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先週の全聖徒主日の交わりについて牧師からひと言
先週の全聖徒主日の礼拝後のコーヒータイムでは、今年夫に先立たれた I 姉を囲んで I 兄との思い出や今のお気持ちなどを懐かしい写真と一緒に皆で分かち合う時を持った。孫にも元気づけられる日々で気持ちも大分落ち着いてきたが、それでも、と言って「吉村先生はしてはいけないと言うけれど、やはり主人には話しかけてしまう。」すかさず他教団の方が「そうそう、それでいいんだよ、その辺にいてちゃんと聞いているから大丈夫だよ。」すると周りも呼応してしまい、やっぱり話しかけちゃうのよね、特に物音がすると、あっ、戻って来た、と思っちゃうのよね。なんと、キリスト教会の交わりがお寺の法事の後のお茶会に変貌してしまった!またしても余計なことを言いおって、またイチから出直しではないか、と私は落胆。その時パイヴィが助け舟を出してくれた。金持ちとラザロのたとえの教えでイエス様は何と言っていたか?この世から死んだ後は大きな淵ができるのではなかったか(ルカ16章)。
私がスオミ教会でキリスト信仰者の死生観を教える時、いつも二つのことを言っている。一つは、人はこの世から死んだ後は復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る。眠っているのでこの世の私たちを見守ることもしないし、話しかけても聞こえない。信仰者にとって話しかける相手は神であり、その神が見守ってくれるのだ。もう一つは、キリスト信仰には復活の信仰があるということ、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があるということだ。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような日々とその方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身は復活の日に向かって今を生きるというスタンスになるのだ。それなので、キリスト信仰では墓は良き思い出の象徴であり、復活の再会の希望を確認する場になるのだ。
今まで身近にいた相手が急にいなくなってしまったら、交わした会話は頭から消えないので、相手の声が余韻のように聞こえることがあろう。ただし、会話は過去のものの反芻に留めるべきで、新しい会話を始めるべきではない。用件があれば、全知全能の神に打ち明ける。話しかけも独り言に留めるべきだ。子供の嬉しそうな寝顔を見て、「今日はディズニーランドに行って楽しかったね」と静かに語りかけるように。または熱を出して寝ている子供に「早く元気になってね」と囁きかけるように。キリスト信仰者なら、これらの後に「神さま、今日は楽しい一日をありがとうございました」、「神さま、この子が早く治るように癒しを与えて下さい」が続く。誰も子供を叩き起こしてまで、「楽しかったね」とか「治ってね」とは言わないだろう。
サウルが霊媒を用いて死んだサムエルと対話をする場面で(サムエル記上28章)サムエルはサウルに言う。「なぜお前は私を起こそうとして揺さぶったのか?」(ヘブライ語原文に忠実な訳、新共同訳の訳し方は不十分)。せっかく眠っていたサムエルが叩き起こされたのは明らか。聖書の神は霊媒を使うことを禁止している(レビ記19章、申命記18章等々)。これは死んだ者とコミュニケーションを取るなということだ。そうしないと人は死者の声を求め、神と対話しなくなる。私は、その手の物音がしたら、いつも目を閉じて「主の祈り」を祈ることにしている。そうすると心は落ち着いて自分を取り戻し、物音も消える。