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説教「新たな命の約束が与えられる」田中良浩 牧師

(Ⅰ) 聖霊降臨後第5主日(詩30編)

聖書日課 王上17:17~24、ガラ1:11~24、ルカ7:11~17

 

1 今日の主題は「主はいのちを得させてくださる」である。

今日の詩編30編3節以降にこのように記されている。

「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。

  主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせわたしに命を得させてくださいました。主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。」

=ここに今日の主日のメッセージの主題が歌われる。

 

2 旧約聖書の日課は、預言者エリヤが、ガリラヤの北方、地中海沿岸の町、サレプタに滞在していた時、やもめの一人息子が死んだが、神はエリヤの

祈りに応えて、その息子に新たないのちをお与えになった物語である。

これはサレプタの貧しいやもめにとって希望をつなぐ出来事であり、さらに、今日の福音書の物語(出来事)の〝前触れ(予表)“となる出来事であった。

 

3 今日の福音書の物語

旧約のシドンのサレプタの町と、ナインの町に起こった出来事からいくつかのことを対比しながら学びたい。

 

① 両方の物語の主人公は、夫を失った『やもめ』(寡婦)である。

やもめはいつの時代にも弱者である。とくに聖書の時代ではなおさらであった。

やもめは、惨めな境遇にいる者で、寄留者、孤児と共に、社会的に保護の対象であった。(レビ記19:9~10、申命記24:19~22)

「ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」と律法で、繰り返し命じられている。

新約時代も、教会は同じ態度を継承している。(ヤコブ1:27)

「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、・・・」と記される。

 

これらのやもめは、いずれも一人息子を失ったのである。さらなる悲劇である。

② 福音書の物語では、主イエスはナインの町に行かれたのである。

ナインとは、原語ではミドラッシュ(愛らしい、楽しい)との意味である。

そして人々をめぐる町の情景が、『二つの群れ』として生き生きと描かれる。

一つの群れは、イエスと弟子たち、そしてそれに従う大勢の群衆である。

これは言うまでもなく、喜びの福音を告げ知らせる神の国の群れである。

他の群れは、やもめと一人息子が死んだので、棺を担ぎさす群れである。

これは葬列の群れである。

神の国の群れは、町に入るところ、葬列の群れは町から出るところであった。

神の国は喜びと希望、永遠のいのちを告げ知らせる群れであり、他方

葬列は死と悲しみつつ死者を葬る群れである。この二つの群れが出会った!

 

③ そして主イエスはこの母親を見て、憐れに思い、

「もう、泣かなくてもよい!」と言われたのである。なんと力強い言葉!

これがまさに福音=喜びの告知である。

それは、「死という現実に嘆くき、悲しむ者への勝利の宣言である」

 

④ 主イエスの「若者よ、あなたに言う。起きなさい!」の言葉によって

やもめの一人息子は、再び、いのちを与えられたのである。

 

⑤ ここで今日の詩編30編の言葉は成就、実現したのである。

ここで、私たちは確認しておく必要がある。このやもめの一人息子は

死んでいたのに。主イエスによって再び命が与えられ、母親に返された。

しかし、その息子もやがて死をむかえることになるのである。

しかしながら、今日の喜びの奇跡は、一時のいのちのためではない!

それは永遠のいのちの約束であり、来るべき日の復活を意味している。

それゆえ「新たな命の約束が与えられる」出来事だったのである。

 

4 今日の主題は他人ごとではなく、自分の身の上にも起こった。

高校生の時、小学1年生の弟が死んだ。大きな悲しみであった。

しかし、主イエスの十字架の復活の出来事によって、希望を与えられた。

次のみ言葉がいつも私の心に響いている。

「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

アーメン!

説教「山上の説教、連続解説説教 第1回」木村長政 名誉牧師、マタイ福音書 5章1~3節

今回の礼拝から「山上の説教」の連続説教をいたします。山上の説教は皆様もよくご存知と思います。有名な聖書の箇所で、主イエス様が山の上で語られた説教と言われます。

(※眼下にはガリラヤの湖が広がっている、素晴らしい眺めです。)

マタイ5章1~2節で記しています、「イエスは、この群集を見て山に登られた。腰を下ろされると弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き教えられた。」教えられたとあるように多くの場合、山上の説教には美しい道徳だと思われている、多くの人々が愛しています。実際には山上の説教には5章から7章まであって、そこにはいろいろなことが語られています。簡単には道徳だとは言い切れないものであります。山上の説教を少しでも真剣に自分のこととして取り組んで受け止めようと考えたら、これは美しい道徳の話ではすまない、そんなこと言われても、とても自分には出来ないと思う。そして更に踏み込んで静かに考えてみれば、自分には出来なくとも良い、出来なければ、出来ないだけ、ただ理想としてでもあれば良い、と思うのであります。これが示されている以上は、たとえ絶望的であっても、出来るだけのことは、やってみよう、と思うのであります。そこに人間としてのあるべき生活が開けてくるのではないかと考えるのです。そうして悪戦苦闘して実行してみよう。この山上の説教の内味を題材にした小説や、芸術、音楽などの世界で用いられています。トルストイやシェークスピァの小説などで有名であります。人間の憎しみと赦し、愛の問題の苦闘です。5章44節などには直接に「敵を愛せよ」。とあります。「敵を愛せよ」など出来るものではない。それにも関わらず、この言葉がある、というだけで、どんなに人間に影響を与え慰めとなってきたことが知れないのであります。それは山上の説教の一つの読み方であります。しかし主イエス様は、はたしてそのように望まれたのでしょうか、少しでもイエス様の思いの真相に深く入り込んで見て行きたいと思っています。山上の説教は誰のためになされたのでしょうか。このことは説教全体の背景となる重要なことであります。それによって、その受け取りかたも変ってくるでしょう。5章1~2節では主が山の上で座られると弟子たちが御許に集まってきました。とあります。ルカも6章20~49節の方を見ますと平地であったかもしれません。何れにしても、多くの群集もいたのでしょう。恐らく弟子たちに対して語られたであろうと思われます。更にまたマタイ5章13・14節を見ますと「あなた方は地の塩である。」「世の光である。」とあります。そうしてみると山上の説教は信仰を持っている人のために語られた、と言わねばなりません。信仰を持っていると言うことは、キリストの救いによって罪を赦されている、と言うことになります。次に大事な点は山上の説教はキリスト教の中心であり、真髄を語ったものであると言われます。たしかに信仰の中心的なことは語っていますが教科書のように書いているわけではないのです。それなら何でしょう。それは福音を語っているのです。例えばマタイ4章23節を見ますと、そこに主イエス様が「御国の福音を宣べ伝えた」と書いてあります。このことは大事なことであります。ここで語られていることは「福音」であって、それを主に従うものたちにお話になったのであります。多くの戒めが記されているように見えますがそれは「喜びを告げるメシアの説教」である、と言わねばならないものです。それなら、これを読む私たちもここに福音を読み取ろうとするものでなければならない。ある意味では常識的な考えを捨てて全く新しい思いで読まねばならないものであります。

山上の説教のはじめには九つの教えがあります。それは「さいわいである」と言う言葉がついているのです。文語訳では、はじめに「幸福なるかな」となっています。この方がもとの言い方に近いし意味の上からもそう言えるものです。さて、3節を見ますとそこには「心の貧しい人は、さいわいである、天国はかれらのものである」とあります。ほんとうは、いきなり「さいわいなるかな」、「幸福であるよ」と言っているのです。もちろん、心の貧しさは「さいわい」である、と言うのでしょうが、まず何よりも先に、さいわいである、あなた方はさいわいである。と叫ぶように語り掛けているのです。英国のある聖書学者が同じように読んでいます。その人はこう言うのです。これは最も重要なことです。なぜなら至福の説教は来るべきことに対する信仰深い望みではありません。また未来の祝福に対する漠然とした預言ではないのです。それは今あるものに対する祝いなのです。今の祝福なのです。「おお、キリスト者であることの祝福よ。おお、キリストに従う喜びよ。おお、イエス・キリストを救い主、主と知ることのなんと言う喜びよ」と、ここには書いてあるのだ。こういうことをしたら幸いになる、と言うのではなく、すでに今さいわいになっているのです。話はそこから始まるのであります。3節には「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」と言うことですが、ある人がこう言いました。「さいわいであると言うのは、天から鐘の音が何度も何度も歌われ、鳴り響いている。この世に鳴り響き渡って、すべての人に御國に入るように招いているのである」私たちは現実の祝福されていない、この世でそんな風には普通考えない。すでに招かれているので、それに答えて行きさえすれば祝福されるのです。その準備はすでに整えられているのです。だからこそ、その恵みを告げる鐘が鳴っているのです。救いは成就した、ただそれを受けなさいと言うことです。ところが、それなのに私たちは、神の恵みの御業が本当にはよく分かっていないので、いつでも自分が何とかしなければ祝福は無いはずだと思い込んでいるのです。それは、この「さいわい」を作ってくださった神さまからの恵みをというものを忘れているのです、全く気づいていないのです。イエス・キリストが十字架にかかり、死んで甦って下さったことが、何を与えたか、と言うことが分かっていないのです。それを受けても、やはり、また何かを自分の力でしないと、さいわいになれないと思うのであります。ここに、すべてのことはもう出来上がっているので、これを元として幸いな生活が始まることを忘れているのです。すでに、「さいわい」になっていることを見落としているのです。「幸い」という字は、そのまま祝福という字ではありませんが、しかし信仰生活においては「さいわい」と言うのは祝福されていることです。「神が祝福する」と言うことであります。そのために人間が何もしなくても良いのです。どんな状態にあろうとも神が救いを与えてくださる、と言うことであります。そうすると「さいわい」と言うのは、これから造りだすものではなくて、すでに与えられているものであります。そういう人々に対して、これらの言葉が語られているわけであります。

さて、「心の貧しい人たちは、さいわいである」と言うことですが、これは心を貧しくしなさい、と言う戒めではないことはわかります。むしろ、あなた方は救われているから心貧しき者たちであるのですよ、と言うことです。ルカ福音書の方では6章20節に「あなた方貧しい人たちはさいわいである」とあります。これが、もし戒めであるとすれば、貧しい人になりなさい。と言うことになります。これは正しくないことは誰にもわかることであります。それだけでなく、ここには「あなた方、貧しい人」と書いてあって、あなた方はすでに貧しいのだ!と言っているのです。そうであるとすれば「あなた方は心の貧しい者である」と言われることを正直に聞かねばなりません。キリストに救われた者がどうして心の貧しい者であるか、と言うことであります。それは救われた時のことを考えてみれば分かります。私たちは何のいさおもないのに救われるといわれます。それは何の良いところもないのに救われると言うことであります。ただ、神の恵みによって救われるのです。これならば救われた人は自分を頼みとしないで、ただ神を頼みとしている筈なのであります。だから、心の貧しい者….と言うのは神に頼む者であります。手に何も持たずに神の前に立つことであると、ある人は言いました。自分の方にこれがあると言って、手に持っているものを見せようとすることではない、と言うことなのです。心と言うのはほかのところでは「霊」と訳されている字でもあります。聖霊の「霊」ですね、霊というのは心の最も深いところ、ということでありましょう。そうすると霊において考えて行くと貧しい者というのは全く貧しいということになることであります。自分には自分を救う力がない、神の御力によって、生きているだけであると言うことであります。そのことをはっきり知って、そのことによって生きている者ということであります。これこそ、まさに自分の貧しさを知っている、心の芯まで本当に自分の中に何にも無い貧しき自分を知っている、と言うことであります。「心の貧しい者」と言うのは美しい言葉であります。誰でもそうなりたい、と思うに違いありません。しかしそれは謙遜になろうとしたり、自分の弱点を数え挙げてできることではありません。神の前において自分を見ることが出来なければ、出来ることではあります、霊において心のままに自分を見ることでしょう。しかし神の前で反省しても、懺悔しても心が貧しくなれるものではありません。それは救われなければ出来ないことです。文字通り救われるのには自分に何も無いことを言い表さなければならない。それは神によって救われ、神の恵みによってだけ生きられる、と言うことが分からなければあり得ないことであります。救われた者はそのようになっている筈であります。心の貧しい者と言うのは、そういう意味から言えば、救われている者の姿の一つであると言えるのであります。

しかし、この世において信仰によるこのような生活は簡単なことではありません。貧しいと言うことは、ただ貧しいだけで終わるわけではありません。貧しいゆえに、いろいろな圧力がかけられてくるでしょう、この生活の只中で物質の面でも精神の面でも,辛くなることもあります。人々から侮辱を受け、踏みつけられるような辛いこと、痛いこと、言葉に言えない迫害を受けることもある。貧しいゆえに心を空っぽにするゆえに、おのれを空しくすることは、いろいろなことにぶつかって、人々が大事なことと痛感することであります。生易しいことではありません。なぜなら、それは自分を赦すことになるからであります、しかしそのことは神の御国においては「幸いな、よろこびの世界」となるのであります。それには、ただ一つの道があります。それは自分の罪を知ること、その罪を赦されることであります。それが与えられれば私たちもまたその祝福にあずかることが出来るのであります。心を貧しくすることについてルターは興味深いことを言っています。祝福の説教を十戒になぞらえて「心の貧しい人を十戒の第一の戒めである、神のほかに何ものをも神としてはならない」このことからルターは「心の貧しい人」と言うのはいかなる偶像をも拝まず、ただ神のみを拝む者のことである。というものであります。ルターの言葉をそのままに言えば、それは偶像を拝まないとというだけでなくて、「心の中に地上のいかなる物、いかなる被造物にも執着することなく素直な自由な心で、ただ神にのみ尽くすことであります。」そうしてみると貧しいと言うのは自分に誇るべきものは何も無い、ただ神のみを仰ぐと言う信仰のことであり、それがキリストの救いによって与えられると言うことになるわけであります。実際には神によってでなければ生きることが出来ないという事なのであります。それがまことの貧しさであると言うことになります。それに続いて「天国は彼らのものである」とあります。ここには「なぜならば」という字がはっきりと記されています。このことは大変大事なことであります。普通には心の貧しい者はさいわいである。彼らには神の国が与えられるであろう、と言うように考えるでしょう。特別に考えることなく何となくそう思っているのであります。しかしここにはそう書いていないのです。まず何となればという理由があります。その上で天国は彼らのものである。となっていて彼らのものになるであろうとは書いていないのであります。心の貧しい者はさいわいなのです。それは天国が彼らのものだからなのであります。これから天国が彼らに与えられるからとは書いていないのです。<このことは間違いやすいことであります。>神の国といってもそういう国があるわけではなくて神が支配されるところと言うことであります。そうすると、ここの意味は次のように言える。神に救われて、ただ神によってのみ生きている人々は幸いなのである、なぜならもうすでに神は彼らの間にいきておらるからである。イザヤ書57章15節にこう書いてあります。”わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けてへりくだる者と共に住み、へりくだける者の霊をいかし、砕けたる者の心を生かす。”神はすでに私たちを省みていてくださるのです。私たちはその神が何かためらっておられるように思うのであります。しかし神がわたしの救い主であり、わたしを支配しておられることは明らかなのであります。それゆえに幸いである、と言えるのです。

ハレルヤ・アーメン  3節は以上。

 

説教「嵐が来ても大丈夫な家の中に」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書6章37-49節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の福音書の箇所の終わりのところで、イエス様は、二人の人を比較します。一人は、家を建てる時、最初に地面を掘って岩盤にあたったところで土台を置いてその上に柱を立てる建て方をする人。もう一人は、地面を掘ることをせず、土台も置かず、直接地面の上に柱を立てる建て方をする人。その後で何が起きたかと言うと、嵐になり川が氾濫して洪水が起きる。地中の岩盤の上に土台を置いMMBOX PRODUCTION www.christiancliparts.netた家は揺るがずしっかり立ち続けたが、ただ地面の上に土台もなく柱を立ててしまった家は倒れて流されてしまった。

作り方からみれば、なるべくしてなったとしか言いようがないのですが、ここで大事なのは、この二人の人は何かに例えられているということです。地面を掘って岩盤の上に土台を置いて建てた人、これはイエス様の教えを聞いてそれを実行する人です。地面に直接柱を立てて建てた人、これはイエス様の教えを聞くが実行しない人です。このたとえは何を意味しているのでしょうか?

まず、イエス様の教えを聞いてもそれを実行しない人についてみてみます。この人は、この世の人生でそこそこの「嵐」に何度か出会ったかもしれないが、その人の「家」は何事もなくみかけは立派に立ち続けた。ところが人生で最大かつ最後の「嵐」である死が来た時、その人はそれを乗り越える力はなく、無残にも倒れて流されてしまう家のようにその人の全ては終わりを告げ、全てが失われてしまう。翻って、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人は、この世の人生でいろんな「嵐」に出会って打ちのめされたかもしれないが、その人の「家」の土台や柱はしっかり建てられたままであった。そしてこの世の人生で最大で最後の「嵐」、死が来たとき、揺るぎもしなかった家のように、その人はそれを乗り越える力が与えられていて、終わりを告げるのはむしろ「嵐」と死の方で、その人は永遠の命を持って生き始める。

そうなると、ここで問題になって来るのは、イエス様の教えを聞いて、それを実行するというのはどういうことか、ということです。イエス様の教えを聞くだけでは足りない。それを実行しなければならない。そうしないと、土台を置かず地面に直接柱を立ててしまった人と同じように家ともども悲惨な運命を辿ってしまう。つまり永遠の命を持てず死を超えられない。ご存じのように、ルター派では、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から「お前は私の目に適う者だ」みなされる、「よし」とみなされる、ということが強調されます。神に「よし」とみなされるというのは、罪を内に持ってはいるが、信仰によって罪を赦されて神の裁きを免れる。神の裁きを免れるというのは、永遠の命を得られるということです。信仰によって神から「よし」と認められる、「義」と認められるということで「信仰義認」と呼ばれます。人間は、律法に命じられた掟を守ることで神に「よし」と認められるのでなく、また善い行いを積み重ねて神に「よし」と認められるのでない。イエス様を救い主と信じる信仰によって「よし」と認められるというのです。そうすると、本日の箇所で、自分の教えを実行することが大事だと言うイエス様は、信仰義認ではなく、律法主義や善行義認を意味しているのでしょうか?この問題を考えてみましょう。

 

2.

 確かに、イエス様の教えには、「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに命令するものが多くあります。こういうイエス様の命令は本当はどんなものかについてルターが解き明かしているところがあるので、それを見てみようと思います。それは、本日の福音書の箇所のはじめで、イエス様が「あなたがたは、自分の量る秤で量りかえされる」(6章38節)と教えているところです。キリスト信仰者は、他人を見下したり侮ったりすれば、自分も神から見下されたり侮られたりするということです。他人に情け容赦なく振る舞えば、神もその人に対して情け容赦なく振る舞うということです。ルターは、この箇所について、次のように教えます。

『これは、まことに奇妙な教えだ。神は、隣人に仕えることの方が神に仕えるよりも大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分にかかわることでは我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人にかかわることとなると、そうではないのだ。もし我々が隣人に対して悪く振る舞えば、神はもう我々と平和な関係にはない、以前与えた赦しも全て無効にすると言われるのだ。

 実を言うと、この「量る、量りかえされる」というのが起こるのは、我々が信仰に入った後のことで、入る前のことではない。君は、信仰に入った時のことを覚えているだろうか?神は、業績や能力にもとづいて君を受け入れたのではなかった。一方的なお恵みによって君を受け入れてくれたのだ。そして今神は、信仰に入った君に次のように言われる。「私がお前にしてやったように、お前も他の人にせよ。さもないと、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも起こる。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げるだけで、何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ、何も与えないことにする」と。

信仰に入った後の「量ること、量りかえされる」というのは、このようにして起こる。神は、信仰者の我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与える。それで、もし我々が隣人に善いことをしようとしなければ、神も我々にお与えになった善いことを取り消されるのである。その時、我々は、自分に信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。』

厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、次のことです。私たちは神から計り知れない恵みをいただいているのだから、そのことがわかっているならば、そのような計り知れないことをして下さった神を心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然という心になる。そして、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることは実に取るに足らないものになる、ということです。つまり、キリスト信仰者にとって、イエス様の命令に聞き従うというのは、神に救われた結果として自然に生ってくる果実のようなものなのです。神から救いを勝ち取るための努力や修行ではないのです。

そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで救われて、そんなに自然にイエス様の命令が実行できるようになるのか、と訝しがる向きもでてくるかもしれません。実はそんな時こそ、自分が救われたことがどんなに大きなことであるか、立ち止まって振り返る必要があります。

 

3.

  人間の救いとは何か、何が救われていない状態で、そこからどのようにして救われた状態に入れるのか、それを明確に教えているのが聖書です。救いということがわかるためには、まず人間には造り主がいるということを認めなければなりません。造り主を認めず、人間なんてただ単に、いろんな化学物質の偶然の合成からできて勝手に進化して今ある姿かたちになったんだ、という見方をとれば、救いということはでてきません。そもそも必要もありません。なぜなら、死ねば、化学物質のように分解して姿かたちは消え去るだけだからです。救いとは、この世を去る時、最後の一線を越えた瞬間、自分の造り主が約束通りがっしりと自分を受け取ってくれるということです。このように聖書は、人間とは創造主の神に造られたものであり、神から命と人生を与えられたという立場に立っています。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、そこにどんな問題があって、それはどう解決されるのか、そういうことを明らかにしている書物です。救いとは、つまるところ、造り主の神と造られた人間の間の関係にかかわることなのです。

創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い溝ができてしまいました。死ねば永遠に造り主から切り離されて滅びの苦しみを受けるしかなくなった人間を、神は深く憐れみ、再び関係を回復して神のもとに戻れるようにしようと計画して、それで自分のひとり子をこの世に送り、彼を用いて計画を実現されました。それは、人間の罪から生じる神罰を全てこのひとり子イエスに請け負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、この身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで、永遠の命への扉を人間に開かれました。

人間は、このイエス様の十字架の死と死からの復活が全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は、罪を赦された者として神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもかわることなく絶えず神の守りと導きがあります。万が一、この世から死ぬことになっても、造り主である神の御許に引き上げてもらって永遠にそこに留まることができるようになりました。私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、これ以上何を求める必要があるでしょうか?

こうした神の私たちに対する愛の大きさがわかれば、私たちは喜びと感謝のあまり、他人が自分に気にさわることをしたとか言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもなく大きなことを私のために成し遂げて下さった神を全身全霊で愛するのが当然と思うようになります。さらに、そこから出発して、神がしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となっていきます。

 

4.

  以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちキリスト信仰者に命じる時、それは同時に、「お前は、私が十字架と復活をもってもたらした救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれていることが明らかになりました。このことがわかると、本日の福音書の箇所のイエス様の教えもよくわかります。

まず、37-38節。「裁いてはいけない、有罪としてはいけない」とイエス様は命じられます。ここで注意しなければならないのは、これは、悪や犯罪を放置しろ、悪や犯罪をし放題にさせろ、ということではありません。天地創造の神は、罪や不正義や不従順を激しく憎む方です。神は神聖な方ですから、罪の汚れを目の前にすれば、即座に焼き払われる方です。従って、私たちは、犯された罪を目の当たりにした時、うやむやにしたり曖昧にしたりすることなく、それは罪である、神の意思に反するものである、と態度と見解を明確にしなければなりません。

しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、神は罪や不従順を断罪せずにはいられない方であるが、同時にその御心は、人間が罪と抱きかかえに裁きを受けて永遠の滅びの苦しみに落ちてしまうことではなく、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係を回復することにあるということです。それなので、キリスト信仰者が罪について明確な態度をとる時、どうするかと言うと、罪を犯した人を断罪してはいけないということです。「こんなことをしたお前は神との関係が断ちきれたままで、関係修復の見込みはない」などと言ってはならないということです。神と関係修復の見込みがないかどうかは、神が将来最終的に決めることです。ひょっとしたら、その人は、いつの日かイエス様を自分の救い主と受け入れるかもしれないのに、今断罪してしまったら、これは呪いをかけるも同然です。神の目的は出来るだけ多くの人が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることなのに、それを阻止したら神に反対する者になってしまいます。神の反対者であれば、それこそ神から呪われる者になってしまいます。罪を犯した人に対して、キリスト信仰者は、断罪するかどうかは神に任せて、自分としては、罪を犯した人がイエス様を救い主として信じ受け入れられるような働きかけをする、ということです。

もちろん、罪を犯した人の心がとても頑ななため、働きかけが効果を生まない場合もあります。その場合は、神に祈って祈ることから始めます。祈ることも大事な働きかけです。とにかく働きかけをするのが、神の目的に仕えるキリスト信仰者の任務です。罪びとが「罪の赦しの救い」を最後まで拒否し続ければ神の断罪は免れません。しかし、それを受け入れてイエス様を救い主と信じるならば、どんな大きな罪も赦されて神との関係が回復されるのです。もし罪が社会の法律的な処罰や償いを求められるような犯罪であればあるほど、「どんな大きな罪も赦される」と言っても、なかなか受け入れられないかもしれません。しかし、その人と神との関係が回復したら、法律上の処罰や償いということはあっても、神の目から見たら関係の回復はもうその通りなのです。

 39-40節のイエス様のたとえの教え。盲目の人が盲目の人を道案内しようとすれば、二人とも穴に落ちてしまう。道案内をしようとする盲目の人とは、先に述べた、罪びとに「罪の赦しの救い」が及ぶのを邪魔する者、神の専権事項である断罪を自分の仕事にする者のことです。このような者の断罪を被ってしまう罪びとは、救いを受けることを妨げられ、気の毒です。断罪を行う者は行う者で、そのために神から断罪されかえされてしまい、憐れです。二人とも救いの可能性を失い、穴に落ちてしまう、これは悲劇です。

ここで、イエス様は、弟子は教師に優るものではないが、全ての弟子は、やがて必要な課程を修了して教師のようになる、と言われます。(ギリシャ語のκαταρτιζωが日本語訳では「十分に修行を積む」となっていますが、「必要な課程を修了する」です。どんな「課程」かは後で明らかになります。「修行」ではありません。)ここでは動詞の未来形(εσται)が使われ、将来そうなると約束されます。どういうことかと言うと、イエス様が、これらの教えを述べているのは、まだ十字架と復活が起きる前のことです。まだ「罪の赦しの救い」は実現されていません。そんな時に、罪びとを裁くな、赦せなどと教えられても、人々にはそれを実行するための土台がないのですから、途方にくれるしかありません。この時、弟子は教師であるイエス様に遠く及ばない存在です。しかし、イエス様の十字架と復活により「罪の赦しの救い」が実現して以降は、状況が一変します。自分は神のひとり子が十字架で流した尊い血を代償にして神に買い戻されたとわかって、この救いを受け取る者がでてくる。そして、その者が今度は他の人たちもその救いを受け取ることができるように働き始める。まさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるという「課程を修了」して、イエス様の真の弟子になって、教師が始めた仕事を受け継いで救いを拡げていく。その意味で教師のようになるのです。イエス様は、この教えを述べた当時、今はまだ不可能だが将来可能になる、と約束しているのです。その約束は実現されたのです。

こうして、41節から後のイエス様の教えは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者とそれを妨げる者の対比となります。41-42節に出てくる、他人の目にある小さなゴミには気がつくが、自分の目にある大木には気がつかない人とは、まさに他人を断罪して「罪の赦しの救い」を拡げることを妨害する盲目の信仰者のことです。43-45節の良い実を実らせる良い木とは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者であり、悪い実を実らせる悪い木とはそれを妨げる者です。そして、最後に46-49節で、イエス様の教えを聞いて実行する者とは、まさに「罪の赦しの救い」を自ら受け取って、それを当然のように拡げていく者です。そのような人の建てた家は堅固な土台の上に立つ家で、死という嵐にもびくともしません。教えを聞いて実行しない者とは、赦しを受け取っていない人です。イエス様の教えを聞いたかもしれないが、「罪の赦しの救い」を受け取るまでには至らなかった。それで、イエス様を救い主とまだ信じていない。または、信じたつもりが、どこでどう間違えたか、断罪者になってしまって赦しを拡げることを妨げてしまった。このような人たちの建てた家は死という嵐に耐えられないのです。

 

5.

  イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に教えられる時、それは、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれている、と前に申しました。そして、もし私たちが、イエス様の十字架と復活を通して神から計り知れない恵みを受けたことが自覚できるならば、そのような計り知れないことをして下さった神を私たちは心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、その受け取ったものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、と申しました。まさに、神の私たちに対する愛と恵みのなんたるやを知った時に、私たちの心に愛が点火される、ということです。

ただ、そうは言っても、現実はなかなか甘くはありません。隣人を自分を愛するが如く、と言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。そこで、ルターは、キリスト信仰者のこの世の人生とは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。キリスト信仰者は、この世から死ぬ時に古い人は肉と共に滅びて、完全なキリスト信仰者になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いです。しかし、しっかり聖書の神の御言葉に聞き聖餐式にちゃんと与っていれば、罪と死と地獄と悪魔に対して完全勝利を収めたイエス様としっかり結びついていますから、大丈夫です。何も心配はありません。

最後に、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人、つまり「罪の赦しの救い」を受け取って、それを他の人にも拡げていく信仰者の人生について一言。残念ながらイエス様は、救いを受け取った信仰者に安逸な人生が保障されるとは教えません。しっかりした地盤の上に建てられた家も、土台なくして建てられた家となんら変わりなく、嵐や洪水に見舞われると言われます。つまり、人生の歩みの中では、信仰者であるかないかにかかわらず、同じように苦難や災難に遭遇するということです。いくら土台の上に建てられたと言っても、家が激しく揺れたら、さすがに恐れや心配を抱いてしまうでしょう。いくら神との結びつきが回復して、日々守りと導きを受けていると言われても、苦難や災難に遭遇したら、立ち向かっていけるか心配になるでしょう。しかし、イエス様は、「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきが回復した者、そしてそこから生まれる喜びと感謝をもって自分の生き方を神の意思に沿うものにしようと志向する者、そういう者は倒壊しない家にいるのと同じなのだ、だから、恐れる必要はないのだ、と教えられるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに共に歩んでまいりましょう。

それから、今はまだイエス様を救い主として信じていない人、信じているつもりが断罪者になってしまった人は、最後まで倒れる家に留まるしかないということではありません。神のもとに立ち返ることができれば、彼らは倒れない家にいることになります。ですから、兄弟姉妹の皆さん、彼らも嵐が来ても大丈夫な家に引っ越すことができるように働きかけていきましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第三主日
2016年6月5日 聖書日課 エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節

北欧の賛美歌が聞けます! 一日教会祭

6月5日市ヶ谷教会にて中央線沿線七教会が参加する「一日教会祭」が開催されました。今年で11回目となります。スオミ教会からは、昨年同様、教会の有志によるコーラスの参加とフィンランドの菓子パン「プッラ」の出店を出しました。外部団体のカンテレ演奏グループ「ピエニタウコ」が今年も友情出演をしてくれました。

コーラスは北欧の讃美歌を三曲歌いました。

最初の讃美歌は、スウェーデンやフィンランドで300年近く歌われてきた初夏の季節の讃美歌で、タイトルはスウェーデン語で「Den blomstertid nu kommer(花咲き誇る季節来たり)」、フィンランド語で「Suvivirsi(初夏の讃美歌)」。フィンランドでは現在でも小中学校の夏休み前の終業式の時に全国音楽祭で一斉に歌われる讃美歌です。

下の開始ボタンを押すと「Suvivirsi(初夏の讃美歌)」を聞くことができます。

http://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2016/06/MVI_7152.mp3

この歌には逸話があります。毎年終業式で歌われる時、父兄席の特に新入生の親の中で歌いながら泣き出してしまう人がいることです。どうしてかと言うと、かつて自分が子供の頃、毎年この歌を歌っていた。父兄席をちらと見るとお父さんお母さんも一緒に歌っていた。それが突然、自分は親になって父兄席にいる。しかも目の前で自分の子供が同じ歌を歌っている。この時の巡りに感極まってしまうのだそうです。「全てを時宜に適うように造られる神」(聖書の「コヘレトの言葉3章11節」)父なるみ神の導きを思わずにはいられません。

二番目の讃美歌は、スウェーデン人なら誰でも知っている「En vänlig grönskas rika dräkt(優しい緑の豊かな装い)」。これも初夏に歌われる讃美歌です。近年スウェーデンではヴィクトリア王女、マデレーネ王女、フィリップ王子のロイヤル・ウェディングが相次ぎ、新郎新婦が大聖堂の中を聖壇に向かって進む時に会衆が一斉に歌いだしてお祝いの気持ちをあらわした歌として記憶に新しいです。

下の開始ボタンを押すと「En vänlig grönskas rika dräkt(優しい緑の豊かな装い)」を聞くことができます。

http://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2016/06/MVI_sanbika_2.mp3

三番目の歌は、フィンランドのミッション団体SLEYの聖歌集「Siionin kantele(シオンのカンテレ)」に収められている歌「Saman korkean taivaan alle(この青い空に下に)」。かつて飛行機のない時代、船で海を渡った宣教師たちは、離れ行く祖国を懐かしみ新しい赴任地に緊張の思いを馳せた時、この聖歌集を携えて甲板に上がり歌を口ずさみながら慰めと励ましを得たと言われています。この歌は1960年代のものですが、スオミ教会のテーマソングのように歌い継がれています。

下の開始ボタンを押すと「Saman korkean taivaan alle(この青い空に下に)」を聞くことができます。

http://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2016/06/aoisoranoshitani.mp3

フィンランドの菓子パン「プッラ」は今年も大好評で、100個すべて完売でした!
前日にパン焼きご奉仕をして下さった皆様、ご苦労様でした!

 

 

 

 

説教「なぜ神は三位一体なのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書16章12-15節

主日礼拝説教、三位一体主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

 そうは言っても、わかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとしてもできません。これは、もうこういうことなのだ、と観念するしかありません。そこで、皆さんの理解を助けるために、ひとつのことをお見せしたく思います。昨年の三位一体主日の時にもお見せしたものですが、昨年いらっしゃらなかった方たちのために今年も披露いたします。

ここに大きな三角形があります。それぞれの頂点には、父、御子、聖霊と記されています(写真1)。

三位一体写真1

この三角形全体が三位一体の神です。まず、イエス様が地上に送られる前は、三つの頂点は天の御国にいますから、説教壇の表面を地上とすると、三角形は地上に対して上方に平行してあります(写真2)。

三位一体写真2

ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約聖書を見ると、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがありました(士師記6章34節、13章25節、Iサムエル11章6節、エゼキエル2章2節、37章1節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、イエス様が天に上げられて10日たった後に起きた聖霊降臨の時からです。

さて、イエス様が地上に送られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ2章6-7節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました(写真3)。

三位一体写真3

さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる日が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。写真4)

三位一体写真4

ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。イエス様は、しっかり約束を守りました。

聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります(第一コリント12章3節)。聖霊は、聖書の御言葉を通して人間に働きかけ、キリスト信仰者がしっかり神との結びつきを持ってこの世の人生を歩めるように助けてくれます。また聖霊は自分の判断に基づいて、信仰者にいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、まだ信じていない人を信仰へ導いたり、既に信じている人には信仰をしっかり守るように助けたりします。そのようにしてキリスト教会がまとまりを保って成長するように助けます。皆さん、どうですか?父と御子は天におられるとは言っても、三位一体と聖霊のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。それどころか、私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに私たちの耳元や口元にまでおいでになられるのです。

 

2.

  三つが一体を成しているということは、本日の福音書の箇所にもよく出ています。まず、イエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「背負いきれない」、「耐えられない」(日本語訳では「理解する」ですが、ギリシャ語動詞βασταζωはこっちのほうがよい)、と(12節)。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を罪と死の支配から解放するために、イエス様がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということです。このようなことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それらを受け入れることができるようになりました。つまり、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死んだのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲の生け贄になったということ、さらに、イエス様の復活によって永遠の命に至る扉が開かれて、イエス様を救い主と信じる者はそこに至る道に置かれて、もう罪と死の支配力が及ばなくなったということ、以上のことが真理だとわかって、それを受け取ることができるようになったのです。これができるようになったのは聖霊が働いたためです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、こうした神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて永遠の命に至る道を歩むようになっても、この世には罪の力がまだ働いていて、神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとします。そうなると、それまではするのが当然だと思っていた、神を全身全霊で愛することや隣人を自分を愛するが如く愛することはだんだん自分に無関係なものになっていきます。キリスト信仰者は、このような変わり様を悲しみ、なんとかまた当然のことになるようにともがき始めます。この時、神の真理にしっかりとどまれるよう私たちを応援し助けてくれるのが聖霊なのです。先程のイエス様の13節の言葉は、日本語訳では「聖霊があなたたちを導いて真理をことごとく悟らせる」でしたが、ギリシャ語原文では「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「真理全体の中にとどまれるように導いてくれる」とか「真理全体へと導いてくれる」などと訳すことも可能な文です(οδηγησει υμας εν τη αληθεια παση)。つまり、真理をわからせてくれるだけでなく、真理にしっかりとどまれるように助けてくれる、それが聖霊なのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちがこの世の罪の力に対して戦う時、私たちは一人ぼっちではなく、イエス様が約束されたように聖霊が働いてくれることを忘れないようにしましょう。

13節から15節にかけてイエス様が教えていることは、聖霊が私たちを導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを私たちに告げるのだ、ということです。父なるみ神のものは同時に御子のものでもある、と言われているのは(15節)どういうことかと言うと、イエス様がこう言いなさいと聖霊に言うことは、それは父なるみ神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということです。このように、父と子と聖霊は共通の真理のもとで働くという意味でも、三位一体なのです。

 

3.

  キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

 ところで、神が三位一体という説は、キリスト教が誕生した後で作りだされた考えにすぎないという見方があります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つにして持つ神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として、ソロモン王の知恵の集大成である箴言の8章22-31節を見ると、神の「知恵」というものがいかに人格を持った方であるかが言われています(「知恵」は「彼」と呼ばれます)。「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言われています。ところでイエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。ソロモン王は神の知恵を人間に伝達しましたが、イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると言ったことになります。そこで箴言のなかに登場する「知恵」、天地創造の場に居合わせた「知恵」について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス様を指しているとすぐわかりました。そのために、御子は既に天地創造の時に父なるみ神と一緒にいたと言うようになったのです(第一コリント8章6節、コロサイ1章14-18節、ヨハネ1章、ヘブライ1章1-3節)。さらに、神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を作り上げていきましたが、その時、御子が創造の業に積極的にかかわったことを明らかにしようとして、それでイエス様のことを神の「言葉」そのものと言うようになりました(ヨハネ1章)。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」である御子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。

 

4.

  次に、なぜ私たちの神は三つの人格を一度に兼ね備えた一人の神なのか、ということについて考えてみます。神が三位一体であるというのは、神の私たちに対する愛と大いに関係があります。私たちに愛と恵みを注ぐために、神は三位一体でなければならない、三位一体でなければ愛と恵みは注げない、と言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体な方なのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知って行えるようになってしまいました。そして死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのであります。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間が罪ある存在とわかると、神は全く正反対の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

ここで、「神聖」という言葉について少し考えてみます。日本語ではよく「聖」という言葉を使います。「聖なる万軍の主」とか言うように。でも、それは少し弱い言葉だと思います。明治憲法に「天皇は神聖にして侵すべからず」とありましたが、「神聖」という言葉の方が、「聖」より凄味と迫力があって、本質に迫れる言葉だと思います。

神の神聖さとは、罪を持つ人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは肉眼で神を見てしまう。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

イザヤは自分の罪と自分が属する民の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。それがイザヤを罪から清めました。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。

神を直接見ることのない私たちにとって、神聖の危険はわかりにくいかもしれません。聖礼典と呼ばれる洗礼や聖餐は、神聖な礼典です。確かに、洗礼式や聖餐式において、私たちは焼き尽くすような光や熱に遭遇しません。しかし、それらの礼典の持つ影響力は、莫大なものであることを忘れてはなりません。

洗礼によって、私たちは、イエス・キリストの義という純白な衣を頭から被せられます。義というのは、神の神聖な意志が実現している状態、神聖な神の目に適う状態です。イエス様は神の御子なので、そのような義を持っています。不従順と罪にまみれた私たち人間は義を持てません。義が持てないと神の御前に立つことも近づくこともできません。ところが、本当ならば私たちが受けるべき罪の罰をイエス様が十字架の上で代わり引き受けて下さった。そこで、イエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さる。罪を赦された者として私たちは、神の目に適うものとされる。これが、イエス様の義を純白な衣のように頭から被せられるということです。このように義は自分の力で獲得したり築き上げるものではなくて、イエス様の義を神から一方的に与えられるものです。イエス様を救い主と信じる信仰がその受け皿となります。神は、私たちが衣の内側にまだ罪の汚れを持っているのにもかかわらず、それでも私たちがしっかり手放さずに纏っている白い衣を見て、それで私たちのことを目に適う者と見て下さいます。洗礼には、このような途轍もない中身が含まれています。

聖餐も同じです。この世の人生を歩むとき、私たちの内に残る罪が、私たちの纏っている義の衣のことを忘れさせようとします。それを手放させようと誘惑します。そこで、聖餐の主の血と肉を受けることで、私たちは、自分が純白な義の衣を被されていることをはっきり思い起こすことができます。そして、その衣を纏う者としてふさわしく生きるための力と栄養を受け取ることができます。パウロはコリントの信徒たちに、聖餐がいかに神聖なものであるかを教え、次のように注意しました。聖餐を受ける前にまず、自己吟味をしなければならない。つまり、「私は、罪の汚れのために義の衣を纏うことが難しくなりました。纏い続けることができるように力と栄養をお与えください」と神に祈り求めて聖餐に臨まなければならないということです。しかし、もし自己吟味もせず、聖餐が神聖なものであることをわからずに受けるならば、それは主の体と血に対して罪を犯すことになり、ひいては、その人に対して裁きをもたらすことになる。実際、コリントの教会の中で、聖餐を誤った仕方で受けた者が、病気になったり命を落とした例があると、パウロは注意を呼び掛けています(第一コリント11章26-32節)。

 以上のように、神の神聖さに対して、私たち人間は、怖れをもって注意しなければなりません。しかし、今の世が終末を迎えて新しい世にとってかわる日、死者の復活が起きて、私たちが永遠の命に入る日には全てが一変します。そこで、私たちは神聖な神を顔と顔を合わせるように目にすることが出来るのです(第一コリント13章12節)。その時、私たちは、神の神聖さに燃やし尽くされません。なぜなら私たちが神聖な者に変えられたからです。

 

5.

  このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりわかります。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度はひとり子を用いて私たち人間のために罪と死の支配力を無力化して、私たちをそれらから贖い出して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中に生きることとなりましたが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しに生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けられるようになりました。

そこで、この三つは別々の人格ではなくて、一つの人格の神が三つの異なる事柄を行っているにすぎない、だから、あえて三つの異なる人格を出す必要はないと言ったらどうなるでしょうか?つまり、三位一体の三位を否定することです。そうなると、イエス様が地上におられた時、神全体が地上にいることになり天の御国には父なるみ神も聖霊もいなくなってしまいます。やはり三つの人格がなければなりません。

逆に、三つの人格は完全に独立してバラバラで、それ以上のものはない、と言ったらどうでしょうか?つまり、三位一体の一体を否定することです。先ほども見ましたように本日の福音書の箇所で、聖霊が告げることはイエス様が告げなさいと言ったこと、イエス様が告げなさいと言ったことは父なるみ神が告げなさいと言ったこととありましたように、三つはバラバラなものではありません。加えて、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて生きられるようになってこそ、神に造られた目的を果たすことになる、ということです。

以上のように、三位一体は理屈で考えると、どのようにして三つの人格が一人の神になるのかということばかりに目が行ってしまいます。逆に、神が三位一体であるおかげで、私たちの神がどんな方なのかがよくわかるということの方が大事です。神は本当に私たち人間を助けたく思っておられる方であり、また助けるためならどんな犠牲もいとわない、それくらい私たちのことを愛してくれている方なのです。このことがわかれば、神が三位一体であるというのは当たり前の感じになり、別に理屈で考える必要はなくなります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 三位一体主日
2016年5月22日 聖書日課 イザヤ6章1-8節、ヨハネ16章12-15節、ローマ8章1-13節

説教「聖霊とは何者か?」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録2章1-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭日です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が私たちの救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭の時、私たちの救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が、自らの死と復活をもって死の力を無力にして、私たちが神のもとに戻れる道を開いて下さったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さり、聖霊の力で私たちが信仰を持てて、神の真理に導かれて生きられるようになったことを喜び祝います。

 そこで、聖霊とは一体何でしょうか?イエス様は死から復活された後、弟子たちに世界に出て行って福音を宣べ伝えるように命じました。その時、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさいとも命じました(マタイ28章19節)。キリスト信仰では、神というのは、これら三つの人格を持つ者が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父やみ子と同じように人格があるのか、と驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体のようだからです。ところが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。それで日本のキリスト信仰者の中には、「聖霊様」と呼ぶ人もいます。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体、どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章の中でイエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちにあることを約束します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。さらに、死から復活させられるが、その後で天の父なるみ神のもとに上げられることになる。それで弟子たちとは別れることになる。しかし、天の父のもとから聖霊を送るので、弟子たちがこの世に取り残されて一人ぼっちになるということはない。そのように聖霊を送る約束をします。イエス様は聖霊のことを「真理の霊」とか「弁護者」と呼びます。つまり、聖霊とは、私たちキリスト信仰者に天地創造の神の真理を教え、それに従って生きられるようにする方であり、また私たちを弁護して下さる方であるということです。それでは、神の真理とは何か?私たちを何に対して弁護してくれるのか?このことは、後ほど見ていこうと思います。

この他にも聖霊は、キリスト信仰者に何か特別な力を賜物として与えて下さる方です。そうした特別な力について使徒パウロは第一コリント12章でいろいろ挙げています(12章4-11節)。正しい信仰を教える力、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、習ったことのない外国語で神やイエス様のことについて語る力などがあります。これらの力は、教会が一つにまとまって成長するために与えられるのですが(12章7節)、そのようなものは他にも考えられます。ところで、習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。先ほど読んで頂いた聖霊降臨の日の出来事は、まさに異言を語る力が与えられた出来事でした。このような特別な力は恵みの賜物とか聖霊の賜物と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマ(χαρισμα)と呼ばれます。こうした賜物は、教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰に何を与えるか決めて与えるものです(第一コリント12章11節)。だから信仰者個人の希望や態度で決まることはありません。もし賜物が与えられても、与えることが出来る方は取り上げることも出来る方としっかりわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いなければなりません。

 

2.

  先ほど読んで頂いた使徒言行録2章には聖霊降臨の日の出来事が記されています。その日一体何が起きたのかをもう少し詳しく見てみましょう。

 イエス様が天に上げられて10日が経ちました。復活の日から数えたら50日目です。イエス様の弟子たちはある家に集まっていました。そこに聖霊が不思議な現象を伴って彼ら一人一人に降りました。その時、天から激しい風が吹くような音がしたので、人々はその方へ集まってきました。その頃エルサレムは、過越祭の後の5旬節という祝祭日だったので、地中海世界の各地からユダヤ人が大勢やってきていました。

 音がしたところに集まって来た人たちは、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ出身者のグループが突然、集まってきた人たちそれぞれの母国語で話し始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、留学もせず語学教室にも通わずに突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(使徒言行録2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?集まってきた人たちの驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

イエス様の弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒を授けられ、神の民として約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは、バビロン捕囚からの帰還です。一度国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのは、神が無から私たち人間を含めた万物を造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

ところがイエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、上記のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となった新しい出来事、つまり、あの「ナザレのイエス」は単なる預言者なんかではなくまさしく神の子で、その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられた、そして大勢の人々の前に再び現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。

 天と地と人間を造られた神の偉大な業というものを、いろんな民族が理解できるようにそれぞれの言葉で語られたというのは、とても深い意味があります。本日の旧約聖書の日課は創世記11章でした。そこではバベルの塔の出来事が記されていました。最初人間たちには一つの言語しかなく、大きな事業を総動員をかけて行うのにコミュニケーションが楽でしやすかった。そこで人間たちは、神の座す天に届く塔を建設するという大事業に着手した。それを脅威に感じた神は、人間たちの言語をバラバラにして意思疎通を困難にして、住む場所もそれぞれの言語グループに分かれるようにして離れ離れにして、二度と大それた事業を行えないようにした、そういう出来事です。人間が創造主の神と張り合あうとするとろくなことがないということは、堕罪の時に証明済みでした。蛇の姿をした悪魔に「これを食べれば、神のようになれるぞ」とそそのかされて禁断の実を食べてしまう。その結果、人間に罪が入り込んで死ぬ存在となってしまい、神のもとを追放されて神との結びつきを失ってしまったのです。

そういうわけで、世界に沢山の言語があり、それを話す民族が沢山あるというのは、人間が一丸となって神に対抗しようとしないためなのです。私たちは、世界にたくさんの言語、民族があるという事実のなかに、人間を小さなものに留めておこうとする神の力や強さを見て取ることができるのです。

使徒言行録17章のなかに、伝道旅行でギリシャのアテネに到達した使徒パウロが野外集会場アレオパゴスで居並ぶギリシャの知識人を前にして自分の信仰について弁明する場面があります。そこでパウロは、神がそれぞれの民族に住む場所を定めた時、民族が自分の場所で神を探し求めるようにする意図があったと述べています。しかしながら、諸民族の神の探し求め方はそれこそ暗闇の中を手探りで探すようなものになってしまい、それで人間はついつい自分の想像力に頼っていろんな拝む像を作りだしてきてしまった。しかし、それらは真の神とは何の関係もない、単なる偶像にしかすぎない。神の方では人間のこういう無知を長い間、我慢してきたのであるが、この無知の期間が終わらなければならない事態が起きた。というのは、神のひとり子が人間に救いをもたらすために十字架と復活の業を行ったからで、これらの出来事が起きた日からはもう神に関して無知でいることは許されなくなったのである。以上がアテネのアレオパゴスでのパウロの教えです。

そういうわけで、聖霊が弟子たちに全く未知の言語で神の偉大な業について語らせたという聖霊降臨の出来事は、全ての民族が天地創造の神について正しく知らなければならない時代、もはや神について無知が許されない時代の幕が開けられたということなのです。神について正しく知ることができるために、全ての民族に福音が伝えられていかねばならないのは言うまでもありません。諸民族のなかに福音が伝えられて神について正しく知られるようになればなるほど、言語の違いを超えて神の子とされる者が増えていき、こうして人間はバベルの塔の事件で失った統一性を、全く別の形で回復することになるのです。

 

3.

  さてペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について解き明しを始めます。ペテロの解き明しは大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分は、この異国の言葉を話し出すという現象は旧約聖書の預言の実現であるというところです。先ほど読んで頂いたようにペトロはヨエル書を引用しています(使徒2章14-21節)。それに続いてペトロは、イエス様の出来事そのものについて解き明しをします。(22-40節)。ただし、この二つ目の解き明しは、本日の使徒言行録の箇所の後になります。

ペトロは、この異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという出来事について、これはヨエル書3章1-5節の預言の成就である、と解き明かしします。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始まりました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、つまり、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかったのです。

聖霊降臨は旧約の預言の実現であるということに続いて、ペトロはさらにこの現象がどんな意味をもっているのかについても解き明かしていきます。これは本日の箇所の後の2章22-40節にかけてあります。あの、神から力を授けられて無数の奇跡の業を行って神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者やローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というのは、もともと天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはいられないのだ。それでイエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なのだ(2章24節)。このことは、既に旧約聖書に預言されていた(25-28節、詩篇15篇)。

こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(34-35節)。これも、旧約に預言されている通りである(34-35節、詩篇109篇)。これらのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明らかになる(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、イエス様が神のひとり子でメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちと何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。

これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません。自分たちはどうすればよいのか、という群衆の問いに、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めます。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは何かと言うと、イエス様が全ての人間の全ての罪を請け負って身代わりに罰を受けることで「罪の赦しの救い」が生み出されました。それを贈り物のように受け取ることが洗礼です。

ペトロの解き明しと勧めを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けました。神に背を向けてイエス様を殺した側を離れ、神の方に向き直って歩む者となったのです。この聖霊降臨の日に洗礼を受けた人たちは3000人に上りました。こうして、聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 

4.

  最後に聖霊が「真理の霊」、「弁護者」と言われるのはどういうことかについて見てみましょう。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事な事柄です。

 聖霊が「弁護者」であると言う時、何に対して弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのですが、何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタン(שטן)とは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが外面的にも内面的にも十戒の光に照らされた時、神の御心に沿う者でないことが示されると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、この自覚を失意と絶望に増幅させようとします。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ」と。また、ヨブ記の最初にあるように、神の前に進み出ては「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は神と私たちとの間を引き裂くことですから、もし私たちが神の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、または罪を認めるのを拒否して神のもとを立ち去ったりすれば、悪魔は目的を達成したことになるのです。

そのような時、聖霊は、私たちがどんな状況にあってもしっかり神のもとにとどまり、神の愛を信じられるように私たちを助けて下さいます。彼は罪の自覚を持つ私たちを神の御前で弁護して下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかって、それでイエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。翻って私たちにも向かって、「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と言われます。私たちは神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲の死に免じて赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは感謝に満たされて、本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

聖霊が「真理の霊」と言うのは、私たちに神の真理を教えたり伝えたりするというよりは、ずばり、私たちが神の真理の中で生きられるようにして下さるということです。まず、キリスト信仰者といえども私たちは十戒に照らせば罪を持っていることを知らせます。ここで悪魔は私たちを神から引き離そうとするのですが、聖霊はすかさず、神のひとり子の犠牲の上に赦しがあるという真理を知らせるので、私たちは神のもとに留まる以外に道はないとわかるのです。まさに聖霊の弁護と真理のおかげで、私たちの良心は落ち着きを取り戻し、イエス様のおかげで神の御前に出てもやましいところは何もないと思って大丈夫なんだと大きな安心を得られ、神に対して感謝の気持ちで満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと注意深くなり、愛を全うしようと決意することができるのです。本当に畏れ多いことです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

5/14 フィンランド家庭料理クラブのご報告

ドーナツ爽やかな五月晴れの土曜の午後、
家庭料理クラブは、フィンランドのドーナッツ[Munkit]を作りました。

最初に吉村先生の
お祈りからスタートです。

今回は、幼稚園児と小学生の参加もあり、
可愛い歓声の聞こえる、楽しい会になりました。

グループに別れての生地は、
フィンランド式に、優しく捏ねていくうちに完成し、作業はテンポ良く進みます。

ドーナツ、フィンランド、生地発酵中の可愛い生地達は、
ドーナッツの形に成型され、
オイルの中で、
きつね色に膨らみ、お砂糖にまぶされて完成です。

ドーナツ、フィンランド

 

パイビ先生の用意して下さった、Simaと一緒に、バップの季節の、森のハイキングや
楽しかった思い出
も聞かせて頂きました。

また、聖書のお話も分かりやすく、詩編23編は心に深く響きました。

参加の皆様、最後まで後片付け下さって、ありがとうございました。

料理クラブは、6月から夏休みで、次は9月になります。

 

 

フインランド家庭料理クラブの話、パイヴィ 吉村宣教師

料理クラブの話「ムンッキ」5月14日

今日作ったドーナツはフィンランド語でムンキと言います。パンの生地で作るムンキはフィンランドでは伝統的なお菓子で、5月1日に多くの家庭で作られます。この他にレモンを発酵させて作る甘酸っぱいレモナードも作ります。フィンランド語でシマと言います。これをムンキと一緒に味わいます。5月1日のことをフィンランド語でヴァップと言います。ヴァップはフィンランドでは休みの日で、春の大きなお祝いの日です。メーデーとして労働者たちの日でもあるし、また高校を卒業する人たちのお祝いの日でもあります。フィンランドでは高校を卒業すると白い帽子を贈られるので、ヴァップの日には町には白い帽子をかぶって歩く人が沢山見られます。

ヴァップの日にはいろいろな過ごし方があります。若者たちや町に住んでいる人たちは、バザーや遊園地などに出かけます。町はにぎやかな雰囲気で、音楽やスピーチがあちこちから聞こえ、子供たちは風船や笛などを持って歩いています。しかし町に行かない人もいます。例えば別荘を持っている人たちはそこに行って、秋まで休日はほとんど毎週別荘で過ごすようになります。

田舎でヴァップをどのように過ごすかと言うと、普通に農業の仕事をしたり、家の庭の掃除をしたりする人が多く、あまり普通の日とかわりありません。田舎の家庭でもムンキとシマを作って味わいます。

私は田舎で育ったので、町のヴァップの過ごし方は好きではありません。子供のころ、5月1日は父が畑を耕したり種を蒔いたりして、親にとってヴァップの時期は農家の仕事が一番忙しい時でした。私は兄弟姉妹たちと一緒に毎年家の近くの森にハイキングに行って、食料品も持って行ってご飯を作ったりして、一日中森の中で過ごしました。ヴァップの日が近づくと、私たちは前もって良い場所を探しに行って、落ちた葉っぱなどは箒ではいて場所をきれいに掃除しました。ヴァップの日の朝早く荷物をまとめて、皆で森に行きました。森の中でする一つ大きなことはたき火でした。子供たちがたき火をするのは危ないことかもしれません。森の火事の危険があるからです。それで、たき火をする時はいつも父と母が見に来ました。またフィンランドはいつも5月の初めはまだ地面はぬれているので、たき火をしても大丈夫でした。よく燃える木を探したり燃やしたりするのは大変な仕事でした。たき火がついたら、ジャガイモを茹でたり、ソーゼージを焼いたりして、またコーヒーもわかしました。森の中で食べたごはんやおやつは家の中で食べるよりもっと美味しく感じられました。もちろん、そこでムンキとシマも味わいました。

ご飯を作ったり食べることのほかにハイキングで楽しかったことは、木に登ったり、小川で遊ぶことでした。家に帰ると、服は煙の臭いがして土が付いて汚くなったので、時々母に怒られました。でも子供たちには楽しい思い出になったのです。フィンランドにいる兄弟姉妹たちは今も5月1日に自分たちの家族と一緒に実家に行って皆で同じ森にハイキングに行きます。仕事を引退した父も一緒に行けるので、彼は孫たちにたき火の付け方を教えます。

春にハイキングに行ったり、自然の中を散歩しながら新しい緑やきれいな花を見ると、私はいつも旧約聖書の詩編23篇を思い出します。それは、聖書を読む人ならだれでも知っていると言えるくらい有名な箇所です。私はこの箇所を読むと、神様の人間に対する愛が現れてくるので、いつも安心と感謝の気持ちで一杯になります。

この詩篇は、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という文で始まります。「羊飼い」とは天と地と人間を造られた神様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。今の時代に羊飼いの仕事をしている人はあまりいませんが、かつて羊飼いは普通の仕事でした。羊は弱くて、野生動物に簡単に捕まえられて食べられてしまいます。そのために羊飼いは羊を守って、野生動物に捕まらないように導いていきます。

羊飼いが羊を守りながら導くように、神様が私たちを守って導いてくださいます。もし人間を造られた神様が私たちの羊飼いならば、神様は信頼して大丈夫な方です。神様の導きのうちに生活する時には大きな安心があります。それでは、神様はどのように私たちを導いてくださるのでしょうか?

この詩篇には「主はみ名にふさわしく、正しい道に導かれる」と書いてあります。神様は私たちの全てのことをご存じで、いつも歩むべき道を示してくださいます。神様は私たちを愛して下さるので、いつも良い道を示してくださいます。ただ、神様が導いてくださる道は様々です。「きれいな青草の原、憩いの水ほとり、死の陰の谷」などがあります。私たちの人生の中には喜ばしいことや悲しいことがいろいろあります。もちろん私たちは喜ばしいことを望んでいます。それで、悲しいことが起こると、受け入れるのは簡単ではありません。しかし神様はいろんな時、喜ばしい時も悲しい時もいつも共にいてくださいます。

この詩篇には「死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる」と書いてあります。神様は私たちが欲しいものを全部は与えませんが、私たちは神様の導きに従って歩む時、私たちは何も欠けることがなく、恐れることもありません。私たちは羊と同じように時々神様の道から離れてしまします。羊が羊飼いの声を聞かないで違う方向に行こうとする場合、羊飼いは杖で羊を軽く叩いて導きます。私たちの場合はどうでしょうか?神様は、私たちが神様の声を聞かない時、羊飼いと同じように杖を使って導いてくださいます。杖軽くで叩かれると、痛みを感じます。でも、それも人間を造られた神様の私たちに対する愛の業です。

この詩篇にはまたこう書いてあります。「命のある限り恵みと慈しみはいつも私を追う。」神様は、私たちのために神様のもとに行ける道を用意して下さり、いつもその道で私たちを導いてくださるのです。神様のもとに行ける道とは、神様の子イエス様のことです。イエス様は罪を持たない神様の子でしたが、人間が罪の罰を受けないようにと、自分が身がわりになって十字架にかけれて死なれました。このおかげで、私たちの罪が全部許されて、この世の中でも、またこの世が終わってもいつも永遠に神様と一緒にいることができるようになりました。神様がイエス様を私たちのために送ってくださったことに、神様の人間に対する愛が現れているのです。

私たちもこの良い羊飼いに従って行きましょう。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」ヨハネによる福音書10章14節

説教:木村長政 名誉牧師、使徒言行録 1章1~11節

今日の礼拝は、昇天主日です。イエス様が天に上げられる様子が使徒言行録1章6節~11節に記されています。特に9節を見ますと「こう、話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とあります。イエス様にとって、弟子たちの肉眼の目でイエス様の姿を見ることができ、イエス様との話しができるのは、いよいよ最後の時となりました。それで、イエス様にとって弟子たちに、どうしても言っておかねばならない重要なことが二つありました。第一は、イエス様は十字架の上で死をとげられた、けれども三日目によみがえられたこと。復活の後もイエス様は生きて働いてくださる、ということこの事を、まず弟子たちがしっかり知って理解し、信じること、でありました。そのために数多くの証拠をもって使徒たちに、その事を示し40日間現れたのでしたち。使徒言行録1章3節を見ますと「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって、使徒たちに示し、40日間にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」ここに40日間にわたって彼らに現れた。もうひとつは神の国について話された。この二つのことが弟子たちにしっかりと正しく、わかっていなかったからでしょう。

ルカによる福音書24章37節を見ますと、復活の体で弟子たちの前に現れても、彼らは恐れおののき玄霊を見ているのだと思った。そして私をさわって良く見なさい。玄霊ではない、彼らの前で焼いた魚を食べられた、とあります。イエスは「よみがえられた」ということを信じる、ことが大変重要なことであるからです。ですから、ルカ24章44節から48節にわたって、とても大切な最後のメッセージとして言われているのです。「わたしについてモーセの律法と、預言書と詩篇にかいてある事柄は必ずすべて実現する。これこそあなた方と一緒にいたころ言っておいたことである。」そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた。次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させるために悔い改めが、その名によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなた方は、これらのことの証人となる。

第二の課題は、神の国について話されます。イエス様が一貫して教えてこられた神の国と弟子たちがイエス様に期待していた神の国の理解が全く違っていたからです。弟子たちはイエス様の中に神の力、奇跡の力を起こして、最後には民衆も一緒にローマ帝国の支配から開放してくださる、ことを神の国としてえがいて期待した。だから、イエスとの別れの前に訴えています。使徒言行録1章6節です。使徒たちは集まって言っています。「主よ、イスラエルの国のために国を建て直ししてくださるのはこの時ですか。」とたずねた。主人への最後のチャンスです。彼らは真剣に革命を起こすことで、イスラエルに平和をもたらしてくださる神の国を描いていました。イエス様の神の国とは違うものでしたから、この大きなギャップをどうしたらいいものか、大きな課題でした。イエス様は教えられた。「神の国は天の父がご自分の権威をもって、お定めになった時であってあなた方の知るところではないのだ。」そこにはイエス様の代わりにあなた方の上に聖霊がが降りてくる。そして力を受けるのだ。そこで、イエス様は神の国の福音を全世界に向けて宣べ伝えいくように、弟子たちに命じられたのです。これまで、イエス様が教えられたこと、行われたことの証人となっていくのだ。と命じられました。

この使命は重い重荷です。弟子たちに頼るしかない。マタイ福音書の方では最後のところで、力強い弟子たちへの派遣の言葉と言われています。マタイ28章18~20節です。「わたしは、天と地との一切の権能を授かっている。だからあなた方は行って全ての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われた。復活の主、イエス様が「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。」というのはどういうことでしょうか。大変重要な言葉です。コリント第一の手紙45章22~28節を見てください。パウロは終末の時、復活のキリストがどういう方であるかを示してくれています。22節から見てみますと「キリストによって、すべての人が生かされていることになるのです。ただ一人ひとりそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いでキリストが来られた時にキリストに属している人たち、次いで世の終わりが来ます。〈ここからがすごいことが示されています。〉その時キリストは、全ての支配、全ての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストは全ての敵をご自分の足の下に置くまで国を支配されることになっているからです。最後の敵として死が滅ぼされます……….」すごいことが語られているんです。実はここは「キリストの復活そのもの、目的」が書いてあるからです。キリストの復活が目指しているものは何かということです。主の来臨に際してキリストに属する者も生きることになる。それから終末になる。その間に特別な時があったように言う人もありますが、そうではなく主の来臨に際して、キリストに属していた者が救われて終わりが来る。それから終末になって、いよいよキリストの復活の力が発揮されるようになるのであります。

キリストは全ての支配、全ての権威、勢力を滅ぼされます。キリストは、キリストに属する者を復活させられたが、その本当の目的はあらゆるものに勝つことであります。これこそ、まことに復活の意味であります。なぜなら、あらゆるものは死ぬはずであります。だから、それら死にゆく者に勝つ道は、死なないことです。すなわち、復活であるはずです。少なくとも、復活することの出来たキリストであった、。と言うことが出来るでありましょう。世の終わりが来た時、キリストは全ての支配、全ての権威と勢力を滅ぼし父である神に国を引き渡されます。それは、キリストが全てのものに勝って、王として君臨し、やがてはその王としての支配を神に渡される。なぜならキリストはあらゆる教えをその足もとに置く時までは支配を続けることになっているからである、25節に記してあります。キリストこそはまことの勝利者でいらっしゃることが明らかです。それならば復活の目的が「勝利」にあったということです。しかし、それならば最後の敵とは何でありましょう。もろもろの力も強いかもしれませんが、ほんとうに強いのは死であります。なぜなら死はどんなものも滅ぼすからです。そこで、ここには最後の敵として滅ぼされたのは死である(26節)というのです。どんなに強い人でも病気などしない人でも、最後には死には勝てません。人間のあらゆる努力は、死に勝ちたい、ということかもしれませんがそれは絶望です。

死が最後の敵であり、もっとも恐ろしい敵であります。その最後の死を復活されたキリストは滅ぼされたのです。死がどんなに強いといっても復活に勝つことは出来ません。従ってキリスト復活の最終目的は死に勝つことでありました。さて、そうなると何が起きたのでしょうか。キリストは万物をその足の下に従わせられたのです、ですからこのように復活のキリストは、マタイ28章18節を見ますと「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている」。だから、あなた方はすべての民を弟子としなさい。こうして、全世界に福音を宣べ伝える派遣を命じられたのです。「わたしは、いつもあなた方と共にいる」と言われるのであります。 アーメン

説教「神との平和 心の平安」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章23-29節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束しています。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されています。もちろん、国と国が戦争しなければ、国民は必ず安心して暮らせるかというとそうでもなく、例えば国の経済が破綻するとか、また国民の自由や権利が制限されて国家権力におびえなければならかったら、安心した暮らしなど出来ないでしょう。その場合、国の中に「平和」がないと言うこともできるかもしれませんが、どちらかと言えば「平和」は国と国との関係が安定した状態にあることと理解されるのが多いのではないかと思います。もちろん、国が複数の民族から構成されている場合、もし民族間で紛争が起きれば、それはもう国と国との間の事柄のようになって、国内といえども「平和」がないと言うことができるでしょう。

イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読んだり、説教を通して聞いたりするキリスト信仰者全員に向けられています。イエス様は弟子たちや私たちが戦争に巻き込まれないで安心した暮らしができることを約束しているのでしょうか?人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数にありました。多くのキリスト信仰者がその渦中に置かれました。それらは、今もあります。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?

そうではありません。イエス様が約束される「平和」にはもっと深い意味があって、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことを理解できるために、ルターがこのイエス様の言葉を解き明かしているところが大いに役に立ちます。それを以下に引用します。

「ヨハネ14章27節の御言葉で主が与えると約束されている平和こそが真の平和である。それは、不幸がない時に心が落ち着いているというような平和ではない。そうではなくて、まさに不幸の真っ只中にあって外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いている時にこそ心を落ち着かせる平和である。

この世が与える平和と主が与える平和には大きな違いがある。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起した元の害悪が消滅することを言う。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶることがつきものの平和である。そもそも、我々が常にこれらのものに取り囲まれているというのは避けられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましそして平安がある。これが主の約束される平和なのである。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心はもはや外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸がない状態に比べて、こっちの方が心の中に勇気と喜びの度合いが増すのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように、「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)と呼ばれるのである。

我々の理性が把握できるのは、この世が与える平和だけである。理性は、不幸や害悪が消えずに残っているところに平和があるなどと理解できない。不幸や害悪がある限り平和はありえないと考える理性は、どのようにして心を落ち着かせることが出来るかを知らない。主がなんらかの理由で外面的な悲惨をそのままにするということがある。しかし、忘れてはならない大事なことは、主はその人を必ず強めて下さるということだ。それは、臆病な心を恐れないものに、良心の咎に苛まれる心を安心に満ちた心に変えて下さるということである。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世全体がおびえるような不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず深い安心を持っているのである。」

 以上、外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中におかれても、内面的には平和があるという教えです。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、原文のギリシャ語のエイレーネーειρηνηという言葉が、同じ言葉で外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含むことが関係すると思われます。英語やフィンランド語やドイツ語の訳を見ますと、聖書の中でエイレーネーが外面的な平和を意味する時も内面的な平安を意味する時も皆、同じ言葉(peace, rauha, Frieden)で訳されています。それらの言葉も外面的なものと内面的なもの両方を意味することができるので、訳する時に同じ言葉を使っても大丈夫なのでしょう。でも、日本語で内面の平安を「平和」と訳して大丈夫でしょうか?この「平和」は内面の平安を意味すると言い聞かせて読まなければなりません。興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束されるものは内面的な平安を意味する言葉(frid)で訳されています。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と日本語で訳されていますが、スウェーデン語の訳は「平和」(fred)でなく「平安」(frid)です。

 

2.

 以上から、イエス様が与えると約束された内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪がある状態の中にあっても、内面的には心の中に勇気と喜びが増し、深い安心を持つことが出来ることであるとわかりました。次にどうしたらこのような平安を持てるようになるのかを考えてみたいと思います。

どうしたらイエス様が与えると約束された平安を持てるようになれるのか?答えは難しくありません。イエス様が与えると約束されたものを受け取ればいいのです。それでは、イエス様は平安をいつ、どのようにして与えて下さったのでしょうか?

 イエス様がこの約束をしたのは十字架にかけられる前日の最後の晩餐の時でした。この後で受難があり、十字架の死があって死からの復活がありました。一度死なれたイエス様が神の力によって復活させられた時、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と理解されました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうなると、神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったというのは、これも旧約聖書に預言されていたことの実現、すなわち、人間の身代わりになって人間の罪の神罰を受けることで人間がそれを受けないですむようにしてあげること(イザヤ53章)だったのだとわかったのです。人間が罪の神罰を受けないですむようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。このようにして神から罪の赦しを頂けるというのは、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の事件以来、崩れてしまった神との結びつきが回復するということです。神との結びつきが回復するというのは、イエス様が復活によって扉を開いて下さった、死を超える永遠の命への道を歩めるようになるということです。神との結びつきをもって永遠の命への道を歩めるというのは、この世の人生でどんなことがあっても、神は絶えず助けと良い導きを与えて下さるということです。それだけではなく、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げて下さって、元々人間の造り主であった神のもとに永遠に戻れるようにして下さるということです。

このようにイエス様の十字架の死と死からの復活は、神がひとり子を犠牲に用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、途轍もない救いの業だったのです。人間と神との結びつきは、もともとは万物の創造の時にはありました。それが、人間に罪が入り込んだために失われてしまったのです。それが罪の赦しで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を罰せずにはおられない神聖な存在です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになるのです。この平和は、神がひとり子を犠牲に用いて打ち立てました。

それで、人間は、本当にイエス様は神のひとり子、メシア救世主である、彼が十字架にかけられたのは、弟子たちが罪を赦されて神との結びつきを持てるようにするためだけでなく、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。

 

3.

 しかしながら、この世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。また、私たちを罪の赦しがあるところから離れさせて、再び罪が支配するところに戻させようとする力に満ちています。例えば、困難や苦難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか、神は自分を見捨てたのではないか、私のことを助けたいと思っていないのではないか、と疑うことが起きてきます。この場合、自分には何の落ち度があったのか、と神に対して非難がましくなる時もあれば、逆に自分には落度があった、だから神は見捨てたのだろうと諦めの気持ちになる時もあります。いずれにしても、そのような態度を取れば、神に対して背を向け始めることになります。

私には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのか、と非難がましくなるのは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにもみられました。しっかり良い人間でいたのに悪い事が起きたら、良い人間でいたことに何の意味もないではないか。そういう疑問を持つヨブに対して最後に神は、お前は天地創造の時にどこにいたのか?と問い始めます(38章)。神は森羅万象のことを全て把握しておられる。なぜなら全ては自分の手によって造られたものだからだ。それゆえ全てのものには、神の意思が人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それで、良い人間でいたのに悪い事が起きても、良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

しかも神は、その人に目を注いでその境遇を知っていれば、それで十分と考えるような方ではありません。神は、人間が自分との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするために、ひとり子をこの世に送って犠牲にすることも惜しみませんでした。神は、私たちがどんな境遇にいても、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がこの道をしっかり歩めるようにあらゆる支援を惜しまないでしょう。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。

このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、結びつきの強さ弱さをはかる度合いではありません。大事なのは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは他の全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。

 次に、この世が人間自身に落ち度があったと思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないと思わせて、神から離れさせていく場合を見てみます。これも、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを相応しい者と見て下さるということが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に追い込もうとします。ヨブ記の最初にあるように、神の前に進み出て「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われます(14章26節)。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかって、それでイエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。翻って、聖霊は私たちに向かって、「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり立てられています」と言われます。神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。わが子イエスの犠牲に免じて赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは感謝に満たされて、もう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

 以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるようなものが現れても、その度、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかを思い起こせばよいのです。その時、心は一層安心と喜びに満たされて勇気も湧いてくるでしょう。まさに、揺さぶりをかけるもののおかげです。感謝してもいいくらいです。

 まさにこのような時キリスト信仰者は、自分の心の中に大きな平安があることに気づきます。これがイエス様の約束された平安なのです。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。まさに神との平和、そして心の平安が来るのです。

 

4.

 ここで、このような平安を与えられた者が苦難や困難に遭遇した時、どんな態度をもってそれらに臨むかということについて、ルターが別のところでもう少し具体的に述べていますので、最後にそれを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、フィリピ4章7節「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」です。ここでは、ギリシャ語のエイレーネーを「平和」でなく「平安」で訳します。

「この聖句をみた人は、こんな平安は誰も知ることも、確認することも出来ない、などと思ってはいけない。一度我々と神との間に平和が打ち立てられ以上、我々がこの平安を心と良心で知ることができないということはありえないのだ。できないと言ってしまったら、我々の心や思いはどのようにして、この聖句で言われるように、平安によって守られることがありえようか?この聖句は次のように理解しなければならない。心配事や試練に遭遇した時、祈ることも神のもとに避難することも知らない者たちは平安を探し求めるであろう。しかし、彼らが探し求めるものは、理性で理解できたり獲得できる類の平安である。理性が知ることができる平安とは、不幸が終わった時に生まれてくるものにすぎない。このような平安は、「あらゆる人知を超える」ものなどではなく、せいぜい人知と同レベルの平安である。

翻って、神との結びつきの中にあって常に喜びを持ち続ける人は、まさに自分が神と平和な関係にあることで十分です、それ以上何もいりませんと言える人である。そのような人は、心配事や試練の中にあっても、理性が喜ぶような平安つまり不幸が終わった時に出てくる平安を追い求めることはしない。ただ雄々しくしていられる。彼は忍耐強く信仰に立って、神から内面的な強さを備えられるのを待つ。彼にとって、不幸が短い期間のものか長くかかるかは大した問題ではない。彼はまた、全てのことがどのように終息するかということばかり気にして不安や疑いに押し潰されることもない。そうではなくて、彼は全てのことを父なるみ神の御手に委ねてしまうのである。不幸が終わるのはいつなのか、どんな仕方で終わるのか、誰か助け人を送ってもらえるのか、そうしたことを知ろうとはせず、一切を神の御手に委ねてしまうのである。まさにそれゆえに神は、彼にとって最も有益な仕方で、それでいて誰も予想も期待もできない形で不幸の終り方を準備して下さるのである。神はそのような仕方で彼に恵みを示される方なのである。」

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

木村長政名誉牧師による聖餐式がありました、宣教師不在中の聖餐式補助の練習も何とか努める事が出来ました。

 


主日礼拝説教 復活後第五主日
2016年5月1日 聖書日課 使徒言行録14章8-18節、黙示録21章22-27節、ヨハネ14章23-29節