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日本の皆様、お元気ですか?こちらフィンランドは、7月16日にヘルシンキで米ロ首脳会談があった前の週から急に連日30℃の猛暑の日々となりました。日本の酷暑ほどではないですが、基本的にクーラーの備えのない国なのでうだる様な暑さです。日本の豪雨洪水はこちらのテレビ・ニュースでもトップ扱いで報じられていました。被災地の方々にお見舞いの意を表したく思います。
6月29日から7月1日にかけてヘルシンキから北へ500キロ程のところにあるカラヨキ市にて、私どものミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会」(SLEY)の全国大会が開催されました。今回はその報告です。
SLEYというのは、フィンランドのルター派国教会の中で活動するルター派のリヴァイヴァル運動の団体で、1873年に結成されました。ルター派のリヴァイヴァル運動というのは、「ルターを通して福音の真髄に」という趣旨の信仰活性化の運動です。国民向け伝道の勢いが海外伝道に発展し、フィンランドが独立する前の1900年に日本伝道を開始。現在はケニア、ロシア、エストニア、南スーダン、ミャンマーにも宣教師を派遣しています(今年からドイツにも派遣開始、これは難民移民向けの伝道)。
SLEYは聖書解釈において保守的な立場なので、そうでない国教会とは難しい関係にあります。しかし、国教会の牧師・信徒の中にSLEYに共鳴する人は少なくなく、加えて近年フィンランドの国教会は脱退する人が毎年3~4万人出るなど(昨年は5万2千人が脱退)凋落傾向が著しく、それを憂える人たちの賛同も得ています。
SLEYの全国大会は1874年から毎年開催されており、唯一例外は第二次大戦中の1941年、旧ソ連軍の空襲のために中止になったことでした。従って今年で143回目となります。
カラヨキ市はフィンランドでは珍しく大きな砂浜があるリゾート地で、人口は1万2千人程。SLEYの全国大会には1万4千人が参加したということですから、大会期間は人口が倍増したことになります。
会場はイヴェント・パークと呼ばれる、4千人収容のホールと、追加の席はホールの外にベンチを並べます。
会場には、SLEYが宣教師を派遣している国々の国旗が掲げられます。
メイン会場の回りに、食堂、若者用、子供用プログラム会場、海外伝道テーマの大天幕が張られます。
大会はまずカラヨキ市長と国教会オウル監督区関係者の歓迎の挨拶から始まります。3日間の大会は、SLEY会員の年次総会、聖書の学びの時間、各界著名人のスピーチ、聖歌の時間、コンサート、聖餐式礼拝それに海外伝道地からの報告からなり、これらとは別に、若者向けプログラム、子供向けプログラムが併行して行われます。全体集会のハイライトは3つあり、土曜日の夕方ポップ調メロディーが奏でられる聖餐式礼拝と日曜日朝の伝統的な聖餐式礼拝そして宣教師の派遣式です。
吉村、パイヴィ宣教師のスオミ教会での福音伝道についての報告の様子、ステージの様子が大スクリーンに映し出されます。
若者向けプログラムの一コマ、ゴスペル・ロックの熱演。
演奏の合間に教会のユースリーダーがスピード感溢れる言葉遣いで聖書を教えます。子供向けプログラムでは、国営テレビの子供番組の人気司会者がお遊戯の合間に聖書を教えていました。
宣教師の派遣式。初めに、派遣国の国旗を持った子供たちが宣教師たちの前で歌を歌います。
これから派遣の按手の儀式に臨みます。按手を授けたのは、フィンランド国教会オウル監督区サルミ監督、ケニアのルター派教会のマトンゴ神学校のオモロン校長それにサイラSLEY会長とアウヴィネン同海外伝道局長。
按手を受けるエッサイ、右側はパイヴィ宣教師。吉村宣教師は悦才の左側(SLEYのSanansaattaja紙の記事から)。宣教師の子供も派遣される者として按手を受けます。大学生となった長女のヨハンナは一人ヘルシンキに残ることとなっため、派遣者と見なされず按手を受けられません。子供のいる宣教師家族は皆、子供が大きくなるとこのような別離を経験します。
以上がカラヨキ市で開催されたSLEYの全国大会の報告でした。
全国大会の後、当地で猛暑が始まるや、家族でオーランド諸島をフェリーを乗り継ぎながら、4日間サイクリング旅行をしてきました。写真は、チョーカル島にて次の島に行くフェリーを待っているところと、クムリンゲ島の聖アンナ教会の壁画に見入るパイヴィ宣教師。
この壁画は1500年代半ばのもので、聖書に記述されている出来事が教会の壁中に描かれています。
ヨハネによる福音書 15章9-12節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さまお一人お一人の上に、豊かにありますように アーメン
暑い夏です、特に今年は酷暑の夏です。
さて、8月に入りますと、8月15日の終戦記念日があり、また、8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が落とされ、もう絶対に核戦争などは起こしてはならないことを肝に銘じて、私たちは、この8月には、特に「平和」について考えます。
今日は「平和の日」主日です。
私は、牧師になった初任地の広島教会で2年間を過ごしました。この夏の時期、特に8月6日を中心とした日には、日本人のみならず外国の方々も平和につき、また原爆について考えるためでしょう、広島市にはたくさんの方々が見えました。
神道、仏教、カトリック・プロテスタント教会など、広島の宗教者の会が枠を超えて、一緒に共に祈る集会を平和公園にて早朝行いましたが、8月6日、私も広島におりました時にはそれに参加をいたしました。そして、その集会等を通して、改めて広島市民の核兵器廃絶に対する強い思いを体験いたしました。
今年は、アメリカと北朝鮮のトップ会談が6月12日に行なわれ、トランプ大統領は北朝鮮に対して体制の保証を提供する約束をし、キム委員長は朝鮮半島の完全な非核化について、断固として揺るがない決意を確認した、とされております。これが実現するかは予断を許さないところですが、平和を希求する全世界の願いが成就されることを望みます。
このような時、私たちは、改めて、平和とは何かについて聖書から聞いてまいりたいと思います。
今日の旧約聖書の日課はミカ書です。預言者ミカの活動は、北イスラエルのサマリア陥落の前、紀元前725年頃から、サマリア陥落後の紀元前701年の前ころまでであろうと考えられております。
この時期に、ミカは北のサマリアが偶像礼拝の故に神の裁きによって滅びること、また南のエルサレムも不正義の故に神の審判は逃れられないことを語りました。
この預言が紀元前722年/721年のサマリヤ陥落によって成就した時、更に紀元前587年にエルサレムがバビロンによって陥落させられた時には、ミカの滅亡預言は捕囚の民にとって非常に重い意味を加えたのでした。
徹底的な裁きを告げたミカの預言が、バビロニア軍によるエルサレム崩壊によって遂に成就したと受け止められたとき、ミカは絶望の中にある捕囚民に向かって、紀元前8世紀、既に、慰めと希望のメッセージを語っておりました。
神は将来イスラエルの民を救うであろうとミカは告げます。神がバビロン捕囚の民を連れ帰り、エルサレムでもう一度礼拝をささげられるようにすると申しました。それが今日読まれた旧約の「終わりの日の約束」の日課です(4:1-13)。
ミカ書4章3節にこのようにありました。「4:3主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」。
ミカは、さらに、主が良い羊飼いのように民を養い守る指導者を選び、平和がもたらされる(5:1-5)と申します。すなわち、律法がすべての国々で守られ、剣や槍が鋤と鎌に作り直される日がやがてやって来る(4:1-3、イザ2:2-4)と申します。そのあとの、5章4節で「[MIC] 5:4彼こそ、まさしく平和である。…」とあります。すなわち、主イエスの出現によって「平和」がもたらされるとミカは語っておりました。
また、今日の使徒書の日課、エフェソの信徒への手紙2章からも、教えられます。
エフェソ書2章13節から14節、「2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とあります。
敵意を持っていたイスラエルと異邦人との間のことを「遠く離れていた」と言うのですが、遠く離れていた者が、「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」と記されます。
この「キリスト・イエスにおいて」ということはどういうことでしょうか。
それは「キリストとイスラエル」、「キリストと異邦人」と言うように両者が、それぞれキリストに近いものとなり、そのことによってイスラエルと異邦人の、両者が遠い関係から近い関係になることができたということです。
キリストによって、両者が、それぞれに神と近い関係になり、そのことによって両者が近い関係になって「敵意」という隔ての壁が取り除かれたと申します。
そこに平和があり、これによって平和がもたらされるということが、聖書が伝えている真の平和です。
私たちの日常生活の中で、どうしてもあの人は許せない、という感情を持たざるを得ない人が私たちには居るかもしれません。しかし、「私と神さま」との関係、「許せないと思っている人と神さま」との関係を考えて見ますと、「私」と「赦せないと思っている人」、それぞれが神によって許されている者です。それぞれが神さまによって執りなしをされている者です。
2章13節・14節「2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。」
このように、今日の旧約聖書、使徒書の日課によれば、キリスト・イエスの出現とそのイエスの業によって平和がもたらされることが示されております。
そこで改めて、主イエスが語ったところの福音書によって、今日の主題である「平和」について聞きたいのです。
今日の福音書の日課で、イエスはこのようにおっしゃいました。
「父なる神が私を愛したように、私もあなた方を愛してきた。あなた方を愛してきた私の愛に留まりなさい。私が、父なる神の掟を守り、その愛に留まっているように、あなた方も私の掟を守るならば、私の愛に留まっていることになる。このようなことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。この、互いに愛し合いなさいということ、これが私の掟である。」
ここには、御父のイエスへの愛、イエスが示すイエスにつながれた人々への愛、そして人々の愛が描かれております。これは一つの愛の連動です。
イエスは9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」と述べてから、「わたしの愛にとどまりなさい。」と諭します。弟子に対するイエスの愛は、イエスに対する御父の愛に根ざしておりますから、弟子たちがイエスの愛にとどまるとき、父なる神の愛にとどまることに通じております。
主イエス御自身は神さまに完全に服従なさいました。その服従を通して、弟子たちに模範を示され、人びとが主イエスの愛の中に捕えられるよう願いました。
御子イエスは、御父の戒めを守ってまいりました。主イエスは愛を偽りのないものとして示され、そして、愛からの実りとして、御父の愛の中にとどまり、その愛に生かされ、人々を導かれたのでした。
愛には、つねに喜びが伴います。
11節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあります。
御子イエスは弟子たちを御自身の愛の中に置くことによって弟子たちから不安・心配・苦痛を取り除きました。
こうしてイエスは、弟子たちの中に、イエス御自身のもつ「父なる神への服従の喜び」を呼び起こし、それがイエス御自身から弟子たちの中に照り輝き、何ものにも害されず、曇らされない全くの完全な喜びが満ちるようになさいました。
そして12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と申しました。
「互いに愛し合いなさい。」というイエスの「新しい掟」(13:34)に生きることが求められております。
「互いに愛し合いなさい。」はあまりにも有名な主イエスの言葉です。
ここでイエスは確かに命令法で「愛し合いなさい」と言い、さらに「これがわたしの掟である」と言っております。
しかし、「愛とは命令されたから愛するというようなものか」という疑問を感じる人がいるかもしれません。愛というのは心の中から自然に湧き上がるもので、命令されて義務的に愛するというのは、ほんとうの愛ではない、と言うこともできるでしょう。
そのようなことを考えるとき、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉はとても重要な意味を与えます。
イエスは、愛の掟をただの命令として弟子たちに与えているのではありません。イエスが弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じておられます。
弟子たちの側からすれば、「イエスがわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきだ」ということになりますが、このとき、弟子たちにとってイエスの愛は単なる模範ではなく、弟子たちが愛することの根拠だと言えるのではないでしょうか。
「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができますし、愛さずにはいられなくなります。これは義務や命令の世界ではなく、恵みの世界です。
「掟」や「命令」と言っても実は外面的な規則のようなものではなく、わたしたちの内面に働きかけて、わたしたちの生き方を新たにしていく神の導きによることです。
そのわたしたちの中に「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が実現するならば、イエスは復活して今もわたしたちのうちに生きていてくださると言えます。
愛は決して命令されるものではありません。愛は要求によって得られるものではありません。この「愛するように」との命令は、「父は、神の愛を知る者たちが、互いに自分自身を無償で与えることを望まれる」ということができます。
愛する道は他にはありません。それは無償でなされるのであり、そうでなければそれは愛ではありません。
神さまは、私たちに「互いに愛しなさい」と言われますが、それが簡単にできるとは思っておられないのではないでしょうか。
神は出来上がった信仰や行動を望まれているのではありません。私たちの弱さ、迷い、不安、すべてを知り尽くされてなお、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われ、私たち一人一人を受け入れて下さっております。その上で、「互いに愛しなさい」とおっしゃるのです。
今日は「平和の主日」です。私たちの平和は、「互いに愛し合う」ということの中に見出されることを福音書から聞いてまいりました。
「私があなた方を愛したように」と主イエスはおっしゃいました。主イエスがどのように私たちを愛されたかを、私たちは常に聖書の み言葉によって聞いてきました。
主イエスはどんなに疲れていても、群衆の、癒して欲しい・聞いて欲しい・助けてほしいという願いに応えられました。悲しむ人・苦しむ人・弱い人の友となりました。安息日にも関わらず、奇跡を起こし病む人を助けました。
そして、父なる神の意思に従って、私たち人間の悪を帳消しにするために十字架にかかって私たちの身代わりになられました。言えば、私たちのような、本当に傲慢で罪深く、弱い者に対して、どこまでも仕えてくださったのです。
そのような主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うこと、それを主イエスは望んでおられます。
使徒書のエフェソの信徒への手紙でも、敵対するそれぞれが、神の恵みを信じて、神の執り成しのうちに、隔ての壁が取り去られて、神にある平和が実現することが示されておりました。
私たちは、主イエスが私たちを愛してくださっているように、私たちがお互いに愛し合うことによって神にある平和を実現したいのです。
繰り返しますが、主イエスは「15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とおっしゃっておられます。
私たちは、絶対者なる神がお送りくださった主イエスが私たちを徹底的に愛してくださった、そしてそのイエスが望むように、私たちがお互いに愛し合うことによって神にある、そして神が望む本当の平和を実現したいのです。
いにしえの預言者、イザヤもエゼキエルも、そして今日の旧約聖書の日課のミカも、大国の実力のまえに右顧左眄しなければならなかったイスラエルの民に、絶対者なる神に委ねて、主の み言葉にのみ頼るべきことを繰り返し述べております。
翻って、オウム真理教から名前を変えた「アレフ」が、今年7月6日に死刑が執行された麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚の教えを忠実に守る形で今も教義を広めているそうです。また、中国の膨張主義の不安、IS(イスラミックステイト)のテロの不安など、私たちの現実は、まだまだ多くの緊張の中にあり、わが国の内閣は平和憲法を改正してまで、集団的自衛権をもって、力で対処する用意をしようとしているように見えます。
私たちは、単に平和という理念を旗印として、他を批判・攻撃するというのでなく、共に生きることができる道を、誠実に、粘り強く、訊ねようではありませんか。この道こそは、活きて働きたもう主が私たちに恵みと賜物として許しておられるものであり、私たちをお導きになる道です。そこから、「平和」についても、私たちがなすべきことが導かれてまいります。
現代の世界のこの上なく深刻な問題の中にあっても、主を賛美し、これに感謝することができるとともに、主から与えられている課題を喜びつつ、詩編34編のことばなどに示されるように「[PSA] 34:15 …平和を尋ね求め、追い求めよ」ということを精一杯聴き、追い求めて行くことができます。
「平和を尋ね求め、追い求めよ」ということは、共に生きることを探求しこれを追求することに他なりません。共に生きることの中で、人間は互いに真実に、自由に、大胆に生きることができ、敵対と陰謀から救われるのであり、そこでこそ人間性が真に確立されます。
私たちが腹をくくって神様に委ねることができれば、互いに愛し合うことに導かれ、それが平和につながっていくものとなるのです。
私たちは、憲法がないがしろにされる瀬戸際におります。どのように改正するのかなど課題がありますが、私たちは全てを導いておられる主の御心を問う必要があります。
主イエスは「マタ26:52・・・「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」ともおっしゃいました。
主イエスは愛と平和、非暴力を説かれました。折しも今年は、非暴力主義を貫いた、マーティン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日、テネシー州メンフィスで宿舎の部屋を出たところを狙撃されてから、50年の節目の年です。
私たちは改めて、主にある本当の平和を作り出してゆく者として、主のみ言葉、「互いに愛し合う」ということをまず第一にしてまいりたいのです。
その上で、平和を求めて今、私たちにできることは精いっぱいしつつ、いつも執り成していてくださる主イエスに、全てをゆだねて過ごしてまいりたいと思うのです。
どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。アーメン
聖霊降臨後第10主日説教『一途な信仰』 2018年7月29日
マルコによる福音書5章21-43節
今日の日課の少し前の、4章35節以下に記されている「イエスが荒れる風と湖を静めた」奇跡の後、一行はゲラサ人の地方に着きました。この「突風を静めた」イエスのことばと行動は何を意味していたのでしょうか。そこでは、これによって「この人はだれか」という問いに対する答えとして、「自然を支配するイエス」が示されております。
その箇所に続く5章1節以下に、「悪霊を支配するイエス」が示されております。イエスはそこでも悪霊にとりかれた人を癒し(5:1-20)、再び舟に乗って向こう岸へ移動いたします。
そして今日の私たちの福音の箇所は「死と病とを支配するイエス」を示しております。
今日の聖書日課には2つのお話が記されております。
一つは、娘のいやしを願う会堂長ヤイロの願いを聞いてイエスはヤイロの家に向かうお話です。もう一つは、その途中で、イエスは十二年間出血の止まらない女性の癒しを行う物語です。
このふたつの奇蹟物語には、共通点が多く、そのために一つの話とされております。
二つの異なった伝承を結びつけることによって、両方のもつ共通の大切な意味が浮き彫りになるからです。
それは、①状況の絶望性、②イエスの前にひれ伏すこと、③ヤイロの娘は十二歳、女の病気の期間も十二年という共通性があります。また、どちらの場合も、特に大切なこととして、信仰を持つことの重要性が強調されております。すなわち、イエスは癒された女に向かって「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と語り、娘の死を知らされたヤイロには「恐れることはない。ただ信じなさい」と語っております。
このように「ただイエスを信じる」ということ、また「一途に主イエスに信頼する」ということの大切さが示されております。
さてイエスはいつものように、ガリラヤの湖のほとりで多くの人々に教えを宣べておられました。そこに会堂長の一人でヤイロという人が来て、イエスの足もとにひれ伏してしきりにお願いいたしました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と、「必死になって」願いました
会堂長と言いますのは、会堂の管理をする人で、人々の信頼が厚く、尊敬され、社会的にも重んじられておりました。自ら祈ったり、聖書を読んだり、解説をすることはなかったのですが、会堂での、それぞれの役割を決め、礼拝の進行を司どります。
その会堂長が、自らイエスのところに出かけ、イエスの足もとにひれ伏しました。当時イエスはすでにユダヤ共同体にとって危険人物であり、異端的な考えをもつ人物、とされておりました。イエスが、律法学者やファリサイ派の人々、また長老たちから、どのような目で見られていたかを考えますと、会堂長がそのようにすることはよほどのことでした。そのような状況下で、会堂長はあえてイエスに「ひれ伏して」願いました。
「マルコ 5:23 ・・・「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」」
今、ヤイロにとって、幼い娘のことで心はいっぱいなのです。人目や外聞なども、気にはなったでしょう。が、しかし、ヤイロは自分をイエスの足もとに投げ出して救いを求め、一切の粉飾や勲章を捨てて裸になります。
一刻を争う「死にそう」な娘の病状に対して、会堂長に出来ましたのは、イエスに願い求めることだけでした。父親の娘を思う気持ちが手に取るように浮かびあがります。
イエスはヤイロの強い願いに心を動かされました。ですから、イエスは会堂長ヤイロと一緒に出かけられました。
ところが、ヤイロの家に向かうその途中で、女の人にイエスはつかまります。ここに出てくる女の人は、「十二年間も出血の止まらない女」でした。「5:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」と記されております。
本当に気の毒なことです。人には言えず、隠れてひとり苦しんでおりました。しかも十二年もの長い期間です。
この女の人はこれまで医者に診てもらうなど、ありとあらゆる手だてを尽くし、またそのために全財産を使い果たしてしまいました。もう何も残っておりません。
そのうえ、旧約聖書レビ記(15章25 節以下)に「15:25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。15:26この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。15:27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。」との規定がありました。
ですから、彼女は汚れた者として、人前に出ることは許されませんでした。
そんな彼女が、イエスのことを聞いたのです。彼女が、一切を失った時、見えてくるものがありました。それは「何が本物か」という洞察です。評判を聞いて、彼女はイエス・キリストに到達いたしました。
それは最後の砦、最後の頼みでした。
27節、28節、女は「マルコ 5:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。5:28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。」とあります。
彼女はイエスの服に触れればいやしてもらえるとの思いで群衆に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れようといたしました。
「イエスさまなら、なおしてくださる。しかし、わたしは汚れた女で、人に近づくことはゆるされない。それは律法が禁じている。そうだ、こっそり群衆にまぎれて、後ろから近づこう。うまくその衣のほんの端っこでもさわれば、きっとイエスさまのことだ、いやしてくださるに違いない」、こういったことを、彼女は毎日のように思い続けたのでしょう。「思い続けた」ことが、大切です。それは具体的な信仰です。しかも、持続的な信仰です。
彼女は「5:27…群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」のです。
29節「5:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」と記されております。
彼女は病苦からいやされたことを身体で感じました。するとただちにイエスもまた、ご自分から力が出てゆくのを感じとり、群衆を振り向いて言われました。
このように記されております。30節「5:30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。」
ここで重要なことは、「主イエスにとっては、か弱い、病弱のやせ衰えた手で、うしろからやっと届いた女性のひと触れが、群衆の押し合いへしあいする力よりも、はるかに大きく感じられた」ことです。十二年の祈りをこめた、病弱の女の、絶望の底からの小さなひと触れ、この力が、この世の大群衆の力よりも、はるかに大きいことを成し遂げたのです。この小さな祈りが、主イエスから大きな力を引き出しました。
たとい私たちに力はなくとも、たゆまない信仰、それがイエスの力を引き出します。もし、からし種一粒の信仰(マタイ17:20)があるならば、そうなるのです。
31節「5:31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
しかし、イエスは、ご自身に触れた者を見つけようと、見回しておられました。女は、自分の身に起こったことを知って、恐れおののき、イエスの前にひれ伏し、本当のことをすっかり申しました。そこでイエスは女に言いました、『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』。(5:34)
イエス・キリストは、この十二年祈り続けた弱い女の信仰を褒め、その信仰があなた自身を救ったと言われたのです。
いやしは、信仰の結果ではありません。むしろ信仰そのものの中にいやしがあります。わたしたちの信仰とは、ただ『信じたことを本当のこととする』ことにとどまりません。むしろ真理なるイエス・キリストに捕らえられることなのです。それはあのヤコブが、天の使いに「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と創世記(32章27節)で申しましたように、しつこく真剣に、この長血の女は、行動し、信じました。イエス・キリストは、この真剣さのところに立ってくださいます。
長血の女の話は、実はヤイロの娘のところに行く途中の出来事でした。イエスは、この長血の女の出来事もおろそかにせず、一生懸命に当たりました。
さて、ヤイロの娘と長血の女の話の両方がここで示されておりますが、病状の重いヤイロの娘は今この一瞬、一刻一秒が問題になっておりました。
他方、長血の女は、十二年という長い時間をかけた後にイエスに接しました。
もう十二年も苦しみ悩まされている彼女ですから、時間的なものはヤイロの娘のように一刻を争うというものではありません。
しかし、イエスはヤイロの娘の病状の時が切迫しているのにもかかわらず、長血の女のために足を止められ、「わたしの服に触れたのはだれか」と振り返られたのでした。この振り返られて言葉をかけられたということは何を示しているのでしょうか。
イエスは正面きって対応できない、後ろからしか救いを求めることしかできない女に、自らが振り向くことにより一人の大切な者として受け入れられたということです。そして、それは、ヤイロの娘の生死をさまようような一刻の猶予もゆるさない緊迫した中でもなされました。
一刻の猶予もないと思われる娘の病状を案じる会堂長ヤイロにとって、長血の女の振る舞いとイエスのなさりようは、いらいらするものだったでしょう、早く早くとあせる気持ちがあったと思われます。
イエスは会堂長とともに家に向かいますが、しかしヤイロの家に行き着く前に、その途上で、ヤイロは娘の死を告げられ、一縷の望みを打ち砕かれます。
会堂長の家の者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と告げます。
案の定、途中でぐずぐずしていたために、遅くなって、間に合わなくなったと思われました。とうとう娘は死んでしまったのです。もっと早く来てくれればよかったのにと、誰しも思うでしょう。
死はいつでもこのようなかたちで私たちを捕らえ、有無を言わせません。しかしここで、イエスがヤイロに言われた言葉が重要です。イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけます。
何を信じれば良いのか、その対象をイエスは述べません。希望がなくなったように見えるその「無」の向こう側に、イエスの力の源泉である父なる神がおられます。
私たちは、どんな時にも望みを捨てないのです。一途にイエスに信頼していくのです。イエスは、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」という人々の言う言葉を無視し、「恐れることはない。ただ信じなさい」と、「ただ信じ」ることを求められます。
ヤイロに「恐れることはない」とまず告げますが、これは、「神がここに臨み、働かれる」という意味合いがあります。この深く嘆き悲しむ場にも神は臨み、働いておられます。ですから次には「ただ信じなさい」と続きます。
娘の死の知らせを聞いて、確かに父親の悲しみはどれほどか大きく、その思いはどん底に落ちこんだことでしょう。
ところが、主にとって遅すぎるものは、何一つありません。遅すぎるということは、人間の時間で考えているからです、神の時間があります。イエス・キリストが来ても駄目だ、という現実、そのような事態の中で、主イエスは答えました、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と。
信仰は、信じえないほどのところで、力を発揮します。どうにもならない現実のところに、主は立っておられます。よみがえりの信仰、それは、死と虚無の墓を空にして、いのちの主が立ちたもうことを信ずるということです。
一行が会堂長の家に着いてみると、「人々が大声で泣きわめいて騒いで」いました。弔いのための泣き女や笛を吹く者の様子のようでもあるのですが、イエスは家の中に入り、徒に泣き騒ぐのをやめさせ、人々に言われます。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」とそのように申しました。
生きる希望を与える神を「無」の向こう側に見るイエスが来るとき、「死」はもはやその力を失って「眠り」となります。なぜなら、イエスは死者を「起こす」、すなわち「復活させる」権能を持つからです。イエスにとって死は眠りであり、イエスはその眠りから私たちを目覚めさせてくださいます。
40節「5:40人々はイエスをあざ笑った」とあります。人々の嘲笑は、そのイエスを認めずに目の前の現象に捕らわれていることから生じます。
イエスを信じない者にとって、イエスの言葉は「たわごと」としてしか聞かれません。人々は嘆いておりますが、イエスを通して現れようとする神の力に気づかなければ、それは「騒ぎ」でしかないのです。しかしイエスを信じる者にとって、イエスの言葉は力であり、喜びです。
イエスは皆を外に出し、子供の両親とペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれ、そして子供の手を取って、「タリタ、クム」(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)と言われます。イエスの癒しは、魔術的な動作によってではなく、「少女よ、起きなさい」と語りかける愛によって引き起こされます。これは当時の日常語アラム語ですが、イエスの言葉のインパクトがよく伝わってまいります。
その声を聞いてすぐに起き上がった少女を見て、人々は我を忘れるほど驚きますが、イエスは彼らにこのことを「だれにも知らせないように」厳しく命じます。
奇跡の目に見える結果だけが吹聴され、もてはやされれば、興味本意の出来事にすぎなくなります。
問題は「メシアの秘密」ということです。イエスが続けて起こした、重なった三つのできごと、①4章35節から41節に示された、波風を鎮めて「自然を支配するイエス」、②5章1節から20節に示された「悪霊を支配するイエス」、そして今日の③「死と病とを支配するイエス」によって示されておりますのは、「この人はだれか」という問いに対する答えです。その答えとは「この方はメシア」である、ということです。これはあらわにされると同時に、まだ隠されている神の真理、神の真実です。ペトロたちは、この答え、今はまだ、この秘密を垣間見たにすぎません。もっと明らかに、もっとその核心に近付いた形で見えてくる時まで、この秘密は、「だれにも知らせないように」と、この秘儀の保持が命じられます。
奇跡は神の愛の力を現わす出来事です。イエスの厳しい沈黙命令は、見える現象の奥深くに息づく神の愛に目を向けるようにという呼びかけです。
さて、今日の福音は、ヤイロの娘の話で始まりました。途中で、長血の女の出来事があり、イエスは少しの間、ヤイロの娘の病から目が離れます。しかし、イエスは、娘へのヤイロの深い愛を知り、またヤイロの厚い信仰をご覧になって、その願いを聞かれました。
イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われます。これは私たちの信仰の立派さや完成度を褒めているのではなく、取るに足らない者の、信仰と呼ぶにはほど遠いものを引き上げ、お聞き上げくださるということです。
ヤイロの娘はイエスの言葉によって、死の眠りから生き返り、起き上がって歩きだしました。これは「恐れずに、ただ信じる」こと、「救われると信じて自分を投げ出す」ことです。それが私たちの思いを超えた、素晴らしい主イエスの恵みと神の愛を捕らえることができます。
私たちの人生というものも、この物語と同じではないでしょうか。
わたしたちは、会堂長ヤイロがイエスの前にひれ伏してお願いしたことを今日の福音として聞きました。つまりその地方で、指導的な地位にいる人が、人前もはばからず、自分を投げ出して、地に伏しました。ここには徹底的に自分を無にする信仰が見られます。
あの長血の女のところで、私たちは熱心に願い、迫る信仰を見ました。ここに今、自分を無にする信仰を見るのです。
「熱意」と「無」とは、正反対のように見えます。しかし、信仰には、この正反対のことが必要です。私たちはとかく、「熱心」になると、自分が出て来ます、また自分が「無になる」と、あまり熱心でなくなります。しかし、本当の信仰は、この二つを一つにします。この一切無になった祈りのゆえに、イエス・キリストは今、十二歳の少女のために、わざわざ自分から出向かれます。いわば小学校六年生の子のために、イエス・キリストは全力をつくされました。また、長年わずらっていた女を癒したのです。
神とは、このように、一人の泣き悲しむ者のために、全力を注がれるお方にほかなりません。わたしたちは、神をただ高いところに求めてはなりません。一人の子供が泣き叫ぶところ、自分を無にして願い求めるところ、そこが、神の場所です。
「マタイ18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と言われた主は、自ら同じように、小さな者を大切にしてくださいます。
私たちは、「ただイエスを信じること」「一途に主イエスに信頼する」所に立ち、メシア、救い主である、主イエスを一途に信じるところから主の慈しみをいただきます。主への一途の信仰のゆえに私たちは全てを主イエスに委ね、そこからもたらされる主にある平安の内に今週も過ごしたいものです。
第20回コリントの信徒への手紙
6章1~7節 2018年7月22日(日)
今日の御言葉は6章1~7節です。これまでの内容と違って、奇妙な事が書いてあります。それは教会の中で争いが起こった時どうしたら良いか、という問題です。その前にもう一度見ておきたいことは、前回の5章のところでパウロはコリントの教会の不品行と堕落に満ちた状況を赤裸々に書いて、どう扱うかを厳しく言ってきました。そして更に4章17節には弟子のテモテを遣わすと言って「キリスト・イエスに於ける私の生活の仕方を、私が至るところの教会で教えた事を思い出すようにと言ってきました。」このようにしてパウロは教会生活というものをはっきりと知らせ教会の権威を教えようとしているように見えるのであります。5章のところで終わりの方に教会の外の人を裁くのは神である。教会の内の者の問題は教会で全責任を負わねばならないと言ってパウロここでも教会の独自の権威というものを示そうとしています。そうしておいて続いて6章の始めで、それなら教会の内に争いが起こった時どうするのか、という事を語りながらここでも教会の権威が多くの人が考えているよりもはるかに力強いものであるのか、という事をはっきり示そうとしているのであります。現にコリントの教会の中に、もう問題がいっぱい起こっている。手が付けられないようなレベルの低い問題があちこちにある。そういう中に教会の聖なる信徒たちはどうしたのか。詳しい事情のことはよく分かりませんがそこには教会内の事件を外の人によって裁かれているらしいが、これは一体どういうことか、パウロはそれに対して厳しく咎めているわけです。6章2節を見ますと「あなた方は知らないのですか聖なる者達が世を裁くのです。この世の方があなた方によって裁かれるはずなのに、あなた方には些細な事件すら裁く力がないのですか。」とかいています。ここで」パウロが言いたいのは教会内の問題をなぜ外の人々に裁いてもらおうとするのか、という事であります。教会の問題は教会自身が解決しなければならない、と言って教会が持つ権威の事を語ろうとするのです。
不品行な者たちとの交わりについても教会は独自の判断を持っていました。教会の生活は教会の外の生活とは違っている思わせる程教会の独自の判断と権威を持っていると言いました。それは教会の事は教会で、と言うだけのことではなくて教会と言うところは他のものと違う立場を持っていると言うことであります。教会はこの世にあるあるに違いありませんがこの世に支配されない、むしろこの世をさえ裁く力を持っているはずである、というのであります。教会がそういうことを言うのは何か一人で力みかえっているように思われるかも知れません。現在においても日本ではキリストの教会は小さな団体であります。コリントの教会の当時、なおさら弱小なものであったと思います。その中にありながら、パウロは教会はこの世のものではない力と権威を持っているはずである、と確信していたのです。それはパウロだけでなく代々の教会がそうであったのです。人の目にはどう映るにせよ教会は神が建てられたもの、キリストによって救われた者の集まりであります。それならそこで行われるべきことは、まさに神の権威を反映させるべきものであります。キリストを信じることの力がどういうものであるか、ということを堅く確信していなければならない、ということであります。そういうことを言ったのちにパウロは教会の問題をなぜ教会外の人によって裁かれようとするのか、と言って今度は教会こそ実に世を裁くべきものではないかと言うのです。教会が本当の意味で世を裁くもの、いや裁いているものである、と言っているのですしかしだからと言って教会はこの世の事件をいちいち裁いたりするものではありません。教会がそこにある、ことが既にこの世に対する裁きではないでしょうか、と言うんです。現在の日本では教会の数はまことに少ない、神のこと等考えようともしない。しかし私たちは神を信じて教会に集います。教会での神様を礼拝すると言うことが大事であるこを知っています。教会の存在の力、神の力がこの世に働いているのです、教会は神によって建てられ、教会の力は世を裁いていることになるのであります。教会が世の中にあって裁いていると言っても教会の信徒がみな裁判官になるのではありません。そうは言ってもまことに神のいますことを証ししキリストの救いこそ真の救いであることを示すことによって、この世を裁くことになるのではないか、ということです。
パウロは3節を見ますとこう言っています。「私たちが天使たちさえも裁く者だ、と言うことを知らないのですか。まして日時生活に関わることは言うまでもありません。」つまり、ここで言われていることはキリスト者が世を裁くだけでなく、御使いをさえ裁く権威を与えられている、ということであります。こうしてパウロの教会の権威についての話は一層進んで御使いの裁きに至って頂点に達した、と言えると思います。私たちは自分が信仰を持っていると言うことをどう考えているでしょうか。キリスト者である事をただ皆と少し違う考えで生きているというだけでしょうか。教会へ来る事も習慣的に集まるというだけの事かも知れません。しかし、そうではなくて今は神のものとせられた者であります。パウロが言うのは私たちは既に神の権威のもとに生きている、と言うことです。それならばこの世の人の知らぬ確信をもって生きてよいのであります。パウロはコリントの教会へ強く迫って言うのです。「それだけの権威を神様から与えられ、そういう生活をしているはずの教会が裁きの事について、間違を犯すはずはないのではないか。」とパウロは言うのです。私たちの教会もコリントの教会とは違う大きな問題を抱えています。神がこの世に建てられた教会に神、また大きな力と権威とをお示しになって神の御業をあらわしていかれるのあります。 アーメン・ハレルヤ!
聖霊降臨後第8主日説教 『神の支配』 2018年7月15日スオミ教会
マルコによる福音書4章26-34節
今日の聖書において、イエスは「神の国」について、たとえを用いて、説明しておられます。
私たちは「神の国」をどのように捉えたら良いのでしょうか。
神の国と申しますと、天の高みにある具体的な3次元の時と場所を考えるかもしれません。しかし、神の国とは、神の領土などという場所のことではなく、神が支配しているということです。「神の国」とは「神の支配」のことです。言い換えますと「神の意志が貫徹している」事態であり状況です。
今日のみ言葉から聞いてまいりましょう。
26節からの「成長する種」のたとえはマルコによる福音書だけが伝えるものです。
これは、福音の伝道について疑いを持っている者に対して言われていると読めるのですが、主イエスは次のように申しました。「[MAR] 4:26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔くようなものである」と、このように、たとえでおっしゃいました。
すなわち、農夫が種を蒔いた後、27節~28節ですが、「4:27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであ」る、と記されております。
このたとえの中では「ひとりでに」というところにポイントがあるようです。
農夫が蒔いた種は、芽を出して成長いたしますが、蒔いた人は、種を蒔いただけであって、その種が、どうしてそのように芽を出して育っていくのかが分かりません。ひとりでにそうなっていくように、神の支配もまた、福音の種を蒔いておきさえすれば、やがて実を結ぶようになることをここでは示しております。
ですから、このたとえの意味は、神の支配というものは、神さまが配慮されるのだから、人間の側で急いだり、あせったりしてはならないということです。
本当の霊的成長は、気がつかないうちに「ひとりでに」行なわれます。伝道において弟子たちのつとめは、種を蒔くことであり、あとは待つことです。そのようにいたしますと、やがて28節~29節、「4:28まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。4:29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」ということが起こってまいります。
作物は「目に見える原因もなく、ひとりでに」成長するかのようですが、農夫が直感的に気づいているように、すべてを巧みに導く支配者がそれを行っております。
ひとりでに成長するその理由が、人間に分からないのは、成長のプロセスが「命の育み」だからです。その種に命がなければ、土に蒔かれてもその種はやがて朽ちていきます。しかし、その種に命があれば、種が土に蒔かれることによって、「ひとりでに」成長いたします。ひとりでに成長するのは、種に命があるからで、成長は命の証しだからです。人間は種を蒔くことができます。豊かな実りを収穫することもできます。しかし、命を左右することは人間には結局できません。動物の命であれ、植物の命であれ、おおよそ命には常に何かしら神秘的な要素がつきまとっております。
命を左右することは人間に委ねられた権限に属しておらず、もっぱら神の支配に属しております。私たちは命の神秘に驚きます。何らかの意味で神の尊厳の一端にそこで触れるからです。
種蒔きの後、人が収穫の時まで積極的に関与しなくても、種は「ひとりでに(目に見える原因もなく)」成長いたします。それと同じように、神の国も「ひとりでに」成長するということが今日のこの第一のたとえの要点だと思われます。
それは、神様が人の思いを越えて育ててくださるからです。パウロはこのことを、植物を例にとって、コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章6節で「[1CO] 3:6わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」と述べております。この神の不思議なみ手を、信仰の目によって見、そして確かめることが、信仰生活の喜びと力です。
ですから、日常生活において一つの事柄や計画を進める場合にも、この神の支配を考慮し、神の国のことを考え、神のみ手の働きに委ねて始めるならば、必ず実を結び、刈り入れの時がくるようになる、そのことを、このたとえは教えていると思われます。
そこで大切なのは、私たちはどのような種を蒔くべきかということです。
その種の内容としては、信仰の中身が問題になります。①神が第一であること、②十字架の罪の赦しの福音が中心になっていること、さらに ③復活の信仰、の三つを含んでいる種が良い種ということではないでしょうか。
そして、このような種を蒔いていれば、どのように困難に見える種まきであっても、必ず実を結ぶようになると、私は信じます。
神の国の建設は人の手を通して進展しますが、人の手の中にあるのではありません。神が働いているのであり、人の目には「ひとりでに」成長するように見えます。農夫が補助者として働きながら、豊かな収穫を忍耐強く待つように、私たちも挫けることなく、神の働きを信じて待ち続けるのです。
ですから、キリスト者の伝道活動は、ただ福音の種を蒔くだけで良いと言うことです。
地に落ちた種が、「ひとりでに」成長して実を結び、刈り入れの時がくることを確信してあとはお任せして待てばよい、そのことを示しております。
30節からの「からし種」のたとえは同じように植物の成長に関するたとえですが、からし種は1~2ミリの小さなもので、パレスチナ地方では、成長すると3~4メートルにもなるといわれています。このたとえでは、小さくて取るに足らない「最初」と、成長して大きくなった驚くべき「結果」の対比が目に付きます。
このたとえも「神の国」が主題です。ここでのポイントは、先のたとえが「成長の謎」であったのと異なり、「成長の巨大さ」です。からし種のような小さな種から、空の鳥が巣を作るほどに大きな木が育つように、神の国もその発端は気づかれることがないほど小さくても、やがてこの世界の現実を圧倒する巨大な事実として出現する、と申します。
神の国の始まりは小さくても、やがて全世界をおおうようになります。からし種のような小さいものによって始められた神の国のわざ、伝道の仕事、教会の創立も、それはやがて大きくなり、それを求めて宿るものに平安を与えることができるようになります。
個人の信仰生活も、教会の歩みも、最初は、からし種のように、どんなに小さくても良いのです。生きた信仰であれば良いのです。もし、それが神の支配の中にあって始められたものであれば、必ず成長して多くの人々を宿すようになることを示しております。
今、私たちが生活している現代では、神の福音、主イエス・キリストの言葉と行為とは、全世界に伝えられております。教会は全世界に存在しております。
しかし、この福音がアジアからヨーロッパに伝わりましたのは、ただ一人の人、使徒パウロの祈りによる決断によったものです。
パウロがテモテを連れて小アジア伝道を行なったときに、そこで、行き詰まり、トロアスに下った時に、ここで夜、一つの幻を見ました。それは、一人のマケドニア人が立って、使徒言行録16章9節の「[ACT] 16:9、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。」というものです。
こうしてパウロは、神の支配と導きとを信じて、マケドニア地方第一の町フィリピへ行って福音を伝えました。それがフィリピの教会となり、そこから福音がヨーロッパに行き渡り、さらに全世界へと広がり、今日に至っても、なお拡大されつつあります。これは神の力と神の支配とによったからだと考えられます。
しかし、人間の力に頼った場合はどうだったでしょうか。
アレキサンダーは、紀元前336年から323年(パウロの約400年前)にマケドニア王であり、アレキサンダー大王と称せられました。アレキサンダー大王は、アリストテレスに師事し、また大軍備をもって人間の力の限りを尽くしてペルシャ討伐のために小アジアに遠征し、インド北西部まで占領し、絶対君主として自分を神格化しようと人々に要求しました。しかし彼は、その大遠征中に死に、今や彼の跡は見るかげもありません。ただ都市名に彼の名をとどめているだけです。
また、ジンギスカンは12世紀に、モンゴル帝国を創立し、西に進出する大計画を計りました。こうしてジンギスカンは世界史上屈指の大英雄とされましたが、彼の跡も今はありません。
このように、パウロは神の支配によって立ち、他方、人間の業としての例に挙げたアレキサンダーとジンギスカンは人の力によって活躍しました。神の国と人の国との違いを、そこに見ることができるような気がします。
このことから、神の支配によるものは、永続的なものであり、初めは小さく、弱いものであるかのように見えましても、それは大きくなり、強いものであることを、私たちは知らされます。
個人の歩みもまた、神の支配の中にあって、神のことを考えながら進む歩みは、その出発は小さくても必ず成長し、人に役立つものとなることを忘れてはなりません。
ところで、主イエスがたとえを話すのは、ある特定の状況の中で、ある特定の問題に答えるためだと考えられます。
「成長する種」のたとえと「からし種のたとえ」は次のように考えることもできるかもしれません。
主イエスが活動し、群衆や弟子たちが集まってきます。しかし、それらの多くの者は傷つき、病み、主の癒しを願うような弱々しい集団でした。「こんな小さな弱々しい集団でいったい何になるのか。神の国というにはあまりにもお粗末ではないか」という疑問が投げかけられたことでしょう。それに対して、「成長する種」「からし種のたとえ」のような、たとえ話が語られたのではないでしょうか。
もしそうであるならば、このたとえの意味ははっきりします。
人間の目から見れば、神の国というのは、ほとんど目に留まらないような小さな現実に見えるかもしれません。しかし、それは気づかないうちに、丁度、植物が農夫の知らないうちに「ひとりでに」実を結ぶように確かに成長していきます。そして、この小さな神の国の種から、丁度、からし種の成長のように、驚くべき大きな結果がもたらされるのだ、ということです。
さて、このような多くのたとえを主イエスが用いられたのは、33節、「[MAR] 4:33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」と記されておりますように、人々が理解力を欠いていたからでありました。
ですから、人々へはたとえで語られましたが、34節「[MAR] 4:34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」のです。
弟子たちは、既に主イエスに心を開いておりました。
このようなわけで、今日においても、神に心を開いて素直に開いていれば、神様は聖書を通し、あるいは人々の動きや出来事を通して、その人に語ってくださいます。
ところで、人間の歴史を導くのは「神の摂理」です。神の摂理の全体を展望することのできない人間には、一見無意味なもの、無秩序なものが確かに存在いたします。
7年前の3・11の問題、東日本大震災は私たちにさまざまなことを考えさせました。また、一昨年の熊本地震や今年6月18日の大阪大地震がありました。また、今月6日からの西日本豪雨によって200人以上の方(14日現在201人)が亡くなり、安否不明者も30人(14日現在)もいるという大惨事の中で、今も苦しむ方々がおられます。大水による被害、土砂崩れによる被害や、竜巻の自然災害などは、私たちの力を超えた無秩序、カオスのなかに私たちは投げ出されているようにも思わせられます。
しかし、それは、神の視座から見れば、すなわち、神の摂理の全体的な展望の中では、決して無意味なものでも無秩序なものでもありません。
ここには、私たち人間には理解できない時の流れ、神さまの時の流れがあります。私たち人間の理屈では答えのない現実もあります。
確かに、私たちは各自に与えられた場で自分の目で見、自分で判断することを要求されても理解できないことがしばしば起こります。うまく事が進む時も、そうでない時もあります。
主イエスの語る神の国は人間の力によって到来するものではありません。
ですから、人間の予測や思惑は通用しません。ただ神様の働きへの信頼が求められます。
しかし、同時に神の国は人間を通して実現していきます。神の国のメッセージに応え、その中を生きようとする人がいるときにだけ、この神の国は確かに成長していきます。
キリスト者は「見ることを通してではなく、信仰を通して」歩んでおります。
今日の「神の国のたとえ」は、どちらも種を蒔くという作業から出発して、終わりには、「その穂には豊かな実ができる」あるいは、「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」とありますように、最後は、大きな結果を得るというものです。そしてこの二つのたとえで語られる種とは、まさにイエスの語られた御言葉であります。
御言葉は無視されてもしかたないようなものに見えるかも知れませんが、それはぐんぐん成長し実るもので、神の国そのものであると言われます。そして、イエスはこの私たちに御言葉という種を蒔かれました。
それは休みなく成長し、発展している神の国の姿です。私たちが夜昼、寝起きしている間、知らない間にも、神の国は限りなく成長しております。私たちはこの神の国の成長を信じ、ただ福音の御言葉の種を蒔くこと、そのことの大切さを教えられます。
私たちは、思いどおりに事が運ばないと、心穏やかではないといった状態に置かれます。
思うに、それは私たちの時間で考えるからであるかもしれません。ところが、もう一つ異なった時間があります。神さまの時間があるということです。
今日の み言葉で「神の国は次のようなものである……」あるいは、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか……」とイエスは語られていますが、それはまさに神の時の流れの中でのことを指し示しております。その神の時の流れの中では決して失望することはないと言われ、収穫という終わりの時は必ず来るという安心と確信が語られております。
豊かな実ができるには、時が必要です。成長の時間は、しばしば、あまりに長すぎて、まったく成長していかないように見えるかも知れません。ですから忍耐も必要です。そしてその時は、人間の時間を越えるかも知れません。ペトロの手紙Ⅱ に「[2PE] 3:8 …主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」とあります。
きょう学ぶことの一つに、この「待つ」ということがあります。「待つ」ということは「信仰に属すること」です。神は生きて働き育ててくださいます。そのことを信じて待つのです。ところが、このことが私たちには中々出来ません。「待つ」ことができずに徒に焦ったり、心配したり、思い煩います。
詩篇の121編に、「[PSA] 121:4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」とありますように、わたしたちの眠っている間も、神の御力の働いていることを信じたいものです。
真っ暗な闇夜であっても、不思議な神の御手が働いて、事をなしておられます。人はふつう夜は働きません。しかし、人が働いていない夜でも、神は働いておられます。そのことを信じて、神にゆだねるべきことを神におまかせする時に、初めて自分のすべきことが理解できます。神にゆだねるべきことを、真に神にまかせることのできる人だけが、本当に力強い働きをすることができます。
よく信仰や神頼みは、いくじなしの弱い者のすることだと思いがちですが、自分が偉い、自分が大将だと思っている人は、そう言うほどには、力を発揮できないものです。
今日のみ言葉は、私たちが思い煩うことなく、絶対的な神の主権の中で、神が最も良いように必ず成し遂げて下さることを信じて待ち望み、すべてを委ねるようにと言うことを示しております。
私たちは、私たち自身の信仰や、スオミ教会の現状の中で、「神の国」の実現は、ただ神さまの働きであることに委ねたいのです。そして、私たちに理解できないことがあったとしても、ただ神様の働きに信頼しながら、神の国実現において私たち自身を用いていただきたいと、そのように思うことが大切です。
2018年7月8日(聖霊降臨後第7主日)礼拝
担当 田中 良浩
2 7月 8日(聖霊降臨後第7主日)
聖書日課 創世記3:8~15、Ⅱコリント5:11~15、マルコ3:20~30
説教題 「恵みの力、聖霊によって
序 『イエスとはいったい誰か?』これが今日の主題である!
今日の福音書の日課は、実に異様な雰囲気に溢れた情景が物語られている。
その物語の内容は、神の出来事に関しては、一般的人間の理性あるいは
感情の盲目性と無理解である。
さらに宗教的な人間(特にここに挙げられているエルサレムから下ってきた律法学者たち)であってさえ、それは反感と拒絶である!
1 物語には主イエス・キリストについての常套的な導入(マルコ3:31)
がある。つまり
「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」である。
◎主イエスのおられる所には、いつも「大勢の群衆が集まっていた」という描写はいくつもある。(マルコ2:2、13、3:7、4:1他)。
◎それは人々にとっては主イエス・キリストが必要であることをしめしている。
◎現代でも同様である。大多数の人々には関心がない。しかし、聖書の語
る本質からいえば、人にとって主イエス・キリストは求めるべきお方で ある。
主イエス・キリストにこそ、真実、癒し、力、救い、生命、希望があるからである。
2<人間の盲目性と無理解>=それは家族に現れる。
そこに家族が来訪する!このように描かれている。(マルコ3:21)
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変
1
になっている』と言われていたからである。
こともあろうに、イエスを「取り押さえに来た」のである。
「取り押さえる」=非常に強い表現である。そこには明確な理由があるから
である。理由は主イエスが「あの男」と呼ばれているほど、「気が変になって
いる」からである。
また、初代教会では有力な指導者であった主の兄弟ヤコブもヨハネによれば
「兄弟たちもイエスを信じていなかった」(7:1~16、5)のである。
このような家庭のトラブルは、主イエスが語られた通りである。(マタイ10:35)
「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
<人間的な関係、肉の思いを中心として生きるか?それとも、主イエスの
教えられる霊の導き、福音の教えによって生きるか?>の戦いである。
後年、主の兄弟ヤコブは、使徒パウロと同様、復活のキリストに出会って
(Ⅰコリンと15:7)使徒となるのである。
3<宗教的な指導者、律法学者、ファリサイ派の人びとの主イエスに対する
反感と拒絶>=それがガリラヤでさえ生起した!
彼らはわざわざエルサレムからはるばる下って来て、異常な言葉で騒いだ。
彼らは、『あの男は、ベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、
『悪霊の頭の力で、悪霊を追い出している』と叫んだのである。
◎ここで宗教的な指導者たちが使った、「ベルゼブル」とは一体何か?
この言葉は共観福音書でもしばしば用いられている。(マタイ9:34、
10:25、マルコ3:22、ルカ11:15=共通の出来事)。
これは当時、昔から伝えられところによると「エクロンの神、バアル・ゼブブ(蠅の神)」である。これは本来は「バアル・ゼブル」(君主)が
原型である。嘲笑的に、また忌避すべきものとしてこのように表現されたのであろうか?
2
【列王記下1章参照して頂きたい】
イスラエルの王、アハズヤは病気になったが、彼は使者を遣わして
「エクロンの神、バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか、尋ねよ」と2回も、3回も尋ねさせたのである。
その結果預言者エリヤは、「それはイスラエルには、その言葉を求める神はいないとでも言うのか。」と語って、アハズヤに死を宣告するのである。
ここで用いられている名が、バアル・ゼブブ(蠅の神)である。
蠅とは興味深い言葉である。日本では、蠅は病気を伝染させるもので
不潔な虫として敬遠される。「蠅侍」とは意地汚い侍のことであり、
また、「胡麻の蠅」といういやな言葉も残っている。
(※高野山の聖人の格好をして、旅人から金品をかすめ取るもの)
当時の宗教的指導者、律法学者たちは、主イエスを批判、嘲笑して、
「エクロン(異邦)の神、蠅の神、悪霊の頭」と呼んだのである。
これに対して、主イエスは言われた(3:23~26)
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その 国は成り立たない。家が内輪で争えばその家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」と。
4 この日課から学ぶべきこと
(その一)家族(家庭)と信仰について
(1)この日課に続く箇所に記されている。(マルコ3:31~35)
特に「イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
神の御心にそうか、どうか、御心を行うかどうか、によるのである!
(2)ヨシュアの言葉(ヨシュア24:15)
「あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
3
家の信仰、同時に「信仰の継承」の必要がある!
(その二)霊の理解について(マルコ1:9~11)
(1)主イエスは洗礼を受けた。その時、神の霊が鳩のように
主イエスの上に降った。そして声が聞こえた。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。
私たちも洗礼によって、この恵みに与っている。
(2)言い換えれば、聖霊の証印をいただいている。
(Ⅱコリント1:22参照)
「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたち
の心に“霊”を与えてくださいました。
<イエスにおいて然りとなった、と使徒パウロは言う>
(その三)
◎今日の旧約聖書の日課が教えている。
初めの人、アダムとエバは、神のみ心に背き、罪を犯した。
それにも拘わらず、主なる神は人を、探し続けた。
「あなたはどこにいるか?」と。
そして救いを約束された(創世記3:15)=原福音
神は創造の始めから、救い、希望を約束されている!
◎私たちの生活は決して、生ぬるくはない!厳しいものがある。
戦い、苦難、試練そして病がある。
教会讃美歌408
「あてもなくさ迷い 行き悩む時がある・・・」しかし
私たちは「守りませ わが主よ」と祈る!
私たちは恵みの力、聖霊によって導かれている!
4
第19回 コリントの信徒への手紙 2018年7月1日
5章9〜13節「信仰生活の仕方」
今回の聖書では前回に続いて、コリントの教会の中での問題であります。教会の中で、キリスト者は、どういう生活をしていくか、ということです。
普通の教会生活は、みんなが親しく、交わりを持ってお互いが助け合ったり、励まし合ったりします。
何よりも、みんなで、いっしょに神に礼拝する事でしょう。そして、教会は、きよい生活をするところでしょう。しかし、実際の生活は、どうでしょうか。自分たちの教会の事だけでなく、他の教会の様子等も考えてみると、そんなに美しいものでは、ないかも知れません。
教会の中にだって、争いがあったり、困った事をしてくれる人も、あるにちがいありません。
きょう、私たちが読んでいるコリントの教会は大変な教会であります。この教会に問題があった事は、すでに読んできました。5章の始めのところで「あなた方の間にみだらな行いがあり、しかも、それは異邦人の間にも、ない程のみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」
パウロは、具体的に書いています。教会の中に、そのような不品行と堕落がある、ということ自体、許せない事と、パウロはかなり怒っています。
とことが、9節以下に書いているのは、それどころの話では、ないのです。9節には、「わたしは以前、手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きました。」とあります。
今、読んでいるコリント人への第1の手紙の「前の手紙というと、それがどこにあるか分かりません。そのことは大したことではありません。
大事なことは、ここに不品行な者と交際してはいけない、と注意したはずである、ということであります。
不品行な者が教会の中にいた事は前に見た通りですが、ところが、ここには不品行な者の他に、貪欲な者、略奪する者、偶像礼拝擦する者、等がいたことが書いてあります。
こういう事は、今日の教会では想像もつかないことであります。しかし、ここでは、そういう者たちがいる、そういう人々と交わってはいけない、ということです。
教会以外の不品行な者と交際してはいけない、というのであれば、私たちはこの世から出ていかなければ、ならないことになるだろう、というのであります。
しかし、ここに書いてあるのは、教会の中の話であります。11節を見ますと、そこには、「人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者等」とも交際してはならない、というのであります。
他のことは、ともかく、人をそしる者、酒に酔う者ということになると、今日の教会の中にもいますね。そればかりか、それらを、もう少し広く考えれば、嘘をつく者、お行儀の悪い者、というように、厳密に言えば、話はもっと広がっていくかも知れません。
しかし、ここに書いていることは、できるだけ厳しく話しを進めていく、というのではなく、教会の交わり、というものが、ただ、親しかったら、いいと言うものではない、はっきりしたけじめをつけなければならない、という事ではないかということでしょう。
教会は甘い、やさしい生活をする、ところではなくて、きびしく、神のお喜びになるような生活を励まなければならないのであります。
パウロが、望んでいることから見れば、多くの教会が、今日も、何か、大切なものを忘れているのではないか、といっているのです。
それなら、どんな教会生活をしたらいいのでしょうか。
ここには、このような人とは、交際もしては、いけない、し、一緒に食事もしてはいけない、と書いてあります。そして、 最後には、13章に、「その悪人たちを、あなた方の中から除いてしまいなさい、」とさえ書いています。
誰が読んで も、あたりまえの事で、教会は何より聖い生活を心がけなければならない、ということであります。
普通には教会と言えば、聖なる団体である、と、考えられるに、ちがいありません。
しかし、人をそしる者、というようなことまで記されている、としたら、私たちは、どうしたらいいものか。人の悪口を言う者等も、その中に入る、とすれば「自分は大丈夫だ」と言える人が、どれだけいることか。それでなくても、私たちは、自分が聖い者だから、教会に入れられている、等とは考えていない、はずです。
信仰に入る者は、みな、自分が罪人であることを知っているのであります。それを告白して、救いを信じるようになったのではないでしょうか。そうであれば、私たちはどうして、人を咎めることができるでありましょうか。
人を責めるどころが、自分の方が問題であるのに、と、いうことになります。ただ、そのような罪人であるにも、かかわらず、キリストの救いを受けているからこそ、こうして、教会生活をしているのであります。
私たちはキリストの救いによって許されたのであります。しかし、それだからこそ、一層、聖い生活が望まれるのであります。
人間が、キリストによって、救われたのは、神のお喜びになる、聖い人間となるためであります。
罪を救われた者がまことに、神がお望みになるような、生活をする、ことであります。
教会は道徳的に立派な生活をすることを第1の目的としておりません。
教会は自分たちの罪を知っている者が、ただキリストの救いによって、救われた者たちが、神のために、生きよう、としているのです。
従って、そこには、お互いに対する救しもあるはずであります。他の人の事をだけ、責める事はできるはずではありません。しかも、そういうキリストの救しを、受けた者の集まりでありますからこそ、「きよさ」を求め、「きびしさ」を望むはずであります。それならば、ここに記されているような、コリントの教会の状況は、もう救いを忘れたことでありますから、許す事ができないのであります。
人間だからそれくらいの失敗もあることでいいのではないか、とは、言えないのであります。
人の道に、はずれているから、いけないと言うのでもなくて、救いを受けた者の中、にそういう事は全く許すことができない、ということです。
それなら、私たちの生活には、「教会」という何かはっきりした枠といったものがあるのでしょうか。
信仰生活は世を救うためにある、とよく言われます。教会はキリストの救いを伝道していく働きをしていきます。
もし、信仰ということで、人間生活をよくしよう、という方に重点がおかれていくなら、教会の生活は余り意味がないことになるでしょう。
教会でなくても、この世界が少しでもよくなれば、それでいいのではないかと思う人々は多くいます。教会をつくる事より、世の中を良くしよう、と、政治の面から、或は経済の面から努力していこうと目指す人も多くいます。
ここでパウロが言っている事は、まず、しなければならない事は、教会の中をよくする事であると言っています。
キリストによる救いは、この世界を救うことではあります。そのため、この世で働き、努力することは、信仰者が無関心でいて、いいことではありません。そういう点から考えれば、信仰者にとって、教会生活というのは、まことに、特殊な生活の仕方であります。特に日本のような神道や仏教のような宗教が根強くある中では、なかなか困難な道でありましょう。だからこそ、今の時代にあって私たちの教会の働き、教会の存在こそ、大切なことになりましょう。
神の救いが伝えられていくために、イスラエルという民が選ばれたように、今日、教会の働きは、新しいイスラエルとして、生きていくことを神は望んでおられるのです。
神は私たち信仰者を大切に用いて、いこうと計画されているのであります。 アーメンハレルヤ!
申命記5:12~15、Ⅱコリント4:7~18、マルコ2:23~28
説教 「束縛からの解放―平安な生活―」
序 私たちが日常の生活で、求めている最も大切なものは何か?
最初に聖地イスラエルを訪ねたのはもう50年近くも前のことである。
留学の帰り道、幸運にも訪ねることが出来た。しかしその直前、
日本赤軍派の岡本公三がイスラエルのテルアビブ空港で無差別な乱射事件
を起こした直後のことであった。不安な状況のなかでエルサレムに着いた。
バスターミナルを出て、行く先のホテルの名前を告げると、一人の男性は
親切にも丁寧に教えてくれた。すると別れ際に一緒にいた男の子が私たち
に笑顔で「シャローム」(主の平和)と挨拶してくれた。
その出会いは、まさに私たちに対する祝福であった。
1 今日の福音書は、いわゆる「安息日論争」である。
つまり、「ある安息日(土曜日)に、主イエスの一行が麦畑を通って行くと
弟子たちは、麦の穂を摘み始めた。するとそれを見ていたファリサイ派の
人々が、イエスに『御覧なさい。なぜ彼ら(あなたの弟子たち)は安息日にしてはならないことをするのか?』と言った」のである。
それに対して主イエスは、ダビデの出来事(サムエル上22:2~7)を通して答えられた。
「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と。続けて言われた、
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある。」と。
<一言でいうと、「律法の束縛からの解放
である!>
2 ここで私たちは、「安息日」について、今一度学んでみよう!
◎安息日が定められた経緯が旧約の日課(申命記5章から、同時に
出エジプト20章も同様である)に記されている。
安息日は創世記(2章の始め)によれば、「 天地万物は完成された。
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に神は御自分
の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。」と記されている。
まず、「神の安息の日」である。つまり“創造の結末が安息”なので
ある。そしてこの第7日目、安息の日を、主なる神は、祝福し、聖別されたのである。創造の目的が安息である。
安息とは「神の平安」(シャローム)と同義語である。
人間の創造は、神ご自身の本質“シャローム”に与ることである。
ここに創造また、人間存在の究極的な意義と目的があると思う。
ところがファリサイ派の人々や律法学者は、不従順であったために
この安息に与ることができなかった(ヘブライ4章5節以下)参照。
それゆえ、「今日あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなに
してはならない」(ヘブライ4章7節)のである。
3 このような理解から、安息日論争から福音的意味を学んで行きたい。
<今でも旧約聖書(律法)に従って生きるユダヤ教徒は、ここに記されて
いるような教えを守って、安息日を過ごしているよいうである>
つまり「敬虔なユダヤ人は、旅行はもちろん、車に乗らず、料理は作らず、電気器具は使用せず(またはスイッチをさわらず)、お金は使わず、ペンも持たず、この1日を他の週日と区別する。
さて、安息日に禁じられた仕事のことを“メラハー”と言うが、その仕事(メラハー)が何かについて、聖書の中には、具体的にはわずかな例しか挙げられていない。耕すこと、刈り入れ、あるいは火を焚くことである。
これらのことから、推測するにファリサイ派の人々、律法学者たちは、
「弟子たちはこの刈り入れの掟を破った」と理解したに違いない。)
(タルムードは、39種類の仕事を禁止されたものとして挙げている。)
<私たち「安息日の出来事」から学ぶべきこと>
第一のことは、主なる神が、そして主イエス・キリストがお与えくださるのは「終末的、究極的な安息(平安・シャローム)」である。
何時の時代も、どこの社会も人間の生きている世界は絶えず不安、
混乱また争いで渦巻いている。
私たちの時代も例外ではない。不安と混乱はますます増大している。
預言者イザヤは語っている。(28:12~13)
「主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。
それゆえ、主の言葉は、彼らにとってこうなる。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ(命令に命令、命令に命令)、カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ(規則に規則、規則に規則)しばらくはここ、
しばらくはあそこ。」彼らは歩むとき、つまずいて倒れ,
打ち砕かれ、罠にかかって、捕らえられる。」と。
この主なる神さまがお与えになろうとした「安息」、これを神の民
イスラエルは理解しなかった、いやむしろ侮った。
確かに祭司や律法学者は叫んだ、「これは主の命令だ、命令だと、
また、主の規則(律法)を守れ、規則(律法)を守れと!」
しかし、空しかった!
神の民はつまずいて倒れ、打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられた。
私たちはヘブライ人への手紙から学ぶことが出来るように:
真の安息に与るために「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ4:7)のである。
◎私はホスピスで、多くの方々に「神さまの平安がありますように!
とお祈りしている。
神のお与えくださる安息、平安(シャローム)こそ、私たちにとっ
て究極的に必要なものだからである!
(2)第二のことは、単に週一回の安息日(クリスチャンにとっては毎週の日曜日)のみならず、毎日が、安息の日々であり、罪の奴隷として働くのではなく、罪の赦しが与えられ、平安が与えられて主なる神への礼拝と、隣人に対する奉仕に生きることの大切さを学ぶ のである。
< Mルターは小教理問答書の第3の戒めで語る。 >
「安息日を覚えて、これを聖とせよ」
これはどんな意味ですか?
「私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。それで私たちは、神の
言葉や説教を軽んじないで、むしろこれを聖いものとして、喜んで
聞き、また学ばなければなりません」と。
これは毎週の日曜日のことだけではありません。毎日のことです。
私たちは、様々な不安と恐れのなかで生きているのも事実である。
それゆえに私たちは、各家庭で、家族で、夫婦で、また一人であっても、このような礼拝や祈りの時をもち、安息、平安をいただくのです。
また、大教理問答書においてもルターは
「日々、神の言葉と交わり、絶えずこれを心に宿し、また口に帯びる
必要があります」と記しています。
第三のことは、「人の子は安息日の主でもある」という主ご自身の言葉である。
つまり、第一のこと「私たちにとって究極的に与えられるもの安息、平安」(シャローム)、そして第二のこと「日々に、この安息、平安が
与えられること」、これが主イエス・キリストの福音である。
これが主イエス・キリストによって成就、実現していることが、今ここに教えられているのである
◎この主イエスの福音の教えを受け入れ、これによって生きるきることが、
キリストを信じる信仰生活ということができるであろう。
主にある安息、平安な生活こそ、まさに感謝の生活である。
<疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませて
あげよう!(マタイ11章28節)>
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所のイエス様の教えは少しわかりにくいと思います。まず、断食についての教えがあります。ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちは断食をするのに、なぜイエス様の弟子たちはしないのか、とイエス様が問われました。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと言ってもよい人たちです。イエス様の答えは、花婿が一緒にいる時に婚礼の客たちは断食などできない、というものでした。つまり、イエス様が花婿、イエス様の弟子たちが婚礼の客ということで、それで断食する必要はない、というのです。これは一体、どういう意味でしょうか?
イエス様は続けて、花婿がいなくなってしまう日が来て、その時に婚礼の客たちは断食することになる、とも言われます。つまり、イエス様がいなくなって弟子たちが断食することになる、ということです。新共同訳では「花婿が奪い取られる」となっていて、イエス様が「奪い取られる」ということですが、ギリシャ語原文の動詞(απαιρω)はそんな略奪のような強い意味で訳する必要はなく、イエス様が私たちのもとから「取り去られてしまう」程度でよいと思います(英語のNIV訳もドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳もそうです)。そういうわけで、この箇所は、イエス様が天に上げられて弟子たちのもとを離れていくことを意味します。そうなると、イエス様が天の父なるみ神のもとにいる時が断食する時ということになります。それでは、私たちも断食をしなければならないのでしょうか?このことも後ほど考えてみます。
次にイエス様は、古い服に継ぎあてするのに織りたての新しい布を使う人はいない、そんなことをしたら新しい布切れが古い服を引き裂いてしまう、と教えます。これはもっともなことです。織りたての布はまだ洗濯して乾かしていないので縮んでいません。古い服は何度も洗濯して乾かしているので既に縮んでいるし、生地も使い古されて弱くなっています。そんな服に新しい布切れを継ぎあてにして縫い付けて洗濯して乾かしたら、どうなるでしょうか?新しい布はギュッと縮んで、古い弱くなった周りの布を引っ張って、ひどい時は引き裂いてしまいます。古い服には古い布の継ぎあてを、新しい服には新しい布の継ぎあてを、などとイエス様は何か暮らしに役立つ情報を提供しているのでしょうか?
これに続く、新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけないという教えも同じように聞こえます。熟成した古いぶどう酒と違い、新しいぶどう酒は酸味が強いです。古い革袋というのは、弾力性もなくなって硬直していたり擦り切れたりしています。そこに酸味の強い液体を流し込んだら、すぐ裂け目ができてぶどう酒は漏れ出してしまうでしょう。これも暮らしに役立つ情報です。
ところが、これらの箇所をよく目を凝らして読んでみると、イエス様の意図は暮らしに役立つ情報提供ではないことがわかります。イエス様は言われます。新しい布で古い服に継ぎあてする人など誰もいない、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人など誰もいない、と。つまり、こんなことは誰でも知っている当たり前の話である、と言っているのです。それでは、イエス様はなぜ誰でも知っていることをわざわざ話したのでしょうか?それは、こうした日常生活の当たり前のことを話しながら、それを何かにたとえているのです。そのたとえられたことは、生活の当たり前のことと同じくらいに当然のことなのだと言おうとしているのです。それでは、イエス様は何のたとえを話されているのでしょうか?以下、断食の話とあわせてこれらのことも見ていきたいと思います。
最初に断食についてのイエス様の教えを見てみましょう。断食と言うのは、多くの宗教に見られる行為です。ある決められた期間とか、何か特別なことが起きた時に食べ物を摂らない、ないしは食べ物飲み物双方を摂らないということをします。断食と聞いて私たちがよく耳にするのは、イスラム教でラマダーンと呼ばれる月に日の出から日没までの間毎日行われる断食があります。断食の目的はそれぞれの宗教により様々と思われますが、おおざっぱに言えば、食べる飲むという人間の基本的な欲求を制限することを通して、それぞれの宗教が崇拝しているものと近づきになろうとすることがあるのではと思います。
ユダヤ教の伝統の中では、断食のなかで大きなものとして旧約聖書レビ記16章に定められている、毎年秋の第七月の十日の贖罪日、つまりイスラエルの民全体の罪を贖う儀式の日が断食の日と定められていました。これとは別に、ダビデ王がサウル王とヨナタンの戦死を聞いて悲しんで断食したということがあります。深い悲しみの心を神に捧げる意味合いで断食することがあったと思われます(サムエル記下1章12節、サムエル記上31章13節も)。
時代が下ってイエス様の時代のユダヤ教社会では前述の贖罪日の他に、宗教エリートのファリサイ派が週二回断食していたことが知られています(ルカ18章12節)。洗礼者ヨハネの弟子たちも本日の福音書の箇所から、断食をしていたことが窺われます。イエス様自身は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で悪魔から試練を受けた時に40日断食をしました。しかし、彼自身は特に弟子たちに断食を命じることはありませんでした。その理由が、先ほど見ました花婿と婚礼の客たちのたとえでした。このたとえについて見てみましょう。
イエス様を花婿とする婚礼とは何か?これは黙示録19章や21章に記されていますが、将来今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日、それはまたイエス様が再臨されて神の国が目に見える形で現れる日ですが、その神の国での祝宴を指します。その日、死者の復活が起こり、創造主である神に選ばれた者たちがこの祝宴に招かれて、神から全ての涙を拭われて(黙示録21章4節)、前世に失ったものを百倍にして返されるなど(マタイ19章29節)大いなる労いと報いを受けます。この祝宴に招かれた者たちがひとくくりになってイエス様の「花嫁」と呼ばれます。普通、結婚式では花婿と花嫁が主役ですが、この祝宴に迎えられた者全員が主役ということになります。このような神の国での救い主と救われた者たちの結婚は、先ほど読んで頂いた本日の旧約聖書の日課ホセア書2章21~22節にも預言されています。新共同訳では、神が「あなたと契りを結ぶ」などと一昔前の歌謡曲か演歌みたいな訳ですが、ヘブライ語原文の動詞ארשの意味は文字通り「婚約する」、「結婚の約束をする」です。
神の国の「結婚式」の祝宴につく者たちは皆、天地創造の神のもとに永遠にいることが出来るようになった者たちです。わざわざ断食などして神とお近づきになる必要などありません。祝宴に招かれたのに、断食しますと言うのは招待を断るようなものです。それでは、イエス様が地上におられた時、断食など必要ないと言ったのなら、そのような祝宴が催される神の国が来ていることを意味します。でも、神の国というのは今ある天と地が新しい天と地に取って替わる時に到来するというのが聖書の立場です。イエス様の時代の天と地は今の私たちの天と地と同じように、かつて天地創造の時に造られたもののままです。イエス様は少しせっかちだったのでしょうか?
実はイエス様が地上で活動していた時、神の国は将来のように見える形ではないが、イエス様にくっつくようにして一緒だったのです。どういうことかと言うと、将来現れる神の国は、黙示録にも記されているように、嘆きも苦しみもなく死さえないところです。また、前世の労苦が全て労われ、前世に被った不正義が最終的に清算され、神の愛と恵みと正義が完全に実現されるところです(黙示録19章5-9節、21章1-4節、マタイ25章31-46節、ルカ16章19-31節、ダニエル12章1-3節、本日の旧約の日課ホセア書2章21-22節も)。そこで、イエス様が地上で活動していた時、数多くの奇跡の業を成し遂げられたことを思い出しましょう。病気の人に治れと命じると病気はなくなり、悪霊に出て来けと命じると言われるままに出て行きました。また嵐に静まれと命じれば静まり、何千人もの人たちの空腹を僅かな食糧で満たしたりしました。
イエス様のこうした奇跡の業は、まさに将来現れる神の国がどういうところであるかを人々に体験させることでした。奇跡の業を受けた人たちは、嘆きや苦しみや死もない神の国を垣間見たというか、味わうことができたのです。このようにイエス様が弟子たちと共に行動し、群衆に教え、奇跡の業を行ったというのは、将来現れる神の国への迎え入れの予行演習のようなものだったのです。将来断食など不要になる大いなる祝宴の日が来る、今自分が地上にいるのはその前触れなのだ、ということなのです。本日の福音書の箇所の前を見ると、イエス様が大勢の罪びとたちを招いて一緒に食事をしたことが宗教エリートたちのひんしゅくを買ったという出来事があります。イエス様はこれらの罪びとたちに「付き従いなさい」と命じ、彼らは言われるままに付き従ったのでした(マルコ2章14節、15節)。そこでイエス様は自分のことを医者である、と言われますが(17節)、彼らは心の病を癒してもらい、これからは天地創造の神の意思に沿うように生きようと立ち返った人たちだったのです。そういうわけで、この食事会も将来の神の国での祝宴の予行演習のようなものだったのです。
ところで、イエス様は昇天日に天に上げられ、再臨の日までは天の父なるみ神の右に座しています。イエス様が地上におられないこの期間は断食することになるとイエス様は言われるのですが、なにがなんでもしなければならないということではないことに注意しなければなりません。マタイ6章11節でイエス様は、断食する場合、自分はどれだけ苦行を積んでいるかを周りの人に知られるためにやってはいけない、自分がどれだけ信心深いかを他人に見てもらうために行ってはならない、と教えています。同じようなことは既に旧約聖書の中にも言われています。イザヤ書58章やエレミア書14章で神は、いくら断食や祈りをしても、する者たちが神の意思に背くような生き方をしていれば、そうした苦行は何の意味も持たない、と言われます。つまり、断食というのは神の意思に沿うような生き方をしている者が行わなければ意味がない、ということです。断食することが神の意思に沿って生きていることの証しであるというのはダメなのです。断食する以前に既に神の意思に沿うように生きるようになっていないとダメなのです。そうなると、神の意思に沿う生き方とはどんな生き方かを見なければなりません。それを知る鍵が、イエス様の新しい布きれと新しいぶどう酒のたとえの中にあります。
先ほど申しましたように、イエス様の教えは暮らしの知恵ではなく、何かをたとえる教えです。何のたとえなのでしょうか?教えのポイントは、最後の節22節の「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言うところにあります。どういうことかと言うと、古い服や古い革袋を引き裂く力を持つ新しい布きれとか新しいぶどう酒というのは、イエス様自身のことを指します。引き裂かれてしまう古い服や古い革袋とは、イエス様を継ぎあてられたり、注がれたりして耐えられない状態にある人間を指します。つまり、イエス様は私たちに、新しいぶどう酒である彼を入れてもずたずたにならない新しい革袋たれ、新しい継ぎあてをあてられても破れない新しい服たれ、と勧めているのです。イエス様を内に入れられないままだと、古い革袋は古い革袋のままで、ただ硬直した、やがて擦り切れて使い物にならなくなってしまうものでしかない。しかし、そのままの状態で新しいぶどう酒を入れたら耐えられるような代物でもない。新しい革袋に変身しなければ、イエス様をしっかり内に留めて置くことはできない。どうしたら古い革袋がそのような革袋になることできるのでしょうか?断食のような苦行を積んだり、掟や戒律を守ったりすることで自分をそのように一新することができるでしょうか?苦行や掟や戒律というものは、言わば古い状態での完璧さを追求するもので、行えば行うほど、古い状態に満足して新しいものを一層受けつけなくなってしまうのではないでしょうか?
創造主の神とそのひとり子イエス様が成し遂げたことは、まさに古い服だった私たちがイエス様という新しい継ぎあてを縫い付けられても大丈夫な新しい服に変えるものでした。また古い革袋だった私たちがイエス様という新しいぶどう酒を注がれても大丈夫な新しい革袋に変えるものでした。そのような変化はどのようにして起きたのでしょうか?それは、ゴルゴタの十字架の上で起きました。人間を造られた神聖な神と人間の間を引き裂いてしまった原因に罪の問題があります。神は自らこの問題を解決して人間との結びつきを回復させようとして、ひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせて十字架の上まで運ばせて、そこで罪の罰を受けさせました。イエス様は神の前であたかも自分が全ての罪の責任者であるかのように振る舞わなければならなかったのです。神聖な神のひとり子ですから、本当はそうする必要はなかったのに。しかし、人間には背負いきれないので、その役を買って出たのです。イエス様は、真に犠牲の生け贄になられました。そこで私たち人間が、これら全てのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しが効力を持ち始めます。なぜなら、この罪の赦しは神がイエス様の犠牲に免じて与えるものだからです。まさに神から罪を赦してもらったので、人間は神との結びつきを回復できます。
今、「イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると」と申しました。洗礼を持ち出すと、イエス様を救い主と信じるだけでは足りないのか、と驚かれるかもしれません。聖書の観点では、人間がイエス様を自分の救い主と信じることができるのは、神の霊である聖霊の力が働いたことによります。聖霊の力が働かないと、イエス様のことは知識として知っている単なる歴史上の人物にとどまります。今を生きる自分とは直接に関係のない過去の人物です。これが、私の罪をゴルゴタの十字架の上で神に対して償って下さった方、私が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにして下さり、私がこの世を去った後は神の御許に永遠にいられるようにして下さった方、そのようにイエス様のことがわかるというのはもう歴史上の人物としての知識を超えています。今を生きる自分と直接かつ重大に関わる人物です。こういうふうになるのは、聖霊が働いたからです。
イエス様のことを救い主とわかって信じるようになるのは聖霊が力を働かせたからですが、洗礼を受けると、完全に聖霊の影響の下に置かれることになります。受けないと、せっかく聖霊の力が働いて一瞬イエス様を救い主とわかっても、次の瞬間にはイエス様から遠ざかることが起きてきます。まだ完全に聖霊の影響の下にいないからです。このように洗礼を受けた者は完全に聖霊の影響の下に置かれるので、それ以後は自分の立ち位置をしっかり自覚さえしていれば、洗礼を受ける前に見られたブレはなくなります。洗礼を受けたのが言葉を発しない赤ちゃんでも、両親が家庭の中で信仰生活を保てば子供も自然にイエス様を救い主と信じて育ちます。聖霊の影響の下で生きることを親から受け継ぐのです。
他方で、イエス様を救い主と信じる信仰に至って洗礼を受けた人でもその後の人生の中でイエス様を忘れさせる力に何度も直面します。それだけに、洗礼を受けた人はいつも聖霊の影響の下にあることを思い出してそれを自覚して生きることは大事です。創造主の神は、ひとり子をこの世に送られたことからもわかるように、とにかく人間との結びつきを回復させることを願っている方です。まさにそのために神は、人生に起こるいろいろな出来事を通しても、人がイエス様と出会えるように導こうとされます。出来るだけ多くの方がそのような神の導きに気づくよう願ってやみません。
以上から、人間はどうすればイエス様という新しい布きれを継ぎあてられても大丈夫な新しい服となり、イエス様という新しいぶどう酒を注がれるにふさわしい新しい革袋になれるかが明らかになりました。イエス様を救い主と信じる「信仰」と聖霊の影響の下で生きられるようにする「洗礼」の二つです。この二つによって人間は新しくされるのです。信仰と洗礼が人間を新しくするということについて、使徒パウロもガラテア3章26一27節で次のように述べています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。第二コリント5章17節のパウロの言葉も同じことを意味しています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた」。
新しく創造された人は、神の愛の何たるやを知っています。それは、ひとり子を犠牲に供することも厭わない位にこの私を大事に見て下さるという愛です。その愛を知った者は、これからは神の意思に沿うように生きようと志向します。この志向は断食をすることでは生まれません。神の愛を知ることで生まれるのです。そこで、「沿うように志向する」という、その神の意思とは何かと言うと、それをイエス様がわかりやすく短く要約しています。「神を全身全霊で愛する」ことと、その愛に立って「隣人を自分を愛するが如く愛する」ことの二つです。それでは大ざっぱすぎて具体性に欠けると言う人がいれば、聖書を一生懸命繙くことをお勧めします。神を愛することと隣人を愛することの具体例を沢山見出すことができます。
本日の使徒書の日課である第二コリント3章の6節で、「文字は殺すが、霊は生かす」と言っていました。「殺す文字」とは律法を指します。「生かす霊」とは聖霊です。ここでパウロは、自分がお仕えしているのは、聖霊に基づく新しい契約であって、律法に基づく旧約的な契約ではない、と言っています。先ほど、聖書から具体例を見つけながら神の意思に沿うように生きる、と申しました。それでは律法を遵守することになって新しい契約の生き方と相いれないのではないかと疑う向きもあるかもしれません。ここで注意しなければならないのは、私が「神の意思に沿うように生きようと志向する」と言うのは、イエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されて神との結びつきを回復した人がそのように志向するということです。パウロが「律法は殺す」と言っているのはこれとは逆で、人間が律法を守ることで神との結びつきを回復しようとするのです。つまり、イエス様を抜きにして自分の力でそうしようとするのです。これは無謀なことです。というのは、律法というのはつまるところ、パウロも言うように、人間が本質的に神の意思に反する存在であることを明らかにする鏡だからです。従って、律法は追求すればするほど、人間を罪の赦しから遠ざけてしまうのです。罪の赦しがなければ裁きと罰しかなくなり、律法はまさに殺すものです。
キリスト信仰の場合は、聖霊の影響を受けてイエス様を救い主と信じており、その信仰のゆえに神から義と認められて、罪の赦しを受けます。本当はまだ内面に罪を宿しているにもかかわらず、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、イエスを救い主と信じる信仰のゆえにお前には罪の罰を下さない、と言って下さるのです。イエス様のおかげで、神聖な神の前に出されても大丈夫でいられる、あたかも罪のない人間にされてしまったのです。ここまで来たらもう、神にそう見なされる新しい自分を本当の自分と認めて、それに合わせていくしかありません。それに相いれない、神の意思に反しようとする古い自分は、これはもう本当の自分ではないと認めて捨てて行くしかありません。これはこの世の人生を通して続くプロセスです。それが始まると、それからは人生の中で出会うこと、出会う人の全てはこのプロセスを前に進めるために必要なものになります。いろいろ大変なこともあります。しかし、復活の日、全てのプロセスは完結し、目指していた本当の自分が全てになります。
そうは言っても、目に見えるものを目指すのではないので、雲を掴むような話に聞こえてしまうかも知れません。しかし、それだからこそ、兄弟姉妹の皆さん、パウロの次の言葉は神が彼を通して言わしめた真理として胸に刻みつけるのに値する御言葉です。
「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。私たちの一時の艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」(第二コリント4章16-18節)。
兄弟姉妹の皆さん、この御言葉を胸に刻みつけて、日々を歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
1.
本日の旧約の日課はイザヤ書からです。イザヤ書は全部で66章ある長い書物です。その中の40章から55章まではひとまとまりになっていて、内容的には紀元前6世紀初めにバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が解放されて祖国に帰還できると預言していることが主題のように見えます。実際、この預言は歴史上は紀元前538年に実現しました。バビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の新しい覇者となったペルシャ帝国のキュロス王がユダヤ人の祖国帰還を認める勅令を出し、帰還した民はエルサレムの町と神殿の再建を始めます。そもそも天地創造の神に選ばれた筈のイスラエルの民がどうして国滅びて捕囚の憂き目にあったかというと、それは民が神の意思に反する生き方を続け、民に送られた預言者たちの警鐘にも耳を傾けず、国の指導層から民衆までこぞって罪を犯し続けたことが原因でした。そこで天地創造の神は、大帝国バビロンをもってイスラエルの民に対して罰を下す道具とし、民の王国を滅ぼさせたのです。バビロン捕囚は、まさに民に対する神の神罰でした。
その後、神はイスラエルの民が異国の地で辛酸を舐めることで罪の償いを果たしたと見なし解放を約束します。民は反逆の民だったが、もともとは神がご自分の民として諸民族の中から選んだという愛すべき民であった。それで、お前たちを見捨てることはしないという約束は必ず果たすと言われるのです。その時、バビロン捕囚はそれまでの神罰に代わって罪滅ぼし、贖罪の意味を持つようになります。そのような神の約束の預言がイザヤ書40章から出て来ます。その預言は、今度は神がペルシャ帝国をもってバビロン帝国に対して罰を下す道具とし、これを滅ぼさせます。そして先ほども申し上げたキュロス王の勅令が出てイスラエルの民の祖国帰還が実現し、預言は実現します。
このように旧約聖書には、神がイスラエルの民をどう取り扱うかということが軸になって、それに応じて諸国が動く、動かされる、という歴史観が見られます。普通ですと、国が興ったり衰退したりするのを説明する時、そんな軸はなく、その国の政治や経済や人口動態、さらに周辺諸国との関係や自然条件等を調べるでしょう。それが旧約聖書では、天地創造の神がイスラエルの民に何を求め、それに民はどう応じ、それに神はどう報いたかということが、周辺諸国の動静や興亡の要因になるという観点です。そこから、歴史や世界を見る時、創造主の神と自分の関係はどうなっているか、ちゃんとしているか、それとも何か問題があるか、そういう自省が結びついた見方が生まれるのではないと思われます。そういう自省が結びついた歴史や世界の見方を持つと、歴史や世界はどう見えるか?そこでどう生きるかということが明らかになるか?そういうことはまた別の機会に考えてみたく思います。神など持ち出して歴史や世界を見るなどとはいかがわしいことだ、原理主義や宗教紛争のもとになるなどと疑いの目で見られるかもしれません。しかしながら、聖書の立場に立てば人間はどうあがいても創造主の神と並び立つことはできず、歴史や世界を見る時は先ほど申し上げた自省に立っています。こんなに自分をへりくだらせる見方は他にあるでしょうか?
少し話が脇道にそれましたが、本日の旧約の日課はイザヤ書44章21節と22節でした。21節で天地創造の神は「ヤコブよ、イスラエルよ、思い起こせ、私がお前を私の僕に造り上げた」と言っています。これが意味することは、イスラエルの民がバビロン捕囚という贖罪の業を行ったことにより、神は民を新たに造り上げた、かつての反逆の民は新たに神の僕に造り上げられた、ということです。22節で神は「民の罪や背きを雲や霧を吹きはらうように吹き払った、そのように民を贖った、だから神のもとに立ち帰れ」と言います。新たに神の僕に造られた民から罪や背きが吹き払われ、そういう一新されたものとして祖国帰還を果たすことになるという預言です。
ところが、いざ祖国帰還を果たし、廃墟となっていた町と神殿の再建を果たしても、民の状態は罪・背きを吹き払ってもらった状態からは程遠く、見かけは神殿礼拝を守っていますが、現実は神の意思に背く生き方をしていることが明らかになってきます。そうした祖国帰還後の現実と理想のギャップの問題はイザヤ書の最後の部分56~66章に表面化します。そうなると、40~55章までの素晴らしい預言は実は祖国帰還で完結するものではなく、本当の実現はまだだったという理解がされるようになります。罪や背きが完全に吹き払われる日はもっと後に来るということです。イザヤ書53章に有名な「主の僕」についての預言があります。「主の僕」が他人のために犠牲になって他人の罪を代わりに背負って神の罰を受けるという内容です。この「主の僕」は、バビロン捕囚の文脈に即して理解しようとした時、捕囚で苦しみを受ける民全体を指すと考えられました。ところが祖国帰還の後、「主の僕」は人間の罪を身代わりになって背負って苦しむ一個人を意味するようになります。さらにそれがメシア救い主の役割と理解されるようになります。それはイエス様の十字架によって実現しました。
このように、旧約聖書というのは一見すると、現代の私たちから見て過去の歴史の中で既に実現してしまったものを指しているように見えながらも、実は本当の意味での実現はまだ先のことだった、というものも沢山あります。「先のこと」というのは、時代下ってイエス様や使徒たちの時代に実現したこともあれば、さらに現代を生きる私たちに実現することもあるのです。
2.
旧約聖書の預言が現代を生きる私たちにも実現することの一例として、本日の旧約の日課を見ることが出来ます。イザヤ書44章22節が重要です。直訳すると、「私はお前の反抗をかすみのように、お前の罪を雲のように一掃した、私のもとに立ち帰れ、なぜなら私はお前を買い戻したからだ」となります。人間の罪すなわち神の意思に反する行い、考え、言葉、心の有り様、それらを皆、神がかすみや雲のように一掃した、と言うのですが、それは一体どういうことでしょうか?少し考えてみましょう。
空にある雲をいろいろ思い浮かべて下さい。空全体をどんよりと覆っている雲とか激しく巨大に出来上がる積乱雲とか青空に浮かぶ羊の群れのような雲、そうした雲を私たちは一掃できるでしょうか?ここにいる皆さん一緒に今、外に出て、空の雲に向かって一斉にふーっと息を吹きかけても雲は消えません。また、何百機のヘリコプターをチャーターして、雲のそばまで行ってふーっとやっても消えないでしょう。もやや霞も同様です。梅雨の時など山々の懐に留まっているかと思うと這い上がろうとする霞。人間がふーっとやって何の影響があるでしょうか?罪も同じように人間の力では消し去ることはできないのです。罪は人間に深く根付いてしまっているので、人間が罪を消そうとしてもそれは雲に息を吹きかけるようなことなのです。それを、神は一掃する、というのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?答えは後ほど見てまいりましょう。
イザヤ書44章22節で、もう一つわかりにくいことがあります。それは「贖う」という言葉です。難しい宗教用語です。一般には「罪の償い」をするという意味で考えられます。それで「罪を償う」と「罪を贖う」が同じような意味で考えられます。そうすると、新共同訳の「お前を贖う」というのは少し奇異な感じがします。そこでは「贖う」ものが「罪」ではなく、「お前」になっているからです。つまり、「お前を償う」からです。ヘブライ語の動詞גאלの基本的な意味は「買い戻す」です。他者の手に渡ってしまったものを買い戻す、とか、奴隷の身分に落ちてしまった人が代価を払って自由な身分を買い戻す、ということです。お前を「買い戻す」です。ここで言う「お前」ですが、罪を持つ者なら誰でも、ということです。もはやバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民に限られない、私たち人間全てです。それでは、天地創造の神は私たちを何者から買い戻すのでしょうか?そもそも私たちは何者に売り渡されてしまって、それで神は買い戻されなければならなかったのでしょうか?
答えは創世記の最初の部分にあります。人間は神に造られた当初は良いものでした。ところが、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘いに引っかかったがために、神に対する不従順が人間に生じ罪がその内に入り込んでしまいました。これからもわかるように、人間が造り主と張り合おうとしたり、造り主のことを忘れることが罪の原点になっています。罪が内に入り込んでしまった人間は、神聖な神のもとにはいられなくなり、神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。罪と言うと、何か犯罪を犯すことのように考えられて、赤ちゃんにはとても罪があるとは思えない、とか、罪なんか無縁な善人だっているじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、聖書の立場は、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べているように(ローマ6章23節)、人間は死ぬということが罪を持っていることの表れである、というものです。行為や言葉や考えで罪を犯す時には土台になる罪があり、それらを犯さなくてもその土台はそれとしてあるのです。人間はこの土台の罪に支配されており、あの時その罪に売り渡されてしまったのです。
そこで神は、人間をこの悲惨な状態から救おう、人間が再び自分との結びつきを持てるようにしてあげよう、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分の許に戻れるようにしてあげよう、そう決意してひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて私たち人間のために成し遂げられたことは以下のことです。人間の持つ罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで罪の罰を全部イエス様に受けさせました。私たちの代わりに罰を受けて下さった方がいるおかげで、私たちの罪が神から赦されるという奇妙な状態が生まれました。私たち自身は何も罪の償いはしていません。そもそも人間は神聖な神の罰を受けることなど耐えられるものではありません。それでイエス様が犠牲となられたのですが、彼は神のひとり子でした。犠牲としてこれ以上のものはないという文字通り神聖な犠牲だったのです。
そこで私たち人間が、イエス様が本当にそうして下さった、それゆえ彼こそ救い主なのだ、と信じて洗礼を受ければ、この神の準備した罪の赦しはその人にそのまま効力を持ち始めます。罪を赦されたのであれば、神との結びつきが回復し、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も永遠に造り主である神の許に戻れるようになります。まさにその人は、罪に売り渡されていた状態から神に買い戻されたのです。その代価は神が支払ってくれました。御子イエス様が十字架で流された血がその代価だったのです。天地創造の神は私たちのことをそれくらい高い犠牲を払うに値すると見て下さっているのです!
神の行った私たちの買い戻しは、イエス様の十字架の死で終わりませんでした。まだ続きがありました。神はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開いて下さいました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの恵みを受け取った者は、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。罪はまだ内に残存していて本来ならば永遠の命に至る道などに入れる筋合いはないのだが、罪の赦しがあるおかげで罪はそれを阻止できなくなっている。罪が持っていた、人間を死に追いやる力は消されてしまった。その意味で罪は一掃されているのです。このようにして神から罪を赦された以上は、キリスト信仰者というのは、イエス様の尊い犠牲を無にしないように生きよう、神の意思に沿うように生きようと志向し始めます。
3.
しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。罪の赦しを得られたとは言っても、まだ残存している土台の罪が隙をとらえては、まだ力を持っているかのように見せかけて来て、私たちが言葉か考えか、場合によっては行いによって神の意思に反することをするよう仕向けます。しかし、キリスト信仰者が罪の赦しを神に祈り求めれば、神はすぐ「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さり、信仰者は再びイエス様の尊い犠牲を無にしないように生きよう、神の意思に沿うように生きようと志向し出します。
キリスト信仰者のこの世の人生というのは、今見てきたような罪の自覚から生じる悔恨と罪の赦しから得られる平安と安心を繰り返しながら進むものだと言うことができると思います。その繰り返しの中にいると、果たして自分は向上しているのかわからなくなり不安になるかもしれません。しかし、罪の赦しの恵みの中に留まっていれば、洗礼の時に生まれた新しい霊的な人は日々育っていき、肉なる古い人は日々衰退しているはずです。そして復活の日に不完全なものが完全にされ、信仰者は完全に新しい人として立ち現われ、悔恨は過ぎ去り、平安と安心だけを手にすることになります。
キリスト信仰者にとって「信仰」とは、言うまでもなく、イエス様を救い主と信じることです。なんでイエス様が私の救い主になるのかと言うと、それは、彼が十字架と復活の業で私を神の許に買い戻して下さって、罪を無力にして一掃して下さったからです。このことがはっきりしていれば、たとえ今の自分は古い人と新しい人が相克し合っているのが現実だとしても、復活の日に自分は100%新しい人として立ち現われると確信できます。今自分の内にある新しい人と将来の復活の日の新しい人は同一の者です。違いは、今の新しい人は古い人と相克し合っている状態にあるが、将来の復活の日には完全に主人になっている、ということです。
こういうふうにキリスト信仰には、希望しているものが現実にあるんだ、今目に見えないものが見えるんだという境地があります。まさに「ヘブライ人への手紙」11章1節で言われている通りです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちの希望は決して失われないものですから、安心して罪の赦しの恵みの中に留まって生きて参りましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン