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10月の手芸クラブの報告

10月の第三火曜日、秋のさわやかな陽気の中で手芸クラブを開きました。今回は人数も多くて、明るく賑やかな雰囲気になりました。手芸クラブは、最初にお祈りをして始めます。

今回の作品は、フェルトのコロコロビーズのネックレスフェルトのコロコロビーズのネックレス。はじめに作品のモデルを見て、各自作ってみたいフェルトの色を選びました。色は沢山あるので選ぶのはなかなか簡単ではありませんでしたが、やっと五色のフェルトを選び、それから作り始めました。

フェルトをエアクッション・シートの上に薄く置いて、少し石鹸が入っている水でぬらしてからエアクッションの中でコロコロまるめます。それが終わると今度はフェルトの色を変えてまた同じことを繰り返します。これを何回かやって、フェルトが固い棒みたいになります。

フェルトのコロコロビーズのネックレス次は今回の作業の中で一番ワクワクさせるところです。まず、フェルトの棒をカッターで切ります。すると、きれいな色の中身が出てきます。切ったビーズの真ん中に穴をあけて糸を通します。一人一人違う色のフェルトのビーズを作って、素敵なネックレスの出来上がりです。

ビーズができた後で、聖書のルカ福音書10章38-42節の読み聞かせがありました。マルタとマリアの姉妹についての話です。朗読の後、パイヴィ宣パイヴィ・ヨシムラ教師から、次のようなお話がありました。「料理とか、もてなしとか、生活のための必要なものは私たちにとって大事ですが、私たちの人生にとって一番大切なことはそれらではありません。私たちの人生にとって最も大切なことは、天と地と人間を造られた神様についてイエス様が教えたことです。イエス様の教えから、神様の計り知れない愛を知ることができます。イエス様が『マリアは良い方を選んだ』と言われたのは、私たちにとって良い例になるでしょう。創造主の神様のことを知ることと、イエス様を信じて神様の子供とされること、これらは、人生にとって一番大切なことだと思います。」

次回の手芸クラブは11月18日の予定です。ヒッメリという、フィンランドのクリスマスの飾りです。詳しくは、少し後、スオミ・キリスト教会のホームページの案内をご覧ください。

説教「神にできて人間にできないこと」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章17-31節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.
ある男の人がイエス様に「永遠の命を受け継ぐためには何をすべきですか?」と聞きました。永遠の命とは、キリスト教信仰で最も大事な事柄の一つです。私たちは今のこの世の人生を生きています。キリスト教信仰では、将来いつか今のこの世が終わって新しい天と地が創造される新しい世が来る、その時既に死んで眠りについていた人たちが眠りから起こされて、ある者は新しい復活の体を与えられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられる。これが永遠の命です。ただし、別の者は、そうならないで、永遠に自分の造り主と切り離された悲惨な状態に陥ってしまいます。

そこで、復活した者たちが迎え入れられるところとはどんなところかと言うと、これは盛大な結婚式の祝宴に例えられるくらい(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)、この世の労苦が完全に労われるところです。また、「全ての涙が拭われる」と言われるくらいに(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ書25章8節)、この世で被った不正や悪が神の正義の尺度で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ12章19節、イザヤ35章4節、箴言25章21節)。さらに、この世で神の意思に沿うように生きよう、神の愛を周囲に伝え自らも行っていこうとしたのだが、いろいろうまくいかなかったとしても、それらは全く無駄ではなかったことが明らかになるところです。そういう復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では、「神の国」とか「天の御国」とか「天国」とか言います。そういうわけで、永遠の命を得るというのは、復活させられて永遠に神の国に迎え入れられるということです。

この男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきか、と聞きました。「受け継ぐ」というのはギリシャ語の単語(κληρονομεω)の直訳ですが、まさに財産相続の意味を持つ言葉です。男の人はお金持ちだったので、永遠の命というものも、何か正当な権利があって自分のところに転がり込んでくる財産か遺産のように考えていたのでしょう。自分は何をしたらその権利を取得できるのか?

これに対してイエス様は、お前は十戒を知っているだろう、と言って、そのいくつかを述べます。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。すると男の人は、先生、そうしたものは若い時から守ってきました、と答える。これで十分なのですか?他にすることはないのですか?あればおっしゃって下さい。それも守ってみせます。全ては永遠の命の権利を取得するためですから。そんな思いが男の人の答えから伺えます。ところがイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい者たちに施しなさい。そうすればお前は天国において宝を持つことになる(εξεις未来形)。それから私の後に従って来なさい」と答えました。「天国において宝を持つことになる」とは、永遠の命をもって神の国で生きることを意味します。地上における宝、富と対比させるために、永遠の命を天国の宝と言ったのでした。

 男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。金持ちのその人は、永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の宝を取るかの選択に追い込まれてしまい、前者のために後者を捨てることができませんでした。天国の宝などという目に見えないものよりも、やはり地上の宝という実際手にしているものの方に人間の心は向いてしまうのだ、と私たちも男の人の気持ちがわかったような気がします。実は、ここは、もっと深い意味があるので以下それを見てみましょう。

2.

この男の人は、単なる私利私欲で富を蓄えた人ではなかったと言えます。まず、イエス様のもとに走り寄ってきます。そして跪きます。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるためには、何をしなければならないのか、本当に知りたい、とても真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守ってきています、と答えます。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというのではなく、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきましたという信仰の告白です。イエス様もそれを理解しました。皆様のお手元の聖書には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてありますが、「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」というのは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていた。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しで、それで同情したのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。

この男の人の問題はなんだったのでしょうか?それは、神の掟をしっかり守りながら財産を築き上げたという背景があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。また、神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美と考えるようになることがあります。詩篇1篇を見ますと、「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」はどんなに神から祝福を受けるかということが述べられています。「主の教え」というのは、ヘブライ語でトーラー(תורה)で、まさに律法ないし十戒を指します。そのような人は、「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われています。この男の人の生き方は、一見すると詩篇1篇で言われていることを絵に書いたような具体例に見えます。

詩篇1篇の理解の仕方について、研究者たちから、これは律法を守れば褒美として神から繁栄をいただけると理解してはいけないとの指摘がなされてきました。ある研究者によれば、この箇所は、人間の造り主が定めた掟を守って生きればちゃんと育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、必ずしも金持ちになるという意味ではない、金持ちでなくてもいろんな育つ仕方や実の結び方がある、ということです。また別の研究者は、十戒を守る人の成すことは金持ちであろうがなかろうが、すべて神の目から見てよいものである、ということを意味しているにすぎないと言います。いずれにしても、詩篇1篇は数と量で量られる繁栄をもって神の祝福のあらわれであると理解しないように注意しなければなりません。

しかしながら、そういう理解の仕方の教わっていないところでは、どうしても、十戒をしっかり守って財産を築き上げたというのは、やはり神からの祝福の現われ、神の祝福は努力に対するご褒美、報酬というふうに考えてしまうのは人情でしょう。弟子たちが驚きの声をあげたこともよく理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それでは、それほど神から祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころか恐竜が針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさい、というイエス様の命令は、今まで神の祝福の証と考えられていたものが実はそうではなかったと思い知らせるショック療法でした。加えて、永遠の命というものは、人間の力や努力で獲得できるものではないということも思い知らされました。

人間が神の御心に適う者になれるかどうか、神の目に相応しいと認められて永遠の命をいただけるかどうかという問題について、イエス様は実に厳しいことを教えました。他にもいろいろあります。

マタイ5章では、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第5の掟を破ったことになる、また、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6の掟を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく心の中まで完璧に守れる人間、神の意思を完全に満たせる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と律法学者・ファリサイ派との有名な論争がありました。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「悔い改め」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。

3.

それではイエス様は何のためにこの世に送られてきたのでしょうか?神の意思に従って生きるように教えながら、そんなことをしても永遠の命は得られない、などとは。イエス様は、ただ人間の限界を思い知らせて、人間をがっかりさせるためにこの世に送られてきたのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。全く逆です。イエス様は、人間が超えられない限界を改めてわらかせた上で、今度は自らその限界を人間にかわって超えてあげる、そうすることで人間が永遠の命を持てるようにする、そのために送られたのです。それでは、どうやってイエス様は人間にかわって人間の限界を超えてくれたのでしょうか?

 人間が永遠の命を持てない、神の国に入れない最大の原因は、人間に宿る罪の汚れでした。神は神聖な方なので、罪の汚れを持つ人間がその前に立とうものならたちまち焼き尽くされてしまいます。人間が永遠の命を持てて神の国に入れるようになるためには、人間に宿る罪の汚れをなんとかしなければなりません。人間はそれを自分の力では洗い落とすことができません。ではどうすればよいのか?神が講じた策は以下のことでした。神のひとり子イエス様を犠牲の生け贄にして、彼に人間の罪を全部請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の原因であるかのようにして、その罰を全て負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死の苦しみを受けさせた。こうして神のひとり子の身代わりの犠牲に免じて、人間は神から罪を赦してもらえるという可能性が開かれた。さらに神はイエス様を死から復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれた。人間は、これらの出来事が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神の罪の赦しがそのまま頂けて、その人は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることになる。

十戒の掟、神の意思は、人間が罪を行為にして犯さないように人間を縛り、見張っています。それでは心の中の罪はどうなるでしょうか?罪は行為として犯さなくても、心の中では残ります。それに対して神が十戒をもって見張っていて、いつでも落ち度を見つけようとしていると思っただけで死にそうになります。しかし、イエス様を救い主と信じる者は落度があるとわかっていながら、良心の平和があるのです。イエス様の十字架に心の目を向けることで、確かに自分は罪深い者ではあるが神はあのイエス様の犠牲に免じてこの自分を赦して、神の子として扱って下さっているのだ、その証拠にあの十字架があるのだ、と言い聞かせることができるのです。ここから、どんな時でもどんな状況でも神に対して感謝する気持ちが生まれ、永遠の命に至る道を歩み続けることができるのです。

 このようにして、罪を内に持っていながらも永遠の命を得られることが可能になったのです。それは、神がイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現したことと、それが本当にあった、それでイエス様こそ救い主と信じる信仰の二つがタイアップして、永遠の命が得られるようになったのです。一方で神が行ってくれた業があり、他方でそれを信じて受け入れる信仰が一緒になって、永遠の命が得られるのです。もう、財産があるかどうか、自分に能力や実力があるかは全く関係なくなったのです。本日の福音書の箇所の最後でイエス様は、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言っていますが、これは、まさに、永遠の命を自分の力で獲得できると考えている人たちが先の者で、彼らが先頭から後部に置かれてしまうということなのです。また、永遠の命を自分の力で獲得などできないとうていできないと無力感の中にあった後部の人たちが、イエス様を救い主と信じて神の整えた救いを受け入れることで永遠の命を得られるようになって先頭に置かれるということなのであります。

 しかしながら、こうしたことは、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の段階ではわかりません。イエス様に、捨ててしまいなさい、と言われて、男の人はそれが出来ずに肩を落として立ち去ってしまいました。まだ神が罪の赦しの救いを実現する前のことなので仕方ありません。願わくば、その男の人が、十字架と復活の出来事の後、神が人間にかわって救いを実現してくれたという福音を聞いて、イエス様こそ救い主と信じて、本当に永遠の命を手に入れることができたように。そして、永遠の命という天国の宝は、地上の宝を量る物差しで測りきれない価値があり、その前では地上の宝など色あせてしまうことがわかったように願わないではいられません。

4.

ところが、逆に、捨てなさい、売り払ってしまいなさい、と言われて、そうですか、わかりました、やってみせましょう、という人も出てくるかもしれません。これは、一見豪傑に見え、神といえども一目置かざるを得なくなるようにみえます。しかし、これは、永遠の命や救いを人間の力や努力で獲得しようとする考えで、金持ちの男の人と同じです。男の人の場合は、永遠の命は人間の力で獲得できるものだが自分は力及ばずと言って退場しました。売り払えると言う人は、自分にはその力があると言う人です。どちらももともとの考え方は同じです。

実は、ペトロが弟子たちを代弁して、この考えを口にしました。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」あの金持ちは捨てることが出来なかったが、私たちは違います。だからイエス様、永遠の命を得られるのでしょうか?これに対するイエス様の答えは、一見ペトロに同意しているように見えます。私のため福音のために親兄弟家財の一切合財を捨てた者は、百倍受け、永遠の命を受ける。だから、お前たちも捨てた以上は受けるのだ、という具合です。しかし、よく注意しましょう。捨てる根拠として、「イエス様のためだけ」ではなく「福音のために」とも言っています。この段階ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。福音とは、先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活があって、それで永遠の命と救いが神の力で実現したという朗報です。まだこの段階ではその朗報自体がないので、イエス様のこの言葉は将来に向けられたと考えるべきです。それで、弟子たちが全てを捨てたと言っても、100倍受けて永遠の命も受けられるほどの捨て方になるのは、まだ先のことで、この時点での捨て方は永遠の命を保証するものではありませんでした。このように福音がなく、ただイエス様人物だけでは、カリスマ的な指導者に帰依するだけのことです。

 ここで、このイエス様の言葉がもたらす大きな難しさについて見てみましょう。永遠の命を受けられるためには、親兄弟家財の一切合財を捨てなければならないのでしょうか?財産を即刻売り払って家族のもとを立ち去らなければならないのでしょうか?

いいえ、そういうことではありません。イエス様が「わたしと福音のゆえに」と言っていることに注意する必要があります。つまり、イエス様と福音を選ぶか、親兄弟家財を選ぶか、という二者選択の状況に追い込まれた時はじめて、この捨てるという問題が出てきます。もし幸運にも家族の者が皆同じ信仰を持っていれば、二者選択の問題は生じないので、「捨てる」ということもでてきません。

さらに、自分は迫害に見舞われた時でもそれを遥かに上回る良いものを得ることができるのだ、次の世では永遠の命を得ることが出来るのだ、と信じて疑わない人は、たとえ財産を持っていても、それは心を縛りつけるものではなくなって、たまたま神から有効に使いなさいと預かっているものにしか感じられなくなります。ルターが教えているように、そのような人は富の奴隷ではなく、主人なのです。彼の言い方にならえば、自分の持っているお金に対して、「親愛なる私の金貨君、あそこに着る服がなく震えている人がいる。さあ、すぐ行って助けてあげなさい」と言える人です。

しかしながら、もし肉親が無神論者であったり、異なる信仰を持っていてキリスト信仰に難癖をつけたり、最悪の場合それを捨てるように要求する場合には、二者選択の問題がでてきます。そこでイエス様と福音を選ぶ時、「捨てた」ということが起きます。それでは「捨てる」とはどういうことか?家を出てしまうということか?これもそうではありません。イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども命の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思いますが、日本社会ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んでいる以上は、それらのゆえに、反対する肉親を捨てているということは起きています。同じ屋根の下にいて「肉親を捨てている」などと言うと、何か、口も聞かず、背を向き合っているような冷え切った人間関係が支配するような感じがしますが、これもそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。

私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次のような質問したことがあります。「もし非キリスト教徒の両親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても騒ぎ立てず取り乱さずに落ち着いて自分の立場をはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては信仰に至る道が親に開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい」ということでした。

このように、肉親と家財に対してはイエス様と福音を選びながらも、肉親に愛を持って仕え、財産の主人になることは可能です。というより、イエス様と福音を選んでこそ、そうできるようになると言ってよいのでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第21主日
2015年10月18日の聖書日課  アモス5章6-15節、ヘブライ3章1-6節、マルコ10章17-31節


説教「大切な家族」マルッティ・ポウッカ牧師、マルコによる福音書10章1-16節

 女性と男性のことを考えると、女性はよく家庭とか料理について話しますが、男性機械とか自動車の話が好きと思います。

 どの男の子が知っているとおりに車には運転するためにエンジンがあります。もしエンジンが無いと運転することもできません。車は動きません。

これに従って、社会の「エンジン」は何でしょうか。お金ですか。それも必要ですが、どの社会にも家族があります。それは社会の一番大切な「エンジン」だと思います。

今日の聖書の箇所を読むとイエスも家族を大切にされたということがわかります。

 1.家族を大切に

 マルコ10.2.ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

イエスはご夫婦について質問されました。質問をされたファリサイ派の人々の目的はなんでしょうかは分かりませんが、答えにはイエスが家族のことをとても大切にしました。

 6.しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7.それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8.二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9.従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 イエスが教えになったことは、神様に与えられた家族の目的は、夫と妻は喜びの時も苦しみの時も一緒につづけることです

 家庭および家族についてこのような教えがあります。

 良い家庭は神の偉大な賜物であり、両親や子供や、また他の家庭の者と睦み合います。家庭の基礎は結婚ですが、結婚によって夫と妻とは全生涯の契約を結ぶのです。夫婦の使命はお互いとその子孫とを敬虔な心で擁護し、また教育することです。

「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」(ヘブライ13:4)。

わたくしたちの罪のために結婚生活はいつも成功しませんが、つづけるのは神様に与えられた目的です。

 2.私のところに来なさい

 マルコ10.13.イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14.しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15.はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

16.そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 子どもたちをイエスのところにつれて生きましょう。イエスが教えになったことは子どもにとってもよいことですから。聖書のの話、祈り、歌など子どもと一緒に。

3.子どもとプレゼント

最後に子どもとプレゼントのことを考えましょう。わたくしたちは子どもにプレゼントを上げると子どもはそれを喜んでもらいます。

わたくしたちは信仰によって救われる。神様の恵みはプレゼントみたいなものです。

 宣義というのは、

 信仰によって、キリストを救い主として受け入れるならば、神はキリストの功のために、私たちに罪を負わせず、その罪を赦し、キリストの聖めと義とを着せてくださいます。このようにして、神は私たちを義とされるのです。

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで、信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ローマ1:17)。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5:1)。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)。

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)。

「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマ8:16)。

 私たちは子どものように神様の恵みのプレゼントを頂きましょう。そして、イエスが教えられた家族を大切にしましょう。

 

祈りましょう

天の父なる神様、私たちはあなたののみ前で大切な人間です。家族も子どももそうです。私たちには理解ができないほどあなたは私たちを愛してくださっています

子どもの例えに従ってあなたの素晴らしいプレゼントを頂くように。あたたに頂いた救いの希望のプレゼントです。子どもたちにもこのことについて教えられるように。

 よいニゥウズは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちの天国への道を見せてください。ペテロのように私たち一人一人に任務(にんむ)を教えてください。あなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、子どもと隣人をあなたに与えられた力によって大切にするように、大震災によって苦しんでいる人を助けられるように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。    アーメン

 

説教「神の前の自分」木村長政 名誉牧師、マルコ福音書9章38~50節

 先日、テレビで有名な作家を招いてインタビューする番組をみていました。その対談の中で中国の古い言葉について話が出たのです。その言葉というのは、

「理解は偶然、誤解は当然」。日本という国に、1億2千万もの人が生活している中で考えてみたら、自分のことさえ、よくわからないのに自分の言葉を理解してもらえる、というのはものすごいこと、理解されたのは偶然で、誤解されるのが当然という話です。

自分の伝えたい、本当の心を真に理解し、わかってもらえた、心底、理解し合えるというのは、まさに偶然でしかない。いくら説明しても、わかってもらえない、相手が「はい、わかりました」と言っても全然わかっていない。何も変わらない。いかに人間というもの、理解されないまま、形では、わかったふりをして私たちは何と誤解され、誤解したまま、すごしていることでしょう。

本心から理解し合えるなんて、偶然でしかない。理解されないし、又自分も理解していない。人間というものは、何とあいまいで、ごまかされていることだろう。自分でも、うんざりしてしまう。

実に味わい深い、真実の言葉だなあと、この頃ずうっと心に残っています。

「理解は偶然、誤解は当然」

このことを、心にとめて、少しでも暖かい心で、根掘り葉掘り、コミ二ュケー

ションを深め、本心から理解し合えるようにしていきたい、大きな課題です。

人は変えられるのか、理解するのは難しい!

さて、今日のみ言葉について見ますと、まずマルコ8章31~37節にイエス様が弟子たちに、ご自分の十字架上で死ぬ、ことと3日の後、復活することを予告されます。そして9章30~32節で、もう一度話されました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後、復活する。」弟子たちは、この言葉がわからなかったが、怖くて尋ねられなかった、とあります。イエス様が殺されるなんて、とても弟子たちには理解できなかったのです。

まして、三日の後に死んだ人が復活するということなど、とても信じられない、弟子たちには理解されなかった。8章31節からの第1回目に予告されたのが、詳しく話されています。31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、司祭長、律法学者たちから排斥され、殺され、三日の後に復活することになっている。と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことを、はっきりお話になった」この話を聞いた弟子たちには大変に驚いたことでしょう。また何のことか、よくわからなかったでしょう。するとペトロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながらペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。」

ここでイエス様はペトロに、サタンに「引き下がれ」と言われて、神のことを思わない者はサタンの誘惑に負けている。弱い者だから神のことを思わないようにと、サタンが支配している。そうした上で、今日のみ言葉の9章42~47節

を見ると具体的に結果としてどうなるか、弱い者をつまずかせる者、罪へ誘惑する者は地獄に投げ込まれるのだ。命にあずかりたいなら罪の誘惑へ、つまづかせる手やあし、目さへ切り取ってしまえ、と言われる。大変きびしいお言葉です。

42節「わたしを信じる、これらの小さな人をつまづかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまづかせるなら切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火のなかに落ちるよりは片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまづかせるなら切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりも、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは一つの目になっても神の国に入る方がよい。」

弱い、どうしようもない自分が、神の前に立たされている。そして罪を犯す手や足を切り捨ててでも神のみ国に入りなさい、神の命に生かさるようにしなさい。というのが今日のメッセージです。イエス様は罪の誘惑の恐ろしさというものを知ってほしいと思っておられるのです。罪の誘惑の深刻さを、わたしたちは、あいまいにしていたので、イエス様は十字架の苦しみを受け、私たちの罪をあがなって下さったのです。純心で罪の誘惑に落ちてしまいがちな弱い者たちをつまづかせる者には、イエス様は何の恵みも持ちあわせておられない、ということです。だから、つまづかせる者に対して最悪の警告をしておられるということです。この箇所には、罪につまづかせる片手と片足、片目をすててしまいなさいと、言ってありますが、それだけではない、もっと人をつまづかせ人の心を傷つけてのは、自分の舌、自分の口がしゃべっている言葉でしょう。

自分では気づかないところで、私たちは心を傷つけ苦しめてしまっていることでしょうか。神の前に立って、罪を犯してしまう、それらのものを切り捨ててでも究極的に一番大切なものは、命にあずかる方がましだ、と言っておられる。

また神のみ国に入る方がましだ、と言っておられる。この二つです。そして、あなた方は、この世にあっては塩味のきいた塩になりなさい。49~50節で言われています。塩は良いものである、自分自身の内に塩をもちなさい。この塩こそは、私たちの罪のいっさいを十字架の上であがなって下さった、イエス・キリストを「私の救い主」と信じることです。

最後に、みなさん世界の喜劇王と言われた「チャップリン」をご存知でしょう。沢山の映画に出演し劇場で人々を笑わせ、」皮肉って、皮肉って笑わせたいと命をかけてきたチャップリンが言った言葉「人生は地獄だ」と言ったのです。チャップリンから見たこの世の姿はまさに「地獄」だと言っているのでしょう。

私たちは、いつもイエス・キリストと共にこの世にあってイエス・キリストの命にあずかって生きとうございます。        アーメン・ハレルヤ!


主日礼拝説教 聖霊降臨後第19主日
2015年10月4日の聖書日課 マルコ福音書9章38~50節


 

説教「神が子供を抱きしめた瞬間」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書9章30-37節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 先週の説教で、マルコ8章27-38節はマルコ福音書全体の中で大きな転換点をなしているということを申し上げました。それまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動をしていましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで先週の箇所の出来事があり、イエス様は初めて弟子たちに自分の受難と死からの復活について弟子たちに預言しました。9章に入って「高い山」、ヘルモン山と推定される山に登って自分の姿が変わるところを弟子たちに目撃させる出来事があります。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。

本日の箇所でイエス様と弟子たちは、まずガリラヤ地方に戻ってきます。少し奇妙なことにイエス様は自分がガリラヤ地方に入ったことを人に知られたくなかった(30節)とあります。なぜでしょうか?これは、先週申し上げたことを思い出すとよいと思います。先週の箇所で、イエス様は弟子たちに自分がメシアであることを人々に言い広めてはいけないと命じたことがありました。その理由として、メシア、すなわち頭に油を注がれて神の目的のために聖別された者ですが、そのメシア理解についてイエス様が自分のことを考えていた内容と人々の理解の間に大きな相違がありました。イエス様にとってメシアというのは、人間と神との間の壊れた関係を修復して人間が神との結びつきを持って今の世と次の世を両方生きられるようにする、そういうことを実現する者で、まさに人間の救い主、救世主でした。ところが当時の人々は、メシアと聞けば、ダビデ王朝の家系に属する者がユダヤ民族を他民族支配から解放して王の位について諸国に号令をかけるという民族解放者をイメージしていました。このような理解が持たれたのは、旧約聖書にそう理解できる預言があちこちにあったからですが、天と地と人間を造られた神の意図はそんな一民族の解放にはありませんでした。しかし、特定の歴史状況の中で生きてその中で抱かれてきた夢や願望を皆が共有していると、旧約聖書にある神の意図を本来の広さ深さで理解することはなかなか難しいことでした。これは、きわめて人間的なことであります。メシアが神の意図に沿って正しく理解されるようになるためには、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を待たなければなりませんでした。

そういう時勢でしたから、もしイエス様がメシアであると言い広められたらどうなるか?ユダヤ民族の多くは自分たちの解放者がついにやって来た、と大喜びですが、当時ユダヤ民族を実効支配していたローマ帝国やそれに取り入る傀儡政権の指導層は絶対反対だったでしょう。ローマ帝国は反乱に神経をとがらせていたので、もし鎮圧部隊出動ということにでもなれば、イエス様のエルサレム入城予定に支障をきたしたでしょう。イエス様にしてみれば、全ての出来事が福音書に記されているように起きるためには、今のところは自分がメシアであると言い広められない方が目的に適ったのであります。

 

2.

 さてイエス様一行は、懐かしのカペルナウムに到着しました。ガリラヤ湖沿岸の町です。かつてユダヤ地方で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、まっさきに乗り込んできて活動を開始したところです。漁師の兄弟ペトロとアンデレまたヤコブとヨハネをはじめとする12弟子を選んだところです。33節で、一行がカペルナウムのある家に入ったことが言われていますが、カペルナウムの家と言えば、マルコ1章でイエス様がペトロとアンデレの家に入って、ペトロの病気の姑を癒したことが記されています。その後で町中の人が病人を連れて来ました。2章ではある家で全身麻痺状態の人を罪の赦しとセットで癒す奇跡を行っていますが、これがペトロの家か別の家かは定かではありません。またイエス様の弟子となった徴税人レビが自分の家にイエス様一行とともに大勢の罪びとを一緒に食事に招いたこともあります。本日の箇所のカペルナウムの家はこれらのどれか、また別の家か定かではないですが、出来るだけ人に知られないように行動しようとするなら、前行った家の可能性が高いのではないかと思われます。

ところで、一行がガリラヤ地方に入って、まだカペルナウムに到着する前のことでした。イエス様は再び自分の受難と死からの復活について預言します。最初の預言の時には驚いたペトロが、そんなことはあってはならないと預言を否定して、イエス様から、お前は人間の栄光ばかり考えて神の計画を無にしようとしている、悪魔同然だと叱責されてしまいます。ペトロのメシア理解が民族解放の英雄であったことを露呈したのであります。二度目の預言の時も、弟子たちはまだ預言の意味を理解できず、反論すると厳しい叱責が待っているので怖くて何も聞くことができません。メシアの正しい意味を理解できるためには、本当に十字架と復活の出来事が起きないと無理なのであります。

この時、弟子たちの間にイエス様に従っていくことは一体何なのだろうという疑問が起きたと考えられます。この方は、エルサレムに入城した後は神の大いなる業を呼び起こして、天から降ってくる天使の軍勢の力を持って占領者と傀儡政権を打ち倒し、ユダヤ民族を解放して真の王として君臨して諸国に号令をかける、そういう方だと信じて、我々はついてきたのではなかったか?それなのに、自分は殺されてしまうなどと言われる。しかも、3日後に死から復活するなどとも。それではユダヤ民族の解放はどうなってしまうのか?直近の弟子としてついて来ている我々の立場はどうなってしまうのか?殺されてしまうと言うのは、あまりにもあっけない結末ではないか?しかし、死から復活するというのは一体何なのだ?死から復活した者として新たに指導を開始し民族解放運動が新局面に入るということなのか?こういうふうに、弟子たちのそれまで抱いていた民族解放や解放の英雄のイメージが壊されて、新しいイメージが描ききれないという状況があったと思われます。このイエス様の再度の預言の後で弟子たちは、「誰が最も偉大な者か」ということについて議論し合い始めますが、恐らくメシア・イメージが混乱したことが原因にあったと考えられます。

 

3.

 さて、カペルナウムの家に入られたイエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てをお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について、どういう者が神の御心に適う最も偉大な者かについて教えます。人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節のたった3節に凝縮されています。イエス様は、まず言葉で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(35節)」。

これは、まさにイエス様が行ったことでした。イエス様は神のひとり子であり天の御国にて神の栄光に包まれていれば良い方でした。それが、神に対する不従順と罪のゆえに神との結びつきが失われてしまった人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしようと、神はひとり子イエス様をこの世に送られました。人間の心と魂と体を持つ者として、人間の悩みと苦しみがわかり、最後は罪と不従順がもたらす神の罰を全ての人間の身代わりとなって十字架の上で受けて死なれました。人間は、この神のひとり子の犠牲の身代わりが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じて神から罪の赦しを受けられ、神との結びつきが回復するのです。

それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を今度は死から復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。神との結びつきを持って生きる者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになってもその時は自分の本当の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。私たち人間にこのような計り知れない救いをもたらすために、イエス様は神の栄光に満ちたひとり子でありながら、私たちと同じ人間の姿かたちをとってこの世に送られて十字架の死を受け入れたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えて、いちばん先の者になったのです。イエス様の十字架と復活の出来事の後でメシアの本当の意味がわかった人たちが、まさにこのことを次のように手短く言い表しました。使徒パウロがそれを「フィリピの信徒への手紙」2章の中で引用しています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです(6-11節)」。

 このようにイエス様は、もともといちばん先の者だったのが全ての人の後になって全ての人に仕えて、再びいちばん先の者となられました。イエス様は弟子たちに、いちばん先になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、後になろうともせず仕えようともしない者は本当にいちばん先にはなれない、と教えられます。これは、どういうことなのでしょうか?もちろんこれは、弟子たちも犠牲の生け贄となって十字架にかかって、人間が神から罪の赦しを受けられるようにしなさい、ということではありません。罪の赦しの救いと神との結びつきの回復をもたらす犠牲は神のひとり子が全て行いました。私たち人間が神のひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいないのです。神は自分のひとり子を犠牲にしてもいいと思うくらいに、私たち人間が救われることを重視したのです。そういうわけで、罪から贖われる犠牲はイエス様の十字架一回限りで、それ以上はいらないということになります。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういうことなのでしょうか?

 

4.

 それについてイエス様は、言葉と行為をもって教えます。まず、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。ここはとても劇的な場面ですので、一字一句みて、どれだけ劇的なことかを再現してみたく思います。

イエス様一行は、カペルナウムのある家の中に入られました。その中のある部屋にイエス様と12弟子が一緒に入りました。皆が座っています。子供を真ん中に立たせたということは、真ん中が空くように座ったということなので、車座のような座り方だったのでしょう。最も偉大な者は誰かという弟子たちの議論に対する答えとして、イエス様はまず、全ての人の後になれ、全ての人に仕える者となれと教え、その後で、子供の手を取って真ん中に立たせました。ギリシャ語原文には「手を取る」とまでは書いてありませんが、座っていたイエス様が立ち上がって、別の部屋か一番近くにいた子供を弟子たちがぐるりと見ている真ん中まで自分で連れて行ったのであります。

次にイエス様がしたこと。私たちの新共同訳では「抱き上げて」とありますが、ギリシャ語の動詞(εναγκαλισαμενος)は、少し厄介な言葉です。動詞の成り立ちは、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味ですので、そのままでいけば「抱きしめる」の意味です。必ずしも「抱き上げる」とか「抱っこする」ではありません。どっちでもいいではないかと思われるかもしれませんが、使われている言葉や動詞の形から可能な限り正確な情景描写を試みたいと思います。問題のギリシャ語を英語の聖書(NIV)はどう訳しているかと言うと、「抱き上げた」とも「抱きしめた」とも取れます(taking him in his arms, もしtaking him up in his armsならば明らかに「抱き上げた」でしょう)。ドイツ語の聖書でルター訳ですが、「抱きしめた」(herzen)です。ところが、Einheitsübersetsung訳をみると「抱き上げた」の意味が強く出ます(nahm es in seine Arme, もしnahm es auf seine Armeなら完全に「抱き上げた」でしょうか?)。フィンランド語訳では、「抱きしめた」とでも「抱き上げた」とでもとれます。スウェーデン語訳ははっきり「腕を回して抱いた」ですので、「抱きしめた」です。

イエス様は子供を抱っこしたのか、または立たせたまま自ら屈んで抱いたのか、どっちか決めかねるのですが、36節に出てくるギリシャ語の動詞の用法をよく見ると、イエス様が子供を真ん中に立たせたと言うところの「立たせた」が他の動詞よりも重く感じられます(すぐに後に来る「言った」を除いて)。それにこだわると、子供は立ったままということで、イエス様が屈むようにして腕を回して抱いたということになります。もちろん、子供を真ん中に立たせた後すかさず、よっこらしょっと、と抱っこした可能性も否定できません。ここから先は個人的な見解になってしまいますが、子供を抱っこするというのはよくあることなので、立たせたまま屈んで抱いた方がとても劇的な感じがします。皆様はどう思われるでしょうか?

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちみんなが見ている前に子供を連れて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そして行為を言葉に言い換えて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れ、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れるということは、これはイエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父として信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。子供を受け入れることがキリスト信仰を証しするような、そんな子供の受け入れ方をしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、と言うのであります。これはいったいどういうことでしょうか?

子供を受け入れることがキリスト信仰を証するような、そんな子供の受け入れ方とは、どんな受け入れ方なのでしょうか?ここでカギになってくるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。先ほどみた英語、ルター・ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも、「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn, ただし、Einheitsübersetzung訳では「私のためにum meinetwillen」)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりそうでわかりにくい表現です。それでは、イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依り頼んで」という意味です。そうは言っても、それが子供の受け入れをどう規定するかはわかりにくいです。一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の何者の名前にも拠らないということです。子供を受け入れる時、引き合いに出すのは例えば誰か過去の偉人が慈善を沢山行ったから自分もそれに倣ってそうする、ということではないし、また他ならぬ自分が善意を持って慈善を行うという自分自身に依拠することでもない。ましてやいろんな宗教の神々や霊の名を引き合いに出すことなどしない。ただただイエス様の名前だけを引き合いに出してそれに依拠して、子供を受け入れるということです。

それでは、その唯一の名前の持ち主であるイエス様というのはどんな方でしたか?イエス様とは、十字架上の犠牲の死を遂げることで人間を罪の支配力から贖い出した方、そして死から復活させられたことで人間に永遠の命の扉を開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」の引用にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてがひざまずく名なのです。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、受け入れられる子供も、受け入れをする大人と同じように、イエス様が実現した罪の赦しの救いを受けられるようにすることです。そして大人と同じように永遠の命に至る道を歩めるようにすること、つまり大人と同じように神の御国の一員に受け入れ一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても大人同様に、イエス様が実現した罪の赦しの救いは提供されている、また永遠の命に至る道は開かれている、ということをしっかり認めて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことかおわかりになるのではと思います。こういう子供の受け入れ方をした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているということがわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

ところで、兄弟姉妹の皆さん、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたり開かれたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、開かれているにもかかわらずまだ道を歩んでいない人は大人も子供も含め世界にまだまだ大勢いるのです。また、一度は受け取って歩み始めた人で、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人も大勢います。兄弟姉妹の皆さん、私たちは、洗礼を受けた時にイエス様に抱っこされたり抱きしめられたのです。イエス様の抱きしめをしっかり受け続けられるために、聖餐式を受け続けるのです。そういうわけで、イエス様に抱きしめられた者として、また抱っこしてもらった者として、お互いに信仰の成長を大切に考えていきましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るようにと、また正しい道に戻ることが出来るようにと祈り続けましょう。もしそうした人たちに教えたり諭したりする時が与えられたら、神が聖霊を働かせて相応しい時と言葉が与えられるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十八主日
2015年9月27日の聖書日課  エレミア11章18-20節、ヤコブ4章1-10節、マルコ9章30-37節


吉村宣教師の聖書研究会「ヘブライ人への手紙」3章

「ヘブライ人への手紙」の学びは、宣教師の夏期一時帰国があったため、今日再開となりました。3章は、旧約の偉大な預言者モーセとそれを遥かに上回って偉大なイエス・キリストの対比で始まります。ギリシャ語原文に依拠しながら見ていくと、一方の偉大さは被造物の中に留まり、他方の偉大さは被造物の上に立つ偉大さ、創造者の側に立つ偉大さが、訳よりももっとはっきりすることが指摘されました。

7節から後は、出エジプト記の荒野の40年の出来事が反面教師として述べられています。これは、興味深いことです。なぜなら、旧約の伝統、ユダヤ教の伝統では出エジプトの出来事は、大方は神がイスラエルの民を解放した偉大な出来事として位置づけられるのに、ここでは不信仰が何をもたらすかと言う教訓として扱われているからです。宣教師の解説の後でも、出エジプトの出来事がキリスト信仰者の生き方にとってどんな意味を持つかということが参加者の間で話し合われました。

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説教「福音は命の永久保証書」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書8章27-38節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先日、家電屋に冷蔵庫を買いに行きました。保証期間は1年と言われ、ちょっと短いなと思ったのですが、冷蔵庫の価格の5%を追加で払えば5年に出来ると言われ、しかもポイントでカバーできるというのでお願いしました。冷蔵庫の値段より1円も多く払わないで保証期間を延ばせたので、何かとても得をした気分になりました。これで5年間は故障してもタダでなおしてもらえる。それ以後は、壊れたらきっと修理代は高くついて新しいのに買い換えなさいということになるのだろうな。でも、5年先のことなんか今はまだ悩む必要はないなどと自分に言い聞かせたりしました。

 その翌日に今日の説教の準備を始めたのですが、本日の福音書の次の箇所で立ち止まりました。聖書を読まれる方なら誰でも知っているイエス様の有名な教えです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ8章34-37節)。」

 これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、と。そうすると、最初に言っていること、つまりイエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負いなさい、というのはなんのことだろうか?自分を捨てるというのはどういうことなのか?イエス様が背負いなさいと言っている十字架とは何なのか?人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのか?

それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、一体どういうことか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのだろうか?それに加えて、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?

そういう理解も間違いではないのですが、まだ少し浅いと思います。今見てきた福音書の箇所はマルコ8章34節から38節までですが、本日与えられた箇所は、27節から33節までが最初にあり、最後に39節がきます。これらを全部ひっくるめてしっかり読むと、今見た34節から38節の内容ももっとよくわかります。結論から言いますと、先ほどの冷蔵庫の保証期間に結びつけて考えると、イエス様と福音を携えて生きる者は命の保証期間が永久にあるようなもので、携えないで生きる者は保証がなく全部自己負担で生きようとするのと同じではないかということです。壊れた冷蔵庫の場合は、保証がなくても自費で修理か買い替えかのいずれかを選ぶことができますが、命の場合は、失われたらどんなに大金を積んでも取り戻すことはできません。自己負担の限界です。しかし、イエス様と福音を持つ者は、この世での命が失われても、復活の日に神から復活の体を与えられて新しい命を生きることになるので、命の保証期間は永久にあります。こうしたことがわかるために、以下、本日の福音書の箇所をみていきましょう。

2.

 まず、本日の福音書の箇所であるマルコ8章27-38節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でヘルモン山と推定される「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させる。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点であります。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。

 本日の箇所の前半部分を見ていきましょう。マルコ8章27節から33節までです。まず、人々はイエス様のことを何者と考えているか、という質問をイエス様がします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになりました。それに対して、弟子のペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで疑問として起きることは、まず、この「メシア」とは何かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?それから、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?こういう疑問が起きてきます。以下にそれらを明らかにしていこうと思います。

 まず初めに、「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれた聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束もあって(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります。(それ以外の使い方としては、イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照。)ユダヤ民族の王国が滅びると今度は、将来ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王が現れるという期待が高まります。さらにイエス様の時代に近づくと、メシアとは、この世の終わりに現れてユダヤ民族の解放を主な任務としつつも全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらず、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。

このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名に付けたということであります。

 さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡の業も成し遂げて、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。

実は、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。それだけではありません。占領者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたすことになったでしょう。

 ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。それで、イエス様が宗教指導層に迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのだと思います。

 それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同然になってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。ここで、この神の計画というものを少しおさらいする必要があります。

キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを一番の大前提にしています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。

このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしてあげようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間からその罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことでした。三週間前の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でした。そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき罪の呪いをひとり子に背負わせて、罪からくる罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦す、というものです。そこで人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いて行った神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうするとことで人間は、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。人間は洗礼を受けることで、不従順と罪を持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうしてイエス様を救い主と信じる者は神の目に義(よし)とされて神との結びつきが回復して、それからは順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと良い導きを受けて生きられるようになり、万が一この世から死んだ時も、その時は御許に引き上げられて、永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

 さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒して、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、それこそが本当に全人類の歴史にとって大きな転換点になったとわかったのであります。

3.

以上マルコ8章27節から33節までをみてきました。神の人間救済計画の全容が明らかになったと思います。この計画の実現のために神はイエス様をこの世に送ったのですが、人々は自分たちの民族的悲願のため、神の計画のスケールの大きさが理解できませんでした。全てのことがわかるのには、十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ8章34節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。

 それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみてみましょう。

 まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪と不従順を全部請け負って、罪から来る神の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。

 それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことなのでしょうか?ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に、神の霊に結びつく新しい人を植えつけられた者だと教えます。それでキリスト信仰者の人生は、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことになるのだと教えます。古い人を死なせるというのはどぎつい言葉ですが、これはそんなに物騒なことではありません。ルターが言わんとするところは、まず、自分の肉に古い人がいることを認めて、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえずそそのかすことを忌み嫌うこと。忌み嫌っているのに神の意思に反するようにと引っ張る力が働くのも現実にある。しかし、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる、その赦しを神から受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々押し潰されていくのであります。

そういうわけで、「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、そういう生き方を始めることです。それはまさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。「自分を捨てる」と言うと、なにか自分で自分を律するようにして無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえますが、そうではありません。また、自分自身を放棄することでもありません。そうではなくて、神が与える赦しの恩恵に包まれて、もっともっと包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて自分が新しくされていく、そのことに身も心も委ねてしまうことです。古い人が衰えれば衰えるほど、新しい人が育っていくということです。

そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架も、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との間の内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違います。例えば職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を唯一の救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが後退するかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点では内容はみな同じです。

 さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあるくらいです。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?

先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかを意味することが明らかになってきます。以下、35節から先を整理してみます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、解説的に言い換えるとこうなります。「イエスを救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、永遠の命を望んでも、それを得られない。なぜなら、自分の造り主である神のもとに戻る道を歩んでいないからだ。しかし、イエスを救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえその信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいるからだ。」

36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりになって生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手に入れても何の得があろうか?全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

詩篇49篇8-9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。保証書がなくて壊れた冷蔵庫だったら自費で直したり買い換えたりできます。しかし命の場合は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても、元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることができません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられるのです!イエス・キリストという神のひとり子が私たちの犠牲の生け贄となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界の総資産にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を罪の支配力から解放し、本来の造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。

さらに神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそこを歩むようになったのです。福音というのは、神がイエス様を用いて実現した人間の救いを伝える良い知らせを意味しますが、それは真に人間にとって命の永久保証書です。冷蔵庫の保証書はポイントを使って5年に延ばすことができましたが、こちらの方は、神のひとり子が高価な代価を払ってくれて、無限に延ばすことができました。どれだけ得をしたか考えただけで、兄弟姉妹の皆さん、気が遠くなりませんか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


(注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十七主日
2015年9月20日の聖書日課  イザヤ50章4-11節、ヤコブ2章1-18節、マルコ8章27-38節


説教「歓呼の中で最終目的地にて出迎えを受ける喜び」神学博士 吉村博明 宣教師、イザヤ書35章4-10節 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 皆さんは、大勢の人から歓呼で迎えられたり歓声を受けた経験がありますか?スポーツの選手だったら、競技の最中とか、また試合や競争に勝った時は観客の歓声を浴びるでしょう。音楽を本格的にする人だったら、演奏や歌が終わった時、聴衆から拍手を受けるでしょう。そうなると、大勢の人の歓声を受けると言うのは、スポーツ選手や音楽家のように特別な才能ある人に限られて、普通の人はあまり機会がないかもしれません。それでも、小学校や中学校の運動会で走った時は応援の声を浴びたり、ゴールインした時は、たとえ一番でなくても誰かしら拍手してくれたり、「よく頑張った!」と言ってくれたのではないでしょうか?また学芸会の劇とか合唱コンクールにクラス全員で出て、観客から拍手を受けた時などは、たとえ自分は脇役くらいだったとしても、大勢の人たちから大きなこと成し遂げたと見てもらったような感じがしたのではないでしょうか?こうしたことは、大人になってしまったら、どんな感じだったかもう覚えていない人がほとんどかもしれません。しかし、大抵は誰でも歓声や拍手を受けた経験はあるものです。

本日の旧約聖書の箇所であるイザヤ書35章は、人は誰でも歓呼や歓声をもって出迎えられる可能性があることについて述べています。しかしながら、その歓呼や歓声の場所は、スポーツ競技場でもコンサート会場でもありません。それではどこでしょうか?イザヤ書35章は、神の国、別名天の御国、またの名を天国と言いますが、人がそこに迎えられる時の出迎えの様子について述べています。しかも、その歓呼や歓声たるや、大勢の天使たちが出迎えをしてあげるものです。10節に「とこしえの喜び」とあるように、永遠に続く喜びに満ち溢れた歓呼・歓声です。スポーツ競技場やコンサート会場の観客の一過性の歓声とは全く質が違う、天国に響き渡り、永遠に続く喜びに満ちた歓呼・歓声です。特別の才能があろうがなかろうが、またどんなに目立たない人生を送ってきた人でも、そのような盛大な出迎えを受けられる可能性がある、ということをイザヤ書の箇所は教えています。どうしてそのようなことが可能なのか、以下みてまいりましょう。

2.

イザヤ書35章を一読すると、渇いた荒れ地に水が溢れ出て草花が咲き乱れたりすることとか、またエルサレムに通じる道が現れて、そこを喜びに溢れて進んでいくことなどが書かれています。そうすると、この箇所は、イザヤ書40章から55章にかけて述べられている、ユダヤ民族のバビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還を先取りする内容のように見えます。バビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還というのは、紀元前500年代後半に起きた歴史的な出来事です。当時のイスラエルの民にとって、解放と帰還はそれこそ喜びに満ちた帰還でした。バビロンからエルサレムまでの荒野の道はそれこそ、水が溢れ出たり花が咲き乱れるような気分で歩むことができたでしょう。囚われの身だった人々が解放されたというのは、さぞかし歩けなかった人が鹿のように躍り上がったり、口の利けなかった人が喜び歌う、そういうイメージを彷彿させたでしょう。

 しかしながら、キリスト信仰者がこの箇所を読む時は、これを歴史的な出来事のイメージ豊かな描写という理解で終わってはいけません。5節と6節で「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」と言われていますが、これは、単なるイメージ描写ではありません。なぜなら、本日の福音書の箇所から明らかなように、こうしたことは、バビロン捕囚からの解放と帰還の500年後にイエス様が実際に全て行ったのです。本日の福音書の箇所では、耳と口が不自由な人が癒された奇跡が記されていますが、イエス様は盲目の人の目も見えるようにしたり、手足の萎えた人が自由に動けるようにする奇跡も行っています。そうしたことは単なるイメージだけでなく、実際に起きることがイエス様の事例で明らかなのです。

加えて、9節と10節をみると、「解き放たれた人々」とか「主に贖われた人々」が道を進むことが述べられています。「解き放たれた者」(9節)とは一見、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民を意味すると考えることができます。しかし、原語のヘブライ語ではそれこそ「贖われた者」( גאולימ< גאל )という意味の単語です。「贖われた」とは、囚われの身だった者が誰かが請け負ってくれたので自由の身にしてもらった、という意味です。10節の「主に贖われた人々」はもっと意味がはっきりしています。原語のヘブライ語( פדויי< פדה)では「主が身代金を払ってくれたので自由の身にしてもらった」という意味です。

「贖われる」とか「身代金を払ってもらって自由になる」という考え方は、キリスト信仰にとって要となるものです。なぜならキリスト信仰者は、人間は罪の汚れのために神聖な神との結びつきを失ってしまったが、イエス様がゴルゴタの十字架で人間の罪を請け負って神の罰をかわりに受けてくれたおかげで、神から罪の赦しを受けられるようになり、それで神との結びつきを回復できるようになったのだ、と信じます。まさにそれゆえにイエス様は真の救い主であり、彼が十字架の上で流した血こそが私を罪の奴隷状態から解放するための身代金になった、そのように自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに神は私を大切な存在に扱ってくれたのだ、とわかります。それでキリスト信仰者は、神に感謝してひれ伏し、神の意思に沿うように生きようと志向するのです。さらに、そこまで自分を愛してくれる神なら自分の思いや悩みを真摯に受けとめて聞いてくれるだろうと信頼して、神に祈りを捧げ、思いと願いを全て打ち明けるのです。

道、真理、命

そういうわけで、イザヤ書35章9節10節にある「解き放たれた人々」、「主に贖われた人々」というのは、イエス・キリストの十字架の贖いの業が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じるようになった人たちを意味します。まさに、キリスト信仰者です。今から2500年以上前の歴史的出来事の人々にとどまりません。さらに、10節の最後をみると、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われています。同様なことが黙示録21章でも言われています。それは、最後の審判と死者の復活が起きる時に出現する新しい天と地についての預言です。その時、復活させられて神のもとに迎え入れられる者たちについて次のように言われています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

ギリシャ語の新約聖書のテキストの欄外に編者の注のようなものがありますが、この黙示録の箇所はイザヤ書35章10節をもとにしていることが記されています。つまり、黙示録を書いたヨハネにとって、イザヤ書の35章は過去の歴史的出来事ではなく、新しい天と地が現れる将来の出来事を意味したのです。10節にはまた、「喜び歌いつつシオンに帰り着く」と言われています。シオンというのは、エルサレムを指す言葉ですが、ヨハネの黙示録では新しい天と地が出現する時に天から降ってくる天の御国のことをエルサレムと言っています。地上の町のことではありません。

ここで、旧約聖書の読み方について注意しなければならないことを述べておきます。旧約聖書は、もちろんイエス様以前のイスラエルの民の歴史やユダヤ民族の信仰について知る書物として読むこともできます。それはそれで意味があります。しかし、キリスト信仰者はそれにとどまってはいけません。旧約聖書には来るべき人間の救いとその救い主についての約束が随所に記されています。ルターが、旧約聖書を読む時はキリストを見いだすように読みなさい、と教えている通りです。従って、このイザヤ書35章の内容は以下のようなものと言うことができます。イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から罪の赦しを得て罪の奴隷状態から解放された者たちが、この世の人生の歩みを経て天の御国という最終目的地に到達して、そこで歓呼と歓声をもって出迎えられるということです。以下、このことを踏まえて、35章を少し詳しく見ていきます。少し聖書研究会のようになってしまい恐縮ですが、皆様、お手元の聖書をお開き頂き、それを見ながら話をお聞き下さい。

3.

1-2節 私たちの用いる新共同訳では「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」という具合に、「喜び躍れ」は命令文です。英語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書をみると、「喜び躍ることになる」と未来の意味で訳され、命令の意味ではありません(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので割愛します)。私としては、ヘブライ語の文法上、命令が正解と思われ、日本語訳に軍配があがるのですが、その後がよくない。最初を命令の意味に訳すと、文法上その後は目的とか結果の意味に訳さないといけないのです。つまり、こうです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠が喜び花を咲かせるために(または、「そうすれば砂漠は喜び花を咲かせるであろう」)。

 「レバノンの栄光」とか「カルメルとシャロンの輝き」というのは、これらの場所が荒れ野と全く対称的な自然豊かな土地だったのでしょう。ただここは、荒廃した自然が緑豊かに回復するという意味ではなく、今ある天と地にかわる新しい天と地の出現を暗示しています。それがわかるのが、2節の終わり「人々は主の栄光と我らの神の輝きをみる」という節です。人間は誰も神の栄光や輝きをみることはできません。罪に汚れた人間が神聖な神の前に立つと、焼き尽かされてしまいます。人間と神との落差はそれほど絶望的なものです。しかし、イエス様を救い主と信じる者に神は次のように言います。「そうか、お前は私が送ったイエスを救い主と信じ、私が彼を用いて実現した罪の赦しの救いを受け入れるのだな。ならば、お前の罪はお前のその信仰のゆえに赦される。」このように言われた者は、最後の審判や死者の復活が起きる日に神の栄光や輝きをみることができ、見ても大丈夫なのです。

3-4節 「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。」ヘブライ語の原文では「敵」とか「悪」という単語はありません。原文に忠実に訳すと、「報復が来る。神の報償が」です。この世で不正義、悪、不条理の犠牲になった者は何百倍にも償いを受けて完全な補償を受ける。逆にそのような犠牲をもたらした者は、この世の人生の段階で神の前にへりくだって赦しを乞わない限り、何百倍もの報いを受け永遠の苦しみを受けることになる。そういう人間の生前の行いが最終的に完璧に全て清算される時が来るということです。もちろんこの世の段階で、不正義、悪、不条理の問題はある程度は解決できて、被害者に償いや補償を行うこともできましょう。しかしながら、解決できないものも多く、解決できた場合も完全に正義を実現したのか疑わしい時も多々あります。だから、最後の審判の日に全ては神の意思に沿って完全かつ最終的に清算されるのです。

先ほど引用した黙示録21章4節に、神は涙をことごとく拭い取って下さる、とありましたが、それはまさに神の完全かつ最終的な清算を象徴しています。加えて、黙示録19章では天の御国は結婚式の盛大な祝宴にたとえられています。これは、この世での労苦に対する最上の労いを意味します。キリスト信仰者は、将来こういう時が待っていると知っているので、この世で悪に手を染めず、悪から試練を受けても「雄々しくあれ、恐れるな」という言葉が絶えず耳に響いているのです。およそ神の意思に沿うことなら、何事も無意味だったとか、無駄だったとかいうことは何もないとわかっているのです。

5-7節 見えない人が見えるようになり、聞こえない人が聞こえるようになり、歩けなかった人が躍り上がり、口の利けなかった人が喜び祝う。これは、死者の復活が起きる時、神の御国に迎えられる者が復活の体という特別な体を与えられることを意味します。復活の体について使徒パウロは、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです(第一コリント15章42-43節)」と教えます。イエス様は復活させられた者がどんなものかについて、ずばり「天使のようになる」と言っています(マルコ12章24節)。

 「口の利けなかった人が喜び歌う」の次ですが、ヘブライ語の原文では「なぜなら」という言葉があります。つまり、いろんな障害を抱えている人が輝かしい者に復活する。なぜなら、荒れ野に水が湧きいでて、荒れ地に川がながれるからだ、と言うのであります。この自然描写は、最後の審判と死者の復活が起こる時に出現する新しい天と地について述べています。

8節-9節 「そこに大路が敷かれる」の「そこに」というのは、ヘブライ語の言葉としては「そこに至る」と訳しても大丈夫な言葉です。新しい天と地のある場所、つまり神の御国に至る大路が敷かれたということです。イエス様を救い主と信じ、神から罪を赦してもらった人は、その道の上に置かれてあとは御国を目指して歩み続けます。「汚れた者」がその道を通れないと言われますが、これは罪の汚れを持つ者です。ただし、キリスト信仰者も肉を纏って生きている以上、罪の汚れを持っています。どこが違うかというと、信仰者の場合は信仰のゆえに罪を赦してもらっているが、信仰者でない場合はまだこの神からの赦しを得ておらず罪の汚れが汚れとして残っているのです。

8節で「主御自身がその民に先だって歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない」と言われます。最初の部分を原文に忠実に訳すと、「その道は、その道を通る者のものである」。なんだか当たり前すぎてよくわかりません。しかし、次の行「愚か者がそこに迷い入ることはない」をよくみれば意味がわかります。「愚か者」とは、神の知恵からかけ離れた者のことです。神の意思を知らず、神の導きに自分を委ねたくない人です。翻って、「その道を通る者」とは神の意思を知っていて、神の導きに自分を委ねる、神の知恵に与った人です。「道」は、そのような者の道なのです。

 この天の御国に至る道は、獅子も獣も入り込めない道と言われます。つまり、しっかり守られ安全な道なのだという。しかし、御国に至る道を歩む者が危険や災難に一切遭遇しないとは言い切ることはできません。だったら、安全ではないでないか?と言われてしまうでしょう。使徒パウロが次のように教えていることを思い出しましょう。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです(ローマ8章38-39節)」。危険や災難に遭遇しても、それらには信仰者から神の愛を引き離す力は持っていないのであります。それで安全なのです。

10節「主に贖われた人々は帰って来る」。「主に贖われた人々」とは、イエス様が十字架で犠牲の死を遂げたことで私の罪は赦され、イエス様のおかげで罪の奴隷状態から贖われた、と信じる者です。「帰って来る」というのは、神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復させた者が、最初の人間アダムとエヴァが堕罪前にいた楽園にまた帰って行く、という意味です。このようにイエス様の十字架の贖いの業というのは、最初の人間が失ったものを取り戻す意味があります。

「シオン」とは、先ほど申しましたようにエルサレムの別名で、エルサレムも地上にあった現実のエルサレムの町の意味の他に、天の御国も意味します。

「とこしえの喜びを先頭に立てて」。ヘブライ語の原文では、「とこしえの喜びは彼らの頭上にある」です。「喜びと楽しみが彼らを迎え」。「迎え」と言っているのは、原文では「取って替わる」という意味がある動詞です。「喜びと楽しみが取って替わる」というのははっきりしませんが、すぐ後で「嘆きと悲しみは逃げ去る」と言っているので、「贖われた人々にとって喜びと楽しみが全てに取って替わり、嘆きと悲しみはもう入り込む余地がなくなって退散せざるを得ない」という意味でしょう。

4.

以上、イザヤ書35章というのは、キリスト信仰者が歩むことになる道、永遠の命に至る道がどんな道でどこに至るかをよく教えている箇所であることが明らかになりました。その途上で信仰者は決して危険に遭遇しないとは言えないけれども、どんな危険や困難も、信仰者を神の愛から引き裂く力を全く持っていないのです。そしてこの世が終わりを告げて死者の復活が起こる時、信仰者は朽ちない復活の体を与えられ、天の御国にて神の天使たちの盛大な出迎えを受けます。到着する方も出迎える方も、ただただ喜びに満たされています。それこそ、天使たちが「おめでとうございます!よく頑張りましたね!」と叫ぶのが聞こえそうなくらいです。

本日の福音書の箇所で述べられているイエス様の奇跡の業について一言。イエス様は、イザヤ書35章や他の章にも預言されているいろんな癒しの奇跡を行いました。イザヤ書35章をよく見ると、難病が癒されるのはそれこそ終末の時、新しい天と地が出現する時の出来事として記されています。それがまだその時でない段階で、どうして奇跡の業を行ったのでしょうか?

それは、神の国がイエス様とともにあったからです。イエス様は活動開始の頃、「悔い改めよ。神の国は近づいた!」と宣べ伝えました。「近づいた」というのは、ギリシャ語の原文ではエンギケン(ηγγικεν)という言葉で、これは「近づいた」と言うよりは、ずばり「もう来た」とか「もうここにある」という意味です。神の国は、先ほども見ましたように、復活の体を与えられて朽ちない存在に変えられた者が集い、なんらの嘆きも悩みも苦しみもなく死もなく、病気も飢えもない世界です。そんな神の国がイエス様にくっつくようにして一緒にいたのです。だからイエス様が触れたりまたイエス様に触れれば、神の国の影響力が働いて病気が治ってしまう。イエス様が一声かければ嵐は静まり、わずかな食糧で数千人もの人たちを養ったりしました。つまり、当時の人たちは、まだ最後の審判や復活の日が来る前に神の国を垣間見たないし味わったのです。

しかしながら、いくらイエス様に癒してもらったり、空腹を満たしてもらったりして神の国の力や影響力を体験したとは言っても、これらの人々はまだ神の国の外部に留まっています。神の国の内部にはいれるようになるためには、これはイエス様のゴルゴタの十字架の贖いの業と死からの復活がなされるのを待たなければなりませんでした。それらが成就した後で、人はこれらの出来事が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるのです。まさに、イエス様がイザヤ書35章で言われる大路、聖なる道を敷いたのです!キリスト信仰者は、この道がどこに向かって、最終目的地はどんな場所か、そしてそこでは歓呼と歓喜を持って出迎えを受けるということを知っています。

雄々しくあれ、恐れるな。חזקו  אל-תיראו
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
ששון  ושמחה  ישיגו  ונסו  יגון  ואנחה

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメ

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十六主日
2015年9月13日の聖書日課  イザヤ35章4-10節、ヤコブ1章19-27節、マルコ7章31-37節


9月のフィンランド家庭料理クラブの報告

フィンランドのお菓子パン、プッラ、pulla, voisilmapulla強い日差しの中にも、秋の気配が漂う穏やかな土曜日の午後、
「家庭料理クラブ」はバタープッラを作りました。

最初にお祈りをしてスタートです。

今回は生地の硬さを見ながら、小麦粉を足していく、
フィンランド流の柔らかな生地の配合に、挑戦していただきました。

小ぶりのプッラの焼き上がりに、
コーヒータイムでは、ついつい手がのびてしまう美味しさでした。

パイヴィ先生からは、お母さんの手作りのプッラの思い出や、
香りについてのお話を、聞かせて頂きました。

フィンランドのお菓子パン、プッラ、pulla, voisilmapulla

説教「わたしは命のパンである」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書7章24~30節

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今日の福音書は、マルコ7章24~30節です。
表題に「シリア・フェニキアの女の信仰」とありますように、舞台はガリラヤではなくて、ず~っと北のティルスという地方です。口語訳の聖書では、「ツロ」と言われていたところです。つまりティルスという地方は、イエス様が伝道を始められた、ガリラヤやユダヤとはちがう、異邦人の地でありました。この異邦人の地に、イエス様と弟子たちが行かれた時に、起こった出来事であります。今日のみことばのカギは、異邦人の地で起こったカナン人の女と、イエス様のことであります。

イエス様は、少し落ち着いて静かな雰囲気で過ごされたかったことでしょう。
ガリラヤでは毎日群衆がおしよせ、ユダヤ教の律法学者たちと論争し、毎日がいわば戦争です。7章1~2節を見てもわかります。そこで、ず~っと北のほうにあるツロまで来られて、弟子たちと共に静かにしたいところでした。
24節、「ある家にはいり、誰にも知られたくないと思っておられたが」とありますように、ここにも人々がイエス様のうわさを聞いて、おしよせて来たわけです。ここで1つのハプニングが起こります。ギリシャ人でシリア・フェニキア生まれの女がイエス様の前にひれ伏し、悪霊にとりつかれて苦しんでいる娘を助けて下さい、と懇願するのであります。この女の願いに対してイエス様は意外にも、冷たいような言葉を返しておられます。

27節を見ますと「イエスは言われた。『まず子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』」。この言葉はどういうことでしょうか。女は悪霊を追い出して下さい、とたのんでいるのに、何という言葉でしょうか。普通の人が聞いても、何のことをイエス様は仰っているのかわからない。病人を助けてほしいという女の、必死の願いの前に「まず、子供たちに食べさせなければならない」と言われるのです。これは衝撃を与えるような言葉です。27節でイエス様は言われました。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
小犬にやってはいけないと言われた言葉から、この女には全てがわかって、イエス様の言葉に対応していくのです。イエス様は今、異邦人の地に来ておられるという事が前提にあって、悪霊を追い出して下さいという、病をいやす事がここに偶然に起こったのでしょうか。イエス様の言葉には、謎めいた重たい内容が女に返されています。
「小犬にやってはいけない。」と言われた「犬」というのは、愛される番犬等のことを言っているのではありません。ふつう、「犬」は不名誉の象徴として使われたのでした。ギリシャ人にとっては、犬と言えば「恥知らずのずうずうしい女」を意味しました。ギリシャ生まれの彼女には、ずしりとくる言葉でした。そして、その意味することも、すべて分かったのです。ユダヤ人にとっても、これは軽蔑的な言葉でありました。「聖なるものを犬にやるな」聖書にも出てくるくらいです。(ピリぴ3:2、黙示22:15)
それは異邦人を軽蔑する、ユダヤの言葉でありました。

ここに大事な点があります。
犬という言葉を用いる時の声の調子によって、全く同じ言葉がひどい軽蔑になるし、又、愛情あふれる呼びかけにもなるのでした。ここでのイエス様は、軽蔑の言葉から調子を変え、愛情のこもったペットの小犬を呼ぶような意味を、含ませておられたというのです。まず子供たちに食べさせるべきである、とイエスは言われた。しかし、ただ「まず」であって、家のペットたちのためにも肉は残されていた。つまり、まず神様は、イスラエルの民に最初に福音を与えられた。しかし、ただ最初であったにすぎない。

さて、この時代、食事をするのにナイフやフォーク等使っていません。両手で食べました。もし手が汚れていたら、彼らは手の汚れをパンのかたまりで拭いて捨てたのです。落ちたパンくずは、家で飼っていた犬がそれを食べたのです。この習慣をよく知っているギリシャ生まれの、かしこいカナンの女は、すぐさまイエス様に、精一杯の愛をもって答えていくのです。彼女は言いました。
「わたしは子供たちに、最初に食べさせるのを知っています。ごもっともです。しかし、子供たちが捨てたパンくずもいただけないのですか。」というのです。
たしかに神様はイスラエルの民に、まず信仰を恵まれました。マタイは書いています。「しかし、主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」と、一番最初に口に出しているのです。神のあわれみも、あのパンくずのようにあるでしょう。

イエス様は彼女を受け止め、愛をもって言われます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」この時、娘の病気はいやされた。ここに、信仰をダメだ、と拒絶するような答えというものはないのです。明るい信仰がある。あわれみによる、救いを信じる信仰があるのです。娘の苦しみを全身で我が身に受けて、苦難の中にいた彼女の心は、ほほえみをもって答えられました。彼女の信仰はためされ、機転のきいた賢い言葉をもって、イエス様とのやりとりの中で、異邦人の女の信仰を真実な信仰として、受け入れて、答えていかれた。彼女の祈りは答えられたのです。

イエス様に、壁のように立ちはだかっていた、まずユダヤの民だけが神の恵みにある、これを打ちくだかれています。ユダヤ人たちが異邦人を拒否して、遠くに投げ捨てた「天からのパンくず」を、彼女は受けていったのです。
「主よ、しかし食卓の下の小犬も、子供のパンくずはいただきます」と、イエス様を最大級の尊敬を込めて、「主よ」と叫んで、そして自分が小犬であることを認めているのです。その上でパンくずを求めるのであります。
救い主が、ユダヤの中にお生まれになることは、神の御計画による事実であります。しかし、神の救いはユダヤ人に限定されるべきものではない。彼女はギリシャ人であっても、小犬のようであっても、パンくずとして神の恵み、あわれみを受けるのでありました。主イエスからのパン、それにすべてがかかっていると、信じて求めるのでした。主イエス様が与えて下さるパンこそは、ユダヤ人によって、又、ローマ帝国の支配から開放されることでありました。罪の支配から、又、神に逆らう力からの開放を示すことでありました。

ヨハネ福音書6章41節に、主は御自信を「わたしは天から降ってきたパンである」と言われました。或いは6章48節では「わたしは命のパンである」と言われています。このようにヨハネでは、御自身をパンとして私たちに与え、罪による悲惨から救い出して下さったのであります。
異邦人の地において、ギリシャ人の女に、福音の救いはもたらされました。
異邦人の前に立ちはだかっていた壁は打ち砕かれ、神の福音は全ての異邦人世界へと、やがて広げられていった、その原点がここにあったということであります。    アーメン・ハレルヤ!


聖霊降臨後第15主日  
2015年9月6の聖書日課  マルコ7章24~30節