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フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長ペッカ・フフティネン先生は5月17日、スオミ教会の主日礼拝にて説教されました。
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2015/11/sekkyou_Huhtinen2015_lyhennetty.mp3
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.本日の福音書の箇所でイエス様は、弟子たちが守るべき掟はこれだと言って、自分が弟子たちを愛したように弟子たちも互いに愛し合いなさい、と命じられます(ヨハネ15章12節)。本説教では、弟子たちをはじめ私たちキリスト信仰者が互いに愛し合う時の愛について、本日の福音書の箇所に基づいて見ていきたいと思います。キリスト信仰の愛のかたちについてです。
2.イエス様が「互いに愛し合いなさい」と命じる時、「私がおまえたちを愛したように」と言っていることに注目しましょう。どんな愛で愛し合うかと言うと、それは、イエス様が弟子たちを愛した愛と同じ愛を持って愛し合いなさい、ということです。それでは、弟子たちが模範とすべきイエス様の愛とはどんな愛か?これがわからなければなりません。実は、これもすぐはっきりします。13節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエス様は言います。つまり、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということです。そこで、大事になってくるのは、この犠牲が、誰による、誰のためになされる、何のための犠牲か、ということをはっきりさせなければなりません。
天の父なるみ神がみ子イエス様を用いて行ったことが、自己犠牲を伴う愛であるということをわかるために、まず私たち人間は神に造られた被造物であるということをしっかりわきまえておく必要があります。人間は自分の力や自分の意志で自分を造ったのではありません。光よあれ、と言って、光を造った神の手によって造られたのです。その造り主の神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまったことが、聖書に堕罪の出来事として記されています。人間が神への不従順に陥り罪を犯して、神聖な神のもとにいられなくなったのです。罪と不従順を受け継ぐ人間は、自分の力で神のもとに戻ることはできません。まさにそのために神は、人間が自分との結びつきを回復して、自分のもとに戻ることができるようにと、そのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。
神がイエス様を用いて行ったことは以下のことです。人間に張り付いている罪や不従順というものは、人間を永遠に神から引き裂かれたままにする力がある。文字通り呪いの力です。その力から人間を解放するために神は、人間の罪と不従順を全部イエス様に責任があるかのようにして彼にそれらを請け負わせて、そこからくる全ての罰をイエス様に下して、人間にかわって罪の償いをさせた。これがゴルゴタの十字架の出来事です。さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命への扉も私たち人間のために開かれました。
ここで人間が、これらのことが本当に自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神の方で、イエス様の犠牲に免じて罪を赦してやる、ということになった。つまり、お前の罪はもうとやかく言わない、不問にしてやる、なかったことにしてやる、だから、お前はもうこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言って下さる。お前の命は、私のひとり子が十字架で流した血で買い戻されたくらいに高価なものなのだ、そのことを忘れるなと言って下さる。こうして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、神がイエス様を用いて実現した救い、まさに「罪の赦しの救い」を受け取って、神との結びつきを回復して生きるようになったのであります。
こうしてキリスト信仰者は、この世ではまだ罪と不従順が張り付いているのにもかかわらず、赦しを受けた者として、呪いの力から解放されたのです。永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなり、神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。ところで、神との結びつきが回復したとは言っても、それは私たちの目には見えません。しかし、神の目からみてしっかり見えているのです。この結びつきは洗礼の時にできます。私たちの目にはただの水にしかすぎないものが、洗礼執行者である牧師先生が水を前にして神の御言葉を読むと、御言葉と結びつけられた水は「救いの恵みの手段」に変わります。こうして私たちは、イエス様の犠牲がもたらした「罪の赦しの救い」を洗礼を通して受け取ります。このようにして、神の目から見て結びつきができあがるのです。聖餐式も同じです。私たちの目にはただのパンのかけらとぶどう酒にしかすぎないものが、やはり神の御言葉をかけられて「救いの恵みの手段」にかわり、神の目から見て、聖餐に与った者と神との結びつきが強められるのです。
とは言っても、いろんな感情や思いにとらわれてしまいがちな私たちは、時として神が遠ざかってしまったと感じられる時があります。しかし、それは人間の勝手な思い込みで、神の方では洗礼で確立した結びつきはしっかり保たれていると見ておられる。そのことを、私たちが口を通して味わって体で受け止めることができるのが聖餐式なのです。
以上から、神がイエス様を用いて私たちにどれほどの愛を示して下さったかが明らかになったと思います。ヨハネ福音書3章16節でイエス様は次のように言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅ばないで、永遠の命を得るためである。」神の私たち人間に対する愛は、まさにこの言葉通りのものであります。イエス様は、この同じ神の愛を持たれて私たちを愛し、神の救いの計画の実現のために御自分を犠牲に供したのであります。
3.これで、神とイエス様の私たちに対する愛がどのようなものであるかが明らかになりました。ここでひとつ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が「私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え」と命じられる時、私たちにはイエス様がやったのと同じ犠牲は課せられていないということです。人間を罪の呪いから贖い出すこと、これは神がひとり子を用いて全ての呪いに関して一回限りで完結されたので、イエス様の犠牲の後には何も付け加えることはあり得ません。人間を罪の呪いから贖い出し、神との結びつきを回復するために、もっと何かが必要だ、などと考えるのは、神の救いの計画では不十分だ、と言うのも同然で、被造物が造り主に言うべきことではありません。
それでは、イエス様が模範を示した愛で私たちも互いに愛し合うとは、どうすることなのでしょうか?神がイエス様を用いて、人間を罪の呪いから贖い出し、神との結びつきを回復する道を開いたことはもう動かせない真理です。イエス様を救い主と信じる者が他の人たちを愛する時、この愛が出発点にならなければなりません。それでは、これを出発点としたら、どこに向かったらよいのでしょうか?
それは、他の人たちも罪の呪いから解放され、神との結びつきを回復することができるようにすることです。
隣人愛というものが究極的にはそのようなことを目指していることは、ルターも教えるところです。「ローマの信徒への手紙」15章7節の御言葉「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」について、彼は次のように教えます。
「(…)我々は罪を除去すべく人々を助ける。我々は誰をも避けたり拒否したり見下してはならないのであって、罪びとを受け入れ罪びとと共にいるようにしなければならないのである。そのようにして我々は罪びとを悪い方向から助け出し、教え諭し、助言し、その人のために祈り、その人のことを耐え忍び、背負ってあげるのである。我々がこうするのは、もし我々が同じような罪にある場合、我々がそうしてほしいと思うからだ。キリスト教徒とは、他者の利益になろうとすることのためだけに生きる者である。その他者の利益というのは罪を除去するということである。(…)我々は、隣人が信仰や人生においてしでかす誤りを耐え忍ぶだけではなく、それを直させるように努める者なのである。」
同じ「ローマの信徒への手紙」15章3節の御言葉「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」についてのルターの教えは次の通りです。
「(…)もしキリストも、ファリサイ派が取税人にしたように振る舞っていたならば、我々の誰が罪から贖い出されることができたであろうか?主が我々に対して振る舞ってくれたように、我々も隣人の罪に対して振る舞わなければならない。我々は、裁いたり、排除したり、嘲ったりしてはならないのであって、隣人が罪から離れられるように助けてあげなければならない。たとえ、そのために命や大切な時間や財産や名誉その他我々が持っている全てのものを支払わなければならなくなったとしても、そうしなければならないのである。このようにしない者は、キリストを放棄したと思い知るが良い(…)。」
このように、隣人愛とは究極的には、隣人が罪の呪いの力から解放されて、造り主との結びつきを回復できて、永遠の命に至る道を歩めるようにすること、そして、この世から死んだ後は造り主のもとに永遠に戻ることができるようにすることです。もし隣人が、同じキリスト信仰を持つ人の場合は、その人が「罪の赦しの救い」の中にしっかりとどまれるよう支えてあげることです。また、もし隣人が、キリスト信仰を持たない人の場合は、その人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることです。
こう言うと、心穏やかでなくなる人も出てくると思います。日本のようにキリスト教徒の人口比に占める割合が非常に少なく、かつ信教の自由を尊重しなければならない社会では、罪の赦しの救いの中に「入れるようにする」などと言うと、宗教を他人に強要するように感じる人もいます。そんなのは、何か強引な宗教団体のやることと同じだとさえ言う人もいます。もちろん、キリスト信仰を持たない人がキリスト教や聖書に興味を持って教会の門を叩いて来れば、話は別です。その時は、この私たちを「罪の赦しの救い」の中に入れるようにしてくれた神の愛について堂々と証しすることができます。しかし、そうでない場合は、どうでしょうか?ある人は、私は食べ物に困っている人に食べ物を与え、着る物に困っている人に着せてあげることで隣人愛を実践する、そうすることで助けを受けた人は、私をこのような助けに突き動かしたイエス・キリストにいずれは興味を持ってくれるだろう、これこそが信仰の証なのだ、ということを言っていたのを覚えています。
こうした考えは理解できることでありますが、それでも神とイエス様の御心というものは、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることにある、ということを考えると、やはりもう一歩何かなければならないのではないでしょうか?まさに、そのために神はひとり子を犠牲にしたのだし、イエス様もそのために御自分を犠牲に供することを受け入れたのですから。でも、興味も何もない人たちに信仰を証しするなどとは、何か場違いなことのように思われるし、かえって反発をくらってキリスト教がもっと嫌われることに手を貸してしまう等々、ある時はもっともに聞こえるけれども、ある語気は言い訳にもなりうる、そういう逡巡の状態に陥ります。
そこで、キリスト信仰の隣人愛の実現のために最低限これだけはしなければならないというものを提案したく思います。それは、私たちの日々の祈りの中に、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるように祈ることを付け加えることです。「天の父なるみ神よ、あなたが私にして下さったように、あの人も、罪の呪いから贖い出され、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命への道を共に歩めるようにして下さい。」
私たちは、困窮している人たちのために祈る時、彼らが神の助けを得られるよう祈ります。それならば、衣食住や健康といった焦眉の助けの他に、もっと根底的な助けである「罪の赦しの救い」の中に入れるようにするという祈りも付け加えるべきです。この祈りは、隣人と面と向かって信仰を証することではなく、神に向かってお願いすることなので、隣人の信教の自由に抵触することはありません。先ほど隣人愛を人道的支援に限定して行う人の中には、自分がキリストの愛に突き動かされていることを見てもらって人々がキリスト教に興味を持つようにするという戦略的迂回の手法を取っていることを申しました。もしそのような人が、自分を突き動かすキリストの愛とはなんだろうとしっかり自問して、まさに人間を罪の呪いから解放し、造り主との結びつきを回復させ、永遠の命に至る道を歩めるようにすること、これがキリストの愛であると確認できるのならば、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神に祈ることは、戦略的迂回と何の矛盾はありません。戦略的迂回で肝要なことは、迂回をしすぎてもとに戻れなくなってしまわないように注意をすることです。(残念ながら、神学を学んだ人たちの中には、もとに戻れなくなるくらいに迂回しすぎて、今度は迂回している道の方が本道だと言い始める人も見受けられます。)
さて、この祈りの提案に大切な補足をします。隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神にお祈りすれば、神はなんらかの形で道を準備し始めます。ひょっとしたら、隣人がなんらかの経路を辿って信仰の証しを聞く機会が与えられないとも限りません。それが、祈る人本人の証しになるかもしれません。どんな経路で誰の証しでそれがいつになるかは、神にお任せするしかありません。しかし、祈る人は、それが自分自身の証しになる場合に備えて、そのような機会が与えられた暁にはしっかり証しができるよう力添えと自分自身の信仰の支えを神にお願いしましょう。「御心でしたら、その証の機会は私にお与え下さい」と勇気を持って祈ることができれば申し分ないですが、それは各自の自己吟味にお委ねしましょう。
4.このように、父なるみ神とみ子イエス様の御心がわかっていれば、私たちはイエス様の友なのであります。父なるみ神とみ子イエス様は、全人類のために「罪の赦しの救い」を整えられ、私たちは当初想像も予想もできなかった道を辿ってその中に迎え入れられました。従って、私たちは自分でイエス様を選んだのではなく、イエス様に招かれたことがわかって、その招きは受け入れるべきものとわかって受け入れたので、まさにイエス様に「選ばれた」のであります。何も自分が優れているから選ばれたというのではありません。救いようがないから選ばれたのです。もし、今「罪の赦しの救い」の外側にいる人たちが、自分たちもそこに招かれていることがわかって、それを受け入れれば、彼らもイエス様に「選ばれた」ということになります。
それから、世界に出て行って、持続するような実を結ぶ、と言うのは(16節)、「罪の赦しの救い」の中に入れる人が一人でも増えるように働き、実際にそのような人が増えて、その中にしっかりとどまれるよう支える、ということです。「実を結ぶ」と言うと、何か目に見えるような人道支援や慈善事業をするようなイメージがあります。そのような支援や事業が「罪の赦しの救い」の中に入る人を増やし、そこにいる人を支える、ということをちゃんと射程に入れていれば、本当に「実を結ぶ」仕事になるでしょう。
言い方が少しきつくなるかもしれませんが、ここで、人助けをしようにもできない重い病気の人や障害のある人のことを考えてみて下さい。慈善事業や人道支援が隣人愛の実を結ぶことそのものであると考えると、これらの人たちは実を結べない人たちになってしまいます。しかし、その人たちが例えば、病床に横たわりながらも、「天の神さま、あなたが私にして下さったように、私の大切なあの人も、罪の呪いから贖い出され、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命への道を共に歩めるようにして下さい。」と祈れば、これこそイエス様が教えられる「実を結ぶ」ことなのです。キリスト教会が、肉においても霊においても「実を結ぶ」ものとなりますように。そして、肉において結ぶのが難しい人たちが霊において結ぶ時、そのことも、両方できる人たちの実と同じ価値があると認められますように。
本日の箇所の終わりで、イエス様は「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ということを教えられます(16節)。同じ教えは、15章7節や14章13節でも言われます。この教えは、私たちに試練を与えます。私たちは誰も、自分勝手な利己的な願いを神にお願いしようとは思いません。そんなことをしたら十戒の第二の掟を破ることになります。もし利己的な願いが実現してしまったら、それは神から来たものではないので、大変危険です。私たちは、神の御心に沿った祈りをしなければならないと知っています。しかし、自分や隣人の病気が治るように、とか、陥った苦難を超えられるようにと祈っても、また、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにと祈っても、もしそうならなかったらどうしよう、と、いつも一抹の不安を覚えます。全知全能の神にできないことがあったと言いたくないがために、困難な問題を祈ることに躊躇する人もいます。難しいことです。
しかしながら、ここでイエス様が「祈れば与えられる」と言っているのは、世界に出て行って持続する実を結ぶこと(16節)と関係することです。世界に出て行って持続する実を結ぶと言うのは、先ほども申しましたように、「罪の赦しの救い」の中に入れる人が一人でも増えるように働き、また、その中に入った人がそこにしっかりとどまれるように支える、ということです。これこそが神の愛の実現です。祈り求める事柄が、こうした神の御心に沿うものであれば、これは神としても聞き遂げないわけにはいきません。それですから、私たちとしては、神は約束されたことを必ず実行される方であると信頼して、祈りを絶やさないようにしなければなりません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
5月10日の聖書日課 ヨハネ15章11-17節、使徒言行録11章19-30節、第一ヨハネ4章1-12節
今日の聖書は、有名な「ぶどうの木と枝」のたとえ話です。1節を見ますと、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあります。ここで、イエス様御自身のことを、「まことのぶどうの木」と言われています。バークレーという神学者が、この「まことの」と、いわれている深い意味について、まず指摘しています。
旧約聖書では、イスラエルは「ぶどうの木」として描かれています。あるいは「神のぶどう畑」として、描かれています。イザヤはイスラエルを、「主のぶどう畑は、イスラエルの家である」と言っています。(イザヤ書5章1~7節)エレミヤは、2章21節で「わたしはあなたを、すぐれたぶどうの木として植えた」と言っています。エゼキエル書15章では、イスラエルをぶどうの木にたとえています。ホセア書は、10章1節に「イスラエルは、実を結ぶ茂ったぶどうの木」である、と述べています。詩編80篇8節で詩人は、「あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出された」と詩っています。
このようにぶどうの木は、実際にイスラエル民族の象徴となっていました。ぶどうの絵が貨幣の紋章として使われたり、神殿の壁書に描かれたりしています。まさにぶどうの木は、ユダヤ人の表象でありました。ところがイエス様は、ご自分こそ正真正銘の、まことのぶどうの木である、と述べておられるのです。旧約聖書では、ぶどうの木の表象は、いつも堕落の概念と一緒に用いられている、ということです。イザヤの描写の中心は、ぶどう畑が荒れはててしまった、という点です。エレミヤは、イスラエルが野生のぶどうの木に退化してしまったことを、嘆いている。ホセアは、イスラエルが偽りのぶどうの木であると、叫んでいるのです。
そこでイエス様は、実際、次のように言われているのです。「あなた方は、イスラエルの民族に属しているから、神のまことのぶどうの木である、と考えている。或は又、あなた方はユダヤ人だから、神の選びの民の一員と考えている。そのように血筋や出生や国柄のゆえに、神のぶどうの木の枝であるというふうに考えているが、とんでもない!のだ。まことのぶどうの木の枝は、民族ではない。イスラエル民族は、預言者たちが言ったように、堕落したぶどうの木である。まことのぶどうの木は、このわたしである」。
あなた方がユダヤ人である、という事実が、あなた方を救うのではないのだ。
わたしと親しい、生きた交わりを持ち、わたしたちを信じることだけが、あなたを救うのである。
なぜなら、わたしは神のぶどうの木であり、あなた方は、わたしにつながれれいる枝でなければならないからである。神の救いに至る道は、ユダヤの血筋ではない。イエスを信じる信仰であると、イエス様は断言されているのです。
さて次に、2節以下を見ますと「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように、手入れをなさる」。この後、3節以下は一貫して、一つの事に集中して語られています。つまり、ぶどうの枝が木につながれていなければ、実を結ぶことができない。
ぶどうの木は、パレスチナ全域で栽培されていましたから、だれでもよく知っていました。よい実を得るには、よく手入れをしなければ、よく実らないこともわかっていました。まず大切なことは、よい土をつくること。荒れ果てたやせた土からは、甘く太い、よい実はみのらないでしょう。念入りに土壌を良くする。次に大切なことは、ぶどうの木は非常な勢いで繁っていくので、徹底的な刈り込みが必要であることでした。実らない枝は、木の力を浪費させてしまうので、徹底的に容赦なく、切り落とされてしまう。イエス様は、こうしたこともよくご存知でした。それで、このぶどうの木が豊かに実るための手入れのことまで、たとえとして語られています。
このたとえで、ぶどうの枝はイエス様の弟子たちのこと、そして又言い換えると、イエス様を信じているすべてのキリスト者、私たちです。そして、そのことは、教会のことでもあります。ですから私たちも弟子たちも、農園の主人である父なる神様は、実らない枝は容赦なく切り落とされて、火に焼かれるだけである。そのように教会は、刈り込まれをされるのだ、ということを言われる。6節をみますとよくわかります。だから、最も大切なことは、5節で言われているように、「人がわたしにつながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」イエス様とつながっていなさい。
ここで言われていることは、いつもキリストの中にいる、ということ。それで神の愛に生きることになる。それで、キリスト者はイエス様を信じて、キリスト者の友人との交わりの中に、あり続けることが、つながっていることなのです。イエス様の生涯は、いつも、父なる神との交わりでありました。イエス様は、いく度も神との交わりを求めて、さびしい場所に退いて祈られた。十字架の前のゲッセマネの祈りは、大変な祈り、父なる神とのあつき交わりでした。霊の世界の深い語らいであったでしょう。
イエス様は、いつも神の中に生きておられたのです。そのように又、私たちも、イエス様との交わりを続けることが必要です。一日たりともイエス様を思わず、その臨在を感ぜずにすごしては、ならない、ということです。朝の祈りで2~3分であっても、その祈りが、その日一日の、神の守りの働きとなります。キリストに接する時、私たちは悪に向かうことはできない。偽りも、憎しみも、ののしりも、敵意も、そこにはない。キリストの中にある、ということが言葉に表わしがたい、神秘的な体験となって、毎日の生活の中で祈りとなっていく、静かな神様との交わりの時をもつことになります。
7節以下のイエス様を読んでみましょう。あなた方が、わたしにつながっており、わたしの言葉があなた方の内に、いつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる。あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は、栄光をお受けになる。9節、「父がわたしを愛されたように、わたしも、あなた方を愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
神様が、私たちに要求なさっておられることを、ひとことで言うとするなら、「私にとどまっていなさい」ということです。ヨハネの第一の手紙2章5節には、さらにくわしく書かれています。
2章5節「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には、神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが、神の内にいることが分かります。」
4節の終りには、力強いことばがあります。神の言葉が、あなた方の内に、いつもあり、あなた方が悪い者に打ち勝ったからである。
10節、「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人には、つまづきがありません。」この、とどまっていることは、具体的には、「神のめぐみ」にとどまっていることなんです。神の恵みは、どんな中で実行されるのでしょうか、というと、一つは信仰にとどまっている中で、神の恵みは起こされます。二つには、キリストの教えにとどまっている中で、神の恵みはなされるのです。三つ目には兄弟愛にとどまっていることの中で、神様の恵みはなされるのです。私たちは教会の礼拝の中で、聖書の言葉を聴き、神の恵みの中に生かされて、神の栄光をあらわしていけますように、ぶどうの幹にしっかりと、主イエスにつながっていきたと思います。
ハレルヤ・アーメン
復活後第四主日 2015年5月3(日)
今日は二つのテーマについてお話ししたく思います。一つ目は、本日の福音書の箇所でイエス様が、ペトロがどのような死に方をするのかを預言していますが、この福音書の記者ヨハネはその死に方を神の栄光を現すものと解説しています。この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛するとはどういうことか、という本日の説教題に直接かかわることです。それでは、まず「神の栄光を現すこと」についてみていきましょう。
キリスト教の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちはない、と兵隊たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。本日の箇所にあるイエス様の預言「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ21章18節)、これは、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、十字架刑に処せられることだな、とわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわかりにくいものだったでしょう。福音書記者ヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのです。こうしてみると、ヨハネがいったん20章で書き終えた福音書にどうしても21章を付け加えたくなった理由が見えてきます。ペトロ殉教の報に接して、イエス様の預言を書き記さないではいられなくなったのであります。
さて、ペトロの殉教の死は、ヨハネが19節で解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは、私たちをしばし考えさせます。神の栄光を現すというのは、これくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されない、ということです。私たちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちた方であります。それならば、私たちが神の栄光を現す、というのはどういうことでしょうか?
それは、動かすことのできない神の真理を、私たちが自分の生き方を通して人前で証しし明らかにすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、私は次の三つの者である、と答えることです。三つの者とは、まず、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答えること。次に、その造り主が送られたひとり子イエス・キリストの身代わりの死によって罪と不従順の奴隷状態から解放された者である、と答えること。三つ目は、この世の人生の向こうで永遠に造り主のもとに戻ることができる道を今歩んでいる者である、以上のことを胸をはって答えることです。何も問われない時は、そのような者として胸をはって生きるだけです。
このような神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。神の真理を取り下げないと命はないぞ、という時代だったら、この世の人生の終わり方は殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?また、自分は造り主が送られたひとり子の身代わりの死によって罪の奴隷状態から贖われたということをどうして取り下げられましょうか?そして、自分は贖われた者として永遠に造り主のもとに戻ることができる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは自分の生きた時代状況のなかで、「取り下げない」生き方をしたら一巻の終わりになるのに、それを貫いてこの世の人生を終えたのであります。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのであります。私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理を取り下げない生き方をしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?「イスラム国」のようなところでなければ、命を落とすことはないでしょうが、それでもいろいろ不自由を感じたり窮屈な思いをすることがあるのではないかと思います。でも、それが神の栄光を現わすことになるのです。
次に二つ目のテーマ「イエス様を愛するとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペトロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペトロに同じ質問をしたことは、ペトロがイエス様のことを人前で三度拒否したことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみていきます。 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペトロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωという動詞を使いますが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωという動詞を使います。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になると今度は、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じ動詞フィレオ―で聞きます。そしてペトロは、フィレオ―で答えます。ここで、この二つの動詞の違いを見てみましょう。
「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背景に退きがちになるからです。あるフィンランド人の牧師先生が言っていたのですが、日本で中学生の女の子ばかりが集まる聖書の学びの会で、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちはみな顔を下に向けてくすくす笑い出したということです。
古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。本日の箇所のペトロの答え「愛しています」に出てくるフィレオーφιλεωという動詞は、この兄弟愛、同志愛、人間愛に結びついた愛です。
それでは、イエス様が聞く時に使った「愛する」アガパオーαγαπαωはどんな意味があるのでしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範として弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーαγαπαωです。それでは、イエス様が弟子たちを模範的に愛する愛とはどんな愛でしょうか?15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーαγαπαωも名詞のアガペーαγαπηも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことが関係してくることが明らかになります。
そこで、自己犠牲をも厭わない愛の形という場合、それは誰による誰のための何のための犠牲かということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」は、アガペーαγαπη、アガパオーαγαπαωです。ここから明らかなように、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形は、神の愛に特有な愛、神に由来する愛です。その愛の内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪に陥ったために死ぬ存在となり、造り主である神と造られた人間との間に深い断絶が生じてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるように、万が一この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻ることが出来るようにと、それでひとり子イエス様をこの世に送りました。もし人間が罪と不従順を背負い続けてしまったら、この世から死ぬ時にその重みで滅びの世界に落ちてしまいます。そこで、神はイエス様に人間の罪を全て請け負わせて、十字架の上で滅びの罰を全て人間に代わって受けさせました。それだけに終わらず、死んだイエス様を今度は復活させることで、永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。永遠の滅びから救われるために人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて整えた救いをただ受け取ることだけです。イエス様を自分の救い主と信じて、洗礼を受けることで受け取りは完了となります。
さて、イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様は、ペトロに神由来の愛の形で「愛しているか」と聞きました。ペトロはどうしたかというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛、つまり人間に由来する愛の形で「愛しています」と答えました。たとえ他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、と言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲などからほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。かと言って、主を愛してやまないことも偽りのない真実である。そんなジレンマのゆえに、ペトロが神由来の愛を避けて人間由来の愛をもって答えたことが窺われます。イエス様はペトロに、「お前は神由来の愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間由来の愛ですが」と答えるのです。イエス様は二度同じ質問を繰り返し、ペトロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神由来の愛の形のアガパオーαγαπαωを使わず、ペトロと同じ人間由来の愛の形フィレオーφιλεωを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間由来の愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応と答えには彼が窮地に陥ったことが窺われます。
(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、イエス様ご自身が目撃者、証言者として働くべく選んだ者たちです。それゆえ、そんな使徒を信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト教信仰の基本です。)
さて、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペトロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペトロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様を救い主と信じる者たちが信仰をしっかり携えてこの世を道を歩めるように彼らを守りかつ指導しなさい、つまり牧会しなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様からあずかって牧会するのですから、その責務ははかりしれないものがあります。ペトロにこのような責務を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。
それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様はペトロの愛を三度も確認させたのか?それは、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということを強調したかったからであります。それでは、イエス様に対する愛が牧会の土台を成すという場合、その肝心なイエス様を愛するというのはどんな愛なのでしょうか?
イエス様を愛するとは、神由来の愛、アガパオーαγαπαωアガペーαγαπηの愛で愛することですが、この愛は人間が自分の力で持つことはできません。これは、先にも申し上げたように、人間の自然に由来する愛の形とは異なる神由来の愛の形だからです。男女間の情愛・性愛、兄弟愛、同志愛、人間愛というものは、人間が自分は神に造られたということを知らなくても、またイエス様に罪の奴隷状態から贖ってもらったことを知らなくても、持つことができる愛の形です。人間に先天的に備わっているとも言えるし、また後天的に生まれ育った文化や伝統や国の中で形作られてくるものもあります。東日本大震災で何十万のボランティアが復興支援のために東北に赴きました。彼らの大部分はキリスト教徒でない人たちです。キリスト教徒でなくても、兄弟愛、同志愛、人間愛を持つと言うのは何の不思議もないことです。
しかしながら、そうした人間由来の愛は、造り主である神と造られた人間の壊れた結びつきを回復して、人間を神のもとに戻す力はありません。そのような力を持つのは神由来の愛しかありません。しかし、神由来の愛は、神からいただかないと持つことができません。人間に先天的に備わっていないし、国や文化や伝統がつくることもできません。どうすればそれを持つことができるのか?それは、先ほども申し上げましたように、神がひとり子イエス様を用いて人間の救いを整えられたということを聞いて、それが自分のためにもなされたのだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることを通してです。
イエス様は、こうして神由来の愛を受け取った私たちも同じアガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形で愛するよう命じられます(ヨハネ13章34節、15章12節)。ただしそうは言っても、これは、人間を罪の奴隷状態から贖ったイエス様と同じような犠牲の業をしろ、ということでは全くありません。それは既に神のひとり子が実現したので、新たな犠牲はもう必要ありませんし、そのような犠牲は私たち人間が出来ることではないのです。他方で、イエス様が払った犠牲と異なるレベルですが、私たちが払わねばならない犠牲もあります。それは隣人愛の実践においてです。もし隣人がキリスト信仰を持つ人である場合、その方が既に受け取った救いを失わないように助けることにおいて、自分の持てる力や時間を多く割かなければならない時がある、ということを肝に銘じておきましょう。それでは、隣人がキリスト信仰を持たない人の場合はどうでしょうか?それは、その方が私たちと同じ救いを受け取ることができるようにと助けることにおいて、自分の持てる力や時間を多く割かなければならない時がある、そのこともあわせて肝に銘じておきましょう。ルターは、そのような隣人愛の実践において、財産や命を失う可能性もあることを覚悟せよ、と言っています。
信仰と洗礼を通して私たちは、神由来の愛、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛を持って生きることになります。他方で、人間が自然に持っている愛の形も、私たちが肉をまとって生きる以上は残り続けます。人間由来の愛を打ち消して、全てを神由来の愛に置き換えることは不可能です。実はそれが問題なのではなく、問題は、人間由来の愛を神由来の愛がいかに方向付け秩序立てていくかということにあります。例えば、男女の情愛や性愛というものも、人間を男と女に造った神の創造の趣旨をしっかり踏まえれば、夫婦の絆を強めるという大切な役割を持っていることが明らかになります。逆に、神の創造の趣旨をわきまえなければ、情愛や性愛は方向性を失い無秩序になる危険があります。これは、この世で私たちがよく見聞きすることです。
さてイエス様は、彼を愛する人は彼の教えたことを守る人であると言います(ヨハネ14章21、23節)。イエス様の教えを守ることが彼を愛することになるというのは、結局のところ、人間が神由来の愛を受け取って、それに基づいて人間に由来する愛を方向付け秩序立てていくということになるでしょう。
最後に、私たちは信仰と洗礼を通して神の愛を受け取ったとは言いますが、この世では私たちは肉をまとって生きていますから、神由来の愛の形をもって愛そうと思っても、またその愛で肉の欲するところを方向付けたり秩序立てたりしようとしても、いつも間に立たされて、失敗ばかりします。神を全身全霊で愛さなかったり、隣人を自分を愛するが如く愛さなかったりする自分に直面します。失敗の連続でしょう。しかし、そのような時はいつも、罪の奴隷状態からの解放が実現したゴルゴタの十字架に心の目を向けましょう。「罪の赦しの救い」はそこで完全に打ち立てられ、天地創造の神の後ろ盾の下、微動だにしていないのです。
加えて、私たちが洗礼を通して受け取った救いは、私たち個人の思いや感情や動向如何に全く関係なく、全く微動だにせず私たちをしっかり支えてくれるものであるということを、聖書の数多くの御言葉から体得しましょう。例えば、イザヤ書54章10節で神は次のように言われます。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと」。私たちが微動だにしない神の「罪の赦しの救い」の中にしっかりとどまれていることは、聖餐式で受ける主の血と肉を通して体得されます。このことも忘れずにこの世の人生の歩みを共に歩んでまいりましょう。
主日礼拝説教(八王子教会)2015年4月26日 復活後第三主日
4月26日の聖書日課 ヨハネ21章15-19節、使徒言行録4章23-33節、第一ヨハネ3章1-2節
本日は、中央線沿線7教会による講壇交換日なので当教会は八王子教会の中川俊介牧師をお迎えしました。吉村宣教師は八王子教会にて礼拝の奉仕をされました。
「愛の失格者」 ヨハネ21:15-19
今日は復活後第3主日です。教会の暦では、イースターから40日後の昇天日まで復活のお祝いが続きます。フィンランドの歌で「毎日クリスマス」という歌があるそうですが、この40日間は「毎日イースター」の時です。古い教会の暦では、今日の主題が喜び、来週は、賛美、次が祈りと決まっていました。この喜びについて、ルターは述べています。「私たちは自分では罪とか、死とか、一切の否定的な感覚をもつことがあるけれども、神の憐れみの子として、信じなければいけないことがある。それは私たちが全く罪のないものとされたことである。」それが喜びの理由です。
ただ、誰もが罪の赦し、罪のないものとされたことをすぐに信じたり、体験できたわけではありません。イエス様の一番弟子のペトロだってすぐに信じることができたのではありません。
では、今日の日課を見てみましょう。ペトロはイエス様が十字架につけられる前に、3度、「あなたも弟子でしょう」と尋ねられて、3度イエス様を知らないと否定しています。今日の箇所では復活されたイエス様から、同じように3度、私を愛しているかと尋ねられます。この中でイエス様は最初の二回はアガペーという言葉、「あなたは私を無条件の神の愛で愛するか」という動詞を用いて尋ねています。それに答えるペトロはフィリオスという「親や兄弟のように慕っています」という動詞で答えています。でも、三度目にイエス様がペトロの立場に降りてきてくださった。そしてペトロが答えたと同じ動詞で「あなたは私を親や兄弟のように慕っているかい」と尋ねました。すると彼はおそらく自分が3度もイエス様を知らないと否定した自分の罪のことを、痛みと悲しみの中で思い出したのです。わたしたちの場合はどうでしょうか。
ある家族では、父親が早くなくなり、母親が苦労して二人の息子を育てたそうです。ところが子供たちが成人し、結婚して家庭を持つと、母親に言ったそうです。「お金はあげるけど会いには来てくれるな。」なんと冷たい言葉でしょうか。ただ、冷静に見ますと、人間関係は相互的なものです。母親の方も、忙しさのあまり息子たちが小さい時に、十分に愛を注がなかったかもしれません。あるいは生活の苦しさとストレスを子供たちに当てつけて厳しすぎたのかもしれません。相手を非難しているときは悲しくはないのですが、「お金はあげるけど会いには来てくれるな。」などと平気で言える子供を育ててしまった自分の失敗を思うと悲しくもなるでしょう。わたしたちにもペトロの悲しみはわからなくもないといえるでしょう。
それにもかかわらず、イエス様は裏切り者であったペトロを信じることをやめません。そして彼の目線におりてきて「あなたは私を無条件の神の愛で愛するか」という高度な質問ではなく、「あなたは私を親や兄弟のように慕っているかい」とわかりやすく慰めてくださったのです。これこそ罪ある者を受け止める愛だとわたしは思います。「わたしは不従順で反抗する民に、一日中手をさしのべた」(ローマ10:21)と書いてあるとおりです。それでなければ、神の真実の愛は実証されないでしょう。人間の弱さ、卑怯さという泥沼にしか真実の愛の花は咲かないのです。
真実の愛といえば、昔、ある若い牧師が伝道の意欲に燃えて地方の教会に赴任しました。若いころのペトロのようでした。自分が神の愛の伝道者だと疑うことは決してなかった。ところがその地で伝道は苦しかった。赤ちゃんも生まれたが、奥さんはあまりの生活の苦しさに病気になってしまった。病院で治療を受ける金もない。祈る力もなくなった。教会の仕事もできない。そんなときが長く続いた。自分はもう力がない、試練を越えられない、駄目だと思った。しかしあるとき祈れないで泣いていると、思わず言葉が出てきた、「罪深い私を憐れんでください」それまで彼は、若き日のペトロのように自信に満ちていた。自分が罪深い存在だとは思ってもみなかった。しかし、自分は愛の失格者だとわかった。すると今まで考えてもみなかった「罪深い私を憐れんでください」という言葉が真心から言えるようになった。そしたらあれほど重かった気持ちが慰められ、軽くなった。悲しみのかわりに喜びがでてきた。まさに罪と死の力から解放されたのです。
ペトロも同じだったでしょう。自分が他の誰よりも主を愛している、自分が一番仕えている、そう思い、他の人々を見下していた、それらのことがまさに罪だったとわかったのです。私たちの思い上がりが砕かれるとき失格者でとなり、「憐れんでください」としか言えません。それが生まれ変わりです。失格者こそ神の国の合格者です。復活です。イエス様の復活の体験は、古い自分が愛の失格者だと知ることです。そしてこの失格者をイエス様は信じてくれて、十字架の犠牲、「無条件の神の愛」で贖ってくださったと知ることです。それをペトロは知りました。17節には、知るという言葉が2度でています。イエス様が「ご存じ」であること。ペトロの愛を知っていること。言葉の意味は幾分違います。「ご存じ」というのは直感的に知ること、後の「知っている」はギリシア語のギノースコーであって、段階的・経験的に知ることです。ですから、イエス様はすべての成り行きを以前から既に知っておられ、ペトロが自分の失敗を通して愛を徐々に知っていったことを知られたというのです。イエス様の認識の先行性が語られています。これを、パウロはローマ書で、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」(ローマ9:16)と述べています。神の恵みが先行するというのが聖書のメインテーマではないでしょうか。
さて、ペトロにイエス様は三度も私の羊を飼いなさいと命じています。実は羊飼いの仕事というのは、評判の良い仕事ではないのです。イエス様の時代に書かれたラビ文学というのがあります。その当時のラビというのは現代の牧師のような仕事です。ラビは羊飼いを、盗人、詐欺師と同じに見ていました。そして書いています。「この世で、羊飼いの仕事ほど、いやしめられているものはない。」社会的に最低の身分だったのです。ですから、イエス様は最低の仕事につきなさい。ひとから侮蔑される仕事でも、それでも神の愛を最後まで逃げないで貫きなさいと命じたのです。
以前、イエス様が、ヨハネ10:11で「私は良い羊飼いである」といったことは、最低の仕事にわたしは喜んで立つよ、という意味をもっています。わたしがそうなのだからあなたも喜んで、一番低い姿をとる羊飼いになりなさい。ペトロに言われた言葉は、ある面で、わたしたち自身もそう言われているのです。
ロシアのドストエフスキーという作家は政治犯としてシベリアに送られて、苦しみの中で新約聖書を読み、ある日の日記にこう書いています。「たとえ、これが嘘であるにしても、自分はこの心を打つ真実なもの、これと一緒に立ったり、倒れたり、生きたり死んだりしたい。」わたしたちもこの羊飼いの羊飼いであるイエス様とともに低い最低の姿で、一緒に立ったり、倒れたり、生きたり死んだりしたいものです。この方の愛の犠牲によって愛の失格者である「私たちが全く罪のないものとされたこと」、を心から信じて。そして、愛の失格者に向けられた神の限りない愛は真実の信仰を生み出し、真実の信仰はあたたかい奉仕を生みだすのです。そして、毎週日曜日、毎日毎日が復活の日、主に仕える喜びの日と変えられるでしょう。
1.先週の主日礼拝の説教で、マルコ16章9-20節は後世の付け足しと考えてはいけない、他の3つの福音書の記録同様に復活されたイエス様が弟子たちに現れたことを伝える大切な記録である、ということを強調して教えました。本日の福音書の箇所が収められているヨハネ21章も、マルコと同じ問題を抱えています。つまり、ヨハネ福音書は本当は20章で終わっていたはずなのに、21章は後で付け足されたのだ、と。どうしてこのように思われるかというと、20章の終わりを見ると、この福音書の結びとして書かれていることがわかるからです。
ヨハネ20章を概観しますと、まずイエス様が埋葬された墓が空であったことが記され、それから復活されたイエス様がマグダラのマリアに現れ、次いで弟子たちの前に二回続けて現れます。そして終わりの30節を見ると、イエス様はこの他にも弟子たちの前で多くの奇跡のしるしを行ったが本書では書かれていない、と断り書きがされます。それに続く最後の31節をみると、この福音書が書かれた目的について述べられます。どんな目的かと言うと、それは、読者がイエス様をメシア救世主、神の子であると信じるようになるためである、そして、そう信じることで読者がイエス様の名において永遠の命を持つことができるようになるためである、という目的です。私たちが、ヨハネ福音書を初めから通して読んで、イエス様をそのように信じることができるようになった時、この目的が達成されたことになるのです。誰がそのような目的を設けたのでしょうか?福音書の記者ヨハネというのは正しくありません。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられる神が、私たちの救いのためにイエス様を送られて、そのことが書物に記されたわけだから、目的の達成というのは、神が設けた目的の達成です。
さて、20章でヨハネ福音書が完結するかと思いきや、「この後、イエスはまた弟子たちの前でご自身を現された」と言って21章が始まり出します。20章で復活したイエス様が現れたのはエルサレムでしたが、21章では場所を変えてガリラヤのティベリアス湖畔になります。ティベリアス湖というのは、ガリラヤ湖のことです。この21章が誰の手による付け足しかということについて、学界でも議論がありますが、原文のギリシャ語の使い方や文体からみて、1章から20章までを書いた人と同一人物と見なしてよく、仮に異なる人だったとしても、福音書記者の直近の弟子が先生の残した証言録を正確に伝えて記したと言えるものです。ヨハネ福音書は一体誰の手によって書かれたかということについては、これも学界では諸説がありますが、本福音書は直接の目撃者が記したのだということが随所に言われているので、12弟子の一人であるのは間違いないでしょう。さらに加えて、あの裕福な漁業経営者(マルコ1章20節)ゼベダイの二人の息子の一人ヨハネであると言っても、何も問題ないという立場を本説教者はとる者です。
2.ヨハネ21章の文章は、20章までと同じように直接の目撃者の証言としての性格がよく出ている文章です。どうしてかというと、創作にしては隙だらけの文章で、むしろ目撃者の狭い視点で生き生きと直接的に語られているからです。以下にそうしたことを見てみましょう。
ペトロが他の6人の弟子たちと一緒にガリラヤ湖で漁をしようということになりました。これらの弟子たちがエルサレムからガリラヤに戻ってきたことは、イエス様の復活を告げた天使が弟子たちにガリラヤに行くように指示したこと(マタイ28章7節、マルコ16章7節、マタイ28章10節ではイエス様が直接指示)が背景にあると考えられます。さて、その夜は何も捕れませんでした。ガリラヤ湖の漁師にとって、夜は最適な漁の時間帯だったようです。ルカ5章でペトロはイエス様に、夜通し頑張ったが何もとれませんでした、と言います。最適な時間帯でもダメな時があるということです。
夜が明けた頃に、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、それがイエス様だとはまだわかりません(4節)。イエス様が復活直後に弟子たちに現れた時も、すぐにイエス様であるとはわかりませんでした。マグダラのマリアは最初、庭師かと思いました。名前を呼ばれて初めてイエス様だと気づきました(ヨハネ20章15節)。エマオに向かう途中の二人の弟子は、一緒に話しながら歩いている男がイエス様であるとわからず、夕食の時、イエス様が賛美の祈りを唱えてパンを裂いた時に、「目が開かれて」イエス様だとわかりました(ルカ28章13-32節)。なぜ、そこまで気づかなかったかと言うと、ルカによれば二人の目が「遮られて」いたからでした(24章16節)。それは、彼らが、イエス様が以前預言していたこと、つまり、自分は処刑されても死から復活すると言っていたことを心に留めていなかったことを、また、死者の復活そのものをまだ信じていなかったことを意味するのでしょう。
イエス様だと気づかれなかった原因は、弟子たちの方だけでなく、イエス様の側にもあったと言えます。マルコ16章13節によると、イエス様は二人の弟子たちに何か「別の姿かたち」(εν ετερα μορφη)で現れたと記されています。復活されたイエス様は、気づこうとすれば気づけるけれども、一見すぐには気づけない何か以前とは異なる姿かたちをしていたことが窺えます。ルカ福音書やヨハネ福音書では、復活したイエス様が鍵をしめた家の中に突然入って来られます。弟子たちは亡霊だと言ってパニックに陥りますが、イエス様は「亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」と言って、弟子たちに手足を見せたり(ルカ24章39-40節)、わき腹に触れさせたりします(ヨハネ20章27節)。亡霊とか人間とかいう範疇ではくくれない、想像を超えた姿かたちとして復活の体が存在するのであります。イエス様自身、マルコ12章25節で、死者の中から復活する者は「天使のようになる」と言っています。空間を超えて移動する様は、さながら天使そのものです。使徒パウロは、復活した体は朽ち果てることのない輝きと力に満ちた体だ、と言っています(1コリント15章42-43節)。ちなみに、私たちも復活の日に死者の中から復活させられる時は、そのような体を与えられるのです。
以上のように、気づこうとすれば気づけるのだけれども、見る方の不信仰も手伝って、すぐには気づけない何か以前と異なる姿かたちがある、そんな姿かたちを復活のイエス様はとっていた。それで、弟子たちは、すぐにイエス様とわからなかったのでした。それと同じことが、ガリラヤ湖でも起きました。弟子たちは、湖岸に現れた男をイエス様とはわかりませんでした。それが、イエス様とのやりとりを通して最後にわかるようになります。どんなやりとりがあったのかをみてみましょう。
イエス様は弟子たちに、「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞いていますが、ギリシャ語の原文で「子たちよ」というのは、実は複数の男たちを相手に呼びかける言い方です。それで、日本語訳のように直訳せずに、「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語の原文の形は、「ありません」と否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。それなので、本当は、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。つまり、ここは、「君たち!君たちには何も食べる物がないんだろ?」となります。「ないんだろ?」と聞かれた弟子たちの答えは、「そうだよ。ないんだよ」となります。答えを受けてイエス様は、「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドヴァイスします。日本語では「そうすればとれるはずだ」ですが、正確には「見つかる」です。何が見つかるかというと、「食べる物」です。
このやりとりから推測するに、弟子たちは天使の指示通りにガリラヤに戻ってはきたものの、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は自分たちが処刑された男の弟子であるとは公にしにくい状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまった。自分たちで食べ物を探すしかないという状況になってしまった。弟子たちは、空腹だったでしょう。主は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかる、と助言しました。そして、食べる物は見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。
まさにこの時、かつてガリラヤ湖の湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が、ペトロの記憶に蘇ったでしょう。それは、ルカ5章1-11節に記述されている出来事です。「あの時、主は舟に乗って岸辺の群衆に教えを宣べられていた。教え終わった時、主は私に網を下ろすように命じられた。私は、夜通しやってみたが何も捕れなかったと言ったのだが、主がおっしゃるのでその通りにした。すると、網には船が沈まんばかりの魚がかかっていた。それと、同じことが今また起きた。あの湖岸に立つ男は、実は主なのだ。」 そう思うや否や、この福音書の記者であるヨハネが、同じ結論を真っ先に口にします。「主だ!」ペトロは、復活の主にまた相まみえるべく、湖に飛び込もうとしますが、その瞬間、ほとんど裸同然であることに気づきます。これでは光栄ある謁見に相応しくない。すかさず上着をつけます。そして、せっかくの身なりが台無しになるのも意に介さず、上着のまま湖に飛び込みます。これなど、誠にペテロの性格がよく現れている出来事です。記述のリアリズムが溢れているところです。
ペテロは先に岸に泳ぎ着きました。少しして舟が魚で一杯の網を引きずって到着しました。その間、イエス様とペテロの間にどんなやりとりがあったかは記されていません。本福音書の記者ヨハネはまだ舟に乗っているので、やりとりを聞いていないわけです。このことがまた、この箇所が目撃者の視点で書かれていることを示しています。もちろん、ヨハネが後日ペトロに、あの時どんなことを話していたのか、と聞き取りしていれば、それを加えることも出来たでしょうが、それはなかったのであります。ない以上は、書きようがなく、それでここは空白にならざるを得ないのです。こういうわけで、ヨハネ福音書に限らず、他の福音書や使徒言行録の目撃者の証言録はできる限り尊重しなければなりません。現代人の感覚にあわないものは、すぐ、これは創作だ、と決めてかかる態度は出来る限り、信仰者であればなおさら控えなければなりません。
こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。弟子たちは疲労と空腹がかなりあったでしょう。イエス様は、弟子たちに「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主に今まさに必要としているものを整えてもらって、弟子たちの得た安堵はいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい、励まし、力づけることはイエス様の御心です。かつて、12弟子たちが宣教旅行から帰って来た時、イエス様がまっさきにしたことは、彼らを休ませることでした(マルコ6章31節)。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)とはまさに主の御心なのです。
3.以上、本日の福音書の箇所は、福音書記者ヨハネの目撃したことに基づく出来事の生き生きした記述であることをみてきました。ここから先は、この箇所が読者である私たちの信仰にとって、どんな意味があるかをみてみたいと思います。
本日の箇所の出来事は、イエス様を救い主と宣べ伝える者にとって大きな意味があります。弟子たちは、夜通し網を打っても何も捕れませんでした。疲労と空腹が高まった時、主が助言して、それに従うと、予想を超えた成果を得ました。そして、主に疲労を癒してもらい、空腹を満たしてもらいました。主が用意されたのは朝食でしたので、それを食べて元気をつけたらまたその日の務めに向かいなさい、そういうひと時を整えて下さったのです。網を打って魚を捕ることは、福音の宣べ伝えを暗示しています。本日の箇所に出てくる153匹の魚の153という数字は、当時世界中の魚の種類は全部でそれだけあると考えられていたという説があります。それで、153匹の魚が網に入ると言うのは世界の全ての民族が福音を信じるようになったことを意味するのだと解釈する人もいます。この説の真偽はここでは吟味いたしませんが、いずれにしても、イエス様は漁師ペトロとアンデレを弟子にする時、「人間を捕る漁師にしてやろう」と言っているので(マルコ1章17節)、網を打って魚を捕ることは、福音の宣べ伝えを暗示しているのです。そのため、本日の箇所は、宣べ伝えで一生懸命労苦しても誰も福音に耳を傾けてくれず心も向けない、ひどい時は悪口を言われたり追い出されたり、昔なら迫害を受けてしまうこともある。ただただ疲労に疲労を重ねるだけの時期がある。場合によっては食に窮することもある。ところが、ある時、主の助言があり、それに従うと予想もしない成果が現れることがある。そして、主は疲れた心と体を癒しねぎらってくれて、再び宣べ伝えに出ていく力をつけてくれる。そういう福音の宣べ伝えの現場のサイクルが見事に暗示されています。このことを本日の箇所から学ぶことができます。
さて、主の助言がある、と言う場合、私たちはいつどこでそれを聞くことができるのでしょうか?復活されてから天に上げられるまでの40日間、イエス様は弟子たちに現れて、彼らを教え、また強めました。私たちには同じような形で主は現れません。しかし、そのかわりに私たちには、主に助言を求める拠りどころとして聖書があります。聖書には、イエス様が教えたこと、なさったことが目撃者の証言をもとに収められています。さらに、イエス様をこの世に送られた天と地と人間の造り主である神の私たちに対する御心が明らかにされています。神は、堕罪の出来事で死む存在となってしまった人間が、再びご自分のもとに永遠に戻ることが出来るようにと望まれました。そこで、その妨げになっている罪と不従順という私たちの汚点の重荷を全てイエス様に請け負わせて、その罰を全てイエス様に十字架上の上で受けさせました。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を「赦す」というやり方をとって、人間に新しい人生の道を開いて下さいました。このような神の愛と恵みを受け取った者の信仰と人生とはいかなるものか、ということについても聖書は詳しく教えています。このように聖書は、私たちにとっては主の助言の大切な源であります。
それから、福音の宣べ伝えに携わる者というと、それは牧会者や宣教師にのみ関係すると考えられそうですが、これは異なる仕方で信徒にもかかわっています。イエス様は、彼を救い主と信じる者は、神を全身全霊で愛するように、と、また隣人を自分を愛するが如く愛するように、と教えられました。神を全身全霊で愛するというのはどういうことでしょうか?それは、人間が罪と死の囚われ状態から解放されて、神との永遠の結びつきをもって生きられるために、御自分のひとり子を犠牲にまでした神の愛と恵みにただ感謝して、その愛と恵みの中にしっかりとどまって生きようとすること、その結果、そのような神の意思に沿うようにするのが当然と志向することです。
隣人を自分を愛するが如く愛するというのは、神がこの救いようのない自分に対して多大な愛と恵みを持って接して下さったように、自分もまた、どうしようもないと見える隣人に対して愛と恵みを持って接するということです。接する際に、隣人にもなんとか神の愛と恵みが及ぶようにし、いつかはその中に入ることができるようにすることを目指すのが隣人愛です。もし隣人が同じキリスト信仰に生きる人であれば、その人が神の愛と恵みにしっかりとどまって、永遠の命に至る道を踏み外さないで歩めるように助けあい支え合うことです。もし隣人がキリスト信仰を持たない人であれば、神の愛と恵みの中にとどまる者としてその方に接しつつも、いつかは同じ道に歩みを共にすることができるようにと神に祈り願い、機会が与えられれば、聖霊の助けを得て神の愛と恵みを証すること、これが神の望まれる隣人愛です。こういうわけで、信徒も、牧会者や宣教師とは異なる仕方ではあっても、日常生活の場面で福音の宣べ伝えに深くかかわっているのです。
最後に、先ほど見た福音の宣べ伝えのサイクルでひとつ忘れてはならないことがあります。それは、主は、牧会者・宣教師であろうと信徒であろうと宣べ伝えに携わる者を見捨てないということです。残念ながら、困窮や苦難そのものは消滅しません。というのは、この世はその性質上、造り主を忘れさせる自分中心主義や、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義から抜け出ることができないからです。従って、この世を超える永遠と造り主に目を向けさせる福音に対して、この世が敵対するのは避けられません。しかし、私たちが困窮や苦難に陥っても、主はそのことを知らないということはありません。本日の箇所でもイエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っておられ(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)、その時に現れました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を回復して新しいスタートを切れるよう力づけて下さると本日の箇所は教えています。そのことを忘れないようにしましょう。本日の箇所以外にも聖書には、神は決して見捨てないとの教えが沢山あります。この世の人生の歩みで、神が果たして私のことを心に留めておられるのか、と心配になり弱気になることが多々あります。それでも、洗礼を通して神との間に絆が築かれたこと、その絆が聖餐式で受ける主の血と肉によって固く保たれること、これらは私たちの弱い感覚や感情がどう感じ、どう思おうが、神の目からみたら揺るぎのないものであります。そのことも忘れないようにしましょう。
主日礼拝説教 2015年4月19日 復活後第二主日 聖書日課 ヨハネによる福音書21章1-14節、使徒言行録4章5-12節、第一ヨハネ1章1-2章2節
1.聖書は聖霊のコントロールが働いて出来たもの
イエス様の復活は本当にあったのかどうかという問題は、それについての福音書の記述が信頼できるものかどうかという問題に結びついています。そこで、復活についての記述そのものに問題があり、それがその信ぴょう性を揺るがしていると見る人たちが大勢います。本日の福音書の箇所があるマルコ16章9-20節も問題ありと見なされる記述の一つです。何が問題なのかというと、16章9-20節は、もともとマルコ福音書が16章8節で終わっていたのに、後で付け足して書かれたものと見なされるからです。つまり、マルコ1章1節から16章8節までが本当のオリジナルのマルコ福音書で、その後は誰かがイエス様の復活を本当のことのように見せたいために、もともと空っぽの墓で終わっていた福音書に、姿をとって現われたイエス様のことを付け加えたのだ、と言うのであります。もっともらしく聞こえますが、事実はそう単純ではありません。
そういうわけで本日の説教では、最初にこのマルコ16章9-20節の信ぴょう性について少し考えてみたいと思います。その次に本日の主題である信仰と洗礼についてお話ししたいと思います。第一部と第二部に本日の説教は分かれることになります。第一部は、ひょっとしたら大学の講義みたいに聞こえてしまうかも知れませんが、実はその結論で述べることが第二部のお話の大前提になるので避けて通れません。申し訳ないですが、少しの間ご辛抱下さい。もっとも、大学の講義みたいになるとは言っても、普通、大学の神学部の授業だったら、マルコ16章9-20節は付け足しだったと教えるのが多いのではないかと思います。その意味では、第一部は、大学の講義みたいにはならないでしょう。
まず、マルコ1章1節から16章8節までがオリジナルのマルコ福音書であったということがどうしてわかるのか、という問題があります。マルコ福音書は4つある福音書の中で一番古いと見なされ、西暦70年にローマ帝国の大軍がエルサレムを徹底破壊する直前ないし直後に書かれた、というのが学界の多数派の見解です。(なかには、西暦30ないし40年代に書かれたという研究者も若干います。)しかしながら、オリジナルのマルコ福音書は現存していません。私たちが目にすることができるのは、オリジナルの後に出て来た手書きのコピーだけです。15世紀のグーテンベルグの活版印刷術までは、本は手書きでコピーされていました。新約聖書の中にある書物の手書きコピーは地中海世界のあちこちで発掘され、今では主として欧米諸国の博物館や大学の図書館に保存されています。発見された新約聖書の手書きコピーの中で一番古いものは、西暦200年代のものです。そういうわけでマルコ福音書は、オリジナルは言うに及ばず手書きコピーにしても、本が生まれてから少なくとも150年位の間のものは発見されていません。さらに注意すべきことは、マルコ福音書の年代の古い手書きコピーをみても、どれも完全からは程遠い一部分しか残っていないものばかりです。西暦300年代、400年代以後になると完全に近い形のコピーが出てくるようになります。古い断片的な手書きコピーを土台にして、オリジナルのものを「復元」しようとする努力がなされてきました。(現在、ギリシャ語の新約聖書としてよく用いられるNovum Testamentum Graecaeはそのような復元作業の成果であります。)
今ここで問題となっているマルコ16章9-20節は、古い手書きコピーには入っていませんでした。西暦700年代、800年代のコピーの中に入っているものが見つかりました。このようにこの箇所は、見つかった年代が遅いために、後世の付け足しであるという見解を強めています。しかしながら、西暦200年代の手書きコピーになかったとは確実には言いきれないのです。なぜなら、その年代の発見された手書きコピーは、どれを取っても福音書の一部分しか残していないからです。残っていない部分にどんなテキストがあったかはわかりません。さらに忘れてはならない大事なことが一つあります。それは、イレナエウスという西暦100年代後半に活躍したリヨンの教会指導者が、他でもないこのマルコ16章9-20節を引用しているのです(この引用の事実は4世紀終わりに由来する引用のラテン語訳から知ることができるのですが)。そうなるとマルコ16章9-20節の起源は、一気に西暦100年代後半に遡ります。これで、700年代の手書きコピーに出てくるから、その年代に書かれた付け足しであるという説は成り立たなくなります。
付け足し説にもう少しお付き合いするとして、マルコ16章9-20節は西暦100年代半ばに書き足された、しかし、オリジナルのマルコ福音書はやはり16章8節で終わっていた、と主張してみます。ところが、先ほど申しましたように、マルコ福音書はオリジナルは言うに及ばず、手書きコピーも西暦100年代のものは発見されていません。付け足しかどうかということは、その年代のコピーを発見して確認しないと確実なことは言えないのです。
マルコ16章9-20節がもともとのマルコ福音書になかったと疑うもう一つの根拠として、マルコの記述の仕方がマタイ、ルカ、ヨハネの他の三つの福音書の記述を要約したもののように見えるということを挙げる人もいます。つまり、付け足しを書いた人がマルコ福音書より後に出た三つの福音書を読んで、イエス様が人々に姿を現した出来事の部分をそれぞれ要約してつなぎ合わせて、マルコ福音書の終わりにくっつけた、というのであります。例えば、マルコ16章9-11節はイエス様がマグダラのマリアに現れた記述ですが、これはヨハネ20章14-18節にある詳細な記述の要約と見なされる、と。またマルコ16章12-13節にある移動中の二人の弟子にイエス様が現れたという記述は、ルカ24章13-35節にある有名な「エマオの道」の出来事の要約である、と。マルコ16章14節のイエス様が11弟子に現れたと記述は、ルカ24章36-43節とヨハネ20章19-23、26-29節にある詳細な記述の要約ではないか、と。そしてマルコ16章15-18節にあるイエス様の弟子たちに対する宣教命令は、マタイ28章18-20節の要約である、という具合です。
しかしこれも、文章をよく見るとそう単純なことではないのです。というのは、要約したとされる内容ともとにあったとされる内容との間に食い違いがあり、マルコの記述は必ずしも、三つの福音書の要約とは言い難い点があるからです。移動中の二人の弟子にイエス様が現れた出来事について、マルコでは他の弟子たちが二人を信じなかったことが強調されますが、ルカでは他の弟子たちの不信仰は触れられません。またイエス様の宣教命令をみても、要約元とされるマタイ福音書では、マルコ福音書にある、信仰を持つ者が行う奇跡について何も言っていません。こうなると、マルコ16章9-20節は、マタイ、ルカ、ヨハネの三福音書のつまみ食い的な要約とは言えず、三福音書の記述と並んで、ひとつの独立した伝承の流れに乗ったものと見なすことができます。
このように、復活したイエス様が人々に現れた出来事について、4つの異なる伝承の流れがあるとすると、どの流れが実際の出来事を反映しているのか、という疑問が起きます。これは、4つの福音書では同じ出来事の記述になぜ違いがでるのか、という問題につながります。手短に説明しますと、イエス様にまつわる出来事の目撃者である弟子たちの証言がまず生まれました。それが口伝えされたり記録にとどめられていくうちに、そうする人たちの置かれた状況やものの見方も手伝って、例えば強調したいところはより強調され、瑣末に思われるところは背後に退くということが起きる。それで、最初の目撃者の証言の伝承や記録は、時間の経過とともに膨らんだり縮んだり、また記述される出来事の文脈が変わってきたりすることもあります。
しかしながら、このような場合でも絶対忘れてはならないことがあります。それは、 (1)記憶のされ方やものの見方に相違が出るとは言っても、これらの目撃者や伝承者や福音書の記者たちはすべて皆、イエス・キリストが死から復活した神の子であると信じた人たちということ、 (2)さらにパウロを含む使徒たちの教えに忠実だったということです。つまり彼らは、共通の土台の上に立っていたのです。従って、記憶やものの見方に相違が生じても、それは土台そのものを覆すほどのものではなく、許容範囲にとどまるものでした。その意味で、目撃者の証言の伝承の過程において聖霊の影響力とかコントロールがしっかり働いていたと言うことができます。(「聖霊のコントロール」などと非学術的な言葉を使わないで、学術的な言葉を使って言い換えると、「使徒的伝統に忠実だった」となります。両者は同じことを別の言葉で言い表しています。)当時は、聖霊のコントロールから外れた伝承、教え、見解が多く流布しておりました(例として、トマス福音書とかユダ福音書とか)。しかし、そうしたものは一切、聖書のなかに入ることはできませんでした。そういうわけで、聖書は聖霊の働きの結晶です。聖書をあなどってはいけません。
そういうわけで、4つの福音書のイエス様の復活の記述にいろいろ相違があっても、 (1)墓の前の大石が取り除かれ墓が空だったこと、 (2)最初にそれを目撃したのは少なくともマグダラのマリアであったこと、 (3)イエス様が復活してすでに墓から出て行ったことを天使が告げたこと、 (4)その後でイエス様は何人かの弟子たちに現れ、最後に11人の弟子に現れたこと、以上は、どれも中核を成す共通項です。本当に起こったことは、この中核部分に結びつくものだったのでしょう。
以上から、マルコ16章9-20節は、後の付け足しであると結論を下すためにはクリアーしなければならない問題が多くあることが明らかになったと思います。もちろん、以上の議論をもって同箇所がマルコ福音書のオリジナルにあったと結論づけられるかというと、それもまだ決定的なことは言えないというのも事実です。しかしそれでも、ひとつ確実な結論があります。それは、マルコ16章9-20節は、マタイ、ルカ、ヨハネの記述に寄りかかってできたものでなく、それらと並んで、同じく聖霊の影響力・コントロールが働いて出てきた記述であるということです。それゆえ、聖書の他の箇所と同じく、人に信仰を生み出す力を持つ神の御言葉であるということです。
2.
それでは、マルコ16章9-20節も人に信仰を生み出す力を持つ神の御言葉という以上は、この箇所は私たちに何を教えようとしているのでしょうか?ここから本説教の第二部に入ります。ここでは、イエス様が「信じて洗礼を受ける者は救われる」(16章16節)と言っていることについて、つまり、救いの前提には信じることと洗礼を受けることの二つがあると教えていることについて見ていきたいと思います。
日本語の訳にあるように、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と言うと、救われるためには、最初に信じることがあって、次に洗礼を受ける、というような順番があるような印象を受けます。しかし、これは正しくは、双方が一緒にそろって救われるという並列の関係です。順序ではありません。つまり、救われるためには、イエス様を救い主と信じることと洗礼を受けることの双方がそろわないといけない、と言うのであります。
そうなると、赤ちゃんは幼児洗礼によっては救われないのか、洗礼は子供が誰を救い主と信じるか自分でわかる年齢に達するまでは受けても意味がないのかという議論が起こります。ここで注意しなければならないことは、幼児洗礼には、救いというものが神からの贈り物として与えられる、ということが最も強くあらわれるということです。どういうことかと言うと、人間は堕罪によってそれまであった自分の造り主である神との結びつきを失ってしまいました。神との結びつきを持たないままこの世を生きるだけでなく、この世から死んだ後も永遠に自分の造り主から引き裂かれた状態に陥ってしまう、つまり永遠の滅びに陥ってしまう存在になってしまったのです。そこで神は、人間が再び自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにと、またこの世から死んだ後は永遠に自分のもとに戻れるようにと、そのために一人子イエス様を御許からこの世に送られました。そして、自分と人間との結びつきを壊した原因である罪と不従順を全てイエス様に請け負わせ、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして、彼が与り知らない罪の罰を全て身代わりに受けさせて十字架の上で死なせました。さらに神は、一度死なれたイエス様を今度は復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さいました。
こうして人間は、イエス様の十字架の死と死からの復活によって、全ての罪が償われて、目の前に死に打ち勝って自分の造り主のもとに通じる道が開かれたのです。あとは人間の方が、これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を神からの贈り物として受け取ることができるのです。
洗礼の時、無力で非力な赤ちゃんは100%受け身に徹しているので、救いはまさに注がれるようにして受け取られます。他方で大人は、どうしても自分はちゃんと聖書や教理を理解できているかとか、どこまで真人間になったかとか、ということが気になって、洗礼を受けるのにまずそれにふさわしい人間にならなければならないと考えてしまう。しかし神からみれば、人間が、自分のことを罪と不従順に染まった存在であるとわかって、そこから助けて下さい、私のために十字架にかけられたイエス様以外には救い主はいません、と叫べば、本当はそれで十分なのです。もちろん、大人が洗礼を受ける時は、洗礼が何をもたらすのか知らないでは受けられませんので、その意味で教理を学ぶことは必要です。しかし、その学びは、学べば学ぶほど自分は神の救いを赤子のように受け取らないと救われないと観念するような学びでなければなりません。その意味で赤ちゃんは、そのような学びが必要ないのです。
しかしながら、赤ちゃんが洗礼を受けたら、それで終わりかというと、そうでもないのです。子供が育っていくにつれて、自覚や理解力ができてくるにつれて、今度は自分がどれほど大きな贈り物を受けているのか、洗礼が自分に何をもたらしたのかをわかるようにならなければならない。そうなるために両親の責任は大きなものがあると言えましょう。つまるところ、幼児洗礼を受けた人の場合の信仰とは何かと言うと、自分が既に受けた神の愛と恵みの深さ大きさをわかるようになること、そのようなものを受けた者として自覚的に生きること、と言い換えてもいいでしょう。大人洗礼の場合は、これから受けることになる神の愛と恵みの深さ大きさがわかって洗礼を受け、そのようなものを受けた者として自覚的に生きていきます。どっちにしても、「信じ、かつ洗礼を受ける者」になります。
ところで、私が長年居住したフィンランドをはじめ欧米の伝統的なキリスト教国に近年顕著にみられる傾向ですが、幼児洗礼は形式的な通過儀礼に堕してしまっているということがあります。子供が自分の受け取った神の贈り物がどれほど大きく素晴らしいものか、わからずに大人になってしまうことが多くみられるようになりました。これでは、「信じ、かつ洗礼を受ける者」にはなれません。親の責任は重大です。人は神からの贈り物がわからなければ、心に神への感謝は生まれなくなります。神への感謝が生まれなければ、人のものの見かたや考え方は自分の造り主を忘れた人間中心になり、また永遠の命を忘れたこの世中心なものとなってしまいます。
それでは、今度は逆に、自分はイエス様が救い主であると自覚して生きるから洗礼はいらない、と言った場合はどうでしょうか?例えば、ルカ23章にありますが、イエス様の十字架の隣の十字架にかけられた犯罪人が死ぬ直前にイエス様のことを神の国の王と告白する場面があります。この犯罪人は洗礼を受けなくても、イエス様から救いを約束されたではないか、と。この場合は、洗礼を受けるも何も、もう最後の瞬間で洗礼式など執り行える可能性はゼロです。このような他に手立てがない場合には、イエス様を救い主と告白することだけで救われるという例であります。しかし、一度告白した後もまだ先がある場合は、そうしたらあの犯罪人が行ったような全身全霊の告白をずっとしなければなりません。洗礼なしで、そんなことは可能でしょうか?
このことを考える時、ペトロがイエス様のことをメシア/救世主、神の子と告白した時、イエス様は、この告白はペトロ自身(「人間の血と肉」)から出たのではなく、天の父なるみ神がペトロに言わしめた、と言ったこと(マタイ16章17節)を思い出すとよいでしょう。加えて、本日の使徒書の箇所でヨハネは、イエス様をメシア/救世主と信じる者は神から生まれたのである、と言っていました(第一ヨハネ5章1節)。これらから明らかなように、人間がイエス様を救い主と信じるのは、人間の力や能力から来るのではなく、神の霊である聖霊の力によるのです。人間の力や能力だけでイエス様のことを知ろうとすれば、せいぜい歴史上の類まれな宗教家とか哲学者とかイデオローグないしは社会改革者というような捉え方で終わるでしょう。歴史上の人物ですから死にますし、今復活した状態で天におられるなどとはとても考えらません。これは知識上のイエス・キリストであって、信仰上の主ではありません。知識は、人を自分の造り主である神のもとに連れて行くことも、死を超えた永遠の命を与えることもできません。それができるのは、信仰です。
人がイエス様を救い主とか、今も復活しておられると信じ始める時というのは、その人が聖霊の影響を受け始めたことを意味します。ここまで来たらあとは洗礼を受けるのが自然の流れです。洗礼を受ける時、人はイエス様が約束された聖霊を注がれます。洗礼を通して聖霊を受けることで、人は恒常的にイエス様を救い主と信じる信仰を持って生き始めることになります。洗礼を受けられる可能性がありながら、それをあえて受けないままでいて、人がイエス様を救い主と信じて生き続けることは不可能です。
3.
最後に、「信じる者に伴う」(16章7節)奇跡のしるしについて少し触れておきましょう。本日の箇所で、そのようなしるしとして、悪霊を追い出すこと、異言を語ること、蛇をつかんだり毒を飲んでも傷つかないこと、病人を癒すことが数えられています。ここで注意しなければならないことは、これらのことが伴わなくても、それは信仰の弱さとか欠如を示すものではないということです。「伴う」パラコルーテーセイπαρακολουθησειというギリシャ語の動詞は未来形ですが、ギリシャ語の未来形は「伴うことが可能である」と可能性の意味に考えることもできます。仮に未来の意味で考えても、はっきりしていることは、「イエス様を救い主と信じ、かつ洗礼を受ける」ことこそが救われる大前提であるということです。これは、先に見た通りです。この大前提があれば、別に奇跡のしるしを行わなくとも、救いには何の影響もありません。他方で、自分に信仰があることを示してやろうと、こういう奇跡のしるしを追い求めることは本末転倒です。それは「神を試す」(マタイ2章7節)ことになるからです。
ここにリストアップされている奇跡のしるしは、福音の宣べ伝えに際してあらわれたものであることにも注意しましょう。「毒を飲む」というしるしの事例は新約聖書には見つかりませんが、「蛇をつかむ」ことはパウロがローマに送られる途中のマルタ島で体験したことが使徒言行録に記されています(28章3-6節)。そういうわけで、キリスト信仰者は自分にはどんな奇跡のしるしが伴うかを気にするのではなく、自分は福音の宣べ伝えを行っているかどうかを先に考えるべきです。私たちの隣人が「信じ、かつ洗礼を受け」て救いを受け取る者となれるように、祈り、働きかけることの方が本質的なことであります。父なるみ神にそのための知恵と力と勇気を与えてくれるよう、祈り求めましょう。
主日礼拝説教 復活後第一主日 4月12日の聖書日課 マルコ16章9-18節、使徒言行録3章11-26節、第一ヨハネ5章1-5節
礼拝の後ポウッカ先生が恒例のフルートの演奏をして下さいました。
4/11の料理クラブは、「レモンクリームのプッラ」を作りました。
冬が戻ってきたような寒い中、教会に到着すると可愛い黄色の花に迎えられ、今日はイースターカラ―の「レモンクリームのプッラ」を作りました。
最初にお祈りをしてスタートです、計量して生地を捏ねていきます、フィンランド式のゆったりとした生地作りに、驚かれた方もいらしゃいました。発酵の時間に、今度はレモンクリーム作りへ、レモンの表面をおろし金に当てた瞬間、牧師館は爽やかなレモンの香りに満たされました、クリームの味見をしつつ、発酵を待ちます。
ふっくらした生地を分割・成型して、再度発酵させ、レモンクリームにレモン果汁を最後に加え、生地にトッピング、180度のオーブンへ・・・・・、焼き色もかわいい、レモンクリームのプッラが完成しました。
試食会では、説明用に作ったシナモンロールも一緒に味わいました、パイヴィ先生からは、イースターシーズンのフィンランドの食の習慣や「マンミ」や季節の食べ物の事、日本ではあまり知られていない、イースターの本当の意味「復活」について、聞かせていただきました。
次回の料理クラブは、9月開催を予定しています。
1.キリスト信仰の復活
「復活」という言葉は、死んだ人が生き返るというのが基本的な意味ですが、普通は「生き返り」に直接関係しなくて、もっと広い意味で使われます。例えば、もう回復の見込みがないとか、もう見つからないと観念していたものが回復したり見つかったりするような時に使われます。「敗者復活戦」という言葉は、一度チャンスや希望がなくなっても、それが新たに与えられることを意味しています。そのように、「復活」という言葉は、絶望や失望を超える大きな希望があることを教えてくれる言葉になっています。とても素晴らしい言葉だと思います。ところで、キリスト信仰でいう「復活」とは、これは文字通り本当に死んでしまった人が生き返ることを意味します。しかももっと大事なことは、「生き返る」とは言っても、それは、仮死状態から蘇生することとは全く違う現象を意味します。
それでは、キリスト信仰の復活とはどんな現象かと言うと、まず私たちが存在する今のこの世がいずれ終わる時が来て、今ある天と地が新しい天と地に取ってかわる時が来る(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、第二ペトロ3章13節)。その時、存在する被造物は全て揺り動かされて取り除かれ、唯一揺り動かされず取り除かれない神の国が現れる(ヘブライ12章27-28節)。まさにそのような天地大変動の時に死者の復活が起きて、神の目に適う者(本日の使徒書の日課の言葉では「キリストに属している者」第一コリント15章23節)、これがこの世の時と異なる体と命、つまり復活の体と命を与えられて神の国に迎え入れられる、というものであります。神の国とは天の国、天国とも呼ばれますが、そこで復活した者はどうなるかと言うと、黙示録19章や21章それに本日の旧約の日課イザヤ書25章6-9節にも記されているように、盛大な結婚式の祝宴にたとえられるお祝いの席に招かれて、全ての涙を拭われるのであります。それは、まさに、この世で背負った労苦が最終的に完全に労われ、またこの世で被った害悪も最終的に完全に償われるということです。こうして復活を遂げた者たちは、自分のもともとの造り主である神のもとで、神の義と正義と愛と恵みに包まれて永遠に過ごすことになるのであります。
そういうわけでキリスト信仰の復活とは、それがいつ起こるかは天の父なるみ神しか知らないという(マルコ13章32節)、この世の終わりの時、次の新しい世が始まる時に起こるものであります。先ほど、復活は、仮死状態からの蘇生とは違うと申しました。蘇生の場合は、死んだ体がちゃんと残っていなければなりません。復活の場合は、体は土葬されて骨も肉も腐敗して干からびた状態、火葬ならば灰になった状態で跡形もありません。それにもかかわらず、使徒パウロが詳しく教えているように、復活の体と命が与えられて、もう朽ちない体、もう死なない存在に変えられるのです(第一コリント15章35-53節)。仮死状態から蘇生した人は、いずれ本当に死ぬ時が来ます。しかし、復活の場合は、本日の旧約と使徒書の日課や他の聖書の箇所で「死が滅ぼされる」と言われているように(イザヤ25章8節、第一コリント15章26、54-55節、黙示録20章14節、21章4節、ホセア13章14節)、もう死ぬことのない永遠の命を持って生きることになるのです。キリスト教の葬儀では、亡くなった方と復活の日に再会できるという希望を集まった会衆同士が確認しあいます。復活の日の再会がどのような場所でどのような形で起きるかは、以上みたように聖書を繙けばかなり明らかになるのであります。
2.イエス様の復活
キリスト信仰で、復活というものが、今のこの世の終わりの時に起こるものとすれば、2000年近く前に起きたイエス様の復活は大きな例外となります。まだこの世の終わりが来ていないのに復活させられたからです。本日の使徒書の日課の中で、復活には順序があり、最初はキリスト、次はキリストが再臨する時にキリストに属する者が復活させられる、と言われています(第一コリント15章23節)。この日課の一つ手前の節を見ると、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(同20節)と述べられています。使徒パウロの言葉です。「初穂」は、ギリシャ語のアパルケー(απαρχη)の訳ですが、とても詩的で素晴らしい訳だと思います(注 23節の「最初はキリスト」の「最初」も同じギリシャ語の言葉ですが、訳しわけをしています)。イエス様の復活が起きてからもう2000年近く経っているので、初穂の次に穂が出てくるのは時間がかかっていますが、それは、一日は千年のごとく千年は一日のごとくという(第二ペトロ3章8節)父なるみ神の時間表ですから、神がよかれと思う、機が熟する時を忍耐して待つしかありません。いずれにしても、イエス様は、私たちの復活の先駆けになったのであります。ここで、なぜイエス様が一足先に死からの復活を成し遂げなければならなかったのかを見てみましょう。
このことがわかるためには、復活の前に起きた十字架の出来事をふり返ってみなければなりません。十字架の出来事がなければ復活の出来事もなかったわけですから、両者はあわせてみなければなりません。別々にしてはいけません。
この間の聖金曜日礼拝の説教でも申しましたように、イエス様の十字架上での死というのは、神の人間救済計画が実現したことを示しています。神の人間救済計画とは、かつて失われてしまった神と人間の結びつきを今一度回復させようとする神の計画です。人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが堕罪の出来事のゆえに罪と死に支配される存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で教えているように、死とは罪の報酬であります(6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教ではいつも罪が強調されるので、外部からは訝しがられることがあります。人間には悪い人もいるが良い人もいるではないか、悪い人だっていつも悪いとは限らないではないか、と。しかし、死ぬということが、人間が最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。
さて、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死ぬ存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようにしてあげようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしたのであります。人間は、イエス様の十字架上の死がまさに自分のために行われたのだと分かって、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた「罪の赦しの救い」をそのまま受け取ることが出来るのです。この時、神が与える罪の赦しがその人に対して効力を持ち始めます。こうしてイエス様の犠牲の死に免じて罪を赦された人は、神との結びつきが回復して、この世の人生を歩み始めることになるのです。
以上から明らかなように、一足早いイエス様の復活は、彼自身のために起こったのではありません。私たちが救われるために起こったのです。イエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命、そしてこの世的でない復活の体が実在することが示され、そこに通じる扉が開かれたのです。イエス様を救い主と信じる者は、この永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めたのです。父なるみ神にこれだけのことを取り計らってもらった以上は、これからは本当に神の御心に沿う生き方をしよう、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、そうするのが当然という心になります。しかし、実際の生活の中で神の御心から遠い自分の姿に気づかされます。そのような時はいつも、十字架上のイエス様の肩に全ての人間の罪が重くのしかかっていることに心の目を向けましょう。その中にあなたも罪も混じっているのです。このことが確認できれば、あなたは神から大いなる赦しを与えられていることを確かなものとすることができます。そして、再び神の御心を心に留めて歩み続けることができるのです。
キリスト信仰者が歩んでいる道、永遠の命、復活の体に至る道というのは、このようなことを繰り返しながら進む道です。この道を歩む者にとって、自分の中に残存している罪は、もはやその人を神の裁きや永遠の死に追いやるものではありません。逆にイエス様の十字架の下に立ち返えらせて神の赦しを再確認させるきっかけにしかすぎなくなります。しかしやがて、そうしたことが繰り返されなくなる時、ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になる時が来ます。この世に別れを告げ、肉は朽ち果てるにまかせて、神のみぞ知る場所にて復活の日まで安らかな眠りにつく時です。そして、本日の使徒書の箇所でパウロが述べるように、次はキリストに属する者たちが復活させられるのであります(第一コリント15章23節)。この言葉を記したのは一使徒ではありますが、聖書の御言葉の一つとしてある以上は、これも神の言葉として神の約束を伝えるものです。
3.復活を信じるということ
キリスト信仰の復活から私たちは、とてつもない希望を得ています。それは、今の私たちの命が、私たちの造り主である神のもとにある、死を超えた永遠の命に繋がれているという希望です。
ところが、キリスト信仰の復活は、キリスト信仰者でない人のみならず、実は信仰者の間でも最初は受け入れ難いものがあったようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の15章のはじめで使徒パウロが、イエス様は本当に復活された、そして死者の復活は本当に起こるということをコリントの信徒たちに一生懸命に弁明していますが、彼がそうしなければならないくらいに、復活を信じられない信徒がコリントにいたということであります。復活を信じられないキリスト信仰者は、それでは何を信じるのでしょうか?パウロは次のように述べています(15章17-19節)。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」つまり、希望というものは全て、この世の生活に関係するものに限られてしまいます。また、この世と次の新しい世を合わせた広大な視野をもって、そこからこの世で遭遇するいろんな事柄や出来事を眺めたり意味づけたりすることができなくなってしまいます。本当に、視野も意味づけも全てこの世の範囲内にとどまってしまいます。
どうして、このようなことが起きるかと言うと、いろんな理由がありますが、一つには、人間はどうしても、自分の目で見て耳で聞いて手で触れて直接確かめられないと、また計算したり測定したりして明確に示せないと、信じることができない、ということがあります。復活にしろ、その他の奇跡にしろ、いくら他人が見たと言い張るのを聞いても、現場に居合わせて自分の目で見ないと信じられないというのが大方の考え方でしょう。当時はビデオもデジカメもスマートフォーンもなかったので撮影して記録することもできません。仮に撮影できたとしても、今はコンピューターの技術で合成できたりするので、信ぴょう性はますます疑われるでしょう。そうなるともう、見たと言う人たちの証言を信じるか、信じないかのどちらかしかなくなります。果たして、見たと言う人たちの証言は信用に値するのでしょうか?
ここで一つ考慮に入れてよいのは、ペトロをはじめとする弟子たちが、イエス様の復活後にとても変わったということです。イエス様が逮捕された時、弟子たちは皆、逃げてしまいました。イエス様が裁判にかけられた時、ペトロは群衆に混じって様子を窺っていましたが、周りの人から、お前もあの男の仲間ではなかったか、と気づかれてしまい、違う、あんな男は知らない、と嘘をついてしまいます。それくらい自分の身を守ることに精一杯だったのです。ところが、復活したイエス様に出会った後、ペトロはもう何も恐れるものがなくなりました。権力者側から、イエスの名を広めたら命はないと思え、と脅されても、ひるむことなく伝え続け、最後は迫害に遭って命を落としました。
もしイエス様の復活が起こらず、弟子たちが創り上げたデマだったとすると、果たして、嘘のためにここまで生涯をかけ命をかけることができるでしょうか?ここはやはり、復活したイエス様に出会った以上は、そうとしか言いようがないのであり、復活の主を通して死を超えた永遠の命があることを見せつけられた以上は、もう何をもおそれずに自分が見聞きしたことを正直に伝える他はなくなった、と理解する方が自然なのではないでしょうか?キリスト信仰がエルサレムを出発点として急速に広まったというのは、実は弟子たちの命を顧みない証言を聞いて、イエス様を見たことのない人たちが信じたということがあります。そのような信仰を土台として、新約聖書の中に収められている書物が生まれたのです。旧約聖書の方も、使徒たちの目から見て、イエス様を用いて実現されることになる神の人間救済計画を明らかにする書物となりました。そういうわけで、今私たちが手にしている聖書は、こうした使徒たちの証言と信仰を当時と全く同じように現代の私たちにも伝える媒体になっているのです。
4.あの墓を塞いでいた大石は今もわきへ転がされたままか?
最後に、本日の福音書の箇所で一つ注意を引かれる部分があるので、それについてお話ししたく思います。それは、マルコ16章4節で、「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」というところです。どこが注意を引くかと言うと、原文のギリシャ語の動詞「わきへ転がす」の使い方が少し奇妙なのです。日本語訳を見ると、「石は既にわきへ転がしてあった」とあります。つまり、女性たちがイエス様の墓に到着した時、墓を塞いでいた大石は彼女たちの到着前にわきに転がされて、到着の時までずっと転がされた状態であったということです。描写の仕方としては、この訳は何の問題もありません。しかし、奇妙なのは、ギリシャ語の表現では、大石がわきに転がされた状態は、女性が到着した時を超えて、福音書記者マルコがこれを書いている時、出来事から大体30年位経った後としておきますと、その時点でも転がされた状態が続いているという表現なのです(現在完了αποκεκυλισται)。もし、転がされた状態が続いていたのは女性たちが到着した時、というふうに、30年前の出来事として書けば、この「転がされた」という動詞はテキストにあるのとは違う形を取るべきではないか、と思うのです(過去完了απεκεκυλιστο?ないしην αποκεκυλισμενος?)。マルコの書き方は、「わきに転がされた」状態が30年前の出来事としてではなく、現在もそのままであるという書き方なのです。
マルコがどういう意図でこのような動詞の形をとったのかは確実なことは言えませんが、読めば読むほど、直接の目撃者でなかった彼自身にとっても、墓の大石がわきに転がされた状態は彼の執筆の時にもそのままだった、ということが伝わってきます。つまり、墓は空のままということであり、あの時復活したイエス様は今も復活された状態でおられるという認識だったのです。(第一コリント15章20節でパウロはイエス様の復活を現在完了形で書いていますが、同じ認識だったのでしょう。)
マルコがそのような動詞の形を使って書いた文ですが、読む側としても、読めば読むほど、墓の大石がわきに転がされた状態は、マルコの記述から1950年程経った今も同じで、つまり、墓は空のままで、イエス様は今も復活された状態でおられることが伝わってきます。キリスト信仰者にとって、あの墓を塞いでいた大石がわきに転がされたというのは、ただ単に過去に起きた事実ということだけにとどまらず、信仰者自身にとっても、転がされた状態が続いているのです。
主はまことに死から復活されました。ハレルヤΑλληλοια הללו-יה!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2015年4月5日 復活祭
5月5日の聖書日課 マルコ16章1-8節、イザヤ25章6-9節、第一コリント15章21-28節
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に高々と晒すというものでした。イエス様は、十字架に打ち付けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が打ち付けられることになる十字架の材木を処刑場まで自ら担いで歩かされました。これは途中で通りがかりの人が手伝わされることになりましたが、イエス様の体力は本当に限界だったのでしょう。そして、やっとたどり着いたところで痛ましい釘打ちが始まりました。数多くの宗教画に描かれた十字架のイエス様というのは、釘を打ちつけられた手足から血を流し、血の気を失った体は全体的に色白な感じのものが多かったような印象があります。しかし、兵隊たちから暴行を受けた後ですので、本当は全身血まみれだったのでしょう。ちょうど10年程前にアメリカの映画で「キリストの受難The Passion of Christ」という映画が上映され、残酷なシーンが多くて世界中で話題になりました。実際はあれくらいのことが起こっていたのではないかと思います。いずれにしても、一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。
イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられていました。何も罪を犯していないイエス様は、極悪人の扱いを受けたのです。十字架の近くでは、人間の痛みや苦しみに全く無関心な兵隊たちが、処刑者たちが息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。十字架の周りを大勢の群衆が見守っています。近くの街道を通る人たちも立ち止って様子を窺います。そのほとんどの者は、イエス様に嘲笑を浴びせかけました。ユダヤ民族の解放者のように振る舞いながら、なんだ、あのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、イエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。
このイエス様の悲惨な十字架の死は、一体何だったのでしょうか?言うまでもなく、十字架はキリスト信仰のシンボルになっています。キリスト教会に掲げられた十字架、礼拝堂の正面に飾られた十字架、そういうシンボルとしての十字架はただ単に、イエス様が十字架にかけられて死んだという見かけの事実を伝えるだけのものではありません。シンボルとしての十字架は、見かけの事実の背後にそびえる大いなる真実を象徴しています。それは何かと言うと、イエス様が十字架の上で死なれたことで逆に人間が救われる道が開かれたということです。このことを十字架は象徴しているのです。「人間が救われる」と言う時の「人間」とは、欧米人だろうがアジア人だろうがアフリカ人だろうが、とにかく人間なら誰でも救われる道が開かれたということです。
それでは、なぜイエス様が十字架で死なれたことが、人間が救われる道を開くことになったのでしょうか?そもそも、「救い」とは何から救われることを意味するのでしょうか?そうした疑問を明らかにする最初の手掛かりとして、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所がちょうどよいでしょう。
イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所は、明らかにイエス様の受難と死の出来事を指しているとわかります。そこでは、彼の受難と死の目的について詳しく述べられています。話が少しそれますが、この預言の言葉が紀元前700年代に由来すると見てよいのか、それとも紀元前500年代に由来するかについては、キリスト信仰者の間でも議論されるところではありますが、いずれにしてもイエス様が歴史の舞台に登場する数百年前に由来することは否定できないのであります。以下、この箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした(53章4節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした(同5節)。なぜこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした(同5節)。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのであり(同6節)、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのです(同8節)。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた(同9節)。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした(同10節)。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった(同12節)。
以上から、イエス様が罪ある私たち人間のかわりに神から罪の罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たち人間に、一体何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った、と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申しますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、さらに見ていきましょう。
人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいという傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのです。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。
ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。それこそ、償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦される。このように罪を赦された者として、人間は神との結びつきを回復させることができる。このような解決策を神は立てたのです。
それでは、一体誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷も汚れも持たない、神聖な神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてひとり子イエス様に白羽の矢が当たったのでした。
ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければなりません。なぜなら、そうしないと、目撃者も証言者も生まれず、彼らが残すことになる記録も生まれません。証言や記録がなければ、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりがなくなってしまいます。そういうわけで、神のひとり子の身代わりの犠牲は、人間の具体的な歴史の中で出来事として起こらなければならなかったのです。
さて、神のひとり子は歴史を超えた無限のところにおられます。その方が有限な人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が神の形を捨てて、人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみもそれこそ人並みに感じられるようになります。まことに本日の使徒書の日課で述べられている通りです(ヘブライ4章15節)。しかも、自分のあずかりしらない、自分以外の全ての人間の罪を請け負い、その罰がもたらす痛みと苦しみを受けなければならないのです。それをしなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのです。
そうして、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世の終わりに出現する神の国がどのような世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。こうしたイエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発と憎悪を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全部身代わりに引き受けることが具体的な形を取ることができたのでした。
このようなわけで、イエス様の十字架上の死というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした救いの計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力が粉砕されてしまいました。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。神はこの実現済みの救いを全ての人間に向けて、どうぞ受け取りなさい、と提供してくれているのです。そこで、人間の方が、イエス様の十字架の死は2000年後の今を生きる自分のためにもなされたのだとわかり、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。こうして神から罪の赦しを受けた人は、神との結びつきが回復し、そのような者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができるのです。
このように「罪の赦しの救い」を受け取った人は、神に対する感謝の気持ちに満たされ、神の意思に沿うような生き方をしようと志向し始めます。つまり、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、という生き方です。ところが、それはそう簡単なことではないと気づかされることになります。この生き方をできなくなるようにしてやろうという力に絶えず直面することになるからです。とにかく現実の世界で生きていると、いろんなことがあります。ですから、神の意思に沿う生き方に反対する力に遭遇したら、兎にも角にも神に助けを祈り求めることから始めなければなりません。
加えてイエス様は、神の意思に沿う生き方というものは、外面的な行為だけでなく内面的な心の有り様まで問われるのだと教えました。例えば、自分や他人の結婚生活をしっかり尊重し守っていても、もし淫らな目で女性を見たら姦淫を犯したのも同然(マタイ5章27-28節)とか、殺人を犯していなくとも、もし隣人を憎んだり悪く言ったりしたら同罪(同5章21-22節)という具合です。ここまで見抜かれたら、誰も神の意思に沿う生き方などできません。しかし、神は人間がそこまで完全になれないことを知っておられるので、私たちがイエス様の身代わりの死に免じて罪を赦して下さいと祈ると、神は、私たちがイエス様を自分の救い主として信じていることを確認できて、「このことはもう取沙汰しないから、心配しないで前に向かって進みなさい」と言って、この世に送り出して下さるのです。
キリスト信仰者は、もし神の前にへりくだって包み隠さずに罪を告白すれば、神はイエス様の身代わりの死に免じて必ず赦して下さると知っています。しかしながら、それでも、赦しが得られるかどうか、確信が得られないこともあります。特に死が間近に迫った時、信仰者でも、果たして神は自分を御許に引き上げてくれるだろうか、それとも自分はまだ罪の汚れが多く残っているのでだめなのだろうか、と心配することがあります。そのような時は、ルターにならって、ゴルゴタの丘の十字架を心に思い浮かべるとよいでしょう。あそこに、首を垂れたイエス様がかかっている。あの方の肩には全世界の人々の罪が重くのしかかっている。私の罪もああして全部、あの方の肩に貼りつけられている。このことを心の目で目撃できれば、罪の赦しを確信できるはずです。
十字架上のイエス様というのは、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取った者にとっては、絶えず立ち返るべき原点なのであります。その者にとって内在する罪は、もはや死と罰に追いやる力はなく、逆に絶えず十字架のもとに引き戻す契機に変わったのです。まだ救いを受け取っていない人たちにとって、十字架は言うまでもなく目指すべき目的地であります。目的地に到達するや否や、それは今度は立ち返るべき原点にかわる、それが十字架上のイエス様であります。
主日礼拝説教 2015年4月3日 聖金曜日