神の国への迎え入れを常に待ち望んでいるかどうかにかかっていることを忘れないようにしましょう。
あなたは、ひとり子イエス様の十字架の死と死からの復活によって、私たちの心の目と耳を開いてくださいました。 どうか私たちが、開かれた目と耳をもって聖書の御言葉が伝える真の希望を見出し聞こえるようにして下さい。