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説教 「キリスト信仰者の自己肯定感といわゆる「信仰の成長」について」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書17章5-10節

主日礼拝説教 2022年10月2日(聖霊降臨後第十七主日)

ハバクク1章1~4節、2章1~4節、2テモテ1章1-14節、ルカ17章5-10節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の最初の部分は、イエス様の有名な「からし種」の話です。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は、何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。

 からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなので、イエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?

 もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?そんな疑問が生まれます。からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。果たしてそうなのか?以下に見ていきましょう。

2.キリスト信仰者の自己肯定感

最初に、召使いを労わない主人のたとえを見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指しているからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇用者と被雇用者、親と子、先生と教え子の関係ではありません。

 神が命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、突き詰めて言うと、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。これでは、自己肯定感なんか生まれません。

 ところが、神は、私たちにとって労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても私たちは全然平気だ、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はイエス様を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この与えられた神のひとり子の償いを手放さずにしっかり携えてこの道を歩み続けると、かの日、創造主の神のみ前に立たされる時、大丈夫、何もやましいところはない者として見てもらえると安心して立つことができます。本当を言うと、失敗だらけ至らないことだらけだったのだが、その度にいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを祈った。すると、一度打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにある、だから心配しなくてもよい、といつも神から言われた。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで満たされて再び永遠の命の道を歩み始めることが出来た。永遠の命の道とは、このように繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道を歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでその人はかの日に神のみ前に心配せずに立つことが出来るのです。

 ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰を携えて歩めたおかげで、神のみ前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はこの私にイエス様を贈って下さったのだ。

 このことがわかると、やるべきことをして労われて誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を犠牲にしてして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ。これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しないでいられる自己肯定感です。別に見返りなんかなくても平気でいられる自己肯定感です。

 もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。それなので、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきた時、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。

 本日の旧約の日課ハバクク書の箇所には、周囲は不正と暴力が溢れ、正義が歪曲されてしまった状況が描かれています。その中で、神の義に生きる者はどうしたらいいのかという問いに対する答えがあります。それは、神の救いの約束はなかなか実現しないように見えても、必ず実現するから、神の意志に反する者たちの言うことを聞くな、神の意志に従えば永遠の命に与れるということを明らかにしています。このことは、イエス様が来られる前の時代には確信を持つことは難しかったかもしれません。しかし、イエス様が来られた後は神の約束は実現すると確信が持てるようになったのです。この確信を得たキリスト信仰者は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を与えられているとパウロは本日の使徒書の日課第二テモテの個所で述べています。

 それなので、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の関係から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、果ては選挙で投票してもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。自己肯定感のためにやっていたはずのことが、いつの間にか肝心の自己が周囲や便宜を図る者に造られていっていまうのです。

3.からし種のように成長するのは信仰か?

次にからし種のたとえの教えを見てみましょう。イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうのではと思わせます。それで、お前たちは、せめてからし種くらいの信仰を持て、そうすれば奇跡を起こせるぞ、と言っているように聞こえます。イエス様は本当にそういうことを言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?

 まず、イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。後の文と一緒にしてみると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示します。そうすると、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、あなたがたにはないことを前提に言っていることになります。高校の英文法で言えば、事実に反することを暗示する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。つまり、ここは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っていないとも持っているとも言っていないのです。そして不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを暗示しています。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろうが、実際にはお前たちは命じないだろうから、桑の木も実際にはそういうことをしないだろう」という意味です。

 さあ、混乱してきました。今まで多くの方が理解していた理解がぐちゃぐちゃになってきたと思いますので、整理してまいりましょう。

 からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。

 このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長することに関係しているということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。ここで問題になるのは、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは、神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う者が持てないような「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。

 それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、キリスト信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神のみ前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところはないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。「恵みの賜物」は異なっていても、これだけは全員同じです。

 そこでもう一つ大事なことを申し上げます。「信仰が成長する」とよく言われますが、正確には「信仰を携えて私たちが成長する」ということです。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰ですが、それが成長するのではなく、それを携えた私たちが成長するということです。どういうことかと言うと、先週スオミ教会の礼拝の後で聖書研究会を行いました。学んだ箇所はローマ10章1~13節。かつてモーセは、律法は難しくない、それは人間が行えるようにと口と心の中に置かれているのだ、と教えました。それに対してパウロは、人間を罪の支配から贖い出して下さったキリスト自体が信仰と洗礼を通して人間の口と心の中に置かれているのだと教えました。それで、かつては、口と心の中にある律法を行うことで人間は神から義と認められて救われるということだったが、今度は、口と心の中にあるキリストの贖いを、口にあるからそのままイエスは主である言い表し、心の中にあるからそのままイエスは死から復活したと信じれば義と認められ救われるのだ、と教えたのです。パウロにとって信仰とは、キリストの贖いが口と心の中にある位に身近にあって、それで口でその通りに言い表して心でその通りに信じることなのです。

 それなので、キリストの贖いを口と心の中に持つキリスト信仰者は口でその通りに言い表し心でその通りに信じることを、この世の人生の中で行う。これが信仰を携えて成長することです。それはあたかも、口と心の中にあるキリストの贖いという大きなものに小さな自分を適合させていくようなことです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出すという繰り返しがあります。その繰り返しをすることもキリストの贖いを口と心の中で携えて成長することです。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になります。その時が復活の日なのです。

 こういうふうに見ていくと、イエス様の主眼とするところは、だんだん、奇跡の業を起こせることで信仰が大きいとか小さいとか判断することをやめよ、ということになっていきます。先にも申しましたように、奇跡の業を起こせることは「恵みの賜物」の領域で人間が立ち入ることは出来ません。奇跡の業を起こせて信仰が大きい起こせなくて小さいという問題ではないのです。イエス様は弟子たちに、お前たちがそんな考えにとらわれているんだったら、これでどうだ、と言わんばかりにこのからし種の話を出してきたことがわかります。奇跡の業を起こすのは別に大きな信仰なんかではないと思い知らせるために、奇跡の業をからし種のような極小のものに結びつけて見方をひっくり返す。そして、奇跡の業の例として取り上げたものも、たまたまその辺に生えていた桑の木を指さして、その木が自分から抜け出して海に行ってそこで生えるというような、あまり意味のないどうでもいいものにする。このように見ることができれば、イエス様の主眼は一般に言われるような、お前たちはからし種位さえの信仰もないので奇跡は起こせない、せめて、からし種位の信仰を持て、そうすれば起こせる、ということではありません。そうではなくて、奇跡の業を起こすのが大きな信仰ではない、信仰者にとって大事なのは神から与えられたキリストの贖いの信仰を携えてからし種のように成長することである、ということなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。

(後注2)εχετε - ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk–Svensk Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

9月28日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」吉村博明 宣教師、テモテへの手紙一 6章12節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 9月28日19時45分~

聖句 テモテへの手紙一 6章12節
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され…」

宣教師の週報コラム 魂ケア

 教会員の皆さん、「魂ケア」にどうぞ

 フィンランドの大学の神学部には「魂ケア」という科目があります。 何を学ぶかと言うと、悩み事その他なにか心に引っかかるものがあって一人ではなかなか平安を得られなくなってしまった人の話し相手や聞き役になって一緒に解決の糸口を見つけるということです。牧師が授業を担当し、学生同士で事例について話し合い、最後は病院に派遣されて実習をします。

これを聞くと、それは日本の神学校で行われてる「臨床牧会教育(CPE)」や「牧会カウンセリング」のことではないか、と思われるでしょう。授業には、「悲しみと向き合う作業」という課題もあり、これなども近年日本でもよく耳にする「グリーフ・ケア」のことでしょう。

私個人としては、「臨床」とか「カウンセリング」と聞くと、専門医学的な感じがして身構えてしまうのでフィンランド的に「魂ケア」の方がしっくりします。それに加えて、コンテクストの違いもあります。フィンランドでは国民の大多数はルター派国教会の会員なので話をする相手は間違いなくキリスト信仰者ということになります。それなので「魂ケア」は、話す側も聞く側もルター派のキリスト信仰の枠組みの中にいて共通の言語を用いることが出来るということがあると思います。ところが、日本ではキリスト信仰者は全人口の1%という圧倒的少数派な上、教派も様々です。「枠組み」とか「言語」においてフィンランドとは比べものにならない難しさがあると思います。それで日本では、「臨床」とか「カウンセリング」という学術専門的な言い方が相応しくなるのかもしれません。

そうは言っても、フィンランド社会もこの2030年の間に大変貌を遂げました。私が神学部で勉強していた2000年代初めは国教会所属率はまだ80%台、「魂ケア」の教科書も所属率が90%以上の頃に書かれたものでした。今では所属率は60%台、ヘルシンキ首都圏では50パーセント台です。きっと、「魂ケア」の科目も変貌したと思います。

とは言っても、教会員の皆さんは同じ枠組み、共通の言語を手にした方たちです。それらを活用し鍛えない手はありません。是非「魂ケア」にどうぞ!(ヨシムラ)

説教「イエス様の十字架と復活は旧約聖書を繙く者に絶大な力を発揮する」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書16章19-31節

主日礼拝説教 2022年9月25日(聖霊降臨後第十六主日)
アモス6章1、4-7節、1テモテ6章6-19節、ルカ16章19-31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. この話は単なる道徳論か?

本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくご自分で創作した話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?

 まず、金持ちがいて贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていた。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

 ラザロという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら叶わない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを無視して贅沢三昧な生活を続けていました。

 さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので葬式が挙行されました。16億6千万円位する国葬級ではなくとも、さぞかし盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も書いてありません。きっと遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

 ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事はほんの序論にすぎないと言えるくらい、本論がここから始まるのです。金持ちは、盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちに天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。

 金持ちは、聖書の観点から見て、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、神に服従せず富に服従したからです。それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方です。つまり、二重の罪というわけです。もし、富にではなく神に服従して、富の主人になって、それを神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人はキリスト信仰者であってもなくても、ああ、イエス様は利己的に生きてはいけない、困っている人を助けてあげなければいけない、と教えてるんだなと思うでしょう。ところで、利己的に生きてはいけない、困っている人を助けなければいけないというのは、別に聖書の神の掟を持ち出さなくても、誰にでもわかる道徳的な教えだと思われるかもしれません。それに、良いことをさせるため、悪いことをやめさせるために天国や地獄を持ち出すのは時代遅れのやり方だ、今はもっとスマートな議論をすると批判されるかもしれません。このように本日の個所は道徳的な教えにしかすぎないように見えてきます。

 しかしながら、本日の個所のイエス様の教えの中心は、利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ、ではありません。もしそれが中心なら、別にキリスト教なんかいりません。本当に中心にあるものがあって、そこから、利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ、という規範が派生して出てくるのです。その中心にあるものを把握しないと、本日の個所は別にキリスト教でなくてもいい道徳論になります。

 それでは中心にあるものとは何か?それを見つける鍵は、この話の最後にあります。金持ちがアブラハムに言います。「父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」「悔い改める」というのは、ギリシャ語のメタノエオーという動詞です。神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになるという方向転換を意味します。うなだれて反省しまくっているのとはニュアンスが違います。これに対してアブラハムが答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。「その言うことを聞き入れはしないだろう」も正確な訳は「納得しないだろう」とか「確信に至らないだろう」です。何のことかと言うと、先ほど述べた「悔い改め」、「方向転換」する位に納得しない、する位の確信を得られないということです。それでこの最後の部分の正確な訳は以下に掲げます。因みに「モーセと預言者」と言うのは神の掟が集大成されたモーセ五書と全ての預言書のことで、大雑把に言って旧約聖書のことです。「もし、モーセの律法や預言書に記されていることに耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、方向転換をすることはないだろう。」

2.キリスト信仰の天国と地獄について

 このアブラハムの言葉の中にイエス様の教えの中心があるのですが、それを解き明かす前に、一つ大事なことを確認しておきます。それは、キリスト信仰の天国と地獄はどういうものかについてです。これは、以前の説教でもお教えしたことです。

 この個所は普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」です。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。

 「陰府」と「地獄」の関係について少し見てみます。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした殉教者たちが最初に死から復活させられます。その次に、それ以外の人たちが復活させられます。この者たちは前世での行いに基づいて裁判を受けます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4ー6節)。これが最後の審判です。この後で天と地が新しく再創造されて今の私たちの天と地に取って代わり(21章1節)、神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。このように神の国とは復活を遂げた者たちが一堂に会するところで、キリスト信仰で天の国、天国というのはこのことです。

 そうすると、天国とか地獄というものは、将来、最後の審判や復活や天地の再創造が起きる時になって迎え入れられるところ、投げ込まれるところになります。それなので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と教えています。ルターは眠りの場所を「陰府」と言っていませんが、復活の出来事が起きる前には、そのような眠りの場所があるのです。

 そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の海に投げ入れられるかはまだまだ先のことで、今の天と地が存在する今の段階ではどこかで安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われます。でもそうなると、最後の審判や復活や天地の再創造が起きていなければならない。ところが、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判は来ていません。そうすると「地獄」でなく「陰府」が正確と思われます。しかし、金持ちはもう眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。まだ最後の審判は起きていないのに。一体これはどういうことでしょうか?

 この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVは、このハーデースを陰府ではなくhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では地獄ではなく陰府を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳せざるを得ませんでした、そう断っています。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、別のEinheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltという訳で「陰府」です。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、「地獄」とはしっかり区別されています。

 どうしてイエス様はこの個所で、地獄と考えられる場所を「陰府」と言ったのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、事の順序にこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、最後の審判と復活が起きて今ある天地がなくなった後のことです。全人類が対象となる、天国への迎え入れか地獄への落し入れかの選別が起きた後のことです。ところが、金持ちはアブラハムにラザロを父親の家にいる兄弟のもとに送って下さい、そうすれば彼らは悔い改めますから、などと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまったら、最後の審判と復活が起こったことになってしまいます。その場合は、今の天も地も父親の家もなくなって、兄弟たちも裁きの座に引き渡されて、ラザロを送ってあげるどころではなくなります。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。それでイエス様は火の海を地獄ではなく陰府と言ったと考えられます。こうしたことは、自由な創作をすれば起きると思います。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで事の順序にはこだわらなかったのでしょう。

 これから、その大事なこと、イエス様の教えの中心に入っていきますが、その前に天国と地獄についてもう一つだけ述べておきます。聖書の立場では人間は死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、ということにすると、聖書には例外もあるということも覚えてよいかと思います。つまり、最後の審判や復活の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人たちがいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記下2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもその一人と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、最後の審判や復活の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうか?これはもうそこにおられる父なるみ神だけがご存じです。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。

 日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった人が今天国から見守ってくれているという言い方をよくします。「天国」というキリスト教的な言葉を使うのですが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。その日まで眠りについているという考えもありません。それなので亡くなった方とコミュニケーションを取り続けます。そこに祟りとか呪いということを持ち出す輩につけ入れられる危険があると思います。しかし、亡くなった方が安らかに眠ってしまったら、コミュニケーションは取れないし、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と大方の日本人は心配するでしょう。でも、キリスト信仰では天と地と人間の造り主である父なるみ神が唯一のコミュニケーションの相手であり見守ってくれる方なので何も心配はいりません。

3.イエス様の教えの中心にあるもの

 それでは、イエス様の教えの中心に迫ってみましょう。アブラハムの言葉「モーセの律法と預言書に耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、方向転換はしないだろう。」実はこれは、イエス様の言葉です。アブラハムの口を借りて言わせたのです。それで教えの中心はここにあります。この言葉は逆に言うとこうなります。「モーセの律法と預言書に耳を傾けるのなら、誰かが死者の中から復活したら方向転換するだろう。」どうしてそのようなことが起こるのでしょうか?

 律法というのは、神が人間に与えた掟ですが、それはイエス様やパウロが教えたように、人間がいかに神の意志に反するものであるか、人間の神に対する罪性を明らかにする鏡のようなものです。律法を神から授かったイスラエルの民は、それを守ることで神から認められて永遠の命に与れると考えました。そうではなかったのです。律法は、人間の心の中まで入り込んで人間が神の目に相応しくないものであることを明るみに出す神聖な光だったのです。

 人間は、律法のこの役割を知った時、絶望と悲しみに襲われます。しかし、旧約聖書には預言書があります。そこには神から大いなる慰めがあるという約束、それと罪のゆえに陥った悲惨な状態から復興できるという神の約束が記されています。なかでもイザヤ書53章は、人間の神の意志に反する罪を人間に代わって償ってくれる者が現れる、その者は自分を犠牲にしてそうしてくれる、神もその者の償いで十分と認めるという預言があります。

 このように律法と預言書に耳を傾ける者は、悲しみと絶望を持つが同時にそれらを超える喜びと希望があると信じる者です。そこにイエス様の十字架と復活の出来事が起きると大変なことが起きます。イエス様はイザヤ書53章の預言通りに、人間の罪を全て引き受けて神の神罰を受けられました。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。神のひとり子が自分を犠牲に供したのです。完璧な罪の償いでした。さらに神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世の示されました。そこで人間が、これらのことは神が自分のためにして下さったことだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この罪の償いを自分のものとすることが出来、復活に至る道に置かれて復活を目指して道を歩み始めます。道の歩みではいつも変わらぬ神の守りと導きがあり、たとえこの世から別れる時があっても、復活の日まで眠りにつけ、その日が来たら復活の体を着せられて造り主である神の御許に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所です。

 こんな大きなことをして下さった神に対して信仰者はただひれ伏して感謝するだけです。その時、神の意志に沿うように生きるというのが当たり前になっています。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するがごとく愛することが当たり前になるのです。そこでは、律法は永遠の命を得るために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。

 このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意志に沿う生き方を志向するのですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意志に反する罪があることに気づかざるを得ません。神の意志によく注意するようになるので、信仰者になる前よりも敏感になります。気づいた時は失望します。怒りに変わることもあります。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、怒りはヘリ下りに変わり、自分に対する失望は神に対する感謝に転化します。自分が復活の道から踏み外していないことがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意志に沿うように生きようと志向します。このようにキリスト信仰者は方向転換を何度も遂げながら進んでいくのです。

 そうすると、キリスト信仰者でない人たちはどうなるのでしょうか?律法や預言書に耳を傾けることもないので、イエス様の十字架と復活の出来事を伝えても何のインパクトもなく、神に向かう方向転換もできないまま固定されていまうのでしょうか?

 その心配は必要以上に抱かなくても大丈夫かもしれません。どうしてかと言うと、信仰者は、自分の場合どのようにしてイエス様の十字架と復活がインパクトを持つようになったかを思い出してみて下さい。洗礼を受ける前、ひょっとしたら旧約聖書はそんなに繙いていなかったという人が案外多いかもしれません。しかし、それでもイエス様の十字架と復活がインパクトを持って洗礼を受けるに至ったという事実は否定できません。洗礼の後でそのインパクトを眠らせないために旧約聖書をもっと繙くようになるということもあります。

 それでは、そのような人はどうやってイエス様の十字架と復活がインパクトを持つようになったのでしょうか?私が思うに、多くの人は自分で気づくか気づかないか、大体次の3段階の問いのプロセスを辿ったと思います。まず第一段階で、自分は造り主に造られた存在であるか? a)造り主などいない、b)造り主に造られた。bと答えたら第二段階に進む。そこでの問いは、造り主と自分の関係はどうか? a)何も問題ない、b)何か問題がある。bと答えたら第三段階に進む。そこでの問いは、造り主との問題をどう解決するか? a)自分の力で解決する、b)自分の力で解決できるか自信がない。ここでbと答えたら、イエス様の十字架と復活がインパクトを持つ可能性大です。また、どこかの段階でaと答えて先に進めなかった人も、後日何かのきっかけで考えや見方が変わって一つずつbと答えるようになるかもしれません。私たちキリスト信仰者はそのようなことが起こるよう祈らなければなりませえん。また、彼らがb、b、bでいいんだと確信持てるためにも、私たち自身イエス様の十字架と復活のインパクトを眠らせないように生きていかなければなりません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

聖書研究会

テーマ「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」
聖書箇所 ローマ10章1~13節

吉村博明 宣教師の週報コラム 2022年9月18日

宣教師のフィンランド国内支援教会訪問について

フィンランドのルター派国教会の海外伝道の仕方は、それぞれの教会が宣教師を派遣するという形ではなく、 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のような国教会公認のミッション団体が宣教師を養成・派遣し、国教会内の教会がそれを支援するというやり方を取っています。国教会内で私たちヨシムラの日本伝道を支援する教会は12あります。その他にも3教会が派遣宣教師に関わらずスオミ教会を支援し、あとSLEY傘下の3教会もスオミを支援しています。

今年は、ヨシムラを支援する教会を7つ(オウライネン、ヴァ―サ、ユルヴァ、ライティラ、マスク、ヴァハト、パイミオ)とスオミを支援する教会を1つ(コウヴォラ)を訪問しました。今年の訪問先は、北のオウライネンが滞在地トゥルクから550キロ、東のコウヴォラが350キロと拡がったため、移動距離は延べ3,500キロになりました。

教会訪問で何をするのかと言うと、訪問日が日曜日の時は礼拝の説教を担当し、平日ならば小礼拝や各教会の海外ミッション行事を担当します。今年は2つの教会で説教が予定されていましたが、一つは都合により交替になったので、教会堂での奉仕は説教1つ、平日小礼拝1つでした。

海外ミッションの集会は、プログラム本体は大体2時間位で、最初30分位のコーヒータイム、讃美歌、牧師の挨拶とメッセージ、吉村から日本一般及びキリスト教会の動向の報告、讃美歌、パイヴィからスライド写真を交えてのスオミ教会の伝道の報告、讃美歌、質疑応答、祈り、讃美歌という内容がどこでも同じです。開始の30分前までに到着しなければならず、終わった後も参加者との懇談は続くので実質4時間位の仕事になります。今年は2日がかりの行事が2教会でありました。

この他にも、教会の地元の小中学校や高校や施設の訪問、教会役員との懇親会等もあります。今年は学校訪問はありませんでした。近年では、国教会と言えども公立学校に宣教師を招くというのは信教の自由からよろしくないという見方が、国教会所属率が低下している南部を中心に強まってきています。(ヨシムラ)

2022年9月18日(日)聖霊降臨後第15主日 主日礼拝

 

「光の子らよ、目覚めよ」                     2022年9月18日(日)スオミ教会

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。 アーメン

聖書ルカ福音書16章1-13節

今日は、経済の話をします。経済と言ってもですね、物価高とかインフレと言った、ふつう、私たちが考える経済じゃあありません。

聖書の中で話された「イエス様のたとえ話」です。

イエス様は時々、難しい話をされました。

今日の福音書で、弟子たちに語られたたとえ話も、まさに最も難解な箇所と言われるところです。

ある牧師はこう言っています。

「イエスのいくつかのたとえ話のうちで、最も議論を呼び、最も危険を含んだものの1つである」と。

イエス様が語っておられるたとえ話を聞いているのは、どんな人たちであったでしょう。

もちろん、イエス様といつも一緒にいた、12人の弟子たちです。その他にも多勢いの人々がいました。

ルカは15章の始めの所で書いています。

【徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、言い出しました。「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」と不平を言いだしたのです。

そこで、イエスは次の「たとえ」を話された。」とあります。

 たとえの始めには「ある金持ちに一人の管理人がいた。」とあります。この当時、管理人というのは、地主が遠くにいて、その土地を小作人に貸したり又その代金をいろんな型で管理する、その権威の一切をまかされていたのです。ですから大事な財産の一切をまかせるからには主人は絶大な信頼をおいていた事になります。

ところが、この男が「主人の財産を無駄使いしている」とつげ口する者があった。いわば不正をしていた事がバレて、訴えられたわけです。主人は彼を呼びつけて言いました。「会計報告をだしなさい、もう管理を任せておくわけにいかない」。あれほど信頼して一切をまかせたのに裏切られたわけです。

もうここでは主人に対して釈明する余地がありません。全く信頼できない。後任へ引き継ぐための報告書を出しなさいと断言しているんです。さて管理人は困りました。そして考え込んだのです。

これから、どうしようか。肉体労働する力もないし、かと言って物乞いするのもはずかしい。

そうだ、こうしよう、と彼は一計を案じたのです。管理人の仕事はクビになった。でも自分を家に迎えてくれるような友を作ればいいのだ。あとはそれから考えていけばいい、とぐらい思ったでしょう。

そこで、彼は主人から借りていた者たちをひそかに1人1人呼び出して、最初の者に言うわけです。「私の主人にいくら借りがあるのか」すると「油100パトスです。」彼は言いました「これがあなたの借りている証文だ、急いで50パトスと書き直しなさい。」100パトスという量がどれくらいなのか。

この当時の油100パトスは今で言えば約2300ℓというすごい量です。

そして、次の者に「あなたはいくら借りがあるか」と言うと「小麦100コロスです。」ではそれを80コロスと書き換えなさい。両方とも巨大な量を約半分にしてあげているわけです。

もともと管理人だった彼は不正な財産管理をして横流しして自分のふところに入れていた、それに

加えて借金の証文を書き換えさせるというとんでもないことをしていて、とてもほめられるべき行為ではない。危機に直面してなりふりかまわず、生きのびる道を画策したのです。

現代の私たちはこの不正な管理人を許せない!と思う。どうでしょうか。

ところが、8節を見ますと、このたとえで主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を「ほめた、」とあります。主人の財産をうまいこと横どりして自分のものにしている、あげく、証文を書き換えさせている、というのに主人がなぜほめているのでしょうか。私たちには納得できない難しいところがあります。このたとえ話をどう解釈したらいいのでしょうか。そこに難しさがあり、危険性もある、というわけです。私たちは、この当時の時代背景を知らないとこの難しい経済はわからないのです。

律法学者たちを代表するユダヤ教の世界では同胞に対して利息を取ることは禁じられていました。

しかし、金銭や食物等による商取引の場合には利息を含めて貸借をする習慣があったのです。

律法の精神は貧しい者から搾取してはならない。しかし、相互に利益になるようであれば、利益を相互に分け合うのだから禁じられてはいなかった。つまり、ある人が貸し与えられた以上は彼は

何ほどかの物を持っているわけだから貧しいとは言えない。

例えば、このたとえ話で、小麦100コロス貸し与えられた者はその小麦を持っているわけで貧しいのではない。その貸し与えられたものに、利子が含まれるのは当然のことです。ところで、小麦の場合100のうち20はすでに利子分として含まれているから証書には利子分は記されていない。

20の利子を含んだ100の全量として書かれているのです。通常、こういう取引にはいちいち主人に報告せず管理人の裁量にまかされていたのです。

この解釈によると、このたとえ話で管理人が解雇されるという危機に直面して取引証書を持ち出して、負債者が利子を払わなくてよいように利子分を書き改めさせた、といことになることで油の証文を100→50に直しています。つまり割引いたのは利子分であった、ということです。油が半分は利子であった、のは油の取り扱いで陰でよく水まし等されていたから利子の率が高いのが普通であった、というわけです。100のうち半分は利子であった、というわけです。

彼は利子の分を書き直させ、負債者は大喜びです。彼の将来の自分の地位と身の安全を負債者からあがない取ったのです。つまり恩を売ったのです。さて、主人はどうですか、利子の分は別として実質的に何も失ったわけではない。友人の便利をはかってやって援助してやった、ということで主人は周りからありがたがられているわけです。たとえ利子が管理人のふところに入ったとしても

貪欲の避難を受けないため主人は管理人の行為をいちいちとがめない。主人の利子分を差し引いたな、等と言われない。主人は太っ腹のふりして見て見ぬふりするしか他になかった。そういう習慣がこの当時あったのです。それで八方丸くおさまったわけです。

だれも損しない。そこで主人はこの管理人の「利口なやり方」をほめたのです。

たとえ話は7節までで8節後半はこのたとえ話をされたイエス様のコメントが記されています。

つまり、イエス様はご自分の12人の弟子に向けてこれからの生き方への姿勢にきびしい警告をなさっているわけであります。8節b「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」そして9節の言葉には、こうあります。「そこで私は言っておくが不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば金が無くなった時、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」

つまり、友人のために富を尽くした者には天使たちが迎えに来て、永遠の住まいに入れられるだろう。富は元来、自分のためではなく、友だちのため、まわりの必要としている人々のために用いてこそ、それは自分の永遠の安らみが用意されていることになる。

矢内原忠雄という先生の解説にはすばらしいものがあります。

この世の子らは、主人顔して時代の中で勢力を占めているがいきすぎ行くこの世だけである。永遠の神の国に於いては彼らはもはや威張ることはできない。この世の子ら、すなわち神を信じないこの世の人々はこの世のことに於いては実に巧妙に振る舞うのである。一方、神を信じる光の子らは、この世渡りの巧妙さにおいてはとうてい彼らに及ばない。しかしこの世の子らが、この世の生活において持つ用意に比べて、光の子らは神の国の生活に対して持つ用意が劣るようではならない。

見よ、あなた方は、いつ、あなた方の「富める人」すなわち神からあなた方に託されている財産の管理状況を求められるかわからないのである。神からあなた方に託された、あなたの命、あなたの体。あなたの精神、あなたの学問、あなたの信仰、あなたの財産、すべて、あなたは自分の利益のために使いこみはしなかったか。その不始末に対してあなたは神のさばきを免れないであろう。

あなたが、この世を去るべき日が来るであろうその時、あなたは、あなたの身をよせるべき安住の場所を準備していますか。

あなたを家に迎えてくれる友を得るために心を働かせよ。それだけの知恵と用意をあなたは払うべきではないか。あなたにとって友の中の友は誰ですか。あなたの真の友、それはイエス・キリストであります。この世でのあなたの生涯の富も、財産も、力も、知恵も、体も、精神も、そのすべてをキリストを友とするために働かせなさい。この世で、たよりとしていたすべての富が失せる時、なくなった時、あなたの永遠の住まいに迎えてくれる最大の友はイエス・キリストであります。さて、イエス様は1節から9節のたとえを語られて更にこの話をきいている弟子たちに大事なことを語られます。それが10~13節です。なぜ不正な管理人は主人からほめられましたか。それは彼の巧妙さを感心されたのであって忠実ではない。彼は主人の所有物を取ろ扱うことにおいて忠実ではなかった。彼は主人をうらぎったのです。

この世の事だから、これを管理し、処理するのに不忠実であっても良いということではない。この世の事は神の国の事に比べて小さい事です。しかし、

小事に忠実でないものは大事についても忠実ではない。この世の事柄の処理に於いて忠実な人は神の国の事柄についても忠実であります。自分に託された仕事が、いかに小さい、この世の事柄であっても、それを忠実に果たす心のある者に神の福音を宣べ伝える任務が託されるのです。

あなた方に管理を託された「不義の富」すなわちこの世の富は本来あなた方のものでなく、この世の人の財産の所有であります。すなわち、人のものであります。しかし、それを扱うについて忠実でなければ、あなた方のものである「真の富」すなわち、神から出る永遠の生命を与えられることはない。

あなた方の主人は神である。従ってあなた方のこの世に於ける生活の目標は神に仕えることでなければならないのです。「神と富に仕えることはできない。」と13節にあります。しかし、神に仕えるということは、この世に於ける働きには身をいれて忠実に働かなくてよい、ということではありません。

神に忠実に仕える者はこの世の小事にも忠実な僕となる、ということです。

これに反して富を主人として、これに仕える者は、ただ神の国の永遠の生命をつがないだけでなくこの世の富についても忠実には管理しない者です。たとえで言うあの不正な管理人が主人の財産の管理に忠実でなかったのは彼が真の神に仕える信仰をもたず神の国に於ける永遠の生命を目標として生きなかったからです。従って彼は主人の利益を害してでも自己の利益を計ろうとしたのです。この不忠実な自己の利益のみ頭がいっぱいで、まことの主人をないがしろにした事は決してゆるされることではありません。

イエス様の弟子たちへのメッセージ です。「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。だから、ひぁりの子らよ!目を覚ませ!この世の子らより、賢く、主人である神さまから賜っている宝を、光り輝かすため、充分に用いて活かしなさい。

<祝福>

人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン

 

2022年9月11日 聖霊降臨後 第14主日礼拝 本日は講壇交換日ですので礼拝は河田先生にお願いしました。

河田優 牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)

説教題

ルカ15:1‐10 「誰一人取り残さない」

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

(説教者は初めに)私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

ルーテル学院大学・神学校でチャプレンをしております河田です。本日は与えられた日課から、このように共に福音を分かち合う機会を与えられて感謝です。

本日は福音書の個所から「誰一人取り残さない」という説教題をつけさせていただきました。これは国連が呼びかけているSDGsの取り組みへのキャッチフレーズでもあります。

皆さんもよくご存じだと思いますが、まずはこのSDGsの取り組みついて簡単に紹介します。

国際連合は2015年から「持続可能な開発目標」のアルファベット頭文字を取って、SDGsと名付けた取り組みを始めました。それは、世界中の人々にとってよりよい、より持続可能な未来を築くための活動です。

まずは現代の世界にある課題を17の項目としてまとめます。そしてそれらの課題の解決を目指して、継続して具体的に取り組んでいくのです。

この17にのぼる項目を少し紹介すると以下のようなものです。

貧困をなくそう

飢餓をゼロに

すべての人に健康と福祉を

質の高い教育をみんなに

などです。

それぞれが現在の世界の諸課題であることは一目瞭然なのですが、ここで気づかされることはそれぞれの諸課題というのは、なにがしかの形で関連し合っていることです。

たとえば、貧困と飢餓の問題は密接に関連していますし、そのために社会の中で福祉が整えられていく必要があるでしょう。その時には人権が重んじられますし、平等が唱えられ、誰もが正しく学ぶ機会が与えられて行かなければならないでしょう。

つまり、ここにあるように一つ一つの課題は、相互に関連しているのです。

ですからSDGsの取り組みとしては、これらの課題のいくつかだけを選択して解決していくのではなく、これらの課題のすべてに目を向けつつ、それらの課題の中に生きざるを得ない人たちの誰一人取り残すことなく働きかけていくことを目指しているのです。

このことは、すべての課題が解決に向かうことは、一つ一つの課題の取り組みの結晶であるし、逆に言うとその課題の中で誰か一人の人が取り残される限り、すべての課題の解決とは言えないこととなるのです。

今回の説教題はこの「誰一人取り残さない」というSDGsのキャッチフレーズからつけさせていただきましたが、それは本日の日課、特に「見失った羊のたとえ

としてよく知られているこの聖書個所を考えるうえで大きなヒントになると思ったのです。

それでは、聖書個所を振り返りましょう。

今日の福音書はまずファリサイ派の人びとや律法学者たちが、徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスに対して不平を言うところから始まっています。

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

ここに登場する徴税人や罪人は、律法によると神の救いに相応しくない人たちとされていました。そのような人たちと食事をするとは何事か、けしからん、というようなことです。イエスは新しい教師として人々を教え、導いているが、律法学者たちは、自分たちが重んじる律法に適わないイエスの行為にいら立っているのです。

そこでイエスは「失われた羊」のたとえを語るのです。

ある羊飼いが登場します。この羊飼いに100匹の羊が飼われています。ところがある時、そのうちの一匹がこの群れから迷い出てしまうのです。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

イエスが語るこのたとえ、失われた羊を捜し求める羊飼いはイエスご自身のことでしよう。そしてこの羊飼いに飼われている羊たちはこの時代の人々のこと、特にユダヤ人たちを表しているでしょうが、私たちがこのたとえを聞くとき、この羊とは今を生きる私たち自身のこととして受け止めることができるでしょう。

この羊の群れから一匹の羊が抜け出し、羊飼いは野原に他の羊を残してまでも、その失われた一匹の羊を捜しに行くというがこのたとえです。

4節には「見つけだすまで捜し回る」の言葉があります。これは、羊飼いは失われた羊をけっしてあきらめない。最後には必ず捜し当てる。ということです。そしてイエスはご自分こそ、そのような羊飼いであると告げるのです。迷子になった一匹の羊を自分の姿になぞらえる私たちは、この言葉に大きな慰めを受けるのです。

また、このたとえの面白いところは、いなくなった羊とは特に優れていた羊とも何とも書いていないことです。この羊は、他の羊に比べてみて羊飼いから特別扱いを受けていたわけでもなさそうです。名もなき小さな存在でしかなかったのです。

でも羊飼いは、他の99匹の羊を野原に残しておいても、この一匹を捜し出すのです。

私たちの生きる世界では、むしろこのようなことはあり得ないことではないでしょうか。

99匹の羊が残されてしまうと言うことは、その羊たちにも危険が迫ると言うことです。ばらばらに迷い出るかもしれません。居なくなった羊は特別な羊ではなかったのですから、冷静に考えると99匹を守り、迷子の羊を諦めてしまう方がより賢いやり方と思われます。

ただその中で、このイエスの教えが私たちの心に響いてくるのは、この羊飼いは、たった一匹の羊のことがどうしても心配で、決して一匹でも自分の前からいなくなってしまうことが悲しくて寂しくて、この羊を捜しに行かずにはおれなかったということです。

そのように考えたときに、この迷いでた一匹の羊の救いは、野原に残った99匹の羊の救いにもつながることが分かります。迷い出た羊は特別ではなかった。ちっぽけな存在だった。でも羊飼いは見捨てなかった。大切な存在として愛しぬいた。つまり残された99匹の羊たちも束にして数えられる羊ではなくて、一匹一匹がこの羊飼いに愛されている羊なのです。

今度はいつ、この自分が迷い出てしまうかもしれない。でもこの羊飼いはそのような名もなき羊を最後まで捜し続けてくださる。ここに大きな喜びがあります。

そしてそのことが律法によっては救われないとされてきた徴税人や罪人たちと共に食事をすることだとイエスは語るのです。そして誰一人取り残さないことがすべての者の救いであることをイエスは教え、まさにその羊飼いこそ私であると語るのです。

本日、読まれたテモテへの手紙にはパウロが自分のことを記していました。

彼はかつて、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。

律法の面では正しい者であったでしょうが、神の目から見れば主イエスのもとから外れた羊、けっして神の宴席に招かれることのないであろう罪人であったでしょう。

しかし、パウロも復活のイエスに捜し出され、そこで出会い、捕らえられ、その生き方が全く変わってしまうのです。

主の福音を世界中に伝える使徒としての働きを担う者とされるのです。

彼は次のように告白します。

1:14-15「私たちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。」

罪人として最たるものであるパウロを主イエスはけっして諦めなかった。彼を捜し出し、捕らえ、ご自分の羊とされるのです。

まさに「誰一人取り残さない」、その思いは主イエスの思いなのです。

そしてこのたとえに語られていることは、主なる神が私たちに向けられた思いであるのです。

羊を自分の姿になぞらえたとき、私たちは時折、主のもとから遠く離れ去っている自分の姿に気づくことがあります。いと小さき自分、信仰の弱い自分、この自分のことを主は思い返してくれるだろうか、そのような不安に陥るようなこともあるでしょう。

しかし、この失われた羊のたとえは、そのようなあなたのことをけっして諦めない。ご自分のもとに連れ戻すために最後まで捜し出してくださる主の姿を私たちに教えているのです。

そしてイエスはこのたとえを次のように結ばれます。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

驚くべきことは、この「喜ぶ」という言葉の主語は見つけ出された羊ではなくて、見つけ出した羊飼いにあるのです。

私達は思います。「見つけ出された羊はさぞ喜んだことだろう。」

これは神様の救いをいただいた小さき自分自身の喜びを重ね合わせてそのように考えるのです。

しかし、イエスは「あなたを見つけ出した喜びは私の喜びである。」と告げます。

このように小さなわたしを見つけ出し、ご自分のもとに連れ戻すことをご自分の喜びとしてくださる、そのお方こそ私たちの主です。私たちはこのお方を私の羊飼いとして従ってまいりたいのです。

あなたが主の姿を見失い、悲しみにある時も主はあなたを捜し求めておられます。そしてあなたが主の姿を再び見つけたときは、あなた以上に主は喜んでくださいます。「誰一人取り残さない主」はすなわち「あなたを決して取り残さない主」であり、すべての者の救い主なのです。

(説教の最後に)人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2022年9月4日(日) 聖霊降臨後第13主日 主日礼拝

ルカによる福音書14章25〜33節

「自分の十字架を背負って」

礼拝説教 2022年9月4日

説教者:田 口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「理解する大前提:エルサレムへまっすぐと目を向けて」

 今日の箇所は、解釈が難しいところです。ここでだけを読むと一見すると非常に厳しい言葉が並んでいます。それは、この14章全体共通のことでもありますが、今日の箇所も、他のそれぞれの場面も、そこだけで理解しようとすると、非常に難しいものがあるのです。ですから、聖書解釈の原則として、文脈から適切に理解していくことが、このところでも必要なことだと思います。この14章は、先週のところでした、パリサイ派のリーダーの家での、宴会の場面から始まり続いていました。その場面でのイエス様は、まずその場にいた病人を安息日に癒してあげることから始まり、「神の国」を宴会にたとえてパリサイ派に伝えてきました。また前回の所でしたが、上席を好んで座るファリサイ派の人々に対して、神の国にあっては、自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされると、伝えました。さらには、宴会の主人には、人を招くなら、お返しのできない貧しい人や病人を招きなさいと伝えています。なぜなら彼らがお返しができないこと、だからこそ人から報いを受けるのではなく、やがて天の父が報いてくださることこそ真の神の祝福なのだ、と言う教えがあったのです。そして、今日の箇所のちょうど、前のところには、神の国を期待する人々に、祝宴への招待のたとえ話から、地上の物事を優先する人は、神の国の祝宴の準備ができていても、その招待を断ってしまうと、教えていたのでした。

 その一つ一つの場面のイエス様の言葉は、そのまま読むと皆とても厳しいものであり、神の国は実に狭い門であることを示されてきました。そして、そのようなイエス様の示す言葉の厳しさから、共通するメッセージは、先週もそうでした、神の前にあって、皆、ただただ罪人であり、その求められることに従うことができない不完全さだけが示されていると言うことでもあります。つまり。そのようなイエス様の言葉の前にまさに「誰が神の国に入れるだろうか」と言うことが突きつけられる言葉の一つ一つなのです。けれども、同時に、その厳しさにあって、いずれもそこに共通する大事な文脈、私たちが見逃すことができない、イエス様がなぜそのことを話しているかを理解するための一貫した大事な事実があるのです。それは、繰り返しますが、イエス様は、「この時、既にエルサレムへとまっすぐと目を向けて進んでいる」という事実でした。つまりイエス様はすでに、ご自身の十字架と復活を真っ直ぐと目を向けて進んでいます。それは、神の国、そして、み言葉の真理は、全てご自身とその十字架にこそあるということを指し示しているのであり、その狭い門も、まさにご自身を通してこそ開かれ、私たちはイエスを通してこそその門を入れるというメッセージが貫かれているいうことなのです。ですから、先週も、そのように教える神の国のすべてのこと、つまり「低くされる」ことも、その後の、何のお返しも出来ない貧しい罪深いものを食事に招くことも、全ての本来私たちがなすべき律法が、何よりイエス様ご自身によって果たされると言う、一貫した教えがあるのです。これまでの厳しい教えは、ただ律法ではなく、それ以上に、むしろ全てを行うイエス様ご自身のことを指している福音であったと言うことがこの14章を理解する大事な土台になっているのです。

 今日のところも同じです。今度は周りについてきている群衆に向けられています。この群衆への言葉も、神の国のことではあり、かつ厳しさも続き、かつ非常に難解ですがここも同じ、律法と同時に、それが最後の言葉ではなく、やはり福音であるイエス様ご自身のその恵みこそが私たちに示されていると言うことを踏まえて見ていきましょう。25節から読んでいきましょう。

2、「神の国のための備え」

「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。』」

25−26節

A, 「神を愛することを強調するために」

 ここで「イエスについていく」「弟子」という言葉があります。それは、クリスチャンになることを意味しています。ですからこの言葉はすべての人に向けられていますし、すべてのクリスチャンへの言葉でもありますが、非常に厳しい言葉でもあります。特に「憎む」という言葉もあります。しかも家族や自分の命を「憎む」です。もうここで躓いてしまうかもしれません。しかし実は、このような言い方、表現方法は当時のヘブル語の独特の言い回しだと言われています。つまり、「大事な何かや誰かを愛する」ことを強調するための言い回しで、その愛する対象を強調するために、もう一方の例としてあげられる対象を、低くする。「憎む」という極端な言葉を用いて低くしてまでも、その愛すべきものを強調する、そのためによく用いられる言い回しであるとされているのです。

 ですから、まず安心していただきたいのは、イエス様は、決して、家族を憎むことを命令しているのではないということです。むしろ神様は、聖書で一貫して家族を大事にするように教えてきています。例えば旧約聖書でも創世記にヤコブと二人の妻レアとラケルのことを思い出すことができます。そこでヤコブはレアよりもラケルの方を愛するわけです。そこで、創造主なる神様は、「レアが嫌われているのをご覧になって」とあり、そんなレアを憐れまれて、レアに子を授けるという場面があったことを思い出すでしょう。そんな家族で愛されていないレアを憐れむ神が、家族を憎めとは言わないはずです。家族の愛情やその不完全さ、そこにある苦しみをも神は憐れまれ、介入される神様がそこにいるのです。

B, 「神の国の備えのための優先順位」

 ですから、イエス様は、決して家族を憎むように言っているのではありません。もちろん、33節でも「自分の持ち物を一切捨てないならば」という厳しい言葉もあります。しかしその前の二つの例え、塔を建てるための予算の準備の話も、戦争に行くための準備の話も、イエスについていくために、弟子となるためには「備え」が必要であり、その備えとして、「自分を捨てて」ということにつながっていることも読む取ることができるのです。ですから、この所は今日の前のところ15節以下で、イエス様が話した、宴会の準備ができているのに、招きを断った三人の人の話から実は、つながっているメッセージだと言うことなのです。その場面は同時に14章のはじめから続いている食事の場面で、ある客の一人が「神の国で食事をする人となんと幸いでしょう」と言う言葉へのイエス様の応答として語られています。そこでイエス様は、全ての人が招かれているが、ある人々は、神の国のことよりも、目の前の目に見える心配、地上の財産や利益や儲けのことや、家族や親戚の結婚のことが気になってしまって、つまり優先順位を間違ってしまい、大事な宴の準備が整っていること、素晴らしい宴会が、つまり神の国がそこにもう来ていて、救い主が来ていることに、全く気づかない。いやむしろ、地上のそれらのことをより優先してしまい神の国が来ているのに拒んでしまうということを伝えていたのでした。そのことと同じ流れで同じことをイエス様は今日のところでも言っていると言うことなのです。

 ですから今日のこのところでも「何を第一とするか」ということをイエス様はまず初めに問いかけています。つまり神よりも地上の他のものを愛するとき、優先するとき、その人は、神の国に招かれていて、「もはや誰でも入れる」状況であるのに自らの優先順位で拒むがゆえに入れないのです。ですから、大事な注意点ですが、今日のところで「ついていく」ことも、「弟子になる」こともできないとあるのは、それは「神が、神の方から、拒み、神が積極的にそうする」という意味合いとは違います。それよりも、皆が招かれていて誰でも入れるのにも関わらず、その人々が、財産、地上の物事の方をより優先し、より愛することからこそ、と言うことなのです。それによって避けられない必然である、当然、そうなってしまう、という現実をイエス様が伝えているのがこのところなのです。

 それはこの直前の招待の話からも分かります。その場面では神の国には「すべての人が招かれている」のです。ですから、イエス様が、受け入れない、弟子にしないということを言っているのではないことがわかります。すべての人は招かれているのですから。しかしついてきても、神を愛さないなら、神の国はわからない。いや、その宴会の招きに参加するよりも、土地や10頭の牛や、結婚の方が大事であると選んだように、その人は神の国の素晴らしさに気づかない、わからないと言えます。そのような人は、よく聞かれる「悪い土地に落ちた種の例え」にわかるように、むしろ信仰が根付いていきません。その人にとって、神の国はむしろ居心地が悪く、愛する世の物事の方に向かっていくことになります。そのような人は、イエスが受け入れない、弟子にしないということではなく、まさにイエス様がいうように「弟子ではありえない」のです。恵みを受け入れないので、恵みによって生きる新しい命の道についてこれないのです。人間は、神の恵みであるイエス・キリストとその福音なしには、神の国では全く無力なのですから。

 それは今日の塔を築くための備えの例えも、戦争に行くための備えの例えも、そうではないでしょうか。人は誰でも大きな計画の前に何が大事か、何が必要か考えます。つまり神の国に入る時にも、何が準備ができているかを問われます。しかし神の国では地上の財産は必要ありません、いやむしろ何の役にも立たちません。ですから、地上の物事や財産を自分にとって一番大事な備えだと備えても、神の国の前で、何の役にも立たないのですから、準備していることには全くならないと言えますし、準備がないと、塔も立てられず戦争での戦略も立てられないのと同じように、ついていくことも弟子であることも不可能なのです。むしろ、その備えについて、イエス様は、27節でこう言っています。

C, 「自分の十字架を負って〜塩気のある塩」

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

27節

 イエス様がこのところで、言いたいことは、神の国に入るために、イエス様についていくために、弟子となるためには、「自分の十字架を負うこと」それこそが備えであり、優先すべきことである。そのことだと言えるでしょう。ですからこの後の、34〜35節もこのことから理解されます。

「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるでしょう。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

34−35節

 このことは伝えています。仮に神の国に入っても、イエスについていくことができて、イエスの弟子になったとしても、仮に信仰者になることできるとしても、その「神を優先し神を愛すること」そしてこの「自分の十字架を負うこと」がないなら、それは塩気のない塩と同じであり、味付けもできない、土地の肥やしにもならないで捨てられると。大事な備えは、「神を優先し神を愛すること」そしてこの「自分の十字架を負うこと」。そしてそれが信仰のすべてなんだとイエス様は示しています。そして、それがないなら、信仰は意味がない。それだけでない、それがないなら、地上においても本当の実りにならない。神への愛のない行い、十字架のない行いは、どんなに表向きが良くても、塩気のない塩と同じなのだと、イエス様は教えています。その神を何よりも愛し、そして自分の十字架を負う、信仰こそが、弟子となり、神の国に入るための大事な備え、常に、唯一あるべき、持っているべき必要なものだとイエス様は伝えている。そのことが示されているのです。

3、「罪の現実を示す神の要求(律法)、しかし律法から自由にし平安を与える福音」

A,「その律法を果たすことはできない現実」

 しかし、皆さん、その真理の前に誰でも、何よりも思わされるのではありませんか。自分の十字架を負う、その現実を前にしてこそ、そう最初に言いました。14章で一貫している現実として、私達罪深い人間は、この要求に無力であり、自分達の力では、完全に答えられない自分というのを、やはり何より気づかされるでしょう。そうなのです。私たちは神を愛するということ、自分の十字架を負うということにおいて、どこまでも不完全であり、自らではできないものです。むしろ私たちは、皆、生まれながらに神を知らなかったですし、知ってからも初めは拒むことしかできなかったのですから。いやクリスチャンになってもなおも愛すること従うことに、自ら十字架を負うことには不完全で無力です。神よりも自分のことを優先してしまう弱さは皆あるものです。それが人間、皆にある罪の性質です。まさにこのところもまた、私達は、神の前にただただ罪深い自分が示されるだけなのです。誰が救われようか、誰が弟子になれようか、誰がついていくことができようか。この「十字架を負う」という神の要求に自らを照らし出せば照らし出すほどに、そう思わされずにはいられない。私たちの罪の現実の前に、神の国はまさに狭い門ではないか。全く救いようのない言葉に思えてきます。

B,「律法を実現するのはキリスト」

 しかしです。今日の核心部分、福音です。まさに、その「エルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進んでいるイエス様」にあって、イエス様の真理と恵みは、常に一貫しています。そうその律法による絶望の中にこそ、イエス・キリストの福音は私たちに輝いているでしょう。今日のところでもイエス様は、大事なのは「自分の十字架を負って」と言っていることです。この「十字架を負って」という言葉をあえて使って伝えています。このイエス様の言葉は、まだ「十字架の前」ですから、実は、これを聞いていた人々は、何を意味しているか全くわからなかったことでしょう。弟子達でさえもです。その言葉だけだと、当時のローマ帝国の重罪の処刑道具である「十字架」しかわかりませんから、それを「負って」と言われても、多くの人が自分と当てはまらなかったことでしょう。「それほど自分は重罪人なのだろうか」「十字架と神の国とどう関係があるのだろう」と、全くつながらない言葉でもあったことでしょう。多くの人は、イエスは革命的な改革でイスラエルの繁栄をもう一度もたらすと期待していたのですから。誰も、イエス様の十字架の死と復活に神の国があるとは思わなかったのですから。しかし私達は今や「十字架を負って」という言葉は何を伝えているかわかるでしょう。それはまさにイエス様がご自身を指しているのだとわかります。ご自身がやがて負って死なれるその十字架のことだとわかるのです。ですからまさに、14章に全てに一貫しているように、そのすべての厳しい要求、律法は全て、実は、イエス様がその十字架の上で、私たちの代わりに、完全に果たされることでもあると言うことなのです。私たち自身は、その神様の要求することに全くかなわないものなのです。けれどもイエス様が十字架でまさに、すべてを捨てて、家族も友も財産も、そして何より「自分の命までも憎んで」捨て去ったではありませんか。「私達一人一人の代わり」に、「私達のために」です。そして、イエスは、私のもの全て、つまり私の罪全てをも、イエス様のものとしてくださった、その代わりに、イエスはそのご自身がした全てのことを、私たちがしたこととしてくださっている、と言うのが、イエス様が与えてくださっている福音であり、信仰による救いであり、それが「幸いな交換」と呼ばれるものです。

C,「事実、十字架の意味することは、聖霊によって知る」

 弟子達は、この「十字架を負う」ことの意味を、まさにこの後、十字架のイエス様を見て、そして復活のイエス様と会い、聖霊を受けた時、「自分の十字架を負う」とは何か?それが自分のためであった、イエス様がしてくださった、とわかりました。そしてそのイエス様の十字架によって恵みのゆえに、自分は罪人なのに、神の前に罪赦されて義しい者とされている。そのようにただただ神様が、イエス様のゆえに義も神の国も与えてくださった。そのように神はイエス様を死なせるほどに私たちを愛してくださり、神の国に招いてくださり入れてくださったと、弟子達はその恵みを賛美したのです。そして、その恵みであるイエス・キリストの十字架と復活を信じ受け入れたからこそ、もはや重荷を負うのではなく、神様の恵みであるイエス様に自分の全てを任せて委ねることによって、自由と平安と喜びを味わい、その自由と平安と喜びのうちに彼らは神を愛し隣人を愛し、宣教して行ったのが、キリストの証人、キリスト者、クリスチャンとしての彼らの生涯であったのです。

4、「「自分の十字架を負って」という信仰の賜物」

 ですから「自分の十字架を負って」というその信仰、それは決して、律法ではありません。どこまでもイエスにある恵みに始まる信仰の新しい日々です。「イエスが十字架で私の罪のために死んでくださり義を得させてくださった、私もイエスと一緒に死に、新しくされたのだ」というその信仰も、そして洗礼も、どこまでも「与えられる」ものであり、その賜物である信仰と洗礼が、私たちを神の国に与らせるのであり、恵みのうちに私たちを弟子としてくださることこそ、イエスが何より私たちに残してくださったものです。ですから、私たちが今まさにイエス・キリストを信じているのは、神の賜物であり神の恵みなのです。私たちはそのことを信じ、生かされているなら、私たちは「すでに」新しいのであり。そのように私たちは「恵みにより」日々「自分の十字架を負って」生きる信仰と新しいいのちに「すでに」ある。紛れもなく弟子であるし、既に救われてると確信し安心していいのです。その信仰が、私たちを本当に自由にし平安にし喜びで満たしているからこそ、その喜びと平安と自由が、私たちを世にあって塩気のある塩として本当の隣人愛へと駆り立てるのです。今日もイエス様は変わることなく言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひイエス様が与えてくださるものを受け、平安のうちに、世に遣わされていこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

フインランドから吉村宣教師のご挨拶

ご無沙汰していますが、皆様お元気でしたか?フィンランドからご挨拶申し上げます。日本はコロナ感染がなかなか収まらず大変な状況ですが、皆様は大丈夫だったでしょうか? こちらは、かく言う私たちも家族全員がしてしまい、パイヴィと私が回復に時間がかかりました。私など持病の喘息が悪化して、今も教会訪問で讃美歌を歌うと息切れしてしまうので歌わないで説教やメッセージで声が出るようにしている有様です。今パイヴィの実家に来ていて、そこを拠点に訪問を続けています。昨日一つの行事が中止になり、次の日曜日まで中休みになって一息ついているところです。気候は、先週はフィンランドには珍しく25℃以上の日が続きました。温暖化現象の影響がはっきり出ていると思います。 添付写真は、1枚目は最初の訪問地オウライネン市(トゥルクから550キロ北)の教会と、2枚目はその日本伝道を覚える主日礼拝、3枚目はヴァハトという町(トゥルクから30キロほど)の教会の別館での日本伝道集会の様子、4枚目はヴァハト教会。これまで7つの訪問があり、全ての訪問先の教会の方々からスオミ教会の皆様にくれぐれも宜しくと言っていました。あと、3つ残っています。 スオミ教会の皆様のご無事とご健康をフィンランドからお祈りしています。 吉村博明

2022年8月28日(日) 聖霊降臨後第12主日 主日礼拝

説教全文

ルカによる福音書14章1、7〜14節

「神の前で自分を低くするもの」

スオミ教会礼拝説教

2022年8月28日

説教者:田 口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「上席を選んで座る人を見て」

 この14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。今日の箇所は7節からですが、2〜6節には何が書かれているかを簡単に紹介しますと、その家で、一人の水腫を患った人がいたのですが、そこにいたファリサイ派の人たちは安息日にその病人をイエスが直すかどうかをじっと見ていたのでした。それは、もし直したら、イエスが安息日の戒めに違反したとして訴えるための口実を狙っていたのでした。しかしイエス様は、そのことをすべて見通して、自分から、安息日に癒すことは良いことかどうかを尋ね、もし家畜や息子が穴に落ちたら、あなた方は安息日でも助け出すではないかと、安息日に良いことをすることは神の何よりの御心であり、神様は安息日に人のために働いてくださり、救ってくださるお方であることを伝え、その人を癒したのでした。ファリサイ派の人たちは、最初はイエス様を告発しようと思っていたのに、イエス様はすべてをお見通しだった上、イエス様の言うことはその通りであり、しかも完全と働き病気を治してあげたので、全く反論できなかったということがあったのでした。

 今日の箇所は、そのファリサイ派のリーダーの家での食事の席の場面が続いていますが、イエス様は。ファリサイ派の人のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが

「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

 その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座るような人々でした。つまり社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についてのマナーは厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を自ら「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人だけでなく、本当に自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。

2、「婚礼の披露宴のたとえ」

「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10節

 イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。もしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、仮にそのような例えにあるような場面が起こったなら、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席に選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。

 この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのようなファリサイ派の人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にする、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。

3、「単なる道徳の教え?」

  けれども、この例えを話すのは、イエス様がただ、「末席に座りなさい」等と、社会的なマナーやあるべき道徳だけを伝えたいのでもなければ、あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的でもないのです。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。

A, 「高い、低い」

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11節

「低くされる。高められる」、「高い、低い」とありますが、それは単に人間社会の、階級のことや上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面がありますが、その時も、それは父なる神がお決めになる、つまり神の御手にあるこ、イエス様は言っただけでしたが、人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。

 では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人たちのような人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 と。これと似たような教えを実は、イエス様は他のところでも述べています。弟子たちが誰が偉いかを論じていた場面がありました。その時にも、イエス様が弟子たちに言ったのは、「子供のようになりなさい」と教え、そして「仕えるものになりなさい」とも、イエス様は教えています。

「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい.」(マルコ10:43−44)

 と。このように、ここでもイエス様は、神の国にあっては、自分を低くすることこそを神は求めておられ、それが何よりもその神の子にふさわしいし価値があることなのだとを伝えています。みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということですが。このイエス様の例え自体は、わかりやすい例えには思えます。確かに、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるとき、そのような言葉や、そして、何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」と言う大事な背景を踏まえる時に、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。

B, 「神の前」

 どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人の関係」を何より指し示しているということが言えるます。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は自他共に認めて当然のように座る席だったのかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで、その例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。

 皆さん、イエス様はあえて「婚礼」と言っています。それはイエス様の場合、救い主の到来を示していて、実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時に、イエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、彼らは全く気付かないで、人の間の、人の前のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが見えていないのです。もちろん、イエス様は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言っているのではありません。しかし、彼らのどこまでも「人の前」しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方で、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。

 しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。

4、「誰でも高ぶる者は低くされる」

A, 「神の前の現実:罪人」

 みなさん、実に、このようにイエス様の話から「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、水腫を患っている人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人です。そして何より高ぶる罪人であるという事実です。「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの現実は、どこまでも神の前を忘れてしまい、高ぶってしまうものではないでしょうか。そして「人の前」ばかりを気にして、比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に座ってしまう自己中心な存在です。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろそれができる、できている、と思っているなら、そこにすでに高ぶりと愚かさがあるのですが、できると思ってしまうのです。それは、何より私自身にもあることであり、ここで示されるパリサイ派は私自身であることを教えられるのです。しかしまさに、そのように、聖書から、自分の神の前の高ぶりを気付かされる時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされます。そのように罪を刺し通され、神の前に立つことができなくなり、ただ憐れんでくださいと言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこにあります。「高ぶる時こそ、低くされる」。

B,「低くされる」

 繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教が終わり、そのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりです。しかし教会の説教はそうではありません。確かにそこには罪を示す律法ははっきりとありました。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちに律法を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく。「神が」律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。

C,「真に低くなられたお方」

 しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは。まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その福音の事実、現実です。

 実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章においても、その後、続けてイエス様はなんと言っているかというと、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されていますね。つまり「低くなる」「仕える」は、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架に全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10章45節

5、「低くされ、高くされる」 

 イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われます。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があり、そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることを示しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに、

「へりくだる者は高められる。」

 そのことを信じる私たちに実現する力だということなのです。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられる、刺し通される、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でもあることであり、日々あることです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって救われる。罪を差し通されるからこそ、十字架の輝きがいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。

 イエス様は今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン