2026年8月9日 聖霊降臨後第十一主日 説教田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

202689日 礼拝説教

マタイによる福音書1422−33

「主イエスの恵みのうちに遣わされる幸い」

 

田口 聖

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

 

1、「遣わされるとは?律法か?」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書では、イエス様は弟子たちだけで彼らを船に乗せ遣わします。それは弟子たちにとって弱さと恐れを覚えた派遣でもありました。今日の第二に聖書朗読ローマ1015節でパウロは、「良い知らせ、福音を伝えるもの」、つまり、説教者、牧師、宣教師の「その足はなんと美しいことか」とイザヤ書527節の言葉を正しく解釈して引用して伝えています。またそれはただ説教者だけではなく、使徒の働きの1章、天に昇られる前にイエス様が「あなた方は地の果てまでわたしの証人」となりますと言われたように、キリストの証人として救われ、召命を与えられたクリスチャン一人一人のことでもあります。クリスチャンは皆、キリストを証しするために遣わされている一人一人であり、キリストを証しするクリスチャン一人一人の「その足もなんと美しいことか」とパウロは示してくれています。

 私たちは牧師であってもそうでなくても、皆、イエス様によって召され、イエス様によって世に遣わされています。私であれば牧師、説教者として、そして全てのクリスチャンはキリストの証し人としてです。

 しかし皆さん。その「派遣」、遣わされれるということ。それは律法でしょうか?どうでしょう?「あなた方は遣わされています」という時、皆さん、どう感じますか?何かを自分たちだけで達成しなけれなならないと、重荷だと感じるでしょうか?何もできないと感じるでしょうか?あるいは、私には無理だと感じるでしょうか?

 今日の福音書。最初、イエス様は弟子たちだけで船に乗せ行かせています。弟子たちだけで遣わしました。しかしここを見ていくときに、イエス様は決して弟子たちを一人にしないということ、そしてその派遣は決して律法ではない。むしろ彼らはいつでもイエス様に思われ、祈られ、そしてイエス様が共にいて、イエス様が彼らを助け、導き、そして、イエス様がその航海、歩み、働きをなしてくださる。遣わされる、ということは、決して律法ではない、そのように「遣わされる」とは、どこまでもイエス様の恵みのうちにある福音なんだということを教えてくれているのです。22節、こう始まっています。

 

2、「弟子たちだけ、強いて」

 22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

 イエス様は弟子たちだけで船に乗せ向こう岸へと行かせます。しかも「強いて」です。そこに偶然ではないイエス様の意図が思わされるのですが、それは、一人、山に登り祈るためでした。イエス様はしばしばこのように山に登り一人で祈ってきました。それは、ご自身が人となられたその目的である、ご自分がかけられる十字架への備えであったことでしょう。しかしそれだけではありません。そのイエス様の十字架と復活は、全ての人々の贖いとなるためであり、救いの約束の実現のためでした。そしてその救いは、やがて遣わされる使徒達の信仰告白の上に建てられる教会で、福音の説教と洗礼と聖餐を通して全ての人々へ与えられるものです。ですから、イエス様の祈りはまさに教会と宣教のための備えでもあったでしょう。二週先にマタイ16章で見て行きますが、イエス様はすでに罪の赦しの宣教が使徒達の信仰告白の上に立つ教会から始まることを約束しています。そして、ヨハネ17章のイエス様が十字架にかけられる直前の祈りからもわかるように、まさに、イエス様が一人で祈る時の祈りは、使徒たちのため、教会のため、そして全ての弟子たち、キリストの証人であるクリスチャン一人一人のために祈ってくださっていたことを窺い知ることができるのです。

 ですから、この場面、強いて船に乗せ弟子たちだけで遣わしているようには見えます。確かに目に見える現象的にはそうでしょう。しかし、イエス様は弟子たちのために祈るために一人で山に登ったのですから、決して弟子たちのことを見捨てたのではない、忘れたのでもない、軽んじているのでもないのです。ひと時、見えなくなっても、イエス様の思いと祈りの中に弟子たちはしっかりとあるのだということを忘れてはいけません。

 

3、「イエス様の目的」

 そして、この弟子だけで遣わすことには、さらなる意味があるでしょう。24節こう続いています。

24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」

 弟子たちは逆風、ヨハネの福音書の6章を見ると「強風」ともありますが、その風ゆえの波、大きな波に悩まされていました。行きあぐねていたのです。しかも夜です。周りは真っ暗で強い風と大きな波です。進むのは非常に困難であったでしょう。もう岸から離れているので戻ることも簡単ではないことでしょう。そして、弟子たちの中には漁師もいました。船の漕ぎ方は知っているとはいえ、自然の恐ろしさも漁師だからこそよく知っていたでしょう。風と波で、漁師でさえも進むことができない。皆、怖かったのではないでしょうか?漁師ゆえの経験や理屈を頭から振り絞っても、まさに「悩まされ」るしかない状況がわかるのです。

 ここにイエス様が彼らだけで行かせたのは祈るためだけではないことを窺い知ることができます。この後の出来事からもわかりますが、イエス様は彼らが弟子たちだけでこの波と風が強い状況でも向こう岸まで渡ることを達成しなさい、成し遂げなさいと、送り出し遣わしているのではないでしょう。イエス様はむしろ船に長けた漁師たちでも悩むほどの風と波を知っていたことでしょう。そしてこの今日の出来事でのイエス様の目的は何ですか?それは、33節にこうあります。

「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

とあります。そう、まさにイエス様はこの日、この時、弟子たちだけで何かイエス様の命令を成し遂げることを望んでいるのではないでしょう。イエス様の目的は、弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」とイエス様を崇めること、イエス様をこそ信じ、信頼し、求めるように、そのイエスこそキリストであるという信仰をますます強めることです。ですから、わかるのです。弟子たちだけで行かせたのは、まさに彼らだけではできない、イエス様なしには、イエス様の御心や計画を前に、どこまでも不完全であり、時に悩み、時に恐れ、時に壁にぶつかる、そして時に無力さを覚える。時に不信仰になる、その現実、神の前での自分たちの罪深い現実と何もできないことを知るようにさせることにあるのではありませんか?その弱さや不完全さを知るからこそ私たちは「イエス様、憐んでください、助けてください」と求めるでしょう。それが「本当に、あなたは神の子です」という告白へとつながります。自分の罪深さを知ることなく、「イエス様、罪深い私を憐んでください、罪を赦してくてください」とはなりません。そのこと無くして、十字架の本当の意味も、十字架に現された神の愛もわかりません。しかし自分の罪深さを知るからこそ十字架の救いはわかり「本当に、あなたは神の子です」になるのです。そう、そのための導きなのです。

 

4、「イエスは安心させるために」

 ですから、イエス様は決して弟子たちを忘れてはいません。そのように風と波に何もできない弟子たちのところにイエス様は不思議なしるしを現しながら、来られるのです。

 25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」

 イエス様が湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られたのは、まさにご自身こそ真の神であり救い主であることを示すための一つのしるしですね。しかし、暗闇の中に突然現れたイエス様に、彼らは亡霊だと思い、恐怖と叫び声を上げたのでした。「悩み」というのが軽いものではない、追い詰められた心の様が現れているような反応です。しかし幸いです。イエス様は決して悩ませ、恐れさせようとして弟子たちのところにやってきたのではないでしょう。そして、そんな弟子たちに「あなた方は自分たちで何もできないではないか、役割を果たせないではないか、向こう岸へ渡りきれなかったではないか」と言わないのです。もし弟子たちだけで行かせたことが、彼らが彼らだけで達成しなければいけない律法として行かせたのであるなら、イエス様は「ダメじゃないか、達成できないじゃないか」と叱り責めることでしょう。しかしどうでしょうか。イエス様を見てください、イエス様の声を聞いてください。27

27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 イエス様は弟子たちに会った時、「向こう岸まで渡りきらないからダメだ、役目を達成できないからダメだ」とは言わない。恐れていることも「恐れていてダメじゃないか」とも言わないですね。はっきりと書いています。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 感謝ではありませんか。ここにイエス様の彼らへのメッセージがあります。弟子たちだけは無力です。遣わされても自分たちでは達成できません。色々なことに悩まされます。恐れます。弟子たちは不完全で罪深い一人一人です。それは使徒の時代も決して変わりません。しかし、そんな弟子たち、使徒達を派遣した方の遣わされた一人一人への変わらない言葉がここにあります。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 イエス様はなぜ世にこられましたか。安心させるためです。ヨハネ317節にある通り、私たちの罪を責めるためではありません。裁くためではありません。私たちに律法で重荷を負わせ何かを達成させるためでもありません。罪を赦すため。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と安心を与え、その平安のうちに「行きなさい」と遣わすためです。それはエリヤの時代も変わりません。エリヤも遣わされました。しかしエリヤでさえも弱さで打ちひしがれました。そして列王記上1910節、14節と2度も

「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 と繰り返し叫ぶほどです。しかし主はそんなエリヤをさらに鞭打って果たせとは言わないでしょう。「エリヤ、あなたではない。わたしがする」と、主ご自身が全て計画し果たすと約束を与え遣わすでしょう。そしてその通りに主はなされるのです。パウロも「良い知らせを伝えるものの足は美しい」と確かに言います。しかし、パウロはその前後、伝えるため証しするために派遣はしても、口に信仰告白を与え救いを与えるのは神の言葉だ、キリストの言葉に聞く事だと、み言葉の力、神の力、神がなすものだととパウロは言っているではありませんか。その「良い知らせを伝えるものの足は」、神のなす神の宣教(missio Dei)のために神が召し神が用いているだけであり、成すのは神だと言っているのです。派遣は決して律法ではない、宣教も決して律法ではない、派遣も福音、恵みであり、宣教も福音なのです。

 

5、「ペテロが成すのではない、主と主の言葉がなす」

 この後のペテロのエピソードは象徴的です。28節から

28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

 ペテロの28節の言葉は見ようによっては敬虔な言葉に見えます。熱心な言葉でもあります。イエス様がいれば自分でもできるだろう。信仰的にも見えます。しかし、半分は、自分がなそう、自分にもできるという意志もそこにはあるでしょう。なぜなら、イエス様の「きなさい」という言葉がペテロをも事実、湖の上を歩かせるのですが、まさに周りの強い風、沈みかけたという現実に、イエス様の言葉への信頼ではなく自分でできるかどうかと意思や感情が心を支配するでしょう。それによって沈みかけるのです。そう湖の上を歩くのは、彼の熱心さや彼から出る敬虔さ、意思の強さや情熱ではないのです。彼自身の力ではありません。それをなさせるのはイエス様の言葉でした。しかし、まさに自分の何かに頼ることへの不安と恐れの中で、自分の意思や熱心さや情熱や行いの無力さ不完全さを知るからこそ、ペテロから「主よ、助けてください」の言葉が出てくるのです。そう、イエス様が望んでいるのは、「私は湖の上を渡りきりました。あなたのように歩きました。」という自信ではないのです。イエス様による派遣に必要なのは、自信ではないのです。神の前に弱さ、無力さ、罪深さ、恐れる自分、不完全な自分、何もできない自分を、むしろ認めることです。砕かれた心で悔い改めることです。それこそ神は喜ばれるとも聖書にはあるでしょう。その心で「主よ助けてください」「主よ憐んでください」と叫び、主イエス様にすがり頼り求める信仰です。そのような「主よ助けてください」「主よ憐んでください」こそ何よりも敬虔な言葉、叫び、信仰の告白だとも言えるでしょう。そしてイエス様はその恵みによってご自身の真の目的である信仰と賛美にこそ彼らを導かれているではありませんか。33

「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

 

6、「結び:派遣」

 今日もイエス様は変わることなく私たちに福音を語り目にみえる福音を与え、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様が私たち一人一人に差し出してくださっている福音をそのまま受け取り、平安のうちに遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

新規の投稿