牧師の週報コラム

聖書の翻訳の諸問題と課題

111日の礼拝の後で信徒の方から、礼拝中に朗読されたイザヤ書426節について質問があった。同節では、神が僕(イエス様のこと)のことを「あなたを形づくり、あなたを立てた」 と言っているが、スオミ教会の礼拝で唱えられる二ケア信条(西暦325年成立)で御子は「つくられたのではなく生まれ」と言っているのと矛盾するのではないかという疑問。私は説教を準備する時は原文しか見ないから、日本語でどう言われているか気づくのは大抵は礼拝の朗読の時。その日当番の方の朗読で、あれ、と一瞬思ったが、その後の礼拝の流れに集中しなければならず通り過ぎてしまった。

ヘブライ語の文章では「形づくる」はない。「守る」という動詞ならある。6節を忠実に訳すと次のようになる。「私、主(ヤハヴェ)は、あなたを恵みによって召し出し、あなたの手を取ってあなたを守り、あなたを私と民の契約として、また諸国民の光として立てた。」

どうして「形づくる」などと訳したのか。新共同訳はカトリックとプロテスタント諸派が一緒に作った訳。諸派の中には使徒信条や二ケア信条のような古代の信条を顧みない派があって、その関係者が訳したのか?それとも、この預言はイエス・キリストと無関係であることを強調したいためにわざとこうしたのか?それなら、どうして辞書にない意味を持ちだしてきたのか?私が用いるのとは異なる辞書にその意味があったのか?(因みに私が用いているのは、HolladayA Concise Hebrew and Aramaic Lexikon of the Old Testament。大学の神学部時代は手に負えない時は学部図書館にあったBaumgartenの大型のものを用いたことがあるが、個人ではとても所有できない。)

実は11日の福音書の個所にも問題があって、洗礼授けを躊躇するヨハネに対してイエス様が「正しいことを全て行うのは我々に相応しい」と言う下りがある(マタイ415節)。「正しいことを行うのは相応しい」とは少し寝ぼけた訳ではないか?「正しいこと」はここは「義なること」ではないか?英語(NIV)もルター・ドイツ語もスウェーデン語もフィンランド語も皆そう訳している(「義なること」が何を意味するかはその日の説教を参照のこと)。先日の聖書研究でわかったことだが、創世記1816節はヘブライ語で、アブラハムの子孫が「義と正義を行うように」と言っているのに、新共同訳は「義」を削除してしまった!ルター派の翻訳委員は一体何をしていたのか?

今日の山上の説教の「心の貧しい人」(マタイ53節)も正確には「霊的に貧しい人」である。上記4カ国語もそう訳している。「心が貧しい」は、「あの人は心が貧しい」と批判したり、「私は心が貧しい」と反省したりして、人間関係で現れる至らなさ惨めさを意味する。「霊的に貧しい」は、神との関係で明らかになる至らなさ惨めさだ(ドイツ語のEinheitsübersetzungはまさにそう訳している)。

日本語は美しい言語であり、そこで育まれる感性には美しいものが沢山ある。だからと言って聖書の精神をその中に埋没消散させていいわけはない。それは、日本語とその感性に一層磨きをかけることが出来るものであると信じている。

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

2月の料理クラブは7日(土)13時から開催します。

本年最初の料理クラブは「ルーネベリ・ロールケーキ」を作ります。2月5日はフィンランドの国民的詩人ルーネベリの記念日です。その日フィンランドではルーネベリ・タルトでお祝いします。

アーモンド、シナモン、ラズベリーの味が引き立つルーネベリ・タルトは、長い冬を過ごすフィンランド人にとって楽しみな味の一つです。料理クラブでは、ロールケーキの形にしてクリームもクリームチーズを用いて上品な味わいに引き立てます。

「ルーネベリ・ロールケーキ」を一緒に作ってみませんか?

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1769980535iamg@1769980535arumi1769980535hsoy.1769980535iviap1769980535 まで。

手芸クラブの報告2026年1月

今年最初の手芸クラブは1月28日に開催しました。外は冬の寒さでしたが、教会の中は温かいので寒さを忘れて心地よく手芸が出来ました。

今回は寒い季節の足元や手首を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」と手首ウォーマーを編みます。参加者の皆さんは自分の好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めに自分の作りたい編み物を決めて編み地サンプルを作ります。それから編み目を編んでいきます。今回はスタートということで、次回に続きをします。一人の方は以前かぎ針編みで編んだスマホケースの続きをしました。可愛い色のスマホケースがもう少しで完成というところまできました。

今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。

いつものように時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのコーヒーブレッドPullaを味わいながら歓談の時を持ちました。そこで聖書のお話を聞きました。今回は今年最初の手芸クラブなので、私たちが年の初めに立てる新年の誓い(フィンランドでは「新年の約束」と言います)と、私たちといつも共にあるという天の神さまの約束についてのお話でした。今回も楽しい歓談のひと時でした。

次回の手芸クラブは2月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブの話1月28日

年が明けたのはついこの間だと思ったのに、もう一月の終わりになりました。今日は今年初めての手芸クラブなので、一年の目標についてお話したく思います。新年になると、多くの人は「新しい年はもっと良い生き方をしよう」と考えてさまざまな目標を立てます。フィンランドでは新年の目標を「新年約束」と言います。フィンランド人が立てる「約束」は、普通は自分自身に関するものです。例えばこれからもっと健康的に食べる、体力を向上させる、家族や友達の関係をもっとよくする、新しい趣味を始めるなどです。これらの「約束」はとても良いものですが、少し高すぎてプレッシャーを感じる人もいるかもしれません。初めは皆一生懸命ですが、しばらくして諦めてしまう人が多いです。それで「約束」は簡単に忘れられてしまいます。多くの人はもう2月の中旬には全て忘れてしまい、生活はまた以前と同じに戻ってしまうと言われています。

このように私たちが自分と交わす約束は長続きしないことが多いです。それに気付くととてもがっかりします。私たちは約束を守るのが得意ではありません。しかし、この世には長く守り続ける方がいらっしゃいます。それはどなたでしょうか。天と地と人間を造られた天の神さまです。神さまは私たち人間に様々な約束をされました。それらは聖書の中に書かれています。

今日は神さまの約束の中から一つを紹介したく思います。それは新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれているみ言葉です。これは復活したイエス様が信じる者たちに語られた約束です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
マタイ28章20節

ここでイエス様は、今年も毎日、私たち一人一人と共にいてくださると約束しておられます。私たちはイエス様と密接につながって生きることが出来れば、安心感を得られます。これは私たちにとって大きな励ましであり、大きな希望でもあります。しかし私たちはこの約束を素直に信じられるでしょうか。疑ってしまう時もあると思います。毎日が順調で、幸せな時、全てがうまくいっている時には、イエス様の約束を信じることが出来るでしょう。しかし、病気になったり、仕事を失ったり、自然災害などが起こったときには、「イエス様は本当に共にいらっしゃるのだろうか、私のことなど、忘れてしまったのではないだろうか」と不安になります。

そんな時、私はある有名な詩を思い出します。それは、人の人生の歩みを砂浜の上に続く足跡にたとえた話です。イエス様がその人と一緒に歩いていた時、砂の上には二人分の足跡が残っていました。しかし、その人の人生が終わに近づいたとき、浜辺を振り返ってみると、あるところで

は足跡は一人分しかありませんでした。その人は、足跡が一人分しかない時、イエス様は一体どこに行ってしまったのだろうか、と考え込みました。しかも、その時は、その人の人生で最も辛い時期だったことを思い出しました。不安になったその人はイエス様に尋ねました。「イエス様、あの時、私はとても苦しい状態にあったのに、どうして一緒に歩いて下さらなかったのですか?あの頃、一体どこに行ってしまわれたのですか?」イエス様がお答えになりました。「あの時、あなたが大変な時期だったことはよく知っている。しかし、私はあなたのそばから離れたことはなかった。あの時、私はあなたを背負って歩いていたのだ。だから足跡は一人分しか残らなかったのだ。」

この話のように、私たちの人生に困難があるときにも、イエス様は私たちを離れないで、いつも共にいて下さいます。そのことは、どのようにして知ることが出来るでしょうか?それは、私たちが困難な状態にあっても、イエス様は毎日生きる力を与えてくださって、心の中に平安を与えてくださることからわかります。今年もイエス様が毎日私たちと共に歩んでくださることは、私たちの生きる土台になります。その土台を持っていれば、私たちは安心して前に進むことが出来ます。このことを忘れないで本年も歩んでいきましょう。

最後に旧約聖書のエレミヤ書のみ言葉です。

「私は、あなたたちのために立たてた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、
災いの計画ではない。
将来と希望を与えるものである。」

エレミヤ書29章11節です。

歳時記

紙飛行機

<あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。 詩編1035

朝のスポーツ公園を散策していると二人の男の人が空に向けて何やら飛ばしています。その一つが目の前に落ちて来たので拾ってみるとそれは紙飛行機でした。割り箸を胴体にして紙の翼を付けゴムのカタパルトで飛ばす素朴な飛行機です。面白そうなので暫く見ていたら、その一人がやって来て色々詳しく説明してくれ更に小さな紙飛行機とゴム紐をくれました。教えられた通りに右手に飛行機を持ち左手でゴムを引っ張り引き離すと飛行機は勢いよく空に向かって飛んで行きました。頂点に達すると風に乗ってゆっくりと輪を描きながら下りてきます。この広場は飛行機遊びの格好の場所でした。子供の頃、竹ひごと紙で作ったグライダーやゴム動力の飛行機を思い出しながら懐かしく遊んでいました。暫くは朝の散歩にはこの紙飛行機とゴム紐を胸のポケットに忍ばせて行く事になりそうです。

2026年2月1日(日)10時半 顕現後第四主日 礼拝

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2026年2月1日 顕現節第4主日

ミカ章6

8節

第一コリント1章18

31節

マタイ5章1

12節

説教題 「キリスト信仰者の『幸い』ストーリー」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所はイエス様の有名な「山上の説教」の初めの部分です。「山上の説教」はガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(7章29節)。そのように聞く人に強いインパクトを与える教えでした。2000年後の私たちが読んでもインパクトがあります。例えば、「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな

というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるなしにかかわらず、人の心を慰めます。そうかと思えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも心の中で兄弟を罵ったら同罪であると教え、第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくともふしだらな目で異性を見たら同罪であると教えます。そこまで言われたら神の前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と呆れかえられてしまうでしょう。

 このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、慰めに満ちた心温まる教えもあり、そうかと言えば、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしても聞いた人たちは何か不動の真理が述べられていると気づいて、権威ある教えに感じたのです。

 本日の箇所でイエス様は「幸いな人」について教えます。「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意しましょう。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」とは違う「幸せ」が意味されています。どんな「幸せ」でしょうか?一般に、好きなことが出来きたり、欲しいものが持てることが幸せなことと考えらます。不足がない満足な状態です。

「幸い」は次元が違います。誤解を恐れずに言えば、欲しいものが持てない好きなことが出来ない時にもある幸せです。この世離れした「幸せ」です。聖書の観点で言うと、創造主の神が「これが人間にとって幸せだ

と言っていることが「幸い」です。人間の目から見た「幸せ」に対する神の目から見た幸せです。両者は重なる部分もありますが、基準はあくまで神の視点です。

さて、現代のような、あらゆることが人間中心で進む時代に、最近ではAIも存在感を増してきていますが、そんな時世に「創造主の神」などを持ち出してその基準に人間を従わせるようなことは流行らないと言われるでしょう。良いこと悪いこと正しいこと間違っていることの判定にもう神など持ち出す必要はない、人間にやりたいようにやらせて何か不都合なことが起きたら軌道修正すればいい、AIもちゃんと教えてくれる、皆さんそういう考え方になってきているのではないでしょうか?そうなれば、「幸い」などというものは神の余計なおせっかいで、「幸せ」の追求の邪魔にさえなります。それは逆に言うと、キリスト信仰は時代の流れに逆らう反逆児のストーリーを描き出しているということになるのではないでしょうか?要は、人間は神の前に跪いて祈るのが人間らしいのか、それとも、跪くものなど何もないというのが人間らしいのか、どちらが人間らしいかという問題に行きつくと思います。

2.「幸い」のケース・スタディー

イエス様はどんな人が神の目から見た幸せな人、「幸いな

人であると教えているでしょうか?九つのケースがあります。一つ一つ見ていきましょう。

まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。よく指摘されることですが、「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳ドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています。「心が貧しい」とは、日本語の辞書によると「人格や器量が乏しいさま

とか「考えが狭かったり偏っていたりすること

という意味です。「あの人は心が貧しい」と批判したり「私は心が貧しい」と反省したりするので、人間関係の中で現れてくる人の至らなさです。

これに対して「霊的に貧しい」とは、創造主の神を前にして自分には至らないところがあると自覚していることです。十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らしてみると自分は神のみ前では至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。自分はもちろん殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言うと、イエス様は「山上の説教」で、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えている!神聖な神は人間の外面的な行いのみならず心の奥底まで潔癖かどうか見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた造り主である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、至らない自分に気づきがっかりする。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。なぜか?

その理由は、「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議なことです。「天の国」、つまり「神の国」のことですが、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと意気消沈する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われる。これは一体どういうことか?これは後で明らかになります。

 次に「悲しむ者

が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。前の節で言っていた、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。それと、神との関係以外で、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。それではなぜ「悲しむ者」が幸いなのか?その理由は、「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになるということです。どういうことか、これも後で明らかになります。

次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えば、マリアの品性が当てはまります。マリアは神を信頼し、神が計画したことは自分の身に起こってもいいという物分かりの良い態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになっても、神は良い方向に導いて下さるから心配ないという単純さ、神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純さ、静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入ってきます。。

そんな柔和な人たちが幸いである理由は、「なぜなら地を受け継ぐことになるからだ。

少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味しました。キリスト信仰の観点では、「約束の地」は将来復活の日に現れる「神の国」になります。それで、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」に迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということも後で明らかになるでしょう。

 次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神の前に立たされても大丈夫、問題ないと見てもらえる状態です。先ほど見た、霊的に貧しい人は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それで義に飢え渇くことになります。そのように飢え乾く者が幸いなのです。その理由は、「なぜなら彼らは満たされることになるからだ」。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して求める者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。反対に義の欠如の自覚がなく飢えも渇きもない人は満たしてもらえないのです。それでは、神はどのように義の欠如を満たして下さるのか、これも後で明らかになります。

7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言われます。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに受け入れてもらえるということです。罪を持つのに赦してもらえるということです。どうしたら私たちも赦したり受け入れたりすることが出来て神から憐れみを受けられるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。

8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。3節ではギリシャ語の「霊」プネウマが「心」と訳されていてそれは間違い、「霊」が正しい、と申しましたが、ここの「心」はギリシャ語のカルディアで「心」であっています。二つの異なる言葉が同じ日本語にされてしまうと、正しい理解ができなくなってしまいます。「心の清い」とは罪の汚れがないということです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。私たちはどうしたらそんな清い心を持てて、神の前で大丈夫でいられるようになるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。

9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する人」と聞くと、ノーベル平和賞を受賞するような人を思い浮かべるかもしれませんが、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、どうしてそのような人が「神の子」と呼ばれるのでしょうか?それも後で明らかになります。

10~11節ではイエス様を救い主と信じる信仰や義のゆえに人から悪く言われ、ひどい場合は迫害されてしまうことがあっても、それは幸いなことだと言います。その理由は、神の国に迎え入れられることになるからです。以上からわかるように、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているのです。神に慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということなのです。それでは、神の国に迎え入れらるとはどういうことか?どうしたら迎え入れられるのか?それを次に見てみましょう。

3.神の国に迎え入れられる道を進む幸い

「山上の説教」を当時はじめて聞いた人たちは面食らったことと思います。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味したからです。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫と見なされる人を意味しました。

人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

イエス様の教えを聞いた人たちは旧約聖書の伝統に立っていたので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを得られる人とか、そういう人を連想しました。詩篇の第1篇と32篇は、「幸いなるかな、~する人は

という聖句があります。イエス様も同じ口調で「幸いなるかな、~する人は」と語りました。それなのにイエス様は、律法のことも罪の赦しも何も言いません。神の前に立たされたら本当は大丈夫ではないのだ、大丈夫になるのは今までのやり方ではダメなのだということを明らかにする教えだったのです。イエス様の意図は以下のものでした。

イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。創造主の神は人間の心の中までご存じである。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると思っているが、父なる神は預言者たちの口を通して言っていたではないか。毎年繰り返される生け贄の捧げは形だけの儀式になってしまい、心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが神の国への迎え入れを確実にすることであり、だから幸いなのだ。

それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、律法を心に留められるようにして人間を神の国に迎え入れられる「幸いな者」にしたのでしょうか?

 それは、天地創造の神が立てた人間救済計画を実行することで行われました。創世記3章に記されているように、人間は神に対して不従順になり、神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまいました。人間と神との結びつきは失われて、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを解決するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで神罰を受けさせて死なせました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子に人間の罪の償いをさせたわけです。ひとり子の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。本日の旧約の日課ミカ書で、動物の生贄を捧げることはもはや意味がないと自問しているところがありました。動物の生贄に意味がなければ、人間が自分の子供を生贄にしなければならないのだろうかとさえ言います。神は、そうする必要はないと言わんばかりに、自分のひとり子を生贄に捧げたのでした。

この犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。罪には人間を神から引き離す力がありましたが、それが完全に削がれました。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人にその通りになります。その人は復活の体と永遠の命が待つ「神の国

に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。洗礼を受けイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、使徒パウロが言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せらるのです(がラティア3章26~27節)。信仰者は、この衣を纏いながら神の国に至る道を進んでいくのです。自分は至らない者なのに、神はひとり子を犠牲にするくらいに私のことを思って下さった。このことが分かった人は、神に対して畏れ多い気持ちと感謝の気持ちの両方を持つようになり、神がそうしなさいと言われることはするのが当然という心になります。

4.勧めと励まし

神への畏れ多い気持ちと感謝の気持ちから神の意思を心に留めるようになると今度は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかと注意深くなります。外面的には罪を行為にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づきます。まさに霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。神の国に至る道を進むキリスト信仰者はいつも、このように慰めを受け義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対して強い信頼を抱き柔和になります。

一方的な平和路線でいいという態度について、パウロがローマ12章で言っています。キリスト信仰者たる者は完全な正義はどんなに遅くとも最後の審判で実現するということに全てを賭けている、だから自分では復讐はしないのだ、と。信仰のことを悪く言われても迫害されても、それは「神の国」に至る道を歩んでいることの証しに他ならないのです。

やがて歩んできた道も終わり、神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚している。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まった。不十分なところもありました、しかし、信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。自分がより頼んで来たイエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が働いても、しっかり握り掴んで手放さなかった。その証拠に私は今、お前が同じ衣を着て立っているのを目にしている。

兄弟姉妹の皆さん、これがキリスト信仰者の「幸い」のストーリーです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

The name of Christian in Japanese

洗礼を受けてイエス・キリストを救い主を信じる人のことを何と呼ぶか?英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語などでは統一した言葉がある。日本ではいろいろな言い方があるようだ。あなたはどう呼びますか?

クリスチャン 子供の頃、キリスト教の人が自分をそう呼んでいるのを聞いて、アグネスチャンみたいで可愛いなと思った。中学生になって英語由来とわかったが、なぜ何でもかんでも英語っぽくしないといけないのかなどと思ったりもした。しかし、考えてみれば、室町末期~江戸時代初期の「キリシタン」もポルトガル語由来だったので、やはり、どうしても伝えた国の言葉に左右されてしまうということか。

キリスト教徒 自分をこう言う人はあまり多くはない感じがする。世界史の教科書などでキリスト教徒とイスラム教徒が対立したなどとあるので「文明の衝突」を想起させ、あまり穏やかな感じがしないのかもしれない。

キリスト者 最初の呼び名と同じ位に多く使われているのではと思う。ひょっとしたら宗教色を出さない場合にも使える名称ではないか?と言うのは、教派や教会によってはイエス・キリストの復活や処女受胎などはなかったと教えたり、またはそこまではっきり言わなくても、それらをただの言葉の綾のように唱えるところもあり、そういうところの人が自分をこう呼んでいるのを聞いたことがある。宗教色がなければ何か?哲学?イデオロギー?

では、スオミ教会の牧師はどう呼ぶか?フィンランドではkristitty(「キリスト教化した」という意味)が一般的だが、これは洗礼を受けた人みんなを意味する。ただし、洗礼を受けても礼拝に行かない聖書を繙かない人が大半というのが現実(ただし近年若者に回帰の傾向が見られる)。それで、それと区別するために「信じている人、信仰者uskovainen」という言い方もする。私は両者をくっつけて「キリスト信仰者」と言っている。日本語として少し味気ないかもしれないが、「クリスチャン」や「キリスト者」より立場表明がはっきりして正直な呼び方だと思う(時々、説教などで思い切って「キリスト教徒」と言うこともある)。

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歳時記

冬の畑

<27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 マルコ4:27,28>

此のところの暖かさに誘われて小山田緑地を歩いています。何時ものベンチで帽子をとりコートを脱いでくつろぎながら目の前の畑を眺めています。「・・・三畝のはたけに草は生えても大根はいびきをかいて育ち、葱白菜に日はけむり、権現南蛮の実が赤い。・・・」高村幸太郎の世界が広がっていました。その向こうには鎌倉武士たちが弓の稽古をしたという広場があります、また此の辺りには馬の牧場もあったそうです。日当たりの良い丘と水の湧き出る谷地は人も馬にも住み心地のよい所だったのでしょうか。近くには鎌倉街道も縦横に巡らせています、思うにこの地は多くの鎌倉武士を輩出した隠れ里かも・・などと思い浮かべながらひと時を過ごしていました。

牧師の週報コラム

古い歌を新しい歌に

ギター教室に通っている息子が新しい課題曲に「花は咲く」を練習したいと先生に申し出た。いつも息子の希望を聞いてくれる先生はもちろんOKだったが、私は少し困ってしまった。 というのは、メロディーはとても美しい歌だが、内容はキリスト信仰者としてどうかなというところがあるからだ。東日本大震災の後で歌が公表された時、歌詞の主人公は生きている人か死んでいる人かどっちかというちょっとした議論が起きたと聞いたことがある。もし後者なら、キリスト信仰とは相いれない。死者とコミュニケーションは取らないというのが聖書の立場なので、死者が何を考えているか思いを馳せたりはしない(レビ記1931節、申命記1811節、サムエル上28章、列王上216節、イザヤ819節を参照のこと)。キリスト信仰者は、あの方と共に歩めた日々を父なる神に感謝し、今は神のみぞ知る場所にて安らかに眠るその方と「復活の日」に再会できるという希望を神に祈り願いながら、その希望を胸に抱いて今を生きるというスタンスなのだ。創造主の神を介して過去の思い出と将来の復活の希望が現在を満たすのだ。

歌詞の中には「いつか生まれる君に」とあって、まるで主人公がこの世とは別の世界でこれから生まれる人間を見ているようなところがある。童話の「青い鳥」の中に確かチルチルとミチルがこれから生まれる子供たちが舟に乗ってこの世に旅立つ場面に出くわすところがあった。イエス・キリストの少し前の時代のユダヤ啓示思想文書の一つ「エノク書」にもエノクがそういう場面を天使に示される下りがあった。「青い鳥」の作者メーテルリンクは「エノク書」を読んだのだろうか。しかし、それらはいずれも、生きた者が天使に別の世界を見せてもらうというもので、死んだものが見る筋合いではないのだ。

さて、「花は咲く」はどうしたらよいか?特別支援の息子のやる気を失わせないためにも希望を叶えてあげたいが、キリスト信仰と異なる霊性とは距離を置いてほしい。そこで、考えたのは歌詞を少し替えてみることだ。次のようにしてみた。

   「いつか生まれる君に」 ⇒ 「いつか生まれる人に」

   「わたしは何を残しただろう」 ⇒ 「わたしは何をすべきだろう」

どうだろう、これで歌詞は生きている人の呟きになることがはっきりするのではないだろうか?ギターの先生にも歌詞の変更を理由を添えてお願いしたら了承してもらえた。自分がキリスト信仰者であることも公けにでき、まさに一石二鳥であった。

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