牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その9

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」26日の日課から)

『我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ』(マタイ611節)

『あなたは、「父なるみ神よ、我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈る時、それは次の内容を含んでいると理解せよ。「父なるみ神よ、この哀れで苦しむわが身を神であるあなたが発する言葉をもって強め励まして下さい。私は、あなたの御手が重くのしかかるのを耐えられません。しかし、耐えられないと、私は破滅してしまいます。だから、父よ、あなたが私を強めて勇気を失うことがないようにして下さい。」

神が我々に苦しみや困難が降りかかるのをお許しになる際に、我々に求めていることは、我々が右往左往したりあちこちに目を移すことではない。そのような時こそ一層神のもとに留まり神だけに目を注ぐことである。やみくもに苦しみや困難からの脱出を計ってはならない。そんなことをしたら、神の意志が我々を通して実現されるのを妨げてしまう。それは我々の利益ではない。我々は、そのような神の意志に最後まで付き合うことができる強さを身に着けることを求めなければならない。なぜなら、人間は誰一人として神から強めてもらわない限り、怖れを抱かずに苦しみや困難に立ち向かうことはできないのだし、また神が定めた時を示される時に怖れを抱かずに死に立ち向かうこともできないからだ。一切の被造物は、この「強める」ことができない。全ての被造物とりわけ人間というものは、そこから力づけを得ようとすれば、逆に我々をますます無力にし不安定で軟弱なものにするだけである。それ故、罪の赦しを保証する神の御言葉が我々を強める他はないのである。これこそが、我々が祈り求める「日ごとの糧」である。

マタイ福音書11章で主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。このような、神の御言葉を糧にして、神の意思の中に踏みとどまり、神に強めてもらうという教えは、聖書に満ちている、満ちている、満ちている。』(以上、ルターの説き明かし、吉村の激訳でした。)

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手芸クラブの報告

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4月の手芸クラブは22日に開催しました。この日は太陽が明るく輝き様々な花も咲くようになって美しい季節の朝でした。

今回の手芸クラブのテーマは前回に続いてモチーフ編みです。初めにモデルを見て自分の作りたい正方形の編み物を選びます。参加者の皆さんは前回にもモチーフ編みをされたので、今回はスムーズに編み始めることができました。お家で編まれた方は可愛い彩りの正方形の編み物を何枚も持ってこられました。皆でそれを見て、「わぁー可愛い!」「素敵」「きれいな色合い」と感心の声をあげました。モチーフ編みは鎖編みと中網の繰り返しだけなので、皆さんはマイペースで編み進めます。次第に作品の形が見えてきました。皆さんの手は早く、何枚も正方形を編まれました。正方形の数が増えると、最後はどんな作品になるか、完成品が楽しみです!

編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れることにしました。今フィンランドの季節は5月のお祭Vappu(メーデー)に近づいているので、季節のドーナツ菓子Munkkiを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。そこでパイヴィのお祖母さんたちの思い出話や、新約聖書のフィリピの信徒への手紙の「思い悩むな」についてお話を聞きました。

次回の手芸クラブは5月27日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブのお話2026年4月

今日の手芸クラブはモチーフ編みの続きをしました。皆さんは素敵な彩の正方形の編み物を何枚も編みました。それらをつなぎ合わせると、どんなものになるのかこれからの楽しみです。この編み方は英語でグラニースクエア(おばあちゃんの正方形)と言い、フィンランド語でも同じ意味「Isoäidin neliö」と呼ばれます。とても可愛い呼び名の手芸です。昔お祖母さんたちが始めた編み方かもしれません。昔、お母さんたちは家族の皆の靴下や手袋などを編んでいたので、毛糸が沢山余ったでしょう。お祖母さんになってから余った毛糸を使ってモチーフの編み方が生まれたかもしれません。

私はこのIsoäidin neliöという言葉を聞くと、自分のお祖母さんたちのことをよく思い出します。母の母である私のお祖母さんはかぎ針編みがとても上手でレース編みのカーテンやベッドのカバーなどを編んでいました。彩のモチーフ編みの美しいベッドカバーも作りました。11人の子どもを育てたお祖母さんは手袋や靴下を沢山編みました。余った毛糸を使ってモチーフ編みのベッドカバーを編みながらいろいろ思い出を巡らせていたのだろうと思います。

私のもう一人のお祖母さん、父の母はかぎ針編みはしませんでしたが、棒編みで靴下を冬でも夏でも編んでいました。家族の皆は毎年クリスマスプレゼントに暖かい靴下をもらいました。いつもサンタの奥さんが編んでくれたかのように思いました。父の母は私たちが住んでいた家と同じ家に住んでいました。母は農家の仕事で忙しかったので、お祖母さんは私たち兄弟姉妹の世話をしてくました。

一緒に過ごす時間が多くて私たちはお祖母さんととても親しくなりました。お祖母さんは聖書を毎日読んでお祈りを大切にしていました。私たち兄弟姉妹は学校でテストの日や勉強で忙しい時に少しプレッシャを感じることがありました。そんな時お祖母さんはいつも聖書の御言葉で励ましてくれました。お祖母さんがよく言われた言葉は今でも印象に残っています。それは新約聖書のフィリピの信徒への手紙の言葉です。

「どんな時でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めた祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
フィリピの信徒への手紙4章6-7節

子どものころこの言葉を聞いてもその意味を深く理解することはできませんでした。しかしお祖母さんはこの言葉でいつもで励ましてくれて、そしていつもお祈りしてくれたので心は軽く感じられました。大人になってからこのことを思い出すと感謝の気持ちで一杯になります。

この使徒パウロが語った言葉はどのような意味があるのでしょうか。

私たちは生活の中で心配事や悩む事が多くあると思います。そのようななかで生きていると、人生に対する喜びや希望を失ってしまうこともあります。しかし、いくら悩んでも何かを得ることは出来ず、ただ疲れてしまうだけです。では私たちはどうしたらよいのでしょうか。

神さまは私たちにとても大切なことを与えて下さいました。それは祈りです。祈りを通して天の神さまに全てのことを打ちあけることができます。私たちは全ての悩みを神さまの力強い御手に委ねることがでるのです。神様が私たちの祈りにどのように答えて下さるのかは分かりません。神さまは私たちの造り主であり、私たちに最も相応しい答えを与えて下さいます。また、神さまは私たちの父でもあるので、相応しくないものを与えることはなさいません。私たちは、神様が与えてくださったことにすぐ気がつかないこともあるかもしれませんが、神様は心の中に平安を与えて下さいます。どのような状態にあっても、お祈りすることで全てのことを神さまの御手に委ねることができるので、心の中に平安を得ることができるのです。

お祖母さんが教えてくれた聖書の箇所は今でも私を励ましてくれる言葉の一つです。聖書には励ましてくれる言葉は数多くあり心を癒してくれます。

最後に旧約聖書のイザヤ書のみ言葉です。

「恐れることはない、私はあなたたと共にいる神。たじろくな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」
イザヤ41章10節

私たちは、神さまのみ言葉を信じることができれば、心は軽くなり、平安に満たされます。

 

 

 

歳時記

キランソウ

〈ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。 詩編 51:7〉

早春の叢に地面を這うように一群の小さな草花を見かけます、その草花はやがて周りの草などの成長に伴って何時しか消えてしまいます。先日、尾根緑道の脇道の石垣にあの地を這うように咲いていた草花を見つけました。その名も「キランソウ」と言う野草でした。キランソウは別名「医者殺し、地獄の釜の蓋」などと可憐な花に似合わない名がついていて万病に効く薬草として知られてきました。石垣ならば他の草花にも邪魔をされずに存分に成長が出来ますね、石垣はキランソウの安住の地でもありました。

2026年4月26日(日)復活節第四主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2026年4月26日 復活後第四主日

使徒言行録2章42-47節

第一ペトロ2章19-25節

ヨハネ10章1-10節

説教題 「罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課はイエス様のたとえの教えです。最初の1節から5節までをもう一度見てみます。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 これは、当時の社会のごく日常的なことを言っています。羊の飼育が盛んなところでは、羊を牧草地に連れて行かない時は木材や石材で作った塀の囲いの中に入れていました。泥棒が「乗り越える」と言うから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方からすると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。ある羊飼いが、さあ、これから僕の羊を牧草地に連れて行こう、とやってくる、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう、そして、自分の羊を呼び集める。羊は羊飼いを声で聞き分けられるので、別の羊飼いが近づいてくれば、すぐわかって引き下がる。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

 これは、当時の人には日常的な当たり前な話でした。ところが、これを聞いたファリサイ派の人たちは「その話が何のことか分からなかった」のでした(6節)。どうしてかと言うと、当たり前のことなので話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになったのです。その反応を見たイエス様は今度は、自分は囲いの門であると言い、さらに自分は良い羊飼いであると言います。本日の日課は囲いの門のところまでです。

 これらのたとえが何を意味しているかは、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。それは本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活を度外視してイエス様の教えを理解しようとすると、イエス様が教えようとしたことからどんどん離れていきます。注意しないといけません。

 私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているので、今日のたとえの意味をわかる立場にあります。以下それを見ていきましょう。

2.イエス様は羊の囲いの門

 9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったする日常的な放牧のイメージを出しています。ところが、原文では、「囲いの中に入って、外に出ていく」と言っています。それも未来形で言っています。牧草地を見つけることも未来形で言っています。つまり、囲いの中に入ることと外に出ていくこと、そして牧草地を見つけることは全て日常的な放牧を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?さあ、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

 イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。それは、人間に命と人生を与えた創造主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者たちの群れです。そして、この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども聞き従わず、イエス様の声だけに聞き従った者たちです。

 このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

 このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世にまたがる壮大な人生を生きることを意味します。

 二つの世にまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、神と結びつが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。もともと人間は天地創造の時に造られた時は良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたことは、本日の使徒書の日課、第一ペトロ2章でも言われていました。そこでペトロは十字架の出来事が旧約聖書イザヤ書53章の預言の成就だったことを証ししているのです。

 そこで今度は人間の方が、これは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになるのです。

 このように、私たちが神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の二つにまたがって生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。まさにこれがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ14章6節で宣言します。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

3.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まって生きる生き方 その1

 こうして、イエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。つまり、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

 それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に残っています。もちろん、罪の赦しがある以上、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと心配したり、そういう至らない自分にがっかりします。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者は神の意思に沿うようにしなければと再び心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

 キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、赦しの確認を繰り返しながらこの世を歩んでいきます。これこそが罪の赦しのお恵みに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き抜こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、または、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとする力です。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書を嘘つき扱いします。しかし、私たちはそれらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しの恵みに留まります。そうすることが罪に反抗して生きている、罪を憎んでいることの証しになります。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

4.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まる生きる生き方 その2

 このように罪の赦しのお恵みに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことがこの恵みに留まって生きることになります。

 罪の赦しの恵みに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。あるいは、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

 この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神にすれば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。日本語に訳した人がギリシャ語のカリスを「神の御心に適うこと」と訳したのは、「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。19節も同じです。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」とありますが、ここも「御心にかなうこと」は、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。19節でもう一つあります。「神がそうお望みだとわきまえて」とありますが、ギリシャ語原文を直訳すると「神の良心のゆえに」です。「神の良心のゆえに不当な苦しみを受ける」とは一体どんな意味でしょうか?これはまさしく、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています(後注)。

  さあ、大変なことになりました。善を行うことが裏目に出て不当な苦しみを受けることになっても、良心が神に縛られているために、それを回避しないで耐える、これは神からすれば恵みであるというのです。そんな恵みがあるのでしょうか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。

 そういうことが恵みであるというのは、まさにぺトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせず褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることとか、救われることとかには何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えらる律法とは異っています。善い業を行って裏目に出たら嫌だ、褒められたり褒美をもらえるほうがいいと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなる教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

 もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。

 これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。なので、それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

 以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

4月の料理クラブの報告

4月の料理クラブは18日、つつじが咲き始めた初夏のような陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのシュガーフレーク・フルーツケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキの生地を作ります。今回はハンドミキサーは使いません。ケーキの粉類を計ってそれに溶かしたマーガリンを加えると、シュガーフレークのもとが出来ます。トッピング用にその一部を取っておきます。残りのものに生地用の他の材料を順番に混ぜ加え、それを型に伸ばします。

その次は中身の番です。水切りしたヨーグルトに砂糖、レモン汁を加えてクリーミーにし、それを生地の上に注ぎます。細かく切った缶詰のピーチとパイナップルをクリームの上に並べトッピングのシュガーフレークをかけて、ケーキをオーブンに入れて焼きます。ケーキが焼けている間にパプリカとキューリを切ってクラッカーの上にのせるなどして、塩気のものも少し準備しました。

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ケーキが焼けると美味しそうな香りが教会中に広がり、きれいな黄色のケーキが焼き上がりました。みなさん、「春らしいケーキね!」と声を合わせます。
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ケーキを少し冷ましてから切って、ケーキとクラッカーをコーヒー紅茶と一緒に美味しく頂きながら、楽しい歓談のひと時を過ごしました。キリスト教会では2週間前にイースター・復活祭のお祝いをしました。それで、今回の話は今日作ったケーキのことやイースターの後に起こった出来事についてでした。

次回の料理クラブは5月16日に予定しています(ご注意 5月は月の第三土曜日になります)。 詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2026年4月

今日は「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を作りました。フィンランドでは黄色のフルーツケーキはイースター・復活祭のお祝いの時によく作られます。以前、料理クラブでは似たようなピーチケーキを作りましたが、今回はピーチに加えてパイナップルもケーキの中に入れました。水切りヨーグルトを使ったしっとりしたケーキにトッピングのシュガーフレークを‘かけると、ケーキの風味が高まり美味しくなります。

この季節になるとフィンランドの家庭では、前の年に冷凍したベリーを殆ど使い切ってしまうため、ケーキ作りには缶詰のフルーツが使われます。パイナップルもその一つです。パイナップルは甘いお菓子だけではなくて肉料理やピザ、サラダなどにも使われます。

パイナップルは熱帯地域で育つ果物です。実が出来るまで2年もかかります。昔はとても希少で高価な果物で、身分の高い客をもてなすために使われたりしましたが、現在では生や缶詰のものがどこでも販売されているので、かつての特別な意味を知る人は少ないと思います。

今日のケーキは黄色いフルーツに加えて水切りヨーグルトも使ったので、イースターのケーキのイメージが高まりました。ちょど2週間前には教会ではイースターのお祝いをしました。これから聖書にあるイースターの後で起こった出来事についてお話したく思います。

イースターとは何の日でしょうか。それは、十字架にかけられて亡くなられたイエス様が神様の力で復活されたことを覚えてお祝いする日です。十字架の死から三日後の朝、復活されたイエス様が弟子たちや彼の教えをよく聞いていた女性たちの前に現れました。そして同じ日の夜、弟子たちがある家に集まっていると、突然イエス様が部屋の真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われました。弟子たちは幽霊だと思って恐れました。しかし、イエス様は弟子たちに自分の手と足と十字架の時に受けた傷を見せて、幽霊には骨も肉もないが自分にはあると言われました。弟子たちは最初驚くばかりで信じられない気持ちでしたが、次第にイエス様の復活を本当のことと分かって、心が平和に満たされていたのです。

イエス様は弟子たちの前に現れた時、一番初めに「あなたがたに平和があるように。」という挨拶の言葉を語りました。つい三日前の金曜日、イエス様は十字架に付けられて死なれました。その時の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。悲しんで後悔している弟子たちに、復活されたイエス様は責めるようなことは何も言わず、ただ「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。

神様が平和を与えて下さるという約束は、聖書の中で最も重要な約束の一つです。この神さまの約束は私たちにも向けられています。しかし私たちは今生きているこの世界の中で本当に平和に生きることができるでしょうか。今この世界は落ちしく揺れ動き国と国の間の紛争や戦争が数多く起こり、それらがどれくらい広がっていくか不安に感じさせます。さらに私たち一人一人の生活の中にも様々な不安があります。自分や家族の健康のこと、自分や子どもたちの将来のこと、人間関係のことなど多くの心配ことがあると思います。このような状態の中でどのようにして平和な心で生きられるでしょうか。イエス様が与えて下さる「平和」とはどんな平和でしょうか。

イエス様が言われた「平和」とは神さまが私たちの心に与えて下さる平和です。イエス様のお掛けで神さまと私たちは平和な関係があるという平和です。全ての造り主の神さまと平和な関係があるとわかれば、神様が共におられることが分かり、神さまを信頼して生きることができます。この時私たちの心の中には神さまからの平和があります。神さまは不安や悩みにとらわれている私たちを解放して全てを御手に委ねることができるようにしてくださいます。その時私たちは心の平安を得ることができるのです。

イエス様は弟子たちと出会われた時に彼らはイエス様に起こった出来事のために恐れに満たされ不安で一杯でした。しかしイエス様は彼らに「あなた方に平和がありますように」と語りかけました。私たちも弟子たちと同じです。生活の中に心配事があるかもしれませんが、イエス様は私たちにも「あなた方に平和があるように」と励まして下さいます。

何かを恐れている人、心配なことや後悔がある人も皆、イエス様のおかげで神様と平和な関係が持つことができるとわかれば、心に平安を得ることができるのです。イエス様は私たちにもこの励ましの言葉「あなた方に平和がありますように」と語りかけておられます。

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その8
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」4月24の日課から)
『婦人が子供を産む時、彼女は苦悶に見舞われる。彼女の時が来たからである。」(ヨハ
ネ16章21節にある主イエス・キリストの御言葉、1933年のフィンランド語訳聖書を参考に
しました。)
『このたとえで主は、人間の力がいかに無力であるかを示される。たとえ100人の婦人が
出産に臨む婦人を助けようと集まって来ても、どうすることもできない。そんなことは、
わかりきったことだ。出産というものほど、人間がいくら自由意思を駆使しても無力さを
思い知らされることはない。子供が母親の胎内から生まれてくるというのは、母親がどう
こうできるものではないからだ。それは人間の造り主である神が取り仕切ることだからだ
。だから母親は全てを神に任せるしかないということをよくわかるのだ。神が助け導いて
下さるのなら、助けと導きは確実にある。しかし、神の助けがなければ、たとえ全世界が
駆けつけても、万事休すである。神は出産ということを通して婦人に自分の力量、能力、
強さがちっぽけなものに過ぎないことをわからせるのだ。
これと同じことは出産と無関係な人すべてにも当てはまる。キリストはこのたとえを実は
彼を信じる者たちに向かって言われているのだ。出産に臨む婦人は何か不測の事態が起き
やしないかと恐れる。しかし、全てのことは神の御手の中にあるとわかっていれば、神を
信頼して委ねることが出来る。我々が様々な逆境の渦に巻き込まれた時、また古い人間か
ら新しい人間へと変えられる時も、全く同じである。だから、君は踏みとどまって、神の
働きを妨げないようにしなさい。神は我々の助けなどなくても全てを良く取り仕切って下
さる方なのだ。逆境の渦中にある時、新しい人間に変えられる時、我々は自分では何もな
しえないのだから。自分の力で取り仕切ろうとすれば、死と地獄が目の前に立ちはだかる
ことになる。それはちょうど、神に心を向けない出産の婦人が自分で自分を助けることが
できず痛みと苦しみと恐れしか感じられないのと同じことだ。』(以上、ルターの説き明
かし。迫力が伝わるように"爆訳"しました。)
そして神に信頼して神が働くようにした後で何が待っているか?イエス様は次のように続
けて言います。「しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために
、もはやその苦痛を思い出さない。」(ヨハネ16章21節の続き)

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歳時記

桜の饗宴

〈天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1〉

先日、小雨降る尾根緑道の桜見物に出かけました。尾根緑道の東側のソメイヨシノは既に葉桜となっていましたが、こちらの西側は山桜と八重桜は今が盛りと言わんばかりに咲き誇っていました。「シロタエ」や「ヨウキヒ」などの八重桜に混じって山桜の「駿河台匂い」も芳しい香りをあたりに漂わせていました。今年の桜の季節もそろそろ終盤に差し掛かってきたようです。この桜の饗宴をいつまで見られるか気になっているところです。

2026年4月19日(日)10時半 復活節第三主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年4月19日(日)スオミ教会

聖書 ルカ福音書24章13~35節」

説教題:「復活の主、エマオで現れる」

今日の聖書はルカによる福音書の最終章、24章であります。13節~35節には復活されたイエス様がエマオという村へ向かって帰る二人の弟子に現れるという出来事です。英国の聖書学者ウイリアム・バークルーは「これは、もう一つの不朽の短編である」と言っています。そして、日没に向かってイエス様の二人の弟子が故郷のエマオに歩いて帰っています。この二人がイエス様に気づかなかったのはエマオの村はエルサレムの西にあった。もう日が沈みかけていて、沈みゆく太陽が二人をまばゆく照らし、そのために彼らは主イエス様を見分けることが出来なかったのではないかと言っています。ルカは24章15節ではこう書いています。イエス様ご自身が近づいて来て一緒に歩き始めた。しかし、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかった。マルコは此処の場面をごく簡単に16章12節~13節の2節で書いています。「彼らのうちの二人が田舎の方へ行く途中、イエスが別の姿でご自身を現わされた。」ある聖書学者は、こう表現しています。これは、あきらかにルカ福音書24章13節以下に記されているエマオ途上の弟子たちにイエス様が現れた事と同じ話でルカのあの箇所の限りなく美しい物語で例えようもなく感動的である。マルコはその感動をわずか二行の短い文章で記しているだけです。情緒的、感傷に流れるのを恐れてでもいるかのようにあっさりと、しかし決定的な断言として二人の弟子たちに甦りの主がご自身を現わされた事を記している。週の初めの日、墓を訪れたマリヤの時と違って、此処では主は「別の姿」でご自身を現わされたと言っています。別の姿というのは身に着けておられた衣服が違っていたとか様子が全く変わっておられた、そういう事ではなく新しい姿、地上的な姿ではなく天的な姿と言う事ではないでしょうか。エマオに帰っている二人の弟子というのはあのイエス様の直接の12人の弟子ではないけれどもイエス様の行く先々を共にイエス様の教えを聴き病人を癒される奇跡を見、五千人の人々に五つのパンと二匹の魚で腹を満たす奇跡など驚くべきイエス様の業を目で見てこの方こそメシヤであると期待していたでしょう。ところがイエス様は十字架の死を遂げてしまわれた。彼らがどんなに失望、落胆したか道々これからどうしたら良いものかと語り合っていたのです。そこへ復活されたイエス様がスーッと現れ二人に近づいて、イエス様の方から「歩きながら遣り取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人はちょっとびっくりしてクレオパという人が答えた。「エレサムに滞在していながらこの数日そこで起こった事をあなたはご存知なかったのですか」こうしてイエス様が十字架につけられて亡くなってしまった事、彼らが如何に希望を持っていた方であった事、仲間の婦人たちが墓へ行ったらイエス様の遺体が無く天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げた事などを話してあげています。婦人たち、そして二人の弟子も天使に「イエス様は甦って生きておられる」と言われてもにわかには信じれれなかったのです。そうして、もう田舎に帰ろうとエマオに向かったのです。この二人の弟子に復活されたイエス様が旧約聖書の予言者たちからイエス様ご自身が死んで復活する事を既に話されていたではないか、とこんこんと説明された。それでも十字架に死んでしまったイエス様が生き返るなんて到底思えない、話されてもとても信じられない。これが二人の正直な心情だったでしょう。日も暮れて同じ宿に泊まることになり食事の時、イエス様のパンを裂かれる時二人の目が開けイエス様だとわかった!次の瞬間イエス様の姿は見えなくなった。こうして二人は甦られたイエス様は生きておられる・・・と信じたでしょうか。32節でルカは書いていますね「二人は道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時私たちの心は燃えていたではないか」と語り合ったのです。そうです!十字架の死を超えて甦り給ったイエス様に出合いの言葉に聴く瞬間、私たちの心は熱く燃えるのです。一瞬でもいい復活の主のみ言葉が私たちの心を熱くする言い知れない力がみ言葉から受ける事が出来るのであります。

信じるというのはどういう事でしょうか。イエス様は確かに十字架で死なれた。ただ一回だけ死んでしまわれた、これは事実です。神にみ子イエス様は十字架の死をもって信じる人全ての罪を全部この死を代償として我が身に受けて贖い死んでしまわれたのです。しかし、それで終わりではない死から神のみ力によって甦られされて復活の主イエス様は生きて信じる者の内にも生きて働いて下さるのであります。この事、復活されたイエス様が私のうちに生きて同じ復活の命に生かさせて下さる、この事をあなたは信じるかどうかです。もともと信じると言うのは見たから信じると言うものではないでしょう。証拠を見せて欲しい、そうしたら信じるとよく言います。それは証拠を見て納得する事であって信じる事ではありません。何の証拠もない、けれども信じるということではありませんか。世の中には何も信じられない、学校の先生も信じられなくなった、政治家も全く信じられないという人間は沢山います。信じる信じないというのはこの場合信頼するしかない、ということでしょう。その根拠はそう考える自分自身にあるのです、自分自身が判断の基準になっているのです。しかし、神を信じる聖書のみ言葉を信じるというのは神ご自身が根拠になっているのです、聖書そのものが根拠になっているのです。私たちが自分が証拠を手にしてそれで納得して受け入れるそういうものではありません。納得することは信じることでは決してありません。私たちは自分を根拠にして一体何が出来るのでしょうか。私たちは人でも物でも最後の最後まで信じ抜いてゆくことなど到底できないでしょう。自分自身さえ信じられなくなったとさえ言うではありません。私たちは老いてゆけば思うようになかなか出来なくなって自分自身の頼りなさを嘆きます。私たちは自分の健康も今まで何でも出来ると思っていた事も頼りなくなり自分も信じられなくなったら、もうただ神様を信じイエス・キリスト様を信じて頼ればよいのです。

使徒言行録26章を見ますと、パウロがアグリッパ王の前で弁明した演説が記録されています。8節に「神が死者を復活させて下さると言うことをあなた方は何故信じ難いとお考えになるのでしょうか」復活がどうして信じられないのかと聖書は私たちに問い掛けています。主イエス様は復活されたままのお姿であの疑い深いトマスに言われました。「信じない者ではなく信じる者になりなさい」。神様が信じる根拠となって下さる。主イエス・キリストはあなたのために十字架にかかり死なれたのです。そして、死から復活された。そして、甦りの主イエス・キリストは今も生きて働いておられるのです。私たちは復活の命にあの世に於いて永遠の命に生かされています。エマオに向かって失望の中にあった二人の弟子はイエス様の言葉に心が燃えた、同じようにそこに私たちの心にも復活されたイエスが生きて働いて下さるのであります。英国の有名な宣教師ジョン・ウェスレーは英国の儀式に縛られたキリスト教から脱出してアメリカへ宣教師の新天地を求めて、イギリスから船に乗って行く船の中でモラビア派の熱心なクリスチャングループを見ます。そして、後にこのモラビア派の有名な一人スパンゲン・ベルグという人と会う事が出来た。スパンゲン・ベルグはウェスレーに尋ねた。「あなたはイエス・キリストをご存知ですか」。ウェスレーはこれを聞いて自分は英国の国教会、聖公会の古いしきたりや形骸化している教会から新たに宣教に燃えているのに!「イエス・キリストをご存知ですかって」その心の内で思ったのでしょう。ウェスレーは答えたのです。「知っていますとも、彼は世の救い主です」。すると、スパンゲン・ベルグは更に言った。「そうです!しかし、あなたは『イエスがあなたを救った』と言う事をご存知ですか」・・・・。十字架にかかり復活されたイエスがあなたを救ったのですよ、どれだけ救われて来たのか・・・あなたはご存知ですか」と言ったのです。この時からジョン・ウェスレーの生涯のモットーは<生きた実際的なキリスト教を広める>と言う事に集中したと言われる。

復活されたイエス様は今も生きて働いて、私たちを救って下さっています。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その7

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」48日の日課から)

『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント1522節)

『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント1522節)

『強い信仰は、この御言葉を大きな文字で心に書き記す。また、大地の上に聳え広がる大空いっぱいに描き切る。信仰は、この御言葉が伝えてくれること以外は何も見ない、何も聞かない、何も考えない。それはあたかも、この世界には他に書かれたものは何もないと宣言するようなものであり、我々が生きるのも活動するのも全てこの御言葉の中でそうするのだと観念するようなものだ。このように信じることができれば、我々は喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができよう。この信仰はまさに、キリストが死から復活したのは自分自身のためではなく、我々のためだったということを教えてくれるのだ。主を信じる者は彼の復活に完全に包み込まれてしまうということを。だから、我々も復活の日が来たら復活して主と共に永遠に生きることになるということを。

我々の復活は、まだ秘められていて公然のものになっていない。それでも既に起こったと言っていいくらい今、確実なこととしてある。このことをしっかり心に留めておきなさい。そうすれば、今目に見えるものは全て復活の日に消え去ってしまうことがわかるだろう。そして、天においても地においても復活の有り様以外に目にするものはないという心境になろう。それゆえ、キリスト信仰者が亡くなって墓に埋葬される時、そこで肉眼の目に映るのは腐敗する肉体でしかなくとも、信仰の目に映るのは墓地でも亡骸でもない。信仰の目は全く別の新しいものを見ているのだ。すなわち、新しい命と素晴らしい楽園を、そこで憩う新しい人たちと永遠の命に生きる幸いな人たちを。』(以上、ルターの説き明かし。昨年420日の週報コラムに掲載した訳をさらに進化させました。AIなんかに負けません※。)

強い信仰とは、このような目を持てることを言うのでしょう。そうすれば、喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができるという目を。

  • ルターのテキスト(フィンランド語訳)を訳した後で、Chatgtpに訳させました。私の訳といろいろ違いがあり、私はどうして自分のような訳をしたかを説明しました。そうしたら、あなたの訳は日本語読者の受け取り方を考えながら伝達するdynamic/functional equivalenceの訳で、「かなり高度な解釈的翻訳です」と言ってきました。そして、こうすればもっと良くなりますなどと提案もしてきました。私はそれは受け入れませんでしたが、やろうと思えば、それについて対話はもっと続いたと思います。Kiitos hyvästä palautteestasi ja antoisasta kommentistasi!と言って今回は終わりにしました。
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