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ルターの聖句の説き明かしから
フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」(1878年初版)から
「あなたは兄弟の目に埃があるのを見て、自分の目に材木があるのを気がつかないとは一体どういうことか?」 マタイ7章3節(フィンランド語の聖書からの訳)
もし君がしっかり目を覚ましているのなら、君くらいの沢山の罪を他の者に見出すことは決してない。他の者に沢山の罪、1年分ないし2年分の罪を見出すとする。ところが君は自分の内に一生分の罪を見出すのだ。特に他の人たちが知らない酷い行いに気づき、君は自分を恥じずべき存在だと思い知る。また、たとえ隣人の中に何か悪いものを見つけても、君は背を向けてはいけない。逆に、その人の良い面に目を向け、君が神から受けた賜物で助けてあげ、悪いものを覆ってあげて、その人に関することを良い方向に捉えてあげて、助言をしてあげなければならない。
たとえ君が最も敬虔な人間だとしても、他の者を裁くことで最も悪い者になることを知らねばならない。君は自分をおだてるために神から賜物を与えられたのではない。隣人が必要としている時に助けてあげるために与えられたのだ。君の力で隣人の弱さを支えてあげよ。君の敬虔さと栄誉をもって隣人の罪と恥を覆ってあげよ。神はキリストを通して君にそのようにして下さったのだ。今も毎日毎日そうして下さるのだ。もし君がそのようにせず、他の人たちを蔑むのなら、君は他の者の目に埃を見る時、実は神のみ前で大きな材木を目に入れた者であることを知るべきである。
夏の後のフィンランド家庭料理クラブは10月14日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。今回はフィンランドの秋の季節に合わせてベーコン・キノコパイを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にパイ生地を作って冷蔵庫に入れておいて冷やします。次に中身の準備。参加者みんなでキノコ、ベーコン等を一生懸命刻みます。色とりどりの中身をすぐフライパンに入れて炒めると、だんだん美味しそうなキノコの香りが広がります。皆さん、どんなパイになるか興味が高まりました。中身を冷ましている間、トッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜて出来上がりです。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に冷やした中身を載せます。その上にトッピングを流し込んで、最後にチーズをかけてオーブンに入れます。
パイが焼けている間、楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がると、皆さん興味を持って順番にオーブンの中を覗いてみていました。
ベーコン・キノコパイは焼き上がってからしばらく冷まします。皆さん席に着いて出来たてのパイを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」と言う声がテーブルのあちこちからあがりました。このパイをまさに秋の季節に皆さんと一緒に作って味合うことが出来て良かったと思いました。パイを頂きた後で、フィンランドの森のキノコと聖書の中にある種蒔き人のお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドの森では、何百もの種類の食用キノコが育ちます。8月と9月はキノコ狩りの季節です。その頃、多くのフィンランド人が森にキノコ狩りに行きます。キノコを採るのを趣味にしている人も大勢います。秋の森は紅葉が美しく、涼しい季節なので蚊や蠅もいなくなり、森の中を歩くのはとても楽しいことです。キノコを採る際には、いくつか覚えておかなければならないことがあります。そのためにキノコ狩りの講習会も開かれます。
キノコを採るときは、雨の日ではなく天気のよい日を選びます。雨にぬれたキノコとカラッとした天気のキノコは見た目は違うし、雨に塗れたキノコは早く悪くなるからです。キノコを採りに行くとき、持って行く道具として、入れる物やキノコ狩り用のナイフも大事です。キノコをつぶさないためにカゴは大きめのものにします。キノコは、キノコ狩り用ナイフを使って地面から掘り出し、ナイフに付いているハケで土やほこりを落としてきれいにします。キノコは、バラバラにならないように、全体のままカゴに入れます。全体のままのキノコは、後で食べられるかどうか確認するために大事です。キノコを採るときにはいつも、食べられるかどうか見分けがつくものだけを採ります。
フィンランドは毒キノコの種類も沢山あるので、それを見分けるためにキノコのカイドブックがあります。キノコ狩りをする人たちは普通、ガイドブックを持って本を見ながらキノコを採ります。
多くのキノコは調理をする前にお湯でゆでなければなりませんが、アンズタケはゆでないで直接フライパンでいためたり、ソースをかける料理の中に入れることができます。アンズタケは、フィンランドで一番おいしいキノコと言われます。もう一つとてもおいしいキノコはヤマドリタケです。これも、アンズタケと同じようにゆでないで直接調理に使えます。私の実家がある地域ではアンズタケとヤマドリタケはあまり育ちませんでしたが、アカチチタケは多くてそれをよく採りました。それは料理する前にゆでる必要があります。家ではアカチチタケのサラダをよく作りました。
キノコの収穫は年によって変わります。もし雨が多い温かい夏でしたら、キノコが沢山できます。フィンランドのことわざに、もし何かが沢山あることを言い表わす時、「きのこが雨の中で沢山できるくらいにある」と言います。
キノコが好きな人たちは、たくさん採って一年分くらい食べる量を保存します。キノコはどのようにして保存したらいいでしょうか?一番伝統的な方法は塩で保存することです。簡単なのは冷凍することです。他の保存方法は、ヴィネガー漬けにしたり、乾燥します。
私は、秋、森の中を歩いている時にキノコが見えると、いつも不思議な感じがします。それは、夏、同じ森を歩いている時、キノコはまだ何も見えません。しかし、夏の間キノコの胞子が土の中にあって、秋になるとキノコが土の中から出てきます。それは土にはキノコが育つ為に必要な栄養素や水分が蓄えてあるからです。森の中のキノコは人間が育てるものではなく自然に育つものです。しかし、本当はキノコや他の自然の植物も育てられるものです。誰によって育てられるのでしょうか?それは天と地と人間を作られた天の神さまが育てるものです。
私はキノコを見ると、イエス様が話された種の話を思い出します。それは、種まき人が一度種をまくと、あとはその人が知らないうちに種はぐんぐん成長していくという話です。
「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず、茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。 (マルコ4章27-28節)
このたとえをよく見てみましょう。ある人が種を土に蒔きました。種は芽を出して成長し始め、茎、穂、そして穂に豊かな実を結びました。そうなったのは種を蒔いた人が肥料を与えたからでしょうか?いいえ、不思議なことに蒔いた人が知らないうちに種が成長していったのです。人が何もしなくてただ寝起きている間に土は実を結ばせたのでした。
イエス様はこのたとえで何を教えているのでしょうか?種とは、天の神さまのみ言葉です。神さまのみ言葉は聖書の中にあります。土は私たち人間の心を意味します。私たちが聖書のみ言葉を読んだり聞いたりすると、土に蒔かれた種と同じようにみ言葉が心に蒔かれます。神さまはみ言葉が蒔かれた心に成長を与えます。心の成長は、私たちの自分の力や努力で与えることは出来ません。天の神さまが、私たちの知らないうちに与えて下さるものです。このように私たちの心の成長は完全に神さまの働きです。神さまの働きがあると、私たちは神さまを信頼するようになって全てのことを神さまに委ねるようになります。この時、私たちは神さまのことをもっとよくわかろうとして聖書を読んだり、み言葉に聞いたりして神さまとの繋がりを強めます。神さまとの繋がりが強まると、心の中に喜びが生まれます。神さまも、私たちを導いてよい実を実らせるようにしてくださいます。
森の中を歩く時、キノコはどこで育つかは私たちには見えませんが、神さまはキノコの胞子があるところをご存じで成長を与えます。同じように神さまは私たちの心を知っておられ、聖書のみ言葉を通して私たちに心と信仰の成長を与えます。
<マタイ22:1~14>
「神の恵みを受けよ」 スオミ教会2023・10・15
「子供は国の宝」と言います。日本で、今その子供の数が減って、お年寄りばかり増えています。これでは将来、国を支える働き手が、もう大変な事になります。
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子供が減っている、という事は、若い男女が結婚することが少ない、結婚しても子供を育てる事が大変だから、という事でしょう。さて、今日の聖書では、イエス様が語られた「王の一人息子、王子の婚宴」の譬えです。「イエスは、また、譬えで彼らに語って言われた。天国は、一人の王がその王子のために婚宴を催すようなものである。」イエス様はマタイ福音書21章のところで、二つの譬えを話されています。そして、今度はそれに加えてまた、重要な天国について、別の角度から話されたのです。21章の二つの譬えでは、いわばユダヤ教の指導者たちパリサイ人、又サドカイ人たちに向けての、彼らの罪と罰を痛烈に批難されました。その一つが「悪い葡萄園の農夫たちが主人の僕たちを次々に殺し、最後には主人の一人息子まで殺してしまう、そこで主人は大変怒ってこの悪い農夫たちを全部、滅ぼしてしまうという話です。今度の王の婚宴の譬えは、王の招きを拒んでしまう者への罰です。前と違うのは特に新しい国民であるキリスト教会の在り方について詳しく示しています。今度の譬えで語られた「王」と言うのは神様のこと、「王子」はイエス・キリストの事です。「婚宴」とは、神の国の事、「招かれていた人たち」とは、ユダヤの民の事です。
そして、神はここでも、婚宴の用意をすべて一手に引き受けておられます。又、神はここでもまず「客を招き」実際の婚宴の時刻になると「僕たちを遣わし」断られても、ほかの僕たちを遣わす、と言うほどの忍耐と寛容を示しておられます。前の「悪い葡萄園の農夫」の譬えでもそうでした。遣わされた僕たちが殺されても主人は忍耐して、最も大事な1人息子を遣わすのです。神の忍耐と神の恵み、寛容の豊かさに関しては二つの譬えは全くおなじです。今度の譬えで二つの新たな真理を教えておられる。第一は、この譬えで神の国が「婚宴」という喜びの場に、たとえられている点で神の恵みは一層大きなものになっています。又、前の譬えでは、神の国は「葡萄園」であり、ユダヤ人は働き人でなければなりませんでした。今度の神の国は「婚宴」でありユダヤ人は飲み食い楽しめばよい。第二は、前の譬えの事件が起こったのは葡萄の収穫の季節でした。今度の譬えでは「王子のための婚宴」という時です。収穫の秋は毎年巡って来ますから、悪い農夫の代わりに別の新しい農夫に委託すれば来年からは、やり直しの余地があります。ところが王子の婚宴は毎年やり直しのきかない一度限りの目出度い時です。神の招きは充分準備も整えられて熱意に満ちています。神の並々ならぬ熱意です。従って、今度は派遣される僕たちも、すべてが整った終わりの時の僕たちです。さて、第三には、前の譬えの悪い葡萄園の農夫たちは、つまりユダヤ民族の指導者が中心でした。今度は神の招きを受けているのはユダヤ人全部です。そして、神の招きは楽しい、しかもやり直しのきかない婚宴の招きですから、これを拒むユダヤ人の罪は、前よりはるかに重く悪質になります。この譬えで、この招きを拒否した者どもの一つは、婚宴の招待を受けていながら、知らぬ顔をする者です。具体的には自分の畑に行かねばならないから、或いは自分の商売に出て行くので参りません、と言った態度です。つまり、王のことより自分の事を優先して考え、目出度い大切な婚宴を無視する態度です。もう一つは悪い農夫と同じく僕たちを侮辱し殺してしまう、という敵対的態度です。この両方の態度は同じで、どちらも王子の婚宴に来ないという点で王と王子への反逆を露骨に示す極悪人です。ですから、王は立腹し、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。そうして王は更に僕たちに言った。「婚宴の用意は来ているが招かれていたのは相応しくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさい」と命じました。そこで僕たちは道に出て行って出会う人は悪人でも善人でも、皆集めて来たので婚宴の席はいっぱいになった。これがこの譬えの第二幕です。言い換えますと神が用意した御国をユダヤ人が見向きもしないで、み心に応じなかった。それなら、異邦人に神の恵みを提供してやろうとされた。それは神ご自身の体面、神ご自身の栄光のためでありました。このように王の方針は大きく変わったのです。神の救いはユダヤの民に限らず異邦人の全世界へと広まるのであります。次に、この招きは悪人でも善人でも、みんな誰もが招かれているのです。イエス様は既に21章31節で「徴税人や遊女はあなた方より先に神の国に入る」と言われました。こうした悪人と言われる人たちさえ決して招きから除外されてはいない。どれほど罪と悪に沈んでいた人も、王の婚宴に来て王の喜びに加わる事によって、あの無礼な客たちよりも王を喜ばせ、王の誉れを上げる事が出来るのです。神様の招きはどんな民族であっても、或いはどんな肌の色の人種の区別なく、又、文化や習慣の区別なく、招かれている恵みの世界です。この招きと約束は誠実です。神の聖なる世界ですから。人生の旅路において通り過ぎないで、足をとめ、方向転換し、神の悦ばしい招きに応えて行く人生へと変えられるのです。
さて、11節~13節を見ますと、婚宴の席はいっぱいになり、そこへ客として迎えた人々を見て、そこに礼服をつけていない一人の人を見て言った。「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで此処へ入って来たのか」しかし彼は黙っていた。そこで王は、そばの者たちに言った。「この者の手足を縛って外の闇に放り出せ、そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするであろう」。これが第三幕です。
13節で言われている「外の闇に放り出させ」とありますが、普通なら宴会場の外の闇と理解するでしょう。でもユダヤの宴会は必ずしも夜だけ開かれたわけではありません。平民でも婚宴は一週間ぶっ通しで行われましたから、まして王子の婚宴ならもっと長い間、昼も夜も徹して催されたでしょう。ですから「外の暗闇」というのが宴会場の外の庭や道を指すとは考えられない。むしろ、これは地獄の暗闇に落とされる、という怒りと審きの姿を表すところの慣用句でありました。この譬えの結果が教える厳粛な事実は審き日に列席者の中からはみ出される者がある、という事実です。確かに神はすべての人を招き、しかも誠実に熱心に招いておられる。しかし、では招かれればみな宴会の席に着けるか、というとそうではない、ということです。イエス様が特に選んだ使徒の中からさえ裏切り者のユダが出たではありませんか。この譬えで言われた「礼服」とは何を指すのでしょう。
7章21節には「主よ、主よ、と言う者がみな天国へ入るのではない、ただ、天にいます我が父のみ旨を行う者だけが入るのである」と言われました。18章3節には「心を入れ替えて幼子のようにならなければ天国に入る事は出来ないであろう」とあります。つまり「礼服」とは幼子のようにへりくだる謙遜さ、キリストを人前で言い表す信仰、律法学者やパリサイ人以上の義なる生活の全体ということです。言い換えると「礼服」とはガラテヤ書で言われている「キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを着たのでる」そのキリストであります。又、エペソ書4章22節以下に「滅び行く古き人を脱ぎ捨てて心の深みまで新たにされ神にかたどって造られた新しい人を着るべきです。」この新しき人に変えられる事こそ王の前に礼服を着ることであります。婚宴の招きに応える人は王の客に相応しい「礼服」をつけ、新しき人を着ることであります。では「礼服」は何処で手に入れる事が出来るでしょうか。譬えの中ではその必要性が強調されるだけで、触れられてはいません。何故か当時の人々には分かりきっているからです。まず、この招きは婚宴が開かれる直前に僕たちが通行人を一刻の猶予もなく王宮へ直行させたと思われます。誰もが礼服など持っていません。礼服は王宮で王からちゃんと支給されたのです。この習慣は広く行われていました。ところが1人だけ礼服をつけていなかった。この人だけ王から与えられる「礼服」を拒否したのです。彼は招きに応えて神の家に来た、しかし神の威光の前に出るのに必要な与えられる恵みの賜物を拒んだのです。ともかく神の子の婚宴に出る必要な礼服をないがしろにしたのです。神の栄光を表すに要する賜物を無視する人は永遠の地獄の暗闇に放り出されるのであります。神は私たちに溢れるばかりの恵みの賜物を与えて下さっているのであります。その神の賜物と、この神の招きを受けるに相応しい人生を送ってこそ、神の喜び、祝福に預かる事が出来るのであります。
アーメン・ハレルヤ
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2023年10月8 日 聖霊降臨後第19主日 市ヶ谷教会にての説教
聖書日課 イザヤ5章1-7節、フィリピ3章4b-14節、マタイ21章33-44節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日のイエス様のたとえの教えは、聖書を読んだことのある人なら理解しやすいのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、所有者が送った僕たちは神が遣わした預言者たちを指す。これに乱暴を加え殺すことまでしてしまう農夫たちはユダヤ教社会の指導者たち、そして所有者が最後に送る息子はイエス様、という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。
これがわかれば、たとえの内容もわかります。天地創造の神は世界の数ある民族の中からイスラエルの民を自分の民として選ばれた。彼らはモーセを介して神から律法を授けられて、それを誇りに思い一生懸命に守ろうとした。ところが民の心は次第に神から離れていって、神の意思に反する生き方に走っていってしまった。社会秩序も乱れ悪と不正がはびこってしまった。
そこで神は民が自分のもとに立ち返ることが出来るようにと預言者を立て続けに送った。しかし、誰も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後の最後には愛するひとり子のイエス様を贈ったが、それさえも彼らは十字架にかけて殺してしまった。このように私たちは、イエス様のたとえをなんなく理解できます。でも、それは私たちが、イエス様が十字架にかけられたことを知っているからです。ところが、このたとえを十字架の出来事の前に聞かされたら、どうでしょうか?このたとえは当時のユダヤ教社会の指導者たちに向けて話されました。彼らはこれをどう理解したでしょうか?
指導者たちがこのたとえを理解できる手掛かりがひとつありました。それは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体の者のようにぶどう畑を持っていたという、これもたとえです。そこで、一生懸命働いて良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱくて、ぶどう酒に向かないぶどうが出来てしまった。そういうことを歌にして歌った後で神は、この恩知らずのぶどう畑はイスラエルの民の情けない現状である、と解き明しを始めます。ここでブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。その神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは一体誰か?キリスト信仰の観点からすればやはり御子イエス様を指すのは間違いないでしょう。
さて神は、イスラエルの民が良い実を実らせるように出来るだけのことをした。民を奴隷の地エジプトから解放して約束の地カナンに定住させた。その途上で律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってあげた。それなのに民は神の意思に反する生き方に走ってしまった。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、そういう当時の状況をよく言い表していました。さて、当時ユダヤ民族は南北二つの王国に分裂していましたが、北の王国は紀元前722年にアッシュリアという大帝国に滅ぼされてしまいました。南の王国はその後130年近く持ちこたえますが、これも紀元前587年にバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさにイザヤ書5章5~6節で言われるような神に見捨てられたぶどう畑のようになってしまったのです。イザヤが書き記した神の御言葉はまさに預言として実現してしまったのです。
イザヤの時代から700年以上経った後で、イエス様がブドウ畑と農夫のたとえを話しました。相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もそうでした。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に騒がれているイエスは、イザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。
実はイエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の現実が織り交ざっているという面もありました。どういうことかと言うと、ブドウ畑の所有者は農夫に畑を任せて旅に出ました。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。
そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、バビロン捕囚の経験からして神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。
それならば、所有者の息子とは誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことなのか?たとえを聞いた指導者たちはそう思ったでしょう。そして思い当たりました。そう言えば、このイエスは自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…という感じになった、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」
この答えの後でイエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22ー23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基になったのです。その石を捨てた、「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てたというのは、価値あるものを理解できない者であるとわかります。それは、先ほどの農夫同様に邪悪な者を指しているとわかります。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句をもとにして何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。
そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語で「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて、ぶどう畑のたとえを話されました。それは、イザヤ書のたとえはバビロン捕囚に至るユダヤ民族の過去の歴史で完結していないことを教えているのです。神の意思はイザヤの時代も今も変わらない、それなので神が望むような実を結ばなければ社会の衰退と混乱、国土の荒廃をもたらすだけでなく、神の国を受け継ぐ資格も失ってしまうと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されて500年以上も前にとっくに実現済みと思われていたことは、実はまだ続いているということを教えているのです。
ここまでイエス様の話を聞いていた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちとは旧約聖書に登場する預言者たちのことです。つまり、邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子を殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。
イエス様のたとえの中でまだ実現していなかったこと、神のひとり子が指導者たちによって殺されて、ユダヤ民族が神の国を受け継ぐ資格を失い代わりに異邦人が受け継ぐようになるということ、これはゴルゴタの十字架の出来事が起きることでその通りになりました。そしてイエス様の復活後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じるユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったわけですが、このたとえも過去のものとして片付けてしまっていいのでしょうか?
そうではないのです。このイエス様のたとえは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えているのです。イエス様の時代から2000年経った今でもそうです。現代の私たちの地点から見たら過ぎ去った過去のことを言っているにしか見えないかもしれませんが、今を生きる私たちにどう生きるべきか教えているのです。そのことがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目します。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくてずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族であるかどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族の指導者たちは取り上げられると言われて激怒したが、異邦人の私たちは与えられて嬉しいものなのか?
神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。
神の国は今は私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる日です。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして、神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。
その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。
このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間というのは、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。
神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えました。神との結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには、神との結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。
この問題を解決するために神はひとり子イエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのでした。話はそこで終わりません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。そこで今度は私たち人間の方が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見てもらえます。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって、感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。
ところが、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(13~14節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。神の国への迎え入れが賞として授与されるのです。
最後に「神の国の実を結ぶ」とはどういうことか見てみます。イエス様は、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言われました。先ほど述べたことからわかるように、罪の赦しという神のお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられます。ということは、罪の赦しのお恵みの中で生きて神の国への迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになります。つまり、こういうことになります。
キリスト信仰者というのは、罪の赦しのお恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向する者です。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何かご褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが何かの手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。それともう一つ。罪の赦しのお恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願う、そしてイエス様の犠牲に免じて罪の赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることになります。これも神の国の実を結ぶことです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
牧師の週報コラム - SLEYは150歳になりました!
「フィンランド・ルーテル福音協会」(Suomen Luterilainen Evankeliumi-yhdistys -SLEY)は1873年にフィンランドのルター派国教会の中で活動する団体として結成されました。今年は150周年の記念の年です。
団体結成に至る背景は、1700年代のドイツや北欧のルター派教会をめぐる状況があります。当時のヨーロッパのイデオロギーの潮流は信仰よりも人間の理性に重きを置く合理主義が主流でした。それに対してルター派教会の中は、宗教改革の教義を厳密に体系化した正統主義が主流でした。そのような時に、信仰の危機を見て取った人たちが、信仰者個人の内面の敬虔さや「悔い改め」の体験を追求する「敬虔主義」と呼ばれる信仰復興運動を起こしました。これがドイツや北欧でまたたく間に広まりました。
フィンランドは1809年にスウェーデンからロシア帝国に併合されましたが、国教会制度はそのまま存続したので信仰面ではドイツ・北欧の影響下にありました。そのような時にF.G.ヘドベルイという牧師が、敬虔主義の主観的な救い観に対して、たとえ信仰者が罪に堕ちて敬虔さが傷ついても、主の十字架の贖いの業には何の影響もなく罪の赦しの恵みは微動だにしないということをルターの神学から見出して主張。それが多くの牧師と信徒の賛同を得て「福音派」と呼ばれる信仰復興運動が誕生しました。その運動が1873年にSLEYとして結成されたのでした。SLEYはまた国内伝道だけでなく海外伝道も始め、最初の伝道地として日本を選び1900年から宣教師を派遣して現在に至っています(「福音派」といっても現代の北米などの福音主義とは異なります)。
客観的な恵みと救いを強調すれば、聖書の御言葉も人間が勝手に手を加えられないものになり、SLEYは本質的に保守的です。フィンランドの国教会は近年リベラル化が進み、SLEYとは多くの軋轢があります。しかし、国教会の中には教会の現状を憂えSLEYに賛同する人たちも大勢いるのです。
先週の週末は全国各地のSLEYの教会や国教会の教会で150周年の記念礼拝や行事が一斉に行われました。ヘルシンキではSLEYの2つの教会の他に、観光名所として知られるテンペリアウキオ教会でも音楽聖餐式礼拝が行われ、若者を中心に700人もの出席がありました。Youtubeで見る
今回はかぎ針編みをします。かぎ針編みは現在も人気がある昔からの手芸テクニックの一つです。かぎ針編みで可愛い手芸がいろいろ出来ます。 今回はペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きを作る予定です。作りたいものをお選びください。
材料費は編み物により変わります。500円~
好みの糸や毛糸を持っていらしても大丈夫です。
手芸クラブは他に自分の好きな編み物をしたい方も参加できます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
お子さん連れでもどうぞ!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1766989871iamg@1766989871arumi1766989871hsoy.1766989871iviap1766989871
www.suomikyoukai.org
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
「これは、主がなさったことで」マタイ21:33-46
[はじめに]
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(2コリント 1:2ほか)
[導入]
私たちは、自分自身の人生を意味あるものにしたいと願っています。そのために、自分の人生の価値を高めるために、より効率的に、より生産的に生きたいと願うことは自然なのかもしれません。最近では「タイパ」という言葉がよく使われるそうです。タイム・パフォーマンスの略で、短い時間でいかに効率良く成果を上げられるか、という意味だそうです。その一環として、動画配信サイトなどでは、映画のあらすじを5-10分程度で紹介する動画もとても人気だそうです。しかし、2時間の映画を10分に短縮したら、それは情報にはなるかもしれませんが、元の映画が表現しようとしたものは伝わるのかと言えば、はなはだ疑問であると言わざるを得ないでしょう。効率と生産性を求め、無駄・無意味を排除していくことは、実はむしろ人生の中での様々な体験を貧しいものにしてしまうことになるのではないでしょうか。そして、むしろ自分が無駄・無意味であると考える時、そこでしか出会えない、聖なるものがある、ということも、私たちの人生における神秘であると思うのです。それは、聖書の語る主イエスの十字架、福音の出来事にもまた通じるのではないか。そのように思うのです。
本日の日課から聞いて参りたいと思います。
[展開]
マタイによる福音書では21章の冒頭で、主イエスは「平和の王」として都エルサレムに入城します。大勢の群衆が主イエスを歓呼をもって迎えますが、同時に多くの者がこの人は何者なのかと訝しんだことが報告されています。このイエスという人物を受け入れるべきか、拒むべきなのか、主イエスの都の舞台への登場は人々に戸惑いを引き起こすこととなったのでした。そしてエルサレムの都にある唯一の神殿の境内で主イエスは人々に教えを語ることとなります。神殿の境内とはいわば、宗教的な権威者達が自分のテリトリー・縄張りとしていた場所に他なりませんでした。それゆえに、そこに入り込んで来て、人々に勝手に語るイエスという男に対して「何の権威でこのようなことをしているのか」と宗教的な権威者達は問い糾すこととなったのでした。彼らからの詰問に応える形で、主イエスは3つの譬え話を語られることとなります。一つ目のたとえの結びでは主イエスは、宗教的な権威者達に対して、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と語られます。つまり、当時の社会秩序の基準からは、排除されていた者たちの方が、誰よりも信仰深く多くの知識を有していると自認している者たちよりも先になると語られるのです。それは、神殿の中枢にいる、いわば最も神の国に近いと自認している者たちに対して、主イエスは彼らの立っているその足元を揺るがされるのでした。それにさらに続いて本日の福音書の日課の譬え話が語られることとなります。
主イエスが語られる「ぶどう園と農夫」の譬え話は、もしこの箇所だけを取り出して読むならば、何を言いたいのか理解しがたいと言わざるを得ないでしょう。無防備に使いの者を派遣しつづける、ぶどう園の主人はまるで無策としか言いようがありません。それどころか、先の多くの使者に暴力がふるわれているにも関わらず、またしても何の対策も無しに跡取り息子を派遣するのです。その姿は、およそ危機管理というものを知らないのではないかと思わずにはいられません。そのようなことが出来る主人がもし存在するとするならば、遣っても遣っても減ることのない無尽蔵の資産を持っているか、あるいは、およそ人間ではありえないような愛情と寛容さを備えているかとしか考えられないといえるでしょう。しかし、私たちは先の第1のたとえからの続きでこの第2のたとえを読むとき、これが私たち人間の価値観に基づいているのではなく、その根幹にあるものは神の国の基準であることを思い起こすこととなる。それはこの地上において見える序列や権威とは相反する価値基準であり、この地上においては無策・無価値とも見えるほどの無限の寛容さと愛情に基づくものであることを思い起こすこととなるのです。
本日の譬え話は、主なる神が民に遣わしてきた預言者達の運命を示唆していること、そして最後に神の子である主イエスの派遣とその運命を象徴していることは、言われてみれば一目瞭然であると言えるでしょう。その意味でこの譬え話は主イエスの受難の予告である、とも言えるのです。「何の権威でこのようなことをしているのか」と問い糺されたことに対して、この譬え話が語られる時、主イエスの権威とは、この地上における序列でもなければ、人として有する知識や敬虔さの深さでもない、ということ、すなわち主イエスの権威とは、そのひとり子をこの地上に送られた主なる神のその無限の愛と寛容さに基づくものに他ならないのです。主イエスはただ、主なる神の限りのない、そしてまた人にははかり知れない神の愛のゆえに、その十字架の運命の待つこの地上に与えられたのでした。主イエスがこの地上に使わされ、無力な姿で十字架へと歩むその道筋は、私たち人間の目には、無駄で無策な歩みにしか映りません。しかしそれは、この地上においてその苦しみの中で生きる者を救おうとする神の限りのない愛のゆえに実現した出来事であることを、聖書は私たちに示すのです。
[結び]
42節で引用されている詩編の言葉は、この主イエスを基礎の石として教会が造り上げられていることを語ります。人の目から見るならば捨てられるしかない石こそが、逆に私たちを砕くと聖書は語るのです。この地上において、私たちは自分自身の知っているところ、見えるところの価値基準によって、人を裁いてしまいます。しかし実は、その同じ価値基準によって、自分自身もまた裁かれてしまうのです。この地上において私たちは、これこそが効率的・生産的であり、多くの実りを生み出す正解であると思えるものを求め利用する生き方をしています。しかし実は、そのことを繰り返していく中では、自分自身もまたただ自分が使い尽くされ、消費されていくだけの存在であるという事実に、いずれ直面することとなるのです。この地上においてはこの私もまた、時と共にもはや価値など無いと断じられ、捨てられる時が来ることをただ怯えるしかないことを私たちは知るのです。けれども、捨てられた石、十字架にかけられた主イエスを基として教会は建てられました。そこで私たちは、神の限りのない、そしてはかり知れない神の愛に私たちが出会い、自らの価値基準そのものが大きく変えられていく、こととなるのです。
本日の譬え話が語られた都と神殿は、その後のローマとユダヤとの戦争によって徹底的に破壊されてしまうこととなります。しかしその一方で、神の限りのない愛は永遠に砕けることなく残り続けるのでした。
無制限の愛と寛容さとをもって主なる神がなさったこと、それは私たち人間の目には、なんとも理解しがたい事柄です。けれどもそれを言うならば、この地上にこの小さく弱い存在でしかない私たち自身に命を与えられたことそのものが、まさに無制限の愛と寛容さゆえの出来事に他なりません。そしてさらにその小さく弱い存在でしたかに私たちに、新しい命の力を与えるため、主イエス・キリストを与え、主イエスの命を、十字架を通して分かち合ってくださったのです。だからこそ、十字架を見上げるとき、私たちはそこに主なる神の私たちへの限りの無い愛を思い起こすのです。主イエスの十字架を通して私たちに与えられた神の深い、無限の愛に生かされ支えられつつ、新しい週を共に歩んで参りましょう。
[終わりに]
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。(ローマ15:13)
主日礼拝説教 2020年10月1日(聖霊降臨後第18主日)
聖書日課 エゼキエル18章1-4、25-32節、フィリピ1章1-13節、マタイ21章23-32節
説教をYouTubeで見る。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の個所と福音書の日課マタイの個所は全く異なる出来事が記されていますが、よく見ると共通するものが見えてきます。過去の呪縛から解放されて新しく生きるということです。
エゼキエル書の個所は紀元前500年代の時の話です。かつてダビデ・ソロモン王の時代に栄えたユダヤ民族の王国は神の意思に背く生き方に走り、多くの預言者の警告にもかかわらず、指導者から国民に至るまで罪に染まり、国は分裂、社会秩序も乱れ、外国の侵入にも晒され続けます。最後は神の罰としてバビロン帝国の攻撃を受けて完全に滅びてしまいます。民の主だった者たちは異国の地に連行されて行きました。世界史の授業にも出てくる「バビロン捕囚」の出来事です。
ユダヤ民族の首都エルサレムが陥落する直前の時でした。人々はこんなことわざを口々に唱えていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」熟していない酸っぱいぶどうを食べて歯が浮くような違和感を覚えるのは食べた本人ではなく子孫だと言うのです。これは、先祖が犯した罪の罰を子孫が受けるという意味です。滅亡する自分たちは、まさに先祖が犯した罪のせいで神から罰を受けていると言うのです。民の間には、それは当然のことで仕方がないというあきらめがありました。それをこのことわざが代弁していました。先祖のせいで神罰を受けなければならないのなら、今さら何をしても無駄、自分たちの運命は先祖のおかげで決まってしまったのだと。これに対して神は預言者エゼキエルの口を通して民のこの運命決定論の考えを改めます。今こそ悪から離れて神に立ち返れ、そうすれば死ぬことはない必ず生きる、と。そして、このことわざも口にすることがなくなる、と。以上がエゼキエル書の個所の概要です。
マタイ福音書の方は、バビロン捕囚から600年位たったあとの、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されていた時代の出来事です。イエス様が民族の解放者と目されて群衆の歓呼の中を首都エルサレムに入城しました。そこの神殿に行き、敷地内で商売をしていた人たちを荒々しく追い出しました。商売というのは神殿で生贄に捧げる動物などを売っていた人たちですが、イエス様の行動は神殿の秩序と権威に対する挑戦と受け取られました。さらにイエス様は群衆の前で神と神の国について教え、病気の人たちを癒す奇跡の業を行いました。人々は彼のことをますます王国を復興する王メシアと信じるようになりました。
これに対して民族の指導者たちは反発し、イエス様のもとに来て聞きます。「お前は何の権威でこのようなことをしているのか?」イエス様はそれには直接答えず、洗礼者ヨハネの洗礼は神由来のものか人間由来のものか、と尋ね返します。指導者たちははっきり答えなかったので、イエス様も答えるのを拒否しました。これを読むとなんだか素っ気ない感じがします。私など、洗礼者ヨハネのことなんか持ち出さないで、すぐ自分の権威は天の父なるみ神から来たと言えばよかったのになどと思ったりします。
その後に二人の息子のたとえが続きます。父親にブドウ畑に行って働きなさいと言われて、一番目の息子は最初行かないと言ったが思い直して行った、二番目のは最初行くと言ったが実際は行かなかったという話でした。イエス様は、一番目の息子は洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人や娼婦たちのことで、彼らは指導者たちに先駆けて神の国に迎え入れられるなどと言います。洗礼者ヨハネのことがまた出てきました。きっと先のイエス様と指導者たちのやり取りが続いているということなのですが、どう続いているのか繋がりがよく見えません。実は、このマタイ福音書の個所も過去の呪縛から解放されて新しく生きることを言っていることがわかると、その繋がりが見えてきます。そういうわけで、本日の説教はエゼキエル書の個所とマタイ福音書の個所を中心に見ていこうと思います。
エゼキエル書の個所で問題となっていたのは、イスラエルの民が滅亡の悲劇に遭遇しているのは先祖たちの罪が原因で今自分たちはその神罰を受けているという見方でした。そのことを皆が口にすることわざが言い表していました。先祖たちがどんな罪を犯していたか、本日の日課から外されている5~21節に記されています。それを見てみますと、偶像を崇拝したりその供え物を食べること、他人から奪い取ったり負債を抱える者に情けを示さないこと、不倫を行うこと、食べ物や衣服に困った人を助けないこと、貸す時に高い利子を付けて貸すなど自分の利益しか考えないこと、不正に手を染めること、事実に基づかないで裁きを行うこと等々、神の意思や掟に従わないことです。なんだか現代の日本の社会のことを言っているみたいですが、どうでしょうか?神は、こうしたことをやめて神に立ち返る生き方をしなさい、そうすれば死なないで生きるのだ、と言われます。
この、死なないで生きるというのは深く考える必要があります。一見すると、神の意思に沿うように生きれば外国に攻められて死ぬことはなく平和に長生きできるというふうに考えられます。しかしながら、聖書では「生きる」「死ぬ」というのは実は、この世を生きる、この世から死ぬというような、この世を中心にした「生きる」「死ぬ」よりももっと深い意味があります。この世の人生を終えた後で、永遠に生きる、あるいは、永遠の滅びの苦しみを受けるという、そういう永遠を中心にした「生きる」「死ぬ」の意味で言っています。天地創造の神は、ご自分が選んだイスラエルの民の歴史の中で、神の意思に沿えば国は栄えて民は生きられるが、逆らえば滅んで死んでしまうという出来事を起こします。そのようにして神は、特定の民族の具体的な歴史をモデルにして、自分には永遠の「生きる」や「死ぬ」を決める力があることを全ての人間にわかりやすく示しているのです。
先にも申しましたように、イスラエルの民の問題点は、自分たちの不幸な境遇は先祖の犯した罪が原因だと思っていたことにありました。そうであれば、自分たちが何をしても運命は変えられません。先祖がそれを決定づけてしまったのですから。今さら神の意思に沿うように生きようとしても無駄です。しかし、神はそのような見方から民を解き放とうとします。そこで神は言います。裁きは罪を犯した者だけに関わるのであると。だから、お前たちがこれから神の意思に沿うように生きることは無駄なことではなく、お前たちは死なずに生きることになるのだ、と。この「死なない」「生きる」は先にも申しましたように、滅亡寸前の祖国でうまく敵の手を逃れて生きながらえるという意味よりも大きな意味です。たとえ、敵の手にかかって命を落とすことになっても、永遠の滅びの苦しみには落ちないで永遠の命に迎え入れられるということです。神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めることが無意味、無駄ということはなくなるのです。
さて、罪の責任は先祖や他人のものはもう自分は負わなくてすむことになりました。そこには大きな解放感があります。もう、自分と神の関係を考える際に、先祖は神とどんな関係だったかは全く無関係になりました。日本風に言えば、先祖の祟りとか何かの祟りとか全く関係なくなったのです。だとすると、ちょっと、待てよ、そうなると自分と神の関係は全て自分の問題になるということになるではないか?つまり、今度はこの自分の罪、自分が神の意思に背いて生きてきたことが問われて、まさにそのことが自分の永遠を中心として生きるか死ぬかを決定づけることになる。これは大変なことになった。永遠の命に迎え入れられるかどうかを決定づけるのは他の何ものでもない自分自身なのです。
聖書を繙くと、今あるこの世が終わりを告げるという終末論の観点と、その時には新しい天と地が創造されると言う新しい創造の観点があります。終末と新しい創造の時には死者の復活と最後の審判というものがあります。全ての人、死んだ人と生きている人の全てが神の前に立たされる時です。その時、この私は神のもとに立ち返る生き方を始めてその意思に沿うように生きようとしたのだが、果たしてそれはうまくいったのであろうか?神はそれをどう評価して下さるのだろうか?また、立ち返る前の生き方は何も言われないのだろうか?なんだか考えただけで今から心配になってきます。ここで、マタイ福音書の個所を見るよいタイミングとなります。
ユダヤ教社会の指導者たちがイエス様に権威について問いただした時、もちろんイエス様としては、自分の権威は神から来ていると答えることが出来ました。ただ、そうすると指導者たちは、この男は神を引き合いに出して自分たちの権威に挑戦していると騒ぎ出すに決まっています。それでイエス様は別の仕方で自分の権威が神から来ていることをわからせようとします。
二人の息子のたとえに出てくる父親は神を指します。一番目の息子は、最初神の意思に背く生き方をしていたが、方向転換して神のもとに立ち返る生き方をした者です。洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人と娼婦たちがこれと同じだと言うのです。二番目の息子は神の意思に沿う生き方をしますと言って実際はしていない者で、指導者たちがそれだというのです。それで、徴税人や娼婦たちの方が将来、死者の復活に与ってさっさと神の御許に迎え入れられるが、指導者たちは置いてきぼりを食うというのです。
ここで徴税人というのは、ユダヤ民族の一員でありながら占領国のローマ帝国の手下になって同胞から税を取り立てていた人たちです。中には規定以上に取り立てて私腹を肥やした人もいて、民族の裏切り者、罪びとの最たる者と見なされていました。ところが、洗礼者ヨハネが現れて神の裁きの時が近いこと、悔い改めをしなければならないことを宣べ伝えると、このような徴税人たちが彼の言うことを信じて悔い改めの洗礼を受けに行ったのです。先ほど申しましたように、聖書には終末論と新しい創造の観点があり、死者の復活と最後の審判があります。旧約聖書の預言書にはその時を意味する「主の日」と呼ばれる日について何度も言われています。紀元前100年代頃からユダヤ教社会には、そうした預言がもうすぐ起きるということを記した書物が沢山現れます。当時はそういう雰囲気があったのです。まさにそのような時に洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したのでした。
娼婦についても言われていました。モーセ十戒には「汝姦淫するなかれ」という掟があります。それで、多くの男と関係を持つ彼女たちも罪びとと見なされたのは当然でした。そうすると、あれ、関係を持った男たちはどうなんだろうと疑問が起きます。彼らは洗礼者ヨハネのもとに行かなかったのだろうか?記述がないからわかりません。記述がないというのは、こそこそ行ったから目立たなかったのか、それとも行かないで、あれは女が悪いのであって自分はそういうのがいるから利用してやっただけという態度でいたのか。現代にもそういう態度の人はいますが、そんな言い逃れて神罰を免れると思ったら、救いようがないとしか言いようがありません。
話が少し逸れましたが、このようにして大勢の人たちがヨハネのもとに行き洗礼を受けました。その中に徴税人や娼婦たちのような、一目見て、あっ罪びとだ、とすぐ識別できる人たちもいたのでした。ヨハネが授けた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言い、これは後のキリスト教会で授けられる洗礼とは違います。「悔い改めの洗礼」とは、それまでの生き方を神の意思に反するものであると認め、これからは神の方を向いていきますという方向転換の印のようなものです。キリスト教会の洗礼は印に留まりません。人間が方向転換の中で生きていくことを確実にして、もうその外では生きられないようにする力を持つものです。印だけだったものがそのような力あるものに変わったのは、後で述べるように、イエス様の十字架と復活の業があったからでした。
さて、人々はもうすぐ世の終わりが来て神の裁きが行われると信じました。それはその通りなのですが、ただ一つ大事なことが抜けていました。それは、その前にメシア救世主が来るということでした。メシアが人間の神への方向転換を確実なものにする、しかもそれを旧約聖書の預言通りに特定の民族を超えた全ての人間に及ぼすということ。それをしてから死者の復活と最後の審判が起こるということでした。ヨハネ自身も自分はそのようなメシアが来られる道を整えているのだと言っていました。その意味でヨハネの洗礼は、悔い改めの印と、来るメシア救世主をお迎えする準備が出来ているという印でもありました。それなので、世の終わりと神の裁きはまだ先のことだったのです。当時の人々は少し気が早かったのかもしれません。
ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた人たち、特に徴税人や娼婦たちはその後どうしたかと言うと、イエス様に付き従うようになります。彼らは、方向転換したという印をヨハネからつけてはもらったけれども、裁きの日が来たら、自分の過去を神の前でどう弁明したらいいかわかりません。方向転換して、それからは神の意思に沿うようにしてきましたと言うことができたとしても、転換する前のことを問われたら何も言えません。それに方向転換した後も、果たしてどこまで神の意思に沿うように出来たのか、行いで罪を犯さなかったかもしれないが、言葉で人を傷つけてしまったことはないか?心の中でそのようなことを描いてしまったことはないか?たくさんあったのではないか?そう考えただけで、ヨハネの洗礼の時に得られた安心感、満足感は吹き飛んでしまいます。
まさにそこに、私には罪を赦す権限があるのだ、と言われる方が現れたのです。神が贈られたひとり子イエス様です。罪を赦すとはどういうことなのか?過去の罪はもう有罪にする根拠にしない、不問にするということなのか?でも、そういうことが出来るのは神しかいないのではないか?あの方がそう言ったら、神自身がそう言うことになるのか?どうやって、それがわかるのか?口先だけではないのか?いや、口先なんかではない。あの方は、全身麻痺の病人に対してまず、あなたの罪は赦される、言って、その後すかさず、立って歩きなさい、と言われて、その通りになった。罪を赦すという言葉は口先ではないことを示されたのだ。真にあの方は罪を赦す力を持っておられるのだ!そのようにして彼らはイエス様に付き従うようになっていったのです。もちろん、付き従った人たちの中には罪の赦しよりも民族の解放ということが先に立ってしまった人たちが多かったのは事実です。しかし、罪からの解放が切実な人たちも大勢いたのです。
イエス様が持つ罪の赦しの権限は、彼の十字架の死と死からの復活ではっきりと具体化して全ての人間に向けられるものとなりました。イエス様は、十字架の死に自分を委ねることで全ての人間の全ての罪を背負い、その神罰を全て人間に代わって受けられました。人間の罪を神に対して償って下さったのです。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示しました。そこで人間がこのようなことを成し遂げられたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から見て罪を赦された者と見なされます。神は過去の罪をどう言われるだろうかなどと、もう心配する必要はなくなったのです。神は、我が子イエスの犠牲に免じて赦すことにした、もうとやかく言わない、だからお前はこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言われます。もう方向転換した中でしか生きていけなくなります。
イエス様が指導者たちに自分の権威は神に由来するとすぐ言わなかったのは、まだ十字架と復活の出来事が起きる前の段階では無理もないことでした。言ったとしても、口先だけとしか受け取られなかったでしょう。そこでイエス様はヨハネの悔い改めの洗礼を受けた罪びとたち、正確には元罪びとたちのことに目を向けさせたのです。彼らは今まさにイエス様の周りにいて指導者たちも目にしています。今、方向転換の印を身につけていて、もうすぐそれは印を超えて実体を持つようになる時が来るのです。その時になれば、イエス様の権威が神由来であったことを誰もが認めなければならなくなるのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神を向いて生きる方向転換を遂げてその中で生きていくことになりました。そこでは、自分に弱さがあったり、また魔がさしたとしか言いようがないような不意を突かれることもあって、神の意思に反することが出てくることもあるでしょう。しかし、あの時ゴルゴタの十字架で打ち立てられた神のひとり子の罪の償いと赦しは永遠に打ち立てられたままです。そこはキリスト信仰者がいつも立ち返ることができる確かなところです。この世のふるさとよりも確かなところです。そこでのみ罪の赦しが今も変わらずあることと、神と自分の結びつきが揺るがずにあることを知ることが出来ます。
そして、いつの日か神のみ前に立つことになる時、父なるみ神よ、私はあなたが成し遂げて下さった罪の赦しが本物であると信じて、それにしがみつくようにして生きてきました。そのことががあなたの意思に沿うように生きようとした私の全てです。そう言えばいいのです。その時、声を震わせて言うことになるでしょうか、それとも平安に満たされて落ち着いた声でしょうか。いずれにしても、神は私たちの弁明が偽りのない真実のものであると受け入れて下さいます。そう信じて信頼していくのがキリスト信仰者です。
主日礼拝説教 2023年9月24日(聖霊降臨後第十七主日)
聖書日課 ヨナ3章10-4章11節、フィリピ1章21-30節、マタイ20章1-16節
先週に続いて今日の福音書の日課もイエス様のたとえの教えです。日の出から日の入りまで12時間炎天下の中で働いた人たちが最後の1時間しか働かなかった人たちと同一賃金だったので、雇用者に不平を言う。もっともなことです。ところが雇用者は朝雇う時に1デナリオンで合意したではないか、別に契約違反ではない、と。これももっともなことです。しかし、長く働いた者からすれば、一番短く働いた者が1デナリオンもらえるのなら自分たちはもっともらえて当然ではないか、と。もっともな話です。それに対して雇用者たるぶどう畑の所有者は「私の気前の良さをねたむのか」と言って自分のしたことは間違っていないと言う。ギリシャ語の原文は少しわかりにくくて、直訳すると「私が善い者であることでお前の目は邪悪なのか?」、つまり「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか?」ということです。お前は私が善いことをしたのに正しくないと言って覆すつもりか、私は間違ったことはしていない、それに反対するのは悪い心だと言うのです。
これは一体どういう教えなのでしょうか?1デナリオンは当時の低賃金労働者の一日の賃金です。先週もやりましたが、今のお金の感覚で言えば、東京都の最低時給が今年1,113円、それで12時間働いたら13,356円です。1時間働い人が同じ額をもらえたとなると12時間の人は心穏やかではなくなるのは当然です。まさか、キリスト教は自己犠牲の愛を教える宗教なので、一番長く働いて苦労した人は一番短く働いて楽した人と同じ扱いを受けて当然と思わなければいけないということなのか?でも、このたとえのどこに自己犠牲があるでしょうか?一番短く働いた人が13,356円もらえたのは、長く働いた人のおかげではありません。専ら所有者の方針によるものです。
ここのイエス様の趣旨は、私たちも給料や報酬を支払う時は同じようにしなければならないということではありません。この教えはたとえです。なにをたとえて言っているか知ることが大事です。初めに「天の国」はブドウ畑の所有者にたとえられると言います。「天の国」とは天地創造の神がおられるところです。「神の国」とも呼ばれます。マタイは「神」という言葉を畏れ多く感じてよく「天」に置き換えます。本説教では「神の国」と言うことにします。
「神の国」がブドウ畑の所有者、国が人にたとえられるのは変な感じがします。これは、「神の国」というのはこれから話すブドウ畑の所有者の方針が貫かれている国だということです。所有者は神を指します。イエス様はこのたとえで、神はどのようにして人間を神の国に迎え入れるか、その方針について教えているのです。本説教では神の方針について次の3つの点に注目して見ていこうと思います。第一点は、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を受けることによって神の国に迎え入れられる、そこでは信仰と洗礼がいつだったか、早かったか遅かったかは問題にならないということ。第二点目は、人間は自分の能力や業績や達成によっては神の国に迎え入れられない、迎え入れは神のお恵みとしてあるということ。そして第三点目は、洗礼と信仰によって神の国に迎え入れられる道を歩み始めたら、この世では罪との戦いが仕事になるということ。
神の国に迎え入れられるとはどういうことか?それは、聖書が打ち出す人間観と死生観がわかればわかります。聖書の人間観とは、人間というものは神の意思に反するものを内に持っていて、それを心に抱いたり言葉に出したり行いに出したりしてしまう。それをひっくるめて罪と呼びますが、そういうものを持っているということです。聖書の死生観とは、人間はそういう罪を持つがゆえに造り主の神と結びつきを失った状態に置かれてしまっている。もしそのままでいたら神との結びつきがない状態でこの世を生きなければならなず、この世を去る時も神との結びつきがないまま去らねばならないということです。そこで、これではいけないと思った神は、人間が自分と結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去った後も自分のもとに、つまり神の国に迎え入れられるようにしてあげよう、そのために人間の罪の問題を解決しなければ、ということで、ひとり子のイエス様をこの世に贈られました。これが人間に対する神の愛ということです。
それでは、神はイエス様を贈ることでどのようにして罪の問題を解決したのか?それはまさに、イエス様に人間の罪を全部負わせて神罰を受けさせて人間に代わって罪の償いをさせることで果たされました。ゴルゴタの十字架の出来事がそれだったのです。さらに、一度死んだイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。神の人間に対する愛がイエス様を通して示されたというのはこのことです。
そしてその次は、人間の方がこれらの出来事は本当に自分のために起こされた、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩むようになります。その人は罪を償われたので罪を赦された者と神から見てもらえます。罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生き神の国を目指して進みます。この世の人生の後、復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられます。これら全てをひっくるめたことが、キリスト信仰でいう救いです。その救いを命を賭してまで私たち人間に備えて下さったイエス様は真に救い主です。
ここで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということですが、そのタイミングは人それぞれです。親がキリスト信仰者で赤ちゃんの時に洗礼を受けて神との結びつきを持つようになり、信仰者の親のもとでイエス様が救い主であることが当たり前という環境の中で育って大人になる場合があります。また、大人になってイエス様を救い主と信じるようになって洗礼を受けて神との結びつきを持つようになる場合もあります。このように子供の時からずっとキリスト信仰者である場合があり、また、大人になってから、それこそ晩年でも死ぬ直前でもキリスト信仰者になる場合もあります。しかし、どの場合でも神の国への迎え入れということについて差は生じません。信仰者の期間が長かったから迎え入れられやすいということはありません。みな同じです。そのことを、たとえの労働者がみんな同じ1デナリオンをもらったことが象徴しています。神から頂く罪の償いと赦しは全て同じ値なのです。
そういうことであれば、晩年やこの世を去る直前に洗礼を受けることになっても何も引けを取ることはないとわかって安心します。長年キリスト信仰者の人も神の愛はそういうものだとわかっています。なので、あの人は信仰歴が短すぎるなどと目くじら立てません。全く逆で、私が神から頂いた計り知れないお恵みにあの方もやっと与ることが出来て本当に良かった、と言ってくれます。
ここで一つ気になることは、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であることがはっきりしない状態で大人になってしまう場合があることです。近年のヨーロッパではそう言う人が多いです。この場合、神の国への迎え入れはどうなるのか?この問題は本説教の終わりで触れます。
次に、神の国への迎え入れは人間の能力、業績、達成によるのではなく、神のお恵みとしてあるということについて。本日のイエス様のたとえは実は前の19章の出来事の総括として述べられています。どんな出来事があったかと言うと、金持ちの青年がイエス様のもとに駆け寄って来て「永遠の命を得るためには、どんな善いことをしなければならないのか」と聞きました。イエス様は十戒の中の隣人愛の掟を述べて、それを守れと答える。それに対して青年は、そんなものはもう守ってきた、何がまだ足りないのか、と聞き返す。それに対してイエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、それから自分に従え、と命じる。青年は大金持ちだったので悲痛な思いで立ち去ったという出来事です。
この対話の中で、青年が「どんな善いことをしなければならないか」と聞いたときに、イエス様が返した言葉はこれでした。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」善い方はおひとりと言う時、それは神を指します。イエス様は話の方向を善い「こと」から善い「方」へ変えるのです。青年は「善い」は人間がすること出来ることと考えて質問しました。それに対してイエス様は「善い」は神の属性で、「善い」を体現するのは神しかいないと言い換えるのです。そもそも「善い」を体現していない人間が神の国への迎え入れを保証する「善い」ことをすることが出来ると考えるのは的外れと言うのです。神の国への迎え入れは、神が土台にならないといけないのに、青年は人間を土台にしているのです。
このように、神が「善い」を体現していることを忘れると、人間は救いを自分の能力や業績に基づかせようとします。それはいつか必ず限界にぶつかります。青年の場合は、イエス様が全財産を売り払えと命じたことでその限界が明らかになりました。救いは人間の能力や業績にではなく、ただただ神が「善い」ということに基づかせなければならないのです。
イエス様と青年の対話から、神が「善い」方ということが救いの大前提であることが明らかになりました。神が「善い」方ということは本日のたとえの中にまた出てきます。冒頭で申し上げましたが、「わたしの気前の良さをねたむのか」というのは、ギリシャ語原文では「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか」ということでした。ここの「善い」と青年との対話に出てきた「善い」は両方ともギリシャ語原文では同じ言葉アガトスαγαθοςです。日本語訳では本日のところは「気前の良さ」と訳されてしまったので繋がりが見えなくなってしまいますが、原文で読んでいくと本日のたとえは青年との対話と繋がっていて、それを総括していることがわかります。どう総括しているかと言うと、永遠の命が待つ神の国への迎え入れは人間の能力や業績や達成に基づくのではない、神が「善い」方であることに基づくということです。神がそのような「善い」方であるというのは、ひとり子イエス様を私たち人間に贈って、彼を犠牲にしてまで私たちを罪と死の支配から解放して、私たちが神の国に迎え入れられるように全てを備えて下さったということです。これが神が「善い方」ということです。
神の国への迎え入れが人間の能力や業績に基づかず、善い神のお恵みに基づくなどと言ったら、じゃ、人間は迎え入れのために何もしなくてもいいのか?と言われてしまうかもしれません。それだったら、所有者はわざわざ何度も広場に出向いて人を雇うのではなく、夕暮れ時にみんなを集めてお金を渡してもいいではないか?しかし、1時間でも働いてもらうというからには、何か人間の側でもしなければならないことがある。それは何だろう?洗礼を受けてクリスチャンになったら、毎週がんばって礼拝に通い、ちゃんと献金して人助けや慈善活動をすることか?
そういうこともあるにはあるのですが、ここではもっと根本的なことが問題になっています。教会通いとか献金とか慈善活動はその根本的なことがあってこそ出てくるものです。それがないと教会通いなどは見かけ倒しになります。それでは、人間の側でしなければならない根本的なこととは何か?それは、神の国への迎え入れが人間の能力や業績ではなく善い神のお恵みによるものであるということ、これが自分にとって本当にその通りであるという生き方をすることです。それでは、神の国への迎え入れが神のお恵みによるものであることが自分にとってその通りであるという生き方はどんな生き方か?答えは、罪と戦う生き方です。罪と戦う時にキリスト信仰者は、神の国への迎え入れは神のお恵みによるものであることがその通りであるという生き方をするのです。
罪と戦うというのはどういうことか?キリスト信仰者は罪が償われて罪が赦されて罪から解放されたと言っているのに、まだ戦わなければならないというのはどういうことなのか?それは、キリスト信仰者とは言っても、この世にある限りは肉の体を纏っているので神の意思に反する罪をまだ内に持っています。なんだ、それではキリスト信仰者になっても何も変わっていないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、変わっているのです。神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持って生きるようになりました。なので、神の意思に沿うような生き方をしようと神の意思に敏感になり、それでかえって自分の内に罪があることに気づくようになります。イエス様は、十戒の掟は外面的に守れても心の中まで守れていなければ破ったことになると教えました。
自分の内に神の意思に反する罪があることに気づいた時、神は、せっかくひとり子を犠牲にしたのになんだこのざまは、と呆れて失望するだろうか怒るだろうか、神との結びつきは失われてしまうだろうかと不安になります。その時は、神に罪の赦しを祈り願います。イエス様は私の主です、どうか彼の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい。そうすると、神は、お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている、安心していきなさい、お前の罪はあそこで赦されている、もう罪は犯さないように、と言ってゴルゴタの十字架を指し示されます。十字架の上で首を垂れる主を心の目で見たキリスト信仰者は、厳粛な気持ちになって、これからは罪を犯さないようにしようと襟を正します。
しかしながら、この世を生きていろんなことに遭遇すると、また自分の内に神の意思に反する罪があることに気づきます。そして、また赦しの祈り願いがあり、神からの十字架の指し示しがあり、襟を正しての再出発となります。キリスト信仰者はこれを何度も繰り返しながら進んでいくのです。教会の礼拝の最初で罪の告白と赦しの宣言が毎週繰り返して行われるのも同じです。
やがてこの繰り返しが終わりを告げる日が来ます。神の御前に立たされる日です。神はこの繰り返しの人生を見て、お前はイエスの十字架と復活の業に全てをかけて罪に背を向ける生き方、罪に与しない生き方をした、罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。まさに罪と戦う人生を送ったと。そう認めてもらったら、朽ち果てた肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。その体の内に罪はなく、罪の自覚も赦しの祈り願いも赦しの宣言もなくなるのです。
このように、罪を自覚して、イエス様を救い主と信じる信仰により頼んで罪の赦しのお恵みにしっかり踏み留まることができていれば、立派に罪と戦っていることになります。戦いがこの世の人生の長い期間であっても短い期間であっても、戦う人からすればどれも、神の国への迎え入れが神のお恵みによることが本当になる戦いです。12時間働いたろうが、1時間しか働かなかったろうが、神から見たら、内容的には同じ働きをしたことになるのです。
ここで一つ忘れてはならないことを手短に述べておきます。詳しいことは後日に譲りたく思います。何かと言うと、神の意思に反する罪が内に留まらないで表に出てしまった場合はどうするかということです。言葉に出たり行いに出てしまう場合です。その場合は相手がいます。表に出してしまったことが神の意思に反するもので神に赦しを祈り願うべきものであれば、相手に対して謝罪しなければなりません。ただしその場合、神に対する罪の赦しの願いと相手に対する謝罪は別々に考えるべきと思います。というのは、もし相手の方が、絶対に許せないと言って謝罪を受け入れない場合、とても動揺し不安になります。それは残念なことですが、そのような時でも忘れてはならないことは、たとえ相手の方との関係はこじれてしまっても、神との関係はイエス様の十字架と復活の業により頼む限り大丈夫ということです。心は動揺し不安はありますが、安心して大丈夫です。その安心の上に立って、あとは取り乱さずに正しく立ち振る舞っていけばいいと思います。
最後に、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であるとわからないで大人になってしまう場合はどうなるかということについてひと言。これはやっかいな問題です。教派によっては、赤ちゃん洗礼は意味がない、イエス様が救い主であるとわかって告白してから受けないと意味がないというところもあります。私たちのルター派の場合は、救いは人間の能力や業績に基づかず神のお恵みとしてあるということにこだわるので、自分を出来るだけ無力な者として受けた方がお恵みということがはっきりする、それで、むしろ赤ちゃんの方が相応しいということになってしまうのです。しかしながら、子供に洗礼を授けることを願う親は皆が皆、イエス様が救い主であると教え育てたり、信仰の生き方をするとは限らない現実もあります。
その場合はどうしたらよいのか?これはもう、まだわかっていない人に教えていくしかありません。あなたが受けた洗礼はあなたと神を結びつけるものなのだ、それをわからず罪と戦わないままでいると、せっかくある結びつきからどんどん遠ざかっていってしまう、しかし、わかるようになって罪と戦う生き方を始めれば大きな祝福があるのだ、と。
このように教える活動があります。私とパイヴィを派遣しているフィンランドのミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は海外伝道だけでなく国内伝道もやっています。国内伝道とは、まさに洗礼を受けても何もわからずに生きている人たちに伝道することです。国内伝道のキャッチフレーズはまさに「おかえりなさい!Tervetuloa kotiin!」です。翻って、海外伝道はまだ洗礼の恵みに与っていない人たちにその恵みを伝えて分け与えることです。国内伝道は恵みに与っている筈なのに分からない人たちがわかるようにすることです。両方行っているのです。ただ、最近はフィンランドも、キリスト教以外の国からの移民や難民が増えたので彼らに対する伝道も行っています。またフィンランド人でも洗礼を受けない人が増えていて、ヘルシンキ首都圏では生まれてくる子供の受洗率は50%以下になってしまいました。それで国内伝道も海外伝道みたいになってきています。
本日、礼拝後スオミ教会の今後を決める大事な会議がありました。結果スオミ教会は日本福音ルーテル教会としての組織を解散してSLEYと行動を共にすることになりました。 前途多難が待ち構えている事と思いますが兎に角船出しました。どうか主よ我らを守り給え。