お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
今回はフィンランドの「クリスタル・コーヒー・ブレッド」を作ります。フィンランド語で「Kristallipulla」と言います。 バニラシュガーが沢山入っている「クリスタル・コーヒー・ブレッド」は多くのフィンランド人にとって最も人気のある美味しいコーヒー・ブレッドの一つです。フィンランドはこれから寒くなって気温が氷点下に下がると、木の枝の水滴が凍って水晶のように輝きます。トッピングのバニラシュガーが輝いて見えるのでこの名がつきました。
是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
人数制限がありますのでご注意ください。
お問い合わせ、お申し込みは、 電話03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 www.suomikyoukai.org
この秋の最初の手芸クラブは10月25に開催されました。10月の終わりなのに寒くなく秋の爽やかな朝にスオミ教会に集まりました。
今回の作品はかぎ針編みです。かぎ針編みのテクニックを使って作ったペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きをモデル用に準備しました。最初にそれを見て参加者の作りたいものを選びます。今回は参加者の皆さんは小物入れに興味を持ってそれを編むことにしました。
まず、好みの色の糸を選びます。それからかぎ針編みの基本を思い出しながら作っていきます。初めは鎖編みでスタートして、それを丸くしてから1段から3段まで長編みと鎖編みの繰り返しをします。編んでいる内に四角の形になります。最後に四角の周りに小編みをして一枚目が出来上がりました。皆さんは可愛い色の四角を上手に2枚編みました。残りの2枚はお家で編んでもよいし、次回いらしたときに編んでも宜しいです。残りの2枚が出来てから小物入れになるように組み合わせをします。お家で仕上げられた方もいました。
今回は編み物に集中したためか、時間はあっという間に過ぎて、いつの間にかコーヒータイムになりました。そこでモニターから映し出されるフィンランドの秋の景色を眺めながらヴィヴァルディの「四季」の中から「秋」の演奏を聴き、コーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。歓談の時を持ってから、フィンランドの「編み物会」やお祈りについてのお話がありました。
次回の手芸クラブは11月29日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
この間私たちのミッション団体の雑誌を読んだ時、フィンランドの教会の「編み物会」ついて面白い記事がありました。その記事について少し話したく思います。
フィンランドでは「編み物会」という教会の活動が1800年代後半にとても盛んになりました。会の名前は「編み物会」ですが、そこに集まった女性たちは編み物だけではなく色んな手芸もしました。女性たちは教会に集まって、手芸をしたり、いろいろ話し合ったり、コーヒーや紅茶を飲んだりして、聖書の教えも聞きました。この時代、多くの女性たちの生活は家に限られていたので、「編み物会」は女性たちにとって大事な社交の場になりました。「編み物会」は、ただ集まって楽しい時を過ごすことだけが目的ではありませんでした。この活動はもっと深い意味がありました。女性たちは「編み物会」で作った手芸品をバザーで販売して海外ミッションの為にお金を集めました。教会の海外伝道すなわちミッションを支えるという役割を果たしたのです。
フィンランドのルター派の国教会は、多くの宣教師をアフリカ、ヨーロッパ、ロシア、アジアに派遣してきました。この働きのためにはお金が必要です。フィンランドの教会ではクリスマスやイースターの前にバザーが行われます。女性たちはバザーで「編み物会」で作った手芸品を売って、得た収入をミッションのために寄付しました。このため「編み物会」の名前も「ミッション編み物会」とも言われます。
私とパイヴィが日本に派遣されたこの13年間、日本では牧師というのはキリスト教会の中では絶大な権威があることがよくわかりました。 以前、赴任していた教会で、牧師先生の聖書の教えがどうも良くなく、新奇をてらいたいのか、聖書で言われていることと明らかに関係ないことを関係あるように言われる。しかし、信徒さんたちは皆、「聖書のプロ」が言うことだから真理だと思って受け入れる。ある人は講義のごとく賢明にノートを取っている。本当に聖書はそんなこと言っているのかな?と疑問を抱く瞬間があっても、すぐああ、そういう理解の仕方もあるんだ、さすが牧師先生!と牧師の方を持ち上げてしまう。(また、人間味溢れることを示すためか、牧師同士や信徒と一緒に酒を飲むなど、権威のソフト面を怠らない人もいました。)
このような日本における牧師の権威を考えると、今回、牧師の按手を受けた者として聖書を教えるというのは大きな危険が伴うことをよく自覚しています。どうしたらいいのか?ルター派の牧師としてなすべきことははっきりしています。律法と福音の説教を続けるのみです。牧師の中には説教の中で罪に言及しなかったり、したとしても過去の遺物か、ただのお飾り言葉になってしまう人もいます。キリスト教徒になったとは言っても、私たちがどれだけ神の意思に反する存在であるか、それを心に思い起こさせることはせず、そのまま神の愛とか恵みとか言ってしまうのです。しかし、ルター派の律法と福音の説教は、自分がどれだけ神の意思に反する存在であるか思い起こさせた返す刀で信仰者の目をゴルゴタの十字架に向けさせます。その瞬間、信仰者はキリストの償いの業のゆえに罪の赦しは本物で、自分はそれを受けていると確信でき、これからは神に背を向けず神の意思に沿うように生きようという心になります。それが律法と福音の説教です。そういう心を生み出すことをせずに神の意思に従わせようとするのが律法主義です。
聖書の御言葉には耳障りのいい言葉だけでなく耳の痛い話も沢山あります。耳障りのいい話だけ集めて教えるのは確かに信徒さんたちの人気と信望を勝ち得る最短の道ですが、耳の痛い話があってこそ神の愛と恵みが本当に神的なものであること、人間的なものを越えているとわかる道です。まさにそれがルター派の説教が目指すところのものだと考えます。
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主日礼拝説教 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日
聖書日課 イザヤ45章1-7節、第一テサロニケ1章1-10節、マタイ22章15-22節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。この言葉は何かとても大きなことを言っていると感じさせます。一方はこの世の権力の頂点に立つ者、他方は万物の創造主である神。イエス様は私たちキリスト信仰者に、この世の権力と創造主の神という二つのものにどう向き合うべきかについて教えています。どう向き合うべきか?今日の説教は、そのことを明らかにしていこうと思います。
まず、この言葉が出てくる原因となった質問を見てみます。イエス様に反対する者たちが聞きました。「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか。」私たちの新共同訳では「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか、適っていないか」ですが、ギリシャ語の原文を見ると「律法に適って」はありません。そういう訳をしたのは、ひょっとしたらその言葉が入っている写本があるのかと思ってチェックしたのですが、どうも見当たりませんでした。それで「律法に適って」は翻訳者が勝手に付け加えたものと言えます。それを付け加えた気持ちはわからないではないですが、私はここは原文通りに付け加えない方が本来の意味のためによかったと思います。このことについては後でまたお話しします。
それでは、どうしてイエス様の反対者はそんな質問をしたのでしょうか?ここには、とても大きな歴的背景が横たわっています。
ユダヤ民族の居住地域は紀元前63年までにローマ帝国の支配下に入ります。ローマ帝国はこの地域を直接支配せず地域の実力者を通して間接支配します。民族の実力者にヘロデというユダヤ民族出身でない者がのし上がります。彼はローマ帝国に上手く取り入って王の地位を認められ、エルサレムの神殿を大増築してユダヤ民族の支持も獲得します。このヘロデ王はベツレヘムで生まれたばかりのイエス様の命を狙うことになる王です。ヘロデ王の没後、この主権を持たない王国は二人の息子に分割され、一人はガリラヤ地方の領主、もう一人はユダ地方の領主という具合に王から領主に格下げになりました。本日の日課の中にヘロデ派というのが出てきますが、ヘロデ王朝の支持者で、要はローマ帝国のお情けのもとで権力を保持できればいいという人たちだったと言えます。ユダ地方の領主が死んだ後、同地方は帝国から派遣された総督が直接支配するようになります。要所要所に異国の軍隊が駐屯して目を光らせています。帝国には税金も納めなければなりません。ユダヤ民族の完全な解放をもって「神の国」が実現すると考えた人たちにとって許しがたい状況でした。
まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場しました。ダビデの子、ユダヤ民族の王がやって来た!と群衆の歓呼に迎え入れられてエルサレムに乗り込んできました。さぁ、大変なことになりました。ユダヤ教社会の指導層には盾をつく、群衆は民族の解放者として担ぎ上げている、あの男をこのままにしたら自分たちの権威が危うくなるだけでなく、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、なんとかしなければと、そこで出てきたのが、皇帝に税金を納めてもいいのかどうかという質問だったのです。狙いは一目瞭然です。もし、納めてもよいと答えたら、群衆は、なんだこの男もヘロデ並みか、民族の真の解放者だと期待したのに皇帝に頭が上がらない臆病者だと失望を買って支持者は離反していくだろう。もし、納めてはならないと言ったら、その時は待ってましたとばかり、反逆者として当局に差し出してしまえばいい。まことに巧妙な質問でした。反対者も群衆も固唾を飲んでイエス様の答えを待つ緊迫した様子が目に浮かびます。
先ほど反対者の質問はギリシャ語原文では「律法に鑑みて」という言葉はないと申しました。以上の背景説明からわかるように、質問は極めて政治的な内容のものです。律法に鑑みていいことかどうかという問題も含んではいますが、それを超えた意味を持っていることにも注意しなければなりません。それで、原文のように律法と無関係にいいか悪いかと聞いたというのが正解です。
さて、イエス様の答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」でした。反対者も群衆もとても驚いた様子が目に浮かびます。税金を納めてもいいことになるのだが、しかし、皇帝に頭が上がらない臆病者には聞こえません。万物の創造主である神が出てきたからです。こちらの方が人間より格が上です。神を出されたことで皇帝も皇帝に納める税もちっぽけなものになってしまう、何か大いなるものの下に置かれたような感じがします。イエス様のこの答えは質問者を黙らせ群衆を驚嘆させましたが、彼らはちっぽけに「感じた」以上のことがわかったでしょうか?私は、イエス様の十字架と復活の出来事の前では「感じた」より先には進めなかったのではと思います。私たちは十字架と復活の出来事の後の時代にいますから、イエス様の答えの内容を詳しく知ることが出来ます。以下にそれを見ていきましょう。
イエス様の答えに万物の創造主の神が出てきました。「神のものは神に返しなさい」というのはどういう意味でしょうか?「皇帝のものは皇帝に返す」というのは税金のことだから、「神のものは神に返す」は教会に献金を捧げることかなと考える人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。まず、「神のもの」と言う言葉について見ると、ギリシャ語の用法では神の持ち物、所有物という意味だけでなく、「神に属するもの」というふうにもっと広い意味になります。そこで、このやり取りの流れを思い出すといろんなことがわかってきます。
イエス様と反対者のやり取りは、その前にあったイエス様の3つのたとえの教えの続きとして出てきました。3つのたとえの教えとは、マタイ21章28~32節の二人の息子のたとえ、33~41節のブドウ園と農夫たちのたとえ、そして22章1~14節の王子の婚宴のたとえです。3つのたとえの教えで明らかになったのは、将来現れる「神の国」に宗教エリートたちは迎え入れられないということ、そのかわりに今罪びとと目されている人たちやユダヤ民族以外の民族がイエス様を救い主と信じて迎え入れられるということでした。
少し脇道にそれますが、「神の国」について当時の人たちが思い描いていたものとイエス様が教えたものは必ずしも一致していませんでした。当時の人たちにとって「神の国」とは、将来ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放し、神が直接支配する国を打ち立てる、そして諸国民は神を崇拝するためにエルサレムに集まって来る、そういう自民族中心史観の「神の国」でした。ところがイエス様の教えた「神の国」は、まず神の子が民族に関係なく全ての人間を罪と死の支配から解放する、そして、今の世が終わって新しい天と地が創造される時に神の子は再臨して、罪と死の支配から解放された者たちを「神の国」に迎え入れる、そういう神の人間救済計画のゴールが「神の国」でした。イエス様が教えた「神の国」が正しい理解だったわけですが、それがはっきりするのは彼の十字架と復活の出来事の後になってからです。
当時の宗教エリートたちは「神の国」を正確に理解できていなかったとしても、それはユダヤ民族に約束されたものと考えていましたから、お前たちは排除されるというのは受け入れられません。3つのたとえを聞いた後、早くこの男を始末しなければと決めます。そこで、今度は言葉尻を捉えて当局に訴えてやろうと、やって来たのです。そこでこの皇帝への納税の質問をしたのです。
さて、3つのたとえは皆、将来現れる「神の国」について述べていました。その延長上に今日のやり取りが来ます。このやり取りで、一方に皇帝というこの世の国の代表者、他方で神という「神の国」の代表者が対比されます。そういうわけで「神のもの」というのは「神の国」に関係するものであると気づかなければなりません。
それと、「神のものは神に返す」と言う時の「返す」ですが、これもギリシャ語の動詞αποδιδωμιは「返す」だけでなく、「引き渡す」「譲り渡す」(例としてマタイ27章58節)という意味もあります。「返す」だけにとらわれると、お金の支払いに注意が行ってしまいますが、実は「引き渡す」、「譲り渡す」という意味も入ってるんだと意識して広く考えなければなりません。
以上を踏まえると「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というのは、次のような意味になります。この地上の国のことは地上の国に服している。税金もそのようなものとして払ってよい。しかし、「神の国」にかかわることは地上の国には服さないので地上の国に引き渡してはならない、譲り渡してはいけない。「神の国」にかかわることを地上の国の思い通りにさせてはならない。イエス様の答えは、そういう地上の国の権威を超えるものがあることを予感させたのです。それでは、「神の国」にかかわることで地上の国に譲り渡さない、思い通りにさせてはならないこととはどんなことでしょうか?地上の国に譲り渡さないこととは、将来「神の国」に迎え入れられることであり、今この世で「神の国」に向かう道を歩んでいるということです。これらを地上の国に譲り渡さないということです。もし地上の国がその道を進ませないようにしようとしたら、それに屈しないということです。
「神の国」にかかわることとは、「神の国」に向かう道を歩むことである。このことは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえてみるとわかってきます。これについてもう少し詳しく述べます。
キリスト信仰者というのは、神のひとり子イエス様がゴルゴタの十字架で私の罪を全て私に代わって神に対して償って下さったのだ、だから彼は私の救い主です、と信じてそう告白する者です。信仰者はまた洗礼を受けたのでこの罪の償いが効力を発揮して神から罪を赦された者と見なされる者です。神から罪を赦されたということは、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになったということです。神との結びつきの中で生きるキリスト信仰者は、私のようなもののために神はひとり子を犠牲にすることも厭わなかったと神を畏れかしこみ、これからは神に背を向けずにその意思に沿うように生きようと志向するようになります。
しかしながら、そういう志向が生まれても、それに反しようとする性向もまだ残っています。それでキリスト信仰者は二つのものの間に挟まれて生きることになります。しかし、信仰者が罪の自覚を持たされる度に、洗礼の時に信仰者の内に駐留するようになった聖霊がすぐ信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。そこで神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪はあそこで赦されている。だからこれからは罪を犯さないように」と言って下さり、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えて下さいます。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきなどなくなってしまったと感じられる時もあります。その時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは自分から脱ぎ捨てない限り消え去ることはありません。
このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架に立ち返ることを何度も何度も繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日に「神の国」に迎え入れられることです。そもそもイエス様の復活というのは、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、その命に至る道を人間に開いたということです。キリスト信仰者はその道に置かれてそれを歩むようになった者です。
キリスト信仰者は十字架に立ち返りながら将来の「神の国」を目指し、その間はこの世でしなければならないことをします。仕事があればそれをし、なければ探し、世話をする人がいれば世話をし、戦う病気があれば戦う、それらを絶えず十字架に立ち返りながら「神の国」を目指します。その時、しなければならないことの仕方、姿勢も定まってきます。パウロが言うように、高ぶらない、自惚れない、悪を憎み、悪に悪に返さず、全ての人の前で善を行い、喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣き、自分では復讐せず最後の審判の時の神の怒りに任せ、今は敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、そういう仕方、姿勢でしなければならないことをするのが当然になるということです。
キリスト信仰者が十字架に立ち返りながら「神の国」を目指して進む生き方をする時、日曜日の礼拝はそうした生き方にとって心臓と同じ役割を果たします。礼拝で神の御言葉に聴き、神を賛美し祈りを捧げ、聖餐に与ると霊的な清い血液が全身に送り出されて、平日の日常の中で各自が置かれた場で十字架への立ち返りと「神の国」を目指す力になります。あたかも疲れて汚れた血が再びきれいにされて心臓から全身に送り出されるように、信仰者も礼拝を通して清められて新しい週に旅立っていくのです。
そういうわけで、キリスト信仰者にとって礼拝を中心にした信仰の生き方ができれば別に皇帝がいても構わないということになります。しかし、民主主義が人間にとってベストな政治体制と考えられるようになった現代、ローマ皇帝のような専制君主がいても構わないなんて言うのはなんだかはやりません。まるで、現在、世界各地で民主主義に挑みかける権威主義体制を擁護するように聞こえてしまうかもしれません。イエス様は専制君主や権威主義を容認したことになるのか?実はそういうことではありません。そのことがわかるために、少し逆説的に聞こえるかもしれませんが、ローマ13章の教えを見てみます。
そこでパウロはこの世の権威や権力に従うべしと教えています。権力は社会秩序のために処罰を行う、だから権威を敬い、税金をしっかり納めるようになどと勧めています。権力者が聞いたらキリスト教徒はなんと物分かりがいい連中だと微笑むでしょう。しかもパウロは従う理由として、全ての権威は神によって立てられたなどと言います。これをローマの皇帝だけでなく後世のあらゆる支配者が読んだらみんな大喜びでしょう。パウロは、俺の権力が神のお墨付きと言ってくれたぞ、と。
ところが、この「神によって立てられた」というのは大変な裏があります。支配者が神によって立てられたということは、支配者の上に神があることになり、神が望めば支配者はいつでもその座から滑り落ちることになります。このことは、本日の旧約の日課イザヤ書45章でもはっきり言い表されています。キュロスというのは、ペルシャの国王でバビロン帝国を滅ぼして古代オリエントの覇者になった人です。ユダヤ人ではない異民族の人なのに聖書の神が彼を覇者の地位につかせるというのです。なぜ神はそうするのかと言うと、バビロン帝国を滅ぼすことでイスラエルの民を解放して祖国に帰還させるという昔からの預言を実現するためでした。これは歴史上、実際その通りになり、バビロンを滅ぼした後キュロスは勅令を出してイスラエルの民の祖国帰還とエルサレムの神殿の再建を許可します。紀元前538年に祖国帰還が実現します。イザヤ書45章7節で神は「平和をもたらし、災いを創造する者」と言われます。ヘブライ語の原文を直訳するとそうですが、神は地上の権力者の上に立つという観点でみたら、ここは「神は国に繁栄をもたらし滅亡をもたらす方」と訳した方がいいと思います。
このように天地創造の神は、異民族の王を用いてイスラエルの民のために預言を実現させました。ただし、日課の個所にもはっきり記されているように、キュロス自身は自分を動かしている神を知らずに、これらのことを行いました。本人はあたかも自分の力で全てのことを成し遂げているつもりだったのでしょうが、実はそうではなかったのです。宗教改革のルターも、国や民族の興亡は全て神の手に握られていて、国が興隆して栄えるのは神が風船に息を吹き込んでふくらますようなものであり、神が手を離したら最後、空気は抜けていくだけで誰もそれをくい止めることはできないと言っています。それ位、権力者というのは最後のところでは神に手綱を握られているというのが聖書の観点で、パウロもイエス様もそれをお見通しなわけです。そうであればあらゆる権力者の上に立つ神がやはり本当の権力者となり従うべき方となります。
この世の権力に従うことと神の意思に従うことが衝突しなければ問題ないのですが、歴史はそうならない事例に満ちてしまいました。まず、ペトロとヨハネがユダヤ教社会の指導部の前に連れていかれ、イエスの名を広めたら罰を受けると脅されました。それに対して二人は「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えよ」と答えます(使徒言行録4章19節)。これがこの世の権力に従う時のキリスト教徒の基準になりました。やがて権力者が、信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫って迫害が起こるようになります。この日本でも起こりました。
信仰の自由が基本的人権として保障される現代では、そのような選択を迫られることはないというのが大前提です。しかしながら、最近の民主主義国で起こっていること、特にインターネットやSNSを通してどんな意見や考えが多数派を形成するか危なっかしい時代では、信仰を守るということでも目を覚ましていなければならないと思います。その場合、信仰を守ると言う時に何を守ることが信仰を守ることになるのか今一度考えてみることは大事です。礼拝を妨害を受けずに守れること、これが大事なことは言うまでもありませんが、もっと深いところにも心を留める必要があります。何かと言うと、死生観です。
この説教でお教えしてきたことから明らかなように、信仰というのは死生観を持って生きることと言うことが出来ます。キリスト信仰の死生観とは、復活の日に眠りから目覚めさせられて、肉の体とは異なる朽ちない復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる、そういうことがあるのでこの世の歩みはそれを目指す歩みになるということです。その歩みをする際、絶えず主の十字架に立ち返りながら復活の日を目指すという歩み方になります。これがキリスト信仰の死生観です。キリスト信仰者がこのような死生観を持って生きるのは、聖書を繙いて学んでそうなのだと確信したからです。信仰の自由の侵害とはつまるところ、その死生観をやめてこっちにしろ、ということです。
キリスト信仰の死生観を捨てさせようとしたり、別の死生観を持たせようとする動きがないか注意することはいつの時代でも信仰の自由を守る基本であると言えるでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ルターの聖句の説き明かしから
フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」(1878年初版)から
「あなたは兄弟の目に埃があるのを見て、自分の目に材木があるのを気がつかないとは一体どういうことか?」 マタイ7章3節(フィンランド語の聖書からの訳)
もし君がしっかり目を覚ましているのなら、君くらいの沢山の罪を他の者に見出すことは決してない。他の者に沢山の罪、1年分ないし2年分の罪を見出すとする。ところが君は自分の内に一生分の罪を見出すのだ。特に他の人たちが知らない酷い行いに気づき、君は自分を恥じずべき存在だと思い知る。また、たとえ隣人の中に何か悪いものを見つけても、君は背を向けてはいけない。逆に、その人の良い面に目を向け、君が神から受けた賜物で助けてあげ、悪いものを覆ってあげて、その人に関することを良い方向に捉えてあげて、助言をしてあげなければならない。
たとえ君が最も敬虔な人間だとしても、他の者を裁くことで最も悪い者になることを知らねばならない。君は自分をおだてるために神から賜物を与えられたのではない。隣人が必要としている時に助けてあげるために与えられたのだ。君の力で隣人の弱さを支えてあげよ。君の敬虔さと栄誉をもって隣人の罪と恥を覆ってあげよ。神はキリストを通して君にそのようにして下さったのだ。今も毎日毎日そうして下さるのだ。もし君がそのようにせず、他の人たちを蔑むのなら、君は他の者の目に埃を見る時、実は神のみ前で大きな材木を目に入れた者であることを知るべきである。
夏の後のフィンランド家庭料理クラブは10月14日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。今回はフィンランドの秋の季節に合わせてベーコン・キノコパイを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にパイ生地を作って冷蔵庫に入れておいて冷やします。次に中身の準備。参加者みんなでキノコ、ベーコン等を一生懸命刻みます。色とりどりの中身をすぐフライパンに入れて炒めると、だんだん美味しそうなキノコの香りが広がります。皆さん、どんなパイになるか興味が高まりました。中身を冷ましている間、トッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜて出来上がりです。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に冷やした中身を載せます。その上にトッピングを流し込んで、最後にチーズをかけてオーブンに入れます。
パイが焼けている間、楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がると、皆さん興味を持って順番にオーブンの中を覗いてみていました。
ベーコン・キノコパイは焼き上がってからしばらく冷まします。皆さん席に着いて出来たてのパイを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」と言う声がテーブルのあちこちからあがりました。このパイをまさに秋の季節に皆さんと一緒に作って味合うことが出来て良かったと思いました。パイを頂きた後で、フィンランドの森のキノコと聖書の中にある種蒔き人のお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドの森では、何百もの種類の食用キノコが育ちます。8月と9月はキノコ狩りの季節です。その頃、多くのフィンランド人が森にキノコ狩りに行きます。キノコを採るのを趣味にしている人も大勢います。秋の森は紅葉が美しく、涼しい季節なので蚊や蠅もいなくなり、森の中を歩くのはとても楽しいことです。キノコを採る際には、いくつか覚えておかなければならないことがあります。そのためにキノコ狩りの講習会も開かれます。
キノコを採るときは、雨の日ではなく天気のよい日を選びます。雨にぬれたキノコとカラッとした天気のキノコは見た目は違うし、雨に塗れたキノコは早く悪くなるからです。キノコを採りに行くとき、持って行く道具として、入れる物やキノコ狩り用のナイフも大事です。キノコをつぶさないためにカゴは大きめのものにします。キノコは、キノコ狩り用ナイフを使って地面から掘り出し、ナイフに付いているハケで土やほこりを落としてきれいにします。キノコは、バラバラにならないように、全体のままカゴに入れます。全体のままのキノコは、後で食べられるかどうか確認するために大事です。キノコを採るときにはいつも、食べられるかどうか見分けがつくものだけを採ります。
フィンランドは毒キノコの種類も沢山あるので、それを見分けるためにキノコのカイドブックがあります。キノコ狩りをする人たちは普通、ガイドブックを持って本を見ながらキノコを採ります。
多くのキノコは調理をする前にお湯でゆでなければなりませんが、アンズタケはゆでないで直接フライパンでいためたり、ソースをかける料理の中に入れることができます。アンズタケは、フィンランドで一番おいしいキノコと言われます。もう一つとてもおいしいキノコはヤマドリタケです。これも、アンズタケと同じようにゆでないで直接調理に使えます。私の実家がある地域ではアンズタケとヤマドリタケはあまり育ちませんでしたが、アカチチタケは多くてそれをよく採りました。それは料理する前にゆでる必要があります。家ではアカチチタケのサラダをよく作りました。
キノコの収穫は年によって変わります。もし雨が多い温かい夏でしたら、キノコが沢山できます。フィンランドのことわざに、もし何かが沢山あることを言い表わす時、「きのこが雨の中で沢山できるくらいにある」と言います。
キノコが好きな人たちは、たくさん採って一年分くらい食べる量を保存します。キノコはどのようにして保存したらいいでしょうか?一番伝統的な方法は塩で保存することです。簡単なのは冷凍することです。他の保存方法は、ヴィネガー漬けにしたり、乾燥します。
私は、秋、森の中を歩いている時にキノコが見えると、いつも不思議な感じがします。それは、夏、同じ森を歩いている時、キノコはまだ何も見えません。しかし、夏の間キノコの胞子が土の中にあって、秋になるとキノコが土の中から出てきます。それは土にはキノコが育つ為に必要な栄養素や水分が蓄えてあるからです。森の中のキノコは人間が育てるものではなく自然に育つものです。しかし、本当はキノコや他の自然の植物も育てられるものです。誰によって育てられるのでしょうか?それは天と地と人間を作られた天の神さまが育てるものです。
私はキノコを見ると、イエス様が話された種の話を思い出します。それは、種まき人が一度種をまくと、あとはその人が知らないうちに種はぐんぐん成長していくという話です。
「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず、茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。 (マルコ4章27-28節)
このたとえをよく見てみましょう。ある人が種を土に蒔きました。種は芽を出して成長し始め、茎、穂、そして穂に豊かな実を結びました。そうなったのは種を蒔いた人が肥料を与えたからでしょうか?いいえ、不思議なことに蒔いた人が知らないうちに種が成長していったのです。人が何もしなくてただ寝起きている間に土は実を結ばせたのでした。
イエス様はこのたとえで何を教えているのでしょうか?種とは、天の神さまのみ言葉です。神さまのみ言葉は聖書の中にあります。土は私たち人間の心を意味します。私たちが聖書のみ言葉を読んだり聞いたりすると、土に蒔かれた種と同じようにみ言葉が心に蒔かれます。神さまはみ言葉が蒔かれた心に成長を与えます。心の成長は、私たちの自分の力や努力で与えることは出来ません。天の神さまが、私たちの知らないうちに与えて下さるものです。このように私たちの心の成長は完全に神さまの働きです。神さまの働きがあると、私たちは神さまを信頼するようになって全てのことを神さまに委ねるようになります。この時、私たちは神さまのことをもっとよくわかろうとして聖書を読んだり、み言葉に聞いたりして神さまとの繋がりを強めます。神さまとの繋がりが強まると、心の中に喜びが生まれます。神さまも、私たちを導いてよい実を実らせるようにしてくださいます。
森の中を歩く時、キノコはどこで育つかは私たちには見えませんが、神さまはキノコの胞子があるところをご存じで成長を与えます。同じように神さまは私たちの心を知っておられ、聖書のみ言葉を通して私たちに心と信仰の成長を与えます。
<マタイ22:1~14>
「神の恵みを受けよ」 スオミ教会2023・10・15
「子供は国の宝」と言います。日本で、今その子供の数が減って、お年寄りばかり増えています。これでは将来、国を支える働き手が、もう大変な事になります。
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子供が減っている、という事は、若い男女が結婚することが少ない、結婚しても子供を育てる事が大変だから、という事でしょう。さて、今日の聖書では、イエス様が語られた「王の一人息子、王子の婚宴」の譬えです。「イエスは、また、譬えで彼らに語って言われた。天国は、一人の王がその王子のために婚宴を催すようなものである。」イエス様はマタイ福音書21章のところで、二つの譬えを話されています。そして、今度はそれに加えてまた、重要な天国について、別の角度から話されたのです。21章の二つの譬えでは、いわばユダヤ教の指導者たちパリサイ人、又サドカイ人たちに向けての、彼らの罪と罰を痛烈に批難されました。その一つが「悪い葡萄園の農夫たちが主人の僕たちを次々に殺し、最後には主人の一人息子まで殺してしまう、そこで主人は大変怒ってこの悪い農夫たちを全部、滅ぼしてしまうという話です。今度の王の婚宴の譬えは、王の招きを拒んでしまう者への罰です。前と違うのは特に新しい国民であるキリスト教会の在り方について詳しく示しています。今度の譬えで語られた「王」と言うのは神様のこと、「王子」はイエス・キリストの事です。「婚宴」とは、神の国の事、「招かれていた人たち」とは、ユダヤの民の事です。
そして、神はここでも、婚宴の用意をすべて一手に引き受けておられます。又、神はここでもまず「客を招き」実際の婚宴の時刻になると「僕たちを遣わし」断られても、ほかの僕たちを遣わす、と言うほどの忍耐と寛容を示しておられます。前の「悪い葡萄園の農夫」の譬えでもそうでした。遣わされた僕たちが殺されても主人は忍耐して、最も大事な1人息子を遣わすのです。神の忍耐と神の恵み、寛容の豊かさに関しては二つの譬えは全くおなじです。今度の譬えで二つの新たな真理を教えておられる。第一は、この譬えで神の国が「婚宴」という喜びの場に、たとえられている点で神の恵みは一層大きなものになっています。又、前の譬えでは、神の国は「葡萄園」であり、ユダヤ人は働き人でなければなりませんでした。今度の神の国は「婚宴」でありユダヤ人は飲み食い楽しめばよい。第二は、前の譬えの事件が起こったのは葡萄の収穫の季節でした。今度の譬えでは「王子のための婚宴」という時です。収穫の秋は毎年巡って来ますから、悪い農夫の代わりに別の新しい農夫に委託すれば来年からは、やり直しの余地があります。ところが王子の婚宴は毎年やり直しのきかない一度限りの目出度い時です。神の招きは充分準備も整えられて熱意に満ちています。神の並々ならぬ熱意です。従って、今度は派遣される僕たちも、すべてが整った終わりの時の僕たちです。さて、第三には、前の譬えの悪い葡萄園の農夫たちは、つまりユダヤ民族の指導者が中心でした。今度は神の招きを受けているのはユダヤ人全部です。そして、神の招きは楽しい、しかもやり直しのきかない婚宴の招きですから、これを拒むユダヤ人の罪は、前よりはるかに重く悪質になります。この譬えで、この招きを拒否した者どもの一つは、婚宴の招待を受けていながら、知らぬ顔をする者です。具体的には自分の畑に行かねばならないから、或いは自分の商売に出て行くので参りません、と言った態度です。つまり、王のことより自分の事を優先して考え、目出度い大切な婚宴を無視する態度です。もう一つは悪い農夫と同じく僕たちを侮辱し殺してしまう、という敵対的態度です。この両方の態度は同じで、どちらも王子の婚宴に来ないという点で王と王子への反逆を露骨に示す極悪人です。ですから、王は立腹し、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。そうして王は更に僕たちに言った。「婚宴の用意は来ているが招かれていたのは相応しくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさい」と命じました。そこで僕たちは道に出て行って出会う人は悪人でも善人でも、皆集めて来たので婚宴の席はいっぱいになった。これがこの譬えの第二幕です。言い換えますと神が用意した御国をユダヤ人が見向きもしないで、み心に応じなかった。それなら、異邦人に神の恵みを提供してやろうとされた。それは神ご自身の体面、神ご自身の栄光のためでありました。このように王の方針は大きく変わったのです。神の救いはユダヤの民に限らず異邦人の全世界へと広まるのであります。次に、この招きは悪人でも善人でも、みんな誰もが招かれているのです。イエス様は既に21章31節で「徴税人や遊女はあなた方より先に神の国に入る」と言われました。こうした悪人と言われる人たちさえ決して招きから除外されてはいない。どれほど罪と悪に沈んでいた人も、王の婚宴に来て王の喜びに加わる事によって、あの無礼な客たちよりも王を喜ばせ、王の誉れを上げる事が出来るのです。神様の招きはどんな民族であっても、或いはどんな肌の色の人種の区別なく、又、文化や習慣の区別なく、招かれている恵みの世界です。この招きと約束は誠実です。神の聖なる世界ですから。人生の旅路において通り過ぎないで、足をとめ、方向転換し、神の悦ばしい招きに応えて行く人生へと変えられるのです。
さて、11節~13節を見ますと、婚宴の席はいっぱいになり、そこへ客として迎えた人々を見て、そこに礼服をつけていない一人の人を見て言った。「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで此処へ入って来たのか」しかし彼は黙っていた。そこで王は、そばの者たちに言った。「この者の手足を縛って外の闇に放り出せ、そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするであろう」。これが第三幕です。
13節で言われている「外の闇に放り出させ」とありますが、普通なら宴会場の外の闇と理解するでしょう。でもユダヤの宴会は必ずしも夜だけ開かれたわけではありません。平民でも婚宴は一週間ぶっ通しで行われましたから、まして王子の婚宴ならもっと長い間、昼も夜も徹して催されたでしょう。ですから「外の暗闇」というのが宴会場の外の庭や道を指すとは考えられない。むしろ、これは地獄の暗闇に落とされる、という怒りと審きの姿を表すところの慣用句でありました。この譬えの結果が教える厳粛な事実は審き日に列席者の中からはみ出される者がある、という事実です。確かに神はすべての人を招き、しかも誠実に熱心に招いておられる。しかし、では招かれればみな宴会の席に着けるか、というとそうではない、ということです。イエス様が特に選んだ使徒の中からさえ裏切り者のユダが出たではありませんか。この譬えで言われた「礼服」とは何を指すのでしょう。
7章21節には「主よ、主よ、と言う者がみな天国へ入るのではない、ただ、天にいます我が父のみ旨を行う者だけが入るのである」と言われました。18章3節には「心を入れ替えて幼子のようにならなければ天国に入る事は出来ないであろう」とあります。つまり「礼服」とは幼子のようにへりくだる謙遜さ、キリストを人前で言い表す信仰、律法学者やパリサイ人以上の義なる生活の全体ということです。言い換えると「礼服」とはガラテヤ書で言われている「キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを着たのでる」そのキリストであります。又、エペソ書4章22節以下に「滅び行く古き人を脱ぎ捨てて心の深みまで新たにされ神にかたどって造られた新しい人を着るべきです。」この新しき人に変えられる事こそ王の前に礼服を着ることであります。婚宴の招きに応える人は王の客に相応しい「礼服」をつけ、新しき人を着ることであります。では「礼服」は何処で手に入れる事が出来るでしょうか。譬えの中ではその必要性が強調されるだけで、触れられてはいません。何故か当時の人々には分かりきっているからです。まず、この招きは婚宴が開かれる直前に僕たちが通行人を一刻の猶予もなく王宮へ直行させたと思われます。誰もが礼服など持っていません。礼服は王宮で王からちゃんと支給されたのです。この習慣は広く行われていました。ところが1人だけ礼服をつけていなかった。この人だけ王から与えられる「礼服」を拒否したのです。彼は招きに応えて神の家に来た、しかし神の威光の前に出るのに必要な与えられる恵みの賜物を拒んだのです。ともかく神の子の婚宴に出る必要な礼服をないがしろにしたのです。神の栄光を表すに要する賜物を無視する人は永遠の地獄の暗闇に放り出されるのであります。神は私たちに溢れるばかりの恵みの賜物を与えて下さっているのであります。その神の賜物と、この神の招きを受けるに相応しい人生を送ってこそ、神の喜び、祝福に預かる事が出来るのであります。
アーメン・ハレルヤ
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2023年10月8 日 聖霊降臨後第19主日 市ヶ谷教会にての説教
聖書日課 イザヤ5章1-7節、フィリピ3章4b-14節、マタイ21章33-44節
本日のイエス様のたとえの教えは、聖書を読んだことのある人なら理解しやすいのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、所有者が送った僕たちは神が遣わした預言者たちを指す。これに乱暴を加え殺すことまでしてしまう農夫たちはユダヤ教社会の指導者たち、そして所有者が最後に送る息子はイエス様、という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。
これがわかれば、たとえの内容もわかります。天地創造の神は世界の数ある民族の中からイスラエルの民を自分の民として選ばれた。彼らはモーセを介して神から律法を授けられて、それを誇りに思い一生懸命に守ろうとした。ところが民の心は次第に神から離れていって、神の意思に反する生き方に走っていってしまった。社会秩序も乱れ悪と不正がはびこってしまった。
そこで神は民が自分のもとに立ち返ることが出来るようにと預言者を立て続けに送った。しかし、誰も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後の最後には愛するひとり子のイエス様を贈ったが、それさえも彼らは十字架にかけて殺してしまった。このように私たちは、イエス様のたとえをなんなく理解できます。でも、それは私たちが、イエス様が十字架にかけられたことを知っているからです。ところが、このたとえを十字架の出来事の前に聞かされたら、どうでしょうか?このたとえは当時のユダヤ教社会の指導者たちに向けて話されました。彼らはこれをどう理解したでしょうか?
指導者たちがこのたとえを理解できる手掛かりがひとつありました。それは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体の者のようにぶどう畑を持っていたという、これもたとえです。そこで、一生懸命働いて良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱくて、ぶどう酒に向かないぶどうが出来てしまった。そういうことを歌にして歌った後で神は、この恩知らずのぶどう畑はイスラエルの民の情けない現状である、と解き明しを始めます。ここでブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。その神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは一体誰か?キリスト信仰の観点からすればやはり御子イエス様を指すのは間違いないでしょう。
さて神は、イスラエルの民が良い実を実らせるように出来るだけのことをした。民を奴隷の地エジプトから解放して約束の地カナンに定住させた。その途上で律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってあげた。それなのに民は神の意思に反する生き方に走ってしまった。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、そういう当時の状況をよく言い表していました。さて、当時ユダヤ民族は南北二つの王国に分裂していましたが、北の王国は紀元前722年にアッシュリアという大帝国に滅ぼされてしまいました。南の王国はその後130年近く持ちこたえますが、これも紀元前587年にバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさにイザヤ書5章5~6節で言われるような神に見捨てられたぶどう畑のようになってしまったのです。イザヤが書き記した神の御言葉はまさに預言として実現してしまったのです。
イザヤの時代から700年以上経った後で、イエス様がブドウ畑と農夫のたとえを話しました。相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もそうでした。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に騒がれているイエスは、イザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。
実はイエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の現実が織り交ざっているという面もありました。どういうことかと言うと、ブドウ畑の所有者は農夫に畑を任せて旅に出ました。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。
そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、バビロン捕囚の経験からして神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。
それならば、所有者の息子とは誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことなのか?たとえを聞いた指導者たちはそう思ったでしょう。そして思い当たりました。そう言えば、このイエスは自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…という感じになった、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」
この答えの後でイエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22ー23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基になったのです。その石を捨てた、「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てたというのは、価値あるものを理解できない者であるとわかります。それは、先ほどの農夫同様に邪悪な者を指しているとわかります。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句をもとにして何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。
そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語で「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて、ぶどう畑のたとえを話されました。それは、イザヤ書のたとえはバビロン捕囚に至るユダヤ民族の過去の歴史で完結していないことを教えているのです。神の意思はイザヤの時代も今も変わらない、それなので神が望むような実を結ばなければ社会の衰退と混乱、国土の荒廃をもたらすだけでなく、神の国を受け継ぐ資格も失ってしまうと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されて500年以上も前にとっくに実現済みと思われていたことは、実はまだ続いているということを教えているのです。
ここまでイエス様の話を聞いていた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちとは旧約聖書に登場する預言者たちのことです。つまり、邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子を殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。
イエス様のたとえの中でまだ実現していなかったこと、神のひとり子が指導者たちによって殺されて、ユダヤ民族が神の国を受け継ぐ資格を失い代わりに異邦人が受け継ぐようになるということ、これはゴルゴタの十字架の出来事が起きることでその通りになりました。そしてイエス様の復活後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じるユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったわけですが、このたとえも過去のものとして片付けてしまっていいのでしょうか?
そうではないのです。このイエス様のたとえは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えているのです。イエス様の時代から2000年経った今でもそうです。現代の私たちの地点から見たら過ぎ去った過去のことを言っているにしか見えないかもしれませんが、今を生きる私たちにどう生きるべきか教えているのです。そのことがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目します。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくてずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族であるかどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族の指導者たちは取り上げられると言われて激怒したが、異邦人の私たちは与えられて嬉しいものなのか?
神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。
神の国は今は私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる日です。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして、神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。
その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。
このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間というのは、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。
神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えました。神との結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには、神との結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。
この問題を解決するために神はひとり子イエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのでした。話はそこで終わりません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。そこで今度は私たち人間の方が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見てもらえます。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって、感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。
ところが、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(13~14節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。神の国への迎え入れが賞として授与されるのです。
最後に「神の国の実を結ぶ」とはどういうことか見てみます。イエス様は、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言われました。先ほど述べたことからわかるように、罪の赦しという神のお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられます。ということは、罪の赦しのお恵みの中で生きて神の国への迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになります。つまり、こういうことになります。
キリスト信仰者というのは、罪の赦しのお恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向する者です。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何かご褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが何かの手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。それともう一つ。罪の赦しのお恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願う、そしてイエス様の犠牲に免じて罪の赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることになります。これも神の国の実を結ぶことです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。
牧師の週報コラム - SLEYは150歳になりました!
「フィンランド・ルーテル福音協会」(Suomen Luterilainen Evankeliumi-yhdistys -SLEY)は1873年にフィンランドのルター派国教会の中で活動する団体として結成されました。今年は150周年の記念の年です。
団体結成に至る背景は、1700年代のドイツや北欧のルター派教会をめぐる状況があります。当時のヨーロッパのイデオロギーの潮流は信仰よりも人間の理性に重きを置く合理主義が主流でした。それに対してルター派教会の中は、宗教改革の教義を厳密に体系化した正統主義が主流でした。そのような時に、信仰の危機を見て取った人たちが、信仰者個人の内面の敬虔さや「悔い改め」の体験を追求する「敬虔主義」と呼ばれる信仰復興運動を起こしました。これがドイツや北欧でまたたく間に広まりました。
フィンランドは1809年にスウェーデンからロシア帝国に併合されましたが、国教会制度はそのまま存続したので信仰面ではドイツ・北欧の影響下にありました。そのような時にF.G.ヘドベルイという牧師が、敬虔主義の主観的な救い観に対して、たとえ信仰者が罪に堕ちて敬虔さが傷ついても、主の十字架の贖いの業には何の影響もなく罪の赦しの恵みは微動だにしないということをルターの神学から見出して主張。それが多くの牧師と信徒の賛同を得て「福音派」と呼ばれる信仰復興運動が誕生しました。その運動が1873年にSLEYとして結成されたのでした。SLEYはまた国内伝道だけでなく海外伝道も始め、最初の伝道地として日本を選び1900年から宣教師を派遣して現在に至っています(「福音派」といっても現代の北米などの福音主義とは異なります)。
客観的な恵みと救いを強調すれば、聖書の御言葉も人間が勝手に手を加えられないものになり、SLEYは本質的に保守的です。フィンランドの国教会は近年リベラル化が進み、SLEYとは多くの軋轢があります。しかし、国教会の中には教会の現状を憂えSLEYに賛同する人たちも大勢いるのです。
先週の週末は全国各地のSLEYの教会や国教会の教会で150周年の記念礼拝や行事が一斉に行われました。ヘルシンキではSLEYの2つの教会の他に、観光名所として知られるテンペリアウキオ教会でも音楽聖餐式礼拝が行われ、若者を中心に700人もの出席がありました。Youtubeで見る
今回はかぎ針編みをします。かぎ針編みは現在も人気がある昔からの手芸テクニックの一つです。かぎ針編みで可愛い手芸がいろいろ出来ます。 今回はペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きを作る予定です。作りたいものをお選びください。
材料費は編み物により変わります。500円~
好みの糸や毛糸を持っていらしても大丈夫です。
手芸クラブは他に自分の好きな編み物をしたい方も参加できます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
お子さん連れでもどうぞ!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、 www.suomikyoukai.org
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106