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聖金曜日の説教「神の救いは今も成し遂げられたままである」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書19章17-30節

主日礼拝説教 2020年4月10日 聖金曜日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の木材を自ら運ばされることになり、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで無残な釘打ちが始ったのでした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神の御子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様が目にした光景でした。

息を引き取る寸前、イエス様は「成し遂げられた」と述べました。そして、息を引き取りました。後で述べるように言葉はとても象徴的です。イエス様は十字架で死なれた時、何を成し遂げられたのでしょうか?このことを見ていきましょう。

この福音書を書いたヨハネはイエス様の母マリアとともに十字架の近くにいて一部始終を目撃していました。彼はこの時の様子をこう書いています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」(28節)。イエス様が「渇く」と言われたことが旧約聖書の預言が実現するというのは、詩篇69篇22節に次にように記されていることによります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇く私に酢を飲ませようとします」。十字架の近くにいた人たちが竿のようなものでイエス様の口元に酸いぶどう酒を含ませた海綿を差し出しました。その人たちはその時、自分たちが詩篇の預言を実行していると意識していたでしょうか?実は兵隊たちがイエス様の服を分け合ったことも預言されていました。詩篇22篇18~19節です。「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く。」ローマ帝国の兵隊たちに旧約聖書の知識などなかったでしょうから、彼らは自分たちが預言を実行していることなど知らずにその通りのことをしていたのです。神の意思の前では人間の自由や意志などちっぽけなものにすぎないと思い知らされる出来事ではないでしょうか?

しかしながら、イエス様の受難と死によって実現した旧約聖書の預言はこれらのことに限られません。本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所は、イエス様の受難と死の出来事だけでなく、その目的についても詳しく預言しています。イエス様の時代の数百年前に彼の受難と死について見事に言い当てている預言です。以下、イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。どうしてこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのです。人間の神に対する背きのゆえに、イエス様がかわりに神の手にかかって、命ある者の地から断たれたのです。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもありませんでした。それなのに、その墓は神に逆らう者と一緒にされました。苦しむイエス様を神は打ち砕き、こうしてイエス様は自らを償いの捧げ物としたのです。神の僕であるイエス様が、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」のです。イエス様は自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたけれども、実はそれは多くの人の過ちを担って、背いた者のために執り成しをしたのでした。

このイザヤ書の預言から、イエス様が私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜ他でもない神のひとり子であるイエス様そのような身代わりの死を遂げなければならなかったのでしょうか?私たちに人間に一体、何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?自分らしく生きようとして何が悪いのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって私たちが癒されるというのは、何か私たちが病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。しかしながら、聖書は教えます、私たち人間は天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた造り主の神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気を持っているということも。どういうことか、以下に見ていきましょう。

2.

人間はもともと神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように造り主である神と張り合いたいと思ったことが、人間が神に対して不従順となり、罪が人間の内に入り込む原因になったのです。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが失われてしまいました。神との平和な関係が失われて、ある意味で敵対関係になってしまいました。

しかしながら、神は人間に対して、全部身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはしませんでした。そうではなくて反対に、なんとか人間との結びつきを取り戻してあげようと考えたのです。そのためには、人間の内に宿って人間を神の意思と反対方向に向かわせようとする罪の力を無力にしなければなりません。しかし、人間は内に宿っている罪を自分の力で除去することはできず、その力を無力にする力もありません。そこで神が編み出した解決策は次のものでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を神の意思に反する全責任者にして、神罰を受けさせる。罪の償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦された者となれる。そのようにして神との結びつきを回復させて敵対関係を終わらせ神との間に平和をもたらそう。そのような解決策を神は立てたのです。

それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせることは不可能である。自分の分さえ背負いきれず、死に至ってしまうのだから。この重い役目を引き受ける者として罪を持たない神のひとり子に白羽の矢が当たったのでした。

ところで、この身代わりの犠牲の役目は人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければなりません。そうしないと、目撃者も証言者も記録も生まれず、同時代の人々も後世の人々も神の救いを信じる手がかりがなくなってしまいます。神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じることになります。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのです。

以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在のイスラエルの地域、そしてこの地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世が終わった後に到来する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。

このようなわけで、十字架に掛けられたイエス様というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした計画が成就したことを示しているのです。人間に向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。人間を死ぬ存在に陥れていた罪は神がイエス様ともども刺し貫いてしまいました。このようにして人間の罪の償いが神に対して果たされて、罪と死は人間に対する優位性を失いました。このようにして神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。あとは、この救いの実現が時空を超えてこの現代の日本に生きる自分のためにもなされたのだとわかり、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この救いはその人の内になだれ込んできます。こうしてその人は神との結びつきが回復してその結びつきを持ってこの世を生き始めます。順境の時も逆境の時もいつも神から良い導きと助けを得て、万が一この世から別れても、復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられます。

3.

終わりに、このイエス様が最後に述べた言葉「成し遂げられた」について、一つ不思議なことをお話しします。ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσταιと書かれています。イエス様はこの言葉を口にした時はギリシャ語ではなくアラム語だったでしょう。それがどんな言葉なのかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の全記録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのです。このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も成し遂げられた状態にある」という意味です(アオリストετελεσθηでなく現在完了τετελεσταιであることに注意)。つまり、「成し遂げられた」とは、神の救いがイエス様の十字架で実現したのであるが、それはそれでハイ終わりましたということではない。ヨハネが何十年後にこの記録を書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いているということであり、さらに彼の書物を手にして読む者にとっても「成し遂げられた状態」が続いているということです。まさに時空を超えて私たちにとってもです。ヨハネの翻訳は真に的確であり、父なるみ神の意思に適うものです。なぜなら、神の意思は、彼が造られた人間の誰もがひとり子を用いて実現させた救いを受け取ってほしいというものだからです。そしてこの意思は2000年前も今も変わらないのです。神の救いは現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮なものです。それなので、ゴルゴタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、人生に新しい息吹を与えて新しい命を生きられるようにするものです。既に受け取った人たちには、かつて与えられた新しい命が今も変わらず新しいままでいることを忘れさせない原点です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝および諸集会の休止のお知らせ

コロナウイルスの感染拡大が止まない中、日本福音ルーテル教会東教区は4月4日付で教区内の各教会に対して、感染拡大の終息が見られるまで主日礼拝と諸集会の休止を提案しました。スオミ教会としてもこれを受けることとし、その間は聖書の日課に基づく解き明かしやメッセージを動画配信します。本ホームページからアクセスできますので是非試聴下さい。

4月5日(枝の主日)の聖句に基づく教え「平時でも非常時でも神との結びつきを持って生きることに変わりはない」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章1-11節

画像をクリックしてユーチューブでの動画をご覧ください

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん

1.

今日から受難週が始まります。今日はイエス様がエルサレムに入城したことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。今年はコロナウイルスの感染リスクのため教会での礼拝や集会を控えなければならなくなってしまいました。だからと言って、イエス様の受難と復活を心に留めて日々を歩むことに何も変更はありません。

受難週の最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様がこれから受難を受けることになるエルサレムに入城する際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとヘブライ語のホーシーアーンナーהןשיעה נאという言葉があって、その意味は神に「救って下さい」とお願いするものでした。そのホーシーアンナ―がアラム語のホーシャーナーになりました。アラム語というのは当時、今のイスラエルの地域で話されていた言葉です。

ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説しておきます。旧約聖書の大部分の書物はヘブライ語で書かれています。ヘブライ語はもともとはユダヤ民族の言語でしたが、紀元前6世紀のバビロン捕囚の出来事があって異国での捕虜生活の間にアラム語化が進み、イスラエルの地に帰還した時はアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝で聖書はヘブライ語のものが朗読されましたが、それをアラム語で解説していました。これが、イエス様を迎えた群衆がヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーを叫んだ背景です。この出来事は最初アラム語で言い伝えられて記録されて、後にマタイ福音書がギリシャ語で書かれました。その時、群衆の歓呼の声ホーシャーナーはアラム語の音声をそのままギリシャ文字に置き換えて、ホーサンナωσανναになりました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。

実は新約聖書の中には、同じようにもともとアラム語で話されたことをギリシャ語に翻訳しないで、音声のまま残しているものが他にもあります。例をあげると、
「タリタ クム(娘よ、起きなさい)」(マルコ5章41節、アラム語「トゥリーター クーミー」、ギリシャ語「タリタ クーム」、
「エッファタ(開け!)」(マルコ7章34節、アラム語「イッファタ」、ギリシャ語「エッファタ」)、
「ラボニ(私の主/私の先生)」(ヨハネ20章16節、「ヘブライ語」とありますが正しくはアラム語です、アラム語「ラッボーニー」、ギリシャ語「ラッブーニ」)、
「マラナ ター(主よ、来て下さい!)」(第一コリント16章22節、アラム語「マーラナーター」、ギリシャ語「ギリシャ語「マラナター」、
そしてあの有名な
「エロイ、エロイ、レマ サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのか?)」(マルコ15章34節、アラム語「エラーヒー、エラーヒー、ルマー シェバクタニー」、ギリシャ語「エローイ、エローイ、レマ サバクタニ」)。

これらの言葉は日本語の聖書ではカタカナで書かれていて人によっては何かおまじないか呪文の言葉に見えてしまうかもしれませんが、そうではありません。これらは皆アラム語で語られた言葉で、直に聞いた人たちによほど強い印象を与えたのでしょう。それで音声はそのままにして括弧書きで訳を添えるようにしたのです。そういうわけで私たちは聖書を繙く時、まさに時空を超えて、これらの言葉を発した人たちの肉声に触れることが出来るのです。

脇に道に逸れてしまったので本題に戻ります。「ホサナ」はもともとは神に救いをお願いする言葉でした。同時にそれは古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われていました。ということは、群衆はろばに乗ったイエス様をユダヤ民族の王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。これは奇妙な光景です。この出来事は一体何なのでしょうか?

ルカ福音書にある同じ出来事の記述を見ると、イエス様は、まだ誰も乗ったことがないろばを連れてくるように命じました(ルカ19章31節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。つまり、神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様はろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのです。周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人ろばに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

2.

このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書のゼカリヤ書の預言の成就を意味しました。その9章9~10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のような預言がありました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

さらにゼカリア書14章やイザヤ書2章をみると、世界の国々の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知って神を崇拝するようになって聖なる都に上ってくるという預言があります。こうした預言を見ると、偉大な王が到来して、その下でユダヤ民族の国家が復興して、支配民族を打ち破って全世界に大号令をかけるというような理解が生まれます。そのような理解を持っていた人たちは、ろばにまたがってエルサレムに入城するイエス様を目にして、いよいよダビデの王国の復興の時が来たとの期待を膨らませたことでしょう。

ところが、事態は群衆の期待とは全く違う展開を遂げました。エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導者たちと激しく衝突します。エルサレムの神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。さらに指導者たちを憤慨させたのは、イエス様が自分のことをダニエル書に預言されている「人の子」という救世主であることを公言したり、また自分を神の子と見なしていることでした。また彼が群衆の支持と歓呼の声を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、イスラエルを占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまいます。占領者に取り入ってせっかく一応の安逸を得ているのに下手をしたらローマ帝国の軍事介入を招きかねない。そのような危機感が指導層にあったことはヨハネ11章に記されています。王として出迎えたのに、あれは何者かと聞かれて、「預言者です」と答えが返ってきたのは、この微妙な状況を反映していると言えます。いずれにしても、指導層としてはあの男を早く始末しなければならないということになりました。それで、イエス様は劇的な展開の中で逮捕されて死刑の判決を受けます。弟子たちは逃げ去ってしまい、群衆の多くも背を向けてしまいました。この時、誰の目にもこの男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興する「メシア」はこの男ではなかったのだ、と。

しかしながら、このようなメシア理解は旧約聖書を一面的にしかとらえられていなかったことによる理解不足でした。そこで、イエス様が十字架に架けられて死んだ後になって旧約聖書が全体的に理解できるという、そんな出来事が起きたのです。イエス様の死からの復活がそれです。

3.

復活の主を目の前にした弟子たちは、旧約聖書で言われていた多くの謎めいたことが、このことだったのだ!と次々にわかるようになったのです。その中の一つに詩篇16篇10節の預言があります。使徒ペトロは後に聖霊降臨が起きた日に群衆の前で大演説をしますが、そこでこの聖句を引用しています。

「あなたはわたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」(使徒言行録2章27節、31節、このペトロの引用には旧約聖書と新約聖書の関係を考えるうえで重要なことがあります。「後注」でそのことについて解説しますので御覧下さい。)

ペトロは大説教の中で、イエス様がメシアなのはユダヤ民族の王国復興者を超えた方であることを説きます。そこでは沢山の旧約聖書の個所が引用されています。加えて新約聖書の「ヘブライ人への手紙」の著者は、詩篇2篇7節「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」がイエス様を神の子であると証しする聖句であるとしています。

そうすると次の疑問が起きます。それならば、なぜ神の子が天の御国からわざわざこの世に贈られて十字架に架けられて苦しみながら死ななければならなかったのか?その時、旧約聖書イザヤ書53章にその答えがあるとわかりました(使徒言行録8章29~35節参照)。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節)

実にイエス様の十字架の死というのは、ユダヤ民族であるかないかにかかわらず、人間全ての罪の償いを神に対して果たしたという、犠牲の死だったということが明らかになったのです。旧約聖書の創世記に記されているように、人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。ところが、それにもかかわらず人間は神に対して不従順になって内部に罪が入り込んでしまうという出来事が起きてしまいました。その結果、人間と造り主である神との結びつきが失われて、人間は死ぬ存在になってしまいました。それを神は悲しみ、なんとかして人間がこの世で生きる時は神との結びつきを持って生きられ、この世を去った後は自分のところに永遠に戻れるようにしようと考えました。しかし、人間の内に宿る罪がそれを妨げている。神はこの問題を解決するために自分のひとり子をこの世に贈られました。そして、彼に人間の罪を全部背負わせて罪の罰を全部受けさせました。これがゴルゴタの十字架で起こったことでした。そこで罪の償いは全部済んだと言える位に罰がイエス様に下し尽くされたのです。

人間はこの身代わりの犠牲を信じて洗礼を受けると、この身代わりの犠牲に免じて罪を赦された者になります。神のひとり子の犠牲の上に新しい命が始まるという神秘を知った人間は、それからは神の前にひれ伏す心を持って隣人にはへりくだって謙虚に生き始めます。神に対してだけでなく隣人に対してもへりくだるのは、イエス様が神のひとり子でありながら私たちの救いのために十字架の死に自分を引き渡すくらいにへりくだったからです。それを知った時、誰に対しても高ぶることは出来なくなります。

イエス様は、十字架の死に加えて死から復活されました。これにより死を超えた永遠の命の扉が開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、復活の日の永遠の命に至る道に置かれて、その道を日々、神に見守られて進んでいきます。これが神との結びつきを持って生きることです。

4.

創造主の神はこのようにひとり子を用いて人間の救いを実現しました。それが、今から約2000年前の現在のイスラエルの地で起きるという形をとったわけですが、ここで、そのような起き方は何を意味するのかということについて考えてみましょう。

神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。それはちょうどユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この書物のそもそもの趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験がありますから、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また無数の奇跡の業を行って、今の世が終わった後に出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教指導者層たちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったために、神のひとり子が全ての人間の罪を背負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ることができて、旧約聖書の謎が解けたのでした。

歴史の流れというのは、無数の人間同士の無数の関わり合いやぶつかり合いから生まれて進んでいきます。一見すると、そこには神が全てを手中に収めて全てを取り仕切って方向付けているようには見えません。全ては、愚かで限りある人間のなせる業の膨大な集積に見えます。しかし、神がどのようにして救いを実現したかを思い返すと、一方では、いろんな行為主体が自分の利害や観点に立って自由に行動したり発言したりするのに任せています。しかし、他方では、そうした行為主体の行動や発言があるおかげで、神の救いがイエス様の十字架という形をとって実現しました。神の計画について何も知らない行為主体たちは、自分たちはただ自分の利害や観点に基づいて自由に行動し発言していると思っていました。しかし、全てのことは実は、神の救いが実現していく舞台設定のようになっていくのです。そうなると、やはり神は全てを手中に収めて全てを見事に取り仕切っているとしか言いようがありません。神の計り知れない御計らいの前では、人間の自由とはなんとちっぽけなものでしょうか。神の計り知れない知恵の前で、人間の知恵はなんと取るにならないものでしょうか。

今コロナウイルスの感染拡大のために、まさに人間の自由や知恵の限界を思い知らされる状況があります。キリスト信仰者というのは、もともとそういう「思い知らされ」を持っています。それなので、今もし生活や健康に激変が生じても、イエス様を介して打ち立てられた神との結びつきは相も変わらず同じだ、何の変更もないとわかっています。非常時にあっても、神との結びつきを持って復活の日の御国入りに向かって進んでいることに何の変更もないとわかっています。これがキリスト信仰です。やがてウイルス感染が終息して、人間は何事もなかったかのようにまた自由を謳歌し知恵を誇ることになるでしょう。その時も浮かれず神の前にひれ伏しているのがキリスト信仰です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)

このペトロが引用した詩篇16篇10節は、ヘブライ語のテキストと少し違います。

כי לא-תעזב נפשי לשאול לא-תתן חסידך לראות שחת

この訳は「あなたは私の魂を陰府に打ち捨てず、あなたに忠実な者が墓を見ないようにして下さる」になります。新共同訳もこれと同じです。

そうすると、イエス様は墓に葬られたので、この聖句は彼の復活を言い当てたとは言えなくなってしまいます。ペトロはこの聖句を「あなたはわたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」であると言います(使徒言行録2章27節)。この訳なら、イエス様の復活を言い当てたと言えます。しかし、ヘブライ語の文章の「墓を見ないようにして下さる」を「聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」と言うのは離れすぎています。ペトロはイエス様の復活が預言の実現であると言いたいためにこじつけの訳をしたということなのでしょうか?

実はそうではないのです。まず、ヘブライ語のשחתは「墓」の他に、「死者の安置場所」ということで「陰府」の意味もあります。つまり、שאולの繰り返しを別の単語で言っていることになります。「墓を見ないようにして下さる」は「陰府を見ないようにして下さる」になります。そうは言っても、使徒信条で言われるようにイエス様は「陰府に下」ったのだから、やはりこの聖句は当てはまらないと言われるかもしれません。

しかし、話はここで終わりません。詩篇16篇10節の後半部分は前半部分と同じ内容のことを別の言葉で言い換えているのだと考えると、後半部分の「陰府を見ないようにして下さる」は実は前半部分の「陰府に打ち捨てず」と同じ意味内容のことを言っていることになります。

どうして、後半部分が前半部分と同じ意味内容を別の言葉で言い換えているなどと言えるのか?それは、旧約聖書のギリシャ語訳を見ればわかります。旧約聖書のギリシャ語訳は「70人訳」とも「セプトゥアギンタ」とも呼ばれますが、紀元前200年代くらいに出ました。ちょうどギリシャ文明のアレクサンダー帝国が地中海東岸地方を席巻してギリシャ語が地域の公用語になった時です。ギリシャ語版の旧約聖書の需要が高まったのです。

詩篇16篇10節のギリシャ語訳は、

ὅτι οὐκ ἐνκαταλείψεις τὴν ψυχήν μου εἰς ᾅδην, οὐδὲ δώσεις τὸν ὅσιόν σου ἰδεῖν διαφθοράν.

「あなたは私の魂を陰府に打ち捨てず、あなたの聖なる者が朽ち果てに遭遇しないようにして下さる。」

どうでしょう。ギリシャ語に訳した人たちは、ヘブライ語の後半部分「陰府を見ないようにして下さる」を文字通りに受け取らず、前半部分「陰府に打ち捨てず」と同じ内容を別の言葉で言い換えていると考えたことが、この訳からわかります(注意、上記のギリシャ語訳はネットのBible Hubから拾いました。オックスフォード版でもゲッテインゲン版でもないのですが、詩篇16篇10節に関しては問題ないと思います。)

使徒言行録のペトロの大説教に戻りますと、ペトロが引用した詩篇16篇10節は上記のギリシャ語訳旧約聖書と同じです(2章27節)。ただし、ペトロは大説教の時に何語で話していたのか、ギリシャ語だったのか、アラム語だったか?いろんな国から来た人たちを前に話したからギリシャ語だった可能性が高いです。さらにペトロは31節で聖句の引用ではなく、聖句を自分の言葉で言い表します。

οτι ουτε εγκατελειφθη εις αδην ουτε η σαρξ αυτου ειδεν διαφθοραν

「なぜなら彼(イエス・キリスト)は陰府に打ち捨てられず、彼の体は朽ち果てに遭遇しなかったからだ。」

ペトロが旧約聖書のギリシャ語訳に依拠していたことは明らかです。そしてギリシャ語訳は前述したようにヘブライ語の文章の意味を照準を絞った訳です。それなので、ペトロは預言が実現したと言いたいためにこじつけの訳をしたのではなく、旧約聖書の伝統の上に立って起きた出来事や目撃した出来事を判断したのです。

旧約聖書で書かれたことが照準を絞って理解され、それがユダヤ教社会の中で伝統化されて新約聖書に反映されるというのは無数にあります。有名な例はイザヤ書7章14節のインマヌエル預言です。男の子を身ごもるのは「処女」か「若い女性」か、アルマ―という単語は両方の意味があります。それがギリシャ語訳の時に「処女」パルテノスと絞られました。

旧約聖書も新約聖書も本当に途轍もない書物だと思います。それを説教で解き明かしをするというのは大変なことです。それでも、いつも信仰を確かめるような発見があり祝福があります

説教「復活の再会の希望は、死の別離の悲しみよりも深い」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネ11章1―45節、ローマ8章6―11節、エゼキエル37章1―14節

主日礼拝説教 2020年3月29日(四旬節第五主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の日課はヨハネ11章のイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡を行ったことについてです。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあり、例えば、シナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大抵は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神ということになります。

キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」というものがあるからです。

復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの日に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったものである、それが神に再び新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途轍もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

ここで注意しなければならないのは、イエス様が生き返らせた人たちは本当の意味での「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。イエス様が行った生き返らせの奇跡は、みんなまだ肉体がそのままなので「復活の体」ではありません。「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われてました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、みんな生き返らせてもらったけれども、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

ここで一つ脱線します。本日の個所で「4日経っている」とか「2日滞在された」と時間の経過が言われています。それが、本日の個所で難しい9節と10節の説きあかしに関係すると思いました。イエス様はどんな時間配分を考えて動かれたのか?まず、イエス様がおられた所とマリアとマルタがいた所はどれくらい離れていたか考えます。イエス様がおられてところはガリラヤ地方と考えられますが、どの町かわかりません。同地方でイエス様は本拠地にしていたカペルナウムとします。マリアとマルタがいたベタニアはエルサレムの近くとありますので、カペルナウムからエルサレムまでの距離をみてみます。グーグルマップで163キロと出ました。電車で3時間4分、車で2時間8分だそうです。徒歩だと35時間。イエス様は9節で、日中に歩くことが大事であることを言います。それが12時間分あるとも言います。そうすると、ガリラヤ地方からユダヤ地方まで歩いて3日かかったことになります。ラザロが死んで葬られてから4日経ったときに到着したので、イエス様は埋葬の翌日に出発したことになります。そうすると、ラザロの病気の知らせを聞いたのはその2日前となり、マリアとマルタの使いがベタニアを出発したのはその3日前となります。

大体、以上のような時間的地理的な状況が浮かび上がります。9節と10節でイエス様が日中歩くことを言って、埋葬後4日を超えないように出発を決めたということがわかります。9節と10節を見ると、そういう具体的な事柄に関してだけでなく、「この世の光」とか「人の内の光」という別次元の事柄も含まれています。イエス様はよく、具体的な事象に結びつけて霊的、信仰的なことを教えました。たとえの教えです。9節と10節もたとえの教えであることがわかります。そこで言われている霊的、信仰的な教えは何かということは、また別の機会に譲ることとします。

イエス様のこのラザロの生き返らせの奇跡についてわかりにくいことがあります。イエス様がこの奇跡を行ったそもそもの動機は何かよく見えてこないのではないでしょうか?4節で、ラザロの病気は死で終わらない、神の栄光が現れるため、イエス様が神の子としての栄光を現わすため、などと言います。15節では、「私は、ラザロが死んだとき彼のところにいなかったことを喜ぶ。そうしたのはお前たちのためだったのだ。つまりお前たちが信じるようになるためにそうしたのだ」と。42節でも、周りにいる人たちがイエス様のことを神に遣わされた者と信じるため、などと言います。他方で、イエス様はラザロが重病で死にそうだとの知らせを聞いた時、すぐ助けに行きませんでした。イエス様は無数の難病を癒す奇跡を行った方です。ラザロの病気も治せたでしょう。それなのに2日間もどこかで油を売って、まるで死ぬのを待っていたみたいです。人々がイエス様のことを神の子と信じられるようにするために、ラザロにちょっと死んでもらったということなのでしょうか?そんなのありかと思われるかもしれません。逆に、どうせ生き返らせてもらったんだから、よかったんじゃないかと言う人もいるかもしれません。イエス様はなんのためにこの奇跡をこのようなやり方で行ったのか?本説教では少し検証してみようと思います。

2.

ここではイエス様とマルタの対話がカギになると思われます。そこには驚くべきことがいろいろ言われているからです。そこで、対話の内容を注意深くみてみます。

イエス様がやって来たと聞いてマルタはマリアを家に残して会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?生き返らせの奇跡をするためにイエス様はわざと到着を遅らせてやって来たのです。果たして、「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言いました(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」で今すぐ再会できるのと比べると実感が沸きません。

そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。

「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、真の復活や永遠の命は私のところにあって他のところにはない、それゆえ真の復活や永遠の命を与えることが出来るのは私しかいないという意味です。

それではイエス様は誰に真の復活と永遠の命を与えるのでしょうか?次にその答えが来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる者は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりを失わず、復活の日に永遠の命そのものを手にすることが出来ます。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのはどういうことでしょうか?イエス様の何を信じることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そういうことが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。

イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにして聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

これに対するマルタの答えは驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず第一にマルタはイエス様がメシアであることを復活や永遠の命と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の軛から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。そのため、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと言わんばかりに背をむけてしまったのでした。しかし、メシアの本当の意味は特定の民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もされるようになっていました。そうした理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に埋もれがちでした。そのような中でも、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

もう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることをマルタが「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここの動詞は現在完了形πεπιστευκαなので、「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」

という意味です。今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとっても大事なことです。どういうことかと言うと、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えで、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の縁遠い話にしか聞こえません。

しかしながら、復活には、死が持つ引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとするものがあって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということを見据えます。その神の意思に反しようとするものが罪ということになります。人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれました。その意味でもイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからはイエス様の犠牲に免じて神から罪の赦しを頂くことになります。頂いた罪の赦しに人生を方向づけられて歩んでいくことになります。その時、目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵にしかすぎません。この世で罪の償いと赦しから離れずにしっかりとどまっていれば神との結びつきは保たれます。この結びつきを持って生きていけば、死は私たちの復活到達を妨害できません。

マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてはイエス様を救い主と信じる信仰にしっかり留まるこだけです。

ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

イエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎいこと、そして彼に復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせたので、それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎず、復活の日が来たら、タリタ クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

以上、ラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、イエス様は復活であり永遠の命であることを示したのでした。

3.

最後に、イエス様はこの目的のためにラザロを死なせて姉妹に悲しい思いをさせたことを何とも思わなかったのか?もちろん、これをすることで私たちが死を超えた強い希望を持てるようになったとわかるし、ラザロも生き返らせてもらったので文句なしと思われるかもしれません。でも、イエス様という方は目的遂行のためなら誰かを泣かせてもいいという方なのか?本日の個所をよく見ると、そういうことではなさそうです。

マルタとの対話が終わるとイエス様は今度はマリアを呼んできなさいと言います(28節)。マリアがやってきました。大勢の人たちも一緒にきました。イエス様の周りをマリアを中心に多くの人が取り巻いています。みんな泣いています。これに対してイエス様はどう反応されたでしょうか?新共同訳では「心に憤りを覚えて」とありますが、何を怒ってしまったのでしょうか?実は、ギリシャ語の原文ではこの部分は「心が動揺した」とか「心が揺り動かされた」とか「気が動転した」とか「感動した」などとも訳せるところです。実際、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書もそのような訳をしています。どこもイエス様が怒ってしまったとは訳していません。私もそっちの方がいいと思います。どうして「憤りを覚えた」などと訳したのか?おそらく、イエス様はこの時、人々が復活も彼の力も信じないことに呆れかえってしまったのだと受け取ったのかもしれません。でも、人々が悲しみに打ちひしがれて泣いている様子を見て、イエス様も泣いてしまうのです(35節)。これは、信じてくれないことに対する悔し涙なんかではないでしょう。本当に人々の悲しみを間近にして、心が動揺して共感して泣いたのです。ヘブライ4章15節の聖句と照らし合わせて見ても、そのように受け取るのがピッタリだと思います。

「この大祭司(イエス様のこと)はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

私たちに死を超えた復活と永遠の命を与えることが出来る途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「事実を曲げずに真実を守る者が受ける報い」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書9章1-41節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事ですが、実は多くのことを私たちに教えています。それがわかるようにこの個所を注意深く見ていきましょう。

イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰なのか、という質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰の観点では、人間は母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいます。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれてきたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けないで済んだことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく別の者、例えば親が犯した罪がそれなのか?

この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何か?本日の個所を読めば、ああ、それはイエス様がその人の目が見えるようにする奇跡の業を行ったことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?本日の個所は実は、そうではないことを教えています。本日のテキストのギリシャ語の原文を見ると「神の業」は複数形(τα εργα)です。なので、癒しの他にも「神の業」がいろいろあることを示唆しています。人間誰でも、病気や障害が治ることに関心が集中してしまい、それが「神の業」に値するものと思ってしまうでしょう。しかし、男の人にとって神の業とは、目が見えるようになるという癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。それを本日の説教で明らかにしていこうと思います。

2.男の人の事実と曲げず真実を守る態度

イエス様はどのようにして癒しの奇跡を行ったでしょうか?まず、地面に唾を吐いて土を混ぜて粘土状にしたものを男の人の目に塗りつけました。ちょっと汚い感じがしますが、イエス様は今度は、それを池で洗いなさいと命じます。男の人が言うとおりにすると、目が見えるようになりました。イエス様は既に無数の癒しの奇跡を行っています。そんな彼なら一声、「目よ、開け!」と言えば開いたはずです。なぜそんなまわりくどいやり方をしたのでしょうか?それは、その日はちょうど安息日で、ユダヤ教の戒律では仕事をすることが禁じられていた日でした。癒しを行うために粘土状のものを作ってそれを洗わせたことが仕事をしたことになって安息日を破ったことになるのかどうか、そういう議論が宗教エリートのファリサイ派の人たちの間で起こりました。これでイエス様はなぜ粘土状のものを作ったかがわかります。議論を引き起こすことで、この出来事を単に癒しの奇跡の出来事にとどめないで、もっと大きなことを引き出すためだったのです。その大きなことが神の現わす業だったのです。それを本説教で明らかにしていきます。

男の人が見えるようになったことは、周囲にセンセーションを沸き起こしました。どのようにして見えるようになったのかと聞かれて、イエスという名の男が粘土状のものを作って目に塗って、それを洗うように言った、それでその通りにしたら見えるようになったと説明しました。これを聞いた人たちは、これの出来事をどう考えたらいいのか、神の良い意志が働いたのか、それとも安息日を破ったことになるのか、宗教エリートの判断を仰ごうと男の人をファリサイ派のもとに連れて行きました。そこでも男の人はどのようにして目が見えるようになったのかと聞かれて、群衆に答えたのと同じことを話しました。

ファリサイ派の間で意見が分かれました。彼らの中には、イエスが罪びとならば神の力が働くはずはなく、こんな奇跡を起こせないはずだ、とイエス様が神から送られた方であることを信じられるという感じになった人もいました。しかし、大勢は、安息日を破った以上は神から送られたなどはありえない、という否定的な意見が支配的になったようです。イエス様のことをなんとしてでも神と何の関係もない、安息日を破った罪びとの烙印を押したい。しかし、目の見えない人の目を見えるようにするという奇跡を行ったのは、どう説明できるのか?神の力が働かないでそんなことは起こるはずがない。そこで、彼らにとって大事なポイントになったのは、そんな奇跡は本当はなかったのだ、あの男は見えるようになったと主張しているが実は見えなかったということはなかったのだ、それを確認すればよいということになりました。それで両親が呼び出されました。

「あの男はお前たちの息子で本当に生まれつき目が見えなかったのか?」「はい、その通りです。あれは私たちの息子で生まれつき目が見えませんでした。」ファリサイ派はがっくりきたでしょう。そうなれば次のことを聞くしかありません。「それならば、どのようにして目が見えるようになったのか?」両親はイエス様が奇跡の業を行ったことは知っていました。しかし、それを言ったら、宗教エリートたちは自分たちをシナゴーグつまりユダヤ教の会堂から追放してしまいます。そうならないために両親は、誰の力で見えるようになったか全然知らない、とウソをつきました。その点については息子に直接聞いて下さい、成人年齢に達しているので彼の発言は有効です、私たちが彼に代わって申し上げる筋のものではありません。両親はこのように自己保身に努め、息子のために弁護の証言をすることを拒否しました。

さて、ファリサイ派はなんとしてでも、イエス様が神の意思に反する罪びとであり、神由来の者なんかではない、ということを確定しなければなりません。そこでもう一度男の人を呼び出して尋問します。彼の両親は思ったことでしょう、息子よ、いい加減なことを言ってしまいなさい、そうすれば共同体から追い出されないで済むんだから、と。しかし、息子は両親とは異なる道を行きました。ファリサイ派が彼に聞きます。「神に栄光を帰せよ、我々はあの男が罪びとだとわかっている。」「罪びと」というのは、イエス様が神から送られた者ではありえないということです。「神に栄光を帰せよ」と言うのは、我々の見解に従え、それが神を名を汚さないことであり神に栄光を帰することだ、ということです。神を引き合いに出してそんなことを言うのは、もう脅迫です。それに対して男の人はどう応じたでしょうか?ここからが大事です。注意して見ていきましょう。

ファリサイ派はイエス様をなんとしてでも罪びとに仕立て上げたい。彼らに対して男の人は次のように応じました。自分はイエスが罪びとかどうか知らない。ただ、確実に知っていることがある、それは以前目が見えなかったのが今見えるようになったということだ。「イエスが罪びとかどうか知らない」というのは、イエス様を弁護していないみたいで頼りない答えに聞こえます。しかし、これは、男の人が癒されたのはイエス様を信じて癒されたのではなかったことによります。どういうことかと言うと、多くの人たちの場合は、まずイエス様が奇跡を起こせる方と信じて彼のもとに出かけて行ったり連れて行ってもらったりして癒してもらいました。みな癒しの後でイエス様を賛美したでしょう。ところが、この男の人の場合は、見も知らぬ男から湿った土を目に塗られて洗いに行けと言われて洗ったら見えるようになったのでした。一体この方は何者なのだ?最初頭に浮かんだのは「預言者」でした(17節)。しかし、それ以上のことはこの段階ではわかりません。この段階でわかっているのは、以前は目が見えなかったが今は見えるようになったという否定できない事実だけでした。ところが、イエス様についてわからなかったことがこの後で次第にわかるようになっていきます。どのようにしてそうなったのかを見てみましょう。

目が見えるようになったのはイエス様が行った奇跡のおかげだとファリサイ派は言われてしまいました。そうなるとまた同じ質問を繰り返す他ありません。「その男はお前に何をしたのだ?どのようにしてお前の目を開けたのか?」それに対して男の人は呆れかえってしまいました。真実を語っているのにそれを受け入れようとせず何か別のものに仕立てようとしていることを見て取りました。男の人は言い返します。「それについて私は最初の尋問の時にもうお話ししたではありませんか。なのに私の言ったことはあなたたちの左の耳から右に耳に素通りしてしまったようです。」男の人のテンションが少し上がります。「聞き入れなかったのに、なぜまた同じことを聞くのですか?あの方がどんな方法で目を開けられたのか、そんなに知りたがっているというのは、まさかあなたがたも彼の弟子になりたいんじゃないんですか?(後注1)。これには当然、ファリサイ派は激怒します。「お前がそいつの弟子だ!我々はモーセの弟子だ!」「神はモーセ律法を通して教えているのだ(後注2)。その律法を破るあの男は神と何の関係もない。我々の知らないところから来たのだ。」 

 ここでファリサイ派は自分たちの旧約聖書の理解には不足があることを暴露してしまいました。というのは、旧約聖書のイザヤ書を繙くと、神の僕と呼ばれる者が人間の目を開ける業を行うという預言があります(42章7節)。それに照らせば、目を開ける業は神のお墨付きの業であり、それを行うのは神由来の者であるのは明白です。それをファリサイ派は否定するのです。これに男の人が驚いてしまったことは次の言葉から見て取れます。「私の目を開けたというのに、その方が何に由来するのかわからないなどとは驚きです(ヨハネ9章30節)。」男の人はシナゴーグの共同体の一員だったので、その礼拝に出ていれば、イザヤ書の預言は聞いて知っていたはずです。見えない目を開ける業を行う者は神由来であるということが旧約聖書の預言から明らかである以上、イエス様のことをそうではないと言い張って、それを認めさせようとするファリサイ派にもうついていけません。激しい応酬の後で彼は見事、共同体から追放されてしまいます。最初、男の人はイエス様が罪びとかどうか知らないと言っていたのですが、ファリサイ派とのやり取りのおかげで、イエス様が神由来の方であるという理解に近づくことができました。

その後でイエス様が近づいてきました。男の人は今は目が見えているのでイエス様を目の前にしています。声は覚えていたでしょうから、男の人は心臓をどきどきさせていたでしょう。どんなやり取りがなされたでしょうか?イエス様は、男の人の目を開けてやったということには一切触れずに、少し唐突な質問をします。「お前は『人の子』を信じるか?」「人の子」とは、ダニエル書に出てくる、終末の時にこの世に現れる救世主を指します。唐突な質問でしたが、男の人は素直に聞き入れて自分の思いを述べます。「人の子」を信じられるためにはそれが具体的に誰なのか知りたい、と。イエス様は自分がそれであると証しします。男の人は目の前におられる方が自分の目を開けた方だと知っています。そして、旧約聖書には神が遣わす僕が人の目を開けるという預言があります。男の人はイエス様自身の証しを受け入れました。それを受け入れられたのは、もちろん目を開くという預言が自分自身に起きたことがあります。しかしもう一つ忘れてはならないのは、ファリサイ派とのやり取りを通して、事実を曲げず真実を守ろうとする心が強められたことです。

3.肉眼の目だけでなく霊的な目も開かれるということ

男の人の信仰告白の後で、イエス様は周りにいる人たちに聞こえる声で驚くべきことを言います。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが見えなかったのであれば罪はなかったのだが、お前たちは「見える」と言うので、罪がお前たちに留まっていることになるのだ、と。これはどういうことでしょうか?

この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それがわからないといけません。少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。ユダ王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたたため、神は預言者イザヤに罰を委ねます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、ということでした(イザヤ6章9~10節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚の器官を不調にするということではありません。そうではなくて、神のことが見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目、耳が塞がれてしまい、神が遠い存在になってしまうことを意味しました。

この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きました。「主よいつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(6章11節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々が連れ去られ、残った者も大木のように倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(11~13節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない耳が聞こえない状態になるのだ、と。逆に言えば、その切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生となります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?

まず、紀元前700年代にユダ王国の兄弟国イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残ったユダ王国はすんでのところで帝国の攻撃を退けますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、バビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となったペルシャ帝国の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書を見ると、祖国帰還を果たす民に対して神が遣わす僕がその目を開き耳を開くという預言が出るのです(イザヤ書42章7節、50章4~5節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。

ところが、イスラエルの民は帰還した後も他民族が支配するという状況が続きました。国内を見渡しても、神の意思に従った生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそうした状況があったことを表わしています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(63章17節)」祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。イザヤ書の真ん中へんでは、民の目と耳が開かれる預言が祖国帰還の実現と結びつけられて言われているように見えたのが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。そんな時、イエス様が登場しました。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!旧約聖書を繙いていた人たちは、目や耳を開ける預言はもちろん霊的な目と耳のことだとわかっていたでしょうが、ここまで具体的にやられて自分たちもそれを見てしまったら、これはもう受け入れるしかありません。イエス様の目や耳を開ける奇跡は後に起こる霊的な目と耳を開けることの前触れ的な業だったのです。

それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしました。イエス様は、人間が神の意思に反する罪を人間に代わって背負って、それをゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けられて死なれました。それは、人間が罪の重荷を背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。一度死なれたイエス様は今度は神の力で復活させられました。これにより死を超えた永遠の命があることが示されました。そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを得られて神の子とされます。そして、神との結びつきを持てて復活を目指してこの世を生きることになります。万が一この世から死ぬことになっても、復活の時に今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠にいることができるようになります。この世でその人は、十字架に架けられたイエス様と、彼が葬られた墓が空っぽになっていたことが肉眼ではない、別の目で見えているのです。その人は、聖書を繙く時、神が語りかけているのが別の耳に響くのです。このように霊的な目と耳はイエス様の十字架と復活によって開かれたのです。

そこでファリサイ派の問題点は何かと言うと、霊的な目を持っていないのにそれがあると思っていることでした。そうなると、イエス様によって目を開けてもらう必要がなくなってしまい、それでは罪の赦しも得られなくなってしまいます。逆に霊的な目を持っていないと認めることが出来れば、すぐイエス様に開けてもらう道が開けます。霊的な目を開けてもらえれば、罪の赦しの中で人生を歩めるようになります。ないのにそれを持っていると思っていることが問題だったのです。このことをイエス様とファリサイ派のやり取りは言っています。

4.おわりに - 三つのポイント

以上、生まれつき目の見えない男の人の癒しの出来事には本当に大事なポイントがいろいろあります。以下まとめとして三つのものをあげてみます。

まず、人が何か病気や障害を背負って生まれてきても、キリスト信仰はそれを何かの罰とかたたりとか見なさず、神の業が現れるためのものにしてしまうということ。その業とは癒しの奇跡の場合もあるが、それが唯一のものではない。イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで霊的な目と耳を持つこともある。それは癒しの奇跡に比べたらあまり意味がないことに見えるかもしれないが、実は復活の日に朽ちない体と永遠の命を与えられるという、まさに癒しの癒しに与れるのである。

次に、イエス様をまだ救い主と信じていない時でも、男の人の肉眼が開かれるような信じられないことが起きる。その後で男の人は出来事の意味をファリサイ派とのやり取りを通して深めていきました。そもそも神は私たち人間の造り主なのですから、全ての人間を導いて下さろうとしているのです。そのことに気づけるようにすることが大事です。

三つ目、男の人が事実を曲げずに真実を守る態度を貫いたことが何を意味するか?ヨハネ12章を見ると、最高法院の議員たちの中にもイエス様を信じる者が多かったが、ファリサイ派を恐れて信仰を公けに言い表さなかったとあります。どうしてかと言うと、神が与える名誉よりも人間が与える名誉の方を大事にしたからだ、と。キリスト信仰の観点では、神が与える名誉の方が価値あるので、事実を曲げたり真実を汚したりしてまで人間的な名誉や利害にしがみつく必要がなくなります。そもそも十戒の第8の掟は「偽証するな」です。加えて、キリスト信仰は罪の自覚を持つ信仰です。自分の不都合なことも神の前で包み隠さず認めることが基本なので、事実を曲げても無駄だとわかります。本日の旧約の日課でも言われているように、人間は外見を見るが神は心を見るのです(サムエル上16章7節)。事実や真実の下に自分を位置づけていると言っても過言ではありません。男の人は共同体を追放されてしまいましたが、事実を曲げて真実を汚す共同体なんかに留まっても不健康で救いがありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注1)新共同訳では27節は「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」ですが、このμηで始まる否定疑問文は否定の答えを導く疑問文です。「なりたくなかない!」という答えを期待する疑問文ですので、それで「まさかあなたがたも彼の弟子になりたいんじゃないんですか?」

がよいと思います。

(後注2)29節のΜωυσει λελαληκεν ο θεοςは直訳すれば「神がモーセに語られた」ですが、動詞は現在完了なので、神は過去の時点から現在までモーセに語っていることになります。現在も語っている状態があります。でも、モーセはこの世にいないのでそれは少し変です。これは、1)今モーセは復活の日を待たずにして天のみ神のもとにいて、そこで神が彼に語っているという、モーセが天にいることを言い表しているのか、それとも、2)「モーセ」というのは「モーセ律法」のことで、神が律法に語っている、つまり律法は神の声を今も反映しているということが考えられます。本説教では2)にしました。