牧師の週報コラム

アウグスブルグ信仰告白16条のキリスト信仰者が「正しい戦争に従事することは正当である」を考える(フィンランドの視点を交えて)

昨年末から礼拝後のコーヒータイムの終わりに「一回一条15分のアウグスブルグ信仰告白の学び」を不定期でしたが行ってきました。今日は16条です。その中にキリスト信仰者が「正しい戦争に従事することは正当である」という下りがあり、読む人聞く人に様々な思いを抱かせる個所ではないかと思います。これをどう理解するか、少しでも秩序だって考える一助になればと思い、私なりにまとめたものを学びの時に配布します。それに沿って学びを進めて行こうと思います。

アウグスブルグ信仰告白はキリスト教ルター派の教義にとって最も重要な信条の一つで1530年に起草されました。同信仰告白は古代のキリスト教信条(古典信条)とアウグスブルグ以後の教義文書も併せて「一致信条書」という名で1580年に出版されました。ルター派の教義の集大成です。日本ではその全部の翻訳が1982年に日本福音ルーテル教会によって出版されました。

ところが、出版後に誤訳や訳語の不統一が指摘され、翻訳は批判に晒されるようになり、正誤表を作らなければならない事態となりました。そこで教会は、後に日本ルーテル神学校の教授を務めることになる鈴木浩牧師に正誤表作成のため翻訳の見直しを委嘱、アウグスブルグ信仰告白は彼が見直しを担当した文書の一つでした。鈴木牧師が特に関心を持ったのがこの16条で、その”正確な理解に資するために”として論文 ― 「正しい戦争」と「法に従って戦う」『一致信条書』CA16条の“iure”の訳語の問題 ― を発表しました(日本での翻訳出版にまつわる上記の出来事も同論文の記述に基づいています。CAとはアウグスブルグ信仰告白Confessio Augustanaのこと)。

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以下は吉村がまとめて「学び」の時に配布したもの。終わりに「学び」の時の質疑応答の一部を紹介します。質疑応答を踏まえ配布したものを少し修正しました。

1.鈴木論文 「正しい戦争に従事する」iure bellareの意味

1)鈴木論文では、ラテン語版の緻密な歴史言語学的分析に加えて、アウグスブルグ信仰告白の弁証の16条および双方のドイツ語版の16条と比較しながら考察されている。

iureの意味は「法に従って(よって、基づいて)」(iusの奪格)、bellareは動詞「戦う」である。

2)そうすると、iure bellareは「法に従って(よって、基づいて)戦う」と訳すべきであるが、鈴木氏によれば、「法に従って」の「法」は、実定法のことではなく、もっと広い意味の法であり、「正義に従って」とも訳しえる。当時の人々はこれを具体的な「国際法」とか「戦時法」に従うというような法律論の問題として考えなかった。彼らは、戦争を行うことが「信仰的に見て」正当かどうかという神学的な問題で考えた。従って、ここの背景にあるのは戦争の神学的正当性を論じた「正戦論」である。

3)「正しい戦争」という観念を神学的に正当化し、後世に影響力を与える仕方で定式化したのはアウグスティヌス。それを更に体系化し、ほとんど自明のものとしたのは、トマス・アクィナス。宗教改革者たちも基本的にはその線に立っていた。

4)従って、「正しい戦争に従事する」は適切な訳語である。

5)以上を読んで吉村が考えたことは、iure bellareを「法に従って/によって/に基づいて/正義に従って戦争に従事する」と訳すべきと言いながら、「正しい戦争に従事する」でよいとするのは、「法に従って戦う」も「正しい戦争に従事する」も同義だということになる。果たしてそうだろうか?ここで、参考までにフィンランド語訳を見ると、「正当な(oikeutettu)戦争に従事する」と言っていて、「正しい(oikea)戦争」とは言っていない。oikeutettuは「正当防衛」oikeutettu puolustusの「正当な」である。吉村の印象では、「正当な」と言ったら、限定的・条件付き「正しさ」となるが、ただ「正しい」と言ったら、何かタガが外れた感じにならないだろうか?

2.アウグスブルグ信仰告白16条のフィンランド語訳

そこで、参考までに16条全文のフィンランド語訳の和訳(吉村)を以下に掲げる。

16条 社会的生活について

  1. 社会的生活の事柄について我々の諸教会は、社会の合法的な秩序は神の善きみわざであると教える。
  2. そして、以下のことも教える。キリスト信仰者は、権力の職務につくこと、裁判権を行使すること、帝国レベルの法律※その他の有効な法律に従って法律的な問題を解決すること、法律が定める刑罰を確定すること、正当な戦争に従事すること、兵役につくこと、合法的な契約を結ぶこと、私有財産を所有すること、権力が要求する時に宣誓を行うこと、婚姻関係を結ぶことは許される。
  3. 我々の諸教会は、キリスト信仰者にこれらの社会的な任務を遂行することを禁じる再洗礼派を拒否する。
  4. 我々の諸教会はまた、キリスト教的完全さは神への畏れと信仰ではなく、社会的な義務を拒否することであると教える者たちを拒否する。もちろん、福音は心の永遠の義を教えるものではある。
  5. それは、国家や家族を破棄するものではなく、それらをまさしく神的な秩序として維持しなければならないことと、愛はこれらの秩序の枠内で実践されなければならないことを福音は教える。
  6. それゆえ、キリスト信仰者は不可欠に権力とその法律に従わなければならない。
  7. ただし、それらが罪を犯すことを命じない限りにおいてである。なぜなら、その場合はキリスト信仰者は人間よりも神に従わなければならないからである(使徒言行録5章)。

※「帝国レベルの法律」とは、ルターの時代の神聖ローマ帝国レベルの法律のこと

3.アウグスブルグ信仰告白16条の構成(訳はフィンランド語に倣う)

1)iure bellareの意味を考える時、鈴木論文のようにその言葉に特化して、言語学的、神学的背景を明らかにして意味を確定することも大事だが、この言葉が16条のコンテクストの中でどんな位置づけにあるのかを明らかにして確定することも大事だと考える。16条のコンテクストを明らかにするために、その構成を見ると以下のようになる。

① 合法的な社会的秩序は神のよいみわざである(上記1)。

② キリスト信仰者が(上記2で言われている10項目の社会的事柄と務めを)することは許される(ラテン語スウェーデン語の辞書によれば「ふわわしいことである」)。

③ 社会的な務めを禁じる諸派を拒否する(上記3、4)。

④ それらの諸派を否定する根拠として、

  • 福音は、国や家庭を破壊するものではなく、逆にそれらを神の定めとして保つことと、そのような秩序の中での愛の実践を求めるからである(上記5)。
  • 従って、キリスト信仰者は必然的に権力や法律に従わなければならない(上記6)。
  • ただ、それらが罪を犯すことを命じた場合は、この限りではない。そのような時には、人よりも神に従うべきであるからである(上記7)。

2)この構成からわかること

・「合法的な社会秩序は神のみわざ」なので、権力に従わなければならない。しかし、権力が罪を犯すことを命じた場合は従わなくてもよい。つまり、そのような社会秩序は合法的でも神のみわざでもない。

・キリスト信仰者が正当な戦争に従事することは、他の社会的事柄・務めと同様に、それを命じる権力が合法的で神のみわざである場合になる。

・パウロはローマ13章で権力に従うように命じた。権力は神によってたてられたものと言っている。当時その権力はキリスト教ではない。しかし、パウロがそう言うのは、権力がキリスト教徒が信仰の実践と礼拝を公けに行うことを一応認めているから。それでパウロの権力服従論は、消極的な服従であると言える。しかし、信仰の実践と礼拝が禁じられれば、信仰者は人よりも神に従うこととなる。その時の権威は合法的でも神のみわざでもなくなる。

・パウロの時代のキリスト教は、公認宗教religio licitaであったユダヤ教の一部と見なされていた(使徒言行録を参照)。ところが、成長を遂げるにつれ当局に警戒され、やがて迫害された。

・その後キリスト教は迫害時代の後、313年に公認され、信仰の実践と礼拝を公けに行っても権力との関係で問題がなくなった。ところが380年に国教になり、他の宗教は禁止されるくらいの支配的な宗教となった。こうなると権力服従論は消極的なものから積極的なものに変るのではないだろうか。なぜなら、権力そのものがキリスト教だから。

・2で挙げられている社会的な事柄と務めは16世紀のものである。21世紀は内容が異なるであろう。例えば、「帝国レベルの法律」は現代では憲法と言い換えてもよいだろう。「合法的な社会の秩序」も現代では民主主義と基本的人権を実効的なものにする秩序と言い換えてよいだろう。しかし、内容が現代化したとは言っても、重要なことは次の三つの原則は変わらないということ、①キリスト信仰者にとって「合法的な社会の秩序

は神のよいみわざであること、②信仰者はそのような社会において社会的な事柄と務めに就くことは当然であること、③権力が罪を犯すこと、つまり神の意思に反することを命じる場合はキリスト信仰者は人ではなく神に従うこと。

・現代において「正当な戦争に従事する」ことは当時ほど自明なことではなくなって、大いに議論をしなければならないことになったのではないだろうか?というのは、1928年のパリ不戦条約は国の政策としての戦争を禁じた。つまり、それ以前は戦争は国の政策の一つとして考えられていたのが、それが当たり前ではなくなった。しかし、自衛のための戦争は認められるというのが国際法の現実である。現代では戦争をする国は、常識や良識からそう見えなくても、みな自衛だと主張する。

・アウグスブルグ信仰告白16条の「正当な戦争に従事する」は現代では、①命じる権力が神のみわざと言える位の「合法的な社会の秩序

の実現者であるかどうか、②その戦争がそうした社会の秩序を守る自衛のものかどうか、この二つを明確にすることを求めているのではないだろうか?

4.質疑応答から

(吉村)フィンランドで何人かの牧師に「正当な戦争に従事する」について質したところ、答えは一様に「権力esivaltaが命じることだから従う」であった。フィンランドで牧師に限らずキリスト信仰者は皆同じ答えをすると思う。

(質問者)フィンランドの軍隊は国防の軍隊で他国を侵略することはないと思うが※、それでも軍隊が国民に何か特定の信条を押し付ける力の象徴のようになる危険はないのか。

(吉村)確かにフィンランドには国教会があるが、実はここ30年位、国民の聖書離れ教会離れが急速に進み、1980年代までは国民の90%以上が国教会に所属していたのが、現在は60%すれすれである。国教会とは言っても、別に所属していなくても国民の法律上の地位や権利義務には何の影響もない(近年では国教会に所属しない人も大統領になったことがある)※※。軍隊がキリスト教を押し付ける力の組織とはとても考えにくい。ところで、はっきりした信仰を持つ国民は、ルター派の信仰から正当な戦争に従事するのは当然と考えるが、キリスト教をやめた国民は違う考えを持つかもしれない。その点をフィンランド人はどう思うか?(学びの会には3人の日本語を解するフィンランド人が参加、質問を彼らに向けたところ)

(3人のフィンランド人、声をあわせるように日本語で)(戦争に)行きますよ。だって、義務ですから。

(吉村)ルター派の信仰がなくても戦争に従事するのは当然と考えるのは、どういうことだろう?やはり国が民主主義や人権や社会福祉の指標で世界のトップレベルにあることと無縁ではないということなのか?他に何か考えられるだろうか?

  • フィンランドは2023年にNATOに加盟して、それまでの武装中立から集団的安全保障の安保体制に変わった。これが国防や自衛の考え方にどんな変化をもたらしたかは識者の分析に委ねるしかない。
  • ※ フィンランドのルター派教会を国教会と呼ぶのは、1923年の宗教自由法で国教会所属無所属は国民の法的地位、権利義務に影響はなくなって以後は、相応しい呼び方かどうかという問題がある。フィンランド自身、皮肉る以外は国家教会valtiokirkkoとは言わない、国民教会kansankirkkoと言うのが一般的。それでも、ルター派教会とロシア正教の二つの教会は公法上特別な地位にあり、他の宗派宗教は宗教法人立法の管轄に置かれているのとは別格の存在である。

牧師の週報コラム

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待降節第一主日は教会の新年の幕開け

今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドベントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆さま、礼拝に参加される皆さまを豊かに祝福して見守り導き、皆さま自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。

今年もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を礼拝の中で歌います。毎年お話ししていることですが、この歌はフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番最初にある歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の個所が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアンナ、またはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王さま、万歳!」というところでしょう。

その個所が朗読される時、歓呼の前で一旦朗読が停まってパイプオルガンが威勢よく鳴りだし、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、当時の群衆になり替わって歓呼を賛美歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れ聖書離れが進み、普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、なぜか待降節第一主日になると人が多く集まり、この歌を歌って国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。今映っているのは何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。(昨年の待降節第一主日のコラムから)

↓ sleyの聖心教会の第一アドヴェント礼拝の模様です、ホーシアンナ・ダヴィディンポイカを高らかに歌っています。動画の32分あたりから始まります。

https://www.youtube.com/live/j6avbcfEaQk?si=R9_5xeYtzX6GBQXu  

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「聖書の御言葉を自由に使う」とは?

先週の礼拝の初めに詩篇98篇を朗読した時、前半は神の成し遂げた驚くべき救いと恵みの業を賛美する内容、その業はイスラエルの民の枠を超えて諸国民にも知らされるような業であったこと、そして同篇の終わりは神が諸国民を裁く日が来ることについて述べていることをお話ししました。この神が成し遂げた世界に知らしめるような驚くべき業とそれに続く裁きとは何を意味するのか?ダビデの時代なら、驚くべき業はかつての出エジプトの出来事、裁きはエジプトに対する罰という具合に過去に起こったことと理解されたでしょう。バビロン捕囚後に祖国に帰還した民だったら、帰還と神殿の再建が神の驚くべき業と理解されたでしょう。しかし、諸国民に対する罰とは?バビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされたことか?しかし、イスラエルの民はその後もペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国に支配され続け、詩篇98篇は過去の出来事と結びつけるのが難しくなるのではないか。

しかし、神の救いと恵みの業が起こったことが将来の裁きと関連するという出来事が起こったのです。イエス・キリストの十字架の死と死からの復活がそれです。この関連を使徒パウロはアテネのアレオパゴスで居並ぶギリシャの知識人や哲学者を前にして述べたのです!(使徒言行録173132節)。

パウロのアテネでの証しの土台に詩篇98篇が本当にあるのか?これを証明しようとしたら、ギリシャ語ヘブライ語の文章の分析からはじめて、第二神殿期のユダヤ文書の中に詩篇98篇に関わる思考を見つけ出して体系化してパウロの証しとの関連性を論証しなければなりません。こうすれば釈義学(歴史的聖書学)の論文が一つ出来上がります。しかし、発表すればしたで批判や反論が必ず出てきます。学術的な営みとはこういうものです。このようにして学問は発展するのです。

そうすると、あらゆる批判や反論に耐えうるようなものができない限り、パウロの証しの土台に詩篇98篇があるなどと言ってはいけないのか?この手の問題について昔、フィンランドの友人の牧師と話し合ったことがあります。O.コスケンニエミという、父親はSLEYの元会長、祖父は大正時代に池袋、諏訪、飯田で教会設立に携わったSLEYの元宣教師。彼曰く、ルター派の教義に反せず、それを深めるものであれば御言葉は自由に用いていいのだ。考えてみれば、どこの教派もそれぞれの仕方で同じことをしているのでしょう。ただし、一つ忘れてはならないことがあります。パウロにしても他の使徒にしても皆、旧約聖書が血と肉と化していた人たちです。彼らが旧約聖書を理解しようとした時、イエス様の教えと出来事が理解に新しい地平を開いたということです。そしてそれはイエス様自身が前もって始めていたのです。

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スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回の手芸クラブは2025年12月3日(水)10時~13時に開催します。

次回はフィンランドのクリスマス・オーナメントの一つ、「オルキ・タハティ(藁の星)」を作ります。フィンランドでは藁で作るクリスマス・オーナメントは伝統的なもので、現代でも手作りの「星」や「天使」や「ヒンメリ」は昔ながらのクリスマスの雰囲気を高めてくれます。これらの天然の藁で作るオーナメントは、僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放ち、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。今回は星に挑戦します。どんな形の星にするかは各自ご自由にお決め下さい。

オルキ・タハティ(藁の星)を是非ご一緒に作ってみましょう!

手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

持参するもの:パールピン20本

参加費: 1000円

お子さん連れの参加も大歓迎です!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み moc.l1774606890iamg@1774606890arumi1774606890hsoy.1774606890iviap1774606890

℡ 03-6233-7109

スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106 www.suomikyoukai.org

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

12月の家庭料理クラブは13日(土)13時から開催します。

今年もクリスマスの季節がやってきました!

今回の料理クラブはプッラの”ヨウル・クランシ”(クリスマス・リース)を作ります。プッラの生地を用いて、中身はレーズン、ドライフルーツ、アーモンドに加えて、シナモン、クローブなどのクリスマスのスパイスの風味で満たします。ヨウル・クランシはフィンランドのクリスマスの味覚の一つです。あわせて、フィンランドのクリスマス・スパイス・クッキー”ピパルカック”も作ります。

焼きたての”ヨウル・クランシ”と”ピパルカック”を北欧のクリスマスのホットドリンク”グリョッギ”と一緒に味わいましょう!

ひと足早くクリスマスの雰囲気をフィンランド風に味わってみませんか?

参加費は一人1,800円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1774606890iamg@1774606890arumi1774606890hsoy.1774606890iviap1774606890 まで。

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

パン

11月のスオミ教会・家庭料理クラブは15日、爽やかな秋晴れの中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのメニュー、フィンランド的なパン「オートミール・セサミ・サンピュラ」とキノコのスープです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まずパンの生地を作ります。材料を計って順番にボールに入れていきます。オートミールと小麦粉を加え生地をよく捏ねてしっとりした生地が出来上がります。それを暖かい所において一回目の発酵をさせます。その間にキノコのスープの準備を始めます。玉ねぎとマッシュルームのみじん切りを終えると、生地はあっという間に大きく膨らんでいました。早速パン作りに入ります。大きな生地をテーブルの上で丸めてから、それを16個に分けて一個一個をきれいな丸形のサンピュラにしていきます。それを全部鉄板の上に並べて第二の発酵をさせます。

キノコ

発酵させている間にキノコのスープの続きをします。みじん切りにしたキノコと玉ねぎを鍋に入れてしばらく炒めてから他の材料を順番に加えて煮込みます。最後にクリームチーズを加えると柔らかい味のスープが出来上がります。

パン

サンピュラの二回目の発酵も早くすみ、一つ一つの上に卵を塗って白セサミと黒セサミをその上にたっぷりかけてオーブンに入れます。しばらくするとパンの焼き香りが台所から教会中にどんどん拡がって参加者の皆さんは何回もオーブンを覗きに行きました。「美味しいそう!」「良い香りね」とみんなワクワクでした。

パンテーブルのセッテングをしてみんな着席します。焼きたてのオートミール・セサミ・サンピュラにマーガリンを塗って、キノコのスープと一緒に味わいます。「やっぱりパンは焼きたてが最高ね!」「スープも美味しいわ」との声があちこちから聞こえてきます。皆さんと一緒に美味しくて本当に満ち足りた歓談の時を過ごしました。その時にフィンランドのキノコやパンの話と聖書のイエス様が語られた「からし種」と「パン種」のたとえ話の教えについて話を聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回はもう待降節(アドベント)の期間の開催になります!12月13日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2025年11月15日

フィンランドでは十月末に冬時間に入ります。それから日がだんだん短くなり気温は氷点下に下がる日が多くなります。この時期になると、フィンランド人は家で過ごす時間が増え、温かい料理、オーブン料理、スープ、などを作るようになります。もちろんパンやケーキなども焼きます。今日皆さんと一緒に作ったキノコのスープとオートミール・セサミサン・ピュラはこの季節にピッタリです。

フィンランドではキノコはベリーと同じように森で自由に採ることが出来ます。キノコ狩りの期間は年によって変わりますが、普通は7月の終わり頃から11月までです。この間フィンランド人の友達からキノコ、フィンランド「漏斗の形のキノコがまだ採れる」と聞きました。漏斗の形のキノコとはどんなキノコでしょうか。それはアンズタケと似ていてマイルドな味わいですが、色は茶色です。キノコは普通は寒さに弱いですが、このキノコは氷点下に下がってもまだ採ることが出来ます。フィンランドではキノコ狩りの期間は長いので、秋はキノコ狩りの「黄金期」とも呼ばれています。

森で採ったばかりのキノコは秋の食卓に相応しい食材です。新鮮なキノコをフライパンで炒めたりスープやソースに入れたりして美味しくいただけます。沢山採る場合は冷凍したり、乾燥させたり、塩付けにしたりして保存します。

スオミ教会の料理クラブではフィンランド的なサンピュラを何度も作ったことがあります。フィンランドではサンピュラの種類は多くあり、生地の材料を少し変えるだけで、新しい名前のサンピュラが出来ます。今日のサンピュラの特徴は生地に使ったオートミールと表面にかけたセサミです。オートミールとセサミを加えることでパンの栄養価が高まります。パンはミネラル、ビタミン、繊維が含まれる健康的なパンです。フィンランドではこのようなパンを食べることが奨励されています。

今日はセサミをパンの上にかけたり、イーストでパン生地を発酵させたりしたので、今日の聖書のお話はイエス様が「からし種」と「パン種」についてのたとえ話が相応しいと思いました。このお話は新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれています。

ある時、「イエス様は神の国は何に例えられるか」について教えました。そこで二つの例え話をされました。先ず、イエス様は「神の国はからし種のようなものです」とおっしゃいました。

からし種とはどんな種でしょうか。それは非常に小さくてどんな植物の種よりも小さいものです。しかし、それを蒔くと茎はどんどん伸びて畑の中で最も大きな植物に成長します。それは木のように枝を拡げて空の鳥たちが巣を枝に作るくらいになります。

イエス様のもう一つのたとえ話は次のようなものです。このお話も「神の国は何に例えられるか」について語られたものです。イエス様は「神の国はパン種のようなものです。」とおっしゃいました。ある女の人がパンを作る時に3サトンの小麦粉にパン種を混ぜると、生地全体は大変良く膨らみました。1サトンは12リットルなので36リットルです。当時パンを作る時にはイーストはまだなかったので、いつも少しだけの生地を残しておいてそれを次に作るパンのパン種に使って発酵させたのです。たとえ話の女の人が作ったパン生地は36リットルもあるとても大きなものでした。しかしわずかなパン種をそんな量の小麦粉に混ぜただけでパン生地全体が大きく膨らんだのです。

この二つのたとえ話の意味はどのようなことでしょうか。たとえに出てくるからし種とパン種はとるに足らないものに小さなものに見えますが、それぞれに強い力が秘められています。イエス様はからし種とパン種を何に例えられたのでしょうか。それは天と地と人間を造られた天の神さまのみ言葉を意味します。つまり聖書のみ言葉のことです。聖書のみ言葉は見た目ではただ普通の言葉にすぎませんが、その中には大きな力が含まれています。それはどんな力でしょうか。それは天の神さまが私たちの造り主であるという信仰を生み出す力です。そして、天と地と人間を造られた神さまが私たちを救うために独り子イエス様をこの世に送られたことを知らせ、この出来事は自分の為に起こったということを信じて受け取れるようにする力です。聖書のみ言葉を通して神様に対する信仰が生まれるのです。

CC0神さまのみ言葉を全世界の人たちに述べ伝えたら多くの人たちは信仰を持つようになります。イエス様はこのことをからし種が成長して大きな木になること、そしてパン種が小麦全体に広がって大きなパン生地に膨らむことで表されました。神様のみ言葉は全世界の多くの人々に向けられて信仰を生み出てきました。そうした生まれた信仰はこの世を生きる力になり、またこの世を超えて次の世まで導く力ともなります。

私たちも聖書のみ言葉を読んだり聞いたりしてしましょう。そこから神様への感謝の心が生まれます。

牧師の週報コラム

「聖書は神の言葉」について

昨年から礼拝の式文をフィンランドのルター派国教会のものに合わせる改訂を進めてきました。最後の変更箇所として、聖書朗読のところで旧約聖書と使徒書の朗読の後に「これは神の御言葉です」と言って、会衆が「神に感謝します」と応じる、福音書では「これは聖なる福音です」と言って、「キリストに感謝します」と応じるようにすることを先週の全体会でお知らせしました。

その後で信徒の間から、「聖書は神の言葉」と言うと、聞く人によっては米国の所謂キリスト教原理主義を思い起こさせるのでは、彼らも同じように言うからだという心配の声があがりました。世界のキリスト教界を二分するような諸問題でSLEYは伝統的な立場を取ることが多いため、それを好ましく思わない人たちから原理主義的などと批判されます。しかし、宗教改革で言う「聖書中心主義」と米国の福音派のそれには大きな違いがあります。いつか、ルター派にとっての「聖書は神の言葉」について勉強会を開こうと思います。(ちなみに、「これは神の言葉です」はフィンランドのルター派国教会の礼拝でも唱えられます。近年伝統からどんどん離れて行く傾向にある同教会を原理主義と言う人はいないでしょう。)

それで、肝心の式文の改訂はどうするか。取りあえず勉強会までは朗読者の判断に委ねます。「聖書は神の言葉」で問題ない人は唱え、心配な方は以前通りの「これで日課を終わります」。そうなると今度は、「神の言葉」と唱えられて聞く側が不安を感じたらどうするのかという反対が出るでしょう。その場合は次のようにお考え下さい。今あなたが聞いたのは神の言葉である、これからそれを説き明かして、神が今の状況にあるあなたに何を伝え何を与えようとしているかを知らせる説教が始まるのだ、それは高尚な世間話でも知的好奇心をくすぐる話でも道徳訓話でも感動ものでもない、あなたの魂を精錬する話だ、心して聴きなさい、というシグナルを与えるものとお考え下さい。会衆がそういう態度で臨めば臨むほど、説教者も一層真剣に説教を準備するようになること請け合いです。その意味でも「終わります」と言って終わってしまうよりお互いの信仰の成長に資します。

ここで説教者にとって一つ大きなチャレンジになるのが、旧約聖書の日課も使徒書の日課も「神の御言葉」と言ったら、本当は説教ではそれらも取り上げなければなりません。福音書の日課の説き明かしをそれらの御言葉に助けられて行うということです。言い訳がましくなりますが、聖書日課の編纂者はもっと気が利く組み合わせをしてほしいと言いたくなることが多いです。でも、それが取り上げない理由になってはいけなません。まだまだ研鑽が必要だと自覚しています。

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牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」114日の日課から

これぞ、ルターの神学の神髄、「イエス様と人間の幸いなる交換取引」なり!

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテア3章13節)

「キリストは私たちのために呪いとなった」 ― この言葉以上に甘美な教えがあろうか?我々は感謝の心を持ってこの言葉を自分のものにしよう。「キリストが私たちのために呪いとなった」とは、別の言い方をすれば、キリストは神の怒りの主犯となった、それ位の罪びとになったということであり、世界中の罪をご自分の肩に負わせ、「これら全て人間が犯した罪は実は私が犯したのです」と言わしめたということである。

 キリストは、律法の規定に即してみて本当に呪いとなったのである。しかし、それは彼自身が原因なのではなく、私たちのためにそうなったのだ。もし彼が私の罪、君の罪そして世界中の罪を自分のものとして引き受けることなどしなかったならば、律法は彼を裁く権限を全く持ち合わせなかったのだ。なぜなら、律法は罪びとを裁くものだからだ。しかし、キリストは我々の幸いとなるように交換取引を行ったのだ。彼は我々の罪にまみれた人格を自分のものとして引き受け、ご自分の罪のない勝利に満ちた人格を我々に贈り物として与えて下さったのだ。この贈り物を纏ってもらったので、我々は律法の呪いから解放されたのである。

 キリストは望めばそうする必要はなかったにもかかわらず、あえて自分から進んで我々のために呪いとなられた。「私は、神としての人格、人間としての人格の双方の点で、神の祝福以外の何ものでもなく、救いのために何かが欠けているという者でもない。しかし、私はこのような自分を空にして(フィリピ27節)、君たちが纏っている、自然な人間の状態をこの身に纏おう、君たちを永遠の死の滅びから救い出すために。」これが彼の本心だったのだ。

 このようにして全世界の罪を背負った時、キリストは捕らわれ、苦しみを受け、十字架につけられて死なれ、我々のために呪いとなったのである。しかし、見よ、彼は三日後に復活され、今永遠に生きて治められている。彼には罪も死もなく、我々と同じ自然な人間の状態もない。あるのは完全な義、真の命、永遠の祝福である。(以上ルターの説き明かし)

この完全な義、真の命、永遠の祝福は、キリストを救い主と信じ洗礼を受けて彼と結びつく者みんなに与えられているのです!アーメン!

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手芸クラブの報告

クロステージ

10月の手芸クラブは29日に開催しました。少し肌寒い午前でしたが、午後からは太陽が輝く秋晴れの天候に変わりました。

今回は前回に続いてクロステージのテクニックを使って刺繡をしました。参加者の中には前回の続きをお家で刺繡されて完成品を持って来られた方もいらっしゃいました。きれいな模様の素敵に出来上がった作品をみんなで見て、きれいな色合いですね、模様もよく引き立ちますね、と感心。今回は刺繡する方の他に編み物を編まれる方のご参加もありました。きれいで暖かそうなストールを背丈近くまで編まれ、もう少しで完成です。別の方は、以前手芸クラブで使ったテクニックでストールを編みました。編み物は初めてということでしたが、早くストール編みに慣れました。毛糸の色の組み合わせで模様がはっきり見えてきて、可愛いストールのスタートでした。きっと柔らかくて暖かいストールになるでしょう。

クロステージ今回は作品はいろいろでしたが、皆さん、楽しくおしゃべりしながら刺繡をしたり、編み物を編んだりして時はあっという間に過ぎてしまいました。目と手を休めてコーヒータイムに入ります。

みんなでテーブルのセッティングをして、フィンランド風ドーナツをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。今回のお話は、フィンランドの新聞記事にも載ったエリナという女性の刺繡と、イエス様が十字架の上で言われた「成し遂げられた」という言葉についてのお話でした。

次回の手芸クラブは12月3日の予定です。(注 11月の手芸クラブは12月に変更されました)。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!

手芸クラブのお話2025年10月

今年の夏私はトゥルク地方の新聞を読んで刺繡に関係する面白い記事を見つけました。今日はその記事を紹介したいと思います。記事に登場するのは、トゥルクの近くに住んでいるエリナという女性です。エリナさんは十年前に刺繡に興味を持ち、それから熱中するようになって様々な作品を作るようになりました。そして、今年の夏の終わり頃に刺繡展を開きました。刺繡展のタイトルは「カササギのつま先やその他のステッチ」でした。カササギというのはカラス科に属する鳥で、羽は黒く胸と腹は白い色でフィンランド語でハラッカと言います。フィンランドでは「カササギのつま先」という表現はいろんなスタイルの手書きを表す時に使われます。刺繡展のタイトルはエリナさんの刺繡の手さばきを披露するという意味でした。

エリナさんはカラフルな刺繡の作品が好きで色の組み合わせに興味を持って刺繡をします。様々な素材の布に刺繡をして、この十年間でバック、写真、ぬいぐるみなどに刺繡をしてきました。コロナの時には熊のぬいぐるみに当時の出来事や思いを刺繡して「コロナの熊」という作品を作りました。また別の時には様々な言葉を日記の代わりに刺繡して残しました。60歳になった時に「人生をもって進んで行こう」という言葉をクロスステッチの壁飾りに刺繡しました。その意味は、これから体はだんだん衰えていくけれど、そのような体で進んで行こうという意味です。刺繡は完成まで時々時間がかかるので、まだ仕上がってない作品が沢山あります。しかし、それはまた続きをして、いつか完成させたいとエリナさんは考えています。

私はこの記事を読んで少しホッとした気もちになりました。エリナさんも作品を完成させるまで時間がかかり、途中まで作ったままのものが沢山あるそうです。私にも途中まで作った刺繡や編み物などが家に沢山あります。皆さんはいかがでしょうか。いつも全部を最後まで完成させていますか。刺繡や他の手芸を趣味にしている人にとって未完成のまま残っている作品は結構あるのではないでしょうか。これは私たちの日常生活にもよくあることではないでしょうか。仕事を一生懸命をしてもいつも完璧に終わることが出来るとは限りません。全ての仕事は最後まで完璧に仕上げられる人はいるでしょうか。

聖書はそのような方について教えています。その方は神さまの独り子であるイエス様です。イエス様はこの世におられた時、多くの人々に天と地を作られた神さまのことを正しく教えて神さまから与えられた役目を最後まで果たされました。その役目とは、イエス様が十字架にかけられて

そこで命を捧げられたことです。十字架の上でイエス様は最後に「成し遂げられた」と言って息をひきとりました。イエス様は天と地と人間を造られた神さまから与えられた働きを完成されたので、「成し遂げられた」と言われたのです。それは私たち一人一人そして全世界の人々のための働きでした。イエス様の十字架の業によって私たちは神さまの御前に立つのに相応しい者とされるのです。神様の御前で相応しくなれるために私たちはいろいろする必要はありません。ただ、このイエス様の十字架の出来事は自分の為に起こったということを信じてイエス様を救い主として受け取ることで十分です。イエス様が十字架の上で言われた言葉「成し遂げられた」とは私たちにも向けられています。

クロスステッチの刺繡はいつも私にイエス様の十字架を思い出させてくれます。十字架は教会を意味し、人々をイエス様のもとに導く印です。何年か前の夏私たち家族はある町の教会を訪問しました。その頃はまだナビゲーターがなく、町中教会を探しましたが、なかなか見つかりません。別の方向に向かおうとした時娘のヨハンナが突然「十字架が見える!」と大きな声で言いました。その方向に車で走って無事に教会に着き礼拝に間に合いました。その教会の礼拝で聖書を通して天の神さまやイエス様について教えを聞くことが出来ました。スオミ教会にも礼拝堂とこの集会室に十字架が掛けられています。スオミ教会の十字架も訪れる人々を聖書のみ言葉を通してイエス様のもとへ導いているのです。

みなさん、クロスステッチの刺繡をするときも、イエス様の十字架やイエス様が十字架の上で言われた言葉「成し遂げられた」を覚えていきましょう。