スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

スオミ教会・家庭料理クラブは10月9日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。 今回はこの季節にフィンランドの家庭でもよく作られるリンゴのケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキのトッピング用の生地を作って冷やします。次に他の部分の準備。材料を計ったり、リンゴをスライスして、卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てます。白く泡立ったら他の材料を中に加えて生地を作り、それをパイ皿に流し込みます。その上にスライスしたリンゴをたっぷりのせて、さらにリンゴの上にシナモンシュガーをたっぷりかけ、トッピング用の生地ものせてオーブンに入れる準備完了。これを焼き始めます。

今回の料理クラブはお子さんと一緒に参加された方もいて、親子で可愛いエプロンをかけて一緒に材料を計ったり生地を混ぜたりして、親子が共通して何かに取り組めるひと時になりました。

ケーキがオーブンで焼けている間、子どもたちの遊ぶ声や参加者の楽しそうな会話が教会中に広がっていきました。もちろん、シナモンの香りも。

ケーキは焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのリンゴのケーキの上にバニラアイスをのせてコーヒー紅茶と一緒に味わう歓談の時を持ちました。同じ時に、フィンランドのリンゴと聖書に出てくるぶどうの木のお話を聴きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月12日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

リンゴの話2022年10月8日

日本ではこの季節になると、お店にりんご、なし、ぶどう、かきなどいろいろな美味しそうな果物がたくさん並びます。日本で育つ果物の種類は多いですが、北欧のフィンランドでは育つ果物の種類はあまり多くなく、ベリー類を除けば、りんご、西洋なし、プラムくらいです。フィンランドの夏は短く、冬は長くて寒いので他の果物はあまり育つことが出来ません。一番多く育てられる果物はりんごです。りんごはフィンランドの南の地方でよく育てられますが、寒い北のラップランドでは育てることは出来ません。

夏私たちはフィンランドに一時帰国しましたが、今年の秋のリンゴの収穫は去年程よくありませんでした。去年は庭のリンゴの木は枝が折れそうになるくらいにリンゴで一杯でしたが、今年のリンゴは少なかったです。しかし今年も実家のリンゴを取ってそのまま食べたり、リンゴのケーキを作ったりして楽しみました。

フィンランドのりんごは日本のように大きくなく豪華な感じがしませんが、フィンランド人は自分の家の庭にりんごの木を植えて育てるところが日本と違います。りんごの木は庭の女王みたいに見られ、大事に育てられます。五月の終わりになると、木には白い花が一杯さいて、花の香りが遠くまで広がります。フィンランド人はこの季節が好きで、りんごの花が咲くのを毎年楽しみにしています。

9月になるとフィンランドの家の庭のりんごの木は赤めと緑色の実が実ります。出来具合は、はじめにも言ったように、年によって変わります。春が寒かったらリンゴの実は木に何個しかできません。そして受粉者、ハチも必要です。美味しくて虫がつかないりんごが出来るためには、ピヒラヤという木の実が関係しています。ピヒラヤの木に赤いベリーが沢山出来きる年は、美味しいりんごも沢山出来ます。しかし、ピヒラヤにベリーが出来なかったら、良いりんごも出来ません。どうしてかと言うと、ピヒラヤのベリーを食べる虫が関係するからです。もしピヒラヤのベリーがあまり出来ないと、虫はピヒラヤのベリーの変わりにりんごの中に入ってりんごを食べてしまうからです。今年はピヒヤラの実はとても少なかったので、リンゴもあまり出来ませんでした。

フィンランドではリンゴの木は3種類あって、夏リンゴ、秋リンゴ、冬リンゴがあります。夏リンゴの実は一番早く出来て、味は甘く、そのまま食べて美味しいリンゴです。秋リンゴの実は固めでジャムやジュースを作るのに用いられます。冬リンゴの実は酸っぱくて、木から採った後、何週間か地下においてから食べます。冬リンゴの実はよくクリスマスの時に食べられます。フィンランド人は自分の好みの味のリンゴを選びます。皆さんはどんな味のリンゴが好きですか。

リンゴの木や他の果物の木は美味しい実が出来るために適温、栄養、水分、日光など、適切な気象条件が必要です。木の手入れも大事です。美味しいリンゴや果物が出来るために人間はいろいろ手間をかけますが、天の神様は人間が実を結ぶことができるようにもっと手間をかけます。

聖書の中にはぶどうの木について有名な話があります。そこでイエス様は、神様やご自分について次のように教えられます。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」ヨハネによる福音書15章1節です。ここでイエス様は、私たち人間はぶどうの木に繋がっている枝であると教えられます。天と地と人間を作られた天の神様は農夫の役割をして、ぶどうの木を世話するように私たちの世話をしたり、私たちを育てられます。私たちに必要な食べ物、衣服、住まいなどを与えられます。それらは天の神様の贈り物です。しかし私たちにとってそれらは当たり前のようになっています。今世界中に起きていることを見ると、それらは当たり前ではないと思うようになるかもしれません。私たちが今持っている生活の必要な物は天の神様が与えて下さるものなのです。

同じヨハネの箇所でイエス様は次のように教えられます。「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。」ヨハネによる福音書15章4節です。リンゴや他の果物の木を育てると、栄養や水分は根や枝を通して実に入ります。そして枝は木の幹に繋がっていなければなりません。これは私たち人間とイエス様の関係のことを言っています。イエス様は、枝が木に繋がっているように私たちもイエス様に繋がるようにと教えます。繋がっていれば、どんなことがあっても大丈夫になります。

イエス様と繋がることはどのようにして出来るでしょうか?それは、天の神様の独り子イエス様のことを知って信じることで出来るのです。知って信じるとは、どういうことでしょうか? 天の神様は、ご自分の独り子、イエス様をこの世に送られました。どうして送られたのでしょうか?それは、私たち人間が神様の言われたことをしっかり守ることが出来ないからです。そのためにイエス様をこの世に送られ、イエス様は十字架の上で、私たちの罪の罰をかわりに受けてくださいました。このように神様は、私たち一人一人を愛して罪の罰を受けないで済むようにして下さったのです。さらに、神様は一度死んだイエス様を復活させられて、死を超えた永遠の命があることを世に示されました。イエス様を救い主と信じる者はイエス様という木に繋がる枝として人生を歩むようになります。イエス様と繋がっていると、信仰の実が生まれます。イエス様を信じる信仰の実が生まれると、本当の喜びや平安が心の中で生まれます。

私たちが食べるリンゴや果物はビタミンなど健康にも良いものが含まれていますが、イエス様に繋がってできる信仰の実は魂の栄養になります。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。」ヨハネによる福音書15章5節です。

 

 

 

 

 

 

2022年10月9日(日)聖霊降臨後第18主日 主日礼拝(講壇交換日)

ルカ17章11-19節

2022年10月9日

(いずみ教会共同体講壇交換説教)

浅野 直樹

「誰よりも信頼できるお方」

暦は10月の第二週、いつのまにか一年の終盤にさしかかっています。教会の暦も聖霊降臨後の主日が18週となりました。終わりへと向かう暦にあわせて、きょうの福音書もそれをほのめかす一節で始まっています。

11節「イエスはエルサレムへ上る途中」とあります。イエスがエルサレムへ向かう、これは聖書では何度か出てきますが、とても象徴的なひとことと言えます。イエスにとってのエルサレムというのは、十字架を指していますので、イエスはいよいよ十字架へと向かうというということを、この言葉から聞き取るべきなのです。

エルサレムへと向かうとき、イエスはサマリアとガリラヤのあいだを通っていきました。そこで十人の重い皮膚病を患っている人とイエスは出会います。「重い皮膚病」と訳されています。口語訳聖書のときはらい病と書いてあったり、ハンセン氏病と書き換えられたりしましたが、聖書学者によるとここに出てくるツァーラートという単語は、必ずしも特定の病気に限定することはできないということで、「重い皮膚病」という訳になっています。最も新しい訳の教会共同訳では、ちょっと奇妙な訳になっていて「規定の病」と訳されていました。訳する人たちがこの一言にとても悩まされ、苦肉の策で訳したんだろうなと思えます。

12節「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま」とあります。遠方から立ったままイエスを出迎えたのです。近づいてはいけない、近づいたら感染してしまうと思われていたので、彼らは遠くにいたのです。イエスの時代がそうだっただけでなく、近代の日本でも、らい病についてはそういうふうに言われ続けてきました。そこから差別や偏見が生まれました。けれども今はほとんど感染しないことがわかっています。

「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。彼等は遠くのほうから声を張り上げて懇願しました。イエスはその人たちを見るとひとことこう言います、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。「治れ」と言葉をかけるとかはいっさいなく、ここにあるのは、ただ「祭司に体を見せなさい」でした。そして彼等十人は、イエスのいうとおりにしようと祭司のところに出かけていく途中で癒されたのです。聖書には「清くなった」というルカの言葉を記しています。ただれた皮膚がきれいになったということでしょう。イエスによって癒しの奇跡が起こったのです。

ここでわたしたちの疑問は、なぜイエスは「祭司にみせなさい」と言ったのかです。当時のユダヤ社会では、ユダヤ教の議員、祭司、律法学者といった人たちというのは、一般庶民からしてみれば絶大な権力者でした。神様のことをいちばんよく知っていて、いちばんちゃんととそれを守って、そしていちばん神様に対していちばんきちんとしていた人たちだったのです。いわば神様の代理人。なんでもできる人、なんでもわかっている人なのです。医者であり、弁護士であり、大学の教授なのです。

祭司もそうした権力者の一人でした。祭司に見せて祭司が皮膚の状態を確認し、「治った」と宣言すれば、それが診断書となり、完治した証拠になったのです。ですからイエスはこのように言ったのです。

まだ皮膚がただれて治っていない状態のとき、彼等はイエスに、「わたしたちを憐れんでください」と願い出ました。病人の「憐れんでください」は、「私の病を癒やしてください」と同じです。まだ癒やされていない、そういうタイミングでイエスは、「祭司に体を見せなさい」と言うのです。まだ良くなっていないと思っている段階から、イエスさまはもうすでに「あなたがたは癒やされた」と言っているのです。このことはとても大切です。なぜならここに信仰の実態がよく表れているからです。信仰を持つ、洗礼を受ける、そして教会生活を始める。これは人生における大変化です。ただそれによって私たちの日頃の生活が大きく変わったでしょうか。悔い改めて心を入れ替えたことで、すぐ腹を立てていた自分が次の日から急に優しい性格になるかというと、そうでもないでしょう。自分が自分を知る限りにおいては、私たちはなんら変わらないのです。洗礼を受けて「あなたは救われました」と牧師から宣言される。救われたという実感は、洗礼を受けたそのときは喜びを感じることでしょう。けれどもそうした喜びがいつまでも続くわけではなく、再び普段の日常を送ることになります。日常においては救われているという実感も特にないでしょう。けれども主イエスは私たちに向かって「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」とすでに宣言しておられるのです。まだ皮膚がただれているにもかかわらず、「祭司に体を見せなさい」と宣言したように、「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」というイエスの言葉はもうすでに実現しているのです。

一人だけがイエスのところに戻ってきて、「先生、治りました」と感謝の言葉を伝えに来ました。ほかの九人もおそらく治ったのでしょう。けれども喜びと感謝の応答をしたのは一人のサマリア人でした。皮膚病が治ったとしても、ユダヤ人にしてみれば近づきたくないサマリア人だけでした。ここからもう一つの出来事が始まります。

彼らは皆癒されました。全員が祭司のところに行って皮膚が清くなったことを見せた、はずです。そして治ったことの証明をもらったのです。イエスは、治ったら私のところに戻ってきて神様を賛美するように、などと言ってはいません。戻って報告に来なかったからといって、別に責められるわけでもありません。ただ18節をみると、「この外国人のほかにはいないのか」と言っているので、ユダヤ人がだれも戻って来なかったことをイエスが残念がっている様子が伝わってまいります。

注目はサマリア人に集まります。皮膚病が癒されても、ユダヤ人からすれば穢れていると偏見の目で見られていたサマリア人です。イエスの足許に彼はひれ伏して感謝をしました。ひとえに嬉しかったからです。そのとき彼は自分がユダヤ人から差別を受けているとか、嫌われた民だということもすべて忘れていたのではないでしょうか。ただひとえに癒された喜びを素直に表して、それがイエス様のところに戻ってきて「ありがとうございます」という言葉となったのです。その喜びの大きさはどれほど大きかったことでしょう。

イエスはサマリア人にこう言いました、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」このように聞くと、サマリア人にはイエスをきちんと信じる信仰があったのだ、そんなふうに思えてきます。わたしたちが信仰というとき、それは聖書を読んで学んだことがあるとか、主の祈りを言えるとか、使徒信条をちゃんと唱えることができるとか、そんなことを考えるかもしれません。信仰という日本語が、そういうふうに思わせるのです。新しい聖書協会共同訳でも同じです。「あなたの信仰が」となっています。

ところがもうひとつの聖書があって、これはもう少し聖書学的見地を重視した聖書で、岩波書店が訳した新約聖書というのがあります。それをみるとちょっと違っていてこう書いてあります。「あなたの信頼が、あなたを救った」。信頼という言い方だと宗教的なニュアンスがそれほどなく、少し違った見方ができます。サマリア人にとっても聖書は大切な書物であった点は同じですが、聖書をどこまで読み込んで理解しているかとか、どういう解釈をしているかということよりも大切で見落としてはいけないこと、それはこのサマリア人がイエスのことをとことん信頼していたということなのです。「イエス様、どうか私を憐れんでください」と真剣に願い、大声で神様を賛美して、イエスの足許にひれ伏す姿から、サマリア人がイエスを心底信頼していたのだとわかります。

誰よりもサマリア人を受け入れるイエス、そして誰よりもイエスを信頼し感謝をささげるサマリア人。この両者の在り方のうちにこそ、信仰とは何かが表れています。形式ではなく、血筋でもなく遺伝でもなく、はたまた社会の常識やしきたり、特定のものの見方ではありません。無条件に受け入れていくイエスの愛に信頼すること、それが信仰です。そのイエスを素直に信頼する心が、私たちを主イエスと結びつけてくれるのです。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

9月25日礼拝後に聖書研究会が開かれました。ローマ10章1~11節を、「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」というテーマで吉村宣教師が解説しました。質疑応答の時の話し合いを考慮に入れて、宣教師がまとめたものを以下に紹介します。

テーマ「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」

聖書箇所 ローマ10章1~11節

1.はじめに

ローマ10章9~10節でパウロは「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公けに言い表して救われるのです。」と言います。これをどのように理解したらよいでしょうか?9月25日の聖書研究会の質疑応答の時、これは迫害を前にした時のキリスト信仰者の心構えと理解できるという意見がありました。私は、ここは、律法を行うことで神から義とされ救われるというユダヤ教の伝統から決別した信仰の有り様を表現していると教えました。迫害の心構えの役割を持つようになったことは否定しませんが、それは後のことで、パウロがこれを記述した時点では、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様であったということを以下に見ていきます。

2.104

新共同訳では「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」とあります。「目標」と言っているギリシャ語の言葉テロスの意味は「終わり」とか「終着点」です。それで、

「キリストは律法の終わり/終着点です。信じる者全てに義がもたらされるための」となります。「律法の終わり」とは、律法が廃棄されるとか消滅することではありません。ローマ3章から7章までを振り返ればわかるように、「律法の業を行うことで神から義とされる」という有り様が終わりということを意味します。このようにこの節は前に述べられたことが凝縮されています。これを踏まえないと後に続く箇所がわからなくなります。

3.1058

新共同訳では「(5)モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。(6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。(7)また、「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。(8)では、何と言われているだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

「キリストを引き降ろすことにほかなりません」と聞くと、キリストを引き降ろしてはいけないと言っているように聞こえます。キリストは天にいなければならないのだと。これはその通りかなと思わせますが、「キリストを死者の中から引き上げることになります。」はどうでしょうか?キリストを死者の中から引き上げてはいけないと言っているように聞こえ、キリストは死者の中にいなければならないような感じがします。これは完全におかしいです。この5~8節が正しく理解できないと、問題の9~10節も理解できません。

5~8節の理解には、パウロがここで土台にしている申命記30章11~14節を見ないといけません。

申命記30章11~14節(新共同訳)

(11)わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。

(12)それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない.

(13)海のかなたにあるものでもないから、「誰かが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

(14)御言葉(※)はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

※ ヘブライ語のダーバール。意味は「言葉」の他に「もの事」、「事柄」、「出来事」です。ここでは神の戒め、律法を指すことは11~13節を見れば明らか。

この申命記の個所で、律法は遠くにない、とても身近にある、口と心にある、だから行える、それ位身近にあるということを言っています。一つ注釈すると、ヘブライ語の原文は「行うことができる」ではなく、「行うことができるように口と心にある」が正確です。新共同訳は少し楽観的かなと思います。

この申命記の個所を土台にすると、ローマ10章5~8節で、キリストを引き降ろすとか引き上げるとか言っているのは、キリストは引き降ろすには及ばない位に身近にある、引き上げるに及ばない位に身近にあるという意味であることが分かります。それでその個所をギリシャ語原文に忠実に訳すると以下のようになります。

(5)モーセは律法に由来する義について次のように書いた。

 「律法の掟を行う人は掟によって生きることができる。」(レビ18章5節)

(6)しかし、信仰に由来する義は次のように言う。

 「心の中で『誰が天に上がっていくことができのか?』などと聞いてはいけない。そんなことを言うと、キリストをそこから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)

(7)また、『誰が深い所に下って行くことができるのか?』などと聞いてもいけない。そんなことを言うと、キリストを死者のところから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)

(8)そんなことではない!(申命記に)何と言われていたか?

 「御言葉(※)はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。」

 すなわち、これが私たちが宣べ伝えている信仰の言葉(※)なのです。

※「御言葉」も「言葉」も両方ともギリシャ語のレーマです。「言葉」なのに有名な「ロゴス」でないことに注意。レーマの意味は広く、「語られた事」から転じて「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「物事」、「事柄」の意味を含みます。パウロは申命記30章14節のダーバールにこのレーマを当てはめました。というより、旧約聖書のギリシャ語訳で既にレーマと訳されていたのです。

 「御言葉はあなたの近くにあり」の「御言葉」は何を指すか?6~7節から明らかなように「キリスト」です。パウロは6~9節で、「キリスト」と「イエス」を使い分けています。「イエス」と言うと、地上にいた時のイエス様の意味になります。「キリスト」と言うと、十字架と復活の業を遂げて今天の父なるみ神の右に座して将来再臨する方という意味が強くなります。

 この「御言葉」は、「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「事柄」なので、キリストそのものを越えてキリストが十字架と復活の業によって成し遂げた贖いを含みます。それを象徴するものとしてのキリストです。そのキリストの贖いが申命記の律法に代わって、口と心にある位に身近になったのです。大きな入れ替えかもしれませんが、言葉上はダーバールがレーマという同義語に代わっただけになっています。

そこで、8節終わりの「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」について。この「言葉」は先ほどの「御言葉」と違います。「御言葉」はキリストとその贖いを指しました。ここの「言葉」、これもレーマですが、なんの「事柄」でしょうか?

新共同訳のように「信仰の言葉」とすると、前にある「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」が「信仰の言葉」になります。そこで、これを「信仰の事柄」とすると、「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」は「信仰の事柄」ということで、「信仰の内容」とか「信仰の有り様」ということになります。つまり、「キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある」というのが信仰の内容、信仰の有り様になるのです。

「私たちが宣べ伝える信仰の言葉」はまた、「私たちが宣べ伝える事柄すなわち信仰」とも訳せます。そうすると、「『キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。』これが私たちが宣べ伝えている事柄すなわち信仰なのです。」この場合も、キリストの贖いが口、心の中にある位に身近にあるというのが信仰の有り様であることを言っています。

4.10章9~10節の理解

以上のように8節は、イエス・キリストの十字架と復活の業による贖いが洗礼を通してキリスト信仰者の内に注がれて口と心の中にある、それ位身近にあることが信仰であると言っています。あとは、キリストの贖いをそのまま口や心の中に留めて身近なものにしていれば救われるのです。口にあるからそれを公けに言い表すのは自然なこと、心の中にあるから心で信じているのは自然なことなのです。言い表すことと心で信じるということは口や心の中に留めていることなので救われていることなのです。これが9節の意味です。10節はユダヤ教の伝統から決別したことを念頭に置いて見たら次のように言い換えることが出来ます。「かつて律法を行うことで人は義とされ救われるとされていたが、キリストが贖いを成し遂げて洗礼が設定されてから以後は、人は心で信じ口で公けに言い表して義とされ救われるのである。」

5.終わりに

以上、ローマ10章9~10節は、申命記に照らし合わせて見ていくと、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様を言い表していることが明らかになったと思います。この大転換は、パウロが手紙を書いた当時の人たちだけではなく、その後の時代の人たち、現代を生きる私たちにとってもキリスト信仰を理解する大事なポイントであり続けていると思います。

それから、この個所が迫害を前にした心構えになるということについて。パウロがローマの信徒たちに手紙を書いたのは西暦50年代です。皇帝ネロの治世の西暦64年にローマで大火災が起こり、キリスト教徒が犯人扱いされ大きな迫害が起こりました。伝説によれば、パウロの殉教はこの迫害の時とも言われています。キリストの贖いが口と心の中にあるのが信仰であるという教え、そして、その口にあるもの心にあるものを言い表しつつ信じることで、律法がなしえなかった義認と救いを得られるという教えは、迫害を前にしたパウロ本人をはじめ、この手紙から学んだローマの信徒にとって心構えになったのは間違いないでしょう。

現代を生きる私たちも、このユダヤ教の伝統からの大転換をわかった上で、口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じると、本当にキリストの贖いが口と心の中にあるというふうになるでしょう。(了)

宣教師の週報コラム 魂ケア

 教会員の皆さん、「魂ケア」にどうぞ

 フィンランドの大学の神学部には「魂ケア」という科目があります。 何を学ぶかと言うと、悩み事その他なにか心に引っかかるものがあって一人ではなかなか平安を得られなくなってしまった人の話し相手や聞き役になって一緒に解決の糸口を見つけるということです。牧師が授業を担当し、学生同士で事例について話し合い、最後は病院に派遣されて実習をします。

これを聞くと、それは日本の神学校で行われてる「臨床牧会教育(CPE)」や「牧会カウンセリング」のことではないか、と思われるでしょう。授業には、「悲しみと向き合う作業」という課題もあり、これなども近年日本でもよく耳にする「グリーフ・ケア」のことでしょう。

私個人としては、「臨床」とか「カウンセリング」と聞くと、専門医学的な感じがして身構えてしまうのでフィンランド的に「魂ケア」の方がしっくりします。それに加えて、コンテクストの違いもあります。フィンランドでは国民の大多数はルター派国教会の会員なので話をする相手は間違いなくキリスト信仰者ということになります。それなので「魂ケア」は、話す側も聞く側もルター派のキリスト信仰の枠組みの中にいて共通の言語を用いることが出来るということがあると思います。ところが、日本ではキリスト信仰者は全人口の1%という圧倒的少数派な上、教派も様々です。「枠組み」とか「言語」においてフィンランドとは比べものにならない難しさがあると思います。それで日本では、「臨床」とか「カウンセリング」という学術専門的な言い方が相応しくなるのかもしれません。

そうは言っても、フィンランド社会もこの2030年の間に大変貌を遂げました。私が神学部で勉強していた2000年代初めは国教会所属率はまだ80%台、「魂ケア」の教科書も所属率が90%以上の頃に書かれたものでした。今では所属率は60%台、ヘルシンキ首都圏では50パーセント台です。きっと、「魂ケア」の科目も変貌したと思います。

とは言っても、教会員の皆さんは同じ枠組み、共通の言語を手にした方たちです。それらを活用し鍛えない手はありません。是非「魂ケア」にどうぞ!(ヨシムラ)

吉村博明 宣教師の週報コラム 2022年9月18日

宣教師のフィンランド国内支援教会訪問について

フィンランドのルター派国教会の海外伝道の仕方は、それぞれの教会が宣教師を派遣するという形ではなく、 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のような国教会公認のミッション団体が宣教師を養成・派遣し、国教会内の教会がそれを支援するというやり方を取っています。国教会内で私たちヨシムラの日本伝道を支援する教会は12あります。その他にも3教会が派遣宣教師に関わらずスオミ教会を支援し、あとSLEY傘下の3教会もスオミを支援しています。

今年は、ヨシムラを支援する教会を7つ(オウライネン、ヴァ―サ、ユルヴァ、ライティラ、マスク、ヴァハト、パイミオ)とスオミを支援する教会を1つ(コウヴォラ)を訪問しました。今年の訪問先は、北のオウライネンが滞在地トゥルクから550キロ、東のコウヴォラが350キロと拡がったため、移動距離は延べ3,500キロになりました。

教会訪問で何をするのかと言うと、訪問日が日曜日の時は礼拝の説教を担当し、平日ならば小礼拝や各教会の海外ミッション行事を担当します。今年は2つの教会で説教が予定されていましたが、一つは都合により交替になったので、教会堂での奉仕は説教1つ、平日小礼拝1つでした。

海外ミッションの集会は、プログラム本体は大体2時間位で、最初30分位のコーヒータイム、讃美歌、牧師の挨拶とメッセージ、吉村から日本一般及びキリスト教会の動向の報告、讃美歌、パイヴィからスライド写真を交えてのスオミ教会の伝道の報告、讃美歌、質疑応答、祈り、讃美歌という内容がどこでも同じです。開始の30分前までに到着しなければならず、終わった後も参加者との懇談は続くので実質4時間位の仕事になります。今年は2日がかりの行事が2教会でありました。

この他にも、教会の地元の小中学校や高校や施設の訪問、教会役員との懇親会等もあります。今年は学校訪問はありませんでした。近年では、国教会と言えども公立学校に宣教師を招くというのは信教の自由からよろしくないという見方が、国教会所属率が低下している南部を中心に強まってきています。(ヨシムラ)

2022年9月18日(日)聖霊降臨後第15主日 主日礼拝

 

「光の子らよ、目覚めよ」                     2022年9月18日(日)スオミ教会

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。 アーメン

聖書ルカ福音書16章1-13節

今日は、経済の話をします。経済と言ってもですね、物価高とかインフレと言った、ふつう、私たちが考える経済じゃあありません。

聖書の中で話された「イエス様のたとえ話」です。

イエス様は時々、難しい話をされました。

今日の福音書で、弟子たちに語られたたとえ話も、まさに最も難解な箇所と言われるところです。

ある牧師はこう言っています。

「イエスのいくつかのたとえ話のうちで、最も議論を呼び、最も危険を含んだものの1つである」と。

イエス様が語っておられるたとえ話を聞いているのは、どんな人たちであったでしょう。

もちろん、イエス様といつも一緒にいた、12人の弟子たちです。その他にも多勢いの人々がいました。

ルカは15章の始めの所で書いています。

【徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、言い出しました。「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」と不平を言いだしたのです。

そこで、イエスは次の「たとえ」を話された。」とあります。

 たとえの始めには「ある金持ちに一人の管理人がいた。」とあります。この当時、管理人というのは、地主が遠くにいて、その土地を小作人に貸したり又その代金をいろんな型で管理する、その権威の一切をまかされていたのです。ですから大事な財産の一切をまかせるからには主人は絶大な信頼をおいていた事になります。

ところが、この男が「主人の財産を無駄使いしている」とつげ口する者があった。いわば不正をしていた事がバレて、訴えられたわけです。主人は彼を呼びつけて言いました。「会計報告をだしなさい、もう管理を任せておくわけにいかない」。あれほど信頼して一切をまかせたのに裏切られたわけです。

もうここでは主人に対して釈明する余地がありません。全く信頼できない。後任へ引き継ぐための報告書を出しなさいと断言しているんです。さて管理人は困りました。そして考え込んだのです。

これから、どうしようか。肉体労働する力もないし、かと言って物乞いするのもはずかしい。

そうだ、こうしよう、と彼は一計を案じたのです。管理人の仕事はクビになった。でも自分を家に迎えてくれるような友を作ればいいのだ。あとはそれから考えていけばいい、とぐらい思ったでしょう。

そこで、彼は主人から借りていた者たちをひそかに1人1人呼び出して、最初の者に言うわけです。「私の主人にいくら借りがあるのか」すると「油100パトスです。」彼は言いました「これがあなたの借りている証文だ、急いで50パトスと書き直しなさい。」100パトスという量がどれくらいなのか。

この当時の油100パトスは今で言えば約2300ℓというすごい量です。

そして、次の者に「あなたはいくら借りがあるか」と言うと「小麦100コロスです。」ではそれを80コロスと書き換えなさい。両方とも巨大な量を約半分にしてあげているわけです。

もともと管理人だった彼は不正な財産管理をして横流しして自分のふところに入れていた、それに

加えて借金の証文を書き換えさせるというとんでもないことをしていて、とてもほめられるべき行為ではない。危機に直面してなりふりかまわず、生きのびる道を画策したのです。

現代の私たちはこの不正な管理人を許せない!と思う。どうでしょうか。

ところが、8節を見ますと、このたとえで主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を「ほめた、」とあります。主人の財産をうまいこと横どりして自分のものにしている、あげく、証文を書き換えさせている、というのに主人がなぜほめているのでしょうか。私たちには納得できない難しいところがあります。このたとえ話をどう解釈したらいいのでしょうか。そこに難しさがあり、危険性もある、というわけです。私たちは、この当時の時代背景を知らないとこの難しい経済はわからないのです。

律法学者たちを代表するユダヤ教の世界では同胞に対して利息を取ることは禁じられていました。

しかし、金銭や食物等による商取引の場合には利息を含めて貸借をする習慣があったのです。

律法の精神は貧しい者から搾取してはならない。しかし、相互に利益になるようであれば、利益を相互に分け合うのだから禁じられてはいなかった。つまり、ある人が貸し与えられた以上は彼は

何ほどかの物を持っているわけだから貧しいとは言えない。

例えば、このたとえ話で、小麦100コロス貸し与えられた者はその小麦を持っているわけで貧しいのではない。その貸し与えられたものに、利子が含まれるのは当然のことです。ところで、小麦の場合100のうち20はすでに利子分として含まれているから証書には利子分は記されていない。

20の利子を含んだ100の全量として書かれているのです。通常、こういう取引にはいちいち主人に報告せず管理人の裁量にまかされていたのです。

この解釈によると、このたとえ話で管理人が解雇されるという危機に直面して取引証書を持ち出して、負債者が利子を払わなくてよいように利子分を書き改めさせた、といことになることで油の証文を100→50に直しています。つまり割引いたのは利子分であった、ということです。油が半分は利子であった、のは油の取り扱いで陰でよく水まし等されていたから利子の率が高いのが普通であった、というわけです。100のうち半分は利子であった、というわけです。

彼は利子の分を書き直させ、負債者は大喜びです。彼の将来の自分の地位と身の安全を負債者からあがない取ったのです。つまり恩を売ったのです。さて、主人はどうですか、利子の分は別として実質的に何も失ったわけではない。友人の便利をはかってやって援助してやった、ということで主人は周りからありがたがられているわけです。たとえ利子が管理人のふところに入ったとしても

貪欲の避難を受けないため主人は管理人の行為をいちいちとがめない。主人の利子分を差し引いたな、等と言われない。主人は太っ腹のふりして見て見ぬふりするしか他になかった。そういう習慣がこの当時あったのです。それで八方丸くおさまったわけです。

だれも損しない。そこで主人はこの管理人の「利口なやり方」をほめたのです。

たとえ話は7節までで8節後半はこのたとえ話をされたイエス様のコメントが記されています。

つまり、イエス様はご自分の12人の弟子に向けてこれからの生き方への姿勢にきびしい警告をなさっているわけであります。8節b「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」そして9節の言葉には、こうあります。「そこで私は言っておくが不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば金が無くなった時、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」

つまり、友人のために富を尽くした者には天使たちが迎えに来て、永遠の住まいに入れられるだろう。富は元来、自分のためではなく、友だちのため、まわりの必要としている人々のために用いてこそ、それは自分の永遠の安らみが用意されていることになる。

矢内原忠雄という先生の解説にはすばらしいものがあります。

この世の子らは、主人顔して時代の中で勢力を占めているがいきすぎ行くこの世だけである。永遠の神の国に於いては彼らはもはや威張ることはできない。この世の子ら、すなわち神を信じないこの世の人々はこの世のことに於いては実に巧妙に振る舞うのである。一方、神を信じる光の子らは、この世渡りの巧妙さにおいてはとうてい彼らに及ばない。しかしこの世の子らが、この世の生活において持つ用意に比べて、光の子らは神の国の生活に対して持つ用意が劣るようではならない。

見よ、あなた方は、いつ、あなた方の「富める人」すなわち神からあなた方に託されている財産の管理状況を求められるかわからないのである。神からあなた方に託された、あなたの命、あなたの体。あなたの精神、あなたの学問、あなたの信仰、あなたの財産、すべて、あなたは自分の利益のために使いこみはしなかったか。その不始末に対してあなたは神のさばきを免れないであろう。

あなたが、この世を去るべき日が来るであろうその時、あなたは、あなたの身をよせるべき安住の場所を準備していますか。

あなたを家に迎えてくれる友を得るために心を働かせよ。それだけの知恵と用意をあなたは払うべきではないか。あなたにとって友の中の友は誰ですか。あなたの真の友、それはイエス・キリストであります。この世でのあなたの生涯の富も、財産も、力も、知恵も、体も、精神も、そのすべてをキリストを友とするために働かせなさい。この世で、たよりとしていたすべての富が失せる時、なくなった時、あなたの永遠の住まいに迎えてくれる最大の友はイエス・キリストであります。さて、イエス様は1節から9節のたとえを語られて更にこの話をきいている弟子たちに大事なことを語られます。それが10~13節です。なぜ不正な管理人は主人からほめられましたか。それは彼の巧妙さを感心されたのであって忠実ではない。彼は主人の所有物を取ろ扱うことにおいて忠実ではなかった。彼は主人をうらぎったのです。

この世の事だから、これを管理し、処理するのに不忠実であっても良いということではない。この世の事は神の国の事に比べて小さい事です。しかし、

小事に忠実でないものは大事についても忠実ではない。この世の事柄の処理に於いて忠実な人は神の国の事柄についても忠実であります。自分に託された仕事が、いかに小さい、この世の事柄であっても、それを忠実に果たす心のある者に神の福音を宣べ伝える任務が託されるのです。

あなた方に管理を託された「不義の富」すなわちこの世の富は本来あなた方のものでなく、この世の人の財産の所有であります。すなわち、人のものであります。しかし、それを扱うについて忠実でなければ、あなた方のものである「真の富」すなわち、神から出る永遠の生命を与えられることはない。

あなた方の主人は神である。従ってあなた方のこの世に於ける生活の目標は神に仕えることでなければならないのです。「神と富に仕えることはできない。」と13節にあります。しかし、神に仕えるということは、この世に於ける働きには身をいれて忠実に働かなくてよい、ということではありません。

神に忠実に仕える者はこの世の小事にも忠実な僕となる、ということです。

これに反して富を主人として、これに仕える者は、ただ神の国の永遠の生命をつがないだけでなくこの世の富についても忠実には管理しない者です。たとえで言うあの不正な管理人が主人の財産の管理に忠実でなかったのは彼が真の神に仕える信仰をもたず神の国に於ける永遠の生命を目標として生きなかったからです。従って彼は主人の利益を害してでも自己の利益を計ろうとしたのです。この不忠実な自己の利益のみ頭がいっぱいで、まことの主人をないがしろにした事は決してゆるされることではありません。

イエス様の弟子たちへのメッセージ です。「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。だから、ひぁりの子らよ!目を覚ませ!この世の子らより、賢く、主人である神さまから賜っている宝を、光り輝かすため、充分に用いて活かしなさい。

<祝福>

人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン

 

2022年9月11日 聖霊降臨後 第14主日礼拝 本日は講壇交換日ですので礼拝は河田先生にお願いしました。

河田優 牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)

説教題

ルカ15:1‐10 「誰一人取り残さない」

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

(説教者は初めに)私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

ルーテル学院大学・神学校でチャプレンをしております河田です。本日は与えられた日課から、このように共に福音を分かち合う機会を与えられて感謝です。

本日は福音書の個所から「誰一人取り残さない」という説教題をつけさせていただきました。これは国連が呼びかけているSDGsの取り組みへのキャッチフレーズでもあります。

皆さんもよくご存じだと思いますが、まずはこのSDGsの取り組みついて簡単に紹介します。

国際連合は2015年から「持続可能な開発目標」のアルファベット頭文字を取って、SDGsと名付けた取り組みを始めました。それは、世界中の人々にとってよりよい、より持続可能な未来を築くための活動です。

まずは現代の世界にある課題を17の項目としてまとめます。そしてそれらの課題の解決を目指して、継続して具体的に取り組んでいくのです。

この17にのぼる項目を少し紹介すると以下のようなものです。

貧困をなくそう

飢餓をゼロに

すべての人に健康と福祉を

質の高い教育をみんなに

などです。

それぞれが現在の世界の諸課題であることは一目瞭然なのですが、ここで気づかされることはそれぞれの諸課題というのは、なにがしかの形で関連し合っていることです。

たとえば、貧困と飢餓の問題は密接に関連していますし、そのために社会の中で福祉が整えられていく必要があるでしょう。その時には人権が重んじられますし、平等が唱えられ、誰もが正しく学ぶ機会が与えられて行かなければならないでしょう。

つまり、ここにあるように一つ一つの課題は、相互に関連しているのです。

ですからSDGsの取り組みとしては、これらの課題のいくつかだけを選択して解決していくのではなく、これらの課題のすべてに目を向けつつ、それらの課題の中に生きざるを得ない人たちの誰一人取り残すことなく働きかけていくことを目指しているのです。

このことは、すべての課題が解決に向かうことは、一つ一つの課題の取り組みの結晶であるし、逆に言うとその課題の中で誰か一人の人が取り残される限り、すべての課題の解決とは言えないこととなるのです。

今回の説教題はこの「誰一人取り残さない」というSDGsのキャッチフレーズからつけさせていただきましたが、それは本日の日課、特に「見失った羊のたとえ

としてよく知られているこの聖書個所を考えるうえで大きなヒントになると思ったのです。

それでは、聖書個所を振り返りましょう。

今日の福音書はまずファリサイ派の人びとや律法学者たちが、徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスに対して不平を言うところから始まっています。

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

ここに登場する徴税人や罪人は、律法によると神の救いに相応しくない人たちとされていました。そのような人たちと食事をするとは何事か、けしからん、というようなことです。イエスは新しい教師として人々を教え、導いているが、律法学者たちは、自分たちが重んじる律法に適わないイエスの行為にいら立っているのです。

そこでイエスは「失われた羊」のたとえを語るのです。

ある羊飼いが登場します。この羊飼いに100匹の羊が飼われています。ところがある時、そのうちの一匹がこの群れから迷い出てしまうのです。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

イエスが語るこのたとえ、失われた羊を捜し求める羊飼いはイエスご自身のことでしよう。そしてこの羊飼いに飼われている羊たちはこの時代の人々のこと、特にユダヤ人たちを表しているでしょうが、私たちがこのたとえを聞くとき、この羊とは今を生きる私たち自身のこととして受け止めることができるでしょう。

この羊の群れから一匹の羊が抜け出し、羊飼いは野原に他の羊を残してまでも、その失われた一匹の羊を捜しに行くというがこのたとえです。

4節には「見つけだすまで捜し回る」の言葉があります。これは、羊飼いは失われた羊をけっしてあきらめない。最後には必ず捜し当てる。ということです。そしてイエスはご自分こそ、そのような羊飼いであると告げるのです。迷子になった一匹の羊を自分の姿になぞらえる私たちは、この言葉に大きな慰めを受けるのです。

また、このたとえの面白いところは、いなくなった羊とは特に優れていた羊とも何とも書いていないことです。この羊は、他の羊に比べてみて羊飼いから特別扱いを受けていたわけでもなさそうです。名もなき小さな存在でしかなかったのです。

でも羊飼いは、他の99匹の羊を野原に残しておいても、この一匹を捜し出すのです。

私たちの生きる世界では、むしろこのようなことはあり得ないことではないでしょうか。

99匹の羊が残されてしまうと言うことは、その羊たちにも危険が迫ると言うことです。ばらばらに迷い出るかもしれません。居なくなった羊は特別な羊ではなかったのですから、冷静に考えると99匹を守り、迷子の羊を諦めてしまう方がより賢いやり方と思われます。

ただその中で、このイエスの教えが私たちの心に響いてくるのは、この羊飼いは、たった一匹の羊のことがどうしても心配で、決して一匹でも自分の前からいなくなってしまうことが悲しくて寂しくて、この羊を捜しに行かずにはおれなかったということです。

そのように考えたときに、この迷いでた一匹の羊の救いは、野原に残った99匹の羊の救いにもつながることが分かります。迷い出た羊は特別ではなかった。ちっぽけな存在だった。でも羊飼いは見捨てなかった。大切な存在として愛しぬいた。つまり残された99匹の羊たちも束にして数えられる羊ではなくて、一匹一匹がこの羊飼いに愛されている羊なのです。

今度はいつ、この自分が迷い出てしまうかもしれない。でもこの羊飼いはそのような名もなき羊を最後まで捜し続けてくださる。ここに大きな喜びがあります。

そしてそのことが律法によっては救われないとされてきた徴税人や罪人たちと共に食事をすることだとイエスは語るのです。そして誰一人取り残さないことがすべての者の救いであることをイエスは教え、まさにその羊飼いこそ私であると語るのです。

本日、読まれたテモテへの手紙にはパウロが自分のことを記していました。

彼はかつて、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。

律法の面では正しい者であったでしょうが、神の目から見れば主イエスのもとから外れた羊、けっして神の宴席に招かれることのないであろう罪人であったでしょう。

しかし、パウロも復活のイエスに捜し出され、そこで出会い、捕らえられ、その生き方が全く変わってしまうのです。

主の福音を世界中に伝える使徒としての働きを担う者とされるのです。

彼は次のように告白します。

1:14-15「私たちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。」

罪人として最たるものであるパウロを主イエスはけっして諦めなかった。彼を捜し出し、捕らえ、ご自分の羊とされるのです。

まさに「誰一人取り残さない」、その思いは主イエスの思いなのです。

そしてこのたとえに語られていることは、主なる神が私たちに向けられた思いであるのです。

羊を自分の姿になぞらえたとき、私たちは時折、主のもとから遠く離れ去っている自分の姿に気づくことがあります。いと小さき自分、信仰の弱い自分、この自分のことを主は思い返してくれるだろうか、そのような不安に陥るようなこともあるでしょう。

しかし、この失われた羊のたとえは、そのようなあなたのことをけっして諦めない。ご自分のもとに連れ戻すために最後まで捜し出してくださる主の姿を私たちに教えているのです。

そしてイエスはこのたとえを次のように結ばれます。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

驚くべきことは、この「喜ぶ」という言葉の主語は見つけ出された羊ではなくて、見つけ出した羊飼いにあるのです。

私達は思います。「見つけ出された羊はさぞ喜んだことだろう。」

これは神様の救いをいただいた小さき自分自身の喜びを重ね合わせてそのように考えるのです。

しかし、イエスは「あなたを見つけ出した喜びは私の喜びである。」と告げます。

このように小さなわたしを見つけ出し、ご自分のもとに連れ戻すことをご自分の喜びとしてくださる、そのお方こそ私たちの主です。私たちはこのお方を私の羊飼いとして従ってまいりたいのです。

あなたが主の姿を見失い、悲しみにある時も主はあなたを捜し求めておられます。そしてあなたが主の姿を再び見つけたときは、あなた以上に主は喜んでくださいます。「誰一人取り残さない主」はすなわち「あなたを決して取り残さない主」であり、すべての者の救い主なのです。

(説教の最後に)人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

フインランドから吉村宣教師のご挨拶

ご無沙汰していますが、皆様お元気でしたか?フィンランドからご挨拶申し上げます。日本はコロナ感染がなかなか収まらず大変な状況ですが、皆様は大丈夫だったでしょうか? こちらは、かく言う私たちも家族全員がしてしまい、パイヴィと私が回復に時間がかかりました。私など持病の喘息が悪化して、今も教会訪問で讃美歌を歌うと息切れしてしまうので歌わないで説教やメッセージで声が出るようにしている有様です。今パイヴィの実家に来ていて、そこを拠点に訪問を続けています。昨日一つの行事が中止になり、次の日曜日まで中休みになって一息ついているところです。気候は、先週はフィンランドには珍しく25℃以上の日が続きました。温暖化現象の影響がはっきり出ていると思います。 添付写真は、1枚目は最初の訪問地オウライネン市(トゥルクから550キロ北)の教会と、2枚目はその日本伝道を覚える主日礼拝、3枚目はヴァハトという町(トゥルクから30キロほど)の教会の別館での日本伝道集会の様子、4枚目はヴァハト教会。これまで7つの訪問があり、全ての訪問先の教会の方々からスオミ教会の皆様にくれぐれも宜しくと言っていました。あと、3つ残っています。 スオミ教会の皆様のご無事とご健康をフィンランドからお祈りしています。 吉村博明

2022年8月21日(日) 聖霊降臨後第11主日 主日礼拝

スオミ教会礼拝説教

ルカによる福音書13章10〜17節

「アブラハムの子と呼んでくださる主」

2022年8月21日

説教者:田 口   聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「会堂にいた彼女」

 今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。

 まず10節、会堂にいるイエス様ですが、イエス様は、安息日にはこのユダヤ人の会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていましたが、この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。

「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」11節

 とあります。もちろん全ての病気がそうだというのではありませんし、私たちにとっては馴染みのない、また理解し難い言葉ではあるのですが、その病気は霊によるものであったことがわかります。「病の霊」の働きで、腰が曲がってしまって、伸ばすことができない、そんな状態を、彼女は患っていたのでした。しかもその時間があまりにも長いです。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。

 しかし彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていた、つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、

2、「この女はアブラハムの娘なのです」16節

「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」

 と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味していません。もしそうであるなら、全てのイスラエル人もアブラハムの子孫です。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、アブラハムから連なる「信仰による義」の相続者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、義は主を信じる信仰にあったのであり、主はその信仰こそを見て、義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。それはパウロもローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節

「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」

 と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。

3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」

 けれども、病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。

 ここで不思議に思う方もいるのかもしれません。それは、信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような人は、何か罪を犯したからだ、律法に背いているからだ、神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられるのが一般的でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。カリスマ系の教会や、熱狂主義的な教会、律法的に導く教会などでは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だから信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい」と教えられたりすることがあるのです。

 そうではなくても、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練は、祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そう考える人は少なくないとも言われます。

 しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病と彼女の業や信仰とをつなげません。むしろ彼女のその信仰のみをイエス様は見て言うでしょう。

「この女はアブラハムの娘なのです。」

4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞

 みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉でしょう。「アブラハムの娘なのです」と。素晴らしい言葉です。もちろん私たちの目から見るなら、人間ですから、誰でも不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるのは当然です。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、それが私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、そこから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかがわかるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰生活というのは決して、私たちが何かをしなければいけないという律法ではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。

5、「祝福のはかりは律法ではない」

 つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、患難がありますと言いました。その中で、私自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできないときも必ずあります。まさに彼女のようにです。それらの事柄がすぐに解決ができず、18年、いやそれ以上、かかるときもあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、そのようなときも現実的にあるでしょう。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも、罪の世を生きているし、なおも罪人であるのですから。救われて義と認められても、義人にして同時になおも罪人でもあります。聖書にある通り、古い人と新しい人の両方があるのですから。

 しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもありません。むしろそうだというなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節からいうなら、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いの中、サタンの誘惑や攻撃の中で、日々、戦って生きていき、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。

6、「福音の実」

 しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも神の前にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところにある通りであると証ししているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、まさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵みであるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、彼女にそのようなイエス様の実らせる実が実ることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。

 皆さん、それは派手でも劇的でもありませんが、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全で苦しみの中、神にすがっているだけです。しかしそれが「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。

7、「律法を基準とする会堂管理者」

 けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節

「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているかのその自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。

8、「イエスの目は福音の目」

 けれども、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節

「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」

 安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では

「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。』」マルコ2:27〜28

 と。ヨハネの福音書でも、イエス様は

「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』 」ヨハネ5:17

 と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。

9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」

 私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されてここに集められていることでしょう。しかしそれはそのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。イエス様は罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、それでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。

 事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性がある理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあり、私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。

 今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年7月31日 聖霊降臨後第8主日 主日礼拝 田口牧師から送られてきた当日の説教です。

今日の聖書のおはなし

ルカによる福音書12章13〜21節

「神の前に豊かになるように」

2022年7月31日:スオミ教会礼拝説教

説教者:田 口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「はじめに」

 この12章でもイエス様は、エルサレムへと真っ直ぐと目を向けて向かっています。今日の箇所の前には三つの話があり、イエス様は、ファリサイ派のパン種の話など、これから、彼らの偽善や敵対に直面し、これから御自身のみならず、弟子達にも起こる艱難を伝えています。しかしイエス様は、その苦難を通してこそ神の御心が表され、神の国と福音に与る者たちへの本当の幸いがあるという恵みを伝え励ましています。それらのイエス様の教えの土台となっているのは「地上の事柄」ではなく「天の御国」であり、イエス様は、キリスト者は地上では艱難があり、人はキリストの名のゆえに弟子たちに害を加え殺すであろう。しかし、天の神が、その全てを知っていて神の国の約束を与え、イエスが神の前で認めてくださると励まし、その天からの賜物、贈り物である信仰と聖霊によって道は確かにさるのだと、何よりも天の「神の国」を指し示しているメッセージでもあったのでした。今日のところでは、その群衆のなかにいた一人の人がきっかけになっていますが、そこでもイエス様のメッセージは、世の事柄や「人の前」の議論ではなく、やはり「神の前」「神の国」を土台にし、神の国の視点で、人々に、弟子たちに、そして私たちに福音を、指し示しているのです。

2、「仲介者」

「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』」13節

 その人の問題は、家庭、兄弟の問題です。遺産を巡っての兄弟同士の争いがあったことがわかるのです。彼はイエス様にその仲裁に入って欲しいとお願いするのです。当時の人々が、このような問題をラビと呼ばれる律法の教師達に持って行って仲裁してもらうということは良くあったようです。しかしそれに対してイエス様はこう答えます。

「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』」14節

 これを聞いて、おや?と思う方がいるかもしれません。「イエス様は仲介者、仲裁者としてきたのではないのか」と。あるいは、「神であるのだから裁判官でもあるのではないか、むしろ正しい裁判官であるのでは?」と、思うかもしれません。

 けれども聖書はこう言っていることを思い出したいのです。第一テモテ2章5節の言葉ですが、4節から6節まで読むとこうあります。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」第一テモテ2章4〜6節

 確かに仲介者とあります。けれどもそれは「人と人との間の」仲介者とはありません。「神と人との間の仲介者」であるとパウロは教えています。それは、人と人の間のこと以上に人間にとって重大なこと、それは、すべての人が救われて、真理を知ることのための「仲介者」であることを伝えているでしょう。そしてその仲介の方法までパウロは述べてくれています。それは「すべての人の贖いの代価として」と。十字架の死と復活です。このように、パウロは、そのような方法で「神と人との間の仲介者」となるために、人となられたキリスト・イエスを指し示し、その人となられた神であるイエス・キリストによってのみ、神からの救いが私たちにあるのだと、教えているのです。

 イエス様はここで彼と群衆に、まさにパウロが伝えた、「人と人との間の問題」以上に、もっと大事な「神と人との間のこと」、そして、そのことを通して、何よりご自身がそれを与えるために来られた、と言う、「天の御国」「神の国」「救いのこと」を伝えようとしているのがこのところなのです。イエス様はこう続けます。

3、「貪欲に注意しなさい」

「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』 」

 貪欲に注意して警戒せよ。イエス様はそういいます。貪欲とは、満足しない欲、あるいは満足を知らない欲とも言われます。それは人の心にあるものですが、それは得ても得ても、与えられても与えられても満足できない。十分ということをしらない。「足りない、もっともっと」となる欲です。それが過度になりコントロールが効かなくなることとして、現代ですと「中毒」とか「依存症」いう言葉も連想されます。この「もっと欲しい、満足できない。」ーそのように貪欲が人間の心を支配する、まさに、満足を知らない欲、貪欲というのは、人間の深い問題です。イエス様は、その遺産の分け前についての兄弟同士の争いに、おそらく、すでに富んでいる家族にあってもなおも争ってでも財が欲しいという、そのような貪欲を見ていたのかもしれません。そして、その貪欲は結局、神が与えてくださった家族という恵みの中で、争いという良くない結果をも生み出してしまっています。だからこそ、イエス様は、そのように神の前に何ら良いものを生まない貪欲に、注意し、よく警戒しなさいというのは、当然のことだと言えるのです。

4、「いのちは財産にあるのではない」

 けれども、このところのメッセージは、イエス様はそれをただ道徳や倫理、あるいは律法や戒めを理由や目的としてだけ言っているのではありません。その理由をこう言っています。

「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

別の聖書の訳ですと、

「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 ともあります。つまり、それは、単なる道徳や倫理ではない、むしろ、いのちの問題であるといいます。確かにお金は必要な大事なものです。そしてお金や財産が沢山あれば、いつでも食に困らず食べることができ、良い医療も受けられる、などなど、人々はいのちが、財産、お金、富にあるように思うかもしれません。事実、お金中心で世の中は動き、お金が人の人生の良し悪しを支え保証しているような価値観で、世の中は溢れてはいるのです。

 けれどもイエス様は、「いくら有り余るほど持っていても」「豊かでも」、「人の命は財産によってどうすることもできない」「人のいのちは財産にあるのではない」とはっきりと言います。どういうことなのでしょうか。それを説明するためにイエス様は例え話を話すのです。16節以下ですが、ある金持ちの話です。彼はお金持ちです。持てるものを持っています。そしてそればかりではありません。彼の畑は豊作です。さらなる富と豊かさ、発展、繁栄が豊作には現れています。けれども彼は「心の中で」、さらなる心配とそれに対する計画を立て、そして実行をします。まず豊作の作物、財産を蓄えておく場所がないと。心配、恐れです。そして、計画です。これまでの倉を取り壊して、もっと大きいの立てよう、そこに豊作の作物と財産を保管しよう。そのような計画を考え付きます。非常にできる優秀な人です。まさに金持ちになるべく富むべく知恵がある人です。そして彼が心の中で心配し彼が心の中で考え思い描いた計画に、今度は彼は「自分に言ってやるのだ」別訳では「自分のたましいに言おう」と、言わば自己陶酔し、そこに明るい希望を見ています。19節ですが、

「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。 」

 ここは肝となるたとえでイエス様は皮肉を込めて言っています。彼の言葉は誰かに言っているように見える、つまり、一見、複数人の会話のように見えるこのやり取りですが、しかし彼は「心の中で」、「自分に言ってやる」あるいは「自分のたましいにこう言おう」とあるように、すべて一人、彼自身の心の中のことです。そして彼は、自分のたましいに「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言っているのです。このように、貪欲の構造をイエス様は表しています。すべて自分自身の心の中の心配と、自分自身の予想、計画と期待と満足であると。けれども貪欲のさらなる事実は、満足を知らない欲です。結局、待っているのは、 「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と、自分に言い聞かせても、それでも安心できない、満足できないわけです。しかし、イエス様は、ここでただ、そのような貪欲の構造、人間の心の欲の底なしの様だけを言いたいのではありません。それだけが「注意しなさい」の理由ではありません。20節に、イエス様の「いのちは財産にあるのではない」ということの理由があります。

5、「いのちはどこに?」

「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」

 イエス様の言っていることはハッとさせられるのです。財産はもちろん一時の満足と安定は与えてくれて、一時の健康の維持にも力ともなるでしょう。しかし、究極的には、つまり死という圧倒的な現実を前にして、いのちを支えることはできないということです。いのちということは死ということと隣り合わせです。死があっていのちの意味、生きているということを考えることができるでしょう。生きることをもちろんお金はある程度補償はできるのです。しかし死を前にして、財産は全く意味がありません。いい葬儀やお墓は準備できるかかもしれませんが、どんなに財産があっても死を避けることはできないのです。しかしイエス様が言いたいのはそれだけではありません。そこでは「いのちは取り上げられる」と言っています。つまり、いのちを握っているのは、つまり聖書が「生きるのに時があり、死に時がある」と言っているように、生も死もすべて神の御手のなかにあって、神が定めている、神が与え神がいのちを取りあげる、取り去られるという、圧倒的な事実をイエス様は突きつけているでしょう。そう、それこそがいのちの支配者です。いのちは財産にあるように人は思うのですが、しかしイエス様にあって真理はそうではない、いのちの真理、それはいのちは財産ではなく、神の御手にあるということです。そして、そのいのちも死も、私たちはお金でも力でもコントロールできないのです。しかも、その豊かな財産を死後どこかに持っていくこともできないのです。その時、その取り去られることが本当に起こった時に、イエス様が、「一体誰のものになるのか」と言っているように、そのような彼の心の中で心配し計画し用意していたもの、その財産も倉も、満足も、それらはその人の物にはならないのです。その人は神にいのちを取り去られて、その先にその財産を持っていくことができません。地上の財も富も死の先に持っていくことはできないのです。むしろ財産は他の人の手に渡ってしまうようなものですし、その人の手からまた他の人の手に、時にそれは敵の手に渡ったり、悪用されたりします。まさに、この場面です。お父さんが残した遺産を子供達が争って奪い合うという現実があるではありませんか。そしてその財産も形あるものは、やがては朽ちて消えていきます。地上の財産、そして貪欲は、そのような現実にあるものです。イエス様はいいます。人のいのちは財産には決してありませんと。人のいのちは、神の手に握られていると。だからとここで誤解してはいけない補足ですが、昔からそして今も世を騒がしているキリスト教の異端やカルトが良く彼らの常套手段で、律法的に脅迫するように、だからその財産は神に教会に全て捧げなさい、ということが、正当なキリスト教の教えではありませんし、イエス様のここでの教えもそのようなことを言いたいのでは決してありません。むしろ献金は、律法ではなく、恵みへの応答ですから、自由な心で喜んでささげるものであることは忘れてはいけません。ここでは決して律法のメッセージをイエス様は言いたいのではなく、ここで何より私たちに言いたいことがあるのです。こう結んでいます。

6、「神の前に富むこと」

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 ここでも「人の前」ではなく「神の前」とありますが、イエス様がいいたこと、それは「神の前に富むこと」の大切さです。では「神の前に富む」とはどういうことでしょうか?イエス様の山上の説教はこのことの意味がよくわかるところです。マタイ6章19節以下に同様のイエス様の教えがあります。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」マタイ6章19〜21

 自分のために蓄える目に見える形ある地上の宝。それはいずれ虫と錆で、傷物になる。盗人が穴を開け忍び込んで盗んでいく。それは事実でしょう。しかしむしろイエス様は「神の前で富むこと」を言います。「富は天に積みなさい」と。別の聖書の訳ですと「宝は天に蓄えなさい」ともあります。それは虫もつかない、錆びることもない、盗人があけて盗むこともないと。やはり初めに言いました。イエス様はここでも「天」を人々に指し示しています。一貫しています。ルカ12章8節でも、「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言う

と、イエスに「知っている」と認められることに、救いのすべてはあることを伝えています。そして、その知ってもらう道は何より信仰のことを意味しています。どんな艱難や苦しみ、それが死であっても、一羽のスズメを忘れないほどに、決して見捨てることも忘れることもなく、憐れみ、愛し、友と呼び、そして十字架で私たちのすべてを担われる神の御子キリストを、私たちが信じること、信頼することこそ、何より必要なことであると言うのが、イエス様が福音書を通して伝えるメッセージの核心なのです。ですから、まさに神の前で富むことは、何かというと、それは、信仰のことだと言うことです。宝を天に蓄えること、それも信仰です。信仰に生きることです。信仰にあって、神を信じ、その神からの救いを喜び安心するがゆえに、喜んで応えていく、つまり、神を愛し隣人を愛することです。引用したマタイの福音書でも、そうです。この19節の前には、主の祈りが教えられています。先週お話ししました、イエス様がこう祈りなさいと与えてくださった福音の祈りです。そして、その後は、断食や祈りをするのにも、人に見られるようにではなく、隠れたところの見ている天の父に見られ父に報われるようにと教えています。それも人に見られるためではない、人にどう見られるかどう思われるかでもない、ただ神への信仰による行いを教えています。そして21節の続きの結びは、神の国とその義とをまず第一に求めなさい、と、信仰を示しています。

 天に宝を積むこと、蓄えること、神の前で富むこと、つまり信仰、それがいのちの道、真理の道、救いの道であることこそ、イエス様が今日も、このところから、私たちに伝えるメッセージなのです。

 イエス様は一見、この人を、批判しているように見えるかもしれません。しかし最も大事なことをイエス様はこの人に伝えているのです。もちろん「人の前」では、この人の期待している通りの答えではありませんでした。けれどもまさにここにいのちがあるというイエス様の福音のメッセージが彼に語られたのです。それがイエス様の彼への愛であるともいえるでしょう。

7、「おわりに」

 幸いではありませんか。天に宝を積むことができる幸いに私たちがあることは。イエス様は、決して地上の必要はどうでもいいとは結んでいません。マタイの福音書の山上の説教の有名な言葉、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」も、信じなさい。そうすれば、それに加えて、「これらのもの

、つまり何を着ようか何を食べようかということを言っているのですが、それらのものはすべて与えられるとも、イエス様は言っています。大事なことは、信じることです。イエス様こそ私たちのいのちのすべてであり、救いであると。イエス様とイエス様の言葉こそ真実であり、恵みによって取り囲まれた人生であり、そのイエスの福音とその恵みこそ、新しい命の日々の歩みを本当の豊かにする宝であると、信じ、救いを確信することです。その信仰さえ、恵みとして与えられる賜物であると、聖書は教えています。その信仰こそ、喜び、平安、感謝が溢れさせ、何より神の前で富むこと、天に宝を積むことなのです。今日もイエス様は私たちにその罪の赦しと新生の福音と恵みを、そのまま受けるようにと、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、福音をうけ、今日も信仰を新たにされ、平安のうちに、私たちの救いの道、いのちの道に遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン