スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

2月の料理クラブは7日(土)13時から開催します。

本年最初の料理クラブは「ルーネベリ・ロールケーキ」を作ります。2月5日はフィンランドの国民的詩人ルーネベリの記念日です。その日フィンランドではルーネベリ・タルトでお祝いします。

アーモンド、シナモン、ラズベリーの味が引き立つルーネベリ・タルトは、長い冬を過ごすフィンランド人にとって楽しみな味の一つです。料理クラブでは、ロールケーキの形にしてクリームもクリームチーズを用いて上品な味わいに引き立てます。

「ルーネベリ・ロールケーキ」を一緒に作ってみませんか?

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1769021823iamg@1769021823arumi1769021823hsoy.1769021823iviap1769021823 まで。

牧師の週報コラム

古い歌を新しい歌に

ギター教室に通っている息子が新しい課題曲に「花は咲く」を練習したいと先生に申し出た。いつも息子の希望を聞いてくれる先生はもちろんOKだったが、私は少し困ってしまった。 というのは、メロディーはとても美しい歌だが、内容はキリスト信仰者としてどうかなというところがあるからだ。東日本大震災の後で歌が公表された時、歌詞の主人公は生きている人か死んでいる人かどっちかというちょっとした議論が起きたと聞いたことがある。もし後者なら、キリスト信仰とは相いれない。死者とコミュニケーションは取らないというのが聖書の立場なので、死者が何を考えているか思いを馳せたりはしない(レビ記1931節、申命記1811節、サムエル上28章、列王上216節、イザヤ819節を参照のこと)。キリスト信仰者は、あの方と共に歩めた日々を父なる神に感謝し、今は神のみぞ知る場所にて安らかに眠るその方と「復活の日」に再会できるという希望を神に祈り願いながら、その希望を胸に抱いて今を生きるというスタンスなのだ。創造主の神を介して過去の思い出と将来の復活の希望が現在を満たすのだ。

歌詞の中には「いつか生まれる君に」とあって、まるで主人公がこの世とは別の世界でこれから生まれる人間を見ているようなところがある。童話の「青い鳥」の中に確かチルチルとミチルがこれから生まれる子供たちが舟に乗ってこの世に旅立つ場面に出くわすところがあった。イエス・キリストの少し前の時代のユダヤ啓示思想文書の一つ「エノク書」にもエノクがそういう場面を天使に示される下りがあった。「青い鳥」の作者メーテルリンクは「エノク書」を読んだのだろうか。しかし、それらはいずれも、生きた者が天使に別の世界を見せてもらうというもので、死んだものが見る筋合いではないのだ。

さて、「花は咲く」はどうしたらよいか?特別支援の息子のやる気を失わせないためにも希望を叶えてあげたいが、キリスト信仰と異なる霊性とは距離を置いてほしい。そこで、考えたのは歌詞を少し替えてみることだ。次のようにしてみた。

   「いつか生まれる君に」 ⇒ 「いつか生まれる人に」

   「わたしは何を残しただろう」 ⇒ 「わたしは何をすべきだろう」

どうだろう、これで歌詞は生きている人の呟きになることがはっきりするのではないだろうか?ギターの先生にも歌詞の変更を理由を添えてお願いしたら了承してもらえた。自分がキリスト信仰者であることも公けにでき、まさに一石二鳥であった。

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スオミ教会 手芸クラブのご案内

今年最初の手芸クラブは1月28日(水)10時~13時に開催します。

手芸クラブ

まだ冬が続きます。今回は、レッグウォーマーを編みます。フィンランド語で「Säärystimet (サーリスティメット)」と言います。

足元を温めてくれるレッグウォーマーはお家の中だけでなく、散歩やお買い物など外出時にも大活躍。レッグウォーマーは難しくなく初心者の方にも編みやすいものです。単色・多色のどちらでも、また模様編みに挑戦することもできます。
手芸クラブ

参加費: 1000円

持参するもの: 毛糸100g、毛糸に合わせた編み棒4本または5本

手芸クラブでは今回のテーマ以外にご自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。

おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。

お子さん連れのご参加も大歓迎です!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み moc.l1769021823iamg@1769021823arumi1769021823hsoy.1769021823iviap1769021823

℡ 03-6233-7109 スオミ・キリスト教会

 

歳時記

<天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1>

何時もの散歩道で今年初めての白梅を見ました。紅梅の方は少し前に見ていましたが白梅の方は二月になってからと思っていました、が今年は早いのでしょうか。しかしこれをもって温暖化などとは申しませんが少し気になりました。調べてみますと、一般に春の花、梅、桜の開花には春の暖かさだけではなく、冬の5度前後の寒さも必要でした、この寒さがスイッチとなって花芽が休眠から覚める「休眠打破」と言う現象が引き起こされるようでした。この日も梅の木に近づくと懐かしい香りが漂って来ました、山梨の家にも梅の木を植えて花と実を楽しみにしておりますが肝心の時に不在になり何時も残念に思っています、古人も歌っていますね”東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ 。菅原道真”

2026年1月18日(日)顕現後第二主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン 

             2026年1月18日(日)スオミ教会説教

聖書:ヨハネ福音書1章29~42節

説教題:「見よ神の子羊、最初の弟子たち」

新しい年を迎えました。

人生に於いて「人との出会い」と言うものが、自分の生涯を決定するほど重要な出来事となる、ことがあると思います。今日の聖書はそのような不思議な導きと出合でイエス様の弟子となった出来事です。1章29節から34節までを見ますと、此処には一貫してバプテスマのヨハネは自分の事を控えてイエス・キリストと呼ばれる救い主を紹介することに全力を注いでいます。まず、29節で「ヨハネは自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ!世の罪を取り除く、神の子羊だ。』」

そう言ってヨハネはイエス様の事を三つの角度から紹介しています。第一は、「この方は世の罪を取り除く神の子羊である。」第二は、「私よりも先におられた方である。」第三は、「この人こそ御霊によってバプテスマを授ける方。」そうして、32節でこう言います。そして、ヨハネは証しした。「私は霊が鳩のように降って、この方の上に留まるのを見た。この人が聖霊によって洗礼を授ける人である。」と確信しているので言う。「この方こそ神の子である。」と証しするのだ。まず、イエス様こそ世の罪を取り除く神の子羊と表現して指し示す事であったのです。この神の子羊は私たちの罪を負って下さる方なのです。私たちの人生の中で様々の重荷をそっくり代わって担って下さる、どのようにして担って下さるのでしょうか。神の子羊であるイエス様が十字架の上で私たちの全ての罪を自分の死を犠牲にしてご自分の肩に担って下さるのです。ですから、この御方、イエス様を信じるあなたは最早あなたの肩にその重荷は無いのです。イエス・キリストの上にある筈です。このお方を私の救い主と知って理解して信じて受け入れる事です。

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次にヨハネはバプテスマについて「水によるバプテスマ」と「御霊によるバプテスマ」とを区別して言いました。自分のする水の洗礼はせいぜい今までの生活を水で洗い流す面であるけれども、イエス様の霊による洗礼は新しい命に生まれ変わるもので、この方こそ神のメシアとして優れたお方である、とイエス様を強調して言っております。さて、1章35節以下では「その日また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて「見よ!神の子羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いてイエスに従った。ヨハネがイエス様をはっきりと差し示して、見よこの方こそ神の子羊だよ、と言う確信の言葉に二人の弟子はすぐ様、何の躊躇もなくイエスに従ったのです。その一人アンデレが兄弟ペテロに伝えて言った「私たちはメシアに出会った」。そして、シモン・ペテロをイエス様のところに連れて行ったのです。此処にはキリスト教の伝道の姿があるように思います。自分が「私の救い主」であると信じたらその方のところへ連れて行く。そうして、その方を先ずは知る事によって真に心からイエス様に出会う事であります。イエス様と心から出合ったら人は変わります、信仰が与えられれば人は全く新しく変えられるのです。現代に於いてイエス様に出合う事とはどんな事でしょうか。それは言い換えるとキリストの教会へと一緒に誘い教会の礼拝に於いて神の言葉である説教を聞くことによって、説教で語られるイエス様と出合う事であります。そういう意味で礼拝での説教は一番大切な事であります。自分の救い主メシアと一瞬でも出合う事であります。

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さて、今日の聖書のところでバプテスマのヨハネは非常にくどくどと自分はイエスが救い主だとは知らなかった。と繰り返し言っています。31節を見ますと「私は、この方を知らなかった」と言っています。言い換えますと、私は、イエスと言う方とは関係がない、もっと分かり易く言いますとこのお方と私は違う、一緒に見ないでくれ。この方は、36節で「私の後から来られる、私より優れた方、桁外れに凄い、驚くべき方と言ってその方は私に勝る、私より先に既におられたからだ」とも言っています。バプテスマのヨハネは何故このように「知らなかった」と強調しているのでしょうか。この当時のユダヤの社会の様子を知る必要があります。当時のユダヤでは”隠れたるメシア”と言う信仰がありましたのでヨハネは”私をメシアだと思ってはいけない、私は違うのだ”と言いたいためにくどくどとこの方を知らないと、実はこの方こそあのお忍びのメシアです、と言いたかったのです。

この福音書が書かれました紀元一世紀末頃にヨハネ派と名付けても良いような異端的なグループが蔓延っていたようです。イエスよりもヨハネの方を偉大だと主張していたグループです。このヨハネ派の異端と言うのは、一体どういうところから出て来たかと言いますと二つの切っ掛けがあると思われます。その一つはイエス様の活動の始めの頃イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けたではないか。洗礼を受ける人が洗礼を授ける人より優れている訳がない。洗礼を授けた方が上に決まっている、このことが切っ掛けです。もう一つはルカの福音書の1章36節以下で明らかにしているように、バプテスマのヨハネの方がイエスより半年、年上で生まれてきています。預言者として姿を現したのもバプテスマのヨハネの方が先輩であり優れていると考えられたのでしょう。けれどもこれは違うとヨハネ福音書の方で、イエスは私より先におられたと言い表しています。ヨハネ福音書1章1節に「始めに言があった・・・言は神であった」そして14節に「肉体となり私たちのうちに宿った」と、このようにイエス様はもっともっともっとバプテスマのヨハネより以前に世の初めから永遠に存在しておられるのである。だから、先におられたイエスこそ優れたお方である。こうしたヨハネ派と言われた異端がユダヤの社会で蔓延っていた中でバプテスマのヨハネは隠れたる真のメシアであられるお方こそイエス様であると言うのであります。さて次に、ここでイエス様の事をヨハネは「神の子羊だ」と言っています。この呼び方は何を意味しているのでしょう。この言葉には三つの意味があります。第一にはイエス様は過ぎ越しの子羊であり給うと言う事です。昔、エジプトの奴隷として虐げられているイスラエルの民を救い出すため神はエジプトを罰し給いました。どうしても言う事を聞かないエジプトの王に対して神様は夜、滅びの使いを送られましてエジプトの家々の長男を殺されました。ただ、神様の約束を信じて傷のない子羊を屠ってその血を門の柱と鴨居に塗り家の中に閉じこもって信じて従った家は過ぎ越してもらえる、こう信じて従ったイスラエルの民はこの子羊によって難を免れたのでありました。(出エジプト12章)

コリント第1の手紙、5章7節には、こうあります。「キリストが私たちの過ぎ越しの子羊として屠られたからです」。イエス様は過ぎ越しの子羊として屠られ、神の刑罰とその悲惨な滅びから私たちを免除させて下さった方であります。その意味で彼は「神の子羊」であられます。

第二に「神の子羊」とはイザヤ書53章に預言された受難の僕を表します。53章7節を見ますと、私たちの罪のため鞭打たれ殺されて行く、この受難の僕が子羊として描かれています。「彼は虐げられ苦しめられたけれども口を開かなかった。屠り場に引かれて行く子羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように口を開かなかった。」黙々として神の刑罰を私たちに代わって受けて死んで行く受難の僕、これこそ神の子羊であります。それは、まさにイエス様の事を指しています。この子羊のように罪の刑罰を身代わりに受ける者こそイエス様の事であります。

第三に「神の子羊」とは、この世と、この世の力に対しての勝利者を意味します。勝利者と言うと何か勇ましい勝利の大物を思い浮かべますが実は紀元前1~2世紀頃からユダヤで救い主の事を譬えで描く黙示文学が流行っておりました。これは、「12族長の遺言」ヨセフ19:8やベニヤミン3:8

エノク書90:38とか言った記録に次のようにあったと言う「そこで私は見た、一人の処女が一頭の子羊を生んだ。その左手には獅子のような者がいた。そこで、全ての獣が彼に襲い掛かったが子羊は彼らを打ち倒し彼らを滅ぼし足の下に踏みつけた。彼の故にみ使いたちも人たちも全地も喜び踊った」或いは、新約聖書の最後のヨハネ黙示録にも何度も「屠られた子羊」と言うのが出てきます。

(5:16、12・13:8など)この子羊は決して屠られて敗北した子羊でもなければ大人しい子羊でもない、むしろ「力と富と知恵と勢いと誉と栄光と賛美を受けるに相応しい」そういう勝利の栄光に満ちた王者であります。(5:12)17章14節「彼らは子羊に戦いを挑んでくるが子羊は主の主、王の王であるから彼らに打ち勝つ。また、子羊と共にいる召された選ばれた忠実な者たちも勝利を得る」

このように、子羊は主の主、王の王。世の全ての敵対者に打ち勝つところの勝利者であります。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

 

牧師の週報コラム

宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その4最終回)

14日のコラムの続き)カギは2節の聖句にある。

「あなたたちは、『心』を新たにされたのだから、何が神の意思であり、何が善いことか御心に適うことか完全なことかを熟慮する者へと自分を変えていきなさい。」 (これは新共同訳と異りますが、以下の議論から妥当な訳と考えます。もちろん文法的にも説明できます。)

「心」の元にあるギリシャ語の言葉はヌース。この日本語訳は厄介である。私は「意識」や「自覚」もありかなと思うのだが、「心」が無難かもしれない(ただし、ルター派は以下の議論から明らかなように絶対に「理性」と訳してはいけない)。

実はヌースは既に7章の23節と25節に出ていて、その正体が明らかにされていた。肉体は罪が命じることに従ってしまうものだが、ヌースは神の命じることに従って罪が命じることに反抗するものなのだ。まさにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることでヌースが新しくされたのだ。上記2節の聖句はこのことを指すのだ。キリスト信仰者は、新しくされたヌースにおいて神の命じることに従うが、肉体において罪の命じることに従うという苦しい二律背反の状況に置かれてしまうのだ。パウロはローマ7章でその苦悩を正直に告白する。理性は、ルターに言わせれば、信仰を骨抜きにするものにしかすぎずこの二律背反に真の解決をもたらさない。それでパウロは、救いにとってはヌースが新しくされたことで十分、それで神の裁きに定められないというギリギリの真実に踏みとどまる(81節)。聖霊が、新しくされたヌースのお伴としてあり、肉体の罪の実行を阻止できるように助けてくれる(同13節)。そのように生きる者は実は復活に与かれるという希望をあらゆる希望の大元にしているのだ(同24節)。

ヌースを新しくされたキリスト信仰者は、何が神の意思で何が御心に適うことか吟味する。パウロが2節で倣ってはいけないと言う「この世はそんなことをしない。吟味しない生き方は世に倣う生き方であり、理性を含めて肉体だけで生きる生き方である。御心に適うことを吟味してその通りにしようとすることが、まさに罪に従う肉体を神聖な生贄にして捧げることになるのだ(1節)。具体的には、3節から21節まで言われていることが肉体を生贄にして捧げることになる。3節から8節までは信仰者同士の関係において、9節から21節までは信仰者同士から人間関係一般に広がるキリスト信仰者の立ち振る舞い行動様式の全容だ。どちらの場合もキリスト信仰者は相手よりも高く出ないでとことん自分をヘリ下させることが貫かれている。

キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような「心」を好むと好まざるとにかかわらず宿命的に植え付けられた者である。そういう者になりたいという問題ではないのだ。洗礼を受けてイエス・キリストを救い主と公けにする者が気づいていないのならば、すぐローマを3章から12章までじっくり読み通すべきだ。それが難儀ならば、毎週日曜日の礼拝に出るべきだ。そもそも礼拝というのは、キリスト信仰者に新しくされたヌースがあることを思い出させ、その新しさを保たせ強めるためにあるのだから。

以上のことを思い巡らした後、急接近していた巨大彗星はまた宇宙の彼方へと飛び去って行ったのである(了)。

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歳時記

芭蕉庵と関口

<あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。イザヤ書43:2>

過日、教会の近くの細川庭園で勉強会が開かれました、その帰りに庭園脇の細道を下っていましたら芭蕉庵なるものがありました。こんな所に何故と訝っていましたが後にしらべてみたら以下の事が分かりました。江戸時代この辺一帯は関口村と言われ神田川と深い関わり合いを持っていました。関口の関は堰(ダム)の事です、徳川家康が江戸入りをする以前から此処に住んでいた農民が灌漑用に堰を築いていたので堰口と呼んでいたのかも知れません。時代が下って徳川家康は江戸市内の飲料水の確保のために近くの大滝橋付近に大洗堰と言う本格的な堰を作らせました、堰は江戸湾の満潮時の海水が侵入しないように高く築かれていました。此処に溜めた水を当時の神田や日本橋方面に給水していました。此の堰を管理していたのが松尾芭蕉だと言われています、管理と言っても堰の掃除程度だったようです。それで芭蕉庵が何故此処にあるのかの謂れが分かりました。 写真は明治時代の関口大洗堰です、正面奥の堰に溜めた水を手前の箱樋で配水していたのでしょうか。右手の小高い丘は目白台で現在の細川庭園や椿山荘のある場所のようです。因みに水道橋とはこの水が下流で仙台堀の上空を横切って神田、日本橋方面に水を送るための給水専用の橋の事でした。

牧師の週報コラム

宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その3)

1228日のコラムの続き)確かにローマ12章は命令文が多い。しかし、「ローマ」を最初から丹念に中断することなく根気強く読み進めて12章に到達すると、これらの命令は普通の命令とは異なる響きを持つのだ(ギリシャ語原文では12章は動詞の命令形は少なくて大半は分詞の形である、この観点からの考察は別の機会に譲る)。どんな響きかというと、「読者諸君よ、君たちの立ち振る舞い行動様式はこのようなものになるのだ」と気づかせてあげるようなものなのだ。どうしてそんなことが言えるのかというと、読者は12章に到達する前に少なくとも2回、心を揺さぶられて神の御前に跪くような心の状態になっているからだ。

まず3章から8章までパウロは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰と洗礼によって人は神から義人と認められ死の滅びから救われるという「信仰義認」を説く。そして8章の終わりで、何ものもこの義認と救いを奪い取ることはできない、それ位に神の愛は強いものであることが説得力をもって説かれる。読者はここで心を揺さぶられて感謝のあまり神の御前に跪くことになる。

次は9章から11章まで。パウロはユダヤ人の多くが信仰義認を受け入れず、掟を守ることで義人と認められようとする路線を取り続けている現状を悲しむ。他方で異邦人が信仰義認のキリスト信仰をどんどん受け入れる現状がある。これをパウロは、将来ユダヤ人が信仰義認を受け入れるようになるために今異邦人のキリスト信仰受け入れが起こっているのだ、神はユダヤ人を決して見捨ててはいないのだという恩恵を旧約聖書の預言に見出だす。11章の終わりで読者はパウロと共に人知を超える神の先見にただただ敬服し神の御前に跪くしかなくなる。

このように読者は2回心を揺さぶられて神の御前に跪くという、とことんへりくだった状態で12章に到達する。そこで冒頭の「神の憐れみによってあなたたちに勧めます」を目にすると、もうその通りにするしかない、それ以外に在りようがないという心になるのだ。なぜなら「神の憐れみ」には、3章~8章と9章~11章で言われていたことと8章と11章の終わりで結実しているものが詰まっているからだ。

このようにローマ12章の諸々の命令は、神の御前に跪きへりくだった状態にあるキリスト信仰者が聞いてその通りにするしかない、それ以外に在りようがないというものばかりなのだ。しかし、信仰者がそれらをそのように当たり前のように聞き入れる心を持てるのは、「神の憐れみ」に対する感謝と敬服のゆえだけではない。実は聞き入れる「心」そのものを神から与えられているのだ。(さらに続く)

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