説教「人間を造られた神が人間に与えられた最も重要な掟」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書22章34-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所の直前に、サドカイ派と呼ばれる党派とイエス様の間で論争がありました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿祭司やユダヤ教社会の上流階層を構成員とする党派です。論争の的となったのは、死からの復活はあるかどうかということでした。復活などないと主張するサドカイ派をイエス様は、旧約聖書の御言葉に基づいて見事に論破しました。その一部始終を見ていたファリサイ派と呼ばれる別のグループ、これはユダヤ教の伝統的な戒律を幅広くできるだけ多く守ろうとする信徒運動ですが、そのファリサイ派の人たちが集まって、サドカイ派は言い負かされてしまったぞ、自分たちはどうやってあの生意気なナザレ出身のイエスを言い負かそうかと相談を始めます。そこで、彼らの一人で律法学者も務める男がファリサイ派を代表してイエス様のところにやってきて質問しました。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか?

原語のギリシャ語を直訳すると、最も偉大な掟、最大級の掟はどれかと聞いています。つまり最も重要な掟ということです。サドカイ派は、復活という死生観の問題でイエス様に挑戦してあっけなく敗れ去りました、ファリサイ派はユダヤ教の根幹とも言える律法の問題で挑戦してきました。

なぜ、このような質問が出たかというと、律法学者は職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を神の掟に基づいて解決する役割を担っていました。それで、神の掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟とは、まず、旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法がありました。それだけでもずいぶんな量ですが、他にもモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。サドカイ派は文書化された掟しか重んじませんでしたが、ファリサイ派は両方とも大事と考えていました。そういうわけで、ファリサイ派の律法学者となると、膨大な神の掟を適用することになるので、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したのです。「どの掟が最も重要ですか、最大級の掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきたのです。もし、これが重要だ、と答えたら、きっと、それじゃ他のは重要ではないのですか?掟は全て神が与えたものではないのですか?これが重要で、あれは重要でないという根拠はなんですか?あれだってこれこれの理由で重要ではないのですか?そういう具合に、相手は法律の専門家ですので、答えようによっては、反論の山が押し寄せてくるのは火を見るより明らかです。

 

2.イエス様の答えは以下のものでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

これは、申命記6章4~5節で神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。その部分を振り返ってみましょう。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

神を愛するという時、このように全身全霊で愛するということはどういうことでしょうか?全身全霊で愛する、などと言うと、男女がぞっこん惚れぬいて身も心も捧げたような熱烈純愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。相手は、全知全能の神、天と地と人間を造られて、人間に命と人生を与えられ、御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

その答えは、今みた申命記の掟の最初の部分にあります。「我らの神、主は唯一の主である。」これは命令形でないので、掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、というのは実は、神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにしなさい、ということなのであります。この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えてはならないこと。自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、また苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にあってはならないということ。もしこれらと反対のことをしてしまったり、またそれ以外のことでも神の意思に反することしてしまった場合には、すぐこの神の方を向いて赦しを願うこと。これが神を全身全霊で愛することであります。

少し脇道に逸れますが、「神」という日本語の言葉はとても紛らわしいものです。聖書にも「神」と書いてあり、日本には「神々」がいると言われます。同じ言葉を使うため、両者が何かお互いに比べ合えるような気がします。そして、ここは違うがここは似ているというような議論が生まれ、そうなると、聖書の神もなにか数多くいる神々の一つのように感じられてきます。しかし、兄弟姉妹の皆さん、よく考えてみて下さい。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた神、また人間との結びつきを回復させるために自分のひとり子を犠牲の生け贄になるように送られた神、このような神は聖書の神の他にいるでしょうか?そもそも、この世に蔓延する霊的な存在はみな、造られたもの、被造物にすぎないのです。(コロサイ1章16節で「万物は御子において造られた」と言われる「王座」、「主権」、「支配」、「権威」は、ギリシャ語の単語からみて、目に見えるものだけでなく見えない霊的なものも含まれています。)聖書の神こそ全ての見えるものと見えないものの造り主なのであります。

天と地と人間を造られた神以外に神はないとする、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにする、これが神を全身全霊で愛することだと申しました。このような愛をどのようにしたら私たちは持てるのでしょうか?このような愛は、何もないところから自然には生まれてきません。それは、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれてきます。それではこの神は私たちに何をして下さったかを見てみましょう。

この神は今私たちが存在している場所である天と地とその中にあるものを造られました。そして私たち人間をも造られ、私たちに命と人生を与えて下さいました。もともと神の目から見て、よいものとして造られた人間でしたが、神への不従順と罪に陥ったために、神との結びつきが失われて死ぬ存在になってしまいました。人間は代々死んできたように、代々罪をも受け継ぐ存在となってしまったのです。

神は、人間が神との結びつきを失ってしまったことは悲しいことと思い、それをなんとか回復させようと、そのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは、本来は人間が受けなければならない罪の罰を全てイエス様に受け負わせて、十字架の上で死なせました。そこで神は、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという方法をとったのです。それだけではなく、今度は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命への扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神からくる罪の赦しがその人に効力を持ち始め、その結果、罪はその人を死に閉じ込めようとする力を失います。このようにして、人間は神との結びつきを回復させることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることになります。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時もたえず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手がしっかりとその人を御許に引き上げて、その人は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのであります。

このように人間の「造り主」である神はまた、ひとり子イエス様を犠牲の生け贄にすることで人間を罪と死の支配から救い出して下さった「贖い主」でもあるのです。こうして神が私たち人間にして下さったことのなんたるやがわかるや否や、私たちの内にこの神を全身全霊で愛そうという心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。

 

3.天と地と人間を造られた神を全身全霊で愛するとはどういうことか?それは、この神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることだと申しました。この掟についてイエス様は、最も重要な「第一の掟」であると付け加えました。これに続けて、最も重要な掟には第二もあると言って、「隣人を自分のように愛しなさい」がそれであると述べました。そして、本日の箇所の終わりで、「律法全体と預言者たちはこの二つの掟に基づいている」と言われました。この二つの掟は神の掟中の掟である、山のようにある掟の集大成の頂点にこの二つがある、と言うのです。それでも、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが最も重要な掟の第一。それに続いて隣人を自分のように愛することが第二の掟としてある。これから明らかなように、キリスト信仰においては、隣人愛というものは、神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないのであります。

キリスト信仰者は、隣人愛という言葉を聞くと、すぐ苦難困難にある人に対する支援活動を思い浮かべるでしょう。ところで、苦難困難にある人を支援するという形の隣人愛は、これはキリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、または無信仰者・無神論者にも出来るものです。このことは、東日本大震災の支援活動にも明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛には、他の隣人愛にはないものがあります。それは、キリスト信仰の隣人愛は神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということであります。神への全身全霊の愛とは、先ほど申し上げましたように、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、これも申し上げたように、この神が自分にどれだけのことをして下さったかをわかるようになった時です。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。もし、別に神などいろいろあったっていいんだとか、聖書の神も多数のうちの一つだ、などという立場をとった場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということにはなりませんが、しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものになります。

それから、隣人愛とは人道支援に尽きてしまわないということも大事です。イエス様は、最重要掟の二番目に隣人愛があると教えた時、それをレビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。イエス様自身、彼を信じる者たちに対して、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならない、と教えられます(マタイ5章43~48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別がなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、「隣人」の一部の者が危害を加えたり、迫害をするということも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?

 イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べられます。これは一体、どういうことでしょうか?神は、ただ悪人にも善人同様気前よくしてあげようという無原則な方で、何が正しくて何が間違っているか、何が善で何が悪かということはもう一切お構いなしの方なのでしょうか?敵を愛せよということも、無原則な気前良さなのでしょうか?

いいえ、そういうことでは全くないのです。少し立ち止まって考えてみましょう。もし、神が悪人や正しくない者に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、どうなるでしょうか?太陽の光や水分は、生存にとって必要不可欠なものですので、それらを失う彼らは一気に滅び去ってしまうでしょう。悪人から危害を被った人からみれば、いい気味だ、ということになるのですが、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのであります。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らが、イエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に至る道を歩む者の群れに加わることを待っているのであります。悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛するということがどういうことかわかってきます。それは、悪に対する無原則な気前良さではありません。イエス様が人間を罪と死の支配から救い出すために死なれたのは、全ての人間に対してなされたことです。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、この「罪の赦しの救い

を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵について実現するように祈り、行動するのです。イエス様は、迫害する者のために祈れ、と命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害が終わるために迫害者をやっつけて下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛とは、苦難困難に陥っている人たちに対する人道支援にしても、敵や迫害者を愛することにしても、いずれにしても、愛を向ける人たちが「罪の赦しの救い

を持てるようにすること、そうすることで彼らを永遠の命に至る道を歩む群れに加えるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることができるように助けてあげるべき人たちになっていきます。

私たちが愛することができるために、まず、神が私たちをどれだけ愛して下さったかを知ることが最初になければならないことが、ヨハネの第一の手紙 4章9~11節で言われていますので、最後にそれを引用して本説教の締めとしたく思います。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年11月9日 聖霊降臨後第22主日
11月9日の聖書日課 マタイによる福音書22章34-40節、申命記26章16-19節、第一テサロニケ1章1-10節 


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