ニュースブログ

説教「キリスト者への謙遜な生活」木村長政 名誉牧師、コリントへの手紙5章1〜8節

第18回

コリントへの手紙  5章1〜8節                  

「キリスト者への謙遜な生活」

 今日の御言葉は5章1〜8節です。5章から内容ガラリと変わりまして、1節のところを読んだだけで

驚く事と思います。

1節を見ますと、「現に聞くところによると、あなた方の間に淫らな行いがあり、しかもそれは異邦人

の間にもない程の淫らな行いで、ある人が父の妻を我がものとしている との事です」。

コリントの教会の人々の中が、どんなに堕落していたか、驚きの思いです。

パウロは、それにしてもこんな事をなぜ言わなければならなかったのでしょうか。

 

これまでパウロは伝道者の弱さ、や強さについて語って来ました。それはまた人間の弱さや強さの事でもあります。

 5章にはいって、まず、コリントの教会内の腐敗、堕落を追求していきます。

問題は、もちろん、それらの不品行にありますが、同時にパウロが一番大切な事として、指摘するのは、

「コリントの教会の人々が高ぶっている。」ということであります。

それで2節には、「それだのに、なお、あなた方は高ぶっているのか」と書いています。

6節でも書いています。「あなた方が誇っているのはよくない」と。不品行きわまりないことが、教会の中であっているのに、「高ぶっているのは」のは何事か、と言うのです。

そうなると、ここの話は、高ぶっていること、誇っていることに重点をおいて言っているのです。

もちろん、不品行のことが問題ではある、ここではそういう人がいるのであるから、「むしろそんな行いをしている連中をあなた方の中から除かれねばならない。そのことを思い、悲しむべきではないのか」。

それなのにあなた方は、なお高ぶっているのか。と言うのであります。

人間にとって、最もやっかいな問題が、この「高ぶる」ということであります。

 この当時のコリントの教会は町全体に不品行に満ちていた。特に異邦人の神殿のかくされた所では、

みだらなこと、不品行が横行していたのです。ですからパウロが伝道した教会の中にも入り込んでむしろ、誇らしげにしていたのでしょう。

パウロはゆるせないことであったでしょう。

人間の弱いところは:高ぶるところにあるのです。

人はどうしても、生きるために、自分を守らねばならない、と考えています。従って、誰に対しても

自分は、その人より上である、と思わないではおれないのであります。又そうでなければ、相手の事を軽蔑することになるのであります。

無意識に暗黙のうちに相手を軽蔑したいと思っているのです。

 パウロ自身が誇り高い人でありましたから、この事がよく見えるのであります。大した事ではなくても、何か!自分が上である、と思う、そうでないと、生きられない、とまで心の内で思うのでしょう。

もし、そうであるなら、パウロは伝道者としての、自分もコリントの教会も、みな、「キリストにならって謙遜な生活をしなければならない、と思った事でしょう。

これは1つの、教会の話であります。又同時に今日の私たちの教会のことでもあります。

どの教会も、どんな事件があっても、なくても、主のように、へりくだった生活をすることが必要なのであります。

     1章26節以下のところを見ますと、すでにパウロは書いています。

「兄弟たち、あなた方が召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄のよい者が多かったわけでもありません。」しかし、そういう人が多くいたとしても、高ぶった思いを持っては、よい教会にはなりません。

そらなら、不品行な恥ずべき事柄は、どうするのでしょう。パウロはそれをいい加減にするつもりはありません。高ぶりは高ぶりのこと。しかし、このことは別であります。

3節では、「わたしは、体では離れていても、霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんな事をした者を既に裁いています。」と言っています。

教会は、何の汚れもないような所ではないかもしれません。いろんな汚れたところもあるんです。

しかし、その事と、神の裁きとは別であります。

教会は、愛による交わりの生活である、といって愛の名のもとに、神がお許しにならないような事があってはならないのであります。

 

パウロは、コリントとは離れたところにいても、まことに、きびしく、この事を処分しよう、と、しました。きびしく問いつめるのは、パウロの好みによるのではない。しかし、教会というものがそういう清さ、というものを持っていなければならないからです。

そういう意味からも、パウロは、この不品行の事を、取り上げているのです。

  それなら、どのようにして、裁くのか。

パウロは何かの規則によって、事を扱うとは考えませんでした。

彼は、どこまでも、信仰によって、それを処理しようと、したのです。

教会は、いつでも戒規を持っていました。教会の清さを保とうと、するのであります。

しかし、戒規のようなものは、どこまでも、人間が作ったものであります。まことの裁きはキリストの権威により、生き、死にを、超えたものであります。

 パウロがここで語ろうとすることはそのことであります。彼が離れていても、そのことは問題にならないのです。パウロは体を離れていても、霊において、教会のものと共にある、と言いました。

まことの裁きは、霊によって、行なわれるべきものであります。

 主イエスの権威のもとにパウロも、コリントの教会の人たちも、霊と共にある、というのであります。

ぞれは、信仰によって、行なわれるべきものである、ということであります。大切な事は人間が裁くのではないということであります。

 さて、6節からパウロは別の話を例にして語っていきます。「あなた方が誇っているのはよくない。わずかなパン種が練り粉、全体を膨らませる事を知らないのですか」と言っています。

パウロは日頃、誰もが知っているパン種の事を例に出しました。パン種はパンを膨らますものであります。パウロはパン種の力を取り上げて、人間がふくれあがって、誇っている生活を説明しています。

コリントの教会の人々が、おごり高ぶって、ふくれ上がったのは、そのパン種のせいである、と言いたいのであります。

従って、新しいパンが作りたいのであれば、古いパン種を捨てなければならない。

すべての人は、そのパン種によって、自分の生活をつくっているのです。しかも、そのことに気づいていないのではないか、と、パウロは言うのです。聖書の生活から言えば、パン種なしのパンは特別な意味を持ったパンでありました。

イスラエルの民にとって、最も重要な意味を持つ祭りに、種なしのパンが用いられるのであります。

イスラエルの民族が決して忘れてはならないのは出エジプトの奇跡の出来事でした。

モーセに率いられて、エジプトで奴隷の状態で苦しんでいたイスラエルの民を、神様は脱出させるということをなさるのです。

大事なことは、イスラエルがこの日特別にほふられる小羊を食べることになっていたことです。その

小羊の血を、かもいに塗っておくのであります。それによって、子供を殺す天使たちが、その家だけは避けて通る事になっていました。こうして、イスラエルは無事脱出することになるのであります。イスラエルは、その時、大急ぎで食事をしなければなりません。大あわてで、滅びの町を出なければ、ならなかったのであります。その記念すべき夜、種入れぬパンを食べることを命じられたのであります。他のいくつかの食べ物と共に、種入れぬパンが必要でありました。

パンは重要な食物です。しかしパン種は、又腐敗のしるしのように思われました。 だから、この日には、パン種を入れないパンこそ、必要であったのです。

もちろん、パン種のないパンがおいしいはずはないでしょう。しかし、これが過越しの祭りに用いられた時には。それこそ救いのパンであったはすであります。

救われたいがために焼いたパンであったわけであります。

 イスラエルにとっては重要な事でありました。 そこでパウロは、今、救いの、パン種のない話を持って来るのであります。パン種の入ったパンと、入らないパンを取り上げ、一方は腐ったり、よけいな内容のあるパンです。もう一方は腐ることのないパンです。それだけではありません。「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなた方は事実、パン種なしのパンなのだから」。と7節で言います。信仰者は種の入っていないパンである、ということです。

だから、信仰には、パン種の入ったパン等ないはずではないか。それなのにコリントの教会には、パン種の入ったふくらんでしまっている、おごり高ぶった生活をしているではないか。

それでは、なぜ、パン種のないものなのか、ということですが、それは、私たちキリスト者は、過越しの小羊といわれる キリストによって、救われたのであります。そうであれば、そのほふられたキリストが救い主であるのなら、私たちは、あの時に用いられた種入れぬパンであるのです。

それでパウロは8節のところで言うのです。「だから、古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で、真実のパンで、過越しを祝おうではありませんか。」

パウロはこのようにすすめているのです。

ほふられた小羊こそ、キリストであり、キリスト者はこのキリストのように謙遜であるべきであります。

 

                                    アーメンハレルヤ。

説教「洗礼ー新しい命の扉」V.アウヴィネン牧師(SLEY)、ヨハネによる福音書 3章1-12節

2018年5月27日 三位一体主日 礼拝説教

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2018/05/V_Auvinen_2018_5.mp3


説教者 ヴィッレ・アウヴィネン牧師
フィンランド・ルター派福音協会海外伝道局長、神学博士

聖句 ヨハネ 3章1-12節

説教題 「洗礼 - 新しい命の扉」

私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがた一同にあるように。アーメン

祈りましょう。神聖な神、愛する天の父よ、あなたの御言葉を感謝します。私たちに語りかけて下さい。アーメン

ユダヤ教社会の学識ある指導者でファリサイ派に属するニコデモがイエス様に興味を持ちました。新約聖書に記されている出来事の中で、ファリサイ派の人たちがイエス様にいろんなことを問いただす場面が多くありますが、それはイエス様を陥れようと謀って行ったことでした。ただニコデモの場合は、イエス様に対する関心は純粋なものだったようです。彼は、イエス様のことを神が送られた方とまで言ったのです。さて彼は、イエス様と神の御国についてもっと知りたいと思いました。

イエス様の最初の答えはびっくりさせるものでした。「人間は新しく天の神から生まれなければならない。そうでないと神の御国に入ることはできない。」この答えをニコデモは理解できませんでした。そこで、イエス様とニコデモの間に対話が始まります。その終わりの方で、イエス様は最も単純明快な福音を宣べてニコデモに真理を伝えようとしました。イエス様は次のように教えました。「神は、そのひとり子を送るほどにこの世を愛された。ひとり子を送るという仕方でこの世を愛されたのである。それは、彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命に与るためであった(ヨハネ3章16節)。

なぜニコデモはイエス様の教えを理解することが難しかったのでしょうか?難しいというより、理解するのが不可能でした。その理由について、イエス様は次のように答えています。「肉から生まれた者は肉である。神の霊から生まれた者は霊である」(ヨハネ3章6節)。これと同じことを、使徒パウロは次のように言い表しています。「人間は自然の状態では神の霊が教えることを受け取らない。というのは、それは彼にとって馬鹿げたことに見えるからだ。それは神の霊の力を借りてのみ把握できるものなので、自然の状態では気づくこともできないのだ」(第一コリント2章14節)。パウロのこの言葉は何を意味するでしょうか?それは、神の御国に関する事柄は理性では理解できないということです。また、人間的な思考に頼ってでは神はどんなお方かを知ることが出来ないということです。人間の限りある論理は人間を神のもとに連れて行くことはできません。聖書が教えるように、私たち人間は堕罪のゆえに霊的に目が見えなくなっており、霊的に耳が聞こえなくなっており、また霊的に死んでしまっているのです。私たちには霊的な命がないのです。もちろん人間は宗教的になることは出来ますし、あれこれの神々について語ることは出来ます。それらに祈ったり、宗教的な儀式を行ったりすることは出来ます。しかしながら、そうしたからと言って、私たちの心に真の霊的な命があるということにはなりません。本当は神ではないものを神であると言って崇拝することは、それこそが霊的に死んでいることを表わしています。私たちの命にとって一番重要な問いは、「いかにして霊的に死んだ者が生き返ることができるか?」ということです。

私の生まれ育ったフィンランドのトゥルクという町に古い教会があります。それは1300年に献堂式が執り行われ、今年で718歳になる教会です。その大きな教会の中に入ると、扉の左側に洗礼の水を入れる石で出来た器があります。今では使われていませんが、かつてはその水で洗礼が施され、人をキリスト信仰者にしていました。その器が扉のところにあるのは、それが洗礼について大事なことを教えるからです。つまり、洗礼とは、それを受ける教会の一員になって教会の中に入る扉を意味します。また、洗礼を受ける教会だけでなく世界を覆うキリスト教会の一員になってその中に入る扉を意味します。さらに、洗礼を受けることで、イエス様の弟子、彼に付き従う者になります。洗礼を通して、神の子とされた者たちの群れに加えられるのです。そして何よりも、洗礼を受けると、イエス様が十字架で流された血の力で私たちの罪が洗い流されて私たちは清くされ、イエス様がニコデモに言ったように、水と神の霊から新しく生まれるということが起きるのです。神の霊が新しく生まれさせてくれると、目の見えなかった者は見えるようになり、耳の聞こえなかった者は聞こえるようになり、死んでいた者は生き返ります。パウロがエフェソの信徒たちに次のように書き送っている通りです。「神の意思に反することを行ったために、罪のために死んでいたあなたたちを、神が生ける者にして下さったのです」(エフェソ2章1節)。洗礼を受けたキリスト信仰者は、神のことや神の御国のことを理解し始めるようになります。神の霊が、聖書の神の御言葉の力を借りて信仰者に教えます。そのようにして神を知ることが始まり、それは深まっていくのです。

洗礼は、神の恵み、つまり罪の赦しの恵みの中に入る扉です。パウロはローマの信徒たちに次のように言います。「キリストは、今私たちがしっかりと留まっているこの恵みの中に入る道を開いて下さった」(ローマ5章2節)。あなたは、洗礼を受けたキリスト信仰者として、またイエス様を救い主と信じる者として、この神の恵みに包まれているのです。たとえあなたが弱く、依然として罪びとのままで、時に過ちを犯してしまうことがあっても、罪の赦しの恵みはあなたを包み、覆いかぶさっているのです。あなたは、神から罪の赦しを受けた神の子なのです。洗礼を通して、あなたはまず、この罪の赦しの恵みの中に入りなさいという神の指導を受け、次に、この恵みの中にしっかり留りなさいという指導を受けます。この恵みの中に入り留まるということは、自分が一員となった教会に留まって生きることであり、また、イエス様のことを罪の赦しを与えて下さる方として信じることです。それは、さらに、神聖な聖餐式を罪の赦しの確かな印として、また信仰を強めるものとして味わうことでもあります。もちろん、聖書の神の御言葉を聞き読むことも入ります。

イエス様が開けて下さった扉から中に入ったあなたは、もはや外側にはいません。扉を通って中に入るということは、一つの状態から新しい別の状態に移行したということです。扉の隙間に留まって、中に入ろうか外に留まろうか、とどっちつかずの状態にいることは出来ません。同じことが洗礼についても言えます。洗礼が神の御国に通じる扉であると言う時、それは何かを後にする扉なのです。洗礼は、それまでの生き方、それまで人生にあったことを後にする扉です。このことをパウロは力強く次のように述べています。「キリストに繋がっている者は全て、新しく造られた者である。古いものは姿を消し、新しいものに取って代わられた」(第二コリント5章17節)。次のようにも述べています。「あなたがたも自分自身について同じように考えてみなさい。『あなたたちは罪に対して死んだので罪と無関係になった。そして、イエス・キリストと繋がって神の方を向いて生きる者となった』」(ローマ6章11節)。これは何を意味するでしょうか?歴史上最初のキリスト教徒たちにとって、それは何よりもまず、古い神々や魔術や霊的な力を捨てることを意味しました。彼らは、古い神々や宗教的な儀式は古い生き方に属するものであり、自分たちはそれらを後にして新しい命に移行したとわかったのです。使徒言行録に記録されていますが、エフェソの町でキリスト信仰者になった多くの者たちは、以前は魔術を行っていたが、それをやめて、それに関係する書物を集めて、群衆の見ている前で全て燃やしました。彼らは、古い生き方から離脱したことを公けに示したかったのです(使徒言行録19章19節)。キリストは、古い命を象徴する偶像が自分と同列に置かれることを認めません。私たちも、何が私たちの古い命を象徴する偶像かを考えてみなければなりません。それらは、もう私たちの命を支配することは出来ないので、私たちはそれらを後にしなければならないのです。

新しい命に移行するということは、最初のキリスト教徒たちにとって、それまでと違う新しい生き方、生活態度、隣人との関わり方を持つことも意味しました。キリスト信仰者というのは、生きている間、神の意思は何であるかを絶えず問います。その答えは、聖書から見いだすことが出来ます。キリスト信仰者は、それに従って生きようとします。しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。失敗することも度々あります。まさにその時こそ、次のことを思い出すべきです。罪の赦しの神の恵みは、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者を包んでいるということを。罪に陥っても、赦しを得られます。そして、いつの日か、天の御国の神の御許にて、不完全だった者は完全な者に変わります。罪は永久に背後に押しやられ、残るものはただ、喜びと平安と神を完全に知ることだけになります。

アーメン

 

「聖霊降臨祭 - キリスト教会の誕生日」神学博士 吉村博明 宣教師、 使徒言行録2章1-21節

主日礼拝説教 2018年5月20日 聖霊降臨祭

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.聖霊とは何者か?

  本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰をもってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 それでは、聖霊とは一体何でしょうか?まず、イエス様は死から復活された後、弟子たちに世界に出て行ってイエス様の福音を宣べ伝えるようにと命じました。その時、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさいとも命じました(マタイ28章19節)。キリスト信仰では、神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父やみ子と同じように人格があるのか、と驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。それで日本のキリスト信仰者の中には、「聖霊様」と呼ぶ人もいます。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体、どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章の中でイエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちにあることを約束します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で取り残されて一人ぼっちになるということはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、本日の福音書の箇所でも言われるように、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護して下さるのでしょうか?真理の霊なら、その真理とは何で、それが私たちにどう関係するのでしょうか?このことは、以前の説教でも何度かお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 聖霊が「弁護者」であると言う時、何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのですが、では何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタン(שטן)とは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟の光に照らされて、外面的にも内面的にも神の御心に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へと増幅させようとします。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前に進み出ては「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神との間を引き裂くことですから、もし私たちが神の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けたり神のもとから立ち去ったりすれば、悪魔にとって万々歳なことになります。

 人を落胆させたり神のもとから立ち去らせるものには、罪の他にも、この世で遭遇する不幸や苦難もあります。神は私の至らなさに不満で、それでこんな目に遭わせているんだ、と自分に原因を見て絶望してしまったり、または、何の落ち度があって神は私を見捨てるのか!と神に原因を見て失望してしまったりします。このような絶望、失望に陥ることも悪魔の目指すところです。

まさにそのような時、聖霊は、私たちがどんな状況にあっても神の愛を信じられるように、しっかり神のもとにとどまることが出来るように助けて下さいます。まず、罪の問題では、聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように言って弁護して下さいます。「この人は、イエス様が十字架上の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それが自分の罪に対してもそうであるとわかって、それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向かって次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と。私たちは神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神は私たちにすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲の死に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは感謝に満たされて、本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と神との結びつきは失われていないのだ、とわかります。神との結びつきがあるということは神にしっかり守られていることだ、とわかります。あの方は十字架の上では犠牲になられたが、神の力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足の下に踏み潰しておられる。私はあの方と洗礼を通して結び付けられている。そのことがわかると、不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは不幸や苦難は、神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていましたが、今度は逆に、存在して見捨てない神と一緒にくぐり抜けるための一つのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。一緒に歩んで下さる神は嵐の中でも良い御心を示してくれる、ということに心が向くようになります。その時、不幸や苦難は、もはや自分を打ちのめそうとする嵐ではなくなり、ただの耳障りな強風、煩わしい雨水にしかすぎなくなります。全身ずぶ濡れにはなりますが、家に帰ればお風呂に入って服を取り換えてさっぱりできるんだ、というような気持ちで歩めるようになります。

 聖霊が「真理の霊」と言うのは、私たちに次のような真理を明らかにするからです。まず、キリスト信仰者といえども十戒の掟に照らせば私たちは罪を持っているという真理です。ここで悪魔が私たちを神から引き離そうとするのですが、聖霊はすかさず、神のひとり子の犠牲の上に罪の赦しがあるという真理を知らせるので、私たちは神のもとに留まる以外に道はないとわかるのです。まさに聖霊の弁護と真理のおかげで、私たちの良心は落ち着きを取り戻し、イエス様のおかげで神の御前に出されてもやましいところは何もない、そう思って大丈夫なんだ、と安心します。その時、イエス様を送って下さった神に感謝の気持ちで満たされ、これからは罪を犯さないようにしよう、神の意思に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、と志向するのです。

 そういうわけで、聖霊が「真理の霊」であると言うのは、私たちに神の真理を明らかにするというだけでなく、ずばり、私たちが神の真理の中で生きられるようにして下さるということです。

 この他にも聖霊は、キリスト信仰者に何か特別な力を賜物として与えて下さる方であると聖書の中で言われます。そうした特別な力について使徒パウロは第一コリント12章でいろいろ挙げています(12章4-11節)。正しい信仰を教える力、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、習ったことのない外国語で神やイエス様のことについて語る力などがあります。これらの力は、教会が一つにまとまって成長するために与えられるとされますが(12章7節)、教会の成長のために発揮される力は他にも考えられます。

ところで、習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。聖霊降臨の日の出来事は、まさに異言を語る力が与えられた出来事でした。このような特別な力は「恵みの賜物」とか「聖霊の賜物」と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマ(χαρισμα)と呼ばれます。こうした賜物は、教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰に何を与えるか決めて与えるものです(第一コリント12章11節)。それゆえ、何か賜物を与えられても、与えた方は取り上げることも出来る方とわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いなければなりません。キリスト教の教派によっては、聖霊の賜物を追求することを強調する派もあるようですが、ルター派はどちらかと言うとその点はおとなしいかもしれません。なぜそうなのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには、聖霊のことを、先ほど申し上げた「弁護者」、「真理の霊」として捉えることが大きいのではないかと思われます。

もう一つ、聖霊が結ぶ「実」というものもあります。どんな実かと言うと、使徒パウロがガラテア5章22-23節で挙げています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制がそれです。これらは「聖霊の賜物」と異なり、イエス様の罪の赦しの救いに留まって神の御心に沿おうと志向するキリスト信仰者なら誰にでも実ってくる実です。ただしキリスト信仰者というのは、ルターも言うように、皆これから成長していく、絶えざる初心者なので、いろんなことに揉まれて鍛えられないと実ってこないのではと思います。(あと、聖霊の結ぶ実と正反対のものとして「肉の業」というものもあります。どんなものがあるかは、ガラテア5章19-21節をご参照下さい。)

 

2.聖霊降臨日の出来事

 使徒言行録2章には聖霊降臨の日の出来事が記されていますが、その日一体何が起きたのかをもう少し詳しく見てみましょう。

 イエス様が天に上げられて10日が経ちました。弟子たちはある家に集まっていました。そこに聖霊が不思議な現象を伴って彼ら一人一人に降りました。その時、天から激しい風が吹くような音がしたので、人々はその方へ集まってきました。その時エルサレムは、過越祭の後の5旬節という祝祭があったので、地中海世界の各地からユダヤ人が大勢やってきていました。

 音がしたところに集まって来た人たちは、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ地方出身者のグループが突然、集まってきた人たちそれぞれの母国語で話し始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、留学もせず語学教室にも通わずに突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(使徒言行録2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?集まってきた人たちの驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

イエス様の弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は、何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒をはじめとする律法の掟を授けられ、約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは、バビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現できたという出来事です。さらに神の偉大な業として考えられるのは、神が私たち人間を含めた万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

ところが弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、上記のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがあったことを忘れてはなりません。それは、弟子たちが自分たちの目で直に目撃して、その証言者となった出来事でした。あの「ナザレのイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった、その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられ、大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。

 

3.聖霊降臨祭 - キリスト教会の誕生日

 さてペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象、弟子たちが群衆の母国語で神の偉大な業について語り出したという現象を説明します。群衆の中には、新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れな説明をします。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと、的外れな意見に真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?ペトロは説明し始めます。

 ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14-21節)は、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の実現であるというところです。二つ目の部分でペトロは、イエス様の出来事そのものについて解き明しをします(2章22-40節)。

 ペトロはまず、この異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという現象について、これはヨエル書3章1-5節の預言の成就である、と解き明かしします。天から激しい風のような轟く音がして、分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始まりました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかったのです。17節で、聖霊が注がれるのは「終わりの時」と言われているのは、これは終末論の観点で言われています。旧約聖書のヨエル書には「終わりの時」ということははっきり言われておらず、ペトロが意味を明確にしようとして付け加えたのです。聖霊が注がれるのが終末の時というのは奇異な感じがしますが、これは新約聖書の歴史観として、イエス様が天に上げられてから再び来るまでの間の期間というのはイエス様の再臨を待つ期間である、という見方があるからです。それでこの世の終わりということが視野に入って来るのです。

聖霊降臨は旧約の預言の実現ということに続いて、ペトロはさらにこの現象がどんな意味を持っているかについても解き明かします。大体次のような内容です。

あの、無数の奇跡の業と権威ある教えをもって神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者とローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というお方は、天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、この世で十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはいられないのだ。そういうわけでイエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なのだ(2章24節)。このことは、既に旧約聖書に預言されていたことだ(25-28節、詩篇15篇)。こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(34-35節)。これも、旧約に預言されている通りである(34-35節、詩篇110篇1節)。これらのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明白になった(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、それでも、イエス様が神のひとり子でメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちと何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。

これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません(注 新共同訳では「大いに心を打たれ」(2章37節)と訳されて、なんだか群衆がペトロの説教に深く感動したようですが、ギリシャ語のκατενυγησανは「心に突き刺さるものがあった」という意味で、文字通り「グサッと来た」ということです)。群衆は不安に襲われて、私たちはどうすればよいのですか?と聞きます。それに対して、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めます。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって生み出して下さった「罪の赦し」を神からの贈り物として全身全霊で受け取ることです。

ペトロの解き明しと勧めを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けました。神に背を向けてイエス様を殺した側から離れ、神の方に向き直って歩む者となったのです。この聖霊降臨の日に洗礼を受けた人たちは3000人に上りました。こうして、聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

キリスト教会が誕生して2000年近く経ちました。それでか、人々の目には教会は古びて時代遅れに映るかもしれません。しかし、教会を教会として成り立たせている三つのもの、聖書の御言葉と洗礼と聖餐式は今もかつてと同じように、人間に神との結びつきを与え、その中で歩ませる力に満ち満ちています。一人でも多くの方がその力に与れるよう願ってやみません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

手芸クラブのご案内、2018年5月30日(水)10時―13時

スモッキング刺繍を作ってみませんか。

スモッキング刺繍とは布にヒダを寄せて刺繍する技法で古くからイギリスなどで親しまれてきました。

薄地の布を縫い縮めてヒダを寄せ、そのヒダ山をすくいながら刺繍するのが一般的ですが、
今回はステッチを刺しながら布にヒダを寄せていく方法でより気軽な方法で刺繍します。

基本のステッチさえ覚えてしまえば、様々な模様が刺繍できるようになります。

この機会に是非スモッキング刺繍をマスターしてみませんか?

お話しながらワイワイ楽しく作りましょう.

手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。
皆様のご参加をお待ちしています。

材料費: 500円

お申し込み・お問い合わせ
電話03-3362-1105
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都中野区上高田1-36-20

「復活の日の再会の希望」、月刊「るーてる」5月号掲載:吉村博明 宣教師のバイブル・エッセイ

復活の日の再会の希望

 聖句
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
(第一ペトロ4章6節)

 新共同訳のこの御言葉は、福音を告げ知らされずに死んだ者も皆、永遠の命に与るという誤解を招きかねない。ギリシャ語原文を見ると、死者にも福音が告げ知らされたのは二つの目的のためだとはっきり書いてある。一つは、「肉体を有する人間と同じように裁きを受けるため」という目的、もう一つは、「神と同じように霊的な者として生きるため」という目的だ。新共同訳では最初の目的が抜け落ちてしまっている。次に、「裁きを受ける」の意味をどう捉えるかが重要だ。「(有罪無罪を決める)審判を受ける」と解すれば、死者に福音が告げ知らされたのは「人間と同じように審判を受け、(無罪とされた者が)神と同じように生きるため」ということになる。
 また、「有罪判決を受ける」と解すれば、「死者のある者は人間と同じように有罪判決を受け、別の者は神と同じように生きるため」ということになる。この二つの意味を合わせてみれば、死者にも福音が告げ知らされたのは、「人間と同じように審判を受け、その結果、ある者は有罪判決を受け、別の者は霊的な者として生きるため」ということになる。

イエス様は十字架の死から復活までの間、死者が安置されている陰府に下ってそこで福音を告げ知らせた。その結果、そこでも死と罪に対する勝利が響き渡り真理として打ち立てられることとなった。死者も審判の結果次第で永遠の命に与れるようになるために福音が告げ知らされた。これは、生きている者の場合と全く同じである。つまり、福音の告げ知らせについても審判や判決についても、死んだ者は生きている者と同じ立場に置かれることになったのだ。従って、「この世で福音を告げ知らされずに死んだ者は全員、炎の海に投げ込まれる」と言うのも、「全員が天国に行ける」と言うのも同じくらい真理に反する。

ここで大きな問題が立ちはだかる。死んだ人というのはルターの言うように復活の日・最後の審判の日まで安らかな眠りについている者である。その眠っている人がどうやって福音を告げ知らされてイエス様を救い主として受け入れるか否かの態度決定ができるかということだ。福音を告げ知らせたというのは、告げ知らせる側が相手に態度決定を期待するからそうするわけだ。態度決定が生じないとわかっていれば、告げ知らせなどしないだろう。しかし、眠っている者がどうやって態度決定できるのか?ここから先は、全知全能の神の判断に委ねるしかない。生きている者が行う態度決定に相当する何かを神は眠っている者の中に見抜かれるのであろう。それは人間の理解を超えることなので我々は手を口に当てるしかない。神は最後の審判の日に生きている者と死んだ者全てについて記された書物を開き、イエス様との関係がどのようなものであるか一人一人について見ていかれる。

キリスト信仰者も信仰者でなかった者もこの世を去ると、福音が響き渡って真理として打ち立てられたところに行って眠りにつくのであり、全てを見抜かれる神は最後の審判で最終判断を下す。果たして、信仰者でなかった方との復活の日の再会は叶うのか?しかし、そう心配する信仰者本人はどうなのか?神はこの私にはどのような判断を下されるのか?この、まさに足元が崩れそうになる瞬間こそ、キリスト信仰者の特権を思い出すべき時である。それは、この世の生の段階でイエス様を唯一の救い主と信じて告白すれば、復活の日に新しい体と永遠の命を与えられるという希望を持って生きられる特権である。そして、その希望の内にこの世を去ることができるという特権である。この希望は、主の十字架と復活に根拠を持つ、揺るがない希望である。

もしあなたが復活の日に誰かと再会する希望を持つならば、この世で福音を告げ知らされてイエス様を救い主と信じた以上は、最後までその信仰に留まるしかない。再会を願ったその人が天の祝宴の席に着けて、肝心のあなたが着けなかったら、元も子もないではないか?

説教「イエス様の昇天とは何だったのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様の昇天

本日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天の神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは休日になっています。その日に近い主日ということで、本日が「昇天主日」となっているわけです。本日の最初の日課である使徒言行録は、まさにこの出来事から始まります。イエス様の昇天から10日後、今度はイエス様が送ると約束されていた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。弟子たちは聖霊の力でイエス様こそ救い主であると宣べ伝え始め、それがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行きますが、その過程が描かれているのが使徒言行録です。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年位の出来事の記録です。先々週の説教でも申しましたが、まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物と言えるでしょう。 

さて、イエス様の昇天の出来事ですが、新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。私などはこれを読むと、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くような印象を受けてしまうのですが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者から見れば、下から見上げるのですから、見えるのは雲だけで、その上か中にいる筈のイエス様は見えません「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

そうなると、新共同訳の「雲」はただ単に上空に浮かぶ普通の雲にしかすぎませんが、ここで、聖書は旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象についていろいろ記されていることを忘れてはなりません。出エジプト記では、モーセが神から掟を授かったシナイ山は雲で覆われました。イスラエルの民が運びながら移動した臨在の幕屋にも雲が覆ったり離れたりしました。時代は下って、イエス様が高い山の上で弟子たちの目の前でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。イエス様は裁判を受けた時、自分が再臨する時は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)やって来る、と預言しました。本日の使徒言行録の箇所でも、現れた天使が弟子たちに言います。イエス様は天に上げられたのと同じ有様で再臨する、と。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天は聖書的な出来事です。

それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れられることでしょう。しかし、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画のSFX特殊視覚効果技術による撮影を本当のことと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。キリスト教徒も最近は、そういうふうに考える人が多いかもしれません。

 ここで、もう一つ考慮に入れておかなければならないこがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多く、例えば弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気がつかないこともありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが、自分にはある、と言って、十字架で受けた傷を見せたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主の神の立場にある方なので、被造物の天使と同じではありませんが、いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく、復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

2.天の御国

 天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられます。それじゃ、どうやってそんな天空の国の存在が確認できるのか、と問われるでしょう。地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以後、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるでしょうか?それとも見つからないと結論づけられるでしょうか?

 ここで立ち止まって考えなければならないことがあります。それは、これまで述べてきたロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰とは全く別の世界の話であるということです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超える事柄に関係しています。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書によれば、天のみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたのですから、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 他方で、目や耳などで確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考える人たちもいます。そのような人たちにとって、天と地と人間を造られた創造主など存在しません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心の有り様だと言うでしょう。

 キリスト信仰者にとって、人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものになります。それで、この世界の中では造り主の意図が働いている、そして自分に起きることには神の意図が働いていると考えます。しかも、神はひとり子を惜しまずに送られた方だから、その意図は良いに決まっていると素朴に信じるのがキリスト信仰者です。ただ、大災害のように大きな不幸をもたらすことが起きると、試練に直面します。神様なぜですか!という抗議の問いかけが出てきたり、また、こんなことを起こす神はひどい、とか、こんなことも止められなかった神は無力だ、とか言って神に対する反発が生まれ神に背を向けることも出て来ます。しかし、このような場合でも、人間の命と人生というのは、本当はこの現実の世界と神のいる天の御国にまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだと思い返す時、神に対する反発は静まり始めます。さらに、人間の命と人生から天の御国が欠け落ちてしまわないために、神はひとり子イエス様を私たちに送って下さったのだ、と思い返す時、神の方に向き直る心も戻ってきます。

 このように、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を持てるようにするというのが神の意図です。では、それを持てるようにするために神はなぜイエス様をこの世に送らなければならなかったのでしょうか?それは、人間は生まれたままの自然の状態のままでは天の御国の人生は持てないからです。なぜ持てないかと言うと、旧約聖書の創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、行為に現れる罪だけでなく現れない罪も含めて罪が人間に天の御国の人生を持てないようにしている。そこで神は、崩れてしまっていた人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間にかわって解決して下さったのです。

まず、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて、十字架の上に運ばせて、そこで神罰を人間に代わって全部イエス様に受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開いたのです。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにそうして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人を覆って、神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになるのです。その人の内に自分の命と人生はイエス様の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれ、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向し出します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるようになっています。順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもってその人を天の御国に引き上げて下さいます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。

3.この世と教会

 イエス様は十字架と復活の業を通して人間がこの世の人生と天の御国の人生の両方を持てるようにして下さった。それはわかるとしても、なぜイエス様は天に上げられなければならなかったのでしょうか?

一つには、詩篇110篇1節に神が御子に述べている言葉があります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」これは、本日の使徒書であるエフェソ1章22節に引用されていますが、この引用が示すように、イエス様の昇天はこの詩篇の聖句の実現を意味しました。それから、聖書の観点では、この現実の世界は初めがあったように終わりもある。終わりの時は最後の審判があり死者の復活ということが起こる。そういう森羅万象の大変動を経て最終的に天の御国だけが残る、そういう気の遠くなることがあります。イエス様はその時に再臨され、天の御国の実現のために大きな役割を果たされる。つまり、イエス様の昇天というのは、上げられてそれっきりということではなくて、いつかは戻って来られるというものなのです。

そうなると、このイエス様が天の御国に上げられて再臨するまでの長い期間は一体何なのか、これがわかると、イエス様が天に上げられて、今父なるみ神の右に座していることは特に問題に感じられなくなります。イエス様が神の右に座している期間とは何か?それは、使徒パウロが本日の使徒書のエフェソ1章20~23節で教えてくれます。イエス様を死から復活させられた神は、彼を御自分の右の座に着かせ、「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれた。支配、権威、勢力、主権というのは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。トランプ大統領も習近平国家主席もプーチン大統領も金委員長もどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。霊的な力とはどんな力かは後で述べます。

ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」はとても抽象的なものです。今皆さんがいらっしゃるスオミ教会は「教会」ですが、それはまたルター派教会という教派の中の一教会です。ルター派の名を冠する教会も一つに統一されておらず、いくつもの団体に分かれています。さらにキリスト教会は、ルター派以外にもいろんな教派があります。パウロがここで述べている「教会」は、そういう教派的、組織的な教会ではなく、理念的な教会で、イエス・キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、そこでは聖書の御言葉が宣べ伝えられており、その御言葉の中でもイエス様の十字架と復活に基づく福音が中心になっている体です。次に、洗礼を受けることを通してその体の部分になれます。そして、その体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で栄養を得て、神との結びつき、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういう、御言葉・福音、洗礼、聖餐の三つが働いている体です。そこでは、体の部分を成す信仰者がこの三つの働きを受けています。

そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは、果たして支配とか権威とか勢力とか主権に対してイエス様のように勝っているか、と言うと、果たしてそうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっているはずの自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実があります。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったとわかった筈なのに、罪の誘惑はやまないという現実があります。全てに勝っている状態からほど遠いではないか?全てに勝るイエス様に繋がっている筈なのに、信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生など持てないようにしてやろう、と。そして、人間が自分の真の造り主に目と心を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主である神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いているところです。これらが、イエス様の下に服して足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっと今もこれからもこの世で働き続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、イエス・キリストの体は全身が天の御国の中に置かれることになります。

そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実、一方で全てに勝るイエス様に守られているという現実、他方でこの世の力に攻めたてられるという現実、この二つを抱えて生きていくことになります。イエス様はこうなることをよくご存知でした。それでヨハネ16章33節で次のように述べられたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼしました。そして昇天されたことで全ての力を足下に服させました。イエス様は何重にも世に勝たれたのです。そのことが苦難に打ち克つ勇気の源になるよう祈って止みません。最後にルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことの大切さを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」のルターの解き明しです。

 「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが、私たちの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。このことの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、私たちに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ10章28-29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を見つけては、キリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。結婚を壊して不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬むことや憎むことに心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕向けてくるであろう。しかし、そのような悪魔の攻撃に遭遇しても、キリスト信仰者はたじろぐ理由も必要もない。なぜなら、私たちには悪魔をも足下に服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ私たちを真にお守り下さる方である。

もちろん、悪魔の攻撃はあなたをとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ、あなたは祈らなければならない。あなたが堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちもあなたのために祈らなければならない。どんなことがあっても神があなたを見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ずあなたを苦境から救って下さる。そうである以上、あなたの方から簡単に神の御国を離脱するようなことはあってはならないのだ。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

5月の料理クラブのご報告

マフィン寒い日が続いた後の、穏やかな土曜日の午後、
スオミ教会家庭料理クラブは「レモン風味のマフィン」を作りました。

最初にパイヴィ先生のお祈りからスタートです。

試作を重ねてのレモン風味のマフィンは、しっとりとして柔らかな生地に焼き上がり、参加の皆様から「美味しい!!!」の歓声が上がりました。

ホイップクリームにブルーベリーやイチゴとキゥイを添えてのデコレーションは、
各自思案を重ねての可愛い出来上がりに、テーブルは華やかになりました。

パイヴィ先生から、ベリー類や沢山の種類のあるマフィンについてのお話や、
聖書について、分かりやすく聞かせて頂きました。

今回は熊の話まで飛び出して、楽しいおしゃべりは続きました。

スオミ教会家庭料理クラブは、6月からお休みになります、
9月からの家庭料理クラブを、楽しみにお待ちください。


 2018年5月の料理クラブの話

 春は日本ではとてもきれいな季節です。今はつつじや他の花もきれいに咲いています。冬の間枯れて死んだような木や低木などの植物から突然沢山の美しい花が咲くのを見ると、いつも神様の素晴らしい創造の業を思い出します。枯れて死んだような枝が花と新緑に変わると、神様が新しい命を与えて下さることがよく分かります。イザヤ書の43章19節には次のように書いてあります。
 「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。」

日本では4月は学校や会社などでスタートの時です。新しい学年や仕事について期待がいろいろあると思います。子どもたちが新しい学年でどのように成長するかを見るのは親にとっても楽しみの一つでしょう。新しい仕事場で、自分の持っている専門的な知識や力をうまく生かせることを期待するでしょう。私たちは新しいことに興味を持って取り組む時、チャレンジの気持ちで出来ますが、新しいことに対して不安な気持ち、他の生徒たちと仲良くできるか、勉強についていけるか、うまく仕事が出来るかなど心配もあると思います。

私たちの息子も4月から新しい学年が始まりました。特別支援学校の高校2年生になりました。先日、初めての保護者会がありました。そこでは新しい学年の予定や勉強のし方について先生たちから説明が聞けたので良かったです。息子の学年は今年、職場の実習が三回あり、進路についてもいろいろ考えなければいけないことも分かりました。それで彼は将来どんな仕事が出来るのか、と先のことをいろいろ考えるようになって心配な気持ちになりました。

しかし、今息子の将来を心配しても、今の段階で何も解決はできません。もちろん、親としてしなければならないことはしますが、その結果どうなるかは神様に委ねるしかありません。それで、息子の将来について、思い悩むことはしないようにしようと思いました。新約聖書のマタイ福音書には思い悩むなと教えるイエス様の言葉があります。野の花
 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」
 神様は私たちをどんな時でも守って、導いてくださいます。神様の守りと導きは私たちの感じることと関係なく、いつもあります。私たちが神様の導きを感じる時に導いて下さるということではありません。私たちの生活の中に困難がある時にも私たちが気づかない仕方で確かに導いてくださいます。
 「同じように、私はあなたたちの老いるの日まで白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す。」旧約聖書のイザヤ書46章4節の御言葉です。

毎年春になると花が咲くのは神様がして下さることです。同じように神様は私たちのことも覚えて見守って、咲くことができるように必要なものを与えて下さいます。神様は、困難のない生活を与えるとは約束していません。しかし神様は私たちにどんなことがあっても全てご存じで、私たちと共に歩んで下さいます。この世界はいつも変化ばかりですが、神様の私たち一人一人に対する愛や良いご計画は変わりません。神様は私たちを担い、背負い、救って下さいます。独り子イエス様をこの世に送って下さったことに、神様の私たちに対する変わらない愛が示されています。イエス様が私たちの救い主でいらっしゃっることを信じることが出来れば、神様は私たちを神様の国までも背負って導いてくださいます。

説教「神の権威をもって語る」木村長政 名誉牧師、コリント信徒への手紙 4章14~21節

第17回 コリント信徒への手紙 4章14~21節                    

「神の権威をもって語る」

コリントの教会の人々へパウロは熱い情熱を持って手紙を書いています。4章までのところで、パウロは「自分の伝道の仕方」「伝道者とは何か」ということを語ってきました。そこで福音を語る時、語る者の資格がいつも福音の一部として語らざるをえない、と考えました。これまでパウロは伝道者の惨めさを、辛さをあからさまに語ってきました。今日の14~21節もその連続であると考えられます。しかし前回の8~13節までと比べてみますと、それは全く違ったものになっています、8~13節のところではパウロは伝道者ほどみじめな者はない、ということを書きました。徹底的に伝道者の立場の惨めさを11~13節まで激しい言い方で言っています。「今の今まで私たちは飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せるところもなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉を返しています。今の今に至るまで私たちは世界の屑、全てのものの滓とされています。」「伝道者がこの世の塵のように、また人間の屑のようにされている。」と言うのです。これ以上に激しい言い方はないでしょう。ところが今日のみことばのところを読みますと14節に事は全く変わってしまいます。14節から見てみましょう。「こんな事を書くのはあなた方に恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」と書いています、ずいぶん違ってきました。そのことに始まってここでは、今までとは全く違う愛と権威を持ち、自信に満ちて教会の者たちを諭すという、牧師の姿が描かれています。これはパウロの考えかたが急に変わったのでしょうか、それとも今までとは違うことを書かねばならなかった理由があったのでしょうか。一つはっきり言える事はこれまでのところは神に用いられる者としての伝道者を描いたということです。

パウロがどんなに偉くても、どんなに愛に満ちていたとしても、もし神に仕えるもの又は神に用いられる者という立場から見るならば彼はやはり一人の名もなき仕え人、福音を宣べ伝えるには相応しくない人間と言う外ありません。人間の中には福音を語るに相応しい資格を持った者はありえないからであります。それなら彼はこの世の塵のように人間の屑のように扱われても仕方がないのであります。しかし伝道者にはもう一つの面があります。それは教会に仕える者、ということであります。

その点から言えば彼はしなければならないことがあるはずであります。そういう人は教会において一定の資格の試験をしてそれに相応しい権威を与えれるのであります。そうでなければ誰がこの任に耐えることができるでありましょう。誰が確信をもって福音を伝えることができましょう。従って一面から見れば愚かな相応しくない僕でありながら、他面から見れば神の権威をもって語ることを許された者ということであります。この矛盾したような二つの面が伝道者にはある、ということをパウロは身をもって示すのであります。そこで今は自信のない捨てられたような伝道者パウロではなくてキリスト教会に対して堂々と福音を語る伝道者パウロが現れているのであります。それは過ぎ去った事を忘れた伝道者ではなくて神のみ旨を委託され喜んで受け、進んでその御業をしようと言うのであります。そういうことから言えば彼はキリストの教会の人々を自分の愛する子であると言い彼らにキリストにある教育係りが一万人あったとしても「キリスト・イエスにあって福音によりあなた方を産んだのは私である」と豪語してはばからないのであります。これは大変な自信であります。自分だけがあなた方を産んだのである、というからであります。それを自慢して言っているのでしょうか、「父が多くあるのではなく、父と言われるべき者は自分だけである」と言うのであります。

私たちを生まれ変わらせるのは神がその御言葉によってなさることであります。しかしそれだからと言って神は決して神に仕える人たちの働きを退けてこれを無になさるのではないのです。大切な事は神で自身がなさることは何か、また神が神に仕える人たちをとおしてなされようとすることは何か、と言うことを見極めねばならないのであります。パウロは自分が信仰の父であると言いながら、それが自分の力である、と思ってはいなかったでしょう。貧しい主の僕でありながら、あなた方の信仰の父である、と言いたかったのであります。パウロは16節で「私にならう者になりなさい」と言っています。信仰生活から言えば「自分のまねをしなさい」等と言う様な口幅ったいことはとても言える事ではない、と思われるかもしれません。しかし、もしそれがパウロのようにキリストによって生きている者であって人間としての自分にならう者になれ、というのでなければ、それは自分を誇ることではなく、自分が主によって生きるように、あなた方もそのようにしなさい、ということであります。パウロはそう言ったのでありましょう。神の言に仕える事は決して易しいことではありません。しかしそれが人間にできない、ということではないはずです。何故なら神はそのために人間をお用いになるからであります。パウロはいつものように愛する弟子をそのために送ると言っています。テモテはまさにパウロにとって「わが子」と言えるほど親しい関係にあった人であります。

この人を遣わす事はほとんど自分が行くということと同じであります。しかしテモテを遣わすのは「キリスト・イエスのおける私の生活の仕方を、私が至るところの教会で教えている通りにあなた方に思い起こさせてくれるであろう」と言っています。ここに大切な事はキリスト・イエスに於ける私の生活と言う事であります。それを彼がどの教会でも教えていたことであります。信仰生活の伝統がある、型があると言うことでもあります。信仰生活は御霊による生活でありますから自由な生活です。そうするとある人々は信仰生活や教会生活の仕方など、というのは邪道であって御霊に導かれるままに生活すればいいんだ、と思うのであります。しかしそうではありません。御霊による生活もその型があるはずであります。多くの信仰者たちがこれまで行ってきた生活,築いてきた生活というものがあるはずであります。それをパウロは教えたいのであります、例えば一人の人が信仰生活に於いて、いつどう祈るか、人それぞれ自由でありますが、しかし朝に夕に食前に祈るということは型にはまったことのようで実際はそうではなく生活を造らなければ祈りの生活はくずれてしまいます、努力がいります。導かれるままに祈ればいいじゃないか、というと立派なようですが、実は自分の気ままに負けてしまって、結局少しも祈らない生活になりかねないのであります、教会生活も同様です。教会には礼拝を中心にした生活の型があります。ですから個人の信仰生活に於いても、教会生活に於いてもしっかりした躾が必要である、ということになります。私たち人間は弱い者であります、罪の支配に負け勝ちである私たちが先人と教会の造った「信仰にある生活の型」というものを大切にして行くべきです。そして、その信仰は信仰によって救われることでことであります。救われる、というのは自分の生活全体が救われる、ということであります。救われるのは福音の言葉によるのであります。その場合には福音が力として働くのであります。力は発揮されるものであります、20節でも書いています。コリントの教会の人々はパウロに甘えて好き勝手なことを言っていた、ということです。パウロが示す本当の力は神に従い、神の僕となっているところから出ているのであります。自分は弱い者であるに過ぎない、しかし神に全く従う者とせられた時に神の力が自分を通してあらわれるのである、と信じていました。                     アーメン ハレルヤ

説教「信仰の実を結ぶ」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書15章1-10節、使徒言行録8章26-40節

私はぶどうの木

主日礼拝説教 2018年4月29日 復活後第四主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.歴史の中のキリスト信仰

今日の説教では、最初の日課が使徒言行録でしたので、まず歴史の中でキリスト教がどのように広がって行ったかについてお話ししようと思います。歴史と言っても、使徒言行録の時代の中です。本日の使徒言行録の出来事に関連して、キリスト信仰にとって洗礼がどうして大切かということを次にお話しし、最後にキリスト信仰者が結ぶ実とはどんな実かということをお話しします。この三つ目のテーマは当スオミ教会の今年の年間聖句(ヨハネ15章4節)に直接関係するものです。使徒書と福音書の日課の解き明しをそこで行います。

本日の使徒言行録は8章からです。エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、ガザに向かう街道で使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事です。使徒言行録はどんな書物かについては、先々週少しお話ししました。復活されたイエス様が天に上げられ、その後で弟子たちに聖霊が降る、その力で彼らがイエス様を救い主であると宣べ伝え始める、というところから始まります。弟子たちの宣べ伝えがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年間位の出来事が記録されています。まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物だと思います。

本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来るので、何か時代を超えるものを感じさせます。ガザは、現在こそパレスチナとイスラエルの不幸な紛争のために中東情勢の焦点の一つになってしまいましたが、本当はこの町は紀元前1500年位からある歴史的な町で、ローマ帝国の時代は平穏な町でした。エチオピアはと言うと、本日の箇所に出て来るのは現在のエチオピア国家と関係はなく、エジプト南部の地域を指していました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至るまでの地中海東部の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えていました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。使徒言行録の使徒パウロの伝道旅行をみますと、彼はたいてい訪問先で初めにシナゴーグを訪れます。そこで、エルサレムで起きた事件、イエス様の十字架と復活の出来事を知らせ、旧約聖書の預言が実現したことを伝えます。それを聞いたユダヤ人たちはいつも信じる者と信じない者に分裂したのです。

 これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に訳されました。本日の箇所でエチオピアの高官が読んだイザヤ書53章7-8節ですが、よく見ると、私たちが手にする旧約聖書のそれと少し違っています。これは、私たちの旧約聖書はヘブライ語から訳されたものなのに対し、エチオピアの高官が読んでいたのはギリシャ語訳の旧約聖書だったことによります。訳がもとの文と変わっているということがよくあるのです。エチオピアの高官は、ギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官でしたので、割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、メシアの到来を待ち望む信仰は持つに至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったでしょう。

地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人が移住したことの他に、移住先の現地人たちが改宗したこともありました。ユダヤ教に改宗するというのは、現代の目で見ると少し奇異な感じを持たれる方もいるかもしれません。歴史を通してユダヤ教やユダヤ人に対する迫害と偏見が長く持たれ、特にキリスト教側から否定的なイメージが作られたことが影響していると思います。そういう後世に出て来た見方を脇に置いて、2000年前はどうだったかということを当時の視点で見てみますと、かなりイメージが異なってきます。例えば、2000年前のギリシャ・ローマ世界の性モラルは奔放というかルーズなところがありましたが、そういうところで、人間を男と女に造られた創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。つまり余分な赤子は処分するという嬰児殺しが当たり前のことのように行われていたのです。これも、「汝殺すなかれ」の掟を持つユダヤ教が反対したのは言うまでもありません。

このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには、旧約聖書の神を信じるが、何らかの理由で割礼を受けないでいる、ないしは受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍がいたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、まさにそうした人たちを指しています。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、割礼を受けなくとも神の民、神の子になれる!と教え出したのです。旧約聖書の預言は実現した!神が送られたメシアが自分を犠牲にしてまで人間を罪の支配下から贖い出す業を行って下さった!しかも、神は彼を死から復活させ大いなる栄光を示された!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ神との結びつきを持って生きることが出来る!もう割礼は不要なのだ!そういうことを教えたのです。さて、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば、予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることはできません。自分たちの力でパウロを抑えつけられなければ、ローマ帝国の官憲も巻き込んで迫害しようとします。このようにして、ユダヤ教の中から生まれたキリスト教は急速に広まると同時に強い反対も引き起こしていったのです。

 話しが脇道にそれましたので、使徒言行録の出来事に戻りましょう。エチオピアの高官はイザヤ書53章7-8節の、屠り場に引かれる羊や毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは誰なのか?と悩んでいました。実は、彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所は少しやっかいです。ヘブライ語の原文では、羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまう、それで、彼と共にいた人たちのことを気にかける者は誰もいなくなる、そういう書き方です。ところがギリシャ語の方は素直に訳すと、主の僕は羊のようなへりくだりをしたことにより裁きが取り除かれる、ただ、彼が地上から取り去られてしまった今、彼が裁きを取り除かれたことを後世の人たちに解き明かしするのは誰か?そういう書き方です。

もしエチオピアの高官がヘブライ語で読んだのなら、主の僕が誰を指すかはわからなくても、彼が迫害を受ける者であることがわかります。ところがギリシャ語を読むと、主の僕から裁きが取り除かれるとか、彼は地上からいなくなってしまい、誰かがこのことを伝えないと誰もわからない、と言っています。さて、裁きが取り除かれるとは何を意味するのか?このことを主の僕に代わって解き明しするのは誰なのか?そういう疑問が起きます。

 皆さんもお気づきになられたかもしれませんが、ギリシャ語の訳は実はイエス様の出来事を知っている人ならば、わかる内容です。出来事を知らない人にはちんぷんかんぷんでしょう。へりくだったことにより裁きを取り除かれるというのは、フィリピ2章のキリスト賛歌を思い出すとわかります。そこで言われていることは、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順で、その後で神に高く上げられた、ということです。

次の疑問は、主の僕は地上からいなくなってしまうので誰かがこのことを解き明かさなければならないと言う時、誰がそれをするのか?イエス様が天に上げられた後、イエス様の十字架と復活について宣べ伝えるのは使徒たちの役目になりました。フィリポはその一人です。悩めるエチオピアの高官のもとにフィリポが送られました。彼はイザヤ書53章の主の僕についての預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。フィリポが教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、主旨はこういうことです。神が送られたひとり子のイエス様が十字架の上で犠牲の業を行ったおかげで人間の全ての罪が償われた。そこで彼を救い主と信じ洗礼を受ければ、彼が実現した罪の赦しがその人に効力を持ち、その人は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになる、つまり順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得て生きられるようになる。万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御腕をもってその人を引き上げ永遠に御許に戻ることが出来るようにして下さる。以上のような福音が伝えられました。イエス様を救い主と信じたエチオピアの高官は洗礼を志願し、フィリポはそれを施します。これでエチオピアの高官は、割礼なくして天地創造の神と結びつきをもって生きられるようになりました。

2.信仰と洗礼

先ほど、イエス様を救い主と信じ洗礼を受ける者はイエス様が実現した罪の赦しを得て、神との結びつきを持って生きられるようになる、と申しました。どうして洗礼が出て来るのでしょうか?イエス様を救い主と信じるだけでは足りないのでしょうか?

 イエス様の十字架と復活の業はこの私のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主であると信じられるのは、キリスト信仰の観点で言うと、聖霊の力が働いたからということになります。聖霊の力が働かなければ、イエス様はただ単に歴史上の人物に留まり、知識として知ってはいるが、現代を生きる自分とは何の関係もない遠い過去の人物です。ところが、聖霊の力が働くと、イエス様は歴史上の人物の殻を破って、現代を生きる自分と人間関係を持つ身近な方になります。

加えて、キリスト信仰の観点では、聖霊は洗礼を受ける時に父なるみ神から注がれるように与えられます。もちろん、赤ちゃんに対してもです。大人でも子供でも、洗礼を受ける前の段階でイエス様のことを救い主とわかって信じるようになるというのは、これも聖霊の力が働いたからです。それなのに、さらに洗礼を受ける必要があるというのは、これは聖霊の影響の下に完全に服するということがあると言えます。せっかく聖霊の働きかけがあっても、洗礼によって聖霊の影響の下に服することをしていなければ、イエス様を救い主と信じたことは一過性のものになる危険が大です。とにかく、この世にはいろいろな霊が蔓延っていて、救い主はイエスではない、別の者だ、と言ったり、また、イエスは神のひとり子ではなかった、単なる人間だった、と言ったり、逆に、人間の体を持たなかった、単なる霊だった、と言ったり、様々です。

洗礼を受けると、天地創造の神の霊、聖霊に服することになるので、自分から脱しようとしない限り、イエス様を救い主と信じる信仰は揺るがないものになります。もう他の霊が何を言っても耳に響かなくなります。あとは、洗礼で新しくされた自分がいつまでも同じ新しさを保てるために、次のことが大事になります。まず、聖餐式でイエス様の血と肉として祝福されたパンとぶどう酒を摂って霊的な栄養を受けること。それから、常に聖書の御言葉に聴き、神の御心と意志を知ること。そして、人生のいろんなことに直面しながら、その中で神の御心と意志に沿うように行い、思い、語ること、その時いつも祈りの課題を見つけては祈ること、以上が大事であると考えます。

 ところで、聖霊の力とか影響ということについて、キリスト教の教派によっては、病気を癒す力が持てたとか、習ったことのない国の言葉で話が出来るようになるとか、そういう力が備わることを重視して、それこそが聖霊が注がれた証拠であるかのように言う教派もあります。もちろんこうした不思議な力は聖書に出てくることなので否定はしませんが、ルター派はその辺はあまり熱心ではないと思います。イエス様がこの私の、まさに生きた救い主であり、自分は彼と生きた関係にあるとわかっていることで十分という立場ではないかと思います。手ごたえが感じられない教派と思われるかもしれませんが、別にそれで構わないと思います。

3.信仰の実を結ぶ

本日の福音書の日課ヨハネ15章は、有名なイエス様のぶどうの木のたとえです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、ぶどうの木と枝のように繋がっているというたとえです。そこで、イエス様に繋がっていながら、実を結ばない枝は、父なるみ神が農夫のように切り取ってしまう、と言います。イエス様に繋がっていながら実を結ばない、とはどういうことでしょうか?ぶどうの枝は木から栄養を送ってもらって実を結びます。キリスト信仰者が実を結ばなくなるとは、栄養を受けなくなってしまったことを意味します。信仰者がイエス様という木から受ける栄養とは、罪の赦しの恵みです。ひとり子を犠牲にしてまでも人間を罪の支配下から解放して新しい命を生きられるようにしてあげよう、という神の愛です。罪の支配下から解放されるためには罪の赦しが実現することが必要でした。神の愛、罪の赦しの恵みという栄養を受けつけなくなるとは、どういう状態でしょうか?先ほど言ったことの関連で言えば、他の霊の言うことに耳を貸すようになって、イエス様を救い主と信じることがなくってしまうことがあると思います。ヨハネ15章の後ろの節で、取り除かれた枝は集められて燃やされてしまう、と言っていますが、これは最後の審判を暗示しています。さて、ここでは、イエス様を拒否することや裁きの問題はこれ以上深入りしないことにします。大事なことは、イエス様が真の救い主になることです。そして、神との結びつきを持てることがどれほど豊かなことなのかをわかることです。悲惨な目に遭うのが怖かったら信じろ、というやり方では、豊かさはわからないでしょう。

 2節をみると、イエス様という木に繋がっている枝の信仰者は、実を結べば、父なるみ神に手入れしてもらって、さらに実を結ぶ、と言われます。3節をみると、弟子たちはイエス様の話した言葉によって既に清くなっている、と言われます。興味深いのは、「手入れをする」という動詞と「清い」という形容詞がギリシャ語では同類語で言葉の引っかけになっています。それで、弟子たちはイエス様の言葉によって、手入れをしてもらって小ぎれいな枝になっている、という意味になります。手入れをしてもらって小ぎれいな枝になるというのは、栄養を一層受け取る枝になっているということです。神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養をどんどん摂取するようになるということです。まさに霊的に健康で生産的な枝になれます。そういう枝になれる決め手が、イエス様の言葉なのです。ヨハネ福音書の冒頭で言われるようにイエス様は神の言葉そのものですから、聖書全体の神の言葉はイエス様と一体です。先ほど常に聖書に聴くことが大事だと申しましたが、まさにそれが霊的な栄養を摂取でき、霊的に健康を保ち生産的になれる秘訣なのです。

それでは、キリスト信仰者が霊的な栄養を摂取して実を結ぶと言う時、その実とは何を意味するのでしょうか?こういう時、よく思い浮かぶのは、隣人愛を実践して多くの困っている人を助けてあげることがあると思います。本日の箇所の終りでイエス様は、彼の掟を守ることが彼の愛に留まることになる、と言い、少し後の12節で、その掟とは、イエス様の愛と同じ愛で互いに愛し合うことである、と言われます。

イエス様の愛とは、先週の説教でもお教えしましたように、自己犠牲を厭わない愛です。そこで、何のための自己犠牲かというと、それは愛された人が神との結びつきを持ててこの世と次の世を生きられるようにするための犠牲でした。そういうわけで、キリスト信仰者の隣人愛には、苦難困難に陥っている人を助ける時にも、この神との結びつきを持てるようにするということが視野に入っているのです。このことは、ルターも有名な「キリスト者の自由」の中ではっきり言っています。

それじゃ、人助けと言っても、最終的には同じ信仰を持てるようにするための宗教勧誘の手段ではないか、と言われるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点からすれば、現実にある困難から助けてあげることももちろん大事だが、何よりも天地創造の神との結びつきを持てるようになって、その結びつきの中でこの世を生きられるようになって、この世を去る時には造り主のもとに永遠に戻れるようになる、そのことがとても大事なのです。自分は神との結びつきを持っているとわかれば、困難や死に直面した時、絶望することはなくなる、希望を持ち続けることができる、というのがキリスト信仰なのです。人が自分で自分を支えられるようになれる、そんな支柱を与えることになるので、長い目で見たら、こちらの方が本当の人助けになる、と言ってもいいと思います。キリスト信仰者が行う信仰の証しには、神は現実の困難を通しても、私と御自身の結びつきを強められた、という話がよく聞かれます。

 キリスト信仰者が結ぶ実には、助けるということ以外にも考えられます。隣人に対してどのように振る舞うかということがそれです。もちろん、そこには助けることも関係してくるので、完全に切り離すことはできません。それでは、どんな隣人に対する振る舞い方が実として考えられるでしょうか?

 キリスト信仰者は、神のひとり子イエス様のおかげで罪を赦されて神の前に出されても大丈夫な者とされたので、それで、赦すことが大切とわかっています。「神は赦しても私は許せない」ということがなくなります。パウロが教える、善をもって悪に勝たなければならないことが身近なものになります。悪が執拗でも悪で報いず、報復は神に任せるという態度でいて、どうしたら善をもって勝てるかを考えます。このような人は平和の実現に努める人です。たとえすぐ実現しなくても、努めることで少なくとも、この世の人たちが見えなくなっているものを輝かせることが出来ます。必ず気がつく人が出て来るでしょう。

 そんな輝きはひとりでに出て来ません。自分には神からの罪の赦しがあるとわかっていないと出て来ません。罪の赦しがあることは、イエス様と繋がっていなければわかりません。イエス様との繋がりは、繰り返しになりますが、聖書の御言葉に聴き、賛美をし、絶えず神に祈ることで保たれ、聖餐式のパンとぶどう酒に与ることで強められます。このように平和を体現し実現する者として立ち振る舞っていれば、周囲の人たちも福音は真理であり正しく生きる力を与えるものとわかるようになります。それがイエス様に繋がる輪を広げることになります。

しかしながら、こういうことは頭ではわかっても、現実は、自分は実を結んでいないのではないかと思い知らされることが沢山でてきます。隣人を神との結びつきに導くどころか、現実的な困難からの助けも思うようにできないとか、平和の実現者を意識しながらも、赦すことが難しいこともあるでしょう。そういう時は、本日の使徒書の日課の第一ヨハネ3章20節の御言葉を思い出すとよいでしょう。「もし、私たちの心が責めることがあっても、神は私たちの心よりも大きな方で、全てのことをご存知です。」新共同訳では「心に責められることがあっても」ですが、ギリシャ語原文では「心が責める」です。18節で言われるように、もし私たちが偽りを持たず純粋な気持ちで行為で示しながら愛するならば、たとえ至らなさや失敗があって心が責め立てても、神は人のそんな心よりも大きいのだ。私たちが偽りを持たず純粋な気持ちで行為で示しながら愛そうとしたことをご存知である。そのことに思い当たれば、19節にあるように、神の前に立たされても心を落ち着かせることができ、もう心は責め立てることはしなくなる。そうして私たちは、21節と22節で言われるように、再び神の御前で勇気を持つことができ、愛の実践のために必要なもの祈り求めることができるようになり、それを神は惜しみなく与えて下さる。なんと素晴らしい神の約束でしょうか!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

説教「自己犠牲を厭わない愛」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章15-19節

主日礼拝説教 2018年4月22日 復活後第三主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の栄光を現わすということ

今日は福音書の日課をもとに二つのテーマについてお話ししたく思います。一つ目は、福音書の箇所の終りでイエス様が、ペトロがどのような死に方をするのかを預言しているところです。この福音書の記者であるヨハネはその死に方を神の栄光を現すものと解説しています。それで、この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛するとはどういうことか、という本日の説教題に直接かかわることです。

まず「神の栄光を現すこと」についてみていきましょう。キリスト教会の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちはない、と兵隊たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。本日の箇所にあるイエス様の預言「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ21章18節)、これは、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、十字架刑に処せられることだなとわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。福音書記者のヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのです。

さて、ペトロの殉教は、ヨハネが19節で解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは私たちをしばし考えさせます。神の栄光を現すというのは、これくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されない、ということです。私たちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちた方です。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

それは、神の動かすことのできない真理を、私たちが自分の言葉や行いや生き方を通して人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、私は次の三つの者である、と答えることです。三つの者とは、まず、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答えること。次に、神聖な神の前に立たされても、神のひとり子イエス・キリストの身代わりの犠牲のおかげで大丈夫でいられる者である、と答えること。三つ目は、この世の人生の向こうで造り主である神のもとに永遠に戻ることができる道を今歩んでいる者である、と答えること。以上の三つを胸をはって答えることです。何も問われなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんな真理は取り下げないと命はないぞ、という迫害の時代だったら殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?また、自分は造り主が送られたひとり子の身代わりの犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?そして、自分は造り主の神に見守られてこの世を生き、神の御許に戻る道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」生き方をしたら一巻の終わりになるという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心・信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間がどこから来てどこに向かって行くのかということについてキリスト信仰と異なる立場を取る人たちが社会の多数派を占めていれば、いろいろ軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことをいろいろ考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことも、現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。少数派が黙っていたら、多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまうので、口に出すことは良心・信条の自由が存在するためにも非常に大事なことです。

 

2.神の自己犠牲を厭わない愛

 次に二つ目のテーマ「イエス様を愛するとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペトロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペトロに同じ質問をしたことは、十字架の出来事の時にペトロがイエス様のことを人前で三度「知らない」と言ったことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみてみます。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペトロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωという動詞を使いますが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωという動詞を使います。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているので、この区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になると今度は、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じ動詞フィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。この二つの動詞の違いを見てみましょう。

 「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背後に退きがちになるからです。当スオミ教会で以前牧師をされていたヘイッキネン先生が言っていたのですが、日本で中学生位の女の子たちに聖書の勉強会を行っていた時、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちは互いに顔を見合わせてくすくす笑っていたということです。

古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。本日の箇所のペトロの答え「愛しています」に出てくるフィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に結びついた愛です。

それでは、イエス様がペトロに聞く時に使った「愛する」アガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範にして弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーです。それでは、イエス様が弟子たちを愛する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオー、アガペーの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことが関係してくることが明らかになります。

そうすると、兄弟愛、同志愛、人間愛は自己犠牲をしないのか、それらの愛にも大切な人のために自分を犠牲にするということがあるのではないか、と思われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみますと、兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアですが、新約聖書の中でのそれらの使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式のように使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。その意味でそれらには自己犠牲を厭わないくらいの強い愛はないと言えます。

そうすると、例えば親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起きれば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものであると教えます。人間に対する神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったのかということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」は、アガペー、アガパオーです。その愛の内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神が御自分のひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。

人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。造り主である神と造られた人間との結びつきが失われてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。神は、人間が再び自分との結びつきを持ててその見守りと導きのうちに生きられるようにしようと、また万が一この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻ることが出来るようにしようと、それでひとり子イエス様をこの世に送りました。もし人間が自分で罪を背負い続けてしまったら、この世を去る時にその重みで大いなる滅びの世界に落ちてしまいます。しかし神はイエス様に人間の罪を全部背負わせて、十字架の上で罪の罰を全ての人間に代わって受けさせました。さらに、死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間のために開かれました。人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて完成した救いをただ受け取ることだけです。イエス様が成し遂げたことはこの自分のためであったとわかり、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取りは完了します。どうして洗礼が出て来るかというと、イエス様を救い主と信じた人がその後の人生の歩みの中でその信仰に留まれるために必要だからです。洗礼は、神と人間の結びつきを守る大事な鍵です。

イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神の人間に対する深い大きな愛と同じような愛で愛しているかと聞いたのです。人間が神との結びつきを持てるようになるためにひとり子を犠牲にした愛と同じような愛です。さてペトロはどうしたかというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で「愛しています」と答えました。たとえ他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、などと威勢の良いことを言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマのゆえに、ペトロが神的な愛を避けて人間的な愛をもって答えたことが窺われます。イエス様はペトロに、「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間的な愛ですが」と答えるのです。イエス様は二度同じ質問を繰り返し、ペトロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神的な愛の形のアガパオーを使わず、ペトロと同じ人間的な愛の形フィレオーを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応を見ると、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?いくらなんでもあんまりです!という様子が窺われます。

(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。)

 ところで、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペトロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペトロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが信仰をしっかり携えてこの世の道を歩めるために彼らを守り指導しなさい、つまり牧会をしなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任ははかりしれないものがあります。ペトロにこのような責任を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様は三度も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということが明確になります。

 

3.私たちの自己犠牲を厭わない愛

私たちがイエス様を愛する時の愛はどんな愛でしょうか?人間のために自己犠牲の重荷を背負って下さったのはイエス様です。私たちがイエス様のために自己犠牲するということは、もちろんありえません。イエス様は神のひとり子ですから、神との結びつきを回復する必要などないからです。そこで注目すべきは、ヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることです。それでは、イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それは先ほども見ましたようにヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様が自分を犠牲にしてまで人間と神の結びつきを回復しようと駆り立てられた愛、その愛で互いに愛し合いなさい、と言うのです。互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになる、と。

それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛し合うとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持って生きられるようになったら今度は、隣人も同じように神から見守りと良い導きを受けながらこの世を生きられるように、またこの世を去る時は神のもとに永遠に戻れるように働くことです。その働きはどんな働きでしょうか?

もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように見守り、必要が生じたら助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者も苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そのような時、もし何らかの理由で解決が長引けば、どうして神は黙っているのかと疑念が生じ、それが神に対する失望や不信にかわる危険があります。苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるように助けることが視野に入っています。

イエス様は弟子たちに向かって互いに愛し合いなさいと言われたので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ない感じがしますが、よく考えるとそうではありません。全知全能の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけのためではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に送られ、十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助けることにおいて、自分の持てる力や時間や財産を使わなければならない時があることはいつも肝に銘じておかなければなりません。ルターは、そのような時、財産や命を失う可能性もあることを覚悟しなさい、と言っています。

自己犠牲を厭わない愛と言う場合、もちろん、神との結びつきの回復ということと無関係に行われるものもあるでしょう。例えば、親が自分の命を顧みず子供の命を守ろうとすることが考えられます。そのようにして助かった子供は、その後の人生をどう生きるでしょうか?自分の命が親の犠牲の上に成り立っているとわかったら、その犠牲は尊いものに感じられ、軽々しい生き方はできなくなるのではないでしょうか?そのような強烈な体験は、普通そんなにあることではありません。しかしながら、イエス様の十字架と復活のことを聞いて、それがこの自分にも関係している、自分のために起こされたとわかれば、普通の人でも同じような強烈な体験をすることになります。親の犠牲に比べたら身近な感じがしないと言われるかもしれません。しかし、イエス様のおかげで、この罪ある自分が神聖な神の前に立たされても大丈夫と見なされる、その神の見守りと導きを受けてこの世の人生を生きられる、この世を去る時に神の御許に手を取って迎え入れられる、これら全てはイエス様の犠牲のおかげだとわかれば、やはりそれは自分にとって尊いものになり、軽々しい生き方はしてはならないという心を強く持つことになると思います。

最後に、キリスト信仰の愛には、隣人が神との結びつきを保てるように/持てるようにすることが当然、視野に入っているということがルターの次の教えにもよく表れているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明しに用いている聖句は、ローマ15章3節「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」です。

 「イエス様は神の恵みに満たされた神聖な方であったにもかかわらず、ファリサイ派の人たちのように私たちを見下したり、私たちが持たないものを持っていることに満足するような方ではなかった。主は、私たちが何も有さず、彼が全てを有していることに不満だったのである。満足しても良かったのだが、主は逆に私たちが何も有さないがゆえに苦しまれる道を選ばれた。私たちが主のようになれるために、また主が有するものを私たちも有することが出来るために、さらには私たちが罪に支配された状態から解放されるために、私たちにどのように舞ったらよいか?このことに主は心を砕いたのである。それらを実現するのはちょっとやそっとのことではないとわかると、主は、自分自身が何者であるか、自分が何を有しているか、そういったことを顧みず一切を投げ捨てて、私たちの罪が御自身に降り注ぐに任せ、そうやって私たちから罪を取り除こうとされた。あたかも主は、私たちがこれだったら受け入れてもいいというような、私たちが満足できるようなことをして下さったのだ。

ファリサイ派の人たちが取税人たちに対して振る舞ったように、また高ぶった者たちが弱い罪びとたちに振る舞ったように、もし主が同じように私たちに振る舞ったならば、一体私たちの誰が罪の支配下から贖われることが出来たであろうか?それだからこそ、私たちも隣人の罪に対しては、主が私たちに振る舞ったのと同じように振る舞わなければならない。私たちは、裁いたり、陰口をたたいたり、見下したりしてはいけないのであって、かわりにその人が罪から解放されるように助けてあげなければならないのである。そうすることで私たちが命、生活、所有物、名誉その他私たちが有しているもの全てを失うことになろうとも、そうしなければならないのである。そうしない者は、キリストを失い、その信心はキリスト信仰の信心とは別の信心になってしまったことを知るがよい。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン