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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
2025年12月7日(日)スオミ教会説教
聖書:マタイ福音書3章1~12節
説教題:「悔い改めよ、天の国は近づいた」
今年も12月になりました。救い主イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマスが近づいて参りました。神の御子イエス様がこの世界に人の子として現れて来られる、それに際して神様は様々な準備をされています。旧約聖書の時代の預言者たちもこのために働いて来ました。私たちに想像もつかない神の御計画の中で司祭ザカリヤの子ヨハネも預言者の一人として神様に立てられ荒野に現れました。それは既に預言者イザヤによって言われている人として現れたのです。3節にマタイは書いていますね「荒野に叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ』」と。この預言を成し遂げる役目を祭司ザカリヤの子ヨハネが荒野に現れ「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と叫んだのです。紀元前8世紀の預言者イザヤは神に背いたイスラエルの民族はバビロンに捕え移されることをイザヤ書39章で預言した後で46章でイスラエルの民は再びバビロンから帰る時を約束しました。バビロンでの苦難の民を荒れ果てた母国に彼らを連れ戻して下さる。その救いの道をバビロンからパレスチナまでシリヤ砂漠に真一文字に整えよとイザヤは叫んだのです。この預言通りヨハネの時代、ローマ帝国の支配下で苦しむ民のため、また神に背いているユダヤの民を救うため、メシヤ到来の道備えをするため荒野から立ち上がったのです。どういう時代であったかを歴史家であるルカは3章1~2節で詳しく書いています。「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督ヘロデガカリラヤの領主その兄弟のフィリポがイトラヤとトラコン地方の領主アンナスとカイアファとが大祭司であった時、神の言葉が荒れ野でザカリヤの子ヨハネに降った。ザカリヤの子ヨハネに神の言葉が臨んだ時、ルカがローマ皇帝の領主の名をこれほど詳しく書いているのは、これらの領主の支配の下でユダヤの民がどんなに苦しんでいた時代であったかをしっかり書く必要があったからです。ティベリウス在位は15年であった、とあります。このティベリウスは皇帝アウグストの後を継いで名君の期待を負って即位しましたが彼の治世の終わりにはタキトウスの記録によりますと「遠慮と羞恥心から解放され悪業と破廉恥の中にどっと身を投じた」とありますから治世15年の頃はティベリウスの化けの皮がはげかかり人々の失望と恐怖がローマ世界全体に広がり始めたという時代であった。都エルサレムは異邦人のピラトが治めしかもこのピラトと言う人物は残忍不正な人物で国土は分断されガリラヤの領主ヘロデは不道徳で世の中は乱れに乱れて行った。この様にこの時代、民衆の不満がうっ積し多くの人々が指導者への激しい批判を持っていた。人間の悪と罪が世に満ちていた。この様な暗黒の時代に神の言葉が荒野で育ったヨハネに降ったのであります。
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このヨハネは荒野に育ち成人しました。この荒野はユダヤの山地からヨルダン川の渓谷に向かって傾斜した地帯で岩石のごろごろした草木も生えない不毛の地であります。ヨハネは父の司祭職を捨てて敢えて荒野に来て野生の蜂蜜と蝗を食べて生きていた。駱駝の毛で織った粗末な衣をまとい生皮の帯を締め、まさに野蛮人のような生活をしていた。夜は夜空を仰ぎ大地で寝て祈りと断食をして大自然の中に生きていた。この様なヨハネを神様はずうっと見守りいよいよ大祭司カイファの時に神の言葉が降ったのであります。「彼は神の言葉を受け、ヨルダン川沿いの地方に行って罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」この荒野にはエッセネ派と言われる人々が住んでいました。彼らはユダヤ人の中でも最も禁欲的な生活を送り、都会の人々の様な形式的な宗教生活から離れて荒野に来て只管祈りと断食を尊しとした。そして、彼らは一日に何回となくヨルダン川に入り、身を清め罪の汚れを洗い清めたのです。ヨハネはエッセネ派に属する事は出来なかった。ヨハネの考えは何度も形式的に水に浴びても積の汚れが清められるはずがない。問題は罪の汚れを洗い清めると言う事にあるのではない、罪の赦しを得る事である。ヨハネは神の前に「悔い改めよ!」と叫んだのです。悔い改めて罪の根源の赦しを得なければならない。そのためには生活態度と考えを自分中心から180度回転して神を第一とする、神に従う、神に向けなけらばならないのです。荒野で成人しつつあったヨハネの心にこの真理が次第に啓示しつつあったのです。そうしてヨハネが30歳に達した時、神の言葉が臨んだのです。彼は預言者としての召命を受けたのです。時代は人々の心に指導者への不満と批判が満ちている状況です。ヨハネは人々の批判の心を他に向ける前に先ず自分自身を検討し悔いくだけた魂を持つように神を望むように訴えたのです。そうしてヨハネは荒野からヨルダン川一帯の地に行って、罪の赦しを得させる真の悔い改めを叫んでいった。このヨハネの声はユダヤ全土に伝わって行き鳴り響いて行ったのであります。そして、人々の良心の心を鋭く刺激していった。人々は真の心に打たれ「悔い改め」の心を持って彼のもとに続々と集まって来たのでした。人々はローマ帝国の支配の下で苦しみ不正や不道徳、堕落に満ちた暗黒の中で真の光を求めていた。人々は本心からこれまでの自らの生活態度を反省し神の審判の近い事を思って恐れおののいていた状況です。こうした中でヨハネからバプテスマを受けたのです。その時、その群衆に向かって叫んだのです。7~9節を見ますと「蝮の子らよ!差し迫った神の怒りを免れると誰がおしえたのか。悔い改めに相応しい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出す事がお出来にばる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれる。」このヨハネの叫びは激烈な言葉であります。蝮の子らとユダヤ人を呼んでいる。荒野の岩穴に潜んでいる毒蛇であると言うのです、凄いではありませんか。激しく悩んでいる思いがあからさまです。アブラハムの末だ、と誇らしげに安住しているのは捨てよ!神の怒りの前に悔い改めるか否かを迫られているのだ。悔い改めなければ滅ぼされ地獄の火に投げ込まれるのだぞ。このように叫ぶヨハネの言葉に群衆は己の良心に突き刺さったのであります。群衆はヨハネのこのような激しい言葉に心打たれ、もしやこのヨハネが長い間待ち続けたメシアではないか、この事を察してヨハネは真の救い主であるメシアとして来られる方を指示しています。11~12節です。「私は悔い改めに導くためにあなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打もない。その方は聖霊と火とであなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って脱穀場を隅々まで綺麗にし麦を集めて倉に入れ殻を消える事のない火で焼き払われる。」バプテスマのヨハネの預言者としての神からの使命は救い主であるイエス・キリストの到来を告げ知らせる事であります。更にイエス・キリストの働きの前にデコボコの荒野と砂漠に一本の道を整える役目でありました。谷は全て埋められ、山と丘は低くされ、曲がった道を真っすぐに整える。そして人は皆、神の救いを仰ぎ見る。このように主の道を整える事は容易な事ではない、生半可な道備えではない、そこでは大決心をして私たちも主の前に悔い改め新たな決心をして救い主イエス様をお迎えしなければならないのです。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
待降節第一主日は教会の新年の幕開け
今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドベントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆さま、礼拝に参加される皆さまを豊かに祝福して見守り導き、皆さま自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。
今年もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を礼拝の中で歌います。毎年お話ししていることですが、この歌はフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番最初にある歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の個所が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアンナ、またはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王さま、万歳!」というところでしょう。
その個所が朗読される時、歓呼の前で一旦朗読が停まってパイプオルガンが威勢よく鳴りだし、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、当時の群衆になり替わって歓呼を賛美歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れ聖書離れが進み、普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、なぜか待降節第一主日になると人が多く集まり、この歌を歌って国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。今映っているのは何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。(昨年の待降節第一主日のコラムから)
↓ sleyの聖心教会の第一アドヴェント礼拝の模様です、ホーシアンナ・ダヴィディンポイカを高らかに歌っています。動画の32分あたりから始まります。
https://www.youtube.com/live/j6avbcfEaQk?si=R9_5xeYtzX6GBQXu
2025年11月30日スオミ教会礼拝説教
マルコによる福音書11章1〜11節
「主がお入り用なのです」
説教者:田口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1、「主イエスが先を行き導いた」
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
このイエス様のエルサレムへの入場のみ言葉を通して今日イエス様は何を私たちに伝えているでしょうか。これまでのイエス様と共にエルサレムへ向かう弟子たちの歩みはどのような歩みであったでしょうか?それは、イエス様が彼らを招き召し出してその彼らの歩みが始まったように、そのこれまでの歩みもまた、どこまでもイエス様が先を行かれ、イエス様が導かれ、弟子たちはそのイエス様の言葉と導きに「ついて行く」歩みでした。弟子たち一人一人は、決して聖人でも完成され立派な人間でもありませんでした。彼らは私たちと同じ罪人であり、どこまでも不完全で、彼ら自身だけでは常に恐れや惑いがありました。しかしその歩みは彼れが自分の力や意思で全てを果たさなければいけない律法の道ではなく、そんな不完全な、そして理解できない、罪深い不安で恐れる弟子達を、イエス様は常に愛し、何度でも呼び寄せ、支え、何度でも教えて来た福音の道でもあったと言えるでしょう。
2、「まだ誰も乗ったことのない子ろば」
イエス様がいよいよエルサレムへと入るこの時もまた、そのイエス様の恵みが貫かれていることがわかるのです。イエス様と一行は、まずその入場するための手前の町にやってきたのでした。1節、こう始まっています。「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、」イエス様は二人の弟子たちを使いに出すのです。それは何のためかというと、こう続いています。「言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 それはロバの子供を連れてくるためでした。それはこの後続いているように、イエス様がそのロバの子に乗ってエルサレムへと入って行くためです。しかしイエス様がその村に繋がれていると言う「ロバの子」は、イエスや弟子たちに前もって何らか伝手があって、村に知人か誰かがいて借りる予定になっていたというようなものではありませんでした。「つないであるのを、ただ「ほどいて、連れてくる、そのようなものでした。3節を見ますとこうも続いてます。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 どうやら、そのロバの子の持ち主でさえも、その行為の意味をわからず、「なぜそんな事をするのですか」と聞くような状況になるようなのでした。このように遣わされる二人も、他の弟子たちも、そして、ロバの子の持ち主も、そのロバの子供が連れていかれる目的や意味をよくわかっていないようのです。
3、「主がお入り用なのです」
しかし、イエス様がここで言っている言葉は心をとらえます。それは、「主がお入り用なのです。」 「主が必要だから。」ーイエス様にとって理由は、はっきりしています。「主がお入り用」ーそれだけなのです。そのようにして連れてこられたロバの子、イエス様がエルサレムに入場するそのために用いられるロバの子です。周りの誰も、弟子も持ち主もわからない、しかし「主がお入り用だから」ーその理由だけで用いられ、召され、連れれてこられるロバの子なのです。 「主がお入り用なのです」
A,「召し:弟子達に理由があるのではない」
このことばから教えられます。実に、イエス様について行く弟子たちの姿、その召し、招きもそうであったのでしょう。彼らは「自ら」、「自分自身の知恵や力や計画で」イエスを見いだし、何か彼ら自身に初めから確かな理由付けや達成する目的やビジョンがあってついて行ったわけではなかったでしょう。聖書に書かれている通りに、それは、主イエス様が、主イエス様の方から、声をかけ、呼ばれ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召されたからでした。その言葉の意味さえ、彼らは何を意味するかわからなかった事でしょう。しかし主イエス様が、主イエス様の方から召し、招いてくださったからこそ彼らはついて来たのです。神の計画を具体的にはっきりと見えてはいませんでしたし、全く何のために召されたのかは誰も分かりませんでした。むしろ聖書にある通り、その中のある者は、地上の眼にみえるイスラエルという国家の復興を見て期待し、ローマからの独立や革命を期待していた人もいたでしょう。しかし、一緒に歩いていく中で、イエス様はそんな期待する政治的活動などせず、ユダヤ人が皆、忌み嫌い避けるような罪人に声をかけ交わり、友と呼び一緒に食事をしました。そして、エルサレムを前にしても、繰り返し繰り返しイエス様が弟子達に教えるのは、自分は地上に政治的革命を起こすとか、新しい地上の王国を実現するとかではなく、「自分は祭司長たちに捕らえられ、苦しめられ、十字架につけられて死んでよみがえる」ーということでした。それはついて来た弟子達にとっては訳の分からない、あり得ない、期待はずれのことばかりでした。ペテロは「そんな事があろうはずがない」とたしなめることになります。そのようにやがて弟子たちは何のために自分たちは召されたのか。「なぜ?」と思い、この先にどんな理由と答えがあるのかと思うことでしょう。そしてさらに、弟子達が自分たちを見つめさせられる時にも問題に直面させられたことでしょう。まさに自分が救い主の弟子である自分に勝手に思い描いていた期待、しかしそれとは裏腹の自分の弱さや罪深さや不完全さの現実に直面させられる時、「なぜ、こんな自分が」とその召しに疑問を持たされ壁にぶち当たることになります。まさにそれは現代のクリスチャン、私達が自分を見るときに直面させられる葛藤です。「自分には何もない。何もできない。弟子として、クリスチャンとしてふさわしくないものだ。罪深いもの。弱いもの。聖くない。だから義に値しないものだ。」そのように自分自身に葛藤するのです。
B,「主の側に理由がある」
しかしです。イエス様のことばは私達に教えているように思わされます。それは、「主がお入り用なのです」 そのことばです。私達の理性や常識や価値判断の基準では分からない。思いもよらないこと。しかしイエス様にとって理由は、はっきりとしている言葉でしょう。そのロバの子が召され用いられる理由は、人間が建て上げたり予測できるような合理的な理由があるからではない。どこまでも「主がお入り用だから」なのです。私たちの召しにおいても同じです。私たち「人間の側で私たちが建てあげ期待できるような合理的な理由や根拠があるから」とか「それに即してだからあなた方を「召します」。だから「必要なんだ」、とは父子聖霊なる神様は言わないのです。ただ「主がお入りようなのです」、それだけです。人間の方は、自分の召しにも人の召しにも色々理由づけをしたがります。それで人間の側の自分や組織の期待した通りのことに当てはまらないと「あの人は召されていない」「あの人の召しは嘘だ」「あの人は期待外れだ」と人は言うものです。教会の中でも、クリスチャン同士でもです。そのようにして主が召された牧師や自分の教会の兄弟姉妹を人間の勝手な理由付けで退けたり非難するような声を聞いた経験は残念ながら少なくありません。あるいは、自分で自分に勝手に思い描き期待するクリスチャン像に自分が合わないからと、自分の救いの召しや救いの確信を疑い、失望することも、クリスチャンは誰でも経験することかもしれません。しかし、主が用いる理由。主に召された理由。今、救われクリスチャンである理由。なぜ、どうして、何のために?それは「主がお入り用だから」なのです。それはまったく「主の」目線、「主の」思い、主の目的と計画で、「主が」お入り用だから、なのです。つまり、それはまず、私達にははっきりと完全に知る事ができない事を意味しているでしょう。しかし、「主がお入り用だから」ーそこには、主にある「確かさ」があるでしょう。むしろ「主が」必要であり、そのために呼ばれ、召されて今があるなら、自分が自分を見て不安や失望があっても、「主の目」「主の理由」であるがゆえに、決して不安や失望ではない、期待と希望があるのではないでしょか。「主の目、主の理由である」と見るならばです。「主がお入り用なのです。」ーこのことば。イエス様は、ローマ軍の将校が勇んで乗る血統の優れたカッコイイ馬ではなく、この村の名も知らない家のロバの子供を召しました。しかもまだ一度も誰ものせた事もないロバ。ロバの子供です。合理的な分析や理由付けをしようとするなら、こんな何もできないロバの子供「何ができようか?不安で、頼りない。」と人は見るでしょう。人間の合理性ではそのような判断になり退けられます。しかし、聖書の神の前にあっては、全く逆説的です。「主がお入り用だから召される。主が用いられる。「「主が」お入り用だから」なのです。
それは、私達が自分や、誰かを見ての、大きいから小さいから、できるからできないから、ふさわしいからふさわしくないから、若いから若くないから。等々。それらの人間のたてる理由は評価は一切関係ありません。「私達の目」「私たちの評価」「私たちの合理性」人間のたてる「社会の実利性」等々に基づきません。「主の目。主の理由。」ー「主がお入り用だから。」なのです。その視点を「自分が」から「主が」に転換する時にこそ、私達は、「自分がの傲慢さ、「高ぶり」からも解放されるし、他人を裁いたり、隣人の召命を疑ったり、あるいは「自分なんて」と自己憐憫からも解放される道があるでしょう。私達の存在は、「私が」「自分が」「あの人が」の理由ではなく、「主がお入り用だから」につきるのです。 アドベントのこの時、教会の暦では新年です。主の到来の恵みを覚えるこの時、今日も私たちは「主がお入り用なのです。」という私達へ向けられた「主の理由をしっかりと心に留めようではありませんか。私達一人一人は「主が必要な、お入り用な存在」として召されているのです。「主が」必要なのです。主の目、主の思いが、必要だといってるのです。そのために、救われ、召され、生かされ、導かれている私達です。それは、私達から見て良い状況ばかりではありません。私達から見て良くない状況、試練や困難さえも、しかしそれは、主がお入り用だから。必要だから。私達はそこへ召されているのです。「私が〜だから」「あの人がどうだ」ではなく、「主がお入り用だから」ーそのことばをしっかりと心にもってこの教会の新年のスタートをしましょう。
4、「イエスは十字架にかけられ死ぬために」
さあ、そのようにして、ロバは連れてこられ、イエス様はその上に乗り、エルサレムへと入るのです。7節〜10節ですが「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」」 みな「ホサナ。祝福があるように」と歓迎するのです。しかし、この所は思わされるところです。イエス様のエルサレム入場は、それは、十字架へかかるための入場でした。そして、今歓迎のことばも、このエルサレムではやがて「十字架へつけろ」に変わって行きます。このところは人間の現実を教えているように思わされます。それは、人が自らの力で行う礼拝も、歓迎も、賛美も、すべて不完全であるということです。この人々の礼拝、歓迎、ホサナという賛美も、祭司長たちへの賛同へと変わりました。まさにイエスが、人間が思い描き計画し期待する自分たちの期待通りの、自分たちの願い通りの地上の物事を満たしてくれる王様、メシヤではなかったからです。イエス様は、地上のイスラエルの再興や、独立のために来たでもありません。十字架にかかるために来ました。しかし、それは人々にはわかりません。いや分かる事ができないでしょう。人々は、その自分たちの期待を否定するイエスに失望しました。イエス様が与えようとする神の国の福音、罪を赦すための十字架の言葉は彼らにはわからず期待外れだったのです。そして、ついには人々にとっては極悪人の刑罰である十字架にかけられるイエス。人の前では敗北と大罪の象徴に直面します。恐ろしく残酷な十字架に、メシヤなど見なかったのでした。そこに私達の罪の身代わりと真の救いである罪の赦しがあるとは誰も分からないのです。弟子たちでさえもです。弟子たちは復活の後に、聖霊によって目が開かれそのイエス様のみことばと救いの意味を初めてわかるようになるのです。それから宣教が始まるのです。
人は、私達はどこまでも罪人です。そのなす業、礼拝や賛美であっても、決して、私達の業が、救いを完成するのではないのです。私たちの功績や貢献が神の国を完成させるのでもありません。いやできないのです。私達はどこまで不完全なものであり、不完全な礼拝者、賛美者にすぎません。しかし、ここでも唯一、全てを理解して、まっすぐと主の道を行き、主の御心をなすためにまっすぐに進む唯一の姿があるではありませんか?周りの群衆ではありません。弟子たちでもありません。イエス・キリスト、その方お一人です。イエス・キリストこそが、十字架へと向かい、十字架を負われました。私達ではありません。私達はむしろイエスを十字架にかけろと叫んだ方であり、かけた人々の方です。逃げた方であり、裏切った方であり、三度知らないと否定した方なのです。 私達自らでは主の事を実現する事は何もできません。主を礼拝し、歓迎し、賛美しているようでも、私自身、いつの間にか、自分勝手、自分本位になり、自分の期待通りではなかったら、主を疑い、不平をいい、否定し、十字架につけろと否定する側にいるものであることを気づかされます。実に不完全な存在です。しかし主イエス様こそ、イエス様だけがまっすぐと十字架の道を行き、十字架を負われました。私達のためにです。私達の身代わりとしてです。このイエスの名とその聖なる完全で力ある福音のみ言葉のゆえにこそ、私達の不完全な礼拝も賛美も祈りも、完全な礼拝と賛美として神に喜ばれ、受け入れられるのです。実に、私達の救い主はただ一人です。主イエス様こそ、私達のための救い主。イエス様との聖なる福音こそすべての全て。イエス様こそ先を行って導き、事を行ってくださったお方。行ってくださるお方です。イエス様こそ救いの完成者、助け主にほかなりません。ですから、聖書はいいます。ヘブライ信徒への手紙12章1−2節「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。2節は新改訳聖書ではこうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前におかれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12章2節) どうなるか分からず、先に何があるのかわからず、「ついて来なさい」のその聖なる福音の言葉にただ従って来た弟子たちです。人から見ればエルサレムに近づくほどに、自分たちの期待とは違う方向にさえ行っていました。しかし、イエスの後について行って、イエス様の聖なる力ある真実な言葉に導かれて行く事によって、彼らもまっすぐと進んで行きました。確かに途中、弟子たちは拒んだり、逃げたり、裏切ったり、否定したりしました。しかし、そのことを悔やんで、悔い改めイエスとその言葉に向いた時、イエスの憐れみにすがった時、彼らは立ち直りました。ユダはむしろ、イエスに向かなかったから、悔やんでもイエスに立ち返らなかったから、滅びました。しかしイエスとその聖なる真実な言葉を見て、目を離さないで、何度でも立ち返っていく、そのようにして完成者であるイエス様について行く時、完成があることを、弟子たちは示しているでしょう。私達一人一人もそれと同じです。確かに「キリストの姿に変えられて行く、似せられて行く」とは聖書にはあります。しかし、それも「私達が自ら、修行と努力でなる」とは一つもかいていません。その「聖化」についても小教理問答書にはっきりとあります。聖化は、私たちの理性や力ではできない。しかしそれはその聖なる真実なみことばと聖霊による目に見えない主の業であり、完成は地上でなく、主が導く新しい天と地に至るまで、主によって変えられて行くことが聖化であるとルターは教えているでしょう。私達がなるのでは決してありません。「主が」変えてくださるのです。
5、「結び」
今日は教会の暦の新年です。仮にその一年の目標に人が「一つも罪を犯さないようにする」とか「聖書を神を完全に理解する」というのを掲げても決してできません。「完全なクリスチャンに、完全な親に、完全な夫に、完全な牧師に、完全な教会に。」と掲げても、それもできないことです。私達はどこまでも、「主があなたをお入り用なのだから」「必要だから」といって召してくださり救ってくださった主、信仰の創始者であり完成者である主を、まっすぐと見て、ついて行く、それこそ変わることのない私達の歩みであり使命です。それでも何度でもはぐれます。しかし、それでも主は私たちを何度でも呼び寄せて教えてくれるでしょう。そのために今日も礼拝に集められているし、そのために聖なる真実な神の言葉と聖餐が与えられるでしょう。その主の声に、私達たちはその度ごとに戻って、悔い改めて、ついて行く。そのような私達なのです。その救いの歩みを完全になす事ができるのは、唯一の救い主、イエス様であり、そのみことばと聖霊にほかなりません。今日もイエス様は変わることなく私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、この福音の宣言と、今日も私たち一人ひとりに変わることなく「主があなたをお入りようなのです」と言ってくださるその恵みを覚え、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
「聖書の御言葉を自由に使う」とは?
先週の礼拝の初めに詩篇98篇を朗読した時、前半は神の成し遂げた驚くべき救いと恵みの業を賛美する内容、その業はイスラエルの民の枠を超えて諸国民にも知らされるような業であったこと、そして同篇の終わりは神が諸国民を裁く日が来ることについて述べていることをお話ししました。この神が成し遂げた世界に知らしめるような驚くべき業とそれに続く裁きとは何を意味するのか?ダビデの時代なら、驚くべき業はかつての出エジプトの出来事、裁きはエジプトに対する罰という具合に過去に起こったことと理解されたでしょう。バビロン捕囚後に祖国に帰還した民だったら、帰還と神殿の再建が神の驚くべき業と理解されたでしょう。しかし、諸国民に対する罰とは?バビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされたことか?しかし、イスラエルの民はその後もペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国に支配され続け、詩篇98篇は過去の出来事と結びつけるのが難しくなるのではないか。
しかし、神の救いと恵みの業が起こったことが将来の裁きと関連するという出来事が起こったのです。イエス・キリストの十字架の死と死からの復活がそれです。この関連を使徒パウロはアテネのアレオパゴスで居並ぶギリシャの知識人や哲学者を前にして述べたのです!(使徒言行録17章31~32節)。
パウロのアテネでの証しの土台に詩篇98篇が本当にあるのか?これを証明しようとしたら、ギリシャ語ヘブライ語の文章の分析からはじめて、第二神殿期のユダヤ文書の中に詩篇98篇に関わる思考を見つけ出して体系化してパウロの証しとの関連性を論証しなければなりません。こうすれば釈義学(歴史的聖書学)の論文が一つ出来上がります。しかし、発表すればしたで批判や反論が必ず出てきます。学術的な営みとはこういうものです。このようにして学問は発展するのです。
そうすると、あらゆる批判や反論に耐えうるようなものができない限り、パウロの証しの土台に詩篇98篇があるなどと言ってはいけないのか?この手の問題について昔、フィンランドの友人の牧師と話し合ったことがあります。O.コスケンニエミという、父親はSLEYの元会長、祖父は大正時代に池袋、諏訪、飯田で教会設立に携わったSLEYの元宣教師。彼曰く、ルター派の教義に反せず、それを深めるものであれば御言葉は自由に用いていいのだ。考えてみれば、どこの教派もそれぞれの仕方で同じことをしているのでしょう。ただし、一つ忘れてはならないことがあります。パウロにしても他の使徒にしても皆、旧約聖書が血と肉と化していた人たちです。彼らが旧約聖書を理解しようとした時、イエス様の教えと出来事が理解に新しい地平を開いたということです。そしてそれはイエス様自身が前もって始めていたのです。
次回はフィンランドのクリスマス・オーナメントの一つ、「オルキ・タハティ(藁の星)」を作ります。フィンランドでは藁で作るクリスマス・オーナメントは伝統的なもので、現代でも手作りの「星」や「天使」や「ヒンメリ」は昔ながらのクリスマスの雰囲気を高めてくれます。これらの天然の藁で作るオーナメントは、僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放ち、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。今回は星に挑戦します。どんな形の星にするかは各自ご自由にお決め下さい。
オルキ・タハティ(藁の星)を是非ご一緒に作ってみましょう!
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
持参するもの:パールピン20本
参加費: 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み ℡ 03-6233-7109
スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106 www.suomikyoukai.org
2025年11月23日(日)聖霊降臨後最終主日 礼拝 説教
聖書日課 エレミヤ23章1-6節、コロサイ1章11-20節、ルカ23章33-43節
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今日は聖霊降臨後の最終主日です。来週はもうイエス様の誕生をお祝いするクリスマスの準備期間、待降節/アドベントです。キリスト教会の新年です。それなので今は教会の年の瀬ということになります。フィンランドのルター派教会では聖霊降臨後最終主日は「裁きの主日」と呼ばれ、その日の福音書の日課は「この世の終わり」とか「キリストの再臨」とか「最後の審判」をテーマにするものが普通です。日本のルター派の聖書日課も先週の福音書の日課はイエス様の終末の預言でした。ただ、今日の福音書の日課はイエス様が十字架に架けられる場面で、イースター前の受難節に相応しい箇所ではないかと思われるかもしれません。でも、よく目を見開いて読むとイエス様はこの世を超えた永遠なるものへの扉を開かれた方であることがわかります。それで聖霊降臨後最終主日に相応しい個所と考えます。
ところで、「世の終わり」だの「最後の審判」だの、ちょっと話が暗すぎないか、人を明るくハッピーにするのが宗教じゃないかと言われてしまうかもしれません。フィンランドの「裁きの主日」ですが、その趣旨は教会の一年の終わりにキリスト信仰者としての自分の歩みを振り返って、自分はイエス様の再臨や最後の審判の時に申し開きができるのか自省し、イエス様がもたらしてくれた罪の赦しの恵みを今一度畏れ多い気持ちで受け取るというのが本来の趣旨です。ところが実際はどうかと言うと、ただでさえ礼拝出席者が少なくなっているフィンランドの教会で(ただしSLEYの教会は別です!年中どこも満員御礼です!)、「裁きの主日」は一段と少なく、ところが、礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くや否や、待ってましたとばかり町中クリスマスのイルミネーションが一斉に点灯します。アドベントまでまだ1週間あると言うのに。果たして趣旨を心に留めている人はどれ位いるのだろうかと思ったものです。(ところで昨日知ったことですが、ヘルシンキでは昨日クリスマスのオープニング・イベントが大々的にあったとのことで、目抜き通りのアレキサンテリ通りはイルミネーションが華やかに点灯し盛大なパレードが繰り出され大勢の人でごった返したとのこと。アドベントはおろか「裁きの主日」も終わっていないのに!パイヴィによれば、もう何年も前から「裁きの主日」の前に行っているとのことで、私は知りませんでした。こういうことをするから教会の伝統に忠実でいたい人は皆SLEYの礼拝に流れて行ってしまうのでしょう。)
「世の終わり」とか「キリストの再臨」とか「最後の審判」というのは不安や心配を引き起こすテーマで、キリスト教徒と言えどもどう向き合っていいのか悩んでしまう人が多いと思います。ただ、近年では教派によっては、今の世界情勢を見ればキリストの再臨が間近なのは明らかだ、再臨に備えて聖書に書かれてあるようなことを率先して起こそう、そうすれば彼がいらした時に神の御国に迎え入れてもらえるのだ、と血気溢れるようなところもあります。ここで、私たちが礼拝で唱えるキリスト教の伝統的な使徒信条や二ケア信条ではどう言われているか思い出しましょう。再臨するイエス様は生きている人と死んだ人を判断する(裁く)とあります。恐らく急進的なキリスト教徒は、再臨は自分が生きている間に起こると確信しているのでしょう。私は、もちろんその可能性は否定しないが、確率として見たら、主の再臨は自分がこの世を去った後に起こる方が高いのではないか、もしそうなら、まずこの世を去って再臨の日に目覚めさせてもらって判断してもらおう、なので、その日まではルターが言うように安らかに眠ることになるだろうという思いでいます。イエス様の再臨が自分が生きている間に起こるのか、後で起こるのかについては説教の終わりにまた触れたく思います。
本日の福音書の説き明かしに入りましょう。イエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられました。みんな五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。実に痛ましい残酷な場面です。
犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。イエス様の十字架の上には「ユダヤ人の王」という札が掲げられていました。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていローマ帝国にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとなこうなるぞ、という具合に。
このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られたのです。ところが当時、これとは異なる期待もありました。復興される王国とは、この世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わる新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。さて、この世的な国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代にはこの世的でない超越的な王国とそのメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国がこの世的な国ではなく超越的な国であることをはっきりさせたのです。
イエス様を罵った犯罪人は、彼のことをこの世的な王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったのでした。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのす。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様が「あなたの御国」、つまり彼が王である国に入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上にはない、今の世を超えた超越的な国であり、イエス様はその王メシアであると信じたのです。
それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかわかりません。なんだか苦しみを和らげるための無意味な気休め言葉みたいです。そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは動詞の未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園に入ることになる、今日息を引き取ってこの世から別れた後で楽園に入ることになる、と言っているのです。
そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあるんじゃなかったのか?今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、キリストの再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?今日中に楽園に入ることになると言ってしまったら、そういうプロセスは飛び越えてしまったということなのか?
この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。そうであれば、イエス様が今日中に楽園に入ることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので大丈夫です。
次に「私のことを思い出して下さい」と言った犯罪人の言葉とイエス様の返答を見てみましょう。これらはよく目を見開いて見ると、キリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白、そしてそれに続く罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。
その犯罪人は、イエス様がこの世的な国を超えた国の王であると信じています。反対にもう一人の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世的な国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、別の犯罪人は、イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われているのだと直感しています。
このようにこの犯罪人にはイエス様が超越した国の王であることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこういうことを約束してくれる方がおられるというのは何と素晴らしいことでしょうか!
この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。創世記にあるように人間は堕罪が原因で造り主の神との結びつきを失い、結びつきのないままこの世の人生を送り、この世の人生を終えたら結びつきがないままこの世を去るしかない存在になってしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげよう、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと思いました。それらを可能にするためにイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に開かれたのです。
そこで人間が、これらのことは本当に起こったのだ、それでイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きることになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままで復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。
ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中には神の意志に反するものがよどんでいます。何かの拍子にそれに気づかされた時、キリスト信仰者はがっかり意気消沈します。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の驚くべき計画によってあの十字架が歴史上打ち立てられた以上は、あの方は私の救い主であり続け、救い主である限り神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もうがっかりも意気消沈もありません。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味します。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、罪の赦しという神のお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。
本日の福音書の犯罪人は息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けました。そうすると、どうせ最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば罪を赦されて天の御国に迎え入れてもらえるのだから、その前は別にイエス様を信じず洗礼を受けなくても問題ないではないかと言う人もいるかもしれません。実際、そういう方とお話ししたことがあります。以前の説教でお話ししたことですが、ここで改めて取り上げたく思います。最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性は否定しません。しかし、考えなければならないことが二つあります。
一つは、洗礼を受けると聖霊が授けられるというキリスト教の伝統です。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけだと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけだと、イエス様のことを誰もこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の観点です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。
もう一つ考えなければならないことは、「神の祈りの学校」の在学期間です。「神の祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間でよく口にされる言葉です。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならなずに失望や挫折することがあるかもしれない、しかし、そういうことを通してでも神は人間の望みよりも大きなことを与え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。在学期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?そういう心が持てれば、主の再臨が生きている間に来ようがこの世を去った後に来ようがどっちでもよくなると思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
今年もクリスマスの季節がやってきました!
今回の料理クラブはプッラの”ヨウル・クランシ”(クリスマス・リース)を作ります。プッラの生地を用いて、中身はレーズン、ドライフルーツ、アーモンドに加えて、シナモン、クローブなどのクリスマスのスパイスの風味で満たします。ヨウル・クランシはフィンランドのクリスマスの味覚の一つです。あわせて、フィンランドのクリスマス・スパイス・クッキー”ピパルカック”も作ります。
焼きたての”ヨウル・クランシ”と”ピパルカック”を北欧のクリスマスのホットドリンク”グリョッギ”と一緒に味わいましょう!
ひと足早くクリスマスの雰囲気をフィンランド風に味わってみませんか?
参加費は一人1,800円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ!
11月のスオミ教会・家庭料理クラブは15日、爽やかな秋晴れの中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのメニュー、フィンランド的なパン「オートミール・セサミ・サンピュラ」とキノコのスープです。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まずパンの生地を作ります。材料を計って順番にボールに入れていきます。オートミールと小麦粉を加え生地をよく捏ねてしっとりした生地が出来上がります。それを暖かい所において一回目の発酵をさせます。その間にキノコのスープの準備を始めます。玉ねぎとマッシュルームのみじん切りを終えると、生地はあっという間に大きく膨らんでいました。早速パン作りに入ります。大きな生地をテーブルの上で丸めてから、それを16個に分けて一個一個をきれいな丸形のサンピュラにしていきます。それを全部鉄板の上に並べて第二の発酵をさせます。
発酵させている間にキノコのスープの続きをします。みじん切りにしたキノコと玉ねぎを鍋に入れてしばらく炒めてから他の材料を順番に加えて煮込みます。最後にクリームチーズを加えると柔らかい味のスープが出来上がります。
サンピュラの二回目の発酵も早くすみ、一つ一つの上に卵を塗って白セサミと黒セサミをその上にたっぷりかけてオーブンに入れます。しばらくするとパンの焼き香りが台所から教会中にどんどん拡がって参加者の皆さんは何回もオーブンを覗きに行きました。「美味しいそう!」「良い香りね」とみんなワクワクでした。
テーブルのセッテングをしてみんな着席します。焼きたてのオートミール・セサミ・サンピュラにマーガリンを塗って、キノコのスープと一緒に味わいます。「やっぱりパンは焼きたてが最高ね!」「スープも美味しいわ」との声があちこちから聞こえてきます。皆さんと一緒に美味しくて本当に満ち足りた歓談の時を過ごしました。その時にフィンランドのキノコやパンの話と聖書のイエス様が語られた「からし種」と「パン種」のたとえ話の教えについて話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回はもう待降節(アドベント)の期間の開催になります!12月13日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドでは十月末に冬時間に入ります。それから日がだんだん短くなり気温は氷点下に下がる日が多くなります。この時期になると、フィンランド人は家で過ごす時間が増え、温かい料理、オーブン料理、スープ、などを作るようになります。もちろんパンやケーキなども焼きます。今日皆さんと一緒に作ったキノコのスープとオートミール・セサミサン・ピュラはこの季節にピッタリです。
フィンランドではキノコはベリーと同じように森で自由に採ることが出来ます。キノコ狩りの期間は年によって変わりますが、普通は7月の終わり頃から11月までです。この間フィンランド人の友達から「漏斗の形のキノコがまだ採れる」と聞きました。漏斗の形のキノコとはどんなキノコでしょうか。それはアンズタケと似ていてマイルドな味わいですが、色は茶色です。キノコは普通は寒さに弱いですが、このキノコは氷点下に下がってもまだ採ることが出来ます。フィンランドではキノコ狩りの期間は長いので、秋はキノコ狩りの「黄金期」とも呼ばれています。
森で採ったばかりのキノコは秋の食卓に相応しい食材です。新鮮なキノコをフライパンで炒めたりスープやソースに入れたりして美味しくいただけます。沢山採る場合は冷凍したり、乾燥させたり、塩付けにしたりして保存します。
スオミ教会の料理クラブではフィンランド的なサンピュラを何度も作ったことがあります。フィンランドではサンピュラの種類は多くあり、生地の材料を少し変えるだけで、新しい名前のサンピュラが出来ます。今日のサンピュラの特徴は生地に使ったオートミールと表面にかけたセサミです。オートミールとセサミを加えることでパンの栄養価が高まります。パンはミネラル、ビタミン、繊維が含まれる健康的なパンです。フィンランドではこのようなパンを食べることが奨励されています。
今日はセサミをパンの上にかけたり、イーストでパン生地を発酵させたりしたので、今日の聖書のお話はイエス様が「からし種」と「パン種」についてのたとえ話が相応しいと思いました。このお話は新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれています。
ある時、「イエス様は神の国は何に例えられるか」について教えました。そこで二つの例え話をされました。先ず、イエス様は「神の国はからし種のようなものです」とおっしゃいました。
からし種とはどんな種でしょうか。それは非常に小さくてどんな植物の種よりも小さいものです。しかし、それを蒔くと茎はどんどん伸びて畑の中で最も大きな植物に成長します。それは木のように枝を拡げて空の鳥たちが巣を枝に作るくらいになります。
イエス様のもう一つのたとえ話は次のようなものです。このお話も「神の国は何に例えられるか」について語られたものです。イエス様は「神の国はパン種のようなものです。」とおっしゃいました。ある女の人がパンを作る時に3サトンの小麦粉にパン種を混ぜると、生地全体は大変良く膨らみました。1サトンは12リットルなので36リットルです。当時パンを作る時にはイーストはまだなかったので、いつも少しだけの生地を残しておいてそれを次に作るパンのパン種に使って発酵させたのです。たとえ話の女の人が作ったパン生地は36リットルもあるとても大きなものでした。しかしわずかなパン種をそんな量の小麦粉に混ぜただけでパン生地全体が大きく膨らんだのです。
この二つのたとえ話の意味はどのようなことでしょうか。たとえに出てくるからし種とパン種はとるに足らないものに小さなものに見えますが、それぞれに強い力が秘められています。イエス様はからし種とパン種を何に例えられたのでしょうか。それは天と地と人間を造られた天の神さまのみ言葉を意味します。つまり聖書のみ言葉のことです。聖書のみ言葉は見た目ではただ普通の言葉にすぎませんが、その中には大きな力が含まれています。それはどんな力でしょうか。それは天の神さまが私たちの造り主であるという信仰を生み出す力です。そして、天と地と人間を造られた神さまが私たちを救うために独り子イエス様をこの世に送られたことを知らせ、この出来事は自分の為に起こったということを信じて受け取れるようにする力です。聖書のみ言葉を通して神様に対する信仰が生まれるのです。
神さまのみ言葉を全世界の人たちに述べ伝えたら多くの人たちは信仰を持つようになります。イエス様はこのことをからし種が成長して大きな木になること、そしてパン種が小麦全体に広がって大きなパン生地に膨らむことで表されました。神様のみ言葉は全世界の多くの人々に向けられて信仰を生み出てきました。そうした生まれた信仰はこの世を生きる力になり、またこの世を超えて次の世まで導く力ともなります。
私たちも聖書のみ言葉を読んだり聞いたりしてしましょう。そこから神様への感謝の心が生まれます。
「聖書は神の言葉」について
昨年から礼拝の式文をフィンランドのルター派国教会のものに合わせる改訂を進めてきました。最後の変更箇所として、聖書朗読のところで旧約聖書と使徒書の朗読の後に「これは神の御言葉です」と言って、会衆が「神に感謝します」と応じる、福音書では「これは聖なる福音です」と言って、「キリストに感謝します」と応じるようにすることを先週の全体会でお知らせしました。
その後で信徒の間から、「聖書は神の言葉」と言うと、聞く人によっては米国の所謂キリスト教原理主義を思い起こさせるのでは、彼らも同じように言うからだという心配の声があがりました。世界のキリスト教界を二分するような諸問題でSLEYは伝統的な立場を取ることが多いため、それを好ましく思わない人たちから原理主義的などと批判されます。しかし、宗教改革で言う「聖書中心主義」と米国の福音派のそれには大きな違いがあります。いつか、ルター派にとっての「聖書は神の言葉」について勉強会を開こうと思います。(ちなみに、「これは神の言葉です」はフィンランドのルター派国教会の礼拝でも唱えられます。近年伝統からどんどん離れて行く傾向にある同教会を原理主義と言う人はいないでしょう。)
それで、肝心の式文の改訂はどうするか。取りあえず勉強会までは朗読者の判断に委ねます。「聖書は神の言葉」で問題ない人は唱え、心配な方は以前通りの「これで日課を終わります」。そうなると今度は、「神の言葉」と唱えられて聞く側が不安を感じたらどうするのかという反対が出るでしょう。その場合は次のようにお考え下さい。今あなたが聞いたのは神の言葉である、これからそれを説き明かして、神が今の状況にあるあなたに何を伝え何を与えようとしているかを知らせる説教が始まるのだ、それは高尚な世間話でも知的好奇心をくすぐる話でも道徳訓話でも感動ものでもない、あなたの魂を精錬する話だ、心して聴きなさい、というシグナルを与えるものとお考え下さい。会衆がそういう態度で臨めば臨むほど、説教者も一層真剣に説教を準備するようになること請け合いです。その意味でも「終わります」と言って終わってしまうよりお互いの信仰の成長に資します。
ここで説教者にとって一つ大きなチャレンジになるのが、旧約聖書の日課も使徒書の日課も「神の御言葉」と言ったら、本当は説教ではそれらも取り上げなければなりません。福音書の日課の説き明かしをそれらの御言葉に助けられて行うということです。言い訳がましくなりますが、聖書日課の編纂者はもっと気が利く組み合わせをしてほしいと言いたくなることが多いです。でも、それが取り上げない理由になってはいけなません。まだまだ研鑽が必要だと自覚しています。
アーメン 2025年11月16日(日)スオミ教会礼拝
聖書:ルカ福音書21章5~19節
説教題:「終末にはどんな事が起こるか」
今日の聖書はルカ福音書21章5~19節です。21章と言うとルカの福音書ではもう終わりに近い方です。イエス様はご自分のこの世での活動も終わりに近づいて来ていること、つまり十字架の死が近づいて来た事を深刻に感じられています。これまで共に生活して来た弟子とも別れなければならない。この弟子たちが神様からの使命を全うして行くのに幾多の苦難があるだろう、それらに耐えて行けるように弟子たちへの訓練と警告を告げられてゆきます。ルカ福音書19章47節を見ますとイエス様の地上での活動の総仕上げの計画を含めて「毎日イエスは境内で教えておられた」とあります。ユダヤ教の最大のシンボルである神殿で弟子たちを教えておられます。ユダヤ教の司祭長や律法学者たちが総力を上げて守っているエルサレムの神殿です。弟子たちは神殿の壮大な建物と装飾品に思わずうっとりして感嘆の声をあげて見ていたのでした。ユダヤの人々なら誰もが同じように見たでしょう。そこへイエス様が来られて言われました。6節の言葉です。「あなた方はこれらの物に見とれているが一つの石も崩されずに他の石の上に残る事のない日が来る。」イエス様はこの頑丈で壮大な神殿が粉々に崩壊してしまう日が来る、と預言されたのです。これを聞いた弟子たちは吃驚したでしょう。とても考えられない事です。そこで更に7節には「彼らはイエスに尋ねた。先生、ではその事は何時起こるのですか。また、その事が起こる時にはどんな印があるのですか」と問うています。イエス様に訪ねた彼らと言うのは、実はマルコ福音書13章1節によれば「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ」の四人が密かに尋ねたと記しています。イエス様は最も信頼している四人の弟子にだけ預言されています。この事はそれだけ慎重に秘密裡に考えての事でしょう。何故かとと言いますとエルサレムの神殿を管理していたのはユダヤ教の祭司たち、律法学者たちでした。ルカは19章の終わりのところで「祭司長たち律法学者の指導者たちはイエスを殺そうと謀っていた。」とあります。そういう危険の中で公に、いまイエス様がやがてこの神殿は悉く破壊されてしまうなどと預言されるともう大変な事になります。ですから、今は密かに信頼のおける四人の弟子だけに明かされたわけです。特にルカ19章の終わりの45節を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を激しく追い出してしまわれた」とあります。この事件以来、彼らは益々イエスを殺そうと息まいています。そうとう頭に来ていますから危険の最中にあるわけです。このような危険状況の中で弟子たちはこれから大切な福音の担い手となって世界に向けて使命を果たして行かねばならない。こうした時代を悟らせ彼らの信仰を堅くしておくために訓練と警告を告げておられるのであります。更に弟子たちが想像もしていなかった終末が来ると、その直前には大変な苦難と迫害が来る事も預言されているのです。
<考えてみますと>イエス様の十字架の死と弟子たちを取り巻く危機状況は現在の私たちの世界の危機状況でもあると言えるでしょう。世界の彼方此方で戦争が絶えない、イエス様の時代と違って今日では科学文明が進み核兵器の危機です。イエス様の神殿崩壊の預言はとても考えられない事が事実歴史の中で起きてしまいました。紀元70年ローマ帝国に因ってエルサレム神殿は悉く破壊されました。ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトゥスによる記録にもあります。弟子たちはイエス様の預言と実際に滅亡してゆく過程の全てを見て苦しみを味わった事でしょう。弟子たちがエルサレム滅亡の前に問うた時、イエス様は10節以下にあるように具体的に起こる事柄を答えておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして大きな地震が起こり飢饉や疫病が起こり恐ろしい天体現象があらわれる。」12節では「しかし、これらの事が起こる前には人々はあなた方に手をかけ迫害し会堂や牢に引き渡す。そして私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。」更に16節以下を見ますと、「あなた方は親兄弟、親族友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また私の名のためにあなた方は全ての人に憎まれる。」とあります。ここに言われる事の全てはイエスの名を信じる神の子とされた者が受ける苦難であり迫害です。イエス様は弟子たちに恐ろしい預言を告げるだけでなく、これらの苦難に対してどう生きてゆくかを示されています。「イエスの名を名乗る偽預言者が現れるから惑わされないように気をつけなさい。戦争や暴動の事を聞いても怯えてはならない。王の前に出されたらそれは証をする機会と思って大胆に語れ、語るべき言葉と知恵は与えられるから大胆に語れ、臆することなく勇気を持って語れ」と言われる。26節には「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。大地震が起こって生活も町も根底から揺り動かされ恐怖に落ちてしまう。その時人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」とあります。驚きと恐怖の連続です。そこでは、人間の如何なる力も科学の力も機械の力もなすすべがありません。大自然の襲ってくる力にはどうする事も出来ない、毎年やって来る台風の嵐、夥しい山火事、地球温暖化による海水の増加、地球全体の規模で大異変が現実に起きている。そういう中で人間の力は無力です。これらは全能の神の怒り罰が下されているのでしょうか。紀元70年エルサレム滅亡は地上に住む国々の民に対し終わりの日の警告でありましょう。人類の大いなる艱難の日でもあります。「しかし、エルサレム滅亡をもって直ちに世の終わりが来るのではない」と主は言われる。エルサレム滅亡によってユダヤ民族が神の真理の担い手である時代は終わった。神の救いの福音は弟子たちによって広く世界へと、異邦人へと向かって行くのであります。エルサレム滅亡はこの意味に於いて大きな時代の一大転換期となった。人類の歴史の重要な一段落であります。マタイ福音書24章13~14節でイエスは警告しておられます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として全世界へ宣べ伝えられる。それから終わりが来る。」更にマタイ福音書25章31~46節にみられるように右と左に分けられ「世の終わりが来てキリストの再臨による大いなる審判が行われる、そうして全く新たな神の国が地上に現れるのであります。全能の神のみこころのままに全てはなって行くのであります。