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聖餐式:木村長政 名誉牧師
聖霊降臨後 第12主日 (緑)
コリントの信徒への手紙 10章6~13節
2019年9月1日(日)
今日の聖書は、コリントの信徒への手紙 10章6~13節です。
前回10章になって、パウロは突然モーセの話を持ち出しました。[私たちの祖先は、皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた。]
モーセが、イスラエルの民を、奴隷の状態にあったエジプトから、脱出させた。
これはイスラエルと神との歴史、を述べてきました。神が全人類の中でも、特に、イスラエルという民族を選んで、神の業をなしていかれたのです。
ところで、そのイスラエルは、神の前に、いろんな意味で、罪を犯してしまうのでした。罪を犯したというのは、自分たちの事は自分だけで何とかできるようになると言う事、別に神等と関係なしでいけるのだと、思ってしまいます。
しかしこれは、神の前に於いては罪を犯したという事です。
10章5節には「彼らの大部分は、神の御心に適わず荒野で滅ぼされてしまいました。」とあります。罪を犯したのなら、神の罰があるのであります。
しかし、ここに、事はそれだけではありませんでした。私たちの思いもよらない、神の真理の世界が示されていきます。イスラエルが罪を犯したことは、この民の中の神の背き、人間の欲、深い問題でありますね。ところがここに最も心を用いられたのは、神様でありました。
彼らは、たしかに、神に対して罪を犯したのでした。神はモーセを通して、様々の律法も与えられ、それによって、罪を犯してしまう自分たちに気づかされたのでありました。
しかし、もう1つの事がありました。彼らの罪は、神に対することであっただけでなく、その罪も又、神が支配しておられたのであります。
もう少し、ふみこんで申しますと、これは、神がすべてを支配しておられ、罪をさえ、支配される。それだけでなく、このように、神が支配されるのは、その罪さえも神の 御業のために用いられる、ということでありました。
だから聖書に記されたのです。
神の救いのために、いましめとして、神が用いられるのであります。
これはすごいことでありますね。
例えば、前の者が何か失敗したり、しかられたり、きびしくそのとがや失敗をとがめられる、それを見て、自分は前の者のやぶれを教訓にして、そして、自分はあーにはならないぞ、といった程度の話ではありません。
1つの例として、エジプト脱出の話をしたいのであります。イスラエルの民はエジプトを出る時、それはもう大変で、着の身着のまま、そこいらにある食料をもてるだけ持って、にわとり、やぎも羊もみんないっしょになって、何万という民が互いに助け合いながら旅に出ます、が、やがて、食べるものも水もなくなって、つぶやきや不満が起こります。どこへ向ってのがれて行くのかわからない。
とうとう行きついた先は紅海でした。海です。民はモーセに、ののしり、迫ります。モーセは両手を
天にかかげて祈るのであります。そうすると目の前の海が二つにわれて、そこに道ができたのであります。モーセにもわからない、神のみ業が海の道を開いたのです。
イスラエルの民は、海の中をわたって、苦難をのがれることができた。
いったい誰がこのようなことが起るのを想像したでしょうか。
神様は、御自分の御業のために、どんな事でも用いて、私たちには、測り知れないような事を神がなさる、ということであります。神の支配であります。
更に、神がそのようになさったことは、信仰を持った者でなければ知ることはできない。
なぜなら、これは、信仰を持った者のために与えられることだからであります。
もっと言えば、神の支配が一層広く及ぶため、だからであります。
イスラエルの民が神の前にした事すべてが、信仰者には心に刻んでほしい大事なことでありますから、聖書に書かれたのであります。
それは、聖書を読むことのできる者、すなわち、信仰を持っている者に対して、訓戒と警告とを与えるためであったのです。
信仰を持たない人にはわからない。
パウロは、コリントの教会の中で起こっている大変な問題を、具体的に数字を上げ、赤裸々に悔い改めをうったえています。それが6節~10節までにパウロが書いているとおりです。読むだけでわかります。
6節[これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために、彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらな事をした者は、一日で2万3千人倒れて死にました。又、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなた方はそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらの事は前例として彼らに起こったのです。]
そうしてパウロは、これまで延々と述べてきたまとめとして、11節に記しています。「それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している私たちに警告するためなのです。」
世の終りに臨んでいる者たちのためと言うふうに記しています。
自分が世の終りに臨んでいるという事は、信仰がなければ分からないのです。初代の教会の人々には、このことが特に強く感じられていたと思われます。彼らはこの世の終りがやがて来ると待望していたのです。
世の終りに臨んでいる、というのはどういうことでしょう。
はじめの教会の人々は、主がもうまもなくおいでになると信じていました。その時が世の終りである、と思っていました。ですから、世が終りであるというのは、ただこの世のすべてが終わってしまうという事だけでなく、救い主がおいでになる時ということであります。
この時から救いが完成するのである、ということなのです
神様から与えられている救いが、完成する時であります。
ナザレで30年をすごされたイエスは、ガリラヤへと出てこられ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」と叫ばれて、わずか3年間、イエス様はひと時もおしまず、福音を語り、あらゆる所で病人をいやし、奇跡の業を行われた。12人の弟子たちは毎日、一瞬たりとも離れず、イエスがあらわされた神の国を示された。にもかかわらず、彼らは理解できないまま、イエスは十字架上に死をもって限りない神の愛を示された。どれもこれも、すべては完全ではない未完成のままで、彼らのこの世では、幻を見ているようでありました。ちょうどくもりガラスを見ているようでよく分からない。
しかし、終りの時、救いが完成するのである。不充分であった未完成がすべて完成するのであります。
神の時の中で、神の世界のすべての真理が見えてくる。深い深い無限の神の愛が存分にあふれて、私たちのすべてをつつんでくれる。ゆるしの愛、いたみの愛からすべてつつみこんでよろこび合う愛が分かる。すべてが完成する時なのです。
私たちは、皆、死が終りではなく、新しい生活が始まる。
この時から、新しい時代が始まるのであります。
<アーメン・ハレルヤ>
中野での最後の礼拝も終わり記念撮影をしました。いろいろと欠陥の多いいどう仕様もない建物でしたが私は好きでした、今日ここに集まった方々も同じ思いでしょう。まことにまことに残念でなりません。来週からは早稲田の新会堂に移ります、かの地でも神の祝福が有らんことを願って去りました。
聖霊降臨後第11主日(スオミ教会 4) 2019年8月25日
イザヤ66:18~23、ヘブライ12:18~29、ルカ13:22~30
説教 「神の国の宴会に招かれている」
序 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!
1 今日の詩編117編は最も短い詩編である。しかし重要な詩編である。
「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
これは旧約聖書の時代、聖会つまり礼拝を開始する際、祭司が、その開始を呼びかける言葉、賛美の言葉として用いられてきた。
①イスラエルの民のみならず、すべての国よ、すべての民よと繰り返し世界の国々、世界の民に主への賛美、礼拝を呼びかけている。
②この詩編は単純、素朴に、礼拝の司式者が:
◎先ずすべての人々に、その日毎の生活に「神の豊かな慈しみ、恵み」が
与えられていることを告げる。
◎さらにそのために「主のまこと、その真実は永遠である
言い換えれば「主は、最後まで決してあなたを見捨てない」と歌う。
◎ハレルヤは、アーメンと共に、会衆の神への賛美と感謝の応答の言葉である。
◎今日のこの礼拝を、時代から時代へと私たちを導く神の民の礼拝に 連なる礼拝として、また大きな過渡期にあるこのスオミ教会の礼拝を今神さまの恵みの中に守っていることを感謝をもって確認したい!
=
2 さて、今日の福音書の日課にはその冒頭に 「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」(ルカ13:22)とある。
これは主イエス・キリストの生涯が、
第一に、神の国を宣べ伝えること、宣教であったこと。
第二に、その目的は、エルサレムにあることを語っている。
1
さて、主イエスの宣教の歩みを振り返って見よう。
先ずフィリポ・カイザリアでの出来事(ルカ9:18~27)。
そこでペトロは、「あなたこそ神の救い主である」と信仰告白した。
それに基いて、主イエスによって教会誕生の予告なされ、その直後、
主イエスは、第一回目の十字架と復活を予告された。
この直後が、主イエスの山上の変容である。(ルカ9:28~36)。
それは栄光に輝く神の国到来の前触れである。そしてその直後から、
主イエスの歩みは『エルサレム』を目指すものとなった。
異教の神(バアル)礼拝の地サマリア訪問(ルカ9:51~55)。
主イエスと弟子たちは共にサマリアの村を訪ねたが歓迎されなかった。
しかし、再び主イエスの『エルサレム』行が、確認されている。
宣教の強化、進展が図られた(ルカ10:1~12)。
12人の弟子に加えて、主イエスは72人の弟子を宣教に派遣する。
ここには宣教の緊急性と必要性がしるされている。
主は、宣教の初心に立ち返ることを求められた(ルカ13:1~5)。
洗礼者ヨハネと主イエスの宣教開始の言葉:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」の言葉の想起である。
<繰り返して、主イエスは悔い改めの必要性を語られた!>
そして今日の日課の冒頭で、3回目のエルサレム行が確認される。
イエスは・・・『エルサレム』へ向かって進んでいた」のである!
◎この経過(プロセス)において明らかなことは、繰り返して主イエス・
キリストは、「エルサレムに向かっていた」ことである!
第一にエルサレムは「十字架と復活の出来事」が生起するところである。
ちなみに、ヘブライ語で、エルは神、サレムは平和、平安である。
第二にエルサレムは神の平和(シャローム)の成就、実現する都である。
イザヤの預言(52:1)には聖なる都として描かれ、預言されている。
今日のヘブライ12:22には、生ける神の都、天のエルサレムとある。
JSバッハ:カンタータ140番「起きよ、夜は明けぬ」(教会讃美歌137) は神の国到来の備えの歌。「われら喜びの宴、晩餐を共に祝おう!」。
2
3 今ここで、私たちは時には、自らの人生の振り返りの必要があるであろう。
◎Pゴーギャンという画家の人生を閉じる前に描いた有名な絵がある。
私たちは12年前ボストン美術館で観た。日本でも10年前東京国立近代 美術館で2か月半展示された。各方面に大きな影響を与えた。
縦が139.1、横が374.6cmの壮大な絵である。
その絵の右上には「我々はどこから来たのか?」、「我々は何者なのか?」
そして「我々はどこへ行くのか?」との言葉が記されてある。
<その主題のもとにPゴーギャンは、人生の縮図を描いている>
◎この場合、私たちは他者のことではなく、自らの人生について問うこと
が求められている。
特に、キリスト教信仰にあって生きている私たちである。
M.ルターは「神のみ前で」(coram deo)という言葉を重視した。
私たちは多くの場合、「人の前で」の自分を、気にする。・・・・・
しかし、すべてをご存じの「神のみ前で」自らを省みる必要がある。
◎神のみ前で、今の自分を省みて、自分は一体どこから来たのか?、何者なのか?そしてどこへ行こうとしているのか?問う必要がある!
◎主イエス・キリストは常に、エルサレムに向かわれた。
これから私は、どこへ向かおうとしているのか?
4 さて、神の救い、神の国の実現を目指す中で、主イエスは言われた:
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ13章4節)と。
ルカ福音書では、「狭い戸口」とある。マタイ7章14節の門と同じである。
ヨハネ10章7節で、主イエスは「わたしは羊の門」と言われる、さらに
10章9節では、「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる」
と断定的に言われる。神の国に招かれるのは、主イエスによるだけである
しかし、神の国への歩みは、困難、試練がある!と教えられる。
何故か?その門を入り、その与えられた道を歩むことは、人間の知恵、知識また経験からくる常識的な判断をはるかに超えるからである。
3
それゆえに、しばしば困難があり、迫害があり、試練がある。
十字架を前にした弟子たちの姿を見れば明らかである。「弟子たちは皆、
イエスを見捨てて、逃げ去った」(マタイ26章56節)のである。
そこには信じる者の、不信もあり、不服従もあり、裏切りさえもある!
このような主イエスへの
服従にも拘わらず、主イエスの門を入り、その道を歩む者を主イエスは決して見捨てることをしない。祝福が約束される!
そしてその行く先は、聖なる都、エルサレムである。今日の使徒書の日課
ヘブライ12章22節によれば、「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり」であり、そこにいますのは新しい契約の仲保者、イエス」なのである!
そこに繰り広げられるのは、祝福に満ちた「神の国の祝宴!
なのである。
◎私は定年直後に、ELCA(アメリカ福音ルーテル教会)からのお招きを
受けて、ハンティントンビーチの教会で4年半滞在した。
その時に、Sさんという沖縄出身の婦人のアメリカ人の夫が末期癌と宣告
されその牧会と葬儀を委任された。その方は海兵隊の出身で、沖縄に滞在
した。除隊後、長年かかって大学で学んだほどの誠実な努力家であった。
末期が近づいた時に、彼は「一つ頼みがある」と言った。彼の姉はカトリック教会のシスターであったが、葬儀の時に歌った賛美歌を私の時にも
歌って欲しい、という。調べると讃美歌481(さかえに輝く)である。
ヨハネ黙示録7章9節以下参照。神の都エルサレムでは白い衣を身に つけた大群衆が、棕櫚の葉を打ち振り、神と小羊への賛美を歌う。
彼が姉とこのような信仰を共有していたことに感動したのを覚えている。
今日の説教の終わりは、ヘブライ人への手紙の最後の部分に記されている 祝福の言葉(13章20節、21節)で終わりたい。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
「神学部時代の思い出」をご覧ください。
聖霊降臨後第10主日(スオミ教会 3) 2019年8月18日
エレミヤ23:23~29、ヘブライ12:1~13、ルカ12:49~53
説教「真の平和をもたらすために」
1今日の福音書の日課の見出しは「分裂をもたらす」である。また日課の冒頭の主の言葉は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」で、さらに
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」である。
これは実に衝撃的な言葉である!異常さをさえ覚える言葉である。
今日、8月半ばの日曜日、「平和を考える主日」としてふさわしい日である。
8月に入ってから、TVやラジオで「戦争と平和」を特集し、報道している。
「真の平和が、祝福がもたらされ、実現するために
、主なる神さまのみ心と
お導きが、いかに深いものであるかが、ここに内包されている、と私は思う。
ここで主イエスは先ず、「火を投ずるために来た」と言われる。
旧約聖書から学ぶことが出来るのは、「火は聖なるもの
である。
(1)先ず「火は神ご自身の臨在を示すもの
◎モーセの召命の出来事において、ご自身を現された。
「見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。・・神は言われた
わたしはあなたの神である。・・・わたしはあなたと共にいる」と。
(出3:2~12)
◎神の民の出エジプトの荒れ野で、夜は火をもって神の民を導いた。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
(出13:21~22)
◎シナイ山頂で神の民に十戒を与える時、神は火の中から語りかけた。
「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。・・・
それが十戒である。 (民4:12、出19:18)
(2)続いて、「火は神の裁きの力」を示すものであった。
◎主なる神に背いた退廃の町ソドムとゴモラは火をもって滅ぼされた。
「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
(創19:24~25)
◎詩編からダビデの詠んだ歌にもある。
「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。
(詩11:6~7)
◎イザヤの裁きの預言にも、火の裁きが語られる。
「万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ、民は火の燃えくさのようになり、だれもその兄弟を容赦しない。
(イザヤ9:18)
2 今日、主イエスは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と言われる。
「その火が既に燃えていたら」とは、極めて終末的な表現である!
<私はここで主の道を備えた洗礼者ヨハネの言葉を想起する>
荒れ野に出てきた群衆にヨハネは語る、「蝮の子らよ!斧は既に木の根元に置
かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ3章9節)と。
この火は、今日の主イエス・キリストの言葉の文脈から言えば、それは
“裁き”であり、また同時に“清め”の言葉である。
裁きというのは、言うまでもなく「罪の裁き、断罪
洗礼者ヨハネの言葉から学ぶことができる。洗礼者ヨハネは、周知のように主イエス・キリストの道を備える者、先駆者として来た、すでに預言者イザ
そのヨハネが語った。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという 考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ3章9節、10節)
主イエスも、宣教活動開始直後から神の民イスラエルの不信に対して、厳し
い裁きの言葉を語られたのである。(ルカ4章25節以降参照)。
このように洗礼者ヨハネも、主イエスも、神の民の不信、人間の罪ある現実
をするどく指摘し、悔い改めを促した。この信仰に生きる姿勢は宗教改革者
ルターにも受け継がれている。宗教改革の発端となった「95か条の提題」
第1条には語られている。「私たちの主イエス・キリストは、キリスト者の
全生涯は悔い改めであることを欲したもう」とある!
清めというのは、「罪からの清めであり、そこには希望
がある。
洗礼者ヨハネは、裁きと同時に、悔い改めの勧めと、救いの道を備えた。
それは主イエスによる洗礼である。
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼
を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」 (ルカ3章16節参照)。
主イエスは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられた。そして私たちにも
主イエスにより洗礼の恵みが与えられるのである!ここに希望がある。
裁きと清め、終末の裁き、それは「十字架と復活、命の源」である。
飛躍した表現を取れば、これは決定的な神さまの救いのみ業である。
主は言われた『わたしには受けねばならない洗礼がある』(ルカ12:50)と。
これは救いを実現するために、主の苦難、十字架が必要であったのである。
主イエスは言われた、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、(十字架に)
殺され、三日の後に復活する」(マルコ8章31節、マタイ16章21節、
ルカ9章22節)と。この十字架と復活にこそ、救いと命の源がある。
3 今日の主題「平和」について、使徒書ヘブライ人への手紙から学ぶ。
日常生活体おいて、信仰による個人の成長が求められている!
<ヘブライ12章11節>「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
今日の使徒書であるヘブライ12章の日課は「主による鍛錬」とある。
◎先ず、ヨブを想起する。5章17節~18節
「見よ、幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。
続いて、申命記律法の言葉がある。8章5節
「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
人との平和である!家庭の、日本の、世界の平和が求められている!
<へブライ12章14節>「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
=使徒パウロの言葉を想起する。ロマ5章3節~5節
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖 霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
4 最近のホスピスでの出来事:Sさんの牛込の家は、第二次世界大戦の東京大空襲で牛込の家は全焼した。彼女は小学生でその時、学童疎開で茨城の親戚の家にいて無事であった。1年後、戦地で大きな負傷をした父親がよれよれになって帰ってきた。それまで家族は、バラバラであったが、牛込の土地に穴を掘り、土塀を作り、トタンで屋根を葺いて、生活を始めた。当時彼女は教会学校へ行きだした。それから70年数後、Sさんはホスピスにいた。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませ
てあげよう。」(マタイ11章28節)のコピーを手に持って、「神さまのお
与えくださる平安は最高!」と言って、最後の時を迎えたのである。
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コリント信徒への手紙 10章1~5節 2019年 8月11日
先週に続いて、コリント信徒への手紙を見ていきます。
今日は10章1節からです。今回のテーマは、7節で言っていますように「偶像を、礼拝してはいけない」ということです。
パウロが伝道しました時代、コリント地方はいろんな宗教があって、人々の心は混乱していたでしょう。パウロが、あれ程、心血注いで、キリストにある信仰を宣べ伝えた教会の中にも、いわゆる偶像の問題が起って、パウロはこれに対して、だまっておれない、どうしても、しっかりと、コリントの教会の人々に信仰に目覚めて欲しい。
手紙の中で、こうして10章にいたって、書かざるを得ない気持で記しているのであります。
6節「彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために。」
又、8節には「彼らの中の、ある者がしたように、みだらなことをしないように。」
みだらなことをしていた者に対して、神は、ようしゃなく神の罰を与えられた。一日で、みだらなことをした者2万3千人倒れて死にました。キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて、滅びました。不平を言った者も滅ぼされました。こうしたことを面々と書いて、10章での結論は、11節です。「これらの事は前例として、彼らに起ったのです。それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している、わたしたちに、警告するためなのです。それで14節に書きそえています。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」と、パウロは万感の思いをこめて、筆をとったのです。
さて、以上のことを書いて、読んだだけで、コリントの教会の人々の中の偶像に心みだれている者が、新しく、変るでしょうか。
パウロは、10章の冒頭に、突然、モーセの話を、出してきたのであります。
これまた、おどろきでありますね。
パウロの持ち味の、自由奔放な、広い信仰の中から、力強く、美しい言葉をつらねて書いています。
1節、「兄弟たち、次の事は、ぜひ知って欲しい。」とこう言う。イスラエルの民が、モーセによって導かれ、エジプトを脱出し、長い旅をしていくのであります。壮大なこの出来事を出していきます。<出エジプト記32章にある話であります。>
モーセが、シナイ山で、神から十戒を受けていました時、その帰りが遅いので、イスラエルの民は、モーセの兄、アロンに、自分たちのために、神を造ってくれと迫りました。アロンは、みんなに、金等を持ってこさせ、それをとかして、金で偶像を造って、拝ませたのであります。<全く、おどろくべき話です。>
一方で、モーセが神に会っている、最も尊い、聖なる瞬間に、もう一方では、山のふもとで、イスラエルの民は、もう、長い旅に疲れはてた。そうして、自分たちの偶像を造って、拝むという事が、起っていきます。実に、人間の愚かさを示しています。
人間が、神がなくては、生きていくことができない、ということであります。今の今まで、モーセが、神のみを頼り、導かれて、長い旅をしている最中です。モーセによって、神を拝む生活をしていながら、モーセが見えなくなると、すぐに偶像を造ったのです。人間が拝むものなしには、生きられないものである事を、よく表しています。
私たちは、自分たちが、そんなにやすやすと、偶像礼拝するような人間であると思っていないはずでしょうが、そう思いながら、あらゆる事で偶像を造らなければ、生きることができないのであります。
偶像と言っても、そんなことはない、と思うかも知れませんが、これこそ頼りにすべきもの、偶像に似たものはいくらでもあるのではないでしょうか。神以外に、これがなければ生きられないものをさしているでしょう。
14節、パウロは、こん身をこめて、言っています。それだから「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」
しかも、ここには、奇妙なことが書いてあります。
それは、何の前触れもなしに、洗礼と聖餐のことが書いてあることであります。
洗礼と聖餐をもって表されるものは、言うまでもなく、教会生活であります。
それならば、どうしてパウロは、偶像礼拝の問題と、洗礼と聖餐とをもって表される教会に於ける礼拝生活とを比べて、語ろうとしているのでしょうか。
ここには、教会という字は出てきませんが、それが、教会であることは、明らかなことです。
その教会の中心的なことが、礼拝であることもよくわかります。そうであれば、パウロが偶像礼拝について、きびしく戒めようとした事が、一層はっきりするのではないでしょうか。
しかし、この事を語るのに、パウロは、イスラエルと教会との関係を、いきなり語るのです。
教会は、イスラエルから出たものであり、又、新しいイスラエルなのであります。そのことを言うのに、洗礼と聖餐のことを述べようとするのであります。
教会は、新しいイスラエルである、と言う代わりに、洗礼と聖餐とが、イスラエルの経験した事と、どのように関係しているのかを告げるのであります。
イスラエルの最大の経験は、エジプトにおける奴隷状態から、救い出されたことでありました。
旧約聖書は、ことある毎に、この神の救いの出来事を語るのであります。神もまた、ご自分をあらわすのに、自分は、お前たちを、エジプトから救い出したものである、と言われるのです。それ故に、イスラエルにとって、最も重要なことの1つは、エジプトから出る時、紅海で海を渡ったことでありました。海が二つに分かれて、彼らが、陸地を通るようにして、海を越えることができたことであります。しかし、そのことを、パウロは、モーセが海の中でバプテスマを受けたのである、と、説明するのであります。それならば、モーセをはじめ、イスラエルの民は、紅海の中で、これを渡ることによって、洗礼を受けたのであって、教会が行う洗礼は、そのことをモデルにしたものである、と言うのであります。
このような導きは、言うまでもなく、神によるものであります。神は昼は雲の柱、夜は、火の柱をもって、ご自分の、ご臨在を示されました。ここに、2節のところで、雲の中、海の中と言われているように、雲のことが言われているのは、そのためであります。出エジプト記13章21節に記されています。
ところで、海の中を通ったイスラエルは、霊の食物を食べ、霊の飲み物を飲んだのであります。
旧約聖書は、神がマナを降らせ、うずらを与えて、イスラエルを養われたことを、記しております。
しかし、ここに書かれているのは、彼らが飲んだ水のことであります。荒野の長い旅の中で、彼らの生命の源となったものが水であったことは、言うまでもありません。その水を得ることが困難であったところから、かえって、更に難しい方法で、水が与えられることが信じられるようになりました。それは、岩から水が出る、という事であります。
モーセが手を上げ、杖で二度打つと、岩から水がわき出したので、会衆と家畜とが、共に、それを飲んだのであります。民数記20章11節に記してあります。
その事から、やがて、その岩からはじまって、彼らは、いつでも水が飲めるようになった、ということです。
それが、ここに、パウロが書いている事であります。
この水は、どんな時にも、どこででも、彼らが飲むことのできるもであって、もし、それを今の信仰生活にあてはめて言えば、この岩は、キリストにあたるわけではないか、と言うのです。
この水が聖餐であるとは、書いてありませんが、しかし、イスラエルに、このような命を与えたものを、もし私たちの信仰生活に、あてはめて言えば、それは、聖餐にあたる、と言ってもいいのであります。
まことのイスラエルとは、まことの神の民、神を拝むことを知っており、偶像を拝まない、イスラエルと言わねばなりません。
神の約束を信じて、新しく出発した民でありましたが、その多くの者は、神をあなどったために滅びてしまいました。これらのことについては民数記14章にあります。
そこには、この民が、神に背き、神の怒りをひき起したことを述べ、それに対して、モーセがどんなに神にゆるしを求めたか、が記してあります。
イスラエルの人々は、少しつらいことがあると、「ああ、私たちは、エジプトの国で、死んでいたらよかったのに」と騒ぎ立ちました。又、わざわざこの荒野に来て苦しい目にあうぐらいならエジプトで奴隷のままで死ねばよかった、」と言うのです。
このことは、信仰生活をする者に、しばしば、おそってくる誘惑ではないでしょうか。
そういう不安や、つぶやきが、ただ、自分の気持ちをぶちまけているにすぎないのです。それが神に対する不平であるとは思わない愚かさがあります。
神様は、これに対して、「わたしが、もろもろのしるしを、彼らのうちに行ったのに、彼らは、いつまでも私を信じないのか」と仰せになりました。 民数記14章11節に記してあります。
信仰生活とはどんなものか。それは信仰をもって見るほかありません。神のなさることが気に入らないと、その神からのしるしが見えないのであります。モーセは、そのことがわかっておりました。彼は熱心に、その民のために神にとりなしたのであります。
私たちが信じている神の恵みは、神のさばきを乗り越えたものである、という事であります。
それゆえにこそ、たしかな恵みである、ということが言えるのです。
私たちに与えられている救いは、確かなものであります。
パウロはだから、モーセのひきいた出エジプトの出来事を見よ、と叫びたいのであります。
偶像礼拝の誘惑に人間がいかに弱いかを、パウロは、この話を持ち出したのであります。
パウロは警告するのです。
偶像礼拝を避けなさい、と。 <アーメン>
早稲田の新会堂の近況です。近況と言っても先週の水曜日でしたので現在はガラスなども入り更に進んでいると思います。エアコンも決まり月末の竣工に向けて休み明けから一気に進むはずです。
コリント信徒への手紙 第1 9章8~12章
2019年8月4日(日)
私の説教では、コリント信徒への手紙を学んでまいりました。
今日は9章8~12節までです。
今回のテーマは、「働いたら、報酬を受けるのは、当然ではないか」ということです。
パウロは、この事を、モーセの律法のことを引き合いに出してまで言っています。
8~9節を見ますと、「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。」 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。この事は私たち人間のためにも言われていることではないか、と言って、耕す者が望みをもって耕し、脱穀する者が、分け前にあずかる事を期待して働くのは、当然です。ましてや、このことは、神様のために働いている、伝道する者についても、言われているのではないでしょうか。
パウロが、この報酬のことについて、これまで、どうしても言っておかねばならない、と思ったからでしょう。
実は、コリントの教会内で、パウロへ批判の言葉をいろいろ言う者がいて、「パウロは、報酬のために伝道していたのではないか」というふうな、悪口として言われていたらしいのです。
パウロはこれに大変憤慨して言っていくのです。「人が働いたら報酬を受けても当然である。」
けれども、パウロは言う。「報酬のために伝道している人はいないのだ。」
パウロ自身は報酬を受けてはおりませんでした。しかし、報酬を受けている伝道者のために弁明しているわけであります。
パウロの本心は、「福音を宣べ伝える、ということは、どういうことか」ということを教えようとするのです。そうしながら、福音の性質を示したいのであります。
大部分の伝道者は教会から、報酬を受けているかも知れません。
しかし、報酬のために、伝道している人はいないのです。
福音というのは、神の恵みによって、救われる事であります。それならば、伝道者の生活の仕方が、それを誤解させることもありましょうし、正しく知らせることも、できるでありましょう。
パウロは、そのためにこれを書いているのであります。
人は、どんな事についても、報酬を求めるものではないでしょうか。
パウロはすでに9章7節で、パウロ流の例を次々と上げています。
自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。軍隊に加わるとは命を投げ出していくことでしょう。
ぶどう畑に行く者は、その実を食べることではないでしょうか。
羊を飼えば、羊の 乳を飲むことでしょう。
そして更に、モーセの律法のことを引き合いに出しました。
モーセの時代だけの事でなく、このことは、自分たち伝道する者についても、言われていることではないでしょうか。
自分たちが、霊のものを与えたならば、肉のものを返礼として返すのが、あたり前のことではないでしょうか。
実はその事こそ、もっと大切なことであるはずです。
しかし、それならば、そういう報酬を求めて、働いているのでしょうか。
断じて違う、とパウロは叫びたいのです。伝道者もほかの商売と同じことをしようとしているのでしょうか。
断じてちがうのだ。
信仰のある者は、当然、自分の力で得たものすら、神の恵みとして受けとるのではないでしょうか。
それどころか、報酬を受けるこの体、この心も、神から与えられたものであるはずであります。
それならば、ここに、人間の権利のように書かれている事は、実は、神のご配慮を語っているのです。
穀物をこなして働いている牛は、権利の事など、考えていないはずです。
それは、神が、その事をお望みになるのであります。
それなら、神のお望みにあるのと、人間とを、同じように扱う事は、できないはずであります。
つまり、もう、神の霊の世界の事柄です。
人間には、そのような権利が与えられているように見えます。人が働いた分、報酬を受けてもいい権利がある。
そのように言えるでしょうが、実は、それも神から与えられているにすぎません。
ですから、人間は、そういう要求めいたものを持ちながら、無償の働きを尊いものとするのではないでしょうか。何も要求せずに、人のため、働く事こそ望ましいと、考えるのではないでしょうか。実にりっぱなことです。
しかし、現実には、例えば教会の牧師は、無償の働きで、何も食べずには、生きていけません。
パウロは1人身で伝道しました。それに、自分で食う分は、自分で他に働いて生活して、その上、伝道していきました。
教会の牧師の中には、独身者ばかりではありません。
教会のほとんどの牧師は、牧師夫人と2~3人位の子供、といった、家族を養っていかねばならない。食べるだけの牧師の給料では、子供の教育、教養、文化的な生活は、ほとんどできません。
現実の教会の牧師給の一覧表を見たら、とてもなげかわしい、きびしいものです。
パウロは申します。
人が働いた分の報酬は当然受けるものである。
伝道者は、報酬を得ようと、福音の伝道のために働いているのではない。
ただただ、主に召されて、すべてを神様の恵みのうちに、ゆだねきって、生かされていくのであります。主が共にいて下さる希望があるのです。
この教会に来始めたころからこの窓際の席が気に入り以来たびたびここに座っていました。ある日いつものように空を見ていたら空の色が紺碧に見えていました、こんな色の空は3000m級の山でしか見られないと思っていましたので内心驚きでした。しかしその後二度と見ることはありません。来月からは新教会に移動ですこの窓からの景色も二度と見ることがないでしょう、残念!
聖霊降臨後第7主日(スオミ教会 2) 2019年7月28日
創世記18:1~14、コロサイ1:21~29、ルカ10:38~42
説教「神に聴き続ける」
田中 良浩
序 父なる神とみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!
1 私たちが毎週、用いている聖書日課は、ご存じのように3年周期のABCと呼ばれる
聖書日課をもっている。ご存じのようにAでは主としてマタイによる福音書を用い、
Bでは主としてマルコによる福音書、そしてCではルカによる福音書が用いられる。
ヨハネ福音書はA、B、そしてCに分散して用いられている。
これらの聖書日課によれば、いずれも前半の暦、大体一年の半分は「キリストの出来事」(待降節、降誕節、顕現節、四旬節、そして復活節)である。ここで私たちはこの日課を 通して、主イエス・キリストによる救いと恵みの出来事を学ぶのである。
続いてその後の暦、一年の後半は、聖霊降臨の出来事、つまり教会の誕生以降、「教会とは何か、そこでの教会生活、信仰生活とは何か
を学ぶのである。言い換えれば、
神の救いと恵みの中で、私たちは「如何に生きるか?」を学ぶのである。
ちなみに今日の詩編15編は冒頭で語っている。
「どのような人が、神の幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか?」と。
つまり、ここに語られている「神の幕屋」とは何か?
◎それは神の家つまり、神の教会、キリストの教会であり、私たちの教会である。
◎使徒パウロによれば、私たちは「神の宮」であるから、私たち自身そのものを意味している。そこで私たちが「日々、如何に信仰に生きるか?
ということである。
2 私たちの家庭では、十数年来、全ルーテル教会共同で発行している「聖書日課」を用い
て毎朝、夫婦で礼拝をしている。私たち夫婦の場合には、家内が当日の聖書を読み、私が
聖書日課の黙想を読んで、お祈りをしている。またその聖書日課には、その編集委員会が
選んだ教会名が記されていて、祈りの対象として選ばれている。
◎このことはこの聖書日課を通して、主のみ言葉に聴き、祈ることができるからである。
◎同時に、記されている教会の宣教のために祈る機会が与えられている。―それがたと
え、知らない教会であっても―その教会のために祈ることは大切である。
ちなみに、先々週、7月16日(火)は、
聖 書 = コヘレト12章 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を止めよ。」
教 会 = このスオミ教会であった!
3 今日は、使徒パウロの教えに耳を傾けたい。
コロサイ1章21節~22節には、このように記されている。
「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と。
そしてパウロは続いて言います、「(あなたがたは)揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と力強く教えます。
使徒パウロは、コロサイにある小さな群れに、獄中から手紙を書き送った。
コロサイ地方はAD60年頃の大地震により、大きな被害を受けた。周辺の諸都市の
復興は早かったが、コロサイは発展、繁栄からは取り残された小さな都市であった。
その地域にあるコロサイ教会は、決して大きな群れではなかったであろう。
地震からおよそ20年後、その小さな群れを励ますために書き送られた手紙であろう。それゆえ、1章冒頭、まず「信仰、愛、希望」という言葉が記される。
こうした混乱と閉塞感のただよう状況下で初代教会特有の異端の教えであるグノーシス(哲学者プラトンの影響を受けた霊肉二元論等の教え)や宗教的なタブーや迷信、また哲学的な教えに取り囲まれていた。こういう社会的な状況、宗教的な潮流の中にいる群れに、使徒パウロは信仰的に元気を回復し、励ますように「信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れてはならない」と強く語るのである。
さらに積極的に「神の秘められた計画」―異邦人伝道―についての言及もある。
この言葉には大きな意図と、使徒パウロの計り知れない希望が込められている。
現代社会に生きている私たちの教会の現状は、2000年後であっても、同じである!いやむしろさらに悪化していると言えるであろう。
また、このスオミ教会も決して大きな群れではない。むしろ大きな世界都市東京の小さな群れである。この群れが、新たな宣教、伝道と牧会のために、早稲田へと旅立とうとしている。そのために、しっかりと、み言葉に立つ必要があるのである。
<ルーテル教会は伝統的に、そして現在も“みことばに立つ教会”だからである。>
4 さて、今日の福音書は有名な、「マルタとマリア
の物語である。
◎福音書記者ルカの記す、主イエスの伝道の時間的、地理的な経過を見ると、その足跡は現代に生きている私たちからすれば、遠くて想像を絶する。
ガリラヤの湖に近い町々で、神の国を宣べ伝え、弟子たちとフィリポ・カイザリアへ
行き、そこで弟子のペトロが「あなたこそ生ける神の子、キリストです」との信仰告白をした。(ちなみにガリラヤからフィリポ・カイザリアの距離は50キロ~60キロ以上)。
再びガリラヤに戻り、主はご自身、受難と復活の予告をされたのである。
そこからサマリアを経て、エルサレム近くまで来られたのである。そして弟子たちをさらに72人を町々、村々に派遣し、弟子たちと共に伝道を日々を過ごした。
(ガリラヤの湖周辺からエルサレムまで直線距離は170キロ、歩く行程では200キロ)
主イエスと弟子たちは、心身ともに疲労は頂点に達していたに違いない。
◎主イエスが入られたのは、エルサレム近郊のべたニアという村であった。
そこにはマルタ、マリア、そしてラザロのイエスを愛する兄弟たちが住んでいた。
◎姉のマルタは、宣教のために疲れも極度に達していた主イエスと弟子たちのために
できる限りの食ベ物をもって、一行に奉仕しようとした。それがマルタの出来る
最善の奉仕であった。そのおもてなしのマルタの姿に私たちからも異論はない。
一方妹のマリアは、主イエスの足元に座って語られる言葉に聴きいっていた。
私の推察するところ、マリアの心は大きな喜びに満たされていたであろう!
◎しかしこういう主イエスをお迎えした姉妹の全く相反する姿に、マルタは我慢が出来なかった。
直接主イエスに進言した。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。
◎しかし、「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。
ここで奉仕の本質を学ぶことは、重要である。自らしている奉仕を、他者がたとえ
無視していても、関わらなくとも異議を申し立てないことである。またその意図に反して他者を巻き込まないことである。そうすることで行っている素晴らしい奉仕は本質と目的を失ってしまうであろう。
「忙しい、孤独の奉仕、助けを必要とする奉仕」を訴えたマルタに、主イエスは
「あなたは思い悩み、心を取り乱している」と語られたのである。
<まさに「忙しいとは、心を亡くすこと」>である。
◎そして主イエスは言われた、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
主イエスは、この主の言葉を聴くマリアの姿こそ、何物にも代えることのできな
い主イエス・キリストに従う者の姿であると明言されたのである。
ここで私たちは如何なる状況にあっても、このマリアのように、神の言葉を日々聴き続けることの大切さを学ぶのである。
皆様は、この「マルタとマリアの物語」をどのようにお思いになるであろうか?
主イエスのお言葉、「必要なことはただ一つだけである!」について:-
私は聖書から一つ、二つの関連する聖句を思い起こす。
荒れ野で40日、40夜の断食の後、最初に語られた言葉である。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ、一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)=これはすでに申命記8:3で語られている。
※私はこのみ言葉から
神さまが与えてくださった救済史(それはこの世における私自身の救いの歴史と生活である)において、中心であり、本質であるものは、旧約聖書から新約聖書を貫いて、それは神の言葉である。
使徒パウロの言葉
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち
救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1:18)。
※これは使徒パウロの信仰告白であった。また同時に私たちの信仰告白として覚えたい!
◎人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思い
を、イエス・キリストにあって守ってくださるように。アーメン。