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説教「愛する力はどこから湧くか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書12章28ー34節

主日礼拝説教2018年11月11日 聖霊降臨後第25主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

本日の福音書の箇所の直前にですが、サドカイ派とよばれるユダヤ教の一派とイエス様の間の論争がありました。そこでは、死者の復活ということは起こるのかどうかが議論になりました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は旧約聖書にある神の御言葉に基づいて打ち負かしました。決め手になった御言葉は出エジプト記3章6節でした。神がモーセに自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗ったところです。モーセから見たらアブラハムもイサクもヤコブも何百年も前に死んでいます。これがどうして復活が起こることの根拠になるのでしょうか?

イエス様は神のことを「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。それは神というのは生きている者に属するもの、生きている者が持てるものであり、死んだ者は持てないという意味です(「死んだ者」、「生きている者」の属格形νεκρων、ζωντωνを所有、所属の意味に解すればよいわけです)。アブラハムは死んだはずなのに、神は自分のことをアブラハムの神、つまりアブラハムに属する神、アブラハムが持てる神であると言われた。これは、まさに死からの復活が起こるので、アブラハムは復活の後、永遠の命を持って生きることになり、それで神は生きるアブラハムの神となるわけです。そういうわけで出エジプト記3章6節は復活を前提にしている御言葉で、イエス様はサドカイ派に、お前たちは一体どこに目をつけて聖書を読んでいるのだ、とあきれているのです。

この復活はあるのかどうかという論争は他にも論点があって、それもイエス様はサドカイ派をギャフンとさせますが、詳しくはマルコ12章18ー27節をご覧ください。

さて、この論争の一部始終をみていたある律法学者が、このイエス様こそ神の御言葉を正確に理解する方だと確信して聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは、「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。

なぜこんな質問が出てくるのかというと、律法学者というのはユダヤ教社会の生活の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟としては、まず私たちが手にする旧約聖書の中にあるモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒がありますが、それ以外にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな犠牲の生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。それだけでもずいぶんな量なのに、この他にもモーセ五書みたいに文書化されないで、口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派という別のグループはこちらの遵守も文書化された掟同様に重要であると主張していました。

これだけ膨大な量の掟があると、何か解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題は頻繁に起きたと思われます。それだけではありません。膨大な掟に埋もれていくうちに、次第に何が本当に神の意思なのかわからなくなっていき、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きたのです。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8ー13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実なものだったわけです。それは、現代を生きる私たちにとっても同じだと思います。

 

2.最も重要な掟

  イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様は「第一」に続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し重要度が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟であるということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。

 この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。十戒は皆様もご存知のように、初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。

 このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということになる。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになるというのです。

 さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿を参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者が真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」

これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、実は全然そうではないのです。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」と言っています。「神の国に入れた」とは言っていません。「神の国に入れる」というのは、どういうことでしょうか?それは、人間がこの世から去っても、復活の日に目覚めさせられて輝かしい復活の体を着せられて自分の造り主の神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。その結果、今のこの世の人生と次に来る新しい世の人生の二つを合わせた大きな総合的な人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらをちゃんと土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。

それでは、どのようにすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それらの実践は果たして可能でしょうか?

 

3.神を全身全霊で愛すること

  イエス様が教えた2つの重要な掟が実践可能かどうか、まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきましょう。全身全霊で愛する、などと言うと、男と女の熱烈恋愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。相手は、全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、かつひとり子イエス様をこの世に送られた父なるみ神です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても唯一の主として保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないこと。自分が人生の中で受ける喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったりした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。以上のようにする時、神が唯一の主として保たれます。

 実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然には備わっていません。私たちに備わっているのは、神への不従順と罪です。それでは、どのようにしたらそのような愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれてきます。それを知れば知るほど、神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが悲しむべきことに、人間が自ら引き起こした神への不従順と罪のために神と人間の結びつきは失われてしまいました。しかし、神はこれをなんとかして回復させようと決意されました。まさにそのためにひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして本来なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。もし人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神からの罪の赦しがその人に対してその通り本当のものになるのです。神から罪の赦しを受けた者として、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、万が一この世から死んでもその時は神の御許に御手をもって引き上げられ、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのです。

このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。

 

4.隣人を自分を愛するが如く愛すること

  次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?

隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべるでしょう。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできるということは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたが、神への全身全霊の愛に基づいているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。もし、別に神なんか他にもいろいろあったっていいんだ、とか、聖書の神はたくさんある神々のうちの一つだ、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。

イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っているように、自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないようになっています。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。

イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43ー48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別つかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の中の誰かが危害を加えたり、迫害をすることも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?

イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、彼らは一気に滅び去ってしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わる日を待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配下から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けられてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、「罪の赦しの救い」を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと言って差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになっていきます。

こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかってきます。つまり、神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった。私はそれくらい神の愛を受けている。私はこの受けた愛にしっかり留まり、これから離れてしまったり失ってしまったりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことになります。つまり、神の愛が注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人がキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中にしっかり留まれるようにすることです。

 

5.神の前に出されてもイエス様のおかげで大丈夫でいられる

  最後に、イエス様が教えた二つの重要な掟がちゃんと実践できない場合はどうしたらよいかについて一言述べておきましょう。信仰者といえども、やっぱり自分は神を全身全霊で愛していない、隣人を自分を愛するが如く愛していないことに気づかされることは日常茶飯事です。特にイエス様は、十戒の掟は外面的に守れてもダメ、心の有り様まで神の意思が実現していなければならないと教えました。そのため使徒パウロは、十戒というものはつまるところ、守れて自分は大丈夫と思うためにあるのではなく、守れない自分を映し出す鏡のようなものだと教えました。そうなると私たちは永久に神の掟を実現することはできず、知識で知っている状態に留まり、せいぜい神の国から遠くないというだけになります。

ここで次のことを思い起こさなければなりません。それは、イエス様は十字架と復活の業をもって私たちの出来ない部分を全部埋め合わせて下さったということです。それはかなり大きな部分です。この私たちの出来ない部分を埋め合わせるために、イエス様は十字架と復活の業を行ったのです。私たちはイエス様を救い主と信じて、神が提供する「罪の赦しの救い」を受け取った。それで神は、私たちがあたかも掟を完全に守れている者であるかのように扱って下さるのです。本当は掟を守り切れていないにもかかわらず、イエス様のおかげで、神の国に迎え入れても大丈夫な者とみて下さるのです。これは、真に信じられないことです!このように扱ってもらっているのに、どうして神の御心に背いていいなどと思うことができるでしょうか?このように扱ってもらっている以上は、掟に示された神の意思に沿って生きるのが当然という心になるのではないでしょうか?それでもまた守れない自分に気づかされたら、すぐ神にそのことを正直に話して赦しを願います。すると神はすぐ、あなたの心の目の前にゴルゴタの十字架を示され、あのイエスのおかげでお前は大丈夫になったのだから心配しなくてもよい、と言って赦して下さり、また永遠の命に向かう同じ道を歩み続けられるようにして下さいます。そのような神への賛美と感謝を忘れずに日々を歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

説教:木村長政 名誉牧師

 

 

第24回  コリント信徒への手紙  7章1~7節           2018年11月4日(日)

 

 今回から7章に入ります。読んでお分かりのように、これまでのパウロの内容や語調とは、がら

りと変わっています。表題には「結婚について」とあります。

 聖書の中に、このような生活の指導のようなことまで、パウロは、なぜ書いているのでしょう。 

  聖書は、生活指導のための本ではありません。

  聖書は、救いの本である、ということです。

  ですから、重点は、救いを完うするために、というところに書かれているものです。そのことを目

ざすとなれば、人間の生活の仕方にもふれないわけにはいかないでしょう。

 大事なことは、あくまでも、「救いと信仰生活」が基本になっている、ということを知っていなければならないでしょう。

 パウロは、たぐいまれな伝道者でありますから、彼独特の考えで書きつらぬいています。

 さて、7章1節を見ますと、「そちらから書いてよこした事について言えば」とあります。

 どうも、この手紙を書く前に、パウロの手元に質問状のようなものが、きていたようであります。

 それがどんなものであったか、くわしくは分かりませんが、どうやら内容については、パウロの

この返事から分かります。しかも、その内容は、6章までにふれてきた、コリント教会内の不品行の問題であったことがわかります。

 パウロはこの問題について悩みました。

 ということは、これは決して、小さな問題では、なかったからでしょう。

 そこで、パウロは、まず始めに、その答えを表しています。男子は、婦人にふれないがよい、と言って、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい、と言っているのです。

 パウロが言いたいことは、これで明らかなように、結婚生活とはどういうものか、という事を語っているのではありません。不品行な生活をしないためには、どうしたらいいか、ということであります。

 なぜなら、創世記にありますように、神は、男が一人いることはよくない、と言って、女をつくろう、そうして女をつくった。こうして、男と女との生活は神がお創りになった。そこには子供もできるでありましょう。男と女とが共同生活をするために与えられた喜び、又、悲しみがあるはずであります。

 パウロはここでは、不品行な生活をしないためにどうしたらいいか、ということを言っているのです。

不品行ということで様々な争い、にくしみ、悪行があったことでしょう。

 しかし、パウロがいつも考えていることは、人間の、神に対する責任、ということでありました。

 この生活が、神を喜ばせることであるのか、神の栄光を傷つけることになるのか、ということでありました。

 パウロ自身は、7節に見られるように独身であったらしいから、何のためらいもなく、男は女にふれないがよい、と言ったのでしょう。しかし、彼自身も、それが答えになっていないことを知っていましたので、それに続いて夫婦生活のことについて書くわけであります。

 しかし、ここに書いてある夫婦の生活は、普通に言われる事とは大分ちがうのであります。

 パウロは、不品行の問題から出発しました。従って、夫と妻とが互いにその分を果たすことについて、語らざるを得ませんでした。不品行の問題はそれだけではないかも知れませんが、このことが基本であることは誰にでも明らかなことであります。

 パウロはまず、それを言うのであります。

 夫婦であるということは、各々がその分を果たすことである、といったような分かり切った事を言わねばならなかったのでありましょう。

 しかし、それと同時にパウロは、それが必ずしも分かり切ったことではないと考えたのでしょう。そこに、こういう問題が起こると思ったのでありましょう。

 それはパウロに言わせれば、ただの常識の話ではありませんでした。

 問題は、男と女とが、自分の体をどう扱うかということにある、と言うのです。

 ここまで来ると、話は常識ではすまない。

 自分の体と言うが、それはほんとうに自分の体なのか、ということになります。第一に、夫婦の約束をしたものにとって、自分の体というものは何か、まことに自分ひとりのからだである、と言うことができるのか、ということになります。自分の体は自分のものであって、自分のものではないことの約束ではなかったか、とパウロは言うのです。

 それが明らかなら不品行は起こり得ない、とパウロは言いたかったのではないかと思います。

 不品行の問題には、当然、神がはいってくるはずであります。神がはいってきて、初めて不品行と言えるのではないでしょうか。神をぬきにした生活には、不品行ということさえないのかも知れません。

 パウロは、男と女とが、自分のからだを自由にすることはできないはずである、と言っています。

 それなら誰が自由にするのでしょう。相手でありましょうか。そうかも知れません。しかし、本当は神であるはずであるにちがいありません。従って、パウロはここに夫婦生活の一つの取り決めをいたしました。

 5節にそのことを書いています。「互いに相手を拒んではいけません。ただ納得し合ったうえで、専ら祈りに時をすごすためにしばらく別れまた一緒になるというなら、話は別です。」

 新約聖書は約二千年昔に書かれたものです。だから、昔の考えがはいってくることは止むをえません。例えばここで「祈りのためならしばらく別れても、」とあります。当時のユダヤ教の習慣ではなかったかと思われます。しかし、ここで大切なことは、祈りの生活を重んじなさい、ということであります。夫婦生活は、自由に行われて差支えないことでありましょう。しかし、夫婦生活の中で、祈りの生活が大切である、ということです。

 もっと正しく言うなら、夫婦生活の中に限らず人間生活の中において、祈りを重んじなさいということでありましょう。

 5節後半で、パウロはきびしいことを露骨に告げています。「あなた方が、自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」

 パウロは人間の弱さを知っておりました。男と女の関係、夫婦の生活においても、ねじれたり、わがままだったり、色々な欲に流されたりします。パウロはそれらの中で家庭が祈りを重んじていくように、どんなに願ったことでありましょう。

 7節で、今日のみことばをまとめているように思います。

 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいて欲しい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのです、という。パウロは独身であったらしい。ペテロは妻があったらしい。同じ使徒として神様から伝道の使命を受けていても、パウロとペテロは神から異なった賜物を与えられたのであります。

 パウロは、皆がわたしのようになって欲しいと言うのが本音であったでしょうが、しかし、誰でもがパウロのような賜物を与えられてはいない。あくまで、その人、その人に、神御自身が、その人にとって最も良い賜物を与えて下さるのですから、感謝してそれをしっかりと受けとめ、活かして、神様のよろこばれる栄光を発揮していくべきでしょう。

 これが今日のメッセージであります。アーメン・ハレルヤ

説教「救いと大いなる安息の地を目指して」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章46ー52節、エレミア31章7ー9節、ヘブライ4章1ー13節

主日礼拝説教2018年10月28日 聖霊降臨後第23主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中、エリコという町に立ち寄り、そこで一人の盲人の物乞いの目を見えるようにしたという奇跡の出来事についてです。ここで注目すべきことは、イエス様がこの盲人の男バルティマイを癒す直前に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたことです。この言葉は一体何を意味しているのでしょうか?癒す前にこの言葉が言われたことに注意します。もし癒された後で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのなら、筋が通ります。イエス様はバルティマイの信仰を立派と認めてその褒美に目を見えるようにしてあげた、ということになるからです。ところがイエス様は、目が見えるようになる前にそう言ったのです。一体どういうことでしょうか?そこで、イエス様は治っていない段階で「もう治った」と言って、確実に治ることを預言っぽく先回りして言ってみせた、と考えることができるかもしれません。つまり、本当は後に言うべき言葉を預言者っぽく先に述べたというわけです。そうすると結局は、病気が治るというのはイエス様に立派と認められる信仰があったおかげということになり、もし治らなければ立派な信仰がないということになってしまいます。イエス様は、病気が治る治らないで信仰の優劣が決まると言われているのでしょうか?本説教の最初の部分では、イエス様が言われる「救い」ということについて少し考えを深めていこうと思います。

その次の部分では、「救い」について、本日の旧約の日課エレミヤ書31章とヘブライ4章の聖句が二つの大事な視点を明らかにしていますので、それを見ていこうと思います。一つ目の視点は、今の世の次に来る世の人生というのは、とてつもなく大きな安息の地での人生であるという、ヘブライ4章の視点です。もう一つの視点は、今のこの世の人生はその大いなる安息の地を目指す歩むであるという、エレミヤ31章の視点です。

 

2.救いとは何か?

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉の意味について。この言葉は、これと同じ出来事が記されているルカ18章にも言われています。また違う出来事の時にも同じ言葉が使われています。それはマルコ5章とマタイ9章で、12年間出血が止まらず治療に財産を使い果たした女性がイエス様の服に触れば治ると考えて、それをして出血が止まりました。この時イエス様は女性が癒された後で問題の言葉を述べました。事後的に言ったので、信仰のおかげで治ったと言っているように聞こえます。でも、どうして事後的になったかと言うと、この女性の場合は初めイエス様に内緒に服に触って、それから癒しが起きました。イエス様はそれに気づいてこの言葉を発したので事後的になったのです。バルティマイの時は、イエス様は初めにこの懇願する人を見てこの言葉を発して、その後で癒しが起きたので、事前的になりました。

ルカ7章にも同じ言葉が言われる出来事があります。それは、罪を犯した女性がイエス様から赦しを受けて、感謝の行為をイエス様に行ったところです。その時イエス様は女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言います(50節)。この時は病気の癒しはありません。そういうわけで、「信仰が救った」というのは、必ずしも病気が治ることに結びつくわけではないことがわかります。

このイエス様の言葉の意味を考える時、ギリシャ語の原文を見てみるとよいと思います。以上の5か所で「救った」という動詞はみな現在完了形です(セソーケンσεσωκεν)。現在完了などと言うと英語の授業みたいで嫌になる人が出るかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語とは違うところがあるので英語のことは忘れて大丈夫です。ギリシャ語の現在完了の基本的な意味は、「過去のある時点で起きたことが現在まで続いている状態にある」ということです。それに即して問題となっているイエス様の言葉をみてみると、こうなります。「過去のある時点から現在まであなたは信仰によって救われた状態にある

ということです。過去のある時点と言うのは、イエス様を救い主と信じた時です。つまり、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまで、その人は救われた状態にあった、ということです。これは少し変です。というのは、まだ目が見えるようになる前に既に救われていたと言うからです。普通だったら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずのに、イエス様ときたら、治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるなどと言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと「救われる」ことは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあることはある、と言っているのです。それでは救いとは一体何なのでしょうか?病気の状態にあっても救われた状態にあるなんて有り得るのでしょうか?病気が治ることと「救われる」ことは別問題と言うのなら、逆に健康であっても救われた状態にないというのもあることになります。イエス様が考える救いとは何なのでしょうか?救われていないとはどんなことなのでしょうか?

聖書の立場では、人間が救われていない状態というのは、神に造られた人間の内に神の意志に反する罪が入り込んで、それで造り主との結びつきが失われてしまった状態のことをいいます。それで、この罪の問題をどうにか解決できて神との結びつきを回復できることが救いになります。神との結びつきをうまく回復できるとどうなるかと言うと、この世の人生でいついかなる時でも、順境の時だろうが逆境の時だろうが、絶えず神から助けと良い導きを得られて歩むことが出来るようになるということです。万が一この世から去らねばならない時が来ても、その時は神が御手をもって御許に引き上げて下さり、神のもとに永遠に戻ることができるようになるということです。

そういうふうに神との結びつきが回復できるためには人間に内在する罪の問題を解決しなければならないのですが、それはどうやってできるのでしょうか?人間が自分で罪を除去することは出来るでしょうか?イエス様は、マルコ7章の律法学者との論争で、人間を汚しているのは人間の内に宿っている諸々の性向である、それで、どんな宗教的な清めの儀式をしても罪の汚れは除去できないと教えます。それならば、十戒をはじめとする律法の掟をしっかり守ることで人間は神の目に相応しいと見なされて結びつきを回復できるでしょうか?イエス様は十戒の第5の掟「汝殺すなかれ」について、兄弟を憎んだり罵ったりしても破ったのも同然と教えました。また第6の掟「汝姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目で見たら破ったのも同然と教えました。つまり、十戒の掟は外面的な行為だけでなく、内面の心の有り様まで問うのだと教えます。そこまで言われると神の目に相応しい人は誰もいなくなります。まさに使徒パウロがローマ7章で教えるように、十戒というのは外面的に守って自分は神の目に適う者だと得意がれるためにあるのではない、内面までも問うことで自分はどれだけ神の意志から離れてしまった存在か映し出す鏡のようなものなのです。

そうなると人間はもはや自分の力では罪の問題を解決することが出来ません。天の父なるみ神は、これは救いようがない、もう万事休すだ、と思ったでしょうか?そうは思いませんでした。神の意図は人間が自分との結びつきを回復してほしいということでした。それで神は問題の解決のためにひとり子のイエス様をこの世に送り、本来だったら人間が背負わなければならない罪の重荷を全部、彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運ばせて、そこで人間に下されるはずの神罰を全部彼に受けさせて死なせたのです。神が取った解決策はまさに、ひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すということだったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれました。そこで人間の方が、これら全てのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主とわかって洗礼を受けると、このイエス様の犠牲に免じた罪の赦しはその人にその通りになります。神から罪の赦しを受けられれば、神との結びつきが回復できることになり、今のこの世の人生と次に来る世の人生を合わせた大きな人生を神との結びつきの中で生きることができるようになります。これが救いです。  

この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために整えてくれたものです。人間はイエス様を救い主とわかって洗礼を受けるとこの救いを受け取ることが出来、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り、受け取った救いは失われることはありません。これは、受け取る人が健康であるか病気であるかは関係ありません。また、救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄光を今度は病気の時と違った形で現わしていかなければならない、まさにそのために癒されたのだと気づかなければなりません。

ところで、バルティマイの癒しの奇跡の時はまだ十字架と復活という救いの出来事は起きていません。それなので、「あなたの信仰があなたを救った」と言われても、なかなか自分は本当に救われているとは思えないでしょう。「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にあった」と言われても、十字架と復活が起きる前ですと、それはただの口先の言葉にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しの奇跡が起きたことはイエス様の言葉は口先だけではないということが明らかになったのです。イエス様の言葉は口先だけのものではないということは、マルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きました。イエス様は、その人とその人を必死になって連れてきた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男は口先でこんな出まかせを言っている、自分を神と同等扱いにして神を冒涜している、と批判する。これに対してイエス様は、自分の口から出る言葉は単なる音声だけでないことを示すために、男の人に立ちあがって行きなさいと命じると、その人の麻痺状態は消え去って本当に歩いて行ってしまいました。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

ルカ7章の罪を赦された女性の場合は、病気の癒しはありませんが、罪の赦しを与えてくれたイエス様に対して深い感謝の気持ちを持ちました。罪の赦しを与えられたことで、断ち切れていた神との結びつきが回復する。そして十戒の掟からすればまだ罪を内に持っているのに、イエス様の十字架の身代わりの犠牲のおかげで、神の目からは大丈夫とみてもらえる。本当に罪の赦しの恵みの中で生きられるようになる。だからその後は大丈夫と見られていることに恥じない生き方をしなければと注意するようになる。注意することは緊張感をもたらしますが、同時に罪の赦しの恵みの中にいられる安心感もあります。ここから先はもう神に対して感謝以外何もなくなります。この感謝の気持ちが、神を全身全霊で愛し、神がそうしなさいと言っている、隣人を自分を愛するが如く愛する心と力を生み出していきます。罪を赦された女性はその例です。

 

3.大いなる安息の地を目指して

 以上、救いというのは、聖書の立場では、神から罪の問題を解決してもらって神との結びつきを回復でき、その結びつきを持ってこの世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きられるようになることだと申し上げました。その救いについて、本日の旧約の日課エレミヤ書31章と使徒書の日課ヘブライ4章は大事な視点を教えてくれています。

ヘブライ4章では、次の世の人生のことを「神の休息の場」(η καταπαυσις αυτου)と言っています。ヘブライ4章4節で創世記の出来事が振り返られていますが、神は天地創造の業を行って7日目に全てのなすべき業から離れて休まれました。天と地の創造という壮大な事業の後に入れる休息ですので、これもまた壮大な休息です。ヘブライ4章は、私たち人間もこの壮大な神の休息の場に入ることができるのだと言っています。すごいことです。4章10節で言われるように、その休息の場に入れる者は神もそうだったように全てのなすべき業から離れて休むことになります。それはどんな休息かというと、黙示録19章で結婚式の祝宴に例えられています。これはこの世の労苦が全て労われることを象徴しています。さらに黙示録21章4節で神は全ての涙を拭われると言われますが、これはこの世で被った全ての不正義や不正が最終的に完全に償われることを象徴します。同じ節ではまた、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われます。最初のものは過ぎ去ったというのは、今ある天と地が新たに創造される天と地に取って代わられて、今の天と地のもとであった全ての神の意志に反することが消え去って、全てのことが新しくされて、全てが神の意志に沿うものになっていることを意味します。それは死も悲しみも嘆きも労苦もないところです。

そのような壮大な神の休息の場に向かって、そこに向かう道に置かれた者は神に守られながら歩んでいくことが、エレミヤ書31章で言われます。そこに向かう道は、9節で言われるように「泣きながら(בבכי)、神に助けを求めながら(בתחנונימ)」進まなければならないこともあるくらい、苦難困難の時もあるかもしれない。しかし、同じ9節で言われるように、神が父親としていてくれる位に神に守られるというのが大前提としてある、だからその道は本当は真っ直ぐに延びる平らな道で誰も歩くのが難しいことはない。目の見えない人、足の不自由な人、妊婦やまさに出産しようしている人といった、普通なら長旅は無理と見なされる人たちも全く大丈夫だ、と言うのです。壮大な休息の場に向かう道を進むというのは、それくらい神に守られて歩むことなのです。

これと同じことが、先月の説教で解き明かししましたイザヤ書35章でも言われていました。そこでお教えしたことは、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを持ってこの世の人生を歩む者は、イエス様の敷かれた「聖なる道」を進む。その道は順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られる道である。万が一この世から去らねばならない時が来ても、復活の目覚めの時に御許に引き上げてもらえる道である。そこで天使たちの歓呼の声をもって迎えられる。

先月の説教でも申し上げたのですが、エレミヤ書31章やイザヤ書35章をこのように今の世から次の世への歩みについて言っているなどと言うと異論が出るかもしれません。というのは、これらの個所は一見すると、紀元前6世紀のバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が祖国帰還できるようになることの預言に見えるからです。民の祖国帰還は歴史上の出来事として起こりました。しかし、祖国に帰還した後も民の状態は預言された理想の状態からは程遠いということが次第に明らかになってきます。イザヤ書の終わりの方56章から後を見ると神がまさにそのことを明らかにします。そうすると、民の間でも、祖国帰還を言っているように見えた預言は実は天の神の国への帰還を意味していたのだ、民の理想の状態についての預言も、異民族から解放されて幸せ一杯のユダヤ民族のことを言っているのではなく、罪の問題を解決された人間が神の国に迎え入れられることを意味するのだ、と理解されるようになります。

そうすると、じゃあのバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できたことは何だったのか?それは預言とは無関係なことだったのか?いいえ、そういうことではありません。歴史上起きたことは、将来起きる全人類的な祖国帰還の何かミニチュア模型のようなものなのです。神は将来、全人類的な祖国帰還を起こすが、その意志と力を持っていることを小手調べとして歴史の中で示してみせたのです。将来起こる預言の本当のこと、これが本当に起こるのだとわからせるために小手調べのようなことをした例は、イエス様にもあります。死んでしまったラザロとヤイロの娘を生き返らせた時がそうです。イエス様はその者たちは死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。その時イエス様は、死というのは復活の日までの眠りに過ぎず、その眠りから起こす力を自分は持っているのだ、ということを、復活の日も最後の審判もまだ来ていない段階で前もって奇跡を通して示されたのです。

この世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きるというのは、神との結びつきを持って生きることそのものですが、そこではイエス様を救い主と信じる信仰があってこそ神との結びつきが持てることを忘れてはいけません。イエス様を救い主と信じる信仰は特に、二つの人生の間を移行する時に決定的に重要です。ヘブライ4章12ー13節で、神の言葉がどれだけ鋭く見抜いて裁く力があるかが言われています。最後の審判の時に全ての人は神の前で何も隠せない、丸裸同然で、神に対して申し開きをしなければならない。お前はどうしてあの時あのようにしたのか、あのようなことを言ったのか、考えたのか、と聞かれて、記憶にありません、が通用しないのです。これは恐ろしいことです。しかし、ここでイエス様を救い主と信じる者は心配無用であるということを思い出しましょう。私たちが至らない者だから、神はひとり子イエス様を身代わりの犠牲にしたことを思い出しましょう。ヘブライ4章13節の後の個所はまさに、そのことを思い出しなさいと私たちの心の目をイエス様に向けさせる個所です。本日の日課は本当はそこまであるべきだったと思います。

ヘブライ4章14ー 16節はイエス様を救い主と信じる信仰がある限り神の御前に立たされても大丈夫であると教えます。イエス様のことをあまり聞きなれない「大祭司」という言葉で呼んでいますが、これは神殿で務めを果たしていた大祭司が人々の罪と自分の罪を神の前で償うためにいろんな儀式を行って、特に動物を犠牲の生贄に供えることをしていた。それに対してこの新種の大祭司は自分自身を犠牲の生贄に供することで人間の罪の償いを果たして下さった。しかも、供されたのは神聖な神のひとり子だったのでこれ以上神聖な犠牲はなく、それで神の目から見てこの犠牲で十分となり、罪の償いのためにこれ以上供するものは何もなくなってしまった。さらに私たちにとって大きな慰めになるのは、この自分を犠牲に供した大祭司は神のひとり子で神と同じ存在でありながら私たち人間と同じようにこの地上に生きて同じような試練を受けた。だから、私たちの辛さや苦しみもちゃんとわかってくださっている。だから、罪がもとで私たちの心に神への恐れが生じたとき、また困難や苦難の中で誰もわかってくれない助けてくれないという気分に陥った時、この大祭司のもとに跪きなさい、すがりつきなさい、そうすれば必ず神から助けと導きを得られる、そう教えています。最後にこの個所を引用して、本説教の締めにしたく思います。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちは公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

交わり

Katariinaさん(ヘルシンキ大学 学生)をお迎えしての食事会でした、合間にKatariinaさんが証しをしてくれました。日本女性のように少しはにかみやさんでしたが心は非常にしっかりしたフインランド女性でした。

 

 

 

説教「救われるために何をしなければならないか?」トゥマス・ルッカロイネン兄(ヘルシンキ大学神学部学生)、通訳:吉村博明 宣教師

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2018/10/matai3_sekkyou_Lukkaroinen.mp3
説教の後は、フィンランドのヤンググループ”ミッション ポシブル”がゴスペルソングを日本語で歌います。

礼拝にて

福音書の朗読は日本・フインランドの担当者が行いました。

SLEYの学生グループ「ミッション・ポシブル」が歌の奉仕をしてくました。

交わり

今日の礼拝は教会に滞在中のフインランドから来日した学生諸君が参加してくれました。過去にも4~5名のゲストを迎えたことがありましたが今回は10名の大所帯で吉村先生ご夫妻も応対に大変な様子でした。食事に出たスープも彼らの奉仕によるもので大変美味しかったです、食事の後の対話にも話が弾み時のたつのも忘れて話し合いました。

説教「神の創造の秩序と結婚」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章1ー16節

主日礼拝説教2018年10月14日 聖霊降臨後第二十一主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様はなぜ、離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

 本日の福音書と旧約聖書の日課は、男女の関係について人間の造り主である神はどうあるべきと考えておられるか、ということを教えています。福音書の個所で、ファリサイ派の人たちがイエス様を試そうとして質問してきました。夫が妻を離縁することは許されるか、という質問でした。ファリサイ派というのは当時のユダヤ教社会の宗教エリートで律法の規定をとても重んじて自分たちこそ天地創造の神の意志をしっかり守って生きていると思っていました。イエス様は彼らの律法の理解が神の意図するものと違っていることをいつも指摘するので、ファリサイ派はイエス様を排斥しようと企むようになっていました。

ファリサイ派がイエス様を試すために質問したというのは、旧約聖書の申命記の24章に夫が妻に離縁状を書いて家から追い出してもよいという規定があることによります。モーセの律法の規定の一つです。イエス様は活動を開始した最初の頃に、十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」について、みだらな思いで他人の妻を見る者は行為で犯していなくとも心の中で姦淫を犯したことになる、と教えていました。さらに離縁状も相手が裏切ったという位の重い理由がない限り書いてはいけない、と教えました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか、離縁状を書いて別れてもいいというのが神の御心ならば、このイエスは十戒を勝手に厳しく解釈して人々に不安を与えているのではないか、今それを公衆の面前で明らかにしてやろう、そういう魂胆なのです。

夫が妻と別れるのは許されるのかという質問に対して、イエス様は質問者の魂胆はお見通しでしたが、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。そこでイエス様は神のもとから送られた神のひとり子として父である神の御心を明らかにします。モーセが離縁状の規定を定めて離婚を認めたのは、人間の心がかたくなになっていることを考慮してそうしたのだ、と。私たちの新共同訳では「心が頑固」と言いますが、それだと何か意地っ張りとか、妥協しないというような、そんなに悪い意味には捉えられないのではないでしょうか。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味で、「頑固」に比べてもっと深刻な状態のことを言います。どんな状態かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下そうとして、民の心を一層「かたくなにせよ」、それで神の御心を見たり聞いたりできないようにせよ、と言うところがあります。それと同じことで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになって、神に背を向けて、神の御心を知ろうともわかろうともしない状態です。

それでは、結婚について何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり結婚を壊してはいけない、離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそれが神の御心だとわかるのかというと、それは神の創造の秩序がそういうものだからだと言うのです。神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれたギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言われます。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した男と女、つまり父と母から離れて父と母のように一緒になることで、その一緒というのは神の目からすれば融合と言っていいくらいの結びつきです。そういう流れになるのが神の御心ならば、一度結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間の心にあるからだ、とイエス様は明かします。心のかたくなさがあるため、創造の秩序に現われる神の御心を知ろうともわかろうともせず、伴侶を裏切って別の相手と一緒になるということが起きます。イエス様は、そのような重大なことが起きれば、離縁状はやむを得ないと言っているのであって、自分の好みや都合でもう一緒にいたくない程度で書くものではないと言うのです。離縁状は認可されてはいるが、その発動は神の創造の秩序を損なうようなことが起きてしまった時できるというものです。創造の秩序を損なうこととして、伴侶を裏切ることの他に伴侶に命の危険をもたらす事態も考えてよいと思います。そういう重大なこともないのに離縁状を書くのは、今度はそれが神の創造の秩序を損なうことになるので、離婚はしてはいけないということなのです。

そのようなイエス様の方針は、弟子たちから見ても厳しすぎるようでした。マタイ19章を見ると、イエス様とファリサイ派のやり取りを聞いていた弟子たちが、夫婦の結びつきはそこまでして維持しなければならないのなら、結婚しない方がましです、などと言います(マタイ19章10節)。イエス様の弟子のくせに何を情けないことを言うか、と思わせますが、やはり弟子とは言え、離婚の可能性は開かれていたほうがいいと思うくらい、当時も夫婦の関係はいろいろ大変だったことをうかがわせます。イエス様が離縁状の条件をとことん狭めたことからも伺えるように、実際には重大な理由なくしても離縁状を書いて離婚することは結構あったのかもしれません。それも、人間の心がかなくなであることの現れです。

ここで気づかなければならない大事なことがあります。それは、人間の心からかたくなさが取れること、つまり神に背を向けた生き方をやめよう、神の御心をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?キリスト信仰が主眼とするところを思い出しましょう。それは、神のひとり子であるイエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償うために十字架にかけられて死なれた、彼の身代わりの犠牲のゆえに神から罪の赦しを得て生きられる道が人間に開かれたということです。

人間はこの良い知らせを聞いて、イエス様は救い主とわかって洗礼を受けると、罪の赦しを頂いた者としてそれに恥じない生き方としようという心になります。もう神に背を向けて生きるのはやめよう、神の御心を知って、それに沿うように生きようと志向します。夫婦も、自分は神から罪の赦しという大きな赦しを頂いていることがわかれば、ちょっとしたことで相手を怒ったり責めたりせず、言葉を選んだりするようになります。万が一火花が散ってしまっても、赦しを願うこと、赦しを与えることがどれだけ大切なことかはイエス様の十字架を思い出せばわかるはずです。自分の受けた大きな赦しは、いつも自分に言い聞かせなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせはどうやってするのかと言うと、それは、聖書にある神の御言葉が宣べ伝えられるのを聞いたり、また自分で聖書を繙いて自省することです。そして神に祈り、自分の非力さや未熟さを直してくれるようにお願いすることです。

 

2.イエス様はなぜ、離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

 本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で、夫婦は別れてはいけないということに加えて、離婚した後の再婚は姦淫、姦通になるという驚くようなことが言われます。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」ここで、日本語で「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は何を意味するか見てみますと、十戒の第6の掟は「姦淫」、本日のマルコの個所では「姦通の罪」という言葉が使われますが、双方とも同じことを指しています。旧約聖書のヘブライ語の言葉נאף、新約聖書のギリシャ語μοιχευω, μοιχαομαιがもとにありますが、これらの言葉のドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳はとても単純明快で「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉で訳されています(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の訳はadulteryで、ドイツ語等に比べたら一目で意味がわかりませんが、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、日本語で姦淫とか姦通と言っているものは、最近の日本で新聞・週刊誌の報道で聞かない日はないと言えるくらいよく耳にする「不倫」ということになります。

そこでイエス様が離婚後の再婚を姦淫と言うのはどうして驚きかと言うと、正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのではと思われるからです。しかし、イエス様はそう思わない。なぜでしょうか?それは、神の創造の秩序から見てそうなるからです。神の創造の秩序とは何か、もう少し詳しく見てみましょう。それは、本日の旧約聖書の日課である創世記2章18節から24節までの個所で述べられていることです。イエス様はファリサイ派とのやり取りの中でこの個所の最後の24節を引用していますが、この個所全体を念頭に置いて話されたのは間違いないでしょう。

創世記2章18節から24節は、人間の女性が造られた経緯が記されています。2章の初めに男性が土から造られたことが記されています。最初人間はこの男性が一人だけでした。神は、彼が独りでいるのは良くない、彼に「合致するような助け」(עזר כנגדו)を造ろう、と言って、まず土からいろんな動物を造って彼の前に出します。男性が動物たちにどんな名前をつけるか、それを神が見るというのは、男性が動物たちの中からそのような助けを見つけるかどうか見るということです。男性は動物たちに名前を付けましたが、「合致するような助け」は見出すことはできませんでした。それなら、と神は今度は、男性の骨や肉を材料にして、動物たちとは違うものを造ります。男性のあばら骨一本から女性を造ったような書き方ですが、初めはそうだったかもしれないが最終的にはいろんな骨や肉も材料になったようです。新共同訳で男性が女性のことを「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っていますが、ヘブライ語はもっとはっきりしていて、女性の骨は「わたしの骨からである」(עצמ מעצמי)、女性の肉は「わたしの肉からである」(בשר מבשרי)、と言っています。女性を見た男性は、これこそ自分に「合致する助け」と見なしました。

あと新共同訳に男性の言葉の下にカッコがあって「イシュ」、女性には「イシャー」とカタカナで書かれていますが、これは何かと言うと、「イ(-)シュ」(איש)は男性を意味する単語で、「イ(ッ)シャー」(אשה)はそれの女性形の形です。ドイツ語の名詞には男性、女性、中性と性別がありますが、それと同じことです。男性「イ(-)シュ」が自分の一部を材料にして造られたものを自分に「合致する助け」と見なし、これに「イ(-)シュ」を女性形にした形「イ(ッ)シャー」という名前を付けたということです。

さて、女性が男性の「助け人」として造られたとか、男性の骨や肉を材料にして造られたなどと聞くと、聖書は女性を男性の付属物にしていると怒られてしまうかもしれません。しかし、女性が男性を助けられるためには、男性も女性を助けなければできません。例えば、仕事をする女性が家事育児全部任されて男性が仕事だけ専念してよいということになったら女性は潰れてしまい、助けるどころではなくなります。最初は男性の助けのために女性を造ると言いますが、いったん造られたらお互い助け合う関係になるのではないでしょうか?(ヘブライ語の言葉כנגדוにそんな相互性を含めてもいいような気さえするのですが、専門家はどう思うでしょうか?)それから、男性の骨と肉を材料にしているということも、もし男性が女性を低くみたら、それは材料がその程度だったと自分で認めることになってしまうので、男性は女性に対してあまり大きな顔をしない方がいいということになります。

そこで、男性と女性が自分たちがそれぞれ生まれ出てきた男性と女性、つまり父と母のもとを出て一緒になることを一体になる、一つの肉になると言います。同じ肉と骨がもとにあるので分離したものがまた一つになることが結婚ということになります。それで、離婚は一つに融合していたものを二つに分かれてしまうことと言ってよいでしょう。姦淫とは二つのものが融合してできたものを二つ以外のものが入り込んで融合が壊れてしまうことと言ってよいでしょう。そうすると、離婚したらもう融合もなくなっているのだから再婚は姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。どうしてでしょうか?それは、一度一つになった肉は、人間の目では別々になって解消したとしても、神の目からすれば、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は消せないということのようです。だから、別れても新しい相手と一緒になると、神の記録にある一つになったものに対して外のものが入り込んでくる、つまり姦淫と同じことになるというのです。

しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の教えに従っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われるでしょう。それを神の意志に反するなどと言われては、もう神なんか相手にしたくないという気持ちになるかもしれません。あるいは、自分の信じたい神はそんな偏狭ではない、もっと気前がいい方だ、という考えになってしまうかもしれません。でも、それは創造主の神に対して心をかたくなにすることになってしまうのです。

どうしたらよいでしょうか?「新しい出会い」、「人生の再出発」と思っていたことは実は神の意志に反する、そう言った張本人のイエス様は何をしたでしょうか?そういう厳しいことを言って、さらには心の中で描いただけでも同罪だと言ったのです、そこまで厳しいことを沢山言って、その通りに出来ない人たちに後ろめたい気持ちを与えたり不愉快にさせて、自分は偉そうにして出来ない人たちに軽蔑の眼差しだったでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は、人間が持っている神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべてにかかわる神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間があまりにも無防備になっている、この状態をなくして人間が神から優しく守られて生きられるようにしよう、それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと罰を人間の代わりに受けられたのです。

イエス様を救い主と信じるところには、神の罪の赦しがあります。何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂く者として生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神から守られて生きられるようになるためにひとり子も惜しまなかった神の愛です。自分がしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を死なせなければならないほどの重大なことだったのだと思い知れば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きたらいいか、行ったらいいか、考えたらいいか、全てにおいて何が神の意志に沿うことか考えるようになります。そのようにして神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しの救いに沿うものに変えられていくと思います。

 

3.独身でいることは神の創造の秩序に反しない。一人でいようがいまいが肝要なことは終末・復活への備え

 最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚という結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは、創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

使徒パウロは第一コリントの7章で結婚について教えていますが、読むと未婚者とやもめに対して、結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います。加えて、結婚しても罪を犯すことにはならないとも言っていて、我慢できなければ仕方ないですね、結婚してもいいですよ、という調子です。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられて最後の審判や死者の復活が起きる日がもうすぐやってくる、そういう切迫した思いが当時のキリスト信仰者の間で強く持たれていました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちましたが、まだ今ある天と地はそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではなく、イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。

それでも、キリスト信仰者はいつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。これもイエス様が命じられていることです(マタイ24章44節など)。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは矛盾があるように感じられます。今愛情を注いでいるものが、無駄なことのように感じられてしまうからです。その場合は、ルターのように考えます。つまり、家族とか伴侶とか子供とかは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って、それらを忠実に世話し守り愛し育てる。贈られる神はまた取り上げられる神でもある。だから、もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。もちろん、これは痛みを伴います。その時こそ、キリスト信仰には「復活の再会の希望」があることを思い起こす時です。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は限られているのでとても大事なものとわかります。贈られたものと共にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そのように考えれば、終末を頭のどこかで覚えながら、今愛情を注ぐものがあることは矛盾しないのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

10月13日 スオミ教会家庭料理クラブのご報告


心待にしていた涼やかな気候のなか、
お休みを頂いていた「スオミ教会家庭料理クラブ」は再開しました。
メニューは「お母さんのベリーケーキ」mamman  marjapiirakka
フィンランドでも人気の高いブルーベリーを使ったケーキです。

最初にお祈りをしてスタートです。

計量をして生地を作り、冷蔵庫で休ませます。
次は生地に流すクリーム作りです、
計量した材料を混ぜ、使った道具類は洗われ、スムーズに作業が進みながらも、
楽しい会話も盛り上り、4台のケーキはオーブンに入りました。

焼き上がりを待つ間、キュウリとパプリカを添えたクラッカーに、
飲み物や食器類の用意と、牧師館のキッチンは大忙しでした。

きれいに焼き上がったケーキを、最初はアツアツで頂き、
次は少し冷めてからと、ケーキの味の変化も楽しみました。

パイヴィ先生からは、フィンランドで過ごされた夏休みの楽しいエピソードや、
ベリーのお話、聖書と詩編34章の一節を聞かせて頂きました。

次回のスオミ教会家庭料理クラブは11月開催予定です。

参加の皆様、お疲れさまでした、ご一緒できる機会を楽しみにしています。


ブルーベリーの 話「Mamman marjapiirakka」

今日皆さんと一緒に作ったブルーベリー・ケーキはフィンランドの家庭でよく作られるケーキの一つです。ブルーベリーの季節になるとどの家庭でも作られて、家族皆で出来上がりのケーキを美味しく味わいます。名前はフィンランド語で「mamman marjapiirakka」と言います。日本語に訳すと、「お母さんのベリーケーキ」です。

「Mamman marjapiirakka」はフィンランドの伝統的なベリーのケーキで、私の母もよく作りました。このケーキは、1976年に「Valio」というフィンランドの乳製品の会社の試験所でJarvinenという家庭科の先生が作ったのが始まりだそうです。「Valio」は新しい乳製品を沢山開発する会社なので、Valioから出されている乳製品の種類はとても多いです。1970年代にValioは酸っぱみがあるkermaviili という乳製品を開発して、これを多くの人たちが使うようになるために、Järvinen先生は「Mamman marjapiirakka」のレシピを作りました。この時ケーキのレシピは多くの雑誌にのせられて、フィンランド全国に広がりました。それで、「Mamman marjapiirakka」はあっという間に多くの家庭で作られるようになって、フィンランド人の好きなケーキの一つになりました。50年前に初めて作られたケーキが現在多くの家庭で作られるようになったのは興味深いことです。

今では「Mamman marjapiirakka」にはいろいろなバージョンがあります。上にのせるベリーはブルーベリーだけではなく、リンゴンベリー、ラズベリーなども使われます。スパイスに、シナモンかカーダモンを入れたら味の変化も出ます。

今年の夏私たちの家族はフィンランドに一時帰国をしました。今年のフィンランドの夏は珍しく暑くて、30℃くらいの日が一か月ずっと続きました。雨の日は多くありませんでしたので、夏休みを過ごす人たちにとって良い夏の天気でした。しかし雨が少なかったため、自然の植物や畑の野菜や麦などの成長はよくありませんでした。雨が少ない影響で森のブルーベリーやリンゴンベリーもあまり沢山出来なくて、しかも出来たベリーは大きさが普通より小さかったです。こんな夏でしたが、私の父は森にブルーベリーを採りに行って、けっこう沢山採りました。父はベリーがよく採れる森を知っていて、毎年同じ場所で採ります。ブルーベリーはいつもより小さかったでしたが、それでも甘くて美味しかったです。父が採ったブルーベリーのおかげで、私は「mamman marjapiirakka」を作ることが出来ました。父は余ったブルーベリーを冷凍して、冬それを毎朝のオートミールのおかゆの上にのせて食べます。

父は森でブルーベリーを採りましたが、私たちは父の家の庭の「くろくずり」を採りました。森と違って庭には蚊や蠅はいないので庭でベリーを採るのは森より簡単でした。しかし今年の夏は蜂が多かったので、刺されないように注意しなければなりませんでした。蜂は周りで飛ぶだけではなく、ベリーの汁を飲もうとしてベリーにもくっついていました。刺されないように注意してベリーを採りましたが、博明も私も刺されてしまいました。庭の「くろくずり」も去年より少なかったでしたが、「くろくずり」のジュースを作るくらいは十分採れました。

私たちは毎年新鮮なベリーや果物を食べることが出来ます。これは当たりまえのように感じられますが、少しよく考えてみると、美味しいベリーや果物などを食べられるのは私たち人間の努力のおかげではありません。ベリーや果物が育つのに適した光や温度などが必要です。これらは人間にはコントロールは出来ないことです。ベリーや果物の成長は天と地を造られた神様が与えて下さるものです。天の神様は自然を通して私たちに良いものを沢山与えて下さいます。旧約聖書の詩篇には良いものを与えて下さる神様に感謝したり賛美する歌が多くあります。詩篇34篇9-11篇には次のように言われています。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。若獅子は獲物がなくて飢えても主に求める人には良いものの欠けることがない。」私たちは天の神様の良い業をこのように気づいて賛美することが出来るでしょうか。私たちは自然を通して神様の御手の良い業を見ることが出来るのです。それがわかれば、私たちの心に神様に感謝する気持ちが生まれるでしょう。私たちの日常生活の中で神様に感謝することが他にもあるでしょうか?

生活の中には嬉しい、素晴らしいことが沢山あると思います。しかし、それらが当たりまえのようになってしまうと、感謝するのを忘れてしまうのではないでしょうか?また、生活の中に困難がある時には感謝することなどできないでしょう。そのような時、感謝することなんか何もないと思ってしまいます。でも、本当はあるのです。困難の時にも感謝することがあることに気づくと心に平安が得られます。どこに感謝することがあるでしょうか?悩みや苦しみがある時、私たちはお祈りして神様に全部のことを打ち明けることが出来ます。もし私たちが自分の父親は頼りに出来る人と思うならば、同じような信頼を持って天の父である神様にお祈りして全部のことを打ち明けてよいのです。神様は私たちも私たちの父親母親もお造りになった創造主です。その方が、私を信頼しなさい、全てのことをお祈りで打ち明けなさい、とおっしゃって下さるのです。それが出来れば、全てのことを神様の御手に委ねて、自分一人で心配事を抱える必要はなくなります。神様が一緒に背負って下さいます。先ほど読んだ詩篇には「いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」と書いてありました。私たちは神様に信頼することが出来たら、心に平安も得ることが出来ます。そこから神様に感謝の気持ちも生まれます。

このように、困難の時に天の父である神様にお祈りして全てを打ち明けて委ねることが出来れば、神様に感謝の気持ちが起こってきます。この時、私たちは困難の中にあっても心には平安があります。これは神様が与えて下さる平安です。

いろんなベリーも、他の素晴らしいものも全ては私たちのためになるようにと、神様が与えて下さるものです。だから、私たちの感謝もいつも、最終的には創造主である神様に向けられるのがふさわしいのです。

「いずみの会」合同修養会早朝礼拝説教「永遠の命の約束」吉村博明 宣教師 2018年10月8日(国民宿舎「サンレイク草木」中庭にて)

 説教題「永遠の命の約束」

 聖書の箇所 第一ペトロ1章22-25節

「あなたがたは、真理を受け入れて、
 魂を清め、偽りのない兄弟愛を
 抱くようになったのですから、
 清い心で深く愛し合いなさい。
 あなたがたは、朽ちる種からではなく、
 朽ちない種から、すなわち、
 神の変わることのない生きた言葉によって
 新たに生まれたのです。
 こう言われているからです。
 「人はみな、草のようで、
 その華やかさはすべて、
 草の花のようだ。
 草は枯れ、花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に
 変わることがない。」
 これこそ、あなたがたに福音として
 告げ知らされた言葉なのです。」(新共同訳)

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.この聖句は、日本人をおやっと思わせてちょっと立ち止まらせる、そんな聖句ではないでしょうか?「人はみな、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ、草は枯れ、花は散る」などとは、中学の国語の授業で暗記させられた平家物語の冒頭部分「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」を彷彿させ、皆さん共感を覚えるのではないでしょうか?特に日本の場合は桜の花がこの、美しいもの華やかなものはいつまでも続かないという思いを強めるのに一役買っていると思われます。加えて、散りゆく桜を見て美しさ華やかさは儚いものだと思っているうちに、いつしか逆に儚いもの散ること自体が美しいのだと言い換えられて強調されるようになる、そういうことが戦争中の日本にはあったのではないでしょうか?(最初の特攻隊の部隊の名前に本居宣長の「山桜」短歌の言葉が使われたり、ある特攻兵器は「桜花」と名付けられたり、軍歌の「同期の桜」などに表れていると思います。)

そういう日本人が共感を覚えるようなことを言った後で、この聖句は突然、共感者の夢を覚ますようなことを言います。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」ギリシャ語の原文を直訳すると、「主の言葉は永遠にとどまる、残る」(μενει εις τον αιωνα)です。つまり、草や花そして人間のように枯れたり散ったりせず、ずっとずっと永遠に残る、です。この聖句はイザヤ書40章8節の引用でもあります。ヘブライ語の原文を直訳すると、「永遠に続く」とか「永遠に効力を持つ」(יקומ לעולמ)です。人間が持てる華やかさも、またそれを持つ人間自身も永遠には続かない、草や花のように枯れたり散ったりして終わってしまう。もっともななことです。ところが、この聖句は、私たちの目と心をそこに止めっぱなしではいけない、と言わんばかりに、「しかし」(δε)と言って、神の言葉は永遠に続く、永遠に残る、永遠に効力を持つ、と言います。そこに目と心を向けよ、と言うのです。この聖句は限りある人間に、特に限りあることに思い入れが強い私たち日本人に何を呼び掛けているのでしょうか?

 

2.まず、「神の言葉は永遠に続く」とはどんなことか考えてみましょう。私がこの世から死んだ後も聖書は読み続けられるでしょう。その意味で、聖書が世代を超えてずっと読み継がれていくということでしょうか?そうではありません。聖書の立場では、この世というものは天地創造の神に造られて始まった、そしてそれには終わりがある、その時新しい天と地が創造されて今のものに取って代わるということがあります。森羅万象の有り様がかわるので、聖書を繙くという今の世の人間の営みはもうありません。なぜなら、聖書の立場では、今の世が新しい世に取って代わる時、死者の復活が起きて、神の御許に招かれる者は栄光の復活の体を着せられて永遠に神の御許に戻るということがあるからです。その時、神が聖書の御言葉を通して約束していたことは、もう繙いて読むことではなくなって、実現したものになって見たり味わったりすることになるのです。

そういうわけで、神の言葉が永遠に続くというのは、それが神の揺るがない約束としてあって、今の世を貫いて新しい世にて実現する日を待っている、まさに天地創造の神が約束したものなのでそれは神の側で忘れられずに実現する日までちゃんとある、ということです。

このように神の言葉はというのは全て、今の世に代わる新しい世の創造、死者の復活、永遠の命についての神の約束です。それだけではありません。第一ペトロの聖句に引用されているのはイザヤ書40章6節から8節までですが、7節をみると、「草は枯れ、花は散る」と言った後で、「なぜなら、神の息吹が吹き付けたからだ」と言っています(「神の息吹」は「神の霊」、「神の風」(רוח יהוה)とも訳すことが可能です)。この部分はペトロの引用では省かれていますが、イザヤ書では、枯れること散ることが神から罰を受けたためであると言われているのです。罪の汚れを内に持つ人間は誰もそのままでは神聖な神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう存在でしかありません。

しかし神は、人間が罪から離れて最後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、自分のもとにいて完全に安全、安心でいられるようにしてあげよう、まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そしてイエス様を十字架の上で人間に代わって罪の償いをさせて死なせ、彼の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。さらにイエス様を死から復活させることで永遠の命の扉を人間のために開いたのです。人間はこの「福音」を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになったのです。順境の時も逆境の時も変わらずに神に守られて励まされて慰められて時には叱咤されて、歩むことになったのです。

第一ペトロの聖句は、永遠に続く神の言葉のことを「福音として告げ知らされた言葉」であると言います。イザヤ書の時代ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ預言されただけでした。預言されたことが実際に起こったおかげで、神は私たちに永遠の命の約束も必ず果たして下さるのだとわかるようになりました。こうしてイエス様の十字架と復活の「福音」と永遠に続く神の言葉は切っても切れない関係になりました。イエス様の福音を宣べ伝えることは、神の永遠の命の約束は本当なのだと宣べ伝えることになるのです。

 

3.さて、この世には枯れない散らない、永遠に続く神の言葉というものがあることがはっきりしました。それは、イエス様の十字架と復活の「福音」に裏打ちされた、神の永遠の命の約束です。この約束が果たされると信じて生きることは、永遠に続くものがあると信じることになります。それだけではありません。第一ペトロの聖句では、「人間」は草のように枯れると言っていますが、ギリシャ語では草のように枯れるのは「肉」(σαρξ、בשר)です。そして、神の言葉を受け入れて聞き従う者は「新しく生まれた者」と言います。つまり、人間の有り様が肉だけではなくなって、霊が加わるのです。それで、永遠に続くものがあると信じるだけでなく、永遠そのものに与ることになるのです。枯れたり散ったりするものばかりのこの世にあって、朽ち果てないものに属して生きることになるのです。

 それでは、永遠に続くものを信じ、永遠そのものに与って生きることは、日本人らしくないでしょうか?また、咲いている時間が短いゆえに美しさが一層際立って見える桜の花を美しいとは感じなくなってしまうでしょうか?

そういうことにはならないと思います。というのは、キリスト信仰者は、桜の花が短く咲いて散ってしまうことにも、永遠を司る神の御心が表れているとわかるからです。花の後は葉桜になって、花ほど美しくないかもしれないが、その新緑はゴールデンウィークの頃までは陽光の中でキラキラ輝きます。その後は緑濃くなって夏を越し、秋には散って、木枯らしの冬を越して、また3月終わりに芽が出てきて見る見るうちに開花します。花が散るというのは、一つの素晴らしい段階が終わって次の素晴らしい段階の始まりです。ひっそりと佇む段階もあるが、その後にまた素晴らしい段階が来る。創造主の神は桜にそのような習性を与えたのです。このように季節に応じた桜の有り様に神の御心を知ることができます。もちろん、樹齢長い桜と言えども、神が与えた寿命を満たせば枯れてしまいます。それでも寿命と季節の有り様を与えた神の御心はそのままで変わりません。

永遠に続くものを信じ、それに与って生きることが日本人らしくないとすれば、何が日本人らしいでしょうか?その日本人らしさの中では、希望や喜びは何でしょうか?

キリスト信仰者の希望や喜びは、永遠に続く神の言葉を信じ、永遠の命に与ることにあります。神は、人間が御心に沿って罪から離れて生きるようにと、御言葉を与えました。さらに御言葉を正確にわかってそれに基づいてこの世を生きて、永遠の命への道を歩めるようにと、イエス様を送られました。そういうふうに言うと、キリスト信仰者は永遠の命ばかり考えてこの世で生きることはどうでもよくなってしまうのか、と思われてしまうかもしれません。いいえ、そんなことはありません。第一ペトロの聖句は永遠に続く神の言葉について述べていますが、同時に愛し合いなさいと勧めていることにも注目しましょう。イエス様の福音に裏打ちされた神の言葉を受け入れ聞き従う者は、神から頂いた恵みの大きさにただただ恐れ入りひれ伏してしまうので、もう些細な事、利己的な思いや下心、他者との比較などは馬鹿馬鹿しくなって、そういうものから心が洗われてしまいます。その清められた状態にふさわしい生き方は愛に生きることだと、ペトロはまだ気づいていない信仰者に思い起こさせているのです。

ところで神の御心は、神の創造の中にある自然の営みにも表れています。その中には、人間にとって冷酷な自然もあります。それに挑むと命を落としてしまうような自然です。瞬間風速60メートルの暴風の中を、神が守ってくれるから大丈夫だ、などと言って車で出かけるのは、神を試すことになります。他方で、人間に喜びと感動を与える美しいものもあります。昨晩、皆さんと一緒に星野富弘さんの半生記を扱ったビデオを見ましたが、その中で彼が、体が自由な若い頃はよく山に登り花なんかあまり目を留めなかったが、体が不自由になって花が身近な自然になって以来、花には「手の込んだ美しさがある」とわかるようになったと言っていました。まさにこのことです。この世で永遠の命への道を歩む私たちは、神の御心が働いている美しいものをもっと見つけようではありませんか。何が神の御心が働く美しいものかは、御言葉に基づいて生きていけばわかるはずです。御心が働いているとわかれば、美しいものから慰めと力づけを得られます。神はそのために美しいものを備えて下さったのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン