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覚悟と胆力を養うキリスト信仰その6
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ1月8日の日課から)
スオミ教会の説教や聖研でも何度も取り上げてきました、キリスト信仰の死生観です!
『娘は死んではいない。眠っているだけだ』(マタイ9章24節のイエス様の言葉)
『キリスト信仰者は死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるようにそれを恐れてはならない。キリストと固く結びついている信仰者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪から、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
キリスト信仰者にとって死が一時の睡眠である以上、我々はそのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められた者として栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。
我々は喜んで、そして安心して我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命を全て委ねよう。主は御自分が約束した言葉に忠実な方なのだ。我々キリスト信仰者は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間は主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っているではないか。この世から死ぬ時も全く同じである。』(以上、ルターの説き明かし)
ルターのこの説き明かしを教えた時、信徒の方々からいくつか疑問点があがりました。それを少し見ていきます。
まず、死んだ人は復活の日まで眠っていて、その日が来て初めて神の国すなわち天国に迎え入れられるんだったら、死んだ人のことを「天に召された」と言うのは時期尚早ではないかという疑問。ルターの説き明かしをもう一度みましょう。神に全てを委ねてこの世を去る時、目を閉じて再び開けた瞬間、もう壮大なドラマが始まっているのです。この世の時間では何百年が経過しても、キリストに結びついて去る者には「瞬きした一瞬」のことなのです。私はこれは全身麻酔の手術を受けた時の感覚に近いのではないかと思っています。医者に全てを任せて目を閉じ再び開けた瞬間、全ては終わっていた。神は人間よりも偉大な医者なのです。なので、「天に召された」と聞いたら、ああ、この世を去った人の観点で言っているのだな、「眠りについている」と聞いたら、この世にいる我々の観点で言っているのだな、と思えばよいのです。(まだ2つの疑問があります。次週に続く。)
3月の手芸クラブは桜が咲き始めた26日に開催しました。この日の朝は少し肌寒く雨模様でしたが、これから暖かくなれば桜はすぐに満開になるでしょう。
今回の手芸クラブのテーマはモチーフ編みです。初めにモデルを見て自分の作りたい作品を選びます。モチーフ編みのガイドブックを持参された方はいろいろな色合いや作り方を見て作りたいものを選びました。モチーフ編みは鎖編みと中網の繰り返しだけなので、参加者の皆さんはマイペースで編んでいきました。すると作品の形やモチーフ編みの彩りがだんだん見えてきました。各自自分の編み物に集中してから一休みをして他の方たちのものを見ました。みなさん、「可愛い」、「きれいな色合い」などとコメントしあいます。今回は春休みに入った高校生の方がお母さんと一緒に参加されて、一生懸命に楽しそうにモチーフ編みを編みました。覚えが早くて作品はもうほとんど完成しました。
今回はモチーフ編みの編み方を練習された方やコースターに挑戦された方がいらっしゃいました。スクエアが増えると、どんな作品になるでしょうか?完成品が楽しみです!
編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れることに。フィンランドのコーヒーブレッド「Pulla」を味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。そこでモチーフ編みについてや、美しい春の季節も神さまの創造の業であるという創造のお話を聞きました。
次回の手芸クラブは4月22日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日の手芸クラブのテーマは、かぎ針編みのモチーフ編みでした。モチーフ編みはかぎ針編みの定番で、昔から人気があります。基本の形は四角ですが、三角などの形のものも編まれます。編み方は鎖編みと中網の繰り返しなので、初心者にもピッタリです。しかし、かぎ針編みに慣れている人たちもモチーフ編みをワクワク楽しみながら編みます。彩で美しいレースのような表面になるのが、おそらく人気の理由なのでしょう。
これからは様々な花が咲き始め新緑が芽吹いて、自然は色彩豊かな美しい季節を迎えます。この彩のモチーフ編みはこの季節にピッタリの手芸だと思います。
桜はそろそろ満開です。冬の間枯れて死んだように見えた木から突然沢山の美しい花が咲くのを見ると、いつも神様の素晴らしい創造の業を思い出します。枯れて死んだような枝が花と新緑に変わると、神様が新しい命を与えて下さることがよく分かります。イザヤ書の43章19節には次のように書いてあります。 「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。」
日本では4月は学校や会社などで新しいスタートの期間です。学校や職場でさまざまな期待があると思います。子どもたちが新しい学年でどのように成長するかを見るのは親にとって楽しみの一つでしょう。新しい職場で自分の持っている専門的な知識や力をうまく生かせそうとチャレンジの気持ちを持つでしょう。私たちは新しいことに興味を持って取り組む時、チャレンジする気持ちを持ちますが、新しいことに対する不安、他の生徒たちと仲良くできるか、勉強についていけるか、うまく仕事が出来るかなど心配もあると思います。
私たちには娘と息子がいます。二人とも大人ですが、子どもたちが学校に通ったころには私たちも子どもたちの将来などいろいろ心配しました。しかし、心配しても、その段階で何も解決はできませんでした。もちろん、親としてしなければならないことはしましたが、その結果どうなるかは神様に委ねるしかありませんでした。それで、子どもたちの将来について、思い悩むことはしないようにしようと思いました。
新約聖書のマタイ福音書には思い悩むなと教えるイエス様の言葉があります。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」神様は私たちをどんな時でも守って導いてくださいます。神様の守りと導きは私たちの感じることと関係なく、いつもあります。神さまは、私たちの物事がうまく行っている時に導いて下さるということではありません。私たちの生活の中に困難がある時にも私たちが気づかない仕方で確かに導いてくださいます。
毎年春になると花が咲くのは神様がして下さることです。同じように神様は私たちのことも覚えて見守って、咲くことができるように必要なものを与えて下さいます。神様は、困難のない生活を与えるとは約束していません。しかし神様は私たちにどんなことがあっても全てご存じで、私たちと共に歩んで下さいます。この世界はいつも変化ばかりですが、神様の私たち一人一人に対する愛や良いご計画は変わりません。神様は私たちを担い、背負い、救って下さいます。独り子イエス様をこの世に送って下さったことに、神様の私たちに対する変わらない愛が示されています。このように神様の人間に対する愛が示されているので、いつも安心と感謝の気持ちに満たされて歩むことができます。
私たちも神さまの愛を忘れないように今年の桜を楽しんで眺めましょう。
花いちもんめ
<人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。出エジプト記 21:16 >
散歩の途中で道の真ん中に椿の花が転がっていました、その花を見ていたら遠い昔に妹や女の子たちが手をつなぎながら二組に分かれて”はないちもんめ”を歌いながら前後に行ったり来たりしながら遊んでいました。わらべ歌には難解な歌詞が多いですね、”かごめかごめ”も確かに難解な意味が込められています。”はないちもんめ”には江戸時代の飢餓の際の悲惨な口減らしや人さらい、人身売買など意味が込められている怖いわらべ歌でした。私の子供の頃は人さらいと言う言葉がまだ生きていました、実際にあったか否かは知りませんが。
「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団ぼろぼろ(若しくはびりびり)行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、(鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲あるけど弾がない、)あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」
主日礼拝説教2026年3月29日 枝の主日
スオミ教会
イザヤ書50章4-9a節
フィリピ2章5-11節
マタイ21章1-11節
説教題 「柔和でへり下った王」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。
受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、神に「救って下さい」とお願いする意味があります。加えて、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語なら、さしずめ「王様、万歳」でしょう。そのホーシーアンナ―は当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。
ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書の大元の言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に異国の地でアラム語化していきます。祖国に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝では一応ヘブライ語の聖書が朗読されましたが、会衆が理解できるようにアラム語で解説していました。群衆がイエス様を迎えた時、ヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。後にマタイ福音書がギリシャ語で書かれた時、マタイは群衆のアラム語の音声をそのままギリシャ文字に変換してホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を繙くと当時の群衆の生の声を聞くことができるのです。マタイは現場のリアルな雰囲気を後世に伝えたかったのです。
そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様を王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者が凱旋する時は、大勢の家来や兵士を従えて軍馬にまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。王に相応しくない感じがします。イエス様はどうしてロバなんかに乗って来たのでしょうか?
2.イエス様は柔和でへりくだった王
実は、この出来事は旧約聖書のゼカリヤ書の預言が実現したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」に注目しましょう。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、ヘリ下ってロバに乗って来る者」です。王様というのは普通、軍馬にまたがって威風堂々とやって来る者だが、預言の王はロバに乗ってやって来ることでヘリ下った者であることを示すというのです。マタイはこの個所を引用した時、なぜか「柔和でロバに乗って来る者」と書き換えました。預言の王はロバに乗ってやって来ることで柔和な者であることを示すというのです。どうして「ヘリ下り」が「柔和」に変わってしまったのか?新約聖書には旧約聖書を引用する時、引用元と違ってくることがよくあります。そういう時は、まず旧約聖書のギリシャ語版を見るとよい。マタイはギリシャ語で福音書を書いたから、旧約聖書の引用もそっちを見たのかもしれない。案の定、ギリシャ語のゼカリア書9章9節は「柔和でロバに乗ってやって来る者」でした。
マタイはイエス様がどんな王であるかを特徴づける時、「ヘリ下り」よりも「柔和」の方を重要視したのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。彼がイエス様を特徴づける時、「ヘリ下り」も「柔和」も両方大事な言葉でした。それはマタイ11章29節のイエス様の言葉からわかります。そこでイエス様は、労苦する者、重荷を負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私の軛を負い、私から学びなさい。私は「心から柔和でへり下った者」だからだ、そうすれば、あなた方は魂に休息を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休息を得られるカギはイエス様の柔和さとへり下りにあるとわかっていたのです。
ここで、「柔和」と「ヘリ下り」の意味を考えてみなければなりません。なんとなくわかったような気がしますが、イエス様を特徴づける言葉として具体的にどんな意味があるのか?それがわかればイエス様のことをもっとよくわかるようになります。
二つの言葉の意味をイエス様に即して理解する鍵は、本日の使徒書の日課フィリピ2章の中にあります。そこでパウロは当時キリスト教徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用します。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところです。そこはギリシャ語原文では段落が別になって詩の形になっていて引用であることを示しています。日本語訳ではそれは見えてきません。
パウロがここでこれを引用した意図はこうです。キリスト信仰者というのは、思いを一つにして同じ愛を持って一致を目指す者だ、争いや虚栄心に走らず、ヘリ下って互いに相手を自分より優れた者と考え、各自自分の利害を中心に考えず他人の利益にも目を向ける者なのだ、と思い起こさせます。これらが柔和の意味です。私たちの救い主がそういう柔和な方だった以上は私たちもそうあらねばなりません。パウロの意図は、イエス様がそういう方であったことはキリスト賛歌からも明らかだ、今それをここで引用するからよく自己反省しなさい、ということです。それで引用したのです。
「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
ここで「ヘリ下り」の意味がはっきりします。イエス様は天地創造、全知全能の神と同等の立場を捨てる位のヘリ下りをされました。そして、人間の救いのために残酷な十字架刑を受け入れる位のヘリ下りをされました。この世界でこれ以上のヘリ下りはありません。ヘリ下ったイエス様は神の人間救済計画を実現するために最後まで神の意思に従順に従いました。まさに自分の利害を中心に考えず、他人の利益のために立ち振る舞ったのです。ヘリ下りと神の意志への従順がイエス様の柔和を形作るのです。このようにヘリ下りと柔和というのはお互い結びついています。しかも、パウロはこのヘリ下りと柔和はイエス様だけでなく、彼を救い主と信じるキリスト信仰者にもあると思い起こさせます。なぜなら、キリスト信仰者にはキリストにある励ましや愛に満ちた慰め、聖霊の交わり、救われたことによる慈しみと憐れみの心がある、だから、思いを一つにして同じ愛を持って一致を目指し、争いや虚栄心に走らずに、ヘリ下って互いに相手を自分より優れた者と考え、各自自分の利害を中心に考えず他人の利益にも目を向け考えるようになるのは当然なのだ、というのがフィリピ2章の初めでパウロが言おうとしていることです。
3.民族の解放者から全人類の救い主へ
しかしながら、ロバに乗ってエルサレムに入って来るイエス様を見た群衆は、彼を柔和でへりくだった王とは思ってはいませんでした。みんな、彼をイスラエルの民をローマ帝国の支配から解放してくれる民族の英雄と見ていたのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦します。彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様は自分のことをダニエル書7章に出てくる終末のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者としたり、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称し、指導層の反感を高めていきます。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けてしまいました。その段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。
イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こりました。旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる出来事が起こりました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様の十字架と復活の出来事を出発点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様が死に引き渡されても、そのままで終わってしまわなかったのは、彼が神の子だからだ、と理解されるようになります。では、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が自分の内に持ってしまっている罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。神聖な神の目に適う僕が人間が受けるべき神罰を自ら引き受けて人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命が実在することがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれたのです。
そこで今度は人間の方が神のこれらの取り計らいを自分事として受けとめてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を歩むことになります。その行き先は永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。
ロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした表面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超える永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。
4.勧めと励まし
終わりに本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちキリスト信仰者の心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持ってこの世と次に来る世の両方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも神の意思に従っている、それで自分には何もやましいことはないとわかっている、自分は神の側に立っているとわかっているので何も怖くはありません。暴行されたら痛いし辛いが、神を裁判官にした裁判において自分は潔白そのものである、そういう内容です。神を裁判官にした裁判ということは8節と9節で言われます。
8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」神がイエス様を死から復活させたので、イエス様は罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。それでイエス様の潔白は人々の前で証明されます。
「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことです。それで、よしわかった上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、というのです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨で続きます。
「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」そこは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。
9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」
「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にすぐそばにいて味方になって下さることを確信している様子がうかがえます。
この確信は私たちキリスト信仰者も持てます。今の日本では、さすがに暴力に訴えてまで信仰を捨てさせることはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷はあると思います。しかし、十字架と復活の主を救い主と信じる以上、神の裁判では潔白です。なので、何も動揺せず何も恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、へりくだって他の人を自分より優れた者とし、自分の利害を脇において他人の利益を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、これらを淡々と続けていけばいいわけです。
ところで、非難や中傷は人から来ず、信仰者の心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、そのヘブライ語の意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配はいりません。確かに私の内には神の意思に反する罪がある。しかし、それはイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、これを思い出せばいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放さない、と悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から、どうぞ、と差し出されて、それをありがとうございます、と受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前の方こそ、イザヤ書50章9節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は51章9節にも出てきます)、そう言ってやればよいのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注1 ギリシャ語のモルフェ―が日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥ―ロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もありまる。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。
礼拝後、ポウッカ牧師夫妻監修のヴィア・ドロローサの鑑賞と讃美歌を共に賛美しました。枝の主日に相応しい交わりでした。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その5
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)
『私はあなたに感謝します。私に答えて下さり、私の救い主になって下さったあなたに。』 (詩篇118篇21節、フィンランド語訳の聖書に基づく)
『神の大いなる恵みは、まず第一に、み言葉をもって我々の業を裁きにかけ、我々の神聖さ、知恵、力を無にすることに現れる。なぜそういうふうに言えるのかと言うと、それは、我々が罪深さから来る罰に気づくためであり、良心が恐れを抱くためであり、あらゆる心配事が堰を切って押し寄せて来るのに気づくためだからである。神はこのようにして我々をとことんヘリ下させて、我々の自尊心や自己の業績と博識に対する過信を一気に消し去るのだ。このへり下させは、たとえこの世の人生の段階で起きなくとも、どんなに遅くともこの世の人生が終わる時に必ず起こる。この世の人生でこのヘリ下りを何度も経験し耐え抜ける者は、しかも、神は私にとってこれが一番良いことだからそうされるのだとわかって感謝する者は、預言者イザヤの言葉をもって歌うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに怒りを燃やされたが、その怒りを取り下げ、わたしを慰め励まして下さったからです。」(イザヤ書12章1節、フィンラン語訳の聖書に基づく)
神の大いなる恵みは、第二に、我々を慰め励まして、我々の霊と内なる新しい人が日々成長し、肉と古い人が日々衰退するように助けて下さることに現れる。神は時の進むに応じて我々に一層大きく豊かな賜物を与えて下さり、神を前にしても神と結びついた者として雄々しくしていられ喜びに満ちた勝利者に我々をして下さる。冒頭の詩篇のみ言葉はまさに神の大いなる恵みの両面に与かった者が口ずさみ歌う言葉なのだ。「私はあなたに感謝します。私に答えて下さり、私の救い主になって下さったあなたに。」
見よ、神は我々をヘリ下させて高く上げて下さる、我々を罪びとに定めて義なる者として下さる、我々が敗者になることを許し勝利を与えて下さる、我々が泣かずにいられなくなるようにし喜びに溢れて歌えるようにして下さる、我々を死に引き渡し生きる者にして下さる。』(以上、ルターの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました。)
私たちはこの世を去る時、業績や博識や財産や名誉には何の力もない、とことんヘリ下った状態になります。神の大いなる恵みに与かる人生はその訓練になると言えます。業績云々がないと言う人には訓練は妬みや卑屈を削ぎ取る意味があると思います。業績云々が大きければ大きい程、訓練は大変かもしれませんが、そこで得られるヘリ下りはこの世を去る時の真の力になるのではないかと思います。
花大根
<28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 マタイ6:28・29>
尾根緑道に花大根の季節がやって来ました。毎年、同じ場所に群れになって咲いています。野菜の大根の花は白い花ですが花大根の方は菫のような紫色ですね。江戸時代に中国からの渡来種ですから比較的新しい野草です。現役で働いていた頃、成城学園前駅が地下ホームになる前は駅の手前は切通しの崖のような斜面でした。その斜面に季節が来ると一面に花大根が咲き春到来を楽しみにしていました。娘もこの花が好きで学生時代は摘んで来ては机に飾っていました、花屋の花よりもこの様な野の花に美しさを感じるのは嬉しいことです
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初は生地作りです。材料を測って順番にボールに入れて小麦粉を加えます。よく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。
発酵させている間に中身を作ります。ひき肉を炒めて味付けをして冷まします。最後にすりおろしたチーズを加えると「美味しそう」との声が聞こえてきます。生地が大きく膨らんだのでLihapiirakkaの形作りをします。生地を伸ばして丸い型を抜き、生地の上に中身をのせて閉じていきます。
皆さん、一生懸命にLihapiirakkaの形を作って鉄板にどんどん並べていきます。Lihapiirakkaの列が沢山できました。それをオーブンに入れて焼きます。しばらくすると美味しそうな香りが漂ってきました。味わうのが待ち遠しくなります。焼き上がったLihapiirakkaは、最後に溶かしたマーガリンを塗って出来上がりです。
お皿にサラダをきれいに盛りつけてピックルスを添えて焼きたてのLihapiirakkaを味わいました。たちまち、「美味しい!」「美味しい!」と嬉しそうな声があがりました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。今キリスト教会は復活祭の前の受難節の季節なのでその過ごし方やお祈りについてお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは4月18日に予定しています(ご注意 4月は月の第三土曜日になります)。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はフィンランドの伝統的なLihapiirakkaを作りました。Lihapiirakkaには様々な種類があり、パイ生地で作る大きいものや小さいもの、そして今日みたいなパン生地で作るものもあります。今日作ったパン生地のLihapiirakka はロシアからフィンランド全国に広がり、1950年頃ファーストフードとしてキオスクでも販売されるようになりました。油で揚げて作るのは伝統的ですが、最近では少し健康的なバージョンとしてオーブンで焼くことも多くなっています。今日もそのタイプのものを作りました。Lihapiirakka はハイキングやお花見など出かける時のお伴にもぴったりで、これからの季節にちょうどよい軽食の一品ではないでしょうか。
今フィンランドでは季節が春に向かて進んでいます。雪が溶けて地面はぐちゃぐちゃで木はまだ枯れているように見えますが、フィンランドの人々はもうすぐ春の花が美しく咲くことを楽しみにしています。この季節になると、フィンランドのカレンダーでは「受難節」という期間に入ります。これはイスター・復活祭に向けた準備の期間です。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも残っていることを意味します。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化をつけることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を控えたりすることがあります。このように受難節を通して人々は自分の生活や時間の使い方を見直すことをするのです。しかし、受難節にはもっと深い意味があります。
それは、イースター・復活祭の前の40日の間、イエス様が十字架につけられた苦難を覚えて心の中で思いめぐらす期間であるということです。この期間にイエス様が歩んだ苦難の道について聖書の教えを読んだり聞いたりしながら、心を静めて天の神様にお祈りすることも多くなります。クリスチャンはお祈りする時イエス様がそばにいて聞いて下さることを知っています。
しかし天の神さまにするお祈りとはどのようなものでしょうか?
キリスト教で祈りとは心の中で天の神さまとお話しすることです。聖書の中には決まった形の祈りも教えられていますが、もちろん自分の言葉でお祈りしていいのです。祈りの中で私たちは天の神さまに感謝の言葉を述べたり、困った時に助けをお願いしたりするからです。
新約聖書の「マルコによる福音書」にはバルティマイという盲人の人のお祈りの話があります。それを紹介したいと思います。これはイエス様が弟子たちと一緒にエリコという町に来て、それから出発しようとした時に起こりました。道端には盲人のバルティマイが座っていました。バルティマイはイエス様がそこを通りかかると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫んで祈りました。多くの人たちは彼を黙らせようとしましたが、彼はもっと大きな声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と祈りました。その時イエス様はどうされたでしょうか。祈りを聞かずに通り過ぎてしまったでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。イエス様は立ち止まってバルティマイを呼び寄せて「何をしてほしいのか」とお聞きになりました。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。すると、盲人は見えるようになり、イエス様に従っていきました。
私たちはこの盲人の男性と同じような希望がない状態になることがあるかもしれません。このような時、私たちはどうしたら良いでしょうか。そのような時は、私たちもこの盲人と同じようにイエス様にお祈りすることができます。イエス様は私たちのお祈りも聞いて下さり、私たちのところに立ち止まって、尋ねてくださいます。「何をしてほしいのか。」イエス様が私たちが必要なことが全てご存じですが、尋ねることで私が勇気をもって願いや必要なことを自分の言葉で言うようにするのです。
私たちも願うこと困ったことや悩みがいろいろあります。それらをお祈りを通してイエス様に伝えることは、その全てをイエス様の御手に委ねることになります。すぐにお祈りした通りになるかどうかは分かりませんが、イエス様は必ず聞いてくださいます。そして祈ったことの結果や時間はいつもイエス様が決めて下さいます。そのようにイエス様を信頼することができると、私たちの心は軽くなり、静かな平安に満たされます。
このように受難節はイエス様の苦難を心の中で思いめぐらすことと彼を信頼して祈ることを通して心を静めて平安を得る期間です。皆さんの心も静かな平安に満たされますように。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その4 ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」2月18日の日課から) 『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』 (マルコ10章23節) 『誰も自分の力で救いを勝ち取ることはできない。そうなのは、原罪が我々にもたらした 被害のためなのである。それがゆえに我々の自然の本性は造り主の神よりも造られた被造 物に執着してしまうのだ。 人間には、信頼を寄せ喜びを頂く神がいなければならない。人間は真の神か偽りの神か のいずれかを持つ。我々の自然の本性が、賜物を与える神ではなく、与えられた賜物の方 に執着する時、人間は不可能にもかかわらず自分の力で救いを勝ち取ろうとする。そのよ うな時、神は御手をもって介入する。神は繰り返し人間をヘリ下させて屈服させる。そう するのは、人間が次の真理を口にすることができるようになるためなのだ。「私には神が 与えて下さった多くの贈り物がある。しかし、そこからのみ喜びを見出そうとする位に愛 しいものにしてはならない。私はそれらを神がお認めになる間だけ用いることにしよう。 一つには神の栄誉のため、二つには自分の必要のため、三つには隣人の役に立つために。 もし神が贈り物を与えることをやめると言われれば、私は失うことから生じる困難や恥を 耐え忍ぼう。私にとっては、贈り物を与える神を失うよりも贈り物を失うことの方が良い からだ。」 我々をこのような心意気にするために神は全てを手中に収め、替わりに我々に御言葉を お与えになる。与えられた御言葉を通して聖霊が働き、我々を古いものから新しいものへ と変えるために。そうでなければ、救いも何も全てが失われるであろう。』 (以上ルタ ーの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)
「神のみことばは かたく世に立ちて み霊とたまもの わがうちに溢る。 わがいのちも わが妻子も 取らばとりね、神の国は なおわれのものぞ。」
ルターの作詞作曲による讃美歌から 教会讃美歌450番4節