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主日礼拝説教 2023年6月4日 三位一体主日
聖書日課 創世記1章1-2章4a節、第二コリント13章11-13節、マタイ28章16-20節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週の主日は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、そのうちの一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され出したことを記念する日でした。父、御子、聖霊の三者がそろった後の主日ということで今日は三位一体を覚える主日です。
皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝されます。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表されています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、そして聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない者、神に相応しい者にしていくということです。
これら三つの人格、三つの役割は別々のようなものでも、全部が一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。この全体が神の大いなる愛を表しています。第一ヨハネ4章8節で「神は愛なり」と言われますが、三位一体の大いなる愛のことを言っています。
本日の説教は二部構成になります。第一部では、マタイ福音書の日課の箇所でイエス様が弟子たちに、世界の人々に「父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けよ」と命じていることについて見てみます。三位一体の神と洗礼は不可分に結びついているということについて見てみます。第二部では旧約聖書の日課、創世記の天地創造の話を見てみます。進化論から見たら聖書の天地創造は馬鹿々々しい話になってしまうのですが、実は天地創造は現代において意外にも意味がある話であることをお話ししようと思います。
2.
本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる箇所です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるというのは、洗礼を受ける者が三位一体の神に結びつけられるということです。神は創造の業を行う父であり、人間を罪の支配下から贖う御子であり、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊である、この三位一体の神に結びつけられるのです。結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていきます。そして、この世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎えられます。
三位一体の神と結びついて生きる時、私は「神に創造された者」という自覚を持つことは特に大事と考えます。と言うのは、その自覚は、キリスト信仰に入れるか入れないかどうかのカギになるからです。また信仰に入った後もしっかり信仰に踏み留めるかどうかのカギになるからです。どういうことかと言うと、自分が神に造られた者との自覚を持つと次に、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになります。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?
聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけない、という立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。どうしてそんなことが起きたかというと、人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わってしまった。そのことが創世記3章に記されています。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、そのままの状態ではこの世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。
しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分のもとに帰れるようにしてあげようと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間のために切り開いて下さったのでした。
そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれて神との結びつきを持ってその道を進むようになります。
ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入っても道から踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊が大事な役割を果たします。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。神に背を向けてしまうようなことがあっても、聖霊はすぐに私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれます。その時、私たちは再び神の御前にひれ伏すようになり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正してまた天の御国に向かう道を進んでいきます。
このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖い出されることです。それと、造られ贖われた者が天の御国に向かう道を歩める力と支えを得られるようになることです。実に三位一体の神と結びつけられる洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れられるという約束を神からしてもらうことです。
3.
先ほど申し上げましたように、三位一体の神と結びついて生きる時、「神に創造された者」という自覚を持つことは大事です。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きません。その問いがなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわかりません。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。
ところが、今日では神の創造ということを信じることがますます難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからではないかと思います。生物は長い年月をかけて単純なものが複雑なものに進化していく。そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。
何年か前にイスラエルのハラリという歴史学者の書いた「ホモデウス」という本が話題になりました。その中で、彼は進化論の立場に立って、なぜキリスト教は進化論に否定的なのか?それは進化論が魂の存在を否定するからだ、と言っていました。これにはなるほどと思いました。生き物は、人格と意志を持つ創造主が造るのではなく、無数の化学反応の集積から構成されて変化していくと見たら、魂などという科学的に説明できないものは入り込む余地はなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は、造り主がどう思っているかなんて考えないで、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。
そこで、ここから先は本日の旧約聖書の日課、創世記の初めのところをもう一度振り返り、天地創造は本当は現代においても意味のある話であることを見てみたいと思います。この問題に関して近年では進化論に対抗するものとしてインテリジェント・デザインという考え方が注目されたようですが、私はおそらくその議論についていけるインテリジェンスを持っていないので、ひたすら聖書をじっくり見ていくことにします。じっくり見る聖書とは、旧約聖書はヘブライ語のBiblia Hebraica Stuttgartensiaで(一部はアラム語で書かれていますが)、新約聖書はギリシャ語のNovum Testamentum Graeceです。私にとって大切な聖書のテキストです。
創世記1章について、本説教では2つのことを見て、聖書の天地創造は今日でも意味があることを確認したいと思います。一つは、天地創造の時間の流れについて。もう一つは、造られたものとしての人間と動物の立場についてです。
まず、天地創造の時間の流れについて。天地創造によると、神は6日間で天地とその中にあるものを造り上げ、7日目に休まれたとあります。これなどは、多くの人は真に受けないでしょう。物理学などで地球は何十億年前に誕生したと言っています。それなのに、最初の24時間で光が出来、次の24時間で空、次の24時間で海と陸と植物、次の24時間で太陽、月、星、次の24時間で魚と鳥、次の24時間で陸の生き物と人間、合計144時間、分にして8,640分、秒にして518,400秒、これで地球誕生から最初の人類まで間に合うのか、誰も見向きもしないでしょう。
もちろん、神に不可能なことはないというのが聖書の立場なので、144時間で完結したという可能性も残しておきますが、ここは次のように考えることも出来ます。毎日の終わりに「夕べがあり、朝があった。第何の日である」という締めの言葉があります。ヘブライ語の原文の言い方は、「そして日の入りとなり、そして日の出となった。以上が第何の日である」という意味です。ここにあるのは、一日というのは日の出で始まり次の日の出までという考え方です。なので「日の入りとなって日の出となった」と言うのは、その日は暗くなったので仕事は終わりですという、その日の終わりを告げる合図の文句です。
つまり、天地創造の記述の観点は、造られたものを6つの段階的なグループにわけて、それぞれの段階の長さは私たちの時間の観念ではどれくらいなのかはわからないが、とにかくそれぞれの段階の終わりに「これで一日が終わりました」と言って、それぞれの段階が1日という扱いになって全部で6日になるように見せようとしていると考えることができます。それぞれの段階の長さは、私たちの時間の観念でひょっとしたら何億年もかかっているかもしれないが、それぞれに一日の終わりを意味する締めの言葉をつけることで1段階を一日と言っていると考えることができます。それでは、どうして6段階を6日にすることにこだわるのかと言うと、それは神が人間に1週間7日というリズムを与えて、7日目は安息日に定めるという意図があるからです。このように6日というのを6段階と考えれば、天地創造は時間的流れに関しては問題はなくなります。
4.
次に造られたものとしての人間と動物の立場について。先ほどのハラリは進化論に立つので霊の存在を否定します。そうすれば人間と動物は能力の差はあれ、同じ種類になるので決定的な差はなくなります。それなので進化論から見ると、キリスト教というのは人間を霊的な存在にはするが動物はそうせず、それで人間を優、動物を劣にしているというふうに見ます。ところが、聖書をよく読むと、動物も実は霊的な存在で、進化論が言うのとは逆の意味で人間と動物が同じ種類に入るということがあるのです。ひょっとしたら、これはあまり注目されてこなかったことかもしれません。少し注意しながら聖句を見てみましょう。
5日目に神は魚と鳥を祝福します。そのまま続けて読んでいくと、6日目に人間も祝福します。あれ、人間と同じ日に造られた動物は祝福されないのか?やはり動物は神の祝福に与れない、人間より劣ったものなのかと思わされます。しかし、それならば、なぜ魚と鳥は祝福を受けられるのか?魚と鳥は動物以上で人間並みということなのか?
これは、ヘブライ語の原文の厄介さがあります。複数形と単数形が入り乱れて、どれが何を指しているかよく考えないといけません。問題となるのは27節と28節です。28節を逐語訳すると、「神は彼らを祝福した。そして神は彼らに言われた。『お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、お前は地を従わせよ』」となります。最後の「地を従わせよ」と命令されている相手は単数形なので「お前は」です。その前の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の相手は全部複数形です。それで「お前たちは」です。それが突然「お前は」になるのです。これはどういうことか?可能な考え方として、神が祝福した「彼ら」は人間だけではなく、同じ日に造られた動物も含まれる。そして両者に対して「産めよ、増えよ、満ちよ」と言った。ところが、「地を従わせよ」のところで相手を人間に絞ったということです(後注)。鳥や魚が祝福を受けて「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのなら、動物も祝福を受けられて同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われてもおかしくなく、それは文法的にも可能です。つまり、動物も魚も鳥も人間と同じように神の祝福を受けられ、みな「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。
動物が霊的な存在ということを考える時、民数記22章でバラムを乗せたロバが行く手に天使を見て立ち止まり、天使が見えないバラムに対して人間の言葉で話し出した出来事を思い出すと良いでしょう。人間には見えなくても動物には天使が見えたということが聖書にはちゃんと記載されているのです。
そこで、26節と28節に人間に動物、魚、鳥を「支配させる」と言われていることを見てみます。それは、聖書が人間に優越的な地位を与えていると考えられるところです。ところが、この「支配する」というヘブライ語の動詞רדהですが、詩篇72篇8節でも使われています。そこを見ると、正義を守る理想的な王の支配について言われています。力や数に任せた身勝手な権力行使ではないのです。そのように動物や魚や鳥に対しても、神の創造ということを念頭において何か注意深さ賢明さが必要ということになります。
さらに29節を見ると神は人間に食べ物として植物から採れるものを与えると言い、鳥や動物にも植物を食べ物として与えると言います。神が与える食べ物は人間も鳥や動物もかわりません。ところが、現実は、人間は動物や鳥も食べるし、鳥や動物の中には他の鳥や動物そして人間を食べるものもいます。それなので、神が人間と動物と鳥の食べ物について言ったことは、天地創造当初の理想状態の時のもので、それが堕罪の後で変わってしまったというふうに考えられます。そこで興味深いのは、イザヤ書11章にエッサイの切り株から出てくる若枝がこの世の権力者とは全く異なる仕方で世界を治めるという預言があります。エッサイはダビデの父親なので、エッサイの末裔から出る若枝とはイエス様のことです。イエス様が世界を治めるというのは、これは今の世が終わった後の次の世に現れる天の御国のことです。そこでは猛獣たちも他者を傷つけることなく家畜と一緒に仲良く並んで草を食べています。これは、まさに堕罪が起きる前の天地創造の理想的な世界が戻って来ることを示しています。つまり、動物たちも天の御国にいられるのです。
それならばなぜ、聖書は動物のことをもっと出さないのか、もっと踏み込んで動物の救いについて言わないのかという疑問を持たれるかもしれません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架の死と死からの復活があったのであり、贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐を受けることが必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだと言っても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。じゃ、動物の救いは何かと言うと、それは聖書にはそれ以上のことはないのでわからない。聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造の業と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。
5.
以上、創世記の天地創造は、時間の流れについても受け入れるのに問題がないこと、人間と動物の立場についても神の創造に属するものとして同じ祝福に与っていることを見ました。もちろん、聖書は人間の問題に集中しているので動物のことは書いてある以外のことはわからず、神に任せるしかありません。いずれにしても天地創造は、救いを人間を超えて生態系にも及ぼしていることを予感できるだけで十分と思います。それなので、時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点も与えます。もし、自分は神なんかに創造されていないと言ったら、その時はもう造り主がどう思っているなんか考える必要はなくなります。自分こそ自分の主人だから自分の好きなようにやればいい、神なんかにとやかく言われる筋はない、という生き方になります。逆に自分は神に創造されたと認めたら、神との関係は必ず心配の種になりますが、神が贈ってくれた贖い主がおられる。彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きるのは自然なこと、別にとやかく言われるからするということではなくなります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)
ここで厄介なことがいろいろありますが、解決策を考え出すことも可能だと思います。
一つの厄介なことは、「お前は地を従わせよ」と言った後すぐ、今度は「お前たちは海の魚、空の鳥(etc)を支配せよ」と言います。つまり、「支配する」人間が単数から複数に変わるのです。そうなると、その前で「お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言っていたのは、人間プラス動物ではなく、やはり人間だけなのではないかと思えてきます。しかし、26節と27節では人間は単数扱いになったり複数扱いになったり目まぐるしいのです。27節で「神は自分に似せて彼を(אתו単数)造った。男と女とに彼らを(複数אתם)造った。」とあります。28節の「支配する」が複数なのは、26節で複数形で言われている文をそのままそこにコピー&ペーストしたことで起こったのではないかと思います。
もう一つ厄介なことは、「支配する」動詞のרדהですが、詩篇8篇で神が人間に他の被造物を支配することを委ねたというところで、このרדהを期待したのですが、なんとמשלでした。実はこのמשלは創世記1章18節で「太陽が日中を支配し、月が夜を支配するために」のところでも使われています。秩序だった支配を意味すると考えれば、詩篇72篇8節の正義の支配と重なりますが、משלは現在分詞で「暴君」の意味もあるということで、頭が痛いところです。今回は解決策の模索はここで休止します。またいつの日か考えなければならない時が来ると思います。
主日礼拝説教 2023年5月21日 昇天主日
聖書日課 使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は創造主の神の計り知れない力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。そして今日は昇天日の直近の主日なので、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、現代を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。今年は使徒言行録の昇天の記述とルカ福音書の記述の両方をよく見比べて、主の昇天が私たちに大いに関係があることをお話ししようと思います。その前に、まず昇天とはどんな現象かということについて、そしてイエス様が上げられた天とはどんなところかについて毎年お教えしていることを復習しておきます。その後でルカ福音書と使徒言行録の記述から、イエス様の昇天と私たちの関係を考えてみます。
新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。イエス様の昇天を同じようなにイメージしてしまったら、同じように現実にはないものと思われてしまうのではないかと心配します。
ところが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまった印象を与えてしまうと思います。
そうなると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。それを思い出さないといけません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。
これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。
ここで聖書を読む人が思い出さなければならないことがあります。それは、天に上げられた時のイエス様の体は既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが沢山ありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかない何かがありました。それから、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物の天使と同じではありません。イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されたと思います。どうでしょうか?ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみます。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通キリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?
毎年述べていることですが、世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。
なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰というものと全く別世界のことだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。
ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに信仰者は、自分の命と人生はこの世だけではない、今のこの世は始めがあったように終わりもある、終わりの時には天と地が新しく再創造されてそこに神の国が唯一の国として現れる、自分の命と人生はそこで続いていくことになると考えます。この世では肉体の体をもって生きたように、この次に到来する世では復活の体をもって生きるようになる、そういうふうに人生を二つの世にまたがるものとして考えます。この人生観を持つ信仰者は、神がどうしてひとり子を私たち人間に贈って下さったかが分かります。それは、私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間が今のこの世の人生と次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。生きる舞台が今のこの世とこの次に到来する世の二つにまたがっているということは、本日の使徒書の日課エフェソの1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。
それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が大いなる人生を持てるようになるのでしょうか?それは次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に背こうとする性向、罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために罪の問題を人間のために解決することにしたのです。
どのようにして解決して下さったのでしょうか?神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生とこの次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を生きられるようになったのです。
以上、昇天とはどんな現象か、そしてイエス様が上げられた天とはどういう所か、私たちがそこに迎え入れられるようになるためにイエス様が大役を果たされたことを見ました。それでは次に、イエス様の昇天が現代を生きる私たちとどんな関係があるかについて、ルカ福音書と使徒言行録の記述から見ていこうと思います。
ルカ福音書と使徒言行録のイエス様の昇天の出来事の記述は、同じ出来事を扱っているとはいえ、内容が少し違っていることに気づきます。使徒言行録の方がルカ福音書より詳しく書かれていますが、イエス様が弟子たちに話す内容が違っていたり、使徒言行録では昇天の時に雲や天使が出てくるのにルカ福音書にはありません。どういうことでしょうか?
ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるものです。著者がルカという人物であるというのは初代の教会からの言い伝えですが、それに対する反論はなく定説になっています。パウロのコロサイの信徒への手紙4章14節、ティモテへの第二の手紙4章11節、フィレモンへの手紙24節にパウロと共に福音伝道に携わった同志として名前が出てきます。
ルカは福音書と使徒言行録をテオフィルスという位の高い人に献呈する書物であると双方の出だしで言っています。使徒言行録の出だしでは、テオフィルス様、先に私は、イエスが弟子たちに指図を与えて天に上げられる日まで彼が教えたり行ったりしたこと全てを第一巻として書き下ろしました、と言います。その第一巻とは言うまでもなくルカ福音書のことです。実際、ルカ福音書はイエス様が弟子たちに指図を与えて天に上げられたところで終わっています。イエス様が与えた指図というのは、天の神から力を受ける時までエルサレムに留まっていろということです。天の神からの力とは、聖霊が降ってきた時に受けられる力というふうに聖霊由来の力です。
ところでルカは、使徒たちのようなイエス様の直接の目撃者ではなく、使徒たちの伝道を聞いて信仰者になって伝道に従事するようになった者です。ルカにとってイエス様は少し前の過去の人ですが、使徒たちは同時代の人です。そのことはルカ1章からわかります。そこで、自分はどのようにしてイエス・キリストの言行録を書いていくかということを述べます。目撃者の証言と信頼できる記録を集めて書くのだと。つまり、自分は直接の目撃者ではないが、信頼できる資料を集めて書き上げるのだと。使徒言行録ではそういうことは言っていません。それは、ルカが使徒たちから直接聞いたというだけでなく、自分自身使徒たちと行動を共にし使徒たちの生きざまの直接の目撃者であったからです。使徒言行録16章10節から、書き方が「私たちは~した」という言い方になり、目撃者としての立場を明らかにしています。
このような背景がわかると、どうしてルカ福音書と使徒言行録の昇天の記述が異なってきているかがわかります。ルカは、福音書の方はあくまでイエス・キリストの言行録に留めよう、イエス様がこの世に贈られてから、この世で教え行ったことの記録をまとめようと、イエス様の言行録に徹したのです。どこで終わりにするかについてイエス様の昇天で終わりにすることにしたのですが、どういうふうに昇天を記述したらいいか、続く使徒言行録の出だしとの兼ね合いで考えなければならなくなりました。もちろん、ルカ福音書の終わりに使徒言行録の出だしとそっくり同じことを書いて重複させることも可能だったでしょう。しかし、ルカはそうしませんでした。なぜか?私は、ルカが手元にある沢山の資料を福音書用と使徒言行録用に使い分けたと考えます。どういうふうに使い分けたのか?
ルカ福音書の方に、イエス様が十字架で死なれ死から復活されたことは旧約聖書の預言の実現であるというイエス様の言葉が入れられました。それでルカ福音書は彼が旧約聖書の預言の実現であることを明確にして完結させます。預言が実現したことで「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」(ルカ24章47節、新共同訳は「罪の赦しを得させる悔い改め」)、そういう神への立ち返りを人間が出来るようになった、そのことを人間に教え伝えなければならないというイエス様の言葉を載せて、使徒言行録への繋ぎとしました。
続く使徒言行録では、もうイエス様が旧約聖書の預言の実現ということは繰り返されず、新しい動きに入っていきます。それは、人間が将来到来する神の国ないし天の国に迎え入れてもらえる可能性をイエス様が開いた、今度はその可能性を人間が持てるようにする働きが始まったのです。イエス様は40日の間、弟子たちに神の国について教えたと言われます。この教えで、弟子たちは、神の国が当時考えられていたような、支配民族を打ち倒してかつてのダビデの王国を再興するというような地上の国ではないとわかったでしょう。ダニエル書に預言された死者の復活が起きた以上はこの世を超えた終末論的な国だとわかったでしょう。
ところが弟子たちは、この終末論的な神の国が遠い将来に現れるのではなく、今すぐにでも現れると考えたようです。それは彼らの「あなたがイスラエルの民に王国を再興するのは今のこの時ですか」という質問に見て取れます。イエス様は神の国について教えた時、自分はまず天に上げられて後で再臨する、その時に神の国が現れると教えなかったのでしょうか?それとも、教えたけれども、弟子たちは目の前にいる復活の主に心を奪われて、神の国の王が今まさに目の前におられる、王国はいよいよ打ち立てられると気がせく状態だったのでしょうか?いずれにしても、弟子たちの頭には主の昇天も再臨も全然入っていません。
しかしながら、この時点での神の国の樹立は神の御心ではありませんでした。そんなことしたら、せっかくひとり子を用いて全ての人間に整えた可能性、人間が神の国に迎え入れられる可能性をまだほとんど誰も受け取っていない段階で新しい天と地の創造や最後の審判を行うことになってしまいます。これからしなければならない本当のことは、神の国に迎え入れられる可能性を全世界の人間が持てるようにすることでした。そのためには最初の目撃者たちに聖霊が降って力を得てイエス様について人々に証言しなければならなかったのでした。
それでは、証言するのにどうして聖霊が降らなければならないのでしょうか?それは、ただ単にイエス様が十字架にかけられて復活したのを目撃しましたと言っても、それだけでは、すごいなあ、不思議だなあ、で終わってしまいます。十字架と復活の出来事は「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」を人間が出来るようになるために起きた出来事であるということを伝えないと何の意味もないのです。
人間に神の意思に反しようとする罪があることを気づかせるのは聖霊です。同時にイエス様の十字架と復活に罪の赦しがあることをわからせるのも聖霊です。それなので聖霊が自分の内に働くようにする人は罪の自覚を持てて赦しを願う心を持ちます。これが神への立ち返りです。この立ち返りが起これば聖霊はすぐ心の目に主の十字架を示してくれます。これが罪の赦しをもたらす神への立ち返りです。この立ち返りは聖霊が働かないと起きないし、伝えることも出来ません。イエス様は弟子たちに、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けたが、お前たちは「聖霊を伴う洗礼」を授けると言いました。「聖霊を伴う」というのは、洗礼を受ける者に「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」が実際に起こるようになるということです。そして、洗礼を受けた者が他の者に同じ立ち返りを伝えることができるようになるということです。それで、聖霊が自分の内に働くようにしているキリスト信仰者は神への立ち返りをしながら生き、他の者に立ち返りを伝えるのです。これは最初の使徒たちが行ったことそのままです。
使徒言行録はパウロがローマに到着したところで終わっていますが、使徒言行録のテーマは終わっていません。イエス様が開いて下さった可能性、人間が将来到来する神の国に迎え入れてもらえる可能性を人間が持てるようにする働きはまだ続いているからです。とにかく主の再臨の日まで続く働きですから、私たちは使徒言行録の続編を生きているのです。
(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。
2023年5月7日 復活節第五主日 主日礼拝説教
聖書日課 使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節
本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?
弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。
ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。
イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して神聖な復活の体を持つイエス様がおられるのに相応しい場所、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。そこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。どこに連れて行ってくれるのでしょうか?それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、新しい天と地のもとで新しく始まる世の中にあります。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。
そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれす。つまり、その国では旧い世の不正義の報いが完璧に果たされます。また、そこは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様はこの約束を必ず果たされると信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちを持てるのです。
しかしながら、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に復活に関係する話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。
イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。どういう決定版かというと、創造主の神のもとに至る唯一の道という意味で決定版なのです。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っているなどと誤解する人が出てきます。
このように言うと、人によっては、いや、それはこの福音書を書いたヨハネの考えであって、実際のイエス様はそんな偏狭な考えの持ち主ではないと言う人もいます。そういう人にとって、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は実際のイエス様の言行録ではなく、それらを書いた人の限りなくフィクションに近い文学作品なのです。そういう、福音書を見ても実際のイエス様の教えや業は見えてこないという考え方はドイツの有名な聖書学者W.ヴレーデやR.ブルトマンの時代から1980年代まで聖書学会に根強くありました。福音書を文学作品のように扱うと、作者の意図は何かということに関心が行きいろんな解釈が生まれます。人を感心させたり感動させる解釈が注目を集めます。文芸評論みたいになります。ただ、それが実際のイエス様と関係ないことは、福音書は作者の文学作品であるという前提から明らかです。そのような解釈が信仰にとって妥当かどうかは、キリスト信仰の土台である使徒的伝統に照らし合わせてみればすぐわかります。
話がわき道に逸れたので戻ります。イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいいが、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価を受けます。
しかしながら、至福に至る道に関してキリスト教を他の宗教と同列にできない点があることを忘れてはいけません。恐らく多くの宗教では人間はこの世を去ったらあの世に行ってそこからこの世にいる人たちを見守っているというような、この世とあの世が同時併行してあるという見方ではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地再創造があるので同時併行にならないのです。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異なる次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は新しい復活の体を与えられてそこに迎え入れられるという流れになります。もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。それで、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なるのではないかと思われます。他の宗教ではこの世から離れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような何かを行っているという見方があると思われます。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。
道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。
真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理なのです。そしてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、これは真理なのです。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場です。最後の審判が真理であるということです。
次に命の決定版ということについて見てみます。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。
7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践し、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことがわかるようになったのです。
12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?
弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を開きました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。
それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。弟子たちの働きはイエス様が天に上げられた後で本格化します。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。
イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務として祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。
自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者とは神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難に解決を与えて解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。それに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のために、その歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の忍耐が試されるところです。
イエス様は、心を騒がせるな、神を信じ私を信じなさい、と弟子たちに言われました。そこで、復活が関係する将来のことを話しましたが、まだ十字架と復活の出来事が起きる前です。弟子たちは何のことかわかりませんでした。イエス様はさらに、自分と父なるみ神は一体であることも教えましたが、それもわかりません。そこでイエス様は、言葉で信じることができなければ、イエス様の業のゆえに信じなさい、その業はイエス様と一体である父なるみ神が行うのである、それくらいイエス様と父なるみ神は一体なのであると言います。弟子たちはイエス様の行った数多くの奇跡の業を思い出したのではと思われます。
しかしながら、それで弟子たちが心を騒がせなくなったかどうかはあやしいです。というのは、最後の晩餐の後でイエス様が逮捕されてしまうと、弟子たちは逃げてしまったからです。ペトロに至っては、お前はあいつの弟子だっただろうと聞かれて、あんな人知りませんと3度も答えてしまいました。
ところが、弟子たちが心を騒がせなくなるような真の業がこの後に起こったのです。イエス様の復活がそれです。これこそイエス様と一体である父なるみ神が行う業の中で最高の業でした。復活された主を目撃した弟子たちは一変しました。権力者から、イエスの名を広めたら命はないぞと脅され続けたにもかかわらず、彼らはひるまず恐れず伝道していったのです。それでイエス様が、言葉で信じるのが難しければ業のゆえに信じなさい、と言った時の業とは復活だったことが明らかになりました。このように復活というのは、神がイエス様を通して行う業のなかで一番心を落ち着かせて勇気を与える業なのです。それなので復活の日を目指して歩むこと自体が、心騒がず勇気を持って歩める歩みになるのです。
主日礼拝説教 2023年4月30日 復活後第四主日 聖書日課 使徒言行録2章42-47節、第一ペトロ2章19-25節、ヨハネ10章1-10節
本日の福音書の日課の個所はイエス様のたとえの教えです。日課は10節までですが、本当は16節までがひとくくりのところです。どういう流れかというと、最初1~5節までイエス様は羊の囲いについて話をします。羊飼いや羊を盗む泥棒のこと、羊飼いが羊の群れを囲いから出して牧草地に連れて行くことを話します。これを聞いた人たちは、何のたとえかわかりませんでした(6節)。それでイエス様は7節から説き明かしをします。まず、自分は羊の囲いの門であると明かします。7節から10節までです。その次に自分は良い羊飼いであると言います。11節から16節までです。
これらを聞くと、ああ、イエス様は私たちを守って下さるお方なんだ、何とありがたいお方なんだという気分になります。しかし、具体的にわかろうとすると難しくなります。イエス様が良い羊飼いのように私たちを危険から守り導いてくれると言っているのはわかりますが、イエス様が囲いの門というのはわかりにくいと思います。それに、囲いの門は何を意味しているのか?牧草地は何を意味しているのか?皆さんは直ぐわかるでしょうか?
実を言うと、これらのたとえの正確な意味は、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活と結びつけないでイエス様の教えを理解しようとすると、自分に都合の良い解釈がどんどん生まれていき、イエス様が言いたいことはこれだなどと言ってしまう危険があります。注意しないといけません。
本日の日課は、イエス様が自分を羊の囲いの門であると言うところまでです。本当は良い羊飼いと言っているところまであった方がいいのになと思ったのですが、囲いの門のたとえは本日の使徒書の日課、ペトロの第一の手紙の箇所と合わせてみると、より深く理解できることに気づきました。それで日課が囲いの門どまりであったことに感謝した次第です。
1節から5節はたとえそのものです。イエス様は本当に当時の社会の日常的なことを話します。
「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
羊の飼育が盛んなところでは、木材や石材で塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。泥棒が「乗り越える」というから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方から、囲いの中には、複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の所有する羊を呼び集める。羊は、生まれた時から同じ羊飼いに飼われているので、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられる、別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がる、イエス様は羊飼いと羊のそんな理想的な関係について言われます。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。
以上の話は、当時の人には日常的な当たり前な話でした。イエス様が日常的な事柄を話していることは、ギリシャ語の原文を見ると、ここの動詞のほとんどが現在形であることからわかります(後注)。しかし、これを聞いた人たちは、話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになりました。それで、イエス様は自分は囲いの門である、自分は良い羊飼いであると明かしたのです。しかし、それでも、まだ十字架と復活の出来事の前ですので、イエス様がどういうふうに囲いの門なのか、良い羊飼いなのかはわかりません。しかし、私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているのでわかる立場にあります。以下それについて見ていきましょう。
イエス様は、自分は羊の囲いの門である(7節)と言って、たとえの解き明しを始めます。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ギリシャ語原文を見ると、ここの動詞は全部現在形ではなく未来形になっています。救われることも牧草地を見つけることも未来の意味になっていて、日常を超える話をしているのだというシグナルを出しているのです。ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったする日常的な放牧の営みのイメージを出しています。ところが、原文ではそうは言っていません。「囲いの中に入って、外に出ていく」と未来形で言っていて、その結果、牧草地を見つけると未来形で言っています。囲いの中に入ることも、外に出ていくことも、牧草地を見つけることも全て日常を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?答えのカギは、囲いの中に入る際にイエス様という門を通らなければならないということがあります。さあ、ここで、十字架と復活の意味を知る者の出番です。
イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。どんな群れかというと、創造主の神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を進む者たちの群れです。この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども、結局はそれらに聞き従わず、イエス様の声に聞き従った者たちです。
このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。
このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世の人生を生きることを意味します。
それでは、二つの世のまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、そのためには神と結びつきを持てることが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。どうして持てないかと言うと、もともと人間は天地創造の時に造られた時はそれなりに良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。贈って何をしたかと言うと、あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたのです。
そこで今度は人間の方が、このことは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受ければ、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになったのです。
このように、私たちが造り主の神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の両方を生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。それがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ14章6節で宣言します。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ギリシャ語原文では、道、真理、命、それぞれに定冠詞ヘーηがついています。定冠詞とは、英語で言えば、皆さんご存知のtheです。イエス様は天の父なるみ神のみもとというゴールに至る唯一の道、真理、命であると自分で言っているのです。いろいろ沢山ある道、真理、命の中の一つではなく、自分が決定版であると、他でもないイエス様が言っているのです。
こうして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?良い羊飼いがついているから何も心配いらない、いつも安心安全な進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。ここで、主が共にいるから確かに心配はいらない、しかし、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?
それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に留まっています。もちろん、罪の赦しを頂いたので、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと恐れたり、そういう至らない自分に失望します。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者はまた神の意思に沿うようにしなければと心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。
キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、罪の赦しの確認ということを繰り返してこの世を進んでいきます。これこそが罪の赦しに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き裂こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。ある時は、お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、別の時には、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとします。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書の神を嘘つき扱いします。そういう声は特に苦難や困難に陥った時には耳に響いてきます。しかし、それらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向ける、罪の赦しに留まります。そうすることが、自分は罪に逆らっている、罪を憎んでいることを証しします。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。
このように罪の赦しに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことが罪の赦しに留まって生きることになります。
罪の赦しに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。または、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。
この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。
20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」この訳ではダメです。「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神から見れば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。確かにギリシャ語のカリスは「恵み」以外にもいろんな意味があります。しかし、「御心に適うこと」は少し離れてしまっていると思います。「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、訳した人は、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えて、それで「神の御心に適うこと」にしたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。それでは、善を行って苦しみを受けることがどうして神からすれば恵みになるのか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。そのことを見る前にもう一節見てみます。
19節「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」ここも「御心にかなうことなのです」と言っていますが、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。これに関連してもうひとつ訳の問題点があります。「神がそうお望みだとわきまえて」とあります。ギリシャ語原文を直訳すると「神に関わる良心のゆえに」です。「神に関わる良心のゆえに不当な苦しみを受ける」です。「神に関わる良心のゆえに」とは一体何でしょうか?これはもう、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています。
この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。
さあ、大変なことになりました。善を行うことで苦しみを受け、それを耐えることは神からすれば恵みである、良心が神に縛られているゆえに不当な苦しみを耐えるのは恵みであるという。どういうことでしょうか?
ここで「善を行う」と言う時の善とは何かについて確認します。これは20節の「罪を犯す」の正反対のこととして言われています。それなので、「善を行う」とは神の意思に沿うように生きることです。罪を犯すことは神の意思に背くことだからです。神の意思に沿う生き方とは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛し、その愛の上に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。もっと具体的には十戒を見ればわかります。人を傷つけることはしてはいけない、不倫してはいけない、偽証してはいけない、妬んだりしてはいけない等々、いけない尽くめです。これをルターの小教理問答書風に言えば、これらの逆のこともしなければいけないということです。困っている人を助け、夫婦関係を大事にして守り、陰口をたたかない、悪く言われる人に良い面があることを見つけてあげる等々をしなければならないということです。
そう言うと、あれっ、キリスト教って、神から罪の赦しがお恵みのように与えられるのを福音と言っていたんじゃなかったっけ?律法を行うことで救われるという考えは取らないんだから、人間に善いことをしろと命じたら恵みは意味がなくなってしまうのでは?そんな疑問が出てくると思います。本当にその通りです。キリスト信仰では罪の赦しは神のお恵みなので、人間がいくら善い業を行っても赦しを得られることにも、確実にすることにもなりません。だから、ペトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせずご褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることや救われることと何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えらる律法とは異っています。善い業を行っても裏目に出たら嫌だな、褒められたり褒美をもらえるほうがいいなと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなるような教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。
もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。それから、わざわざ不当な扱いを受けることを目的にして善い業をする必要はありません。善い業は神の命令であって、何かの目的の手段ではないからです。
これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。
以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。
(後注)ただし、「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」のところは未来形です。これは、他の者が近づくことが通常のことではなく例外的なことを表すためにその形にしたと考えられます。
ルカによる福音書24章13〜35節
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「はじめに」
イエス様の復活は、ご自身が既に約束されていた通りに、死んで葬られてから三日目の日の朝に起こりました。ところがその時、弟子たちは、イエスが言われた通りになるだろう、つまり復活するだろう、と堅く信じて待っていたわけでもなければ、復活の後もすぐにそれを信じたわけではありませんでした。それはこの前の12節までのところでもそうでした。最初は、婦人たちが、墓にイエス様の遺体がないのを見つけます。そんな彼女たちが途方に暮れているところに御使いが現れ言います。「イエスはよみがえったのです。イエスがかつてよみがえるといったことを思い出しなさい」と。彼女たちは、その言葉によって、イエス様の言葉を思い出して、イエス様は本当によみがえったのだと信じるのです。そして彼女たちは、その良い知らせを伝えるために、急いで弟子たちのところに走ります。しかしその知らせを聞いても、それでも使徒たちは、11節「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあるように、その時はまだ、彼女たちの話を信じなかった、つまり、イエス様の復活を信じなかったのでした。
もちろんこの後、彼らはイエス様の復活を信じます。しかし、大事な点ですが、このキリスト教信仰の核心である、イエス様の復活の事実を信じるということ、それは、この女性たちも、5−8節で、御使いから、
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」5−8節
と言う言葉を受けて、それから「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」ともあるよう、彼ら彼女たちは、自分たちの力や、意思や、理性で信じることができたのではなく、まさに、御使いの告げるイエスのみ言葉と、み言葉に働く聖霊によって、そのイエスの言葉を思い出させられることによって信じるように導かれたのでした。そのように、「信仰」というのは、決して律法ではない、つまり、私たちの、行いや力や努力や決心で「信じなければいけない」、ではなくて、むしろ全くその逆、信仰はどこまでも福音である。つまり、神からの恵み、賜物、み言葉を通しての導きと働きとしての信仰であるのだということを、このところは私たちに伝えています。そのことは、単純で当たり前のようでありながら、しかし同時に私たちクリスチャンが一番誤解し、逸れていきやすいところであり、だからこそ何度も繰り返し教えられ、立ち返らされる福音の核心なのです。今日はそのことを見ていきますが、13節から見ていきましょう。
2、「エルサレムに背を向け」
「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
13節
とあります。女性たちが伝えに来たその同じ日、二人の弟子が、60スタディオンという距離、それは、エルサレムから11キロという距離ですが、エマオという村に向かっていました。この二人の弟子については一人は18節にある通り、クレオパという弟子です。彼らは、エルサレムに背を向け離れようとしていました。14節を見ますと、彼らは二人で「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。どの出来事かというと、この後、書かれているのですが、イエス様が二人のもとに現れます。しかし、二人はそれがイエスであると気づかずに、その論じ合っている内容をイエスに話しています。それは19〜24節にある通り、この二人は、十字架の出来事だけでなく、その日の朝の出来事、つまり、女性たちが墓に行ったら、重い石の蓋が開いていて、中にはイエスの遺体がなかったこと、そして御使たちからの言葉を受けたことまでも、話しているのがわかるでしょう。
しかしこの二人は、「それでも」エルサレムに背を向け離れていこうとするのです。11節で、弟子たちは女性たちの言うことを信じなかったことが書かれていますが、正しく、この二人も信じなかった弟子達であったのです。事実、23節、新改訳聖書や英語のESVバイブルを見ると、彼らの説明で女性たちは「御使たちの幻を見た」と言っていることがわかります。二人にとっては彼女達が見たのは「幻」だったのです。女性たちは「幻」ではなく、事実「御使い」を見たと伝えたはずなのにです。つまり信じていないのです。それだけでなく、この二人の明るい平安な思い、ではなく、沈んだ思いもここには現れています。まず、17節に「二人は暗い顔をして」と彼らの心の内、感情を表している言葉です。決して喜ばしい状況で、エマオに向かっていたのではないことがわかります。暗い顔つきで二人は、イエスの十字架からその日の朝の出来事まで語っていたのでした。さらに、イエスについては19節で、あたかも、もはや過去のこととして「預言者でした」とあります。21節でも二人は「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」という言い方をしているでしょう。このところは、新改訳聖書の方は「イスラエルを贖ってくださると望みをかけていた」とも訳されています。つまり、事実、イエス様による「イスラエルの贖い」は、十字架で完全に果たされたのですが、しかし、この二人にとっては、イエスの十字架は、躓きとなり、彼らにとっては、イエス様の十字架という結末は、彼らの期待していた解放や贖いの形ではなかったのでした。まさしく、彼らは、「政治的な解放」としか思っていなかったということを窺い知ることができます。何より「望みをかけていました」とやはり、もはや過去のことなのです。二人にとっては、その望みは過去のこと、そして、望みではなく失望に終わったということが暗い顔に現れているのです。ですから、女性たちの復活の知らせも「たわごと」のように思えて当然なのです。彼らは、まさに暗い顔つきで、望みを失って、イエスがよみがえったという女性達の知らせにもかかわらず、あえて、その復活の約束のエルサレムを離れエマオに向かっているのです。何より、後でそんな二人に発するイエス様の言葉が、彼らのその信じない頑なさを表しているのがわかります。25節にこうあります。
「すると、イエスは言われた。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
25節
イエス様はそのようにいうのです。
3、「人間の現実:自ら信じることはできない」
復活の良い知らせ。その新しさ。新しいいのち。それはまさに福音の真髄であり、そこにキリスト教の信仰も教会も始まっていますし、使徒達たちも全ての弟子達、キリスト者達も、その十字架と復活を福音として世界に伝えていきました。しかし、今日のところではっきりと伝えられているように、その素晴らしい福音を、復活を、自ら、自分の力で「信じる」ことにおいて、弟子たちはみな無力であることがはっきりとわかります。自分たちの力や理性や意志の力では、誰も決して信じることができなかったのです。イエスが前もって伝えていたことであったとしても、そして、女性たちが見て喜びをもって伝えたことであっても、彼らは信じることができませんでした。これは人間の、つまり私たちの紛れもない、否定できない、神の前の現実を伝えている大事な事実の記録です。つまり「信仰、信仰」と、聖書も教会も最も大事だと言うけれども、その「信仰」というのは、決して、私たちの側から、私たちにある私たちの肉の性質から出る力のわざ、行い、努力でも、意思の力でもないと言うことです。むしろそれはできません。誰一人できませんでした。誰一人、信じられませんでした。女性たちとて、最初は、遺体に香油を塗るために墓に行っていました。復活を期待して墓に行ったのでもありません。墓が空っぽでも、彼女らは途方にくれるだけでしたし、御使いを見ても恐れるだけでした。そんな彼女たちは、主が遣わした御使いの方から、イエスが言ったことを、もう一度語ってくださり、その言葉を思い出しなさいと、導かれることによって、そのイエスのみ言葉を思い出して、イエスはよみがえったのだと、初めて悟ったでしょう。悟らされたのです。つまり、人間の側からでは決してない、どこまでも主からの、主のみことばの働きと導きがあってこその、「信じる」であったでしょう。主から与えられた信仰であったのでした。
この信じることができない、頑なな心の弟子たちの姿は、まさにそれこそ「人間のありのまま」を示しています。主イエスがいなければ、み言葉がなければ、主に導かれなければ、主の介入がなければ、誰も信じることができません。むしろ、どこまでも疑う。どこまでも背を向ける。そんな罪深い頑なな心の人間の現実こそ、真の人の「ありのまま」の現実なのです。
4、「主イエスの方から」
しかしそんな二人に対して、まさに「主イエス様の方から」働かれているではありませんか。まず15節です。
「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
15−16節
A,「近づいて、話しかけられる」
「イエスご自身が『近づいて来て』」とあるでしょう。「イエス様の方から」二人のところに来られ、そしてイエス様の方から二人と一緒に、ともに道を歩き始められているでしょう。「イエスの方から」なのです。むしろ、二人はそれがイエスだとわかりません。さらに、イエス様はただ来ただけではありません。「イエスの方から」話しかけられています。17節「イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。」とあります。そして先ほども引用した25節の言葉で、確かに、イエス様は二人の不信仰さと頑なな心を嘆いてはいます。しかし、どうでしょうか。イエス様はそのまま嘆いたまま、彼らを裁くためだけ、嘆いて終わるだけのために、来られたのではないということが、ここでもはっきりとわかります。そのように不信仰で、分からない二人に対して、イエス様はこう続けています。
B,「何度でも繰り返し教える」
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
26−27節
どうでしょうか。イエス様は、その二人が分からないからこそ、何度でも、聖書を、み言葉を、説き明かし、教えているでしょう。もちろん、これまでもイエス様は弟子達に「モーセおよび全ての預言者から始めて、聖書全体の中から」「彼らに説き明かされ」てきたことでしょう。事実、復活のことも十字架の前に、予め約束し伝えていたことです。しかしそれでも信じなかった、女性たちから復活の良い知らせを受けてもそれでもエルサレムを離れようとした、そんな二人を、イエス様は叱るのでもない、裁くのでもない、罰するのでもない、見捨てるのでもありません。み言葉から何度でも優しく教えているではありませんか。そして彼らは後で気づいているでしょう。
5、「信仰は律法ではない」
「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
32節
と。このようにイエス様は、あんなに教えたのに、伝えたのに、それでも分からない、信じない、背を向けるそんな二人のためにこそ、イエスの方から来られ、聖書から何度でも話し、教え、説教をし、心を燃やしてくださる方だと分かるのです。ですから、皆さん。誤解しないでください。「まず私たちの方で、聖書の全て、信仰の全てがわかるから、信仰がいつでも完全であるから、なんでも自分の強い意志と力で神の命令に完全に従えるから、あるいは、罪も犯さず立派に生き、証ができているから、だから、自分には信仰があるんだ、信仰は立派なんだ、そのように自分の何かや自分の完全さで信仰を立派だと誇れるから、礼拝に集う資格がある、だから、み言葉を聞く資格がある、聖餐に与る資格がある、クリスチャンになることができる、立派なクリスチャンなんだ」、と、クリスチャンは考えるかもしれませんし、ある教会ではそう教えるかもしれません。しかし、これは完全に間違いです。それは、せっかくイエス様が私たちに与えてくださった素晴らしい福音の賜物、平安のための喜びの信仰を、律法にし、重荷にしてしまっています。イエス様の恵みの働き、福音の力を、自分の手柄や功績にしてしまっています。それは何より私たちに平安がなくなるし、どこまでも重荷でもあるし、神の前に傲慢でもあります。みなさん、信仰は、そうではありません。
6、「信仰は福音」
A、「信仰は神がみ言葉を通して与える恵み」
皆さん。むしろ、私たちの日々は、第一の聖書日課にあるように、ペンテコステの日の朝に律法と福音の説教を聞いた人々のように、聖書の律法の言葉から自分の罪を責められ毎日刺し通される(新改訳)、悔い改めに導かれる日々ではないでしょうか。私自身がそうです。しかし、私たちの救い主イエス様は、律法で指し通して重荷を負わせるために来た方ではないでしょう。日々、悔い改めてもまた肉の弱さを覚え、何度でも罪を悔い、そのように、私たちがどこまでも弱さを覚えさせられるからこそ、罪深さを覚えるからこそ、信仰の弱さを覚えるからこそ、そして、何度教えられても、わかならないからこそ、まさにエマオへ向かう二人に現れたように、イエス様は毎週、この私たちのために語りかけられ、平安を与えてくださる、聖なる安息日、礼拝を備え、み言葉を語って、何度でも解き明かし、教えてくださっているのだということをこのところは教えているのではないでしょうか。
B、「礼拝も律法ではなく福音(「人が仕える」ではなく、神が仕えてくださる)」
だからこそ、礼拝も、聖書のみ言葉も、聖餐式もそのためのものです。礼拝は、神であるイエス様が、弱く不完全な私たちのためにこそ、備えてくださっており、私たちが神に仕えるのではない、神ご自身が私たちのために仕えてくださる、そして悔い改める私たちに、救いの恵みと平安を与える時なのです。それは、何を通してですか?それは、聖書、み言葉を通して、何度でも教えてくださり、何度も刺し通し、そして、何度でも、十字架と復活に立ち返らせ、力づけてくださり、何度でも心を燃やしてくださるのです。だからこそ、信仰も、礼拝も、洗礼も聖餐も、それは決して「まず私たちの方から何かをしなければならない」「律法」では決して、ない。それはどこまでも「イエス様から私たちへの」「福音」であるのです。
この後もそのことは一貫しています。2人は、イエス様から聖書の解き明かしを受けながらエマオに着きます。その時に、目を閉ざされていた二人の目を、イエス様が開くのですが、それはどのようにしてでしょう。
C、「み言葉と、イエスが裂いて与えてくださるものを通して」
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
30節
パンを取り、それを割いて渡したその時、二人は目を開かれます。二人がイエスを招いて泊まらせたのですから、二人が食事のホストでした。しかしイエス様がパンを取って祝福し、裂いて渡された。それはまさにあの最後の晩餐の日の、主の聖餐と同じでした。二人は、いわば、み言葉とそしてこの裂き与えるパンによって目が開かれ、それがイエスだとわかるのです。それもまさに「目が開かれた」ともある通り、どこまでもイエス様の方から、イエス様によって、その言葉とイエスが仕え祝福し与えるものによって導かれている完全な恵みではあることがわかります。そのようにして二人は、32節の彼らの信仰告白に導かれているのです。
D、「福音が証しを生む」
二人は、まさにイエス様の方から現れてくださり、イエス様によって導かれ、イエス様のみ言葉、イエス様の与えるもので、心燃やされ、目が開かれ、復活のイエス様のその働きによって、自分達の信仰もよみがえらせれたことを告白しているのがわかるでしょう。そして最後、31節の「イエスが彼らには見えなくなった」とある言葉も非常に重要な言葉です。
7、「信仰は確信と平安」
A、「見える必要がない」
なぜ「見えなくなるのか」と皆さん、思うのではありませんか?「見えている方がいい」のに「なぜ消えるの?」と思うでしょうか?しかし実は、もはや見えなくなっていいのです。なぜなら、信仰を与えられた人は、もはや見えることに依り頼まなくてもいいからです。たとえイエス様が見えなくなっても、姿が見えなくても、彼らはまた「信じない」になりましたか?なっていないでしょう。もはや信仰が与えられたので、見えなくても、二人は信じています。心は燃えています。見えなくても、イエスはよみがった、生きていると、二人の信仰はイエスを見ているでしょう。信仰が与えられたなら、見えなくてもいいのです。なぜなら聖書の言葉も言っているでしょう。信仰は見える事柄ではなく、「目に見えないものを確信させる」(ヘブル11章1節)素晴らしい天の賜物だからです。
事実、どうでしょう。女性たちと同様に、イエス様から恵みとしてこの二人に与えられた「イエスはよみがえった、生きている」という信仰は、イエスが見えなくなっても、それまでは暗く沈んで望みを失っていた心から180度変わっているでしょう。
B、「証し、宣教も福音」
「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
33−35節
失望のうちにエルサレムを去り、エマオに向かっていた二人ですが、着いてすぐにエルサレムに引き返すのです。そして弟子たちのところに戻ります。イエス様は、その間に、イエスの方から、シモン・ペテロにも現れてくださったようで、弟子たちの間でも、イエス様がよみがえって、自分たちのところに来てくださったことで話が持ちきりでした。この二人の弟子も、同じように、その日のイエス様の恵みの証しをしたのでした。
このように、信仰と同じように、礼拝と同じように、そして、キリストを証しすることも、つまり福音の伝道や宣教も、それは人の力でしなければいけないからする「律法」では決してないということがわかります。どこまでもまず、イエス様の方からの、福音のことば、解き明かし、聖餐の恵みによって、いつでも、繰り返し教えられ、目を開かれ、信仰を与えられ燃やされ、その福音と恵みによって与えらえた信仰こそが、このように「喜び」のうちに再びエルサレムへと向かわせ、つまり、派遣させられ、そのようにして、その口に、イエス様とその福音が、証しと福音の伝道や宣教を溢れさせていることがここにわかります。みなさん、証しすること、福音の伝道も宣教も、とても大事です。しかし、それは、決して律法ではありません。律法の動機による律法の行い、重荷では決してありません。その逆です。福音の証しも伝道も宣教も、それは福音であり、福音を受けるからこそ、福音から生まれ、その恵みと福音から湧き出る信仰と平安と喜びの行動が、このように、伝える、証する、という、証しの原点だということを聖書は私たちに伝えているのです。
8、「結び:派遣の言葉、最後の言葉は、律法ではなく、福音」
皆さん、信仰も証も宣教も、私たちがイエス様から与えられた新しい生き方は、どこまでも福音から生まれ、福音がなす主のわざです。もちろんそこにはまず律法によって教えられ罪を示され、日々、罪を刺し通され死ぬこと、悔い改めが必要です。しかしその律法が私たちを遣わす最後の言葉では決してありません。それでは重荷を負わされ疲れるだけであり、信仰は苦痛でしかなくなるでしょう。しかしそんなことがイエス様が私たちに与えた救いなのですか?イエス様はそんなことをなされないのです。まさにイエス様は、そのように罪を悔いる私たちこそを、十字架と復活の福音で、日々、その罪と死から助け出し、日々、私たちを新しく生まれさせてくださるというのが聖書が伝える真の約束であり恵みなのです。ですから、真のキリスト教会の最後の派遣のことばは、律法ではない。どこまでも福音です。イエス様は福音で私たちを日々、遣わすのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言うイエス様の言葉がイエス様の派遣の言葉なのです。今日もイエス様は、私たちに語ってくださっているのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、今日も、イエス様から福音を受け、重荷ではなく、平安のうちに遣わされましょう。その時に、イエス様は恵みのうちに、私たちをキリストの証人として、豊かに用いてくださり、それこそ真の宣教として、イエス様の御心と計画のうちに、復活の良い知らせ、真の福音が、私たちを通して広がって行くのです。
「聖霊を受けよ」 2023年4月16日(日) スオミ教会説教
ヨハネ20章19~31節
キリスト教信仰の真髄は何であるか、教会の一番大事な中心は神の御子イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架に死んで蘇られたことです。
パウロはコリントの教会への手紙第1:15章3節で「最も大切な事として、私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のため、死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れその後12人に現れたことです。」と書いています。
イエス様は私たちの罪を全部負って身代わりとなって十字架につけられました。その時十字架のもとにいたのは、母マリヤ、そしてマグダラのマリア、他数名の女性たちでした。ほとんどの弟子たちはどこへ行ったのでしょう。3年間共に働いてきた、あの弟子たちは恐ろしくなって逃げたのです。主であるイエス様が捕らえられ十字架で殺された。次は弟子たちも捕らえられ同じように殺される。もう、その恐怖で十字架から逃げたのです。
その後、彼らはどうしたのでしょうか。今日の聖書であるヨハネ福音書は次のように記しています。20章19節から見ますと。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」彼らは恐ろしくて恐ろしくて家中の戸に鍵をかけ外から誰も入れないようにして、密かに震えていたことでしょう。週の初めの夕方、この時イエス様はもう復活されています。朝にマグダラのマリアが墓を訪れていた時、既にイエス様の姿はなかったのです。
マルコ福音書の方では14章4節で、「弟子たちは11人で食卓についている所に復活されたイエス様が現れた。」と正確に書いています。この夕食はもう遅い夕食でした。ルカ福音書によりますと24章に弟子の一人クレオパという人がゴルゴダの丘の十字架の死の出来事を聞いて、あんなに偉大な尊敬していたイエス様が死んでしまわれた。これから、自分はどう生きようか、と失望して自分の故郷のエマオに帰っていた、その道すがら復活されたイエス様が現れ、はじめはイエス様だと分からず夕食を共にしてパンを割く時、パッとわかった。もう、びっくりしてイエス様は蘇っておられる。そのことを他の弟子たちに知らせようとエルサレムに引き返し集まっていた弟子たちに知らせています。ですから、もう相当遅い夕食であったことがわかります。
その夕食の食卓に突然、復活のイエス様が現れて下さった。絶望と恐怖から一転して彼らは大喜びでありました。十字架に死なれた愛するイエス様が蘇って生きておられる。だれもが考えられない奇跡の出来事であります。そうして、20節から見ますと、蘇られたイエス様は弟子たちの中に立ち「安かれ」と言われた。新共同訳には「あなた方に平和があるように」とあります。弟子たちの喜び、騒ぐ心を先ず落ち着かせて「安かれ」と言われたのです。そう言って手と脇腹とをお見せになった。
そうして、弟子たちにこれから、ずうっと一生をかけて死ぬまで、大切な働きを命掛けでしてゆかねばならない。神からの使命を話してゆかれるのでした。この使命は11人の直弟子だけではなく、他の弟子たち全員に語られているのです。もっと言えば、これから後、世界の歴史の中で神の使命を負って福音を宣べ伝えてゆく、すべての教会のキリスト者に向けて語っておられる使命でありました。
イエス様は言われた。「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私も又あなた方を遣わす」そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が許す罪は誰をの罪も許され、あなた方が許さずにおく罪は、そのまま残るであろう。」
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この重大な使命を果たすのには並大抵のことではないでしょう。いくら強い弟子といっても所詮人は弱いものです。「いつも神の平安があるように」と言われたイエス様はご自分の十字架上で受けられた手と脇腹の傷をしかと見せて、死から蘇られたイエス様がいつも一緒にいる。蘇りの主をしかと受けとめて、これからの使命に生きねばならない。この使命は彼らの持てる力では到底やって行けない。だから、イエス様は「聖霊を受けよ」と言われる。「聖霊を受けて、神の力をいただいて行くのだよ」と、言うことです。福音書の中で、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」とお授けになったのは此処だけです。
ルカ福音書と使徒言行録によりますと、この聖霊は約束されていたもので、その聖霊が下るまで、弟子たちは待っていなければならなかった。そして、やがて50日後、あのペンテコステの日にどーんと一度に聖霊が降って、彼らは伝道を始めた、と言われています。ところが、ヨハネ福音書だけは、そうではない。イエス様が復活なさった夜、もう早々と弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹きかけられている。そこで、昔から多くの学者の間でいろいろ言われてきました。一つには此処で「息を吹きかけられた」と言うのは一つの象徴的な真似事であって、本当に聖霊を授けられたわけではない。ペンテコステの日に起こった聖霊降臨を約束するシンボルであった、考える説です。ところが、AD553年の第二コンスタンティノポリス会議に於いて、この考えは退けられました。どうしても、ここで復活の主は息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたからには、確かに聖霊は下ったのである。
では、ペンテコステの日の聖霊降臨とイースターの夜の聖霊とは、どういう関係があるのか、という難しい問題となりました。いろいろな説が出ましたが多くの学者たちの考えている結論を申しますと、ここでヨハネが示していますのは、まさに、あのペンテコステの日に下った、同じ聖霊降臨である。復活された朝、マグダラのマリアが、嬉しさの余りか、イエス様にすがろうとした時、主は言われました。今、私は父の身許に上がって行く・・・上がっている最中である。イエス様の昇天がこの日の朝、既に起こっておりました。弟子たちに夜、現れたイエス様は既に昇天を終えて主となられた、キリストが聖霊を授けておられる。この点でペンテコステと同じであってペンテコステの聖霊降臨は多くの国々から集まっていた人々の上に降った。それまで、待っていなければならなかった。ヨハネはルカの描いた、ペンテコステの聖霊降臨は、もう、復活の日の夜に起こっていた、と教えているのです。つまり、ペンテコステから起こった教会の命は働いていたのです。教会の命と力とはペンテコステの前から主の復活の日から、既に息づいていた、という事をヨハネはここで教えたいのです。この日、弟子たちは主の「手と脇腹」とを見ました。あの、十字架上で流された血と水の脇の傷であります。主が十字架上で血と水を流し給う時、そこから聖霊の水が流れる、という事を象徴的に示しておりました.「手と脇」とを見て、そして十字架の死を終えた主から直ちに弟子たちが聖霊を受けている、という事をヨハネは教えたいわけであります。
旧約聖書、創世記2章7節には、創り主である神様が「土の塵で人を造り、命の息を、その鼻に吹き入れられた」そこで人は生きた者となった。とあります。イエス様が十字架で死なれた後の弟子たちはユダヤ人を恐れて死んだも同然の彼らに、創世記に示されている同じ聖霊の息を吹きかけて、再び新しく造られた者、生きる者とされたのです。死んでいた弟子たちを蘇らせ、弟子たちは新しい命の仕事へと遣わされて行くわけであります。
さて、この聖霊を受けたならば23節にあります、「あなた方が許す罪は、誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残るであろう」と言われた。これは大変な特権を弟子たちに与えておられる、光栄ある約束です。マタイ福音書では、16章19節でも同じような事が記されています。「私はあなた方に天の国の鍵を授ける、あなた方が地上で繋ぐ事は天上でも繋がれる。あなた方が地上で解く事は、天上でも解かれる」。これは、その後、教会が出来て、教会の規則を定めて行く事になります。地上のあなた方が教会規則を設けると、それが、そのまま天国でも通じます。そこまで、イエス様は権限を与えて言っておられるわけです。
マルコ福音書16章16節を見ますと、「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」とあります。ここでは弟子たちが信じた者に洗礼を執行することによって救われる人と、罪に定められる人とをふるい分けてゆく、という約束が語られています。
ルカ福音書の方では、24章47節に、こうあります。「メシアの名によって罪の許しを得させる悔い改めがエルサレムから始まって、諸々の国民に宣べ伝えられる」とあります。三つの福音書で、それぞれニュアンスの違う言い方をしていますが、ヨハネの場合は、もっと大変な言い方です。「あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残る」。これは単なる教会の規則を作る時、とか洗礼を授ける時の事以上の強い宣言です。そのため、これらの言葉をめぐって教会内で論争されてまいりました。カトリック教会内の司祭の権限をめぐってプロテスタントっとカトリックの解釈に激しい反対が起こったりもしました。
<注意すべき大切な事は>
ここで言われた「誰の罪でも許される」とか「そのまま残される」と、いう受け身の形で語られている、のはユダヤの一つの言い回しであった。ということです。「神様によって赦される」「神様によって留められる」と言うところを「神様」とむき出しに言うのは余りにも畏れ多いいことなので「神様」の部分を隠して遠回しの表現で言われた、ということであります。それで、「あなた方が許す罪」というのはあなた方の力で勝手に赦せる、と言っているのではなくて、あくまでも、それが赦される、とすれば神によって、赦されるのである。又、神によって、そのまま留められるのである。となります。マルコ福音書2章7節の言葉に「神一人の他に誰が罪を赦す事が出来るだろうか」と聖書が明らかに示していいます。
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このように、ヨハネが強い言葉で宣言しているのは、キリストの弟子たち、或いは現代の教会の福音宣教に遣わされている全ての者に、信仰にある力と希望を与えられているのであります。伝道の困難な中で忍耐と、この世の敵と立ち向かう勇気を与えられているのであります。何度も何度も祈り、何度も聖霊を受けなければならない。アメリカの牧師によって、次のような言葉があります。「キリストに祈り、祈り続けて祈り抜かれると、霊の世界では、たちまち、ふるい立ち色めき立って天使たちや天からの力が反動してキリストは応答されます。」復活されたキリストは天に昇って再び来て死人のように絶望していた弟子たちに直接「聖霊を受けよ」と息を吹きかけられて最大の使命を宣言されたのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン
聖書日課 エレミア31章1節-6節、コロサイ3章1節-4節、マタイ28章1-10節
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の神の力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、意味は「過越し」です。つまり、旧約聖書の「過越し祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言うのです。興味深いです。英語や日本語では別々に分けて言います。
復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。それは何をお祝いするのでしょうか?クリスマスは、イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いします。それでは復活祭は、惨い殺され方をしたイエス様が復活して良かった良かったと喜ぶお祝いでしょうか?実はそうではありません。復活祭はイエス様の復活自体がおめでたいことの全てではありません。イエス様が復活したことで私たちにとって良いことがあるのでおめでたいのです。イエス様の復活は私たちのために起こったということ、それを今年もこの復活祭礼拝の説教で、ただ少し角度を変えて明らかにしようと思います。
まず、復活とは何か、それはどんな現象なのかを理解できなければなりません。それをわからないまま復活の話をしたら聖書から離れて必ず行き詰ります。
普通、死亡が確認された人が息を吹き返すと生き返ったとか蘇生したと言います。復活はそれとは全く異なる現象です。「復活」は、死んで遺体が火葬とか土葬に付されて肉体が腐敗して消滅した後に起こることです。「蘇生」の場合は、まだ肉体があります。例えば、イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行いましたが、生き返った人たちは後で寿命が来て最終的に亡くなって肉体は腐敗して消滅しています。それなので生き返りの奇跡は「復活」ではありません。
「復活」について、旧約聖書の中にそれを示唆する預言がいろいろあります。はっきり出てくるのはダニエル書12章です。今のこの世が終わって新しい世が誕生する時に起こるとされ、復活する者は腐敗消滅した肉の体に代わって輝く体が与えられることが言われています。新約聖書では、もっと詳しく具体的に述べられていて、特に黙示録、第一コリント、第一テサロニケに詳しく述べられています。「復活」は聖書の世界観の重要な要素です。聖書の世界観は、今あるこの世は天地創造の神が造られたものだ、造られて始まったのだから終わりもあるという見方です。それで今ある天と地はいずれ終わって新しい天と地が創造される、その時、今私たちの見えないところ手の届かないところにある「神の国」が新しい天と地のもとに唯一の国として現れるという見方です。その時、誰が「神の国」に迎え入れられるかを決める「最後の審判」が起こる。これが聖書の世界観です。
その中で、今あるこの世が終わって新しい世に取って代わられる時、死の眠りについていた者たちが再臨の主イエス・キリストに起こされ、消滅した肉体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられる、これが「復活」です。
ここで、あれっ、復活は消滅した肉体に代わる復活の体を着せられることだったら、イエス様はまだ肉の体があったではないか、もちろん満身創痍の痛ましい状態ではあったが、それでも体は一応あるのだから復活ではなく蘇生ではないか、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、復活後のイエス様の体はもう普通の肉の体ではなかったことが聖書に記されています。信じられないような空間移動がありました。鍵をかけた家の中に急に入って来て、パニック状態になった弟子たちに、幽霊ではないぞ、と言って、手足を見せます。ちゃんと触れることが出来ました。しかし、むやみに触れてはいけないこともマグダラのマリアに言いました。復活の体は神聖なので、本当は直ぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない体だからです。それでもイエス様は、弟子たちを初め大勢の人に復活が真実であることを示し、また旧約聖書の不明部分をわからせるために結局40日間この地上に留まることになりました。
「復活」は、キリスト教が他の宗教と大きく異なる点の一つです。他の宗教ですと、死後の世界を想定する時、それはこの世の世界と同時併行してあります。それで、亡くなった人は今どこか高いところにいて私たちを見守ってくれている、などと言います。ところがキリスト教では、今の世が終わって消滅して新しい世が出来る時に復活が起こるという流れになります。復活を遂げた者は下を見下ろしても旧い世はもう存在しないのです。もちろん神の国自体は、今この現在も私たちの手の届かないところ次元の異なるところにあります。ただ、そこに迎え入れられるのは復活の日になってからと言うのです。そうすると、亡くなった人はその日までどこでどうしているのかと聞かれるのですが、それはもう、神のみぞ知る場所にいて静かに眠っているとしか言えません。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を業を行った時、この者は眠っている、と言って生き返らせました。それは、イエス様を救い主と信じる者にとって死は復活の日までの眠りにしかすぎず、彼こそが眠りから目覚めさせる力があることを示すために行ったのでした。
そうすると、じゃ、今、神の国は神以外は誰もいない空席状態なのかと聞かれてしまうのですが、そういう訳でもなく、聖書は復活の日を待たずして神のもとに迎え入れられた人がいることも認めています。いわゆる聖人です。カトリックでは聖人も崇拝の対象になりますが、ルター派は崇拝の対象はあくまで三位一体の神です。
以上、復活がどういう現象かについてお教えしました。次に、なぜ天地創造の神は復活を起こすのかについて見てみます。この「なぜ」に答えられるためには、なぜイエス様は十字架にかけられて死ななければならなかったのかがわからないといけません。
イエス様の十字架の死は、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たしたという身代わりの死です。人間の罪などと言うと、キリスト教はすぐ罪、罪と言って犯罪者扱いするから嫌だ、という人もいます。しかしながら、聖書で言われる罪とは、神の意思に反しようとする人間の性向のことです。それは、創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から人間全てに備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。造り主の神との結びつきが切れてしまったらそうなるしかないのです。そこで神としては、人間をこの罪の支配から解放して結びつきを回復してあげよう、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去る時も結びつきの中で去ることができるようにしてあげよう、そして復活の日になったら眠りから目覚めさせて自分のもとに永遠に迎え入れてあげよう、そうすることを決めてひとり子をこの世に贈られたのでした。
この神のひとり子のイエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになりました。そのようにして私たちの罪の償いが神に対して果たされたのです。それからは悪魔が罪を引き合いにだして人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎてうまくできません。はっきり言って悪魔の狙いは破綻してしまったのです。加えて、神が想像を絶する力でイエス様を死から復活させて、死を超えた復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。
そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。自分が償ったのではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う先が天地創造の神であれば人間には償いなど無理です。しかも償いをした方がその神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもの軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。
罪を赦されたから神との結びつきが回復します。この結びつきは人間の方から手放さない限り、神の方でしっかり掴まっていて下さいます。順境だろうが逆境だろうが神との結びつきはいつも変わらずあります。いつも神の守りと導きの内にこの世を進んでいきます。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられます。この世と次に来る世の二つの世を生きられる人生です。罪と死の支配から解放された人生です。
罪と死の支配から人間を解放する神の救いの計画がイエス様の十字架と復活の業をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちも将来イエス様と同じように復活させられることがはっきりしました。それで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活も可能になったことを喜び祝う日です。さらに自分自身が復活させられるという希望に加えて、復活の日にはやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた。それで復活祭は私たちにとっておめでたい日なのです。
以上、神はなぜイエス様の復活を起こしたのかを見てみました。これで復活の現象とその意味について知識が増えたことと思います。キリスト教はそういうふうに考えるのだなと理解が深まったでしょう。それでは、知識が身につき理解が深まったところで、復活を信じることが出来るでしょうか?イエス様の復活は歴史上、本当に起こった、それで彼を救い主と信じる者は将来本当に復活する、と信じることができるでしょうか?
近年では、聖書に記されている不思議な出来事はキリスト教徒の間でもあまり本気で信じられなくなってきたのではないかと思います。処女が赤ちゃんを産むだとか、一度死んだ人間が全く有り様の異なる体をもって人前に現れるだとか、そんな理性と常識ではあり得ないことは、みんな古代世界の人間のファンタジーのせいにしてしまうか、あるいは言葉や表現の技法のように考えて言葉通りに受け取る必要はないと考えるようになってきているのではないかと思います。ただ、そのように考える人も、全部うそだ、作り話だと言ってしまったら、キリスト教をひっくり返すことになり元も子もなくなってしまうとわかります。それで、そういう理性や常識であり得ないことは実体的な現象とは考えず、何か人間の心の中で思い描かれたもの、心理的な現象として捉えればよい、現代のキリスト教の使命は社会変革の先頭に立つことだから、その使命を果たしてさえいれば聖書の不思議な出来事を本気で信じなくても大丈夫、矛盾しない、そういう風潮ではないかと思います。どうでしょうか?少し言いすぎでしょうか?
そこで、イエス様の復活は本当に単なる作り話のファンタジーなのか、少し考えてみましょう。
イエス様の復活の出来事は4つの福音書に記されています。4つ全てに共通しているのは、週の最初の日の早朝に女性たちが墓に行ってみると墓の前の石はどけられて中に遺体がなかったことです。それと天使の出現があり、空の墓と天使の目撃の後に復活されたイエス様と出会うことがあります。4つともそういう共通点がありますが、他方で、詳しく見るといろいろ違いもあります。マタイでは墓を塞いでいた石を天使がどけたことが記されています。それが起きたのは女性たちが到着する前か後か微妙なところです。他の3つは石がどけられた後に到着しています。天使がどけたということはありません。墓に行った女性も、マタイではマグダラのマリアと別のマリアの二人の名が挙がっています。マルコでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが遺体に塗る香油を購入したとあります。ルカでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとヨハンナと他にもいたとあります。ヨハネではマグダラのマリアの名前だけがあがっています。それから、現れた天使の数がマタイとルカは二人、マルコとヨハネは一人です。
さて、これらの違いをどう考えたら良いでしょうか?こんなにバラバラだったら、それぞれが勝手に作った話だということになるでしょうか?実は逆なのです。この問題についてスウェーデンの1960年代、70年代に活躍したボー・イェ―レツという神学者が次のように言っていました。イエス様の復活を犯罪事件の裁判と比較したらいい。事件の目撃者が4人いるとする。4人の証言が細部にわたってみんな一致していたら、裁判官は普通、これは不自然だ、4人は前もって打ち合わせて話をすり合わせたのではないかと疑うだろう。逆に細部は一致せずバラバラでも、肝心なところで一致していたら、証言の信ぴょう性は高まると裁判官は考えるだろうと。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、ローマ帝国軍によるエルサレム破壊の年、西暦70年の後になって書かれたというのが学会の定説です。もしそうならば、イエス様の十字架と復活の出来事から40年以上も経ってまとめられたことになります。人間の人生の2世代か3世代後のことになります。その間、4つの福音書のもとにある証言や資料は最終的に福音書にまとめられるまでに証言や資料が伝播していく過程を辿ります。40年以上の過程にはいろんな場があって、それぞれ伝道の状況、信仰の状況があります。そういう過程を経る中でこの証言はここの部分をもっと強調してもいいとか、逆にここを省いてもいいということが起きてきます。
犯罪事件の4人の目撃者が、それぞれどんな性格の持ち主か、犯罪を許さないという強い気持ちを持つ人か、自分は巻き込まれたくないと恐れる人か、大人か子供か、男性か女性か、事件当時何をしていたか、そうしたいろんな要因があるために同じ事件に遭遇しても受け止め方や反応が違って、目撃したことの描写も異なってくるということが起こります。しかし、目撃した事件そのものは同じです。イエス様の復活も同じです。しかも復活の目撃の証言は、40年以上の間に変わる部分も出てくるが、40年以上経っても変わらない大元があることをはっきりと示しているのです。
事件の複数の目撃者の証言が細部で異なった方が信ぴょう性が高まるということを言うのは神学者だけではありません。ダニエル・カーネマンという2002年にノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者がおりますが、彼の最近の著書「Noise – A flaw in human judgement(ノイズ-人間の判断の欠陥)」の中でも同じことが言われていました。もちろんカーネマンは復活のことについてではなく一般的なこととして言っているのですが、なぜか、例として目撃者の数を4人にしているのが興味深かったです。それを読んだ時すぐイェ―レツのことを思い出しました。
さて、イエス様の復活の出来事は信ぴょう性が高いということになりました。それでは、じゃ、イエスの復活を信じるぞということになるでしょうか?それでも足りない、100%確かでなければ信じないと言う人がほとんどでしょう。それはタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行って墓の前で見張らない限り無理です。これからもおわかりのように、キリスト教の信仰には負荷が大きくあります。他の宗教だったら、昔、教祖がこう言った、こういうことをしたと書いてある、そう言えば、大方はそれが歴史的に事実かどうか気にせずに、ありがたや、と言って信じると思います。キリスト教では4つの証言があってもまだ足りないと言うのです。今では4つあってもダメになってしまいました。
そこで信仰についてひと言。信仰とは、出来事が100%真実だとわかったので信じると言うものではありません。その場合は、もう信じるも何も、目で見た通りですとしか言いようがありません。それは信じることではありません。信じるとは、理性や理解力で捉えられないことが目の前に横たわっていたら、それを踏み越えて向こう側に行くこと、これが信じることと言ってよいと思います。最初は踏み越えることなど無理だと感じるかもしれませんが、創造主の神がひとり子を用いてとてつもないことをして下さったことを思い起こすと、神を信頼して大丈夫という気持ちになり、踏み越えることが出来ます。そこで、向こう側に行くというのはどんなことか、それが本日の使徒書の日課コロサイ3章によく記されているので、最後にそれについて述べておきます。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれるて現れるでしょう。」
まだこの世で生きているのに「復活させられた」と言うのはパウロらしい言い方です。彼は「ローマの信徒への手紙」6章の中で洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪がその人に対して支配者でなくなってしまい無関係になってしまう、それでその人は罪に対して死んだことになり、それからは生きることは神に対して生きることになると言います。その時、復活の体と永遠の命と目には見えない繋がりが出来ていることになり、将来の復活の日に目に見える形で手にしていることになります。それで「あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている」というのです。
この「命」は地上の命ではなく永遠の命です。目には見えないが繋がりができているものです。見えない状態なので「隠されている」のです。「隠す」と言うと何か困らせる意図があるみたいなので「秘められている」と言った方がいいと思います。復活の体も永遠の命も性質上、この世では秘められたものになってしまいます。キリストも天の父なるみ神の右に座しているから地上にいる私たちからすれば秘められています。それが、イエス様の再臨の日がくると、イエス様は秘められた状態から現れた状態になり、同時に私たちの永遠の命も秘められた状態から現れた状態になります(後注!)。その時は神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので、それで「キリストと共に栄光に包まれて輝く」のです。
今この世の中を歩む者にとって、永遠の命もキリストも秘められた状態にあるが、それはいつか現れると確信して、今は見えない状態で別に構わない、なぜならかの日に現れるからという心でこの世を歩むこと。これが上にあるものを求めること、上にあるものを心に留めることです。このような心で歩んでいる時、理性や理解力で捉えられないものを踏み越えています。ところが、イエス様の復活を本当に起こったことではなく、心の中の描写だとか心理的現象と見なす人はこの踏み越えはできません。その人は、全てのことを理性や理解力で捉えようとするので、捉えられないものに出くわすと、心の中の描写だとか心理的現象と言って踏み越える必要がないようにしてしまうからです。そこには信仰はありません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注!)新共同訳の「あなたがたの命であるキリストが現れるとき」は正しい訳ではないと思います。正確には「キリストが現れるとき、あなたがたの命も現れます」と思います。なぜなら、前の文で、「あなたがたの命」と「キリスト」の二つが隠されている/秘められていると言っているので、ここではその二つが現れることを言っていると解する方が自然だからです。ギリシャ語原文に省略があると考えればよいわけです
主日礼拝説教 2023年4月7日 聖金曜日
聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ10章16~25節、ヨハネ18章1節~19章42節
説教をYoutubeで見る
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。
イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景でした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。
イエス様が受けた激痛は肉体的なものだけではありませんでした。霊的な激痛も一緒でした。イエス様が受けた霊的な激痛について、先ほど朗読したイザヤ書が明らかにしています。その個所は、イエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とあります。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は人を傷つけたり欺くようなことは行ってはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とても潔白ではいられないのです。近年はますます潔白ではいられなくなっていると思います。そのために、そんな自分の都合悪いことを言う神など胡散臭いと、ますます遠ざけられていきます。
そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの状態と奴隷の状態から自由にしてあげようと手立てを考えました。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰をひとり子に身代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。この神のひとり子が受けた罰の苦しみに思いを馳せることが出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。思うことが出来なければ心は変わらず奴隷のままです。
イエス様自身、十字架にかけられる前、自分がこれから受ける苦しみは肉体的な苦しみを越えたもっと大きな苦しみがあるとわかっていました。マタイ、マルコ、ルカ福音書にゲッセマネというところでのイエス様の祈りが記されています。最初、父なる神よ、出来ることならこれから起こることになる苦しみの杯を飲まないですむようにして下さい、と祈ります。神のひとり子ともあろうお方が恐れるくらいの苦しみが待ち受けていたのです。何しろ人間の全ての罪の神罰を受けるのだから当然です。しかし、最後にイエス様は、父なる神よ、自分の願いではなく、あなたの御心が行われますように、と祈ります。先ほど読みましたヨハネ福音書の個所でも、弟子たちがイエス様の逮捕を阻止しようとした時、イエス様は、父なる神が与えた杯だ、飲まないわけにはいかないのだ、と言ってやめさせます。
こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪を持ってしまっているために神との結びつきがない状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。
あとは人間の方が、このことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だ、と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まります。こうして人間は、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。
神のひとり子に罪を償ってもらって神から罪を赦された者と見なされる者はどのような心になるについて、先ほど朗読した「ヘブライ人への手紙」10章の中が明らかにしています。
17節 神は「人間の罪や背きを思い出すことをしない」と言われます。これはエレミヤ31章34節にある神のみ言葉ですが、この神の決意はイエス様の十字架の業で実際のものになりました。
18節 「罪の赦しのあるところには、罪を償うための捧げものもない」と言われます。神がひとり子を犠牲に供して罪の赦しが起こったのだから、もう人間の方で罪の赦しの為に何か別の犠牲を捧げたり、罪の赦しが得られるように何か自分で規定を作ってそれに従って業を行うことは一切無意味になった、そんなことをしたら神のひとり子の犠牲を無駄にすることになるのです。
イエス様の犠牲の上に罪の赦しを得た者はどうすればよいのか?19~25節は、この神の側からの罪の赦しに全てをかける者はこういう心になるのだ、ということが言われます。どんな心でしょうか?
19節から21節では次のことが言われます。イエス様が私たちのために犠牲となって十字架で血を流されました。洗礼を受けるとイエス様の血と結びつくことになります。その血と結びついていれば、神聖な神のみ前に立たされても大丈夫、神罰を受けることはないから大丈夫だという勇気を持って神のみ前に立つことが出来ます。そのような勇気のある者になれるのです。
かつてエルサレムの神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れませんでした。何しろ見えない神の前に立つ場所だったからです。しかし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。動物の生贄の血を振りかけて罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今ではイエス様の犠牲の血で罪の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかっていました。マタイ27章51節に記されているように、イエス様が十字架にかけられて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂けたのです。かつて大祭司は動物の血をかけられて垂れ幕をくぐり抜けて神のみ前に行くことを許されました。今、イエス様の血で汚れを落とされた者は、イエス様の犠牲の体をくぐり抜けるようにして神のみ前に立つことができるのです。
人間にとってイエス様は真の大祭司であることが明らかになりました。神殿があった時の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、それでも大祭司自身、儀式で自分を清めなければならないレベルの低い仲介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方です。その彼が自分自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち立てたのです。これぞ真の大祭司、完璧な仲介者です。
このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神から仕打ちを受けてしまう、神に見捨てられてしまう、というような苦しい思いから解放されています。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落とされています。それなので、イエス様は間違いなく私の救い主なんだと信じる信仰に生きれば、もう私にはやましいところはありません、私は潔白です、と言えるくらいの怖気づかない心を持つことが出来ます。その心があれば、この世を前にして堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に堂々と立つことができます。
23節 このようにキリスト信仰者には神のみ前に立たされても大丈夫という揺るがない希望があります。それを心にとめておきましょう。これらのことを約束した方は約束に忠実な方であることも忘れないようにしましょう。
24節 キリスト信仰者はこのような怖気づかない心、やましいところはありませんと言える心を持っているのだから、あとはお互いのことを考えて、愛と善い行いをすることを考えればもうそれで十分なのです。
25節 キリスト信仰者にとって礼拝を大切にし守ることは大事です。なぜなら、イエス様が大祭司であること、それで私たちには怖気づかない心があり、やましいところはありませんと言える心があることを確認できるのが礼拝だからです。人によっては礼拝を大した意味のないと考えて、別に出席しなくてもいいや、他に何も都合がなくて気が向いたら行けばいいやと考える人もいるようですが、礼拝を離れてイエス様が大祭司であることや私たちの怖気づかない心をどうやって確認できるのでしょうか?キリスト信仰者がキリスト信仰者である所以は、イエス様の再臨がいつか来ると、ひょっとしたら自分が生きている間にあるかもしれないという主の再臨を待つ心です。そのような心がある信仰者は、イエス様が大祭司であること、怖気づかない心を確認し強めることは当たり前で自然なことになっています。
聖書日課 イザヤ書50章4-9a節、フィリピ2章5-11節、マタイ21章1-11節
今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。
受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、意味は「救って下さい」と神にお願いするものでした。同時に、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語で言えば、さしずめ「王様、万歳」ということでしょう。そのホーシーアンナ―が、当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。
ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書のもともとの言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の出来事があって異国での捕虜生活の間にアラム語化していきます。イスラエルの地に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝ではヘブライ語の聖書が朗読されましたが、それをアラム語で解説していました。イエス様を迎えた群衆がヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。この出来事は最初アラム語で言い伝えられました。後にギリシャ語でマタイ福音書が書かれた時、マタイは群衆の歓呼の声ホーシャーナーを「王様、万歳」とギリシャ語に翻訳せず、アラム語の音声をそのままギリシャ文字に置き換えてホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を開くと当時の群衆の生の声が響いてくるのです。「王様、万歳」と訳したら意味は分かりますが、声は聞こえてきません。マタイは現場の生々しい雰囲気を後世に伝えたかったのでしょう。
そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様をユダヤ民族の王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城がある自分の町に入る時は、大勢の家来や兵士を従えて白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。ちぐはぐな感じがします。どうしてロバなんかに乗って来るのでしょうか?
さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰も乗ったことのないものを、と言います。まだ誰も乗っていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行動を神聖なものと示すのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳と歓呼で迎えられつつも、ロバに乗って、これは神聖な行動であると、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何なのでしょうか?
このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真剣で人類の運命に関わる重大な神聖な出来事でした。イエス様のこの行動は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」に注意します。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。マタイはこれを引用した時、なぜか「柔和な者」としか書きませんでした。ヘブライ語原文で「義なる者、勝利者、へりくだった者」と言っているのになぜ「柔和な者」だけになってしまうのか?こういう時は、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳を見てみます。マタイは福音書をギリシャ語で書いたので旧約聖書もギリシャ語版で見たのかもしれない。ところが、ギリシャ語訳は「義なる者、救う者、柔和な者」です。「柔和な者」が出てきます。「義なる者と救う者」もあります。どうしてマタイはギリシャ語版の「柔和な者」だけを採用してあとのものを省いたのでしょうか?マタイ11章29節を見ると、イエス様が、労苦する者、重荷を背負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私は「柔和で心からへりくだった者」なので、わたしの軛を負い、私から学びなさい、そうすれば、あなた方は魂に休養を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休養を得られるカギはイエス様の柔和さとへりくだりにあると考えて、それで「柔和な方」に全てを集約してしまったのではないかと思われます。果たしてこの説明が正しいかどうかはわかりませんが、本説教ではイエス様が王であると言う時、ヘブライ語原文通りの「義なる者、勝利者、へりくだった者」ということで見ていきます。
最初に「義なる者」について。「義なる者」とは、神に義と認められた者、神聖な神に相応しい者です。イエス様は神のひとり子で罪を持たない神聖な方なので間違いなく義なる者です。加えて、イエス様は神の意思に反する罪を持ってしまっている私たち人間を罪の支配から解放して、私たちも義なる者となれるようにして下さいました。十字架と復活の業を果たすことで、それを可能にしたのです。このようにイエス様が義なる者であると言うのは、自らが義なる者であることと、他者にも義を与える者であるということです。しかしながら、当時の群衆からすれば、まだ十字架と復活の出来事が起きる前ですので、イエス様が自ら義なる者ではあるとわかっても、他者を義なる者にして下さるとは誰もわからなかったでしょう。
次に勝利者について。イエス様が勝利者であると言う時、それはどんな勝利者でしょうか?イエス様は十字架と復活の業を果たすことで罪と死を無力にし、人間を罪と死の支配から解放する道を開きました。それでイエス様は罪と死に対する勝利者です。しかし、まだ十字架と復活の出来事を見ていない群衆は、そこまではわかりません。イエス様が勝利者という時、群衆の目に映っているのは、これから占領者ローマ帝国の総督とその軍隊そして彼らに付け入る同胞の支配層を追い払うという民族の英雄です。とても罪と死に対する勝利者、人間を罪と死の支配から解き放ってくれる解放者にまで思いは及びません。
「へりくだった者」というのは、本日の使徒書の日課フィリピ2章で言われている通りのことです。ここでパウロは当時フィリピの信徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用しています。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところは、ギリシャ語原文では段落が別になって行も短くなっていて引用であることを示しています。このキリスト賛歌はパウロ自身の作である可能性もあります。
パウロがこれを引用した意図はこうです。パウロは、キリスト信仰者とは相手にけんか腰になったり高慢に振る舞ったりはしないのだ、相手を自分より優れたものと考えてへりくだるのだ、しかも、各自自分の利害に目を向けるのではなく他人の利害に目を向けるのだ、と勧めます。どうしてそうしなければならないのかと言うと、イエス・キリストがそうだったからと言うのです。私たちの救い主がそういう方だったのにあなたがたはそんなの嫌だとは言えないではないか、ということです。イエス様が果たしてそういう方であったかどうかは、広く唱えられているキリスト賛歌からも明らかでしょ、今ここで引用するからへりくだることについてよく自己反省しなさい、ということなのです。
「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
しかしながら、へりくだりについても、十字架と復活の出来事はまだです。それで、神のひとり子ともあろう方が人間の救いのために神と同等であることを捨てて、十字架の死を受け入れるくらい神の意思に従ったこと、これがへりくだりの真相だとわかった人はいなかったでしょう。むしろ、民族の解放者になる偉大な王様がロバに乗ってやって来るという、何か威厳さとか権威とかそういうものの正反対の様子がへりくだりを表していると思ったでしょう。
このようにゼカリア書9章の預言は広い深い内容を持つものでしたが、ロバに乗ってエルサレムに入るイエス様を見た人々はそこまではわかりません。ついに民族解放の日が来たと期待を強く抱いたのでした。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦しました。また、彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に出てくる終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称したことも指導層にとって許せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。
イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。イエス様が神の想像を絶する力で死から復活させられたことがそれです。これによって死を超えた永遠の命があることが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活が本当に起こるものであることが明らかになりました。
そこを起点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様は死に引き渡されたまま放っておかれることのない神の子であることが明らかになりました。それでは、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が持ってしまっている神の意思に反しようとする罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。罪を持たない神に相応しい僕が人間の受けるべき神罰を自ら受けて、人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまっている人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が本当にあることがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれました。イエス様の十字架と復活の業によって人間が罪の呪いから解かれて永遠の命を生きられる可能性が開けたのです。
そこで今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。行き先は、永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。
このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。
最後に本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちの心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から救い出して神との結びつきのうちにこの世と次に来る世の双方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも自分は神の立場に立つ者とわかっているので何も怖くはありません。暴行は痛いし辛いが、自分の立場は神を裁判官にした裁判では潔白以外の何ものでもない。神を裁判官にした裁判が8節と9節で言われます。
8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」神がイエス様を死から復活させて、彼が罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。そのようにイエス様の潔白は人々の前で証明されます。
「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことで、それで、上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、ということです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨のことが続きます。
「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」それでここは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。
9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」
「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから、私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にそばにいて働きかけていることを意識していることを感じさせる箇所です。
同じ意識はキリスト信仰者にも当てはまります。この日本では、さすがに暴力を振るってまでして信仰を捨てさせるようなことはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷は起きると思います。キリスト教を名乗って社会を騒がせる団体がいろいろある昨今ではなおさらです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰で生きる以上、神を裁判官とする裁判では潔白なので、動揺せず恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、人々にへりくだって、自分より優れた者として接して、自分の利害を脇において他人の利害を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、を続けていけばいいわけです。
非難や中傷は他の人から来ず、心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、その意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配いりません。確かに私には神の意思に反する罪があるが、その罪はイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、と思い出して、そこに踏みとどまればいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放すつもりはないと悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から差し出されて受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前も、イザヤ書50章9節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は51章9節にも出てきます)。
後注1 ギリシャ語のモルフェ―が日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥ―ロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もありまる。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。
主日礼拝説教 2023年3月26日(四旬節第五主日) 聖書日課 エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節
説教をYoutubeで見る。
本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。この出来事は、先週の日課の出来事、生まれつき目の見えない男の人の目を見えるようにした奇跡の出来事と共通点があります。先週の個所でイエス様は、男の人の目が生まれつき見えないのは神の業が現れるため、と言いました。今日の個所では、ラザロの病気は神の栄光のためである、と言います。病気や障害が神の業のため、神の栄光のため、などと聞くと、大抵の人は、目が見えるようになること、死んだ人が生き返ることが神の業、神の栄光の現われであると理解すると思います。ところがそうではないということを先週お教えしました。
少し振り返りますと、旧約聖書の預言者イザヤの時代から人間の霊的な目が見えるようになる時が来るという預言がありました。目の見えない男の人の場合は肉眼の目が見えないことが問題だったのですが、人間の本当の問題は霊的な目が見えないこと、それがイエス様とファリサイ派の人たちとの対話からわかります。実にイエス様は肉体的な目が見えるようになる奇跡の業を行うことで、霊的な目を見えるようにする力が自分にあることを前もって思い知らせたのです。
人間の霊的な目が見えるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事をもって始まりました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを持ててこの世を生きられることになり、永遠の命に至る道に置かれてその道を進むことになるという、肉眼の目で見えないことが見えるようになるのです。
このように、生まれつき目が見えないのは神の業を現すためと言う時、肉眼の目が見えるようになることが神の業の現われであるという理解は理解はまだ浅く本当の理解ではありません。奇跡の業は霊的な目が見えるようになる前触れ的な出来事で、その目が見えるようになることが本当の神の業を現すものなのです。それが深い理解で本当の理解です。
本日のラザロの生き返らせも同じです。死んだラザロを生き返らせたことが神の栄光の現われであると言ったら、それは浅くて本当の理解ではありません。では、ラザロを生き返らせることで神の栄光が現れると言ったら、何が神の栄光なのか?今日はラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解ができるようにしましょう。
深い本当の理解に入っていく前に、理解に役立つ予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を詳しく記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神であるというのがキリスト信仰です。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。
復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。
そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。
それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみましょう。
イエス様がやって来たと聞いてマルタは彼に会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。つまり、ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。
それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタは自分でハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」の場合だと今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。
そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。
それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる人は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりはなくならず、復活の日が来たら永遠の命そのものを持つことになります。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そうすることが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。
イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?
これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にも見られたのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。
マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは同じ現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。現在完了などと言うと、中学高校の英語の授業みたいで嫌だと思われてしまうかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語のとは違うので忘れて大丈夫です。むしろ忘れた方が都合がいいです。マルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟ることができて信じるようになりました、ではないのです。その場合は、エピステウサになります。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。
このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。それを明らかにします。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。
しかしながら、復活には、死の引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているという観点に立ちます。そして、罪は人間誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。神としては、人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげたい、そのためには結びつきを持てなくさせてしまっている罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部受け負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせる、そのようにして人間の罪の償いを彼に果たさせたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。同時にそこに至る道を人間に切り開かれました。それでイエス様は復活と永遠の命を手に持っていらっしゃる方なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この世を去った後は、それこそ復活の日に眠りから目覚めさせられて永遠の命と復活の体を与えられて神のもとに永遠に迎え入れられます。
マルタはこのような復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活させて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しのお恵みにしっかり留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼に復活の目覚めをさせる力があること、この2つを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
以上、ラザロの生き返らせの奇跡の業は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の業の両方をもって、イエス様こそが復活と永遠の命を手中に収めており、それを私たちに与えて下さる方であることを示したのでした。これが、この奇跡の業が現す神の栄光です。これがこの奇跡の業の深い本当の理解です。
最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つ目は、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書を見ても皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。
もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている地方に行くのは危険です、と押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。
「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」
分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある。明るさと暗さが危険とどう関係するか考えてみなさい。太陽が照る日中は明るいから転んだり何かにぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、あなた方がこの世の光である私を見て、私もあなた方の内にいると言えるくらいに私と結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。当時の弟子たちと違って私たちはイエス様を肉眼の目では見れませんが、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を霊的な目れれば、イエス様というこの世の光を持てていることになり、守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになり危険に晒されてゴールに到達できないということです。