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宣教師の週報コラム - 宗教改革は何をどう改革する改革か?

ルターの薔薇の紋章

宣教師の週報コラム - 宗教改革は何をどう改革する改革か?

宗教改革は英語、ドイツ語、スウェーデン語でReformationと言います。それぞれ発音の仕方は異なりますが、日本語のカタカナではリフォーメーションです。宗教改革は何を改革する改革だったのでしょうか?

大学の神学部に入学したての頃、基礎科目の一つに「宗教現象学」なる科目がありました。そこで何を学んだか、一つだけ覚えていることがあります。授業で講師が、リフォーメーションと聞くと、普通は古いものを新しいものに変えるイメージが持たれるが、ルターの宗教改革はむしろ逆である、カトリック教会が歴史の過程で作ったもので聖書に根拠がないものは廃止する、つまりカトリック教会が歴史の中で始めた新しいことをやめて教会を原点に戻そうとするのが運動の本質であった、ということでした。因みにフィンランド語では宗教改革はUskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方が一般的です。

ルター派にとって、教会の原点とは「信仰義認」であり、しかも律法主義に陥らず反律法主義にも堕さない信仰義認です。言うのは簡単ですが、ルター自身、この信仰義認は「滑りやすい」教義だと言っています。

ルターの宗教改革を国としていち早く採用したのはスウェーデンでした。16世紀の同国の教会会議の歴史を見ると、「今会議でローマの何某の伝統を廃止して『福音的になる』ことを決定した」ということがよく出てきます。ここからも「福音ルター派(福音ルーテル)」が何を意味するかがわかります。カトリックの伝統から離れる際にルター派的に離れるということが、ルター派にとって「福音的」なのです。よく巷に聞かれる「福音派」とか「福音主義」とは異なるのです。

今日ルター派教会の内部でも、教会が保持してきた伝統を変えて改革していかなければならないという声をよく聞きます。その場合、変えなければいけないと言われる伝統は聖書に根拠がないからそうすべきなのかどうか深く考えなければなりません。変えること自体が価値ではないからです。

説教「神の真理を礎にして歩む人生」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 10章40-42節

主日礼拝説教 2023年7月2日(聖霊降臨後第五主日)

聖書日課 エレミア28章5-9節、ローマ6章12-23節、マタイ10章40-42節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の聖書日課は、旧約聖書はエレミヤ書、新約聖書は使徒書のローマとマタイ福音書からですが、この3つには共通のテーマがあります。それは、神の真理です。真理とは、時や場所に関係なく、いつどこででも本当であるという事柄です。いつどこででも当てはまる法則も真理です。それでは、神の真理とは何か?それを、まずエレミア書の日課から明らかにします。その次に、神の真理を土台にして生きるとどんな生き方になるのかを、ローマの日課をもとに見てみます。そして終わりに、そのような生き方をするとこの世の歴史と社会の中でどんなことに遭遇することになるか、どんな目に遭うか、それに対してキリスト信仰者はいかに立ち振る舞うべきかということについて、マタイ福音書の日課をもとに考えて行こうと思います。

 そういうわけで本日の説教は三部構成です。第一部は神の真理とは何か?第二部は神の真理を土台にする生き方、第三部は神の真理を土台にして生きるとどんなことに遭遇し、それに対してどう立ち振る舞うか?

2.神の真理

本日の旧約の日課エレミア28章の個所は紀元前7世紀から6世紀の変わり目の頃の出来事です。ユダ王国にハナンヤという預言者が現われて、国民の耳に心地よい預言をした、それに対して預言者エレミアが反論するところです。

 この辺の歴史的背景を超特急でおさらいしておきましょう。太古の昔イスラエルの民は天地創造の神に導かれて奴隷の国エジプトから脱出して約束の地カナンの地に定住します。紀元前11世紀に国は王制をとり、ダビデ王ソロモン王の時に最盛期を迎えます。ところがその後、王国は南北に分裂、国全体が神の意思に反する生き方を繰り返し、まず北王国が紀元前8世紀にアッシュリア帝国の攻撃を受けて滅亡します。南のユダ王国は寸でのところで危機を脱しますが、その後も神の意思に反する生き方が一時を除いて続き、神は罰としてバビロン帝国の攻撃を仕向けます。紀元前598年ヨヤキン王の時に大きな攻撃があり、エルサレムは陥落してしまいます。この辺の事情は列王記下の24章に詳しく記されています。それと照らし合わせながらエレミア書を読むと預言者エレミアがまさに激動の歴史の中で活動したことが手に取るようにわかります。エルサレム陥落の後、ヨヤキン王はじめ王国の主だった人たちがバビロンに連行されて行きます。バビロンの王はヨヤキンの叔父ゼデキアを王に立てて引き上げます。もうユダ王国は独立国とは言えませんでした。

 このゼデキア王の治世4年目に預言者ハナンヤが現れて国民の前で、あと2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻ると預言します。他方エレミアはハナンヤが現れる前、国民に対して、ユダ王国はバビロンによって徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えていました。エレミアはそれが神の計画であることを象徴して自分の首に軛をかけることもしていました。丁度その時にハナンヤが現れて、エレミアと正反対のことを預言したのでした。国民は既にエレミアの預言にあきあきしていました。ハナンヤの預言を聞いた時、こっちの水は甘いぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。本日の個所の後になりますが、ハナンヤはエレミアが首にかけていた軛を打ち砕くというパフォーマンスもします。これを見たら誰でも、説得力があると思ったでしょう。

 ところが実際には歴史はハナンヤが言った通りには進みませんでした。ゼデキア王は治世9年目にバビロン帝国に反旗を翻します。それがもとで王国は再度の大攻撃を受けます。エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は敵の大軍に蹂躙され王国は完全に滅亡します。エルサレムの神殿も完全に破壊され、残りの市民もバビロンに連行されてしまいます。紀元前587年のことでした。全てエレミアが預言した通りになったのです。

 神はエレミアに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだったのでしょうか?神は天地万物を創造し人間を造られた全知全能の方です。人間に罪を犯すなと命じ十戒を与えた神聖な方です。神はそうした自分の意思を表す十戒やその他の掟をイスラエルの民に授けました。世界中の数ある民族の中から自分たちが選ばれてこのような神聖なものを授けられたと、イスラエルの民が自負心を強く持ったとしても不思議ではありません。ところが、民は次第に神の意思に反する生き方を繰り返すようになり、神が遣わした預言者の警告にも耳を貸さないようになってしまいました。そうなると、神は自分の意思に反する者、罪を犯す者を完膚なきまで滅ぼす裁きの主という姿が明らかになります。

 ところが、エレミア書を見るとイスラエルの民の復興についても預言されています。民が連行された異国の地で心から神に立ち返って神の名を呼び求め祈りを捧げるならば神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われるのです(29章11~14節)。実際、歴史もそのように進みました。紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になります。イスラエルの民はこのペルシャ王の勅令によって祖国帰還が認められ、紀元前538年から帰還が始まります。これもエレミアが預言した通りでした。

 神の計画は災いではなく将来と希望を与えるものであるならば、なぜ自分の民にバビロン捕囚のような大きな苦難を与えられたのか?それは、やはり神は罪を見過ごせない方、罪をはっきり罪と言い、それを焼き尽くさずにはいられない神聖な方だからです。しかし、人間が罪の罰を受けて焼き尽くされてしまえばいいということではありませんでした。罪は神の神聖さと相いれないためそれを持つ者を滅びに陥れてしまうという呪いがあります。神は人間をその呪いから救い出して、罪は滅びても人間は滅ばないようにしたかったのでした。それはどのようにして可能でしょうか?とりあえず神は、イスラエルの民の祖国帰還を可能にすることで、罪を赦して、赦された者が新しく生きることを始められるようにするという例を示したのです。

 このように神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が罪のゆえに神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神の真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事の歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、人間が罪を忌み嫌うようになって罪から離れて生きようとする者に変えてあげようとされる方であることもわからなければなりません。

 バビロン捕囚と祖国帰還という歴史的出来事から、神は二つの大きな目的を持っていることが明らかになります。罪に対する裁きと罪の赦しという目的です。ところで歴史的には、罪の赦しの目的は実はまだ民の祖国帰還の時には実現していませんでした。当時の人たちの中には実現したと考えた人もいましたが、事はユダヤ民族に属する人の罪が問題だったのではありません。そうではなく、神に造られた全ての人間の罪が問題だったのです。そういうわけで、ユダヤ民族の祖国帰還というのは実は、そういう一つの歴史的出来事を通して、全ての人間に及ぶ罪の赦しの救いを前もって予感させるものでした。そして、全ての人間に及ぶ救いはイエス・キリストの十字架の死と死からの復活で歴史的に実現したのです。

3.神の真理を土台にして生きる生き方

神は、罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもある、これが神の真理でした。この神の真理が如実に現れたのが、ご自分のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事だったのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上であたかも彼が人間の罪の責任者であるかのように断罪して人間の罪の償いをさせました。そして、死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させ、神の御許に迎え入れられる道を人間のために切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、この神の真理を土台にして生きる生き方はどのようなものになるのでしょうか?このことがローマ6章によく記されています。

 使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼を受けたことでイエス様の死と復活に結びつけられていると。イエス様の死に結びつけられると「罪に対して死んでいる」と言われます。わかりにくい言い方です。ギリシャ語の用法で、死ぬことが罪にとって不利益になるということで、要は罪がキリスト信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、全て肩透かしをくらってしまう、それ位にキリスト信仰者は罪に対して冷たく死んでしまっているということです。

 しかも、洗礼を受けることで結びつけられるのはイエス様の死だけではありません。彼の復活にも結びつけられます。パウロは、この結びつけられるということはキリスト信仰者の有り様や生き方を根本から変えるものである、だから信仰者はそれに気づくべきであると教えます。どう根本から変えるのか?罪に対して冷たく死んだ者は、今度は神に対して生きるだけだと言います。神に対して生きるというのと罪に対して死ぬというのは同じコインの裏と表です。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている、罪と無関係になっている。その時、その人が関係を持つのは神になる。これが神に対して生きることになることです。罪から離れ神を向いて生きることです。洗礼を受けた者は、そういう状態に入ったというのです。もちろん、イエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きません。しかし、洗礼はイエス様の死と復活に結びつけるものなので、一度受けたらが最後、罪に対して死に、神に対して生きるという状態に入ってしまうのです。後は、いつの日か本当に死んで葬られて復活の日に復活を遂げるという形式的なことが残っているだけで、実質的なことはもう起きたことになります。

 それなので、神の真理を土台にしてこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。

 それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨してしまえばあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそうした状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと何か性的なことが頭に浮かぶかもしれません。それも含みますが、もっと広い意味です。神聖な神の意思に反するとはわかっていてもやらずにはいられない、口にしないではいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるならば、十戒の第四から第十の掟を逆に考えればいいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、自分のものを他人のために役立てようとしないこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い描くこと等々、これらが「体の欲望」、肉の思いです。

 こうした欲望、肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからである、しかし、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので本当は罪は支配者でなくなっている筈です。しかし、キリスト信仰者もまだ肉の体を纏っているので、行いや言葉が自然に自動的に神の意思に沿うものにならないもどかしさがあります。でもそれは復活の体を着せられる前のことなので仕方のないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるかを知って自覚して生きることが大事になります。それでパウロは、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えと言うのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫だと見てもらえ、焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを本当にそうなんだと信じて受け取った人は神の義を持てます。

 ところでパウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と命じる教え方は本意ではなかったと思います。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたら、その解放は神のお恵みです。人間が律法を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。それで「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに命令されないで自然に自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っている以上は出来ません。やはり自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはまさにこのことです。本当は罪に対して死に神に対して生きている状態にあるのだから「~しなさい」などと言う必要はないのに、肉の弱さのために言わなければならない。実にもどかしいことですが、神の真理を土台にして生きるとそうならざるを得ないのです。この「~しなさい」は、律法的に捉えず、自分たちが本当はどんな素晴らしい状態にいるのかを自覚させる注意喚起と捉えるのが良いのではないかと思います。

4.神の真理を土台として生きる者の立ち振る舞い方

福音書の日課マタイ10章40~42節のイエス様の教えは、預言者を預言者という理由で受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人という理由で受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子であるという理由で冷たい水一杯でも与える人は弟子の報酬を得るということです。これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理に立って生きる者です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える者です。ここでひと言、預言者について、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみんな預言者にはならないことに注意しましょう。神の意思に沿っていないといけないからです。神の意思は聖書にあります。聖書にある神の意思に沿っているかどうかを判断するカギとして、キリスト教会の伝統的な信仰告白があります。使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条です。また、それらを正確に理解できるようにと、ルター派は一致信条集もあります。

 マタイ10章はキリスト信仰者が受ける迫害について述べています。それで今日の個所も迫害の文脈で理解します。そうすると、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を追い払ったりせず受け入れて世話をする人は、預言者や義人や伝道者が神から将来受ける報酬と同じものを受けるということになります。パウロを初めとする使徒たちやローマ帝国の迫害期にそのように世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。世話をした人が世話を受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶことを意味します。使徒言行録17章を見ると、テサロニケでパウロをかくまったヤソンとその兄弟が当局に引っ張られていく場面があります。日本のキリシタン迫害の時がまさにそうでした。帚木蓬生の「守教」の中で密告に対する報奨金制度が出てきます。この制度のもとでは聖職者や信者を世話したり匿った者もキリシタンと見なされて拷問を受けました。まさに世話する人がされる人とこの世の権力から同じ報いを受ける事態になったのでした。しかし、次に到来する世では神から同じ報酬を受けられるのです。

 幸いなことに、現代の日本ではこのような迫害状況はありません。日本には数多くのキリスト教系の社会事業あり、学校あり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教が果たす役割や存在は無視できないものがあり、一目置かれるようになりました。それでは、もう同じ報酬を受けるという極限的な状況はないと言えるのか?キリスト教会にとってそんな安泰な状況があるのか?少し考えてみましょう。日本ではキリスト教徒の割合が全人口の1パーセントというのは、日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあります。

 それについては宗教学や社会学、文化人類学からいろいろな説明の仕方があると思いますが、一つには、キリスト教は欧米の宗教で日本人の風土と精神には合わないというような議論です。遠藤周作の有名な「沈黙」の中で、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。その言い方はいかがなものか。暴力と武力で教会を壊滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは問題のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。キリスト信仰者になると欧米に魂を売り渡したと見なす人もいる位です。果たしてキリシタンの時代の信仰者は自分たちは何か日本人に合わないことをしていると思って信仰していたでしょうか?

 しかも、明治維新や敗戦直後の頃と違って、今、キリスト教を信じることは欧米化することと同じとは言えなくなってきているのではないでしょうか?当時は欧米の圧倒的な力を見せつけられましたが、今はそのような力の差はあるのか?ただし、この20、30年の間の日本の国力は物凄い落ち込みようで、また欧米に差をつけられるようになってしまったかもしれません。欧米どころか、お隣の韓国にも平均賃金や一人当たりのGDPで抜かれてしまいました。かつての「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は見る影もない時代になってしまいました。

 ところが、欧米にまた差を付けられるようになってしまったとは言っても、その肝心の欧米ではキリスト教、特に伝統的なキリスト教は人々の教会離れ聖書離れが進んでいるというのが現状です。フィンランドを見ても、90年代まではルター派国教会の所属率は全国民の90%以上でしたが、以後どんどん低下して今では65%、ヘルシンキでは過半数を割っています。そんな時代なのです。もちろん、そういう時代だからこそ踏みとどまる信仰者も大勢います。フィンランド・ルーテル福音協会も、海外伝道だけでなく国内伝道にも力を入れているのです。

 こういう時代だからこそ、キリスト教は欧米の宗教という見方から自由になれるチャンスなのです。もちろん、キリスト教は欧米を経由して入ってきたことは否定できません。しかし、聖書の内容は欧米の文物の紹介なんかではありません。それは、天地創造の神が古代オリエント世界を舞台にして人間の救いの意思と計画を明らかにしたということ、それをその舞台の人たちが一生懸命、後世の世界に伝えようとしたものが聖書です。私たち人間の命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。神の真理を礎にして、先ほど申し上げた体の欲望、肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが悪いのか?一体これのどこが欧米化なのか?今の時代は、こういう態度でいいと思います。神がキリスト信仰者のことを誰よりもわかっていて下さる、だから、何もわかっていない者から何を言われても、どう見られても関係ない、そういう姿勢でいればいいのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「神は信仰を守り告白する者を最後まで責任もって面倒を見る」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 10章24-39節 

主日礼拝説教 2023年6月25日(聖霊降臨後第四主日)

聖書日課 エレミア20章7-13節、ローマ6章1b-11節、マタイ10章24-39節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思に反する生き方をして内憂外患に陥り、最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされるという、その動乱の時期の紀元前7世紀終わりから6世紀初めにかけての頃のことです。神は、国に迫る危機を国民に知らせて神に立ち返るようにしなさいとエレミヤに命じます。エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。

 マタイ福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けると預言しています。エレミアもイエス様も、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわる大変な目に遭うと述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うと言われます。

 そこで本日の説教では最初に、神が魂を救うというのはどんな救いかを見てみます。その時、「魂」とは何かを考えなければなりませんが、これがなかなか難しいです。魂と似た言葉に「霊」もあります。これもわかりそうでわかりにくい言葉です。旧約聖書のヘブライ語で「魂」と訳されるもとの言葉はネフェシュ、「霊」と訳される言葉はルーァハです。新約聖書のギリシャ語で「魂」と訳されるもとの言葉はプシュケー、「霊」と訳される言葉はプネウマです。「魂」と「霊」ははっきり区別されるものですが、聖書の中では時たま重なっていることもあります。今回は「霊」の方は見ずに「魂」の方を中心に見ていきます。

 神が魂を救うとはどんな救いか?それは、キリスト信仰では「魂の救い」が「復活」と結びついていることに気づけばわかります。その結びつきは本日のエレミヤ書の日課の個所にも見ることが出来るのでそれを見てみます。終わりに、マタイの個所が提起している問題、すなわち、人前で自分はイエス様を救い主と信じると公表すればイエス様もその人のことを天の父なるみ神の御前で自分に属する者であると認めてあげる、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということについて少し考えてみます。この日本でイエス様を救い主と信じることを公表することにはどんな難しさがあるか、それをどう乗り越えていけるかということについて考えてみます。

2.魂の救いと復活

「魂」という言葉にはいろいろな定義があると思います。聖書に出てくる「魂」を理解しようとしたら、その言葉が出てくる箇所を全部見て、どんな文脈でどんな使われ方をしているかを見て意味を捉えることが重要です。先ほど申しましたように、「魂」という日本語に訳されるもともとの言葉はヘブライ語でネフェシュ、ギリシャ語ではプシュケーです。ネフェシュが出てくる箇所を全部洗い出す、同様にプシュケーが出てくる箇所も全部。しかし、それはなかなか大変な作業です。新約聖書だったらいつかそれをしてみようという気が起こりますが、旧約聖書だったらちょっと尻込みします。分量が多いのでこの年齢で始めたら命が一つだけでは足りないのではないかと思います。それで、ここで申し上げることは本当に氷山の一角のさらまた一角の一角にも満たない定義だということをどうかご了解頂き、話を進めてまいりたいと思います。

 本日の福音書の日課のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10章28節)という箇所があります。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまっても、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来る。「地獄で」と言っているので最後の審判のことを言っています。しかし人間には魂を滅ぼすことは出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分まで。人間が人間を滅ぼそうとしても、殺せるのは体までで魂は殺せない、なので人間は人間を完全には殺せない、滅ぼせないということです。逆に神は最後の審判の時に体と魂の両方を殺せる、完全に滅ぼせると言われるのです。

 魂は人間の目で見えない部分です。体は目で見える部分です。体は手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。しかし、魂は目で確認できません。体は死んだら腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。もちろん、神に守られていればの話です。そこで、その目で見えない魂は人間のどんな部分なのか少し旧約聖書をもとに見ていきます。

 詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は魂は日本語の「心」に置き換えることが出来ます。詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(2~3節)とあります。「生き返らせて下さる」などと言うと、死からの復活を連想させてしまいますが、ここは文字通りの復活ではありません。ヘブライ語の動詞ユショベーブは、疲れ切った状態から回復させるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた人全体です。つまり、ここでは「魂」が人全体を言い表す使い方です。さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を言い表しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化して守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は日本語の「命」に置き換えることができます。

 さて、聖書の「魂」は、人全体を言い表したり、「命」や「心」にも置き換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、この程度でも方向性が見えてくるのではないかと思います。方向性というのは、日本語の「魂」という言葉を聞いて頭に浮かんでくるものに耳を傾けず、あくまで聖書に出てくるネフェシュやプシュケーに耳を傾けるということです。

 そこで、魂は肉体が消滅してもあるということについて。肉体が消滅して、肉体のような見える形は持たないが何かその人が残っていることになります。肉体を持たない人格のようなものです。ここでキリスト信仰の中で大事な事柄、「復活」の出番となります。復活とは、使徒パウロが教えるように、死の眠りから目覚めさせられて、肉体の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる、ということです。体は肉から復活の体に変わっても、人格は変わりません。それなので「私は吉村博明である」という自分が続きます。目覚めた時、この世で纏っていた朽ち果てる体にかわって神の栄光に輝く体を纏っている自分に気づくのです。

 本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っています。これも聖書の「魂」が復活と結びついていることを示すところです。「命」と訳されていますが、もとの語はギリシャ語のプシュケー「魂」です。だから、本当は「自分の魂を得ようとする者は、それを失い、わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているのです。「わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得る」と言うのは、明らかにキリスト信仰者が迫害にあって命を落とすことです。そうすると、あれっ、さっきイエス様は魂は殺されないと言ったではないかと言われてしまうのですが、ここは「魂」が「命」に置き換えられるところと考えればよいでしょう。迫害で命は落としても、肉体のない人格は復活の日に復活の体を着せられるまで神に守られて眠りについている、なので「魂」は殺されてはいないのです。そして復活の日に復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる。その時の命は「永遠の命」です。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」とはまことにその通りです。

 逆に、イエス様が自分の救い主になっていない者は、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにしておらず、罪から贖い出された状態にもありません。そのような者が永遠の命を持てるようにしよう、しようと努力しても、最後の審判の時に罪が償われておらず罪からも贖い出されていない状態のまま神の御前に立たされることになってしまいます。それは非情に厳しいと思います。「自分の命を得ようとする者は、それを失う」というのはまことにその通りです。しかし、神がひとり子イエス様を用いて果たして下さった罪の償いと罪からの贖いは、神が私たち人間に受け取りなさいといつも提供して下さっているのです。今からでも受け取るには遅すぎることはありません。

3.エレミヤの魂の救いと復活

エレミアは、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。果たして、国は滅び人々は占領国に連行されてしまいます。しかし、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現するという希望の預言も残します。神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さる方でもあることがはっきりするのです。だから祖国滅亡しても自暴自棄にならず、神を信頼して建て直しの時を待つのが正しい生き方です。

 エレミアのメッセージは、神の御言葉を宣べ伝えたり人々に信仰を証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものです。今日の日課の個所もそうです。神は必ず、その者に報い補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。

 7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」

 ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」の「復讐」という言葉ですが、ヘブライ語・英語の辞書によれば、人間がするものなら「復讐」でいいが、神がするものならば「報い」、「補償」にするとありました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義のアンバランスの大清算です。神に立ち返る生き方をした者がしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われる。この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的かつ完全に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとってウインウインになります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。

 エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳にはありませんが、ヘブライ語には「なぜなら」と根拠を言っています。「なぜなら、自分の訴えをあなたに委ねたからです」。訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということです。パウロの、復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。

 13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアが置かれた立場がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では動詞は完了形なので「救い出して下さった」と訳します。これは面白いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに自分の魂は既に神の手中にある、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然だと言うのです。

 このことは本日の福音書の日課の中で、神は私たちの髪の毛の数も全て数えて把握していると言われていることと同じです。キリスト信仰者にとって、これは神の手中にあることがこれだけ完璧であることを言っているのです。神の手中にあって私のどこも神の手からこぼれ落ちていない。そのように守られるから、最後の審判と復活の日をクリアーできる。まさに、今日の説教題「神は信仰を守り告白する者を最後まで責任をもって面倒を見てくれる」のです。

 このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生じた。あとはその状況に入り込もう、入り込んだら今度はそこから出ないようにしっかり留まろう、そのようにして生きるだけである。それが「罪に対して死に、神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴むことになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から託された使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。

4.人前で信仰を告白すること

本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様を救い主と信じる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に属する者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、日本の潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?彼らは、踏み絵を踏み檀家制度に組み込まれ、人前では仏教徒を装いましたが、隠れた所では代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました。これは、イエス様が教えられたことと照らし合わせてどうなのか?信仰を守り通したことになるのか、それとも信仰を公けに言い表さなかったことになるのか?

 この問題について、何年か前の説教で帚木蓬生の小説「守教」から大事な視点を得たことをお話ししました。どんな視点かと言うと、一つは、潜伏キリスト教徒たちは神父から、殉教は聖職者がすることである、信徒は何百年たとうが宣教師は再び必ず来日するから、その日に備えて信仰を絶やさないようにして将来の教会の再建の種を残しなさいという使命を託されました。もう一つは、隠れて信仰を続けることは実は命がけで勇気が要ることだったということです。もし、見つかって奉行所に引っ張って行かれたら、申し訳ありません、棄教しますと言っても何の助けにもなりません。拷問と死刑が待っています。小説の中では、見つかって連行されたキリスト教徒たちは棄教しようがしまいが結果は同じだからと、役人たちに向かって、あなたたちも神に造られた者だから神を拝まなければなりません、などと伝道します。まさに聖霊が語るべき言葉を与えた場面です。

 そこで、現代日本でイエス様を救い主を信じると公けにせよというイエス様の命令を守るとどうなるかについて考えてみます。私たちの場合はキリシタン禁教の時代のように命に係わることはないと思います。潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。ただし、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、賢明に立ち振る舞わないと圧倒的多数派の中に埋もれて埋没してしまう危険があります。圧倒的少数派であるがゆえに声をあげなければならない、イエス様の命令が一層重要になると思います。

 その時、自分が救い主と信じているイエス様がどんなお方であるか、どんなイエス像を提示するのかを考えることも重要です。現代社会ですと、イエス様を人権推進者ヒューマンライツ・ヒーローのように提示することは世の注目を集めると思います。マイノリティーに寄り添うイエス様、などと言ったら、世間からとても肯定的、好意的に見られるようになります。もちろん人権に反対する人にはウケないでしょうが、今の社会の趨勢は人権推進なのでイエス様をそのような方として提示するのは時流に適っていると言えます。イエス様は、信仰を告白すると迫害が起きるのは不可避と言われましたが、ヒューマンライツ・ヒーローなら大丈夫です。心配ないでしょう。

 これに対して、私と私を派遣するミッション団体はそういう時流からみるとかなりズレています。イエス様を提示する時は、「創造主の神のもとに行ける唯一の道である」とイエス様の「唯一性」を強調します。今時このようなことを言うと反発を受けることが多いです。イエス様はそんなに狭い考えの持ち主ではない、と。「唯一の道」と言ったのはイエス様本人なのですが..。このような提示の仕方の方がイエス様の預言が現実性を帯びてきます。そうであれば、髪の毛の数を全て数えられる位に自分は神の手中にあることが身近になります。そうであれば、エレミヤの告白、主が私の魂を救って下さったということも身近になります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回の手芸クラブは6月28日(水)10時~13時に開催します。

マクラメのブレスレット

今回はマクラメのテクニックを使ってブレスレットを作ります。マクラメのワックスコードやパールを使って可愛らしい夏向きのブレスレットが出来ます。

以前作ったコースターやフラワー・バスケットを希望される方はそちらも選べます。マクラメの糸は作るものに合わせます。

材料費は500円~800円です (作るものによって変わります)。

手芸クラブは他に自分の好きな編み物をしたい方も参加できます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

お子さん連れでもどうぞ!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1771082165iamg@1771082165arumi1771082165hsoy.1771082165iviap1771082165
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

説教「福音を携えて生きる者の心構え」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 9章35~10章23節

主日礼拝説教 2023年6月18日(聖霊降臨後第三主日)

聖書日課 出エジプト19章2~8a節、ローマ5章1~8節、マタイ9章35~10章23節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は一回読めば意味は大体わかります。しかし、難しいです。言っていることの意味はわかるのに難しいとはどういうことか?それは、キリスト信仰者になると迫害を受けるとイエス様が言っているからです。信仰のゆえに当局に引き渡されるとか、果ては信仰者でない肉親が信仰者の肉親を死に引き渡すとか、信仰のゆえに全ての人に憎まれるとか、こんなの読んだら誰もキリスト信仰者になりたいと思わないでしょう。信仰者も、ここを読み返したら心配になる人も出てくるかもしれません。これらが、意味的には難しくないが内容的に難しいところです。

 意味的に難しいところもあります。例えば、10章16節でイエス様は伝道に送り出す弟子たちに、「蛇のように賢くあれ。鳩のように素直であれ」と指示します。「鳩のように素直であれ」というのはわかるとしても、「蛇のように賢くあれ」とはどういうことか?創世記3章1節で、人類を罪と死に追いやった蛇が「全ての動物のなかで賢い」などと言われています。イエス様は、送り出す弟子たちにあの蛇のようになれと言っているのでしょうか?もう一つ意味的に難しいところは10章23節、一つの町で迫害を受けたら別の町に逃げよと言っているところです。イエス様が再臨する日まではイスラエルの町をまだ全部逃げ終わっていないなどと言います。そこで、イエス様はまだ再臨されていません。と言うことは、キリスト信仰者はまだイスラエルの町々を転々と逃げ回っていることになりますが、今そんなことは起きているようには見えません。このイエス様の言葉はどう理解したらよいのでしょうか?

 このように内容的にも意味的にも難しいところがいろいろある本日の日課は説教でどう説き明かしていいのか困ってしまうところです。そこで解決の手がかりとして、イエス様が弟子たちを伝道旅行に派遣する場面がマルコ福音書とルカ福音書にもあることに注目します。それらと本日のマタイ福音書の記述を比べるといろいろ違いがあります。違いがあるというのは、同じ出来事の記述ではあるが、マタイはマルコ、ルカと少し違う視点で同じ出来事を眺めているということです。それを明らかにして、先ほど述べた難しい事柄をもう一度見直してみると最初と少し違って見えてきます。そんなに心配にならなくなると思います。本当にそうか、これから見てまいりましょう

2.

本日の福音書の日課のマタイ10章はイエス様が12弟子を伝道旅行に送る際に述べた教えです。同じ出来事を扱っているマルコ福音書6章とルカ福音書9、10章の記述と大きく異なっています。どういうふうに異なっているかと言うと、まずマタイの方は最初に旅行のいろいろな規定が述べられます(5~15節)。伝道はユダヤ民族を相手にしろとか、金目のものは一切持って行くな、余分な服も靴も杖も持って行くなとか、弟子たちを受け入れない町から立ち去る時は足のほこりを落とせとかいうものです。

 こうした旅行規定を言った後で迫害のことが述べられます(16節~)。最初に「弟子たちはオオカミの群れの中に派遣されるのと同じだから、蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」とか、「イエスのゆえにあちこちで迫害を受け裁判にかけられるが、弁明の言葉は聖霊に任せよ」とか、「イエスの名のゆえに家族にさえ憎まれるが、最後まで信仰に踏みとどまれば救われる」とか述べます。その後で、先ほど触れた、イエス様の再臨の日まで逃避行が続くということが来ます。その後の続きは来週の日課になります。少し先取りして言うと、「憎しみや迫害や誤解の的になっても驚くな、主自身に起きたことは弟子たちにも起きるのだから」(24節)とか、「肉体を殺しても魂を殺せない者は恐れるべき者ではない」(28節)とか、「雀でさえ天地創造の神の意志のもとで生かされている、人間はなおさらそうである」(29~31節)などと続きます。このように最初に旅行規定を言って、その次に迫害の注意喚起とそれへの心構えについて教えるのがマタイ福音書の流れです。

 ところが、マルコ6章とルカ9章でイエス様が12弟子を送る場面とルカ10章で72人の弟子を送る場面を見ると、マタイ福音書と同じような旅行規定を述べますが、マタイにある迫害の注意喚起と心構えはありません。そればかりか、マルコとルカでは旅行規定を言った後すぐ弟子たちは伝道に送られます。出かけた弟子たちは各地で神の国について宣べ伝え、病気の癒しや悪霊の追い出しを行ってイエス様のもとに帰還します。ところが、マタイでは11章1節でイエス様が弟子たちと別行動を取って自分一人で伝道を続けたように言われます。つまり、弟子たちは伝道に派遣されたのです。ところが、帰還については何も述べられていません。イエス様自身の伝道活動が11章全体で述べられ、12章に入るといきなり、イエス様がある安息日に麦畑の傍らを弟子たちと進んでいる場面がきます。弟子たちはいつ伝道旅行から帰ってきたのか?

 皆様も既にご存じのように、4つの福音書には同じ出来事を扱っていてもそれぞれ描写に多かれ少なかれ違いがあることが多々あります。本日の箇所もそうです。こうした違いは、違いが全くないことに比べると、かえって出来事が歴史的事実性を強く帯びるということを以前お話ししました。ここでは繰り返しませんが、マタイの記述がマルコやルカと違うことで、マルコやルカからは見えてこないことが見えてきます。これからそれを見ていきましょう。

3.

なぜマタイ福音書では弟子たちが伝道旅行から帰ってきたことが語られないのか?

 マルコ福音書とルカ福音書は弟子たちが帰ってきたことをはっきり記すことで、彼らの伝道旅行はイエス様の十字架と復活の出来事の前に起きたことがはっきりします。ところがマタイ福音書では、弟子たちが帰ってきたことが述べられていないので、弟子たちの伝道旅行はマルコやルカと比べると完結した感じがしなくなります。伝道旅行はもちろん十字架と復活の前にあったことですが、マタイは十字架と復活の後に起こる伝道旅行も視野に入れているということが見えてきます。

 それともう一つ、マルコとルカでは迫害の注意喚起はありません。実際、伝道先では病気を治したり悪霊を追い出したりしてミッションは成功だったと弟子たちはイエス様に報告します。迫害を受けたことは報告されていません。マタイ福音書では伝道旅行は迫害を伴うと言われます。実際、十字架と復活の後の弟子たちの伝道は、使徒言行録を繙けばわかるように迫害を伴うものでした。ここからも、マタイが伝道旅行に際して迫害の注意喚起を入れたのは、伝道旅行を十字架と復活の前のものだけでなく後のものも視野に入れていたことが見えてきます。もちろんマルコとルカにも、イエス様の迫害の注意喚起はあります。ただし、それは、エルサレムの神殿が破壊される時とか、この世の終わりが来る時とか、そういうイエス様の再臨を待つ時代に起こることとして述べられます。要するに、マタイもマルコもルカもイエス様の十字架と復活の後の伝道は迫害を伴うということでは一致しているのです。ただ、マルコとルカは十字架と復活の前の伝道旅行と後の伝道は別々に扱い、マタイは十字架と復活の前の伝道旅行と後の伝道旅行が繋がっているようにしているのです。

 ここで、伝道が十字架と復活の前と後で意味合いが異なってくることに気づくことは重要です。十字架と復活の出来事が起きる前の伝道とは、人間を罪の支配状態から救い出す神の救済計画が実現する前の伝道です。その時のイエス様の伝道の主眼は、「神の国が近づいた」と人々に告げ知らせ、旧約聖書を神の意図通りに正確に教え、あわせて不治の病を癒し悪霊を追い出すことでした。「神の国が近づいた」ことは、病の癒しや悪霊の追い出しから明らかになりました。病気や悪霊の力を超えた力が存在し、そういう力が働く領域があるということがはっきり示されたからです。黙示録21章にあるように、「神の国」とは全ての涙が拭われて悩みも嘆きも苦しみもそして死さえない国だからです。そのような国がイエス様とくっつくようにしてやってきたのです。イエス様は弟子たちを伝道に派遣する時も、自分と同じようにしなさいと命じました。「神の国が近づいた」と人々に告げ知らせ、それが本当だとわかるように、病を癒す力と悪霊を追い出す力を弟子たちに授けたのです。

 しかしながら、いくらイエス様とその力をもって神の国が近づいたことが明らかになっても、最初の人間アダムとエヴァの時に人間に備わってしまった、神の意思に反しようとする性向、罪は代々人間に受け継がれたままです。人間はそのままの状態では神の国に入ることはできないのです。罪のゆえに人間は神聖な神とあまりにも対極なところにある存在になってしまったからです。罪の問題を解決しなければ神の国に迎え入れられません。いくら病気を治してもらっても悪霊を追い出してもらっても、罪の問題の解決なくして、人間はまだ神の国の外側にとどまっているのです。癒しを受けた人たち悪霊を追い出してもらった人たちは神の国に迎え入れられたのではなく、来るべき神の国がどんな国であるか、黙示録で言われている国であることを前もって垣間見た、味わっただけなのです。

 人間が神の国の外側からその内側に迎え入れられるようにして下さったのがイエス様でした。イエス様は本当であれば私たち人間が受けるべき罪の神罰を全部引き受けて十字架の上で死なれました。私たち人間の罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。さらに、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を私たちのために切り開いて下さいました。神がひとり子のイエス様を用いて人間のために罪の問題を解決してくれたのです。

 あとは人間の方が、これらのことは本当に起こったのであり、だからイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。罪を償ってもらったからその人は神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになります。永遠の命と復活の体が与えられる日を目指して進む道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進むようになります。

 その時、キリスト信仰者といえども、まだ復活の体ではない肉の体を纏っているので、罪は残っています。しかし、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、罪は信仰者の道の歩みを妨げる力を失っています。人間的な弱さや隙をつかれて道の歩みを邪魔される時もあります。しかし、一度打ち立てられた十字架の罪の赦しは永久に打ち立てられたままです。十字架が現す罪の赦しと罪からの贖い、復活の命などに洗礼によって結びつけられました。罪には信仰者の道の歩みを妨げる力がないことは明らかすぎるほど明らかです。信仰者はこの神のお恵みによって道の歩みを続けることができるのです。

 以上から、ガリラヤ時代のイエス様の弟子たちの伝道は、神の国が実在することを告げ、それをわからせるために病気癒しと悪魔祓いをする伝道でした。それが、イエス様の十字架と復活の後になると、伝道の目的は人間をまさに神の国の中に入らせることに変わったのです!こうなると、イエス様を救い主メシアと認めないユダヤ教社会の指導層と以前にも増して対立することになります。それだけではありません。他の神々や霊、果ては人間の支配者を崇拝するよう要求する各国政府との衝突も避けられません。マタイは十字架と復活の出来事の後に福音書をまとめ始めたわけですが、マルコやルカのようにガリラヤ時代の弟子たちの伝道を歴史的な過去として扱うことはせず、全ての時代に当てはまる普遍的な出来事として扱ったのです。伝道とは、神の国を外側から垣間見させる、味わせることではない、神の国の内側に入れるようにするのが伝道であるという視点で書いたのです。それで迫害の注意喚起と心構えについてのイエス様の教えを、ガリラヤ時代の伝道旅行のところに持ってきたのです。

4.

このマタイの視点をもって、今度は意味的に難しいこと、内容的に難しいことを見てみましょう。

 まず、「蛇のように賢くあれ、鳩のように素直であれ」。ここは言葉の問題があると思います。創世記3章1節にある蛇はどんなだったかという言葉ァルームは、ヘブライ語・英語の辞書を見ると「賢い」もありますが、「巧妙な」、「巧みな」、「抜け目のない」もあります。蛇のやったことを考えたら、こちらの方が「賢い」よりもピッタリなのではないかと思います。マタイ10章の蛇はギリシャ語ではフロニモスと言われます。これは辞書では「賢い」という意味ですが、少し考えなければならないことがあります。ヘブライ語の旧約聖書はイエス様の時代の200~300年前にギリシャ語の翻訳されました。創世記3章1節の問題のヘブライ語の言葉はこのフロニモスに置き換えられました。しかし、訳した人は蛇のやったことを当然知っていたので、フロニモスに「巧妙さ」、「巧みさ」の意味を含ませたと考えるのが妥当です。なので、マタイ10章のフロニモスも同じように「巧妙な」、「巧みな」と考えた方がよいと思います。

 創世記3章の蛇は人間を神から引き離すという明確な目的を持ち、それを見事に達成しました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という誘惑の言葉が決め手となりました。被造物にとどまるのは嫌だ、創造主の神の地位に上りたいという人間の心に上手く付け入ったのです。「巧妙」と言うのは、こうした明確な目的とそれを達成する最適な手段の選択によくあらわれています。

 しかしながら、イエス様は蛇の次に鳩を出すことで、目的と手段はなんでもいいということではなくなって決った方向に方向付けられます。日本語訳では鳩は「素直」となっていますが、ギリシャ語の言葉アケライオスは「汚れがない、清い、無垢、無実、潔白」という意味です。「素直」ではなんだか言われたことを従順に聞き従う感じになってしまいます。「汚れがない、清い、無垢、無実、潔白」というのは神の御前でそうだと言うことです。それなので、明確な目的を持ち最適な手段を選ぶという点では蛇と同じだが、目的と手段は神の目から見て相応しいものでなければならなくなります。伝道の明確な目的とは言うまでもなく、人間を神の国の中に迎え入れられるようにすることです。そのための最適な手段は何かを状況に応じて考えなければなりません。それを見つけられれば、鳩のように「清く」、蛇のように「巧み」になれます。

 次に迫害の問題について、信仰者でない肉親が信仰者の肉親を死に至らせるなどとは恐ろしいことです。歴史的に迫害が激しかった時代にはそのようなことがあったことは想像に難くありません。現代でもイスラム教が厳格なところではそのようなことが起こると聞いたことがあります。信仰の自由が保証されている時代に生きられて本当に良かったと思います。しかしながら、マタイ10章にある迫害の注意喚起は、先ほども申しましたように、マルコ福音書とルカ福音書では、ガリラヤ時代の伝道旅行の所ではなく、十字架と復活の後のこととして出てきます。エルサレムの神殿が破壊される時とか、この世の終わりが近づく時とか、イエス様の再臨を待つ時代に起こる迫害の注意喚起が述べられます。なので、キリスト信仰者は平穏の時代を生きている時も(それは感謝すべきことですが)、それは本当の姿ではない仮の姿だという警戒心を持っていないといけないと思います。

 警戒心だなんて、そんなこと言っていたら人生楽しくなくなると言われるかもしれません。しかし、そうではないのです!永遠の命と復活の体が待っている日を目指して進むキリスト信仰者にとって人生はどのようなものになるか、そのことが本日の使徒書の日課ローマ5章でも的確に述べられています。イエス様を救い主と信じる信仰により、神の目に相応しい者、義なる者とされる、神聖な神の前に立たされても大丈夫な者になる。それで神との間に敵対関係はもうなく、ただただ平和な関係にある。天地創造の神と平和な関係にあれば、他のものは全て造られた被造物なので造り主より劣るのは明らかである。そんなものが敵対してこようが恐れるに足らず。このような信仰に立てれば、試練があってもそれは忍耐に転化する。忍耐は鍛えられた心に転化する。そして鍛えられた心は希望に転化する。パウロは、「希望」とは神の栄光に与る希望だと言います(2節)。どんな希望かと言うと、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるという希望です。私たちがまだ罪びとであった時に、私たちがそのような栄光に与れるようにとイエス様は自らを十字架の死に委ねられたのでした。これが神の愛です。この愛を神は、洗礼の時にキリスト信仰者に与えた聖霊を通して信仰者の心に注いで下さいます(5節)。それでキリスト信仰者は聖霊のおかげで霊的な喜びに満たされるのです。

 この福音を伝道することがどれだけ大切なことであるか、本日のマタイ9章の終わりでイエス様が述べています。群衆が羊飼いのない羊のように打ちひしがれて見捨てられた状態にある。それは、神との平和な関係を持たず、罪の力にされるがままにある状態のことです。神の愛も霊的な喜びもありません。人々がその状態から脱せられて神と平和な関係を持てるように、そのために福音を宣べ伝え教える働き人が必要なのです。

 最後に、イエス様の再臨の日までキリスト信仰者は迫害を逃れてイスラエルの町々を逃げ回っているという言い方について。もちろん、私たちキリスト信仰者は迫害を受けて今イスラエルの町々を行ったり来たりしていません。そうではなくて、イエス様の言葉は、キリスト信仰者というのは本質的にこの世にではなく神の国に属する者であるということを意味する言葉と考えればよいでしょう。再臨の日が来ても、まだ全部の町を逃げ終わっていないというのは、この世には安住の場はない、本当の安住の場は神の国なのだということです。それ位、キリスト信仰者はこの世に属する可能性はゼロで100%神の国に属してしまっているということです。そこまで完璧に属しているのであれば、逆に安心ではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

転入式

6月11日の聖霊降臨後第ニ主日の礼拝では早稲田大学留学生のエーリク・シートネン兄の転入式が行われ、「信仰の証し」を語って頂きました。クリックすると視聴できます。

今来日中のシートネン兄のご両親も礼拝に参加されました。コーヒータイムでは、シートネン家とも関係があるラヌアの野外日本博物館や、北フィンランドで盛んなルター派教会内のリヴァイヴァル運動の一つ”レスタディオ派”について興味深いお話を聞かせて下さいました。

Siitonen

宣教師の週報コラム フィンランドの”タルコー精神 talkoohenki” 

CC0

私たちの住んでいたトゥルク市のアパート群では毎年5月に「タルコーの日」という日があります。 何をする日かと言うと、住民が一緒に周囲の掃き掃除をしたり冬の間芝生に落ちた葉っぱや木の枝を集めたりします。これらのゴミはかなりの量になり、いつもゴミ収集会社からコンテナを手配します。またブランコベンチ、ガーデン・チェアーやテーブルを倉庫から出して芝生に置いて夏の楽しみに備えます。共同公園の砂場の砂を入れ替えたり新しい遊具を購入して自分たちで設置したこともあります。これら一仕事の後は皆でフランクフルトをバーベキューして談笑のひと時。共同サウナも点火、最初は女性組、次は男性組、話はそこでも続きます。

“タルコー”talkooとは何か?フィンランド語・英語の辞書を見ると、ボランティアの意味ともう一つ、隣人的という意味があります。タルコーはボランティアと言い換えてもよさそうですが、フィンランド語では英語のボランティアに相当する言葉は”ヴァパーエヘトイネン”vapaaehtoinenがあります。何か違いがあるのです。日本語で言うボランティアは何か社会活動の意味があると思います。タルコーは特にそれはなく、身近な共通のこと(ないしは自分にとって身近で共通と感じること)のために時間を割いて一緒に働くという意味合いが強いと思います。それと、参加する人は、しない人に対して別に何もとやかく言いもしないし思ったりもしません。アパートのタルコーで、何か事情があって参加できなかった人がバーベキューしている所に来ても「一緒にどうぞ」と誘われます。サウナも同じ。参加できない人も引け目を感じることはありません。この大らかさ気前の良さは一体何なんだと思ったものです。

ルターは、キリスト信仰者とは「洗礼」とイエス様を救い主と信じる「信仰」の二つでもう至福を手にしてしまった者である、自分が十分すぎるほど満たされているとわかっている、だから、あとは神のため隣人のために善いことをするしか残されていない、それくらい縛られていない自由な存在なのだと教えます(事情があって隣人のために祈ることしか出来ない場合も善いことです)。タルコー精神の源はルター派の精神というのは言いすぎでしょうか?

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

6月の料理クラブは10日に開催しました。今週は東京でも梅雨に入りましたが、この日は雨が降らず曇り空の天候でした。今回はシードブレッドと「田舎風サラダ」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。はじめに生地を作ります。計量した材料を順番にボールに入れて、強力粉を少しづつ加えてよく捏ねると生地の形が見えてきました。サラダ油を入れてさらに捏ねると生地の出来上がりです。ここで一回目の発酵をさせます。その間に「田舎風サラダ」の茹でジャガイモの皮をむきます。今の季節のせいでパン生地はあっという間に大きく膨み、みんな驚きです。生地を10個に分けて棒の形に丸めていき、一個一個きれいにロールして丸い形にします。鉄板の上に並べて二回目の発酵をさせます。その間に「田舎風サラダ」の準備を進めます。茹でジャガイモ、リンゴ等をさいころ形に刻んで、ドレッシングの材料と混ぜます。皆さんの手は早く、サラダはあっという間に出来上がりました。パンの二回目の発酵も早く済み、膨らんだパン生地の上に卵を少し塗ります。その上にシードをかけて、オーブンで焼きます。その間はコーヒーの準備とテーブルのセッティングです。きれいな焼き色がついたパンがテーブルの上に並びました!

今回は準備が予想以上にスムーズに進みました!「田舎風サラダ」の盛りつけをして皆さん席に着き、温かいシードブレッドと一緒に味わいました。歓談のひと時のあとで、フィンランドの夏の景色と讃美歌のビデオ「夏の光と休み」を皆さんご一緒に観ました。それからフィンランドの夏至祭(ユハンヌス)の過ごし方や天の神さまが与える祝福についてお話を聞きました。

これから料理クラブはしばらくお休みになりますが、また夏の後に再開する予定です。詳しいお知らせはホームページに載せます。どうぞご覧ください。皆さん、お身体に気をつけて天の神さまのお守りの内にこの夏を乗り切られますように。

 

2023年6月10日料理クラブのお話

今日は新ジャカが沢山入っている「田舎風サラダ」を作りました。フィンランド人は5月6月になると、その年の新ジャカはいつお店にでるかと楽しみに待ちます。新ジャカは最初のものはまだ小さいですが、味はとても美味しいのであまり料理をする必要はありません。ただ茹でてバターをのせただけでも美味しく食べられます。新ジャカはサラダにもよく合い、この「田舎風サラダ」もフィンランドで人気があるものです。新ジャカは売り始めの頃はまだ値段は高く、毎日買うことは出来ませんが、フィンランドの夏の大きなお祝い夏至祭(フィンランド語でユハンヌスと言います)になると、どの家庭でも食卓の大事な食材になります。

フィンランド人はユハンヌスをどのように過ごすでしょうか?ユハンヌスは6月の終わりの金曜日から日曜日までの3日間のお祝いです。ユハンヌスの過ごし方にはいろんな伝統があります。町に住んでいる人たちは町を出て別荘に行って、そこでサウナに入ったり、湖で泳いだり、ボートを漕いだりして過ごします。それでユハンヌスの時は町は人が少なくとても静かになりますが、田舎の方が賑やかになります。田舎の人たちは別荘に行く人もいますが、自宅で過ごす人も多いです。自宅でユハンヌスを過ごす人たちはいろいろ準備することがあります。家の大掃除をしたり、マットやカーテンを洗ったり、ケーキやクッキーを焼いたりします。夏用のマットとカーテンを出すので家の中は冬と違う雰囲気になります。森や野原のきれいな花をたくさん摘んで家に飾ったり、細長い白樺の木を何本も切ってきて玄関の前に立てたりします。そうすると白樺の良い香りが玄関前に広がります。ユハンヌスの食事は普通はバーベキューです。肉やソーセージや野菜を焼いたりします。一緒に新ジャガやいろんな野菜のサラダを添えます。夜は完全に暗くならないので、みな遅くまで起きています。

フィンランドでは夏至祭の頃の自然は緑が一杯で、いろんな花が沢山咲いてとてもきれいな季節です。私はこれらの自然の美しさを見ると、これは人間の手では造ることが出来ないもの、まさに天の神さまの御手の業によるものと思い、いつも感謝の気持ちに満たされました。天の神さまは自然を通して私たちに祝福を与えて下さると思いました。しかし、神さまの祝福は自然の中だけではなく、私たちの日常生活の中にも、いろいろな賜物や贈り物を通して与えて下さいます。

聖書は神さまの祝福について沢山教えます。新約聖書の福音書の中には有名な「イエス様が子どもを祝福する」というお話があります。これを紹介したいと思います。

イエス様が神さまのことを教える時はいつも大勢の人々が集まってきました。その中に子供たちを連れた親たちもいました。親たちはイエス様が子どもたちを祝福するように連れてきたのです。イエス様が祝福すると子供たちは天の神さまと結ばれると考えたからです。しかし弟子たちは親は失礼なことをしてはいけないと、親たちを叱って帰らせようとしました。彼らはイエス様の祝福に相応しいのは大人だと思ったのです。それを見たイエス様は残念な気持ちになり弟子たちに言われました。「子供たちを私のところに来させなさい、来るのを妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。」そして、イエス様は子ども一人一人を自分の膝の上にのせて手を頭の上において祝福されました。

イエス様は大人だけではなく子どもも祝福されました。誰が祝福を受けるのに相応しいか、その例としてイエス様は子どもたちに祝福を授けたのです。親たちはどうして子供たちにもイエス様の祝福を望んだのでしょうか?それは、イエス様の教えを聞いて子どもの将来を神さまの守りと導きに委ねたかったからです。もちろん、イエス様の祝福を受けても子供たちは親の世話を受け続けますが、深いところでは子供の毎日の生活や将来は神さまの守りと導きの下に置かれるのです。祝福を通して天の神さまが子どもの脇に立って一緒に歩んで下さるようになります。

今教会の礼拝で牧師が礼拝の終わりに神さまからの祝福を大人も子供もみな一緒に授けます。礼拝だけでなく、洗礼式では洗礼を受ける人に、結婚式では新郎新婦に神さまからの祝福を授けます。それらの祝福の意味はイエス様がなさった祝福と同じです。天の神さまがずっと一緒にいて守り見導いて下さるということです。

フィンランドのクリスチャンは友達や同僚に会って別れる時は必ず「祝福がありますように」と言います。メールや手紙の終わりにも書きます。クリスチャンの挨拶言葉になっています。この挨拶を通して、神さまがあなたと共にいて守り導いて下さいますようにと願うのです。その人を天の神さまの守りと導ぎに委ねるのです。

私もこの挨拶をよくもらって感謝します。私は今年の春小さな手術を受けなければなりませんでした。これは私の人生の初めての手術で、成功するかどうか心配がありました。いろいろ悩みました。しかし手術の前に励ましの言葉を多くの方々からもらいました。その中にはもちろん「神さまの祝福がありますように」もありました。この言葉の深い意味を考えると心配はだんだん軽くなって手術を神さまの守りと導きに委ねることが出来ました。この手術のことや結果のことも天の神さまが一番よくご存じなのだと神さまを信頼しました。手術の日はもちろん緊張がありましたが、心の中に平安を感じました。それは神さまが与えて下さった平安でした。それを神さまに感謝しました。

このように、神さまの祝福は自然の美しさの中だけでなく、私たちの生活の中でも神さまの守りと導きとして祝福があります。このことを信じられると心に平安がもたらされます。

2023年6月11日(日)聖霊降臨後第ニ主日 主日礼拝

<私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安が、あなた方にあるように>

「罪人を招くキリスト」    2023年6月11日

聖書:マタイ福音書9章9~13節

きょうの聖書のテーマはキリストは地上では罪を許す権威を持つ方である。ということです。

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福音書を見ますと、この権威をめぐって、イエス様とユダヤ教の律法学者との間にはいつも対立がありました。この対立が激しくなって、ついにイエス様を十字架上で処刑するという恐ろしいことになってしまいました。対立や憎しみ、争いからは何も良い事は生まれません。行き着く先は悲劇の結果しかない。その悲劇が今も世界で戦争が続いています。きょうの聖書のマタイ9章9節から13節までのところでもイエス様を批難する、という対立が出て来ます。まず9章9節には、徴税人のマタイをイエス様は弟子の一人に招かれたのでした。この福音書を書いた「マタイ」その人です。このマタイという人がどういう人であったか。マルコ福音書2章14節によれば、「アルパヨの子レビ」と呼ばれていました。だから元の名は「レビ」であった。ヨハネ福音書1章の42節のところで、シモン・ペテロの兄弟アンデレが兄のペテロに「イエス様に会ったよ」と言って紹介した。そしてシモン・ペテロをイエスのところに連れて行った。イエス様はそこで「あなたはヨハネの子、シモンであるがケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」と言われた。ちょうどそれと同じように、アルパヨの子レビもイエス様の弟子とされた時「マタイ」とあだ名されるようになった。と言うのです。マタイ9章9節を見ますと、「イエスはそこを去り、通りがかりにマタイという人が徴税所に座っているのを見かけて『私に従いなさい』と言われた。」と書いています。マタイが自分の事を書いているんですね。このマタイという人が徴税所に座っていた。ですから、彼はユダヤ人でありながら税金を取り立てる仕事をしていたのです。ユダヤは、この当時ローマ帝国の支配下にありました。ユダヤはローマ帝国に税金を納めなければならない。その税金を取り立てる仕事をマタイは請け負っていたわけです。徴税人と呼ばれユダヤの民からは蔑まれ、憎まれ、裏切り者と呼ばれ売国奴として皆から嫌われていました。イエス様はマタイのそうした職業の立場で苦しんでいることなど、すべてをご存知の上でマタイに目をかけて声を掛けられたのでありました。実はイエス様は、この前に既にガリラヤの漁師をしていたペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレと言った漁師たちを「これからは人間をとる漁師にしよう」と言って弟子として招いておられました。漁師ですから、彼らは力強い、素朴な男たちです。でも貧しく教養もない者たちです。こうした男たちに、まず弟子となる声を掛けられたこと自体が驚きでした。しかし、今度はマタイを弟子にされています。漁師たちと違って、彼は教養もあり金もある、しかしユダヤの同胞からは嫌われていた徴税人であった彼に声を掛けられていいます。

これは、また一層の驚きであります。「私に従って来なさい」とのひと声にマタイは立ち上がりイエス様に従ったのです。マタイはこれまで徴税人として、かなり金も持っていて家族や友人などもあったかもしれない。それらの一切を捨ててイエス様に従ったのです・。これは大変なことです。彼の一生の一大転換の出来事であったでしょう。何故イエス様のひと声にマタイは従って行ったのでしょうか。マルコ福音書2章13節を見ますと、「イエス様が中風の人を癒す奇跡の出来事をなさって、イエスは再び湖のほとりに出た行かれた、群衆が皆そばに集まって来たのでイエスは教えられた。」とあります。恐らく彼方此方で群衆がイエス様のもとに集まってきたので、そこで大切な教えをなさった。また、行く先々で病人を癒したり、人々が驚くような奇跡を起こされた。その噂を人づてマタイは聞いていたのでしょう。特にイエス様の語られる教えに胸打たれ、また罪人や弱い人々を限りなく慈しんでゆかれる姿に心惹かれ、マタイは常々話を聞いては考えさせられていた。自分はどうしてこういうユダヤ人として生まれてきたのか。生きていくため本当は望まない仕事でも、やらざるを得ない。彼は貧しい自分の民から無理やりでも税を取り立てて、心がどんなにか痛んでいたことでしょう。そうした中にイエス様の目にとまり、ひと声の招きを聞いた瞬間、彼の全ての思いと魂が光に打たれたような、運命的なみ霊に包まれて導かれて行ったのです。そして、即座に自分の過去もこれからの事も一切このお方に委ねてゆく決心をして立ち上がり、ただ従って行ったのです。もう、後戻りはできない。これから自分の人生がどうなって行くのかもわからない!漁師であったペテロ、ヤコブたちは又戻っても恐らく兄弟たちか家族があとを継いで漁師をやっていますでしょう、だから後戻りが出来るでしょう。マタイは税を取り立てていたサラリーマンでしたから、もう彼の後釜は誰かがやっていて道は塞がっている、後戻りなどできない。前に進むしかない、イエス様の弟子たちと共に運命を預けて行くことになったのです、マタイの思いはどうだったでしょう。私自身もサラリーマンを捨てて神学校に入った途端、それまでの月給もボーナスも収入は全くない、学費と生活のための一切をどうして生きていったらよいのか。マタイの気持ちが良くわかります。

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さて、10節を見ますとマタイはイエスとの出会いで、もうとても嬉しかったのです。「それから、イエスが家で食事の席についておられる時のことである。」とあります。イエス様に召されたマタイのした事は第一には職業を変えた、という事。第二にはイエス様や弟子たち、そして徴税人、罪人と共に宴会を開いた、という事です。ところで、10節のところを良く読んでみますと、はじめにある「イエスが」というのは「彼が」というただの代名詞です。次の「家で」というのは冠詞がついていて「その家で」と記されている。ここを文法的に直訳すると、10節はこうなります。「そして彼がその家で席に着いていた時のこと、見よ、多くの徴税人や罪人も来て、イエスと彼の弟子たちと共に席に着いた。」とこうなります。9節から続いて読みますと「すると、彼は立ち上がってイエスに従った。そして彼がその家で席に着いた。」こう読めます。これは、いかにもマタイが立ち上がってイエスに従いイエスの家に行き、その食卓に着いた」と言うようです。マルコ福音書の方では「そこで彼は立って彼に従った。そして彼が彼の家で席に着いている」こうあります。席に着いた「彼」というのをイエスと解すればイエスが自分の家で席に着いた、ことになります。今度は「彼」というのをマタイであるとすれば、マタイが自宅で宴会を開いた、となります。このように、どちらの文章も宴会を開いたのがマタイなのかイエスなのか、また会場がマタイの家なのかイエス様の家だったのか、大変にわかり難い文章です。この事実はルカの福音書の方で明らかになります。ルカは5章29節に、その宴会はマタイの家で催された。しかもイエスのために開かれたのでした。ですから、会場はマタイの家で開かれ、余程うれしかったと思います。そこで費用もマタイが全部出しているのでしょう。ここで大切な事は宴会そのものはイエス様のための宴会で、マタイ自身のためのものではなかったというとです。食事を共にして、もてなしをしたい、というマタイの主イエス様に捧げたい気持ちがここにあふれるように思われます。現代の私たちの教会で礼拝をすること自体マタイのように自分の一切を捧げて神様を敬う、その一つの表れとして献金を捧げる、ことにあると思われます。さて、きょうの聖書の中心点はイエスは罪人を招くために来られた、ということです。マタイは自宅を開放し、友人たち、徴税人を招き、貧しく困った生活をしている人々に、これまでつれなく酷い税の取り立てで冷たくあしらった人々を招き、そうした罪滅ぼしの気持ちを表したい、そして社会的に日陰で辛い思いをしている人々を、いくらかでも明るく解放してあげたいとも思ったのでしょう。マタイは特に裏の社会の悲惨さも充分知っていた人ですから、皆を招いてイエス様と一緒の食事をしたかったのでありましょう。ここで私たちに教えられているメッセージは何でしょうか。マタイが催したように自分の家を開放して、いつでも心置きなく訪ねられる、又、食事を共にしてイエス様の大事な話を聞けるようにしてやったことであります。聖書を見ますと、マタイがしたように漁師であったペテロもそうでした。自宅を開放し、イエス様のカぺナウムでの伝道の拠点とされました。使徒言行録10章24節にはコリネリオも自宅に友人や親族を招いてペテロの伝道集会を開きました。又、使徒言行録12章12節ではマルコの母マリヤも自宅を開放してエルサレム教会の会場としました。更に、使徒言行録16章14節にはルデヤも自宅を開放しピリピの伝道の会場としました。使徒言行録18章26節を見ますとアクラとプリスキラもエペソの自宅にアポロを招き伝道しました。又、ロマ書16章3節ではアクラとプリスキラがローマの新居をローマ教会の集会場に開放しました。コロサイ書4章15節にはラオデキアのヌンパも自宅を教会に捧げまいた。ピレモン書2節にはピレモンも自宅を教会に聖別して捧げました。こうした、初代教会の輝かしい進展は主によって招かれたひとりびとりが自宅をイエスのために捧げ、解放して多くの友や罪人たちをイエス様の救いに与からせて行きました。考えてみますと私たちは誰でも初めての教会を訪ねた時、気恥ずかしく気後れするものです。自分のような者でも神様の礼拝に与からせてもらえるものかしらと、何度も教会の玄関ま行っても教会の敷居は高く感じるものです。心の悩みや心に重荷を負った人、罪の意識にどうしたら良いか迷っている人々は教会の門まで遠いものです。そこに貧しくとも、悩み困惑しつつあっても快く迎えられる教会の解放された姿こそイエス様が望まれた姿でしょう。さて、11節から13節を見ますとマタイの家での罪人たちとイエス様と弟子たちとが共に食事をしている光景をパリサイ派と言われる律法学者たちが来てイエス様の弟子たちに言った。「なぜ、あなたの先生は徴税人や罪人たち等と食事を共に交わっているのか」と非難したのです。それに対してイエス様は二つの反論をもってお答になりました。

第一は医者の例を話され、医者という者は病人のためにあるのだ。医者が病人に接して病気がうつるからと言って離れていては病人は治らないでしょう。そのように、救い主も救いを必要とする罪人を招くために来たのである。パリサイ派の人の如く「自分は健全だ」と自惚れ「自分こそ義人だ」と言っている者にはイエス様とは縁がないでしょう。自ら救われたい、と願っている魂の病人にとってはイエス様は慰めと癒しを豊かに与えて下さる医者であられます。

第二に、イエス様は言われます。「私が好むものは憐みであって、生贄ではない」これは旧約聖書のホセア書6章6節の言葉を引用してパリサイ人に答えられたのです。「憐み」というのはヘブル語の原語では「ケセド」と言い「慈しみ」と記されています。BC8世紀の預言者ホセアは「エフライムよ」と言って北のイスラエル人に呼びかけました。又、「ユダヤよ」と言って南のユダヤに呼びかけて南北、全イスラエル人の罪を責めました。その罪とは「あなた方の愛、ヘブル語のケセドが雲か露のように消え失せる、儚さにありました。反対に神様が求めたもうものは、まさにそのケセドである愛、慈しみなのです。ですからイエス様が好まれるのは神への愛、神への慈しみなのだ、と言っておられるのです。それには、神を知ること。神を喜ぶことであります。その「知る」というのは知識として神を知るだけではなく、結婚関係を結ぶほどの一体となる体験的知り方を表しています。つまり、神と結婚関係に入ったイスラエルが、つまり神の選ばれた民が神との契約に忠実なことを意味しています。”エフライムよ、ユダよ、あなたの貞節は実にはかない、それで私は。我が口の言葉で裁いた。私が欲しいのは見せかけの供え物などではない。本当に神の花嫁らしい、操が欲しいのだ”と言われておられるわけです。イエス様は供え物という礼拝形式よりも、神への忠実さが大切だ、と言っておられるのです。パリサイ人は供え物のような規則を守ることや、異邦人とは交わるな、と言った形ちばかりを追いかけて行く、それは本末転倒で神への忠実という中身を忘れている、というのです。

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イエス様は、ただ罪人と席を共にするために来たのではない、罪人を招き、神に忠実な民へと生まれ変わらせるために来たのである。、とそう言っておられるのであります。

<人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。>                       アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

宣教師の週報コラム - 使徒的伝統に立って福音書を繙こう(補足)

(「その3」で終わるつもりでしたが補足します。) 前回、時限的・限定的でないイエス像、死の力に打ち勝つ真の聖書的なイエス様に出会えるためには、「使徒の教え」に習熟しながら福音書を繙くことが必要であると申し上げました。この方針にピッタリな新約聖書の読み方を考えました。それは、最初に使徒書簡集を読んでから4つの福音書を読むという順番です。

この順番に多くの人は違和感を覚えるかもしれません。というのは、歴史の順序から見れば、最初にイエス様の出来事があって、その後に使徒たちが教え書いたのだから、最初に福音書を読んでから使徒書簡集を読むのが自然に感じられるからです。しかし、福音書を書いた人たち(完成させた人たち)は皆、使徒の教えを受け入れて、イエス様についての歴史を書いたのだから、福音書の中のイエス様を理解しようとしたら「使徒の教え」を知らなければ出来ません。考えてみれば、使徒たちが伝道してキリスト信仰者になった人たちは、まだ福音書がない状態で、イエス様についての断片的な証言・記録と「使徒の教え」が決め手だったのです。「使徒の教え」がキリスト信仰にとってどれだけ重要だったかがわかります。(注意 私の議論は、福音書は西暦70年以後の完成品、使徒書簡の大半は70年以前の執筆品という釈義学の定説に基づいています。もちろん、福音書も70年以前に完成していたという説もあります。スウェーデン・ルンド大学の教授B.イェルハルズソンは1961年の博士論文で、福音書は速記者が書いたようにほとんどその場で出来たというような説を発表して当時の世界の釈義学会に衝撃をもたらしました。しかし、程なくして注目されなくなり、釈義学会は再び従来の定説で動くようになりました。)

「使徒の教え」は、使徒言行録の中にも沢山あります。西暦70年後の作というバイアスがありますが、使徒書簡の多くがどのような背景で書かれたかわかる大事な資料です。それで、まず使徒言行録から始めて、使徒書簡集を読みます。そこで、「使徒の教え」とは本質的に、イエス様の出来事を通して旧約聖書を理解したことがその主たる内容です。なので、出来れば、旧約聖書の引用に出くわしたら、その都度、旧約聖書の引用元も確認する。そうして使徒書簡集が終わったら福音書に入り、最後に黙示録。その場合も、出来れば旧約聖書の引用元を確認しながらです(引用箇所と引用元が異なることが多々ありますが、最初はあまり深入りせず)。

まだ考えついていないのは福音書の順番です。それと、旧約聖書をキリストに出会えるような繙き方で読む順番です。何かいい提案がありますか?