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説教「イエス様の復活を信じる心」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書28章1-10節

聖書日課 エレミア31章1節-6節、コロサイ3章1節-4節、マタイ28章1-10節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の神の力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、意味は「過越し」です。つまり、旧約聖書の「過越し祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言うのです。興味深いです。英語や日本語では別々に分けて言います。

 復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。それは何をお祝いするのでしょうか?クリスマスは、イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いします。それでは復活祭は、惨い殺され方をしたイエス様が復活して良かった良かったと喜ぶお祝いでしょうか?実はそうではありません。復活祭はイエス様の復活自体がおめでたいことの全てではありません。イエス様が復活したことで私たちにとって良いことがあるのでおめでたいのです。イエス様の復活は私たちのために起こったということ、それを今年もこの復活祭礼拝の説教で、ただ少し角度を変えて明らかにしようと思います。

2.復活とはどんな現象か?

まず、復活とは何か、それはどんな現象なのかを理解できなければなりません。それをわからないまま復活の話をしたら聖書から離れて必ず行き詰ります。

 普通、死亡が確認された人が息を吹き返すと生き返ったとか蘇生したと言います。復活はそれとは全く異なる現象です。「復活」は、死んで遺体が火葬とか土葬に付されて肉体が腐敗して消滅した後に起こることです。「蘇生」の場合は、まだ肉体があります。例えば、イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行いましたが、生き返った人たちは後で寿命が来て最終的に亡くなって肉体は腐敗して消滅しています。それなので生き返りの奇跡は「復活」ではありません。

 「復活」について、旧約聖書の中にそれを示唆する預言がいろいろあります。はっきり出てくるのはダニエル書12章です。今のこの世が終わって新しい世が誕生する時に起こるとされ、復活する者は腐敗消滅した肉の体に代わって輝く体が与えられることが言われています。新約聖書では、もっと詳しく具体的に述べられていて、特に黙示録、第一コリント、第一テサロニケに詳しく述べられています。「復活」は聖書の世界観の重要な要素です。聖書の世界観は、今あるこの世は天地創造の神が造られたものだ、造られて始まったのだから終わりもあるという見方です。それで今ある天と地はいずれ終わって新しい天と地が創造される、その時、今私たちの見えないところ手の届かないところにある「神の国」が新しい天と地のもとに唯一の国として現れるという見方です。その時、誰が「神の国」に迎え入れられるかを決める「最後の審判」が起こる。これが聖書の世界観です。

 その中で、今あるこの世が終わって新しい世に取って代わられる時、死の眠りについていた者たちが再臨の主イエス・キリストに起こされ、消滅した肉体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられる、これが「復活」です。

 ここで、あれっ、復活は消滅した肉体に代わる復活の体を着せられることだったら、イエス様はまだ肉の体があったではないか、もちろん満身創痍の痛ましい状態ではあったが、それでも体は一応あるのだから復活ではなく蘇生ではないか、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、復活後のイエス様の体はもう普通の肉の体ではなかったことが聖書に記されています。信じられないような空間移動がありました。鍵をかけた家の中に急に入って来て、パニック状態になった弟子たちに、幽霊ではないぞ、と言って、手足を見せます。ちゃんと触れることが出来ました。しかし、むやみに触れてはいけないこともマグダラのマリアに言いました。復活の体は神聖なので、本当は直ぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない体だからです。それでもイエス様は、弟子たちを初め大勢の人に復活が真実であることを示し、また旧約聖書の不明部分をわからせるために結局40日間この地上に留まることになりました。

 「復活」は、キリスト教が他の宗教と大きく異なる点の一つです。他の宗教ですと、死後の世界を想定する時、それはこの世の世界と同時併行してあります。それで、亡くなった人は今どこか高いところにいて私たちを見守ってくれている、などと言います。ところがキリスト教では、今の世が終わって消滅して新しい世が出来る時に復活が起こるという流れになります。復活を遂げた者は下を見下ろしても旧い世はもう存在しないのです。もちろん神の国自体は、今この現在も私たちの手の届かないところ次元の異なるところにあります。ただ、そこに迎え入れられるのは復活の日になってからと言うのです。そうすると、亡くなった人はその日までどこでどうしているのかと聞かれるのですが、それはもう、神のみぞ知る場所にいて静かに眠っているとしか言えません。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を業を行った時、この者は眠っている、と言って生き返らせました。それは、イエス様を救い主と信じる者にとって死は復活の日までの眠りにしかすぎず、彼こそが眠りから目覚めさせる力があることを示すために行ったのでした。

 そうすると、じゃ、今、神の国は神以外は誰もいない空席状態なのかと聞かれてしまうのですが、そういう訳でもなく、聖書は復活の日を待たずして神のもとに迎え入れられた人がいることも認めています。いわゆる聖人です。カトリックでは聖人も崇拝の対象になりますが、ルター派は崇拝の対象はあくまで三位一体の神です。

3.なぜ神は復活を起こすのか?

以上、復活がどういう現象かについてお教えしました。次に、なぜ天地創造の神は復活を起こすのかについて見てみます。この「なぜ」に答えられるためには、なぜイエス様は十字架にかけられて死ななければならなかったのかがわからないといけません。

 イエス様の十字架の死は、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たしたという身代わりの死です。人間の罪などと言うと、キリスト教はすぐ罪、罪と言って犯罪者扱いするから嫌だ、という人もいます。しかしながら、聖書で言われる罪とは、神の意思に反しようとする人間の性向のことです。それは、創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から人間全てに備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。造り主の神との結びつきが切れてしまったらそうなるしかないのです。そこで神としては、人間をこの罪の支配から解放して結びつきを回復してあげよう、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去る時も結びつきの中で去ることができるようにしてあげよう、そして復活の日になったら眠りから目覚めさせて自分のもとに永遠に迎え入れてあげよう、そうすることを決めてひとり子をこの世に贈られたのでした。

 この神のひとり子のイエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになりました。そのようにして私たちの罪の償いが神に対して果たされたのです。それからは悪魔が罪を引き合いにだして人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎてうまくできません。はっきり言って悪魔の狙いは破綻してしまったのです。加えて、神が想像を絶する力でイエス様を死から復活させて、死を超えた復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。

 そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。自分が償ったのではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う先が天地創造の神であれば人間には償いなど無理です。しかも償いをした方がその神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもの軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

 罪を赦されたから神との結びつきが回復します。この結びつきは人間の方から手放さない限り、神の方でしっかり掴まっていて下さいます。順境だろうが逆境だろうが神との結びつきはいつも変わらずあります。いつも神の守りと導きの内にこの世を進んでいきます。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられます。この世と次に来る世の二つの世を生きられる人生です。罪と死の支配から解放された人生です。

 罪と死の支配から人間を解放する神の救いの計画がイエス様の十字架と復活の業をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちも将来イエス様と同じように復活させられることがはっきりしました。それで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活も可能になったことを喜び祝う日です。さらに自分自身が復活させられるという希望に加えて、復活の日にはやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた。それで復活祭は私たちにとっておめでたい日なのです。

4.復活を信じる心

以上、神はなぜイエス様の復活を起こしたのかを見てみました。これで復活の現象とその意味について知識が増えたことと思います。キリスト教はそういうふうに考えるのだなと理解が深まったでしょう。それでは、知識が身につき理解が深まったところで、復活を信じることが出来るでしょうか?イエス様の復活は歴史上、本当に起こった、それで彼を救い主と信じる者は将来本当に復活する、と信じることができるでしょうか?

 近年では、聖書に記されている不思議な出来事はキリスト教徒の間でもあまり本気で信じられなくなってきたのではないかと思います。処女が赤ちゃんを産むだとか、一度死んだ人間が全く有り様の異なる体をもって人前に現れるだとか、そんな理性と常識ではあり得ないことは、みんな古代世界の人間のファンタジーのせいにしてしまうか、あるいは言葉や表現の技法のように考えて言葉通りに受け取る必要はないと考えるようになってきているのではないかと思います。ただ、そのように考える人も、全部うそだ、作り話だと言ってしまったら、キリスト教をひっくり返すことになり元も子もなくなってしまうとわかります。それで、そういう理性や常識であり得ないことは実体的な現象とは考えず、何か人間の心の中で思い描かれたもの、心理的な現象として捉えればよい、現代のキリスト教の使命は社会変革の先頭に立つことだから、その使命を果たしてさえいれば聖書の不思議な出来事を本気で信じなくても大丈夫、矛盾しない、そういう風潮ではないかと思います。どうでしょうか?少し言いすぎでしょうか?

 そこで、イエス様の復活は本当に単なる作り話のファンタジーなのか、少し考えてみましょう。

 イエス様の復活の出来事は4つの福音書に記されています。4つ全てに共通しているのは、週の最初の日の早朝に女性たちが墓に行ってみると墓の前の石はどけられて中に遺体がなかったことです。それと天使の出現があり、空の墓と天使の目撃の後に復活されたイエス様と出会うことがあります。4つともそういう共通点がありますが、他方で、詳しく見るといろいろ違いもあります。マタイでは墓を塞いでいた石を天使がどけたことが記されています。それが起きたのは女性たちが到着する前か後か微妙なところです。他の3つは石がどけられた後に到着しています。天使がどけたということはありません。墓に行った女性も、マタイではマグダラのマリアと別のマリアの二人の名が挙がっています。マルコでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが遺体に塗る香油を購入したとあります。ルカでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとヨハンナと他にもいたとあります。ヨハネではマグダラのマリアの名前だけがあがっています。それから、現れた天使の数がマタイとルカは二人、マルコとヨハネは一人です。

 さて、これらの違いをどう考えたら良いでしょうか?こんなにバラバラだったら、それぞれが勝手に作った話だということになるでしょうか?実は逆なのです。この問題についてスウェーデンの1960年代、70年代に活躍したボー・イェ―レツという神学者が次のように言っていました。イエス様の復活を犯罪事件の裁判と比較したらいい。事件の目撃者が4人いるとする。4人の証言が細部にわたってみんな一致していたら、裁判官は普通、これは不自然だ、4人は前もって打ち合わせて話をすり合わせたのではないかと疑うだろう。逆に細部は一致せずバラバラでも、肝心なところで一致していたら、証言の信ぴょう性は高まると裁判官は考えるだろうと。

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、ローマ帝国軍によるエルサレム破壊の年、西暦70年の後になって書かれたというのが学会の定説です。もしそうならば、イエス様の十字架と復活の出来事から40年以上も経ってまとめられたことになります。人間の人生の2世代か3世代後のことになります。その間、4つの福音書のもとにある証言や資料は最終的に福音書にまとめられるまでに証言や資料が伝播していく過程を辿ります。40年以上の過程にはいろんな場があって、それぞれ伝道の状況、信仰の状況があります。そういう過程を経る中でこの証言はここの部分をもっと強調してもいいとか、逆にここを省いてもいいということが起きてきます。

 犯罪事件の4人の目撃者が、それぞれどんな性格の持ち主か、犯罪を許さないという強い気持ちを持つ人か、自分は巻き込まれたくないと恐れる人か、大人か子供か、男性か女性か、事件当時何をしていたか、そうしたいろんな要因があるために同じ事件に遭遇しても受け止め方や反応が違って、目撃したことの描写も異なってくるということが起こります。しかし、目撃した事件そのものは同じです。イエス様の復活も同じです。しかも復活の目撃の証言は、40年以上の間に変わる部分も出てくるが、40年以上経っても変わらない大元があることをはっきりと示しているのです。

 事件の複数の目撃者の証言が細部で異なった方が信ぴょう性が高まるということを言うのは神学者だけではありません。ダニエル・カーネマンという2002年にノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者がおりますが、彼の最近の著書「Noise – A flaw in human judgement(ノイズ-人間の判断の欠陥)」の中でも同じことが言われていました。もちろんカーネマンは復活のことについてではなく一般的なこととして言っているのですが、なぜか、例として目撃者の数を4人にしているのが興味深かったです。それを読んだ時すぐイェ―レツのことを思い出しました。

 さて、イエス様の復活の出来事は信ぴょう性が高いということになりました。それでは、じゃ、イエスの復活を信じるぞということになるでしょうか?それでも足りない、100%確かでなければ信じないと言う人がほとんどでしょう。それはタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行って墓の前で見張らない限り無理です。これからもおわかりのように、キリスト教の信仰には負荷が大きくあります。他の宗教だったら、昔、教祖がこう言った、こういうことをしたと書いてある、そう言えば、大方はそれが歴史的に事実かどうか気にせずに、ありがたや、と言って信じると思います。キリスト教では4つの証言があってもまだ足りないと言うのです。今では4つあってもダメになってしまいました。

 そこで信仰についてひと言。信仰とは、出来事が100%真実だとわかったので信じると言うものではありません。その場合は、もう信じるも何も、目で見た通りですとしか言いようがありません。それは信じることではありません。信じるとは、理性や理解力で捉えられないことが目の前に横たわっていたら、それを踏み越えて向こう側に行くこと、これが信じることと言ってよいと思います。最初は踏み越えることなど無理だと感じるかもしれませんが、創造主の神がひとり子を用いてとてつもないことをして下さったことを思い起こすと、神を信頼して大丈夫という気持ちになり、踏み越えることが出来ます。そこで、向こう側に行くというのはどんなことか、それが本日の使徒書の日課コロサイ3章によく記されているので、最後にそれについて述べておきます。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれるて現れるでしょう。」

まだこの世で生きているのに「復活させられた」と言うのはパウロらしい言い方です。彼は「ローマの信徒への手紙」6章の中で洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪がその人に対して支配者でなくなってしまい無関係になってしまう、それでその人は罪に対して死んだことになり、それからは生きることは神に対して生きることになると言います。その時、復活の体と永遠の命と目には見えない繋がりが出来ていることになり、将来の復活の日に目に見える形で手にしていることになります。それで「あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている」というのです。

この「命」は地上の命ではなく永遠の命です。目には見えないが繋がりができているものです。見えない状態なので「隠されている」のです。「隠す」と言うと何か困らせる意図があるみたいなので「秘められている」と言った方がいいと思います。復活の体も永遠の命も性質上、この世では秘められたものになってしまいます。キリストも天の父なるみ神の右に座しているから地上にいる私たちからすれば秘められています。それが、イエス様の再臨の日がくると、イエス様は秘められた状態から現れた状態になり、同時に私たちの永遠の命も秘められた状態から現れた状態になります(後注!)。その時は神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので、それで「キリストと共に栄光に包まれて輝く」のです。

今この世の中を歩む者にとって、永遠の命もキリストも秘められた状態にあるが、それはいつか現れると確信して、今は見えない状態で別に構わない、なぜならかの日に現れるからという心でこの世を歩むこと。これが上にあるものを求めること、上にあるものを心に留めることです。このような心で歩んでいる時、理性や理解力で捉えられないものを踏み越えています。ところが、イエス様の復活を本当に起こったことではなく、心の中の描写だとか心理的現象と見なす人はこの踏み越えはできません。その人は、全てのことを理性や理解力で捉えようとするので、捉えられないものに出くわすと、心の中の描写だとか心理的現象と言って踏み越える必要がないようにしてしまうからです。そこには信仰はありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

(後注!)新共同訳の「あなたがたの命であるキリストが現れるとき」は正しい訳ではないと思います。正確には「キリストが現れるとき、あなたがたの命も現れます」と思います。なぜなら、前の文で、「あなたがたの命」と「キリスト」の二つが隠されている/秘められていると言っているので、ここではその二つが現れることを言っていると解する方が自然だからです。ギリシャ語原文に省略があると考えればよいわけです

 

説教「イエス様の十字架とキリスト信仰者の心」吉村博明 宣教師、ヨハネ18章1節~19章42節

主日礼拝説教 2023年4月7日 聖金曜日

聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ10章16~25節、ヨハネ18章1節~19章42節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。

 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景でした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

2.イザヤ書の預言の実現

イエス様が受けた激痛は肉体的なものだけではありませんでした。霊的な激痛も一緒でした。イエス様が受けた霊的な激痛について、先ほど朗読したイザヤ書が明らかにしています。その個所は、イエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とあります。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は人を傷つけたり欺くようなことは行ってはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とても潔白ではいられないのです。近年はますます潔白ではいられなくなっていると思います。そのために、そんな自分の都合悪いことを言う神など胡散臭いと、ますます遠ざけられていきます。

 そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの状態と奴隷の状態から自由にしてあげようと手立てを考えました。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰をひとり子に身代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。この神のひとり子が受けた罰の苦しみに思いを馳せることが出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。思うことが出来なければ心は変わらず奴隷のままです。

 イエス様自身、十字架にかけられる前、自分がこれから受ける苦しみは肉体的な苦しみを越えたもっと大きな苦しみがあるとわかっていました。マタイ、マルコ、ルカ福音書にゲッセマネというところでのイエス様の祈りが記されています。最初、父なる神よ、出来ることならこれから起こることになる苦しみの杯を飲まないですむようにして下さい、と祈ります。神のひとり子ともあろうお方が恐れるくらいの苦しみが待ち受けていたのです。何しろ人間の全ての罪の神罰を受けるのだから当然です。しかし、最後にイエス様は、父なる神よ、自分の願いではなく、あなたの御心が行われますように、と祈ります。先ほど読みましたヨハネ福音書の個所でも、弟子たちがイエス様の逮捕を阻止しようとした時、イエス様は、父なる神が与えた杯だ、飲まないわけにはいかないのだ、と言ってやめさせます。

 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪を持ってしまっているために神との結びつきがない状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。

 あとは人間の方が、このことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だ、と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まります。こうして人間は、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。

3.キリスト信仰者の心

神のひとり子に罪を償ってもらって神から罪を赦された者と見なされる者はどのような心になるについて、先ほど朗読した「ヘブライ人への手紙」10章の中が明らかにしています。

 17節 神は「人間の罪や背きを思い出すことをしない」と言われます。これはエレミヤ31章34節にある神のみ言葉ですが、この神の決意はイエス様の十字架の業で実際のものになりました。

 18節 「罪の赦しのあるところには、罪を償うための捧げものもない」と言われます。神がひとり子を犠牲に供して罪の赦しが起こったのだから、もう人間の方で罪の赦しの為に何か別の犠牲を捧げたり、罪の赦しが得られるように何か自分で規定を作ってそれに従って業を行うことは一切無意味になった、そんなことをしたら神のひとり子の犠牲を無駄にすることになるのです。

 イエス様の犠牲の上に罪の赦しを得た者はどうすればよいのか?19~25節は、この神の側からの罪の赦しに全てをかける者はこういう心になるのだ、ということが言われます。どんな心でしょうか?

 19節から21節では次のことが言われます。イエス様が私たちのために犠牲となって十字架で血を流されました。洗礼を受けるとイエス様の血と結びつくことになります。その血と結びついていれば、神聖な神のみ前に立たされても大丈夫、神罰を受けることはないから大丈夫だという勇気を持って神のみ前に立つことが出来ます。そのような勇気のある者になれるのです。

 かつてエルサレムの神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れませんでした。何しろ見えない神の前に立つ場所だったからです。しかし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。動物の生贄の血を振りかけて罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今ではイエス様の犠牲の血で罪の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかっていました。マタイ27章51節に記されているように、イエス様が十字架にかけられて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂けたのです。かつて大祭司は動物の血をかけられて垂れ幕をくぐり抜けて神のみ前に行くことを許されました。今、イエス様の血で汚れを落とされた者は、イエス様の犠牲の体をくぐり抜けるようにして神のみ前に立つことができるのです。

 人間にとってイエス様は真の大祭司であることが明らかになりました。神殿があった時の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、それでも大祭司自身、儀式で自分を清めなければならないレベルの低い仲介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方です。その彼が自分自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち立てたのです。これぞ真の大祭司、完璧な仲介者です。

 このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神から仕打ちを受けてしまう、神に見捨てられてしまう、というような苦しい思いから解放されています。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落とされています。それなので、イエス様は間違いなく私の救い主なんだと信じる信仰に生きれば、もう私にはやましいところはありません、私は潔白です、と言えるくらいの怖気づかない心を持つことが出来ます。その心があれば、この世を前にして堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に堂々と立つことができます。

 23節 このようにキリスト信仰者には神のみ前に立たされても大丈夫という揺るがない希望があります。それを心にとめておきましょう。これらのことを約束した方は約束に忠実な方であることも忘れないようにしましょう。

 24節 キリスト信仰者はこのような怖気づかない心、やましいところはありませんと言える心を持っているのだから、あとはお互いのことを考えて、愛と善い行いをすることを考えればもうそれで十分なのです。

 25節 キリスト信仰者にとって礼拝を大切にし守ることは大事です。なぜなら、イエス様が大祭司であること、それで私たちには怖気づかない心があり、やましいところはありませんと言える心があることを確認できるのが礼拝だからです。人によっては礼拝を大した意味のないと考えて、別に出席しなくてもいいや、他に何も都合がなくて気が向いたら行けばいいやと考える人もいるようですが、礼拝を離れてイエス様が大祭司であることや私たちの怖気づかない心をどうやって確認できるのでしょうか?キリスト信仰者がキリスト信仰者である所以は、イエス様の再臨がいつか来ると、ひょっとしたら自分が生きている間にあるかもしれないという主の再臨を待つ心です。そのような心がある信仰者は、イエス様が大祭司であること、怖気づかない心を確認し強めることは当たり前で自然なことになっています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

宣教師のコラム フィンランド・イースター・ノスタルジー

イースター、CC0

フィンランドでは、イースター/復活祭はクリスマスに並ぶ教会の大きなお祝いの時です。前週の「枝の主日」から受難週に入り、金曜日から復活祭翌日の月曜日までの4日間は国の祝日となります。木曜日はまだ平日なので聖木曜日の礼拝は夕方にあります。イエス様が十字架にかけられる前夜の晩餐を記念して聖餐式が行われます。礼拝が終わるや否や、聖卓の上にあるものは花瓶も蝋燭立ても全て片付けられて、黒い布が敷かれます。その上にイエス様の受けた傷を象徴する赤いバラの花が5本置かれます。

聖金曜日の礼拝は、黒い布をかけられた聖卓を前にして、讃美歌斉唱もオルガンの伴奏なしという暗い沈んだ雰囲気の中で守られます。礼拝後は会衆は交わりの時を持たずに直ぐ帰宅、教会は静まり返ります。

復活祭は盛大に祝われます。深夜に礼拝を行う教会と行わない教会がありますが、どちらの場合も朝の聖餐式礼拝を行います。聖歌隊も出て、私たちの救い主イエス・キリストの復活を喜び祝います。礼拝後は家庭でお祝いします。クリスマスと同じ連休なので実家に帰って親族と会う機会になります。皆で一緒に食事をして、マンミやパシャというイースターのデザートを楽しみます。翌日月曜日も礼拝がありますが、流石に出席者は少いです。

あと、キリスト信仰とは関係ないのですが、この季節に子供たちが魔女の格好をして、家々を回ってネコヤナギの蕾がついた枝を渡して、お菓子をもらう風習があります。私たちが住んでいたトゥルクのある南西地方では「枝の主日」の午後、パイヴィの実家のある南ボスニア地方では聖土曜日に行われ、地方によって日が違います。その日は町角や住宅地のあちこちで箒と小枝を持った小さな魔女のグループに出くわします。私たちはイースター連休はいつも実家に帰省したので、ウチの子供たちはこの「お菓子ねだり」を毎年2回していたことになります。あまりにも信仰に関係ないので、訪問先で復活テーマの子供讃美歌を歌いなさいと言ったことがあります。そうしたら、夫に先立たれたばかりのご婦人が涙を流して喜んでくれたそうです。

手芸クラブの報告(2023年3月29日)

今月の手芸クラブは桜が満開の時期の中での開催でした。朝はまだ少し肌寒い感じでしたが昼間は太陽が輝いて暖かい春の陽気でした。

前回に続いて今回もマクラメのコースターを作ります。

初めにコースターのモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回の作品は太目や細目の糸のどちらでも作ることが出来ます。参加者はモデルに合わせて糸を選び必要な糸の長さを測ります。各自マクラメを結ぶ場所を準備して結び始めます。今回も二つの基本の結び方を用いました。初めは巻き結びで一段を結びます。次は平結びでコースターのメインの結びです。参加者の皆さんは結びに集中しつつも、おしゃべりや笑い声も聞こえ楽しい雰囲気の中で作業ができました。完成された方やまだ途中の方もおられましたが、皆さんのコースターはレースのようなきれいな模様が現れていました。コースターのフリンジはお家に帰って仕上げることにしました。

作業を終えてコーヒータイムに入りました。今回は先週のチャーチカフェでも出されたバタープッラも一緒です!皆さん、温かいプッラを美味しく頂きました。今回はフィンランドから海外ミッションのボランティアとして日本に来たロサさんも一緒だったので、歓談は賑やかになりました。終わりにロサさんの「信仰の証」を皆で聞きました。ロサさんはこの日が帰国の日で、夕方ヨシムラ宣教師の家族が成田空港まで見送りに行きました。

次回の手芸クラブは4月26日に予定しています。日程が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。

 

手芸クラブのお話 2023年3月   ロサ・グレネ

皆さまこんにちは。今日の手芸クラブの終わりに聖書に関係している小さなお話をしたく思います。私はまだ日本語が話せないので、パイヴィさんに通訳をお願いしました。私はスオミ教会の礼拝、料理クラブやフィンランド語クラスに参加して、もう何人もの方と知り合いになりました。この教会に通われている方々はみんなとても素敵な方たちで、お会いできてとても嬉しく思います。将来また皆さんとお会い出来たら嬉しいです。今日は初めてお会いする方もいらっしゃるので、少し自己紹介をします。私は24歳でフィンランドからミッションのボランティアとして日本に来ました。私は日本での伝道に関心があり、ミッションの働きを知ることができればと思って来たのですが、もう今日の夕方フィンランドに帰ります。フィンランドのクリスチャンは将来に関係していることについて話す時によく言う言葉があります。それは、「もし神さまの御心であれば」という言葉です。それで私も、天の神さまの御心であれば、またいつか日本に戻ることができると信じます。

今日はマクラメのテクニックを使ってコースターを作りました。マクラメは手芸のテクニックの一つで、いろんな結びを使って装飾的な模様が出来ます。マクラメの作品はフィンランドでは人気がありますが、多くの人たちはマクラメのテクニックはどこから来たのか知りません。マクラメの歴史はとても古いです。何千年も前のバビロンとアッシュリアの遺跡から見つかった石の板にマクラメの結びの絵が描かれていました。マクラメのテクニックの発明者は一人ではなくて、様々な国の人たちが何世代にもわたって、マクラメの模様をいろいろな材料や使い方のために作っていったのです。マクラメの結びは粗い糸を使っても実用的で素敵なものができます。パイヴィさんが私に手芸クラブのお話をお願いした時、私はすぐ話のテーマが分かりました。

3週間前、私は日本に来るとき飛行機に13時間半も乗っていました。とても緊張しました。一人で世界の向こう側に旅行をするのは私にとって初めてだったからです。飛行機の中でいろいろ考えるようになりました。どんなことから始めたらいいのか?日本語が出来ないので、東京での生活は大丈夫だろうか?考えるととても疲れましたが、なかなか寝ることは出来ませんでした。

夜、飛行機が飛んでいる時に乱気流がありました。中国の上空で飛行機はとても揺れるようになりました。私の隣に座っているドイツ人の女性は手を合わせてお祈りをしました。その時、私も勇気を出してカバンの中から聖書を取り出して飛行機の中で読み始めました。その時、開いたページには次のように書いてありました。「恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」イザヤ書43章1~3節です。

30分後に飛行機の揺れはおさまり、私は浅い眠りに落ちました。その後また乱気流が始まりずっと続きましたが、この時は私はもう落ち着いていました。私は神さまを信頼しているので、もし神さまの御心ならば悪いことは何も起きないと信じることが出来ました。だれでも恐れることはありますが、私たちクリスチャンは神さまが助けて下さることを信じています。親が子どもを助けてくれるように、神さまは私たちをいつも助けてくださいます。

先ほど読んだ聖書の箇所で言われているように、神さまは私たちをまとめて一緒にではなく、一人一人に個人的に語りかけて下さいます。神さまは「 私はあなたの名を呼ぶ」と言われます。神さまは私たち一人一人を名前で呼ばれるのです。親は子どもを呼ぶ時、もちろん名前で読びます。呼ぶ理由がいろいろあります。子どもがご飯を食べに来るようにとか、学校に行くようにとかですが、子どもを呼ぶ最も大事な理由は、親は子どもを愛しているからです。

天の神さまは親と同じように私たち一人一人を愛して名前で呼んで下さいます。どうしてでしょうか?それは、私たち人間が造り主である神さまをもっと知って信じるようになるために、そのために一人一人を名前で呼ばれるのです。それは、私たちが百点満点を取る学生だからではなく、また完璧に仕事をこなす者でもなく、素敵なマクラメの装飾品を作れるからではありません。それは、天の神さまが私たちを愛してくださるからです。

この話を通して皆さんも天の神さまとご自分の関係を考えてみたら良いと思います。神さまは皆さんのことも一人一人名前で呼んで下さいます。皆さんはそのことを信じることができるでしょうか?皆さんは今日手芸クラブに参加したのは偶然でしょうか?それとも神さまの道びきでしょうか?これらの質問を皆さんお一人お一人心の中で考えてみてください。私は皆さんとこれからずっと会うことが出来ないかもしれませんが、フィンランドに帰ったら皆さんのことをお祈りするときに覚えたく思います。

説教「私たちの王は義なる方、勝利者、へりくだった方」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章1-11節

聖書日課 イザヤ書50章4-9a節、フィリピ2章5-11節、マタイ21章1-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。

 受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、意味は「救って下さい」と神にお願いするものでした。同時に、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語で言えば、さしずめ「王様、万歳」ということでしょう。そのホーシーアンナ―が、当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。

 ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書のもともとの言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の出来事があって異国での捕虜生活の間にアラム語化していきます。イスラエルの地に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝ではヘブライ語の聖書が朗読されましたが、それをアラム語で解説していました。イエス様を迎えた群衆がヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。この出来事は最初アラム語で言い伝えられました。後にギリシャ語でマタイ福音書が書かれた時、マタイは群衆の歓呼の声ホーシャーナーを「王様、万歳」とギリシャ語に翻訳せず、アラム語の音声をそのままギリシャ文字に置き換えてホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を開くと当時の群衆の生の声が響いてくるのです。「王様、万歳」と訳したら意味は分かりますが、声は聞こえてきません。マタイは現場の生々しい雰囲気を後世に伝えたかったのでしょう。

 そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様をユダヤ民族の王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城がある自分の町に入る時は、大勢の家来や兵士を従えて白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。ちぐはぐな感じがします。どうしてロバなんかに乗って来るのでしょうか?

 さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰も乗ったことのないものを、と言います。まだ誰も乗っていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行動を神聖なものと示すのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳と歓呼で迎えられつつも、ロバに乗って、これは神聖な行動であると、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何なのでしょうか?

2.私たちの王は義なる方、勝利者、へりくだった方

このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真剣で人類の運命に関わる重大な神聖な出来事でした。イエス様のこの行動は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」に注意します。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。マタイはこれを引用した時、なぜか「柔和な者」としか書きませんでした。ヘブライ語原文で「義なる者、勝利者、へりくだった者」と言っているのになぜ「柔和な者」だけになってしまうのか?こういう時は、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳を見てみます。マタイは福音書をギリシャ語で書いたので旧約聖書もギリシャ語版で見たのかもしれない。ところが、ギリシャ語訳は「義なる者、救う者、柔和な者」です。「柔和な者」が出てきます。「義なる者と救う者」もあります。どうしてマタイはギリシャ語版の「柔和な者」だけを採用してあとのものを省いたのでしょうか?マタイ11章29節を見ると、イエス様が、労苦する者、重荷を背負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私は「柔和で心からへりくだった者」なので、わたしの軛を負い、私から学びなさい、そうすれば、あなた方は魂に休養を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休養を得られるカギはイエス様の柔和さとへりくだりにあると考えて、それで「柔和な方」に全てを集約してしまったのではないかと思われます。果たしてこの説明が正しいかどうかはわかりませんが、本説教ではイエス様が王であると言う時、ヘブライ語原文通りの「義なる者、勝利者、へりくだった者」ということで見ていきます。

 最初に「義なる者」について。「義なる者」とは、神に義と認められた者、神聖な神に相応しい者です。イエス様は神のひとり子で罪を持たない神聖な方なので間違いなく義なる者です。加えて、イエス様は神の意思に反する罪を持ってしまっている私たち人間を罪の支配から解放して、私たちも義なる者となれるようにして下さいました。十字架と復活の業を果たすことで、それを可能にしたのです。このようにイエス様が義なる者であると言うのは、自らが義なる者であることと、他者にも義を与える者であるということです。しかしながら、当時の群衆からすれば、まだ十字架と復活の出来事が起きる前ですので、イエス様が自ら義なる者ではあるとわかっても、他者を義なる者にして下さるとは誰もわからなかったでしょう。

 次に勝利者について。イエス様が勝利者であると言う時、それはどんな勝利者でしょうか?イエス様は十字架と復活の業を果たすことで罪と死を無力にし、人間を罪と死の支配から解放する道を開きました。それでイエス様は罪と死に対する勝利者です。しかし、まだ十字架と復活の出来事を見ていない群衆は、そこまではわかりません。イエス様が勝利者という時、群衆の目に映っているのは、これから占領者ローマ帝国の総督とその軍隊そして彼らに付け入る同胞の支配層を追い払うという民族の英雄です。とても罪と死に対する勝利者、人間を罪と死の支配から解き放ってくれる解放者にまで思いは及びません。

 「へりくだった者」というのは、本日の使徒書の日課フィリピ2章で言われている通りのことです。ここでパウロは当時フィリピの信徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用しています。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところは、ギリシャ語原文では段落が別になって行も短くなっていて引用であることを示しています。このキリスト賛歌はパウロ自身の作である可能性もあります。

 パウロがこれを引用した意図はこうです。パウロは、キリスト信仰者とは相手にけんか腰になったり高慢に振る舞ったりはしないのだ、相手を自分より優れたものと考えてへりくだるのだ、しかも、各自自分の利害に目を向けるのではなく他人の利害に目を向けるのだ、と勧めます。どうしてそうしなければならないのかと言うと、イエス・キリストがそうだったからと言うのです。私たちの救い主がそういう方だったのにあなたがたはそんなの嫌だとは言えないではないか、ということです。イエス様が果たしてそういう方であったかどうかは、広く唱えられているキリスト賛歌からも明らかでしょ、今ここで引用するからへりくだることについてよく自己反省しなさい、ということなのです。

「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 しかしながら、へりくだりについても、十字架と復活の出来事はまだです。それで、神のひとり子ともあろう方が人間の救いのために神と同等であることを捨てて、十字架の死を受け入れるくらい神の意思に従ったこと、これがへりくだりの真相だとわかった人はいなかったでしょう。むしろ、民族の解放者になる偉大な王様がロバに乗ってやって来るという、何か威厳さとか権威とかそういうものの正反対の様子がへりくだりを表していると思ったでしょう。

3.旧約聖書の本当の意味

このようにゼカリア書9章の預言は広い深い内容を持つものでしたが、ロバに乗ってエルサレムに入るイエス様を見た人々はそこまではわかりません。ついに民族解放の日が来たと期待を強く抱いたのでした。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦しました。また、彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に出てくる終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称したことも指導層にとって許せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。

 イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。イエス様が神の想像を絶する力で死から復活させられたことがそれです。これによって死を超えた永遠の命があることが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活が本当に起こるものであることが明らかになりました。

 そこを起点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様は死に引き渡されたまま放っておかれることのない神の子であることが明らかになりました。それでは、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が持ってしまっている神の意思に反しようとする罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。罪を持たない神に相応しい僕が人間の受けるべき神罰を自ら受けて、人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまっている人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が本当にあることがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれました。イエス様の十字架と復活の業によって人間が罪の呪いから解かれて永遠の命を生きられる可能性が開けたのです。

 そこで今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。行き先は、永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。

 このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。

4.イザヤ50章とキリスト信仰者の心構え

最後に本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちの心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から救い出して神との結びつきのうちにこの世と次に来る世の双方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも自分は神の立場に立つ者とわかっているので何も怖くはありません。暴行は痛いし辛いが、自分の立場は神を裁判官にした裁判では潔白以外の何ものでもない。神を裁判官にした裁判が8節と9節で言われます。

8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」神がイエス様を死から復活させて、彼が罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。そのようにイエス様の潔白は人々の前で証明されます。

「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことで、それで、上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、ということです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨のことが続きます。

「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」それでここは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。

9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」

「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから、私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にそばにいて働きかけていることを意識していることを感じさせる箇所です。

 同じ意識はキリスト信仰者にも当てはまります。この日本では、さすがに暴力を振るってまでして信仰を捨てさせるようなことはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷は起きると思います。キリスト教を名乗って社会を騒がせる団体がいろいろある昨今ではなおさらです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰で生きる以上、神を裁判官とする裁判では潔白なので、動揺せず恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、人々にへりくだって、自分より優れた者として接して、自分の利害を脇において他人の利害を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、を続けていけばいいわけです。

 非難や中傷は他の人から来ず、心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、その意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配いりません。確かに私には神の意思に反する罪があるが、その罪はイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、と思い出して、そこに踏みとどまればいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放すつもりはないと悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から差し出されて受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前も、イザヤ書50章9節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は51章9節にも出てきます)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

後注1 ギリシャ語のモルフェ―が日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥ―ロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もありまる。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。

交わり

SLEYから派遣されていたロサさんが任期を終え今週水曜日にフインランドに戻られます。 短い期間でしたが教会の人気の女性でした。今日の交わりの席で信仰の証をしてくださいました、身近に経験した飛行機の中での出来事を交えながら感慨深い証でした。

スオミ教会 手芸クラブのご案内

 

次回は3月29日(水)10時―13時の開催です。

マクラメのコースター

前回に続いてマクラメのテクニックを使ってコースターを作ります。今回は、細目のマクラメの糸を使います。

可愛いらしい、きれいなコースターはテーブルの飾り物にもなります。

手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

材料費は500円~800円です(作るものによって変わります)。

お子さん連れでもどうぞ!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1767025551iamg@1767025551arumi1767025551hsoy.1767025551iviap1767025551
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

説教「復活の日の再会の希望は死別の悲しみよりも深い」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書11章1-45節

主日礼拝説教 2023年3月26日(四旬節第五主日)
聖書日課 エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。この出来事は、先週の日課の出来事、生まれつき目の見えない男の人の目を見えるようにした奇跡の出来事と共通点があります。先週の個所でイエス様は、男の人の目が生まれつき見えないのは神の業が現れるため、と言いました。今日の個所では、ラザロの病気は神の栄光のためである、と言います。病気や障害が神の業のため、神の栄光のため、などと聞くと、大抵の人は、目が見えるようになること、死んだ人が生き返ることが神の業、神の栄光の現われであると理解すると思います。ところがそうではないということを先週お教えしました。

 少し振り返りますと、旧約聖書の預言者イザヤの時代から人間の霊的な目が見えるようになる時が来るという預言がありました。目の見えない男の人の場合は肉眼の目が見えないことが問題だったのですが、人間の本当の問題は霊的な目が見えないこと、それがイエス様とファリサイ派の人たちとの対話からわかります。実にイエス様は肉体的な目が見えるようになる奇跡の業を行うことで、霊的な目を見えるようにする力が自分にあることを前もって思い知らせたのです。

 人間の霊的な目が見えるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事をもって始まりました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを持ててこの世を生きられることになり、永遠の命に至る道に置かれてその道を進むことになるという、肉眼の目で見えないことが見えるようになるのです。

 このように、生まれつき目が見えないのは神の業を現すためと言う時、肉眼の目が見えるようになることが神の業の現われであるという理解は理解はまだ浅く本当の理解ではありません。奇跡の業は霊的な目が見えるようになる前触れ的な出来事で、その目が見えるようになることが本当の神の業を現すものなのです。それが深い理解で本当の理解です。

 本日のラザロの生き返らせも同じです。死んだラザロを生き返らせたことが神の栄光の現われであると言ったら、それは浅くて本当の理解ではありません。では、ラザロを生き返らせることで神の栄光が現れると言ったら、何が神の栄光なのか?今日はラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解ができるようにしましょう。

2.キリスト信仰の復活について

深い本当の理解に入っていく前に、理解に役立つ予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を詳しく記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神であるというのがキリスト信仰です。

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。

 復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

 そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

3.イエス様は復活と永遠の命を手中に持つ方

それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみましょう。

 イエス様がやって来たと聞いてマルタは彼に会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。つまり、ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

 それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタは自分でハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」の場合だと今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。

 そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。

 それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる人は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりはなくならず、復活の日が来たら永遠の命そのものを持つことになります。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そうすることが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。

 イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

 これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にも見られたのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

 マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは同じ現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。現在完了などと言うと、中学高校の英語の授業みたいで嫌だと思われてしまうかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語のとは違うので忘れて大丈夫です。むしろ忘れた方が都合がいいです。マルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟ることができて信じるようになりました、ではないのです。その場合は、エピステウサになります。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。

 このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。それを明らかにします。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。

 しかしながら、復活には、死の引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているという観点に立ちます。そして、罪は人間誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。神としては、人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげたい、そのためには結びつきを持てなくさせてしまっている罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部受け負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせる、そのようにして人間の罪の償いを彼に果たさせたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。同時にそこに至る道を人間に切り開かれました。それでイエス様は復活と永遠の命を手に持っていらっしゃる方なのです。

 神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この世を去った後は、それこそ復活の日に眠りから目覚めさせられて永遠の命と復活の体を与えられて神のもとに永遠に迎え入れられます。

4.生き返りの奇跡の業の深い本当の意味

マルタはこのような復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活させて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しのお恵みにしっかり留まるだけです。

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼に復活の目覚めをさせる力があること、この2つを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 以上、ラザロの生き返らせの奇跡の業は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の業の両方をもって、イエス様こそが復活と永遠の命を手中に収めており、それを私たちに与えて下さる方であることを示したのでした。これが、この奇跡の業が現す神の栄光です。これがこの奇跡の業の深い本当の理解です。

4.おわりに

最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つ目は、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書を見ても皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。

 もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている地方に行くのは危険です、と押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。

「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」

 分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある。明るさと暗さが危険とどう関係するか考えてみなさい。太陽が照る日中は明るいから転んだり何かにぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、あなた方がこの世の光である私を見て、私もあなた方の内にいると言えるくらいに私と結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。当時の弟子たちと違って私たちはイエス様を肉眼の目では見れませんが、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を霊的な目れれば、イエス様というこの世の光を持てていることになり、守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになり危険に晒されてゴールに到達できないということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

スオミ教会・修養会

 

講師:SLEY(フインランド・ルター派福音協会)宣教師・神学博士 吉村博明

宣教師の週報コラム  修養会「キリスト教、特にルター派は死者にどう向き合うか?」

  3月19日春の青空が広がる爽やかな午後、スオミ教会から徒歩15分位のところにある肥後細川庭園に場を移し、庭園内にある松聲閣(しょうせいかく)の集会室にて修養会を行いました。テーマは「キリスト教、特にルター派は死者にどう向き合うか?」。テーマの趣旨について2月12日の週報コラムでお知らせしたものを以下に紹介します。

“旧統一教会の問題が今やこの国の政治や社会を揺るがす大問題になっています。どうして日本人は「霊感商法」にかかりやすいのかということについて、先日新聞の生活欄に識者のインタビュー記事がありました(朝日9月13日、「霊感商法トリック知り防いで」聞き手は社会心理学者の西田公昭・立正大教授)。

 西田教授いわく、「超自然的なパワーや『ご先祖様のおかげ』『たたり』などを信じる日本文化が影響しているのは確かだと思います。」

 確かに見渡せば、大多数の日本人は、仏壇や墓の前で死者に話しかける、死者とのコミュニケーションの宗教性を持っています。お寺の住職もそれを推奨するし、今健康でいられるのは先祖のおかげとか、亡くなった方が見守って下さっていると普通に言われます。そのため、何か不運なことが起こると、霊的な原因を求める土壌があると考えられます。

 西田教授は続けて、「『私は信じない』と反応する人は圧倒的に多い。でもそれは、あなたがいま幸せに暮らせているからそう言えるんです。人生にはいろいろなことが起きる。問題を抱えたタイミングで声をかけられたときの怖さや、トリックに気づけているかが大切です。」

 ルター派のキリスト信仰は、死者とのコミュニケーションを取らない宗教性を持ちます。当教会の礼拝や聖書の学びで教えてきたように、「復活」の信仰があるからです。先立った方は今、復活の日まで神のみぞ知るところにて安らかに眠っている、だから、今見守って下さっているのは他でもない神であると観念し、不運なことがあったら「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍を恐れじ、なんじ共にませばなり」(詩篇23篇)という心意気でいます。

 こういう時世ですので、キリスト信仰の「復活」について復習し、ルター派の信条集「一致信条集」の関連個所(聖人に対してどう向き合うかという問題について)を学ぶ機会を持つことは時宜を得ていると思います。日本人の大半が言う「無宗教」は「無神論」でないこともわかります。乞うご期待”

発題は吉村が行い、最初に死者とコミュニケーションを取る日本人の宗教性について具体例や識者の観察について紹介、次にキリスト信仰の復活についてのルターの教えを紹介しました。それから、ルター派教会の教義集「一致信条集」の中にある関連箇所を一緒に見てみました。関連個所とは、一つは、(復活の日を待たずに一足早く天国に迎え入れられた)聖人たちに助けを祈り求めてはならないという教え、もう一つは、死者の救いの為に聖餐式礼拝が行われていたという宗教改革前の慣行を批判するところです。

関連個所を二つに絞りましたが、それだけでもかなりの内容で、大事なことを全て手短にまとめられたか自信がないままの発題になってしまいました。また関連個所は以上の2つの他にもあると思います。発題後の話し合いの時間に参加者からいろいろな意見やコメントがありました。後日、発題の欠けている部分を補ってテーマの論考を公けにできたらと思っています。

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説教「霊的な目が開かれるということ」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書9章1-41節

主日礼拝説教 2023年3月19日 四旬節第四主日

聖書日課 サムエル上16章1-13節、エフェソ5章8-14節、ヨハネ9章1-41節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様は人道支援の模範を超える方

本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事です。イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰としてそうなってしまったのかという質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰では、人間は誰しも母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいると言います。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けなかったことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく親が犯した罪なのか?

この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何でしょうか?本日の個所を読めば、ああ、それはその人の目が見えるようになる奇跡の業のことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?人間誰でも病気や障害が治ることはとても切実なことですので、「神の業」と聞いたらそれにつきると考えてしまいます。しかし、神の業には、目が見えるようになる癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。その大きなこととは何か?それがわかると、イエス様という方は、単に困った人を助けてあげる人道支援の模範を大きく超えた方であることがわかります。

2.肉体的な目の開きから霊的な目の開きへ

神の業には癒しを超える大きなことがある、そのことがわかるために、目が見えるようになる奇跡には特別な意味があることを明らかにしようと思います。男の人の奇跡の出来事の後でイエス様は周りにいる人たちに聞こえるような声で驚くべきことを言いました。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたイエス様に敵対するファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが目の見えない者であれば罪はないのだが、お前たちは「見える」と言い張るのでお前たちの罪は留まることになる、と。つまり、目が見えませんと認めれば、お前たちの罪は留まらないのだと。これは一体どういうことでしょうか?

この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それを少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。イスラエルの民が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたたため、神は預言者イザヤに罰下しを命じます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、と言うのです(イザヤ6章9~10節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚を不調にするということではありません。そうではなくて、神の御心が見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目と耳の塞ぎを意味しました。

この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きます。「主よいつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(6章11節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々は連れ去られ、残った者も大木のように切り倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(11~13節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない、耳が聞こえない状態になるのだ、と言うのです。これは逆に言えば、切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生ということになります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?

当時イスラエルの民は南北の王国に分かれていました。まず紀元前700年代に北の王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残った南の王国はすんでのところでアッシリアの攻撃を撃退しますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、ペルシア帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の覇者となると、ペルシャ王の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書の後半を見ると、神の僕なる者が現れて祖国帰還の民の目を開き耳を開くという預言が出てきます(イザヤ書42章7節、50章4~5節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。

ところが、イスラエルの民は帰還した後もペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、ローマ帝国と他民族が支配する状況が続きました。国内状況を見ても、神の意思に従う生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそれを言い表しています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(63章17節)」つまり祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。一時、民の目と耳が開かれる預言は祖国帰還の時に実現すると考えられたのですが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。

イエス様が歴史の舞台に登場したのはまさにそのような時でした。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!もちろん、旧約聖書をよく知っていた人たちは、目や耳を開けるという預言はあくまでも霊的な目と耳のことだとわかっていました。しかし今、目の前で起きていることは、霊的な目や耳が開いたかどうかはともかく、肉体的な目と耳が開くということが起きているのです。あまりにも具体的です。もし、この人の霊的な目は開かれたと言ったら、それが本当かどうか誰もわからないでしょう。しかし、肉眼の目が見えるようになったら、あの人は見えてなんかいないと誰も否定することはできません。

実は同じようなことは他の奇跡の所でも起きていました。全身麻痺状態の人がイエス様の前に運ばれてきました。イエス様は最初、お前の罪は赦されると言いました。周りにはそれを信じようとしない人たちがいました。そこでイエス様は、それならば、と言って、その人が立って歩けるようにしました。これを見た人たちは、この方は口先だけの人ではない、本当に罪を赦す力があるのだと思わざるを得なかったでしょう。

また、会堂長の娘とラザロが死んだ時、イエス様は、死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。これは復活について具体的に教えるものでした。イエス様を救い主と信じる者にとって、死というのは復活の日に目覚めさせられるまでの眠りにすぎないということ、そして、眠りから起こす力はイエス様が持っていることを教えるものでした。そういうことを口で言っても誰も信じないでしょう。しかし、生き返らせる奇跡と一緒に言ったら、誰も信じないではいられないでしょう。同じように、目や耳を開けるイエス様の奇跡の業は、後で霊的な目と耳の開きが起こることを信じさせる前触れ的な業だったのです。

それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起こったことで起きました。イエス様は、人間が内に持ってしまっている罪、神の意思に反しようとする罪を全部背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けて死なれました。それは、人間が罪の重荷を自分で背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、神の救いの業はイエス様の十字架の死で終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。このようして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いをお膳立てしたのでした。

そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受ける。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので、神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたので、太古の昔に失われてしまった神との結びつきが回復します。神との結びつきを持てて復活の日を目指してこの世を生きることになります。この世から別れることになっても、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて、今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。その人はイエス様を救い主と信じるようになって以後は、十字架に架けられたイエス様と彼が葬られた墓が空っぽになっていたことを肉眼の目ではない霊的な目で見ていたのです。聖書を繙く時、神が語りかけているのが霊的な耳に響いていたのです。このようにイエス様の十字架と復活が起こったことで人間の霊的な目と耳が開かれることが始まったのです。

そこでファリサイ派の問題は何かと言うと、霊的な目が見えないのに見えると思っていたことでした。もしそうなら、彼らにはイエス様の十字架も復活も必要ありません。でも、それでは罪の償いも赦しも得られません。逆に霊的な目が見えないと認めることが出来れば、イエス様を救い主と信じることですぐ見えるようになります。霊的な目が見えるようになれば、罪の赦しのお恵みの中で人生を歩めるようになります。見えないのに見えると思っていることが問題だったのです。

3.神の業は私たちにも及ぶ

これで、イエス様とファリサイ派のやり取りの意味がわかるようになったと思います。本日の日課の中でもう一つ難しい箇所があります。9章4~5節です。そこでイエス様は、我々は私を遣わした神の業を日中の内に行わなければならない、誰も行うことが出来なくなる夜が来る、私がこの世にいる間は私は世の光である、と言います。これは、以上述べたことを踏まえて考えれば、次のように理解することが出来ます。

日中の明るい時とは、イエス様という光がまだこの地上におられる時です。その時に彼をこの世に贈った神の業を行わなければならない。しかし、暗い夜が来たら、つまりイエス様がこの地上からおられなくなったら、神の業を行うことが出来なくなると。それは一体どんな業なのでしょうか?

先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きて人間の霊的な目と耳の開けが始まりました。ただ、十字架と復活の出来事の前にイエス様は、前もって霊的な目と耳が開かれることを信じられるようにする業を行いました。肉体の目と耳を開けることがそれです。そうすることで、霊的な目と耳が開かれることが起こると前もって信じさせようとしたのです。全身麻痺状態の人を癒すことで罪の赦しがあることを信じさせようとしたのです。死はイエス様を救い主と信じる者にとっては復活までの眠りにしか過ぎないことを信じさせるために生き返らせることをしたのです。それらを信じさせるために具体的に目と耳を開けてあげる、歩けるようにする、生き返らせることをしたのです。これらの具体的な奇跡の業は、十字架と復活が起きた後はもう、別になくても大丈夫になりました。なぜなら、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けれさえすれば、霊的な目と耳は開かれ、罪は赦され、復活を遂げられるからです!

さて、イエス様が天に上げられてからは、彼が行ったのと同じ奇跡の業をする者はこの地上にはいません。ただし、聖霊の賜物として癒す力を与えられた人が癒しの奇跡の業を行うことはあるかもしれません。しかし、キリスト信仰者全てに共通する最も大事なことは、霊的な耳と目が開かれて、罪の赦しのお恵みに留って、自分も復活を遂げると確信を持って生きることです。

イエス様は今、一時的にこの世にいません。それで今は夜ですが、しかし何も心配はいりません。エフェソ5章8節に書いてある通りだからです。

「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

霊的な目と耳が開かれて罪の赦しのお恵みに留まって復活を遂げることになる者、すなわちキリスト信仰者は、夜の暗闇のようなこの世の中で光の子になっているのです。そして、パウロがローマ13章12節で言うように、夜は更け、日は近づいているのです。イエス様の再臨の日は毎日、一日ずつ近づいているのです。

本日の肉体の目が見えるようになった男の人は、まだ十字架と復活の出来事の前ではありますが、霊的な目が開かれて光の子として歩み出したことが見て取れます。特に真実を曲げなかったということに見て取れます。彼の両親は息子の癒しについて知っていましたが、シナゴーグから追放されることを怖れて、本当のことを言いませんでした。しかし、男の人は全然怯みませんでした。ファリサイ派の人たちは何としてでも、奇跡がなかったことにしようとか、安息日に行った奇跡は律法違反なので神の働きなどないという態度でした。男の人は真実を曲げなかった結果、シナゴーグから追放されました。日本語訳では「外に追い出された」で、男の人がファリサイ派の尋問を受けた部屋から外に追い出されたという意味です。ここは微妙な箇所で、シナゴーグから追放されたことを意味することも可能です。

男の人が追放されたと聞いてイエス様はすぐ戻ってこられました。イエス様のせいで大変な目に遭ってしまったが、目の前にいるイエス様を見て、そんなことは次第にどうでもよくなりました。男の人はイエス様を「人の子」、つまり終末の時にこの世に現れる救世主であると告白しました。私たちも男の人のように真実を曲げないでいると、曲げることで利益を得る人たちの反感や怒りを買います。それこそ追放されて天涯孤独のようになってしまうかもしれません。しかし、イエス様はすぐ男の人のところに戻ってきて、自分が救い主であると告白するように導きました。私たちの場合も、イエス様は聖書の御言葉を通して、聖餐式を通して私たちのすぐそばにいらっしゃいます。私たちの祈りをいつも聞き遂げて下さいます。このように私たちのすぐそばにおられることで、私たちを信仰告白に導かれます。

私たちも男の人と同じように告白ができたら、天涯孤独など些細なことになります。なにしろ告白は、万軍の主である神が私の味方について下さっていることを自分でそのとおりだと認めるものだからです。男の人の信仰告白は私たちの信仰告白を先取りしています。イエス様は、男の人が生まれつき目が見えないのは「神の業がこの人に現れるためである」と言いました。本当に肉体的な癒しを超える神の業が男の人に現れたのでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン