牧師の週報コラム

何が面白い説教か?

超教派の福音伝道者として活躍中のS氏とお互いの伝道の課題について話し合う機会を持った。 彼はもともとは大学生伝道の第一人者で、現在はいろいろな教会を訪問して説教や聖書の学びの奉仕をされている。その伝道手腕は各地で高く評価され、ある神学校で教鞭も取られている。

 S氏曰く、奉仕先の教会の中には沈滞気味のところもあり、そこでは説教を始めるや否や、あちこちで眠りこけてしまう人たちが出て、彼らの手や膝の上から聖書が次々と床に落ち、分厚い本だから床にあたる音の凄まじさといったらなく、まるで悪魔から、神の言葉なんかやめろと抗議されている感じになりますと。そこで、そういう教会ではどんな説教が受けるだろうかという話になった。

 まず、牧師の武勇伝。自分がどれだけ社会や隣人に尽くしたかを話すとみんな目を輝かせて聞くだろう。自分に材料がない場合は、他人の武勇伝を紹介する(某教会の牧師はノーベル平和賞の受賞者の業績や生立ちをずっと話して聞かせたそうだ。きっと聖書の個所はマタイ59節だっただろう)。

 次に、自分の知識博識を披露する。アリストテレスはこう言った、カントはこう言った、フロイトは、孔子は、親鸞は等々、古今東西の哲学者、宗教者、心理学者の思想や理論、名言・格言を散りばめる牧師もいたと聞いたことがある。「神学大全」ならぬ「博学大全」(そう言えば、中野区の哲学堂公園にはこうした古今東西の思想家の銅像が並んでいる。イエス・キリストもその一人。神の子メシアから引き降ろされてしまった。まさに現代のグノーシス主義)。

 以前、某教団の牧師・代議員会議に顔を出した時、そこでの礼拝の説教で牧師が最近読んで感銘を受けた本について紹介をした。説教の最初から終わりまで。皆さん興味津々で聞き入っていたことは言うまでもない。そして、締めくくりの言葉はこれ、「今日の聖書の個所でイエス様がおっしゃりたいことは、こういうことだったのではないでしょうか?」 日本では牧師は神に近い聖職者だから、これを言えば効果てきめん、みなその通りだと信じるだろう。

 かく言う私も、ルターを時々引用するが、それは説教で述べてきたことの総括としてだけ。ごく稀に著名な神学者(J.Jeremias とか E.P.Sandersとか)に言及したこともあるが、それはこんな大学者でもこんな変なことを言う、困ったものだ、という悪例としてだ。私としては、会衆に受ける話を創るつもりはなく、むしろ御言葉に包まれて眠って頂いた方がいいくらいだ。ただし、聖書は落とさないようにしっかり持っていましょう。

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パイヴィ宣教師のショートメッセージ

手芸クラブの話2024年1月

今日は今年初めての手芸クラブの開催が出来て嬉しく思います。今日はバンド織のキーホルダーを皆さんと一緒に作って、とても可愛い色とりどりのキーホルダーが出来ました。 わたしが今使っているキーホルダーはひろ子さんからいただいたものですが、おかげで鍵を探す面倒がなくなりました。

今日は一月の最後の日ですが、フィンランドからもらったカレンダーの1月の写真についてお話ししたいと思います。このカレンダーには、毎月フィンランドの季節に典型的な景色の写真が載せてあります。一月の写真は寒そうですが、冬の澄んだ青空の景色です。冬フィンランドの木は霜で覆われています。写真の真ん中に岩の上に灯台が見えます。この灯台はそんなに高くはありませんが、その光は遠くまで輝いたと思います。私はこの写真の灯台を見て、これは一月にピッタリの写真だと思いました。長い冬の夜に光を与えるからです。

フィンランドに灯台は60個くらいあります。日本と比べたら全然多くありません。日本はとても多くて3千個以上もあります。日本は島国だからでしょう。フィンランドも、南と西は海に囲まれていて、島も多いので、灯台は昔から安全な海上運送のために重要でした。灯台の赤いランプは船やボートに安全な航路を示しました。ところが、現在は灯台の重要性は減ってしまったかもしれません。灯台の代わりにスマートフォンやパソコンのアプリを使って船の進路を決めるようになったからです。このため、フィンランドの多くの灯台は観光客に開かれて人気がある観光地になりました。夏多くの観光客が灯台を訪れます。

ところで、私たちの人生を考えると、私たちの歩みは海を進む船と似ています。それで、私たちの歩む道にも灯台の光のようなライトが輝いていると考えます。しかしそれはどんな光でしょうか?

旧約聖書の詩篇119篇105節には次のようなみ言葉があります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」です。天の神様は私たちに聖書のみ言葉を与えて下さって、み言葉を通して私たちの歩みを守り導いてくださいます。み言葉は灯台と同じ役割があるのです。私たちは聖書を読んだり、み言葉に聞くことをして、行く方向をチェックして進みます。灯台の大事な部分は輝く光です。聖書のみ言葉も同じで、み言葉は心の中に光を灯します。それは、どんな光でしょうか?それは、天の神さまの独り子イエス様のことです。ヨハネの福音書には次のようなイエス様の言葉があります。「私は世の光である。わたしに従うものは暗闇の中歩かず、命の光を持つ」ヨハネによる福音書8章12節です。

イエス様は「私は世の光である」と言われました。この世の消えない本当の光はたった一つ、イエス様という光です。イエス様の光と同じような輝きを持つ光はこの宇宙には他にはありません。イエス様はこの世界の全ての人々のために光として来られました。その光に従って行けば、道に迷うことはありません。イエス様はいつも正しい方向に導いてくださいます。

しかし、私たちはイエス様から来る光を見て歩んでいるでしょうか?私たちは海で灯台の光を見てそれをチェックして自分の位置を知ってから前に進むでしょう。天気の良い時には灯台の光は良く見えるので船の進路を決めるのは簡単です。しかし天気の悪い時や霧の時、嵐の時は進むことが難しくなります。灯台の光も見えません。船が正しい進路から外れて岩礁にぶつかってしまう危険が高くなります。

私たちの人生の中にも同じようなことがあります。何も問題のない時は、私たちの歩みは軽く簡単です。しかし、私たちの人生の中でも天気と同じように、霧が発生したり、嵐になったりします。それは人生の試練の時です。自分や身近な人の病気、お金がなくて生活が大変になってしまったり、仕事を失ってしまったりなどなど、そのような時は嵐や霧の中を進むのと同じです。灯台の光がなくて、前に進まなければならないのと同じです。一生懸命努力しても、どこに向かっているかわかりません。

しかし、このような状況の中にいても、イエス様の光は輝いています。聖書を読み、み言葉に聞くと、イエス様の光が輝いていることがわかります。イエス様は、天気の良い時にも悪い時にも、私たちが正しい道を安心して進めるように私たちの歩みを守り導いて下さいます。しかも、イエス様の光は、現実の灯台よりもずっと遠くまで、奥深いところまで照らします。その光は私たちの心に入って、イエス様に従う信仰を起こします。イエス様の光は今年も私たちの心の中で輝いて、私たちに歩む力と勇気を与えて下さいます。

手芸クラブの報告(2024年1月31日)

今年最初の手芸クラブは1月31日水曜日に開催しました。朝はまだ寒かったですが昼間は太陽が輝いて暖かくなり春が近づいていることを感じさせました。

今回の作品はバンド織のキーホルダー。フィンランド語でNauhaと言います。はじめに参加者が作りたいと思うキーホルダーの毛糸の色を選びます。色とりどりの毛糸を前にして皆さんどれにしようか迷っていましたが、それぞれ好きな色の毛糸を見つけることができました。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るでしょうか?これから楽しみです。

それではバンド織に入ります。まずワープになる毛糸をカードの穴から通します。穴は小さいので、皆さん、集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。皆さんはこのテクニックを早く覚えたので、毛糸のきれいな色合いがすぐ見えるようになりました。可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。こうして、長いバンド織のNauhaがあっという間に出来上がり。Nauhaに星やハートなどの形の輪を入れて輪っかに結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!

いつもの今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドの菓子パン・プッラを味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、フィンランドの風景カレンダーの一月の写真にある灯台とイエス様は世の光ということについてお話がありました。それと、モニターを使ってフィンランドの冬の景色と音楽のビデオを鑑賞しました。楽しい歓談のひと時になりました。パイヴィ宣教師のショートメッセージをご覧ください

次回の手芸クラブは2月28日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは2月10日(土)13時の開催です。

laskiaispulla今年第一回目の家庭料理クラブでは「ラスキアイス・プッラ」Laskiaispullaを作ります。

フィンランドではイースターの準備に入る日のことを「ラスキアイネン」Laskiainenと言います。今年は2月13日です。ラスキアイス・プッラはそれに因んだ伝統的なコーヒーブレッドです。この時期フィンランドの多くの家庭で作られます。

丸いコーヒーブレッドの間にたっぷりのジャムや生クリームを挟むと美味しいラスキアイス・プッラの出来上がりです。是非ご一緒に作って味わいましょう!

参加費は一人1,500円です。
laskiaispulla
どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、
まで。
電話03-6233-7109
日本福音ルーテル スオミ・キリスト教会

牧師の週報コラム

SLEYの説教とTVドラマ「水戸黄門」の類似性について

SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)はフィンランドのルター派の国教会の中で活動する団体で国内伝道部門と海外伝道部門から構成される。 SLEY1873年の結成以来、国教会がルター派の信仰に留まれるよう助けることを是としてきた。その礼拝説教や聖書の教えで中心になるものの一つが、「律法と福音」を一緒に宣べ伝えるということである。具体的には、律法を通して人間の罪性を明らかにし、神に義と認められる位に律法の掟を守り通すことは不可能であることも明らかにする、そして、イエス・キリストを救い主と信じる信仰により義と認められるという福音へと導いていく。なので、聖書の個所がどこになろうとも、教える内容はいつもこの「律法と福音」に集約されるのだ。SLEYにとって典型的かつ伝統的な説教は、はじめの部分で律法を通して罪の自覚を呼び覚まし、後の部分で福音を通して心の平安と神への感謝に至らせるというものである。(聞くところによれば、、90%を律法、10%を福音という説教もあったそうだが、それは行き過ぎかもしれない。)近年はこの定式を少し変えるようになってきたが、律法と福音の一緒の宣べ伝えは変わらない。

昔、高視聴率を誇ったTVドラマに「水戸黄門」がある。大学時代、TV局で番組編集のアルバイトをしていた友人が話したことを思い出す。あの番組は、流れがしっかり定型化されていて、例えば、風車の弥七が「探りに行け」と命じられるのは大体20何分の所、激しい斬り合いの最中に水戸光圀が助さん格さんに「よし、そろそろ」と言って、あの「ひかえー!ひかえー!この紋所が目に入らぬのか!」が40何分の所という具合に、日本のどこが舞台になろうとも変わらぬ定式があるのだ。それでも日本国民の多くは飽きもせず月曜夜8時にテレビの前に釘付けになっていたのだ。

フィンランドの国教会はルター派とは言っても、SLEYの外を出れば、ルター派とは思えない教えや説教がごまんとあるのが現状だ。人々は定式化されたものをつまらなく感じ、目新しいものを求める。それは日本も同じ。しかし、SLEY派の人たちにとって、律法と福音のいずれかが欠けたらもう説教ではない。紋所を掲げる場面がない水戸黄門と同じになってしまうのだ。

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牧師の週報コラム 

イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ129節)なのに、彼を信じても自分の心には神の意思に反する悪いもの、罪があることにキリスト信仰者は気づきます。 主は罪を取り除いて下さるというのは本当ではなかったのか?そんな疑問を持つキリスト信仰者は次のルターの教えをお読み下さい。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(2005年版、初版1878年)117日の個所、エレミヤ313節「ただ己の罪を自覚せよ」の説き明かし)

『敬虔なキリスト信仰者なら今のこの世で生きることは忌まわしいと思うだろう。出来ることなら、この次に到来する世で生きたいと願うだろう。そうなのは、信仰者が、自分には罪などない、無罪(むつみ)だ、と言える段階に到達することは出来ないとわかっているからだ。もし、そのような考えを抱くなら、それは悪魔の仕業である。一体、聖徒の誰が、罪の中に留まっていることを否定したであろうか?聖徒は皆、それを認め告白しているのだ。彼らの存在そのものが罪によって傷つけられてしまっているから、彼らは心に痛みを抱えていたのだ。だから彼らは嘆き、叫び、罪から贖われることを祈りに祈るのだ。

まさにこのような罪の自覚を持ち告白する者に対してキリストの御国は、罪があってもそこには罪がないという世界になって現れてくる。つまり、キリストの御国は、信仰者が罪を自覚し告白しなければならなくても、罪の赦しのお恵みが罪を足蹴にしている世界なのである。そこで神は声高に告げる。「お前の罪は私の愛するひとり子のおかげで赦される。それが私の意思だ。」

これに反して、罪を自覚しない者、自覚してもキリストを素通りして自分の力で償おうとする者、さらには自分は無罪(むつみ)だから罪など関係ないと言う者たちがいる。彼らはキリストの御国に属していない。彼らは悪魔の手下も同然だ。罪には辛い思いや心の痛みが付きものなのだ。死を怖がらない聖徒が一人でもいたら私に示してみよ。そんな者は見つからないだろう。死を目の前にして立ちすくまない者、怯えない者などいない。キリスト信仰者とは、つまるところ、罪の中にあり、罪の下にありつつも、同時に罪を越えている者なのだ。キリスト信仰者は最終的に罪に勝利する。なぜならキリストの御国の一員だからだ。

この国は寝そべって何もしない国ではない。地獄、死、悪魔、罪そしてあらゆる災難を引き寄せてしまう国だ。しかし、それでありながら、永遠に存続する国だ。神が今まだそのような状況を許しているのは、我々の信仰が人前で明らかになるためであり、そのような状況を通して信仰にある我々を鍛えるためである。』

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牧師の週報コラム

使徒パウロは、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きるキ リスト信仰者のことをあたかもイエス・キリストを衣のように「着る」とか「身にまとう」という言い方をします(ローマ1314節、ガラテア327節)。 それは一体どんなことか、以下のルターの教えをみるとよくわかると思います。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(1878年初版)15日の個所、雅歌216節「愛するあの方は私のもの、私はあの方のもの」の説き明かし)

『花婿が花嫁を愛するようにキリストは我々信仰者を愛する。我々も彼を救い主と信じているのであれば彼を愛しているのである。それで我々はキリストの花嫁なのである(注 黙示録19章でキリストが花婿に、キリスト信仰者の集合体が花嫁に例えられている)。

それで、我々は彼のものであり、彼は我々のものなのである。それで我々は、永遠の命と義という彼が持っているものを全て持っているのである。つまり、我々は義なる者であり至福に与る者なのだ。それで、罪と死と地獄と悪魔は我々に危害を加えることが出来なくなっているのだ。

花嫁として我々が「あなたのものです」と言えば、彼も花婿として我々の内にある悪いもの弱さを全て引き受けて負わなければならない。そのようにして我々の罪は永遠の義に、我々の死は永遠の命に、我々の地獄は天の御国の中に滅んでいくのだ。罪と義は両立しない。天の御国と地獄も同様だ。もし二つが並ぼうとしたら最後、一方は他方に呑み込まれて消滅してしまうのだ。なぜなら、キリストの義は我々の罪より果てしなく大きく、彼の命は我々の死よりも言葉にならない位に強力だからだ。彼自身、全ての命の源がある命そのものなのだから。我々の死は彼の命に、我々の罪は彼の義に、我々の滅びは彼の至福に消え去るのだ。

それゆえ、我々の罪の汚れが取り除かれた時、彼は我々をとことん素晴らしくするため永遠の義と全ての恵みで着飾って下さる。なぜなら、我々は彼の花嫁なのだから。』

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牧師の週報コラム

自然災害は神の仕業か?

東日本大震災の時、ある著名人の方が、このような大惨事を引き起こす神は悪い者だ、自分は神など信じないという趣旨のことを述べられたそうです。 また、これは神罰だ、などと言った政治家もいたそうです。自然災害は神が引き起こすものでしょうか?自然災害が起こらないようにすることが出来ない神は無力なのでしょうか?キリスト信仰者にとってとても難しい問いです。

そこで、自然災害はどのようにして起こるかを聖書に即して考えてみました。神は万物の創造主であるというのが聖書の立場です。星々や太陽や月など天体にあるもの全ては神に造られ、それらは全て神の定めた法則に従って寿命を持って動いている(詩篇84節)。それはこの地球も同じです。重力も気圧も神の創造の中に入っています。プレートや断層が動いてひずみが生じ、時間が経つと支えきれなくなってしまうのも大いなる法則の中でのことです。そういうプレートや断層がしのぎ合うところに日本列島が出来ているというのも神の創造の一部です(詩篇9545節)。神がその都度、ちょっとあの国民を困らせてやろう、懲らしめてやろうと考えて地震を起こすという見方は少し幼稚な感じがします。

なので、この列島がそのような地であることを承知の上で暮らすと決めたら、その日が来た時の被害が最小限に抑えられ、その後に続く再建や復興に繋げていけるような態勢を社会レベルでも個人レベルでも整えなければならない。これが、この国に住む者の宿命であり使命でしょう。

キリスト信仰者がそのような態勢を整える際の大事な視点の一つは、心が永遠なるものに繋がっていることです。イエス・キリストが十字架と復活の業をもって永遠の命に至る道を人間に切り開いた、それで、大惨事の時でも平時と同じようにその道を進んでいるという確信です。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」コヘレトの言葉311

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牧師の週報コラム

ルターの御言葉の説き明かし「救いの希望は私たちの兜」(第一テサロニケ5章8節)フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(1878年初版)12月31日の個所

「この救いの兜が意味するものは何か?それは、天の御国にある次の命を待ち望む希望のことである。それゆえ、我々はイエス様を救い主と信じ、困難苦難を一挙に引き受けるのである。もしこの希望がなければ、我々は襲いかかる攻撃を防ぐことはできないだろう。我々は、悪魔やこの世が絶えず我々を悲惨な目に遭わせるのを毎日見て知っているではないか。もし、有限でこの世的な利益のためにこれら全てを耐え忍ばなければならないのなら、死んだ方がましだということになろう。使徒パウロも言っているではないか、「もし、私たちがこの世の人生に関わるものだけのためにキリストに希望を置くならば、我々は全ての人間の中で一番惨めな者である」と。

私自身はどうかと言うと、国を3つほどあげようと言われても、この世では1時間たりとも説教壇に立ちたくないというくらいに攻撃には晒されたくないという気持ちになる。しかしながら、だからこそ、我々には本当に心を強めてくれる別のものが必要なのだ。悪魔やこの世が一体となって私たちの魂と体を激しく攻撃し、あたかも我々が成すこと耐え忍ぶこと一切が無駄で無益であるかのように我々を追い込んでいくのだから、なおさらだ。

我々の心を強めてくれるものは、次のように信じる信仰がそれだ。『我々は、イエス・キリストを信じる。彼は、この世と罪と悪魔とその他全てのものの上に立つ主であると。彼を通して我々には今の世の次に到来する世にて命が確実にあると。それで、我々を今の世の悲惨さや苦しみから救い出し、今我々を責め苦しめるものを全て足で蹴散らされる方であると。』

私たちにはこのような救い主が与えられていること、彼がいつも私たちと共に歩んでいて下さることを忘れずに、来年も進んでまいりましょう!

 

歳時記

望郷

ヴェルディの作曲したオペラ「ナブッコ」と言う曲をご存知でしょうか。旧約聖書のバビロン捕囚をテーマにしたオペラです、ナブッコとはバビロン王ネブカドネザルの役名です。 オペラですからバビロン捕囚をヴェルディは素晴らしい物語にしました、特に第3部(3幕目)で流れる捕囚の身のユダヤ人たちがエレサムへの望郷を込めて歌う「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」の合唱は世の人々を魅了し、イタリアでは第二国歌として本来の国歌よりも親しまれているようです。ヨーロッパの映画を観ていると時々この曲がさりげなくバックに流れているのを聞くとヨーロッパ人のこの曲に対する特別な想いを感じました。

https://youtu.be/pE3HgV408hI?list=RDpE3HgV408hI