スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

フィンランド家庭料理クラブを再開します。
次回は10月11日(土)13時から開催します。

今フィンランドはリンゴやベリーの季節です。今回のメニューは、フィンランドの多くの家庭で作られるリンゴ・ケーキです。リンゴ・ケーキはいくつか種類があり、今回のものは生地にシロップやオートミールを混ぜてしっとり感を持たせます。リンゴも厚切りにし、黒砂糖、シナモン、カルダモンなどのスパイスで味付けしたものを生地の中に押しこんでいきます。そうすることで生地全体の風味が一層リッチに引き立つのです。バニラアイスを添えたりバニラソースをかけて味わえば、お口の中に贅沢感がひろがることうけあい!そんなリンゴ・ケーキをご一緒に作ってみませんか?

参加費は一人1,800円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1774617739iamg@1774617739arumi1774617739hsoy.1774617739iviap1774617739 まで。

手芸クラブの報告

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この秋の最初の手芸クラブは9月24日に開催しました。暑い日がずっと続きましたが、やっと秋を感じさせる涼しい朝を迎えることができました。

今回の作品はクロスステッチの刺繡です。初めにモデルを見て自分の作りたいものとそれに合う糸を選びます。それから作りたい模様の形を色鉛筆で書いてから刺繡に入ります。クロスステッチには少し細かいことがあるので難しく感じられるところもありましたが、皆さん一生懸命頑張りました!

だんだん可愛い模様が見えるようになると、「可愛い!」「素敵!」「色合いがきれい!」などの声があちこちから聞こえてきました。今回は参加者の皆さんが刺繡に興味をもっていたので積極的で賑やかな雰囲気でした。楽しくおしゃべりしながら可愛い刺繡の模様がどんどん大きくなります。刺繡は完成まで時間がかかります。来月も続けたいと希望する声があがりました。それで来月は今回の続きをすることに決めました。

クロスステッチ刺繡は細かい作業を要求するので目が疲れます。それでは、コーヒータイムで一休みしましょう!今回はコーヒーブレッドPullaの他にも、下関に里帰りされた参加者の方がお持ちになられたお土産「ふぐのおかき」と別の参加者の方が育てられたフィンガーライムという珍しい果物などもテーブルを飾りました。それらを皆で一緒に味わいながら話し弾むコーヒータイムになりました。

その時にフィンランドの家の壁飾りによく刺繡されてある文章に関連して、聖書の「放蕩息子」の教えや天の神さまのもとには私たちの帰る家があるということについてお話を聞きました。

次回の手芸クラブは10月29日に開催予定です。開催日が近づきましたらホームページに案内案内を載せますので是非ご覧ください。

手芸クラブのお話2025年9月

刺繡はフィンランドで何世紀にもわたって親しまれてきた手芸の一つです。小さなクロスステッチで作った花などの模様は服やインテリアに可愛らしい趣きを増やします。スオミ教会の手芸クラブではいつもクロスステッチのテクニックを使って刺繡をしましたが、刺繡のテクニックは本当は数えきれないくらい多いです。ある本には200のテクニックが載っています。私たちにはまだまだ習得するテクニックがたくさんあります。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」

フィンランドでは刺繡で作る壁飾りはスウェーデンから伝わり、昔からよく作られました。それらは、家のすぐ目に入る場所によく掛けられました。壁飾りとはどんなものでしょうか。普通それは、周りに刺繡で作られた可愛い飾りがあり、中央には色んな文、格言などが刺繡されています。文は普通は、心を慰めたり励まするものです。多くは聖書や讃美歌の一節です。例えば「神の恵みは朝ごとに新しくなる」「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」です。

壁飾りに刺繡された言葉は家や家庭の大切さをよく表しています。私の実家には母が自分の母(私のおばさん)からもらった壁飾りがあります。そこには「勤勉は幸せの母」と刺繡されていました。母はいつも家庭の為に一生懸命働いていたので、これは母にピッタリの言葉でした。

もう一つよく知られている言葉は「家は黄金のように貴い」です。外から家に帰ると、ホッとしたり安心したりするでしょう。家は安らぎのある場所なので、「家は黄金のように貴い」は家の壁飾りに相応しい言葉でしょう。皆さんは壁飾りにはどんな言葉を刺繡するでしょか。

今日の聖書のお話は「家」に関係するものです。聖書は家について多くのことを教えています。私たちにはこの世にある家の他にもう一つの家があることを教えます。それは天と地と人間を造られた天の神さまのもとにある家です。神さまはそこで私たちのために場所を準備下さって、私たち一人一人をも含めて世界の全ての人たちご自分のもとに招かれるのです。しかし神さまは神聖なお方です。私たちは神さまの御心に沿わないをしてしまいます。そんな私たちを神さまは迎え入れて下さるでしょうか。

ここでイエス様が話された「放蕩息子」という有名なたとえの教えを紹介したいと思います。ある家に息子が2人いました。それは雇い人が沢山いる裕福な家でした。弟の方はある日、外国に行きたくなって、父親に言いました。「お父さん、お父さんが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞こうとしません。父親は自分勝手な息子を悲しく思いましたが、財産を兄弟に分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。

息子はそこで華やかな生活をしました。高価な服を着て美味しいものを食べ、お酒を飲んで毎日遊んでばかりいました。しかし、いつかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって、彼は食べ物に困り始めました。

それで息子は仕事を探し、豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹は空んたままでした。きたなくて冷たい豚の餌を食べたいと思うほどでしたが、持ち主は認めませんでした。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分父親は受けて入れてくれないでしょう。それで、雇い人の一人にしてくれるようにお願いしようと決めました。父親の前で言う言葉を考えました。

2006-09-13 by MMBOX PRODUCTION www.christiancliparts.net

そして、懐かしい家が見えてきました。すると、最初父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、体中汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親のが走りくる姿に驚きました。その時、考えていたことを言おうとしましたが、父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま考えていた言葉を言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」しかし最後の言葉「雇い人の一人にして下さい」を言おうとすると、父親はそれを遮って家来たちに盛大なお祝いの準備をするように命じました。それからこう言ったのです。「息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」

「家は黄金のように貴い」

父親は罰ではなく息子を愛をもって受け入れたのです。このたとえに出てくる父親とは神さまのことで、息子とは私たちのことを表しています。私たちも神さまの元に立ち返るなら神さまはこの放蕩息子と同じように必ず大喜びで私たちを自分の家に迎え入れて下さるのです。神様のもとに帰る人は皆、神様の子どもなのです。

壁飾りの他にも刺繡したテーブルクロスやクッションは家の雰囲気を温かくし、私たちを喜ばせてくれます。それらを目にする時、神さまのもとにある「家」を思い出しましょう。神さまは私一人一人をそこに招いてくださるのです。

牧師の週報コラム

最近フィンランド事情(その1)

今年夏のフィンランド一時帰国中に現地のニュースや社会的話題で目にとまったものをいくつか紹介します。

まずは、法改正で小中学校の生徒たちが授業中にスマホを使用できないように学校側が管理する権限を与えられ、そのことが新学期を前にして新聞で大きく取り上げられていた。対面コミュニケーション増進のため休み時間も預かるような運用をする学校も。今年は子供の水死事故が多く、水泳教育の必要性が広く議論された。そう言えば、フィンランドの学校の体育には水泳はなかったと思い出された。

8月半ば米ロ首脳がアラスカでウクライナ停戦問題について会談したのを受けて、ホワイトハウスで欧州主要国との話し合いが行われた。英独仏伊EU首脳と並んでストゥッブ大統領も招かれていた。冒頭トランプ大統領から「ヤングでパワフルな男」などと評され、ジョークで返す余裕さ。フィンランドが1944年にソ連軍の大攻勢を食い止めて休戦に持ち込んだ経験が買われているのだろう。

ただ、現在は経済はあまり好調でないようで来年は上向く見通しだが、失業率はEUではスペインに次ぐ悪水準の9%超。Fitch Ratingsの国債信用度の格下げもあって10億ユーロの歳出削減の重圧。財務省の予算案策定でいきなり移民難民の社会統合支援が槍玉にあげられ移民難民の受け入れ是非の議論に発展。他方でフィンランドも少子高齢化の波が押し寄せている現実も明らかに。出生率は1,25(日本は1,2)、移民受け入れが仮に今の水準で続いても2040年から総人口は減少に転じる予想。2030年までに小中学生は10万人減り、500校が統廃合になると。日本創生会議の「消滅可能性都市予測」を彷彿させる議論が今起きている。きっと官界学界あげて先を往く日本の動向を注視していることだろう。

ここで、教会で仕事する者として目を引いたニュース・話題は、若者の間でキリスト教回帰が見られること。フィンランドは1980年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属するキリスト教国だったが、その後キリスト教離れが進み、人口550万人の国で毎年56万人が教会を脱退、現在は60%すれすれまで落ちた。ところが、最近の傾向として1020代の若者の間で洗礼を受けたり(つまり親が無宗教なため洗礼を受けていなかった)、信仰を告白する者が増加していることが統計的にも明らかになってきていると。このことについては次号にて少し詳しく紹介します。乞うご期待。

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牧師の週報コラム 

「信仰ノ証ノススメ」

以下は20231217日の週報コラムに掲載したものです。

『教会の信徒の皆さんには、特にクリスマス、復活祭、聖霊降臨祭の時に礼拝後の祝会で「信仰の証し」をお願いするのですが、皆さん、どうも消極的。前任者の時は積極的にされていたそうで、証しを聴いた宣教師が感激のあまり泣いてしまったこともあるなどと聞いています。当時の熱意はどこに行ってしまったのか?まさか、今の牧師のせいなのか

 「信仰の証し」の何が難しいのか?基本的なことを申し上げると、自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、とか、一時そのイエス様は遠くになってしまったが、また身近な方になった、とか、または、今大変な人生を歩んでいるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、というようなことを、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/伴走を確信させてくれました/確信させてくれます、というようなことをお話し下さればよいのです(長文ですみません)。聞く人も、ああ、あの聖句はやっぱりそのような力があるんだ、自分もそうだと確認したり、または、その個所にはそんな力があったのか、知らなかった、と新たな発見をしたりして、信仰の豊かな分かち合いになります。

 聖書の御言葉が決め手となって十字架と復活の主が身近になるというのは、まさに聖霊が御言葉を通して働くということです。どの御言葉が決め手になるのかは人それぞれ。それで信徒さんの証しは牧師にとっても新しい発見になるのです。どうか宜しくお願いします。』(以上)

「信仰の証し」は「聖徒の交わり」に内容を与えて霊的に豊かにします。一つ注意することは、何か聖句が結びついているということです。聖句がなければ、ただの思い出話、自慢話になってしまいます。それはそれで聞いて楽しいですが、でもそれは「信仰の証し」ではありません。別に聖句を教えたり解説する必要はありません(それは牧師の仕事)。修羅場と波乱万丈を経験した者でないと立派な証しは出来ないなどということはありません。無理して人を感動させる必要はありません。ただ、「私はこの聖句からこんな励ましを受けました(今受けています)、支えられました(今支えられています)」ということをお話し下さればそれでもう立派な証しです。それを皆と一緒に分かちあえるのは恵みです。聖句の代わりに讃美歌や聖歌もOKです。本日コーヒータイムで牧師が一つお話ししますので、参考にして夏の間少し意識して過去を振り返ったり今を自省したりして、自分にも何かあるか考えてみて下さい。秋に名乗り出る方を期待しています!

本日の牧師の証しは、原稿なしで行ったので本コラムには掲載されません。あしからず。

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牧師の週報コラム

「私は教会に命を預けにきたのだ」

 スオミ教会の前に赴任していたY教会での出来事。週日の夕刻に隔週でギリシャ語とヘブライ語のクラスを開いた。ギリシャ語は4~5人の参加者、ヘブライ語は1人。うちキリスト信仰者はY教会の方と他のルーテルH教会のSさんの二人。SさんはK大学のドイツ語の教授を務められた方で、引退を機にH教会で小教理問答の学びをされて晴れて受洗。ドイツ語とドイツ文化を専門とされていただけに、それでルターやルター派教会に対して関心を抱くようになってキリスト教会の門を叩くようになったのではないかと思われた。

 ところが、ある日そのSさんが唐突に、私はルーテル教会をやめました、別の教派の教会に移籍しましたと。一体どうして?なんでも、H教会で講演会が催され、ある神学校の教授が講師を務められた。話の内容は、聖書の神と日本の神道の神々には共通点が沢山あるというような話で、いろんな逸話を身振り手振りで楽しく興味深く話して聞かせたと。会堂で一緒に聴いていた教会員たちも惹きつけられて、みな目を輝かせて面白い素晴らしいと絶賛。「吉村先生、私は教会に命を預けるつもりで来たんです。それなのに、もうこんな遊びの教会にはいられないと思いました。」講演の内容のどこが問題だったか詳しいことはもう記憶にないが、Sさんの「教会に命を預けにきた」という言葉が今でも頭に残っている。

 教会に命を預けるとはどういうことか?人によっては、カルト宗教にはまって財産を失ったり、通常の生活が出来なくなるような印象を持ってしまうかもしれない。しかし、そういうことでは全くない。フィンランドのようなキリスト教が国の伝統になっているところでは(近年は変わってしまったが)、子供が生まれたら洗礼式、思春期の堅信礼、青年期の結婚式、子供が生まれたら洗礼式、その子の堅信礼や結婚式、そして自分自身の葬式という具合に、この世の人生の初めから終わりまでが教会の中にあり、教会が伴走してくれる、そして最後は主の復活の約束を本人にも肉親にも確認して送り出してくれる、本人はその約束を希望の源として送り出され、まだこの地に残る者はその希望を抱いて歩み続ける、こういうことが教会に命を預けることではないかと思っている(この「希望」をフィンランドでは復活の日の「再会の希望」jälleen näkemisen toivoと言います)。

 もちろん、日本のように大人になってから洗礼を受ける人も同じです。イエス様もたとえの教えで(マタイ20章)、夜明けに仕事を始めた労働者も、9時や12時や15時や17時から始めた労働者も皆同じ賃金を支払われると教えていることはこのことです。教会に繋がっていたのが人生の全期間であっても、終わりの時であっても、神から見たら命を預けた点では同じなのです。

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牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」7月1日の日課から

これぞ、聖書の神は人間が作りだしたものではないということの証し!

「町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか」アモス書36

「預言者アモスはなぜ災いは神から来るなどと言うのだろうか?ここで注意しなければならないのは、神が自分から災いを引き起こすのではなく、他のものを通してそれが起こるのを何らかの理由で許すというのが正解であるということである。聖書は、人を永遠の滅びに追いやるのは悪魔であり、人に罪の自覚を生み出して絶望させるのは律法であると教える。しかしながら、聖書はこれらのことは神も行うと言っている。これは一体どういうことか?

 その意図は、我々が神と人間の関係について定めた十戒の掟を心に留めて、唯一の神こそ神であると告白して信じるためであり、いろんな神を作らないようにするためなのである。マニ教の始祖を見よ。彼は二つの神を作った。一つの神からは善いことが起こり、もう一つの神からは災いことが起こるという二つの神を。それで、その宗教を信じる者たちに善いことが起これば、彼らはそれをもたらした神を賛美して拝み、逆に災いが降りかかれば、それをもたらした神の方を向いてそれをなだめようと拝む。しかし、聖書の神である主が我々に求めているのは、我々に善いことがあろうが災いがあろうが関係なく、我々がより頼むのはいつも主なる神のみであるということだ。

 しかしながら、我々は予期しなかった時に不運に遭遇すると、神は機嫌を損ねているに違いないと恐れて神から離れてしまう。これが、我々の自然の本質である。「我々に怒っている神」などという全く異質の神を編み出すことほど、正しい信仰に反することはない。「神は恐るべき方ではなく、憐れみ深い父、あらゆる慰めと励ましを与えて下さる方、その方が唯一の神として存在する」と信じるのが正しい信仰だ。これを信じない者は、唯一の神を信じることをやめて、自分の都合と状況にマッチする神を作り出すことになる。善いことをしてくれる優しい神、災いを起こす怒りの神と言う具合に。」(以上ルターの説き明かし)

神が唯一絶対になると、「神さま、何故なのですか?」という問いをその神にぶつけ、答えが与えらるまで格闘することになります。時として神の答えはヨブの時のようにあまりにも超越したもので神の大きさと自分の小ささを思い知るようなこともあります。しかし、神と誠実に格闘すればヤコブのように勝つことができます。

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手芸クラブの報告

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6月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨に入ってもずっと蒸し暑い晴の天候が続いていましたが、この日の朝は久しぶりに朝が降りました。

今回の作品は前回に続いてかぎ針編みでスマホケースでしたが、ラリエットやコースターも作りました。バンド織りを希望する方はそれも出来ました。初めにモデルを見て自分の作りたい作品を選びます。お家で素敵なスマホケースを完成された方が作品を見せてくれました。みんな感心して同じように出来たらいいなと思いました。皆さんの編み物はおしゃべりをしながらどんどん進みます。バンド織りの方も一生懸命織って、Nauhaはあっという間に長くなりました。

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かぎ針編みやバンド織りに夢中になると目が疲れます。そこで一休みして他の方々が作られる作品を見てみました。「可愛い!」「きれいな色合いね」、「模様が素敵!」などなどいろいろな声が聞こえてきます。かぎ針編みやバンド織りはおしゃべりをしながら楽しく続けていくうちにどんどん出来てきます。秋はどんなものを作りましょうかというお話にもなりました。皆さんの心はもう秋の手芸クラブの作品に移っています。

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今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランド的なドーナツを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、キリスト教系の老人ホームで行われている「心の時間」や「天の神さまはいつも私たちの側にいて下さる」というお話がありました。

夏の間は手芸クラブはお休みになります。再開は9月24日の予定です。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せます。どうぞ是非ご覧ください。天の神さまが皆さんの夏の生活をお守り下さいますように。

手芸クラブの話2025年6月25日

私の家の近くにキリスト教系の老人ホームがあります。そこで毎月「心の時間」という小礼拝が行われています。博明はそこで年に数回聖書のお話を担当しています。私もいつも一緒に参加します。入居者さんたちが一階のロビーに集まって礼拝の時を一緒に持ちます。小礼拝が終わってから入居者さんの方々と少しお話をすることが出来ます。一人の方は毎回参加されて紙で作った色とりどりのきれいな花を牧師に渡してくださいます。私も何度もその花を頂いただきました。花を作るには指先の器用さが必要なので、リハビリとしてもとても良い活動だと思います。

先日行われた「心の時間」に参加した時もこのお祖母さんは礼拝にいらっしゃって花を下さいました。そしてご自分のことを少し話してくださいました。「私は以前山形県に住んでそこでお茶の先生をしていました。山形県では有名なお茶の先生だったので、どこに行っても皆が私のことを知っていました。でも東京に引っ越してきたら誰も私のことを知りません。ここでは一人ぼっちの普通の人です。」とおっしゃいました。お祖母さんの話し声に少し孤独感を感じました。

特に「誰も私のことを知らない」という言葉は私の心に深く残りました。私にも似たような経験があります。学生時代に勉強のために実家から400キロくらい離れた町に引っ越したことを今でもよく覚えています。そこには親戚や友達は誰もいなかったので、とても寂しい思いをしました。皆さんもこのような経験をされたことがありますか。引っ越した時の寂しさや孤独感は自然なことだと思います。

ところで孤独感というのは周りに親戚や人達がいても感じることがあります。例えば、その人たちと関係があまり良くないとそうなります。このような孤独感についてメディアなどを通して耳にすることもあると思います。孤独感に陥らならないように私たちの生活の中で人間関係を築くことはとても大切だと思います。良い友達関係は生きる力にも繋がります。

私は孤独感を感じた時に天の神さまのことをいつも思い出しました。友達は近くにいなくても、神さまは私と共にその場におられると信じています。それを知っているだけで大きな力になります。その経験を通して天の神さまの関係を築き、それを保つことの大切さが分かりました。

神さまとはどのようにして関係を築くことが出来るでしょうか。それは聖書を読んだり、聖書のお話を聞いたり、神さまにお祈りすることを通してです。そうすることで神さまは本当に私たち

のことを全てよくご存じで、いつも私たちと共にいて下さることが分かって信じることができるようになるのです。使徒パウロも次のように教えています。「実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章27節

神さまは遠くに離れた存在ではなく、いつも私たちのそばにいて下さいます。私たちは決して完璧な人間ではなく、ときには神さまのみ心の反することもするでしょう。しかし、それでも神さまは私たしたちを見捨てることなく、私たちが神さまの元に立ち返るならば神さまは赦しを与えてくださり私たち一人一人と共にいて下さいます。なぜなら、神さまは私たちや世界の全ての人々を愛しておられるからです。その愛のゆえに、神さまはいつも私たちをご自分の元に招いておられます。

天の神さまの御前では私たち一人一人は等しく大切な存在です。社会的な地位や名声に関係なく全ての人は神さまの御前で平等なのです。それで天の神さまの救いのご計画は全ての人々に向けられています。新約聖書の「テトスへの手紙」には次のように書かれています。「実に、全ての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」テストへの手紙2章11節。

私たちは少し寂しい時があっても天の神さまがそばにいて下さることをいつも覚えて行きましょう。

牧師の週報コラム

621日に開催された「チャーチカフェ&コンサート

の牧師のチャーチカフェ・スピーチの抜粋 

本日は北欧の国々では夏至祭の休日です。スウェーデンではミドソンマルと言い、これは英語のミッドサマーと同じです。ところがフィンランドでは「ヨハンヌス」の日という言い方が公式になってます。これは新約聖書に登場する洗礼者ヨハネを意味します。ルカ福音書1章によれば、ヨハネはイエス様よりも半年前に誕生したので、イエス様の誕生を12月とするとヨハネは6月になり、夏至祭の日が彼を覚える日に定められたのです。

洗礼者ヨハネはいかなる人物だったでしょうか?彼は、人々に罪の悔い改めを勧めて洗礼を授けました。旧約聖書を受け継ぐ人たちは、この世は始まりがあったように終わりもある、それは神の怒りの日で神は逆らう者を滅ぼすと信じていました。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、その日がいよいよ来ると思ったのです。それで大勢の人たちが洗礼を受けにヨハネのもとに来たのでした。洗礼を受けた人たちは、神に対してやましいところは洗い清められた、もうこれで大丈夫と思ったかもしれません。

ところがヨハネは、そうではないと言ったのです。彼の後に偉大な方が来られる、その方が大丈夫にして下さるのだと。実は彼が施した洗礼は、人が自分には神に対して罪ある者と認める印であり、だから神の裁きから守ってくれる方を必要としていますという印だったのです。その守って下さる方を神は私たちに贈って下さったのです。それがイエス様でした。

私たちがイエス様を受け入れて自分のものにすることが出来れば、たとえこの世が終わろうとも守られて乗り切ることができるのです。このような安心を持てれば、この世の人生で苦難や困難があっても揺るがない安心があります。なぜなら、この世の終わりの苦難や困難の大きさと言ったら、この世の苦難や困難とは比べものにならないもので、そこで大丈夫ならこの世ではもっと大丈夫だからです。

さきほど、カンテレグループのSointuTuuliの皆さんが素晴らしい演奏を聴かせて下さいました。その中の一つは、有名なバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」でした。ドイツ語の題名は「イエスは私の喜びであり続ける」(Jesus bleibet meine Freude)だそうです。その歌詞を見たら、イエス様を受け入れて自分のものにすることができるとどんなに心を励ましてくれるかを歌い上げていることがわかりました。その趣旨に沿って歌詞を訳してみましたので、以下にご紹介します。(日本基督教団の讃美歌第二編に228番「こころに主イエスを」としてあります。)

私にとって幸いなことは、

私にはイエスがあるということ、

ああ、どんなに私は彼にしっかり

掴まっていることか、

私が病気の時、悲しみにある時に

彼は私の心を爽やかにしてくれるからだ。

私にはイエスがある、

私を愛し、私のものになるようにと

ご自身を捧げられたイエスが、

だから、私がイエスを手放すことなど

ありえない、今すぐ心が砕けても。

イエスは私の喜びであり続ける、

私の心の慰め、潤いであり続ける

イエスは全ての苦しみから守って下さる、

彼は私の生きる力、

私が目にすることができる楽しみ、太陽、

私の魂の宝、嬉しさ、

だから、私はイエスを手放さない、

心と目から遠ざけない。

 

訳者からのお勧めです。ドイツ語は英語と違ってローマ字読みで割といける言語なので、歌ってみてはいかがでしょう。ドイツ語の歌詞は、https://classic-fan.com/jesujoy-of-mans-desiring/ で見つかります。

発音について細かいことを言えばキリがないのですが、この歌に関してなら、以下の三点だけでも注意したら結構いけると思います。一つ目は、EIをエイと読まずアイと読むこと、二つ目は、CHを英語みたいにチ(Church)やキ(Christ)と読まず、ここではただヒと読むこと、三つ目は、Jesusは英語のジーザスではなくイェーズス。これだけで随分ちがいます。別にドイツ人やドイツ語が出来る人に聞かせる必要はありません。この歌は自分で意味を知って口ずさむだけで気分が上向きになること請け合いです!

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スオミ教会・家庭料理クラブの報告

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6月の料理クラブは梅雨に入った14日に開催しました。今回はフィンランドのポテト・フラットブレッド「Rieska」と「田舎風サラダMaalaissalaatti」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、リエスカのマッシュポテトを作ります。茹でたジャガイモをつぶして塩と牛乳を加えます。それから生地作りに入ります。マッシュポテトに材料を順番に加えて混ぜると柔らかい生地が出来ます。生地を鉄板の上にのせて薄く伸ばして沢山の丸いリエスカで一杯にします。

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イーストsaradaを使わないのですぐオーブンに入れて焼きます。焼き上げている間、台所から美味しいそうな香りが広がってきました。オーブンの中を覗くと早くもきれいな焼き色のリエスカが出来ています。「美味しそう、早く食べてみたい」の声が。

リエスカの次はサラダの番です。皆で一緒にサラダの材料を洗って刻み、ポテトをフライパンで炒めて準備完了。ボールにレタス、ピクルス、ポテト、焼きサーモンを順番に重ねるように入れてきれいな色とりどりのサラダの出来上がりです。さて、どんな味のサラダなのかなあ、とみんな楽しみでした。

saradaテーブルのセッティングをして、出来たばかりのリエスカと田舎風サラダをみんなで一緒に味わいます!リエスカにエッグバターをのせてサラダと一緒に味わうと、「美味しい!」、「リエスカもサラダもぴったり合って美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。皆さんと一緒に美味しく頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時にフィンランドの新じゃがや天の神さまの祝福について聖書のお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間お休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、また秋にお会いしましょう!

 

2025年6月14日料理クラブのお話

今日皆さんが作ったジャガイモのリエスカはフィンランドの伝統的なパンの一つです。私の母もお祖母さんも作っていました。今も家庭でも作れるし、お店でも販売しています。

昔リエスカは、薪で暖めるオーブンで300℃から400℃の高い温度で焼くのが普通でした。私の母も、パンを作る時は、薪で暖めたオーブンで一番初めにリエスカを焼いて、オーブンの温度が下がってから他のパンを焼きました。いつも母がパンを作る時は、子供たちはリエスカが出来上がるのを楽しみにしていました。出来上がった熱いリエスカにバターを塗って美味しく食べたことをよく覚えています。

sarada今日作った「田舎風」のサラダにもジャガイモも入れたので、今日は新ジャカを沢山使ったメニューでした。フィンランド人は殆ど毎日ジャガイモの料理を作るので、ジャガイモはフィンランドの食文化の中でとても重要な役割を果たしています。5月6月になると、フィンランド人は、その夏の新ジャカが待ちどうしくなります。私の実家にもジャガイモの畑があり、ジャガイモを育てました。新ジャガはいつ食べられるかなと、みんな毎日畑を見に行きました。十分大きくなったらジャガイモ掘りです。低木みたいなものを茎から一気に引き抜くと、長い根にジャガイモが沢山付いていました。新じゃがは少し小さいですが、白くてとてもきれいで、茹でてバターをのせただけでも美味しいです。

たった一つの種芋から沢山のジャガイモがとれるのはいつも不思議に感じました。これは天の神さまの御手の業だと思いました。天の神さまはこのように目で見える形で祝福して下さるのだと感じたのです。このような神さまの祝福は私たちの生活の中でも様々な形で表れていると思います。

聖書は神さまの祝福について沢山教えています。有名なのは「五つのパンと二匹の魚」のお話です。それを紹介したいと思います。

ある時イエス様の教えを聞くために大勢の人たちが集まってきました。人々はイエス様の教えに夢中になって、時間が立つのも忘れてしまいました。ところが時間も遅くなり、みんなだんだんお腹がすいてきました。弟子たちは心配してイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、みんな近くの村に行って何か食べ物を買うことができるでしょう。」しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」と言ったのです。弟子たちはお金はみんなのを合わせて五千人の人たちにパンを買うにはとても少なすぎました。弟子たちはイエス様に「この金額では無理です」と言いました。そこでイエス様は、群衆の中にパンを持っている人がいるか調べるように命じました。

弟子たちは五つのパンと二匹の魚を持っている男の子を見つけました。弟子たちはこんな少ないパンと魚で一体何ができるのだろうかと思いましたが、イエス様の言う通りにしました。イエス様は五つのパンと二匹の魚を高く掲げて、神様に感謝してお祈りしました。その後で弟子たちにパンと魚を渡して、群衆に分けるように命じました。すると不思議なことに、五千人の人たちはパンと魚をお腹いっぱいになる位に食べたのです。そして、残ったパンのかけらを集めると、十二の籠が一杯になったのです。

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この出来事で神さまの祝福が目で見える形で現れました。祝福とは何でしょうか。その言葉は皆さんもよく聞くと思います。キリスト教では祝福とは神さまの良いみ心が見える形や見えない形で現れることを意味します。神さまの良いみ心が見える形で現れるのは自然の美しさや豊かさがそのものです。私たちの日常の生活の中にもあります。私たちが当たり前のように持っている食べ物、服、住まい、健康にも神さまの良いみ心が現れています。

しかしもし食べ物に困ったり、病気になったりしたら神さまの良いみ心がなくなってしまったことになるのでしょうか。イエス様を信じる人はそのように考えません。信じる人は食べ物に困ったり、病気になったりしたら、神さまは助けて下さると信頼してお祈りしたら歩み続けます。困っている時は神さまの良いみ心が見えない形で働いている時なのだと信じているからです。どうしてそのように信じれるのかは、パウロがローマの信徒への手紙の中でこう言っているからです。

「私たち全ての為に、その御子をささえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」
ローマの信徒への手紙8章32節

弟子たちが五つのパンと二匹の魚を見た時、これには何も意味はないと思ったでしょう。しかしイエス様を信じて言い通りにしたら、意味がないと思ったものの中に神さまの良いみ心が見えない形で働き出したのです。そして気がついたら大きなことが起きたのです。これが神さまの祝福です。

牧師の週報コラム 

キリスト教系老人ホーム「東中野キングスガーデン」の小礼拝「心の時間」にて行った説教の抜粋(2025611日)

「岩の上に家を建てる人と砂の上に立てる人」

マタイ72427節 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

岩の上に家を建てれば土台がしっかりしているので嵐や洪水がきても大丈夫。しかし、砂の上に建てたら嵐や洪水が来たら倒壊してしまう。岩の上に家を建てる人とはイエス様の教えたことをする人、しっかりした土台がある人。砂の上に建てる人はイエス様の教えたことを聞くだけで行わない人、土台がない人。イエス様の教えたことをすれば、苦しいことや辛いことがあっても倒れないですむ土台を持てる。ならばイエス様が教えたことをしようではないか。

ところが、イエス様の教えたことは難しいことばかり。人を憎んではいけないとか。悪いことをされても、神さま、あの人をやっつけて下さいとお願いしてはいけない、反対に、あの人に善いことをしてあげて下さいとお願いしないといけないとか。明日のことを今日心配してはいけないとか。それと、神さまの国という、目には見えない国を沢山思う心を持たないといけないとか。神さま、あなたの国に私を迎え入れて下さいとお願いしないといけないとか。他にもまだまだ難しいことをたくさん教えました。これらをしないと、砂の上の家みたいになってしまうと。さあ、大変。

でも、神さまは私たちが自分の力で土台を持てないことを存じでした。それで土台を持てるようにとイエス様を贈って下さったのです。イエスさまは完璧な神さまと至らない私たちを結びつけて下さる方です。それで、至らない私たちがイエス様を信じて教会で洗礼の儀式を受けると、神さまと結びつきができます。その時、神さまは、ようこそ、私の国に、と仰って下さいます。私たちの心は神さまの国を沢山思う心になります。そうすると、憎んではいけない、仕返ししてはいけないは、その通りだなあと思うようになります。心配ごとも全部神さまにお伝えして持っていってもらえます。そうしたら今日は明日のことを心配しなくなります。イエス様のおかげでしっかりした土台を持てるようになります。

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