牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」7月1日の日課から

これぞ、聖書の神は人間が作りだしたものではないということの証し!

「町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか」アモス書36

「預言者アモスはなぜ災いは神から来るなどと言うのだろうか?ここで注意しなければならないのは、神が自分から災いを引き起こすのではなく、他のものを通してそれが起こるのを何らかの理由で許すというのが正解であるということである。聖書は、人を永遠の滅びに追いやるのは悪魔であり、人に罪の自覚を生み出して絶望させるのは律法であると教える。しかしながら、聖書はこれらのことは神も行うと言っている。これは一体どういうことか?

 その意図は、我々が神と人間の関係について定めた十戒の掟を心に留めて、唯一の神こそ神であると告白して信じるためであり、いろんな神を作らないようにするためなのである。マニ教の始祖を見よ。彼は二つの神を作った。一つの神からは善いことが起こり、もう一つの神からは災いことが起こるという二つの神を。それで、その宗教を信じる者たちに善いことが起これば、彼らはそれをもたらした神を賛美して拝み、逆に災いが降りかかれば、それをもたらした神の方を向いてそれをなだめようと拝む。しかし、聖書の神である主が我々に求めているのは、我々に善いことがあろうが災いがあろうが関係なく、我々がより頼むのはいつも主なる神のみであるということだ。

 しかしながら、我々は予期しなかった時に不運に遭遇すると、神は機嫌を損ねているに違いないと恐れて神から離れてしまう。これが、我々の自然の本質である。「我々に怒っている神」などという全く異質の神を編み出すことほど、正しい信仰に反することはない。「神は恐るべき方ではなく、憐れみ深い父、あらゆる慰めと励ましを与えて下さる方、その方が唯一の神として存在する」と信じるのが正しい信仰だ。これを信じない者は、唯一の神を信じることをやめて、自分の都合と状況にマッチする神を作り出すことになる。善いことをしてくれる優しい神、災いを起こす怒りの神と言う具合に。」(以上ルターの説き明かし)

神が唯一絶対になると、「神さま、何故なのですか?」という問いをその神にぶつけ、答えが与えらるまで格闘することになります。時として神の答えはヨブの時のようにあまりにも超越したもので神の大きさと自分の小ささを思い知るようなこともあります。しかし、神と誠実に格闘すればヤコブのように勝つことができます。

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歳時記

合歓の花(Nemu no hana Silk tree)

裏の木立に何時の頃から一本の合歓の木が生えてきました。もう5・6mもの丈になり今年は待望の花も咲かせてくれています。皆さんは合歓の種をご覧になった事があるでしょうか。秋深くなる頃家内と合歓の種の採取に近所の公園を歩き回りました。合歓の種はマメ科なのか分不相応な大き目の鞘に納まり肝心の種は2・3mm程の平たく軽い極めて小粒の種で鞘にはせいぜい5・6粒しか入っていません。目指す合歓の木に行き、いざ種をと見上げますが既に鞘は弾けていて種はどうしても採取出来ませんでした。恐らく鳥も食べないと思いますの総て風に運ばれるかと思います。そのごく小さな種が風に運ばれて来て裏の木立の中に落ちて根付き、それが立派な合歓の木に成長した。私と家内があれほど何年もかかって探していた合歓の種が、知らないうちに裏の木立に運ばれていたのです。思わず聖書に出てくる「種」の例え話を思い出しました、この合歓の木は神からの啓示かも知れないと思っています。

2025年7月6日(日)聖霊降臨後第四主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年7月6日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

イザヤ66章10~14節

ガラテア6章1~16節

ルカ10章1~11、16~20節

説教題「『神の国』と『命の書』

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日の福音書の個所は、イエス様が72人の弟子たちを町々に送ったという出来事です。イエス様は以前に12人の弟子たちを各地に派遣したことがあります。いずれの場合も弟子たちの役目は大体同じでした。神の国が近づいたことを宣べ伝えること、イエス様から委ねられた力で病気の癒しや悪霊の追い出しを行うことです。派遣に際していろいろな指示が与えられました。財布も着替えも持っていくなとか。一見無茶な指示ですが、これは、行く先々で弟子たちを受け入れて世話をしてくれるところが必ずある、だから心配はいらないということです。もっと掘り下げて言えば、神がそのような人たちを用意される、それを信頼しなさいという、神への信頼が弟子たちにあるかどうかが試されているのです。

 もう一つわかりにくいことがあります。それは、道中誰にも挨拶をするなという指示です。イエス様はどうしてそんな冷たい指示を与えたのでしょうか?難しいところですが、私は次のように考えてみました。当時、ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。これがあなたにあるように、という挨拶の仕方でした。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと。ただし、弟子たちが誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと指示しました。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいということです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まり、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和が留まる人と留まらない人がいると。平和が留まる人は「平和の子」であると。

 ここで、イエス様が大事に考えていた「平和」とは、神と人間の間の平和だったことを思い出しましょう。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。それを正すためにイエス様はこの世に贈られたのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると自覚して神との平和な関係を希求する人だったと言えるでしょう。しかしながら、みんながみんなそうではありませんでした。自分と神との関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしている、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。弟子たちを拒否する人は彼らを送ったイエス様を拒否し、イエス様を拒否する人は彼を送った神を拒否してしまったのです。イエス様は、弟子たちを送ることは狼の群れの中に羊を送り込むようなことだと言っているので、受け入れないところでは命の危険があったのかもしれません。イエス様やその弟子たちを受け入れるところと入れないところがあるというのは、イエス様の時代に限らず時代や国を問わずいつもあるのです。自分には自分を造った創造主の神がいるとわかり、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないと考えるようになった人は「平和の子」なのです。

 72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅を続けていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事が待っているところです。イエス様が72人を派遣したのは、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。この72人と12人を合わせてイエス様には少なくとも84人弟子がいたことになります。72人を選んだということは選ばれなかった人もいたことになるので、弟子はもっと多かったでしょう。なので、イエス様一行を受け入れて世話をする人たちをあちこちで準備しなければなりません。72人は2人一組で派遣されたので36カ所に派遣されたことになります。それぞれの場所で何が起きたか詳しいことはわかりませんが、戻って来た弟子たちが皆、悪霊は出て行きましたと喜んで報告しているので派遣は概ね成功だったようです。ルカ19章にエリコの町で徴税人のザアカイの家に泊まった出来事があります。イエス様の一行が町に入った時、大勢の人たちが待ってましたとばかり街道に押しかけました。エリコは先遣隊を受け入れた町の一つだったのでしょう。

 前置きが長くなりましたが、本日の説教では次の2つのことに焦点をあてて福音を宣べ伝えたく思います。一つは、弟子たちの役目の一つに、神の国が近づいたと人々に告げ知らせることがありました。弟子たちを受け入れる人たちにも受け入れない人たちにも知らせるのです。神の国の近づきとは一体何か?これが第一点目。二点目は、たとえイエス様から悪霊を追い出す力や、あらゆる危険を足蹴にできる力を頂いたとしても、そんなことで喜んではいけない、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさいと言ったこと。名前が天に書き記されていることが何にも優る喜びであるということは一体どういうことか?この二つに焦点をあてて見ていきます。

2.「神の国は近づいた」

 イエス様は、活動を開始した時から「神の国は近づいた」と人々に告げ知らせて「神の国」について沢山教えました。そんな国が近づいたとはどういうことでしょうか?そもそも「神の国」とはどういう国なのでしょうか?

 神の国とは、まず、天地創造の神、私たちの周りの森羅万象を造られた創造主がおられるところです。神はこの世を造られた後、引きこもってしまって、あとは勝手にどうぞ、とは言いませんでした。そうではなく、この世に対していろいろ働きかけをしてきました。どんな働きかけがあったかは、聖書を見ればわかります。全ての人間に対してご自分の意思を示す律法を、ご自分が選んだ民に委ねたこと、そのイスラエルの民の歴史を通してご自分の考えやご自分がどのような方であるかを知らしめたことがあります。神はご自分の意思に反することを罪と言い、それを焼き尽くさないではいられない神聖な方であるが、同時に罪を持つ人間が悔い改めて神のもとに立ち返れば罪を不問にして新しく生きられるようにして下さる憐れみ深い方でもある、そういうお方であることを知らしめました。そして、神の働きかけの中で最大のものは何と言っても、ひとり子を私たち人間の救いのために贈ったということです。

 聖書は、「神の国」は将来、私たちの目の前に現れて、私たちはそれを自分の国として受け継ぐことが出来ると知らせます。「神の国」が現れる日とは、今のこの世が終わり、今ある天と地が新しい天と地に造り変えられる時です。このように聖書は終末論と創造論がセットになっています。ヘブライ12章では、今のこの世のものは全て揺り動かされて除去されてしまうが、揺り動かされない唯一の国が現われる、それが「神の国」であると。黙示録21章では、新しく創造された天と地のもとで神の国が現われ、そこは苦しみも嘆きも死もない、全ての涙が拭われる国であると言われます。全ての涙というのは、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世でないがしろにされてしまった正義が最終的に完全に実現し、全ての不正に対して借りを全部返す大清算が行われるのです。

 ところで、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、本当に近づいたのでしょうか?まだ、この世が終わるような天と地の大変動は起きなかったではありませんか?実はこれは、イエス様が行った無数の奇跡の業を通して神の国の近づきが明らかになったということです。難病の癒し、自然の猛威を静めたこと、何千人の人たちの空腹を超自然的な仕方で満たしてあげたこと、一度息を引き取った人たちを蘇らせたこと、これらはどれを取っても嘆きも苦しみも死もない「神の国」の有り様でした。つまり、「神の国」はイエス様と一緒に抱きあわせの形で来ていたのでした。

 しかしながら、人々は難病が癒されても、自然の猛威から助けられても、空腹を満たされても、生き返らせてもらっても、それでまだ「神の国」に入れたわけではありませんでした。人間はそのままの状態では「神の国」に入れない障害がありました。それは、神の意思に背く性向、罪を人間は持っているということでした。人を傷つけてはいけない、他人のものを妬んだり横取りしてはいけない、真実を曲げてはいけない、不倫をしてはいけない等々の神の意思に反することを行いや言葉で出してしまったり、考えで持ってしまいます。反対に、しなければならない正しいこと良いことをしなかったり、言葉に出さなかったり、考えなかったりするのも神のみ前では立派な罪になります。罪のために人間は神との結びつきがない状態に置かれ、この世を生きる時もこの世を去る時も結びつきがない状態になってしまいます。神はこの状態を直して、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世を去った後も復活の日に眠りから目覚めさせて「神の国」に迎え入れられるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に贈られたのでした。

 神は、本当なら私たちが受けなければならない罪の罰をひとり子に全部受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。もし私たちが神罰を受けてしまったら、私たちは永遠の滅びに陥り「神の国」に迎え入れられなくなるのです。イエス様は私たち人間の罪を命をもって償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。それで、私たち人間は、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。罪が償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。そして、復活の日に現れる「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩む人生が始まります。

 キリスト信仰者はこの世ではまだ「神の国」に迎え入れられてはいませんが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそれを受け継ぐ者になっているのです。さらに、聖書の御言葉と聖餐式があるので「神の国」に至る道を踏み外さずに歩むことができるのです。聖書の御言葉は生ける神のみ言葉です。なので、信仰の目を持って読み、信仰の耳を持って聞けば、聖霊が働いて父なるみ神とみ子イエス様を身近な存在にして下さいます。聖餐式では私たちの口を通してイエス様を体の内に取り込みます。だから、人生の状況がいかなるものであっても、御言葉と聖餐に繋がっている限りは、道は確か道で、歩みも確かな歩みです。何も心配はありません。

3.命の書

 天のみ神のもとに何か書物があって、そこに名前が記されていることが大きな祝福である、しかし、名前が記されていなかったり削除されるのは悲劇であるという、そういう書物が存在することは旧約聖書の出エジプト記32章32節、詩篇69篇29節、イザヤ書4章3節、ダニエル書12章1節で言われてます。新約聖書もその伝統を受け継いでいて、本日の福音書の日課でも明らかなようにイエス様自身がそのような書物があると言っているのです。新約聖書の中では他にフィリピ4章3節、ヘブライ12章23節、黙示録3章5節で言われています。これらの中で、ダニエル12章1節とヘブライ12章23節と黙示録3章5節を見ると、この「命の書」と呼ばれる書物に名前がある者は復活の日に「神の国」に迎え入れられる者を意味していることがわかります。

 さらに黙示録20章を見ると、「命の書」の他に全ての人間の全ての行いが記された書物があることも言われています。最後の審判の時に神の国に迎え入れられるか、それとも滅びに陥るかの判決はその書物に記されたことに基づいて下されるとあります。今ある天と地のもとに存在した人間全て一人一人の全ての事柄について記録など膨大過ぎてあり得ないと思われるかもしれません。しかし、神は人間を一人一人造られ、母親の胎内にいる時からみんな知っていたという位の創造主です。イエス様も言われたように、髪の毛の数も一本残らず数え上げるくらい私たちのことを知り尽くしてい方です。そうなると私たちは神に対して何も隠し事はできなくなります。審判の日に神の意思に反してしまったことを一つ一つ指摘されてしまったら、取り繕うことも申し開きも一切できません。絶体絶命です。それにしても神に対して申し開きしなくて済むような完璧で潔癖な人間なんて存在するのでしょうか?

 実に神は、私たちが申し開きしなくてすむようにひとり子のイエス様を贈って下さったのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで罪を赦された者として生きることが始まりました。ところが、神の意思に反することが自分の内にあることにいつも気づかされてしまいます。その時は、聖霊がいつも私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、大丈夫、あの方のおかげであなたは罰を免れている、あなたの生きることはあの方の尊い犠牲の上に成り立っているのだと思い出させて下さいます。その時、私たちは畏れ多い気持ちと感謝に満たされて、これからは軽々しく立ち振る舞わないようにしようと襟を正します。審判の日に神は、このように罪の赦しの恵みに留まって生きたことがキリスト信仰者の真実であると認めて下さるのです。確かに神の意思に反するものを持ってしまったことがある、しかし、その度に罪を罪として認めて赦しを願い祈り、赦しがあることを確認してもらった。これこそ罪に与しない、罪に敵対する生き方であった。こっちの方が罪を持ってしまったことよりもキリスト信仰者の真実なのです。神はこれを認めて下さるので、キリスト信仰者は申し開きする必要はないのです。ここからもわかるように罪の赦しの恵みというのは人間にとって生命線なのです。

  1. 勧めと励まし

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神のもとには「神の国」に迎え入れられる者の名前が記された「命の書」と、全ての人間の全てについて記された書物があります。罪の赦しの恵みに留まって生きる者は審判の日に神に申し開きする必要がありません。罪の赦しの恵みには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって入れます。罪の赦しの恵みに留まって生きられるために、聖書の御言葉と聖餐式が与えられているのです。これらをよく用いない手はありません。

 神の国が現われる日、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わられる、想像を絶する天変地異の時であり、神の審判が行われる時です。神の恵みに留まって生きたキリスト信仰者は想像を絶する苦難や困難を全てクリアーできるのです。それなのでキリスト信仰者が持っている安心感と言ったら相当なものです。そんな安心感を持てれば、この世で苦難や困難に遭遇しても、本当は平気なはずです。なぜならこの世の終わりの苦難や困難に比べたらこの世の苦難や困難は小さいものだからです。それでキリスト信仰者というのは、本当は大胆不敵で肝が据わっている種族なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

手芸クラブの報告

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6月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨に入ってもずっと蒸し暑い晴の天候が続いていましたが、この日の朝は久しぶりに朝が降りました。

今回の作品は前回に続いてかぎ針編みでスマホケースでしたが、ラリエットやコースターも作りました。バンド織りを希望する方はそれも出来ました。初めにモデルを見て自分の作りたい作品を選びます。お家で素敵なスマホケースを完成された方が作品を見せてくれました。みんな感心して同じように出来たらいいなと思いました。皆さんの編み物はおしゃべりをしながらどんどん進みます。バンド織りの方も一生懸命織って、Nauhaはあっという間に長くなりました。

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かぎ針編みやバンド織りに夢中になると目が疲れます。そこで一休みして他の方々が作られる作品を見てみました。「可愛い!」「きれいな色合いね」、「模様が素敵!」などなどいろいろな声が聞こえてきます。かぎ針編みやバンド織りはおしゃべりをしながら楽しく続けていくうちにどんどん出来てきます。秋はどんなものを作りましょうかというお話にもなりました。皆さんの心はもう秋の手芸クラブの作品に移っています。

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今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランド的なドーナツを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、キリスト教系の老人ホームで行われている「心の時間」や「天の神さまはいつも私たちの側にいて下さる」というお話がありました。

夏の間は手芸クラブはお休みになります。再開は9月24日の予定です。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せます。どうぞ是非ご覧ください。天の神さまが皆さんの夏の生活をお守り下さいますように。

手芸クラブの話2025年6月25日

私の家の近くにキリスト教系の老人ホームがあります。そこで毎月「心の時間」という小礼拝が行われています。博明はそこで年に数回聖書のお話を担当しています。私もいつも一緒に参加します。入居者さんたちが一階のロビーに集まって礼拝の時を一緒に持ちます。小礼拝が終わってから入居者さんの方々と少しお話をすることが出来ます。一人の方は毎回参加されて紙で作った色とりどりのきれいな花を牧師に渡してくださいます。私も何度もその花を頂いただきました。花を作るには指先の器用さが必要なので、リハビリとしてもとても良い活動だと思います。

先日行われた「心の時間」に参加した時もこのお祖母さんは礼拝にいらっしゃって花を下さいました。そしてご自分のことを少し話してくださいました。「私は以前山形県に住んでそこでお茶の先生をしていました。山形県では有名なお茶の先生だったので、どこに行っても皆が私のことを知っていました。でも東京に引っ越してきたら誰も私のことを知りません。ここでは一人ぼっちの普通の人です。」とおっしゃいました。お祖母さんの話し声に少し孤独感を感じました。

特に「誰も私のことを知らない」という言葉は私の心に深く残りました。私にも似たような経験があります。学生時代に勉強のために実家から400キロくらい離れた町に引っ越したことを今でもよく覚えています。そこには親戚や友達は誰もいなかったので、とても寂しい思いをしました。皆さんもこのような経験をされたことがありますか。引っ越した時の寂しさや孤独感は自然なことだと思います。

ところで孤独感というのは周りに親戚や人達がいても感じることがあります。例えば、その人たちと関係があまり良くないとそうなります。このような孤独感についてメディアなどを通して耳にすることもあると思います。孤独感に陥らならないように私たちの生活の中で人間関係を築くことはとても大切だと思います。良い友達関係は生きる力にも繋がります。

私は孤独感を感じた時に天の神さまのことをいつも思い出しました。友達は近くにいなくても、神さまは私と共にその場におられると信じています。それを知っているだけで大きな力になります。その経験を通して天の神さまの関係を築き、それを保つことの大切さが分かりました。

神さまとはどのようにして関係を築くことが出来るでしょうか。それは聖書を読んだり、聖書のお話を聞いたり、神さまにお祈りすることを通してです。そうすることで神さまは本当に私たち

のことを全てよくご存じで、いつも私たちと共にいて下さることが分かって信じることができるようになるのです。使徒パウロも次のように教えています。「実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章27節

神さまは遠くに離れた存在ではなく、いつも私たちのそばにいて下さいます。私たちは決して完璧な人間ではなく、ときには神さまのみ心の反することもするでしょう。しかし、それでも神さまは私たしたちを見捨てることなく、私たちが神さまの元に立ち返るならば神さまは赦しを与えてくださり私たち一人一人と共にいて下さいます。なぜなら、神さまは私たちや世界の全ての人々を愛しておられるからです。その愛のゆえに、神さまはいつも私たちをご自分の元に招いておられます。

天の神さまの御前では私たち一人一人は等しく大切な存在です。社会的な地位や名声に関係なく全ての人は神さまの御前で平等なのです。それで天の神さまの救いのご計画は全ての人々に向けられています。新約聖書の「テトスへの手紙」には次のように書かれています。「実に、全ての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」テストへの手紙2章11節。

私たちは少し寂しい時があっても天の神さまがそばにいて下さることをいつも覚えて行きましょう。

牧師の週報コラム

621日に開催された「チャーチカフェ&コンサート

の牧師のチャーチカフェ・スピーチの抜粋 

本日は北欧の国々では夏至祭の休日です。スウェーデンではミドソンマルと言い、これは英語のミッドサマーと同じです。ところがフィンランドでは「ヨハンヌス」の日という言い方が公式になってます。これは新約聖書に登場する洗礼者ヨハネを意味します。ルカ福音書1章によれば、ヨハネはイエス様よりも半年前に誕生したので、イエス様の誕生を12月とするとヨハネは6月になり、夏至祭の日が彼を覚える日に定められたのです。

洗礼者ヨハネはいかなる人物だったでしょうか?彼は、人々に罪の悔い改めを勧めて洗礼を授けました。旧約聖書を受け継ぐ人たちは、この世は始まりがあったように終わりもある、それは神の怒りの日で神は逆らう者を滅ぼすと信じていました。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、その日がいよいよ来ると思ったのです。それで大勢の人たちが洗礼を受けにヨハネのもとに来たのでした。洗礼を受けた人たちは、神に対してやましいところは洗い清められた、もうこれで大丈夫と思ったかもしれません。

ところがヨハネは、そうではないと言ったのです。彼の後に偉大な方が来られる、その方が大丈夫にして下さるのだと。実は彼が施した洗礼は、人が自分には神に対して罪ある者と認める印であり、だから神の裁きから守ってくれる方を必要としていますという印だったのです。その守って下さる方を神は私たちに贈って下さったのです。それがイエス様でした。

私たちがイエス様を受け入れて自分のものにすることが出来れば、たとえこの世が終わろうとも守られて乗り切ることができるのです。このような安心を持てれば、この世の人生で苦難や困難があっても揺るがない安心があります。なぜなら、この世の終わりの苦難や困難の大きさと言ったら、この世の苦難や困難とは比べものにならないもので、そこで大丈夫ならこの世ではもっと大丈夫だからです。

さきほど、カンテレグループのSointuTuuliの皆さんが素晴らしい演奏を聴かせて下さいました。その中の一つは、有名なバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」でした。ドイツ語の題名は「イエスは私の喜びであり続ける」(Jesus bleibet meine Freude)だそうです。その歌詞を見たら、イエス様を受け入れて自分のものにすることができるとどんなに心を励ましてくれるかを歌い上げていることがわかりました。その趣旨に沿って歌詞を訳してみましたので、以下にご紹介します。(日本基督教団の讃美歌第二編に228番「こころに主イエスを」としてあります。)

私にとって幸いなことは、

私にはイエスがあるということ、

ああ、どんなに私は彼にしっかり

掴まっていることか、

私が病気の時、悲しみにある時に

彼は私の心を爽やかにしてくれるからだ。

私にはイエスがある、

私を愛し、私のものになるようにと

ご自身を捧げられたイエスが、

だから、私がイエスを手放すことなど

ありえない、今すぐ心が砕けても。

イエスは私の喜びであり続ける、

私の心の慰め、潤いであり続ける

イエスは全ての苦しみから守って下さる、

彼は私の生きる力、

私が目にすることができる楽しみ、太陽、

私の魂の宝、嬉しさ、

だから、私はイエスを手放さない、

心と目から遠ざけない。

 

訳者からのお勧めです。ドイツ語は英語と違ってローマ字読みで割といける言語なので、歌ってみてはいかがでしょう。ドイツ語の歌詞は、https://classic-fan.com/jesujoy-of-mans-desiring/ で見つかります。

発音について細かいことを言えばキリがないのですが、この歌に関してなら、以下の三点だけでも注意したら結構いけると思います。一つ目は、EIをエイと読まずアイと読むこと、二つ目は、CHを英語みたいにチ(Church)やキ(Christ)と読まず、ここではただヒと読むこと、三つ目は、Jesusは英語のジーザスではなくイェーズス。これだけで随分ちがいます。別にドイツ人やドイツ語が出来る人に聞かせる必要はありません。この歌は自分で意味を知って口ずさむだけで気分が上向きになること請け合いです!

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歳時記

木苺(kiichigo Rubus )

<43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。44木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。 ルカ6:43・44>

歯医者の帰りに久しぶりに尾根緑道に登ってみました。緑陰の濃い道は暑さのせいか歩く人も少なく快適な散歩を楽しみました。途中、道路脇の藪を覗いたら嬉しい事に木苺がいっぱい生っていました。この先には桑の大きな木もあります、以前来た時こちらも今年は豊作とみえて黒い実がたわわになっていました。木苺を充分堪能し、次は桑の実と先を行きましたが桑の実はすっかり食べ尽くされたようで木の下の草むらが踏み荒らされていました。桑の実を食べる人がいる事を知り少し嬉しかったです。

2025年6月29日(日)聖霊降臨後第三主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書9章51−62節

律法ではなく福音による「従う」恵みと幸い。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

1、「はじめに」

今日のところ、特に57節以下を注目して見ていきますが、難しい箇所のように思えます。「イエスに従うことは良いことなのに、なぜイエスはそれを受け入れないのだろうか。なぜ従うのにこんな厳しいことを言うのだろうか。これでは誰も従うことなどできないではないか」等思うかもしれません。あるいはこれまでこの箇所から「私たちが従うには、これぐらいのことをしなければいけないんだ。従うということはこれぐらい責任と重荷があることなんだ。」というような律法の説教や勧めを聞いたこともあるかもしれませんし、そのように読む方もいることでしょう。けれどもこのところが伝えていることもまた律法ではなく福音と恵みに他なりません。そして主なる神イエス・キリストにあって、「従う」ということは本当はどのようなことなのかを教えられるのです。

2、「自から「従います」ー自信」

今日のところには、54節のヨハネとヤコブも含めて様々な「服従」「従う」が書かれていますが、57節からの三人に注目して見ましょう。まず一人目、57節。

「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」(57節)

 私たちからすれば、この人の言葉は非常に献身的な声に聞こえます。しかしイエスは答えます。

「イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 」(58節)

 事実、イエスの宣教の旅には定まった自分の家がありませんでした。イエスや一行に場所を提供し、食事などをもてなしてくれる人々のところに滞在しながらの宣教の旅でした。ですから、もし「おいでになる所、どこにでも」と言う時には、まさにそのような旅になることを意味しています。彼に対するイエス様の答えは何か厳しい返答のように聞こえます。しかしここにはどのようなメッセージがあるでしょうか?弟子たちとイエス様との宣教は、確かに、そのような枕するところが定まっていない歩みではあるのです。しかし、その旅はこれまでも日々、その旅の必要は満たされて来て、神は必要な物を備え与えて下さってきた歩みでした。つまり、イエス様の言葉の背景には、人の目には十分ではなく貧しそうで枕するところもないような歩みに見えたとしてもです、そのように、イエスご自身の歩みも、そしてイエスと一緒の旅も、「天にあって」、神の前にあって、つまり、常に必要を満たしてくださる神への信仰にあっては、いつでも豊かで確かで不安のない恵みがある歩みであることをも示唆しているでしょう。つまり信仰の歩みは「天の神の恵みとその確かさへの信頼が、イエスとの旅の大事な持ち物である」ことを伝え用途してくれているのです。このイエスのことばを聞いて、この人はどう理解し答えたのかは書かれていません。

3、「「ついてきなさい」という天のプレゼント」

  二人目はどうでしょう。

「そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。

59節

 今度の人は、イエスが「わたしに従いなさい」と言っています。しかしその人は、まず父を葬らせてくださいと言うのでした。この人は拒んでいるわけではありません。父を葬ったらついて行くという意味でしょう。それに対しイエスは言うのです。

「 60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」

60節

A, 「召しゆえに従う恵み」

 これもまた何か非常に厳しい言葉です。お父さんを葬ってからついて行くのは別に良いことのように私たちは思うのです。しかし鍵は、後半の「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」にあります。そして「イエスが」「ついてきなさい」と招いていることも重要な鍵です。思い出すことができますが、イエスの弟子達は、自分から「従います。ついて行かせてください」といって従っている弟子達ではありません。皆、イエスの方から、彼らに声をかけました。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブは漁師で、湖の畔で、漁を終えて、網を洗っているところにイエスがやってきました(ルカ5:1〜11)。そこでイエスは、イエスの方からまずしるしを与えて自分が神であることを示しました。前の晩に魚が一匹もとれなかったのに、イエスは舟を出させて網を下ろすようにいいます。ペテロ達は誰も取れるとは思っていませんでしたが、その通りにした時に、舟が沈みそうな程の魚が取れたという出来事がありました。その後で、イエスが彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言って召した、そして彼らがそれに従ったのが、弟子達とイエスの歩みの始めでした。取税人レビはどうであったでしょうか(ルカ5:27〜32)。レビの所にも、イエスの方からやってきて、イエスが彼に「わたしについてきなさい」と声をかけて招いているでしょう。ヨハネの福音書にあるナタナエルもそうですし、他の弟子達一人一人もそうであったでしょう。「イエスが」「ついてきなさい」と招いて彼らは従っているのです。このように「従う

というのは、まず「イエスの召し、ことばがあってこそ

なのです。

B, 「自信、自信過剰ではなく」

 しかし、今日の箇所のまず最初の人と、そして61節の三人目は、自分から「従います」と言っています。しかしこの「従う」の言葉は「自信」や「自信過剰」という意味がともなっています。しかしイエスに「従う」というのはそのように私たちの「自信」が伴う行動なのでしょうか?イエスにあってはそれはノーでした。むしろ「従う」ということは、私たちの側からの何か、自信によって従うということでは決してないと言えるでしょう。私たちに自信があるから、自分には従うことが出来る。あるいは、そのように自身の根拠となるような従える何かを自分は持っている。そのような何かが自分にあるから従える。従えてる。ということでもないでしょう。むしろイエスは彼らの敬虔そうな「従います」という言葉には「彼らの「自信」」を見ていたことでしょう。その表向きの言葉や自信は人の前では立派なことかもしれません。しかしそれは神の前では違います。神の前での「従う」とはそういうことではないのです。イエスに「従う」ということ、それはどこまでもイエスが「ついてきなさい」と召してくださる招き・召命と、そこにある約束が伴ったものです。イエスがみ言葉を与えて彼らを「ついてきなさい」「従いなさい」と招いた時には、彼らには何もなくこれから何が起こるかさえわからなくとも「あなたは人間を取る猟師になる」という「神の約束」が伴っていたでしょう。創世記12章でアブラハムへの「いきなさい」「従いなさい」の言葉があった時にも、神様のあなたの子孫を祝福するという約束が伴っていたでしょう。モーセもそうですね。彼は自分は従いたくない、他の人を行かせてくださいと言ったでしょう。しかし、そんなモーセに「わたしがする」という神の約束がありました。つまり神の前の「従う」は「私たちの自信」や、私たちの持っている何かによるのでは決してないのです。事実、既についてきている弟子達は何か優れていたわけではありません。いや皆、彼らは不完全な罪人です。9章ではそのような姿が何度も出てきます。まさにこの前の所、49節以下でも54節以下でも、ヨハネやヤコブのまさに弟子としての特別意識、傲慢さ、まさに自信過剰さえ見えるのです。今日のところにある三人とは変わらない一人一人でもあります。しかし彼らが弟子であり、彼らがついてきているのは、彼らに何か才能があり敬虔であるから云々ということは一才関係ない、いや彼らにはそのようなものはありません。どこまでも罪人の彼らでしたが、まさに、イエスが「ついてきなさい」と招いたその召しとイエスが全てのことをなすという約束があるから彼らは従ってきているでしょう。イエスのことばが、そして約束があるからです。これは私たちの「従う」もそうなのです。自分たちの何かではない。自分の自信でもない。私たちも罪深い一人一人、しかしそのような私たちをイエスが「わたしについてきなさい」とみことばを持って招いてくださった。み言葉を与えて下さったからこそ、私たちは今、従っているのです。

C, 「神の所有として使わされる召しの恵み」

 そして、そこに約束も溢れているでしょう。そのように「召され」従うことは、それは主ご自身が全てをなすということ、そして、神が私たちを神の所有としてくださり救ってくださる約束を伴っておりキリストの責任と恵みと計画、そしてキリストの力と実行のうち、つまり天からの恵みのうちに歩むことを意味しています。そうであるなら二番目の人への言葉は、決して意地悪ではなく、天の恵みにある歩みへの招きの言葉とも言えます。「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と。この「神の国を言い広めなさい」というのは、まさに天からの使命であり約束でもあります。もちろん父を葬ることも大事なことですが、しかしそれは地上の営みです。イエスは「その地上のことは地上の営みに任せなさい。それ以上に、わたしが、あなたを招いているのだから、あなたにはそれ以上の私の計画があり、天からの恵みの使命がある、それを与えよう」とイエスは彼を遣わそうとしているのです。イエスが、従うように召し、招くということは、実にこのようなことです。恵みであり約束なのです。地上の物事、地上の限られた枠や限界や営みに納まること以上の計り知れない天の恵みに招かれて、天の使命が与えられている。そのようにイエスが「ついてきなさい」と言って召してくださっている、そしてその召しゆえに従うものとされていることの、はかり知れない程、大きな素晴らしさがあるのです。つまり地上にあっては非常に大事で崇高な営みである「葬る」ということさえも小さくなる位、それよりもはるかに大きなプレゼント、恵みこそを、私たちは天からイエスから受けている、頂いているということなのです。それは「わたしに従いなさい」そして「天の恵みを、キリストの与える平安を、自由を、神の国を広めなさい」と、みことばによる召しと、その従うという約束と恵みのうちに歩んでいることなのです。「従う」ということは、決して私たちから出たものではない。私たちの自信や決心でもないのです。

4、「従うとは、自分の決心でもない」

 三番目の人は、最初の人と同様、自分から「従います」と言いました。しかし加えて「まず家族にいとまごいに行かせてください。」ともいいました。これも私たちの目から見ると「別にかまわないのでは」と、思うのですが。しかしイエスは、

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない

62節

 と言います。彼は「鋤を手にかけた」、つまり、彼には「従います」という「決心」はありました。しかしそれはやはり「彼の決心」であったのです。人間の決心、それは決して完全ではありません。むしろ誰でも決心しても後ろを見てしまうものではないでしょうか。むしろ彼は私たちから見ればそんなに後ろを向いてはいません。家族に別れを言うだけのことです。本当に私たちから見れば素晴らしい「彼の」決心です。しかし、イエスはそのような彼自身から出た「人間の決心」が神の国にふさわしいとは言わないのです。つまり従うということは、私たちの決心にかかっているのではないのです。私たちの決心は不完全です。私たちは決心しても「うしろを見てしまう」のです。

5、「神の国のふさわしさとは?」

A, 「私たちの自信や決心はもろい」

 今日のところは何を伝えているでしょう。それは、もし従うということが、私たちから出たことにかかっているなら、つまり、もし私たちの自信や決心で、キリストに従うということが求められているのであるなら、それでは誰も「神の国にふさわしくない」のです。そうでしょう。弟子達の「決心」はどうでしょうか。まず弟子達の「従う」というのは、先程も述べました、イエスが、弟子達のそのような不完全さ、罪深さを全てご存知で、全て受け入れられて「わたしについてきなさい」とイエスが召してくださった恵みでしょう。そしてついて行きました。まさに恵みによって彼らは弟子とされたのです。しかしそれを忘れ始めたのでしょうか。イエスが有名になり、その弟子であることの特権意識という「彼らの自信」は何を生みましたか。49節以下、ヨハネとヤコブは、自分たちの弟子ではないものが、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを勝手に、当然のように、自分にその責任と権利があるかのようにやめさせました。さらに54節以下、イエスを受け入れないサマリヤの町に対して、天から火を呼び下し焼き滅ぼしましょうとも言いました。そして「彼らの決心」はどうでしょう。十字架の出来事の前に、彼らはイエス様が誰かがご自身を裏切ると告げられた時に、他の誰が裏切っても自分は最後までついて行く、死にまでも従うと、彼らは言い、まさに「自信」を持って「決心」するでしょう。しかしその彼らの決心は、その通りに「従う

ことができたでしょうか?彼らはみな逃げたでしょう。ペテロの「決して知らないなど言わない」という「決心と自信」も、まさに脆くも崩れ去ったではありませんか。私たちは、自らでは、イエスに従うことに、まったく無力です。私たちは皆、自分の意志や力で決心しても、後ろを見るものです。決心の通りにできない、無力なものです。私たちは自らでは、そのままでは皆、神の国にふさわしくないもの。自分たちでは「従います」と従えないものなのです。

B, 「イエス・キリストこそ全てー「従う」それは律法ではなく福音・恵み」

 しかし福音書はまさに私たちに、イエス・キリストの恵みを指し示しているでしょう。イエス・キリストこそ全てである。救いである。恵みであると。弟子達は立派ではない、十字架のときまでもそれ以後も罪深かったけれども、そのような弟子達をご存知の上で「わたしについてきなさい」と言って招いてくださった。そしてそのイエスとの一緒の歩みにおいては、まさに定まった家も食事をする場所もなかったけれども、神がイエスを通しイエスのことばをとおして、全てを満たし乏しいことはなかったでしょう。イエスにあって彼らはいつでも緑の牧場に、憩いの水の畔に導かれたように、全てを満たされた歩みとなるでしょう。そして実にその究極は、その罪深い弟子達、拒む人々、イエスを罵り唾をかけ鞭打ち十字架につけるその全ての人々、いやこの何千年の人類の歴史の中で生きてきた全ての人々、つまり私たちのためにも、イエスはその全ての罪、私たちが神の前で負うべきであったその十字架を代わりに負って死なれるでしょう。私たちはその罪のゆえにまさに神の国に、神の前にふさわしくないものでした。しかしイエスはその十字架によって、私たちに罪の赦しという人間にとって神の前で一番なくてはならない必要なものを、そして神の国を一方的に与えて下さったではありませんか。ふさわしくない私たちに、イエスはこの十字架と復活で、私たちに罪の赦しを与え、それによって神の国に、神の前にふさわしいものとしてくださったでしょう。ただイエス・キリストのゆえにです。「従う」ということ、「神の国のふさわしさ」、それは律法では決してないどこまでも神からの恵み、福音なのです。イエスが「ついてきなさい」と召してくださったからこそ、私たちは今がある。イエスがただ与えて下さったものをそのまま受けるからこそ、私たちは救われている。誰でも救いはその人のものになります。私たちの自信、決心ではありません。今日も、イエスがみことばによりここで宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ信じて喜んで安心してこのイエスが与えて下さる福音を受けようではありませんか。そしてぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2025年6月22日(日)聖霊降臨後第二主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年6月22日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

イザヤ65章1~9節

ガラテア3章23~29節

ルカ8章26~39節

説教題「聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、墓場を住みかにしていたと。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというような不気味な光景が思い浮かび上がるかもしれませんが、ここで言われる墓場は岩にくり抜いた墓穴があるところです。墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露をしのいでいたということです。イエス様がその男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名はレギオンと言いました。それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味する言葉です。つまりそれくらい沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。悪霊たちは男の人から追い出されると今度は豚の群れに入り、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つです。ここで、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取ったり病気になったりする話は聖書によくあるし、キリスト教以外にも沢山あります。異常行動や病気をなくすために悪霊の追い出しということがあるわけです。しかし、それは現代社会には相応しくないと考えられます。現代では病気や異常行動の解決には医学的、精神医学的、心理学的な解決がはかられるからです。問題の原因は悪霊のとりつきにあるとして、それを追い出して解決しようとするのは前近代的と考えられます。それではイエス様の悪霊追い出しは前近代的なことで、今は医学的、精神医学的、心理学的に解決させるのが当然と言ったら、イエス様のやったことは私たちには意味のないことになります。意味がないばかりか、危険な考えを生み出すものとさえ見なされます。というのは、現代にも医学の力では解決できない問題は多くあり、その時、原因を悪霊のとりつきにあるとしてその追い出しで解決を得ようとする人もいるからです。その場合、誰が追い出しをするのかという問題がでてきます。そこにはいろいろな危険があります。でも、解決を求める人は藁にもすがる思いなので危険など二の次になります。

 今日の説教では、イエス様の悪霊追い出しは前近代的なことだと言って軽く見てはいけない、それは現代にも意味があるということを明らかにします。結論を先に言うと、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。聖礼典とは洗礼と聖餐式のことです。聖書の御言葉と聖礼典にそのような力が働いていることをわかるために、イエス様の悪霊追い出しを細かく分析することは大事です。今日はそのような分析を行います。

2.悪霊に取りつかれた男の人と神の旧約での約束

 本日と同じ出来事はマタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、マルコと今日のルカでは出来事の場所はゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域となっています。これは、イエス様が地上で活動した時は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していたのが、後にガダラに属したことによります。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「イエス様がおられた時あの崖はゲラサに属していた」という意味です。マタイがガダラと言うのは「イエス様が天に上げられた今はあの崖はガダラに属している」という意味です。いずれにしても同じ崖です。

 この他にも、3つの福音書の記述には違いがあります。しかし、根幹部分はは3者とも共通しています。イエス様がガリラヤ湖の対岸に渡って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って群れは崖に突進して湖に飛び込んで溺れ死んでしまったということ、これがマルコ、マタイ、ルカの三者に共通しています。細かい点で違いが生じたのは、最初の目撃者の証言が言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりしたためです。しかし、付け足しや省略に付されない根幹部分があって、それが実際に起こった出来事を映し出しているということです。

 さて、今日の福音書の日課はルカなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。私たちの新共同訳では「ゲラサ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民です。ゲラサ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけてこの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していました。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族が汚れた動物と見なした豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。

 町の人たちの多数派が異邦人と考えられる理由は、豚の放牧以外にもあります。それは、町の人たちがイエス様の奇跡の業を見て彼に退去するように言ったことです。もし同じことがガリラヤ地方かユダヤ地方で起こったとしたら、人々はきっと預言者の到来だとかメシアの到来だとか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言ったでしょう。ところが、ゲラサの町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているに違いないと恐れたのです。彼らが旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待など持っていないことを示しています。

 それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?聖書の記述をよく見れば、ユダヤ人だったことが見えてきます。どうしてそんなことが言えるのかというと、イエス様は伝道の対象をイスラエルの民に絞っていたことに注目します。12人の弟子たちを伝道に派遣する時にこう言いました。異邦人の道に入るな、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け、と(マタイ10章5~6節)。それで、悪霊に取りつかれた男の人は、異邦人が多数派を占める地域で少数派として暮らすユダヤ人とみることができるのです。まさにイスラエルの家の失われた羊なのです。イエス様の伝道の主眼は、旧約聖書を受け継ぐイスラエルの民を相手に天地創造の神について正確に教え、宗教エリートたちの誤りを正し、来るべき日に到来する神の国について教えたのです。もちろん、イエス様の十字架と復活の業は、ユダヤ民族だけでなく全ての民族が神の国に迎え入れられるようにするためになされました。しかし、それはまだ先のことです。エルサレムでの受難の道に入る前のイエス様の伝道はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。

 そう言うと、イエス様はローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたりして異邦人も相手にしているじゃないか、と言われるでしょう。しかし、百人隊長と女性の場合は、イエス様が彼らとのやり取りを通じて、異邦人にもこんなに深い信仰があるのだととても驚き感心したことが癒しの実現に結びついています。つまり、二人の場合は例外的なことだったのです。本日の悪霊にとりつかれた男の人は、そういう異邦人がどうのこうのという問題は現れず、ストレートに癒しの対象になりました。それでユダヤ人だったと言えるのです。

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えて下さいとお願いします。しかし、イエス様は家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の人たちに、旧約聖書に預言されたことがいよいよ実現し始めたことを伝えよと命じたのでした。ところが男の人は家に行くどころか、イエス様を拒否したゲラサの人々に伝え始めたのです。これは、イエス様の伝道は旧約聖書を受け継ぐユダヤ民族を相手にするものとして始まったのであるが、救いはユダヤ民族を超えて全ての民族に及ぶことが伝道の本質部分にあったことを示しています。この伝道の本質について既にイザヤ書49章6節で言われていました。そこで神は主の僕、つまりイエス様に対して次のように言われました。お前はヤコブの諸部族を復興させ各地に散らばったイスラエルの残存者を連れ帰らせる役目を負っているが、それでは不十分である、私はお前を全ての国民の光にして救いが全世界に及ぶようにすると。見かけはユダヤ民族に限った伝道でも、それを行うことで世界大の伝道も進むというのが神の構想なのです。

3.聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし

 次に、イエス様が悪霊を追い出した時に用いたのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということを見ていきましょう。男の人が癒されるプロセスをよく見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったのではありません。それはあり得えないことです。なぜなら、悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力がある方だとわかっていて恐れているからです。何を好んで自分から進んで彼のもとに行く必要があるでしょうか?それなのに男の人はイエス様の前に行きました。これはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方を見ると、舟から上陸したイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明白です。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどうやってイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されようとも、イエス様に会う意志があれば、それを悪霊は妨げられない、そのような悪霊に逆らう力がイエス様の方から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、あれは今やガリラヤ全土で預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と誰かが叫んだのを聞いたのかもしれません。あるいは、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊が動揺するのを男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していけばいくほど悪霊の動揺はどんどん大きくなり、悪霊の方も男の人がイエス様を目指して行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということではないかと思います。どちらにしても確実に言えることは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊の嫌がることをする意志さえ持てば、邪魔する力は弱まりだし、その意志にしがみついてさえいれば、あとは神の力が勢いを増して、あれよあれよとイエス様のもとに行けるということです。

 さて、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は放牧中の豚にして下さいと。どうして豚を選んだかというと、こういうことだと思います。悪霊が人間にとりついても人間がイエス様のもとに行こうとする意志を持てば、最初どんなに小さな意志でも、イエス様に方向付けられたら最後、悪霊がもう何もなしえなくなる位の大きな意志になるのです。悪霊も、もう人間にとりついても無駄だと観念したのでしょう。豚だったらイエス様のもとに行こうとする意志など持たないだろうから楽だ、パニックに陥ることもないということだったのでしょう。そしてどうなったか?案の定、豚は一直線に自己破滅に突き進んでしまいました。

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のようにどんなに小さくとも破滅から助かろうとする意志があって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔するものが次々になぎ倒されていくような神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば代わりに神の力が働いてくれてイエス様のもとに行けるのです。

 しかしながら、私たちの場合は、悪霊追い出しの奇跡をする生身のイエス様が身近におられません。今イエス様は再臨の日まで天の父なるみ神の右におられるからです。しかし、心配には及びません。聖書を繙けばイエス様の教えと業が数多く証言されています。あわせて十字架と復活の業を成し遂げられたことも証言されています。目撃者は目で見た通りに耳で聞いた通りに信じました。私たちの場合は、聖書に記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。そうすることで、イエス様が十字架で果たしてくれた人間の罪の償いがこの私にとっての償いになり、罪を償ってもらったのこの私は神から罪を赦された者として見なされて創造主の神と結びつきを持って生き始めます。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロは、洗礼を受けた者はキリストを衣服のように身に纏っているのだと言います。神は私たちが纏っているキリストをご覧になるので、私たちのことを罪を償われて赦された者と見て下さるのです。悪霊はイエス様の前で動揺しパニック状態になりました。私たちは身に纏っているイエス様を悪霊に示してあげれば、悪霊はあの時と同じようにパニックに陥るのです。

4.勧めと励まし

 悪霊が目指すことは、キリスト信仰者が身に纏っているイエス様の衣を手放させて、人間と神との結びつきを断ち切ることです。しかし、神は私たちが衣をしっかり纏えるように、神との結びつきを保てるように聖書の御言葉と聖礼典を私たちに与えて下さいました。聖書の御言葉を通してイエス様が救い主であることはその通りですという心があれば、それは洗礼を通して与えられた聖霊がその心の持ち主に働いている証拠です。悪霊が取りつく島などありません。その上、聖餐を受ければ、パンとぶどう酒を介してイエス様そのものを自分の内に取り込むことになり、受けるごとにイエス様との結びつきは強まります。イエス様の衣がしっかり纏われている状態になります。

 主にある兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰者が聖書の御言葉と聖礼典に密接に結びつけばつくほど悪霊が忌み嫌うことをしていることになり、悪霊を無力にすることになるのです。まさにこれが、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

rieska

6月の料理クラブは梅雨に入った14日に開催しました。今回はフィンランドのポテト・フラットブレッド「Rieska」と「田舎風サラダMaalaissalaatti」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、リエスカのマッシュポテトを作ります。茹でたジャガイモをつぶして塩と牛乳を加えます。それから生地作りに入ります。マッシュポテトに材料を順番に加えて混ぜると柔らかい生地が出来ます。生地を鉄板の上にのせて薄く伸ばして沢山の丸いリエスカで一杯にします。

perunarieska

イーストsaradaを使わないのですぐオーブンに入れて焼きます。焼き上げている間、台所から美味しいそうな香りが広がってきました。オーブンの中を覗くと早くもきれいな焼き色のリエスカが出来ています。「美味しそう、早く食べてみたい」の声が。

リエスカの次はサラダの番です。皆で一緒にサラダの材料を洗って刻み、ポテトをフライパンで炒めて準備完了。ボールにレタス、ピクルス、ポテト、焼きサーモンを順番に重ねるように入れてきれいな色とりどりのサラダの出来上がりです。さて、どんな味のサラダなのかなあ、とみんな楽しみでした。

saradaテーブルのセッティングをして、出来たばかりのリエスカと田舎風サラダをみんなで一緒に味わいます!リエスカにエッグバターをのせてサラダと一緒に味わうと、「美味しい!」、「リエスカもサラダもぴったり合って美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。皆さんと一緒に美味しく頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時にフィンランドの新じゃがや天の神さまの祝福について聖書のお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間お休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、また秋にお会いしましょう!

 

2025年6月14日料理クラブのお話

今日皆さんが作ったジャガイモのリエスカはフィンランドの伝統的なパンの一つです。私の母もお祖母さんも作っていました。今も家庭でも作れるし、お店でも販売しています。

昔リエスカは、薪で暖めるオーブンで300℃から400℃の高い温度で焼くのが普通でした。私の母も、パンを作る時は、薪で暖めたオーブンで一番初めにリエスカを焼いて、オーブンの温度が下がってから他のパンを焼きました。いつも母がパンを作る時は、子供たちはリエスカが出来上がるのを楽しみにしていました。出来上がった熱いリエスカにバターを塗って美味しく食べたことをよく覚えています。

sarada今日作った「田舎風」のサラダにもジャガイモも入れたので、今日は新ジャカを沢山使ったメニューでした。フィンランド人は殆ど毎日ジャガイモの料理を作るので、ジャガイモはフィンランドの食文化の中でとても重要な役割を果たしています。5月6月になると、フィンランド人は、その夏の新ジャカが待ちどうしくなります。私の実家にもジャガイモの畑があり、ジャガイモを育てました。新ジャガはいつ食べられるかなと、みんな毎日畑を見に行きました。十分大きくなったらジャガイモ掘りです。低木みたいなものを茎から一気に引き抜くと、長い根にジャガイモが沢山付いていました。新じゃがは少し小さいですが、白くてとてもきれいで、茹でてバターをのせただけでも美味しいです。

たった一つの種芋から沢山のジャガイモがとれるのはいつも不思議に感じました。これは天の神さまの御手の業だと思いました。天の神さまはこのように目で見える形で祝福して下さるのだと感じたのです。このような神さまの祝福は私たちの生活の中でも様々な形で表れていると思います。

聖書は神さまの祝福について沢山教えています。有名なのは「五つのパンと二匹の魚」のお話です。それを紹介したいと思います。

ある時イエス様の教えを聞くために大勢の人たちが集まってきました。人々はイエス様の教えに夢中になって、時間が立つのも忘れてしまいました。ところが時間も遅くなり、みんなだんだんお腹がすいてきました。弟子たちは心配してイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、みんな近くの村に行って何か食べ物を買うことができるでしょう。」しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」と言ったのです。弟子たちはお金はみんなのを合わせて五千人の人たちにパンを買うにはとても少なすぎました。弟子たちはイエス様に「この金額では無理です」と言いました。そこでイエス様は、群衆の中にパンを持っている人がいるか調べるように命じました。

弟子たちは五つのパンと二匹の魚を持っている男の子を見つけました。弟子たちはこんな少ないパンと魚で一体何ができるのだろうかと思いましたが、イエス様の言う通りにしました。イエス様は五つのパンと二匹の魚を高く掲げて、神様に感謝してお祈りしました。その後で弟子たちにパンと魚を渡して、群衆に分けるように命じました。すると不思議なことに、五千人の人たちはパンと魚をお腹いっぱいになる位に食べたのです。そして、残ったパンのかけらを集めると、十二の籠が一杯になったのです。

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この出来事で神さまの祝福が目で見える形で現れました。祝福とは何でしょうか。その言葉は皆さんもよく聞くと思います。キリスト教では祝福とは神さまの良いみ心が見える形や見えない形で現れることを意味します。神さまの良いみ心が見える形で現れるのは自然の美しさや豊かさがそのものです。私たちの日常の生活の中にもあります。私たちが当たり前のように持っている食べ物、服、住まい、健康にも神さまの良いみ心が現れています。

しかしもし食べ物に困ったり、病気になったりしたら神さまの良いみ心がなくなってしまったことになるのでしょうか。イエス様を信じる人はそのように考えません。信じる人は食べ物に困ったり、病気になったりしたら、神さまは助けて下さると信頼してお祈りしたら歩み続けます。困っている時は神さまの良いみ心が見えない形で働いている時なのだと信じているからです。どうしてそのように信じれるのかは、パウロがローマの信徒への手紙の中でこう言っているからです。

「私たち全ての為に、その御子をささえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」
ローマの信徒への手紙8章32節

弟子たちが五つのパンと二匹の魚を見た時、これには何も意味はないと思ったでしょう。しかしイエス様を信じて言い通りにしたら、意味がないと思ったものの中に神さまの良いみ心が見えない形で働き出したのです。そして気がついたら大きなことが起きたのです。これが神さまの祝福です。