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覚悟と胆力を養うキリスト信仰その2
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月7日の日課から)
『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから。』 (第一ペトロ5章7節)
(牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel & Fridrichsen)を見ると「投げつける、放り出す」です。英語(NIV)、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書もそう訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめな訳ですが、上記4カ国語はギリシャ語の「与格・メレイ・ぺリ・属格」を「神は面倒を見る、世話を焼く、ケアをする」と訳しています。日本語訳では見えてこない、この聖句の力強さがわかると、以下のルターの説き明かしがぐっと心に迫ってきます。)
『事を自分の重荷にとどめてはいけない。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされてしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して神に投げつけてしまうのだ。投げつける時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私の主、私の神です。あなたは、私など存在しなかった時に私をお造りになり、その上、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言ってこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手くいきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せてきます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなたの助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅々まであなたの目を注いで下さい。」
これこそ神の御心に適う対処法である。神が我々にしなさいと言っているのは、委ねられた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられるかについての心配は神のすることであって我々のすることではない。
キリスト信仰者はこのように他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い主と信じる信仰があるので心配事を投げつけてもよい父が天におられるからだ。そうでない人たちは心配事を抱きかかえて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を握りしめて、神は嘘をつかない方だから御言葉はその通りだと信頼して前に進む(以上ルターの説き明かし)。』(週報コラム2025年6月8日に掲載したものを少し修正)
季節は春になりました。フィンランド人も春になると多くの人たちが自然の中にに出かけます。今回の料理クラブのメニューは、ハイキングのお伴としても人気のあるLihapiirakka(ひき肉パン)です。パンの中身はスパイスで味付けした炒めひき肉とチーズ。ケチャップやピクルスを添えても美味しく味わえます。パンは油で揚げるのが多いですが、料理クラブではオーブンで焼き上げます。フィンランドの喫茶店のショーケースでもよく見かけるLihapiirakkaを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
参加費は一人1,800円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1772469996iamg@1772469996arumi1772469996hsoy.1772469996iviap1772469996 まで。
2月の手芸クラブは25日に開催しました。週の初めは春一番が吹きましたが、この日の朝は雨が降り肌寒い一日となりました。
今、春が近づく季節ですが、今回は1月に続いて足元を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」を編みました。今回はまた「ストール」や「スマホケース」を編み続けられる方々もいらっしゃいました。このようにスオミ教会の手芸クラブではその日のテーマだけでなく、ご自分の編みたいものを編んでも大丈夫なのです。
はじめにお家で頑張って編んできたものをみんなで見せ合います。「きれいな色ね」、「模様が素敵」、「暖かそう」、「柔らかい」などとお互いにほめたたえます。それからみんなで編み始めます。皆さんとても上手でおしゃべりしながらどんどん編んでいきます。レッグウォーマーやストールは完成まで時間がかがるので、お家や次の手芸クラブでも続きをすることができます。
春に向かって暖かくなっていきますが、まだ寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたレッグウォーマーやストールが必要になるかもしれません。ご自分で編まれたものだから特に暖かさを身近に感じるのではないでしょうか。
今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。
編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れます。先週フィンランドはラスキアイスプッラの時期だったので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後でフィンランドにある手工芸センターやそのセンターのスローガン「幸せを呼ぶ手芸の一時」についてと、聖書が教える幸せについてお話を聞きました。今回も楽しい歓談のひと時でした。
次回の手芸クラブは3月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日は1月に始めた編み物の続きをしました。編み物は手芸クラブではこれまで何回もテーマにしました。フィンランドでは編み物は最も人気のある手芸の一つで、年配の人たちだけではなく若者も楽しんで編んでいます。以前にもお話したようにフィンランドでは毎年編み物の競争も行われ、多くの人たちが参加します。また靴下のデザインを作成して編むコンテストも開催さえれます。このような行事はフィンランド全国にある手芸工芸センターを通して開催されます。センターの働きの目的は手芸工芸の伝統を大切に守り続けることです。センターでは様々な講座や行事が開かれ、手芸のアドバイスを行ったりします。また、センターでは織機を借りることも出来るので、織物を織ることも出来ます。センターは毎年、全国的な工芸のテーマも選びます。今年のテーマは「パッチワーク」です。
手芸工芸センターでは「幸せを呼ぶ手芸の一時」というスローガンも決めました。このスローガンにはどのような意味があるのでしょうか。それは、手芸が私たちの日常生活の中で大切な役割を果たし、手作りの作品には特別な価値があることを表しています。手芸は多くの人たちに愛されている趣味の一つです。新しい手芸のテクニックが出来るようになったり、美しい作品が完成したりすると喜びを感じます。また、手芸をしている時間は日常生活から少し離れることが出きて、良いリフレッシュにもなります。それでこのスローガンのように手芸は幸せを呼ぶ一時と言えるのでしょう。
皆さんにとって幸せとはどのようなものしょうか。幸せな人とはどんな人でしょうか。お金持ちで大きな家に住み、家の自動車が何台もある人のことでしょうか。職場で高い地位にある人でしょうか。権力を持っている人でしょうか。
私たちは皆幸せを願って生きています。私たちは幸せを自分自身の中から見つけることができるでしょうか。確かに、幸せは日々の生活のさまざまな出来事を通して感じることができます。しかし、それは深いものでしょうか?長く続くものでしょうか。
聖書にも幸せにについて書かれています。旧約聖書の詩編に次のようにあります。「神様のそばにいることは私の幸せです。神様は私の避難場所。私は神様の御業を全て語り伝えます。」詩編73章28編。
「神様のそばにいることは私の幸せです」とは天と地と人間を作られた神様と共に生きることを意味しています。それは一時的に幸せを感じることではなく、ずっと続いていく幸せです。神様と共に生きることが人生の土台になれば、生活の中で様々なことが起こってもその土台は揺らぐことがありません。では、私たちはどのようにして神様と共に生きることができるでのしょうか。聖書を読んで、天の神様にお祈りして、神様はお祈りを聞いてくださると信じるとき、私たちは神様の近くにいることができます。天の神様と共に生きるのは幸せの源になります。生活の中に不幸があっても神様はともにいてくださいます。神様が私たちを見捨てるということはないからです。
フィンランドのある聖歌に幸せについて歌うものがあります。息子が小さい時にこの聖歌が大好きでした。聖歌の言葉は簡単ですが、意味は深いです。それを紹介したく思います。「ボクは幸せさ、ボクは幸せさ。ボクの幸せはイエス様のところにある。イエス様はボクのすべての罪を十字架に運んで取りのぞいでくださった、それでボクは幸せさ。」
私たちが天の神様と共に生きることができるのは、神様の一人子であるイエス様の十字架の御業のおかげです。私たち人間は聖歌に歌われているように弱さや罪を持っています。そのために私たちは神様から離れてしまうようになります。しかし、私たちを愛する天の神様はイエス様を通して神さまのもとへ帰る道を備えて下さいました。この救いの道は世界の全ての人に与えられています。私たちがイエス様がなさったことを全て信じて、この救いの道を歩むようになれば、それが私たちの幸せの源となるのです。
今、この世界には必要なものが十分に与えられない人たちが大勢います。しかし、そのような人たちも、先ほどの聖歌のように喜びを持って歌うことができます。イエス様の十字架の御業を素直に信じることが出来れば、歌の中で歌われる幸せを得られます。
手芸の時間も私たちに小さな幸せを与えてくれます。しかし、日々の生活の中で「神様がそばにいることは私の幸せ」ということを覚えて、それが私たちの幸せの源になりますように。
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」2月8日の日課から) キリスト信仰者は苦難困難に遭遇するとこのように立ち向かうのだ。 「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇 118篇1節) 『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは 神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が 本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるため の光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば 燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の 中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句 は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈 しみは永遠にあるのだから。」 この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと 誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなるこ と善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられます ように。」 これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正し くて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きく て優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである 。』(以上ルターの説き明かし) このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えき れない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれな い出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるように なると。(2025年3月2日の週報コラムに掲載)
覚悟と胆力を養うキリスト信仰
武道家であり言論人でもある内田樹氏は武道の技術向上と宗教的成熟には相関関係があると主張する。AI情報によれば、氏は「武道も宗教も、個人的なエゴ(我執)や、勝敗・巧拙にこだわるマインドを解除することを目指す」と説く。また、評論家の池上彰氏は、宗教を「よく死ぬための予習」であり、どう生きるかを考える糧と捉えているとのこと(これもAI情報)。
今まで礼拝の説教や週報コラムでルターの聖書の説き明かしを数多く紹介してきたが、どれもが、姿勢や心意気として、覚悟と胆力を身につけさせるものではないかと思っていた。そんな中でマスコミのどこかで二人の識者の発言を耳にして何か相通じるものがあると思い、AIに確認した次第。
礼拝の説教では毎回、「復活の日」にイエス様が眠りから目覚めさてくれることや、彼が整えてくれたものを受け取って手放さずに生きてきたことが最後の審判で神の御前に立たされた時に重要な意味を持つことを説いている。なので、スオミの礼拝は「よく死ぬための予習」をしていると思う。
宗教と武道の相関関係については、内田氏の言う宗教とは修行に大きな意味を置く仏教を指していることは言うまでもない。キリスト教、特にルター派は、信徒に修行や苦行や難題を課して、それを実行して神に義とされるような救いを排する。そこで一つ気にかかる聖句はローマ8章13節「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」だ。「生きる」とは死を超えた永遠の命に与かれることを意味する。体の仕業、つまり肉体が欲すること、神の意思に反することだが、これを断ち切れば永遠の命に与かれる、救われると言っているように聞こえる。
しかし、そういうことではない。「断ち切る」はギリシャ語原文では「死なせる」。しかも動詞は常態を意味する現在形。エイッ!ヤーッ!と気合を入れて自分の力で一気に欲望を断ち切ることではない(その意味ならば動詞はアオリストになる筈)。「日々、神の意思に反する業や思いを死なせていく」ことである。どういうことかと言うと、キリスト信仰者が自分の内に罪があることを日々自覚して、赦しと希望はイエス様の十字架と復活の業にのみある、その業の力が罪に無力な自分を覆いつくすように自分を日々とことんヘリ下させる、そうすることで自分の内に残る罪は内になだれ込む赦しと希望の重圧を受けて日々圧し潰されていくという死なせ方である。キリスト信仰者はたとえ腕力がなくとも武道家にも引けを取らない覚悟と胆力を持つことができるのではないか。そのことを、これから何回かにわたって紹介するルターの説き明かしからも知ることができればと思います。
今年最初の家庭料理クラブは2月7日に開催しました。天気予報は一日雪のマークでしたが、雪は降らず参加者の皆さんは無事に教会にいらっしゃることが出来ました。今回の料理クラブは、フィンランドの「ルーネベリの日」の二日後でしたが、「ルーネベリロールケーキ」を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにアーモンドパウダー、片栗粉などの粉類を計ります。今回の生地は小麦粉を入れることがなく小麦粉アレルギーの方にも味わっていただけるお菓子なのです。次に卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てて、白い泡になってから粉類を中に加えると生地が出来ます。それを鉄板に広げてオーブンに入れて焼き始めます。あっという間に生地の焼き香りが広がって、ケーキに焼き上がりました。クッキングシートに潰したクッキーをかけてその上にケーキをひっくり返して冷まします。
ケーキを冷ましている間に今度は中身を作ります。材料を計ってクリームを泡立てます。それから本格的にケーキ作りに入ります。冷めたケーキの上にシロップを塗ってラズベリージャムを全体に拡げます。その上にさらに泡立てたクリームを拡げます。そして、いよいよケーキをロールにします。ケーキが割れないように注意しながら少しずつロールします。ロールしたケーキをしばらく冷蔵庫で冷やしてから切ります。一個一個お皿の上にのせてクリームで飾り付けをして、その上にラズベリージャムをのせると、「可愛い!」「きれい!」の声があがりました。これで「ルーネベリロール」の出来上がりです!
早速みんなでテーブルのセッティングをして席に着き、出来たてのルーネベリロールケーキをコーヒー紅茶と一緒に味わうと、たちまち「美味しい!」「美味しい!」嬉しそうな声があちこちから。「アーモンドとラズベリージャムがとても良く合う!」という声も。
今回も楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの有名な作家ルーネベリと彼に由来するルーネベリ・タルトについて、そしてルーネベリが残した詩の言葉「神は試練をお与えになるが、決して見捨てることはない」とこの詩が基づいている聖書のみ言葉についてのお話も聞きました。
参加者の皆さんが帰宅する時刻は地面は白い雪で覆われていなくてよかったです。皆さんご無事にお家に帰られたでしょう。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月14日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドでは2月5日は「ルーネベリの日」です。ちょうど二日前がその日でした。フィンランドでは新年が終わると、お店や喫茶店でもルーネベリ・タルトが並ぶようになります。そして、「ルーネベリの日」になると大勢の人たちはこのお菓子を買って美味しく味わいます。もちろん多くの家庭でも作られます。
では、「ルーネベリの日」とはどんな日なのでしょうか?以前お話ししたことがありますが、まだ聞いてない方もいらっしゃるので、少し紹介します。ルーネベルイは、フィンランドの有名な作家で1804年に生まれました。彼は、詩もよく書き、最も有名な詩はフィンランドの国歌です。美しいその詩は多くのフィンランド人を励ましてきました。彼は60曲近い讃美歌集の詩も書きました。今フィンランドの教会で使っている賛美歌の中にはルーネベリが書いたものがまだ沢山のっています。
ルーネベリは甘いお菓子が大好きで特にこのタルトが大好物でした。彼はこの甘いお菓子を朝食でも食べていたそうです。現在、ルーネベリタルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、形が少し長めの円筒状で、ラズベリージャムを上にのせます。面白いレシピの一つは、生地にピパルカックを入れます。クリスマスの期間に食べきれなかったピパルカックをつぶして生地の中に入れると美味しいお菓子が出来上がるのです。最近はつぶしたピパルカックの代わりにピパルカックのスパイスを入れるようになりました。今日皆さんと一緒に作ったロールケーキもそれです。またロールケーキの他に、マフィンやさまざまななケーキの形のものも作られるようになり、生地に入れる材料も多様化しています。ルーネベリ・タルトは2月5日を過ぎたら喫茶店や店から姿を消しますが、ルーネベルの町ポルヴォーの喫茶店では一年中食べられます。
このようにルーネベリは後世にルーネベリ・タルトの伝統を残しました。しかし、彼が後世に残したものはこの冬のお菓子の伝統だけではありません。季節に関係なく、いつも読まれる詩や小説、そしていつも歌われる沢山の讃美歌を残しました。
ルーネベリが書いた作品の中では天の神様は信頼できる方であることがよく言われます。ここで彼が書いた有名な詩の言葉を紹介します。それは「神は試練をお与えになりますが、決して見捨てることはありません」という言葉です。これはフィンランドでは昔、人々の生活の中でよく聞かれた言葉です。
聖書の中にはこの言葉通りの出来事の例が沢山あります。旧約聖書の中で最も有名なのはヤコブの息子ヨセフの話です。ヤコブには息子が12人いました。その中でもヨセフを特にかわいがりました。それを見た兄たちはヨセフをねたむようになりました。ある日、兄たちはヨセフを井戸に投げ込んでしまいました。しばらくすると、外国の商人のキャラバンが通りかかったので、兄たちはヨセフを井戸から引き上げて、売りとばしまいました。その結果、ヨセフはエジプトに連れて行かれたのです。
ヨセフはエジプトで多くの困難に遭い、牢屋にも入れられました。しかしそのような時でもヨセフはいつも神様から知恵と助けをいただいて乗り越えることができ、最後はエジプトの王に認められて国の最も位の高い行政官に任命されました。それから何年か後、多くの国々で雨が降らず作物もできない大飢饉が起きました。エジプトは、ヨセフの指導のおかげで前もって食べ物を沢山たくわえていたので、人々は困ることはありませんでした。その時ヨセフの兄弟たちと父親のヤコブが食べ物を分けてもらうためにエジプトに行きました。そこで、ヨセフに出会ったのです。ヨセフは兄たちが自分に対して行った悪いことを全て赦して、父と兄弟たちがエジプトに住めるように整えてあげました。
このように神様はヨセフを見捨てることなく、いつも見守って下さったのです。困難や試練の時は、神様が共にいらっしゃるとはなかなか思えないでしょう。しかし神様が決めた時が来ると、神さまはヨセフを助けて下さったのです。ヨセフは困難や試練の中にあっても、いつも神様を信じて、神様に助けを祈り続けました。神様が本当に見守って導いてくれたことは、後になってわかったのです。
私たちも人生の歩みの中で様々な試練に直面します。しかしそれは神様が私たちを見捨てたということではありません。神さまは遠く離れた存在ではなく、いつも私たちのそばにいて下さいます。私たちは決して完璧な人間ではなく、時には神さまのみ心に反することをしてします。それでも神さまは私たちを見放したり見捨たりすることはありません。私たちが神さまの元に立ち返るなら神さまは赦しを与えてくださり私たち一人一人と共にいて下さるのです。それは神さまが私たちや世界の全ての人々を愛しておられるからです。その愛のゆえに、神さまはいつも私たちをご自分の元に招いておられるのです。
ルーネベリの言葉を聞いたりタルトを食べたりする時にはこのルーネベリが書いた言葉「神は試練をお与えになりますが、決して見捨てることはありません」を忘れないようにしましょう。
2月の手芸クラブは25日(水)10時~13時に開催します。
2月の手芸クラブは1月に始めたレッグウォーマーの続きです。フィンランド語で「Säärystimet (サーリュスティメット)」と言います。
足元を温めてくれるレッグウォーマーはお家の中だけでなく、散歩やお買い物など外出時にも大活躍。レッグウォーマーは難しくなく初心者の方にも編みやすいものです。単色・多色のどちらでも、また模様編みに挑戦することもできます。
ご希望に応じて足を温めるルームシューズや指先がない手袋などを編まれても大丈夫です。
参加費: 1000円
持参するもの: 毛糸100g、毛糸に合わせた編み棒4本または5本
手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。
お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1772469996iamg@1772469996arumi1772469996hsoy.1772469996iviap1772469996 ℡ 03-6233-7109
日本人を日本人たらしめる視点
かつてジャパンアズナンバーワンと言われた日本も、今では平均賃金、一人当たりの国民総所得ともに欧米諸国は言うに及ばず韓国にも追い抜かれてしまった(円安をやめれば計算上はまだ救いはあるかもしれない)。 フィンランドでもかつては自分が日本人と言えば、一目置かれる雰囲気があった。国の存在感の威光が薄れた今こそ、個人の存在感で自分は中国人でも韓国人でもベトナム人でもない日本人であることを示せるかが試される時代になったのだと思う。
日本が羽振りが良かった80年代、フィンランドにいた時に何が自分を日本人たらしめるかを考え、それは他の国の人間が持てない視点を持てることで、しかもそれが他の国の人間の視点にインパクトを与えるような視点であること、そんな視点を持てれば国の威光に頼らない存在感のある一端の日本人になれるのではないかなどと考えた。それで、子供の頃から気になっていた二つの特殊日本的な極限状況に自分を置いてみて、自分だったら何を思いどう立ち振る舞うかを考えることで、そのような視点が得られるのではないかと考えた。二つの特殊日本的な極限状況とは、一つは特攻隊、もう一つは踏絵である。
特攻隊は、子供の頃は凄いとか可哀想という二つの複雑な思いの混合。高校大学の時に読んだ「きけわだつみの声」や阿川弘之の「雲の墓標」で、彼らの苦悩と葛藤がとても他人事に思えなくなった。自分だったらどうするのだろう、とにかく自分なりに考えに考えて、結局は「志願」させられて出撃するしかないのだろう。では、どう自分を納得させられるだろうか?家族の住む町が爆撃されないため、国が占領されて占領者の言いなりにならないために必要なのだと言い聞かせるしかないだろう。
踏絵は、小学校か中学の時にキリシタン迫害のドラマの演劇を観て身近に感じたことがきっかけ。まだキリスト教徒ではなかったが子供ながらにキリシタンの人たちの苦悩と葛藤が他人事に思えなかったことを覚えている。もし自分がキリシタンだったら踏むのだろうか、踏まないだろうか。キリスト教徒になった今は文字通り自分事になってしまった。全くしょうもないものを幕府は作りおって。もし踏むという選択ならば、その納得の仕方として遠藤周作の「沈黙」は果たして妥当か、ずいぶん悩んだ。帚木蓬生の「守教」でそれを超えられる視点が得られたのではないかと思う。
二つの特殊日本的な極限状況は追体験の機会を与えるだけではない。人をそのような極限状況に追いやってはならないこと、そしてそのような仕組みを作り出す精神構造から脱却されねばならないことを日本の政治と社会が課題として持っていることを教えるものでもあると思う。それを忘れないためにも追体験による思考訓練は意味があると思う。