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説教「イエス・キリストは聖書と礼拝を通して私たちのそばにおられる」 吉村博明 牧師 、ルカによる福音書2章41~52節

主日礼拝説教 2024年12月29日 降誕節第一主日

聖書日課 サムエル上2章18-20、26節、コロサイ3章12-17節、ルカ2章41-52節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様が12歳の時の出来事についてです。両親と一緒にエルサレムの過越祭に参加した後で行方不明になってしまった、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという出来事です。神殿でイエス様は神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。よく見ると、この出来事は私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。母マリアとイエス様のやり取りの中にその大事なことがわかるカギがあります。今日はそれについて見てみましょう。

2.神のひとり子が人間として生まれ出た後の成長

今日の個所はよく目を見開いて読むと、成人するまでのイエス様の生涯のことがいろいろわかってきます。マルコ福音書とヨハネ福音書のイエス様の記録は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。翻って、マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まりまり、双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。例えば、ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後のことは今日のルカ2章の箇所で12歳の時の出来事が記されているだけです。あとは洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年頃のことなので、この12歳の時の出来事は幼少期と大人期の間の長い空白期の中の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでもイエス様のことがいろいろわかってきます。

 まず、マリアとヨセフが毎年過越祭に参加していたことに注目します。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、どうしてエルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?それは、旅行が一家族で行うものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味があります。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、きっとまた誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたかがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端が窺えるのです。

 そして12歳の時に今までになかったことが起こりました。イエス様は両親と一緒に帰途につかず神殿に残りました。両親は行方不明になった子供を必死に探し回り、やっと見つかったと思ったら、なんと神殿で律法学者と議論しているではありませんか!マリアとヨセフの驚きようと言ったらなかったでしょう。この出来事について後ほど詳しく見てみます。

 この出来事の後のイエス様の様子はどうなったでしょうか?51節を見ると、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」とあります。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけない、いい子で生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。

 洗礼者ヨハネ登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に抱く愛顧も増していった」です。そういうわけで、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年に育ったのでしょう。その彼がやがて、人間と神の関係の障害となっている問題、罪と死の問題を解決するために自らを犠牲に供する道を進むことになるのです。

3.イエス様は神に関する事柄の中にいなければならない

以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。

 マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。マリアとヨセフは1日分の帰り路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。加えてエルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を行方不明の一人の子供を捜し出すというのは絶望的な感じがしてしまいます。その時の二人の必死の思いはいかほどだったか想像に難くありません。運よくイエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶどころではありませんでした。見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。なんだこれは、と両親が唖然として様子が目に浮かびます。

 そこでマリアの問いに対するイエス様の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言ってはいないのです。「どうして捜したのか」と言うと、あなたたちは捜す必要はなかったのにどうして捜したのですか?と聞いていることになります。イエス様はそんなことは聞いていません。じゃ、何を聞いたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」少しわかりにくいですが、意味はこうです。あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」がそれです。「父の家」とは父なるみ神の家、つまりエルサレムの神殿のことです。ところが、ここも説明が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。もちろん、神殿はそうした事柄の一つですが、神殿の他にも「父に属する事柄、父に関する事柄」はあります。それでは、他にどんなことがあるのかということをこれから見て行きます。「私は、父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」。イエス様がいなければならない「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か?

 エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としてはまだ12歳です。ということは、言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でもお祈りし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの日、律法学者の話を耳にした時、以前だったら抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時は何が問題になっているかがわかるようになっていたのです。

 それでは、12歳のイエス様は律法学者の教えに対してどんなわかりかたをしたのでしょうか? 12歳のイエス様の言語能力と語彙力は、確かに30歳や40歳の学者よりも限られているかもしれません。しかし、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年頃になったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言って教えていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。なぜなら、神は彼の父だからです。イエス様はこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思については被造物である人間なんかよりもよくわかっていました。それで律法学者の公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。12歳のイエス様の言葉は学者が使う言葉とは違うけれど、神のことを全てわかっているので質問も答えも本質をつくものだったでしょう。人々が驚いたのも当然です。

 ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなけらばならないという意味ではなかったのです。そうではなくて、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力がありました。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるでしょうか?マタイ7章28節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」神のひとり子と人間の知識人の差は既に歴然としていたのです。

4.勧めと励まし

ここでイエス様を捜す、見出すということについて、私たちの場合はイエス様を捜す、見出すというのはどういうことか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時とか、私たちに苦難や困難が降りかかる時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。キリスト信仰者は神に祈る時、必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」祈ります、ということです。他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主です、ということを父に知らせます。なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の神罰を代わりに受けて下さったからです。そのようにして私と神との間を取り持って下さったからです。そして死から復活されたことで私のために死を滅ぼして復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さったからです。今その道を共に歩んで下さっているからです。イエス様は、世の終わりまで一緒にいると約束されました。

 ところが、このように祈っても苦難や困難が終わらないと、イエス様は一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?行方不明になってしまったのか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰は、イエス様がそばにいたら苦難や困難は皆無という見方をしません。逆に苦難や困難があるのはそばにいない証拠だという見方もしません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。祈り願い求めているのにその通りにならないのはなぜかという質問をたてて答えを求めようとすると、日本の場合はすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰は、もちろん苦難困難は早く終わるにこしたことはないが、仮に早く終わらなくてもトンネルの出口を目指してイエス様が一緒に歩いて下さるという信仰です。

 それでは、苦難や困難の中でも、暗いトンネルの中でも、イエス様が一緒に歩いて下さることがどうしてわかるのか?それについては、彼が母マリアに言った言葉を思い出しましょう。「私は神に関わる事柄の中にいなければならない。」神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。まず、聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。行方不明なんかではありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちはこの暗闇のような世の中でひとりぼっちで立ちすくんでしまうこともないし、正しい方角もわからずにやみくもに進むということもないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

クリスマス・イブ礼拝の説教「福音の光を心に届けるクリスマス」 吉村博明 牧師 、ルカによる福音書2章1~20節

降誕祭前夜礼拝説教 2024年12月24日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.はじめに

今私たちはイエス・キリスト誕生に至る流れを聖書に基づいて駆け足で見ました。最後に朗読されたルカ福音書2章1~20節はイエス様が誕生した時の出来事を伝える個所です。世界中のキリスト教会のクリスマス・イブの礼拝で朗読されます。このイブの日、日本やオーストラリアで世界に先駆けて朗読されます。そこからユーラシア大陸にあるキリスト教会、アフリカやヨーロッパにある教会、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸にある教会で朗読されて世界を一周します。天にいます父なるみ神よ、どうか、戦乱や自然災害、権威主義体制のもとで平和な礼拝を持つことが難しいところでも、今日大勢の人がこの聖句に耳を傾けて、外面的な混乱に左右されない内面的な平安を持つことができるようにして下さい。アーメン

 さて、毎年同じ聖句を読んで聞かされてキリスト教徒は飽きないのかと言われるかもしれません。これは飽きる飽きないの問題ではありません。この日はイエス様の誕生を覚える日です。主の誕生を覚えるのに何が相応しいかと言えば、この聖句に耳を傾けて思いを巡らすことをおいて他にはありません。キリスト信仰者は、創造主の神と自分自身との関係について、また信仰者として自分のこの世での立ち位置について、毎週日曜の礼拝や日々の生活の中で確認しながら人生を歩みます。同じ聖句を何度も読んだり聞いたりするのは、神の御言葉は何があっても揺るがない確固としたものだからです。そのようなものに照らし合わせてこそ神との関係や自分の立ち位置を確認することが出来るのです。揺るいでしまうものや確固としていないものに照らし合わせたら、神との関係も自分の立ち位置もわからなくなってしまいます。

2.世界で一番最初のクリスマスの出来事

さて、ヨセフとマリアがナザレという町から150キロ離れたベツレヘムという町に旅をしていました。時はローマ帝国がユダヤ民族を占領下に置いていた時代です。当時ユダヤ民族にはヘロデという血筋的には異民族に属する王様がいましたが、これはローマに服従するもので独立国ではありませんでした。ローマの皇帝が税金の取り立てを強化するため領民に対して本籍地で住民登録せよと勅令を発しました。ヨセフの遠い先祖はかつての民族の英雄ダビデ王だったので本籍地はダビデ家系発祥の地のベツレヘムでした。それで二人はベツレヘムに旅立ったのです。

 その時、マリアは身重で出産間近でした。実は二人はまだ婚約中で同居もしていませんでした。マタイ福音書1章にあるように、マリアの妊娠を知ったヨセフは、もうこれで婚約は破棄かと悩みましたが、天使から、マリアの妊娠は神の霊つまり聖霊の力が働いたことによる、生まれてくる子をイエスと名付けよ、と告げられていました。つまり、引き取って育てよ、ということです。マリアもルカ1章にあるように妊娠前に天使から同じように告げられていました。戒律厳しいユダヤ教社会の中で婚約段階の妊娠は良からぬ憶測や疑いを生んだでしょう。しかし、二人は神の計画ならばと忍んだのでした。まさにその時、ローマ皇帝の勅令が下ったのです。

 さて、ベツレヘムに着いてみると、同じ目的で旅する人が多かったのか、宿屋は満杯でした。マリアの陣痛が始まってしまいました。二人は馬小屋を案内されて、そこでマリアは赤ちゃんを産みました。二人は赤ちゃんを布に包んで飼い葉おけの中に寝かせました。夜も大分更けた頃でした。

 その同じ時に町の郊外で羊飼いたちが野宿して羊の群れの番をしていました。暗い夜空の下、獣が襲ってこないか盗人がこないか起きた羊がどこかに行ってしまわないか、神経を張り詰めていなければなりません。不安と疲れがあったでしょう。そこに突然、目も眩むような輝く天使が現れたのです。羊飼いたちが恐れおののいたのは言うまでもありません。天使は「恐れるな」と言って続けました。旧約聖書に預言されていたメシア救世主が今夜いにしえのダビデの町ベツレヘムでお生まれになったと。メシアが本当に誕生した印として、布に包まれて飼い葉おけに寝かしつけてある赤ちゃんを見つけたら、それがその子だと天使は教えました。羊飼いたちは呆気にとられて天使のお告げを聞いていたでしょう。

 その時でした、天使の大軍が夜空に現れて一斉に神を賛美したのです。一人の天使の輝きでも眩しい位なのに大勢いたら夜空の闇などどこかに消え去ってしまったでしょう。天使たちの賛美の声が天空に響き渡りました。

「天には栄光、神に。
地には平和、御心に適う人に。」

 賛美し終わると天使たちは最初の天使も一緒に皆、天空に消え去りました。夜空と闇と静けさが戻ってきました。この時の羊飼いたちの心はどうだったでしょうか?ベツレヘムへ行こう!恐れも不安も疲れも皆消え去っていました。ただ、羊の群れは置き去りにはできないので、皆一緒に出発したでしょう。夜の街に突然羊飼いと羊の群れが入って来たので町はちょっとした騒ぎになったでしょう。メシアのいる馬小屋が見つかりました。何の騒ぎかと集まってきた人たちに羊飼いは見聞きしたことを話します。天使はこの子がメシアだと言っていたと。人々は驚きながらも半信半疑だったでしょう。それでも羊飼たちは喜びに溢れ神を賛美しながら野営地に帰って行きました。マリアは飼い葉おけの中で静かに眠る赤ちゃんを見つめながら、心の中で羊飼いたちの話したことやかつて天使が告げたことを思い巡らしていました。

3.羊飼いの心の変化は福音の光を受け取る人にも起こる

以上が世界で一番最初のクリスマスの出来事でした。ここで羊飼いたちの心の動きに注目してみましょう。羊飼いたちは暗闇の中で心配と疲労を抱えて過ごしていました。そこに暗闇を打ち消す天使の輝きを見て恐れおののきました。天使のお告げと賛美を聞いた後、暗闇は戻ってきましたが、もう心配も疲労もありません。告げられたことが本当だと信じてそれを確認しようと出かけます。そしてメシアに出会うや、心は神への感謝と賛美に満たされてまた暗闇の中に戻って行ったのです。しかし、暗闇はもう以前のような心配や疲労の暗闇ではありませんでした。メシアを確認できたことで希望と神への感謝で心が一杯になったのです。周りは暗闇でも心は光に満たされたのです。

 実は同じような心の動きは、イエス・キリストの福音を聞いて心で受け取った人にも起こります。まず、イエス・キリストの福音とは何か、少し申し上げます。それは、神との結びつきを失ってしまった人間がイエス様のおかげで持てるようになって、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということです。人間が神との結びつきを失った経緯は旧約聖書の創世記3章に記されています。天地創造の神に造られたばかりの人間が蛇の姿をした悪魔の言う通りにして神の意思に反しようとする性向を持つようになってしまいました。これを聖書は罪と呼びます。罪が人間に入り込んだ結果、人間は死ぬ存在になってしまったということも聖書は説き明かします。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いでしまうものになってしまったのです。たとえ犯罪を犯さなくても人間には奥深いところに受け継いでいる罪があるため、何かのきっかけで悪いことを心に描いたり言葉に出してしまったり、最悪の場合は行為に出してしまうのです。これらは全て人間が神との結びつきを失ってしまったことの現れです。

 神はこの状態を変えて人間がまた自分と結びつきをもてるようにしてあげようと考え、それでひとり子を自分のもとから贈られたのでした。ひとり子は神でありながら、人間の母親の胎内を通して人間として生まれてきました。子はイエスと名付けられ、成人に達すると大々的に人々に天地創造の神や来るべき神の御国についてに教え、神の子のしるしとして無数の奇跡の業も行いました。しかし、彼に脅威を感じたユダヤ教社会の指導者たちによって捕らえられ、ローマ帝国に対する反逆者として十字架刑に処せられてしまいました。

 ところが実はこれは全く表向きの出来事でした。十字架の出来事の真相は表向きのもっと奥深いところにあったのです。それは、神がひとり子に人間の罪の償いをさせたという贖罪の出来事だったのです。イエス様は人間の罪を全部自分で引き受けて本来なら人間が受けるべき神罰を代わりに受けられたのでした。イエス様は死から三日後に復活され、その40日後に弟子たちの見ている前で天にあげられました。これで十字架の出来事の真相が明らかになったのでした。 全て旧約聖書に預言されていたことが事後的にわかったのです。

 それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。この結びつきは、人生順風満帆の時でも大風逆風の時でも全く変わらずにあります。この世から別れる時も神と結びついたまま別れられ、復活の日が来たら再臨するイエス様の力で眠りから起こされて、イエス様と同じように復活を遂げて永遠の神の御国に迎え入れられるようになるのです。これがイエス・キリストの福音です。

 私たちがこの福音を受け入れてそれを携えて生きるようになると、羊飼いたちに起きたのと同じ変化が起こります。最初は暗闇の中で心配と疲労を抱えて生きています。聖書の御言葉は最初、神聖な輝きを持つ神は罪を断罪する恐ろしい方であることを伝えます。それで私たちは羊飼いたちのように神の神聖な光に恐れを抱くのです。しかし、聖書は同時に次のことも伝えます。人間が罪と一緒に断罪されて滅びてしまわないために神がひとり子を贈って十字架と復活の業を果たさせたとうことです。神の神聖な光は罪の汚れを断罪する裁きの光だけではないのです。罪を赦す恵みの光でもあるのです。恵みの光に自分の全てを委ねるのが私たちのキリスト信仰です。そうすれば恐れは消えて安心が取って代わります。一時の気休めの安心ではなく本当の安心です。ベツレヘムの馬小屋に出かけた羊飼いたちのように、私たちも教会の礼拝に出かけて、そこで御言葉の説教に耳を傾け聖餐式に与ることで本当の安心を確認します。そして、新しい一週間に歩み出します。それはちょうど、羊飼いたちが感謝と賛美に心を満たされて暗闇をものともせずに戻って行ったのと同じです。

4.勧めと励まし

このようにイエス・キリストの福音を心で受け取った人はこの世の暗闇をものともしないようになる光を受け取ったのです。どうして福音の光を受け取ったら暗闇のようなこの世をものともしないでいられるのか?それは、先ほども申したようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人は神と揺るがない結びつきを持てるようになったからですが、聖書ではその結びつきを神との平和と言います。使徒パウロもローマ5章で、信仰によって神との結びつきを回復したキリスト信仰者は神と平和な関係があると説いています。天使の軍勢が賛美をした時、「神の御心に適う人に平和」と言いました。「神の御心に適う人」というのは、イエス・キリストの福音の光を受け取って神との結びつきを回復した人のことです。そのような人が「平和

を持つというのです。罪を償ってもらって罪の赦しの中で生きられるようになると、もう神との間に敵対関係はないのです。神と平和な関係があれば、たとえ周りは平和が失われた状況があっても、自分と神との平和な関係に影響はない、周りが平和か動乱かに関係なく自分には失われない動じない平和がある、そういう確固とした内なる平和です。この世が暗闇のようになっても失われない平和です。

 このような確固とした内なる平和を持つようになったキリスト信仰者は今度は自分の外に対しても平和な関係を築こうとするようになるとパウロはローマ12章で説きます。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。応じない場合でも相手のまねをして非友好的な態度はとらない。悪に対して悪をもって返さない、善をもって悪に勝て。自分で復讐はせず、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよと。なんだか高尚な道徳を説かれているような気がしてしまうかもしれませんが、そうではないのです。キリスト信仰者は自分のことや、この世での自分の立ち位置を考える時は、神との関係において見、神との平和な関係は大丈夫か自省しながら考えます。だから、自分中心にならないのです。神との関係がなくて、そういうことをしろと言われたら、全て自分の力で行わなければならなくなり、それこそ一般人には縁遠い高尚な道徳になります。

 いくら神から消えない光、揺るがない平和を頂いて、周囲の人と平和な関係を築くのが大事と思っても、この世でいろいろなことに遭遇すると思いも萎えてしまうというのが現実です。だから、消えない光と揺るがない平和を確認する場として日曜日の礼拝があるのです。どうか、このクリスマスの時も、イエス・キリストの福音の光が多くの人の心に届いて、神と平和な関係を築けた人が暗闇の恐れを捨てて周囲との平和を築く力が与えられますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

フィンランドからスオミ教会に届いたクリスマスの挨拶(12月22日現在)

セイヤ&パーヴォ、イルセ&家族、カイサ&家族、ラウラ&家族・ヘイッキネン

(P.ヘイッキネン師は1993年から1999年までと2004年から2010年までスオミ教会の牧師を務めました。)

Suomi Kirkkoon kokoontunut joulujuhla väki. On ilo tervehtiä teitä kaikkia, jotka olette kokoontuneet Kuninkaan syntymäpäivä Juhlaa. Tämä Kuningas ei ole kuka tahansa kuningas. Juhlistatte henkilön syntymäpäivää, Marian Pojan, joka samalla on TAIVAAN JA MAAN KUNINGAS; ja samalla sinunkin Herrasi ja Vapahtajasi. Kaikukoon sydämestämme pyyntö: Tervetuloa!

(クリスマスをお祝いするためにスオミ教会にお集まりになった皆さま。王であられる方のご降誕をお祝いするために集まった皆さまにご挨拶申し上げられるのは喜びです。この王は普通の王ではありません。皆さまが誕生をお祝いするマリアの子はまた天と地の王であり、またあなたの主であり救い主でもあります。お生まれになる方に向かって私たちの心に「ようこそ!

が響きますように。)

シルッカリーサ&ペッカ・フフティネン(P.フフティネン師は1991年から1993年までスオミ教会の牧師を務めました。その後、P.フフティネン師はSLEYの海外伝道局長、シルッカリーサさんはSLEYの海外伝道局アジア地域コーディネーターを歴任。)

スオミ教会の兄弟姉妹の皆様

クリスマスおめでとうございます。

「いと高きところには栄光、神にあれ」(ルカ2章14節)

この喜びに満ちた賛美が、クリスマスの夜、天使と天の軍勢の口から響き渡りました。これは私たちとすべての人々に与えられた力強い賛美でした。世界中のキリスト教会は同じ賛美の歌を大声で歌うことができるように。罪の力はイエス・キリストの復活によって無にされました。

「いと高きところには栄光、神にあれ」ハレルヤ

ペンティ・マルッティラ師(SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーター兼SLEYハメーンリンナ教会主任牧師)

Älkää pelätkö! Minä ilmoitan teille ilosanoman, suuren ilon koko kansalle.

Tänään on teille Daavidin kaupungissa syntynyt Vapahtaja. Hän on Kristus, Herra.” (Luuk. 2:10-11) Jeesus syntyi Vapahtajaksi kaikille maailman ihmisille. Ensiksi ilosanoma ilmoitettiin paimenille, jotka olivat eräs oman yhteiskuntansa halveksituimmista ihmisryhmistä. Hän on tullut sinuakin varten, vaikka ehkä ajattelet, että et kelpaa Jumalalle.

(『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。』(ルカ2章10~11節) イエス様は世界の全ての人の救い主としてお生まれになりました。この喜びの知らせは、当時の社会の中で取るに足らないと見なされた階層の人たちに真っ先に告げ知らされました。この方はあなたのためにも来られたのです。ひょっとしたら、自分は神聖な神に相応しくないと思ってしまっても、そのあなたのために来られたのです。)

ミカ&ティーナ・ラトヴァラスク(ラトヴァラスク夫妻は2007年~2013年までSLEYの日本派遣宣教師、現在ティーナさんはSLEY海外伝道局インターネット伝道部門日本語伝道担当及びSLEYのオンライン聖書講座Bible Toolboxの統括担当)

「キリストにある兄弟姉妹、スオミ教会の皆さま、クリスマスのこの素晴らしい季節に、神の愛と恵みが皆様の上に満ち溢れますように。今年も来年もこの救い主に結ばれて歩みましょう。ルカ2章10~11節を添えて。」

高木賢&アンナカイサ(高木氏はSLEY海外伝道局インターネット伝道部門日本語伝道担当、アンナカイサさんは80年代90年代にSLEYの日本派遣宣教師、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターを歴任)

「御子イエス様のお誕生を感謝します。ここ数年、日本に行く機会がなかなかありませんが、スオミ教会のみなさんと天の御国で再会できることを今から楽しみにしています。それまで、ときおりよろめきながらも、光の子として光の中を共に歩んでまいりましょう。『しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めるのである。』(第1ヨハネ1章7節)

マリリーサ&ティモ・ハブカイネン(1980年代から2000年代までSLEYの日本派遣宣教師、ティモ師は現在ナーンタリ市のナーンタリ教会の青年活動主事、ご夫妻は2025年春にSLEYが派遣する日本伝道旅行を計画しています。)

「スオミ教会の皆さん、来年の3月に会うときを楽しみに待っています。クリスマスが近づいてきました。祝福されたキリストのお誕生日を過ごして下さい。ルカ2章10~11節を添えて。」

2024年12月22日(日)待降節第四主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書1章39〜45節

説教題:「主はご自身がご計画のうちに召したものを守り導かれる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所の直前では、御使いがナザレのマリヤに現れ、神様が旧約聖書の預言を通して約束してきた救い主が生まれると知らせたことが書かれてあります。しかし問題はその救い主が、まだ結婚もしていない処女マリア自身の中に聖霊によって妊り、彼女自身がその救い主となる赤子を産むという信じられない驚くべき知らせでもあったということでした。それはマリヤ自身にとっては喜びどころか、むしろ、戸惑いであり、恐れであったとも書かれています。そのようにマリヤは御使の告げることを、信じられず疑ってしまいます。けれども神の使いは、そんな信じられず怖れ不安になるマリヤを、疑って恐れているからと、救い主の母として相応しくないと責めたりはしませんでした。それどころかむしろ、御使いは「神があなたと共にいる、神にとって不可能なことはない、神が全てをなすのだ」と、どこまでも彼女を励ますのでした。そのような神様の驚くべき信じられない出来事が進められていく中で、神によって召された一人の罪深き女性は、神の慰めと励ましに支えられ、神によって与えられ召され神によって導かれる信仰の歩みを開始するのです。それは決して平穏でも薔薇色でもない「苦難の歩み」の始まりではあるのですが、真実な神様はその約束の初めから変わることなく、マリヤに絶え間ない励ましと慰めを与え続け導いているのが今日のところであると言えるでしょう。39節から見ていきましょう。

2、「エリサベトのところへ」

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

 御使いとの出来事の後、マリヤはユダの町に向かいます。それは40節にある通り、親類のザカリヤとエリサベト夫妻の家に行くためでした。そして56節にある通りに、そこで三ヶ月ほど過ごすためです。

 この「マリヤのエリサベト訪問」はいくつかの理由と意味があると言えます。

 まずよく言われるように、婚前の妊娠は当時のユダヤ社会では極めて不道徳なことでした。町中のさらし者になるのは避けられません。だからこそマタイ1章にある通り、ヨセフは内密に去らせようとさえしました。ですからまずナザレで予想されるその困難な状況を、このユダの町のザカリヤとエルサベトの家で三ヶ月過ごすことによって回避することができるということがあります。マタイの福音書にあるように、ヨセフが御使いからお告げを受けた後、ヨセフは御使いから言われた通りマリヤを花嫁として迎え入れ、そしてその後、マリヤだけ、ユダに行き三ヶ月過ごしたということは十分、考えられることです。

 けれどもこの行動は、何よりこの直前に書かれている御使いが与えた励ましの言葉に導かれていることであると言うことこそ大事な点です。それは36節でした。マリヤが「まだ男の人を知らないにどうして子を宿すことなどあろうか」と不安を口にした時に、御使いは、マリヤを励ましました。聖霊が共にありその力が助けると。そしてこう言って励ました言葉でした。

「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

 この言葉は、マリヤに対する励ましとなったのではないでしょうか。この言葉によって、マリヤは、自分と同じような神からの不思議をなんと親類のエリサベトも経験していることを知流ことになります。御使いはエリサベトにも現れたんだと。正しくはみ使いは夫のザカリヤに現れたのですが。このように御使いは、この言葉を持って、マリヤを励ますと同時に、エリサベトの家へと導いているとも言えるのではないでしょうか。マリヤはこのみ使いの言葉があったからこそ、エリサベトのもとに急いだことでしょう。

3、「神の言葉は私たちにとって何一つ無駄に語られない」

 このように神様は、この救い主キリストを身ごもるという一つの出来事、計画が、一人の罪人であるマリヤにとってはとてつもない戸惑いであり恐れであるというその現実を、きちんと知ってくださっていることがわかるのです。神様は、マリヤのこと、つまり彼女の気持ちも恐れも心配も弱さも、そのようなことを一切、何も考えず、無責任に、ただお気楽に神様の喜びの計画や知らせを一方的に御使いに語らせているのでは決してありません。マリヤがこの結婚前に子を身ごもることによって、罪深い人間の社会であるナザレの村でどのような大変なことになるのかも、その不安も恐れも全てご存知なのです。同じように、恐れたヨセフが内密にマリヤを去らせようとした時に、み使いはヨセフに「去らせてはいけない。マリヤを妻として迎えなさい」と言ったことも、根拠のない無責任な言葉ではなく、神様の完全な計画のうちに、ヨセフもマリヤもきちんと導き助け、計画を成就させることをしっかりと見ていての言葉であったということが見えてくるでしょう。御使いがマリヤにエリサベトに起こっていることを伝えたことは、非常に深い意味があるのです。それはマリヤをエリサベトの元に三ヶ月滞在させ、マリヤを守るためなのです。もちろんそれは同時に、お腹の中の御子キリストをも守ることになるのです。

 この事実は今日を生きる信仰者である私たちにとっての恵みでもあります。つまり、神様が私たち信仰者に、何よりも毎週、牧師による説教や、そして日々ディボーションなどを通して与えてくださるみ言葉には、私たちの思いをはるかに超えた、一つ一つ意味が必ずあるということです。そして何よりそれは、私たちを決して苦しめ恐れさせ重荷を負わせるためではなくて、苦しみや恐れや不安にある私たちを導き、守るために語りかけてくださっているということが、このところから教えられているのではないでしょうか。

 そして、それは実際的な慰めとなってもいるのです。マリヤにとってはもちろんなのですが、エリサベトにとってもです。二人が互いに会うことは互いにとって大きな励みになるでしょう。男性には経験できないことですが、妊婦、特に初めての子の時、女性はものすごい精神的にも孤独、不安になると聞きます。そんな時に、妊婦同士の交わりや会話や情報交換によって安心したり、励まされたりすることがあることでしょう。まさにそんな二人の時となったはずです。ですから、確かに、エリサベトがやがて産むバプテスマのヨハネは、御子イエスの前に来て道を整え、イエスを指し示す預言者です。けれども、ある意味、今日のこの出来事は、それだけではなく、そのヨハネの母エリサベトが、イエスの母マリヤのために、神が備えてくださった助け手であったことも重なるように見えてくるのです。そしてそれは、マリヤがエリサベトにとっての励まし手であり、助け手であったということでもあるでしょう。みなさん、エリサベトも不安であったでしょう。高齢とはいえ、何人も子供を産んでいる女性ではありませんでした。御使いは「不妊の女」と言っています。それまで子供がなかったのでした。そして、初めての出産はもちろん、高齢であるからこその、エリサベトにとっての妊娠、出産への不安と恐れは、計り知れず大きかったはずです。けれどもそんな中で、マリヤの存在、そしてマリヤに起こった出来事は、エリサベトへの神からのまさに助けであり慰めであり希望ではありませんか。マリヤが来たことは、エリサベトにとっては間違いなく、慰めと希望になったのです。

 どうでしょうか。このように、これらのことはまさにあのパウロがローマ8章28節で励ましている神の真理そのものです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 そのように、神様は確かにご自身が愛するご計画に従って召した人のために、その人の思いを遥かに超えて、時に背後で、全てのことに働いて益としてくださることの証しが見えてくるではありませんか。そのように、神様はそのご自身の言葉を持って約束したことに必ず責任を持ってくださるのです。私たちが立ち返りたいのは、神様の言葉、約束というのは、それほどまでの確かさ、真実さがある。そして、それは全て私たちのためであり、私たちへの愛と憐れみに満ちているということが教えられているのではないでしょうか。

4、「神は信仰者の不安や恐れを喜びと幸いに変える」

 そして、さらにこの後のことは、神様は本当に慰めの上にさらに慰めに満ちている方であることがわかるでしょう。マリヤがエリサベトに挨拶した時に不思議なことが起こります。41節〜45節

「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 マリヤがエリサベトに挨拶した時に、エリサベトのお腹の中の子が踊ったというのです。そして「聖霊に満たされて」彼女は喜びと賛美に溢れてそのことを証しするのでした。まず、感謝な事実は、聖霊は、エリサベトとも共にあり、導いていたということです。何度もいうように、エリサベトも不安と恐れにあったのは間違いありません。けれどもこのように、主はご自身が選び召し出した人を決して見捨てないし、聖霊にあって共にあり、そして、その約束されたことを聖霊なる主が果たすために働いていることがここには現れています。そして、決して完全な存在では無い、不安と恐れのエリサベトに、マリヤに対してもそうであったように、聖霊はその度毎に彼女に働き、慰め、励まし続けていることが見えて来ます。

 しかもここで、神は実際的なしるしを通しても示してくださっています。マリヤの挨拶に、もう一人の約束の男の子は答えるのです。それは不思議なことでしたが、エリサベトににとっては主の導きでした。それによって信仰が強められ、彼女の証しと告白に導かれているのです。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

と。

 まさにここにもルターの言う「聖徒であり同時に罪人である」信仰者の幸いな事実と証しがあるではありませんか。マリヤの時と同じです。繰り返しますが、私たちは皆一人一人、恵みにより義と認められた信仰者でありながらも、同時に、どこまでも罪人であり、戸惑い恐れる不完全な存在でもあります。それはエリサベト、マリヤであっても同じです。しかし、主がその彼女たちの弱さや不完全さをそのまま受け入れ、理解し、そして怒ったり、責めたり、見捨てたりするのではなく、絶えず、繰り返し、み言葉とその実現を持って励まし、慰めの上に慰めを与えることによって、主がその信仰を間違いなく、強めていることがここに教えられるでしょう。このように「信じる」ということ、信仰は決して律法ではなく、このようにどこまでも与えられる恵みであり、恵みのうちに神が進ませ神が実現する福音であるということがやはり貫かれているのです。そして、この後、46節以下で、同じように聖霊に導かれ、マリヤも賛美するわけです。喜びと希望の歌です。二人の女性に起こったことは、最初は恐れと戸惑いでした。信じられないことでした。しかしいずれも主が始め、主が計画し、主がもたらしたもの、主から天からの約束です。その主から来たもの、主から始まったものは、私たちの方で恐れと戸惑いに始まったとしても、最初は私たちの思いをはるかに超えたものであったとしても、しかし、主は約束の通り完全に私たちに働き、主が約束を必ず果たす、そして全てを益としてくださるのです。エリサベトやマリヤにそうであったように、私たちの恐れや戸惑いも、必ず、イエス様は、平安に、希望に、喜びに、賛美に変えてくださる、そのようにして、主はその恵みのうちに、福音の言葉を通して、聖霊を通して、そして具体的にしるしを通しても、働いてくださり、そのように私たちの信仰をも育て、励まし、強めてくださるのです。パウロはこう言っています。ローマ1章16〜17節

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 新改訳聖書では

「その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるから」

 ともあります。

5、「救い主キリストは私たちのために世に人としてこられた」

 私たちは、肉体も精神も弱り果てるものです。私たち自身は、どこまでも不完全な存在です。神の前に私たちは何もできません。罪深いものです。不信仰なものです。けれども今日見てきたことからもわかるように、神であるイエス様はそのような罪人である私たちのところに「こそ」人として生まれてくださるのです。それはヨハネ3章17節にあるように、私たちの罪を責め裁くためではありません。むしろその私たちの罪を私たちの代わりに全て背負って、十字架で死なれるために生まれるのです。しかし神がこの十字架で、神の御子に人類の全ての罪を見て、その罪の報いである死を私たちの代わりに御子に負わせ死なせたからこそ、この十字架のゆえに、そしてこの十字架のキリストを見るものを、神様はもうその罪を見ず全ての人々に「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。ですからこのイエスの誕生はイエスの十字架を示しています。神様から私たちへの真のクリスマスの贈り物は、イエス・キリストであり、この十字架にかかって死なれるイエス様とそこにある罪の赦しなのです。それが福音、良い知らせです。そして、それは全ての人々の前に差し出されていてもう誰でも受け取るだけになっているのです。信じるとは受け取ることです。その受け取る信仰さえも、イエス様は絶えず「与えます、さあ受けなさい」と語りかけ招いてくださっている恵みなのです。マリヤもエリサベトも私たちと変わらない罪人でしたが、その神の言葉とそこにある恵みの約束をそのまま受け取ったからこそ、弱さや不安や恐れは、希望と賛美に変えられていきました。それは「そうならなけれいけない、そうでなければならない」という律法としてではありません。神の恵みの約束、福音にただ信頼したがゆえです。ですから同じように私たちも、何度、人生で恐れたとしても躓いたとしても、倒れたとしても、戸惑ったとしても、失敗したとしても、その時、自分自身には何の力がなくても、このイエス・キリストのゆえに、イエス様が絶えず私たちに与えてくださる救いの恵み、福音のゆえにこそ、私たちは何度でも立ち上がることができる、いやイエス様が立たせて歩ませてくださるのです。イエス様が常に、今日も、来週も、来年も、いつもまで、み言葉を与えてくださり、励ましと慰め、愛と憐れみをもって私たちの手を取ってくださる。恐れや不安、戸惑いや失望を、喜びに、希望に、平安に、賛美に変えてくださる。それが信仰の歩み、救われていることの素晴らしさに他なりません。

 今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ私たちは、今日も罪赦され、この恵みの新しいいのちの道、イエス様のいのちに生かされている幸いと救いの確信を覚えながら、平安のうちにここから遣わされていきましょう。そして、その救いの確信と平安と喜びをもって、私たちは今週も神を愛し、隣人を愛していきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

クリスマス愛餐会

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

ケーキ

今年最後の家庭料理クラブは12月14日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマスの味がするスパイシー・チョコレートケーキとクリスマス・パイ”Joulutorttu”を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタート。最初にケーキを作ります。材料を測って、生地に入れるカルダモンやシナモンなどのスパイスを粉類に混ぜると直ぐスパイスの香りが広がりました。たちまち「いい香り!」との声が。卵と砂糖をハンドミキサーで白い泡になるまで泡立てます。それに粉類と溶かしたマーガリンを交互に加えると生地が出来上がります。それをケーキの型に入れて焼き始めます。ケーキを焼いている間に今度はクリスマス・パイを作り始めます。

パイシートを少し綿棒で伸ばして四角の形に切ります。それからプルーンジャムを四角の生地の真ん中にのせて、可愛い星形のパイをどんどん鉄板に並べていきます。パイを作っている間にケーキのスパイスの香りが教会中に広がりました。ケーキが焼き上がりました。

パイをオーブンに入れて、今度はケーキのトッピングを作り始めます。材料をボールに順番に入れて混ぜると、もう出来上がり。トッピングをケーキ全体に伸ばして飾りつけをします。皆さん、イチゴとクランベリーをケーキの上に綺麗に並べて素敵なクリスマス・ケーキが出来上がりました!

今回はフィンランドのクリスマス・ホットドリンク”Glögi”も用意しました。それを温めると、またクリスマスの香りが台所から一気に教会中に広がりました。

今回は、テーブルのセッティングをクリスマスの雰囲気にしました。皆さんワクワクしながら席に着いてチョコレートケーキにナイフを入れます。それからケーキ、クリスマス・パイ、”Glögi”を一緒に頂いて歓談の時を持ちました。そこでフィンランドのクリスマス料理や子供向けテレビ番組「アドベントカレンダー」をモニターで見て、あわせて聖書に記されている世界で最初のクリスマスの出来事についてお話を聞きました。料理クラブが終わる頃に教会の玄関前のイルミネーションが輝き出して、中も外もクリスマスの雰囲気に満たされました!

今回の料理クラブでは参加者の皆さんと一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来、とても感謝しています。次回の料理クラブは、年明けの1月はお休みですが、2月から再開する予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されるクリスマスをお迎え下さい!

ケーキ

 

料理クラブのお話2024年12月

今日は皆さんと一緒にスパイシーなチョコレートケーキとクリスマス・パイ「Joulutorttu」を作りました。フィンランドではクリスマスの季節のパウンド・ケーキや飾りつけのケーキの種類はとても多いです。最近は新しいケーキの種類もどんどん増えてきました。新しいケーキは多くの人たちが作るように宣伝します。例えば「このケーキはクリスマスの味がします!」というのは宣伝文句の一つです。しかし、フィンランドの本当のクリスマスのお菓子の味は何でしょうか?普通は今日のケーキにも入れたスパイスの味が昔からあります。その他にはプルーン、シロップ、ドライフルーツなどもクリスマスの味がします。

ケーキこの間フィンランドのクリスマス向けの雑誌をもらいました。そこにはクリスマスのメニューや飾り付けについての記事が沢山ありました。料理のきれいな写真は多かったですが、昔と同じメニューはありませんでした。お菓子も昔のお菓子と違いましたが、中に入れるスパイスはシナモンやカルダモンだったので、昔のクリスマスの味のものもありました。料理やお菓子の作り方は手間がそんなにかからないものが多かったので、現在の忙しいフィンランド人に合わせてレシピを作ったと思いました。しかし新しい美味しそうなクリスマス料理のレシピがあっても多くのフィンランド人はやはり伝統的なクリスマス料理を作りたいと思います。今年もフィンランド人のクリスマスの食卓には豚肉のオーブン焼き、ニンジンやポテトのキャセロール、ビーツのサラダなどが出されるでしょう。

ところでクリスマスの季節は子どもたちにとって特別な時期で皆クリスマスが待ち遠しいです。フィンランドでは毎年「アドベントカレンダー」という子ども向けのテレビ番組が放送されます。十分くらいの番組で12月1日から24日まで毎日放送されます。番組を通して子どもの育て方に関係する教え、例えば争いの解決や謝ることについての場面も出てきます。毎年の番組に共通してあるのはクリスマスを救え!ということです。今年のテーマは「いい子、悪い子」です。フィンランドのラップランドにあるKorvatunturiというところにサンタさんの活動拠点があります。そこでサンタさんのヘルパーたちが子どものプレセントを作ったり包んだりします。あるヘルパーは世界の子どもたちの様子を見て年をとっているマスターのヘルパーに報告します。マスターヘルパーは子どもがいい子か悪い子かカイドブックの規則を見て決めます。マスターヘルパーによると今年の子どもたちは皆悪い子です。「いい子」は一人しかいません。それで今年子どもたちはこのままではプレセントをもらえないことになってしまいます。他のヘルパーたちは困ってこの問題を解決する方法を考えています。解決出来なかったらクリスマスのお祝いは台無しで子どもたちはプレセントをもらえなくなります。それでヘルパーたちはクリスマスを救う方法を考えるのです。どんな解決になるのかこれからの楽しみです。

私たちはどうでしょうか。クリスマスの前に生活の中に何か大変なことがあったらクリスマスのお祝いは台なしになると思うかもしれません。そのような時はクリスマスのお祝いを救う方法を考えるでしょうか。そもそも私たちはクリスマスを救うことができるでしょうか。私たちにはそんなことは出来ないでしょう。というのは、クリスマスは本当は天と地と人間を造られた神さまが私たちに与えて下さったお祝いだからです。神さまは最初のクリスマスの時に起こった出来事ずっと前から計画されました。それは旧約聖書の時代の予見者たちを通して告げられたのです。

クリスマス旧約聖書のイザヤ書には次のように書いてあります。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝く。」イザヤ書9章1節です。これは、天と地と人間を造られた神様がイスラエルの民に語った言葉です。どんな意味でしょうか?イスラエルの民は神様の前で悪いことを沢山していたので、それは暗闇の中を歩むことと同じでした。しかし天の神様は民が光を見て歩めるようにしてあげようと、その思いを預言者イザヤを通して伝えました。それはどんな光でしょうか?神様は特別な方を私たちに送って、その方が光輝くとイザヤは言いました。この「光」は周りがよく見えるようになるための光ではなく、もっと深い意味がある光です。その光は2千年前の初めてのクリスマスの夜に現れました。新約聖書の「ルカによる福音書」の2章1~20節に詳しく書いてあります。それによると、初めてのクリスマスの夜に神様のひとり子イエス様がベツレヘムの馬小屋でお生まれになったのです。イザヤの預言が実現してイエス様がこの世の光としてお生まれになったのです。天と地と人間を造られた神様が私たち人間を救うためにひとり子のイエス様をこの世に送ってくださいました。クリスマスは私たちが救うことではなく、神さまが私たちや世界の全ての人たちを救うためにイエス様を送ってくださったことがクリスマスです。たとえクリスマスの時にプレセントをもらえなくてもクリスマスはやってきます。神さまはイエス様を通して私たちに最も大事なプレセント、救いの道を開いて下さったというプレセントを与えて下さったのです。私たちはただそれを受け取ればいいのです。そしてそのプレセントはクリスマスの時だけではなく一年中毎日喜びを与えてくれます。

今年のクリスマスは神様がイエス様を通して与えて下さる救いの贈り物を忘れずに過ごして行きましょう。

牧師の週報コラム

日本文化のキリスト教

昔、フィンランドの宣教師(故人)が大切にしていた日本の教会の信徒たちの短歌集を見せてもらったことがある。今でも一つの句を覚えている。

「礼拝の/恵みの手段に/与れし/祝福さやに/お茶会楽し」

時は戦前、場所は北海道。季節は不明だが、夏でなければ木造教会の石炭ストーブの音と湯気の情景が浮かぶ。礼拝の「恵みの手段」とはルター派なら御言葉と聖餐式のこと。牧師を通して祝福を受けた後の集会室でのお茶がなんと恵み深い味わいか。時代は暗雲立ち込めても、教会はともし火を絶やさない。

言葉数少なくともこんなに多くを語るとは、なるほど5、7、5は日本人にとって共感の道具であり武器でもある。ならば私も(中学の国語の授業以来の挑戦です)。

「涙もて/種を播くとも/刈り入れは/喜び溢れ/神は計らう」

ここ2週間ほど何故か頭を離れない詩篇126篇が元。キリスト信仰者は神が逆境を祝福に転じられることを、神自身の約束や(エレミヤ29章11節等々、フィリピ1章6節も)自分の経験と信仰の兄弟姉妹たちの証しから知っている(ヘブライ11章も証言集として有用)。しかし、信頼の大元にあるのはなんと言っても、アダムの堕罪をキリストによって逆転させた神の大業(ローマ5章)。アダムは楽園を去り労苦を持って耕さなければならなくなったが(創世記3章)、キリストは信仰者を豊かに実を結ぶ者に変えて下さった(ヨハネ15章等々、ガラテア5章22~23節も)。

もう一つお許しを。先日フェイスブックで初雪の八ヶ岳の写真を見て思い出したこと。以前、宣教師会議を清泉寮で行った時、自由時間にみんなで晩秋の森の小径を歩いた。なんだかフィンランドにいるみたい、と口々に皆はしゃぎ気味。話が弾み当てずっぽうに歩き続けると、突然前方が開け初雪を冠した急峻な峰々が。今いるところは母国ではないと思い知らされる瞬間。復路は口数少なく宿に戻った。そんな彼らの心情を代弁しての一句。

「清里の/行方知らずの/落ち葉道/森の故国に/山並みはなく」

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2024年12月15日(日)待降節第三主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように。 アーメン

                                         2024年12月15日(日)

聖書:ルカ福音書3章7~18節

説教題:「悔い改めに相応しい実を結べ」

今日の聖書はルカ福音書3章であります。神から遣わされたヨハネという人が荒野に現れて「悔い改めよ」と叫びました。その声はユダヤの全土に鳴り響きました。このヨハネの叫びは人々の心を鋭く刺激する権威を持ったものでしたからヨハネの叫びを聞いた民はみな自分の生活を顧みて道徳的にも良心に訴えられる反省すべき点を見つめたのでしょう。また神の審判の近いことを感じ恐れおののいたかも知れません。彼らはユダヤの全土からヨルダン川へやって来てヨハネから「罪の許しを得る悔い改めのバプテスマ」を受けたのでした。バプテスマのヨハネはこれらの群衆向かって言ったのです。それが今日の聖書に書いてあります。3章7節からの言葉でありました。「蝮の子らよ!差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」・・・・。

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これはもう刺激的な言葉であります。ユダヤ人の群衆に向かって「お前たちは蝮の子らだ」と言うのです。神の怒りの下にあると言うのです。蝮と言うのは荒野の岩穴に潜んでいる毒蛇であります。人々もよく知っている恐ろしい蛇であります。神様から特別に選ばれている民族である誇りに思っているユダヤの民に向かって「蝮の裔(すえ)だ」と呼んでいるのです。来らんとする神の怒りを逃れられる、とでも思っているのか。各人は自己の生活を悔い改めて良い実を結べと迫って叫ぶのであります。罪を悔い改めなければ民族の伝統をいくら誇ってもユダヤ人であれば誰であれ切り倒されて滅亡の火に投げ込まれるのだ!と叫んでいるのです。悔い改めるならユダヤ人たちが軽蔑する異邦人であっても信仰的には「アブラハムの裔(すえ)」として神の救いを受けられるであろう。このようにしてヨハネの言葉を聞いた群衆は自己の良心に心打たれ感動の言葉に心開かれ人々は言いました。「では私たちはどうすればよいのですか」・・・・。そこでヨハネは答えて言います。11節以下を見ますと「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ」。私たちはヨハネのこの言葉をどのように思うでしょうか。現代の日本に生活している私たちからすると下着一枚も持っていない人にやりなさいと言われるのはピンとこないでしょう。ところがイエス様の時代です。2000年以上も昔です、しかもバプテスマのヨハネは荒野で生きて来たのです。一口で言いますととにかく暑いです。日本人の感覚からは想像を絶する程の暑い中にいるのです。私は実際イスラエルに旅して荒野をバスで通りました。ごつごつした岩、石ころだらけ、気温35度以上どころではありません。バスの中はクーラーをがんがんかけていますがバスから出た途端に物凄い暑さです。もう大変な暑さでカラカラで、とにかく水が無いのです。聖書の中でイエス様が言われる一滴一滴の水の有難さ、まさに命の水です。実際に行ってみないと分からない、実感が湧かない。ここでヨハネが言っている言葉も私たちの日本での感覚からかけ離れた風土の中で語られている言葉です。一枚の下着がどんなに貴重なものであり下着を持っていない人々が沢山いると言う事でしょう。更に食べ物を持っている者も同じようにせよ。充分に食べ物もない、いつも腹ペコペコでやっと水や野菜や草で食いつないでいる人々の状況の中で言われているのです。他のところでイエス様も言われています。そこには人と人との心からの信頼し合って生きねば生きられない。その土台があって[互いに助け合いなさい。][愛し合いなさい。]という事であります。今日生きられるか明日死ぬかもわからない、何も持っていない過酷な状況の中で響く重い生きた言葉です、イエス様の命令です!ヨハネの荒野での禁欲生活の体験から出している実践的真理を訴えて言っているのです。そして更に徴税人に対しては規定以上のものは取り立てるな。兵隊に対しては誰からも金を強請り取ったり騙し取ったりするな、と言っています。自分の給料で満足せよ。きわめて具体的な不正や権力を持っている者が弱い者をないがしろにした社会に対する鋭い警告と悔い改めであります。人間誰もが持っている欲を鋭く突いていると言えるでしょう。時代を超えて昔からユダヤ人の間で横行していたであろう騙し取りや強請り取りの悪がはびこっていたと思われます。これらの一貫して言えることは「あなた方は貪るなかれ」とヨハネは訴えたのです、欲を捨てよ!です。

ヨハネのこれらの鋭い指摘を受けた群衆はヨルダン川において一度全身を水中に沈めて再び浮かび上がるという水による洗礼をうけました。この洗礼によって全身を川の水に一たび全てを沈めることでこれまでの諸々の悪い思いや罪の一切を一瞬にして捨ててしまって再び新たな信仰生活の出発を全身で水を浴びて体験する、これは悔い改めの象徴であります。そこには罪の許しを受け新生の感覚を持って主と共にある信仰の希望を生きるのであります。この体験は一生忘れない印象深い恵みでありましょう。今日でもバプティスト教会は特別の意味を持って聖壇の下にあるプールの中で全身水に浸って新たな信仰の覚醒をする洗礼式が行われています。なぜヨルダン川でのバプテスマのヨハネ悔い改めの叫びにユダヤ全土、彼方此方から人づてに群衆がやって来て洗礼を受けたのでしょうか。このヨハネが現れる前の時代BC16年?~BC37年頃マカベヤ時代といわれた時代、ユダヤ国が倒れた後、歴史的にメシア待望の時代のうねりが高まり民族の間に救い主メシアの出現を期待する思いが強くありました。そこへヨハネが荒野から現れ悔い改めを迫ってヨルダン川で洗礼を授けましたのでこれこそ待望のキリストではあるまいかと群衆が考え始めたのです。16節から見ますと、そこでヨハネは彼らの心を知って皆々に向かって言ったのです。

「私はあなた達に水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる。・・・」ヨハネははっきりと自分はキリストではない。即ちあなた方の期待しているメシアはナザレのイエスであることを明らかにしたのであります。そして二人の違いは次の二つの点にあると言います。

第1に ヨハネは水でバプテスマ施すがイエスは聖霊と火でバプテスマを施す。聖霊のバプテスマはその人に全く新しく、魂に至るまでの生まれ変わり、生き方が変えられるのである。そうした神からの力を持つ。一方水のバプテスマは象徴的意味をもつにすぎない。

第2に ヨハネは斧が木の根元に置かれていると言ったけれどもヨハネ自身が斧を振るうのではない。彼はただのの事実を指摘したに過ぎないのです。しかしイエス様はその手に箕を持って自らこれをふるい給うのであります。従って斧を振るう者も又当然イエス様であります。こうしてイエス様とヨハネの間には審判を行う者とそれを指し示す者との差があったのです。これはもう天と地ほどの次元の違う差があったのです。ルカ福音書3章ではヨハネの出現した事について旧約聖書イザヤ書40章を引用しています。ヨハネは救い主イエス様の登場前に道を整え準備する者である事を書いています。その事はヨハネが生まれた時既にその父ザカリヤが聖霊に満たされて預言したところであった。バプテスマのヨハネは罪の許しに至る「悔い改め」の道を宣べ伝えたのでした。[罪の赦しを得させる者は]ヨハネではなくイエス様の救いでありました。ヨハネは水による洗礼で形式的象徴であってイエス様の救いは聖霊によってする永遠的効果のある実力であったのです。こうした違いがある事をヨハネ自ら「私はあなたのために水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない」という表現で言ったのです。

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今日のメッセージで私たちはバプテスマの叫びを心に受けて自分の人生をこれから何をしたら良いのでしょうか。イエス様は33年の生涯で最後の僅か3年間を激しく神の国の心理を語り神の力を爆発させて数々の奇跡の業を起こし数知れない病人を救い、そして遂には十字架の死をもって信ずる全ての人の罪を贖ってこの世を終えられました。バプテスマのヨハネは神の子イエスの前を歩き僅か30年の生涯を殆ど荒野で過ごした後ユダヤの民に「悔い改め」を叫びヨルダン川で水による洗礼を授けを最後は牢獄で死を遂げたのであります。我らはこのヨハネの叫びを聞き何をなすべきか?彼は今日も叫んでいるのであります。

来週の礼拝はクリスマスです。私たちはバプテスマのヨハネの叫びを受けとめ罪赦された神の愛を受けて神を褒めたたえたい!詩編103篇の作者のように「我が魂よ主を褒めたたえよ」と喜びの賛美を挙げてクリスマスを迎えましょう。

人知では測り知ることの出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「神はあなたに良い業を始め、それを主の再臨の日に完成させる」 吉村博明 牧師 、ルカによる福音書3章1~6節

主日礼拝説教 2024年12月8日待降節第二主日 聖書日課 マラキ3章1-3節、フィリピ1章3-11節、ルカ3章1-6節

説教をYouTubeで見る。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

先週キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。クリスマスまで4つの日曜日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主の降臨を待つ期間です。クリスマスの日になると私たちは救い主を贈られた天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生をお祝いします。この救い主の降誕を待つ期間、私たちの心は2千年以上の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生に向けられるのです。

このように待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申しましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。クリスマスをお祝いして、ああ今年も終わった、また来年、と言って飾りつけと一緒に片づけてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を思い起こしてそれを保っていかなければなりません。そういうわけで今日も、本日定められた聖書の個所を通して再臨を待ち望む心を思い起こしましょう。

2.神の救いと心の準備

本日の福音書の日課は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。神の言葉がユダヤの荒野にいたヨハネに降り、ヨハネはそこから出てヨルダン川流域の地方に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。そして、大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。この福音書を書いたルカは、これこそ旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことの実現だとわかって、それを引用して書き出します。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

荒れ野で叫ぶ声とは洗礼者ヨハネの宣べ伝えの声です。ヨハネが整えよ、まっすぐにせよ、と命じた「主の道」の「主」とはイエス様のことです。イエス様の道を整えよ、その道筋を真っ直ぐにせよとは具体的に何を意味するのでしょうか?ヨハネは続けて、「山と丘はみな低くされる、曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らになる」と言います。聞いていると、なんだかイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているように聞こえます。イエス様はでこぼこ道や曲がった道を歩くのが苦手だったということでしょうか?

いいえ、そういうことではありません。ここのイザヤ書の引用はイエス様の足について言っているのではなく、イエス様を迎える立場にある私たちの心のことを言っているのです。それがわかるために、まず、「道を整えよ、道筋を真っ直ぐにせよ」と命じた後に来ることを見てみましょう。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言います。全部未来形で将来起こることを言っています。

「山と丘は低くされる」と言う時、「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人やその心を意味し、それをヘリ下させるということです。暗に人の心を言っているのです。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っていないようにみえます。ところが、引用元のイザヤ書40章4節のヘブライ語の原文を見ると、「埋める」という動詞は使われていません。「高くする」という動詞(נשא)です。「谷底を高くする」という言い方です。ちょっと変ですが、要は、低くされた人を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。

「曲がった道はまっすぐに」ですが、ルカ福音書のギリシャ語の原文、引用元のイザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで「道」と理解する必要はないのです。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味するのです。それが「まっすぐになる」と言うのは、これも単語の意味を調べると(מישור)、公正な、正しい、義に満ちたという意味があります。なので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っているのです。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命じて、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道のことを言っているようですが、実は心のことを言っていて、神の救いを見るのに相応しくなかった心が相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があり、日本語の理解をさらに進めてくれます。

3.神の近づきを妨げる心の障害物

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは、神と神が贈る救い主が私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。私たちの側でバリアフリーにしなさいということです。

私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを私たちはどうやって取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。それが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロがローマ6章23節で、罪の報酬は死であると言っている通りです。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。

これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から離れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのでした。

神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の内に居座るようになってしまった罪を自分の力で追い出すことができません。それで人間は罪にまみれ罪の力に服したまま、神との結びつきがない状態でこの世を生きることになります。この世から離れる時も神との結びつきがないまま離れることになってしまいます。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。

このようにして、遠いところにおられる神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、その彼を通してご自身の愛と恵みをもって私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを持てて今のこの世だけではなく次に到来する世も合わせた大いなる人生を生きられるようにするためでした。

4.神の側にいて生きる

それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?

それは私たちが、この神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けられたもので、この自分に対しても向けられていると気づいて、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすることでバリアフリーになって神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道が真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。聖霊が入ったことは、次のような聖霊の働きから明らかです。洗礼を受けたことでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分の償いになったのだ、自分は罪を償ってもらったのだ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見てもらえるようになったのだ、神から罪を赦された者と見てもらえる以上、自分はもう罪の側にいて生きるのではなく、神の側にいて生きるようになったのだ。こういうふうに新しい命が自分にあるのだとわかるのは聖霊が働いている証拠です。聖霊なしではわかりません。

聖霊の働きは、新しい命の自覚をもたらすことで終わりません。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したことではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見てくれるのか、心配になります。その時、キリスト信仰者は自分の内にある罪を見て見ぬふりをせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。罪を見て見ぬふりをして赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。このようにキリスト信仰者が自分の内に罪があることに気づいて神への立ち返りをするというのも聖霊が働いている証拠です。

神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。この時キリスト信仰者は自分にはイエス様の償いがある、神との結びつきは失われていないとわかり、神の側にいて生きる者の自覚、洗礼の時に始まった新しい命の自覚が戻ります。このように自覚に戻れるのも聖霊が働いている証拠です。

実にキリスト信仰者は聖霊の働きにより、罪の自覚と神から赦しを受けることを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向って進んでいくのです。先週の説教でも申しましたように、これを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。そこで、私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、逆に神と私たちの結びつきは一層強められるので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。福音書の日課の最後のところで言われるように、最終的に神の救いを見ることになります。つまり、主の再臨の日、「お前は真に神の側にいて生きてきた」と裁きの主から認められるのです。本日の使徒書の日課フィリピ1章6節で、キリスト信仰者に良い業を始めた神はイエス様の再臨の日にその業を完成させる、と言われていますが、真にその通りです。

5.勧めと励まし

主の再臨の日に神が完成させる善き業について、以上は神と人間の関係に関わる善き業でした。説教の終わりに、人間と人間の関係に関わる善き業について見てみます。つまり、私たちのこの世での営みや活動の善き業についても神は完成させられることを述べたく思います。宗教改革のルターが言ったのではないかと考えられている言葉に次のようなものがあります。ある人がルターに聞きました、先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?と。ルターはこう答えたそうです。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」

明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?

それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論、永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完成したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。それで、この世で悪や不正に与せず、それに反対するのが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。明日この世が終わるという時に今日リンゴの木を植えるのが大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に与せず反対すること、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。この世で始められた善い業を神は必ず完成させられるのです。

このように、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来るのです。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来るのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

小島の夢

<『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。 使徒言行録2:17>

年の瀬を迎えて限界集落一歩手前の団地の小さな商店街もそれなりに賑やかになって来ました、そんな巷の喧騒に背をむけて散歩コースの谷戸池にやって来ました。池畔には幾本かの朽ちた杭が並んでいます。その中の私の好みの杭の先に名も知らぬ矮木が宿り根を張りました、やがて程よく成長して小島の主のよう大木になりました。私の夢はあの木の下に小さな庵を結び終日読書三昧に明け暮れし飽きたら窓から釣り竿をのばし釣れるか否か気にもせずそれにも飽きたらひっくり返って昼寝に・・・池畔の朽ちた棒杭を眺めながら思うのです。