お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
次回の手芸クラブは、前回に続いてかぎ針編みのスマホケースを作ります。かぎ針編みの基本の編み方を使って編みます。表情豊かな可愛いらしい模様のケースが出来ます。是非、素敵なスマホケースをご一緒に作りましょう!
夏の軽い首飾りラリエットもかぎ針編みで作れます。それを選ばれてもよろしいです。
以前作ったバンド織りキーホルダーをご希望の方はそれを作ってもよろしいです。
手芸クラブではその他にも自分の好きな編み物もすることができます。 おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
持物持物: 綿糸 100g 糸に合わせてかぎ針 参加費 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。 皆様のご参加をお待ちしていま。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1750639754iamg@1750639754arumi1750639754hsoy.1750639754iviap1750639754 03-6233-7109
福音ルーテル スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
山紫陽花(Yama ajisai Mountain hydrangea)
<6 声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。 8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は/とこしえに変ることはない」。イザヤ書6:6・7・8 >
山梨の家の近くの林道で山紫陽花が道の傍らに咲いていました。山紫陽花はガクアジサイの亜種でガクアジサイより小型で見るからにより繊細な感じがします。それ故、里の紫陽花にはない可憐な美しさがあります。以前、その一株を庭に移植してみましたが駄目でした、山紫陽花は頑なに根付いたその場所にしか育たないようでした。
主日礼拝説教 2025年6月22日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会
イザヤ65章1~9節
ガラテア3章23~29節
ルカ8章26~39節
説教題「聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、墓場を住みかにしていたと。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというような不気味な光景が思い浮かび上がるかもしれませんが、ここで言われる墓場は岩にくり抜いた墓穴があるところです。墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露をしのいでいたということです。イエス様がその男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名はレギオンと言いました。それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味する言葉です。つまりそれくらい沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。悪霊たちは男の人から追い出されると今度は豚の群れに入り、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。
この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つです。ここで、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取ったり病気になったりする話は聖書によくあるし、キリスト教以外にも沢山あります。異常行動や病気をなくすために悪霊の追い出しということがあるわけです。しかし、それは現代社会には相応しくないと考えられます。現代では病気や異常行動の解決には医学的、精神医学的、心理学的な解決がはかられるからです。問題の原因は悪霊のとりつきにあるとして、それを追い出して解決しようとするのは前近代的と考えられます。それではイエス様の悪霊追い出しは前近代的なことで、今は医学的、精神医学的、心理学的に解決させるのが当然と言ったら、イエス様のやったことは私たちには意味のないことになります。意味がないばかりか、危険な考えを生み出すものとさえ見なされます。というのは、現代にも医学の力では解決できない問題は多くあり、その時、原因を悪霊のとりつきにあるとしてその追い出しで解決を得ようとする人もいるからです。その場合、誰が追い出しをするのかという問題がでてきます。そこにはいろいろな危険があります。でも、解決を求める人は藁にもすがる思いなので危険など二の次になります。
今日の説教では、イエス様の悪霊追い出しは前近代的なことだと言って軽く見てはいけない、それは現代にも意味があるということを明らかにします。結論を先に言うと、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。聖礼典とは洗礼と聖餐式のことです。聖書の御言葉と聖礼典にそのような力が働いていることをわかるために、イエス様の悪霊追い出しを細かく分析することは大事です。今日はそのような分析を行います。
2.悪霊に取りつかれた男の人と神の旧約での約束
本日と同じ出来事はマタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、マルコと今日のルカでは出来事の場所はゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域となっています。これは、イエス様が地上で活動した時は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していたのが、後にガダラに属したことによります。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「イエス様がおられた時あの崖はゲラサに属していた」という意味です。マタイがガダラと言うのは「イエス様が天に上げられた今はあの崖はガダラに属している」という意味です。いずれにしても同じ崖です。
この他にも、3つの福音書の記述には違いがあります。しかし、根幹部分はは3者とも共通しています。イエス様がガリラヤ湖の対岸に渡って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って群れは崖に突進して湖に飛び込んで溺れ死んでしまったということ、これがマルコ、マタイ、ルカの三者に共通しています。細かい点で違いが生じたのは、最初の目撃者の証言が言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりしたためです。しかし、付け足しや省略に付されない根幹部分があって、それが実際に起こった出来事を映し出しているということです。
さて、今日の福音書の日課はルカなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。私たちの新共同訳では「ゲラサ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民です。ゲラサ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけてこの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していました。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族が汚れた動物と見なした豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。
町の人たちの多数派が異邦人と考えられる理由は、豚の放牧以外にもあります。それは、町の人たちがイエス様の奇跡の業を見て彼に退去するように言ったことです。もし同じことがガリラヤ地方かユダヤ地方で起こったとしたら、人々はきっと預言者の到来だとかメシアの到来だとか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言ったでしょう。ところが、ゲラサの町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているに違いないと恐れたのです。彼らが旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待など持っていないことを示しています。
それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?聖書の記述をよく見れば、ユダヤ人だったことが見えてきます。どうしてそんなことが言えるのかというと、イエス様は伝道の対象をイスラエルの民に絞っていたことに注目します。12人の弟子たちを伝道に派遣する時にこう言いました。異邦人の道に入るな、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け、と(マタイ10章5~6節)。それで、悪霊に取りつかれた男の人は、異邦人が多数派を占める地域で少数派として暮らすユダヤ人とみることができるのです。まさにイスラエルの家の失われた羊なのです。イエス様の伝道の主眼は、旧約聖書を受け継ぐイスラエルの民を相手に天地創造の神について正確に教え、宗教エリートたちの誤りを正し、来るべき日に到来する神の国について教えたのです。もちろん、イエス様の十字架と復活の業は、ユダヤ民族だけでなく全ての民族が神の国に迎え入れられるようにするためになされました。しかし、それはまだ先のことです。エルサレムでの受難の道に入る前のイエス様の伝道はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。
そう言うと、イエス様はローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたりして異邦人も相手にしているじゃないか、と言われるでしょう。しかし、百人隊長と女性の場合は、イエス様が彼らとのやり取りを通じて、異邦人にもこんなに深い信仰があるのだととても驚き感心したことが癒しの実現に結びついています。つまり、二人の場合は例外的なことだったのです。本日の悪霊にとりつかれた男の人は、そういう異邦人がどうのこうのという問題は現れず、ストレートに癒しの対象になりました。それでユダヤ人だったと言えるのです。
悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えて下さいとお願いします。しかし、イエス様は家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の人たちに、旧約聖書に預言されたことがいよいよ実現し始めたことを伝えよと命じたのでした。ところが男の人は家に行くどころか、イエス様を拒否したゲラサの人々に伝え始めたのです。これは、イエス様の伝道は旧約聖書を受け継ぐユダヤ民族を相手にするものとして始まったのであるが、救いはユダヤ民族を超えて全ての民族に及ぶことが伝道の本質部分にあったことを示しています。この伝道の本質について既にイザヤ書49章6節で言われていました。そこで神は主の僕、つまりイエス様に対して次のように言われました。お前はヤコブの諸部族を復興させ各地に散らばったイスラエルの残存者を連れ帰らせる役目を負っているが、それでは不十分である、私はお前を全ての国民の光にして救いが全世界に及ぶようにすると。見かけはユダヤ民族に限った伝道でも、それを行うことで世界大の伝道も進むというのが神の構想なのです。
3.聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし
次に、イエス様が悪霊を追い出した時に用いたのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということを見ていきましょう。男の人が癒されるプロセスをよく見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったのではありません。それはあり得えないことです。なぜなら、悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力がある方だとわかっていて恐れているからです。何を好んで自分から進んで彼のもとに行く必要があるでしょうか?それなのに男の人はイエス様の前に行きました。これはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方を見ると、舟から上陸したイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明白です。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどうやってイエス様の前に行くことができたのでしょうか?
それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されようとも、イエス様に会う意志があれば、それを悪霊は妨げられない、そのような悪霊に逆らう力がイエス様の方から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、あれは今やガリラヤ全土で預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と誰かが叫んだのを聞いたのかもしれません。あるいは、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊が動揺するのを男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していけばいくほど悪霊の動揺はどんどん大きくなり、悪霊の方も男の人がイエス様を目指して行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということではないかと思います。どちらにしても確実に言えることは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊の嫌がることをする意志さえ持てば、邪魔する力は弱まりだし、その意志にしがみついてさえいれば、あとは神の力が勢いを増して、あれよあれよとイエス様のもとに行けるということです。
さて、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は放牧中の豚にして下さいと。どうして豚を選んだかというと、こういうことだと思います。悪霊が人間にとりついても人間がイエス様のもとに行こうとする意志を持てば、最初どんなに小さな意志でも、イエス様に方向付けられたら最後、悪霊がもう何もなしえなくなる位の大きな意志になるのです。悪霊も、もう人間にとりついても無駄だと観念したのでしょう。豚だったらイエス様のもとに行こうとする意志など持たないだろうから楽だ、パニックに陥ることもないということだったのでしょう。そしてどうなったか?案の定、豚は一直線に自己破滅に突き進んでしまいました。
この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のようにどんなに小さくとも破滅から助かろうとする意志があって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔するものが次々になぎ倒されていくような神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば代わりに神の力が働いてくれてイエス様のもとに行けるのです。
しかしながら、私たちの場合は、悪霊追い出しの奇跡をする生身のイエス様が身近におられません。今イエス様は再臨の日まで天の父なるみ神の右におられるからです。しかし、心配には及びません。聖書を繙けばイエス様の教えと業が数多く証言されています。あわせて十字架と復活の業を成し遂げられたことも証言されています。目撃者は目で見た通りに耳で聞いた通りに信じました。私たちの場合は、聖書に記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。そうすることで、イエス様が十字架で果たしてくれた人間の罪の償いがこの私にとっての償いになり、罪を償ってもらったのこの私は神から罪を赦された者として見なされて創造主の神と結びつきを持って生き始めます。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロは、洗礼を受けた者はキリストを衣服のように身に纏っているのだと言います。神は私たちが纏っているキリストをご覧になるので、私たちのことを罪を償われて赦された者と見て下さるのです。悪霊はイエス様の前で動揺しパニック状態になりました。私たちは身に纏っているイエス様を悪霊に示してあげれば、悪霊はあの時と同じようにパニックに陥るのです。
4.勧めと励まし
悪霊が目指すことは、キリスト信仰者が身に纏っているイエス様の衣を手放させて、人間と神との結びつきを断ち切ることです。しかし、神は私たちが衣をしっかり纏えるように、神との結びつきを保てるように聖書の御言葉と聖礼典を私たちに与えて下さいました。聖書の御言葉を通してイエス様が救い主であることはその通りですという心があれば、それは洗礼を通して与えられた聖霊がその心の持ち主に働いている証拠です。悪霊が取りつく島などありません。その上、聖餐を受ければ、パンとぶどう酒を介してイエス様そのものを自分の内に取り込むことになり、受けるごとにイエス様との結びつきは強まります。イエス様の衣がしっかり纏われている状態になります。
主にある兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰者が聖書の御言葉と聖礼典に密接に結びつけばつくほど悪霊が忌み嫌うことをしていることになり、悪霊を無力にすることになるのです。まさにこれが、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
6月の料理クラブは梅雨に入った14日に開催しました。今回はフィンランドのポテト・フラットブレッド「Rieska」と「田舎風サラダMaalaissalaatti」を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、リエスカのマッシュポテトを作ります。茹でたジャガイモをつぶして塩と牛乳を加えます。それから生地作りに入ります。マッシュポテトに材料を順番に加えて混ぜると柔らかい生地が出来ます。生地を鉄板の上にのせて薄く伸ばして沢山の丸いリエスカで一杯にします。
イーストを使わないのですぐオーブンに入れて焼きます。焼き上げている間、台所から美味しいそうな香りが広がってきました。オーブンの中を覗くと早くもきれいな焼き色のリエスカが出来ています。「美味しそう、早く食べてみたい」の声が。
リエスカの次はサラダの番です。皆で一緒にサラダの材料を洗って刻み、ポテトをフライパンで炒めて準備完了。ボールにレタス、ピクルス、ポテト、焼きサーモンを順番に重ねるように入れてきれいな色とりどりのサラダの出来上がりです。さて、どんな味のサラダなのかなあ、とみんな楽しみでした。
テーブルのセッティングをして、出来たばかりのリエスカと田舎風サラダをみんなで一緒に味わいます!リエスカにエッグバターをのせてサラダと一緒に味わうと、「美味しい!」、「リエスカもサラダもぴったり合って美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。皆さんと一緒に美味しく頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時にフィンランドの新じゃがや天の神さまの祝福について聖書のお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間お休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、また秋にお会いしましょう!
今日皆さんが作ったジャガイモのリエスカはフィンランドの伝統的なパンの一つです。私の母もお祖母さんも作っていました。今も家庭でも作れるし、お店でも販売しています。
昔リエスカは、薪で暖めるオーブンで300℃から400℃の高い温度で焼くのが普通でした。私の母も、パンを作る時は、薪で暖めたオーブンで一番初めにリエスカを焼いて、オーブンの温度が下がってから他のパンを焼きました。いつも母がパンを作る時は、子供たちはリエスカが出来上がるのを楽しみにしていました。出来上がった熱いリエスカにバターを塗って美味しく食べたことをよく覚えています。
今日作った「田舎風」のサラダにもジャガイモも入れたので、今日は新ジャカを沢山使ったメニューでした。フィンランド人は殆ど毎日ジャガイモの料理を作るので、ジャガイモはフィンランドの食文化の中でとても重要な役割を果たしています。5月6月になると、フィンランド人は、その夏の新ジャカが待ちどうしくなります。私の実家にもジャガイモの畑があり、ジャガイモを育てました。新ジャガはいつ食べられるかなと、みんな毎日畑を見に行きました。十分大きくなったらジャガイモ掘りです。低木みたいなものを茎から一気に引き抜くと、長い根にジャガイモが沢山付いていました。新じゃがは少し小さいですが、白くてとてもきれいで、茹でてバターをのせただけでも美味しいです。
たった一つの種芋から沢山のジャガイモがとれるのはいつも不思議に感じました。これは天の神さまの御手の業だと思いました。天の神さまはこのように目で見える形で祝福して下さるのだと感じたのです。このような神さまの祝福は私たちの生活の中でも様々な形で表れていると思います。
聖書は神さまの祝福について沢山教えています。有名なのは「五つのパンと二匹の魚」のお話です。それを紹介したいと思います。
ある時イエス様の教えを聞くために大勢の人たちが集まってきました。人々はイエス様の教えに夢中になって、時間が立つのも忘れてしまいました。ところが時間も遅くなり、みんなだんだんお腹がすいてきました。弟子たちは心配してイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、みんな近くの村に行って何か食べ物を買うことができるでしょう。」しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」と言ったのです。弟子たちはお金はみんなのを合わせて五千人の人たちにパンを買うにはとても少なすぎました。弟子たちはイエス様に「この金額では無理です」と言いました。そこでイエス様は、群衆の中にパンを持っている人がいるか調べるように命じました。
弟子たちは五つのパンと二匹の魚を持っている男の子を見つけました。弟子たちはこんな少ないパンと魚で一体何ができるのだろうかと思いましたが、イエス様の言う通りにしました。イエス様は五つのパンと二匹の魚を高く掲げて、神様に感謝してお祈りしました。その後で弟子たちにパンと魚を渡して、群衆に分けるように命じました。すると不思議なことに、五千人の人たちはパンと魚をお腹いっぱいになる位に食べたのです。そして、残ったパンのかけらを集めると、十二の籠が一杯になったのです。
この出来事で神さまの祝福が目で見える形で現れました。祝福とは何でしょうか。その言葉は皆さんもよく聞くと思います。キリスト教では祝福とは神さまの良いみ心が見える形や見えない形で現れることを意味します。神さまの良いみ心が見える形で現れるのは自然の美しさや豊かさがそのものです。私たちの日常の生活の中にもあります。私たちが当たり前のように持っている食べ物、服、住まい、健康にも神さまの良いみ心が現れています。
しかしもし食べ物に困ったり、病気になったりしたら神さまの良いみ心がなくなってしまったことになるのでしょうか。イエス様を信じる人はそのように考えません。信じる人は食べ物に困ったり、病気になったりしたら、神さまは助けて下さると信頼してお祈りしたら歩み続けます。困っている時は神さまの良いみ心が見えない形で働いている時なのだと信じているからです。どうしてそのように信じれるのかは、パウロがローマの信徒への手紙の中でこう言っているからです。
「私たち全ての為に、その御子をささえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」 ローマの信徒への手紙8章32節
弟子たちが五つのパンと二匹の魚を見た時、これには何も意味はないと思ったでしょう。しかしイエス様を信じて言い通りにしたら、意味がないと思ったものの中に神さまの良いみ心が見えない形で働き出したのです。そして気がついたら大きなことが起きたのです。これが神さまの祝福です。
キリスト教系老人ホーム「東中野キングスガーデン」の小礼拝「心の時間」にて行った説教の抜粋(2025年6月11日)
「岩の上に家を建てる人と砂の上に立てる人」
マタイ7章24~27節 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
岩の上に家を建てれば土台がしっかりしているので嵐や洪水がきても大丈夫。しかし、砂の上に建てたら嵐や洪水が来たら倒壊してしまう。岩の上に家を建てる人とはイエス様の教えたことをする人、しっかりした土台がある人。砂の上に建てる人はイエス様の教えたことを聞くだけで行わない人、土台がない人。イエス様の教えたことをすれば、苦しいことや辛いことがあっても倒れないですむ土台を持てる。ならばイエス様が教えたことをしようではないか。
ところが、イエス様の教えたことは難しいことばかり。人を憎んではいけないとか。悪いことをされても、神さま、あの人をやっつけて下さいとお願いしてはいけない、反対に、あの人に善いことをしてあげて下さいとお願いしないといけないとか。明日のことを今日心配してはいけないとか。それと、神さまの国という、目には見えない国を沢山思う心を持たないといけないとか。神さま、あなたの国に私を迎え入れて下さいとお願いしないといけないとか。他にもまだまだ難しいことをたくさん教えました。これらをしないと、砂の上の家みたいになってしまうと。さあ、大変。
でも、神さまは私たちが自分の力で土台を持てないことを存じでした。それで土台を持てるようにとイエス様を贈って下さったのです。イエスさまは完璧な神さまと至らない私たちを結びつけて下さる方です。それで、至らない私たちがイエス様を信じて教会で洗礼の儀式を受けると、神さまと結びつきができます。その時、神さまは、ようこそ、私の国に、と仰って下さいます。私たちの心は神さまの国を沢山思う心になります。そうすると、憎んではいけない、仕返ししてはいけないは、その通りだなあと思うようになります。心配ごとも全部神さまにお伝えして持っていってもらえます。そうしたら今日は明日のことを心配しなくなります。イエス様のおかげでしっかりした土台を持てるようになります。
桃(Peach)
<夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 マルコ4:27>
春に咲いた花々が6月になると一斉に果実に変わります。中でも成長の早い桃の木は辺りを制して一早く実を付けていました、その傍若無人振りには毎度驚かされます。前年の晩秋に伸びた枝を過ぎるくらいに剪定した筈がかえってそれが功を奏したかのように再び枝を広げていました。古来お隣の中国では桃はその生命力の強さから仙果とされてきました。国道20号線を山梨に入り道を間違えて桃畑の中に迷い込みました、曲がりくねった道の両側には袋を被った桃の実がたわわに実っていました。これから夏の陽を存分に浴びて夏の終わりごろになると甘い桃になり私たちを楽しませてくれます。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方とあるように。 アーメン 2025、6月15日(日)
聖書:ヨハネ福音書16章12~15節
題:「御霊の導き」
ヨハネ福音書16章ではイエス様は弟子たちに5節以下のところでこう告げておられます。「今、私は私をお遣わしになった方のもとへ行こうとしている。」この事を告げるとあなた方の心は悲しみで満たされているだろう。しかし、私が去って行くのはあなた方のためになる。私が去って行かなければ弁護者はあなた方のところに来ないからである。弁護者と訳してありますが、真理の御霊とも言えます。わかり易く言えば助け主です。もし、私が行けばそれをあなた方に遣わそう。とこう話されて、イエス様はやがて父なる神の身許に去って行かれる時にイエス様の代わりに助け主として御霊が来てくださる。その御霊の働きについて8節から語られてゆきます。そうして、いよいよ今日の聖書16章12節になります。
12節「言っておきたい事はまだ沢山あるが、いまあなた方には理解できない。しかし、その方、即ち真理の御霊が来るとあなた方を導いて真理を悉く悟らせる。」
―――――――――――――――――――◇――――――――――――――――
此処からはイエス様が弟子たちに心に沿って丁寧に言っておられます。私はいつまでも復活の姿でお前達といるわけにはいかない。間もなく天の父のもとへと帰って行かなければならない。そうすると弟子たちだけでこれから全世界へとこれまでイエス様が教えられた事を広めて行かねばならない。そこで私の代わりに真理の御霊をあなた方のところへ来させよう。まだまだお前たちに言っておきたい事は沢山あるが、今はあなた方には理解できない。私の代わりに来る真理の御霊が助け手となって真理にの事如くを悟らせてくれる。口語訳の方では此処のところを「あらゆる真理に導いてくれるであろう」となっています。「あらゆる真理に導く」とはどう意味であろう、という問題で議論されたのであります。ある人々の考えでは文字通りどんな文化や学問、あらゆる科学やあらゆる人間の領域の分野に渡って真理に導いてくれるのだ。そうすると御霊によって導かれたたクリスチャンはあらゆる分野に渡ってその真理へと導かれ世の中で偉い者になれるはずだ・・となる。いや、そうではない。此処で「あらゆる」と言うのは前後の文脈から見て、ここで御霊が遣わされて来るのは、あくまでイエス・キリストの罪の購いをなして下さった業に基づいて来るところの救いの助けの事を語っているのだから「あらゆる真理」とは言うまでもなく救いに関わる真理へと導いてくれる、キリスト的なあらゆる真理の事である。こちらの方が大方の考えの用であります。
次に16章13節の終わりの言葉で、イエス様は「来るべき事をあなた方に知らせるであろう」と言われました。御霊が知らせてくれる「来るべき事」「これから起こる」というのはどういう事でしょう。いろいろ意見の違いもありますが、ある人々の考えは教会に聖霊が降ってこの御霊が預言者たちを霊感して未来の出来事を預言させる。例えば使徒言行録11章28節にはアンティオキア教会の預言者アガボという者が世界中に大飢饉が起こるだろう、と御霊によって預言したところ果たしてそれがクラウディウス帝の時に起こった、とあります。そのように旧約聖書の預言者のように新約時代の教会にも預言者が御霊によって立てられ、いろいろ預言した、この事を言っているのではないかと考える人々もあった。或いはまた、此処で言われた「来るべき事」と言うのはユダヤの言葉で「来るべき者」と言えばメシヤのことを言っていた。そのように「来るべき事」とは起こり来る全ての事を言うのではなくメシヤの現れる終末の事を指すのである、と考える人々もあった。いや、そうではないと第三は「来るべき事」とは今イエス様が語っていらっしゃる最後の晩餐という時点から考えてこれから起ころうとしている事、即ちご自分の十字架の死と蘇えりと父のもとに昇天される…そういうごく目の前に迫った事を言うのであると考える。この考えが一番良いのではないかと言われています。共同訳で書かれている「これから起こる事を聖霊があなた方に告げるからである。」という言葉と合います。だから、此処で約束されています御霊の導きは結局あのイエス様の十字架の死と蘇えり、という歴史的な出来事の啓示の意味を深く理解させて行く導きのことであります。14節に「御霊は私に栄光を与える。私のものを受けてあなた方に告げるからである。」このようにイエス様が仰るように、あくまでも此処の聖霊の導きはイエス・キリストに栄光あらしめる働きに他なりません。イエス様の身にこれから起こる事、十字架の死と蘇えり、そして父のもとに昇天されるという、この一連の起こり来る全ての事を弟子たちは想像だに出来ないし、とても理解出来ない事であったでしょう。その全てを聖霊だけが目に見えない形で弟子たちの中に導いて行ける、啓示の働きであります。この聖霊によって働く啓示の事をある聖書学者は次のように表現しています。聖霊である御霊の偉大な働きは神の真理を人々にもたらすことである。「神の真理をもたらす」ことを現すのに一つの特別な名前がつけられている、それは「啓示」と呼ばれている。新約聖書の中でこの箇所ほど啓示の原則と呼ばれるものを良く示している箇所は無いのである。それで啓示の特徴としては。
第一に啓示は漸進的な過程であらねばならない。つまり、一つ一つの順序を追って進まねばらない、ということです。イエス様は何時も父なる神と相談し、祈って行かれた、だから父なる神のものはイエス様のもの、多くのことを知っておられたが、それを弟子たちに一度に教えるわけには行かなかった。彼らはそれを一度に把握する事が出来なかったのです。ですから相手が理解できるだけしか教える事は出来ない。どんな啓示もそれを受け入れる人間の能力に合ったものでなければ教えられない。子どもに数学を教えるのにいきなり多項式とか因数分解など教えない、その子どもの能力に合わせ一つ一つ順序を踏んで進むことです。
第二に神の啓示には終わりが無い、と言うことです。神の真理を人々にもたらす啓示には何時の時代でも何処の場所であっても聖霊として働いてゆく終わりの無い働きであります。神の啓示は歴史のある時点で止められたのではない。神の御霊は常に活動している。神は常にご自分を啓示しておられる。明らかに示しておられる神の最高の啓示はイエス・キリストにおいてもたらされたものです。イエス・キリストは聖書の中の一人物ではない、今も生きて働いて下さるお方です。今ひとつの啓示の原則についてです。啓示されるものは神から来る、と言うことです。神は真理の所有者であると共に真理を与える方、真理は人間の発見物ではない。それは神の賜物であります。啓示は書物や信条や印刷された文字を通して私たちに顕されるものではない。
イエス様によって顕された啓示を受けるためには、私たちはイエス様が主であることを受け入れなければならない。私たちはどうしても自分が主であるのではないでしょうか。主キリストへの明け渡しとキリストを知ることが同心歩調で進むこと、そこに神がその啓示を顕すことが出来るのです。
人知ではとうてい測り知ることが出来ない神の平安が、あなた方の心と思いを
キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月7日の日課から)
キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その5)。
『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから。』 (第一ペトロ5章7節、フィンランド語訳聖書にもとづく)
(牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放り出す」です。英語(NIV)、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書もそれで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめな訳ですが、上記4カ国語はギリシャ語の「与格・メレイ・ぺリ・属格」を「神は面倒を見る、世話を焼く、ケアをする」と訳しています。日本語訳では見えてこない、この聖句の力強さがわかると、以下のルターの説き明かしがぐっと心に迫ってきます。)
『事を自分の重荷にとどめてはいけない。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされてしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言ってこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手くいきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せてきます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなたの助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅々まであなたの目を注いで下さい。」
これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねられた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられるかについての心配は神のすることであって、私たちのすることではないのだ。
このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない人たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を握りしめ、神は嘘をつかない方だから御言葉はその通りだと信頼して前に進む。(以上ルターの説き明かし)』