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説教:木村長政 名誉牧師

 

第8回 コリント信徒への手紙 2章6~9節  2017年8月6日(日)

 

今日のみ言葉はコリント信徒への手紙2章6~9節であります。前回の2章2節のところでは「わたしは、あなた方の間では十字架につけられたイエス・キリスト以外何も知るまい、と心に決めてきた」。と言っています。パウロにとって福音と言うのは十字架の言でありました。そこにこそすべての力がある、と誇ってきました。それ以外に必要なものはない、と言うのが福音の力でもありました。ところで福音はまったく知恵を必要としないものでありましょうか。パウロは人の知恵に対して神の知恵というものを言います。神に知恵がないはずはないのです、信仰は簡単なことです。それは神の救いであります。救われるためには十字架だけしか必要ではありません。神の救いであれば深い神の知恵がないわけはありません。ただ救われるのにその知恵がいちいち必要ではないと言うことでもありましょう。信仰こそは最高の知恵であります。パウロはロマ書33節で次のように言っています、「あゝ深いかな、神の知恵と知識の富は」。それなら信仰そのものが神の知恵である、と言えるのではないでしょうか。パウロは十字架の福音しか語らない、と言ったのをある人たちが言いました。キリスト教はそれだけなのか、知恵はないのか。パウロはそう言われるのも知ってこう言っています。

 

それで6節の言葉です。〔しかし、わたし達は信仰に成熟した人たちの間では知恵を語るのだ〕。―(成熟していると言うのは完成されている。)―信仰が成熟して大人になっていると言うのです。信仰こそは神の知恵に根ざす者であります、しかしこの知恵はこの世の者の知恵ではありません。神の知恵は人の知恵と同じではありません。この世の滅び行く支配者たちの知恵とは違うものであります。神の知恵というものはどんなものでしょうか。それは世間でもてはやされる知恵とは違います。人々に知られないものであります、隠された奥義であります、神が容易にあらわしにならないものでありました。信仰は自分が知ろうことではありません、神が一切を知っていてくださることであります。神の知恵は永遠であり絶対であります。しかしなぜ神の知恵は隠されているのでしょうか、それは神が神となるためであります。神のことは人が全く知ることができないためであります、また人間が人間であるためであります。人間は神にはなれない、人間は神に造られたものであります。それゆえに神がお示しになることしか知ることができないのです。また人間は罪人です、それゆえに聖なる神を知ることはできないのであります。

 

7節を見ますと「わたしたちが語るのは隠されていた神秘としての神の知恵であり、神がわたし達に栄光を与えるため世界の始まる前から定めておられたものです。」とあります。―<すごいことではありませんか>―ここに神の知恵は明らかになりました。神の知恵はただ人間に知られないものである、と言うだけではなくてわたし達の救いのためにあるものです。わたし達の受ける栄光のため、ということはわたし達が栄光を受けるようになるため、それはすなわち救われるためということであります。ここに神の知恵の性質が明らかになりました。神の知恵は不思議であり、隠されているというだけではありません。神の知恵は人間の救われるためのものでありました、そのために世の始まらぬ先から神は用意しておられました。それ程にわたし達に与えられている「救い」は確かな根拠を持ったものであるということです。

 

神は人間をお造りになりました。神は人間が罪を犯すことを予想されました。神はその救いを用意されたのであります。そこに神の知恵の不思議さがあります、それが「隠されている」ということの意味であります。この知恵は神の知恵であり人の知恵ではありません。人には隠されたものであることをパウロは力説いたします。それだけではありません、この世の支配者たち誰一人としてこれを知りませんでした。彼らは永遠のご計画を知らなかった、それゆえに彼らはキリストを十字架につけてしまったのであります。そのように言うことによってパウロは神の永遠の知恵は実は十字架のことであったことを示しているのであります。成熟した者たちに対して知恵を語ると言いました、その知恵とは他でもない矢張り十字架でありました。そのようにして見ると十字架につけられた主イエス・キリストのみ姿は変わってくるのでしょう。十字架にかけられた、惨めな主はそこにはなくそこには神の永遠の知恵を成就する栄光に満ちた主がおられるのであります。教会の言葉から言えば栄光の主というのは蘇られた主のことであります。パウロはここでは恥じ多き十字架に比べてその十字架にかけられた主イエス・キリストがいかに栄えに満ちていたかを告げたいのであります。

   アーメン

 

説教:田中良浩 牧師

2 7月30日(聖霊降臨後第8主日) 於 スオミ教会

聖書日課 イザヤ402631、ローマ7:1525、マタイ⒒:2530

田中 良浩

説教 「キリストの招き」

父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安あれ!

 

序 人には誰でも、例外なくそれぞれ信仰をもつに至った契機となる出来事やまた先輩クリスチャンとの出会いがある。また同時にそのような機会に深く関心を寄せるようになった聖書の箇所や言葉がある。

私も、ここ数年夏には吉村先生ご家族のフィンランド帰国の機会に、スオミ教会の皆様と共に礼拝する機会が与えられていることは、感謝である。

このような機会に私の説教だけではなく、さらに礼拝後のお茶の機会にでも皆様のクリスチャンとの出会いや、信仰生活のみ言葉の体験をお聞きしたいと思っている。

 

 

1さて、今日の福音書の日課は、私にとってもまさに「キリストの招き」に

与るものであった。そういう意味で、今朝は私の「信仰への道程」をお話ししたいと思っている。

 

私が最初に聖書に出会ったのが、このマタイ11章からの言葉であった。

それは「汝ら、何を眺めんとて野に出でし、風にそよぐ葦なるか」(文語訳)。

これを大岡昇平著「俘虜記」から読んだのである。第二次世界大戦のさ中に大岡昇平が従軍記者として派遣され、その部隊はフィリピンで全滅した。

彼は二三人の敗残兵と、密林を彷徨い歩き、ついに捕虜になったのである。

その一つの章に「タクロバンの雨」がある。その見出しに添えてあったのが

「汝ら、何を眺めんとて野に出でし、風にそよぐ葦なるか」という言葉であった。これはマタイ11章7節の言葉である。私にとっては、まだ聖書も、教会も何も知らない時に出会った。聖書の最初の言葉である。

そしてこの言葉が、私の人生を決定づける聖書の言葉にもなった。

 

私は1944年(昭和19年)に旧制中学校へ入学した。第二次世界大戦の

まっ只中であった。入学式の日、中学校へ行くと学校の左側の門には、「島根県立大田中学校」と書いた表札があった。けれども右側の門には「広島陸軍病院大田分院」と書かれた表札もあった。そういう戦時という時代であった。

当然学校へは行っても、勉強どころではなかった。ほんの少しは申し訳程度

に授業はあったが、殆どが学業ではなく、労働であった。

校庭を掘り返して、畑にしてサツマイモを植えた。収穫してそれを美味しく食べた、という想い出はない。どうしてであろう?そういう時代であった。

私たちの上級生たちは通年動員といって、年から年中、軍関係の工場の働きに動員されていた。私たちの中学校は田舎にあったが、例外ではなかった。

私たちは、人手の少なくなった、つまり働ける男の人は皆、徴兵されて軍隊に入り、戦地に送られていた。そこで田畑でお米や麦を作ったり農作業を

する働き人は高齢者と女の人だけになっていた。その為に私たち中学生までも、農作業のために、集団で送り込まれていた。

 

また私たちは本土決戦のために陣地工築にも駆り出され、山に穴を掘ったり、大きな材木を担がされたりした。当時は学校でも、動員先でも、毎朝朝礼があり、天皇陛下の御真影に敬礼、また宮城遥拝が行われた。

学生生活は「お国のために」の一点に集約されていたし、「神州不滅」は軍国日本のスローがんであった。もちろん英語は敵性語であるという理由で授業はなかった。田舎にいた私たちが英語の教科書に接したのは中学3年生になってからのことであった。

 

私たちの中学校が「広島陸軍病院大田分院」と掲げられていたので、戦時中 

は、いわゆる、戦地で傷を受けたり、病気になった兵隊さんが私たちの学校

の教室に収容されていた。こうした状況は敗戦まで続いた。

昭和20年8月15日、敗戦を迎えた。夏休みであった。

その数日後、学校に呼び出された。

傷病兵は当然学校から去って行った。けれども私たちの学校には原子爆弾で

被爆した兵士たちが広島から貨物列車に詰め込まれて私たちの学校に来た。

被爆した兵士たちが教室、理科実験室、音楽室、また教室とうに収容されて、

部屋のない兵士たちは、渡り廊下にスノコと蓆を敷いて、寝かされた。

このような悲惨な状態は数か月続いた。それはまさに地獄絵図であった。

私はこれが戦争そのものの実態だと、思い知らされました。

 

個人的にはその数年後、私の小学校一年生の弟が病気で亡くなりました。

私の中・高生時代は、まさに死に取り囲まれていました。

こうした暗黒の“青春時代”に私はこの言葉に出会ったのである。

 

その後“葦”について、事ある毎に私は思い出し、あれこれ考えさせられた。

今でもそうである。葦は、私にとってはまさに取りつかれた言葉である。

 

日本の国は「豊葦原の国」(日本書紀)と呼ばれた。それだけ古代から日本の国全体には、いたるところに葦が繁っていた。この植物は平安時代まで葦と

呼ばれたが葦は“悪し”に通じるということから“良し”を表す籚・葦が用いられるようになった。これは本当に興味ある日本的表現である!

葦は、古くからすだれやよしずの材料として使われた。また茅葺屋根も。

西洋では有名なパンフルートという楽器も、この葦から作られている。

 

さらに、哲学的、いやむしろ聖書的な偉大な表現がある!

Bパスカルの「パンセ」には、「人間は、自然のうちで最も弱い、一本の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である」(347)との有名な言葉がある。

ご存知の通り、この言葉を起点にして、パスカルは「考えることの大切さ」から「信じることの大切さ」へと展開していくのである。

私にとって、このマタイ11章は、葦という言葉をきっかけにして、重要な聖書を読み解く箇所になったのである。

 

旧約聖書でも葦という言葉は多く用いられているが、有名なものは:-

  • エジプトを出た神の民イスラエルは、モーセによって紅海を渡るが

この紅海は、聖書では“葦の海”と呼ばれている。(出15:4)

詩編では、「感謝せよ。慈しみはとこしえに。力強い手と腕を伸ばして導き出した方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。葦の海を二つに分けた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編136:12~13)

 

  • 預言者イザヤの言葉(42:3~4)

「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

 

 

さて、聖書の物語としては、「洗礼者ヨハネ」の物語である。

主の先駆者で会ったヨハネは捉えられて牢屋にいた。そこで彼は弟子たちを遣わして、主イエス・キリストに聞かせたのである。

「来るべき方(救い主)はあなたでしょうか。それとも、ほかに待つべきでしょうか」(11:2)と。

主イエスは弟子たちにはっきりお答えになった。(11:4~6)

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」と。

 

ルカにはこのように記されている(4:17~19)

「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

<イザヤの預言の成就である!>

 

 

こうしてマタイ11章の最後の部分が、今日の福音書の日課なのである。

2 今日の福音書日課の前半部分(11章25~27)は:

  1.  「主の祈り」に続く主イエスが父である神に祈られた、祈りである。

第一に「天地の主である父への讃美である」

ここには明らかに主イエスの言葉には、父は天地の創造者、支配者であるという理解がある。つまり、創造者である神は、被造物にすべてに責任をお持ちになる父である。日ごとに守り、導いてくださるのである。

人間であれば、作ったモノに、無責任な態度をとることがあるであろう。

けれども天地の創造者である父には、そのような無責任さはない!

恵みと愛をそそいで、守り、導いてくださるのである。

その父なる神への讃美である!

 

  1.  第二は、「神の恵みの真理が賢い者には隠されて、幼子のような者ni

お示しになられた」ということである。

主イエスご自身繰り返して、お語りになっている。(マタイ19:13)

「しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と。

これは共観福音書マルコ10:13~16、ルカ18:15~18にも

共通に記されている。

これは同時に使徒パウロによってⅠコリント1:18節以降においても強調されている。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」

知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは

十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」と。

 

 

3 今日の福音書日課の後半部分(11章28~30):

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

このみ言葉は誰にでもよくわかる招きの言葉である。多くの教会の掲示板にこのみ言葉は掲示されている。私も稔台教会でも、熊本教会でも掲げていた。

 

すべての疲れた者、重荷を負う者に呼びかけられている招きの言葉である。

 

旧約聖書イザヤ40:29~31)でイザヤは語っている。

「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」と。

 

  • 人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安が、信仰からくる

あらゆる喜びと平安をあなたがたに満たしてくださるように!アーメン。

説教:木村長政 名誉牧師

 

第7回 コリント信徒への手紙 2章1~5節

 今日からコリント信徒への手紙2章に入ります。前回の1章の終わり、31節の言葉でひとつの区切りでした。30~31節を見てみますと〔神によって、あなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは私たちにとって神の知恵となり義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。〕これが1章のこれまでの結論でした。救われた人は自分は何の誇るところもない。一切はキリストの十字架によって成し遂げられているのです。主が全てのことをしてくださったのであります。パウロはこのことを良く知っていました。ですからパウロはそのことだけを告げようと思いました。こうしてパウロはコリントの教会へ行ったときのことを思い出すのであります。そして2章の言葉へと入ってゆきます。2章1~2節〔兄弟たち私たちもそちらに行った時、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら私たちはあなた方の間でイエス・キリストそれも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めていたからです。〕ここに1節の真ん中に新共同訳では「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに」とあります。ここのところは口語訳の聖書では「神の証しを宣べ伝えるのに」となっていました。ここでの神の証しとはどういうものでしょうか。神が何を証しされたのでありましょうか。これはキリストの救いについて語っているに違いありません。キリストの救いは神が証ししておられることである。というのであります。(神が証ししておられるという視点は私にも新たな発見です。)ひとりの人が十字架にかかって死んだことがどうして全ての人の人間の救いになるか、ということは大きな謎であります。私自身もずうっと大きな謎でありました。これはもう教会の教えだからそのまま余り考えなしに、そういうものだ、信じれば良いのだとずうっと心の奥にしまったまま、いつも何か引っ掛かった課題でした。(皆さんの中にもそう思われたことがあるかも知れません)この問題は誰にも説明できないものであるかも知れません。それで新共同訳聖書では「神の秘められたご計画である」と訳しています。

 

パウロ自身は神様のなさるみ業の不思議な神秘に満ちた出来事のことを心の奥にいっぱい展開して心の内にこめてこの言葉を書いていると思います。まさに神の秘められた謎であって説明して納得するようなものではない。ではよくわからないことを何でもかんでも、あーそれは神様の秘められた謎であるといって片付けようとしているのではありません。神の子イエス・キリストの死と復活が私たち信じる者に関わってゆく最も重要な点にさしかかっている謎であるからこのように重視しているわけです。そこでです!・・・・・ただ神が証ししてくださる時にただそれがまことの私と繋がった救いであることが分かるというのであります。(私自身これで少しだけほっとしました。)私たちはキリストの十字架の話を聞かされます。ある時それによって心が動かされ自分の救いをいくらかでも確信するようになる。その聞いたことが事実まことであると神が私たちの心に示してくださった、証ししてくださった。神は聖霊によってそのことを証ししてくださるということであります。(これはすごい事です。)その時です私たちはここに与えられていることが「唯一の救いの道である。」ことを確信するようになるのであります。主イエス・キリストは永遠のいのちに至る道である、この道によらなければ救いに至ることはできない。これがメッセージであります。いまあなたに明らかに示された神からの啓示というものであります。特別の啓示というものです。聖霊なる主が働いてくださって証ししてくださる。この証しという字の中によく似た字で神秘という言葉が含まれていると言われています。それならばこの救いの道が神のみ知っておられる深いご計画であったということになります。まさに神の秘められた計画であります。それで・・・パウロは言います。これが神の救いの道であるから自分はそれを証しするにどんな優れた言葉も知恵も用いなかった!一切を主によって行われるためである。これがパウロの決心でありました。決心と言う字は判断して決めたと言うことです、私たちが知らねばならないことは多くあるでしょう、でもその中で自分の救いに役立つことはそんなに多くあるはずはありません。その救いが大きく確かであればあるほど多くあることはありません。そうすると大事なことをぐうっと絞って行くとその一つのことを知りさえすれば他には何もいらないと言うことになるはずであります。

 

そういう意味からいえば信仰というものは大切な事になります。自分の生き死にに関する問題でしょう、どうでも良いとことではありません。その救いはイエス・キリストから来たのであります。それならば大切な事はイエス・キリストを知ることであります、イエス・キリストだけを知るのであります。しかしイエス・キリストを知るというのはどういうことでしょうか。キリストの生涯はまことに短いものでした。しかもガリラヤに出ていよいよ大事な活動をされたのは僅か3年間です。イエス・キリストが語られた大事な教え又数々の奇跡の出来事などその一つ一つの中には深い真理が示されていました。しかしキリストがこの世に来られたのは唯一つの目的のためでありました。十字架にかかって人間の罪のために死ぬということだけのためであったのです。ですからパウロは言います、イエス・キリストだけを知る決心をした。そのことはつまり十字架につけられたイエス・キリストを知るということだ、と言いたいのであります。自分がこの世で生きるために、ただ十字架につけられたキリストだけが必要である、ということを知ることであります。それは祈りにおいて教会の礼拝において日常の生活のすべてにおいてそのことを知り、そこにだけ力があり望みがあることを確信することであります。

 

さて3節になりますとパウロは自分の弱点を吐いた言い方になってゆきます・パウロはコリントに行く前の自分の気持ちを語っています。「弱く、かつ恐れ、ひどく不安であった」と言っています。普通パウロというと熱狂的な強い伝道者のように想像しがちでありますが意外な面があったと言っています。それは事実であったでしょう、さらに度々パウロをおそって来るひどく苦しい病気がありました。そういう中にあってパウロの教える十字架の苦しみによる信仰が支えになりました。だからパウロはただただ十字架のキリストを語る以外にないのであります。十字架だけが頼みとすることであったでしょう。従ってパウロがこのように弱い状態であったことはかえって彼の十字架の信仰の強さをあらわしているものである、ということができるのであります。使徒言行録18章にコリントへ行った時のことが詳しく記されています。彼はアテネで軽蔑され何の成果もなしにコリントへ行ったのであります。コリントにはプリスカとアクラの夫婦がいてパウロを迎えてくれました。そして一緒に天幕を造りながら伝道していったのであります。しかしユダヤ人たちの反対が強くて伝導も容易なことではありませんでした。ある夜、幻の中に主のみ言葉を聞きました。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」という励ましの声でありました。パウロは押し寄せてくる反対と恐ろしさでだんだん語ることを止め黙っているようになったので神のをみ声を聞いたのでしょう。パウロは言います「わたしの言葉も宣教も巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである」と言っています。伝道は結局人間の力や知恵ではありません。キリストが救い主であることを誰が信じさせることができるかでありましょう。それは人間の説明や業でできることではないのです。ただ霊と力によるだけであります。聖霊と神の力によるということです。パウロは言いました2章11節を見ますと「神のことは神の霊によるほかはない、と堅く信じていました。」人間にできることは、ただ神の力に委ねるだけであります。十字架の力にすべてを託すだけのことであります。

 

それでパウロは2章5節で書いています。「それはあなた方の信仰が人の知恵によらないで神の力によるためであった。」これが目的であったということです。パウロはこの手紙の1章から2章に口を極めて人間の知恵は救いにならないことを語るのであります。人間の知恵と神の知恵とを比べようとしてゆきます。ギリシャ人は知恵を求める優れた哲学や神学の議論が盛んで大好きでありました。それはギリシャ人に限らずどの人間も知恵を求めます、ギリシャ人はその代表であります。知恵を求めるというのは知恵によって救われようよいうことです。知恵によって救われようとするのは要するに自分で納得したいということでしょう。自分が分かり理解し自分が承知するということ、結局は自分なのです。そこにギリシャ人だけでなく全ての人間の問題であります。私もずうっとこの課題がどうしてもあったのです。そうするとこの言葉は信仰が人の知恵によるのでなくというのですから信仰が人の知恵によるものではないんだ、ということがわかる。このことが目的の一つであったことになるでしょう。それなら信仰にとって最も確かなことは何かということになります。それは神の力であるということです。信仰は神の力によるということが明らかとなる。十字架のみを知る、というのもそれが示されるためであります。それなら神の力とは何でしょうか、ある人が言いました、それは神の恵みである。そうです神の恵みです。神の力というものは分かるようで分かり難いものです。多くの人は神の力といえば神の強さを考えます。しかし神の強さによっては人は救われません。神のまことの強さはその恵みなのであります。神の「恵み」であります。愛ということさえ恵みでなければ人に対して力となって働いてはこないのです。「恵み」は赦しであります。神は愛であります。しかし罪人である人間にとっては神は恵みでなければ愛はわかりません。同じように神が恵みをお与えなければ、それは力として働かないのであります。エペソの手紙でパウロはこう言います。1章17節〔どうか私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が知恵と啓示の霊をあなたに賜って神を認めさせ、さらにまた神の力強い活動によって働く力が私たち信じる者にとって、いかに絶大なものであるかをあなた方が知るように、と祈っている。〕神の力を知るとはこういうことであります。

 

旧約聖書 詩篇42篇にあります〔鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいて神を慕いいける神を慕う〕このような神を求める魂に対して神はどのようにお答えになるのでしょう。それは「恵み」であります。恵みが神の力となって与えられたのです。それならその恵みはどこに示されたでしょうか。それは十字架でありました。そこで神は「御子の死」という恵みを全力を注いでお与えになりました。それなら人も全力を持ってその十字架を知れば良いのであります。十字架以外なにも知る必要はないのであります。     アーメン

 

説教:田中良浩 牧師

 

1 7月16日(聖霊降臨後第6主日) 於 スオミ教会

聖書日課 エレミヤ20713、ローマ61~⒒、マタイ101633

田中 良浩

説教  「キリストと共に生きる」

父なる神さまと主イエス・キリストからの恵みと平安あれ!

 

序 マタイによる福音書10章は弟子たち<それは使徒と呼ばれる>を宣教へと派遣するに当たって、主イエス・キリストが弟子たちにその使命と心構えをお語りになった物語である。同時に、私たちも主に召され、この世に派遣されている者であるのでこの宣教への使命と心構えは、同時に私たちにも語られたものである。

主なる神さまは私たちを召して、十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命を約束して、恵みと祝福を日々お与えくださるのであるから、私たちはこの恵みと祝福を、隣人と分かち合い、共有するのが必須である。

 

  1. 今日の福音書から学ぶべき第一のことは:

主イエス・キリストは弟子たちに「わたしはあなたがたを遣わす」と言われた。つまり主イエスは「遣わす者」であり宣教の主である。そして弟子たちは「遣わされた者」、つまり使徒である。

そして同時に私たちも主から「遣わされた者」「派遣された者」なのである。

私たちは、主イエス・キリストによって召されて弟子とされ、そして生かされている。つまり一人、一人の生活の場、また仕事の職場、そして地域社会

に遣わされている、つまり派遣されているのである。

 

ちなみに戦後間もなくのことですが、私が高校生の時に用いた聖書は文語訳の聖書でした。現在の新共同訳によるヨハネ3章16節の「永遠の命」は

「永遠の生命」と記されていました。私は人間の実態を表すこの「生命」と

いう表現に関心があります。有名な漢字の学者、故白川静立命館大学教授は、「漢字百話」で「生命」についてこのように記しています。「生は自然的な生である。生きることの意味は問われていない。(それは草や木が大地から芽生え、成長する姿を表している)。一方、命は始め“令”と書かれた。それはおそらく聖職者が礼冠(式服)を付けてひざまづいて、静かに神の啓示を受けている。つまり神意を求める姿である。また“口”が添えられるが

その祈りに対して与えられる神意が“命”である」と。つまり生命には、

人の自然的な生と、神から与えられる使命的な命が表現されている、と思う。

しかし、ここで主イエスは弟子たちに「迫害を予告」された。同時に私たちも派遣された者として生きいく時に、様々な困難や試練に直面する。

 

何時の時代も社会は、常識、知識的、科学的であろうとする。キリスト教も例外ではない。人の集団や組織の判断は、人間の判断に委ねられる。

つまり宗教や信仰は、この世界では本質的ではなく、第二義的である。

ホスピスのチャプレンとしても、時には「何しに来た?」と言われる。

終末的な患者さんに、医療職、看護職でもない者が「何の役に立つか?」

 

こうして主イエスから派遣された者として生きるには、争いや葛藤がある。

主が言われたように、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と、初めから

困難と試練が予告されているのである。

旧約の日課預言者エレミヤも迫害にあう苦痛の告白をした。(20:7以下)

「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。・・・わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と。

それゆえ、エレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれる。主は「悲しみの人!」

 

主イエスは興味深い教えの言葉を与えるのである。

「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と。この意味は?

この賢くは創世記(3章)のエバを誘惑した最も賢い蛇と同じ言葉である。

賢いとは知恵があること、蛇は知恵を悪用した。狡猾であった。

しかし主イエスは使徒たちに「あなたに与えられた知恵をつくせ

「神の知恵者となれ

と教えたのであろう。

 

また鳩は、旧約聖書では、聖なる鳥とされ犠牲として用いられた。主イエスの洗礼に時にも、聖霊が鳩の姿をとって現われた。また素直で、霊的であると考えられていた。意味としては非常に幅広く用いられた鳩であるが、ここでは、「派遣の主の教えに素直であれ、あとは主に信頼せよ

との意味であろうか。その迫害の中においてさえ、主は「心配するな!

「言うべきことは教えられる」、そして「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と約束される。

 

ご存じの通り、初代教会では各地で迫害が起こった。使徒言行録を読めば

ペンテコステ(聖霊降臨日)、教会誕生間もなくから、迫害は起こった。

異邦人への使徒とよばれた使徒パウロも、最初は迫害者であった。

我が日本の歴史も、キリスト教迫害の歴史を中世から、現代に至るまでもっていることは良く知られている。

迫害の歴史は同時に、キリスト教宣教の歴史でもある。

 

 

  1.  今日の第二のことは:「恐れるな」という、力と希望に満ちた言葉である。

 

ここで「恐れるな」=3回繰り返されている。

26節「人々を恐れてはならない」

28節「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな」

31節「だから恐れるな」

 

これは降誕の喜びの想起でもある!(ルカ2:10~11)

「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。

 

 

「人々を恐れるな!神を恐れよ!」という意味である。

主イエス・キリストは繰り返し言われる。

「二羽の雀が一アサリオンで売られれているではないか。だがその一羽さ

え、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。

「恐れるな、あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている!」。

 

これは、山上の説教の「思い悩むな」(マタイ6:25以下)を想起する。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

<この聖句は、終末的な患者さんに安らぎと希望を与える言葉である>

 

「主イエス・キリストは言われる。わたしが共に生きて、それぞれの生活の場で、あるいは働きの場で、共に生き、共に働くと約束してくださる!」

そして「最終的な責任はわたし(主イエス・キリスト)にある」と。

 

 

  1.  第三のことは:再度の確認の言葉、「わたしたちは主イエスの仲間である」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 

ここで用いられている「仲間」という言葉は、ギリシャ語聖書にはない。

単純に、「わたし(主イエス)を告白する」という言葉が用いられている。

翻訳された「言い表す」とは、「告白する」ことである。

 

第一に、弟子たちにとっても、また私たちにとっても生きる道は、神の愛

によって隣人に仕える生活であり、また告白し、証し、伝道の生活である。

この2000年来、初代教会から不変、また普遍のものである。

 

第二はこの第三の部分には「最後の日」のことが暗示されている。

私たちは、最後の日とは、自分の地上における最後の日を思う。

 

しかし聖書は裁きを伴う救いの完成する日を「最後の日、主の日」と呼ぶ。

それはどのような日であるか、だれにも人間的には理解し、判断できない。

理性的に解らないことを詮索しても、どうにもならない。けれども

聖書はそれを「輝ける神の都、永遠の命の国

として描いている。

 

 

ここで覚えたいことがある。

弟子たちは、他でもない、主イエス・キリストにより召されたのである。

ヨハネ福音書(告別の説教14章16節)(15章16節)

主イエスは言われた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたし があなたがたを選んだ」と。「わたしがあなたがたを任命し、あなたがたを遣わした」と。

 

私は「弟子のペトロ」を想い起す。

主イエスの裁きの時、その最後の時になって、彼は「わたしは彼を知らない」と三度も「知らない」と繰り返した。(マタイ26章69節以下)

 

 

それ「にも拘わらず」、ペトロは繰り返して悔い改め、ペンテコステの日には大胆に、大勢のユダヤ人の前で説教をしたのである!

そして3000人もの人が悔い改めて洗礼を受けたのである。

 

 

「遣わされた者」の生活、(つまりそれは宣教である)には

数々の恵みと喜び、祝福が伴い、人知をはるかに超えた奇跡が起きる!

 

最後に:-

皆様と、主イエス・キリストが共に生き、また働いてくださいます

ように!

皆様の上に、主イエス・キリストのお恵みとお導きをお祈りいたします。

アーメ

 

説教「イエス様の弟子の役割」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書9章35節~10章15節

主日礼拝説教 2017年7月9日(聖霊降臨後第五主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. キリスト信仰者というのは、イエス様の弟子であるとよく言われます。弟子である以上は、先生であるイエス様の教えをよく聞いて、それを守らなければなりません。最初に、イエス様の教えをよく聞いて守るということはどういうことかについて、少し考えてみたいと思います。

二、三年前のことでしたか、キリスト教の別の教派の方からメールを頂きまして、なんでもスオミ教会のホームページを見て、お宅の教会は「新しく生まれ変わる」ことが出来ていないのでは、などと批判的なコメントを受けたことがあります。「新しく生まれ変わる」ということについて、その教派にはきっと自分たちの考え方があるのだろう、それで議論してもかみ合わないだろうと思い、他のコメントにはお答えしたのですが、それについては触れませんでした。それ以後はその方からはメールは頂いていません。

 「新しく生まれ変わる」ということについて、私はすぐヨハネ福音書3章にあるイエス様の言葉を思い出します。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。これらの言葉を総合すれば、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けて神から聖霊を頂ければ、新たに生まれ変わることが起きる、ということは明らかです。人間は、信仰と洗礼によって新しく生まれ変わって神の国に迎え入れられて永遠の命を得ることができる、ということです。

ところが、聖書にはそれでは不十分だと思わせるような教えもあります。「ヤコブの手紙」2章を見ますと、行いが伴わない信仰は役に立たない、死んでいる、と繰り返し言っていて、24節などは「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とまで言っています。これはパウロが、人間は信仰によって義とされる、つまり神の目に適う者とされる、と強調したのと真っ向から対立しているように見えます。こうしたパウロの考え方は「ローマの信徒への手紙」1章から5章にかけてよく表れています。

ただ、ここで注意しなければならないのは、パウロはイエス様を救い主と信じたら、それで全てが解決したとは言いません。もちろん、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から罪の赦しを頂くことができるようになり、最後の審判の時に神の罰を受けないで済むようになったという意味では全ては解決しています。もう、救いを得ているからです。問題は、こうした永遠の安心を神から与えてもらった以上は、この世を生きる際にはその神の御心に沿うように生きていこうと志向するようになるかどうか、ということです。ローマ12章1節でパウロは信徒たちに向かって「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい」と勧めます。生け贄などとは、ちょっとギョッとさせる表現です。どういうことかと言うと、続く2節を見ればわかります。つまり、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって、それで神の罪の赦しの中で生きられるようになったら、あとは何が神の御心か、何が神に喜ばれる善いことで完全なことかよく見極めながら生きていきなさい、たとえ罪に満ちた世の中の考えと相いれないものであっても、そうしなさい、ということです。それが神に喜ばれる聖なる生けにえになるということです。

またガラテア5章6節でパウロは、「イエス・キリストに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と教えます。イエス様を救い主と信じる信仰に生きるならば、モーセ律法の掟の一つである割礼を受けるか受けないかは意味を持たない。持つのは、「愛の実践を伴う信仰」である、と。この最後の部分はギリシャ語原文を忠実に訳すと「愛を通して働く(作動する)信仰」です(注意!日本語訳はενεργομενηをαγαπηςにかけているような訳ですが、かかっているのはあくまでπιστιςです!)。つまり、ここのポイントは、イエス様を救い主と信じる信仰というのは、本質上、働きが伴うものなのだ、ということです。どうして信仰には本質上、働きが伴うのか、と言うと、前にも申しましたが、罪の赦しの中で生きられる、最後の審判の日に神の裁きを免れる、ということから永遠の安心感を持てて、そこから神の御心に適う生き方をしようという心意気になるからです。そこで、神の御心に適う生き方とは何かと言えば、それは、イエス様流に要約すれば、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということです。

こういうふうに見て行けば、ヤコブが、行いが伴わない信仰は役に立たない、とか、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない、などと言ったことも、実はパウロと正反対のことを言っているのではないことがわかります。二人とも、信仰とは心意気を生み出すものだ、心意気を生み出さない信仰は信仰ではない、ということでは同じです。ヤコブの場合は、手紙の受け手側の教会の中で、心意気を生み出さないような信じ方が蔓延していたのでしょう。逆にパウロの場合は、ほとんどいつもそうなのですが、神から罪の赦しを頂けるために人間は何かしなければならないという考え方と対決しなければなりませんでした。そんな考え方は、せっかくイエス様が自分の命を犠牲にして人間の罪を十字架の上で償って下さったのに、それを無意味なものにしてしまいます。このように、基本的には同じ立場に立っていても、教える相手の状況に応じて言い方が異なるということはよくあることです。

宗教改革のルターの言い方はパウロに倣っています。それは宗教改革の状況がパウロにそうさせたからですが、ルターにしてもパウロ同様、人間の善い業というのは、神から救いを頂くためにするというような救いの条件としてするのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで罪の赦しの中で生きられるようになった結果、まさに救われた結果、実のように育ってくるものでした。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。イエス様を救い主と信じる信仰に生き始めて救われた者となったら、その人は100%神の御心に沿って生きるようになるのか、善い業しか行わない完璧な善人になるのか、というとそういうことではありません。ルターは、完璧なキリスト信仰者などこの世にいない、みんな初心者のようなもので、完璧に向かうプロセスにあるのだ、しかも完璧になるのはこの世から死んで肉体が滅びる時だ、などと言っています。その完璧に向かうプロセスには何があるかと言うと、それは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」と、肉体と一緒に以前から存在して罪に結びつく「古い人」との内的な戦いです。この戦いは、先ほどのパウロの勧め「この世ではなく神の御心に倣うようにして自分を聖なる生けにえとせよ」、これを実践しようとすると必ず激しさを増します。しかし、信仰者には、罪と死を十字架の上で滅ぼした永遠の勝利者イエス様がいつもついていて下さるので、たとえ苦戦を強いられても、必ず勝つ戦いを戦っているというわけです。

ここで冒頭に提起した「新しく生まれ変わる」ということについて申し上げると、それは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら、もう100%神の御心に沿って生きるようになるとか、善い業しか行わない完璧な善人になるとか、そういうプロセスの終点に到達することではありません。そうではなくて、そのプロセスに参入すること自体が実は「新しく生まれ変わる」ことであり、そこから離脱することなく内なる戦いを戦い続けることが新しく生まれ変わった命を生きることになるということです。このようにして生きるキリスト信仰者は、まさにイエス様が十字架の上で成し遂げたことを生きる根拠にして、自分や周囲の者をイエス様の教えと神の御心に沿うようにしようとしているので、これは正真正銘の弟子です。

 

2. 本日の福音書の箇所でイエス様は、多くの弟子たちの中から12人を選びました。この12人は「弟子」という言葉ではなく「使徒」という言葉で言い表わされます。ギリシャ語でも別々の言葉です。「使徒」アポストロスというのは、ギリシャ語の「送り出す、派遣する」という動詞アポステッローから来ています。本日の箇所は、イエス様がこの12人を派遣する場面です。12という数字は、ユダヤ民族を構成するヤコブの12支族から来ている象徴的な数です。そこで本日の箇所で興味深いのは、イエス様は派遣先をユダヤ民族に限っていることです。ユダヤ民族以外の民族、つまり異邦人たちのところには行ってはならない、と言うのです。何故でしょうか?皆様もご存知のように、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後まもなくして、キリスト信仰の伝道は急速に周辺民族に及んで行きました。本日の箇所でイエス様が行ってはならないと名指ししたサマリア民族などは、いち早くキリスト信仰を受け入れた民族です。どうして、この時のイエス様は異邦人伝道を禁じたのでしょうか?このことを見てみましょう。

鍵になるのは、イエス様が12人に託した役割の中に「天の御国は近づいた」ということを宣べ伝えることです(7節)。「天の御国」または「天国」とは、マタイ以外の福音書では「神の国」と呼ばれています。マタイの場合は、「神」という言葉は畏れ多いので「天」に言い換えることがほとんどです。そういうわけで「天の御国」、「天国」、「神の国」はみな同じものを指しますが、ここで特に日本人が注意しなければならないことがあります。それは、聖書の「天国」というのは、黙示録や「ヘブライ人への手紙」などから明らかなように、将来、今ある天と地が終わりを告げて神が新しい天と地を創造する時に現れてくるものであるということです。その時、イエス様が再臨し、死者の復活が起こって、イエス様を裁き主とする最後の審判が行われ誰がそこに迎え入れられて誰が入れられないかということが決められるということです。なぜ日本人が注意しなければならないかというと、人間は死んだらどこに行くかということについて、仏教や神道にはちゃんと教えがあると思うのですが、一般の人たちは死んだらすぐ天国に行って、そこから地上にいる友だちを見守ってくれていると思っている人が多いからです。聖書の「天国」は世の終わりに現れて、死から復活させられた者が再会しあうところです。

そう言うと、なるほど天国は世の終わりに現れるのか、それなら、その時までは亡くなった人はどこにいるのか、という質問がおきるでしょう。ルターによれば、復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っている、ということになります。そう言うと、あれっ、カトリックでは聖人というものがあって、もう天国にいる人がいるんじゃなかったっけ、という質問もおきるかもしれません。確かに聖書をよく読むと、エノクやエリヤのようにこの地上から直接神の御許に引き上げられた者がいるので、既に今の段階で天国には神と天使以外にも誰かいるということになります。しかし、それが誰かは私たち人間にはわからないのです。実はルターも聖人の存在を否定はしませんでした。ただ、彼の立場ははっきりしていて、聖人は崇拝の対象ではない、それはあくまで父、御子、御霊の三位一体の神である、ということです。

さて、イエス様が活動を開始した時のメッセージは「悔い改めよ、神の国は近づいた」でした。「神の国」が近づいたことを告げ知らせるのと同時に、イエス様は無数の奇跡の業を行いました。不治の病を治し、悪霊を追い出し、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満たし、自然の猛威を静めたりしました。神の国とは、黙示録を繙くまでもなく、悩みも嘆きも苦しみも死もない至福の国です。神が全ての涙を拭って下さるという、この世での無念が最終的に全て晴らされる国です。本当に天国です。実は、イエス様が起こった奇跡というのは、神の国がどんなところであるかを人々に垣間見せるものでした。病気も飢えも危険もない国。つまり、この世では奇跡なのが奇跡ではなく、当たり前になっている国です。イエス様が12人を派遣した時に奇跡を行える力を与えたというのは、イエス様がしたのと同じように神の国の実在を示すためのものでした。それで、神の国の実在を示す相手が最初ユダヤ民族に限られたことも理解できます。旧約聖書に新しい天と地の創造について預言されているからです。そういうことを全く知らない異民族に奇跡を見せたら、どうなったでしょうか?ギリシャ神話の神々のリストを増やすことになっていたでしょう。実際、癒しの奇跡を行ったパウロは寸でのところでギリシャ神話の神に祭り上げられるところでした。

イエス様の十字架の死は、人間の罪を人間に代わって償うという身代わりの犠牲でした。創世記に記されているように、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は神の国から出て行かなければならなくなりました。しかし、神は、人間が再び神の国に入れるようにと、それでひとり子イエス様をこの世に送って彼に人間の罪の罰を全部受けさせて、それをもって人間の罪を赦すこととしたのです。このように神がひとり子イエス様を用いて完成した罪の赦し、これを受け入れた者は、文字通り罪の赦しの中で生きられるようになり、神の国に至る道に置かれて、それを歩むようになるのです。

こうして、イエス様の十字架の死と死からの復活をもって、人間が神の国に迎え入れられる可能性が開かれました。これが福音です。奇跡の業を行って神の国の実在性を示すよりも、福音を伝えることの方が人々を神の国に至る道に導く手段として主流になっていきました。まさに十字架と復活の出来事を待って異邦人への伝道が解禁されたというのはよく理解できます。もちろん使徒言行録の時代やその後の時代にもいろいろな奇跡が行われましたし、現代でも行われていると聞きます。しかし、仮に奇跡を起こせなくても、がっかりする必要はありません。福音があり、イエス様を救い主と信じているならば、その人の神の国への迎え入れは確固として揺るがないからです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、イエス様の弟子でもあるキリスト信仰者にとって、まだ神の国に至る道に入っていない人たちを福音を持って導いてあげること、そして既にその道にある兄弟姉妹たちがしっかり歩めるように福音を持って支えてあげること、これらは大切な役割であるということを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

交わり

吉村ヨハンナさんが今日の礼拝で帰国することになりました。母国フインランドでの大学進学のためです、若き学究の徒の前途を祝って教会からささやかな送別会を催しました。

 

最初に「証」のスピーチが村越さんの通訳で行われました、ひごろ物静かなヨハンナさんが内に秘めたる思いを綴った印象に残るスピーチでした。

コーヒータイムでは先日の音楽祭で披露した”kesäpäivä kangasalla”を有志一同で歌いました、教会の夏のテーマソングになる予感がします。興味のある方はYouTubeでご覧ください。

最後に今夏礼拝のご奉仕をしてくださる田中良浩牧師ご夫妻を囲んで記念撮影です、楽しい一日でした。ヨハンナさんお元気で帰国してくださいnäkemiin!

 

 

 

 

説教「人を変える憐れみ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書9章9-13節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. イエス様は、当時のユダヤ教社会の中で罪人の最たる者と見なされた人たちを受け入れて自分のもとに招いたり、果ては自分に弟子にしたりしました。このことが、ファリサイ派と呼ばれる宗教エリートたちのひんしゅくを買いました。本日の福音書の箇所はそうした出来事について述べています。ファリサイ派というのは、ユダヤ民族が神の民として神聖さを保てるように、モーセの律法のみならず、そこから派生して出て来た数多くの戒律をも守るべしと主張したグループです。

 この本日の福音書の箇所を読み返してみて、最近フィンランドで起きた出来事が頭に思い浮かびました。それは、日本でも大きなニュースになりましたが、大量の難民移民がヨーロッパに押し寄せたことに関係します。移民難民はフィンランドにも大勢入り、ピークだった2015年は3万人位に上りました。人口550万程の国に3万人というのはとても大きな数です。1億2500万の日本で考えたら70万近くになります。かつては北欧諸国の中で最も移民難民の受け入れに消極的だったフィンランドですが、時代は本当に変わったと思いました。これらの移民難民は、全国各地に設けられた一時収容施設で過ごした後、各自治体に振り分けられました。それで、難民の地位が認められたり、滞在資格を得ることの出来た人たちの新しい居住地での生活が始まりました。

同国のルター派国教会も大きな課題に直面しました。移民難民の大半はイスラム教徒です。一方で、これをイエス・キリストの福音の伝道のチャンスと見なす人たちがいました。他方で、他の宗教の人たちを改宗する必要はない、自分の宗教を続けられるようにしてあげなければならない、国内にモスクを建ててあげなければならないと言う人もいました。ところが現実に、移民難民の中でキリスト教に関心を持って自分から教会に来る人も出て来ました。そうした人たちの中には洗礼を受けるに至った人もいます。私どものミッション団体SLEY(フィンランド・ルター派福音協会)が毎年夏に開催する全国大会に昨年参加しました時に、会場でそういった移民難民出身の若者を何人も見かけました。SLEYはまた、ヘルシンキの中心部に、もともとは教会だったが売られて30年近くナイトクラブにされてしまっていた建物を買い取って教会に復元することをしました。それを昨年から移民難民向けの伝道センターとして用いています。伝道とはまさに、イエス・キリストの福音を知らない人たちにそれを伝え教えることです。もちろん洗礼に至るのが理想ですが、それを聞いて受け入れるか入れないかはその人の問題になります。そういうわけで伝道は、移民難民の宗教を尊重する人たちが批判するような、宗教強制ではありません。

そのような時、世論の中に別のタイプの疑問の声が聞かれました。それは、移民難民が洗礼を受けてキリスト教徒になったとしても、それはどこまで純粋なものかという疑問でした。ひょっとしたら滞在を有利にするための手段にしているのではないか、と。それに対してSLEYの新聞の編集主幹は次のような見解を表明しました。誰も人の心の奥底はわからない、それは神しかわからない、それゆえ我々としては、イエス様を信じて洗礼を受けた者は皆分け隔てなく兄弟姉妹として接する以外にはないのだ、という見解です。

私は、これはもっともなことだと思いました。あの人のイエス様を救い主と信じる信仰は本物だろうか、などと疑って接したらどうなるでしょうか?その人自身としては他の動機などなく信じているのに、それを疑われるというのはショックではないでしょうか?偉そうなことを言っているが、キリスト教会が唱える愛など偽善にしかすぎない、と思わせてしまう危険があります。

これとは逆のケースとして、何か別の動機があって教会のメンバーになった人がいたとします。しかし、そのようなものは誰も見抜けません。自分はわかるぞ、と思った人も、それは全体像のほんのちっぽけなかけらにしかすぎません。人間の真実はあまりにも深く、一人一人の心の中の全体像を見抜けて把握できるのは人間を造られた神しかいません。神は、私たちが神のようになって見抜けとは命じていません。神が私たちに命じているのは、仮に別の動機があったにせよ、お前が全神経を集中させるのはそこではない。その人もお前と全く同じようにイエス様を救い主と信じる信仰に生きる兄弟姉妹として接するべきである、ということです。そうすることで、その人にあった別の動機なるものは意味を失って押し潰されていき、最後には塵と消えて、信仰だけが残る、そういうことだと思います。実は、イエス様が罪人を受け入れることにもそういう力がある、ということが本日の福音書の箇所から見てとることができます。

 

2. 徴税人というのは、当時のユダヤ教社会のなかで罪人の最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしていたからでした。なぜ、占領された国民から、占領した側に仕えるような仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章で、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけるところがあります。そこで「定められた以上に取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のために仕えるのみならず、自分自身の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれていたことは想像に難くありません。

イエス様は徴税人のマタイに弟子になってついて来るよう命じ、マタイはつき従いました。そして自分の家にイエス様とその弟子たちを招き、加えて他の徴税人その他もろもろの罪人たちも一緒の食事の席につきました。そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されます。当時は、食事に招かれて同席するというのは、とても親しい近い関係になったことを意味しました。

 イエス様は、神由来としか思えないような権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は一体何をしでかすつもりなのか、伝統的な権威を破壊しようとする危険人物なのか、気が気でなりません。このように大勢の人々に偉大な預言者の再来と見なされて支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪人と同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪人とは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格などない、と。

 ファリサイ派の批判に対して、イエス様が返した言葉は次のものでした。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12~13節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と徴税人その他罪人との関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪人の抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書6章6節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪人たちを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪人を招くため」と言われますが、罪人を招くとはどういうことなのか?まさか罪人と一緒にどんちゃん騒ぎをすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを見ていこうと思います。

 

3. 先ほど述べましたように、イエス様の時代のユダヤ教社会では、徴税人は罪人の最たるものと見なされていました。ところが興味深いことに、福音書に登場する徴税人は、少し勝手が違います。例えば、先ほども触れたルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちが悔い改めの洗礼を受けに来ました。その中に徴税人たちの姿も見られました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人の話があります。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人を思い起こせば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は、「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。

 このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。そういうわけで、イエス様と一緒に食卓についた徴税人その他の罪人は実は生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時は元罪人でした。しかしながら宗教エリートは、この変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪人です。どうして受け入れられなかったのでしょうか?

 それは、罪人たちの罪の赦しというものが、宗教エリートが主張する、いろいろな儀式的な手続き手順を踏まえておらず、イエス様という一個人が受け入れて招くことで赦しが与えられてしまったということがありました。そうなると、宗教エリートたちが教えたことや守れと言っていた掟が一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスが行っていることは、神の受け入れでも罪の赦しでもなんでもない、罪人たちの新しい生き方なども新しい生き方に値しない、という見方になってしまうのです。それでは、イエス様の招きや受け入れというのは本当に罪の赦しがあって新しい生き方をもたらすものであるというのは、どうやってわかるでしょうか?

 先ほども申しましたように、イエス様はホセア書6章6節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」

罪人たちが罪の赦しを経た新しい生き方を始めたことを疑う宗教エリートに向かって、イエス様は、この言葉の意味を学びなさい、と叱責します。私たちもわからなければなりません。どんな意味でしょうか?ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『忠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語の「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉は「忠実」です。 

このように原文の言葉が変化したことが何を意味するかを少し考えてみます。ホセアというのは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法の規定に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまって、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになっていました。そのため、律法の規定を与えたのは神ですが、これではいくら生け贄を捧げられても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神に立ち返る生き方をしますと誓うための儀式なのに、心を改めることはなくなって儀式をすることだけで満足するようになってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらない、と言われたのです。

 それでは、神は生け贄に換えて何を求めたかと言うと、「忠実」がそれでした。神に対する民の忠実さ、民が神の意思に沿うように生きる、神に対して忠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されていますが、厳密に言うと「忠実」です。(私が使用する辞書HolladayのConciseには、חסדに「愛」の意味はありませんでした。)ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになったことを、結婚相手が不倫をしたことにたとえることがあります。そういう背景から考えるならば、問題となっている言葉は辞書にある「忠実」をそのまま使って良いと思います。「誠実」とか「相手を裏切らない」と言ってもよいでしょう(フィンランド語訳の聖書は「忠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。

ところが、紀元前200年代に旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳された時、この問題の言葉は「忠実」から「憐れみ」 ελεοςという言葉に訳し替えられました。福音書はギリシャ語で書かれていて、そこではイエス様は「忠実」ではなく「憐れみ」を使ったことになっています。イエス様はほぼ間違いなくアラム語で話していたので、ホセア書の言葉を引用した時にヘブライ語に倣ったか、ギリシャ語に倣ったか、アラム語の記録がないのでわかりません。残された文書はギリシャ語のものしかなく、それを手掛かりにするしかありません。加えて、イエス様がギリシャ語に倣って「憐れみ」を使ったことにした方が、神の人間救済計画がはっきりするということがあります。そういうわけで、イエス様は「憐れみ」を使ったことを前提にして話を進めていきます。

イエス様に受け入れられ招かれて新しい生き方を始めた罪人たちは、神に対して「忠実」に生きるようになった者たちです。つまり、ホセア書の神の言葉が実現したことになります。律法の規定通りに神殿で生け贄を捧げなくとも、神に対して忠実になれるようになったのです。一体、そのような変化はどのようにして生まれるのでしょうか?神に対して忠実になりなさい、と言われて、はい、なります、と言って、すぐなれるでしょうか?そんな力はどこから来るのでしょうか?

 そのような変化をもたらす原動力として「憐れみ」が出てきた、と言うことが出来ます。つまり、ヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時、ヘブライ語の「忠実」にかえてギリシャ語の「憐れみ」という言葉が採用されたのですが、それは、「忠実」ということを捨て去ったのではなく、むしろ、神に対する忠実さを実現するものとして「憐れみ」を出したということです。つまり、イエス様は神が求めるのは「憐れみ」だとおっしゃたが、それは神に対する忠実さを実現するためのものなんだな、と理解するわけです。このように、ギリシャ語訳のホセア6章6節とそれのイエス様の引用の中に「憐れみ」という言葉をみたら、ああ、これはヘブライ語の原文で言っていた「忠実」が元にあって、まさに神に対する忠実さを実現するために「憐れみ」がひっぱり出されたんだな、という具合に二重に理解しないといけないのです。まことに聖書は底が深い、侮れない書物です。

 

4. それでは、「神に対する忠実さ」を実現する「憐れみ」とは、どんな憐れみなのかを見てみましょう?まず「憐れみ」とは、罪人を受け入れて招く心の有り様です。この心の有り様があって、イエス様は罪人を受け入れて招きました。ところが、受け入れられて招かれた罪人たちは、今度は神に対して忠実な者に変わりました。そういうわけで、罪人を受け入れて招く「憐れみ」は、受け入れられて招かれた者の側に、生き方の変化、神に対して忠実になるという変化、そういう変化をもたらす力を持っているのです。ただ罪人を招いて一緒に飲んで食べて、それで罪人が、なんだ罪を犯していても、こんなに気前よくしてくれるんなら、このままでいいや、なんて思ったら、これは「神に対する忠実さ」をもたらすものではありません。それは、神が求める「憐れみ」ではありません。単なる無責任な気前の良さです。イエス様が言われる「憐れみ」とは、受け入れられた者、招かれた者に変化をもたらす力を持つものです。

イエス様が憐れみで受け入れ招いた罪人たちはいい気になることなく、逆に生き方を変えて神に対して忠実になりました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。ところで、イエス様が人の生き方を変えるような憐れみをかけるというのは、当時の罪人だけではありませんでした。神の目から見て罪の汚れを持ってしまっている全ての人間が相手でした。特に何か罪状があるわけではないのですが、私たち人間は神聖な神の目から見たら皆、「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に対して忠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の死を遂げられた時から始まります。このことについて、本日の使徒書「ローマの信徒への手紙」5章でパウロがよく教えています。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬものはほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者はいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(6~8節)。

人というのは、相手が正しい人であったり善い人であったりしても、その人のために命を捨てるということはなかなか出来ないものである。それなのに、イエス様ときたら、我々のような罪の誘惑には弱く、神を顧みようともしない、そういう罪びとにすぎない者のために命を捨てられた。こんなどうしようもない者なのに、神のひとり子の命に値する位の価値がある者として扱って下さった。人が受ける憐れみでこれ以上のものがあるだろうか?

「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(9~10節)。

 我々は、イエス様が十字架で流された尊い血を代償として、罪のもとから神のもとに買い戻されたのである。イエス様が自分を犠牲にしてまで我々の罪を償って下さったので、我々は罪の赦しの中で生きることができるようになった。つまり我々は今、イエス様のおかげで神の目に相応しい者に変えられているのだ。このようにしてイエス様が我々のために神との和解を打ち立てて下さったので、我々は最後の審判を心配しないですむようになり、死を超えた永遠の命に与れることを確信できるのである。

「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」(ローマ5章11節)。

 未来について心配しないですむようになり、希望を持って生きることができるようになった今、我々は神を誇りに思ってこの世を生きる。罪ある我々が神と和解出来るようにと自分を犠牲にするくらいの憐れみをかけて下さったイエス様、この方を送って下さったのは父なる神に他ならない。我々が誇りに思える方で神以上の方はいない。

 兄弟姉妹の皆さん、このパウロの聖句からも、イエス様の憐れみには本当に私たちの生き方を変える力があるとわかります。私たちはこの憐れみを受けて神に対して忠実になるようにと生き方を変えられました。私たちも隣人を受け入れて招かなければなりません。しかも、それは隣人の生き方を変えるようなものでなければなりません。そのような受け入れや招きを私たちは出来るでしょうか?そうなるように神に祈らなければなりません。生き方を変える憐れみが神の御心である以上は、その祈りは必ず聞き遂げられるでしょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

6月28日の手芸クラブのご報告

静かに雨が降る梅雨の最中の6月28日に手芸クラブを開きました。雨雲のため外は少し暗かったでしたが、会場となった教会の2階はライトの光で明るくなりました。

手芸クラブは、最初にお祈りをして始めます。

今回の作品は、つまみ細工です。はじめに作品のモデルを見て、どんなつまみ細工を作りたいのかを考えます。きれいな色や模様の布を沢山並べると、どれも作ってみたくなり、選ぶのが難しくなりました。布と形を選んで、それから作り始めます。楽しく話をしながら、花びらが少しずつ増えていき花の形になっていきます。時々参加者のお子様の声も聞こえます。そうしているうちに、子供に可愛いカラフルなクルミボタンも出来上がりました。
一人一人違う色と形の花を作って、素敵な髪飾りやブローチの出来上がりです。

片つけをしてからコーヒータイムに入ります。そこで、フィンランドの春と初夏の花の紹介と聖書のお話がありました。

「今日は、つまみ細工できれいな花の形の髪飾りやブローチを作ったので、フィンランドの春と初夏の花を少し紹介したいと思います。

esikko

3月と4月、まだ雪が全部溶けてない時に咲き始める黄色い花はEsikkoという花です。これは太陽がよく当たる道端や水路の周りで咲きます。この花を見ると、長い冬を超えて、やっと春になったと、ほっとした気持ちになります。 

エシッコの次にSinivuokkoという花が咲きます。シニヴオッコは春、雪が溶けても、まだ夜は氷点下になる時に咲き始めます。それは四月の終わり頃です。それはまだ地面や木に緑がない時です。私はこの花の濃い青い色が大好きです。そしていつも不思議に思うのは、生命が感じられない茶色だけの地面からきれいな花が咲いてくることです。この花が咲く森の地面はあちこちで青く輝きます。 

valkovuokko

その次にValkovuokkoという花が咲き始めます。これはシニヴオッコと似ていて親せきの花です。Valkovuokko はフィンランドの南の方によく咲きますが、最近は気候は暖かくなったために北の方でも咲くようになりました。特に5月の第2日曜日の母の日にきれいに咲きます。その頃、森の地面はこの花で真っ白になります。

kielo

Kieloすずらんは5月の終わりから咲き始めます。すずらんはとても香りの良い花で、フィンランド人が大好きな花です。この花はフィンランドの国の花、国花になっています。この花は小さなすずの形をして、とてもかわいいです。

Tuomiというかんぼくに咲く花があります。それは時々木のように高く育ちます。Tuomiは学校が終わって夏休みに入る頃、6月の初めに咲きます。かんぼくは咲いている花が一杯になり、とてもきれいです。花の香りは強く、遠くまで拡がります。

tuomi

りんごの木の花はTuomiと同じ時に咲きます。りんごの花が咲く時には葉っぱはまだありません。それで、少し桜と似ています。花の色は白かピンク色で、香りもとてもいいです。

syreeni

Syreeniというかんぼくもあります。Syreeniは昔から家の庭に植えられてきたかんぼくです。私の実家の庭にも、子どもの時から今まだきれいに咲いているSyreeniがあります。Syreeniはとても長く持ちます。花の色は紫か白です。この花は夏至祭、ユハンヌスの頃に咲きますので、、ユハンヌスの花の一つです。

juhannusruusu

ユハンヌス・ルースというバラもあります。これもユハンヌスの頃に咲いて、バラの香りは遠くまで広がります。

日本にもきれいな花が沢山咲きます。私が不思議に思うのは日本で花が咲くのは春、夏だけではなく、1年中それぞれの季節の花が咲くことです。それもとてもきれいだと思います。

このように花は私たちを喜ばせてくれますが、これも神様が造られたものです。万物は神様が造られたものだからです。花は美しいですが、美しさは長く持ちません。しばらくすると枯れてしまいます。旧約聖書のイザヤ書には「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが私の神の言葉はとこしえに立つ」と書いてあります。
 私たちはこの世で評価されるものを価値あるものとして求めると思います。私たちが求めるものはどんなものでしょうか?それは時代によって変わると思いますが、財産、お金、評価される仕事、若くいられること、美しさ、などが価値あるものと考えられているでしょう。これらのものを得られたら、とても幸せと思われるかもしれません。このような価値観はどうでしょうか?こうしたものは、いつかは失うことになってしまうのではないでしょうか?変わることのない価値あるものはあるでしょうか?どうすればそれを得られるでしょうか?

今読んだイザヤ書には変わらない、いつまでも続く価値あるものについて書いてありました。それは聖書に書いてある神様のみ言葉です。聖書のみ言葉は時代が変わっても変わらないものです。み言葉を通してイエス様を信じる信仰が生まれます。「神が永遠の命を私たちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子に結ばれている人にはこの命があります」と、「ヨハネの第一の手紙」5章に書いてあります。イエス様と結ばれている人は、今のこの世でも、またこの世の後の次の世でも、いつも永遠に神様が一緒にいて下さるようになることが出来ます。

きれいな花を見ると、それを造られた創造主の神様に感謝の気持ちが起きてきます。そして、神様のみ言葉が心の中に入れば、もっと大きな感謝に満たされて、今のこの世と次の世をずっと生きる力が与えられます。」

次回の手芸クラブは秋になります。
詳しくは教会ホームページの案内をご覧ください。

 

説教「嵐が来ても大丈夫な家のように」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書7章15-29節、申命記11章18-28節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  マタイ福音書の5章から7章にわたるイエス様の長い説教は山の上で群衆に向かって行ったことから「山上の説教」と呼ばれています。それは、本日の箇所の終りのところにある「岩の上に家を建てた人と砂の上に建てた人」のたとえで終わります。そこでイエス様は、私たちをドキリとさせることを言われます。「私のこれらすべての教えの言葉を聞き、かつ実行する者は、岩の上に家を建てた賢い人と同じである。しかし、聞いても実行しない者は、砂の上に家を建てた愚かな人と同じである」。イエス様の言葉を聞くだけでは足りない。それを実行しないと砂の上に建てた家のように嵐が来たら倒壊してしまう。

イエス様の教えを聞いて実行する人は嵐が来ても大丈夫な家を建てる人と同じで、実行しない人は大丈夫でない家を建ててしまう人と同じ、というのですが、それでは、嵐が来て家が大丈夫だったとか大丈夫でなかったというのは何を意味するのでしょうか?本日の箇所の7章21節を見ますと、イエス様は次のことを言われます。イエス様のことを「主よ、主よ」と言って敬って来る人みんなが天の国つまり天国に入れるわけではない。ここで注釈すると、聖書では「天の国」「天国」は「神の国」とも呼ばれます。みな同じものを意味します。つまりイエス様は、天の父なるみ神の意思を行う者が神の国に入れるのだ、と言われるのです。神の意思を行うというのは、その神のひとり子であるイエス様の教えを行うということです。このような人たちが、死を超えた永遠の命に与ることができて天の国、神の国に迎え入れられる、というのです。ということは、嵐が来ても大丈夫な家を建てた人というのは、永遠の命に与って神の国に迎え入れられる人を意味します。そうすると、嵐に遭っても家が大丈夫だったというのは、死の力が襲いかかってきても永遠の命がそれを跳ね除けたということを象徴しています。逆に、嵐に遭って家が倒壊してしまったというのは、死の力に襲われてそのなすがままとなって残骸しか残らないことを象徴しています。

そこで、私たちをドキリとさせることというのは、イエス様の言葉を聞くだけでは足りない、それを実行しないと救いに与れないということです。どうしてそれがドキリとさせるかと言うと、ご存じのように、ルター派の信仰は、イエス様を救い主と信じる信仰によって、私たちの罪の汚れが洗い落されて神の目に相応しい者とされるということを強調します。つまり、「信仰によって」というのがポイントです。神の目に相応しい者にされるというのは、難しい言葉を使うと、「神の義」を持てるようになるということです。信仰によって神から義と認められるということで、信仰義認と呼ばれます。人間は、律法の掟に命じられていることを守ることで神の目に相応しいと認められるのではない、また善い行いを積み重ねて相応しいと認められるのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって神の目に相応しいと認められる、ということです。そうすると、本日の箇所でイエス様は御自分の教えや神の意思の実行を強調しているので、これはもう信仰義認ではなく、律法主義や善行義認なのでしょうか?まず、この問題を考えてみましょう。

 

2. イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに迫る事柄についてですが、ルターによれば、そういったものはまずイエス様を救い主と信じる信仰に入って神の目に相応しいとされた後に関係してくることである、と教えます。つまり、神の目に相応しいとされる前の段階にいて相応しい者にされようと行うものではない、ということです。本日の福音書の箇所の少し前に「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」という教えがあります(1~2節)。それについてルターは、次のように教えます。

「これは、まことに奇妙な教えだ。神は我々に、御自分ではなく隣人に仕えることの方が大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分に関わることでは、我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人に関わることでは、もし我々が隣人に悪く立ち振る舞うなら、神はもう我々と平和な関係にいることを止めて罪の赦しを全て却下されると言われるのだ。

 実は、この『量る、量られる』というのは、我々が(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った後に起こることで、信仰に入る前のことではない。君が(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った時のことを思い出すがよい。神は君のことを何か業績にもとづいて受け入れたのではなかった。神は一方的に御自分の恵みによって君を受け入れて下さったのだ。(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った君に神は今、次のように言う。『私がお前にしたように、お前も他の人たちにせよ。もししないのならば、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも起こる。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げ何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ何も与えないことにする。』

信仰に入った後の『量ること、量られること』は、まさにこのように起こる。神は、我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与えられる。だから、もし我々が隣人に善いことをしなければ、神も我々にお与えになった善いことを却下される。この時、我々は、自分たちに信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。」

厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、私たちは神から計り知れない恵みをいただいたのだから、それがわかるならば、そのような計り知れない善いことをして下さった方を心から愛して、その方の言われることには従うのが当然だという心になるのではないか。またその頂いたものの莫大さを思えば、隣人に出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが取るに足らないものになるのではないか、ということです。私たち人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと、神のひとり子であるイエス様が人間の罪を全部引き受けて十字架の上までそれを運び、そこで私たちの代わりに罰を受けて死なれた。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、私たちは神から罪の赦しを得られて神の子とされて、死を超える永遠の命に至る道に置かれた。このようにして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いを全部整えて下さいました。私たちはイエス様を救い主と信じ洗礼を受けることでこの救いを受け取ることができるのです。そうであるがゆえに、キリスト信仰者にとって善い行いとは、もはや救いを勝ち取るための行うものではなくなりました。救われたことの結果、感謝の念から自然に生じてくる実のようでなければならないのです。

そう言うと、イエス様を救い主として信じることから、そんなに簡単に善行が生まれてくるのか、と疑う向きもでてくるかもしれません。実は、そんな時こそ、救いを受け取ったことがどんなに大きな意味を持つか、一度立ち止まって吟味する必要があります。それがわかるために、マタイ18章にある「仲間を赦さない家来」についてのイエス様のたとえは一ついい材料になります。

それをちょっと見てみますと、ある王の家来が王に1万タラントンの借金があることが判明する。大ざっぱに計算すると大体4800億円位の額です。王は家来に全財産と家族を売り払って返済せよと命じますが、家来が泣き伏して憐れみを乞うのを見て、王はなんと借金を帳消しにしてしまう。ところが、この家来が自分に100デナリオンの借金がある仲間に出会うとこれに返済を要求する。単純に計算して大体80万円位です。この仲間が憐れみを乞うても赦そうとせず、牢屋に入れてしまいます。自分は泣きついて4800億円の借金を帳消しにしてもらったのに、泣きつかれた80万円は赦すことが出来ない。この額差ですが、2000年間のインフレ率を加算するともっと天文学的な数字になるでしょう。いずれにしても、この家来は結局、報告を受けた王の怒りを招いてしまい牢に入れられてしまいます。そういう話です。

このたとえでイエス様が教えたかったことは、これだけの多額の借金を帳消しにしてもらったら、普通なら感謝の気持ちで一杯になり、他人が自分に有している負債など全く取るに足らないものになってしまうのが当たり前だということです。キリスト信仰者というのは、そのような帳消しを受けているというのです。しかも、私たちが受けた帳消しというのは、金銭で計れるものではありません。永遠の炎に焼かれる罪の罰が赦されて、死を超えた永遠の命を持てるようになったということが、私たちの受けた帳消しです。そのために支払われた代価は、神聖な神のひとり子が十字架の上で流した尊い血でした。このことがわかれば、感謝の気持ちで、他人が自分にどんな負債があろうが、また自分に気に食わないことを言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもない恵みを自分に示して下さった神を全身全霊で愛することが当然と思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」もそうするのが当然となります。

 

3.以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と教える時は必ず、「お前は、私が十字架の死と死からの復活をもって整えた救いを受け取ったことを忘れるな」という注意喚起が伴っているとしっかり覚えておかなければなりません。そうすると、イエス様が「山上の説教」を行った時に教えを聞いた人たちはかなりショックを受けたのではないかと思います。というのも、その時はまだイエス様の十字架や復活の出来事が起きていないので、神が整えて下さる救いというものが何もなかったからです。もちろん、その救いについては旧約聖書の中で前もって預言されてはいましたが、誰もそれを正しく理解できていませんでした。多くの人たちにとって、旧約聖書の中で預言されている救いとは、ユダヤ民族が異民族の支配から解放されるという理解が支配的でした。本当は旧約聖書の中で預言されている救いとは、全人類が罪と死の支配から解放されるというものだったにもかかわらず。神の計画を自民族中心に理解してしまったのは、神の言葉が語られたり書き留められたりするのが、いつもユダヤ民族の具体的な歴史の流れの中で起きたので、やむを得なかったかもしれません。それだからこそ、最後には神のひとり子自らが神の計画を正しく教えなければならなかったのでした。しかもそのひとり子は正しく教えるだけでなく、計画自体を実行したのです。自分を犠牲にしてまで実行したのです。

「山上の説教」でイエス様は、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」について、殺人を犯していなくても兄弟を憎んだり罵ったりしたら同罪であると教えました(マタイ5章21~22節)。また第六の掟「汝、姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目でみたら同罪である(同27~28節)と教えました。このように十戒の掟について、外見上守っているだけでは守っていることにならない、言葉や心の中でも守っていなければならないと教えるのです。そこまで言われたら、人間はもう誰も神の前で潔白ですとは言えません。どうしてそこまでしなければならないのでしょうか?本当に天の父なるみ神はそこまで要求しているのでしょうか?そのことを見てみましょう。

本日の旧約の日課は申命記11章の箇所でした。イスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出して、40年に及ぶシナイ半島の荒野での放浪を終えて、もうすぐ約束の地カナンに向かおうとする時に神の言葉がモーセを通して伝えられました。本日の箇所で神は次のように命じます。「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け」なさい(11章18節)。「わたしの言葉」というのは、十戒を頂点とする数多くの掟を指します。それらを心に留め、魂に刻み、しるしとして手に結び、覚えとして額に付けなさい、と。この神の命令は、二つの部分に分けられます。一つは、神の掟を心と魂に留め刻めよ、という内面的な留め刻みです。もう一つは、神の掟を手に結んだり額に付けるという外面的な留め刻みです。

神の掟をしるしとして手に結んだり、覚えとして額に付ける、というのはどういうことでしょうか?この部分のヘブライ語の原文を忠実に訳すと次のようになります。「それら(神の掟)をしるしとして手に結び、それらが額と腕のしるしとなって彼ら(同胞)の目に留まるようにせよ」。今もあるユダヤ教の慣習の一つに、旧約聖書の聖句を羊皮紙に書き記してそれを二つの革製の小箱に入れて、それを額と腕に結びつけて祈りを捧げるというものがあります。その小箱は英語でフィラクテリーと呼ばれます。ちょっと日本のお寺や神社で売っている御守りの感覚に通じるものがあると思います。この申命記11章18節が元になって(他にも出エジプト記13章9節、16節、申命記6章8節)、そういう小箱に入れた聖句を額や腕に結びつけるということが出て来たと考えられます。

この箇所で注意したいことは、そういうことをするのが同胞たちの目に留まるようにするため、ということです。この「目に留まるようにする」というのが、私たちの新共同訳聖書では省略されてしまっています。(英語訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳の聖書も同じです。たった、二語בין עיניכם[והיו לטוטפת]のことなのに!)実はモーセの時代から1300年後にイエス様がこのことを議論に取り上げたのです。イエス様は当時の宗教エリートたちを批判する時に、彼らが聖句の小箱を額などにつけているのは、人に見てもらうためにしているにすぎない、と言って、神の掟が心に根づいていないこと、見かけ上は守っているように見せかけているにすぎないことを批判しました(マタイ23章5節)。申命記11章18節は、神の掟が心と魂に刻まれていることと外見上のしるしが一緒でなければならないことを命じていたのでした。心と魂に刻まれていなければ、外見上のしるしは意味がないのです。

それでは、神の掟を心と魂に刻むとはどういうことなのでしょうか?それはどのようにして出来るのでしょうか?神は、申命記の本日の箇所の終りのところで、もし民が神の掟を守れば祝福を受けるが、守らずに他の神々に従うならば呪いを受けることになると戒めます(28節)。カナンの地に入った後のユダヤ民族の歴史は、旧約聖書を繙けばわかるように、祝福と呪いの繰り返しの歴史です。ダビデの王国が南北に分裂した後は呪いの方が主流になって、紀元前700年代後半に北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、残った南のユダ王国も紀元前500年代前半にバビロン帝国に滅ぼされてしまいました。民の主だった人々はバビロンに連行されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる歴史上の出来事です。イスラエルの民は、神の掟を読んだり聞いたりはしても、また額や腕に結ぶことはあっても、心や魂に刻むことはしなかったのです。

そこで神はこのような運命を辿った民にどう振る舞ったでしょうか?あれほど警告しておいたのに、しょうもない奴らだ、自業自得だ、思い知るがよい、と冷たく突き放してしまったでしょうか?そうではありませんでした。しょうもない奴らだということはよくわかった、だから、しょうもない奴らでなくなるように、こちらから何かしてやろう、と言って、何かをして下さったのです。しかも、その何かとは、一つの民族に対してではなく、全ての民族に対するものだったのです。神は何をして下さったのでしょうか?

エレミア書31章を見ると、神の民の復興についての預言があります。エレミアはユダ王国が滅亡する直前の混乱期に活躍した悲劇の預言者です。神はエレミアに半世紀後に起こる祖国帰還とその後に続く民の復興について告げ知らせます。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」この後に大事な約束が来ます。しょうもない奴らを神の力で変えてやろう、という方針が示されます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミア31章31~34節)。

イスラエルの民は神の掟を心に刻みつけなさいと言われたにもかかわらず出来ませんでした。そこで今度は神自らが人間の心に刻みつけると言われるのです。神の掟が心に刻みつけられたら、もう神を当たり前のように知るようになる。神を当たり前のように知ると、神の意思も当たり前のように知ることになります。それが、神の掟を心に刻みつけるということです。神はどのようにして掟を人の心に刻みつけたのでしょうか?

バビロン捕囚から帰還してエルサレムの町と神殿を再建した人たちは自分たちのことをそのような者と考えました。ところが、実際は神の掟が心に刻みつけられた状態からは程遠かったのです。現実の歴史を見てもユダヤ民族は、ほんの一時期を除いてずっと他民族支配が続き、現行のシステムは神を正しく崇拝するものではないという疑いの声が多く挙がっていました。まさにその時にイエス様が登場したのです。十字架と復活の出来事が起きるとすぐ、あの方こそは旧約聖書に約束されたメシア救世主で、人間を罪と死の支配から解放して下さったのだということがわかりました。神が御自分のひとり子を犠牲に供してまで人間の救いを整えて下さった、どうしてこの救いを受け取らないでいられようか?そして、救いを受け取った者の内に、これほどの愛と恵みを示して下さった神の意思に沿うように生きようという心が生まれました。まさに、神の掟が人間の心に刻みつけられるということが、イエス様を救い主と信じて神の目に相応しい者とされて起こったのです。

 

4.神がイエス様を用いて完成した罪の赦しの救いを受け取った人は、このようにして神の掟が心や魂に刻みつけられます。そうなると、今度はその人は罪に対して敏感になり、罪の意識を持ち続けることになります。神から罪の赦しを得られて罪の汚れが洗い落とされたと言っているのに、罪の意識を持ち続けるとはちょっとへんに聞こえるかもしれません。しかし、ルターも教えるように、キリスト信仰者にとってこの世の人生というのは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」と以前からある肉に結びついた「古い人」の内的な戦いです。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いです。最終的に復活の日にキリスト信仰者は古い人を全部捨て去って、完全なキリスト信仰者になると教えています。

戦いとは言っても、一度、罪の赦しを受け取ってその中で生き始めていれば、勝利は約束されています。もちろん、苦戦を強いられるときが何度も来ます。注意していれば外面的な行為の罪を犯すことはないとは思いますが、もちろんキリスト信仰者も弱さを持つので、隙を突かれることがあります。また外面的な行為には現れなくとも、言葉や思いで罪に染まることはもっとあります。しかし、その度に、神の方に向き直って赦しを祈り願えば、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、そこに罪の赦しがしっかりと打ちてられたままであることを見せて下さいます。そして、次のようにおっしゃって下さいます。「わかった、わたしのひとり子イエスの身代わりの犠牲に免じてお前の罪を赦そう。これからは罪を犯さないように。」そのようにしてキリスト信仰者は新しく出発し、やり直しするのです。

古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てるというのは、こういうことを繰り返して行います。この世を去る段階でどこまで到達できたかは、これは神に判定してもらうしかありません。人間がすることではありません。仮に、あの人の新しい人の到達度は80%、私は40%という結果だったとしても、神にとって重要なのは、その人が罪の赦しのサイクルの中にしっかり留まっていたかどうかということです。留まっていたと神が認めたら、80%の人も40%の人も、復活の日に100%にしてもらえるのです。まさにそれが、嵐のような死が襲ってきても、家が大丈夫ということです。罪の赦しの救いを受け取って、その中で生きることが、家を岩の上に建てることになります。

 そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは罪の赦しの救いを受け取ったので、神の掟が心に刻みつけられています。神の意思に沿うようにしようと思っても、なかなかそうならない自分に気づかされる日々かもしれません。しかし、罪の赦しの中にいることは打ち立てられてしまったので、もう神の意思に沿うように向かうしかないのです。罪の赦しの救いを受け取っていることを思い起こすならば、私たちは、神の意思に沿うようにと後ろから強い力で押されていることに気づくでしょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。         アーメン

 

6月10日 フィンランド家庭料理クラブのご報告

梅雨入りしたのに、ギラギラの太陽が輝く土曜日の午後、
今年度前期最後の家庭料理クラブは「Munkki」を作りました。

プッラ生地で作るイーストドーナツは、オーブンを使わずに作れるので、暑いシーズンやオーブンのないお宅でも、作れるフィンランドのおやつです。

最初に、吉村先生のお祈りでスタートしました。
今回は10ヵ月の赤ちゃんや小学生のお嬢さんの参加もあり、計量や生地作り、発酵へと賑やかに作業が進みました。

リングの成型に歓声があがったり、丁重に揚げていく作業に、納得されたりして、Munkkiは完成しました。

試食タイムは、パイヴィ先生が用意してくださった、フィンランドの自家製レモナードSimaと一緒に、Munkkiを頬張りました。

パイヴィ先生からは、
 フィンランドのVappu、メーデーやユハンヌス、夏至祭の楽しい様子を聞かせて頂きました。

・・・「もう一つユハンヌスの伝統的なことを紹介したいと思います。これは毎年ユハンヌスの礼拝で歌われるきれいな賛美歌です。この初夏の賛美歌の最初の1番から3番は北欧の初夏の美しい自然や渡り鳥について歌われます。私はこの賛美歌を歌うと一つ聖書の箇所を思い出します。それはマタイによる福音書6章26節から34節までです。この箇所でイエス様は、神様が私たちをどのように見守って養って下さるかということについて教えます。神様は、働きもしない花や鳥にも生きるための必要な食物を与えてくださいます。神様はまた、人間にも必要なもの、ご飯、飲み物、衣服などを全部与えてくださいます。それで、私たちに与えられる生活の必要なものは全て神様からの贈り物です。ご飯や住まいや衣服などは私たちにとって当たりまえのようになっていて、神様に感謝することなど忘れてしまいます。でも、神様はどうして私たちをこのように守ってくださるのでしょうか?それは、私たちが神様のことを知るようになって、信じるようになるためです。神様が私たち人間をどれほど愛して下さっているか、それを神様は全世界の人々に伝わってほしいと思っています。

生活に必要な良いものは、いつかは無くなるかもしれません。しかし、神様と人間の間に、死を超えて永遠に続く繋がりができる可能性があります。そのような神様と人間の繋がりはどのようにして得られるでしょうか?それは、神様の子イエス様の十字架や復活の出来事を通して得られます。イエス様は私たちの罪を全部十字架の上に背負って持って行って下さって、そこで死なれました。しかし、3日目に死から蘇られました。この出来事のおかけで、私たちの罪が全部許されて、この世の中でも、またこの世の次の世でも、いつも永遠に神様が一緒にいてくださるようになりました。このように神様は本当に人間を愛して下さっているのです。

賛美歌「花咲き誇る季節来たり」は多くのフィンランド人にとって懐かしい、安心感を与える歌です。しかし、イエス様を通して得られる神様との繋がりはもっと深くて長く、永遠まで続きます。この繋がりを神様は私たちに贈り物としてくださいました。これらのことを神様に感謝していきましょう。」

参加の皆様、お疲れ様でした。
次回の家庭料理クラブは、
9月16日(土曜日)を予定しています。