スオミ教会チャーチカフェ 2025/4/5(土)11:00~16:00

チャーチカフェ

 

ティモとマリリーサの歌と演奏を是非お聴きください。

チャーチカフェでお会いしましょう!あと、お二人は、スオミ教会の3月30日の礼拝にも出席され、ティモさんが説教奉仕をされます。あわせて是非いらして下さい。

2025年度の年間主題と年間聖句について

3月2日(日)主日礼拝後に2024年度の年次総会が開かれ、活動報告の総括、会計報告を行い、新年度の予算と活動計画や年間主題と聖句などの議案を採択しました。 以下、牧師報告の主要部分(実名は伏せました)と年間主題と聖句に関する議案を紹介します。どうぞご覧ください。

牧師報告(抜粋)

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである。」 
マルコ4章20節

あるキリスト教団の神学校の校長先生が述べたこと、「以前は何もしなくても教会には人が集まって来たが、今は何をやっても集まって来ない」。これは、伝統的なキリスト教会ではどこも同じ思いではないかと思います。スオミ教会だけの問題ではありません。

昔は、倫理とか正義とか生きる意味について悩み考える人にとって聖書は真っ先に手にする書物の一つだったのではないかと思います。今の時代は、キリスト教以外にも宗教的なもの哲学的なもの心理学的なものが沢山出回り、キリスト教は数あるものの一つに過ぎなくなって以前より目立たなくなったのではないかと思います。かつて問題意識を持った人たちが教会の門を叩いたのとは違い、今は悩みの解決、苦痛からの解放が関心事になったのではないかと思います。そうなれば「罪」について話すことは悩みや苦痛を軽減するどころか増やすことになると警戒されタブーになります。心理セラピーが跋扈し、キリスト教会も心理学やセラピーの手法を取り入れるようになるのは当然です。

かつて日本人にとって憧れと尊敬の的だった欧米世界もキリスト教離れが進み、逆にその反動でかけ離れた主張をするキリスト教派も出てきたりして、それもキリスト教に魅力を感じさせなくなっている一因になっているのではないかと思います。

伝統的なキリスト教会の多くで高齢化が進み、後が続かない状況にあるのは、かつて真っ先に聖書を手にした人たちが高齢者となり、その後の世代の人たちはキリスト教がかつての輝きを持たない時代に育ったということではないかと思います。(以下 省略)

2025年度の主題と主題聖句について

新年度の聖句と主題を決める際に以下のルターの聖句の説き明かしを元にしました。聖句はローマ15章4節「忍耐と聖書の慰め励ましを通して私たちには希望があります。」

「この聖句でパウロは二つのこと、すなわち忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たち

に負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。『私はあなたと共にいて、あなたを守る。』

キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。

もし聖書が、私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでないとできないのだ。」

以上のルターの説き明かしに基づいて本年度の主題は「罪の赦しの恵みに生きる者にとって逆境は聖書から慰めと励ましを得るチャンス」としました。

聖句のローマ15章4節ですが、新共同訳だと「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。ルターの説き明かしは、忍耐は忍耐、慰めの方は聖書由来という理解に基づいています。これは、ギリシャ語原文がそうだからです(ルター訳ドイツ語聖書の1920年版を参照)。「忍耐」も「慰め」も両方とも聖書由来という書き方は新共同訳だけでなくフィンランド語訳も英語訳(NIV)もそうでした。スウェーデン語訳はギリシャ語原文とルター訳を踏襲して補足もしてありわかりやすいので選びました。

主題聖句 ローマ15章4節

「私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。」(スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)

以上

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

パイ

3月の料理クラブは15日(土)13時から開催します。

今回の料理クラブではパーティーの人気メニューの一つツナ&ベジタブル・ピーラッカを作ります。パイ生地の上に缶詰めのツナ、炒め野菜、チーズをのせてオーブンで焼くと美味しいピーラッカができ上がります。チーズの組み合わせでツナも滑らかな味わいになります。このパイとサラダのコンビで立派な食事になります。

是非ご一緒に作って味わってみませんか!

参加費は一人1,500円です。パイ

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月8日の日課から

これぞ、キリスト信仰者が苦難困難に遭遇した時の心意気!

「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇118篇1節)

『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」

この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなること善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられますように。」

これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正しくて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。』

このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えきれない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれない出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるようになると。

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教会のカレンダー

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手芸クラブの報告2025年2月26日

ストール

2月の手芸クラブは26日に開催しました。前日までは寒い日が続きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。

今回は1月の手芸クラブに続いてストールを編みました。初めに前回参加された方々がお家で頑張って編み続けたものを見せて下さいました。「きれいな色ね」、「可愛らしい」「暖かそう」「柔らかい」とお互いにほめたたえる声が。皆さん「Silmukannostotekniikka」が上手になってストールをきれいに編まれました。それぞれ色がきれいで、完成されたかたもいらっしゃいました。

前回参加された方はストールを編み続けます。始めて参加された方はストールを前回と同じやり方で編み始めます。始めての方もあっという間に「Silmukannostotekniikka」が編めるようになって網の模様が見えてきました。それを他の参加者に見せると「色合いが可愛い」との声が聞こえてきました。

ストール皆さんはおしゃべりをしながら編み続け、ストールはどんどん長くなって完成させた方もいらっしゃいました。

今回、お家で編み始めた方はマフラーを持参してそれを編まれていました。長いものになっていましたが、これからどのようなものになるか楽しみです。

春に向かって暖かくなりますが、まだストールが必要な寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたストールを首に巻いたら暖かくなるでしょう。自分で編んだものだから特に暖かさも身近に感じるのではないでしょうか。

編み物に集中した後はコーヒータイムで一息入れます。今フィンランドではラスキアイスプッラの時期なので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、フィンランドのラスキアイネンの日の過ごし方やラスキアイネンから始まる受難節、イエス様が盲人を癒やす奇跡の業の出来事についてのお話がありました。今回も楽しい歓談のひと時を一緒に持ちました。

次回の手芸クラブは3月26日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブのお話2025年2月

フィンランドのカレンダーでは来週の火曜日はラスキアイネンと呼ばれる日です。この時期になると多くの家庭ではラスキアイスプッラを作って美味しく味わいます。ラスキアイスプッラはちょうど今の期間にお店でも喫茶店でも一番多く販売されています。

ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。今年は4月20日でいつもより遅くなります。それで今年のラスキアイネンの日は遅くて来週の火曜日となります。

パンラスキアイスプッラは普通は1月頃から「受難節」の前までの期間に食べられます。フィンランドではラスキアイネンをどのように過ごすでしょうか。この日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中そりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るか競争したので、その日は学校に行く前に朝5時や6時に滑ったこともあります。

ラスキアイネンの日が過ぎたら受難節に入ります。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、人によって好きなお菓子を食べないとかSNSを使うのを減らすとか生活に変化を与えることをする人もいます。受難節を少しでも意味のあるものにしようとするのです。

受難節は自分の生活を新しい視点で見るのに良い期間だと思います。生活の中には慣れることが多くていろんなことが当たり前のことになります。当たり前のことの中に何か問題や新しい事が起きても気がつかなくなってしまうかもしれません。その時、私たちは目があっても見えない人のようになってしまうかもしれません。しかし見えるようになるために時々助けが必要です。

ここで新約聖書の「ヨハネによる福音者7章」にある、イエス様が盲人をいやす奇跡の業の出来事を紹介したいと思います。イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない男の人を見かけられました。弟子たちはその男の人を見て、「この人が生まれつき目の見えないようになったのは、彼が罪を犯したからですか?彼の両親ですか?」と聞きました。そこでイエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエス様は唾で土をこねて目の見えない人の目にお塗りになりました。イエス様はその人に「シロアムという池に行って洗いなさい」と言いました。その人はイエス様が言われたことを疑わずにその通りにしました。すると目が見えるようになったのです。この人は目で見えるようになりましたが、それだけではなく心の目も開けかれました。それではイエス様が天の神様の子でこの世に送られた方であるとわかって信じるようになったのです。

CC0受難節は聖書を読むのに良い期間だと思います。聖書を読みイエス様を信じることには、私たちの心の目をあける力があります。生活の慣れて当たりまえになってしまったいろんなことの中で、天の神様の愛やみ心は何だろうかと考えるようになります。中には難しいこともあって、神様の愛やみ心をはっきり分からないかもしれません。でも、それは神様が私たちに祈りなさい、と勧めていることなのです。神さまの愛や御心がはっきり分かって大きな喜びに包まれたら、神様に感謝しなさい、ということなのです。

神さまが私たちの心の目を開くと、全ては新しい目で見ることが出来るようになります。

牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月7日の日課から)

キリスト信仰は「する」信仰ではなくて「受け取る」信仰であること、「受け取った」後で「する」ことが出来るようになる信仰であると教える説き明かしです。

「主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう」(イザヤ62章2節)

『我々が「キリスト教徒」と呼ばれるのは、良いことを沢山するからではない。キリストから受け取り、キリストから頂くからそう呼ばれるのだ。キリストから受け取ることを止めたら、もうキリスト教徒ではなくなる。「キリスト教徒」という呼び名はひとえに「頂く」ことに基づくのであって、「する」ことに基づくのではない。キリスト以外の何ものからは受け取らないことに基づくのだ。

もちろん、人は良いことをしなければならないし、他者を助けたり、助言を与えたり、与えたりしなければならないというのはその通りである。しかし、そのために人がキリスト教徒と呼ばれるのではない。ものを白さのゆえに白と呼び、黒さのゆえに黒と呼ぶように、また大きさのゆえに大きいと言うように、我々がキリスト教徒と呼ばれるのは、我々と結びつき我々が良きもの全てを頂くお方、すなわちキリストのおかげなのである。

もし私がキリストのおかげでキリスト教徒と呼ばれるのならば、自分が行った良いことのゆえにその名を持つのではない。それゆえ、誰も行いのゆえにキリスト教徒にはならない。行いのゆえにキリスト教徒になると教える者は、はっきり言ってキリスト信仰の裏切り者である。

行いのゆえに、私のことを「断食をする者」とか「祈る者」とか「巡礼をする者」と呼ぶことができよう。しかし、それでキリスト教徒とは言えない。たとえ、私が行った良いこと全てをかき集めて、それに他の人の良い行いをつけ加えても、それでキリスト教徒になるのではない。キリストはそれらとは全く別物であり、神が命じることや人間が作った掟をはるかに超えるものである。そのキリストから受け取ることに徹すれば、私がキリスト教徒と呼ばれるのには正当な理由があるのである。』

イエス様が十字架と復活の業をもって築いて下さった計り知れないものを受け取り続けることがキリスト信仰の真髄です。本気で受け取ろうとすれば、私たちの器はすぐ一杯になります。そこから溢れ出たものが良い業になって出ていきます。十分受け取っていないのに、何かをしようとすると無理強いになって力尽きてしまいます。ここスオミ教会の礼拝でも、皆さんのキリストから受け取るものが最大限になるように努めてまいる所存です。

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牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月14日の日課から

重い皮膚病を患っていた10人をイエス様が癒す奇跡を行った時のこと。

「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。」ルカ福音書17章15節

以下、ルターの説き明かし

『福音書は、鍛えられて経験を積んだ信仰がどんな業を行うかについて教えてくれる。ある人たちは神のために教会を建て、別の人たちは神のために教会の鐘をならし、他の人たちは神のためにロウソクに火を灯す。あたかもそうすることで神がよく見えるようになるかのように。彼らが行う業は実は、神というのは我々から良いものとお仕えを必要とし、それらがないと何もできないような子供扱いでそうするのである。

神への正しいお仕え、正しい礼拝とはそのようなものではない。神のもとに戻り、声高に神を賛美することが神への正しいお仕えであり礼拝である。それこそ、天においてもこの地上においても最も偉大な業であり、我々が神に対して成しえる唯一の業なのである。その他のものを神は必要とはしていない。神がなさることは、我々の神に対する愛と賛美を受け取ることだけである。

神のもとに戻るというのは、神から頂いた恵みとその他の良いものを神のもとに持ち帰ることである。それらのものを自分のもとに留めないことである。それらにしがみつかないことである。それらのゆえに他人に対して優越感を抱かないことである。それらをもとにして栄光を求めないことである。いかなる点においても他の人たちよりも優れた者として立ち振る舞わないことである。それらをもとにして自分を愛することをしないことである。そういう自己愛を享受しないことである。享受、自己愛、誇り、栄光は全て、それらを与えて下さった神のところにあるのが当然である。我々のところにあるべきものではない。だから我々は、神は私たちに与えた賜物をまたご自分のもとに引き戻される方でもおられるのだということを心に留めてこの真実に下に自分を服させていよう。そして神がそうされる時も、賜物があった時と同じ位に神を賛美し愛そう。しかし、実際どれくらいの者がこのように神のもとに戻るだろうか?10人のうち一人でもいたらいい方だろう。』

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手芸クラブのご案内 2024年2月26日(水)10時~13時

ストールを編んでみませんか。

2月の手芸クラブは1月に始めたストール編みの続きです。表面が網のようになるテクニックを使ってストールを編みます。

フィンランド語で「Silmukannostoneule」という編み方です。詳しくはクラブでご説明します。

持ち物: モヘア毛糸40g

メリノ毛糸または他のウールの毛糸30g

毛糸に合わせて編み棒2本

参加費: 1000円

毛糸のご用意が難しければ、こちらで用意しますので、お好みの色をお知らせ下さい。申し込みの際にご連絡くだされば幸いです。

手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。

皆様のご参加をお待ちしています。

おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話もあります。

電話03-6233-7109
福音ルーテルスオミ・キリスト教会

 

料理クラブの報告2025年2月8日

今年最初の家庭料理クラブは2月8日に開催されました。今回は寒い季節にも合うフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作りました。カルヤラン・ピーラッカは日本でも近年よく知られるようになったので多くの方々が興味をもって参加されました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカの生地を作ります。材料を順番にボールに入れて捏ねていくと生地の出来上がりです。それを、作るピーラッカの個数に分けて一つ一つを丸め、麵棒で薄く伸ばします。参加者の皆さんはカルヤラン・ピーラッカ用の麵棒で生地をよく伸ばせるようになって、薄い皮がどんどん増えていきます。その次は、丸形の薄めの生地の上にお米のお粥をのせて広げます。それから、ピーラッカの周りの皮を人差し指で閉めていくとピーラッカの形になっていきます。

きれいな形に作るのは難しいですが、皆さんとても上手に作っていました。そうして、鉄板にはきれいな形のピーラッカがあっという間に沢山並びました。ピーラッカは300℃くらいの高い温度のオーブンで焼きます。しばらくして台所から美味しそうなピーラッカの香りが漂ってきたので味わうのが待ち遠しくなってきました。ピーラッカを焼いている間に玉子バターを準備します。焼き上がったピーラッカに溶かしたマーガリンを塗って出来上がりです。


お皿の上に玉子バターとサーモンをきれいに盛りつけてピーラッカを美味しく頂きながら歓談の時を持ちました。最後にカルヤラン・ピーラッカの歴史やカルヤラの人たちが大事にしていたもてなしの心、そして聖書の「マルタとマリア」のお話を聞きました。

 

今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝します。次回の料理クラブの日程は未定です。決まりましたら教会のホームページに案内を載せますのでどうぞご覧ください。

 

料理クラブお話2025年2月8日カルヤラン・ピーラッカ

カルヤラン・ピーラッカはフィンランドの食文化のシンボルです。それは歴史を辿ってフィンランドの国民食になりました。カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まり、もともとはただピーラッカと呼ばれていました。そのピーラッカはどのようにフィンランド全国に広がって国民食になったでしょうか?

第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られてしまいました。そこに住んでいた人たちは自分の故郷を去らなければなりませんでした。当時フィンランドでは他のヨーロッパの国々と違って難民の人たちに一時的な住まいを建てることはしませんでした。彼らをフィンランドの西の地域の家庭に分散して住まわせたのです。それで東と西の地方の人たちは一緒に暮らすようになって、ここから二つの文化の出会いが始まったのです。食文化はその一つです。新しい地域に移住したカルヤラの人たちはカルヤラン・ピーラッカやパンを自分の故郷と同じように作るようになりました。出来上がりのカルヤラン・ピーラッカを住まいを提供している家族の人たちにも分けて一緒に食べました。フィンランド人は最初はカルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。彼らは「パンはパンとして、お粥はお粥として食べるものだから。」と言っていました。カルヤラン・ピーラッカのようにパンとお粥を一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。しかし彼らもカルヤラン・ピーラッカの味覚が好きになっていつの間にか全国に広がっていきました。そして、カルヤラ地方の伝統的な食べ物だったカルヤラン・ピーラッカは、今ではフィンランド全国にとって伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。

カルヤラの人たちが食文化の他に大事にしていたことがあります。それが、彼らがもてなしがとても上手でもてなしは彼らのライフスタイルと言われていました。1925年に出版された雑誌には「カルヤラの人たちにはもてなしの心がある」と書かれていました。彼らは自分の故郷を去らなければならなず、いろいろなものを失われましたが、滞在した場所でももてなしを大切にして作ったものをいつも分けて一緒に味わいました。カルヤラの人たちを通してフィンランド人のもてなしが豊かになったかもしれません。

フィンランドでは昔は近所の人たちはお互いに尋ね合ったりしてもてなしを大事にしていました。お客さんにいつもコーヒーの他にお菓子を何種類も出しましたが、「家には何もないんです」などと言っていました。

現在はもてなしの仕方はもっと簡単になったと思います。

もてなしは聖書の中にもよく出てきます。一つ有名な「マルタとマリア」のお話を紹介したいと思います(ルカによる福音書10章38-42節)。

ある日イエス様は弟子たちと一緒にマルタとマリアという姉妹の家を訪問しました。マルタとマリアはイエス様の親しい友達でした。イエス様と弟子たちは家の中に入ると、お姉さんのマルタは美味しい食事を出したかったので、すぐもてなしの準備を始めました。マルタにとってイエス様は有名なお客様だったので、良いもてなしをしたかったのです。でも妹のマリアはどうしたでしょうか?マルタが驚いたことに、マリアは食事の準備を手伝わないで、イエス様の足元に座って、弟子たちと一緒にイエス様の教えを聞いていたのです。忙しくしていたマルタは、イライラしてしました。それでマルタはイエス様のところに行って、マリアも一緒に食事の準備をするように言って下さい、とお願いしたのです。この場面を考えると、マルタの気持ちがよく分かります。一生懸命もてなしの準備をしていたのに、マリアが手伝わないでただイエス様の足元に座っていたのです。これではイライラしてしまうのは当然でしょう。もし私がマルタの立場でしたら、同じように考えたと思います。

描画 www.christiancliparts.net 2006-09-01 by MMBOX PRODUCTION

イエス様はマルタにどのようにお答えになったでしょうか?「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それはとりあげてはならない。」このように優しくお答えになりました。イエス様の答えはきっとマルタを驚かせたでしょう。イエス様の答えは何を意味しているでしょうか?イエス様はマルタのことを批判することではなく、マルタがやっているもてなしの準備をやめなさいとは言いませんでした。それではなくて、「しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃったのです。料理とか、もてなしとか、生活の中で必要なものは私たちにとって大事ですが、それらよりもっと重要なことがあります。それはイエス様が教えられたように天と地と人間を造られた神様について知って信じることです。マリアはイエス様の足元に座ってイエス様のお話を聴いていたのはこの為だったのでした。

イエス様がおっしゃった「良い方を選んだ」とはどんな意味でしょうか? それは天の神さまの側にいて神さまのお話を聴いてその話を通して癒されることです。そして、神様の計りしれない愛を知ってイエス様を通して与えて下さる救いを受け取ることです。神さまは愛と救いを聖書のみ言葉を通してもっと豊かに与えて下さいます。イエス様が言われたように「取り上げてはならない」ものです。

故郷を失ってカルヤラの人たちがカルヤラン・ピーラッカを作って住まいを提供してくれた人たちに分け与えたのは美しいもてなしでした。イエス様は私たちをみ言葉を通して私たしの魂に栄養を与えてくださいます。イエス様はみ言葉を通して私たちをもてなして下さるのです。そのことを忘れないように行きましょう。