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この秋の最初の手芸クラブは9月25日に開催しました。今まで暑い日がずっと続いていましたが、やっと少し涼しくなってホッとした朝でした。
今回の手芸は編み物です。冬に備えてフィンガーレスの手袋を編みます。参加者の皆さんは好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めにフィンガーレスの出来上がり例を見て自分の作りたいものを選びます。今回編み物は初めてだったので、編み物のいろいろな基本を練習してから始めました。フィンガーレス手袋を編む時、初めは作り目を四本の編み棒に作ります。それから四本の編み棒を付け編むと丸いものになります。始めは手首のところを表編みと裏編みを交互に編みます。十段になってから毛糸の色を変えます。編み物は完成まで時間がかかるので、今回は手首のところでストップしました。参加者の皆さんは編み物にとても集中したので、時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。次回はフィンガーレス手袋の続きを編みます。
テーブルのセッティングをして皆で席に座ると肩も目もリラックスできました。フィンランドの今の季節にピッタリなフィンランド風アップルケーキをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。そこでいつものように聖書のお話を聞きます。今回の話は、フィンランドで贈り物として頂いた素敵な靴下に教会の模様があることや、教会とはイエス様が船長でおられる船であるという内容でした。
次回の手芸クラブは10月30日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
暑い日々が終わって涼しくなりました。今フィンガーレス手袋を編むのは早いと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、涼しい秋はもうすぐです。今フィンランドではもう涼しい秋になって朝の空気は冷たく感じます。この季節に多くの人たちは自転車で学校や仕事に通いますが、少し寒いので、手袋やフィンガーレスが必要です。今フィンランドではフィンガーレスを編み始めるのは少し遅いですが、日本では今は寒い季節に備えて良いタイミングだと思います。もちろん編む速さによりますが、編み物は完成までしばらくかかります。今日始めたフィンガーレス手袋は寒くなるまで完成すると思います。そのように頑張りましょう。
フィンランドでは編み物は夏の手芸でもあります。女性たちは寒い冬の準備のために暖かい靴下や手袋を編みます。今年の夏私たちは一時帰国して私たちの日本での働きを支える教会を訪問しました。一つ訪問した教会はフィンランドの真ん中辺にあるレイスヤルヴィという町でした。そこでの集会の終わりに私たちはこのような暖かい素敵な靴下をもらいました。模様もとても多いです。靴下のデザイナーはその集会にも参加されたレイスヤルヴィ教会の会員でした。そこで女性は模様の意味を説明してくれました。靴下の真ん中の二つの模様は特別です。一つはレイスヤルヴィの教会、もう一つはレイスヤルヴィの町の紋章を表しています。デザイナーはどうしてこの模様を選んだのでしょうか。これらはレイスヤルヴィの道しるべだからです。このデザイナーにとってレイスヤルヴィと教会は大切だからこの模様にしたのです。靴下にあるハートの模様はそれを象徴します。もし皆さんがデザイナーでしたらどんな模様にするでしょうか。
私は初めて教会の模様がある靴下をもらってとても嬉しかったです。フィンランドでは教会は地域のシンボルです。フィンランドの国民の60パーセント以上はフィンランドの国教会のメンバーで、教会に深い帰属意識を持っています。教会は人々の人生の中で重要な役割を果たします。フィンランドでは赤ちゃんが生まれたら多くの赤ちゃんは幼児洗礼を教会で受けます。洗礼を通して赤ちゃんは教会のメンバーになります。子どもは15歳になると、教会で堅信礼の儀式を受けます。多くの親戚も参加します。これは若者にとって大事な節目です。教会では後、結婚式や葬式も行いますので、人生において教会は多くのことに関わっています。教会は儀式を行う場だけではありません。教会は毎週礼拝を行いそこで聖書を通して神さまのみ言葉を述べ伝えます。神さまはみ言葉を通してご自分自身のことを私たちに教えて神さまの元に導いて下さいます。み言葉を通して私たちは神さまの意思が分かるようになります。
フィンランドの南西部にある教会は会堂に大きな帆船の模型が吊るして飾ってあります。船はどんな意味でしょうか。教会とは海で揺れる船のことを意味します。教会という船には乗客も乗って船長はイエス様です。聖書の中にはイエス様と弟子たちがガリラヤ湖を船で渡った時の有名な話があります。イエス様が弟子たちと船に乗ってしばらくしてから嵐が起きて船は沈みそうになりました。弟子たちは怖くなりましたが、イエス様は船の中で寝ていました。弟子たちはイエス様に「先生、私たちがおばれてもかまわないのですか。」と言って起こしました。Nheyob, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons イエス様はどうしたでしょうか。イエス様は起きて、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、湖は静かになりました。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
船は天候の良い日に海で真っ直ぐ進んで行きますが、嵐の日も来ます。その時進みは難しく行くべき方向も分からなくなります。私たち人間も海の上に浮かぶ船に乗っているようなものです。私たちの人生の中にはいろんな時、生活は問題なく穏やかな時ですが、嵐みたいな試練がある時もあります。私たちは弟子たちと同じようにパニック状態になるかもしれません。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」イエス様は弟子たちと同じ船におられ風を静めたので、弟子たちは安心しました。イエス様は私たちと一緒にいて下さると、私たちも安心できます。このようにイエス様が共にいて下さると、試練が来ても、それは軽くなるのです。
イエス様は共にいることを私たちにも約束しています。私たちはイエス様を受け入れてイエス様は天の神さまの独り子であると信じることが出来ると、イエス様はどんな時があっても私たちと共にいて下さいます。新約聖書ヨハネ黙示録には次の言葉があります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、私は中に入ってそのものと共に食事をし、彼も、また私と共に食事をするであろう。」ヨハネの黙示録3章20節。
レイスヤルヴィで頂いた素敵な靴下は足を温めてくれますが、イエス様を信じることを通してイエス様と繋がりがあるから靴下は心も温めてくれます。
フィンランドの「道の教会」
日本の地方の一般道を車で走ると「道の駅」に出くわします。農産物をはじめ地域の食材や特産品の売店があったり、喫茶店や食堂もあったり、場所によっては温泉にも入れます。 高速道路のサービスエリアと違って、まさに地道に地方を旅している雰囲気を味わえ、立ち寄ってみたくなる施設です。
夏のフィンランドの地方を車で走ると「道の教会」に出くわします。フィンランド語でTiekirkkoと言い、スウェーデン語系住民が多い地方ではVägkyrka、夏の期間、道路庁の公認の道路標識としてあちこちに立てられます。「道の教会」とは、旅行や仕事で移動中の人が、標識のある教会に立ち寄って自由に見学してもよし、座って心を落ち着かせる時を持つのもよし、というフィンランド国教会の夏のオープンドア・イベントです。時間帯によってはオルガン等の演奏を聴かせる教会もあります。すべて無料です。
夏の前にホームページにその年の「道の教会」が告知されます。今年は260程の教会が指定されました。フィンランドは町の郊外に出ると、小さいながら牧歌的で可愛らしい教会が無数にあります。南西部には中世の時代に建てられた石造りの教会が多く、それ以外の地域では1700~1800年代に建てられた木造りの教会が沢山あります。
それらの教会を訪れると、大抵は人はまばらか、誰もいない時もあります。売店もカフェも何にもありません。サウナもです。とにかく静かのひと言につきます。石造りの教会はやや暗くひんやりし、木造りの教会は明るく暖かい感じがします。中に入ると自然に聖卓へと足が進みます。周りの壁の装飾や絵画、石造りの教会なら壁画そして天井など上下左右を見回しながらゆっくり進みます。聖卓の前で立ち止まり、正面の十字架あるいは宗教画を見上げた後、回れ右をして戻ります。途中、少し長椅子に座ってみようかという気分になります。座っていると時間が停まったような感覚になり、都会の喧騒や心の中の騒がしさが静けさに呑み込まれてしまったことに気づきます。さて出発しようかと立ち上がろうとするのですが、慌てる必要はない、もっと座っててもいいのでは、という声が心の中でするかのようです。教会は赤ちゃんの洗礼から10代の若者の堅信礼、結婚式、葬式まで人の一生と共にあります。人の一生を包み込む神の祝福に触れることができたからでしょう。
教会の日曜礼拝は人生という旅路の休憩所
この夏フィンランド滞在中、トゥルク市にあるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のルター教会の礼拝に参加した時のこと。 礼拝中に牧師が二人の信徒を前に呼び出して、会衆の前で質問。「あなたはなぜ教会の礼拝に参加するのか?」一人は大学生の女性、もう一人は小さな子供がいる30代の父親。
大学生の答えは、友達に会えること、若者が多い教会なので新しい友達が出来ることも期待している、と。因みにルター教会の礼拝出席者数は200~300人位あり、(クリスマスシーズンを除く)通常の礼拝ではフィンランドで最も礼拝出席者が多い教会の一つである。ヘルシンキ市にある聖心教会(これもSLEY)はさらに多く300~400人位。しかも、どちらも若者や子供連れ家族が年配者より多い。私が90年代にルター教会に通っていた頃は100人位で年配者の方が多かった。世代交代が見事に成功したのだ。90年代以後、フィンランド国民の教会離れが進み、国教会所属率は80%台から60%すれすれまで落ち、多くの教会の礼拝は人がまばらになってしまったのとは全く対照的な展開を遂げた。
若い父親の答えは、自分にとって人生とは天の御国を目指して歩む旅のようなもの、その旅路の中で日曜礼拝は荷物を下ろして休憩できる場である、聖書の御言葉と聖餐式を通して霊的な栄養を得て、また荷物を背負って歩み出せる、一週間後また休憩所で一息つけるんだとわかって歩めるのは素晴らしいと。
父親の答えには多くの聖書の御言葉が凝縮されている。大海原に船出して嵐に遭遇しつつも神に助けられて望みの港に到着するという詩篇107篇、実際に嵐を鎮める力を示したイエス様(マルコ4章など)、旅人の出発から目的地到着まで神が守って下さるという詩篇121篇、神に贖われた者たちが危険から守られて大路を進み、嘆きと悲しみが消え去る目的地に歓喜の声で迎え入れられるというイザヤ35章、苦難の時も良い羊飼いに守られ野原や水辺で憩う時を持ちながら目的地に進むという詩篇23篇、自分はその羊飼いであると証ししたイエス様(ヨハネ10章)、復活の日に復活に与ることを目指してひたすら走るというパウロ(フィリピ3章)、そして「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というマタイ11章28節の主の言葉などなど。
吉村牧師ご一家がフインランドから戻られ、三鷹教会の高村牧師夫妻が赤ちゃんの藍埜ちゃんを連れて礼拝に参加されて、久しぶりに賑やかな交わりのひと時を持ちました。感謝です
田口聖 牧師は今週からアメリカ合衆国のコンコーディア神学校フォートウエインの集中講義(5回/年間)の受講のために渡米されます。 吉村牧師留守中のスオミ教会をよく牧会され又我々を導いて下さいました。そのお働きに感謝するとともにささやかな送別会を設けました。
キリスト教の「信条」(「信仰告白」)を学ぼう!
5月19日付け週報の牧師コラムにて(「スオミ教会は本物の教会ではない?」)、立派な会堂を持たない教会でも、立派な教会たりえるとしてルター派のアウグスブルグ信仰告白の第7条を根拠に掲げました。 曰く、「教会とは、福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく執行される聖徒の共同体である。」
「ア」信仰告白は、見直してみると、自前の会堂を失って少し意気消沈したスオミの信徒たちを励まし新たな自信を与える内容だと思いました。特に、20条「信仰と善行について」と、21章「聖人崇拝について」は、スオミを越えて、広く日本の社会と霊性の中でキリスト教と教会が大きな変革の力を秘めていることを感じさせるものです。
そういうわけで、次週から礼拝後のコーヒータイムの時に、一回一条のペースで読み上げて(長いものは分割して)、各自の心に一条一条をともし火のように灯して、信仰生活、教会生活を自省する手がかりになればと思います。聖書を繙く時やお祈りする時にも方向性がはっきりするようになると思います。
キリスト教の「信条」(日本語では「信条」と言ったり、「信仰告白」と言ったりします)について。ルター派教会では「一致信条集」という書物に収められています。アウグスブルグ信仰告白と一緒に、「使徒信条」、「二ケア信条」、「アタナシウス信条」といった3つの古代信条も収められています。
♰ 「使徒信条」 スオミ教会の礼拝の中で毎週唱えられる、皆さんよくご存じの信仰告白です。西暦200年頃に今の形になったと言われています。もともとは、洗礼を受ける時に唱えるものとして始まりました。キリスト教信仰のエッセンスです。
♰ 「二ケア信条」 西暦381年のコンスタンティノポリス公会議にて採択。長年続いたアタナシウス派とアリウス派の教義論争に決着。キリストの神性を否定する後者を退ける。スオミ教会では聖餐式のある礼拝の時に唱えられます。
♰ 「アタナシウス信条」 西暦400年代~500年代にスペインで確立。アウグスチヌスの神学を反映。西方教会のみ。
♰ 「アウグスブルグ信仰告白」 1530年 ルターの改革の賛同者が神聖ローマ皇帝カール5世に対して自分たちの教義的立場を弁明する文書です。
どうしてキリスト信仰者はいつも喜んでいられるのか?
使徒パウロはキリスト信仰者に「いつも喜んでいなさい」と勧めます(第一テサロニケ5章16節、他にもフィリピや第二コリントなど多数)。 嫌なことがあっても、嫌なことの最中でこそ喜んでいなさいと言うのです。どうしてそんなことが出来るでしょうか?宗教改革のルターは喜んでいられるコツを次のように教えます。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 5月28日の個所から)
「この御言葉から我々は、嫌なことに遭遇した時、イエス様を救い主と信じる信仰が本当に必要だということがわかる。信仰は嫌なこと忌まわしいことを全て軽いものにする。時には麗しいものにさえする。殉教者の生き方がまさにそうである。逆に信仰がないと、全てのことは煩わしい辛いものになってしまう。たとえ、全世界の歓楽と享楽を手にしていてもだ。そのことは、憐れな人生を送った金持ちたちの生き方が示している。
次のようなことを言う者がいる。「それじゃ、嫌なことに遭遇した時、それは自分の愚かさや悪魔が引き起こしたのではなく神が引き起こしたと思えば、喜んでいられるのか?」と。何という言い草!信仰の欠如以外の何ものでもない。キリストは言われたではないか?鳩が地に落ちるのは神がそう決めた時であると。また、神は私たちの頭の髪の毛の数を一本残らず数えておられると。
罪と愚かさが原因で嫌なことに遭遇することがあるが、あなたの罪と愚かさが関わっていなくても同じような嫌なことに遭遇することもあるのだ。その場合の嫌なことは神の御心に適っている。なぜなら、罪以外のものは全て神の御心に適うものだからだ。なので、もしあなたが、あなたの罪と無関係な嫌な課題を抱えてしまったのならば、それは、あなたが取り組むようにと神がお許しになったのだ。
その時あなたの成すべきことはただ一つ、取り組みにおいて正しく立ち振る舞うことだ(※)。そして、課題の取り組みにおいて感じるであろう、なんで私がこんなことを、という反発ややるせなさは実は、あなたがまさに神の御心に適う課題に取り組んでいることの証しなのである。その取り組みの中には神が一緒におられることを忘れるな。神は悪魔があなたを試すことを許可したのだ。あなたが神に対して忠実でいて課題に取り組んでいくか、それとも放棄してしまうかを見定めるために。すなわち、神はあなたに信仰の戦いを戦う機会と信仰にあって成長する機会を与えて下さるのだ。
※訳者注 「正しく立ち振る舞う」とは、十戒の掟に従って立ち振る舞うことです。
5月の手芸クラブは22日に開催しました。梅雨が近づいているのか雨の多い日々でしたが、その日は爽やかな天候の中で開催することができました。
前回に続いて今回もクロスステッチの刺繡です。参加された方々が前回途中までだった作品をお家で頑張って完成させて、それを持ってきて見せて下さいました。たちまち、「わぁー可愛い!」「こんなに沢山頑張ったんですね!」「素敵な模様だわ!」などの声があがりました。
今回もチャレンジして作ってみたい模様を決めて、それに合う糸の色と布を選び、早速刺繡に取りかかります。細かいクロスステッチでしたが、参加者の皆さんは沢山練習したので模様の形がとても上手にあっという間にはっきり現れてきました。刺繡は細かい作業なので目が疲れやすく肩も簡単に痛みます。それで時々休憩を取ることも必要です。刺繡は完成まで時間がかかりますが、お家で完成させたものを皆で一緒に見てお互いに素敵なものが出来ると本当にわかりました。夏の間お家で完成させることは一つの楽しみになるでしょう。
コーヒータイムで肩をリラックスさせます。今回はフィンランドのドーナツMunkkiをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。今回のコーヒータイムのお話は「練習の大切さ」について。刺繍を一生懸命に練習した皆さんにはちょうど良いテーマでした。お話の中ではまた、世の中には練習ができないですぐ臨まなければならない不確かなこともあるけれども、天の神さまはいつも確かなものを与えて下さるという聖書のメッセージもありました。
夏の間手芸クラブはお休みになります。また9月25日に再開する予定です。10月が近づき秋も深まり始めると暖かい服の季節になります。それで9月は毛糸の編み物を考えています。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。天の神さまが皆様の夏の生活と健康を守られますように。
手芸クラブでは先月も刺繡をしました。皆さんクロスステッチを一生懸命練習したので、今回は本当に上手に出来ました。
この間フィンランドの雑誌を読んでいた時に、ある俳優が本番前のリハーサルをとても大事にしているという記事を読みました。その人にとってリハーサルは本番のために勇気と自信を与える機会になるのでとても大事なことだと話していました。本番に強いという人もいますが、私は多分その俳優と同じタイプなので、リハーサルや練習はとても大事です。本番で失敗しないために前もっていろいろ練習するのは必要なことです。
フィンランドでは「練習がチャンピンを作る」という言い回しがあります。陸上選手は一生懸命走る練習をしてから自信と勇気をもって競技に参加します。練習をする方がしないよりも、本番の時にどうなるか予測しやすくなるでしょう。ところが、人生のことの全てはスポーツや音楽や劇のように練習することは難しいかもしれません。例えば新しい仕事や新しい人間関係は練習をして本番に入るというよりは、すぐ本番ではないでしょうか?私たちの将来のことも、前もって練習することはできません。練習なしで本番に入るようなものではないでしょうか?それで将来のことは予測が難しくて不確かな感じがすると思います。
このような時、私は聖書を開いて神さまのみ言葉を読みます。それは、不確かなところに確かなものを与えてくれるからです。例えば、旧約聖書の詩篇には次のように書いてあります。フィンランド語の聖書を日本語に訳します。「主を信頼しなさい。しっかり立ちなさい、勇気を持ちなさい。主を信頼しなさい。」詩編27編14節のみ言葉です。天の父なる神さまは私たちの造り主でもあります。それで、私たち一人一人の弱さや、私たちが不確かな世界の中を歩んでいることをよくご存じです。そのためにこのみ言葉を私たちに与えられたのです。神さまは私たちの将来のことも、ここを進んだらあなたにとって一番良いのだ、と私たちに一人一人に相応しい道を開いて下さるのです。それに気がつくと、神さまは本当に私たちのことを一人一人大切に考えて下さっているとわかります。それが神さまに対する信頼と道を進む勇気になるのです。
旧約聖書の箴言には次のみ言葉があります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにして下さる。」箴言3章5-6節です。私たちは自分の将来についていろんな計画を立てますが、実際にどうなるかはわかりません。私たちは自分の生き方を全部自分の思うようにすることはできないからです。しかし、天の神さまが私たちに歩むのにふさわしい道を開いて下さり、それを歩む力も与えて下さいます。それが、神さまが歩きなさいと言っている「あなたの道」です。神さまが道筋をまっすぐにすることが私たちの歩く力になるのです。これらのことは、私たちが自分の分別を頼ってそれに全てを委ねないで、神さまに信頼して全てを委ねると、本当のことになります。そして、神さまが開いて下さる道はこの世の人生が終わる時が終着点ではありません。この道の終着点は永遠の命だからです。
私たちは、練習があまりできない本番ばかりの不確かな世で生きなければなりません。しかし、神さまに信頼して全てを委ねることが出来れば、不確かな世の中で確かなものを得られて、心の中に平安と安心を得ることが出来るのです。
5月11日の料理クラブはとても爽やかな五月晴れの中で開催しました。今回はフィンランドで人気のあるウィルヘルミーナ・クッキーとフィンランドの伝統的なデザートのベリー・スープKiisseliを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、クッキーの生地。材料を測ってからハンドミキサーでマーガリンと砂糖も一緒に泡立てます。それから順番に他の材料を加えて軽く混ぜて生地の出来上がり。柔らかい生地を固めにするために冷蔵庫に入れておきます。次はベリー・スープ。今回はブルーベリーをベースにするので、ブルーベリーをしばらく煮込んでスープ状に。それから片栗粉でとろみをつけてスライスしたイチゴを加えてKiisseli は出来上がり。「美味しそう、早く食べてみたい」との声があちらこちらから聞こえてきました。Kiisseliはひとまず冷やします。Kiisseli を作っている間にクッキーの生地は固くなりました。そこでクッキーの形作りをします。生地を丸めて長い棒にします。各自それぞれ生地の棒を作りますので、あっという間に沢山のクッキー棒が鉄板の上に並びました。それからオーブンに入れて焼きます。クッキーはオーブンの中でとても広がったので、皆さんビックリしましたが、それは生地に粉が足りなかったからではありません。茶色になったクッキーをオーブンから出して、熱いうちに小さめのクッキーの形に切っていくと、「わあー、こんなふうに作るの!」と驚きの声も。
テーブルのセッティングをして出来上がったものを頂く時間になりました。特に、ウィルヘルミーナ・クッキーはコーヒーや紅茶と一緒に味わうのが美味しい頂き方です。皆さんと一緒にフィンランド人が大好きなデザート・クッキーとベリー・スープを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。翌日は母の日だったので「フィンランドの母の日の過ごし方」や、「私たちの造り主である天の神さまは私たちを守り導いて下さる方」という聖書のお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間お休みになります。秋の再開する日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!
今日はフィンランドのお祝いのパーティーにも出されるWilhelmiina pikkuleipä とフィンランドの伝統的なデザートKiisseliを作りました。ウィルヘルミーナ・クッキーはフィンランドで人気があるクッキーの一つです。このサクサクした感じのクッキーは材料も特別なものはなく作り方も簡単ですので、家庭でもよく作られます。
Kiisseli はフィンランドの伝統的なデザートの一つです。Kiisseliはベリーのジュースに片栗粉でとろみをつけて作ります。私が子供の頃、お祖母さんは食事の栄養のバランスの為に週に何回もKiiseliを食事のデザートに作りました。今では学校の給食のメニューにもあります。Kiisseli はそのまま食べてもよいし、オートミールやライスのお粥の上にソースみたいにしてかけて食べてもよいです。Kiiseliはベリーで作るのが多いですが、他の果物、例えばプルーン、オレンジ、レモンからでも作られます。でも、やっぱり、フィンランド人は森で採ってきたブルーベリーやリンゴンベリーやクラウドベリー、庭や畑で出来るイチゴ、ラズベリー、赤スグリと黒スグリのようなベリーが大好きなので、ベリーのKiiseliが一番おいしいと思うでしょう。
今日の料理クラブではケーキは作りませんでしたが、今はお店できれいな飾り付けのケーキが沢山並んでいます。明日は母の日だからです。5月第2の日曜日はフィンランドでも世界中の国々でも母の日のお祝いです。
フィンランドでは母の日をどのように過ごすか、それを少しお話したく思います。子どもたちが小学生くらいまでの小さな時は、母の日が近づくと、学校で母の日のカードを作ったり、簡単なブレセントを作りします。私もフィンランドにいた時は、子どもたちが学校で可愛い模様を刺繡したタオルや、絵の具で手の跡を模様につけた買い物袋などをもらいました。母の日の前には子どもたちと父親はお母さんを驚かせようと、いろいろ内緒のことがあるようです。
母の日になると、子どもたちは朝早くお母さんがまだ寝ている時に起きてコーヒーを沸かし、前もって準備したケーキやプレゼントを持って、お母さんのベッドに運び、そこでハッピーバスデーのメロディーでお祝いの歌を歌ってお母さんを起こします。子どもは大きくなって独立すると、母の日に実家に帰ってお母さんにプレゼントやお花を渡したりします。フィンランドでは母の日の花はカーネイションではなく多いのはバラです。もちろん他の種類の花も贈られます。
母の日の頃のフィンランドはまだ暖かい季節ではないので、咲いている自然の花はあまり種類はありません。しかし、必ず咲いている花があります。黄色のたんぽぽです。私は子どもの頃、たんぽぽの花で冠を作って母の頭によくのせました。母の日が終わると、だんだん色んな花が咲き始めます。五月の終わりと六月の初めのフィンランドは自然の中でいろんな種類の花が一斉に咲き始めるので、色が豊かでとてもきれいな季節です。
母の日にお母さんを喜ばせる花はカーネイションやバラなどの花屋さんの花ですが、花屋さんの花も自然の花も私たちの心を慰めて喜ばせてくれます。実は全ての花は、私たち人間と同じように造り主の神さまの手によるものです。聖書にあるように、万物は神さまが造られたものだからです。
イエス様が話された有名なみ言葉があります。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」マタイ6章28-29節です。
お母さんが子どもを大切に育て世話をするのと同じように、私たちの造り主である天の神さまも私たちの世話をします。子どもが成長して独立すると、お母さんは子どもが大丈夫だろうかと心配します。今読みました聖書の箇所は、イエス様が「思い悩むのはやめなさい」と教える一つの例として話されるところです。お母さんはいつまでも子どもと一緒にはいられませんが、天の神さまはずっと一緒にいて下さいます。天の神さまは私たちの父だからです。私たち一人一人のこと、喜びや悲しみや心配事を全てご存じで、それで私たちの世話をします。私たちをどんな時でも守り導いて下さるのです。神さまの守りと導きは私たちがどう感じようが関係なく、いつもあるものです。私たちが神さまの導きを感じる時に導かれるということではありません。私たちが困難な状況にいる時も、私たちが気がつかない仕方で確かに守り導いて下さっているのです。
先ほどお読みした聖書の箇所から明らかなように、毎年春になると花が咲くのは神さまがそのように装って下さるからです。同じように神さまは私たち一人一人のことも覚えて見守って下さり、私たちも花のように咲いて良い実を結ぶことができるように必要なものを毎日与えて下さいます。神様は、困難のない生活を与えるとは約束していません。しかし神さまは私たちにどんなことが起こっても全てをご存じで私たちと共に歩んで下さいます。この世界はいつも変化ばかりですが、神さまの私たち一人一人に対する愛や良い計画は変わりません。神さまは私たちを担い背負い、そして救って下さいます。独り子イエス様をこの世に送って下さったことに、神さまの私たちに対する変わらない愛が示されています。イエス様は私たちの救い主であると信じることが出来れば、神さまは私たちを神の国までも背負って導いて下さいます。
母の日は、お母さんが私たちに尽くしてくれたことや注いでくれた愛を特別な感謝の気持ちで覚える日です。同じように神さまが私たちに示された愛を覚えて、しかも、毎日覚えて感謝の気持ちに満たされて歩んでいきましょう。
スオミ教会は本物の教会ではない?
スオミ教会が現在の所に移転した後のこと。ある雑誌社の取材を受けた。 東京中の北欧関係スポットの特集を組むということで、スオミ教会の料理クラブや手芸クラブの紹介も掲載。取材者が電話で席を外した時、話し声が聞こえてきた。「はい、今、教会です。それにしても、ここ、教会なんですって。」あれっ、ここは教会じゃないということなのかな。一般の日本人にとってキリスト教会というのは、やっぱり立派な建物で天上高く、パイプオルガンが鳴り響くところなんだろうなあ。
スオミ教会も以前は自前の“立派な“建物があったのだが、構造上の問題はもうどんな改修も解決不可能と判明。ミッション団体SLEYも日本の教団とのお金絡みの交渉では赤子も同然、気がついたら無財産の無一文に。もう自前の建物は無理、マンションの賃貸物件が礼拝を続けられる現実的な選択肢に。それでも、来る人が心に安らぎを得られるような礼拝空間にしようと内装面もいろいろ工夫努力を重ねてきたつもりだった。しかし、やはり「自前の立派な天上高くパイプオルガン….」には敵わないのだろう。移転前後に教会から離れてしまう人が続出。
ところが、フィンランドのキリスト信仰者たちはスオミ教会を「教会」と見なして支援を続けてくれているのだ。トゥルクの大聖堂が教会であるのと同じように、スオミ教会も全く同じ教会という認識なのだ。SLEYが宣教師を派遣している国にウガンダとか南スーダンもあるが、そこでは屋根のない掘っ立て小屋以下の教会もある。それも教会という認識なのだ。なぜか?フィンランドのキリスト信仰者は日本人に比べて感覚がずれているのか?
賃貸教会も屋根なし掘っ立て教会も間違いなく教会だという根拠は、ルター派の信仰告白の一つである「アウグスブルグ信仰告白」の第7条にある。「教会とは、福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく執行される聖徒の共同体である。」建物や外見、内装のことは何も言っていない。スオミでもアフリカの難民キャンプでも、福音の純粋な宣べ伝えに心が砕かれる。律法主義に陥らず反律法主義にも堕さず、神のみ言葉に人間の思想、哲学、イデオロギー、感情、心理学を混ぜ込まない。「聖書はそう言っているが、今はそのように考えなくてもいい」などと言わない。そのように使徒的伝統を受け継ぐ教会から正式な手続きを経て按手を受けた牧師が聖礼典を執行する。これらを備えていれば教会は本物という認識と感覚なのだ。