2022年1月16日(日)顕現節第二主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年1月16日 顕現後第二主日

 

イザヤ62章1節-5節

第一コリント12章1-12節

ヨハネ2章1節-11節

説教題 「今が、主と関わり合いを持って生きる時、

主に願い事を祈り求める時」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。結婚式の祝宴でふるまわれるぶどう酒が底をついてしまった。そこでイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って祝宴は無事続けられたという話です。聖書のよく知られている話の一つです。嵐を鎮めたり病気の人を癒したりする奇跡に比べたら手品みたいで奇跡と呼ぶには少し大げさに思われるかもしれません。しかし、結婚式の祝宴がイエス様の時代も大がかりなものであったことを考えるとこれはやはり奇跡と言ってよいとわかります。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとあります。一つにつき80~120リットル入りということです。それが6つありました。イエス様はこの水瓶の水全部480~720リットルをぶどう酒に変えたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。そのような大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えてしまったというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

 この福音書の箇所は結婚式に関係するのでキリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように困っているときに助けてくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような頼りになる方がついておられるんですよ、というメッセージは式全体に祝福された雰囲気をもたらすでしょう。

 ところが、この箇所はよく読んでみると、助け人のイエス様のイメージに合わないことがあります。それは、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、私が何とかしましょう、とは言いませんでした。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは他人行儀も甚だしい。ところがマリアは、このような冷たい答えにもかかわらず、何を思ったのか召使いたちにイエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。マリアは、イエス様の答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。

 結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、助け人イエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりは一体何だったのか?イエス様はあまのじゃくで素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。以前の説教でこのことを見ましたが、今回また新しいことが見えてきたのでそれを合わせて見ていきます。

2.マリアの立場

 まず、出来事の状況を把握することから始めましょう。文章から手掛かりはいろいろ見えてきます。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に列席していますが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2‐3節)と言っていることです。マリアとイエス様と弟子たちみんなが招かれた、とは言っていないことです。「招かれた」のはイエス様と弟子たちで、マリアは「そこにいた」と別扱いです。それと、マリアは後で召使たちに命じたりして召使たちは素直に聞き従います(5節)。そうしたことから、彼女は単なるお客様でなくて主催者側の一人として何か役割を持っていたのではないかと考えられます。それで、ぶどう酒が底をついた時の心配は他人事ではなかったでしょう。

 そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと考えられます。ここで注意すべきは、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と助けを求めたのではないということです。ぶどう酒がなくなってしまった、ああ、どうしよう、とおろおろしていたのです。11節をみると、このぶどう酒の奇跡はイエス様が公けに行った奇跡の最初のものと言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を起こせる方だとはまだわからなかったことになります。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、助けをお願いしたのではなく、大変な事態になってしまったとおろおろした状態で事実を述べただけと言ってよいと思います。

 それに対するイエス様の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?昔テレビのある時代劇でヒーローがいつも「あっしにはかかわりのねえことでござんす」と言って、いつも結局はかかわって悪者を退治するというものがありました。イエス様も最初は自分には関係のないことだと冷たく言いながら、後で助けてあげるということなのでしょうか?

 以前の説教で私は、この箇所のイエス様は冷たく言い放っていませんと申しました。その後で宗教改革のルターが、これは冷たく言い放っているのだと言っているのをみてかなり焦りました。彼の論点は、マリアは冷たく突き放されてもイエス様にしがみつくように信頼を捨てなかった、本当の信仰を示したというものです。キリスト信仰というのは、神が怒っているように思える時でもそれは人間の感情からくる思いにすぎず、本当は神は良い方なのだと信じて神から離れないようにするのが本当の信仰なのだ、と言うのです。もちろん、ヤコブが荒野で神が送った者か神自身かわからないが謎の人物と取っ組み合いをして、祝福してくれるまで離しません、としがみついて祝福してもらったことがあります。また、異邦人の女性がイエス様に娘を悪霊から助けて下さい、とお願いした時、最初イエス様はユダヤ人でないからと言って聞き入れる素振りがありませんでしたが、女性がしがみつくように懇願して、犬もおこぼれに与りますなど、と言って願いがかなったということがあります。しかしながら、マリアの場合はしがみつくようなこともせず、イエス様の言葉を聞いてすぐ、まるで彼が手を打ってくれると理解したかのように召使いにスタンバイを命じたのです。ルター先生の解釈に盾をつくようで気が引けるのですが、でも結論は、イエス様を信頼してお願い事はなんでも、諦めないで提示していいのだというところで合流するので、問題はないと思いました。

3.イエス様の「時」

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」この言葉の本当の意味がわかるために、まず後半部分「わたしの時はまだ来ていません」から見ていきます。私の時はまだ来ていない、とは何のことでしょうか?おろおろするマリアに意味をなす言葉なのでしょうか?

 「わたしの時」とか「時」という言葉はヨハネ福音書の中に何度も出てきます。その一つヨハネ12章23節を見てみましょう。次のような出来事です。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神と神の国について教え、ユダヤ教社会の指導者たちと激しく論争をしていた時でした。地中海地域の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらにヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。

 つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が受難の道に入られて十字架の上で死を遂げる時、そして死の後で神の想像を絶する力で復活させられて神の栄光を顕す時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、人間が全ての罪を神から赦していただけるようになるための神聖な犠牲の生贄となるためでした。それなので、イエス様が十字架にかけられるのは神にとっても人間にとっても本当に大事な時だったのです。そして、イエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る道が開かれました。死が無力にされたのです。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、罪を赦されて神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。あとは人間がこのことを信じてイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ければこの可能性を自分のものにすることができるのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性をもたらす出来事の時、十字架と復活の時を意味するのです。世界各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きれば、後はその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

 それで、「わたしの時はまだ来ていない」は意味は次のようになります。「今はまだ、私が十字架の道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、将来到来する神の国がどんな国かを奇跡の業をもって示していかなければならないのだ。だから、十字架と復活が起こる前の今は、私はお前たちと共にいてこの教えと業を行う時なのだ」という意味になります。

 さてイエス様が「わたしの時はまだ来ていない」と言った時、果たしてマリアはそういうふうに、まだおまえたちのもとにいて働きをする時だ、と理解したでしょうか?まだ十字架も復活も起きる前に聞いたので、それは無理だったのではと思います。しかし、マリアの場合は、かつて赤ちゃんのイエス様を抱き上げたシメオンが、この子は将来神と神の民の間を取り持つような何かとてつもないことをすると預言したのを聞いています。それでこの子には将来何か重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で誕生したこの子は今のところは私たちと共にいるということなのだな、というくらいはわかります。言い方自体は、ぶどう酒の問題の解決には直接関係ありませんが、聖霊の力で誕生したこの方が私たちと共におられるという一言は、慌てふためく心を落ち着かせるインパクトはあります。そういう視点で前半の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」を見ていくと、その意味もわかってきます。つまり、イエス様の言葉全体はマリアを落ち着かせ、この子は何かをするつもりだとわからせて、召使いたちに待機するように指示するくらいの言葉だったのです。これからそれを見ていきましょう。

4.パニックから導き出されるイエス様

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文を直訳すると、「婦人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」という疑問文です。わかりにくい文です。ギリシャ語原文でこれと全く同じ形を取る文が他にもあるのでそれを見てみます。マルコ1章24節です。シナゴーグで汚れた霊にとりつかれた男とイエス様が対峙するところです。汚れた霊が叫んで言いました。新共同訳ではこうです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている、神の聖者だ!」ここのギリシャ語原文を直訳すると、「ナザレのイエス、お前と俺たちの間にどんなかかわりがあるのか?我々を滅ぼしに来たのか?」云々です。

 この「~と~の間にどんなかかわりがあるのか」は旧約聖書にもあります。列王記上17章18節で、預言者エリアがシドンのサレプタというところであるやもめの家で居候していた時、やもめの息子が死んでしまうという悲劇があります。その時やもめがエリアに言った言葉です。新共同訳ではこう訳されています。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか?あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか?」ヘブライ語原文を直訳するとこうなります。「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのですか?あなたは私の罪を思い出させ云々」となります。ここで、あれ、ギリシャ語とヘブライ語は違う言語なのに、どうして同じ形の文などと言えるのか、と言われてしまうかもしれません。でもこれは、ギリシャ語とヘブライ語がわかる人が見たらすぐわかるくらいに同じ形なのです。言語学を勉強している人なら統語論という言葉を使うと思いますが、統語論的に同じなのです。この辺のからくりは、本説教の原稿をホームページに載せますので、そこでお見せしますので、ここではこのまま話を進めます。

 さて、サレプタのやもめ、シナゴーグの汚れた霊、カナの祝宴でのイエス様はみんな、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?と言っています。新共同訳では、どんなかかわりがあるのか?とか、かまわないでくれ?などと訳されています。そこで他の国の言葉ではどう訳されているか参考までに見てみました。私が読んで理解できるのは日本語と英語とドイツ語とフィンランド語とスウェーデン語の5つですが、結論から言うと大体、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?というのと、あなたは私に何を望むのか?というものに収まっていきます。各国語の訳もホームーページでお見せします。

 そこで、「私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」と「あなたは私に何を望むのか?」という訳で見ていきましょう。サレプタのやもめ、「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあって、私の罪を思い出させて息子を死なせたのですか!」、または「神の人よ、あなたは私に何をお望みですか?私の罪を思い出させて息子を死なせることですか!」となります。シナゴーグの汚れた霊、「ナザレのイエスよ、俺たちとお前の間にどんなかかわりがあって、俺たちを滅ぼそうとするのか?」、または「ナザレのイエスよ、お前は俺たちに何を望んでいるんだ?俺たちを滅ぼそうというのか?」となります。どちらも、私に構わないで下さい、俺たちに構うな、かかわりなど持ちたくない、ほっといてくれ、となっていきます。

 ところが、カナのイエス様の場合は勝手が違います。やもめや汚れた霊たちは神の力を持つ人を前にしてパニック状態になってこの言葉を述べますが、カナの時はパニック状態になっているのは言葉をかけらるマリアの方で、言葉をかける本人のイエス様は平静そのものです。だから、ここは、私に構うな、ほっといてくれ、という意味はありません。その意味を捨てて考えると、こうなります。「私とあなたの間にどんなかかわりがあるかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあななたちと一緒ですよ。」または、「あなたは私に何をお望みかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあなたたちと一緒ですよ。」こういうことでしたら、冷たく突き放したようには聞こえなくなります。むしろ、この人は何かするつもりだと感じ取らせるものになります。マリアがそう感じ取ったことは彼女の次の行動で分かります。召使いたちに、イエスが何か言いつけたらその通りにするように、と命じたのです。その時のマリアはパニック状態にあってもイエス様を信頼するということが心の中に何か芯というか核のように生まれたのです。その意味でパニックはあってもそれに支配されなくなったのです。それは実際にはパニックを脱したということになります。

 ここで一つ余計なことになるかもしれませんが、言ってもいいのかなということがあります。それは、この言葉を述べた時のイエス様は案外ニヤリという表情で言ったのではないかということです。昔、大学の神学部のギリシャ語の授業で先生が言ったことですが、イエス様がニヤリと笑みを見せたところがあるという研究論文があると。どこでニヤリとしたかと言うと、ペトロがイエス様に私も水の上を歩きたい、と言って、湖の上に立つイエス様が、じゃ、こっちに来なさい、と言って、ペトロは水の上を歩き始める。しかし、波風を見て怖くなった瞬間に溺れ始めてしまい、助けを求める。イエス様は手を差し出してペトロを引き上げる時に言った言葉「信仰の薄い奴だな」、この時イエス様はニヤリと笑ったというのです。どうしてそんなことが言えるかというと、私の記憶になってしまいますが、その研究者はギリシャ古典の大家で、古代ギリシャの哲学、小説、戯曲の文体を徹底的に分析して、福音書の問題の個所の文体は主人公が笑みを浮かべるものに一致するということだったと思います。これに反論しようとするなら、同じ位ギリシャ語文献を熟知しなければならないことになります。さて、「信仰の薄い奴だな」とニヤリと笑ってペトロを引き上げてあげるイエス様。そこでカナのイエス様の場合はどうか。「私に何をお望みかな、ご婦人さん、私はまだあななたちと一緒にいるのだよ。」それをニヤリと言われたら、ますます、この方は何かをしでかす、とパニックを忘れさせる効果は大と思うのですが、どうでしょうか?イエス様をこんな風に何か大胆不敵さと茶目っ気さを兼ね備えた方のように言うのは行き過ぎでしょうか?でも、大胆不敵さは母親譲りと言えるし、茶目っ気の方も、彼のたとえの教えの中には読んで吹き出してしまうものもあります。どのたとえか別の機会にお話ししますが、ユーモアの精神も見られるのです。本人がどこまでそれを意識していたかわかりませんが。

5.今が、主とかかわりあいを持って生きる時、主に願い事を祈り求める時

 さて、これでイエス様とマリアのやり取りは、突き放されてしがみついたというルターが言うのとは違って見えるものになってきました。そこで、イエス様の言葉は、いろんなことで慌てふためく私たちの心にもイエス様を信頼することを呼び起こす力があることを見てみます。そんなこと言ったって、イエス様はあの後十字架にかけられ復活を遂げたではないか、もう彼の時は過ぎてしまったではないか、彼は今私たちのところにいないではないか、天の父なるみ神の右に座している、といつも使徒信条や二ケア信条で唱えているではないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、「私の時はまだ来ていない」という主の言葉は、私たちにとっては、主の再臨はまだ来ていないという意味になります。再臨の日まで今天と父なるみ神のもとにおられる主は、信仰と洗礼をもって神の子とされた私たちとは聖霊を介してその日までいつも私たちと一緒にいて下さいます。だから、かかわり合いがあります。望むことを打ち明けていいのです。そうしないと、再臨の日が来たら手遅れになります。その日、私たちは復活させられてしまったら、痛みも苦しみも悩みもなく正義も完全に実現しているところに迎え入れられてしまうので、そこではもう何も望むことは出来なくなってしまいます。

 だから今が、主とかかわり合いを持って生きる時、願い事を打ち明けて祈り求める時なのです。今、共にいて下さるイエス様が慌てふためている私たちにあの時と同じような平静さで、ひょっとしたらニヤリと、お前は私に何を望むのか?私はお前と共にいるぞ、とおっしゃって下さるのです。私たちは時として何も望むこともできない位に落ち込む時もあります。そういう時は、イエス様と自分の間には何もかかわり合いはないと思ってしまうでしょう。しかし、イエス様はそう思うのは間違っている、かかわり合いはあるぞ、望むものを思い出して打ち明けなさい、とおっしゃって下さるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

列王記上17章18節、マルコ1章24節、ヨハネ2章4節の文の形と各国訳は以下の通りです。

ヨハネ2章4節 τι εμοι και σοι, γυναι; (…)

【新共同訳】「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。(わたしの時はまだ来ていません。)」

【英語NIV】Woman, why do you involve me? (My hour has not yet come.)

【ドイツ語・ルター】Was geht´s dich an, Frau, was ich tue? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)

【ドイツ語Einheitsübersatsung】Was willst du von mir, Frau? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)

【フィンランド語】Anna minun olla, nainen. (Minun aikani ei ole vielä tullut.)

【スウェーデン語】Låt mig vara, kvinna. (Min stund har inte kommit än.)

マルコ124τι ημιν και σοι, Ιησου Ναζαρηνε; (…)

【新共同訳】「ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。(我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている。神の聖者だ。」

【英語NIV】What do you want with us, Jesus Nazareth? (Have you come to destroy us? I know who you are – the Holy One of God.)

【ドイツ語・ルター】Was haben wir mit dir zu tun, Jesus von Nazarem? (Bist du gekommen, um uns ins Verderben zu stürzen? Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes.)

【ドイツ語Einheitsübersatsung】Was willst du von uns, Jesus von Nasareth? (Du bist gekommen, uns zu vernichten. Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes!)

【フィンランド語】Mitä sinä meistä tahdot, Jeesus Nasaretilainen? (Oletko tullut tuhoamaan meidät? Minä tiedän, kuka sinä olet, Jumalan Pyhä!)

【スウェーデン語】Vad har du med oss att göra, Jesus från Nasaret? (Har du kommit för att ta död på oss? Jag vet vem du är, Guds helige.)

列王記上1718(…) מהלי ולך איש האלהים

【新共同訳】「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。(あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子をしなせるために来られたのですか。)」

【英語NIV】What do you have aganst me, man of God? (Did you come to remind me of my sin and kill my son?)

【ドイツ語・ルター】【ドイツ語Einheitsübersatsung】ドイツ語の聖書は、私の手元にあるのは新約聖書だけなので割愛します。

【フィンランド語】Pitikö sinun sekaantua minun elämääni, Jumalan mies! (Pitikö sinun tulla tänne vetämään minun syntini esiin ja tappamaan poikani.)

【スウェーデン語】Vad har du här att göra, gudsman? (Du har bara kommit hit för att låta min synd komma i dagen och för att döda min son!)

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

1月の家庭料理クラブは22日(土)13時から開催します。今月は一回だけの開催です。ご注意ください。

本年最初の料理クラブはフィンランドの伝統的なカリヤラン・ピーラッカを作ります。フィンランドでは玉子バター”Munavoi”をのせて食べるのが一般的ですが、そのまま食べてもよし、バターやマーガリンをぬって食パン風に食べてもよし、野菜、ハム、スモークサーモンをのせてオープンサンド風にしてもよし。フィンランドでは家庭でも喫茶店でも食堂でも食べられるまさに”国民食”です。

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

人数制限がありますのでご注意ください。

お問い合わせ、お申し込みは、 まで。

 

2022年1月9日(日)顕現後第一主日 主日礼拝

 

主日礼拝説教 2022年1月9日 顕現後第一主日(主の洗礼)

礼拝をYouTubeで見る

イザヤ43章1節-7節

使徒言行録8章14-17節

ルカ3章15-17、21-22

説教題 「洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるというのは理解しがたいことです。ヨハネの洗礼は、ルカ3章3節で言われているように「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。イエス様は神のひとり子なので罪を持たない方です。それで洗礼を受ける必要など本当はありません。マタイ3章を見ると、ヨハネはイエス様が洗礼を受けに来たことに驚き「わたしこそ、あなたから洗礼を受ける必要があるのに、あなたが私のところに来るのですか?」と言います。どうしてイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?

少しヨハネの洗礼について振り返ってみます。それは「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。「罪の赦しに至る」というのは微妙な言い方です。ギリシャ語原文がそういう言い方をしているからですが、洗礼を受けて即罪の赦しに至るのか、それとも受けた後しばらくしてから赦しに至るのか、はっきりしません。しかし、後でみるように答えは後者でした。即ではなかったのです。

それでも大勢の人が洗礼を受けにヨハネのもとにやってきました。中にはユダヤ民族を占領下においているローマ帝国の手下となって好き放題している取税人や兵士たちもいます。みな一様に何かに怯えています。なんでしょうか?それは、神の怒りの日が来ることでした。神の怒りの日とは、旧約聖書の預言書のあちこちに出てくる「主の日」のことです。それは神が人間に怒りをぶつける日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異も起こる時です。イザヤ書の終わりの方では、それこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地に創造し直す日が来ることが預言されています。人々はヨハネが「悔い改めよ、神の国が近づいた」と大々的に宣べ伝えるのを聞いて、その日が近いと思ったのです。悔い改めないと神の怒りをもろに受けて、森羅万象の大変動を乗り越えられず滅び去ってしまう、永遠の神の国に迎え入れられなくなってしまうと心配したのです。それでヨハネのもとに来て、自分たちには神の意思に反する罪がありますと告白して、悔い改めに相応しい行いをしますと誓って罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。

ところがヨハネは、自分は水を使って洗礼をしているが、後に来る方つまりイエス様は聖霊と火をもって洗礼を授けると言います。火を伴うというのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリア13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2―3節)、罪からの浄化を意味します。ヨハネは自分の洗礼にはそういう浄化の力もないし聖霊も伴わない、だから神の怒りが及ばないようにする力はないと認めるのです。そこで先ほどの「罪の赦しに至る」ということについて見てみます。それは、ヨハネの洗礼で即赦しが与えられるのではなく、聖霊と火を伴うイエス様の洗礼で即与えられる、それを受ければ神の怒りが及ばないということだったのです。そういうわけでヨハネの洗礼は人々に罪の自覚を呼び覚まして告白させ、すぐ後に来るメシア救い主が設定する本物の洗礼に備えさせるものでした。人々を罪の自覚にとどめて後に来る罪の赦しに受け渡すためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではなかったのです。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊と火の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい、その時お前は罪を赦されて神の子となれる、そうして「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主をお迎えする準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中の道を真っ直ぐに整えるためのものでした。ヨハネが本物の洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのは当然のことでした。

2.預言の実現と救いの計画実行開始としての洗礼

ヨハネの洗礼がイエス様をお迎えすることが出来るようにする洗礼だとすると、イエス様がそれを受けるというのは自分で自分をお迎えするみたいでとても変です。これは一体どういうことなのでしょうか?一つの見方としては、イエス様が洗礼を受けたというのは人間に対する連帯の表れという見方があります。しかしながら、以前の説教でも申し上げましたが、人間に対する連帯の表れを言うのならば、天の父なるみ神のもとにいたひとり子が乙女マリアから人間の姿かたちを取って生まれたという受肉の出来事の方が連帯をよく表していると思います。それとイエス様がユダヤ教の伝統に従って割礼を受けた出来事も人間に対する連帯の表れとして重要だと思います。というのは、割礼を受けることで人間と同じように律法の効力の下に身を置かれ、それによってゴルゴタの十字架の上で罪の罰を本当に神罰として本気で受けられるようになったからです。

洗礼には、もちろん人間との連帯の意味も否定できないが、もっと別の意味もあるということで二つのことを申し上げました。一つは、イエス様が洗礼を受けたことでイザヤ書42章の預言が実現したということがあります。もう一つは、イエス様の洗礼に聖霊が伴ったことで私たちが受ける洗礼の先駆けになったということがあります。本説教でこの二つの意味を振り返ってみます。その後でキリスト信仰の洗礼と聖霊は切っても切れない関係にあることを見ていこうと思います。

まず、イザヤ書42章の預言が実現したことについて。イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その時、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1~7で預言されていることの成就でした。実にイエス様の洗礼はこの預言が成就するために必要な手続きだったのです。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。

このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?私たちの新共同訳を見ると「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これらはわかりにくい訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。ここはもうヘブライ語の原文に遡ってみないと本当のことはわからないのです。

まず、参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。

神の僕が携わることが、どうして日本語では「裁き」になって他の訳ではそうならないのか?それは、ヘブライ語の単語ミシュパートמשפטがいろんな意味を持つ言葉だからです。大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような意味がでてきます。しかし、それだけではありません。大元の意味を出発点として「正当な要求」「正当な主張」という意味もあるし、「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。

それなのでイザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、他の国の訳のように「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せます。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」です。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」です。

それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉集である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか出てきたら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、人間が自分の造り主である神の意思に反しようとする罪の力から解放されることです。罪から解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きられることです。そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れられることです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てて下さいました。

イエス様が洗礼を受けた時、天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降りました。これでイザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。この時イエス様に神が定めた人間救済計画を実行に移す力が供えられたのです。もちろんヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼を通して預言通りに聖霊と特別な力を得て、主体的に神の計画を実現させることとなったのです。洗礼を押しとどめようとするヨハネに対してイエス様が言ったマタイ3章15節の言葉、神の義を実現するために洗礼を受けなければならない、というのはその通りだったのです。

3.洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ

ヨハネはイエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。火を伴うとは罪からの浄化を意味します。しかし、人間は洗礼を受けて本当に罪から浄化されるかと言うと、実は洗礼を受けてキリスト信仰者になっても神の意思に反しようとする罪はまだ残ります。それじゃ、浄化されていないじゃないか、イエス様の洗礼には力がないじゃないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、洗礼には、受ける前と後で人間に決定的な違いをもたらします。それは、人間を復活に与らせないようにしようとする罪の力、神のもとに迎え入れさせないようにする力が罪から奪われるということです。なぜ罪からその力が奪われるかと言うと洗礼を受けると聖霊がその人に降るからです。

聖霊が洗礼を受ける人に降るということで、イエス様が受けた洗礼はキリスト教会の洗礼を先取りしています。ヨハネの洗礼は受ける人に聖霊が与えられる洗礼ではありませんでした。ヨハネはかなりの数の人に洗礼を施しましたが、誰にも聖霊は降りませんでした。誰にも起こらなかったことがイエス様に起こったのです。それは神がそうすると決めていたからです。イザヤ書の預言が文字通りに成就して神の救いの計画の実行を開始するためにそう決めたのです。

聖霊が人に降るなどと言うと、事情を知らない人は何か霊にとりつかれたみたいに聞こえて不気味に感じるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点は、人間は自分の力ではイエス様を救い主と信じることはできないというものです。第一ヨハネ4章2~3節では神のひとり子が肉を伴ってこの世に来られたと告白する霊は神から来る霊であると言っています。第一コリント12章3節ではずばり、聖霊を持っていなければ誰もイエス様は主であると言うことはできないと言っています。このように人間は聖霊が働かないとイエス様を救い主を信じることはできないというのがキリスト信仰の立場です。それくらい聖霊は信仰のカギになっているのです。

このことは、信仰と知識の違いを見ればよくわかります。イエス・キリストという人物が約2000年前に現在のイスラエルの地で活動して最後は十字架刑に処せられたというのは歴史の本に書いてあったので知っているぞ、と言うのは知識です。信仰ではありません。また、キリスト信仰者は処刑されたイエスが復活したと信じていて、そのイエスのおかげで神と結びつきを持ててこの世を生きられる信じている、そしてこの世から別れた後は自分も復活の日に復活させられて神の御許に迎え入れられると信じている、そういう連中なんだ、そういうふうに言うのも知識です。信仰ではありません。

翻って信仰というのは次のように言うことです。あの方があの時成し遂げた十字架の死と死からの復活は今の時代を生きる私のためにもなされたのだ、それはあの方の身代わりの犠牲のおかげでこの私が天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになるためだったのだ、この結びつきは私が自分から手放さない限り順境の時も逆境の時も変わることがないので私は常に神から見守られ導いてもらっている、もしこの世から別れなければならない時が来たらその時は復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れてもらえる、そこは懐かしい人たちとの再会の場所なのだ、このように事柄を自分事として自分自身に対しても周囲に対しても言える人、その人は事柄をもう知識で持っていません。信仰に生きています。聖霊が働いたから事柄は知識ではなくなったのです。聖霊が働かないところでは知識どまりとなります。

洗礼を受ける時に聖霊が降る、聖霊を注がれる、その時に知識が信仰になると言うのなら、洗礼を受ける前にイエス様は救い主と信じられるようになった人は聖霊が降っていることになるのではないか、その場合は洗礼はもう必要ないのではないかという疑問が起きるかもしれません。これは次のように考えます。洗礼を受ける前にも神は人間に聖霊を働かせてイエス様が歴史上の人物に留まらず、本当に今を生きる自分の救い主、自分を犠牲にしてまで私と神聖な神を結びつけて下さった方とわかるようにします。そうなれば洗礼を受ける機が熟したことになります。洗礼を受けることで聖霊の働きに完全に服することになります。受けないでいると、せっかく一時イエス様が自分の救い主と見えたのに、すぐ別のもの、例えば別の霊や人間の理性に頼ってしまい、自分の救い主としてのイエス様が見えなくなってしまい、世界史の教科書か何かの小説のイエスに戻ってしまいます。それなので洗礼は聖霊の働きを定着させる出来事と言ってもよいでしょう。聖霊の働きが定着するというのは、神との結びつきがそれこそ順境の時も逆境の時も変わらずにあるということになり、この人生大丈夫、この世と次に到来する世にまたがって生きてやろうという心が起きるということです。

それでは最後に、どうしたら知識上のイエス・キリストが自分と個人的な繋がりのある主になるのか、どうしたらそうなるように聖霊の働きが自分に起こるようになるのかを考えてみます。いろいろあると思いますが、一つカギになるのは、自分と自分の造り主であり神との関係はどうなのかを考えてみることです。造り主の神がどのような方で、どんなことを私に望んでいるかについては聖書がよく教えています。この私は神の意思に照らし合わせてみてどんな存在なのか、神のみ前に立たされて果たして大丈夫な存在なのかを考えてみます。どうしてそんなことを考えるかと言うと、神は神聖な方で罪の汚れを持つ人間はその正反対だからです。預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃した時、恐怖の叫び声をあげました。私は滅びてしまう!この目で神を見てしまった、私は汚れた口を持つ者なのだ、汚れた口を持つ国民の一人なのだ!と。イザヤ書6章です。神に選ばれた預言者にしてこうなのです。預言者でもない私たちはなおさらでしょう。

しかし、ここで思い起こします。イエス様はこの私が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられる者にして下さったということを。大丈夫な者にするために神は大切なひとり子をこの私に贈って下さり十字架と復活の業を果たさせたということを。それは神が私を愛しているからそうされたのだということを。イエス様も私を愛しているから天の栄光ある地位を捨てて人間としてこの世に降り十字架の道に進まれたのだと。そして、今天の父なるみ神の右の座におられる主は再臨の日まで聖霊を介して私とともに毎日一緒にいてくださるということを。そして、復活の日が来たらこの私をも目覚めさせて御許に迎え入れて下さるということを。

ここまでくれば、私はこの世の人生をイエス様と共に歩もう、もう私には何も不足はない、何も怖くはない、という詩篇23篇を絵に描いたような心意気になります。もうイエス様は遠い過去の人物ではなくなっているのです。このようにイエス様がそばにいる方になると、縁遠く感じた旧約聖書の御言葉も私たちに呼びかけるものに聞こえてきます。試しに本日の旧約の日課イザヤ書43章で見てみましょう。

1節 神はかつてヤコブとイスラエルの民を造り形作ったように私たちを造り形作ったと言います。それがどんなことか後で7節でわかります。「恐れるな、私はお前を贖った」と神は言います。新共同訳では「お前を贖う」ですが、ヘブライ語原文では「お前を贖った」と完了形で言っています。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者のことを言っています。信仰者でない人も信仰者になったら、そう言えることになります。私たちはイエス様のおかげで罪と死のもとから神のもとへ買い戻された、難しい言葉を使えば「贖われた」のです。それで神は私たちを名前で呼ばわる位に私たちの父になり、私たちは神の子となったのです。

2節 お前が水の中を通らねばならないような時も私は一緒にいるからお前は流されない。火の中を通らねばならないような時もお前は焼き尽くされない。なぜなら私は主なる神であり、お前自身の神だからだ。

3節 私はイスラエルつまり神の民の神だ。お前を滅ぼそうとする者から救い出す神なのだ。

4節 お前を贖うためなら、私はエジプトやクーシュやシェバやその他諸国を身代金として差し出してもいいくらいだ。それ位お前は私にとって価値があるのだ。(しかし、実際にはそんな国々など差し出さず、私はひとり子を身代金にした。お前は価値があるということの本当の意味はそれだ。)

5節 だから恐れてはいけない。私がお前と共にいる。

6節 お前が東にいようが西にいようが何処にいようが地の果てにいようがお前を呼び寄せる。誰も邪魔することは出来ない。

7節 お前は私の名で呼ばれるくらいに神の子なのだ。私がお前を造り、贖われた者に形作り、私の子へと完成させたのは、私自身の栄光を増し加えるためにそうしたのだ。

以上です。どうでしょう、旧約のみ言葉が身近になったでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

歳時記

富士山

甲斐富士です。万葉集にも富士を詠んだ歌が11首ありますが詠まれているのはどうも駿河富士のようです。 個人的には宝永山のようなこぶのない、左右シンメトリーな均整のとれた山容と、手前に御坂山塊を従えてそそり立つ甲斐富士の方が好きです。

新しい年が始まりました。

神の導きに従って歩むことが出来ますように祈ります。

本年もよろしくお願いいたします。

2022年1月1日(土)主の命名日の礼拝(ビデオ小礼拝)

司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
聖書日課 ルカ2章15~21節
説教題「イエス様の名前と私たち」
讃美歌 175、49

YouTubeで見る 1月1日 午前10:30-


新年の小礼拝の説教

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
西暦2022年の幕が開けました。新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。しかしながら、今はコロナ禍が足掛け2年目となってしまい、日本でもオミクロン株のために感染がまた拡大するのか心配されている時です。それで個人的な願いもそうですが、それを超えて感染が拡大しないように、本当に終息に向かうようにこの礼拝を通しても父なるみ神に祈ってまいりましょう。

新年の時、日本では大勢の人がお寺や神社にいって、そこで崇拝されている霊に向かって手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。神社仏閣に参拝する人数を合計すると日本の総人口より多くなるということを聞いたことがあります。それ位ひとりでいくつもの場所を駆け回る人が大勢いるということなのでしょう。今はコロナ禍なので総人口より少ないと思われますが、いずれにしても新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間です。

キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後が、このひとり子がイエスの名を付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日と重なります。このイエス様の命名の出来事を通しても聖書の神、天地創造の神とはどんな方か、そしてそのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、新年のこの日そのことについて見ていきましょう。

2.
まず誰でも知っているイエス・キリストという名前について。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていると聖書の神が身近な存在になります。「イエス・キリスト」の「キリスト」は苗字のように思う人もいるのですがそうではありません。新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとは実はメシアのことだったのです。

そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。旧約聖書の預言にはそういう終末論があると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時が来ると「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。いずれにしても、イエス・キリストの「キリスト」は苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。

次に「イエス」の方を見てみましょう。これも、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は、「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ヨーシャアッ」יושע救って下さる。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われました。それでこちらが本名です。そういうふうに、イエス・キリストという名はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語ではイエス・キリスト)になったのでした。

3.
さて、イエスの名前の意味が「主が救って下さる」ならば、誰を何から救って下さるのでしょうか?天使がヨセフにこの名を付けなさいと命じた時、その理由として「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何かということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。

「神が救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが神は天使を通して、救われるのが国の外敵からではなく、罪と死という人間の敵からであるとはっきりさせたのです。「罪から救って下さる」というのは、端的に言えば、罪がもたらす神の罰から救って下さる、神罰がもたらす永遠の滅びから救って下さる、そういう罪がもたらす呪いから救い出すという意味です。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主である神に対して不従順になったことがきっかけで人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込みました。それで神と人間の結びつきが失われて人間は死する者になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と言うのかといつも疑問を持たれてしまうのですが、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。自分の造り主である神の意思に反しようとする性向です。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っているのです。

イエス様が人間を罪から救い出すというのは、人間が罪の罰を神から受けないで済むようにすることでした。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられようにし、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせてもらって次に到来する世の神の国に迎え入れられるようにすることでした。それを実現するために、イエス様は人間に向けらる神罰を全部引き受けて私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれました。イエス様は神のひとり子として神の意思に完璧に沿う方であるにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者であるかのようになったのです。誰かが身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにさせられた理由です。

4.
神の定めた律法に服するようにさせられたというのは、本日の福音書の個所にあるように割礼の儀式を受けたということです。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の御国の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきた時は、旧約聖書に約束されたメシア救世主として、その旧約聖書の伝統を守る民族の只中に乙女の胎内から生まれてきました。人間の救い主となる方が特定の民族の伝統に従ったのは、もちろん、その方がその民族の一員として生まれてきたことによります。しかし、それだけではありません。先ほど述べたように、人間を罪の呪縛から救うために一旦、人間に罪があることをはっきり知らせる旧約聖書のもとに服させる必要があったのです。

イエス様の十字架の死と死からの復活の後すべてが一変しました。イエス様が十字架で果たして下さったことはこの私にもあてはまると受け入れて彼を救い主と信じて洗礼を受けることで神との結びつきが回復するようになりました。洗礼が天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。使徒パウロが、人間が罪の呪縛から救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってである、と主張したのです。それで人間は信仰と洗礼でもって創造主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。

このように私たちには、人間を罪の呪縛から解放するために民族の違いを超えてご自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられるのです。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を身をもって実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様もおられます。このような神と結びついてこの世を歩めることを私たちは心から喜び感謝することができますように。

このような神との結びつきを持ててこの世を歩めるというのは、暗闇の中で光を見失わないことと同じです。私たちは身近な願いや希望が叶えられると嬉しくなります。叶えられないと目の前が暗くなったような感じがします。しかし、キリスト信仰者には身近な願いや希望が叶う叶わないに左右されずにある大元の嬉しさ、喜びがあります。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の目に相応しい者になれるということからくる嬉しさ、喜びです。

どのくらい神の目に相応しくなっているのかと言うと、今のこの世の次に到来する新しい世において神の御許に迎え入れられるくらい、天のみ国に迎え入れられるくらいに相応しいということです。神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人から、この人少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思われるでしょう。しかし、キリスト信仰者には、もちろん身近なこの世的な願いや希望もありますが、同時に神に義とされて神の国に迎え入れられるという希望があります。しかも、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられているから大丈夫という安心があります。もちろん、身近な願いや希望が叶えられず、どうして?神は何か私に怒っているのか、不満なのか、それで聞き入れてくれないのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。しかし、神は、そうではないのだ、イエスを救い主と信じるお前を私は怒ってなどいない、お前は天の国に至る道に置かれて、私とその道を歩んでいる、物事がお前の思う通りに進まなくても、私の思うとおりに進むから、心配するな、私の目はお前に注がれているから安心しなさい、何も恐れることはない、と神は言って下さるのです。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、今年も主なる神にあって大元の嬉しさと喜びがあることを忘れずにこの新しい年を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2021年12月26日(日)降誕節第一主日 主日礼拝

司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
聖書日課 サムエル上2章18〜20、26節、コロサイ3章12〜17節、ルカ2章41〜52節
説教題「少年イエスの言動から見えてくるもの」
讃美歌 181、45、17、41

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神のひとり子が人間として生まれ出た後の成長

本日の福音書の日課の箇所ルカ2章の終わりは、12歳のイエス様が両親と共にエルサレムの過越祭に参加した後で一緒に帰らなかったため、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという場面です。神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。この出来事はよく見ると、私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。特に母マリアとイエス様のやり取りがそのカギになっています。今日はこのことを見てみましょう。

その前にこの出来事を見るとイエス様のこの世での生涯がどういうものかがよりわかるので、それを見ておきましょう。イエス様の言行録である福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがあります。マルコ福音書とヨハネ福音書ではイエス様の記述は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まります。双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後は今日のルカの箇所で12歳の時の出来事が記されているだけで、あとはマルコやヨハネと同じように洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年前後のこととされているので、この12歳の時の出来事が幼少期と大人期の間の長い空白期の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでも、その前後のイエス様の様子や状況が少し見えてきます。

一つは、マリアとヨセフは毎年過越祭に参加していたことが大事です。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、エルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?これは、旅行が家族単位のものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味を持ちます。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、また誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたことがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端がうかがえます。

しかしながら、この12歳の時は勝手が違いました。今までになかった予想もしなかったことが起きてマリアとヨセフはパニックに陥ったのです。
この出来事の後のイエス様の様子はどうでしょうか?51節に「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけないようにしようと心がけていい子に生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。

洗礼者ヨハネが登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に対して抱く愛顧も増していった」です。「愛された」と言ってもいいのかもしれません。いずれにしても、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年だったのでしょう。その彼が、人間と神の間を切り裂いている罪と死の問題を解決するために自らを犠牲にしなければならなくなったのでした。

2.イエス様は神に関する事柄の中にいなければならない

以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。

マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。これは私も経験上、特別支援の息子が4回ほど迷子になったことがあるので痛いほどよくわかります。2回は大きなお店の中で店内呼び出しをしなければなりませんでした。2回目の時は息子に先を越され、悦才くんのお父さん、悦才君がお父さんをインフォメーションで待っています、すぐ来てください、と言われて、私が迷子扱いになったようでした。店の外に出なければ大丈夫なので、出ないでくれと必死で祈りながら探しました。ところが3回目と4回目の時は外でした。これは本当に恐怖でした。4回目の時は携帯があったので話しながらお互い近づいて最後は落ち合うことが出来ました。バッテリーがなくなる前に見つかるようにと必死で祈りました。3回目の時は携帯がなく、しかも日が沈んで暗くなり始めてしまい、警察に届けなければなりませんでした。ただ、息子は家に帰る道順を覚えていたのでマンション前で待っていた母親に抱きかかえられてゴールインでき事なきを得ました。暗くなって人通りも少なくなった時に、子供が泣きながら歩いていたら今の時世何が起きるか考えただけで気が気でなく、私は本当にパニック状態でした。

マリアとヨセフの場合は携帯も交番もありません。1日分の帰路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。その間の二人の思いはどんなものだったか考えただけで心が苦しくなります。エルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を一人の少年を捜し出すというのは雲をつかむような話です。丸3日以上の二人の気持ちを考えただけでこちらの胸も張り裂けそうになります。イエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶよりも苦渋の表情を見せました。なぜなら、見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。両親はなんだこれは、と呆気に取られて大いに困惑したでしょう。彼らに再会の喜びは起きなかったのも無理はありません。

そこでマリアの問いに対するイエス様の次の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言っていません。そういうふうに訳すと、あなたたちは捜す必要はなかったんですよ、なのにどうして捜したですか、と言っていることになります。イエス様はそんなことを言っていません。じゃ、何を言っていたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」その意味はこうです、あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」ということなのですが、「父の家」とはイエス様の本当の父である神の家、すなわちエルサレムの神殿を指します。ところが、ここの訳も訂正が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。神殿もそうした事柄の一つですが、他にもあります。何でしょうか?それを見る前にまず、ここの文を直訳すると「私は父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」です。それでは、「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か見てみましょう。

エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としては12歳です。言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でも祈りをし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰上の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの時、律法学者の話を耳にして言語的に語彙的に接点が今までになく多くあったと思われます。以前は抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時はいろいろ耳に入ってきて何が問題になっているかいろいろわかったでしょう。
さて、どんなわかりかたをしたでしょうか?イエス様は神のひとり子です。天の父なるみ神のもとにおられた時はどのような姿かたちを取られていたか私たちは全くわかりませんが、マリアから生まれ出て人間の姿かたちを取りました。12歳の彼の言語能力と語彙力は30歳や40歳の学者よりは限られているかもしれませんが、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはひょっとしたらほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年ごろになったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言っていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。神は彼の父で、しかもこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思は被造物である人間なんかよりよくわかっています。それで公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。イエス様の言葉は学者が使うものとは違うけれど、抽象的な言葉や言い回しで誤魔化すことがなく、全てをわかっているので質問も答えもストレートだったでしょう。人々はこの子は理解があると驚いたのは当然です。

ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなけらばならないという意味ではなく、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力があります。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるか?マタイ7章28節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」人間の知識人との差は歴然としていたのです。

3.捜しに行かなくてもイエス様は聖書と礼拝を通してそばにおられる

ここでイエス様を捜す、見出すということについて私たちの場合はどうか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時、また私たちに起きてくる苦難や困難の時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。ここで、どちらに祈るのがいいのか、両方に祈らなくていいのか?といういうことについて一言述べておきます。どちらか片方に祈っても、キリスト信仰者は次のように祈るので結局は両方に祈ることになります。祈る相手が父なる神の場合は必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」ということで他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主ですということを父に知らせます。では、なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の罰を代わりに受けて下さったからです。そして死から復活されたことで私に復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さり、その道をいま共に歩んで下さるからです。助けを祈り求める相手がイエス様の時は、イエス様が約束した通り、祈りを父なる神に取り次いでくれることを肝に銘じて祈ります。

さて、このように祈っても苦難や困難がなかなか終わらないと、イエス様は世の終わりまで一緒にいると言ったのに、一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?キリスト信仰では、救い主イエス様がそばにいたら苦難や困難はない、それらがあるのはそばにいないからだという見方はありません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。そばにいるのに苦難や困難がなくならないのはなぜか、ということにはキリスト信仰はあまり注意を払いません。祈り願い求めているのに助けがないのはなぜかという質問をたてて答えを得ようとすると、日本のコンテクストではすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰ではそういう問いのたて方はしません。苦難困難がなくなるのにどれだけかかるかはわからない、もちろん早く終わるにこしたことはないが、別に早く終わらなくても、それらがなくなる方向を目指してイエス様が一緒についていってくれるからそれでいいという信仰です。

イエス様が一緒についてくれていることがどうしてわかるのか?そこは彼がマリアに言った言葉「私は神に関わる事柄の中にいなければならない」を思い出しましょう。神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。捜しに行くまでもありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちは独りぼっちでこの暗闇のような世の中で立ち往生はしないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

うさぎのププちゃん、本当のクリスマスを見つける

今年もコロナのためスオミ教会のクリスマス子ども料理教室は開けません。パイヴィ宣教師は去年に続いてビデオで料理教室を開くことにしました。今年はヨウル・トルットゥを作ります。 ちょうどトルットゥが焼き上がった時、突然教会に姿を現わしたのはうさぎのププちゃん。さあ、これから何が起こるでしょうか?お楽しみに!

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2021年12月24日(金)降誕祭前夜(クリスマス・イブ)礼拝

降誕祭前夜礼拝説教 2021年12月24日

ルカ2章1-20節

説教題 「マリアの静かな大胆不敵」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.

 今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれます。世界中の全てのキリスト教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読される箇所です。「クリスマス福音」は聖書の1ページ程の長さですが、内容は深いです。それで毎年クリスマス・イブの礼拝でこの聖句をもとに説教する人は毎回テキストから新しい発見をします。私も今回はイエス様を出産したマリアの表向きは静かではあるが内面に大胆不敵さが見れたので、そのことに焦点をあててみようと思います。

 まずイエス様の誕生の出来事のあらましを見てみましょう。現在のイスラエルの国がある地域の北部にガリラヤ地方と呼ばれる地域があって、そこのナザレという町にヨセフとマリアという婚約者がいました。ある日、マリアのもとに天使が現れて、あなたに神の力が働いて男の子を産むことになる、それは神聖な神の子であり、ダビデの王座に就く王となり、その王権は永遠に続く、と告げます。案の定マリアは妊娠し、それに気づいたヨセフは婚約解消を考えますが、彼にも天使が現れて、マリアを妻に受け入れるようにと言います。生まれてくる子供は人間を罪の支配から救う救い主になる、だからマリアを受け入れなさい、と。ヨセフは言う通りにしました。ちょうどその時、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが勅令を出して、帝国内の住民は自分の出身地にて租税のための登録をせよという命令です。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝の命令には従わなければなりません。それで、ヨセフとマリアはナザレからユダ地方の町ベツレヘムに旅に出ます。なぜベツレヘムかと言うと、ヨセフはかつてのダビデ王の末裔だったので、ダビデ家系の所縁の地ベツレヘムに向かったのです。グーグルマップで調べたらナザレからベツレヘムまで156,7㎞あり徒歩で31時間かかると出ました。(ちなみに自動車で2時間5分、電車で3時間45分、自転車なら9時間2分だそうです。)身重のマリアは間違いなくロバに乗せたでしょう。日中明るい時に歩きどおしで3日はかかったでしょう。マリアにとっては辛い旅だったと思います。そうまでして行かねばならなかったのは、それ位、皇帝の命令は絶対だったということです。

 さてベツレヘムに着いてみると、同じ勅令のためだったでしょうか、町は旅人でごった返しして宿屋は一杯でした。マリアは今にも子供が生まれそうです。ヨセフが必死になって宿屋の主人にお願いする様子が目に浮かびます。そこで宿屋併設の馬小屋に案内され、そこで赤ちゃんを産みました。生まれた赤ちゃんは布で包まれて馬の餌を置く飼い葉桶に寝かせられました。天地創造の神のひとり子で神の御許にいた時は神聖な輝きを放っていた方は人間の救い主となるためにこのような生まれ方をしたのでした。

 このイエス様誕生の場面はよく、微笑ましい、何かロマンチックな出来事のように描かれます。子供向けの絵本の聖書を見ますと、「きよしこの夜」の歌のごとくすやすや眠る赤ちゃんイエスとそれを幸せそうに見守るマリアとヨセフ、3人の周りを馬や牛やロバが微笑んで見守るという挿絵が多いと思います。しかし、馬小屋で出産するというのは、そんなに微笑ましいものではないと思います。妻のパイヴィの実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。最初の頃は興味本位で行きましたが、その後は子供たちが行ったきり出てこないので連れ戻すために仕方なく行きました。牛舎は牛の水分補給や栄養摂取がコンピューターで管理され、乳搾りも機械化されていますが、臭いだけはどうにもなりません。牛はトイレに行って用を足すことをしないので、全て足元に垂れ流しです。汚物は床下の汚水槽から外の貯蔵池に流れていきます。ベツレヘムの馬小屋はそういう作り方はしていなかったでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。

 それでも、その時のマリアとヨセフの気持ちとしては、ただただホッとしたというものだったでしょう。場所はともあれ雨露しのげる屋根の下で赤ちゃんを出産させることができた、赤ちゃんを包んで寝かせてあげる床も出来た、本当に助かったというのが素直な気持ちだったでしょう。なんでまたこんな場所で、と不貞腐れたりブツブツ文句言うなんてことはなかったでしょう。赤ちゃんを無事に誕生させられたことに心が一杯になっていたでしょう。そういうマリアとヨセフの気持ちを考えれば、イエス様の誕生というのはまさしく闇と汚れに満ちた周りの事物を背後に追いやってしまう位の光の出来事と言ってよいでしょう。

2.

 マリアとヨセフが劣悪な環境を気にせずに誕生した赤ちゃんのに心を傾けられたのは、出産を無事済ませられたことだけではありませんでした。彼らには既に、この赤ちゃんはどういう者か、天使のお告げを聞いていたのです。その子は神聖な神の子で、将来ダビデの王座について永遠の王権を打ち立てると言われていました。また、人間を罪の支配から救い出すとも言われていました。永遠の王権を打ち立てるというのはどういうことなのか?それは、ユダヤ民族を支配するローマ帝国を打ち破って民族自決の王国を復興させ、それが未来永劫まで続くということなのか?ならば、人間を罪の支配から救い出すとはどういうことか?確かに旧約聖書には、罪という神の意思に反しようとする性向が人間に備わってしまったことが記されている。人間が罪を持つようになってしまったために神の御許にいることが出来なくなって神との結びつきが切れてしまい死ぬ存在になってしまったことも記されている。人間を罪の支配から救い出すというのは、人間が神との結びつきを回復して神の御許に戻ることが出来るようになることを意味するのか?ということは、人間は死を超えた永遠の命を持てるということなのか?そのようなことを成し遂げる者がユダヤ民族の王国を再建するのとどう結びつくのか?一方では人間全ての救いについて言って、他方では一民族の解放について言っていて話がかみ合わないのではないか?

 今、布に包まれて飼い葉おけの藁の上ですやすや眠っている赤ちゃんを見ていると、民族の解放者か人間の救い主かわからないが、そういうことはとても遠いことに感じられます。もちろん、神のみ使いからそう言われた以上は、この子にはこれから何か大変なことがいろいろ起こるのだろう。ローマの皇帝の権力は絶対だし、今いるユダヤの王はローマの傀儡のくせに空威張りの権威を振りかざしている。この子は将来それらを相手に一戦交えることになるのだろうか、想像もできないことだ。考えただけでも恐ろし。しかし、マリアは天使の言った通り処女のまま赤ちゃんを生んだではないか、それで万物の創造主の神がこの子と私たちのことに目を注いでおられることはわかった。神に注視されていることがわかると、将来に対する心配は馬小屋の暗闇と汚れが背後に退いたようたように退きます。マリアとヨセフは生まれたばかりの赤ちゃんをそれこそ闇の中に輝く光のように見続けていたでしょう。

 その時です。周囲が騒がしくなり、光と闇の静寂を破って大勢の人たちが馬小屋に入ってきました。先頭にいた羊飼いたちが言いました。「ここだ!ここだ!その赤ちゃんはここにいるぞ!天使が言った通りだ、布に包まれて飼い葉おけに寝かされている!」羊飼いたちの他にも人がいたことは18節からわかります。羊飼いたちは大声で言ったのか、声を押し殺しながら言ったのかはわかりません。イエス様が起きて泣き出したのか、起きずにすやすや眠り続けていたのかもわかりません。いずれにしても羊飼いたちは自分たちに起こったことをマリアとヨセフそして一緒に来た人々に話し始めました。

 郊外の野原で羊の番をしていた時でした。神のみ使いが突然、私たちの目の前に現れて、神の栄光の輝きが私たちを覆いました。恐れおののく私たちにみ使いは言いました。「恐れることはない。旧約聖書を持つイスラエルの民全員に大きな喜びの知らせを告げよう。今日ダビデの町で救い主がお前たちにお生まれになった。その方はメシアであり主である。その印として、お前たちは布に包まれて飼い葉おけに寝かせられた赤子を見つけることが出来るだろう。」天使がそう言うと、今度は大勢の天使が現れて神を賛美して言いました。「いと高き天には栄光、神に。地には平和、御心に適う人に。」すると天使たちは天に帰っていなくなり、辺りはまた静かな闇に変わりました。しかし私たちは、すぐベツレヘムに行って神が知らせてくれたことを見に行こうと羊ともども出発しました。飼い葉おけと言うから、どこか馬小屋に違いありません。でもどこにあるかわからないので、町の人たちを起こしながらやっと探し当てました。

 一緒について来た人たちは羊飼いの言うことにただただ驚くばかりです。メシアが馬小屋にいると言うからついてきたら、何だ赤ん坊じゃないか!いや、天使が言った通りのことが起きたのだから、やっぱりメシアじゃないか?みんな半信半疑です。イエス様を出産したマリアはどうだったでしょうか?「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(19節)。」この箇所のギリシャ語原文の意味合いは少し違います。正確を期すると原文の趣旨はこうなります。「しかし、マリアはこれら全ての事柄を一つも漏らさず総合して考えて心の中に保管していた。」「これら全ての事柄」とはイエス様の誕生にまつわる全ての事柄、最初の天使のお告げから高齢のエリザベトの妊娠そして今回の羊飼いたちに起こったことの全てです。それを全部を総合して考えたというのはマリアは事の全体像を理解したということです。つまり、マリアはイエス様の誕生の背景に神の何か周到な計画があるとわかったのです。それを心の中に保管していたというのは、どういうことか?今マリアの周りでは羊飼いたちが、天使の言ったことは本当だった、と大喜びしていて、その他の人たちは半信半疑でいるという正反対な状態にいます。そうした中でマリアは彼らに対して口を開かなかったということです。羊飼いと一緒に喜び合うこともせず、半信半疑の人たちに説明や説得することもせず、マリアはただ、全ては神の計画によるものとわかったことでよしとして静かに赤ちゃんを見つめていたということです。

 メシアという言葉について。当時はユダヤの人たちにもその意味は明確ではありませんでした。それなのでこの時マリアが、この子はメシアです!と言わなかったのは賢明でした。いずれ、イエス様がどういうメシアであるかはっきりするのですから。今はただ、神は羊飼いを通してもお告げをして下さった、この子を通して神の何か計り知れない計画が実現することがわかった、その計画の具体的な内容はまだわからないが、自身の計画を実現させるために神は間違いなくこの子と私たちと共におられ、私たちのことを絶えず見守っていて下さる、そのことがわかった。それで十分でした。その時のマリアは神への信頼が一層強まり、何も恐れることはないという心でした。このように何かとてつもなく大きなことをわかっていながら口数が少なく物静かというのは圧倒させるものがあります。逆に何もわかっていなくて口数が多く騒がしいというのは軽い感じがします。

3.

 創造主の神はこの私に目を注いで下さる、私が歩む道で具体的に何が起こるかは先立って何もわからない、しかし、神が私と共にいて私を守り導いて下さることは確かなので心配はいらない。これがこの時のマリアの静かな大胆不敵さの内容でした。私たちも同じような静かな大胆不敵さを持つことが出来るでしょうか?それは、イエス様が私たちにとって本当の意味でのメシアになることで出来ます。

 先ほども申し上げましたように、当時メシアの意味は旧約聖書を持っていたユダヤ民族の間でも明確ではありませんでした。それは民族を外国支配から解放してくれる王様なのか、それとも一民族を超えた全人類を共通の敵である罪と死から解放してくれる救い主なのか。この世に人間として誕生された神のひとり子イエス様は後者であることを明らかにしました。

 イエス様はこの世にあった時、まず旧約聖書の内容を正確に人々に教えました。彼の教えの中で最も大切なことの一つは「神の国」でした。それは今ある天と地が終わって新しい天と地が創造される時に現れる国です。その時、死者の復活が起きて、復活の体と永遠の命を与えらる者は神の国に迎え入れられます。イエス様は数多くの奇跡の業を行い、将来の神の国がどのような国であるかを人々に垣間見せました。黙示録で預言されているように、飢えも渇きも病も痛みも苦しみもなく、この世での全ての無念が晴らされて全ての涙が拭われるところです。しかし、イエス様は神の国について教えただけではありませんでした。なんと、人間が神の国に迎え入れられるようにすることもやってのけたのです。人間がそこに迎え入れられるのを不可能にしていた罪の問題を人間のために解決して下さったのです。それがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。イエス様は人間の罪を全て背負って十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれ人間が受けないようにと盾になって下さったのです。あとは、人間の方が、イエス様は本当に自分を犠牲にしてまで私の罪を神に対して償って下さったとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。罪の償いを済ませた者にしてもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたのだから、神との結びつきを回復してこの世を生きられるようになります。この結びつきは自分から手放さない限り失われることはありません。

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、復活の体と永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を進むことになります。日々の生活と人生の課題の中で神の意思に反することに気づかされる時があります。その時はいつもイエス様の十字架のもとに戻って罪の赦しに留まる自分を神に確認してもらいます。このように神のひとり子が自分を犠牲にしてまでこの私に良いもの大切なものを与えて下さった恩義に恥じないように生きようと心がけ続けていけば、この世から別れた後、復活の日に復活の体と永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。

 このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、自分に対する神の計画の全容が明らかになります。神との結びつきが回復し、その結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになります。自分が置かれた道は神の国に通じるものです。神は私たちをそこに至らせたいので、順境の時であっても逆境の時であっても神との結びつきは変わらずにあります。いつも神に見守られているのです。道を進んでいく時に、具体的にどんなものに遭遇するかは先立ってはわかりません。人間はいつも事後的に神の導きと見守りがあったと気づくだけです。そのため見えない先のことを考えると少し不安になります。しかし、神の計画の全容ははっきりしています。それは周到な計画で、具体的に遭遇すること一つ一つを全て合わせたものよりも遥かに大きなものです。だから具体的に何かに遭遇する前に静かに大胆不敵にしていられるのです。マリアと全く同じです。願わくば、出来るだけ多くの人が、マリアのような静かな大胆不敵さを持てて、この不穏と悪に満ちた世にあっても「腰に帯を締め雄々しく」していられるように。イエス様という大元の光を見つめながらその光を映し出す「世の光」となれますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

2021年12月19日(日)待降節第四主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2021年12月19日待降節四主日

19日の礼拝のライブ配信は技術的な問題のため出来なくなりました。礼拝説教はテキストでご覧下さい。

ミカ5章1-4a節
ヘブライ10章5-10節
ルカ1章39-45節

説教題 「マリアの信仰と私たち」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は待降節第四主日です。来週の金曜日がクリスマス・イブ、クリスマスはその翌日の土曜日です。キリスト教が伝統的に国民大多数の宗教になっている国ですとクリスマス・イヴもクリスマスも休日になるのですが、事情が異なる日本ではそれらは日曜日や祝日に重ならない限り平日です。それで教会によってはクリスマス礼拝は平日ならば行わず、待降節第四主日の礼拝をクリスマス礼拝を兼ねて行っているところもあります。本スオミ教会もそのようにしてきました。クリスマス・イブの前に救い主の誕生を神に感謝する趣旨の説教は少しあべこべと思われるかもしれませんが、それでも本日の聖書の日課に基づいてイエス様のご降誕の意味を明らかにすることはできます。

 本日の福音書の箇所は、神の御子イエス様を産むことになるマリアが洗礼者ヨハネを産むことになるエリザベトを訪問する場面です。この出来事は私たちの信仰にとって大切なことを二つ教えています。一つは、神はまことに人間の造り主であるということです。神が私たちを造られて命と人生を与えたのは、単に私たちを無造作に大量生産しているのではありません。私たちが気づこうか気づかまいかに関わらず、神は私たち一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっているのです。神が私たちのことを母親の胎内に宿り始めた時から知っているというのはこのことです。それはエリザベトとマリアの妊娠と出産の出来事からも明らかです。後でそのことを見ていきましょう。もう一つ私たちの信仰にとって大切なことは、マリアの信仰がどのようなものであるかを知ることです。エリザベトがマリアに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました(1章45節)。この言葉がマリアの信仰を知るカギになっています。このことも後でみてみましょう。

2.私たち一人ひとりに対する神の計画

 まず、神は人間の造り主であり、私たち一人一人に命と人生を与えたのは私たちに一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっていることについて。このことをエリザベトとマリアの妊娠から見ていこうと思います。

 エリザベトとマリアの妊娠は神の特別な力が働いて起こりました。エリザベトは普通ならもう出産は無理と言われるくらいの高齢者、マリアの方は処女でした。神は御自分の計画を実現するために、これら妊娠不可能な女性たちを通して必要な人材を準備したのでした。エリザベトから誕生したヨハネは「神のもとに立ち返る洗礼」を人々に勧め施しました。それは、人間には神の意思に反する罪があることを人々に自覚させ、罪の赦しを神に願う心を抱かせるためでした。そして、罪の赦しそのものは、イエス様がゴルゴタの十字架の上で死なれた時に実現しました。創造主の神は、このような役割を果たさせるためにヨハネとイエス様をこの世に誕生させました。神は、二人が胎児だった時から二人のことをご存知だったのです。

 それでは、私たちの場合はどうでしょうか?神は、私たちが胎児だった時から私たちのことをご存知だったのでしょうか?私たちにはエリザベトとマリアの胎児のような神の救いの計画を実現する役割などありません。それならば神は私たちのことをイエス様やヨハネほどには知らなかったということでしょうか?いいえ、そうではありません。天と地を造られ人間をも造られた神は私たちのことをみな同じように胎児の時から知っている、このことは詩篇139篇に次のように謳われていることから明らかです。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」(13ー16節)。

 このように人間の造り主である神は、胎児の時から私たち一人一人のことをご存知です。人間の方がその真実を知らないか、知ろうとしないのです。それならば、神は私たちにも何か計画を備えたのでしょうか?イエス様とヨハネのものとは異なりますが、もちろん、私たちにも神の計画があります。どんな計画でしょうか?それは、人間全てに共通する計画と、一人ひとりに備えられた個別の計画の二つがあります。

 まず、人間全てに共通する計画とは、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取って、その救いの持ち主となることです。神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」とは何か?それは、次のような救いです。創世記に記されている通り、人間は造られた当初は神の意思に沿い、神の御許にいることができる良い存在でした。それが悪魔に巧みに誘導されてしまったために神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。そのため神聖な神のもとにいられなくなり、神との結びつきを失って生きなければならなくなってしまいました。神との結びつきを回復できるためには人間の内に宿る罪の問題を解決しなければなりません。しかし、それは人間の力では除去することは出来ず、人間は100%神の意思に沿った生き方も出来ません。何か宗教的な儀式や修行を行ってそれで清められた、神の意思に沿う生き物になれたと勝手に思い込んでいるだけです。イスラエルの民は罪の償いのために牛や羊などの動物の生贄を神殿に捧げるという贖罪の儀式を行っていました。しかし、本日の使徒書の日課ヘブライ10章の中で言われるように、そうした儀式は民が罪から遠ざかる生き方が出来るようには何の役にも立っていなかったのです。それで神は、うんざりだ、もういい加減にしろ、と言うのです。

 しかし、人間がどんなにちぐはぐなことをしていても、創造主の神の御心は人間がまた自分との結びつきを持てて生きられるようにすることでした。それで罪の問題を神の方で解決してあげようと、ひとり子をこの世に送ることにしたのです。人間の乙女マリアを通して人間の姿かたちを持つ者としてこの世に生まれさせ、イエスという名をつけさせました。神はこのひとり子イエス様に旧約聖書について人々に正確に教えさせました。また、将来天地が新しく再創造される日に現れる神の国がどのような国であるかを数多くの奇跡の業をもって人々に垣間見せました。そして最後には全ての人間の罪を自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを果たして下さったのです。実に神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのでした。

 本日のヘブライ10章で言われるように、神が天のひとり子に人間の姿かたちを取らせることをしたのは、動物の生贄に代わる贖罪を果たさせるためだったのです。神聖な神のひとり子の犠牲です。人間の罪を償う生贄の中でこれほど神聖で完璧なものはありません。それで、ヘブライ10章10節で言われるように、未来永劫これ一回限りの犠牲なのです。新共同訳では「ただ一度」と何気なく訳されていますが、ギリシャ語のエファパクスεφαπαξという単語の意味は「これ一回限りで」です。英語で言ったらonce and for allです。only onceではありません。このイエス様が果たした犠牲を受け取った人は、神との結びつきを得るために別の犠牲はもう金輪際何も払わなくてよいのです。

 それでは、イエス様の犠牲を私たちはどうやって受け取ることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子を用いて実現した罪の赦しは自分のためになされたとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けること。そうすると彼の果たした罪の償いがその人に覆いかぶさります。その人は罪を償われたことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたのだから、神との結びつきを持てるようになっています。この結びつきは、自分から離脱しない限り、いつも変わらずにあります。順境の時だろうが逆境の時だろうがいつもあります。

 このように変わらぬ神との結びつきを持ててこの世を生きるようになると、行き先も定まります。どこに向かうのか?イエス様が十字架の上で死なれた後、父なるみ神は想像を絶する力で彼を復活させました。これによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの道に置かれて歩むようになります。何が起きようとも、いつも変わらない神との結びつきを持って歩むのです。この世から別れる時が来たら、復活の日に目覚めさせられて、使徒パウロがコリント15章で言う、神の栄光を映し出す朽ちない体、復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。これこそが、神がひとり子を用いて実現した「罪の赦しの救い」の全容です。神が一方的に整えて下さったので人間はただそれを「お恵み」のように受け取るだけです。信仰と洗礼をもって自分のものにできるのです。

 以上のことが全ての人間に共通した神の計画です。これの他に個人個人に対しても神の計画があります。それが何であるか、どうしたらわかるでしょうか?神さま、私にふさわしい仕事は何かお示し下さい?とお祈りして、すぐ答えがあるでしょうか?人間はとかく印を求めがちです。もちろん、何か不思議なことが起きて、これはもう神の御心としか言いようがない、ということもあるでしょう。しかし、いつも起きるとは限らないし、もし何か不思議なことが起きても、それが本当に聖書の神の意思という保証もありません。どうしたらよいでしょうか?

 私のささやかな助言ですが、神のお墨付きということはあまり考えず、自分が関心があること、なりたいもの、やりたいこと、使命感を感じることは追及してよいと思います。ただし、追及する際にルールがあります。神の意思に沿っているか、反していないか確認することです。具体的には十戒を任務遂行、目標達成の際のルールにすることです。何かことを成し遂げる際に、創造主の神に特化して自分の思いや願いを打ち明けたり感謝を捧げているかどうか、安息日を守っているかどうか、人々に敬意を払っているかどうか、人を傷つけていないか、不倫はしていないか、偽証や改ざんはしていないか。もし任務遂行や目標達成の際にこれらに反することが出てくれば、選択肢は2つです。任務や目標を神の意思に沿うものに変革するか、ないしは変革不可能であれば任務や目標自体を変えるということです。最初目指したことをやめるというのは自分が失われる感じがして痛いことですが、先ほども申しましたようにキリスト信仰者は何が起きても変わらない神との結びつきがあります。それさえあれば何も失われるものはありません。神は必ず次のものに導いて下さいます。神の意思をルールにする限り、神のお墨付きがある、やりたいこと目指すことは定まってきます。

3.マリアの信仰と私たち

 次にマリアの信仰を見ていきましょう。エリザベトが言った言葉(ルカ1章45節)がマリアの信仰を理解するカギです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 まず、「幸い」という言葉について注釈します。それは時間が経てば薄れてしまう、この世的な幸福や幸運ではありません。不変で持続可能な幸福です。SDGsに加えてもいいくらいのものです。先ほど、キリスト信仰者というのは神との結びつきを持って永遠の命に至る道を歩んでいると申しました。「幸い」とは、神との結びつきがあるので今の世と次に到来する世の双方にまたがることができるということです。それなので、たとえ逆境に陥っても、この結びつきとまたがりは自分から離脱しない限りそのままあるので、その人は「幸い」のままです。マタイ5章の有名な山上の説教でイエス様自身が言われるように「幸いな」人とは霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。イエス様の言葉をよく目を見開いて読めば、どれも今の世と次に到来する世の双方にまたがっていることが見えてきます。これとは逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、神と結びつきもなく二つの世のまたがりもなければ幸いはありません。

 マリアの場合は婚約中の妊娠という、当時のユダヤ教社会の目から見て不名誉な境遇に置かれることを覚悟で、神の人間救済計画を実現するためならば、とそれを受け入れました。神の人間救済計画とは人間を「幸い」な者にすることでした。そのような計画の実現のために自らを捧げたマリアも幸いなのです。

 エリザベトの言葉に戻ります。ギリシャ語の原文はわかりそうで少しわかりにくい形でして次のようにも訳せます。「信じたこの方は、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がおっしゃったことは必ず実現するからです」。実は、ドイツ語のルター訳やフィンランドやスウェーデンのルター派教会の聖書は、この訳です。英語のNIVは日本の新共同訳と同じです(英語でもジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じでした)。独、フィン、スウェーデンは「信じたマリアは幸いだ。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言う。日本語と英語は「神が言ったことが実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。またしても聖書の翻訳における日米同盟と欧州連合の対決ですが、どっちが正しいでしょうか?

 私は両方を合わせてみるとマリアの信仰がよくわかると思います。ドイツ・北欧の訳ですと、マリアがどうして「幸い」かということについて理由を言います。信じたマリアは幸いだ、なぜなら(οτι)神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ、と言います(実はこれは山上の説教でのイエス様の言い方と同じです!「悲しんでいる人は幸いだ。なぜなら(οτι)彼らは慰められることになるからだ(4節)」)。英語・日本語の訳では、マリアがどうして「幸い」なのか理由がなく、ただ神が言ったことが実現すると信じたマリアは幸いだとだけ言います。

 ドイツ・北欧の訳で一つ問題なのは、「信じたマリアは幸いだ」と言う時、マリアは一体何を信じたのかがはっきりしないということです。英語・日本語では、信じた内容を「神が言ったことが実現することを」とはっきり言っています。それを信じたマリアは幸いと言います。ドイツ・北欧の訳では、ただ単に「マリアは信じた」です。マリアは何を信じたのでしょうか?

 それは、本日の日課の直前にあるマリアと天使ガブリエルの対話を見れば明らかです。神の子を産むことになると天使から告げられて、マリアはまだ婚約中の身でどうしてそんなことが可能かと聞き返します。これは一見すると、エリザベトの夫ザカリアが天使の告げたことに対して言った反論と同じように聞こえます。しかし、マリアの場合は最後に「お言葉通り、この身に成りますように」と言って天使が言ったことを受け入れます。これがマリアが「信じた」ことです。つまり、マリアは、事がその通りになるという事の真実性を信じたというよりも、その通りになってもいいです、と受け入れた、これがマリアが「信じた」ということです。

 信仰には二つの面があります。まず、神が起こると言うことを信じる、とか、聖書に起こったと書かれていることを信じる、とか、神が示した事柄の真実性を信じるという面があります。それと、ここでのマリアのように、神が起こすと言っていることをそれでいいですと言って受け入れること、神に自分の向かう先を委ねること、それくらい神を信頼するという面があります。このように信仰は事柄の真実性を信じることと神を信頼するということの二つの面を持っています。そいうわけでドイツ、北欧の「信じたマリアは幸いである。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」というのは、神を信頼して自分を神の御手に委ねたマリアは幸いである、なぜなら神が言ったことは必ず実現するからだ、という意味になります。ドイツ、北欧の訳はこちらの面が表に出てきます。

 もちろんマリアの信仰には事柄の真実性を信じる面もあります。そのことを確認しましょう。マリアが旅立ったザカリアとエリザベトの家が町は、ユダ地方の山間部にあるということなのですが、どの町かは不明です。ただ、ナザレがあるガリラヤ地方からユダ地方の中心地エルサレムまで直線距離で100キロ位ありますので少々の長旅です。途中にはユダヤ人に反感を持っているサマリア人が住むサマリア地方を通らなければならない。またイエス様が「善いサマリア人」のたとえ話のなかで、エリコとエルサレムの間の道に山賊が出て旅人を襲うという話がありますが、そういう危険もあります。とても一人の娘が出来る旅ではありません。誰か付き人をつけたと考えるのが妥当です。ロバに乗って仮に時速5キロ位で進めるとして、日中の明るい時間だけだから10時間くらいでしょうか、100キロ進むのには最低2、3日かかります。道は舗装されていないし、途中にコンビニもありませんから、それだけの日数の二人分以上の旅の準備をしなければなりません。そうしたことはルカの記述には一切触れられていません。読む側としてはどうしてそんな旅行が出来たのかと余計な心配をしてしまいます。人によってはそんなことはあり得ない、マリアのエリザベト訪問は作り話だなどと意地悪なことを言う人もいます。しかし、書き手のルカとしてはマリアの旅支度は読者に伝えるべき本質的なことではなかったのでしょう。伝えるべき本質的なことはマリアとエリザベトが会ってやり取りをしたことだったので、それで十分だったのです。実を言うと、ギリシャ語原文では天使のお告げからマリアの出発まで数日かかったということと、その間マリアは今か今かという思いでいたことが言われています。旅の準備をしていたことを示唆する表現です。日本語や英語の訳でははっきり出てきませんが、フィンランド語やスウェーデン語の訳でははっきり出ています。

 天使のお告げを聞いて早くエリザベトのもとに行かねばという気持ちになったマリアは、ルカ2章に登場する羊飼いと同じです。羊飼いたちは天使からベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中で寝かされている乳飲み子が救世主誕生の印だと告げられました。羊飼いたちは、まだ見ていないのに天使の告げたことを本当のことと信じて急いで出かけて行ったのです。神が示した事柄の真実性を信じたのです。マリアの場合も同じでした。天使から、お前は乙女のまま神の子を産むことになる、高齢のエリザベトが身ごもっているのがその印である、神に不可能なことはない、と告げられ、まだ見ていないのに本当のことと信じて、一刻も早く出発したいという気持ちで旅の準備をして整うや急いで出かけて行ったのです。

 このようにマリアの場合は、神が示した事柄の真実性を信じることと、神に全てを委ねる信頼の両方がありました。これがマリアの信仰の大事なポイントです。そして、この両方を兼ね備える信仰はアブラハムにも見られるものです。父祖伝来の土地を離れて私の示す地に行きなさいと言われてアブラハムは神を信頼して出発しました。高齢でもう子供は無理と諦めていたのに、お前の子孫は夜空の星のようになると言われてそれを信じました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のお恵みの中に生きる私たちキリスト信仰者も、聖書のみ言葉に立って、その両方を持って旅立つことが出来ますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

歳時記

モミジ

べつに盆栽の趣味があるわけではありません。白州の林でモミジの幼木を見つけました、そばに成木がありその種が落ちて実生になったのでしょうか。 このままおいておけば何れは林の中に埋もれてしまうと思い鉢に移して家のベランダで育てていたら可愛い紅葉を見せてくれました。「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」 猿丸大夫の有名な歌ですね、鹿の鳴き声は秋深い丹沢や奥多摩の山でよく聞きました。行動中なのでしんみり聞くことはありませんでしたが一度だけ雲取山の小屋で深夜に聞いた鹿の哀愁を帯びた鳴き声はそれこそ「秋ぞ悲しき」でしみじみと聞いていました。