2026年8月16日10時半 聖霊降臨後第十二主日 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年8月16日スオミ教会礼拝説教

マタイによる福音書15章21−28節

説教題 「主の手から溢れる憐れみを受ける幸い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

 

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書は、主イエス様の憐れみと恵みは溢れ出るほど大きく、私たちはそのイエス様からの恵みをそのまま受け取るだけでいい、その信仰の素晴らしさを教えてくれています。

 この15章は、イエス様のところにやってきたファリサイ派との議論から始まっています。ファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちが、習わしとして清めのために食事の前に手を洗わないのはなぜかとイエス様を問い詰めます。それに対して、イエス様はファリサイ派に、神様は十戒で「父と母を敬え」と教えているのに、あなた方教師は自分たちで勝手に解釈した慣習を作り出し、結果として父と母を敬わないことを人々にさせているのではないかと、彼らの矛盾を指摘するのです。イエス様は彼らを偽善者とさえ呼び、そして、旧約のイザヤの預言を引用して、「8『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」と言ったのでした。それはファリサイ派の人を躓かせ反感を抱かせたのでした。そんな出来事の後です。21節、こう始まっています。

 

2、「カナン人の女の叫び」

「21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」

 イエス様は「ティルスとシドンの地方に」行かれたとあります。ティルスとシドンの地方は、現在のイスラエル北部からレバノンの沿岸地域にあたります。そこでの出来事です。22節こう続いています。

「22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。」

 カナン人は、かつてその偶像礼拝ゆえに神の怒りをかって裁きを受けた人々です。イスラエル人から見ると異邦人です。そんな異邦人の女が出てきてイエス様に助けを求めます。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」

 ダビデの子、それは約束の救い主、メシアの呼び名でした。この異邦人であるカナンの女はイエス様のことを聞いていたのでしょう。そしてイエスが約束された救い主であることを信じていました。そして叫びます。「憐んでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と。イエス様に縋るのでした。何より彼女は「憐んでください」と言います。彼女は自分がダビデの子である救い主イエス様から、憐みを受けなければならないような存在であることを知っているのです。カナン人の歴史、神に背き偶像礼拝に走り、神の怒りを受けた、罪深い民であることを知っているのです。彼女はそのように自分は卑しい罪深い存在であることを認めているのです。しかし彼女はイエス様はキリストであると信じていました。キリストは憐れんでくださるお方であると。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」

 その信仰がまずこの言葉に見ることができるでしょう。しかしです。23節

「23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。」

 まずイエス様は彼女に答えません。彼女は叫び続けます。弟子たちはそれを見て彼女を追い払うようにお願いします。イエス様はそこで口を開きます。

 

3、「この時の目的と宣教全体の計画」

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」

 イエス様は何て冷たいんだと思うでしょうか。確かにそう見えます。しかしこの言葉はある意味事実です。イエス様は最初はイスラエルの人々へと神の国の福音を伝えていました。しかし、この事実もこのイエス様の言葉も決してイエスが世に来られた究極の目的ではありません。この時点でのイエス様の使命でした。しかしそれはイエス様の宣教や計画の全体ではなく一部分、あるいはある段階での使命、目的であったと言えるでしょう。なぜなら、イエス様の誕生を祝った、東方の賢者たちは異邦人であり異教の民であったでしょう。しかし神は、そんな彼らを星を用いて導き、そして礼拝者として受け入れることが神の計画でした。そして、事実、イエス様はイスラエルだけでなく、ローマ人、そして世のすべての人々のために十字架にかかって死なれるでしょう。それだけではない、イエス様は天にあげられる前にこう言っています。マタイ28章19−20節

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

 イエス様の宣教の究極は、すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けて弟子とすることでした。それはルカによる福音書と使徒の働きにも一致しています。イエス様は、約束の聖霊を受ける時に、クリスチャンは地の果てまでキリストの証人となると約束しました。その通り、聖霊を受けた時に、使徒達は様々な国の言葉で話だしペテロの最初の説教で宣教は始まって行きます。そしてイエス様の約束した通り、教会は散らされますが、その散らされたクリスチャンによって、エチオピアの宦官が洗礼を受けます。ローマ人将校コルネリオのもとにペテロは遣わされコルネリオと家族は洗礼を受けるでしょう。そして更なる人の思いを遥かに超えた神様の計画は、キリストを迫害するものの頭であったパウロを異邦人へと遣わすとイエス様ご自身が召し出して遣わしているのです。ですから、イエス様の救いの計画、福音の宣教の真の目的は、イスラエルだけではない、全世界の人々への宣教であり救いなのです。しかし、マルコの福音書の並行箇所であるマルコ7章27節を見ると「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。」と「まず」と、ありますように、この時は、まだイスラエルへ向けて語る時であったと言うことなのです。

 それでも彼女は、そんなことはわからないでしょうから、突き放されたように思って当然でしょう。けれども、25節です。

「25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。」

  彼女は諦めません。引き下がりません。イエス様に求めます。イエス様の憐れみを彼女は信じるのです。しかしです。イエス様はそれでもこう答えます。

「 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 」

 イエス様は、このカナン人の彼女を「子犬」に例えているように聞こえます。それは侮辱的な言葉とも言われたりしますが、あるいは、これは諺のような言葉であるため、必ずしも彼女を指して「子犬」と言っているのではないとも言われています。その真偽はイエス様にしかわかりませんが、いずれにしても彼女にとってはなおも突き放す言葉なのです。しかし彼女はそんなイエス様の言葉にこう答えるのです。

 

4、「カナン人の女が見ていた自分と神の憐れみ」

「27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 

 これに対してイエス様は言うのです。

「28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。」

 イエス様は彼女の言葉を聞き、その信仰を「立派だ」と賞賛されました。では、そのイエス様が賞賛された彼女の信仰とは、いったい、どんな信仰でしょうか?ある人々は、これは主への謙遜が教えられており、私たちが主へいつでも謙遜を表すことが信仰なんだと解釈して教えます。しかし、これは私たちへ求められている単なる謙遜の勧めなのでしょうか?その謙遜の態度をイエス様は「立派だ」と言ったのでしょうか?ここでは「この彼女の謙った態度は素晴らしい、謙りなさい、謙遜になりなさい」と言う道徳を教えているのでしょうか?つまり、それは謙遜を求めるという私たちへの律法です。そのように、ここでは、そのような謙遜であるべき、謙遜になるべきという律法の信仰を教えているのでしょうか。

 みなさん、このイエス様の賞賛する信仰、ここで教えられていることは、決して私たちへの単なる謙遜の勧めや律法ではないでしょう。イエス様の賞賛は、彼女のどこまでもダビデの子の憐れみに縋りたい思い、「主よ、カナン人の私ですが、神の怒りを受けた民の末裔ですが、こんな罪深い私ですが、主よ、どうか私を、娘を、憐んでください。」その思いです。彼女は実に「食卓から落ちるパン屑」でも受けたいと言います。つまり、聖書に約束されている通りに、その救い主は憐れみの神であり、その憐れみはこぼれ落ちるほどあることを彼女は見ているでしょう。「ダビデの子、憐れみの救い主はこんな異邦人の神の怒りであった民さえも憐んでくださる。いや、どうか憐んでください。その子供へ現された溢れるばかりの憐れみからこぼれ落ちるわずかなパン屑の如きわずかな憐れみでさえも欲しい。そのこぼれ落ちる恵み、憐れみでも娘は助かる、それでもイエス様の憐れみを喜んで受ける」、そんな彼女の信仰ではないでしょうか。

 

5、「真の謙った心」

 しかし、みなさん「主よ憐んでください」の信仰は、それはもちろん、謙った心があるからこその言葉です。しかし、聖書では、その謙りは、私たちが神の憐れみを受けるために、その前に、自分たちで絞り出し、作り出さなければならないような心としては書かれていないでしょう。いやむしろ神の前では私たち人間は自分たちで謙った心、そして悔い改めは自ら作り出すことはできないものです。つまり、やはり、憐れみを受けるために、その前に、何かしなければいけない律法を要求されているのではないと言うことです。

 今日の旧約のイザヤ56章6−7節の言葉にこうありました。

「6また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり

安息日を守り、それを汚すことなくわたしの契約を固く守るなら7わたしは彼らを聖なるわたしの山に導きわたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 主はイザヤの時代からすでに異邦人への憐れみと救いを計画し約束していました。そして、その約束は「わたしの契約を固く守るなら」とあります。それはただ「神の律法を守るなら」と言うことではないでしょう。神はむしろ私たちが律法を守れないからこそ救い主キリストを真の人として送ると計画し約束してくださったでしょう。ですから「契約」、つまり、神様から異邦人を含めての人類への約束を守るなら、つまり福音ではありませんか。その福音を守る、つまり、その約束をしっかりと受けて賜物としての信仰に生きることです。そうすれば異邦人も皆、主の家の喜びの祝宴に連なるのだという意味です。ですからこのイザヤの約束は律法の要求ではなく福音を約束しているでしょう。では7節の後半はどうなんだと思うでしょう。

「彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。」

 これは「生贄を捧げろ」と、律法ではないか、そう思うでしょう。しかしイザヤ書を見ると主は真の生贄、真の捧げ物についてこう言っています。57章15節

「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

66章2節にもこうあります。

「これらはすべて、わたしの手が造りこれらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」

そして詩篇でもはっきりとこうあります。51篇19節

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」

 これはダビデがバト・シェバとの罪を犯した時に、預言者ナタンを通しての神の言葉によって罪に気付かされ打ちのめされた時の詩篇です。それはダビデが、自分が罪を犯している時に、預言者ナタンを通して神の言葉を受ける前に、自分で罪に気付いて謙った、悔い改めた、というその言葉ではありません。まさに罪に浮かれその最中にいるときに、神がナタンを遣わし、律法のみ言葉を与えた、そのみ言葉を通してこそ罪を知らされ、この言葉に導かれています。

 このように、主に喜ばれる、主への真の生贄は、打ち砕かれた悔いた謙った心です。しかしそれは決して私たちは自ら搾り出すことはできません。私たちは自分が神の前に罪人であることも知らないし、気付かさないし、認めることもできません。しかし神がみ言葉を通して、律法の言葉を通して示してくださるからこそ知ることができ、悔い改めに導かれます。打ち砕かれた悔いた心は、神のみ言葉と聖霊のわざです。神のみ言葉が私たちに語り、私たちは悔い改めのために導かれるのです。

 

6、「悔い改めに導かれるからこそ十字架は救いの光となる」

 確かに、そのように、私たちが聖書を通して罪を知らされるのは、神の厳しい語りかけではあるのです。その時は確かに打ちのめされます。ペンテコステの日の朝のペテロの説教を聞いた群衆が経験したように、心が刺し通されるようなものです。

 しかし、だからこそです。このようにただ神の前に、悔いた砕かられた心に導かれ、自分は神の前にただ罪深い存在、その罪の前に何もなすことのできない、救いのために、何も持てるものではない何もできない自分であることを知るからこそ、「神よ、憐んでください」と、その思いが心から出てくるでしょう。悔いた砕かれた心に導かれるからこそ、その心への溢れ溢れるばかりの神の憐れみがわかるのです。

 私たちへの福音は、十字架のキリストです。その十字架のキリストとそのキリストの義のゆえに、罪が赦される事、キリストがこの十字架と復活のゆえに、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と罪の赦しを与えてくださり平安のうちに遣わしてくださる、それこそいつまでも変わることのない私たちへのプレゼント、それが福音です。しかしその十字架の真の意味、そこにある神の愛、そして、与えられる罪の赦しも、私たちが神の前にどんな存在かを知らなければ決してわかりません。そう神の前にどこまでも罪深い存在、ただただ憐れみを受けなければいけない存在である、そのことです。しかし神がみ言葉を通して、心を砕き悔いた心を与えてくださるからこそ、私たちは心から「主よ憐んでください」と求めることができる。そしてそのイエス様の手から溢れるばかりに、こぼれ落ちる、いや、今や主から一人一人の手に与えてくださる、わずかなこぼれ落ちるものではないイエス様が一人一人に差し出してくださっているその福音の恵みを感謝と喜びを持って受け取ることができる。そしてそこにこそイエス様の救いを見て、私たちはここから安心して出ていくことができるのではないでしょうか?今日のみ言葉が語ってくださっている私たちへのメッセージです。

 今日もイエス様は変わることなくこう宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひその福音、そして聖餐をそのまま空っぽの手に受け取り、安心してここから遣わされていきましょう。

 

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

新規の投稿