牧師の週報コラム

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」6月29日の日課から)

キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その3)。

『私の魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。』 (詩篇1306節)

『キリスト信仰者の魂の状態はいかなるものかと問われれば、それは主を待ち望むことに尽きるということになる。それはまたキリスト信仰者の人生そのものである。この聖句でダビデが言い表しているのは、意識の全てを満たすような真剣かつ不断の待ち望みである。彼は我々に次のように教えたいのだ。「もし君が主を待ち望むことを始めたのなら、諦めてはならない。日が沈み夜が更けていこうとも、朝は再び来るのだから待ち望むことを諦めてはならない。洗礼を受けて霊的に新しくされた人は、主を待ち望むことが人生そのものになる。その人の外面的な部分に何が起ころうとも、内なる新しい人は待ち望みながらずっと続いていく。

待ち望むことができずに、神に対して助けの時と手段と数値を設定したがる人たちがいる。そういう人たちは、いかなる仕方で自分たちを助けなければならないかを神に提案するのだ。そして、その通りにならないと、彼らは絶望して道から外れ、助けを別のところに探し求める。そのような人たちは主を待ち望むことをしない。主の方こそ彼らを待ち望まなければならないと思っているのだ。主は彼らが定めたやり方ですぐ助けられなければならないという考えなのだ。

これとは逆に、主を待ち望む者は神の恵みの業を祈り求め、いつ、どのようにして、どこで、何を介して助てくれるかということを全て神の御心に自由な気持ちで委ねるのだ。彼らは神から助けが来ることを疑わない。助けに時間がかかっても、助けの形態を神に代わって決めることをせずに待ち望むのだ。これに対して、どのような仕方で助けてあげなければならないかを定める者には助けは来ない。神の御心に合致する時を待つことができないからだ。』

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2025年5月25日(日)復活節第六主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年5月25日復活後第六主日 スオミ教会

使徒言行録16章9-15節

黙示録21章10、22節-22章5節

ヨハネ14章23-29節

説教題

イエス・キリストのシャーローム

שלומ יהושע משיח

Η ειρηνη Ιησου Χριστου

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は戦争がない状態と理解されます。今私たちはウクライナやガザの戦争が一日も早く終わるようにと願い毎日祈っています。ところが世界には他にも武力衝突があったりもうすぐ起きそうなところもあったりして世界から平和が失われていく状況があります。また他国の攻撃に備えるためと言って軍備の増強があちこちで進められています。そんな時世にイエス様が平和を与えると言っても空しく聞こえてしまうかもしれません。

 ここでイエス様が与えると言った「平和」について立ち止まって考えてみます。イエス様は「私の与える平和」と言い、この世が与える平和とは違うと言います。イエス様が与える平和とはどんな平和なのでしょうか?イエス様はまた、自分の平和を与える時、この世が与えるような仕方では与えないと言います。イエス様はどのような仕方で平和を与えて下さるのでしょうか?

 このことについて宗教改革のルターが上手に教えています。以前にも紹介したことですが、要点だけ復習すると、この世が与える平和とは外面的に害悪がない状態のことである、イエス様が与える平和とは外面的にはいろんな害悪、疫病とか敵、貧困とか罪や死それに悪魔といった害悪が私たちに襲い掛かって来ても失われない平和である。この平和を頂くと、心は外面的な不幸に左右されないばかりか、不幸の時の方がかえって勇気と喜びが増し加わる。まさに使徒パウロがフィリピ4章7節で言うような「人知を超えた神の平和」です。

 このようにルターは、外面的には平和がなく不幸や害悪があっても内面的にはそんなことに動じない平和があるというのです。こんなことを聞くと、「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいだ、キリスト教と禅仏教には共通点があるなどと言い出す人がでるかもしれません。しかし、共通点はありません。「心頭滅却」の方は苦難や苦痛に遭遇しても心を無にすれば苦しみを感じなくなるという意味ですが、キリスト信仰の方は心を無にしません。全く逆です。神から頂くものを心で受け取って受け取ってとにかく受け取って、それで心を一杯にして苦しみに埋没しなくなる、そしてしまいには苦しみを踏みつぶして前に進んでいくということです。それなので、イエス様が与える平和を理解しようとしたら、まず神から頂くものは何かがわかってそれで心を満たさないといけません。以前の説教で今日の聖句を扱った時、イエス様が与える平和とは外面的な平和が失われても揺るがない内面的な心の平安であるとお教えしました。今回も同じ内容のことをお話ししますが、少し角度を変えて見ていきます。

2.シャロームの観点

 本日のイエス様の言葉が書かれているヨハネ福音書は古代ギリシャ語で書かれています。イエス様が言われる「平和」はエイレーネ―という言葉です。ただし、イエス様が弟子たちと会話した時の言葉はアラム語という言葉でした。ギリシャ語のエイレーネ―の元にあるアラム語の言葉は間違いなくシェラームでしょう。これは言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームから来ています。イエス様の時代、ヘブライ語は(後に旧約聖書を構成する)神聖な書物の書き言葉で、律法学者とかファリサイ派のようなユダヤ教社会の知識人エリートが判読できる言葉でした。一般の人はアラム語を話して生活していました。アラム語は文字はヘブライ語と同じ文字を使いますが、文法は古代シリア語に近いのでヘブライ語とは異なる言語です。

 さて、ヘブライ語のシャーロームですが、「平和」の他にもいろんな意味があります。辞書(HolladyのConcise)をみれば、健全な状態、無傷な状態、欠けるものがない状態、繁栄とか成功という意味があります。平和の意味もつまるところ、国と国、人と人との関係がそういう健全な状態、無傷な状態、繁栄した状態になるということです。アラム語のシェラームは挨拶言葉としても用いられるようになります(エズラ4章17節、5章7節、ダニエル3章31節、6章26節)。ヘブライ語のシャーロームも挨拶言葉になりました。「あなたに平和がありますように」という挨拶は、「あなたが健全な状態、無傷な状態でありますように、あなたに繁栄がありますように」という意味を持ちます。ここで大事なことは、これらの望ましいシャーローム、シェラームは、みな神から与えらるということです。それで挨拶は、神があなたを顧みてこれらの善いものをお与えくださいますように、という意味になるのです。

 そこで、イエス様が与えると言った平和、シェラーム、シャーロームとはどんなものなのでしょうか?この世が与えるようには与えないのなら、どのように与えるのか?シャーロームが健全、無傷、繁栄、成功を意味し、もしそれらが揃っていれば、シャーロームがあることになります。神が顧みて下さったと思うことができます。ところが、もし、それらがなかったらどうなるでしょう?病気になったり、傷がついたり、失敗したり、没落してしまったら、シャーロームではなくなってしまう、それは神から見捨てられてしまったことを意味するのか?ここで、ルターが教えたことを思い出します。ルターは、外面的に害悪があって平和が失われた状態でも、内面的には失われない平和がある、そのような平和があれば、外面的な厳しい状態に立ち向かっていける、そういう平和をイエス様は与えると教えるのです。健全、無傷、繁栄、成功はもちろん神が与えてくれるものです。しかし、それらがなくなってしまったら、それは神から見捨てられた証拠だなどと言ってしまったら、シャーロームを神から切り離してこの世が与えるものに貶めてしまうことになるのです。イエス様は、普通に考えたら健全、無傷、繁栄、成功はないのに、実はそれらはあるというシャーロームを与えると言われるのです。それで、この世が与えるようには与えないと言われるのです。イエス様が与えるシャーロームとはどのようなものなのでしょうか?

3.神とのシャーローム

 イエス様が弟子たちにシャーロームの約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。その後で十字架の出来事が起こり、その三日後に死からの復活が起こりました。イエス様が神の力によって復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間が神から罪の罰を受けないで済むように、神のひとり子が身代わりになって受けて下さったということです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになれるのは、神がイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたからです。

 このようにイエス様の十字架の死と死からの復活は、神がひとり子を用いて人間に自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の出来事が起きて人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が入り込んで結びつきは失われてしまいました。神の神聖さとは罪を焼き尽くさずにはおかないものだからです。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神との関係が健全・無傷でなくなり、没落と失敗になってシャーロームがなくなったのです。神と人間は敵対関係に陥ったのでした。

 しかし、神はひとり子を用いて人間が失ったものを回復する道を開いたのでした。人間はこの神の救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当にメシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのはあの時代の人たちだけでなく後世を生きる私たちにも向けられているんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを受けられ神との結びつきを回復するのです。神との結びつきが回復すると今度は、復活した主が切り開いてくれた道、死を超える永遠の命への道に私たちは置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと導きを与えて下さるということです。この世から去った後も、復活の日に目覚めさせてくれて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。このように神との結びつきを回復した人は神との関係が無傷な状態、無欠な状態、繁栄した状態、成功した状態になるのです。神との関係がシャーロームになるのです。まさに使徒パウロがローマ5章1節で「主イエス・キリストによって神との間に平和シャーロームを得ている」と言っている通りです。そのシャーロームはイエス様が成し遂げた十字架と復活の業を心で受け取ることで得られました。だから、イエス様が与えるシャロームなのです。この世が与えることができないシャーロームなのです。

4.失われないシャローム

 しかしながら、私たちが生きているこの世というところは、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力が沢山働いています。例えば、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者と言えども、内側には神の意思に反する罪が残っています。さすがにそれを行為に出して犯すことはしなくても、言葉に出してしまったり、心の中で思い描いたりしてしまいます。まさにその時、お前は神の前では失格者だ、赦されたなんていい気でいるのもそれまでだ、などと糾弾する者がいます。言うまでもなく悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて自覚を失意と絶望に増幅させます。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。ヘブライ語の言葉サタンには非難する者、告発する者という意味があります。文字通り、悪魔は私たちを神の前で告発するのです。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われました(14章26節)。

 私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて私たちを責めるようになっても、聖霊は神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエスの十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエスを救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです。」すかさず今度は私たちに向かって言われます。「心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているんですよ!」洗礼を通して聖霊を受けた私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた父なるみ神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい。

その時、私たちは安堵と感謝に満たされて、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正すでしょう。本日の福音書でイエス様が言われるように、彼を愛する者は彼の言われたことを守ることが本当のことになる瞬間です。キリスト信仰者は罪の自覚と告白と赦しを受けることを繰り返すことで、神との関係がシャーロームであることがますます真理になっていくのです。

 内に残る罪の他に、もう一つキリスト信仰者から神との結びつきを失わせようとするものがあります。私たちに何か神の意思に反することがあったわけではないのに苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいと思ってはいないのではないか?という疑いが生じてきます。一体自分に何の落ち度があったのかと神に対して非難がましくなります。

 このようなことはヨブ記の主人公ヨブにもみられました。神の御心に適う正しく良い人間でいたのにありとあらゆる不幸が襲い掛かってきたら、正しく良い人間でいることに何の意味があるというのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところでたたみかけるように問いかけます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。私は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは私が造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、お前たち人間の知恵ではとても把握しきれない仕方で私の意思が働いている。なので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味ということにはならない。人間の知恵では把握できない深いことがある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

 神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて眠れる者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなことが出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかかり、復活されれたではありませんか!イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪を忘れてやる、過去のことは不問にする、新しく生きなさい、と言って下さるのです。

4.勧めと励まし

 神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで満足というような薄情な傍観者ではありません。神は、人間が自分との結びつきを回復して復活の日に無事に送り届けようと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをされたのです。なので、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもその道をしっかり歩めるように支援する責任があるのです。神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえない以上はそうなのです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も祈りも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援の形です。

 このようにイエス様を救い主と信じる信仰に留まり、罪の赦しのお恵みに留まって進んで行けば、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく見捨てられたなどということはありません。境遇を神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度に考えたら、シャーロームはこの世が与えるものになってしまいます。そうではありません。イエス様の成し遂げて下さった業のおかげと、それを心で受け取る信仰のおかげの二つのおかげで、私たちには神とシャーロームの関係があるのです。私たちの周りでこの世が与えるシャーロームが崩れ落ちても、イエス様が与えるシャーロームは最後まで残るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

牧師の週報コラム 

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」5月5日の日課から)

キリスト信仰者はじたばたしない、往生際が良いのだ(その2)。

『イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。』 (ルカ1714節)

『彼らがキリストを信じ始め彼から善いものを受けられるようになるや否や、キリストは彼らの信仰を鍛え試すことにした。主が目に見える仕方で彼らを癒すことをしないで、ただ単に祭司たちのところに行きなさいと言葉を発して命じたことが、その鍛え試しである。

主は私たちの信仰を鍛え試す時にも同じ方法を取られる。一体、主は私たちをどうされたいのだろうかと、私たちが理解に苦しむような仕方で私たちを試されるのだ。そのようになさるのは、私たちが彼の透徹した善性に身と心を投じるためであり、また、私たちが願い求めるものを主は与えて下さると信じて疑わないためである。場合によっては、願い求めたものよりももっと良いものを与えて下さるのだと。主の言葉を聞いた男たちは次のように考えたに違いない。「わかった、それなら私たちは主が行けと命じたところに行くことにしよう。たとえ主は、清めてあげるかあげないか、はっきり言ってくれなくても、彼のことを頼りにならない者だなどと考えたりはすまい。主はこれまでと何ら変わりのない救い主なのだ。だから私たちは、主の守りと導きに対してこれまで以上に密接に自分自身を結びつけよう。たとえ我々を清めて下さらなくても、代わりにもっと良いものを与えて下さるはずだ。それなので喜びながら主がどんな解決を与えて下さるかを待つことにしよう。」

よく見なさい、まさにこれこそが信仰にあって成長するということだ!このような試練は私たちキリスト信仰者の一生を通して絶えず繰り返される。主は、あることをもって私たちを試された後で、いつもすかさず全く別のことを始めておられる。そうするのは私たちの信仰と主に対する信頼を一層強めるためなのだが、それはあくまで私たちが最後まで信仰に立つ限りにおいてである。』

 

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スオミ教会・家庭料理クラブの報告

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5月の料理クラブは10日に開催しました。午前中は梅雨を思わせる雨模様でしたが、午後から晴れてきて春の天候に戻りました。今回はフィンランド的なドーナツ「ムンキ」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、ムンキの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを加えて、またよく捏ねて生地を仕上げます。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。その時一休みします。参加者の皆さんが楽しそうに会話しているうちに生地は大きく膨らみました。

次に丸いプッラの形を作ります。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、それを一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めていくうちに皆さん上手になってきて、きれいな丸いプッラが次々と鉄板の上に並べられていきました。そこで二回目の発酵をさせます。今回はお母さんと一緒に参加した小学生のお子さんが大人たちと一緒に上手に生地を丸めていました。

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二回目の発酵の時におしゃべりしながら次の準備をします。丸めたプッラは大きく膨らんでから油で揚げますが、一つひとつのプッラの真ん中にドーナツの穴を作ります。それを熱した油に入れると、きれいな焼き色のムンキが次々と並んでいきます。油の温度を調整しながら揚げていくと美味しいそうなムンキが出来ます。ムンキを温かいうちに砂糖で丸めるようにまぶして出来上がりです。

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さあ、出来たてのムンキをコーヒー・紅茶と一緒に味わいましょう!今回は特別な味わいのある「Marjapuuro」も合わせて作ったのでそれも頂きました。皆さんと一緒にムンキを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時にフィンランドの春の祭り「ヴァップ」についてと、空を飛ぶ鳥の自由やそれに関係する聖書のお話がありました。

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今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは6月14日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブのお話2025年5月

今日作った「ムンキ」はフィンランドの伝統的なお菓子の一つです。プッラの生地で作るものですが、油で揚げると、表面はサクサクして、中身は柔らかい味わいになります。ムンキはフィンランドの全国の喫茶店やお店で一年中売られていますが、一番売れる時期は4月の終わり5月の初めにかけてです。5月1日の「ヴァップ」という祭りの時にムンキは多くの家庭でも作られます。doonatsu揚げたてのムンキの美味しさは子どもたちの記憶にずっと残ります。この他にレモンを発酵させて作る甘酸っぱいレモナードも作ります。フィンランド語でシマと言います。これをムンキと一緒に味わうと、ヴァップの気分になります。

5月1日はフィンランドでは休みの日で、多くの人たちは様々なイベントに参加したり別荘に行ったりして楽しい一日を過ごします。長い寒い冬を乗り越えたフィンランド人が自由を強く感じる気持ちです。これから暖かい季節に変わり楽しいことが増えるので、皆が空を飛ぶ鳥のような自由を感じます。

ここで空を飛ぶ鳥の自由についてお話したく思います。息子はムーミンのシリーズが好きで今でもそのDVDを一緒によく見ます。最近見たエピソードでスノークが飛べるための翼を作りました。翼が完成すると、スノークはそれで本当に飛べるのか試してみたくなりました。彼は高い山に登って翼を背中に付けて飛び立ちました。ムーミンたちはそれを心配そうに見ていました。スノークは本当に飛べたでしょうか?驚くことに、スノークは鳥のように美しい青空をあちらこちらに飛びました。皆はそれをワクワクしながら見て自分も飛びたいと思いました。しかし突然強い風が吹いてスノークはコントロールを失って森の中にコロコロと落ちてしまいました。頭を怪我してスノークはとてもがっかりしました。

その夜スティンキーはこっそり翼を盗んでしまいました。スティンキーは体が小さくて軽いので、上手く飛べるかもしれないと思いました。スノークと同じ高い山の上に行って翼を背中に付けて飛び始めました。どうなったでしょうか。スティンキーも上手に飛ぶことが出来てもっと遠く行きたいと思って海の上まで飛んでいきました。しかしその時、また強い風が吹いてスティンキーは海に落ちてしました。tobimasuスノークもスティンキーも空を飛んでいる時は自由の喜びを感じたでしょう。しかしそれは長く続かず、しばらく飛んだ後で二人とも落ちてしまったのです。

この時私は旧約聖書の詩編のみ言葉を思い出しました。

「どこに行けばあなたの霊から離れることが出来よう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし よみに身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし 御手をもって私をとらえて下さる。」
詩編139篇7~10節

私たちもスノークとスティンキーと同じように鳥が空を飛ぶような自由を感じたいと思うことがあるでしょう。自由とは一体どういうことでしょうか。辞書を調べてみたら、自由とは、目的に向かって制限なく行動できるということでした。自分の意志を実現するために行動することです。それは特に若者にとって大切です。フィンランドには「子どもに自分の翼を試させよ」という言い方があります。それは子どもが親から離れて独立して自分の考えで生きていくという意味です。子どもは親の元を離れて自分で考えて生きることが出来るようになると、自由を感じます。

独立と自由について聖書は大切なことを教えています。先ほどの詩編の中に「どこに行けばあなたの霊から離れることが出来よう。」という言葉があります。それは、人間が自由を求める時、天と地と人間を造られた神さまから離れて自由に行きたいと願うことです。このよkagiうな気持ちはどんな時に起こるでしょうか。それは私たちが天の神さまが教えるように生きることが出来ない時です。つまり、神さまの教えに反したり何か悪いことをしてしまった時に神さま、私の好きにさせて下さいと、神さまから離れたい気持ちになります。しかし、私たちは本当に神さまから離れることが出来るでしょうか?いいえ、ダビデが言ったように「天に登っても、曙の翼を駆って海のかなたに行っても」天の神さまはそこにもおられるのです。おられるだけでなく、神さまはずっと御手を差し出して導いて下さいます。

私たちが自由を求めて失敗する時、それはスノークとスティンキーが空を飛んで落ちてしまったのと似ています。その時、天の神さまは自分に関係ないことと遠くから見ているだけでしょうか?いいえ、その時にも天の神さまは私たちと一緒にいて私たちを導いて下さるのです。私たちが落ちてしまう時も神さまは御手をもって私たちをしっかりと掴んで引き上げてくだるのです。私たちはこのことが分かって信じられるようになると天の神さまの御手の力に自分のことを全て委ねることが出来るようになります。その時、私たちはもう下に落ちないので本当に自由になるのです。

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2025年5月18日(日)復活節第五主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方とあるように。 アーメン                                                         2025、5月18日(日)

聖書:ヨハネ福音書13章31~35節

題:「互いに愛せよ」

今日のみ言葉はヨハネ福音書13章31~35節です。まず、今日の聖書はイエス様と弟子たちのどういう状況で語られているか、その事を理解した方が良いかと思います。ヨハネはイエス様が十字架になる前に弟子たちと最後の晩餐をなさいます。最後の晩餐の席上で弟子たちと別れの説教をされています。ヨハネは14章から16章までに長いページを使って、その説教を書いているのです。この説教は弟子たちに語られている,謂わば遺言と言える大切な説教です。そこで今日の13章31~38節まではその長い説教の序章のような場面であります。弟子たちと最後の食事をされている時、イエス様が「私が一切れの食物をスープに浸して与える者が私の裏切り者である」と言われて、イスカリオテのユダにお渡しになると、ユダはすぐに出て行った。そばにいた弟子たちは何の事かさっぱりわからなかった。受け取ったユダはこれまで秘かに心の中で計画しつつある裏切りのプランをイエス様に見透かされたことがわかったのでしょう。そこで一刻の猶予も出来ない、すぐにユダヤ教の司祭長たちと打合せるために出て行ったのです。これでユダの裏切りがはっきりした、この瞬間、イエス様の十字架刑の死がはっきり確信されて言われた。「今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになったのであれば神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる」。イエス様はご自分の十字架による死がイエス様の栄光の時であると言われたのです。

これはヨハネ独特の表現であります。イエス様が十字架につく時から勝利の栄光の時は始まったと言うのです。普通の人々、特にまたユダヤ人にしてみれば、十字架の死は癒しめの極みでしょう。十字架刑こそ最も苦しい痛みの死です。しかし神様の目から見れば、イエス様が十字架に死ぬ事はご自分のひとり子を罪人の世に送り罪人の代わりに罪の処理を十字架にかけると言う、イエス様の十字架はそこに神の愛を実現する栄光の時と言う事です。しかし、イエス様は既に続けて32節でこう言われています。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。」ここに,もう一つの「栄光」の事をお語りになります。これは十字架の「今」とは違って「すぐに」間もなく神から授けられる新しい栄光であります。神様のそばで神ご自身の世界でイエスに栄光をお授けになると言う栄光です。それは後になってわかる、イエス様が復活された後、神の世界に戻られる昇天なさる事に於いてお受けになる栄光であります。続いてイエス様は言っておられます。32節を見ますと、「子たちよ、いま、暫くは私はあなた方と共にいる。あなた方は私を探すだろう。『私が行く所にあなた方は来る事が出来ない』と、ユダヤ人たちに言ったように、いまあなた方にも言っておく。此処には7章33節のところで既に言っておられた事を弟子たちに言っておられる。

イエス様の敵であるユダヤ人に対しても言われたのですね。いま何だかんだと言っているが、もうすぐ世の光である私はいなくなる。その時はあなた方は、もう真っ暗闇になってしまって後悔しても遅い、あなた方は罪の内に死ぬであろう、とこういう警告としてお語りになったわけです。今度はその警告を弟子たちには36節以下のところで、ペテロの問いに対して言っておられるのは「私の行く所にあなたは今ついて来ることは出来ないが、後でついて来ることになる。それまでの僅かな辛抱なのだ。」というところがユダヤ人への警告と違う点です。ユダヤ人たちには「あなた方はついて来られない」また、「自分の罪のうちに死ぬだろう」と言い切っておられる。弟子たちには、私の所に確かに今は来る事は出来ないが、後になってついて来る事が出来る。この約束が弟子たちに与えられてゆくわけであります。そうして、イエス様が今暫くいなくなるときのための遺言を残されるのであります。それは「あなた方に新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい。」33節の冒頭に「子たちよ」と言われていますが、この福音書では此処にしか出てこない言葉ですがヨハネの第一の手紙では七回も出てくる。「小さい子供よ」「かわいい子供よ」と言う愛情を込めた小さい子供に使う言葉です。過ぎ越しの食事の時には必ず家長が「どうして種無しパンを食べるのですか」、「どうして苦い菜っ葉を食べるのですか」と言う子どもの問いに答えて過ぎ越しの物語を話してやる掟になっております。いま、イエス様は十一人の大人の弟子たちを前にして丁度お父さんが子どもたちに出エジプトのお話を聞かせるように「小さい子どもたちよ」と呼びかけておられます。それは愛する子どもたちを残して、子どもたちがついて行く時の父さんの遺言のようであります。イスラエルの12の族長がそれぞれ死ぬ時には遺言のようにして語った話があると言われています。「わが子どもたちよ、見よ、私は死んでゆく、わが祖父たちの道に行こうとしている」「わが子どもたちよ、お前たちに勧める。互いに兄弟を愛しなさい。自分中心の中から憎しみを取り除きなさい。み業と言葉と心の思いとに於いて互いに愛し合いなさい」こう言って子どものついて来ることが出来ない道に旅たって行く情景が描かれています。(12族長の遺言)

34節でイエス様が言われた、まさに遺言です。「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。」イエス様が此処で言われた遺言はどういう意味で「新しい」のだろうか。旧約聖書レビ記19章18節にありますとおり、「あなた自身のように、あなたの隣人を愛さなければならない」という古いモーセの昔からイスラエルで伝えられてきた戒めであります。イエス様が言われる弟子たちへの遺言の「互いに愛し合いなさい」という事がなぜ「新しい」のか。イエス様が言われる「互いに愛し合いなさい」は34節で言われたように「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」です。つまりイエス様が弟子を愛したように、イエス様が示された愛を手本にして「互いに愛し合いなさい」という意味です。この事は単なる手本と言うのではなく、もっと深い意味で「互いに愛し合う」愛が生まれてくる源であるのです。レビ記の古い戒めでは「あなた自身のように隣人を愛せよ」つまり私が私自身を愛すると同じ愛で「隣人を愛せよ」と言うのです。イエス様が弟子たちを愛した愛はそういう愛ではありません。イエス様はご自身を愛さなかった。ご自身を喜ばせなかった。ご自身を痛み、苦しみ、命を捨てる愛でした。イエス様は言われた「人が、その友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。ご自分を捨てるように愛されたのです。そのようにあなた方も互いに愛し合いなさい。これが新しい戒めです。このような愛はイエス様だけが私たちをも愛して下さっている愛です。私たちを作り変えて下さるのでなければ、とても持つ事の出来ない愛であります。

次に、ルカの福音書によりますと22章20節に、最後の晩餐の席でイエス様は盃を取り「この盃はあなた方のために流す私の血で立てられる新しい契約である」と宣言されました。今イエス様はご自身の血によって全く新しい自己犠牲的な愛を示す、契約の集団、言い換えると此処に教会が産み出されて来たわけです。こうして新しい契約で新しい戒めを与えられて生まれた教会は「互い愛し合う」それも自分を捨てるほどに互いを愛する、愛の絆によって一般の世の人々とは違うキリスト者となること。その事をイエス様は35節で言われた。「互いに会いしあうならば、それによってあなた方が私の弟子である事を皆が知るようになる。」

私たちの主イエス・キリストに従うことによって神の子とされ私たちは限りなくイエス様の歩まれた己の命を捨ててまで愛し合う愛を目指して行かねばならないのです。パウロはローマ人への手紙5章5節で言っています。「私たちに与えられた聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安があなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

牧師の週報コラム

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」5月7日の日課

キリスト信仰者はじたばたしない、往生際が良いのだ(その1)。

「今日立てるものは全てあなたの決定による。なぜなら全てのものはあなたに仕えるものだからだ。」(詩篇119篇91節 フィンランド語訳の聖書による)

注意 日本語訳は「この日に至るまであなたの裁きにつき従ってきた人々はすべてあなたの僕です」。私から何度も指摘しましたが、ヘブライ語のミシュパートは、日本語訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されますが、辞書にはその意味はなく、「仲介による決定」とか「正義」が基本的な意味です(辞書はHolladayConcise Hebrew and Aramaic lexicon)。日本語訳は意味不明なのでフィンランド語訳に従いました。ただし、フィンラン語訳には「なぜなら」がありません。ヘブライ語原文にはあるので付け加えました。)

『一般に、「運」と「不運」はお互いかけ離れたことを意味すると言われる。しかし、この御言葉を前にして理性は顔面蒼白になる。なぜなら、両者は実は背中合わせにあるくらい近い存在であるということをわからないからだ。そのことを我々は信じられなければならない。例えば、ヨセフが牢獄に閉じ込められていた時、彼はもう一生そこから出られないと思われた。しかし神は、全ての膝が彼の前に跪かねばならないことになると既に決定を下していたのだ。このように命と死は一方が他方の中に秘められていると言っていいくらい近い存在なのだ。死の中に命が、幸運の頂点の最中に不運が、貧しさと惨めさの中に豊かさ喜び祝いが、何も心配はないと思っていた人生の中に一瞬の死が秘められているのだ。

 同じことは我々の死にも当てはまる。我々が死に臨む時、それはあたかもそこに永遠に埋没してしまうかのように思える。しかし、まばたいた瞬間に今の天と地が終わって新しい天と地が創造される日になっている。その時、我々は声をあわせて叫ぶ。「ああ、私は永遠に生ける者になっている!」 

 以上のことを神は我々に聖書の中で数多くの事例をもって示しているではないか。神は低い者を高くし、高い者を低くされる方だ。全てのことはそうされる方の御言葉の通りに進む。それは、我々が神を除外して自分の知恵と力だけで物事を成そうとしないように、全てを最終的には神の御心に委ねるしかないと観念し全面的な信頼を寄せられるようになれるためなのだ。キリスト信仰者であれば、全てのことは一字一句自分の考えや計画通りにならないことは、これまでの人生の中で既に経験済みではないか。』

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牧師の週報コラム 

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」4月29日の日課

日本語で死期が近い状態を言い表す時、少し無作法な言い方ですが、「片足を棺桶に突っ込んでいる」などと言います。 宗教改革のルターは、キリスト信仰者とは左手をこの世に引っかけて右手は次に来る世に引っかけて生きる者だと言います。それは、片足を棺桶に突っ込んでいるようなレームダック(死に体)の状態なのでしょうか?いいえ、キリスト信仰では事情は全く逆であることを、ルターが次のように説き明かしています。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」(ルカ21章34節)

『これは、まことになくてはならない警告だ。我々は決して忘れてはならない。もちろん、主は飲み食いすることを禁じたりはしない。主は言われるだろう、「飲むがよい、食べるがよい。神はそれをお前たちにお許しになる。生活の糧を得るためにあくせくせよ。しかし、だからと言って、それらのことがお前たちの心を支配してしまって私の再臨に思いを馳せなくなってしまうようなことがあってはならない。」

 我々キリスト信仰者は人生の目的を永遠的でないこの世的なことに定めてしまうのは相応しいことではない。我々は自分自身の半分、つまり左手をもってこの世の人生を生きるべきだ。もう半分、つまり右手をもって主の再臨を心から待ち望むべきだ。その日、主はあらゆる王を超えた陛下の威厳と栄光を伴ってて再臨される。

 今ある天と地が終わりを告げる日まで、人は家を建て結婚式の祝宴を催し屈託のない日々を送っている。他には心に留めることは何もないかのように。しかし、主は言われる、「汝ら、キリスト信仰者として生きる者よ、今の世に終わりがあることを忘れるな。神を畏れかしこむ心を持って生き、神の前に立たされる日には大丈夫、私を救い主と信じているからやましいことはないと言い聞かせられる良心を保て。そうすれば、その日は何も心配はない。」

 我々はその日をいつどこで迎えることになろうとも、その日は我々にしてみればまことに幸いな日なのである。なぜなら、神を畏れかしこむ心を持ってその日を迎える我々は、まさにイエス様を救い主と信じる信仰がもたらしてくれた神の守りに包まれてその日を迎えられるからである。』

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手芸クラブの報告

キーホルダー

4月の手芸クラブは23日に開催しました。暖かい雨の日で梅雨を思わせる陽気でしたが、今は色んな花が咲いているので、とても美しい季節です。

今回の作品は前回に続いてバンド織りのキーホルダーです。はじめに前回と同じように参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。

それではバンド織りに入りましょう。まずワープになる毛糸をカードの穴に通します。穴は小さいので皆さん集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、自分の作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。以前参加された方だけでなく今回初めての方も手が早くて、間もなくして毛糸のきれいな色合いが見えるようになりました。慣れた方々はもう少しレベルアップしてハートなどの模様も作られました。皆さんは自分が作っているものに集中していましたが、他の方が作っているものにも興味があって少し見に行ったりしました。その時は、かわいい!きれい!素敵な色合いね!と感心し合う声があちこちから聞こえてきました。出来あがったNauhaに輪を入れて結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!

今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。イースター・パイナップル・マフィンを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、ハートやそれに関連してイースター復活祭の後に起こった出来事についてお話がありました。

次回の手芸クラブは5月28日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブのお話2025年4月24日

キーホルダー今日は前回に続いて、織物のNauha を作りました。皆さんと今日も素敵なNauhaを織ることが出来て、嬉しいです。今日はNauhaに可愛いらしいハートの模様も作りました。少し難しかったですが、織れるようになると、もっとたくさん作りってみたいという気持ちになります。次はどんな模様が織れるようになるのか楽しみです。

ハートのシンボルはあちらこちらで見かけられ、様々なことを象徴しています。例えば愛、友情、感謝、信頼などを象徴しています。最近は、友達同士がメールやメッセージでハートの絵文字を使って相手を喜ばせるのも、普通になっています。ハートは色んな意味を持っていますが、最も一般的なのはやはり愛でしょう。

キーホルダー聖書には愛について沢山書かれています。この前の日曜日はイースター復活祭のお祝いでした。スオミ教会でも盛大なお祝いを行いました。これからお話するのは、イースター復活祭の後に起こった出来ことです。イースターの前にイエス様が十字架で亡くなられましたが、三日後週の初めの日に天の神さまの力で蘇らせられたのです。その後イエス様は何度も弟子たちの前に現れました。弟子のペテロにも現れました。ペテロはイエス様が十字架に付けられる前にイエス様の裁判様の様子を遠くから見ていましたが、イエス様の弟子であることを人の前で三回も否定してしまいました。

次の場面はティベリアス湖という湖のほとりで起きたことです。そこにペテロもいました。イエス様は弟子たちに食事を用意して一緒に食べました。その後、イエス様はペテロにこう尋ねました「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペテロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。イエス様はかつて、ペテロが自分のことを知らないと言ったことをよくご存じでした。イエス様はこの質問「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」をペテロに三度も繰り返されました。ペテロはイエス様が不信感を抱いていると思い過去のことを思い出して悲しくなりました。同時に自分の愛は不完全であることにも気づきました。ペテロは自分の弱さもよく知っていたのです。完全な愛を持っておられるのはイエス様だけだということもペテロは理解していました。

もし私たちがペテロの立場にいたら、どう感じるでしょうか。私たちもペテロと同じように弱く、自分の愛の不完全さに気づくでしょう。その時、イエス様の質問を逆に「イエス様は私たちを愛しているか」と考えてみると良いでしょう。聖書はこの質問に明確な答えを示しています。新約聖書のヨハネの第一の手紙4書10節には次のように書かれています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

神さまの愛は、人間の愛と比較することは出来ません。神さまの愛は無条件の愛でとても深いのです。私たちは神さまが教えて下さることを忘れてしまったり、神さまの御心に従って生きることが出来ません。私たち人間の愛は不完全です。そのことが、嘘をついたり、悪いことを話したりすることを通して現れてきます。イエス様の弟子たちも同じような弱さをもっていました。それにも拘わらず、神さまはそんな弱い私たちを愛して下さいます。

イエス・キリスト、十字架神さまの愛はどのように現れたのでしょうか。それはイエス様の十字架の出来事を通してはっきり示されました。イエス様は十字架にかかって死ぬことを通して私たちや世界の全ての人の救い主になられたのです。これより深い無条件の愛はこの世にはありません。このようなイエス様の全ての人々に対する愛は私たちに向けられているのです。私たちはその愛をただ受け取るだけでよいのです。ここに、神さまの私たちや世界全ての人々に対する愛があるのです。

画像 2008-04-03 by MMBOX PRODUCTION christiancliparts.netイエス・キリストはペテロに「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と尋ねました。

イエス様がイースターに復活されて弟子たちに現れた時、彼らはやっと神さまの人間に対する愛、救いのご計画を理解することが出来ました。私たちはイエス様のお姿は見えませんが、

聖書を読んだり、み言葉を聴いたりすると神さまの愛を信じることが出来るようになります。その時、私たちは弟子たちと同じようにイエス様の愛に包まれます。

今日はハートの模様のNauha を作りました。これからハートの印を見る時にイエス様の深い愛のことを忘れないように行きましょう。

 

 

牧師の週報コラム

 ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」4月17日の日課

「その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(第二コリント5章15節)

『自分の益のために生きる生き方は呪われよ!神から頂いた賜物が大きなものであると気づけば気づくほど、我々は自分を低い者へと自らヘリ下させて他者に仕えることができるようにしなければならない。正しいキリスト信仰者は、キリストが行ったように全ての人に仕え、神から頂いた賜物のゆえに偉ぶるということがなく、他者を見下すことをしない者である。しかし、我々は、死ねばミミズの餌にしかなれない惨めな存在でありながら、与えられた賜物がちっぽけなものだったら動転して、自分たちこそ仕えられなければならないと騒ぎ立てるだろう。つまり、全ての人は自分たちに仕えなければならないのであって、自分たちは仕えなくていいというのだ。

 他者に仕えて助けてあげるというのはキリスト信仰者にとって自然なことである。たとえ我々が神の召しによって社会的に高い地位につけ名望を博そうとも、生き方自体は他者の益を中心にしなければならない。高い地位につければつけるほど、それに応じて自分を一層低くし他者の益の増進に務めなければならない。

 神も、ひとり子イエス・キリストを通して、我々を罪と死と悪魔と地獄とあらゆる不運から救い出して、我々の上に恵みを豊かに注いで下さったのだ。この恵みのゆえに我々は、律法を守らないとこれらのものから救い出してもらえないという律法主義を脱することができたのだ。神が先手を打って我々を一方的に救い出して下さったからだ。恵みを通してお与えになった賜物に関して神が我々に求めているのは、神が我々に対して振る舞ったように隣人に対して振る舞いなさいということに他ならない。』

「神が我々に対して振る舞ったように隣人に対して振る舞え」というのは普通、神が私たちの罪を赦されたのだから、私たちも互いに赦さなければならないと理解されると思います。しかし、もっと深いことがあります。神がイエス様を通して確立した「罪と死と悪魔と地獄とあらゆる不運からの救い出し」を隣人に及ぼすことがそれです。つまり、キリスト信仰者が「罪の赦しの恵み」に留まれるように励まし支えること、そして、まだ恵みの外にいる人たちをそこに導いてあげることです。

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子ども料理教室の報告

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子ども料理教室は4月19日に開催しました。この日はちょうどイースター/復活祭の前日だったので、みんなでイースター・パイナップル・マフィンを作ってイースター・エッグの飾りつけをしました。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。最初にマフィンの生地を作ります。小麦粉などの粉類を計ってボールに入れ、別のボールにはヨーグルト、卵などを入れてよくかき混ぜます。さっそく「美味しそうな香りね!」との声が聞こえてきました。粉類をヨーグルトと卵のボールに少しずつ加え、子どもたちはさらに一生懸命かき混ぜました。だんだん生地の感じになってきます。そこで、パイナップルを細かく切って生地の中に入れてさらに混ぜて、これで生地の出来上がりです。子どもたちは生地を一つ一つマフィンカップに入れて「どんな味になるかなぁ」と楽しそうです。鉄板はあっという間に生地のマフィンカップで一杯になりました。それからオーブンに入れて焼き始めます。

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マフィンを焼いている間にイースターエッグの飾りつけをしました。可愛らしい模様のラッピングで卵をくるんでお湯の中に入れると、ラッピングはピタッとくっつきます。くっつく度に「わー不思議!」、「可愛い!」との声が聞こえてきます。可愛い模様のイースター・エッグが沢山出来上がりました。

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ここまでは作ることが多くて少し一休みします。そこでイースター/復活祭の時に何が起こったかをみんな一緒に聖書のフランネル劇を観ました。イースターの前の週イエス様は私たち人間が救われるために多くの苦しみを受けて死ななければなりませんでした。しかし、次の週の始めの日、日曜日にイエス様は神さまの力で死から復活したのです。イースターの時、私たちはこの出来事を覚えて喜んでお祝いするのです。そしてイエス様を復活させて下さった神さまを感謝するのです。

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フランネル劇が終わる頃、マフィンの香りが教会中に広がっていました。マフィンにはきれいな焼き色がつきました。どんな味になったかはこれからの楽しみです。今回は子どもの家族の他にも大人の方々のご参加もありました。それでマフィンも沢山できあがりました。

みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったマフィンをいただきましょう!子供たちは食べることに集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい歓談の時を持ちました。子どもたちはみな友達になって食べ終わってからも楽しそうに遊びました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。