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聖書研究会: 神学博士 吉村博明 宣教師

今年最初の聖書研究会です。テーマは昨年に続き「ローマ信徒への手紙」です、先生は私達キリスト教信仰者にとってたいへん重要な箇所である1章から8章までをおさらいということで読み返されました。

説教「イエス様の途方もなさに与って生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-18節

主日礼拝説教 2020年1月5日降誕後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところですが、特に冒頭の5節まではそれを詩的な口調で表現しています。詩的というのは、新約聖書が書かれている元の言語であるギリシャ語で読むと、エン(εν)、エーン(ην)の音が繰り返されていることに気づきます。偶然そうなったのか、著者のヨハネが意図してそうしたのかわかりませんが、韻を踏んでいるように聞こえます。それを一つお聞かせします(エンεν、エーンηνを少し強調して言います)。

Εν αρχη ην ο λογος,

και ο λογος ην προς τον θεον,

και θεος ην ο λογος.

ουτος ην εν αρχη προς τον θεον.

παντα δι’ αυτου εγενετο,

και κωρις αυτου εγενετο

ουδε εν ο γεγονεν

εν αυτω ζωη ην,

και η ζωη ην το φως των ανθρωπων

και το φως εν τη σκοτια φαινει,

και η σκοτια αυτο ου κατελαβεν.

 

 皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。途中の6ー7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質を一層明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。1~18節のうち特に最初の5節は真理が詩的な口調で語られていると言えます。それは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を広くして大いなるものを受けとめられるようにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を広くする力に触れられるようにしていけたらと思います。

 

2.天地創造の前からいた神のひとり子

 「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても幅広い意味を含みます。もちろん、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話でして、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念でした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場です。生み出す大元にあるのはあくまで神とう立場です。哲学では、大元は人間の頭ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22ー31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づかなければなりません。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。人間をはじめとする被造物が時間が始まってから造られたのとは異なります。

さらに、「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖作用を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは、まだ天地創造がない、まだ時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」ということがあるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」と言うことができ、また、生み出した方を「父」と呼ぶことができる、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節で「ことばは神であった」と言われるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

 

3.永遠の命に導く光

  4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。しかし、父なるみ神は人間にそれを再び取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにしてあげようと、それでひとり子を御自分のもとからこの世に贈られたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」であるというのは、一つには暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示す役割を果たすことがあります。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯して闇の力に対抗できる力として働くこともあります。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。罪はそのままにしておけば人間が永遠の命を持てなくしてしまうものなので、まさに呪いそのものです。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。さらに、一度死なれたイエス様を父なるみ神が復活させたので、死を超える永遠の命の扉を開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。

悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。そういうわけで、先ほどの訳の問題は、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリな訳ではないかと思います。

 

4.ことばが肉となる

父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を永遠の命から切り離す罪の呪いから人間を解放して再びその命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。ただし、「あの方が本当に罪を全部請け負って償って下さったんですよ」と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 

5.イエス様の途方もなさに与って生きる

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、私たち人間が失っていた永遠の命を再び持てるようにと、永遠の御許からこの限りある世に来ることが出来るために肉となられました。それでイエス様は見かけは私たち人間と同じ姿形をして人々と共にありました。しかし、その姿形にはこのような途方もないことが凝縮されていたのです。一体誰がそのことをわかったでしょうか?わかるようになったのは、十字架と復活の出来事が起きてからでした。出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらにイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。これを聞いてイエス様を救い主と信じるようになった人たちは皆、この途方もないことに与るようになりました。なにしろ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、肉体的な誕生に加えて、霊的に誕生することになったからです。ヨハネ3章でイエス様が教えている通りです。この世を去る時には肉体的に誕生した命は終わりますが、霊的に誕生した命はそのまま続きます。この世にいながら、命を二つもっているようなものです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖書を通してこのような途方もない方と出会ったのであり、その方を受け入れてその途方もなさに与って今を生きているのです。このことが皆さんにとって勇気と力と元気のもととなって、この新しい年も歩むことができますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。

 

交わり

きょうの教会ランチはライスカレーでした、いささかか持て余し気味だった正月料理のあとのカレーは懐かしく美味しかったです。食後はクリスマスの飾りつけを片付けました。

新年礼拝説教「永遠を思う心を持って行こう」神学博士 吉村博明 宣教師

礼拝説教 2020年1月1日新年の礼拝

コヘレト3章1-11節、エフェソ4章17-24節、ルカ12章22-34節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 西暦2020年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は、昨年の12月1日に待降節に入った時に始まっています。世俗のカレンダーでは今日がが新しい年の第一日目です。この日は、教会のカレンダーではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書2章21節に記されているように、イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、その名が公けにされた日でもあります。

日本では新年は一年の中で最も大きなお祝いの期間です。以前の説教で、日本の新年の過ごし方とフィンランドのクリスマスの過ごし方に似ているところがあるとお話ししたことがあります。フィンランドでは12月24日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり(後で言うように、最近は開いている店が増えてきました)、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日12月25日丸一日あって、26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。

この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家か親元のところに帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。それなのでクリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、クリスマス・カードやプレゼントやクリスマス料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家や親元で過ごすというのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は日本と違って特に大きな休みとは考えられていません。学校は大体1月6日の「主の顕現日」くらいまでは休みで、日本の冬休みと同じですが、働く人はクリスマス後の12月27日は仕事で、1月1日は休みですが、2日からまた平常です(もちろん休みを取る人も多いですが)。そういうわけでフィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものです。

ところが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドは先ほども申しましたように、クリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、多くの店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、地元の近くの教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。より多く御利益を得ようと教会をはしごすることはありません。ひとつだけです。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者は減ります。

国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が前もって用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。近年は減ってきていますが、キリスト教が根付いている人にとって、クリスマスとは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから一時離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間です。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数でしょう。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っているのではないかと思います。

日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、そこに自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?お店やデパートなどをみると、1日は休みでも2日から開くのが多く、店によっては1日もやっています。それで日本の正月は日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがします。私が子供の頃は正月三が日と言ったら、どこもお店は閉まっていて繁華街も静かだったのですが。もっとも近年は働き方改革が言われるので変わるかもしれません。しかし、それも「自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離す」ためのお祝いというよりは、健康のため、より良い仕事効率のためということでしょう。もちろん、それも大切なことではあります。

フィンランド、フィンランドと同国が模範みないな偉そうなことを言いましたが、実は5年ほど前に法改正があって店の開店時間が教会の伝統にとらわれずに自由に出来るようになりました。クリスマス期間中でもやる店が増えてきているので、今度はそっちが日本化してしまうのではないかと心配もしています。

 
2.

 救世主の誕生をお祝いするという大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りあるこの世の日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」3章11節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神は私たちに見るための目、聞くための耳だけではなく永遠を思う心も与えて下さったのです。せっかく神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、日常の思い煩いに取り囲まれて、それしか見えなくなってしまいます。

それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、その説明は簡単ではありません。聖書の出だしの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造主の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造した。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26ー29節、詩篇102篇26ー28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは「神の国」という永遠の世界があるところです。今ある天と地が造られてからそれが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界ということになります。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側ないし上側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子イエス様が父なるみ神のもとからこの世に贈られてきた。それは、永遠の世界におられる神が限られたことだけのこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神に守られて生きられるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。そして私たちがこの世の人生を終えたら永遠の神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて今を生きられるように、またこの世の人生を終えたらその神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神から切り離している、染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様はその人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運び上げて、人間にかわって神罰を受けて、神に対して私たちの罪を償って下さいました。そこで人間が、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見てもらえるようになったのです。そうなると人間としては、これからは神の御心に沿うように生きよう、罪に手を染めないように生きようと注意するようになります。もし、悪い思いにとらわれても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、罪の赦しは微動だにせずあるということがわかります。それで心に平安を得、神に感謝し襟を正します。いつの日か神の御前に立たされるとき、純白の衣をしっかり手放さず生きていたことを認めてもらい、永遠の神の御国に迎え入れられます。

先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そのようなものも「定められたもの」と言われると、この世で真面目に生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになってしまうかもしれません。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、言葉的にも人生の実際に照らし合わせても難しいところです。これを、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない、そこから出発しなければならない、ということを意味していると理解できるとします。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの天と地の中だけにとどまります。この世は不正義が蔓延るところですから、真面目に生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、最後の審判で不正義は全て清算されて正義が隅々まで行き渡っている神の国が待っていることになります。それがわかると、目指して向かうべきものが見えてきて、不正義は被っても真面目に生きることに意味がある、不正義には手を染めない、という姿勢になるはずです。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目から見て不幸な状態にいる人たちの立場が逆転するということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。もちろん、この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、それが永続する保証はありません。たとえ逆転を果たせなくても、イエス様を救い主と信じる者たちには最終的には「最後の審判の日」と「復活の日」に逆転が実現します。

 
3.

 イエス様の罪の償いを衣のように纏っているキリスト信仰者ではありますが、それでもその内にはまだ罪が残っています。自分では神の御心に適うように生きようと志しても、それが叶わない、至らない自分にいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分は一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つでしょうか?これだけ助けたら十分と見てもらえるような合否ラインがあるのでしょうか?

本日の福音書の個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これは、ギリシャ語原文を直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした度合いの分を(εφ’ οσον)あなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことは小さかったということです。少なくしたら、しなかったことは多かったということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないとおっしゃっているのです。

キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しの上に立つ限りは、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。それから、助け人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられないことばかりかもしれませんが、それでもその人たちのために神に祈りましょう。たとえ大勢の人を助けてあげられても満足せずに、世界中にはまだまだ大勢いるのだから、その人たちのために祈らなければなりません。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りが自己満足の手段になることはあり得ません。

兄弟姉妹の皆さん、今世界は皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして掲げて、それがSNSを通して拡散されて何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力がある人たち、感情に訴える力のある者たちが我が物顔です。最近よく言われるように、分断とポピュリズムとポスト真実の状況です。まさにこういう時こそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い出しましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はいつか火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなことと別のところにあることもわかります。そのような目と心を持って、今年も時代の荒波の中を進んでいきましょう。イエス様はいつも私たちと一緒におられます。あの嵐の日に弟子たちと一緒に舟に乗っていたようにです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「悩むより歩もう、主が開いた道を」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章13-23節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神は悪に対して無力か?

 本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。

初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難したが、王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは、初期のキリスト教徒たちがそう見て、マタイもそれに倣って記したのかもしれません。

二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイあるいは初期のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみました。

三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ただ、明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と繋がっています。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。そして、同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰をかわりに受けて苦しむ神の僕についての預言があります。イエス様の十字架の死はその預言の成就であったと理解した人たちは、彼が「ナザレの人」と呼ばれていたことを覚えていれば、エッサイの若枝ネーツェルはイエス様のことを指すと分かったでしょう。(「ナザレ」については、民数記6章1ー21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)

 ところで、本日の福音書の中で最も難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件と思います。どうしてかというと、一人の赤子を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものがあるからです。その赤子は将来救世主になる人だから、多少の犠牲はやむを得ないと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちに危害が及ばないようにするのが筋ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつ勘違いしてはならないことは、幼児虐殺の責任者は神ではなくヘロデ王ということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、東方の学者たちがヘロデに報告しないように導きました。神はまた、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」というものでした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙に出たのです。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は天と地と人間の造り主で全知全能と言っているのに、ヘロデの暴挙も予想できなかったのか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えられなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の存在を許してきたのか、なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか、もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ただただ至福の状態にとどまることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

そういうわけで、本説教では、神は悪に対して力はないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

2.悩むより歩もう

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にとどまることができるではないかという見解に対して、次のような指摘をすることが出来ます。

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいた。そして、それは創造主の神の御心に沿うものだった。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまった。この辺の経緯は創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになる。つまり善いことだけでなく悪いこともできる存在になってしまう。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順だったことがきっかけで罪が世界に入り込み、人間は死ぬ者になってしまったのです。

何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。創造主の神への不従順がそれです。世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのです。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道を採ってしまいました。それで、人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。最初の人間が壊してしまった神と人間の結びつきを元に戻すために、神は計画を、人間救済の計画を用意されたのです。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていきますが、イエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現します。そのことは新約聖書で明らかにされていきます。

どのようにして神と人間の結びつきは回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められている。その呪いをイエス様は全部自分で引き受けて、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれた。神のひとり子の十字架の上での死が人間にとってとてつもなく大きな意味を持っていることは、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる力を持つ悪魔を無力化するためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。そこで、その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下さり、基本的にはもう済んでしまった。それなので、悪魔としてもこれから人間を陥れようとしても、もう陥れることが出来なくなる状況が生まれました。

そういうわけで、イエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節で言われるように、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいてその奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもありません。人間として受けたので本当の罰受けになって、人間の罪を償うことが出来ました(17節)。ヘブライ2章18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら自分自身人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので、彼は試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら、試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、わかるのです。

イエス様の十字架の死が起きたことで、罪の呪いから解放された、悪魔の力が働かない状況が生み出されました。さらに、父なるみ神にとって、ひとり子を陰府の中に留めておくことは認めがたいことでした。それで彼を3日後に復活させました。これにより、死を超えた永遠の命が打ち立てられ、その扉が人間に開かれました。ただし、悪魔は人間を死に陥れる力を失ったとは言え、人間の側で死を超えた行先が決まっていないとまた引きずり込まれる危険があります。しかし、行先も確立しました。それで、悪魔にとっては二重の打撃となりました。

しかしながら、今度は人間のほうが、そうした死に至らない状況、永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて完成した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたらその確立した状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためでもあったのだ」とわかって、イエス様を自分の救い主と受け入れて洗礼を受けることです。洗礼を通してイエス様がして下さった罪の償いを純白な衣のように被せられる。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せられた罪の償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。あとは、この高価な衣をしっかり纏って罪を押しつぶしていきます。この世を去って神の御前に立たされた時、そのしっかり纏っていたことを認めてもらえて、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。

このようにキリスト信仰者は、永遠の命に向かう道に置かれてそこを歩んでいきます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方があるので、苦難や困難もあります。それは詩篇23篇でも言われています。「我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時がある。しかし、イエス様が御言葉を通して、聖餐を通して、祈りを通して私たちと共におられるので災いを恐れる必要はない。イエス様の衣をしっかり纏って進む道は復活と永遠の命に向かっていることに変更はない。

 以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからというのは、キリスト信仰の観点では本質的ではないということです。悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を用意しそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、これが真理です。このことがわかれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということは悩む問題ではなくなります。神がこの私にこんなにも大きなことを成し遂げて下さったということの方に目が向いて、自分が永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

3.正義と赦し

  終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、遅くとも必ず次の世で償いがなされる。黙示録20章4節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らの場合は、神の書物に記された前世の行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの裁きを受けることになっています。特に、「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が造り上げたものや与えて下さるものに対して、またそれらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。

 人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。それなのに、来世で全てが償われると言ってしまったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力を軽視することにならないかと言う人もいるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる間は、神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見守って下さっていることを忘れないようにしましょう。

ところで、キリスト信仰に炎の地獄とか裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「あれっ、キリスト教ってたしか赦しの宗教じゃなかったの?」と言われるかもしれません。その通り、キリスト信仰は先ほどもお話ししましたように、罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはどういうことかと言うと、まず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことがあります。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと方向転換の悔い改めをすることがあります。方向転換もなしイエス様にひれ伏すこともなしでは赦しはありません。そういうわけで、どんな極悪非道の悪人でも、まさにこのような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

交わり

高木先生のご家族を交えて歓談のひと時を過ごしました、ことし最後の交わりに思わぬ方々との再会!神様はビッグなお計らいをしてくださいました。

クリスマス・イブ礼拝説教「クリスマスの見えない希望」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1ー20節

降誕祭前夜礼拝説教 2019年12月24日

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

  1.今朗読された「ルカによる福音書」の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。国を問わず世界中のキリスト教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読される個所です。

 この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(joulu‐evankeliumi)とも呼ばれます。ちゃんと教会に通う家族だったら、クリスマス・イブの晩にクリスマスの御馳走が並ぶテーブルの席に家族全員がついて、この「クリスマス福音」が朗読されるのをみんなで聞いたものです。朗読の後で待ちに待った御馳走をいただきます。我が家もそうしていますが、近年教会離れが進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?

 御馳走の前に聖書の個所を読み聞かせるのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスは誰を称えるお祝いなのかをはっきりさせることになります。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いであり、そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのでしょうか?それは聖書によれば、彼が天地創造の神のひとり子であり、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いということを忘れないために、御馳走の前に聖書を朗読するわけです。そして、イエス様を贈って下さった天地創造の神に感謝して御馳走を頂きます。それなので、神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何か贈り物をする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからなので、それで私たちもハガキを出して「良いクリスマスと新年を迎えて下さいね」と書いて、あなたのこと忘れていませんよと伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、讃美歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。

 

2.「クリスマス福音」は聖書の1ページ程の長さですが、内容は深いです。それで、毎年クリスマス・イブの礼拝でこの聖句をもとに説教をする人は毎回新しい発見をします。出来事のあらましは以下の通りです。現在のイスラエルの国がある地域の北部にガリラヤ地方と呼ばれる地域があって、同地方のナザレという町にヨセフとマリアという婚約者がいました。ある日、マリアのもとに天使が現れて、マリアに神の力が働いて男の子を産むことになる、それは神聖な神の子である、と告げられます。案の定マリアは妊娠し、それに気づいたヨセフは婚約解消を考えますが、彼にも天使が現れて、マリアを妻に受け入れるようにと言います。生まれてくる子供は人間を罪の支配から救う救い主になる、だからマリアを受け入れなさい、と。ヨセフは言う通りにしました。ちょうどその時、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが勅令を出して、帝国内の住民は自分の出身地にて租税のための登録をせよという命令です。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝の命令には従わなければなりません。それで、ヨセフとマリアはナザレからユダ地方の町ベツレヘムに旅に出ます。グーグルマップによると157,1㎞、徒歩で33時間とありましたが、身重のマリアにとっては辛い旅だったと思います。なぜベツレヘムかと言うと、ヨセフはかつてのダビデ王の末裔だったので、ダビデの家系の所縁の地ベツレヘムに向かったのです。ところが着いてみると、町は旅人でごった返ししていて宿屋は一杯。マリアは月が満ちて今にも子供が生まれそう。そこである宿屋に併設の馬小屋があってそこに案内され、そこで赤ちゃんを産みました。生まれた赤ちゃんは、馬の餌の飼い葉桶に寝かせられました。人間の救い主となる方はこのような誕生をされたのでした。

 

3.以上がイエス様の誕生のあらましです。ルカ福音書2章ではこれに羊飼いの出来事が加わります。ベツレヘム郊外の野原で羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。そこに天使が現れて、ベツレヘムで救い主が生まれたことを告げました。羊飼いたちは神の栄光に覆われました。神聖な神の栄光ですから、目も開けられない位に眩しかったでしょう。羊飼いたちが恐怖に慄いたのも無理はありません。天使は「恐れるな」と言って彼らを落ち着かせ、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれだ、と教えます。さらに、その天使に加えて大勢の天使が大軍のように現れて、神を賛美しました。羊飼いたちはあっけにとられてこの光景を見ていたでしょう。

天使が去ってしまうと、辺りはまた暗黒の闇と静寂に包まれました。一時前の光の世界と天使たちの賛美の大合唱がうそのようです。しかし、羊飼いたちの心は光と賛美に満たされていました。周りの闇はもう気にもなりません。先ほどの恐怖心は消え去っていました。光と賛美に心が満たされた羊飼いたちは互いに言い合いました。「さあ、ベツレヘムに行こう!主が知らせて下さったその出来事を見に行かなくては。」そして、彼らはベツレヘムに向かって出発し、そこで馬小屋に宿している親子を見つけました。赤ちゃんは飼い葉桶に寝かせられていました。まさにこの子が天使の告げた救い主となる方でした。

ここで一つ不思議に思うことがあります。それは、羊飼いたちはどうやってイエス様親子がいる馬小屋を見つけられたのかということです。羊飼いというのは、生活の大半を野原で過ごすので都会のことなんか何もわからないでしょう。ベツレヘムは小さな町と思いますが、それでも家々が並び、役所もあり、道路や路地も沢山あると思います。馬やロバが交通手段の時代ですから、馬小屋だって一つや二つではなかったでしょう。羊飼いたちは、町のどこに馬小屋があるかもわからず、真夜中の暗い街を手探りするように探さなければなりません。星や月が輝いていたとしても、街灯やイルミネーションの明るさには比べものになりません。

私が思うに、羊飼いたちがイエス様親子がいる馬小屋を見つけられたのは、探しながら大声を出していたからではないか?「天使のお告げがあった、今夜ベツレヘムで救い主がお生まれになった、その子は今どこかの馬小屋にいるということだ!」という具合に。羊の群れも野原に残しておけないから、一緒だったでしょう。大変なことになりました。一体何の騒ぎかと驚いた町の住民は家々から出て羊飼いたちに合流して、知っている馬小屋は片っ端から行ってみたのではないか?そして、一つの宿屋に併設する馬小屋がそれだったのです。

どうして町の人たちが合流したと言えるのかというと、17節に、羊飼いたちは天使が話したことを人々に知らせ、聞いた者たちは羊飼いたちの話を不思議に思った、と書いてあるからです。馬小屋に押しかけたのはもう羊飼いたちだけではなかったのです。

 

4.町のことを知らない羊飼いたちが、町のどこかの馬小屋にいる赤子を見つけようとして街灯もイルミネーションもない暗い街に出かけて行ったというのは、少し無茶な話に聞こえます。しかし、見つからなかったらどうしようという心配や疑いは彼らにはありませんでした。彼らは、まだ目にしていなくとも必ず目にすることになるという希望に燃えていました。

使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」の8章24~25節で次のように教えています。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」羊飼いたちの心はこのような希望に満たされていました。赤子のイエス様をまだ目で見てはいなかったけれど、必ず見ることになると信じ、それで無茶さ加減に構わず探しに出かけたのです。

そう言うと次のような疑問が生じるかもしれません。羊飼いたちの場合は、天使の告げ知らせを聞き、神の栄光を目にし、天使たちの賛美の大合唱を聞いた。それくらいのことがあれば、神のひとり子が生まれたと言われても信じて、きっと見つかると信じて、探しに行くことも出来よう。そういう驚くべきことが起きないと、見えない希望を持ち続けるなんて無理な話だ、と。

しかし、聖書が伝えていることは、実は私たちには、羊飼いたちが見聞きしたことよりも、もっと驚くべきことが起きたということです。私たちにです。何が起きたのか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活という出来事です。

神のひとり子が私たち人間の全ての罪を神に対して償う犠牲となって十字架の上で死なれました。それは、私たちが神罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、話はそれで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を今度は復活させて、死を超える永遠の命への扉を私たち人間のために開かれたのです。

イエス様の十字架と復活の業は歴史上起こったことです。イエス様があなたの救い主になると、イエス様を死から復活させられた父なる神がいつどこででも、何が起きようとも、あなたのそばについていて守って下さっていることがわかります。まさに、目には見えないけれども、決して潰えることのない希望を持って生きることになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

クリスマス・イブ礼拝

イブ礼拝に先立ってクリスマス・マーケット、カンテレコンサートが開かれました。予想をはるかに上回る大勢の方々で狭い会堂も嬉し悲鳴でした。マーケット・カンテレグループSointuの演奏などが恙無く進み7時からイブ礼拝が始まりました。。礼拝時には集会スペースにも多くの人が残り、クリスマスのメッセージに耳を傾けていました。フインランドから帰省された高木先生のご一家も懐かしい顔を見せてくださいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

説教「預言する女たち」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章46ー55節、サムエル上2章1-10節

主日礼拝説教 2019年12月22日待降節第4主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに福音

  本日の旧約の日課と福音書の日課は、二人の女性が神を賛美する祈りをしているところです。旧約のサムエル記上の女性はハンナ。彼女が賛美の祈りをしたのは紀元前1,000年代、今から3,000年以上も前のことです。新約の女性はマリア。彼女がこの賛美の祈りをしたのは今から2,000年前のことです。二人とも子供の誕生に関係して神を賛美しています。

ハンナが産んだのはサムエルです。後にユダヤ民族の指導者になりますが、「士師」という地位の指導者です。「士師」とは何かと言うと、ユダヤ民族がモーセやヨシュアに率いられてエジプトから民族大移動を果たしてカナンの地に定住を始めた頃でした。その時、宗教面と政治面の両方の指導者を兼ねる指導者が現れました。それが「士師」です。旧約聖書には創世記から始まるモーセ五書と呼ばれる書物があって、それに続いて「ヨシュア記」が来ます。モーセ五書の二番目の「出エジプト記」から「ヨシュア記」までがエジプトからカナンの地への民族大移動の記録です。その次に「士師記」が来ます。その後の短い「ルツ記」を挟んで「サムエル記」へと続きます。サムエルの時代にユダヤ民族は王制に移行します。そういうわけで、士師というのは、ユダヤ民族がカナンに到着してから王制に移行するまでの間の期間、宗教と政治の両面での指導者でした。

ところが、ユダヤ人たちは周りの民族のような王制を求め、サムエルもこれを受け入れます。サムエルは、神の指示に従ってサウルに王の印として頭に油をかけることをします。これでサウルは民族の王に就任しました。こうして宗教面の指導者と政治面の指導者が分かれることとなりました。ところで、ヘブライ語で「油を注がれた者」のことをマーシーァハמשיחと言いますが、これは日本語で言うメシアです。本日の日課のハンナの祈りの最後に「油注がれた者」が出てきますが、これはそのマーシーァハ/メシアです。「メシア」は新約聖書では「救世主」の意味を持ちますが、旧約聖書では、もともとはユダヤ民族の王の位につく人を指しました。サムエルはサウルの在任中の時に、神からの指示に基づきダビデに油を注ぎました。このため、サウルは王としての正統性を失いました。どうしてそんなことになったかと言うと、サウルが神の意思に沿わないことをするようになったからです。このように、王と言えども、全知全能の神の意思に従わなければならず、それから外れれば、もう王として認められなくなるということです。サムエルは神の代理人の機能を果たしたと言えます。

次にマリアを見てみましょう。マリアは誰を産んだか?これはもう、言うまでもなくイエス様です。イエス様は「メシア」と呼ばれますが、これはユダヤ民族の王という意味ではなく、人類全体の「救世主」の意味です。ただし、当時の人々は最初、イエス様が民族の王国を再興してくれる王様になると期待したので、その意味で彼のことをマーシーァハ/メシアと思っていました。他方で「メシア」という言葉には当時、民族自決を実現する王様という理解の他に、もっとこの世離れした理解の仕方も出てきていたのです。そして、そっちの理解が前面に現れて理解の仕方が逆転する事件が起きました。

何が起こったのでしょうか?まず、イエス様は支配者側にとって危険な分子として十字架刑に処せられてしまいました。人々は期待外れだったと失望しました。ところが、死んだはずのイエス様が天地創造の神の力で復活させられて、人々の前に現れたのです。体を持ってはいましたが、それは普通の肉体の体とは別のものでした。朽ちない復活の体でした。このようにしてイエス様は、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間に開かれて、私たちをその命に導いて下さる救世主ということが明らかになったのです。そうなると、彼が十字架で死ななければならなかったのも、人間が持ってしまっている罪を神に対して償う犠牲だったことがわかりました。このことが旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたからです。神はイエス様がそのまま死の陰府の世界に留まることをお認めにならず、復活させました。それは彼が愛するひとり子だったからです。

それならば、なぜ神は愛するひとり子をこの世に贈って十字架の死に引き渡さなければならなかったのか?それは、人間の罪を罪として断罪して罪が償われて赦された状況を作り出し、そこに人間を導き入れるためでした。そこに入れることで人間は罪と死の従属状態から脱せられるのです。そして人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け入れると、その状況に入れるのです。罪が罪として断罪されるためには神罰を100%受けて立つ者が必要でした。神の姿かたちでそれを受けても痛くもかゆくもなんともないので、100%受けたことになりません。人間の姿かたちを取ることが求めらたのです。人間の姿かたちは人間の母親から生まれてこないと持てません。マリアがその母親の役目を果たすべく選ばれました。そして、聖書に記されているように、マリアは神の霊、聖霊の力で妊娠しました。

以上、福音を宣べ伝えたので、説教はこれで終わりにしても良いのですが、ただ、本日の日課の個所の解き明かしはまだしていません。それで、まだ説教は続きます。

ハンナもマリアも、生まれてくる子供は、一方はメシア(王様)に正統性を与える立場になる者(サムエル)、他方はメシア(救世主)そのものになる者(イエス様)というようにメシアに関係しました。そうかと思うと、二人の境遇はとても異なっています。ハンナは不妊の女性でした。夫エルカナにはもう一人の妻ペニナがいて、ハンナは子供が得られないことでペニナから意地悪を受け続け、それがつらく、神に子供を嘆願します。神はハンナの祈りを聞き、それでサムエルを産むことになります。ここで一つ気になるのは、エルカナには妻が二人いたということです。ということは、ユダヤ教社会や聖書は一夫多妻制を認めているのかという疑問が当然起きます。このことは後で見ていきます。

マリアの方はと言えば、まだヨセフと婚約中の身なのに聖霊の力が働いて処女のまま妊娠しました。このように、二人の境遇は異っていますが、二人とも神の力が働いて、一方は不妊が治って子供を産み、もう一方は処女なのに妊娠して産むということが起こりました。神の力が働いた二人は神を賛美したわけです。彼女たちの賛美の祈りは、天地創造の神そしてイエス様の父である神がどんな方であるか、また人間に対して何を考え、何をされようとしているかを明らかにしています。まるで預言です。預言という言葉を聞くと、普通は未来の出来事を言い当てることを意味すると考えるでしょう。もちろん、それも含まれますが、聖書で言う「預言」はもっと意味が広く、神の考えや計画を預言者を通して人間に伝えることです。その意味でハンナとマリアの賛美の祈りは、神の考えや計画についても言っているので、預言と言ってもよいものです。

 

2.一夫一婦制が神の意思

 ハンナとマリアの賛美の祈りを見る前に、ユダヤ教社会や聖書は一夫多妻制を認めていたのかどうかについて見てみます。妻を複数持っていた例は、ヤコブがあります。アブラハムには側女がいました。ダビデとその子ソロモンも複数妻がいましたが、ソロモンに至っては複数なんて生易しいものではなく王妃が700人、側室が300人ですから、正気の沙汰ではありません。結論から言うと、創造主の神の意思は一夫一婦制です。それは、創世記の天地創造のところで最初の人間が神に造られた時、次のように言われていることによります。「こういうわけで、男は父母から離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)。はっきり一夫一婦制の観点を打ち出しています。最初の人間アダムとエヴァも一夫一婦でした。申命記17章17節にも「王は大勢の妻をめとって、心を惑わしてはならない」と言われています。アダムとエヴァの後の子孫を創世記4章の系図に従ってたどっていくと、7代目のレメクが妻を二人持っていたことが記されています。でも、その後は特に複数妻のことは何も記されていません。どうやら、一夫多妻は例外的な出来事のようです。

それでも、聖書に載るというのは容認されているようにみえます。一夫多妻制は「姦淫するな」という十戒の第6の掟から見て問題ないのでしょうか?ダビデがウリアの妻を自分のものにしたという出来事がありました。これは神の意思に反することとして、預言者ナタンの口を通して神の罰を宣せられました。ダビデは既に複数の妻を持っていました。ナタンが非難したのは、他人の妻を計略を用いて自分のものにしたことでした。そうすると、十戒の第6の掟は他人の妻に手を出してはいけないということであって、他人の妻でなかったら妻を複数持ってもOKという考え方だったのかもしれません。しかしながら、神の基本的な立場は先ほども申しましたように一夫一婦制です。

ところで聖書は、複数の妻を持つことでどんな問題が起こるかも隠さずに伝えています。子供に恵まれなかったサラは、先に夫アブラハムに子供を産んだ側女のハガルに我慢できなくなって、これを追放し悲惨な目に遭わせます。ラケルは夫ヤコブの寵愛を得ていたにもかかわらず、子供に恵まれなかったためにもう一人の妻レアを妬みます。ダビデは前述したように、複数妻を持っていたにもかかわらず、それでも物足りないと言わんばかりに人妻に手を出してしまいました。ソロモンに至っては、大勢の正室と側室の中に異なる神を崇拝する者がいたため、聖書の神から離れていくようになりました。アダムから7代目のレマクもどんな人間かというと、損害を受けたら賠償は常識を超える大きさを要求するような神経の持ち主でした。そんな人間なら妻を複数持ちたいと思っても不思議ではないかもしれません。本日の日課の個所のハンナの夫エルカナも子だくさんの妻ペニナがいて、彼女はハンナをいじめ抜きます。ユダヤ教社会では子だくさんは神の祝福の現れと見なされたので、子供に恵まれないハンナにとってペニナのいじめは屈辱的なものだったでしょう。

ユダヤ教社会の一夫多妻は、紀元前6世紀の終わりに民族がバビロン捕囚からエルサレムに帰還した頃には姿を消したと言われます。かつての王国はもう復興しなかったので、それでダビデやソロモンのような妻を何人も持てるような権力者が出なかったということでしょう。それから、バビロン捕囚の事件はユダヤ民族が神の意思に逆らうような生き方をしたことにそもそもの原因があるという考えが強まりました。それで、神の意思に忠実になろうとする姿勢が強まったと考えられます。イエス様も創世記の言葉をそのまま受け継いで次のように述べています。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体でる」(マルコ10章6~9節、マタイ19章1~4節)。

ここで、ひと言付け加えますと、聖書では神の民に属する者の不都合なことも結構書いてあります。妻を多く持った者にはよからぬことがあったということも包み隠さず述べています。ダビデのような神の目に留まった者についてもそうです。決して理想像だけで塗り固めることはありません。その意味で聖書はリアリスティックな書物と言えます。

 

3.ハンナの預言

  さて、ハンナの賛美の祈りから、神がどのような方で、私たちに何を計画しておられるのかを見てみましょう。

ハンナの祈りが神に聞き入れられて、待望の子供が生まれました。ところが、待望の子供だったのに、乳離れした段階でハンナは子供を祭司のエリに養子に出します。つまり、それだけ子供というのは神から授かったものなので親と言えども自分の所有物のようにしてはいけない、場合によっては与えて下さった方にお返ししなければならない、そういう考えが強く表れたケースと言えます。

3節から5節を見ると、神は高ぶるものを低くされ、低く抑えられている者を高く上げるという思想が現れています。イエス様の教えにもよく出てきます(マタイ23章12節、ルカ14章11節、18章14節)。

6節から8節を見ると、一見、神は低くされている者を高くされるという思想の続きかと思いきや、よく読んでみると、今の世が終わりを告げて新しい天と地に取って代わる日、復活の日、最後の審判のことを言っていることが見えてきます。「主は命を絶ち、また命を与え」というのは、ヘブライ語原文を少し詳しく訳すと「主は私たちを死のもとに連れて行くが、命に戻して下さる」です。そして「我々を陰府に下すが、また引き上げて下さる」。これはまさに死者の復活です。

7節と8節「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」は、これもヘブライ語原文を少し解説的に訳すと「主は取り上げられるが、豊かに富ませてくれる、高ぶった者をヘリ下させる」です。「弱い者を塵の芥の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる」というのも、弱い者と訳されるヘブライ語の単語דלは意味が広く、無力な者、取るに足らない者、虐げられた者、弾圧された者等も含みます。「塵の芥」と訳されている単語עפרも「滅びゆくものの領域、過ぎ去るものの領域」の意味を持つと辞書に出ています。それでここは、「虐げられた者をこの滅びる世から立ち上がらせて、貧しい者を灰溜めの中から引き上げて下さる。それは、我々が高貴な方々と共に暮らすようになるためである。神は受け継ぐものとして栄光の座を与えて下さる」。どうです、復活のことを言っているように聞こえてくるでしょう。無力な者、弾圧された者が奪われたり失ったものを補って余りあるくらいに報われるというのは、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が完全に実現する「神の国」も見えてきます。8節の終わりに、「大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた」とあります。これは、まさに主なる神はこのように天地を創造する力を持つ方である。そうであれば、最後の審判も完全な正義も実現できるということです。

ハンナの賛美をこのように終末論的に捉えることに難色を示す向きもあるかもしれません。ハンナがここで低くされた者が高くされると言っているのは、不妊で虐げられた自分が子供を授かって逆転勝利したことを示唆しているにすぎないと言われるかもしれません。でも、辞書に出ている意味の範囲内で可能な捉え方です。もちろん、ハンナが終末論を意識して語ったかどうかはわかりません。しかし、逆転勝利して神に賛美するハンナの口を通して、神は終末論的な逆転勝利を語らせたということが見えてくると思います。

10節は「主は地の果てまで裁きを及ぼし」と訳されていますが、ヘブライ語の言葉דיןは「正義をもたらす」の意味があります。それで、「地の果てまで正義を実現する」と訳せます。これまで見てきた終末論とかみ合います。ここで「王」と「油注がれた者」-メシア―が登場しますが、それは誰のことでしょうか?サムエルが油を注いで王として就任させたサウルとダビデのことでしょうか?今まで見てきたこと、預言が最後の審判、復活、正義が完全実現する「神の国」のことを言っていることを考えると、これはイエス様のことを言っているとみるべきでしょう。イエス様が登場するよりも1,000年前にハンナの口を通してイエス様のことがこのように預言されていたのです!

 

4.マリアの預言

 次にマリアの賛美の祈りを見てみましょう。マリアは、天使から聖霊の力でイエスという男の子を産むことになると告げられていました。疑うマリアに対して天使は、年老いて不妊状態だった親類のエリザベトが神の力で妊娠した、神には不可能なことはない、と述べていました。マリアは、エリザベトに会いに出かけました。マリアの訪問を受けたエリザベトは、マリアが挨拶した時にお腹の赤ちゃんが反応したことに驚きます。マリアは、エリザベトの妊娠を見て、天使の言ったことは本当で、自分について言われたこともその通りになると確信しました。そして、この賛美の祈りをしたのです。

そこで、創造主の神がどんな方であるかが述べられます。48節で「身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さった」と言いますが、ここのギリシャ語の単語ταπεινωσιςの意味は社会的身分の高い低いというよりは、「ヘリ下り」とか「自分を高くしないこと、自分を低くすること」という特性ないし姿勢、態度のことです。「はしため」も「召し使い」のことですが、主人に仕える者です。ここは、「召し使いのように神の命じられること、言われることに聞き従ってお仕えする私は、自分を高くすることなど出来きない、ヘリ下った者です。あなたは、そのヘリ下った様に目を留めて下さった。」つまり、天地創造の神は、高ぶった人間には目を留めず、ヘリ下って自分を低くする者に目を留める方ということです。ハンナの賛美にも、またイエス様の教えにもあるように、真に神は、自分を高くする者を低くし、低くする者を高くする方なのです。52節で「身分の低い者を高く上げ」というのも同じです。ヘリ下った者、自分を低くする者を神は高く上げて下さる。

54節で「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」というのは、神が受け入れるのはユダヤ民族で他の民族は受け入れないような印象を受けてしまいます。もちろん、救い主がユダヤ民族の中に生まれてきたという意味で同民族が憐れみを受けたということはできます。しかし、その後何が起きたかというと、ユダヤ民族はイエス様を救い主と受け入れる人たちと拒否する人たちに分かれてしまいました。それでは、イスラエルは全体としては憐れみを受けられなかったのか、というと、そういうことではなかったのです。本日の使徒書のローマ2章でパウロが教えていることを思い出しましょう。割礼を受けて見かけ上のユダヤ人である者が本当のユダヤ人であるとは限らない。なぜなら、割礼を受けても律法の掟を守らなければ意味がない。逆に割礼を受けていなくても律法の掟を守ったら、そっちの方がユダヤ人である。その者は心に割礼が施されている者であり、そうなったのは洗礼を通して聖霊を与えられたからである。

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、心に割礼があるユダヤ人なのです。マリアからイエス様が生まれ、そのイエス様が十字架と復活の業をもって、人間が割礼を経ないでも神の子となれる道を開きました。マリアが新しいユダヤ人が誕生することを可能にしたのです。マリアの言う「僕イスラエル」とは新しいユダヤ人から成るものです。マリアは本当に預言しているのです!

イエス様が成し遂げた罪の償いを純白な衣のように纏うキリスト信仰者は、自分をその被せられた衣に合わせようと、それにそぐわない罪に対して敏感になり、神の御心に沿うように生きようと心がけます。敏感であるがゆえに、まだまだ自分には罪があることを気づかされます。しかし、十字架は打ち立てられたので、そこに罪の償いと赦しがあることは打ち消すことはできません。キリスト信仰者は、その打ち消すことのできないものを重石のようにして罪を押しつぶしていきます。

兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは律法の掟の文字を注視して神の御心に沿うように生きる者ではなく、ゴルゴタの十字架に目を向けることで神の御心に沿うように生きる者です。まさに、聖霊を受けて心に割礼があるユダヤ人なのです。マリアが賛歌で言っている僕イスラエルの一員なのです!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

クリスマス祝会

新しい会堂での祝会が予想以上の参加者で嬉しい限りでした。持ち寄ったたくさんの食べ物をまえに美しい讃美歌の披露もあり時の過ぎるのも忘れて主の生誕を祝いました

 

木澤さんの弾き語りです、アップテンポの曲はオープニングにふさわしく祝会を盛り上げてくれました。

音楽家小林兄の讃美歌独唱です、声量のある歌唱力にうっとりしました。 

堀越家のコラボレーシオン、素晴らしかったです。

今年もたくさんの祝いのメールをいただきました、フインランドのみなさんありがとう。

有志によるコーラス、練習の成果が発揮されました。 

エッサイのギター演奏、しばらくぶりに聞いたがうまくなったです。

          教会のテーマソング”この青い空の下で”をみんなで歌ってお開きになりました。