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日本人を日本人たらしめる視点
かつてジャパンアズナンバーワンと言われた日本も、今では平均賃金、一人当たりの国民総所得ともに欧米諸国は言うに及ばず韓国にも追い抜かれてしまった(円安をやめれば計算上はまだ救いはあるかもしれない)。フィンランドでもかつては自分が日本人と言えば、一目置かれる雰囲気があった。国の存在感の威光が薄れた今こそ、個人の存在感で自分は中国人でも韓国人でもベトナム人でもない日本人であることを示せるかが試される時代になったのだと思う。
日本が羽振りが良かった80年代、フィンランドにいた時に何が自分を日本人たらしめるかを考え、それは他の国の人間が持てない視点を持てることで、しかもそれが他の国の人間の視点にインパクトを与えるような視点であること、そんな視点を持てれば国の威光に頼らない存在感のある一端の日本人になれるのではないかなどと考えた。それで、子供の頃から気になっていた二つの特殊日本的な極限状況に自分を置いてみて、自分だったら何を思いどう立ち振る舞うかを考えることで、そのような視点が得られるのではないかと考えた。二つの特殊日本的な極限状況とは、一つは特攻隊、もう一つは踏絵である。
特攻隊は、子供の頃は凄いとか可哀想という二つの複雑な思いの混合。高校大学の時に読んだ「きけわだつみの声」や阿川弘之の「雲の墓標」で、彼らの苦悩と葛藤がとても他人事に思えなくなった。自分だったらどうするのだろう、とにかく自分なりに考えに考えて、結局は「志願」させられて出撃するしかないのだろう。では、どう自分を納得させられるだろうか?家族の住む町が爆撃されないため、国が占領されて占領者の言いなりにならないために必要なのだと言い聞かせるしかないだろう。
踏絵は、小学校か中学の時にキリシタン迫害のドラマの演劇を観て身近に感じたことがきっかけ。まだキリスト教徒ではなかったが子供ながらにキリシタンの人たちの苦悩と葛藤が他人事に思えなかったことを覚えている。もし自分がキリシタンだったら踏むのだろうか、踏まないだろうか。キリスト教徒になった今は文字通り自分事になってしまった。全くしょうもないものを幕府は作りおって。もし踏むという選択ならば、その納得の仕方として遠藤周作の「沈黙」は果たして妥当か、ずいぶん悩んだ。帚木蓬生の「守教」でそれを超えられる視点が得られたのではないかと思う。
二つの特殊日本的な極限状況は追体験の機会を与えるだけではない。人をそのような極限状況に追いやってはならないこと、そしてそのような仕組みを作り出す精神構造から脱却されねばならないことを日本の政治と社会が課題として持っていることを教えるものでもあると思う。それを忘れないためにも追体験による思考訓練は意味があると思う。
本年最初の料理クラブは「ルーネベリ・ロールケーキ」を作ります。2月5日はフィンランドの国民的詩人ルーネベリの記念日です。その日フィンランドではルーネベリ・タルトでお祝いします。
アーモンド、シナモン、ラズベリーの味が引き立つルーネベリ・タルトは、長い冬を過ごすフィンランド人にとって楽しみな味の一つです。料理クラブでは、ロールケーキの形にしてクリームもクリームチーズを用いて上品な味わいに引き立てます。
「ルーネベリ・ロールケーキ」を一緒に作ってみませんか?
参加費は一人1,800円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1770376246iamg@1770376246arumi1770376246hsoy.1770376246iviap1770376246 まで。
灯台下暗し
<1わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。2わが助けは、天と地を造られた主から来る。 詩編121:1・2>
”北に遠ざかって雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ” 平家物語 巻十、海道下りの一節です、海道下りの舞台は静岡県手越宿ですから確かに北の方角ですが私の場合は町田ですから西の方角ですね。まさに、これと同じ景色が何時もの散歩道、尾根緑道から眺望出来ようとは夢にも思っていませんでした。尾根緑道は私が良く利用する散歩道で町田街道沿いに八王子まで続く尾根道です。途中の休憩場で西の方角を見ると右手の奥多摩と左手の丹沢の山並みが途切れて狭間となっている所があります。その狭間の奥を遠望すると雪を被った白い山々が見えていました。もしや、と思い夢中でシャッターを切りました。帰宅してpcで見ると確かに南アルプスです、地図を頼りに山座同定を試みてみましたら農鳥岳と塩見岳と判断してフェイスブックに投稿しました、早速反応がありこれは間ノ岳(中央)と農鳥岳(左)であると教えられました。南アルプスの北岳、間ノ岳、農鳥岳は白根三山と呼ばれていて日本アルプスの南側のアルプス山脈です、三山とも3000m以上の標高を持ち特に間ノ岳から右の北岳にかけては標高3000mクラスの稜線が続き此の高さの稜線は日本には此処にしかありません。遠い昔の若かった頃にこの三山を縦走しました。北岳から隣の間ノ岳までの稜線は右側には駒草が咲き乱れ左前方には富士山が何時までも離れずに見えていました。町田の一角から100kほど離れた南アルプスの眺望を楽しめるとは40年以上住んでいたのに気付きませんでした、これこそ灯台下暗しの譬えですね。
全知全能の父なるみ神よ。
あなたは、ひとり子イエス様の十字架の死と死からの復活によって、私たちの心の目と耳を開いて下さいました。どうか私たちが開かれた目と耳をもって聖書の御言葉が伝える真(まこと)の希望を見出すことができるようにして下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン
聖書の翻訳の諸問題と課題
1月11日の礼拝の後で信徒の方から、礼拝中に朗読されたイザヤ書42章6節について質問があった。同節では、神が僕(イエス様のこと)のことを「あなたを形づくり、あなたを立てた」 と言っているが、スオミ教会の礼拝で唱えられる二ケア信条(西暦325年成立)で御子は「つくられたのではなく生まれ」と言っているのと矛盾するのではないかという疑問。私は説教を準備する時は原文しか見ないから、日本語でどう言われているか気づくのは大抵は礼拝の朗読の時。その日当番の方の朗読で、あれ、と一瞬思ったが、その後の礼拝の流れに集中しなければならず通り過ぎてしまった。
ヘブライ語の文章では「形づくる」はない。「守る」という動詞ならある。6節を忠実に訳すと次のようになる。「私、主(ヤハヴェ)は、あなたを恵みによって召し出し、あなたの手を取ってあなたを守り、あなたを私と民の契約として、また諸国民の光として立てた。」
どうして「形づくる」などと訳したのか。新共同訳はカトリックとプロテスタント諸派が一緒に作った訳。諸派の中には使徒信条や二ケア信条のような古代の信条を顧みない派があって、その関係者が訳したのか?それとも、この預言はイエス・キリストと無関係であることを強調したいためにわざとこうしたのか?それなら、どうして辞書にない意味を持ちだしてきたのか?私が用いるのとは異なる辞書にその意味があったのか?(因みに私が用いているのは、HolladayのA Concise Hebrew and Aramaic Lexikon of the Old Testament。大学の神学部時代は手に負えない時は学部図書館にあったBaumgartenの大型のものを用いたことがあるが、個人ではとても所有できない。)
実は11日の福音書の個所にも問題があって、洗礼授けを躊躇するヨハネに対してイエス様が「正しいことを全て行うのは我々に相応しい」と言う下りがある(マタイ4章15節)。「正しいことを行うのは相応しい」とは少し寝ぼけた訳ではないか?「正しいこと」はここは「義なること」ではないか?英語(NIV)もルター・ドイツ語もスウェーデン語もフィンランド語も皆そう訳している(「義なること」が何を意味するかはその日の説教を参照のこと)。先日の聖書研究でわかったことだが、創世記18章16節はヘブライ語で、アブラハムの子孫が「義と正義を行うように」と言っているのに、新共同訳は「義」を削除してしまった!ルター派の翻訳委員は一体何をしていたのか?
今日の山上の説教の「心の貧しい人」(マタイ5章3節)も正確には「霊的に貧しい人」である。上記4カ国語もそう訳している。「心が貧しい」は、「あの人は心が貧しい」と批判したり、「私は心が貧しい」と反省したりして、人間関係で現れる至らなさ惨めさを意味する。「霊的に貧しい」は、神との関係で明らかになる至らなさ惨めさだ(ドイツ語のEinheitsübersetzungはまさにそう訳している)。
日本語は美しい言語であり、そこで育まれる感性には美しいものが沢山ある。だからと言って聖書の精神をその中に埋没消散させていいわけはない。それは、日本語とその感性に一層磨きをかけることが出来るものであると信じている。
今年最初の手芸クラブは1月28日に開催しました。外は冬の寒さでしたが、教会の中は温かいので寒さを忘れて心地よく手芸が出来ました。
今回は寒い季節の足元や手首を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」と手首ウォーマーを編みます。参加者の皆さんは自分の好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めに自分の作りたい編み物を決めて編み地サンプルを作ります。それから編み目を編んでいきます。今回はスタートということで、次回に続きをします。一人の方は以前かぎ針編みで編んだスマホケースの続きをしました。可愛い色のスマホケースがもう少しで完成というところまできました。
今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。
いつものように時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのコーヒーブレッドPullaを味わいながら歓談の時を持ちました。そこで聖書のお話を聞きました。今回は今年最初の手芸クラブなので、私たちが年の初めに立てる新年の誓い(フィンランドでは「新年の約束」と言います)と、私たちといつも共にあるという天の神さまの約束についてのお話でした。今回も楽しい歓談のひと時でした。
次回の手芸クラブは2月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
年が明けたのはついこの間だと思ったのに、もう一月の終わりになりました。今日は今年初めての手芸クラブなので、一年の目標についてお話したく思います。新年になると、多くの人は「新しい年はもっと良い生き方をしよう」と考えてさまざまな目標を立てます。フィンランドでは新年の目標を「新年約束」と言います。フィンランド人が立てる「約束」は、普通は自分自身に関するものです。例えばこれからもっと健康的に食べる、体力を向上させる、家族や友達の関係をもっとよくする、新しい趣味を始めるなどです。これらの「約束」はとても良いものですが、少し高すぎてプレッシャーを感じる人もいるかもしれません。初めは皆一生懸命ですが、しばらくして諦めてしまう人が多いです。それで「約束」は簡単に忘れられてしまいます。多くの人はもう2月の中旬には全て忘れてしまい、生活はまた以前と同じに戻ってしまうと言われています。
このように私たちが自分と交わす約束は長続きしないことが多いです。それに気付くととてもがっかりします。私たちは約束を守るのが得意ではありません。しかし、この世には長く守り続ける方がいらっしゃいます。それはどなたでしょうか。天と地と人間を造られた天の神さまです。神さまは私たち人間に様々な約束をされました。それらは聖書の中に書かれています。
今日は神さまの約束の中から一つを紹介したく思います。それは新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれているみ言葉です。これは復活したイエス様が信じる者たちに語られた約束です。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 マタイ28章20節
ここでイエス様は、今年も毎日、私たち一人一人と共にいてくださると約束しておられます。私たちはイエス様と密接につながって生きることが出来れば、安心感を得られます。これは私たちにとって大きな励ましであり、大きな希望でもあります。しかし私たちはこの約束を素直に信じられるでしょうか。疑ってしまう時もあると思います。毎日が順調で、幸せな時、全てがうまくいっている時には、イエス様の約束を信じることが出来るでしょう。しかし、病気になったり、仕事を失ったり、自然災害などが起こったときには、「イエス様は本当に共にいらっしゃるのだろうか、私のことなど、忘れてしまったのではないだろうか」と不安になります。
そんな時、私はある有名な詩を思い出します。それは、人の人生の歩みを砂浜の上に続く足跡にたとえた話です。イエス様がその人と一緒に歩いていた時、砂の上には二人分の足跡が残っていました。しかし、その人の人生が終わに近づいたとき、浜辺を振り返ってみると、あるところで
は足跡は一人分しかありませんでした。その人は、足跡が一人分しかない時、イエス様は一体どこに行ってしまったのだろうか、と考え込みました。しかも、その時は、その人の人生で最も辛い時期だったことを思い出しました。不安になったその人はイエス様に尋ねました。「イエス様、あの時、私はとても苦しい状態にあったのに、どうして一緒に歩いて下さらなかったのですか?あの頃、一体どこに行ってしまわれたのですか?」イエス様がお答えになりました。「あの時、あなたが大変な時期だったことはよく知っている。しかし、私はあなたのそばから離れたことはなかった。あの時、私はあなたを背負って歩いていたのだ。だから足跡は一人分しか残らなかったのだ。」
この話のように、私たちの人生に困難があるときにも、イエス様は私たちを離れないで、いつも共にいて下さいます。そのことは、どのようにして知ることが出来るでしょうか?それは、私たちが困難な状態にあっても、イエス様は毎日生きる力を与えてくださって、心の中に平安を与えてくださることからわかります。今年もイエス様が毎日私たちと共に歩んでくださることは、私たちの生きる土台になります。その土台を持っていれば、私たちは安心して前に進むことが出来ます。このことを忘れないで本年も歩んでいきましょう。
最後に旧約聖書のエレミヤ書のみ言葉です。
「私は、あなたたちのために立たてた計画をよく心に留めている、と主は言われる。 それは平和の計画であって、 災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」 エレミヤ書29章11節です。
紙飛行機
<あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。 詩編103:5>
朝のスポーツ公園を散策していると二人の男の人が空に向けて何やら飛ばしています。その一つが目の前に落ちて来たので拾ってみるとそれは紙飛行機でした。割り箸を胴体にして紙の翼を付けゴムのカタパルトで飛ばす素朴な飛行機です。面白そうなので暫く見ていたら、その一人がやって来て色々詳しく説明してくれ更に小さな紙飛行機とゴム紐をくれました。教えられた通りに右手に飛行機を持ち左手でゴムを引っ張り引き離すと飛行機は勢いよく空に向かって飛んで行きました。頂点に達すると風に乗ってゆっくりと輪を描きながら下りてきます。この広場は飛行機遊びの格好の場所でした。子供の頃、竹ひごと紙で作ったグライダーやゴム動力の飛行機を思い出しながら懐かしく遊んでいました。暫くは朝の散歩にはこの紙飛行機とゴム紐を胸のポケットに忍ばせて行く事になりそうです。
The name of Christian in Japanese
洗礼を受けてイエス・キリストを救い主を信じる人のことを何と呼ぶか?英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語などでは統一した言葉がある。日本ではいろいろな言い方があるようだ。あなたはどう呼びますか?
クリスチャン 子供の頃、キリスト教の人が自分をそう呼んでいるのを聞いて、アグネスチャンみたいで可愛いなと思った。中学生になって英語由来とわかったが、なぜ何でもかんでも英語っぽくしないといけないのかなどと思ったりもした。しかし、考えてみれば、室町末期~江戸時代初期の「キリシタン」もポルトガル語由来だったので、やはり、どうしても伝えた国の言葉に左右されてしまうということか。
キリスト教徒 自分をこう言う人はあまり多くはない感じがする。世界史の教科書などでキリスト教徒とイスラム教徒が対立したなどとあるので「文明の衝突」を想起させ、あまり穏やかな感じがしないのかもしれない。
キリスト者 最初の呼び名と同じ位に多く使われているのではと思う。ひょっとしたら宗教色を出さない場合にも使える名称ではないか?と言うのは、教派や教会によってはイエス・キリストの復活や処女受胎などはなかったと教えたり、またはそこまではっきり言わなくても、それらをただの言葉の綾のように唱えるところもあり、そういうところの人が自分をこう呼んでいるのを聞いたことがある。宗教色がなければ何か?哲学?イデオロギー?
では、スオミ教会の牧師はどう呼ぶか?フィンランドではkristitty(「キリスト教化した」という意味)が一般的だが、これは洗礼を受けた人みんなを意味する。ただし、洗礼を受けても礼拝に行かない聖書を繙かない人が大半というのが現実(ただし近年若者に回帰の傾向が見られる)。それで、それと区別するために「信じている人、信仰者uskovainen」という言い方もする。私は両者をくっつけて「キリスト信仰者」と言っている。日本語として少し味気ないかもしれないが、「クリスチャン」や「キリスト者」より立場表明がはっきりして正直な呼び方だと思う(時々、説教などで思い切って「キリスト教徒」と言うこともある)。