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ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」4月8日の日課から
「全ての人がアダムを通して死ぬように、全ての人はキリストを通して生けるものにされるのです。」 第一コリント15章22節
「強い信仰は、この御言葉を大きな文字で心に書き刻み、天が大地の上に聳え立つようにそれを高く掲げる。信仰は、この御言葉で言われていること以外は何も見ず、何も聞かず、何も考えない。それはあたかも、この世界には他に書かれたものは何もないと宣言するようなものであり、我々が生きて活動する全てはこの御言葉の中でのみと観念するようなものだ。もしこのように信じることができれば、我々は生きるのも死ぬのも喜んでするようになるだろう。この信仰はまた、キリストは自分自身のために復活したのではなく、我々のために復活されたのだということも教えてくれる。我々も同じように復活を遂げられ主と共に永遠に生きることができるためにキリストは復活されたのだということを。
我々の復活は、まだ隠されていて公然のものになっていない。それでも既に起こったことのように今、確実なこととしてある。このことをしっかり心に留めておきなさい。そうすれば、全て目に見えるものは復活の日が来たら消滅してしまうことがわかるだろう。今、天においても地においても他に目にするものはないという心境だ。それゆえ、キリスト信仰者が亡くなって墓に埋葬される時、そこで肉眼の目に映るのは腐敗する肉体しかなくとも、信仰の目が見ているものは墓場や体ではない。別の新しいものを見ているのだ。すなわち、新しい命と素晴らしい楽園を、そこで憩う新しい人たちと新しい永遠の命に生きる幸いな人たちを。」
復活祭/イースターおめでとうございます!
4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めた頃の12日、爽やかな春の陽気の中での開催でした。今回はこのイースターの季節にピッタリのレモン風味のメレンゲ・タルトを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにレモンのキーセリを作ります。レモン以外の材料を計って鍋に入れ、かき混ぜながら沸騰するまで加熱します。レモン汁と擦った皮を加えると黄色がきれいなキーセリの出来上がり。「きれいな色ね!」「美味しそう!」との声が聞こえてきます。出来たキーセリは冷まします。
その次はタルトのケーキを作る番です。材料を測ってからマーガリンと砂糖をハンドミキサーでよく泡立てて、他の材料を順番に加えていきます。生地はあっという間に出来上がり!。生地をケーキ型に伸ばしてオーブンに入れます。ここまでいろんな準備があったので、ここで一休みはよいタイミングでした。
オーブンから美味しそうな香りが広がってきました。、中を見るとケーキもきれいな焼き色がついています。ケーキを取り出して、その上に冷めたキーセリを伸ばします。そして、ケーキを再びオーブンに入れてしばらく焼きます。その間にメレンゲを作ります。卵白と粉砂糖をハンドミキサーで良く泡立てると、きれいな白い泡になります。ケーキをオーブンから出してキーセリの上に柔らかいメレンゲを軽く伸ばして3回目のオーブン焼きです。今度はオーブンの温度は高いので表面が焦げないように注意しながら焼きます。メレンゲはあっという間にきれいな薄茶色になりました。焼き上がったケーキはどれもきれいな焼き色がついて美味しそうでした。
今回は段階がいろいろあって作業の交替もあったので、少し忙しい雰囲気になりましたが、美味しそうなタルトが出来あがりました。どんな味か楽しみです。しかし味わう前にタルトを少し冷まさなければなりません。冷ましている間のテーブルのセッティングをします。冷ましたタルトをカットしてコーヒー・紅茶と一緒に味わいます。「美味しい!」の声があちこちから聞こえてきました。皆さんと一緒にレモン風味のメレンゲ・タルトを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時に春の美しい自然や天地創造の神さまの働きについてお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは5月 10日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
レモン・タルトやレモン・ケーキはフィンランドではイースターの季節にコーヒーと一緒に味わう人気があるお菓子です。今日皆さんと一緒に作ったレモン風味のメレンゲ・タルトはその一つです。このタルトの特徴はレモンのキーセリとトッピングのメレンゲです。メレンゲはレモンの酸味を和らげタルトを爽やかな味にします。キーセリの色はきれいなイースターの黄色なので、この季節にピッタリのお菓子です。
ところで、酸味があるレモンの使い方は非常にに多様です。面白くてレモンは料理にもお菓子にもよく合います。例えば魚や鶏肉料理、サラダのドレッシング、デザートやお菓子によく使われます。レモンは食材本来の風味を引き立てたり、脂肪がある料理の味を和らげたりするので、料理にもよく使われます。レモンは酸っぱいので、そのまま食べる人はあまりいないと思いますが、果肉や汁や皮を使います。皮の下にある白い部分は苦いので料理やお菓子に入らないようにします。
レモンの木は熱帯と亜熱帯の国々例えばイタリア、スペイン、ギリシャで育てられます。フィンランドで売られるレモンは主にスペインから輸入した物です。日本で生産されるレモンの種類と異なりますが、味はあまり変わりません。レモンの木はきれいな白い花が咲きます。花は桜と違って長く一、二カ月くらい咲いています。とても良い香りがします。
白い花が咲くレモンの木は美しくて長く楽しめます。しかし今東京で咲き終わっている桜は違います。毎年美しい花びらがあっという間に散ってしまいます。皆さんは今年の桜を見ることが出来ましたか?私は今週の月曜日に公園に行って桜を見ることが出来ました。その公園の桜はまだきれいに咲いていたので、楽しい一時を過ごせました。公園では桜がまだ咲いているのにもみじなどの木の新緑もとても美しかったです。桜や新緑の美しさは、心を動かされます。人間はこのような美しい自然の植物を作ることは出来ません。現在人間は何でもできると思う人が多いと思います。科学と技術はどんどん発展し、新しい発見がどんどん行われていますが、出来ないことも無数になると思います。春の美しい景色を見るとそのことを考えさせられます。このような美しい自然のものはどのようにしてこのようにきれいに出来るようになったかと考えると、本当に人間よりもっと能力やデザイン力を持っている創造主がおられるとしか考えられません。
聖書は美しい自然の全ての物は天と地と人間を創造された天の神さまの御手の業を通して造られたと明らかにしています。人間は植物を植えたり手入れをしたりしますが、光や気象条件は天の神さまが与えてくださるし、植物の葉っぱや花などの形も天の神さまの御手の業です。旧約聖書の創世記には天の神さまの創造について詳しく書いてあります。神さまには創造の計画があり、この世界の一つ一つを順番に創造されました。一番初めに天と地を創造されてその後で光、闇、太陽、植物、動物、人間を創造されました。神さまは創造された全てのものをご覧になり「それはとても良い」とおっしゃったのです。神さまが創造した全てのものは良いものでした。現在の私たちも自然やこの世界で神さまの創造の働きがあるとわかると神さまに、感謝の気持ちが生まれます。
天の神さまの働きは天地創造で終わりませんでした。神さまの働きはその後もずっと続いていることを旧約聖書と新約聖書が教えています。それを読むと、私たちは神さまのことをもっと知ることが出来ます。聖書には神さまの意思もはっきり書かれています。それは私たち人間が神さまと共に生きられることです。しかし私たちはどうでしょうか。神さまのことをどのように思っているでしょうか。神さまのことを忘れたり、離れたり、意思に背くことがよくあると思います。神さまが教えて下さる通りにすることも出来ません。それなのに神さまは私たちが神さまの元に来るようにと望んでおられます。その為に神さまはある計画をたてられました。それは、私たち人間が神さまと共にずっといられるようにするというご計画でした。
私たち人間は神さまの教えた通りに生きられないので、私たちを許すことで共にいられる道を開いてくださいました。その為に、神さまは自分の一人子イエス様をこの世に送られてイエス様は私たちが神さまから許されるように十字架にかけられて死なれました。しかし神さまの計画はそれで終わりませんでした。神さまはイエス様を3日後に蘇らせたのです。これが、神さまが実現して下さった救いの計画です。来週の日曜日に教会ではイースターのお祝いを行います。その時、イエス様の死からの復活を覚えてお祝いします。
私たちは天の神さまの御手の業を自然の美しさを通して見ることが出来、感謝します。神さまの働きはイエス様の十字架や復活を通して私たちにも向けられています。それは自然の美しさと同じように不思議なことです。しかし聖書を読んだり聞いたりすることで理解できます。神さまの働きを心で受け取ることが出来ると信仰が生まれて神さまに感謝の気持ちをもって生活することができます。
スオミ教会の式文の改正 「罪の告白」のところ
洗礼準備勉強会を行うといつも参加者の方々からいろいろな質問やコメントを受けます。中にはこちらが今まで気に留めていなかったことを前面に出すようなものもあり、すぐに答えが出てこないこともあります。 今行っている勉強会でもそうでして、伝道の観点から考えなければならないと思わされたことがありました。それは、礼拝式文の「罪の告白」のところで、「私たちは生まれながら罪深く汚れに満ち」という下りです。これは、ノンクリスチャンの方が見た時、かなり強すぎる表現ではないか、これを唱えなければならないというのは礼拝に対して違和感を覚えさせるものにならないだろうかというコメントを頂きました。
この文言は、日本福音ルーテル教会が用いてきたものをそのまま踏襲したものです(日福ルは現在、改訂式文に移行中でこの文言も変わりました)。聖書では、例えば詩篇51篇でダビデが神に「深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。(…)わたしは咎のうちに産み落とされ母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです」と告白しているところがあります。また、イザヤ1章で神は「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる」と言われます。なので、人間にはシミのように洗い落とさなければならない罪がある、それは母親の胎内にいる時から受け継いでしまったもので、だから神から是正してもらわないとそのままになってしまうという抜き差しならない状況におかれている、それを素直に認めて、神からの是正が間違いなくあることを宣言してもらうのが式文の「罪の告白」です。人間というものは今の世界と世の中を見回してもわかるように、創造主の神を前にしたら至らないことだらけで自分はその一人であることを認めるという、透徹した謙虚さを持てるひと時でもあります。確かに表現は厳しいですが、私も信徒の方々も長年唱えてきたので「原罪」とはそういうものなんだという感じがあって違和感はなかったと思います(因みに、フィンランドやスウェーデンでは「原罪」は英語のように「元々ある罪」という意味の言葉original sinではなく、「受け継がれた罪」を意味する言葉perisynti/arvsyndです)。
ところが、そういうものなんだという感じがないノンクリスチャンの方がこれを見て、唱えなさいと言われたら、どう思うか?自分が汚れに満ちているなんてどういうことかと反発したり、または今その方が抱えている課題との関係で謙虚さとは違う方向に考えが向かってしまわないか、いろいろ問題が出てくるかもしれません。
キリスト信仰の真理を背後に追いやらず、かつ正しい謙虚さに立てるような文言を考える必要があるのではないかと思います。スオミ教会は日本福音ルーテル教会から離れて以後、独立した立場で式文の改定を進めてきました。「罪の告白」の文言もその一つになります。フィンランドのルター派国教会の式文の「罪の告白」の文言は選択肢がいくつもあり、礼拝の時に牧師が選びます。それを参考にしながら考えてみようと思っています。
次回の手芸クラブはバンド織のキーホルダーを作ります。 フィンランドの民族衣装に使われるバンド織りで、北欧のウールを使った可愛いキーホルダーをご一緒に作りましょう。
織る道具はお貸しします。
手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み 03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月31日の日課から
キリスト信仰の国家論の基礎!
「私の国はこの世に由来するものではない。」(ヨハネ18章36節)
「自分の十字架を喜んで背負う者は誰か?それは、この王と彼の国の性質を正しく知る者である。その者は、主も同じように十字架を背負われたのだと知っている。そればかりではない。その者は、この世で苦難を受けなければならなくとも、目的地に到達すれば喜びと幸いがあることが励ましと慰めになっている。
これとは逆に、こうしたことを知らない者たちは、思い通りにならないと、取り乱し、しまいには絶望の淵に落ちてしまう。彼らは、もし神が本当に憐れみ深い方ならば、こんなに多くの不運が起こるのを許すはずはない、または起こっても直ぐ助け出して下さる方のはずだ、と考えているのだ。このような考えは、キリストの国はこの世に由来するものではないと信じていないことの表れに他ならない。この世の王(現代なら権力者)は臣民(現代なら国民)の命と財産を守るだろう。しかし、栄光の王であるキリストは、身体、命、財産その他全てのものが危険に晒されることを否定しない。
ゆえに、君はこの世にいる限り、自分は満たされて何一つ不足のない者になるためにキリスト信仰を用いてはならない。君の真の王に何が起こったかを見よ。受難の道を歩み、嘲りの的となり、不名誉な死を遂げたではないか?だから、キリストの国に属している者も、彼が金銀その他のものを与え、この世の王(権力者)のように富をもたらしてくれるなどと期待してはならない。肝心なことは、彼は罪を赦し、永遠の死から救い出して下さる方であるということだ。さらに、彼の御声に聞き従う者に聖霊と永遠の命を与えて下さる方ということだ。」
キリスト信仰者は、この世にある国と天の御国の二つの国を持って生きています。この世にある国は現実の目に見える国ですが、天の御国は現実にはあるものの、まだ目に見えません。しかし、ヘブライ12章で言われるように、今の世が終わりを告げる時、世にある国は全て揺り動かされて取り除かれてしまいますが、天の御国が唯一揺り動かされず取り除かれないものとして現れます。その時、キリスト信仰者の国は一つになります。キリスト信仰者にとってこの世の国の中で生きることには大きな意味があります。そこは、信仰者が神の意思に沿う生き方と罪の赦しの恵みに生きることを実践する場だからです。また、いろんな課題や挑戦を得られて、神の助けと導きを受けられるコンテクストでもあるからです。
今年もイースターの季節がやってきました。今回はこの季節フィンランドで作られるレモン風味のメレンゲ・タルトを作ります。このタルトは三つの層から出来ていて、下からタルト、真ん中はレモンのキーセリ、そして上はメレンゲです。レモンのキーセリはタルトをジューシーなものにし、トッピングのメレンゲはレモン味と重なることで爽やな味わいになります。ふんわりしたメレンゲとジューシーなレモン・キーセリが一緒になることでタルトは口の中で美味しくとろけます。レモン風味のメレンゲ・タルトを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月22日の日課から
「私は神に対して罪を犯しました。」(サムエル記下12章13節)
「間違ったことをしていると知りながらそうする人たちがいる。しかも、それを何とも思わないばかりか、それを認めない神の真実というものに対して敵意を剝き出しにさえする。そのような人たちは意図的に罪を犯すのであり、悪の自覚を持って罪に留まろうとする。罪を捨てる考えなどなく、ましてや神に赦しを乞うことなど微塵にも思わない。
他方で、それとは違う仕方で罪を犯してしまう人たちがいる。ダビデの場合がそうだ。ウリヤの妻を奪おうとして彼を死なせるべく激戦地に送った時、ダビデはそれは神に対して罪を犯すことだとわかっていた。しかし、邪悪な欲望と悪魔が彼を焚きつけてしまい、罪に陥るまで引っ張って行ってしまったのだ。自分がしていることを考えてみる余裕も持てなくするような激しさで。しかし、ダビデは事後的ではあるが、罪を犯したことを神に告白したのだ。それは彼の心を突き刺したのであり、そのようなことはすべきではなかったと彼は悔い、神に赦しを乞うたのだ。
そのような罪は私たちキリスト信仰者一人一人の首回りに張り付いている。私たちは気がつかないうちにいとも簡単に罪の渦に巻き込まれ、ある時は悪魔と自分の肉が、またある時はペトロのように恐れが自分を席巻してしまって罪に陥らせてしまう。そればかりではない、警戒の怠り、愚かさ、理解の不足も私たちを席巻して罪に陥らせるものだ。もちろん、悪に対する鈍感さや驕りの心は言うまでもない。キリストが十字架に運び上げて取り除いて下さったのはこのような罪である。それは赦しのお恵みと矛盾しない罪だ。そのような罪を犯す者は、自分は間違ったことなどしていない、などとは言わない。その人は何も覆い隠すものがないと観念した裸同然であり、それゆえ、罪を犯したことを神に告白し赦しを乞うのだ。」
もちろん、最初のタイプの人も、心の突き刺さりが起こって神に罪を告白して赦しを乞えば、その罪は赦しの恵みに覆われ、最後の審判の時に追及されず、申し開きの必要もありません。ところで、自分は「真実」を掲げているのだと言って正当化する人は、真実は人を築き上げるものでなければならないということを十戒から知って、掲げている「真実」が真実に値するものか吟味しないといけません。
3月の手芸クラブは26日、桜が咲き始めた時に開催しました。今週の暖かさで桜はすぐにでも満開になるでしょう。 これから楽しみです。
今回の作品は手芸クラブの人気ものの一つ、バンド織りのキーホルダーです。フィンランド語でNauhaと言います。はじめに参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。色とりどりの毛糸から好きな色のものを選ぶのは楽しいスタートです。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。
それではバンド織りに入りましょう。まずワープになる毛糸をカードの穴に通します。穴は小さいので、皆さん集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、自分の作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。以前参加された方だけでなく初めての方も手が早くて、間もなくして毛糸のきれいな色合いが見えるようになりました。可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。今回はハートの模様をバンド織りで作るNauha の準備もしました。来月出来上がったものを互いに見せ合うのは楽しみです。出来あがったNauhaに輪を入れて結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!
今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、今年のフィンランドの手芸のテーマが「つぎあてと中古の服を直す」というものだったので、それについてとイエス様のたとえ話の教え「良いサマリア人」についてお話がありました。
次回の手芸クラブは4月23日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
毎年フィンランドではその年の手芸のテーマが決められます。今年はつぎあてと中古の服を直すことが全国のテーマに選ばれました。このテーマは2021年にも選ばれていて今年は二回目です。どうしてそんなテーマが選ばれるのか、驚く人もいるかもしれません。つぎあてと中古の服を直すというのは、新しいものを作るテクニックと関係ないからです。しかし、少し考えてみたらこれは今の私たちにとても良いテーマだと思います。私の子供のころ服や靴下に穴が出来たら母はつぎあてをして直したものですが、いつの間にかにつぎあての靴下は見かけなくなりました。生活が豊かになったので人々はどんどん新しい服を買うようになりました。使い捨て文化の時代になったのです。もし服につぎあてをしたりすると恥ずかしいかもしれません。私も子供の頃はそうでした。つぎあてをした服は着たくありませんでした。
しかし今はエスディージーズ(SDGs)、日本語で「持続可能な開発目標」がよく言われるようになって考え方が少し変わってきたのです。服につぎあてをしたり他の方法で直したりすると、服の寿命が延びます。服の寿命が延びると使用回数が多くなるだけでなく服の価値も上がります。生活も少しシンプルになります。実はつぎあては手芸の観点では創造的で、色んな手芸のテクニックを使って直すことが出来るのです。特別な道具の必要もありません。毛糸や針があれば靴下を直すことができます。しかしそれには時間と忍耐が必要です。今の忙しい時代の私たちに時間と忍耐があるでしょうか?私たちは何のために時間と忍耐が必要になるか時々立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。例えば、隣人を助ける時間が私たちにあるでしょうか。
ここでイエス様が教えられた「よいサマリア人」についてお話をしたいと思います。ある偉い学者がイエス様に「私の隣人とはだれのことですか」と聞きました。イエス様は次のたとえ話を話されました。あるユダヤ人の旅人が、エルサレムからエリコという町に向かって旅をしていました。すると、突然強盗が飛び出してきて旅人の持っているものを服まで取って、その人に乱暴をして半殺しにしたまま逃げてしまいました。
しばらくするとエルサレムの神殿の祭司がそこを通りかかりました。祭司は道端に横たわる怪我人を見ましたが、道の反対側を通って行ってしまいました。次に神殿で仕える人も同じ場所を通って来ましたが、怪我人を見ると、祭司と同じように道の反対側を通って行ってしまいました。
しばらくすると、旅をしていたサマリア人がロバに乗ってやってきました。当時ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していたので、彼らの関係は良くありませんでした。しかし、このサマリア人は、道端に倒れている人を見るとユダヤ人とわかっても、その人の傷に油とぶどう酒を注いで消毒し、包帯をして自分のロバに乗せて宿屋に連れて行ってそこで介抱しました。
翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を二枚渡して言いました。「この人を介抱してあげてください。もしお金が足りなかったら、私が旅から戻ってここを通った時に払います」と。
イエス様は、この話を終えた後で、質問した人に聞きました。「さあ、この祭司、仕え人、サマリア人のうち、誰が旅人の隣人になったと思うか?」学者は、「その旅人を助けてあげた人です」と答えました。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。
イエス様が話されたこの「良いサマリ人」の例えは私たちにも向けられているのです。私たちはサマリア人のように敵味方を区別しないで人を隣人として、その人のために時間や力を使うことが出来るでしょうか。隣人を助けるためにどこまで忍耐があるでしょうか。そして私たちの隣人とはだれでしょうか。
聖書は無条件の愛について教えています。神さまの愛は無条件の愛でとても深い愛です。イエス様はそれを聖書のみ言葉を通して私たちに教えて下さいます。この「良いサマリア人」の例えはその一つです。イエス様が無条件の愛について教えたのは言葉だけでなく他の人たちに対する態度を通してでも教えました。イエス様はご自分の働きを通して、例えば多くの病気の人々を癒やすことで隣人愛を示されました。しかしイエス様はこれよりもっと深い無条件の愛を私たちに示してくださいました。それはイエス様の十字架の出来事です。イエス様は十字架にかかって死ぬことを通して私たちや世界の全ての人たち一人一人の救い主になりました。これより深い隣人愛、無条件の愛はこの世にはありません。このようなイエス様の全ての人々に対する愛は私たちに向けられているのです。私たちはそれを受け取ることが出来るでしょうか。それはイエス様が私たちの救い主でおられることを信じることで受け取ることが出来るのです。この愛をないなどと言って否定することは出来ません。イエス様の愛を受け取ると、イエス様はいつもどんな時でも共にいて下さいます。嬉しい時も悲しい時も共にいて下さるのです。イエス様は私たち一人一人がご自分の元に来るようにと待っておられるのです。
私たちが隣人を助けたりする時の力と忍耐は限られてしまうかもしれません。だから、私たちは十字架を背負ったイエス様の私たちに対する力と忍耐を思い出しましょう。人間が持てない力と忍耐をイエス様はお持ちで、そんなイエス様を私たちは信仰を通して持つことができるのです。
3月の料理クラブは15日の今にも雨が降りそうな土曜日の開催となりました。 今回はツナ&ベジタブル・ピーラッカを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカ生地を作って冷蔵庫に入れて冷やします。次に中身の準備。みんなで玉ねぎ、パプリカを一生懸命刻みます。色とりどりの野菜をフライパンに入れて炒めると野菜の美味しそうな香りが広がります。皆さん、どんなピーラッカになるか楽しみ。炒めた野菜を冷ましている間にトッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜると出来上がります。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に油を切ったツナと炒め野菜を載せます。
その上にトッピングを流し込んで最後にチーズをかけてオーブンに入れます。
ピーラッカが焼けている間、皆で楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がり、皆さん興味深そうに順番にオーブンの中を覗いていました。
ツナ&ベジタブル・ピーラッカが焼き上がりました!皆さん席に着いて出来たてアツアツのピーラッカを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち、テーブルのあちこちから「美味しい!」と言う声があがりました。「こんな材料でこんなに美味しいピーラッカができるなんて」という驚きの声も聞こえました。ピーラッカを頂いた後で、フィンランドてよく食べられる魚と聖書のイエス様の弟子になった漁師についてのお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は4月の12日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日皆さんと一緒に作ったツナ&ベジタブル・ピーラッカは簡単に作れるピーラッカの一つです。このようなものはフィンランドではパーティーやお祝いの時、夜の軽食としても出されます。ツナはマイルドな味わいでフィンランドではパイ、ピザ、サラダなどに使われます。保存食なので、使い方は簡単です。フィンランドでは魚の種類はそんなに多くないので、ツナをよく料理に使います。
フィンランドではどんな魚がよく食べられるでしょうか。日本ではお店で売っている魚の種類は多いですが、フィンランドの普通のお店で売っている魚の種類は少なく、いわしとサーモンとあと何か白身の魚が1種類くらいあるだけです。
昔はいわしをよく食べました。いわしは沢山捕れたので安く買えました。まだ冷蔵庫がない時代には、秋に家庭でいわしを多めに買って、塩づけにして保存して、冬中ずっと食べました。私の子供の頃も家でいわしを塩づけにして保存して何か月も食べました。近年トゥルクやヘルシンキでは秋になると、いわしの市が開かれるようになって、そこではいわしだけでなく他の魚で作った料理や保存食も売っています。このいわし市は、冬に向かうフィンランドの秋の大きなイベントになって沢山の人が訪れます。
近年は湖や川で捕れる白身の魚もよく食べられるようになりました。海の魚ではいわしの他にはニシンとサーモンがよく食べられますが、一番よく食べられるのはサーモンです。サーモンはフィンランドで養殖したものか、ノルウェーの海で捕ったものかのどちらかです。高価なサーモンの料理は昔は、クリスマスのようなお祝いの時にしか食べられませんでしたが、今では普段の日にもよく食べられるようになりました。
さて、聖書の時代にも魚はよく食べられていて、漁師は普通の職業でした。今日はこれから聖書に出てくる漁師についてお話ししたいと思います。
ある日イエス様がゲネサレト湖という湖にやってくると、2人の漁師が舟からおりて、網を洗っていました。そこでイエス様は漁師の一人のペテロに「舟を少し冲に漕いで、そこで網を下ろしてみなさい」と言われました。ペテロは、「先生、私たちは夜中苦労しましたが、何も捕れませんでした。しかしお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えました。ペテロは漁師なので魚のことはよく知っていました。もし夜魚が捕れなかったら、昼はもっと捕れないと思ったでしょう。それでもペテロは、イエス様の教えをいつも尊敬していたので、言われた通りにしました。するとどうでしょう。信じられないことが起こりました。網が破れそうになるくらいに大量の魚がかかって、その重さでペテロの乗っている舟ともう一そうの舟は沈みそうになりました。
ペテロはこれを見て、どう思ったでしょうか?彼はイエス様の足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです。」ペテロはお礼を言うどころか、こう言ったのです。どうしてでしょうか?この時ペテロは、今起こったことは神様の力で起きたと信じたのです。それで自分の前にいるこの方は神聖な神のみ子で、この方の前では自分など罪深い者にすぎない、とわかったのです。それで「私は罪深いものなので、どうか私から離れてください」と言ったのです。しかし、イエス様はペテロから離れないで、次のように言われました。「恐れることはない。これからは、あなたは人間をとる漁師になる。」そこでペテロは舟を陸に上げて、イエス様は神様の子だから信頼して大丈夫な方だと信じて、全てを捨てて従って行きました。ペテロはイエス様の弟子の一人になったのです。
このようにペテロはイエス様と出会って、イエス様に従って行きました。私たちもイエス様と出会うことができます。それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時にできます。み言葉からはイエス様の呼ぶ声が聞こえてきます。それは全世界の全ての人々に向けられます。それを聞いたらどうしたらよいでしょうか。私たちは神さまの前では正しい人間ではなく心の中に悪い考えもあります。それでイエス様を従う前にもっと良い人間になってから従おうと考える人が多いと思います。しかし、このお話の漁師たちはどうだったでしょうか。彼らは仕事している途中でイエス様の呼ぶ声を聞いてすぐイエス様に従うようになりました。ペテロはイエス様と出会う時に自分の弱さ罪深さを分かりましたが、同時にイエス様は神のみ子でいらっしゃるから大丈夫と信頼しました。それでペテロはイエス様と共に歩むようになりました。
イエス様はペトロだけでなく私たちにとっても信頼して大丈夫な方です。ペテロが見たような奇跡を私たちも見ることが出来るかどうかは分かりません。しかし、イエス様は神さまの子でいらっしゃって私たちの救い主と信じると、イエス様はいつも共に歩んでくださるのは確かなことです。